6時35分、室温24.5度。朝からバスケットボールの部活があるおおきいちびと妻は起きていました。台風が接近中。
ひとりで8時30分、室温24.9度。ちいさいちびはまだ寝ていました。妻とおおきいちびと小学1年生は、朝食を食べ終えたばかりでした。久しぶりに最高気温が30度近くまで上がるそうです。朝一番で小学1年生を東急に連れていきました。自転車がよいというので自転車の後ろに乗せました。開店10分前に着きました。自転車置き場の隣で待機。開店と同時に店内に入りました。最近は、仮面ライダーガンバライドのゲームにはまっています。もうアテンドの必要はないので、子供の遊び場のところで座って待っていました。
自転車置き場は500円以上の買い物で無料になります。8階の特設会場で北海道展を行っていました。いろいろおいしいそうなものがあったのですが、小学1年生がすぐに帰りたいというので、イカめし3箱だけ買いました。1500円。
帰宅して11時過ぎ。午後部活のあるおおきいちびが昼食を食べていました。おおきいちびも私も小学1年生もイカめしを食べてみました。うまい。一箱に2匹はいっています。ちいさいちびも食べたいと言って、すぐになくなりました。夕刻、次の本が届きました。
橋本毅彦
『飛行機の誕生と空気力学の形成:国家的研究開発の起源をもとめて』
東京大学出版会、2012橋本さん、ご高配、ありがとうございます。橋本さんは、本書を「やや長すぎる時間をかけて博士論文の内容を大幅に発展させ、一つのストーリーの下に7章の歴史として空気力学の発展をまとめたもの」と要約されています。
ひとりで5時30分、室温20.9度。秋分の日前後から順調に気温が下がっています。夏の暑さを身体がまだ覚えているのでしょう、いくらか肌寒く感じます。
6時15分、室温21.2度。朝練のあるおおきいちびと妻は起きていました。
朝、新聞といっしょに次の本が郵便受けに入っていました。アマゾンのマーケットプレイスからです。
武谷三男・星野芳郎『現代技術と政治:核ミサイル・先端技術・エコロジー』技術と人間、1984午後打ち合わせ。
10時過ぎに家をでました。10時30分武蔵境発の電車に間に合いました。処理すべき案件をひとつひとつ処理しました。
研究所によってから、図書館へ。ILL で借りていた2冊を返却し、図書館所蔵の『武谷三男著作集第2巻 原子力と科学者』(勁草書房、1968)を借り出しました。開架ではなく、地下の集架にありました。勁草書房の『武谷三男著作集』は全6巻です。原子力の問題は、どの巻でも扱われています。2時から1時間半で説明会。それから担当者3人で打ち合わせ。
合間に、吉見俊哉氏の『親米と反米』を探し出しました。棚の上に眠っていました。
ひとりで6時半、室温21.2度。温度がどんどん下がっています。晴れ。会議の日。午後2つあります。ちょうどよいので片づけを兼ねて、朝からでかけようと思っています。
でかける直前に次の雑誌が届きました。
『東洋文化研究』第14号(2012)
最新号です。「未公開資料 朝鮮総督府関係者 録音記録(13)」は、「京城帝国大学時代の回顧」。これは次からなります。
【解説】京城帝国大学時代の回顧…通堂あゆみ
連続シンポジウムについて…宮田節子
京城大学医学部時代の回顧(1967.10.14)
連続シンポジウム=日本における朝鮮研究の蓄積をいかに継承するか第四回:「京城帝大」 における社会経済史研究
ちいさいちび以外はほぼそろって6時5分、室温22.5度。おおきいちびは昨日、今日と定期考査です。中間試験にあたるでしょうか。11月にもう一度あると言っています。定期考査は2日間ですが、1週間近く部活が休みになります。反動で今日は午後ずっと部活だそうです。[高度成長とアメリカ]
9月4日(火曜日)朝日新聞のオピニオン(14版、13頁)に吉見俊也さんの「高度成長とアメリカ」というインタビューが掲載されています。著者紹介に「57年生まれ。専門は社会学・文化研究。著書に「万博と戦後日本」「親米と反米」「夢の原子力」など。」とあります。新刊『夢の原子力』は言及はされていますが、このインタビューそのものが『夢の原子力』の発行を受けてという表現はありません。何度も主張していますが、新聞報道でもきちんと典拠=レフェレンスを挙げる習慣を日本のメディアは身に付けるべきです。記事に関心をもってその先(further readings)あるいはもと(典拠資料)を読みたいと思う読者が必ずいます。見習うべきところは見習えばよい。英語圏のジャーナリズムのよい点をもう習得してよい頃だと思います。
インタビューのなかでもっとも大きなポイントは、「占領の内面化」です。本人の言葉を引用します。「広い意味での占領は52年に終わったわけではない。もっと日本の社会や歴史、構造に内在するような形でアメリカは戦後日本を支配し続け、日本は現在もアメリカから自由ではない。そのことをはっきりわからせてくれるのが原発です。」さて、このサイトで吉見さんの仕事を紹介し続けているのには、具体的な目的があります。2012年後期(冬学期)月曜日4限の授業は、吉見さんの『夢の原子力』と『親米と反米』を読み込むことからはじめようと考えています。
ちなみに、いつものことですが私の最初の仕事は、『親米と反米』という本そのものをこの部屋から探し出すことです。さて、どこにあるのでしょう。捜すのは後回しにして、『夢の原子力』のポイントを拾う作業をもうすこし続けます。
吉見さんは、第1章第3節「総力戦と発電国家」でレーニンの言葉「共産主義とはソビエト権力に全国的電化を加えたものである」(p.95)を非常にうまく使っています。「共産主義=ソビエト権力+全国電化」
そして、これをルーズベルトの「民主主義とは、合衆国プラステネシー側流域の電化である」(p.103)と対比しています。つまり、「○○=国家+電化」となります。○○は逆方向を向いているように見えても、実は同一になることがみそです。
日本ではこれは次のようになります。「資本主義とは、財閥権力プラス全国の電化である」(p.108)。吉見さんはこうまとめています。1910年代以降の日本や米国では「電力が現代資本主義の根幹」であることがはっきりした。すこし脱線します。
ネットで検索をかけていると2012年春の京都大学の世界史入試問題にヒットしました。入試問題は著作権がない(著作権の適用の例外とされる)はずなので、その部分を全部引用します。最後の問題のCです。(問題番号を示す数字は削除しています。)
C 現代社会は膨大な電力消費の上に成立している。電気の発見は、人類史において火の発見に匹敵する出来事である。「電気」の英語 electricity が琥珀(こはく)を意味する古典ギリシア語 elektron に由来するように摩擦帯電現象は古代ギリシアでも知られていた。しかし石炭を燃料とする蒸気機関に代わって電動機が実用化されたのは19世紀後半である。「発明王」エジソンは1882年に電力供給を目的とした火力発電をニューヨークで始めているが、先進工業諸国で一般家庭に電灯が広く普及したのは第一次世界大戦以降である。
この大戦中に勃発したロシア革命の指導者レーニンは「蒸気の世紀はブルジョアジーの世紀、電気の世紀は社会主義の世紀」のスローガンを好んだ。自立的な 機関とちがって集中的に管理された送配電システムは個人主義的な階級文化に終止符を打つと期待したのである。1920年の国家電化計画に際してレーニンが 発した「共産主義とは、ソヴィエト権力プラス全国の電化であるという言葉にもそうした思いを読み取ることができる。このような電力供給事業を社会経済システムの基盤とみなす発想は国家体制の違いを超えて広まった。日本でも電源開発としてのダム建設は盛んに行われたが、1950年代後半には安価な石油を燃料とした火力発電所が急増した。しかし、第四次中東戦争以降は状況が一変し、供給の安定性経済性の観点からエネルギー源の多様化が図られた。
アメリカで核分裂連鎖反応の実験が成功したのは第二次世界大戦中だが、やがて原子炉で発生する熱を利用した原子力発電の計画も始まった。冷戦下の核兵器開発競争の中で、1954年に実用レベルの原子力発電所を世界にさきがけて稼働させたのはソヴィエト連邦である。一方、第二次世界大戦の敗戦国ドイツでは原子力発電のスタートは遅れていた。しかし、1958年にヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が発足すると西ドイツは積極的に技術開発を進め、原子力発電の比重を高めてきた。しかし、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故を受けて、西ドイツ、そして後の統一ドイツでは環境問題への懸念から脱原発への関心がしだいに高まった。
さすがに入試問題です。教科書的な記述にきれいにおとしこんでくれています。まさに「電力供給事業を社会経済システムの基盤とみなす発想は国家体制の違いを超えて広まった」わけです。
まるで吉見さんの著作の第1章を受験生向けにまとめたかのような出題文になっています。(たぶん、出題者の意図は、吉見さんの第1章での主張と近いところにあったのではないかと推測されます。)
7時5分、室温22.8度。久しぶりに晴れています。ちいさいちび以外は起きていました。[クロボンの死]
休みの間に白点病が発覚したクロボンが朝死んでいました。ネットで調べると、白点病は金魚の風邪だそうです。そこに書いている通り、まず、0.5%の塩水を作ってやることにしました。塩が60グラム必要でした。
クロボン(黒の出目金に小学1年生がつけた名前です)が買ってきたときから白い点々があったと小学1年生は言いますが、ほんとうかどうか不明です。私も家族の他の者も見たことがありません。
ひどい状態だったので、もたないかなと思っていたら、今朝、浮いていました。今朝、小学1年生はすこしぐずっていたので教えませんでした。自分でも気がつきませんでした。帰宅して教えたところ、お墓をつくってあげると言います。鉢植えの土のなかに埋めているようです。クロボンが死んだら、メダカを買ってあげるという約束でした。近くの金魚屋さんは月曜日定休日。松庵2丁目のバス停の近くの金魚屋さんに行きました。10匹で210円ということです。メダカのエサが180円、しめて390円でした。
とりあえず、同じ水槽で元気に泳いでいます。[加藤哲郎氏のサイト]
加藤哲郎さんの論考は、このサイトでは、2011年2月28日に引用しています。3.11の直前です。昨日の加藤さんの論考「占領下日本の情報宇宙と「原爆」「原子力」」をうけて、加藤哲郎さんのサイトを再訪しました。
トップページで加藤哲郎さんは次のように書きます。
「原爆のおかげで平和がもたらされた、原子力は科学技術発展の産物で「中立」だから資本主義にも社会主義にも使える、といった左派の言説も盛んで、どうも これが、「唯一の被爆国だからこそ」日本人は「平和利用」の先頭に立つといった「原子力時代」礼賛の声をつくりだしたようです。」
雑誌論文では短くまとめた論点をしっかりと展開してくれています。フクシマ原発事故後のものとして、原発シリーズ第1弾「占領下の原子力イメージ」、第2弾「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」がアップロードされています。重要な情報源となってくれます。
→「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」(私のプリンターで印刷して38頁になります)だけまず読み通しました。これはすばらしい! 私の知りたかったことのかなりの割合に関して、資料を提示してくれています。たとえば武谷三男。ウェブに武谷の1970年代の原子力に関する仕事がまとめられています。これは占領期の脳天気な発言とは異なり、悪くないものです。つまり、武谷はどこかで意見を変えています。
13頁で、加藤さんは、「(参考)武谷三男の立場の変遷」として整理してくれています。加藤さんの結論は次です。「武谷三男は、自らが重要な役割を果たした日本共産党の原子力政策が 2011.3.11 まで70年をかけて屈折・修正していく「原子力の平和利用」の論拠喪失過程を、戦後10年余りで体験し、駆け抜け、「卒業」していった。」
いったいどう変わったのか?
山本さんが序章(11頁)で引用する1957年の武谷三男の発言はこうです。
「われわれは原爆の被害国であるから、その点を海外に訴えて、原爆の被害者は最もフェアーに原子力の研究をやる権利があり、必要量のウラニウムを平和利用のためにのみ無条件に入手する便宜をはかる義務を諸外国はもっているはずである、と主張すべきだというのである。」加藤さんの整理に戻ります。
1.自分が二号研究で原爆開発に関わった点に関する弁明
「原子力時代」『日本評論』1947.10 趣旨:原爆研究に関わったのは、原爆を作るためではなく(当時の日本の経済力・工業力からいって原発を作るのは無理であった)、原爆研究を看板に掲げることで原子核物理学研究の存続を守るためだった。2.反ファシズムとしての原爆
「革命期における思惟の基準―自然科学者の立場から」民科自然科学部会『自然』創刊号 1946.6 趣旨:原子爆弾をとくに非人道的なりとするのであれば、それは自分の非人道をごまかすためである。原爆の完成には、反ファシズム(原語は「反ファッショ」)の科学者が協力した。原爆は、日本の野蛮に対する青天の霹靂(天罰ぐらいの意味か?)であり、日本人科学者も、この日本の野蛮に対し「追撃戦」(具体的にはどういう行動を意味していたのか?)を行うべきだ。
3.原爆は、平和のきっかけをつくってくれた
(「原子力のはなし」『子供の広場』1948.11)加藤さんの見立てでは、(1)ソ連の水爆実験、(2)ビキニ被爆における死の灰、この2点が「武谷の「転向」出発点」となった。(p.9)
(1)放射能そのものの危険性の認知と(2)ソ連国家=軍事的戒厳令的社会主義と認識するところから、原子力の平和利用との原理的決別には至らないまでも、反原発住民運動に転向する。(そして、1975年に「原子力情報資料室代表」となることに繋がる。)
私の観点からは、原水禁国民会議の森滝市朗史の証言が重要です。
(p.18) 原水禁国民会議が「核兵器絶対否定」から「核絶対否定」にたどりつくには7~8年の時間がかかった。その変化の要因は、「放射線害」(放射線被曝による健康被害)の深刻さを痛切に認識するようになったことにあった。
逆に言えば、 原水禁国民会議でさえも、軍事利用であれ民生利用であれ核エネルギーの利用が不可逆的に人類社会に及ぼす放射線被曝については、当初は包括的には認識できていなかったということになる。
そして、「放射線害」そのことのもつ重大性に気づいた原水禁国民会議は、被爆24周年(1969年)原水禁大会ではじめて「原子力の平和利用」問題を取り上げた。
被爆26周年(1971年)大会では、「安全の保障されない原子力発電、核燃料再処理工場設置には反対」するスローガンを初めて掲げる。
被爆27周年(1972年)大会で、「最大の環境破壊・放射能公害を起こす原発、再処理工場に反対する」スローガンを掲げる。
時代背景としては、公害問題、環境破壊問題が深刻化してきたこと、ストックホルムで国連人間環境会議が開かれたことがあった。
会議に参加したコルビー女史は「原子力はもはや人類の輝かしい夢ではなく、むしろ悪夢であった」ことに気づかざるを得ませんと演説した。夕刻次の本が届きました。
武谷三男編『原子力発電』岩波新書、1976,2011
武谷三男編となっているのは、もともと原子力安全問題研究会(幹事が小野周、武谷三男、中島篤之助、藤本陽一)の毎月の討論会(1972年から)とそれに基づく『科学』(岩波書店、1972~74)への連載、さらにその連載に基づく単行本『原子力発電の安全性』(岩波書店、1975)をもとに、一般向けにわかりやすい本をということで河合武が加わって討論し、幹事各員ならびに河合武で分担執筆したという経緯に由来します。
ひとりで6時40分、室温23.1度。夜半から雨。小学1年生がパパの足音で起きたといってすぐに下に来ました。体感ではいきなり晩秋といった雰囲気です。午前9時、吉見俊哉『夢の原子力』を読み終わりました。私には非常によくわかる名著です。私が生まれて育った戦後日本の自己理解のために必須の書物と言ってよいと思われます。
山本昭宏氏の著作の副題では、「被爆の記憶」と「原子力の夢」が対比されています。吉見さんの本のタイトルは、『夢の原子力』。どちらも実際にタイトルをつける側からすれば致し方ない事情があるのかもしれませんが、しかし、この「夢」の用法は、すっきりしません。すくなくとも「夢」として名指されてるもののもっと詳細な分析が必要だと思われます。
11時前次の2冊が届きました。
田中利幸、ピーター・カズニック『原発とヒロシマ:「原子力平和利用」の真相』岩波ブックレット、2011
下斗米伸夫『アジア冷戦史』中公新書、2004
ともに、吉見俊哉さんが『夢の原子力』で使っている本を発注したものです。実は、ヒューズ『電力の歴史』(平凡社、1996)も買ってあるのを忘れて、アマゾンで値段を見てみました。日本の古本屋さんにもなく、アマゾンでは2万円以上の値段がついていました。ヒューズの『電力の歴史』は基本中の基本です。再刷してほしいと思います。3.11をうけて、電力の歴史から勉強しなおそうと考えている方は、少なくないと思います。
ちなみに、原著、Thomas S. Hughes, Networks of Power: Electrification in Western Society, 1880-1930 (Johns Hopkins University Press, 1983) は使った記憶があります。わー、これはすごいと感動したことも記憶しています。原著があるから、翻訳はいいかなと思って、翻訳はすぐには買っていません。(そのあと思い直して、すこし遅れてから買ったのだと思います。)すぐには買わなかったことの方が記憶に強く残っていて、アマゾンを覗いてみるという行動に繋がりました。
授業で使ってみたいという気持ちは、入手のときからあります。学生たちがついてこれるかどうか心配で、現実には採用には至っていません。ついてくる学生はいるとは思いますが、割合が不明です。下斗米伸夫『アジア冷戦史』(中公新書、2004)第1章「アジア冷戦の始まり」だけまず読みました。こういうふうに整理されると、とてもよくわかります。
と思っていたら、次の雑誌が届きました。
早稲田大学20世紀メディア研究所刊『インテリジェンス』第16巻(2012)
プランゲ文庫研究の10年を特集しています。
「プランゲ文庫とデータベースの完成」
「占領期(1945-1949)GHQ の出版物検閲」
「占領下日本の情報宇宙と「原爆」「原子力」」
「GHQ 検閲と「古典」評価の変容」
「GHQ 占領期における在日朝鮮人団体機関誌の書誌的研究」
「戦後占領期の朝鮮人学校教科書に見る「民族意識」」
この雑誌『インテリジェンス』では、まず、加藤哲郎「占領下日本の情報宇宙と「原爆」「原子力」―プランゲ文庫のもうひとつの読み方」を読みました。これは重要な研究です。とくに、最後の方、22-27頁は私の観点からして非常に重要です。
加藤さんは、故高木仁三郎の「日本を滅ぼす9つの呪縛」にならって、歴史的・政治的「原爆・原発神話」を10にわけて列挙しています。
1.原爆はナチス・ドイツへの必要悪
2.原爆で早期終戦・犠牲最小化
3.日本は唯一の被爆国
4.原子力時代=第3の火
5.国連・国際管理で平和利用できる
6.科学者の良心で統御可能
7.社会主義の核は平和のためで防衛的
8.核兵器は抑止力、原発は潜在的抑止力
9.日本人の核アレルギー
10.占領期原爆報道の消滅
これはまったくその通りだと思います。加藤さん自身は、この論考で、9.と10.に関しては、十分な神話破壊を行っています。
結論を引用しておきます。
「「唯一の被爆国」や「核アレルギー」は、その後[占領終了後]に創られる神話である。」(p.27)加藤さんは、占領期の「原子力の平和利用」言説の理論的支柱を武谷三男と嵯峨根遼吉に見ています。武谷三男は科学技術史ではある意味悪名高いのでなんとなく敬遠していたのですが、歴史的資料としてしっかりと読んでみる必要があるようです。
嵯峨根遼吉は、このサイトでもすでに追求しています。
(加藤さんの位置付けは次です。「嵯峨根遼吉は、当時の保守的支配層の中で、原子力の科学研究と技術=実用化・産業化を媒介し、茅誠司・伏見康治・藤岡由夫の背後で、ちょうど左派=革新勢力の中での武谷三男と似た役割を果たした。」(p.21左))→ちなみに、占領期メディアデータベース化ロジェクト委員会による占領期新聞・雑誌情報データベースは公開されています。
http://m20thdb.jp/login
登録さえすれば誰でも使える仕組みとなっています。すばらしいことです。
夜半に目覚めてすこし仕事。本日の気温は予報によれば、22度~27度です。一気に秋の空気につつまれます。午前3時の室温が24.6度。25度を下回った温度計の数字をみるのもほんとうに久しぶりです。
ということで、本日は秋分の日。
2度目の起床は、小学1年生に起こされて、7時25分。室温23.8度。
正午のテレビの天気予報によれば本日の東京の最高気温は24度ということです。一気に気温が下がりました。子どもたちが全員遊びにいってひとり留守番となってから、吉見俊哉『夢の原子力』(ちくま新書、2012)を読み始めました。すばらしい。読んだのは現時点では、序章「放射能の雨 アメリカの傘」と第1章「電力という夢」だけです。序章は、日本の原子核エネルギーの歴史に関して、もっとも適切なまとめとなっていると思います。この長さでは最良のまとめではないでしょうか。第1章は、常々授業で話そうとおもっていて実現できていない内容を(科学技術史の成果を十分咀嚼して)うまくまとめてくれています。第1章の終わりが120頁です。電気・電力がもっていた意味に十分配慮してくれているわけです。
私個人の関心からすれば、フクシマのGE村なんて格好の材料です。(p.18 開沼博『「フクシマ」論』(青土社、2011)より)
吉見氏は、電力を「資本」、電気を「貨幣」としています。(p.48) おもしろい視点だと思います。しかし、吉見氏本人も自覚されているでしょうが、この視点は深化と展開の両方が必要だと思われます。むしろ、電力システムが「資本」、電力が「貨幣」でしょうか? 私ももう少し考えてみます。
ひとりで6時15分、25.6度。やっと秋が来たのでしょうか。→最高気温の予報が29度。やっと30度を下回ります。
朝食をとっていると雨の音。雨のなかゴミを出しました。傘をささず濡れながら出すとかなり冷たく感じました。夏は濡れても平気だったので、確実に温度は下がっています。昨日からの続きでリアルタイム検索をいろいろ試しています。検索をいろいろ試みているうちに、歴史家小澤実氏の仕事一覧のサイトに辿り着きました。研究成果の多くが pdf でアップロードされています。ついふらふらと書評を中心に17点をダウンロードして読みました。縦書きで画面にうまく収まらなかった1点だけプリントアウトして読みました。残りは、pdf のまま画面で読むことができました。ほんとうに勉強になります。本としてまとめて出版される価値があるのではないでしょうか。Nordica mediaevalis からピックアップすればとてもおもしろいものができあがると思います。
100%つんどくになっていた、山本昭宏『核エネルギー言説の戦後史1945- 1960:「被爆の記憶」と「原子力の夢」 』(人文書院、2012)を手に取り、中身を見てみました。前と後ろを読み、ざっとながめただけです。著者の名前に見覚えがあるなと感じていたのは、雑誌『原爆文学研究』に掲載された論文を読んでいたからです。(「核エネルギー言説の戦後史 原子核物理学者を中心に」『原爆文学研究』第8号(2009))
ということで、吉見俊哉『夢の原子力』(ちくま新書、2012)も手にとってみました。こちらは、序章が「放射能の雨 アメリカの傘」、第1章が「電力という夢」です。(第2章「原爆から原子力博へ」;第3章「ゴジラの戦後 アトムの未来」。)電力産業からはじめているのは吉見俊哉氏の社会学者としての力量を示しています。
ひとりで7時10分、26.6度。図書館のサイトで、Webcatが平成25年3月8日(金)をもってサービスを停止することを知りました。その代わりが、CiNiiBooks http://ci.nii.ac.jp/books/ということです。変更になる理由はよくわかりませんが、こういうのはあわせていくしかありません。
3.11のあとよく使っていたグーグルのリアルタイム検索がなくなってつまらないなと思っていたら、ヤフーがやっていました。
ヤフー(リアルタイム検索)
身近な人物・事象でためしてみました。時事的なことがらや知人の近況にはやはりリアルタイムが便利です。とくにブログやtwitter を開設されている方の近況にはリアルタイム検索が最適です。ほかに次のようなリアルタイム検索がありました。
Naver リアルタイム検索
公式Twitter検索夜、金魚槽セットが届きました。金魚のお部屋ホワイトM GF-WH というものです。アマゾンで¥ 1,778で販売していました。エアポンプほか必要なものがセットになってこの値段なら買ってやってもよいと判断しました。
入れ替えは明日にするつもりでしたが、小学1年生が是非夕食後に変えたいというので、夕食・お風呂・宿題が終わったら、やってあげるという話になりました。
妻の発案で、全体をピアノの上に置くことになりました。今我が家のピアノはすっかり物置と化しています。そういうおうちも多いでしょう。水を入れると相当に重かったのですが、慎重にピアノの上部に設置しました。アマゾンの評価ではエアポンプがうるさいというのがあったのですが、ほとんど気になりません。
おねえちゃんたちが小さかった頃、もともと私がもっていたもう一回り大きめの水槽でしばらく金魚を飼っていたことがあります。そのときのポンプは、相当大きな音をたてていました。それと比べると、無音に近い。かわいい、意外なことにおおきいちびもそう言っています。ちいさいちびは動物好きです。ママに断られていますが、犬を飼いたい、猫を飼いたいとよく言っています。
最近の流行言葉でいえば、いやされる、ということになるのでしょう。水槽のなかの金魚の動きを見ていると、とてもよい気分転換になります。→過去の日記をみなおしてみました。金魚の水槽は、2005年4月23日に東急ハンズで購入しています。ちびどもが幼稚園のときでした。金魚は、そのときのC組さんだったちいさいちびの要望で買っていました。夏休みを越えて生きていたように記憶しています。
ひとりで6時35分、26.8度。夜、まとまった雨が降りました。今は上がっていますが、雲が残っているのでまた降ってくるかもしれません。→こう書いて、10分とたたないうちに強い雨足で降ってきました。午前中はこういう感じのようです。お祭りでとってきたもう一匹の金魚も死んでいました。お祭りの金魚は大きなストレスにさらされているので、仕方ないでしょう。昨日お店で買ってきた出目金はなんとか生き延びさせてやりたいと思います。
本日は、午前から会議。6時には終了するでしょうか?
→会議は10時半からです。9時半に大学に着きました。雨。まず図書館によって、『東洋文化研究』第2号(2000): 12-13 の一枚のみコピーしました。金曜日にコピーしたときこのページだけ飛ばしてしまったせいです。このページに必要な情報がありました。私の記憶の範囲では、大学の送電線にこの夏2回目の落雷がありました。(事務の方が通知してくれます。)そのせいで全学停電があったそうです。全学停電があるとネットワークが一度途切れます。研究室にもどって古くから使っているマシーンはすぐにネットに繋がりましたが、新しく使いはじめたほうがなかなかうまく繋がってくれません。Mac OS X は、ハブの再起動を求めてきましたが、再起動はせずに繋がるようになりました。いろいろ試みましたが、何がきっかけで繋がったのかは不明です。まあ、そういうことはあります。
午前の会議は、出席者が少なく、予定より約30分短く終わりました。そのまま生協食堂に向かい、昼食。学生も教員も少しずつ来ています。
午後の会議は2時から。会議の時間になるまで、経済団体連合会編『石川一郎追想録 』 (経済団体連合会, 1971)をパラパラと読んでいました。追想録なので、故人賛美の基調となるのは仕方ありません。しかし、巻末の記者たちの懇談会は割とフランクに会話しています。経済系、政治系の記者は文化系で、化学者石川一郎の化学談義に当惑したことを語っていました。石川一郎は、技術系の人間が企業のトップを占める先例をつけたとあります。そして、石川一郎を「統制経済」の人であったと位置づけています。
最後に、日本の原子力の父としての石川一郎。晩年経団連会長を辞めて日本の原子力の立ち上げに尽力したことはわかりますが、石川がそこまで原子力に力を入れた理由まではわかりませんでした。
ひとりで6時45分、27.2度。断続的に俄雨が降る天気が続いています。もうしばらくこうした天気でしょう。朝起きると、金魚が一匹死んでいました。ちいさいほうです。
3時過ぎに小学1年生が帰宅しました。早速約束なので出目金を買いに行きました。店頭にはなかったのですが、1年生がお店の人に出目金、出目金と言って、レジの裏側にあるものを捜してもらいました。1~2匹だけあったようです。出目金1匹、水草一束を買って帰りました。
ひとりで5時25分、27.1度。昨夜に続き、夜雨が降りました。本格的に降った感じです。敬老の日。小学1年生がおばあちゃんに電話をしました。お腹をこわして苦しんだと言っていました。近所の人は疲れのせいだと言っているそうです。そうかもしれません。
ひとりで6時50分、27.1度。予報通り、夜半雨が降ったようです。8時現在、まだだれも下に降りてきません。
ちいさいちびはお友達といっしょに近所の神社のお祭りに午前中から参加しました。おおきいちびはやはり午前中にお友達といっしょに吉祥寺に行って、帰ってきてからすこし勉強をし、それから夕刻お友達といっしょにお祭りに参加するそうです。
小学1年生は、仮面ライダーのカードゲームがしたいというので、昼食後すぐに荻窪に連れていきました。結局、私を除き全員がおまつりに行くことになりました。ママにはじめて荻窪八幡宮のおまつりに連れていってもらった小学1年生は金魚をもって帰ってきました。金魚は昔飼っていました。まずは金魚鉢に移してやりました。
藤竹暁「創刊の辞」『東洋文化研究』第1号より。
学習院大学東洋文化研究所の設立は、1952年(昭和27年)。少人数の大学附置研究施設。朝鮮関係の資料の収集から着手。1953年に普及版『李朝実録』全56冊の影印刊行を開始し、1967年に完成。1975年に『朝鮮史関係所蔵図書目録』刊行。
1980年から『調査研究報告』刊行。1969年から『東洋文化研究所所報』刊行。1999年から『東洋文化研究』刊行。小倉芳彦「二つの東洋文化研究所と私」『東洋文化研究』第1号より。
東京帝国大学附置研究所東洋文化研究所は、1941年10月に設置。研究室は図書館の間借り、スタッフも少人数。1948年外務省管轄の東方文化学院を吸収し、大塚に移転。1949年から教授6名、助教授6名、助手9名の体制となった。
『東洋文化研究所の50年』(1991)には、1946年から毎週一回開かれた所内研究会系757回の一覧が掲載されている。
学習院図書館には、東洋史学の開基の東大教授白鳥庫吉が学習院時代に購入した大量の漢籍、洋書類があった。
1977年4月から東洋文化研究所は学習院大学の附置研究所として正式に位置づけられた。法学部の加藤秀俊教授が初代所長、ほかに助手2名。宮田節子「【解説】穂積眞六郎先生と「録音記録」」『東洋文化研究』第2号(2000): 3-28 より。
学習院大学東洋文化研究所の所蔵する418巻のテープは、社団法人中央日韓協会から寄託されたもので、そのうち299巻は朝鮮近代史料研究会が研究活動の一環として収録したものである。
朝鮮近代史料研究会は、1958年5月7日に発足。発足時のメンバーは、穂積、渋谷礼治、近藤**一、岸謙、と4名の院生・学生(そのひとりが著者の宮田さん)であった。
p.5 「穂積が「この友邦協会に朝鮮のことを勉強したいと訪れてきたのは貴方がはじめてだ。このままで終わらせてしまうには、余りにも惜しい御縁だから、どうです。ひとつ研究会でも作って、一緒に勉強しませんか。」とおっしゃり、さらに言葉をついで「私は日本の朝鮮統治が、いかように批判されても、聞く耳をもっているつもりですが、しかし、やりもしかなったことをやったといわれたり、事実にもとづかない批判を受けることは、絶対に承服できない。そこで残された余生を朝鮮統治に関する史料を集めることに捧げたいと思っています。どうです。一緒にやりませんか」という全く思いもよらない提案だった。」
勉強仲間とはかって、朝鮮近代史料研究会を1958年5月7日に発足させた。そのときから「毎週水曜日午後6時から、友邦協会の会議室で研究会がひらかれた。」(p.6)
「研究会は文字通り夏休みも冬休みもなく、一年中休むことなく、500回以上ひらかれた。」(p.6)
「研究会で疑問がでたり、この分野の話が聞きたいというと、たちどころに穂積が「ああ、それだったら誰さんが一番いい」と関係者の名前をあげる。講師をお願いしたほとんどすべての先生方は「穂積さんのお声がかりなら・・」と出席してくださった。」(p.7)昭和27年11月1日「日韓和親を念じて 財団法人友邦協会発会す」。事務所は中央日韓協会に間借り。
穂積が中央日韓協会とは別に友邦協会を作った理由。
穂積の発言。「未来永劫、日韓の因縁は断ち切ることは出来ない。」「今や日本は新しい立場から、国の再建に向かって出発し、韓国もまた独立国として再び誕生した」のだから新しい友邦関係をどう築くかが重要である。しかるに、両国揃って「自国の再建に手一杯で、両国関係にまで思いを及ぼす余裕もなかった。」その一方、アメリカは「韓国の状況を直接科学的に調査するのみならず、日本においても終戦まで韓国の実地に当たっていた各方面の科学者を系統的に集めて、各般の調査書を作って本国に送っている」のに、両国ともにその種の調査をまったく忘れている。この思いで、友邦協会を作った。社団法人同和協会は、「朝鮮引揚同胞世話会」と「中央朝鮮協会」の後身である「旧友クラブ」の組織・事業・財産の一切を引き継いだもので、戦後出来た旧朝鮮関係者団体の一本化がはかられた。結成は、1947年7月1日付。
中央日韓協会の前身である同和協会と学習院大学は縁が深かった。学習院長(1946.10-1966.6)安部能成は、戦前京城帝国大学教授であり、朝鮮総督府の財務局長(1937-1945)の水田直昌とも関係があった。
1952年サンフランシスコ講和条約発効にあわせて、同和協会は名称を「社団法人中央日韓協会」と改めた(1952年11月1日認可)。そしてほぼ同時に財団法人友邦協会も創設された(1952年10月4日認可)。理事の一人末松保和は学習院大学教授で、奇しくも同じ1952年に創設された東洋文化研究所の主事であった。(pp.12-13)日韓親善の実をあげるためには、「日本は韓国を研究し、韓国人の民族的心理を理解して交友の基礎を合理的に立て直していく」必要がある。もちろんこれは日本人全員の課題だが、「我々朝鮮に居た者が、自己の過去における知識と経験とそして長い経験に対する自己批判とを基礎として、一般の理解と普及に努めて行く」のがよい。(p.14)
かつての朝鮮関係者に対して「一般に厳しい批判のある事は承知の上で」「朝鮮にいた我々の国家に対する最後の義務として」日韓両国の問題に関わらなければならないと考えた。(p.15)
ひとりで5時15分、27.3度。
小学生は6時半に起きてきました。だいたいこのリズムが身についたようです。妻、おおおきいちび、ちいさいちびは、8時10分現在下に降りてきていません。疲れがでてきたのでしょう。→ちいさいちび、8時10分。その後、おおきいちび、妻という順番で起きてきました。ちいさいちびが起きてくる前に、『スラムダンク』全31巻完結、を読み通しました。ちびどもは一昨日で読み終わっています。老眼の私には、ちいさな文字はぎりぎりでした。ルビはもう読めません。(もちろん、バスケット用語以外ルビは必要ないのですが、読めないというのはすこしいやなものです。)[あっちゃんにあいにいく]
あっちゃんにあいにいったのは、私ではなく、おおきいちびです。前のまゆゆのときと似たような感じです。シングルの発売にあわせて、シングルを買った人が応募し、当たった人がコンサートに行けるという仕組みです。
(前田敦子 2nd Single 「君は僕だ」発売記念スペシャルライブ にあたったわけです。)
場所は、中野サンプラザ。ネットで調べると、2222席あります。午後の部と、夜の部の2回公演があります。おおきいちびが当たったのは、夜の部。4時半から座席券の交換、5時半会場、6時半開園とあります。
そんなにはやく行かなくても大丈夫とは言ったのですが、グッズの販売があるので早く行きたいというので3時過ぎに家をでました。我が家から中野までは近い。
たしかに、サンプラザの前の広場にあきらかに同じ目的の人たちがもうある程度集まっています。本人にどうするか聞くと、グッズ販売に並ぶと言います。2階のホール前が販売所になっていて、そこに入る数を制限しています。私は知らない世界ですが、そういうやり方もあるでしょう。
おおきいちびは、タオルと(たぶん)ストライプの2点を買いました。さて、まだまだ時間があります。おおきいちびに聞くと待つと言います。そうこうするうちに4時。何か約束事に近いものがあるのでしょうか。チケット交換所の前に自然と列が形成されました。仕方がないのでおおきいちびと一緒にならびました。
おおきいちびはかばんに入れてきた『スラムダンク』を読んでいます。係の人がハンドマイクで叫んでいることは聞かずにマンガを立ち読みしています。こういうところがおおきいちびです。
予定通り、4時半になって、チケットの交換。動くとすぐです。チケット(入場券)と身分証明証を見せて、座席券をもらう仕組みです。おおきいちびは前列2列目のものをあてました。
2階席だった場合に備えて、オペラグラスを買いたいと言います。こういう場所では2という数字は、前から2番目で決まっていると言いましたが、やはり不安だと言います。時間もありますし、中野のモールで探してみることにしました。
100円ショップがあればすぐに見つかると思ったのですが、そもそも100円ショップが見つかりません。カメラ屋には安いもので千円強のものがおいてあるのは確認しました。
モールの端っこまで歩いてなかったので外にでました。外にでるとすぐの場所に、ダイソーがありました。1階から3階まで捜しましたが、なし。終わりの時刻を考えてあらかじめ夕食をとります。中野通りでお店を捜しました。おおきいちびが定食屋がよいというので、定食屋に入りました。私は八宝菜定食、おおきいちびはカツ煮定食(らしきもの)。食べ終わってもまだ時間があります。とおりの向かい側にドンキホーテがあります。1階から6階まで全部見て回りました。私はもう一本ほしいと思っていた歯ブラシを購入。5時35分でした。ちょうどよいので、そこからサンプラザに戻りました。ちょうどよいくらいの列です。この先はひとりで行きなさいということで、並ばせました。列はすぐにはけていきます。5時50分には全部はけました。さて、私はコンサートが終わるまで待機です。喫茶店を探すことにしました。昔ながらの喫茶店がありました。昨日大学でとったコピーと『穂積真六郎先生遺筆:我わが生涯を朝鮮に』をカバンに入れています。
端っこに席をとり、まずコピーを読むことにしました。穂積真六郎と友邦協会の資料には感動があります。コンサートはたぶん1時間だろうとふんでいました。7時15分に席をたって、サンプラザ前の広場に行きました。私と同じ目的の人もすこしだけいました。会場のスタッフは明らかに7時半前から終了の準備をしています。しかし、なかなか人は出てきません。7時45分最初に人がでてきました。前から2列目ということはでてくるのはあとということです。携帯に電話がかかってきましたが、よく聞き取れません。ともかく建物の外にでなさいと伝えました。2回目の電話で場所を把握しました。よかったということです。2回アンコールがあったということです。いっぱい歌ってくれたそうです。即行で帰途へ。
駅前のコンビニでおやつを買ってから帰宅。ちいさいちびがお風呂に入っている最中でした。
7時15分、27.6度。全員起きていました。薄曇りですが、晴れ。家をでる前に次の2点が届きました。1点は、本。
山本昭宏
『核エネルギー言説の戦後史1945- 1960:「被爆の記憶」と「原子力の夢」 』
人文書院、2012もう1点は『化学史研究』2012年第3号。目次は次です。
[総説]北原文雄「グレアムのコロイドとその系譜」第39巻(2012): 119-132
[総説]川島慶子「科学アカデミー院長:エカテリーナ・ダーシコワ(啓蒙期ヨーロッパにおける科学アカデミーと女性、その1)」第39巻(2012): 133-149
[総説]川島慶子「科学アカデミー会員:ラウラ・バッシとイタリアの才女たち(啓蒙期ヨーロッパにおける科学アカデミーと女性、その2)」第39巻(2012): 150-164
[広場]渡邉慶昭「19世紀中葉の実験器具」第39巻(2012): 165-169
[紹介]新井和孝「西條敏美『測り方の科学史 I : 地球から宇宙へ 」第39巻(2012): 170
[紹介]猪野修治「西尾成子『科学ジャーナリズムの先駆者 評伝 石原純』」第39巻(2012): 170-173
[紹介]渡邉慶昭「Susanne Poth, Carl Remigius Fresenius (1818-1897) 」第39巻(2012): 173-174
[紹介]渡邉慶昭「D.S. Nickell( ed.), Guidebook for the Scientific Traveler 」第39巻(2012): 174-175
[資料]「博士論文概要(菊地原洋平)」 第39巻(2012): 176-177
大学ではまず教務課により判子を押しました。2箇所。
それから図書館に行き、ILL で届いている次の2冊を受け取りました。
石川一郎『化學肥料』日本評論社, 1934
経済団体連合会編『石川一郎追想録 』 経済団体連合会, 1971それから地下1階で作業。『東洋文化研究』のバックナンバーを見ていました。疲れない程度に必要な箇所をコピー。
印刷センターによってから研究室へ。11時まで作業をして、帰途へ。武蔵境駅前でラーメンを食べてから帰りました。石川一郎『化學肥料』日本評論社, 1934ですが、前篇が「化学肥料工業の概説」として、第1章「緒論」;第2章「化学肥料工業の起源と其発達」;第3章「燐酸質肥料工業」:第4章「加里肥料工業」;第5章「窒素肥料工業」;第6章「調合肥料」;第7章「新合成肥料」からなっています。後篇は「本邦に於ける化学肥料工業の概況」として、第1章「本邦に於ける化学肥料工業の歴史」;第2章「本邦肥料界における化学肥料の位置」;第3章「本邦に於ける過燐酸石灰工業」;第4章「本邦に於ける石灰窒素工業」;第5章「本邦に於ける硫安工業」;第6章「本邦に於ける加里肥料工業」;第7章「本邦に於ける調合肥料及化成肥料工業」;第8章「肥料に関する諸施設に就て」からなっています。
化学肥料工業の概説・概観としてよくできた構成となっています。参考文献を見ると、農林省農務局・台湾総督府・朝鮮総督府『肥料要覧』を筆頭に21点の邦語文献、16点の欧語文献があげられています。そのうち9点が英語、7点がドイツ語です。これは、石川一郎が『化學肥料』を執筆した当時の肥料工業の世界的分布をあらわしていると見てよいでしょうか。
妻、小学1年生に続いて、6時30分、26.5度。おおきいちびもすぐに起きてきました。朝練はないが、バスケ部が落ち葉清掃の係になっていて、30分ほどはやく学校に行くそうです。日中の気温は、昨日より1度上がって33度ということです。朝夕は涼しくなりましたが、最高気温で見る限り、まだまだ真夏です。
[未公開資料 朝鮮総督府関係者 録音記録]
貴重な記録だと思われるので、『東洋文化研究』に連載されている「未公開資料 朝鮮総督府関係者 録音記録」の情報を整理しておきます。( )のなかはインタビューの日付です。第2号(2000)十五年戦争下の朝鮮統治
【解説】穂積眞六郎先生と「録音記録」 :宮田節子
1.南総督時代の行政 ― 大野緑一郎政務総監に聞く (1959.11. 4) ]
2.小磯総督時代の概観 ― 田中武雄政務総監に聞く (1959. 9. 9)
3.参政権施行の経緯をかたる ― 田中武雄小磯内閣書記官長ほか (1958. 8.26)
4.阿部総督時代の概観 ― 遠藤柳作政務総監に聞く (1959. 9.16)
第3号(2001)朝鮮統治における「在満朝鮮人」問題
【解説】朝鮮統治における「在満朝鮮人」問題:田中隆一
5.日本統治下の在満朝鮮人問題 (1959.2. 18)[ 田中武雄 , 神 弌春 , 穂積真六郎 , 原田大六 ]
6.安重根・間島問題 (1959. 4.22) [相場清]
7.満洲における朝鮮人問題-特に鮮満拓殖株式会社について (1962.10.17)[渡辺 豊日子]
第4号(2002)朝鮮総督府・組織と人
【解説】朝鮮総督府・組織と人:岡本真希子
8.朝鮮総督府の法制について (1962.11.21)[萩原 彦三]
9.朝鮮の地方自治について (1959. 3.25)[富永 文一 , 萩原 彦三 ]
10.歴代の朝鮮総督と政務総監―側近者の秘話第一講 (1970. 5.26)[松園 俊太郎 ]
11.朴重陽について (1969.12.20)[君島 一郎 ]
第5号(2003)民族運動と「治安」対策
【解説】民族運動と「治安」対策:河かおる
12.三一事件後の朝鮮に赴任して(秘話体験談) (1961.7.12~8.2)[千葉 了]
13.日本統治下の朝鮮民族運動 (1958.12.17)[田中 武雄 , 丹下 郁太郎 , 筒井 竹雄]
14.朝鮮における警務行政の回顧 (1967.1.19)[三橋 孝一郎 , 森 浩, 古川 兼秀 , 八木 信雄 , 筒井 竹雄 ]
第6号(2004)朝鮮軍・解放前後の朝鮮
【解説】朝鮮軍・解放前後の朝鮮:宮本正明
15.朝鮮軍参謀長時代を語る (1961.12.13)
16.朝鮮軍について (1966.10.13)
17.朝鮮歩兵隊教官として (1967.2.16)
18.朝鮮独立運動の真相 (1960.3.30)
第7号(2005)朝鮮総督府時代の農政
【解説】朝鮮総督府時代の農政:辻 弘範
19.朝鮮総督府時代の農政について (1963.4. 3)
第8号(2006)朝鮮土地調査事業をめぐって
【解説】現在をも規定する朝鮮土地調査事業:宮嶋博史
20.土地調査事業の実態 (1960.2.24)
21.朝鮮の土地調査事業について (1960.3.2)
第9号(2007)駅屯土払下げと東洋拓殖会社
【解説】駅屯土払下げの展開と東洋拓殖会社;黒瀬郁二
22.朝鮮における駅屯土の払下げについて (1967.6.20)
23.東拓土地問題-特に宮三面事件を中心として (1968.8.12)
第10号(2008)植民地朝鮮農村に生きた日本人
【解説】植民地朝鮮農村に生きた日本人:松本武祝
24.朝鮮農村行政の実情について(1968.6.5)
25.全羅北道における営農体験談(1968.7.5)
第11号(2009)朝鮮の山林政策
【解説】朝鮮総督府の林野所有権整理の林政:李宇衍
26.朝鮮の林業について―朝鮮林業の話(1958.11.12)
27.朝鮮の山林について(1960.7.6)
28.歴代総督の山林政策とその実際について(1963.11.13)
29.朝鮮総督林野調査委員会の事業(1968.11.5)
第12号(2010)朝鮮の重工業
【解説】朝鮮の工業化―朝鮮総督府殖産局と朝鮮窒素肥料:広瀬 貞三
30 穂積真六郎 茂山製鉄事業創始当時の回顧録(1965.9.16)
31 穂積真六郎 朝鮮総督府殖産局の仕事(1958.9.24)
32 穂積真六郎 朝鮮産業発達史談(1958.9.24)
33 白石宗城 朝鮮における重化学工業の建設(1965.8.4)
第13号(2011)植民地朝鮮における専売制 度――塩業を中心に
【解説】植民地朝鮮の専売 制度と塩業:田中正敬
34.朝鮮総督府の専売制度―― 特に人参政策をについて(1963.5.23)
35.朝鮮における天日塩田の築 造について(1967.4.20)
36.朝鮮における塩田の築造と 日本における塩の需給方策(1970.11.24)
第14号(2012)京城帝国大学時代の回顧
【解説】京城帝国大学時代の回顧:通堂あゆみ
連続シンポジウムについて…宮田節子
37.京城大学医学部時代の回顧(1967.10.14)
連続シンポジウム=日本における朝鮮研究の蓄積をいかに継承するか第四回:「京城帝大」 における社会経済史研究
インタビューされた方の名前は追って調べてから入力します。
→12.9.15 たとえば、「5.日本統治下の在満朝鮮人問題 (1959.2. 18)」は、宮田節子司会で田中武雄 , 神尾弌春 , 穂積 真六郎 , 原田 大六 の4氏が話しています。つまり、座談会形式のインタビューです。(個人インタビューではありません。)サイニーは、「宮田 節子 [司会] , 田中 武雄 [講師] , 神尾 弌春 [講師] , 穂積 真六郎 [講師] , 原田 大六 [講師]」と表記していますが、これは煩わしい。ヒアリングを受けた講師名(聞き取りを受けた証言者名)だけを列挙します。
妻に続いて、6時30分、25.8度。涼しく感じます。夜中にいくらか雨が降ったようです。地面がすこし濡れていました。会議の日。午前中からあります。予定では3時半終了です。
穂積真六郎『穂積真六郎先生遺筆:我わが生涯を朝鮮に』財団法人日本友邦協会、1974
会議の合間に読んでいました。穂積真六郎のことは調べはじめたばかりですが、これだけ慕われているのは、遺徳でしょう。帰宅すると次の本が届いていました。
Susan Dackerman,
Prints and the Pursuit of Knowledge in Early Modern Europe,
New Haven and London, 2011次のものも届いていました。
『スラムダンク』全31巻完結
長女がバスケ部のコーチに読めと言われたというので、私も読んでみようと思い、購入しました。これを打っていると次の本が届きました。
吉村昭『暁の旅人』講談社文庫、2008
日本で最初の化学の講義を行ったポンペから医学や化学を学んだ松本良順についての伝記小説です。
7時10分、27.9度。妻と小学1年生は起きていました。ひとまず晴れ。なかなか気温が下がってくれません。昼食後、DVD プレーヤー DV220V (パイオニア製)が届きました。アマゾンで¥ 4,482です。長女が友達から借りてきた DVD を我が家のテレビでもパソコンでも見ることができません。たぶん、地デジを録画したものが見られないのだと思います。
ネットで検索すると、 プレーヤーだけであれば3千円前後からあることがわかりました。我が家の古いテレビ、レグザとの相性を考えて、パイオニア製のものを選択しました。
何も読まずに接続し、長女の借りてきたDVDを見てみました。問題なく見ることが出来ます。
すぐにDVD を入れ替えて、去年の12月1日 NHK BS3 で放映された「キュリー夫人と放射能の時代」を見ました。大学で録画してもらったのですが、我が家ではずっと見ることができなかったものです。9ヶ月たってやっと見ることができたことになります。
科学史家としては、いろいろ注文もありますが、学生たちに見せるにはちょうどよいかなと思いました。→正確な記憶ではありませんが、「キュリー夫人と放射能の時代」で現在ではラジウムを使った癌治療は行われていないということが言われていたように思われます。
どんなものを使っても、はじまりは比較的簡単にわかりますが、いつ終わったのかを調べるのはなかなか難しい。ネットで検索をかけて調べていますが、いつ終わったというはっきりとした記録をまだ見出すことはできていません。
天然元素であるラジウムを使わなくても、放射線を出す物理機器=医療機器があれば、ラジウムは不要になったということでしょうが、日本ではいつごろ使われなくなったとか、アメリカでは・・・、ヨーロッパでは・・・という情報がまだまったくつかめていません。もしご存じの方がいらしたら、お教え下さい。ちなみに、ラジウム鉱石は簡単に購入できます。数千円から売っています。アマゾンでも購入できます。このぐらいの値段であったら、買ってみようかなと思います。
ちいさいちびは昨日の夜から宿題をはじめ、最後(作ったものを写真にとって印刷し用紙に貼りつける)を今朝に残しました。さていざ印刷しようと思うと、ダイニングテーブルの横にあるプリンターはトナー切れを示します。しかたがないので最近あまり調子のよくない私の部屋のプリンターで印刷してみました。色がまったく違う。最初使ったデジカメは電池切れ。別のデジカメを出してきて、再度撮影し、私の部屋のプリンターでもういちどプリントを試みました。色は素人にはほんとうに難しいのですが、印刷する紙質を何とおりか試してみることにしました。うまくマッチするのがあり、全然違うというのは避けられました。
ちいさいちびは、食紅を木工用ボンドに混ぜて、ペットボトルの下半分に昨夜塗っています。乾くと、ペットボトルはほぼピンク色です。このピンク色を宿題では示したかったようです。ともかく、普段でかけている時刻に、このピンク色のでたプリントがプリンターから吐き出されました。ぎりぎりで間に合いました。
(昨夜、午後8時ぐらいまでに別のものは完成しています。どうもそれが気に入らなかったようです。午後8時過ぎてから、新しいものにトライしました。小学1年生のときはひとつの文字を書くのに10分使った子です。こういうところにこだわりがあるので、こだわったものには上達します。しかし、親は「締切間に合わない」のビクビクにつきあわざるをえなくなります。)[電気料金3分の1の背景]
JB Pressに「韓国電力が天文学的赤字、政府機関を提訴へ」という非常に興味深い記事が掲載されていました。このサイトでときどき報告しているように、私が韓国のことを取り上げるきっかけは韓国の電力事情に関心をもったせいです。
韓国の電力事情で、たぶん今となっては多くの方が知っている大きな特徴に、電力が安いということがあります。日本と比べて(ウォン安のせいもありますが)3分の1です。もちろん、諸外国と電力料金を比較すればわかるように日本の電力料金が不合理に高いということもあるのですが、韓国に限って言えば、韓国政府が電力会社(韓国電力、政府が51%超の株式を保有するというので、国有に近い公企業です)に赤字を背負わせて、料金を安く設定しているということです。2012年の上半期では、韓国電力の電力購入費用が25兆ウォン(子会社だが別会社の「発電会社」から韓国電力は電力を購入する仕組み)、電力の販売収入が23兆ウォンということです。
これはこれで、かなり不思議な制度を韓国は運用しているということになります。
韓国政府には韓国政府に理由があってのことだとは思いますが、市場経済の観点からは明らかに不合理な制度です。3.11のあと、日本の“原子力村”が取りざたされました。調べてみると、“原子力村”は世界にあります。皮肉で言えば、“原子力村”はグローバルスタンダードです。しかし、何度か注記したように、問題の背景・実態を知るには、世界の“電力村”を見る必要があります。
妻とほぼ同時に5時50分、室温は27.4度。午前中に会議。10時半から12時20分頃まで学部協議会。
別件で院長と打ち合わせ後、生協で昼食。その後、Y氏の部屋で打ち合わせを継続。[反核運動]
前と同じように言葉の用例だけまず調べてみました。数字はグーグルで検索をかけた場合のヒット数を示します。“反核運動” 169,000
“原水禁運動” 290,000
“反原発運動” 2,170,000
“核兵器廃絶運動” 49,000いくらか予想していたことですが、日本の“反核運動”の歴史には、魑魅魍魎が徘徊していました。言及したくなくなるのもよくわかります。
ひとりで4時20分、室温は27.5度。おおきいちびはバスケの試合。7時過ぎに家をでると言っていました。ちいさいちびは渋谷のロフトに行きたがっていましたが、家にいつくと外出したがらないタイプなので、実際に行くかどうかは不明です。
→結局ちいさいちびはおともだちと遊ぶことになりました。そして、小学1年生は、昨日に続き、東急で仮面ライダーガンバライドをやりたいというので、自転車の後ろに乗せて一番暑い時間帯にでかけました。
今日はおかきを買って帰宅。ちょうどおおきいちびが部活(練習試合)から帰ってきたばかりでした。[『<反核>異論』]
金曜日の話の続きで、昔、吉本隆明に『<反核>異論』(深夜叢書社、19820という本があったことを思い出しました。所持本リストにはありませんが、読んだ記憶があります。(捜せば研究室から発掘できるかもしれません。)私にとってのポイントは、「反核」という言葉がはっきりと使われていることです。
ことの経緯は次です。
1982年1月中野孝次を代表に作家36人の連名で「文学者の反核声明」が新聞に広告された。大江健三郎、井上ひさし、小田実、小田切秀雄らが名を連ねている。
その内容が『反核:私たちは読み訴える、核戦争の危機を訴える文学者の声明』(岩波ブックレット、No.1) として出版される。吉本隆明は、この「反核声明」に異論を唱えたわけです。
(おおきくまとめれば、吉本隆明の批判は2点です。ひとつは、アメリカの核を悪とし、ソ連の核を反核の対象としないことは間違っている。もうひとつは、放射線は宇宙空間の自然であって善も悪もないとする思想です。いまどき前者の考え方を主張する人はいないと思います。私も当時からばかみたいと思っていました。しかし、後者に関しては吉本隆明の思想に人間と自然(宇宙)に関する過誤があると思っています。地球はその磁気の働きで宇宙から来る放射線をバリアすることができている。そのおかげで現世人類(多くの現世生物)は地球上で繁殖することができた。ある水準以上の放射線を防護することは、人類の生存の条件であって、20世紀にはいって人類が新しく手にした原子核技術は、人類の生存条件に照らし合わせたとき、それまでの技術とは違ったレベルの管理・防護が必要とされる、こういってよいと思います。したがった私の評価は、半々です。)「反核声明」のきっかけは、レーガン政権の西ヨーロッパへの核兵器配備に対する西ドイツの作家同盟の反核アピールだったそうです。日本側での呼応といったところでしょうか。つまり、ここでの「反核」は核兵器に対する反対です。原子力発電のことはこの「反核」にははいっていません。
この論争に関してネットにいろんな見解があります。そのなかで、さすがのセイゴオさん(松岡正剛氏の千夜千冊)が面白い記事を書いています。1982年前後に集中して出版された核・原発問題の書籍を取り上げています。私も愛読していた高木仁三郎氏、槌田敦氏、室田武氏、広瀬隆氏等です。私の知らなかった本も数多く取り上げられています。
松岡正剛氏がとくに取り上げて論評しているのは、次です。
槌田敦『資源物理学入門』( NHKブックス、1982)
ポール・ヴィリリオ『アクシデント 事故と文明』(小林正巳訳、 青土社、2006)
内田樹・中沢新一・平川克美『大津波と原発』(朝日新聞出版、2011 )
宮台真司・飯田哲也『原発社会からの離脱:自然エネルギーと共同体自治に向けて』(講談社現代新書、2011 )
中沢新一『日本の大転換』(集英社新書、2011 )
松岡正剛『連塾‥方法日本�:フラジャイルな闘い』(春秋社、2011 )
ひとりおくれて8時5分、室温は27.1度。曇り。中学生は、学校公開日。つまり、ふつうに学校があります。妻が見に行きます。小学1年生はサッカーの練習がありますが、腿を蚊に刺されて、半分いく気がなくなっているようです。→本人の弁では、土曜日は行かなくてもよいんだということで結局行きませんでした。9時過ぎに家をでた妻は中学校の学校公開から1時ぐらいに帰ってきました。みるものがあまりない、のんびりとした中学だと結論づけていました。
お昼は息子を連れてマックに行きました。ちいさいちびの分を含めて、テイクアウト。
おやつの時間に、カメンライダーガンバライドのカードゲームをしたい(カードをお友達に10枚程度もらいました)というので、息子の希望で自転車に乗って吉祥寺の東急へ。吉祥寺の神社ではお祭りをしていました。ゲームは本人に100%任せています。相当に真剣な表情でやっています。はじめてでしたが、おもしろいと言っています。漢字は習いはじめたばかりですが、ゲームそのものに慣れているのではじめてのものでもすぐにルールがわかるようです。地下の食品売場でお餅とパンを買ってから帰途へ。
ひとりおくれて7時35分、室温は25.4度。昨日の雨で気温が下がりました。爽やかな秋の空気が窓から入ってきます。妻は今日も午後保護者会。今日は小学5年生。学級(委員)をやっていないので楽だということです。
原子力の導入の話をするとすれば、1954年から話し始めるつもりです。すなわち、3月1日アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行い、近くで(しかし入るなといわれた外で)漁をしていたマグロ漁船第五福竜丸が死の灰によって被爆し、日本に帰ってきてから乗員のひとりがその被曝により死亡します。それをうけて、原水爆禁止署名運動が盛り上がり3千万人が署名します。その同じ年、すなわち1954年3月3日、中曽根康弘を中心とする保守3党が原子力予算提出し、4月に成立します。正力松太郎を中心とする讀賣新聞は、原子力キャンペーンを大々的に実施し、成功します。
今からすれば、とても不思議に感じます。私の少年・青年時代、日本人には反核感情、原子力アレルギーがあると説明されていました。一体それは何だったのでしょうか? 正確に腑分けしきちんと考え直す必要があると感じられます。さて、第5福竜丸の被曝によって盛り上がった運動は、「原水爆禁止運動」です。この運動は、翌年8月広島の「原水爆禁止世界大会」に繋がります。
この運動の母体として、「原水爆禁止日本協議会」が組織されます。
しかし、この運動から、1959年の安保改訂をめぐる闘争をきっかけに、まず自民党等の保守層が脱落します。そして、1961年のソ連の核実験再開をきっかけに、大論争が生じ、1963年大分裂に繋がります。
保守系は、核禁会議=核兵器禁止平和建設国民会議、共産党系は、原水協=原水爆禁止日本評議会、社会党=総評系は、原水禁=原水爆禁止国民会議と3つに別れます。原水協と原水禁は、1977年の大会開催にあたり再統一し、1984年まで続くが、翌年再び決定的に分裂します。
私自身は、少年・青年時代、この分裂に嫌気がさした記憶があります。普通の多くの日本人もそうだったのではないかと思われます。この問題を扱っている藤原修氏によれば、「原水禁運動の分裂は、単に党派別に組織が分かれるというだけではなく、各組織間に非常に激しい対立関係が存在しており、とくに原水協と原水禁は、もはやとうてい「平和運動」の名に値しないような、敵意にみちた関係が久しく継続し、そのことが平和運動そのものを大きく傷つけてきた。」まったくその通りだと思われます。ということで、日本の反核運動というのはいったい何に反対していたのか正確に分析する必要があると思われます。
まず、言葉の整理から。Nuclear は、1)a(原子)核の、1)b 原子力の、1)c 核兵器の、という意味の形容詞です。(もちろん、細胞核のという意味もありますが、ここでは扱いません。名詞もあります。)
Atomic は、基本が原子ですから、もともとは核の意味はありませんが、今の英和辞典では、原子力の、原子爆弾の、という意味が最初に掲げられています。つまり、原子核の、という意味が最初に来ているわけです。
この点に関し日本語の世界では次のようにいわれることがあります。「そもそも原子力という言葉が不正確であって、原子核エネルギー (Nuclear Energy) というのが正しい表現である。原子核エネルギー (Nuclear Energy) の利用に、軍事利用と民事利用 (military use and civil use ) の両面がある。」
しかし、英語の世界でも事態はそれほど変わらないように思われます。有名なアイゼンハワーの「平和のための原子力」は、"Atoms for Peace" です。Atom が原子核エネルギーの意味で使われています。
ただし、使用例の差はあります。"Atomic Energy"と"Nuclear Energy"をグーグルで検索してみると、15,200,00と14,300,000 とほぼ同じです。しかし、"Atomic Weapons"と"Nuclear Weapons"では、1,500,000と24,900,000ですから、後ろに兵器が来る場合には圧倒的にNuclear の用例が多い。「核兵器」は熟語としてほぼ熟していると言えます。(原子兵器と比較して差が大きい。単純にグーグルの用例数では16倍の差。これは本質的な差と言えます。)つまり、“核”は“核兵器”を連想させる。“原子”は“原子爆弾”とはいいますが、兵器を連想させることは比較的弱い。こう言えると思います。
ただし、「原子力発電」に関しては、英語と日本語で差があるように思われます。英語では "Nuclear Power Generation" と"Nuclear"という単語を使っています。日本語では、核エネルギー発電というふうな表現が使われることはほとんどなく(私は見たことがないように思います)、ほぼ100%原子力です。核エネルギーの利用で、日本語ではより軍事利用(核という言葉を使うことが多い)と民生利用(原子力という言葉をほとんどの場合使う)の対比・対照が強い、ということは言えるでしょう。
さらに、日本語では、「原爆」「原発」と略して使われることが多い。ここは分析の仕方がわからないのでとりあえず直感的に書いておきますが、「原爆」や「原発」とだけ使うと、表象の次元だけ、つまり背後の科学的・技術的なものが剥ぎ取られるような気がします。純粋に表象のポリティクスの問題になるような気がします。分析には好ましくないように感じられます。
ということで、"原子核エネルギー (Nuclear Energy) "の軍事利用と民生利用の歴史を研究するのに、言説や表象に注目することは必要なことですが、言説分析だけでは人類社会にとっての原子核エネルギーと放射線被曝の問題の重要な部分を見逃すことになるのではと思われます。
ひとりで4時20分、室温は27.9度。なかなか気温がすっきりと下がってくれません。妻は保護者会で午後ほとんどいません。帰ってくる子どもたちの相手は私の仕事となります。
午後6時から9時過ぎまで、御茶ノ水の東京医科歯科で講義。MMA (医療政策学)コースのために1年に1度出講しています。
このMMA の授業では、ずっと脳死・臓器移植の話をしていました。本当の専門家、脳神経外科のお医者さんが出席されていたこともありました。一昨年、去年あたりからMMA コースの受講者に変化がでてきています。
脳死・臓器移植の話は、昨日準備をしています。しかし、今年は、テーマを変えて、(第1講)放射線被曝の歴史と(第2講)核開発の歴史を話そうと考えました。3時ぐらいまでその準備を完了しました。出席者はいずれにせよ医療関係者なので、医療被曝にすこし多めの時間を割いて話すことにしました。
5時前に家をでました。歩いている最中に雨が降ってきました。止んだと思って、大きな傘をもたずにでています。半分壊れた傘をさして御茶の水まで。5時30分に御茶の水駅に着きました。はやすぎるかなと思ったのですが、線路に平行した商店街でパン屋さんを見つけて、パン2個と缶コーヒーを買い、雨のなか大学に向かうと、ちょうどよいぐらいの時間になりました。教室に着いて10分前。 T.A. の学生がひとりと出席者がひとりすでに教室にいました。みんなすこし遅くなるのでゆっくりめでよいですよ、と声をかけられました。初日の講師の方からは出席者は10名だったと聞いています。5名の方が集まった時点で開始しました。東京外語の2学期は10月スタートです。もうすこし時間があります。授業についての実行可能なアイディアは授業のなかから生まれることが多い。ひとつには、日本における原子力発電の導入についても90分の授業を作っておく必要があるなと痛感しました。もうひとつには、大学自体が秋から新しくはじめる基礎演習について、やはり半分までは私がそうした方がよいというやり方を行った方がよいという確信が得られました。
ということで、その「基礎演習」について準備を始めることとしました。火曜日4限という記憶はあったのですが、その他のことがわかりません。かなり苦労してコンピュータの中や部屋のなかを探し回り、時間割に必要な情報が掲載されていることを思い出しました。
私の担当は、火曜日4限、543教室です。(スペイン語で、他の担当者は大川先生と久米先生)。
2012年2学期の火曜日は、10月2日、9日、16日、23日、30日、11月6日、13日、[11/20 外語祭]、27日、12月4日、11日、18日、1月15日、22日、29日、2月5日です。
ひとりで5時55分、室温は26.7度。子どもたちがでかけたあと、私も大学に行くことにしました。書類の提出が1件、図書館での簡単な調べものが1件あります。でかけに銀行によって、『東洋文化研究』の支払いをすませました。
よく晴れていて暑いのは暑いのですが、真夏の暑さではありません。大学のメールボックスにいまはなき中央公論社の『自然』1981年11月増刊号(追悼特集:湯川秀樹博士 人と学問)が入っていました。図書館で廃棄処分になるということでもらいうけたものです。帰りの電車でパラパラ読んでいましたが、よくできた特集です。
この特集は3部からなっています。
1部は、「追悼 湯川秀樹博士の世界」
2部は、「再録 『自然』に寄せられた戦後30年の行跡」
3部は、たぶん資料編。
(数字は私の付加。雑誌に1部、2部、3部という表現はありません。)「追悼 湯川秀樹博士の世界」は次からなります。
「中間子論形成の時代 」 小林 稔
「大阪のころ、京都のころ」 谷川 安孝
「一筋の道 」 井上 健
「新分野の開拓に示された情熱 」 早川 幸男
「道なき所に道をつける精神」 中村 誠太郎
「知的ジャイアントを偲ぶ 」 高林 武彦
「"みごとな人生やな" 」 渡辺 慧
「学問と平和をつらぬくもの 」 豊田 利幸
「アインシュタインの霊を負うが如く」 小川 岩雄
「"偉人湯川"に惹かれて」 佐藤 文隆
「先生における科学史 」 河辺 六男
「湯川史料からみた中間子論の周辺 」 小沼 通二「再録 『自然』に寄せられた戦後30年の行跡」は次の湯川の文章からなります。
思い出すこと
学術の交流
観測の理論 (I)
観測の理論 (II)
観測の理論 (III)
旅のノ-トから
中間子論の模型と方法
若い人々へ
仁科芳雄先生の思い出
素粒子論の現状と将来
科学の進歩と国際協力
素粒子の統一的理論への試み
素粒子論はいずこへ
研究者としての人間
理論物理学の伝統について
将来計画の意義
二つの道を一つに
物理学の老化と若返り
科学者の創造性
素粒子論の現状と将来
物理学者群像
日本の科学の100年
ベータ崩壊の古代史
湯川・朝永宣言
座談会・基礎物理学研究所をめぐって(I)
座談会・基礎物理学研究所をめぐって(II)第3部は、次。
「湯川理論発展の背景」坂田昌一
「湯川理論発展の経路(I)」坂田昌一
「湯川理論発展の経路(II)」坂田昌一
「中間子論の30年」坂田昌一
「中間子理論の創世記」谷川安孝夕刻、日本の古本屋より次の本が届きました。
阪口昭編著
『石川一郎 - 日本を開いた財界人の生涯』
鹿島研究所出版会、1972
石川一郎は、経団連初代会長です。化学工業の立て役者のひとりでもあります。
1885年東京に生まれる。1909年東京帝国大学工科大学応用化学科卒、そこの助教授となる。1915年東大を辞し、父の経営する関東酸曹に入る。1941年産業統制によって発足した日産化学工業社長に就任、1942年化学工業統制会会長となる。戦前の化学工業界のリーダーとなる。
終戦後は、経済団体連合会(経団連)が結成されるとその初代会長に就任。昭和31年経団連会長を辞し、原子力委員会の委員となり、そちらに専念。昭和38年、日本原子力船開発事業団が設置されると、理事長に推された。昭和45年1月20日死去。
戦前に出版された現代日本工業全集の第13巻として『化學肥料』(日本評論社, 1934)があります。
日本の化学工業史を語るとき欠かせない人物であるというだけではなく、原子力史においても欠かせない役割を果たしています。もちろん日本の経済界においても。
ちなみに、これは田中さんから教えてもらったことですが、東京大学経済学部に石川一郎文書があります。目録等はネットに公開されています。貴重な資料です。
6時55分、室温は26度。妻は起きて、朝食の準備をしていました。夜中かなり強い雨が降りました。夕刻、日本の古本屋より次の雑誌が届きました。
『東洋文化研究』第12号(2010)(学習院大学東洋文化研究所)
目次は次です。論 説
北魏後期における皇室の婚姻政策─北魏国家像の解明にむけて 佐藤 賢
『胡志明』から『アジヤの孤児』へ―その改編をめぐって─ 豊田 周子
韓国における高位公務員団制度の導入の政治過程 村松 岐夫・権 寧周
書評
劉小萌『清代北京旗人社会』 上田裕之
特別寄稿
中央民族大学図書館所蔵の満漢合璧の字・辞書について 趙 令志 (訳:倉嶋真美)
学校環境教育革新のための韓国の実験─15年の経験に対する評価と提言─ 李 在永
特集:東アジアにおける成年後見制度
はじめに 岡 孝
台湾成年監護制度の新しい課題 王 仁越 (訳:銭 偉栄)
委任契約締結後の委任者の意思能力喪失─委任契約の効力に影響を及ぼすか─ 李 昭彦 (訳:銭 偉栄)
韓国における任意後見制度の現状と立法的課題 金 文中 (訳:李 妍淑)
韓国における法定後見の現状と課題 金 亮完
挑戦と対応―中国における成年後見制度について 王 麗萍 (訳:鄭 芙蓉)
日本法における法定後見の若干の問題点─特に、成年後見人の権限を中心に─ 額田 洋一
公証実務から見た任意後見制度の実情と問題点 坂井 靖
未公開資料 朝鮮総督府関係者 録音記録(11)
東洋文化研究所所蔵 友邦文庫
朝鮮の重工業
監修:宮田節子 編集協力:岡本真希子、田中隆一、宮本正明、通堂あゆみ、李正勲
【解説】朝鮮の工業化―朝鮮総督府殖産局と朝鮮窒素肥料・・・広瀬 貞三
茂山製鉄事業創始当時の回顧録(1965.9.16)
朝鮮総督府殖産局の仕事(1958.9.24)
朝鮮産業発達史談(1958.9.24)
朝鮮における重化学工業の建設(1965.8.4)
東洋文化講座「交錯する権力:アジアの争点」講演録
あぶりだされた階層対立―タイ政治混乱の舞台裏― 重冨 真一
オバマ政権下の日韓・日朝関係の現況 李 泳采
研究ノート
香港の上級日本語学習者による日本語複合動詞の習得に関する調査 何 志明
論説
指示代名詞の中国語四川方言における三分法(現場指示)の存在とその類型 安部清哉・晋 萍私が見たいのは、もちろん、ボールド(太字)にした部分です。これはとても貴重な仕事だと思われます。
まず、特集の冒頭記事、広瀬貞三氏による解説記事「朝鮮の工業化―朝鮮総督府殖産局と朝鮮窒素肥料」を読みました。初学者にはとても有用なまとめとなっています。1952年10月財団法人友邦協会を設立した穂積真六郎に関する略伝があります。
日窒のNo.6 であった白石宗城についても略伝があります。
白石宗城は、1889年生まれ。1907年仙台の第2高等学校に入学し、1910年東京帝国大学電気工学科入学、1913年同学科卒、早稲田大学講師となる。1914年、父が取締役を務めている日本窒素に入社。1918年米国視察。1920年一端退社し、岩崎久彌の資金援助でドイツに留学し、ベルリン大学ビンゼン研究所所員として、アンモニア合成などの化学実験を行う。1922年帰国し、日本窒素に復社する。1924~25年野口とともに北朝鮮の赴戦江一体を視察、1926年朝鮮の興南に赴任、1927年朝鮮窒素が設立されると、常務就任。1937年日本窒素の6番目の幹部となる。(野口遵社長、市川誠次副社長、榎並直三専務、金田栄太常務、桐島宗一常務の次。)1945年9月日本に引き揚げる。公職追放が解除されたあと、1951年新日本窒素肥料の社長に就任し、1958年1月まで同職。水俣病は、1956年5月に第1号の患者が公式確認される。戦後の穂積真六郎の朝鮮関連事業にも協力し、中央日韓協会会長、友邦協会理事も務める。1979年死去。享年90歳。今回の作業をはじめる前私自身は知りませんでしたが、穂積真六郎は重要な人物です。朝鮮に32年間滞在しています。1932年から1941年まで約9年間総督府殖産局長を務めています。
穂積真六郎は1889年穂積陳重の4男として生まれる。1913年東京帝国大学法科大学政治科卒、翌年文官高等試験に合格し、総督府に入る。1932年9月宇垣総督の下、殖産局長に就任する。9年間の総督府殖産局長在任は、植民地期の殖産局長10人のなかで最長。殖産局長退職後は、1942年11月朝鮮商工会議所会頭、1942年12月京城電気株式会社社長に就任。1945年の敗戦後、混乱のなかで京城日本人世話人会を組織、1946年3月、一時西大門刑務所に収監される。1946年4月日本に引き揚げ、朝鮮引揚同報世話人会第二代会長に就任。1947年参議院議員に当選、1950年5月までつとめる。1952年6月、社団法人中央日韓協会が設立されると、副会長に就任、1952年10月財団法人友邦協会を設立し、理事長に就任。1958年5月若い学生たちと朝鮮近代史研究会を設置し、元総督府の日本人官僚129名に関する聞き取りを行い、418本の録音テープを残す。1970年5月死去。享年81歳。総督府での在職期間は、28年間。
5時55分、室温は25.1度。妻は起きて、おおきいちびの朝練のための準備をしていました。ゴミをだすために外にでると、空気は秋の空気でした。ただし、日射しとともに気温が上がり、また夏が帰ってきそうな雰囲気もあります。
ひとりで3時50分、室温は27.1度。昨日久しぶりに夕食でアルコールを摂取したせいです。昨日から断続的に降っていた雨がちょうど降り始めていました。この雨が秋の空気を連れてきてくれるとうれしい。おお、8時半現在、まだだれも起きてきません。昨夜遅くまで起きていたのでしょうか。
昨日の編集委員会で持ち帰った宿題をなんとか今日1日でこなしました。
朝一番で次の本が届きました。
峰毅(みね・たけし)
『中国に継承された「満州国」の産業―化学工業を中心にみた継承の実態』
御茶の水書房、2009
奥付の著者紹介には次のようにあります。
「旧満州国奉天市(現瀋陽市)生れ。日本敗戦後胡炉島・博多経由で愛媛県に引揚げ。東京大学経済学部卒。財閥系化学会社に就職。調査企画部・肥料事業部・化 学品事業部・国際部で調査・輸出・国内営業・海外業務に従事。この間社命によりアメリカに留学し、ジョンズホプキンズ大学で経済学修士号取得。 1994‐1999年北京駐在。その後東京大学に戻り経済学博士号取得。2009年東京大学大学院経済学研究科のASNET日本・アジア学講座「日中関係 の多面的な相貌」において「満州の工業化」と「日中歴史問題」を講義。」
目次は次です。
序論
序章 分析の視角
第1部 満州化学工業の開発
第1章 満州化学工業の特徴
第2章 満州に進出した日系化学企業の検証
第2部 人民共和国への継承
第3章 日本敗戦と国共内戦期
第4章 計画経済時代における東北の化学工業
第5章 改革開放と東北の化学工業
結論
終章 本書を結ぶにあたって
洪紹洋氏が『中国研究月報』第64巻第8号(2010) に寄せられた書評によれば、「これまで植民地経済史に関する研究の多くは、戦前の植民地統治を支えた設備・人材が戦後いかに継承されたかを、テーマの中心に据えてきた。例えば松本俊郎は、日中戦争末期から人民共和国成立以後までの鞍山鉄鋼業の再編過程を考察した。本書も同様の問題意識に基づき、満州国期から人民共和国期に至る長期的スパンのもので、中国東北地域の化学工業がいかに展開したかを考察している。」ということです。
松本俊郎氏の仕事としては注で、松本俊郎『「満州国」から新中国へ』(名古屋大学出版会、2000年)をあげています。たぶん、本日、遠からず、333333を通過します。ひとつの区切りにしようと思っていた数字ですが、ただ見過ごすことになりそうです。→普段見ることのないサタデースポーツを見終わって確認したら、ちょうど333333でした。午後10時45分。
屋根を打つ雨の音で目覚めました。5時30分。階下に降りると室温は28.3度でした。この雨でいくぶんか気温が下がってくれるとうれしい。8月31日に記したように、午後1時から編集委員会、午後2時から事典編纂委員会。事典の方は、いつまでかかるかわかりません。たぶん6時を目処にされるでしょうが、6時に終わるとも思えません。
→現実に、事典編纂委員会は6時半頃終了しました。そのまま8人のメンバーが残り、食事会。疲れました。
帰宅すると次の本が届いていました。
堀和生, 中村哲編著
『日本資本主義と朝鮮・台湾―帝国主義下の経済変動』
京都大学出版会、2004
目次は次の通りです。
「序文」堀和生
「序章 日本帝国と植民地関係の歴史的意義―大戦間期の貿易分析を通じて」堀和生
第1部 農業と小経営
「第1章 植民地期台湾における地方行政と土地調査事業―朝鮮との比較を兼ねて」やまだあつし
「第2章 系統組織化と農業開発―20世紀の日本・台湾・韓国」朴ソプ
「第3章 小農経営の比較史的検討―日本・韓国・台湾 」中村哲
「第4章 戦前期東アジアの在来綿業―中国・日本・朝鮮の比較分析」安*直
第2部 工業化とインフラストラクチャー
「第5章 植民地期台湾と朝鮮の工業化」金洛年
「第6章 近代日本糖業の成立と台湾経済の変貌」黄紹*
「第7章 植民地における電源開発と電力業―朝鮮と台湾の比較研究から」北波道子
「第8章 植民地期台湾における鉄道・道路運送業―朝鮮との初期的比較を兼ねて」謝國興
「終章 輸出加工区と輸出志向工業化―台湾と韓国の比較を通じて」石田浩
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