ひとりで4時半、室温24.6度。夏の格好で寝ていたので、起きてすぐに長袖のパジャマを着ました。外の気温はもうすこし下がっているようです。恒例の週間天気を見ました。今日は21度~26度、明日は18度~22度。小学生は明日運動会ですが、午前3時から雨マークがついています。延期の可能性が高いと思います。集中講義の最終日、そして、駒場の授業の初日。外語から直接駒場に向かいます。
9時6分武蔵境発の西武線。まずは、事務棟3階に行き、届いているポストイットを受け取りました。それからすぐに101教室に行って、本日の配付資料だけ用意しました。研究室に行き、メールをチェックしているうちに時間となり、101教室に入りました。医科歯科の先生方はみなさんはやい。お見えになった先生に挨拶し、パワポが無事投影されているのを確認してから、研究室に戻りました。
駒場の授業の編成を考える必要があります。教室に入って、集まっている学生・院生と相談しつつ、その場で決めていくことにしました。
11時半に101教室。ちょうど講義が終わったところでした。医科歯科の先生に、ありがとうごうざいますとお礼をして、学生たちの様子を確認してから、事務棟へ。手続きを聞いてから、生協食堂へ。かなり学生の数が増えています。授業の本格始動は10月ですが、何かあるのでしょうか。研究室に戻り、9月末締切の原稿を送り出しました。普段使い慣れていないワードでの提出です。見た目(文字の大きさ、文字間隔、行間隔、画像の配置等)あまり満足できていませんが、見た目を触るのは私の仕事ではないと考え、えいや、と送り出しました。
3時4分多磨駅発の電車。駒場には3時55分に着きました。判子を押して、書類を2点提出し、図書館へ。足元に銀杏が落ちています。図書館では、利用票をつくってもらいました。15分程度かかったでしょうか。それから、生協の本屋さんに行って、新刊本を見ていました。スティーヴン・シェイピン&サイモン・シャッファー『リヴァイアサンと空気ポンプ:ホッブズ、ボイル、実験生活』は平積みにしてくれていました。
ついでに、購買部でパソコン関係を見ました。最近は大画面が流行っているのでしょうか。30分前に教室に入りました。今日は科哲事務室のTさんはお休みのようです。部屋で仕事中の橋本先生に声をかけて、授業開始まで、科哲事務室で休ませてもらうことにしました。
5限の308には、5人学生がいました。自己紹介をしてもらい、授業の紹介をし、画像提示に関しては、サンプルとなる例示を行いました。初回ですので、すこしはやめに終わりました。
7時15分頃帰り着きました。来週からは7時半ぐらいになると思います。
いつになく動き回ったので疲れました。息子の運動会は、日曜日に延期になったそうです。当日朝、あるのかないのかやきもきするよりも、この方がありがたい。ちなみに、西荻の駅についたとき、割と大きな声で、このことを話題にしていた方(だれか、小学生のお父さん?)がいました。いいじゃない、と思いながら、歩いていました。
ひとりで5時30分、室温26.9度。一昨日、昨日は夏の暑さでした。室温にはまだ変化があまり見られませんが、今日からはすこしましになるようです。→ゴミを出すため、外にでました。地面が濡れていて、雨上がりの曇り空。
と思ったら、子どもたちが出かける頃には雨となっていました。私が出かけるときにはもう止んでいました。
9時30分武蔵境発の西武線。大学について、すぐに教室に入ると、もう医科歯科の先生がお見えになったということでした。自分でパソコンを借り出されたそうです。
一般的に医科歯科のドクターの先生方は早いのですが、今日の方は一番早かったように思われます。一度研究室に行って、荷物を置いてから、再度降りてきました。10時ぐらいに教室にお見えになりました。先生に挨拶をして、学生たちに最後のレポートの話をもう一度して再び研究室に戻りました。
3時28分多磨駅発の電車で帰ってきました。明日家をでるときまでに、明日の駒場の授業の準備をすませておく必要があります。多磨駅で電車を待っているとき、昨日よりはましだけど、まだ蒸し暑いなと感じながらベンチで座っていました。駅前のコンビニでおやつとアイスコーヒーを買って、小腹を埋めていました。
アイスコーヒーのプラスチックの容器をもったまま、西荻の駅を出ると、小雨。100人中数名も傘をささないだろう小雨が降ってきました。体感ですが、それと同時にすこし涼しくなったような気がしました。2~3日前から、金木犀の香りが歩行中に漂ってきます。ちゃんと確認したわけではありませんが、西武線のなかから、東小金井の駅前にも大きな金木犀の木が見えました。
涼しくなり、金木犀が香ると、すこしですが落ち着いた気持ちで仕事に取り組むことができます。
息子といっしょに6時30分、室温27.1度。室温が昨日の朝と同じです。午前中に歯医者、午後に会議。3つ続きます。
歯医者は10時半から11時半。12時6分武蔵境発の西武線。
5時28分多磨駅発の電車。
ひとりで6時5分、室温27.1度。9月も末になって、この室温。わおー。最近恒例の週間天気。今日と明日は晴れて、最高気温が30度を超えます。9月の終わりに夏。集中講義の2日目。午前中にひとつ、午後に3つ会議があります。
8時55分に家をでました。9時ちょうどに郵便局につき、税金を支払いました。固定資産税(平成28年度第2期分)です。
電車に乗って、武蔵境発9時18分に電車。ちょうどよい。大学について、すぐに印刷センターに行き(印刷センターは開いたばかりでした)、配付資料を受け取ってから、101教室へ。ちょうど入ってくる学生がいました。はやい。
研究室に戻ったあと、10時10分前にまた教室に行きました。医科歯科の先生はもうお見えになっていて、準備の途中でした。
10時10分から会議。1時から会議。
3時から会議。もめる案件があり、伸びました。
4時からの予定でしたが、5時過ぎになってまた会議。それが終わって打ち合わせ。7時前に本日の会議は完了。7時4分多磨駅発の電車で帰ってきました。
夜半に目覚めてすこし仕事。ひとりで5時15分、室温25.3度。また室温が上がりました。すこし暑く感じます。夏の服にもどりました。
9時6分武蔵境発の西武線。まず、教室に入ると、もう2人学生がいました。はやい。それから2階へ。印刷センターは9時半にならないと開きません。あとに来ることにして先に研究室へ。わずかに片づけをしてから、印刷センターで本日の配布物を受け取り、教室へ。ちらほらと学生がやってきます。
9時50分過ぎに TA の院生が見えたので、AV 卓のセッティングをお願いしました。医科歯科の先生は、はやいかたはとてもはやい。10時過ぎにお見えになりました。パワポの準備をやってもらい、時間が来てから、5分、事務的なイントロをしました。
あとは、先生、よろしくお願いしますと言って、自分の部屋に戻りました。たまっていた書類の処理と原稿の整理。書類の処理がなかなかに手間取ります。もうすこし進めることができると思っていましたが、致し方なし。
4限は、15分前に教室に入ると、もう授業は終わっていました。学生がレスポンスシートを提出するのを待って、学籍番号順並べ替え、本日の授業は終了。
レスポンスシートは研究室に置いて、帰途。4時16分多磨駅発の電車に乗ることができました。空が相当にくらい。また湿度も高くなっています。蒸し暑いなと感じながら帰ってきました。本日から集中講義(「くらしと健康」)が始まります。
26日(月曜日):2限3限4限
27日(火曜日):2限3限4限
28日(水曜日):1限2限
29日(木曜日):2限3限
30日(金曜日):2限3限4限5限(6限:最終レポート)
以上にように不規則になります。
ひとりで4時30分、室温23.8度。最近恒例となった週間天気ですが、やっと晴れマークの方が雨マークよりも多くなりました。本日は晴れのち曇りで最高気温が28度です。ちいさいちびが行く京都は、ほぼ同じような感じですが、日・月と雨マークが残っています。
妻を5時に起こします。ちいさいちびは5時20分でしょうか。→元気に起きてきました。55分に家をでると言っています。まず、京都に行って宿に荷物を降ろしてからバスで奈良に行くようです。
ほんとうに久しぶりに晴れ間が見えました。妻は洗濯物でずっと困っていました。部屋のなかにたまっていた洗濯物をやっと外で干すことができます。とはいえ、湿度が高いままで、なかなかからっとして秋空にはなってくれません。おおきいちびは、試合があると言って、11時過ぎに出かけていきました。帰ってくるのはたぶん7時頃だそうです。
ひとりで3時25分、室温23.9度。雨はやっと止んでいます。最近恒例の週間天気をみました。今日の最高気温予想が24度、明日が晴れて30度。晴れは、25日、27日、28日についています。晴れると気温が30度近くまで上がるようです。ちびどもは朝のうちにでかけました。
ちいさいちびは明日から修学旅行。6時10分に駅集合だと言っています。すなわち、5時起きになります。
お昼過ぎに次の本が届きました。
高橋 澪子『心の科学史 西洋心理学の背景と実験心理学の誕生』 講談社学術文庫、2016
原著は、『心の科学史― 西洋心理学の源流と実験心理学の誕生』(東北大学出版会、1999)です。
高橋 澪子(みをこ)さんのことはまったく知らなかったのですが、大学の先輩でした。大森先生、伊東先生の名前がでてきます。
まず、「あとがき―レクイエム」と渡辺恒夫さんによる「解説」を読みました。「あとがき―レクイエム」はすごい。こんなあとがきを私は読んだことがありません。大森荘蔵先生の授業にはじめてでられたときのことを書かれています。おふたりともに若かったということもあるでしょうが、私自身授業でこういうふうに感じたことはありません。こういうふうに感じることは、幸せでもあり、重荷でもあると思います。7月の発表原稿の原稿化の作業をしています。9月末締切と通達されています。口語体を普通の論考体に直すところまではできました。注と画像がまるまる残っています。
ひとりで4時55分、室温22.8度。雨が降っています。もうそろそろ止んでくれてもよいところです。
最近恒例の週間天気を見てみました。午前中は雨のようです。明日までは雨模様。日曜日は曇りのち晴れで、最高気温が29度。また暑さが戻ってきます。今日の最高気温の予報は26度。午後に会議。
午前中にちいさな原稿を2点書き上げてから、大学へ。11時42分武蔵境発の西武線。まず、大学院係に昨日仕上げた書類を提出しました。
それから研究室で事務処理。会議の資料はやっと綴じることができました。
2時20分から会議。3時半まで。3時40分多磨駅発の電車に乗ることができました。ホームで待っている間と電車のなかで、朝書き上げた原稿に赤を入れることができました。
帰宅すると妻と小学生はいました。小学生にはお友達が遊びに来ていました。私のすぐあとに、ちいさいちびが帰ってきました。しばらくしてからおおきいちびが帰ってきました。しばらく休んで、また出かけるそうです。ちいさいちびも、夕方、塾にでかけます。机に向かっていると、ゲラと次の本が届きました。
Jennifer B. Lee and Miriam Mandelbaum, Seeing is Believing: 700 Years of Scientific and Medical Ilustrations, New York: The New York Public Library, 1999
The New York Public Libraryで開かれた同名の展覧会の小冊(パンフレット)です。80頁。
ひとりで5時5分、室温22.6度。雨は止んでいるようですが、すぐにでも降ってきそうな雰囲気です。→と書いたら、すぐに雨の音がしてきました。週間天気を見ました。今日はこういうふうにずっと雨模様。最高気温が20度とあります。明日は、28度。やっと週間天気に、晴れマークが2つ。来週の火曜日と水曜日です。
今週2度目の休日。
子どもたちは、いろいろ忙しいようです。→小学生は、ピアノの発表会。午前中からリハーサルがあり、午後に発表会。10時前にママとでかけました。たぶんバスで行くのだと思います。4時過ぎに帰ってくるそうです。
おおきいちびは、朝どこかにでかけました。10時過ぎに帰ってきて、11時からバスケの遠征だそうです。お弁当をかばんにつめてでかけました。
昨日、定期考査が終わったちいさいちびは、今日はのんびりするようです。毛布にくるまってテレビの前に座っている時間が一番多くなるでしょう。わけあって、次の論文をダウンロードし、読み直しました。プリンターの紙が切れたので、MacBookAir の画面で読みました。
金子務「ニュートン科学における錬金術研究の意味」『モルフォロギア:ゲーテと自然科学』第24号(2002): 2-15
ネットで検索をかけると、私の批評(批判)文がヒットしました。え、と思った箇所が同じでした。もちろん、そうなります。今月末締切の書類を1点仕上げました。明日事務に提出しようと思います。
夜半に目覚めてすこし仕事。台風は足早に去っていったようです。もう雨は降らないようです。→夜の比較的早い時間に温帯低気圧に変わり、現在は、東北の海上に行ったようです。雨雲は、東北沖の海上にだけかかっています。また、週間天気ですが、やっと1週間先(27日)に晴れマークが出現しました。日曜日からすこし気温が上がるようです。妻が起きて、7時。室温、22.7度。まだ夏の格好をしています。すこし寒い。
午前中に歯医者。午後に打ち合わせ。
[はじめての長袖]
→はじめて長袖を着て、歯医者さんへ。15分前にでて、駅前の銀行でお金を降ろしてから行きました。待合室でたぶん15分以上待ったと思います。いつもの先生が身内の不幸で今日は来れません、別の方が担当しますということで、とても若い先生。出来上がった左下の3本を入れてくれます。やはり、麻酔。高さ合わせに時間がかかり、再び待合室に戻ってきて、11時半。やっと終わりが見えたということです。
30分は食事をさけてくださいと言われたので、12時10分におかゆ。麻酔が残っていて、いつものようには食べられません。感じとしては、いつもの6割程度でごちそうさま。しばらく休憩してから、大学へ。1時18分武蔵境発の西武線。
研究室で片づけをしようと思っていましたが、時間がないまま、補講。そちらは目処がつきました。入りましたと図書館から連絡があった次の本をもらってきました。
The Cambridge History of Science: Volume 4, Eighteenth-Century Science
研究室に本をおいて、そのまま帰途。4時4分多磨駅発の電車。うーん、からだがおもい。[WebSpaceの終焉]
でかけに J-COM から葉書が届いていました。電車を待ちつつ読んでみると、WebSpace とそれに関連するサービスを年明けの1月末で終了しますとあります。つまり、このホームページが2017年1月31日24時で消滅するということです。ホームページはもう古いし、40万を区切りとして変貌しようと思っていました。どうしようかなと思っていて、なにもしないままになっていましたが、そもそもサイトがなくなるということです。
ちょうどよいといえば、ちょうどよいのですが、SNS もちょっとちがうしな、ブログにするか、ともあれ、もうしばらく考える時間があります。サイトが消滅するころまでには何とかしようと思います。
ひとりで5時20分、室温23.6度。気温が順調の下がっています。下がるときには、こういうふうに下がります。雨。秋雨が降り続いています。→週間天気にはまだ晴れ間が見えません。また、本日の最高気温は23度の予想。いきなり秋の空気に入れ替わった感覚です。午前に1つ、午後に1つ会議。
おおきいちびを残し、9時をかなりまわってから出かけました。9時54分武蔵境発の西武線。そのまま事務棟の4階へ。書類を2点提出しました。それから1階降りて、物品を受け取りました。
物品の入った段ボール箱をかかえて研究室へ。11時からの会議(打ち合わせ)のために資料を探しましたが、見つかりません。探しているうちに、研究室ではなく自宅の自室に置いてあるのではないかという気がしてきました。
菊池さんのために一瞬部屋を開け、11時から会議。12時前ぐらいまで。
生協で昼食。学生たちの数が増えています。もう集中講義でもやっているのでしょうか?研究室に戻り、メールで連絡をとって、院生に書類をとりに来てもらいました。
しばらく休んでから、印刷センターへ。来週の集中講義の配布物を印刷しました。新学部で151名、旧学部で7名の登録がありました。念のため、170部印刷し、印刷センターの棚に置かしてもらいました。
2時半から会議。4時でお二人が抜けて、5時過ぎまで。台風の風雨を感じることができます。5時28分多磨駅発の電車に乗りました。
かなり濡れて帰り着きました。
濡れた服を着替えて、すぐに研究室では見つからなかった資料を探しました。2分で見つかりました。見つかってしまえば、なるほどでした。やはり、私の整理の仕方に問題がありました。ちなみに、台風は、午後2時頃田辺に上陸したそうです。おばあちゃんちを直撃です。
夜半に目覚めて、すこし仕事。まだ蒸し暑さが残っています。ひとりで5時50分、室温25.7度。外はもう少し下がっているように感じます。週間天気にまだまだ太陽マークなしが続きます。→11時35分、外の温度を測ってみました。玄関の郵便受けの上で、23.4度。北から風が入って、時間が経つにつれて下がります、といっていた予報の通りです。たぶん、この先は、ほぼ同じぐらいを保つものと思われます。
9月末から10月にかけても忙しい週となります。9月26日からの集中講義の配布物を朝のうちに用意しました。今週は月曜日(本日)と木曜日が祝日です。金曜日はふつうにありますが、火曜日と水曜日の間に、次の週の準備をしておこうと考えると、明日明後日ですませておく必要があります。
ひとりで6時30分、室温27.3度。昨日の暖かさが残っています。朝方すこし雨が降りましたが、止みました。上がったかどうかはわかりません。→10時15分頃、また雨が降ってきました。今日はこういう天気のようです。→週間天気を見ました。また晴れマークがなくなっています。おおきいちびは、土日が記念祭。文化祭といってよいでしょうか。昨日はバスケの招待試合でした。今日は劇の照明係をすると言っていました。
ちいさいちびは午後に1コマだけ塾。2度セイユウに買い物にでました。1度は歯ブラシを買うため、ついでにちょっとしたおやつも買ってきました。2度目は、延長コードの買い出し。私が風呂場の掃除をしていたとき、妻が布団乾燥機に繋がるコードが変に熱いと言います。中が折れているかもしれない部分(両端)が特に熱い。はやめに交換するのがよかろうと、そのまま買い出しにでました。
ひとりで2時50分、室温25.9度。→この時間は、やはり夜半に目覚めてと書くべきでした。あさがたにソファーの上で寝入り、気が付くと、8時をすぎていました。そして久しぶりの青空。気温もそれなりに上がってきそうです。
わけあって、2時50分に起きてからすぐに次の論文を読み直していました。
吉本秀之「17世紀後半の水銀学派の腐敗/発酵理論」『腐敗と再生―身体医文化論3』(慶應義塾大学出版会、2004、11月), pp.115-134
土曜日ですが、私以外何かあります。私は、小学生のリハーサルにつきあうことになっています。
妻を見送ってから、やはり私と息子で留守番。リハーサルが正午からということで、11時過ぎに駅前のマクドナルドでお昼ご飯を買ってきて、11時半頃には食べ、11時45分過ぎに自転車で区民センターまででかけました。45分ということで、12時45分にまた来ると言い残して戻ってきました。
妻が一度帰宅して、昼食後、また出かけると言っています。ちいさいちびももうすこし後で帰ってきて、夕方またでかけるそうです。おおきいちびがいつ帰ってくるのかは不明です。
ひとりで5時20分、室温25.6度。室温はそれほど変わっていませんが、雰囲気はどんどん秋です。どんよりとした曇り空。週間天気には土曜日にだけ晴れが見えます。
子どもたちが出かける頃、雨が降り始めました。小雨ですが、雨は雨。ILL で届いたという報せのあった本を受け取るため、大学に出ることにしました。家族で最後。9時42分武蔵境発の西武線。
メールボックスで書類を受け取ったあと、まっすぐに図書館に向かい、次の本を借り出しました。
矢部一郎[ほか]『植学啓原=宇田川榕菴 : 復刻と訳・注』 講談社, 1980.5
宇田川榕菴の著作(影印と現代語訳)としては、『植学啓原』『植学独語』『菩多尼訶経』の3点、それに解説論文として、木村陽二郎「 宇田川榕菴 日本最初の植物学者 」;矢部一郎「 本草から近代植物学へー『菩多尼訶経』と『植学独語』」「宇田川榕菴と近代植物学―『植学啓原』を中心として」「宇田川榕菴と生理学」の4点からなります。
まずは、『植学独語』を見ます。研究所により、別件のスキャンをしてから、研究室へ。早速借りた本を読み始めました。宇田川榕菴の植物学関係の著作はきちんと読んだことがありません。なかなかのものです。
p. 170 「*葉の外草木の真形を遠久に伝ふべき術ある事」 「*葉以外にも草や木の自然のままの姿を長い間保ち続けることができる方法があること
*葉は、植物全体を押せば、その自然のままの姿を十分保てるとはいえ、いつまでも保ち続けるわけいにはいかない。ものの自然の姿を完全に保って、しかもいつまでも朽ちずに保ち続けるのには、実物そのものに写して描いた彩色図に勝るものはない。一般に絵というものは、どんなに下手でも、巧みな文章で数多くのことばを積み重ねて説明するよりも勝るものである。百聞は一見にしかずということばは真実である。しかし、絵かきの絵は、たいてい実物よりも美しすぎたり、描く態度が絵の趣を添えることにばかりこだわっていて、ただいたずらに女子どもが見るものにすぎず、植学家がとりあげて用いるには十分なものではない。ひたすら自分自身が生きている草に向かいあって眺めることにより、最良の写生法を体得すべきである。いまから少し前に、わが国で世にもまれに優れた方法を考案した人がいる。この方法は、自然の姿をそのまま保つことにおいて、*葉に勝っており、さらにいつまでも保ち続けることができる。その方法は、まず生の葉または植物全体を*葉帖にはさみ、一日か半日ほど押してから取り出して、植物の片面に刷毛で黒い印肉を塗り、これを木の板の上にのせ、その上にきれいな紙をかぶせ、手のひらで紙の上を擦れば、葉の形状がはっきりと紙に写り、しかも、人の手では写すことのできない微細な筋やひだのところも細かに現れて、銅版画と異なるところがない。この技術は西洋にもあり、大阪の<けんかおう>」の所蔵するオランダの*葉の本というのはこれである、と聞いている。」(漢字が何点か出せません。ご勘弁を。*葉は押し葉の意味です。漢字は違います。月ヘンに昔です。)
福岡真紀さんは、これを次のように英訳します。(Fidelity, pp.109-110.)
"On the technique that can preserve the shin form of plants other than a herbarium
Although a herbarium sufficiently maitains the real form [shin kei] of plants by pressing the entire plant, it cannot be preserved for long. To maitain the real form and also to preserve and transmit it forever, there is nothing better than colored sketches [shasei]... The saying "a glance is worthier than listening to hundreds of accounts" hold true. However, a picture produced by a craftman is , by and large, overtly colored and focused too much on embellishing persons and animals added in landscape paintings [tenkei]. As a result, picture become nothing but pleasing trifles for women and children... Recently, someone from our country has concocted an excellent method. In its ability to maintain shin, it surpasses a herbarium, and it can also be preserved for a long time. This method begins by placing a leaf or an entire plant in a herbarium book, and allowing the specimen to be pressed for a day or half a day. After pressing, the specimen is taken out of the book and black ink is applied to one side of the specimen using a brush. An inked specimen is placed on a wooden board, and a clean sheet or paper is placed over the specimen. Rubbing the paper with palm of the hand, the shape of a leaf is clearly transferred to the paper. In addition, by using this method, the faint vein and the folded areas of the leaves,which are impossible for a man to depict, can be depicted. In this sense, it is no different from copper-etching prints. I hear that this method also exists in the West and that what is known as Kimura Kenkado's herbarium from Holland is made using this method. "
的確な英訳だと思います。なお、矢部さんも木村さんも、「写真」という用語にはまったく注目されていません。この点に注目したのが、福岡さんの炯眼ということになると思います。
口絵、p. xxiv 図5クスノキ ―『本草写真』
口絵、p. xxiv 図6キチジョウソウ ―『本草写真』
p. 217 訳注 (60)*葉=月ヘンに昔=*葉という語は、『厚生新編』や『植学独語』あたりで最初に使用されたようである。『植学啓原』には、*花はあるが、*葉の語はない。それ以前の本草家は、押葉、葉*の語を用いていたようである。平賀源内も、押葉ということばを使っていた。
p. 217 訳注 (60)*葉帖=『厚生新編』第58巻には、榕菴と玄真訳校の「*葉帖」という項目がある。ここでは、第一、採取の時宜、第二、植物を乾*する法、第三、*葉を紙に膠する方法、第四、*葉を*葉帖に編する順序、などについて記述されている。
p.233下 解説 シーボルトの旧蔵書のなかに現在、榕菴の『本草写真』『本草推写』『生檀(せいちょく)全書』などがあり、これは榕菴自身からの贈りものである。
p.253 「本草から近代植物学へ」(一)『ショーメル百科』と榕菴の植物学書との関連
*葉法の記述
『厚生新編』第49巻(大槻茂<木ヘンに貞>玄沢・宇田川<僕:人偏に代えて王へん>真訳校)には、「乾*花良法」(宇田川玄真訳)という章がある。 是即ち、「リットル、ローベルト、ソフトーウエル」の発明し示す法なり
さらに、第58巻(宇田川榕榕庵・宇田川<僕:人偏に代えて王へん>真訳校)には「*葉帖」という章がある。
「左に*葉帖の造法を略説す。*葉帖を造るに四個の要件あり。・・・」
p. 312 木村陽二郎「口絵「付録」について
『本草推写』
榕菴のつくった『本草推写』は、後に述べる『生檀全書』と『本草写真』の二つの植物画集の間にできたものと思われる。
推写とは、*葉(押し葉)をつくるときのように、植物を押して平たくし、これに墨または絵の具をつけて紙を圧しつけ、手でこすったものである。いわば植物の拓本と言える。『本草推写』には、これが七葉集められている。
『本草写真』
洋紙と洋絵具を用いて描かれている点で、『生檀全書』とまったく異なるが、絵はきわめて入念に描かれ、真を写すの名に恥じない。とくに部分図をそえて、植物図鑑として優れている。
シーボルトの江戸訪問は文政九(1826)年であるが、この図はその前後に成ったものと思われる。この図には、シーボルトとの対話の影響とも思える西欧流の描き方がみられる。それでシーボルトの江戸滞在中、またはその後から翌年にかけて描かれたものではなかろうか。翌年であっても、伊藤圭介に託せば、長崎にいるシーボルトのもとに届けることができるからである。
この写本は、縦34.5センチ、横27.5センチ、三四枚の植物図を含む。なかの五枚は『本草推写』にみられるような推写、すなわち植物の拓本であるが、それとは異なる時期につくられたものである。メールの処理をしつつ、本を読み進めていると、お腹が空いてきました。図書館に行って本を返して部屋に戻ってから、生協で昼食を食べ、そのまま帰ってきました。
久しぶりに三鷹駅で降りて、パン(ミニパン)を買って、総武線に乗り換えて帰ってきました。気温は高くありませんが、湿度が高く、すこし動くと汗がでます。
ひとりで5時25分、室温25.9度。しっかりとした雨が降っています。週間天気に太陽はまったく見えません。息子が6時半に起きてきました。どうしてこんなに雨が降り続くのか疑問だと言います。しかし、30分も経つとどんどん小降りになり、子どもたちがでかける前に止みそうです。→お昼に向かい、すこしだけですが晴れ間もでてきました。週間天気にも15日にすこしだけ太陽が現われました。
[化学史研究, 2016, No.3]
『化学史研究』2016年第3号が届きました。目次は以下の通りです。[特集] 大野誠「近代イギリス科学の制度化―イギリス史研究者の視点から―序文:特集をはじめるにあたって」第43巻(2016): 127-128
[特集]坂下史「近代イギリスにおける「科学知」伝達の経路―バースおよび西イングランド協会の活動に見る草の根啓蒙の一断面」第43巻(2016): 129-142
[特集]石橋悠人「近代イギリスにおける国立天文台と科学の制度化」第43巻(2016): 143-155
[特集] 高林陽展「第一次世界大戦期イギリスにおける医学の制度化―生理学の興隆をめぐって―」第43巻(2016): 156-169
[特集] 奥田伸子「ノーベル賞を受賞した「主婦」―20世紀中葉における女性科学者と科学の制度―」第43巻(2016): 170-183
[紹介]武山高之「小野輝道『溶融紡糸の原点―Nylon 新紡糸技術の誕生と足跡―』2015」第43巻(2016): 184-185
[紹介]吉本秀之「松本三和夫『科学社会学の理論』講談社学術文庫、2016」第43巻(2016): 185-187
[ニュース]川島慶子「ホフマン『これはあなたのもの』上演とシンポジウム『ノーベル賞と産業』開催のお知らせ」第43巻(2016): 187-188
ご覧の通り、去年の年会のシンポジウム「近代イギリス科学の制度化―イギリス史研究者の視点から―」をまとめて特集としました。
また、私も松本三和夫さんの科学社会学の教科書『科学社会学の理論』(講談社学術文庫、2016)を書評しました。科学社会学に関心を持つ人にはマストアイテムだと思います。丁寧に紹介することを心がけました。
ひとりで5時35分、室温25.2度。雨は止んでいるようですが、どんよりとした曇り空。秋雨前線が日本列島の上で停滞している模様。お昼休みの時間帯から、会議。
9時18分武蔵境発の西武線。まず、図書館に寄って、次の本を借り出しました。
佐藤道信『明治国家と近代美術―美の政治学』吉川弘文館、1999
すぐに、その中から第3章「『写実』『写真』『写生』」pp.209-232 をコピーし、研究室に持って帰り、読み通しました。
個人的にはもうすこし用例があった方がうれしいのですが、ほぼこういうことなんだろうと思います。
佐藤道信「「『写実』『写真』『写生』」」『明治国家と近代美術―美の政治学』(吉川弘文館、1999)
→第2節 「写生」「写真」の歴史
この節が私の問題関心にもっとも関係します。
先行研究:写生に関しては、河野元昭さんの研究を挙げています。
河野元昭「江戸時代「写生」考」『日本絵画史の研究 山根有三先生古希記念会編』(吉川弘文館、1989年)所収
河野元昭「「写生」の源泉―中国」『秋山光和博士古稀記念 美術史論文集』(便利堂、1991)所収
先行研究:写真に関しては、辻惟雄さん、佐藤康宏さん、酒井哲朗さん、ドリス・クロワサン女史の研究を挙げています。
辻惟雄「「真景」の系譜―中国と日本(上)(下)」『美術史論叢』(東京大学文学部美術史研究室)1(1984)、3(1987)
佐藤康宏「真景図と見立て」『国際交流美術史研究会第12回国際シンポジウム 東洋美術における写実』(国際交流美術史研究会、平成6年)
酒井哲朗「日本南画における「真景」の問題について」『宮城県美術館研究紀要』2(1987)
ドリス・クロワサン「明治初期洋画の肖像画リアリスムスについて―高橋由一を中心に」『人文學報(京都大学人文科学研究所)』53(1982)
結論としては次のようにまとめています。「さて以上の諸研究を見ると、「写生」「写真」また「写意」の語においてさえ、いずれも視覚的現実性と内的真実への表象という二重の意味を持っていることがわかる。ところが制作においては、外的真実と内的真実、客観性と主観性という主客の合一を究極の目的としただけに、かえって実際の用語の際には、どちらの意味に比重を置くかで、同じ語を使っても全く逆の意味であるかのような一見矛盾的な状況が生じている。」(p. 216)
→ 16.9.18
p. 214 河野元昭さんの研究によれば、中国でのこの語の出現時期は、晩唐の『歴代名画記』にままだ見出せないが、宋代の『宣和画譜』にはすでに多出する。日本では初出は不明。一、二の例外を除き、江戸時代の画論に多出する。その際、「生写」「正写」という和語が生まれた。
中国の語義と用法は5つ。1)対象の生意を示す「生意写生」、2)対象の形態など客観的事実を写す「客観写生」、3)細密描写を意味する技法用語としての「細密写生」、4)実物の観察から描写する「対看写生」、5)花鳥画という画題を意味する「画題写生」。日本では、1)から4)は見られるが、5)の意味での用法は認められない。
中国では「写生」の語がジャンル的にももっぱら花鳥画に用いられたのに対して、日本では花鳥のみらなず山水、人物にも用いられた。「この現象は「写真」に語についても同様で、中国ではそれが主に道釈人物画に対して用いられたのに対して、日本では山水、花鳥にも使われているとする。」
「写生」は、一見相反する「写意」とも密接に関係していること。河野元昭さんによれば、「写意」に三つの意。1)対象の大意の描写「客観写意」、2)筆者の意趣の表出「主観写意」、3)筆技・筆意の優先「技法写意」。中国では時代を追って第一から第三へと変化したのに対して、日本では江戸時代に同時並列的に用いられた。日本では「写生」だけではなく、「写意」も、花鳥だけではなく山水、人物にまで広げられて用いたられた。
p. 215 辻惟雄さんの研究による。中国の山水画は、「道」「気」「真」といった老荘思想にかかわる理念の形象化を究極の目的としている。「真景(真山水)」の達成には、形似をこえた真理の把握と表象が重視される。「真」は「気」を写してこそ。写意の真景。「真景」には、形似的現実性と、その次元を超えた作者の「心」「意」が一体化すべき「造化の真」という、2つの意味があった。
日本では、「真景」という用語は、江戸時代の南画家たちが使いはじめた。中国での「真景」は実際にある特定の場所を意味しないのに対して、日本では南画家たちたみずから実見した実景が描かれた。実景の選択が、名所と密接な関係をもったので、結果的に日本の「真景」は、「最新の中国画法に即した名所絵の新様」という性格を帯びた。
p. 218 両者の対語からしても、本来「実」と「生」は全く関係がないことがわかる。
p.222 「写実」「写真」「写生」の3つのうち、もっとも早く現在と同じ意味に辿り着いたのは、「写生」だったように見える。近代以降、4番目の意味、「対看写生」の意味で使われるようになった。
p. 223 最も劇的な語意変化を遂げたのが「写真」。「真」を写すという理念的用語から、photography の訳語としての技術用語へ。
ドリス・クロワサン女史の研究による、現在の意味での「写真」の初出。大槻玄沢(1757-1827)の『蘭説弁惑』(1788序、1799刊)、この中の「写真鏡」が最初。
しかし、この頃には、旧来の意味での「写真」も、依然並行して用いられていた。辞書類で見れば、明治末年にいたるまで新旧両方の意味を並記したものが多い。
p. 224 「写実」の語の成立は、明治20年代。その間、新来の西洋絵画の”迫真性(リアリテイィ)”に対して使われたことばも「写真」だった。司馬江漢『西洋画談』(1799)。
こうした洋画家から明治10年代にいたるまでの洋画家たちが、一様に西洋画法の視覚的リアリティがもたらす実用性を強調していることも注目に値する。“筆意”重視の和漢の絵画ではなしえない絵画技術として、地図や設計図などでの国家的有用性を説いている。事実、洋風画の技術は、本草学や博物学と密接に関係してきた。(太字は、吉本による追加。もとの文にはなし。)
p. 227 江戸時代に西洋画法を研究した画家たち、たとえば円山応挙や洋風画の佐竹曙山、小田野直武、司馬江漢らの場合、広義で言えば「実」への関心は示しつつも、西洋画法による「写真」や「写生」(旧来の意味での)にあったように思われる。むしろ「実」を写そうという意識は、本草学や博物図など、まさに“実用”画図の法により強く表れている。
11時40分から会議(ヒアリング)。2件続きましたが、2件めは聞く側以外には人が現れず、15分待って解散しました。
つぎの会議は1時半から。私が司会を担当しましたが、案件が1件だけですぐに終わりました。大学院執行部で2学期からの授業について簡単に打ち合わせ。
打ち合わせが終わって、そのまま大学院係に向かい、書類を提出しました。とても私の目では読めないちいさな文字。眼鏡をはずして顔を近づけて記入していると、ひとまわりおおきなプリントを用意してくれました。その場で記入し提出して、要件は終了。
次の会議は2時半から。Review Copy を担当者に渡し、司会の席で待っていました。10分程度遅れて始まりました。こちらもすぐに終わりました。図書館に向かい、佐藤道信が引用する、クロワサンの論文をコピーしました。紀要のおいてある場所を探すのにすこし手間取りました。
D. Croissant 「明治初期洋画の肖像画リアリスムスについて―高橋由一を中心に」『人文學報(京都大学人文科学研究所)』53(1982): 157-187
駅前のコンビニでおやつとアイスコーヒーを買って、駅の椅子で一服。座っていると、同僚の先生が見えました。私よりも3歳年上の方です。(3歳年上の方は、7名います。順調に行けば、その年は7名の方が定年退職をされることになります。ちなみに、特に変わったことがなければその次の年も7名の方が定年退職されます。そして、その次がすごい。今のところ12名の方が定年退職されます。)西荻窪駅まで話をしていました。大学の残り時間を考えて、部屋の片づけに着手し、ひとつは終えたそうです。私にはなかなか手の届かない話しです。
帰宅し、お風呂に入り、食事をすませ、一休みしてから、ドリス・クロワサンの論文を読み通しました。よく出来ています。1982年にこの論文がでているのですから、もうすこし研究状況がランクアップしていてもよいのに、と思います。
p. 159 「では、明治以降の日本の美術を、ヨーロッパ中心的ではない視点から理解するために、どのような手法が手がかりとなるであろうか。ひとつの答えは、たんに西欧的な表現手段の受容だけではなく、洋画史における、たとえば、歴史画・戦争画・風景画・静物画などといった、画題の適用をも研究してみることではないだろうか。もともと日本の初期の洋画製作は、美術の作品として展覧会や美術館に飾るために創作されたのではなく、国家や社会の中でさまざまな課題をになうかたちで行われたという要素が強かったのである。
ところで初期の洋画製作をみると、肖像画という画題が、他とは比較できないほど大きな地位を占めていたことが明らかである。たとえば、高橋由一の場合、それは注文によって描かれたほとんど唯一の画題であったのである」
この画題に注目するというのは、まったくよい論点だと思います。
写真については、pp.160-166
II 「写真」の三つの意味―理論的前提
「日本の洋画の写実主義の考えは、18世紀以来の西欧の絵画にふれて、理論的なかたちをあたえられたこと、その際、用語的には、また思考の形式のおいても肖像画写実主義の中国的伝統をうけついでいたこと、そしてまた、この写実主義的概念は、洋画のはじまりを特色づけている実証主義の基礎をなしたこと」
肖像画としての写真
張彦遠『歴代名画記』(847)では、「写真」という術語が唐以前の肖像画を指すものとして3回使われている。「本物と見間違えるほど真に迫ったできばえ」。形式的画法としてのレアリズムと、画像に生命がこめられているという画像魔術との間の、相互関係が含まれていた。
写実主義としての「写真」
11世紀以来発展した文人画は、元代以後、中国絵画の主流となるが、画家の心の中の理念の再現、すなわち「写意」に重きが置かれた。「意」は、水墨画という技術と相まって、個人の芸術衝動としての「筆法・筆意」の中に現われると考えられた。
写意と写実の対立
佐竹曙山(1784-1785)や司馬江漢は、『歴代名画記』をおおいに利用した。「文人画の「筆意」と区別するため、レアリズムという観念をあらわす言葉として、「写真」をという語をとりいれた最初は人は佐竹曙山である。」 佐竹曙山『画法綱領』の20年後、司馬江漢は『西洋画談』(1799)のなかで、西洋の画法は写真にして、和漢の画像は真を写すのに法にあらざれば、・・・と述べた。
椿椿山(1801-1854)『椿山書簡』「南宋は写意なり、北宋は写生なり」
清代の絵画理論で「写生」という言葉で、自然の通りに描くことを意味するようになっていた。特に花鳥画において。黒田源次は『司馬江漢』において、江漢は清代の中国画論で「写生」と呼ばれていたものにそのまま「写真」という言葉を当てはめたと主張した。しかし、佐竹曙山や司馬江漢は、「写真」という言葉を「写生」とは意識的に区別して使っている。(p. 163)「それは、たとえば中国の花鳥の写生とは似つかぬ西洋風のレアリズム―その中には、ルネサンス以来の光や遠近法の立体図法といった Illusionism の手法も含まれていたわけであるが―を意味していた。したって、彼らの「写真」ということばは、「写生」、すなわちたんなるスケッチということ以上に迫真性の特徴を言っていたのであり、その特徴とは、技術的な点において清代の「写生」よりも、むしろ唐代の肖像画論でつかわれた「写真」に通じるものであったのである。
実は、蘭画家たちが「写真」という言葉でこのような現実の鏡像的再現ということを思い浮かべていた点をふまえて、はじめて、なぜこの言葉が19世紀中期になって、当時輸入されたダゲロタイプの翻訳語として、横取りされてしまったかが理解されるのである。 」
1840年代に日本に輸入された写真術は、「おそらく1852年頃、「写真」として、また写真機は「写真鏡」、写真屋は「写真師」という名称で日本語のなかに根付いた。これらの言葉は、当初は「写術」とか、「印景鏡」、「直写影鏡」、「留景鏡」といった、ほかの名称と共に用いられたが、興味深いことに、「写真」という呼び方が他をしだいに駆逐したのである。写真機の意味で「写真鏡」という言葉が初めて使われたのは、大橋訥庵(1816-1862)の『闢邪小言』(1852)の中であって、・・・」(p.163)
「写真鏡」という言葉は、大槻玄沢(1757-1827)の『蘭説弁惑』(1788序、1799刊)で camare obscura の訳語としてはじめて用いた。(p.164)
司馬江漢『春波楼筆記』(1811) にも写真鏡への言及。「幕末の「写真術」の説明にも、昔の蘭学者たちの画論がそのまま使われていた。」
柳川春三『写真鏡図説』(1867) 「写真映画の術は、人の真像を留め、地の真景を描くの良方にして、、」
高橋由一、開成所画局の壁面掲示文(1865) 写真をレアリズムの意味で使っているが、1870年以後からは、もっぱら photography の意味で使うようになった。
p. 165 幕末の時点では、「写真」という語は、肖像画、写実主義、写真術という3つの意味を伝えていた。
1)元来、肖像画は、祖先崇拝、死者崇拝の祭祀的画像としての役割を担っていた。
2)鏡像のような正確さ、現物の忠実な描写、肖像画は西洋の画法を実際に使うための最高の場を提供した。
3)肖像画の領域は、文人画の絵画理論の枠外にある。佐竹や司馬江漢の蘭画論以来、肖像画に関して、レアリズム一般の表現方法を意味した「写真」の語が多く使われたが、それは文人画の「写意」の反対物としてであった。
今でも参考にできる資料の提示があり、留意すべき観点の洞察があります。→16.9.16
鈴木淳「シーボルト第一次滞在時 集書籍」p.39
桂川甫賢『本草写真』、宇田川榕庵『写真随集』、水谷助六『本草写真』(写生図集)、押し葉摺り(拓本)、後藤重巳「賀来飛霞(かくひか)」、採薬記に『日光採薬記 附図写真』、本草研究書『評草本写真』
『伊藤圭介生誕200年紀年展示会・講演会 錦<か>図譜の世界―幕末・明治の博物誌』(名古屋大学附属図書館・附属図書館研究開発室、2003年)
p. 51 磯野直秀「江戸時代動物図譜における転写」山田慶兒編『東アジアの本草と博物学の世界』上、思文閣出版、1995
河村典久「丹羽修治と印葉図」圭介文書研究会編『伊藤圭介日記第5集 錦<か>翁日記』1999
ひとりで4時10分、室温27.3度。雨が降っています。秋雨前線がしばらく停滞するようです。この1週間天気予報に太陽がでていません。午後に会議。
今日は妻もでかけます。朝に、水が届くので、水を受け取ってからと思ったら、最後になりました。
9時42分武蔵境発の西武線。まずは、事務棟4階へ行って書類を提出しました。ワタされた説明文がよくわからなかったので、必要な書類を確認しました。あと、2点、必要だと判明しました。あとから提出でよいそうです。
次いで、研究所によりスキャン。さすがにまだ誰も来ている様子はありませんでした。
研究室の片づけをしようかなと思っているうちに、お腹が空いてきたので、先にお弁当。しばらくしてから、コーヒーをお土産にもってきたくれた院生と歓談。
12時40分から会議。すぐに1時から会議。その次の会議は2時半からと決まっています。長の方々だけが出かけていきました。院の副ふたりで、事務に相談に行き、明日又打ち合わせしましょうということになりました。
週末の疲れが抜けていません。3時4分多磨駅発の電車で帰ってきました。
ひとりで6時20分、室温25.5度。朝に歯医者さん。予約は、10時45分から。
いつも通り、10時40分に歯医者さんに入りました。たぶん10分遅れぐらいで名前を呼ばれました。左上がすんだので、今度は左下だそうです。やはり、麻酔を打たれて、とんてんかんてん。一度かたどりをしたのですが、やり直しということで、今日はかたどりまで進みました。待合室に戻って、12時10分。
一度家に戻りました。家に戻る途中、伊東俊太郎先生にお会いしました。お元気そうでした。麻酔が残っているので、昼食どころではありません。ちょうどよいので、大学に行って来ることにしました。
12時54分武蔵境発の西武線。メールボックスで郵便を1点受け取り、図書館に行って、先週末 ILL で届いていた次の文献をゲットしました。
福岡真紀「嘗百社と写真 : 統合された写真史に向けて」『近代画説 : 明治美術学会誌』 21(2012): 31-47
(タイトルからそうではないかと予想していたことですが、この日本語論文は、次の翻訳でした。
Maki Fukuoka, "Toward a Synthesized History of Photography: A Conceptual Genealogy of�Shashin," Positions : East Asia cultures critique, 18(2010): 571-597
ご本人の後書きでは、「筆者が加筆し、和訳したものである」とあります。さらに詳しい資料分析は、Premis of Fidelityの方を見て欲しいとあります。)
Naomi Hume, "The Nature Print and Photography in the 1850s," History of photography : an international quarterly, 35(2011): 44-58
福岡真紀さんの論文は、研究室にもどりすぐに読み通しました。すこしメールへの対応をしてから、帰途。2時4分多磨駅発の電車。→福岡真紀さんの論文から。
今橋理子『江戸の花鳥画 博物学をめぐる文化とその表象』スカイドア、1995
事項索引より。
「写真」 106
真景図 259
真写 75, 106
真写図 28
写実(リアリズム) 18,74, 103-105, 414, 415
写生 18-20, 23, 48, 51, 67, 71-75, 81, 88, 96, 104-196, 124, 125, 127, 130, 157
写生画 19, 49, 124, 140
写生真写法 18, 71, 73, 75, 80, 81
写生図 20, 28, 32, 69, 70, 88-90, 94, 96, 97, 99-103, 138, 150, 177
写生図の継承 69(→模写と継承)「写真」 106 (江戸時代中期まで「写生」という語の他に)「生きうつし」や「生写」「正写」、また時には「真写」「写真」という言葉までもが、「実物写生」を表わす言葉として同様に使用された。・・・対象に宿る「気」「生気」を何よりも的確に把握することこそが、「写生」という行為の最終目的であり、真髄だとされていた。
→つまり、「写真」という術語にスポットライトが当てられているわけではない。
[京都から明治大学へ]
6時20分頃に身支度を整え、6時半過ぎにホテルをでました。
百万遍のバス停でバスを待ちました。6時台にどの程度バスが来るのかすこし心配だったのですが、6時40分をしばらく過ぎてからバスはやってきました。朝は道が空いています。7時10分頃京都駅に着きました。
新幹線の発車時刻までは1時間以上あります。
京都駅のなかをうろうろ探して、まずは喫茶店に入りました。いわゆるモーニング。朝食をとりました。
それからお土産屋さんを探しましたが、まだあまり開いていません。むしろ、新幹線のホームに近づいた方が開いている店があるに違いないと考え、新幹線ホームの方に向かいました。予想通りでした。新幹線に入る手前のお店が開いています。
お菓子を3箱、それに漬け物を3袋買って、新幹線のホームに向かいました。時間に余裕があります。ただ、座って待っていました。
新幹線のぞみ、8時18分京都発。新幹線のなかではほぼ寝ていました。東京駅での接続もスムーズでした。11時15分、無事帰宅しました。
お昼ご飯を食べ、すこしだけ休憩してから、再度でかけました。明治大学。1時から編集委員会。2時から理事会。そして、4時15分過ぎから事典編纂委員会。6時半過ぎに終了。7時10分頃帰宅しました。
昨日も今日も、だいたい同じで、1時から6時半過ぎでした。
ひとりで4時30分、室温27.4度。ちいさいちびは土曜日学校。ちいさいちびと同時ぐらいに家をでて京都に向かいます。京都の天気は、東京の天気とほぼ同じでした。ただし、朝は東京よりずっと涼しい。明日の朝京都をたって、午後は、編集委員会や理事会。
[京都大学人文研]
7時50分頃家をでました。のぞみ311号は、けっこう空いていました。
定刻に京都着。バス停を探し、最初に来た206系統のバスに乗り込みました。車内アナウンスで京大には止まらないと言っています。運転手さんに相談すると、降りて戻るのがよいということなので、最初のバスストップで降りて、もう一度駅に戻りました。
今度は係の方に京大に行くバスを聞いて、17系統のバスに乗り込みました。端境期のようです。バスはスムーズに動いています。12時40分、農学部前で停車。お昼ご飯をどうしようかと思って、バス停の周辺、農学部キャンパス内を探しました。農学部の中の食堂と生協は夏休み中でした。10時過ぎにサンドウィッチをのぞみのなかで食べています。なんとかもつだろうと考え直し、人文研へ。北門からすぐの建物です。入り口に行くとなかに橋本さんと田中さんがいました。
1時ぐらいに河野さんもキャリーバッグをころころしながら現れました。会議室は2階。新しいのか古いのかよくわからない建物でした。地下に、年代物の地震計がある建物だそうです。
しばらく歓談してから、橋本さん、田中さん、休憩を挟んで、私、河野さんの順番で発表。
橋本さんが発表された18世紀顕微鏡史の本は素晴らしい本でした。研究史の空白がほぼ埋められた感じがします。
私は、怒濤の1週間で、準備が最後までは届きませんでした。最後に/未完/と記した発表をしました。田中さんはブールハーヴェ、河野さんはプリーストリの発表をされました。ブールハーヴェに関して、不明だったことが発表&質疑応答を通して、すこしわかってきました。ブールハーヴェ自身が最初顕微鏡でみて描いたanimacula の絵は、ほとんど子どもの絵でした。我々が知る絵は、絵師が描いています。ブールハーヴェは、水中の微生物という観察の難しいものを描かせています。非常に高度な観察手法に、まったく日常語でなされる観察の説明。表象としては、特異で、とても面白いものです。
全員の発表が終わって、6時半をおおきく回っていました。7時15分百万遍集合ということで、一度宿舎にチェックインに向かいました。私と橋本さんが医学部のもっているホテル、河野さんが大学のもっているホテル。まったく普通のホテルでした。
荷物だけ置いて、集合場所へ。会食に選ばれたお店は、昔の日本家屋を使っています。階段の急なこと。体験がないわけではありませんが、久しぶりなので怖い感じがしました。留学生にも人気の飲み屋さんということでした。10時半まで歓談。
宿泊所には、朝食はないということで、コンビニで朝食を買ってから、分かれました。2016年京都出張
新幹線 9月10日 のぞみ311号 8時53分発 11時14分着
9月11日 のぞみ214号 8時18分発 10時33分着
宿舎 芝蘭会館(国際交流会館)京都大学
〒606-8302 京都府京都市左京区吉田牛ノ宮町11-1
電話: 075-752-4013
妻、小学生に続き、6時45分、室温27.1度。やっと、さわやかな秋空となりました。[ユリノキ]
おおきいちび、小学生、ちいさいちびの順にでかけました。小学生がでかける前に、植木屋さんが来てくれました。我が家の片隅に存在する、しかし、背の高さが7メートル近くに達するプラタナスの葉を剪定してくれます。妻が、新聞の追い込み広告に基づき、2軒に見積もりをお願いし、なんとか支払うことができると考えた業者にお願いしていたものです。隣家との狭い隙間を通って、作業をしてくれるようです。まずは、隙間の片づけを行いました。使わなくなった植木鉢を並べていました。
妻は今日から仕事にでます。午前中だけということです。その間は、私がお留守番をする必要があります。明日の京都での発表準備ができていません。泥縄ですが、明日までにできるだけは進めておきます。剪定作業は夕刻までかかりました。木は、プラタナスかと思っていたのですが、ユリノキですよ、と業者の方が教えてくれました。早速ウェブで調べると、葉っぱの形は確かにユリノキにぴったり。どうして我が家の敷地におおきなユリノキがあるのかわかりませんが、街路樹にはよく使われるそうです。
結局、明日の発表の準備作業は完成しませんでした。できたところまででやるしかありません。夕刻、図書館から次の文献が届いたという報せがありました。
福岡真紀「嘗百社と写真 : 統合された写真史に向けて」『近代画説 : 明治美術学会誌』 21(2012): 31-47
Naomi Hume, "The Nature Print and Photography in the 1850s," History of photography : an international quarterly, 35(2011): 44-58
もう30分はやく連絡があれば、明日の発表に間に合ったのですが、まあ、仕方ありません。月曜日にでも図書館に受け取りに行きます。
ひとりで5時30分、室温27.5度。台風は消滅して、温帯低気圧に変わっていました。雨雲レーダーを見ると、東京では強く降ることはほぼないようです。おおきいちびと小学生は、台風で学校が休みになることを期待していたようです。
台風からちぎれてやってくる雨雲がたまに強い雨をもたらします。長い時間降ることはありませんが、しばらく強い雨に見舞われることが何度かありました。受け取る必要があるものがあるので、朝一番で大学にいってくることにしました。9時6分武蔵境発の西武線。ちょうど武蔵境駅に着いたころ、急に強い雨が降ってきました。10分とは続かなかったと思います。ほぼ止んだかと思ったのですが、多磨駅から大学までは傘が必要でした。まず、図書館により、ILL で届いていた次の文献を受け取りました。
Maki Fukuoka, "Toward a Synthesized History of Photography: A Conceptual Genealogy of�Shashin," Positions : East Asia cultures critique, 18(2010): 571-597
(これは多磨駅で電車を待ちながら読み始め、電車のなかでも読み続け、昼食前に読み通しました。)それからメールボックスで1点仕事をもらい、3階に上がって、物品を2点もらいました。ホワイトボード用のペンを2階で仕入れてから、研究室へ。本を1冊置き、メールをチェックして、帰途へ。
9時50分、多磨駅発の電車にのり、三鷹駅でちょっとした買い物をして、総武線で帰ってきました。気温は高くはないのですが、湿度がほんとうに高く、やはり汗まみれになりました。医科歯科のMMA講義最終日。今日は自宅から出発します。グーグルの地図で調べてみると、我が家からは、電車で行って38分、仮に首都高4号新宿線を使ったとして車で37分です。だいたい40分といったところです。
→いくらか余裕をもって動くことにしました。5時5分に家をでて、5時40分に御茶ノ水に着きました。医科歯科構内のセブンイレブンの休憩所で一休みしてから教室に向かいました。セブンイレブンでは、葡萄ジュースを買いました。棚を見ると、私の胃にピロリ菌が見つかってから医者に勧められたヨーグルト等、健康系のものが数多く並んでいます。医科歯科のセブンイレブンの特徴がこういうところで発揮されていました。
教室には5分前に入りました。TA の方は、初日と2日目が同じ方、あとは一日ごとに交代になっていました。
初日、2日目、3日目よりは、汗をかくことが少なくて済みました。
最後に期末レポートを作成してもらいましたが、誰も言葉を発することなく、教室全体が静かに作業に取り組んでくれています。終了時刻になっても仕上がらず、数名の方があとからメール添付でお送りします、となりました。
9時15分に教室をでて、9時55分に西荻の駅に着きました。いくらかお腹が空いていたので、駅前のコンビニでサンドウィッチとアイスコーヒーを買って帰宅。
これで、4日間の夜の集中講義は終了しました。
ひとりで4時45分、室温28.0度。午前中にも午後にも会議。その後、夕刻に医科歯科のMMA講義3日目。
9時18分武蔵境発の西武線。最初の会議は10時から。これはすぐに終わりました。次の会議は、11時開始で12時半終了予定でしたが、40分強で終わりました。そのまま外にでて、大学までのコンビニで昼食のパンを買いました。研究室にもどって昼食。
午後の会議は、1時40分からです。それまでに、医科歯科のMMA講義の準備を行いました。話す内容を確認し、頭の中を整理しておく必要があります。昼休みが長くとれて、これは助かりました。
午後の会議は、1時40分開始のもの、2時開始のもの、3時半開始のもの、4時開始のものを4つあります。2時開始のものがすこし伸びました。もちろん、あとは順繰りに遅れます。3時半開始のものは、これも、重要な案件の提示があり、長引きました。話を全部聞くことはできないとふんぎりをつけ、4時50分前に大会議室をお暇した。あらかじめ、会議を途中で抜けますと学部長には断っていましたが、4つ目の会議はまるまるでることができなくなるとは予想していませんでした。
研究室に戻り、カバンを用意し、御茶ノ水に向かいます。5時4分多磨駅発の西武線。電車のなかで昼間買ったパンを食べてすこし腹ごしらえ。5時40分に御茶ノ水駅には着きました。医科歯科のなかにはセブンイレブンが入っています。セブンイレブンでコーヒーとやはりサンドウィッチを買いました。セブンイレブンのコーヒーははじめてではないのですが、次の講義のことが気になっていたのでしょう。上の袋を取らないまま、装置にセットしてしまい、せっかくの挽きたてのコーヒーが入れ物の外にこぼれています。わー、どうしようと思い、すぐに店員さんに、すみません、と声をかけると、新しいものに代えてくれました。容器と装置をみて、上から、針が降りてきて穴をあけ、ドリップするというイメージを抱いてしまいました。
ともあれ、隣のあるスペースに行き、5分で食事をすませました。歯磨きをしてから、教室へ。ほぼぴったりあるいは数十秒遅れで、教室に入ったと思います。
ばたばたして疲れていたので、御茶ノ水からの帰りの電車は、総武線に座って帰ることにしました。5分から10分程度遅くなりますが、休憩する方が重要かなと考えました。
帰宅して、お風呂に入り、テレビの前でしばらく体と頭を冷やしていました。BSでハワイの貿易風の話をしていました。貿易風が弱くなって、困っているのだそうです。蚊が大発生し、デング熱にかかったという女性がでてきていました。
ひとりで5時30分、室温27.8度。午前と午後に会議。夕刻、医科歯科の2コマの講義。
9時半、武蔵境発の西武線。午前の会議は10時10分から、11時40分まで。ほぼ定刻に終わりました。そのまま生協に行って昼食。午後の会議は12時40分から。医科歯科の準備をしていてすこし遅れました。2時過ぎまで。次の会議は、2時開始予定だったのですが、2時15分にスタート。3時半終了予定。とても3時半には終わらないだろうと予想していました。途中別の会議が挟まりました。私は5時50分でお暇した。たぶん、5時15分まではかかったのではないかと思っています。研究室にもどり、荷物を用意して、5時4分多磨駅発の電車に乗り込みました。御茶ノ水には、5時45分に着きました。医科歯科のキャンパス内のセブンイレブンでサンドウィッチを1個と牛乳を買い、その隣にある休憩所で、5分間の腹拵え。その場で簡単に歯磨きをしてから、教室へ。たぶん1分前に入りました。
昨日の反省があり、2コマ目をすこし速めに終えました。
10時前に帰宅することができました。ワールドカップ最終予選、日本対タイ戦を中継中でした。テレビを見ながら、夕食をとり、お風呂に入り、とりあえず、2対0で勝つのを確認してから、就寝。汗をかなりかきました。帰宅すると、ナショナルジオグラフィック日本版、2012年10月号が届いていました。
ひとりで5時30分、室温27.6度。雲一つない快晴とまではいきませんが、早朝は、快晴です。九州の近くにある台風のせいでしょうか、湿度が高く、むしむしします。午前中に歯医者さん、夕刻に医科歯科のMMA 講義初日。
[歯医者さん]
→歯医者さんには10時頃でかけました。まず銀行によって今日必要だと言われた金額をおろしました。その足ですこし戻って歯医者さん。10時半よりは少しあとに名前を呼ばれました。もう麻酔はいらないか予想していたのですが、やはり、塗り麻酔をしたあと4箇所ほど針が入りました。それから約1時間。左上の3本の出来上がりをいれてもらって待合室の椅子に戻ると、時計の針は11時半を指していました。1時間弱、歯医者さんの診療台に座っていたことになります。
しばらく待って支払いをすませて帰ってきました。高かったので見た目はずいぶん良くなりました。来週からは、左下の3本に取りかかります、ということでした。10月末まで予約が入りました。ほぼまる1年かかるということです。医科歯科の講義初日。
早い夕食を食べ、ざっとシャワーを浴びてから、5時5分に家をでました。5時40分に御茶ノ水に着きました。駅前の丸善で、本をすこし見てから、医科歯科の大学院講義室へ。数分前に部屋に着きました。今年は、例年になく、院生諸君の集まりがよいようです。ゆっくりと話しはじめました。
実は、講義をするのが久しぶりです。時間配分の感覚が遠くなっています。1コマ目は、数分早く終わりになりました。2コマ目は、数分話しすぎました。
コメントシートを受け取って、9時15分ぐらいに教室をでました。医科歯科の建物は、9時になるとロックされてしまいます。TA の方に必要なドアを開けてもらって、外へ。10時過ぎに帰り着きました。
ざっとシャワーを浴び、頭の興奮と体を冷ましてから就寝。昨日からの作業の続きで、起きてすぐに次の本をダウンロードしました。
Benjamin MARTIN (Optician), Typographia naturalis: or, The art of printing, or taking impressions from natural subjects, as leaves, shells, fossils, &c. as also from medals, intaglios, &c. by means of isinglass, etc, London, 1772
実物に墨やインクを塗って、紙に直接写し取る方式をTypographia naturalis と呼んでいます。英語では、一般的には Nature Print と呼ぶようです。この方法の一番の対象は、葉っぱです。子どものときにやったことがある方も少なくないのではないでしょうか?
日本語では、印葉図という言葉があります。印葉図という言葉は、葉っぱだけを想像させますが、平面化することができて、墨やインクを表面に乗せられれば、どういう自然物でも原則としてはこの印刷法の対象とすることができます。
有名な器具製造業者、マーティンについては、次の研究書がすぐに見つかりました。
J.R. Millburn, Benjamin Martin: Author, Instrument-Maker, and ‘Country Showman’Springer Science & Business Media, 2012
ひとり遅れて8時、室温27.0度。雨が降っています。こういう日もたまにはあります。明日からの医科歯科の授業にそなえて、今日はゆっくりします。準備だけは、きちんとやっておきます。8月末にずっとやってきた仕事、9月10日橋本科研での発表、明日からの医科歯科の講義の準備、この3つを並行して、すこしずつ進めています。
私の今のテーマにとって、福岡真紀さんの次の仕事は基本的な重要性があることがわかりました。
Maki Fukuoka, The Premise of Fidelity: Science, Visuality, and Representing the Real in Nineteenth-Century Japan, Stanford U Pr, 2012
仕事が立て込んでいるので、全部をきちんと読むのは後回しになりますが、私のテーマに関係するところだけでも、しっかりと読んでおこうと思い、読んだり、調べものをしたりしています。
この本の主たる研究対象は、嘗百社の仕事です。序文を次のようにはじめています。
「1826年水谷豊文(1779-1833)が編んだ『本草写真』という未出版の草稿にふれ、19世紀の日本の視覚文化の歴史の重要な部分はこれから書かれるべきだと私は確信した。」
ここの「写真」は、写真術発明以前ですから、photography のことではありえません。もじ通り、真(the real)を写す(transposition)です。具体的には、ink rubbing prints, inked impression of a plant, と福岡さんは英語化されています。日本語では、印葉図と称することが多いようです。
ウェブの説明を引用すれば、印葉図とは「植物の葉や花に墨を塗って作る一種の拓本」、あるいは「植物の葉や花にインクを塗って紙に転写する一種の拓本」とあります。これで、どういうものかは比較的簡単に理解できると思います。
福岡さんの本を続けましょう。
「1828年前後、水谷豊文は、名古屋を拠点として、薬の材料(日本語で本草、ラテン語で materia medica )の研究を中心とする学者グループ、嘗百社を結成した。」
p.111 「伊藤圭介と宇田川榕庵が1827年日光への植物採取旅行で作成したink rubbing は、」
伊藤圭介(1803-1901)
宇田川榕庵(1798-1846)
柳河春三(1832-1870)
伊藤圭介(1803-1901)は、19歳のとき京都に行き、蘭学を学ぶ。1826年、シーボルト)Philipp Franz von Siebold, 1798-1866)に会う。この出会いが圭介の後半生を決定したと言える。
福岡さん自身が本の後ろのグロッサリーであげているコンセプトは、次の4つです。
印葉図法
写生
写真
真行草
本文中では、印影鏡(lens that delineates shadows)、留影鏡 (lens that holds shadows)という用語も使っています。
ひとりで5時30分、室温27.4度。本日は午後大学にて季節的業務。はやめの昼食後、でかけます。
11時42分武蔵境発の西武線。事務に顔を出し、書類を受け取ってから、研究室へ。探していた本がやっと見つかりました。向きが90度違いました。
1時過ぎから3時過ぎぐらいまで。書類をすませて、4時4分多磨駅発の電車で帰ってきました。土曜日なので、三鷹で乗換。ちょうどよいので、パンをすこしと息子が欲しいと言っていたチョコを買って帰りました。
たいした仕事量ではありませんが、道中の蒸し暑さもあり、疲れました。来週の仕事:東京医科歯科大学 MMA講義「医療思想史」
9月 5日(月) 18:00から21:10まで 大学院講義室2(M&Dタワー13階)
9月 6日(火) 18:00から21:10まで 大学院講義室2(M&Dタワー13階)
9月 7日(水) 18:00から21:10まで 大学院講義室2(M&Dタワー13階)
9月 8日(木) 18:00から21:10まで 大学院講義室2(M&Dタワー13階)
この形の授業は2年目です。
ひとりで4時20分、室温27.4度。本日も会議。明日は、季節的業務。大学の仕事が続きます。
9時30分、武蔵境発の西武線にぎりぎりで間に合いました。印刷センターで月曜日の準備をすませてから、研究室で明日の準備。昼食後、12時40分から会議。2時10分過ぎまで。
図書館の本を3冊返してから帰途。2時40分多磨駅発の電車に乗りました。風があったのですこしましでしたが、まだまだ暑い。帰宅して、すこし休んでから、推敲の作業を続けました。一応、これも3点に関して1度は推敲の目と手を通しました。
明日の準備をもうすこししておきます。
ひとりで4時45分、室温27.3度。一度の推敲もしていませんが、とりあえず、ずっとやっていた仕事は、最初の終わりを迎えました。締切の8時間遅れです。推敲にもそれなりの時間がかかりますが、ともかくほっとしました。
今日から本格始動。上の仕事に区切りがついてからでかけました。9時18分武蔵境発の西武線。すこしだけ事務の方が同じ電車に乗っていました。
事務棟1階入試課により書類をうけとり、研究講義棟3階の研究院事務室により郵便を受け取ってから、研究室へ。久しぶりです。
ずっと来ていなかったので、メールが100通近く。ほぼ対応は終わっていますが、一部未対応のものに対応しました。
休暇中にたまったものを処理しているうちに、お昼の時間。お弁当を食べ、一休みしてから、お昼休みの時間帯に開かれる総合文化コース会議に出席しました。30分ほどで終わりました。
それから、研究室の片づけに着手しました。夏休み前の書類がそのまま積み上がっています。本を移動し、書類の片づけを行いました。8割ぐらいは片づけられたと思います。次の会議は、2時20分開始。3時半から別の会議がある方がいて、3時35分まで。科長としばらく打ち合わせをしてから、研究室に戻り、まだ海外にいる先生から預かった仕事をこなしました。それが終わって、帰途。4時28分多磨駅発の電車で帰ってきました。
家に帰り着いて、あっちっち。久しぶりに暑さのなか、仕事をして、あちあちとなりました。ちいさいちびと小学生は、エアコンのかかった居間でのびのびしていました。
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