ひとりで5時50分。妻より先に起きたのは、久しぶりです。曇り。今日はこのままほとんど同じ気温で推移するということです。室温は23度。9月の終わり。
ゴミを出すときにはもう雨が降っていました。昨日図書館より、相互貸借で頼んでいた本が届いたという報せがありました。ちょうどよいので部屋の片づけを兼ねて大学に出ることとしました。幼稚園児といっしょに出ました。今日は何を思ったのか8時半から玄関に座りはやく行こうと言います。8時50分に出かけることとしました。
図書館では、借りていた中島さんの『フック』を返却し、ILLで着いた次の本を借りました。
山崎俊雄著・木本忠昭編『日本技術史・産業考古学研究論 : 山崎俊雄技術史研究選集』
水曜社, 1997
東工大の科学史・技術史の制度史がある程度把握できるのではと期待して依頼したものです。他に次の本を借りました。
クニッピング『クニッピングの明治日本回想記』小関 恒雄, 北村 智明訳編、玄同社 1991
訳者まえがきを引用してみましょう。「ドイツ人、エルヴィン・クニッピング (Erwin Rudlf Theobald Knipping, 1844-1922) は船乗り(航海士)だったが、1871(明治4)年来日(寄港)の際、たまたま大学南校(東京大学法文理学部の前身)の御雇教師に迎えられた。爾来、二十年年間も滞在して、近代化途上の明治日本の種々の方面で指導に当たったが、知る人は少ない。」訳編者のお二人がふとしたきっかけで、そのクニッピングが子孫のために書き残した「回想記」( Aufzeichnungen aus meinem Leben für die Kinder und Enkel)に出会い、訳出されたものです。部分的に読んでみましたが、なかなか興味深い内容です。山崎俊雄著・木本忠昭編『日本技術史・産業考古学研究論 : 山崎俊雄技術史研究選集』 (水曜社, 1997) ですが、まずは、山崎俊雄氏の伝記的事項から。奥付には次のようにあります。
1916年石川県に生まれる。
1940年東京工業大学窯業学科卒業。稲村耕雄、会田軍太夫、岡邦雄ら組織の「技術文化研究会」で編集に従事。田中実らと東工大「技術史研究会」の組織に加わる。東京工業大学で日本科学史学会の事務局を担当。
1962年東京工業大学助教授(技術史担当)。
1966年東京工業大学教授。
・・・(以下略)
あとは、木本忠昭「山崎俊雄先生の生涯と技術史研究」から拾います。
1944年、稲村耕雄東京工大助教授のひきで、東工大無機化学助手となる。教室主任は、植村琢教授。(p.416)
(敗戦1年前に助手に採用されたことになります。
助手採用に関しては、本人の次の証言があります。「雑誌や辞典の編集など、転々と放浪生活をつづけるうち、四四年に母校の助手に拾われた。八木秀次学長と植村琢図書館長がある科学総合雑誌の編集にタッチしていたので、私に無機化学の研究のかたわら、雑誌の編集を手伝うよう命ぜられた。しかしすぐに召集になり、その役目を果たせなくなった。」(p.406) )
敗戦の1945年、東工大の稲村耕雄、会田軍太夫、岡邦雄らが「技術文化研究会」を組織し、山崎氏がその機関誌『技術文化』の編集を担当した。→山崎氏本人の証言「和田小六学長のもとで、旧制大学としてはもっともはやい教育刷新がすでに敗戦の翌春から実施されたのである。それはこれまでの学科という枠を取り外し、一般教育的な科目を大学教育のうちに取入れたことである。科学史・技術史の科目が採用されたのはこの大学がもっともはやい。」(p.407)
1948年、田中実、神原周、崎川範之、稲村耕雄らが「技術史研究会」を組織した。自然科学史、装置産業史、機会工業史の3分科会が作られた。
1949年、旧制大学の枠組みのなかで、科学史と技術史の授業が独立して設置され、田中実が科学史を担当し、加茂儀一が技術史を講義した。同年、山崎氏は、無機化学から人文科学系・歴史の助手に移った。田中実・加茂儀一・山崎俊雄という東工大の科学史・技術史研究の核が形成された。
1950年以降、新制大学の枠組みのなかで、「技術史」は学科目から消え、「歴史」科目の中の「文化史第4」となった。
表面上学科目から消えた技術史が再び日の目を見るのは、1963年である。「新制国立大学では初めて「技術史」が正式科目としておかれた。」(p.419)田中実氏に関しては、「真実はたたかいの中から」と題する「田中実氏追悼記」に記されています。「氏は私と同職、同窓時代は1946年〜68年である。」とあります。
田中実氏は、1930年東大理学部化学科を卒業するとすぐに東工大分析化学教室助手に採用された。6年目に、治安維持法違反の罪に問われ「失官」した。
1946年「私と同様、氏は植村琢教授、稲村耕雄助教授の無機化学教室に在籍した。無機クロマトグラフ法を研究するかたわら、化学史の講義をされ」(p.402)た。
1959年、加茂教授の小樽商科大学長就任後、田中実氏は教授に昇任した。
「工大教授となられてから2年目の1961年東京教育大より旧制最後の文学博士号を授与された。テーマは「原子論史への一寄与」であったが、私たちはこの論文を読む機会は与えられなかった。」(p.404)
→このあたりもなかなか難しいところです。前後の文脈から判断すると、おそらく学位取得を大学側から求められ、つてのあった(どういうつて?)東京教育大で博士号を取得したが、その博士論文は人には見せなかった、という趣旨かと推測されます。これはあくまで事情を知らない私の推測に止まります。
引用を続けます。「工大「高度成長」「理工系ブーム」にのり、研究室から科学概論、技術史が独立し、八杉龍一教授、道家達将助手(現教授)が加わった。」(p.404)
つまり、4人体制となったということです。
さて、4人体制になったのは、いつでしょう? 八杉龍一氏の経歴を調べると、1962年東京工業大学教授、とありますから、八杉氏は、1962年着任と見てよいでしょう。苦労しましたが、道家氏が東工大人文系助手に採用されたのは、1963年です。(『化学と教育』第39巻第1号(1991): 54-58 誌に執筆した「化学風土記 わが街の化学史跡5.幕末・明治初期の化学技術者、宇都宮三郎ゆかりの地を訪れて」に略歴があります。それをそのまま転記しましょう。1951年名古屋大学理学部化学科卒業、1952年同大学物理学科研修生終了。紀伊国屋書店、和光学園を経て1963年東京工業大学人文系助手、1967年助教授、1973年教授、1989年名誉教授、同年茨城大学人文学部教授。)山崎俊雄氏や田中実氏をケミスト-ヒストリアンと呼ぶべきかどうか、ちょっと微妙です。ケミストであった時期はありますが、本業はヒストリアンでしょう。
まだまだ不明なことは多くあります。
東工大では、田中実、山崎俊雄、道家達将、八杉龍一の4氏のもとで卒論を執筆することはできたのか? できたとすれば、いつからか? 誰がどういう卒論を書いたのか?
科学史・技術史の大学院はいつできたのか?
ぼちぼち調べていきます。
7時35分起床。おおきいちびはすでに学校に行っていました。ちいさいちびは7時45分に出ました。幼稚園児は7時50分に起きてきました。昨日からまた咳をするようになっています。寝る前はかなりひどく咳をしていました。
雨は上がっています。すこし雲がありますが、気持ちのよい秋晴れとなりました。明日また天気は崩れるということです。審査の仕事を2件、こなしました。わー、たいへん。いろんな資料を読み直すはめになりました。引き受けた以上仕方ありませんが、なかなかきつかった。
妻とほぼ同時に5時45分。妻は子どもたちのお弁当のためにいつもだいたいこのぐらいの時間に起床しています。秋雨がまだ降り続いています。
私は昨夜寝る前に葛根湯を飲みました。前日が風邪気味だと気づいたせいです。ちいさいちびははじめてのリレーの練習。朝練です。いつもよりも5分から10分はやく行けばよいのですが、15分はやくでかけました。すこし緊張しているようです。
おおきいちびもリレーの練習がありますが、昼休みだそうです。それよりも今日漢字のテストがあるということで緊張していました。緊張するとよくしゃべります。家をでるまでうたったりしゃべったりしていました。
幼稚園児は、またすこし咳をします。しかし、よく寝て、おねえちゃんたちがでかけたずっとあとに起きてきました。私は、まず、早朝に届き、明後日までという指示のついたゲラをチェックしました。パソコンで打ったときに起こしやすいタイプミスが何点か残っていました。pdf 上にコメントを書き込むというはじめての校正方式でした。慣れていないので使い勝手はよくはなかったのですが、なんとか校正の指示はだせたと思います。→担当者の方から受け付け通知が届きました。この原稿に関しては、ほぼ完了でしょう。
ひとりおくれて8時半。雨。秋雨が降り続いています。何件か用事があり、今日は大学に出ます。
7時過ぎにヘアドライヤーがアマゾンから届きました。昨日の夜、妻が使っているときにコードから煙がすこし出ていました。見ると、コードの皮膜が破れ、切れかかっています。あやうくショートするところでした。その場でお陀仏としました。ヘアドライヤーは必要なものなので、アマゾンで調べてみて、手頃なものを選びました。こういうとき使用者のレビューは役立ちます。我が家の用途では、数点レビューがあれば、おおよそ的確な選択をすることができます。
(Panasonic イオニティターポドライシルバー EH5216PS, \2722)朝が遅かったので、幼稚園児が出てしばらくしてから家をでました。郵便局に寄って、古書の代金の払い込み。9時42分武蔵境発の電車にぎりぎり間に合いました。
まずは総務課。エレベーターを待っていると、学長、副学長をはじめとする大学執行部の方々が正装して出て見えました。卒業式だそうです。9月卒業の卒業式が今日あるようです。
研究室にいって、何点か事務処理。
11時からゼミ選択のための面接。
生協食堂で昼食をとり、もう一仕事してから帰途へ。研究室で、次の本を取りだし、持って帰ることとしました。
大野誠・小川真里子編著『科学史の世界』丸善株式会社、1991
巻末に「渡邊正雄教授―人と業績」が掲載されています。タイトルからはわかりませんが、この本は、渡邊正雄教授古稀記念論集です。ただし、論文集ではなく、エッセイ集でしょうか。私の欲しかったのは、次の情報です。
1968年6月東京大学教養学部着任(科学史担当)。
1980年3月東京大学定年退職。渡邊正雄氏は1950年に東京女子大助教授(物理学・科学史担当)となり、(国際基督教大学助教授を併任しつつ)1962年4月に中央大学に移られています(理工学部、科学史担当教授)。
つまり、すでに科学史家として他大学の教授をつとめていて、東大に移られています。そのとき48歳です。私は、2年生の後半と3年生のときに、渡邊先生に教えてもらっています。(渡邊正雄氏の後任が佐々木力氏。)私の卒業論文は、渡邊先生の授業のときに読んだ OU 科学史(まだ翻訳はありません。日本には見ない大判の英語教科書)に出発点をもちます。
古稀記念論集ですから、寄稿者は弟子筋と言えるでしょう。(敬称略)(身分は当時のもの)
井山弘幸新潟大学助教授、大野誠名城大学・中京大学非常勤講師、小川真里子三重大学助教授、小黒和子早稲田大学・学習院大学非常勤講師、下坂英東洋英和女学院短期大学助教授、田中一郎金沢大学助教授、中川徹横浜商科大学教授、成定薫広島大学助教授、西村秀雄国際基督教大学助手、藤井清久東京工業大学助手、札野順金沢工業大学助教授、横山輝雄南山大学助教授、吉仲正和東北大学助教授、クロンビー(元オクスフォード大学科学史教授)、原純夫(出版社勤務)。
執筆者の選定・依頼は、大野誠氏と小川真里子氏によりますから、渡邊正雄氏本人が弟子と位置づけている人のリストというわけではありません。
(→大野さんと小川さんは、弟子筋だと言えるでしょう。井山さんや下坂さんはどうでしょうか。西村秀雄氏は渡邊正雄氏に見出された弟子でしょう。藤井さんは、ICU 繋がりでしょうか。札野さんもICU 繋がりでしょうか。とりあえず、渡邊正雄氏との関係は、一様ではありません。)(分析も位置付けも行っていませんが)次は、村上陽一郎氏。村上陽一郎氏は、院生時代、指導教官(まだ大学は国立大学であった)だったので、つい、先生と呼びたくなりますが、氏で通します。
村上陽一郎氏が上智から移ってこられたのは、1973年です。渡邊正雄氏の5年後です。1989年先端研に移られたあと、定年を待たずに1995年国際基督教大学に移られています。村上陽一郎氏に関するウィキの記述は、かなりヘンです。「科学史研究者としての専門は物理学史であり、『ペスト大流行』で感染症を解決しようと試みる科学者の試行錯誤を描き出しただけでなく、科学哲学の考察を加えた。「安全学」という言葉を作り、関連著書を出版している。」
村上陽一郎氏の科学史の仕事の出発点は、生物学史です。1962年に「我国に於ける進化学説の移入・発展―その初期の思想史的考察―」という卒論を書かれています。下に記したように当時はまだ科哲の大学院は存在しませんから、大学院は比較文学・比較文化の方に行かれています。物理科学史についての著作もありますが、科学史方面の代表作と言えば、賞を受けた『近代科学と聖俗革命』(新曜社、1978)と『日本近代科学の歩み』(三省堂、1968,1977)、それに『科学史の逆遠近法―ルネサンスの再評価』(中央公論社、1982)でしょうか。思想史方面の仕事としては私は『科学・哲学・信仰』(第3文明社、レグルス文庫、1977)が気に入っています。
しかしながら、村上陽一郎氏の仕事の軸足は、むしろ広い意味での哲学(狭義の科学哲学を含めて哲学)にあったと思います。あるいは、言葉の本来の意味での哲学と言えばよいでしょうか。→科哲の大学院の一期生の中川徹氏ですが、私はほとんど何も知りません。すこしだけ調べてみました。北大卒(高分子)、東工大(応用科学)修士課程修了後、科哲の大学院の1期生として入学されています。1975年に博士課程修了後、国立科学博物館の研究官に就任されています。その後1989年に横浜商科大学商学部(科学技術史、自然科学概論担当教授)に移られています。
ひとりで6時35分。ちびどももほぼ同じ時間に起きたようです。昨日昼寝をしてしまった幼稚園児は、昨夜10時半になってやっと寝付きました。
室温20度。→昨日と同じく、午後には22度になっていました。[本日の外出]
最近子どもたちは休日外出したがりません。とくにちいさいちびは着替えるのも嫌がります。ということで、本日の外出は、妻がお腹が痛いというので胃薬を買うために私が幼稚園児を後ろに乗せてドラッグストアに行ったのと、餃子の皮とミルクと卵が足りないというので近所のスーパーに買い出しに私が行っただけです。まるでかぞくそろってひきこもり状態でした。
9月は、晴れ間のないこういう天気が続くという予報。
ひとりおくれて7時45分。ひんやりとした秋の朝。風も強く、一気に冬になったかのような空模様です。室温は20度。昨日の室温は、ほぼ一日中22度でした。午後、室温は22度まで上がり、その後は22度で推移しました。今月は、ここでやっと100枚を越えました。
夕食後、国勢調査の入力をネットですませました。いくらか時間(5人家族で30分)はかかりましたが、特に難しいところはありませんでした。
お昼頃、アマゾンのマーケットプレイスから次の本が届きました。
山崎俊雄『(日本現代史大系)技術史』東洋経済新報社、1961
技術史についてもすこし視野に入れておこうと考えて発注したものです。
(昔出ていた)『朝日ジャーナル』に掲載された星野芳郎氏の書評が挟み込まれていました。次のようにあります。「『日本現代史体系』全一四巻のなかの一冊で、体系の形式上、著者は個人名であるが、じつは第一、二、三章は村松貞次郎氏、四、五、六章は山崎俊雄氏、七、八章は鎌谷親善氏という三氏の共著である。」「戦後の日本の技術の発展を担当した鎌谷氏の記述にあっては、問題意識はもっとも不明確である。」と厳しい批判がなされています。歴史の現時点において、どちらに分があるかはただちにはわかりません。
はしがきには、村松貞次郎氏(東大生産技術研究所員)、鎌谷親善氏(プラスチック工業調査所員)と執筆・出版当時の身分が記されています。「日本の技術史に関しては本書がわたくしにとって最初の書物である。激励してくださった三枝博音、田中実の諸先生をはじめ、中村静治、金関義則、飯田賢一、本田昭二らの諸氏にあつく感謝の意を表する。」3時過ぎに、次の本が届きました。
田中実『日本の化学と柴田雄次』大日本図書、1975
[東大科哲の歴史]
9月10日からの続きになります。大森荘蔵著作集月報2(第2巻1998年10月)に木村陽二郎さんが「大森さんと私」(pp.1-4)を書かれています。ここに(制度史の)基本的情報が記されています。(戦後すぐの教養学部ならびに教養学科創設に触れて)「教養学部教授会で評議員に麻生磯次、玉虫文一の両教授が選ばれた。玉虫文一先生は武蔵高等学校教頭から1949年第一高等学校教授、すぐに東京大学教授となられ教養学部の自然科学科長であった。教養学科にはアマリカ・イギリス・フランス・ドイツの文化と社会、それに国際関係論の五分科の他に自然科学関係に只一つ、科学史及び科学哲学の六分化ができた。玉虫文一先生は自然科学科長の他、化学教室主任であり、科学史・科学哲学主任をかね、生物学教室主任の木村雄吉教授と助教授の私とが科学史科学教室の人間というべきものであった。教養学科をつくるとっても人員がふえるわけではなく、講義がふえるだけである。 ・・・・・
二年後、教養学科では生物学史を講義した。・・・父は西洋史学者であったこともあり、生物学史の研究は私の性にあっていた。
教養学科の授業がはじまる一九五一年には科学哲学の専門家の大森さんが来られて真に心づよかった。
一九五六年一月に木村雄吉教授は医学部の伝染病研究所に移られ、次いで一九五九年には玉虫文一教授は定年退職された。玉虫さんをついで私は科学史・科学哲学の主任となった。一九六〇年、私は教授となった。
・・・・・・
科哲と教室名を略称していたが、なんとかこの独自の教室職員をふやすという考えで科学史を一般教養科目として自然科学の単位にみとめられることを考え、ジュニアー・コースの一課目とする決心をした。私が生物科学史を、大森さんに物理科学史と二人で分担してあわせて科学史を講義したが、これがみとめられて科学史が自然科学の単位となる一分野とみとめられ、教員増がみとめられ、次第に教室員に伊東俊太郎、ついで物理学史に得意な渡辺正雄氏を獲得できた。こればかりでなく、大学の自然科学の教養科目の一単位として科学史が一般にもみとめられたことは、後の科学史・科学哲学の卒業生にも大学の教員としてみとめられることに貢献したと思う。」以上、科学史・科学哲学教室は、(他の教養学科の分科もたぶん事情やそれほど代わらないと思われる)専任がいない状態で、化学教室主任と生物学教室主任と生物学教室助教授が兼担(兼任、当時、どういう用語が使われたのか不明)の形でスタートしたことがわかります。教養学科の授業がはじまる一九五一年に大森荘蔵氏を最初の専任として呼ぶことができた。
科学史・科学哲学教室の専任教員としては、大森荘蔵氏が初代、そして一般教育科目の自然の枠に科学史を開講するという自助努力により、教員増を獲得し、伊東俊太郎氏、渡辺正雄氏を呼ぶことができた。
→著作集における経歴によれば、伊東俊太郎氏は、昭和31年(1956年)哲学の博士課程在学中に(1年を終了した時点で)東京大学教養学部助手(科学史・科学哲学研究室勤務)として呼ばれています。(着任は1956年4月)。つまり、大学院は博士の1年目で終了し、順調に行っていれば博士課程の2年目に当たる時点で助手として働き始めたということになります。
助手として採用された時点で、伊東俊太郎氏は、まだ科学史家ではなかったと思います。大学院では、数理哲学、科学哲学を専攻し、学部の卒論は「無限論」、修論は「時間論」です。(「我が師・我が友・我が人生」pp.369-70)。
著作目録によれば、助手の時代に科学史の研究を開始されています。
最初の論文は「数理哲学の課題について」『科学基礎論研究』no.11(1956)
2番目の論文は「生命の次元について」『東京大学教養学部人文科学科紀要』12(1956)&「生命の次元について(続)」『東京大学教養学部人文科学科紀要』15(1957)。
3番目は、"Biologishce Erkenntnis und Moderne Physik," Philosophy of Science, 25(1958)
4番目は、「ルネサンスの自然科学」『講座近代思想史I 近代人の誕生』(弘文堂、1958)
5番目は、「近代科学成立史論(上)」『東京大学教養学部人文科学科紀要』18(1959)&近代科学成立史論(下)」『東京大学教養学部人文科学科紀要』20(1960)
ちなみに、近代科学成立史論は、力学における科学革命、天文学における科学革命、生理学における科学革命、近代数学の形成、化学における科学革命、の5章からなります。最後の化学における科学革命は、錬金術の根本概念、ボイルにおける元素概念の批判、ラヴアジェにおける近代科学の成立からなります。
6番目は、「科学革命について」『科学革命』(森北出版、1961)
7番目は、「ギリシャ科学思想史研究について」『哲学雑誌』746(1961)
8番目は、「中世運動論の根本問題」」『東京大学教養学部人文科学科紀要』22(1961)
9番目は、「中世アラビア科学史研究」」『東京大学教養学部人文科学科紀要』33(1964)
8番目から9番目の間に関しては、ご本人の証言を聞いてみましょう。
「駒場の助手を五年ほど勤めたころ、桂先生から大森先生に伊東をそろそろ海外に留学させてはというご伝言があったそうで、大森先生も同意して下さり、ウィスコンシン大学の科学史学部に留学することとなった。その頃流行していた分析哲学のような科学哲学に私は余りなずめず、むしろ科学史と結びつく科学哲学に興味をもったが、バターフィールドの『近代科学の起源』とコイレの『ガリレオ研究』が、私を決定的に科学史研究にのめりこませることとなった。・・・・・・
そこで私は主としてガリレオ、デカルト、ニュートンなどの「科学革命期」の科学者を研究の対象とするようになったが、デュエムやマイヤーの研究に導かれて、さらにこの近代科学の先駆者としての中世後期の自然哲学に関心を移していった。そのときウィスコンシン大学のマーシャル・クラーゲット教授により、『中世における力学』が出版された。その精緻なテクスト・クリティークに魅せられ、出来たら自分もラテン語の古文書を解読して、こうした一次資料を分析したいと思い、クラーゲット先生に手紙を差し上げたところ、なんと一面識もない私を、いきなり先生の助手に採用して下さるというご返事を頂いた。」
大学からもらった留学期間の二年間で「悪戦苦闘して」博士論文『ユークリッド与件の中世ラテン訳について』を完成し、博士号を取得した(1964年1月)。(留学期間は、1961年8月から1963年8月まで)。こうしてアメリカの博士号を日本人としては2番目に取得した科学史家が誕生しています。
しかし、伊東俊太郎氏の事例は、ロル・モデル、キャリア・モデルとはならないと思います。まねしようとおもってもまねできる種類のものではない。
むしろ、伊東俊太郎氏の場合は、特例、異例と呼ぶべきでしょう。戦後の復興期だからこそありえた僥倖と言えるでしょう。在職中に2年間留学することが今ではほぼ不可能ですし、仮にその条件がクリアーできたとして、2年間で博士論文をまとめることができる方は(人文系においては)非常に希有だと言えるでしょう。幸運と才能(努力も含める)がであって、科学史家伊東俊太郎が誕生したわけです。
→出来上がった、日本の科学史の世界の大御所となった伊東俊太郎氏を見れば、最初から科学史家だったかのような印象が強いかもしれませんが、上記のように、伊東俊太郎氏は、数理哲学・科学哲学を勉強していた院生から、おそらく未知の海に泳ぎ出すような感じで、たぶんほとんど独力で科学史家になったと言えると思います。留学するまでの論文群は、未知の世界のチャートを描くような仕事と位置づけることができるでしょう。
個人的には、未知の世界に躊躇せず乗り出し、本邦初のチャートを描く仕事が科学史家伊東俊太郎氏の本領だと思われます。
その点で伊東俊太郎氏は一貫していると思われます。伊東俊太郎氏にとっては未知の世界であっても、日本にすでに専門家が存在する分野に乗り出された場合には、そうした専門家の人々からは別の反応があったと思いますが、伊東俊太郎氏の側からすれば、取り組む態度は一貫していたと言えると思います。(木村陽二郎「大森さんと私」の続き)つぎに大学院設立の由来が語られています。事情が複雑になります。
「・・・今までとは異り科学史・科学哲学をさらに一生この道に進む学生たちが大学院をつくってもらいたいという要求が次第に切実となりふえてきた。それで大学院を申請したが基礎科学科も大学院を申請することになった。基礎科学科は、当時工学部の学生のみで当時の時勢の要求に足りなかったので、基礎科学科はその卒業生は大学院にゆくならば理学部か工学部の大学院にゆくとの条件、つまり基礎科学科は大学院をつくらないことを条件に工学部長も賛成したのであったが、これに反して大学院をつくる事が、申請され認められたので、工学部長の激怒にあい「教養学部には今後絶対大学院をみとめない」と工学部長はいわれ、教養学科の科学史・科学基礎論の大学院の案はやっと理学部にみとめられたものの、学部長会議ではそのときの総長の全学部賛同がなければ新しい大学院は認めないとの理由で、反対の工学部長が定年退職するまでは認められず、科学史・科学基礎論の大学院は教養学部を世話学部として一九七〇年やっと許可になり、ドクター・コースがみとめられたのは私の定年退職の前年の一九七二年であった。」
文章にも事態のややこしさが反映しています。単純に私には、「基礎科学科は、当時工学部の学生のみで当時の時勢の要求に足りなかった」ということが何を指しているのかわかりません。わかるのは、工学部長の反対で、大学院設置が一九七〇年まで遅れたということです。このあたりはまさに歴史の偶然です。記録がなければ、あとからはまったくわからない世界です。
科学史・科学哲学の大学院はできたものの、博士号所得はかなり長い間認められなかった点については、理学部の○○教授の反対に遭ったという話は在籍中聞いています。しかし、文書資料で確認をしたいと思います。
(たぶん、断固として反対されていた教授が定年退職してから)博士号取得が認められるようになり、最初に科学史・科学基礎論で博士号を取得されたのは、高橋憲一氏と斎藤憲氏です。私は1988年に大学院を単位修得の上退学しています。私が大学院を退学する(学位を取得していない以上、卒業とは言わないと教えられました)あたりで、博士号が解禁されたことになります。(もうすこし個人的事情を記しておけば、1988年7月1日付で外語大に着任しています。)
たぶん、3番目は、中島秀人氏です。ただし、そのときには大学院が理学系研究科から総合文化研究科に移っていたようです。最初の二人のように理学博士号ではなく、学術博士号に変わっています。→前にも記した通り、科哲の大学院は1970年にやっとできています。
最初の入学者はおそらく、故吉仲正和氏、松尾幸李*氏、中川徹氏、(もうひとり?)。伊東俊太郎氏の弟子となられた方では、1974年入院の高橋憲一氏(元九大教授、修士論文1976年)、アルキメデスを専門とされた佐藤徹氏(修士論文1977年)、三浦伸夫氏(修士論文1979年)、楠葉隆徳氏(修士論文1980年)、鈴木孝典氏(修士論文1981年)、伊藤和行氏(修士論文1981年)、小松真理子氏(修士論文1982年)、斎藤憲氏(修士論文1984年)、羽片俊夫氏(修士論文1984年)。
定年退職は、1990年のはずです。経歴によれば、1989年12月に国立日本国際文化研究センター教授、東京大学教養学部併任教授(1990年9月まで)、とあります。東大の次は日文研ということは知っていますが、私はその当時もう駒場にはいなかったので、正確にどういうふうに動かれたのかはわかりません。ちなみに私の修士論文は1983年です。修論提出の年度で言えば、鈴木孝典氏伊藤和行氏が2学年上、小松真理子氏が1学年上、斎藤憲氏羽片俊夫氏が1学年下ということになります。「中世4人組」(高橋憲一氏は「古代中世4人組」と呼ばれています)のみなさんが伊東先生の授業で、ラテン語・ギリシャ語・アラビア語(やその他の言語)を読まれていたことは知っています。(私は参加していないので、どういう授業だったのかは直接は知りません。)
→1951年科哲進学生から、1968年科哲進学生までは上に大学院が存在しません。その間に科哲を卒業して、科学史家になられた方々には、板倉聖宣氏、金子務氏、竹内敬人氏(ケミスト・ヒストリアン)、村上陽一郎氏、吉田忠氏、里深文彦氏がいます。科学史家になる線路はありませんでしたから、卒業後いろんな道を辿って科学史家になられています。
1967年卒業の吉仲正和氏、1969年卒業の松尾幸李*氏は、卒業後、1970年の大学院設立を待って、大学院に入学されています。
7時55分起床。ちびどもはでかける直前でした。幼稚園児はよく寝て8時10分。起きてすぐにゲーム(スーパーマリオWiiギャラクシー)を始めました。本人の弁によれば、咳はしても喉は痛くないから風邪はよくなったのだそうです。ということで、久しぶりに幼稚園。張り切って行きました。室温は22度。
[日本化学史]
日本化学会化学史アーカイブ
(博士号のタイトルの入ったものは作成途上です)科学史分野海外博士号ウェブに次の博士論文があります。岡田大士「東京工業大学における戦後大学改革に関する歴史的研究」(2005年04月30日 東工大)。指導教員は梶さんです。
この6-4. 科学史・技術史研究室の設置、pp.100-1 に東工大の「科学史・技術史研究室」に関する資料が提示されています。
1946年10月22日の運営委員会で「科学史・技術史研究室新設案」が提案されている。11月14日の議事録メモには、出席者として「神原周、田中実、星野芳郎、山崎俊雄、稲村耕雄、崎川範行」がリストアップされている。田中実氏は、正式に発足後、科学史研究室を担当し、山崎俊雄氏は、同じく技術史研究室を担当された。
分野と担当としては、次のようにあるとあります。
化学 田中実
化学工業 神原
採鉱 崎川 星野
社会教育史 山崎 稲村
(紡績機械 加茂儀一)現在は、東工大 技術構造分析講座に再編されています。科学史の方面は梶さんが、技術史の方面は中島さんが担当されています。
私としては、誰がいつ何を担当されたのかのわかりやすい沿革が欲しい。たぶん、初代が田中実・山崎俊雄、2代目が山崎正勝・木本忠昭、3代目が梶雅範・中島秀人だと思いますが、現在の「東工大 技術構造分析講座」のサイトには沿革がありません。ホームページにはこうした基本情報を掲載しておいてほしいところです。
ちなみに、山崎正勝氏の名前が科学史分野国内博士号のリストにないのは、山崎氏が普通の理学博士号取得者(「多重散乱展開とglauber近似について」)だからです。(博士号はもっているが科学史分野ではない。)日本科学史学会の年表には、1951年3月10日、 東京工業大学歴史学研究室で「技術史分科会発足」とあります。人はすこし入れ替わったかもしれませんが、このメモに名前のある人々が中心だったのではないかと推測されます。(その後年表を追いかけても、「技術史分科会」の活動そのものは、つかまえることができません。)『科学史研究』を丁寧に読んでいけば、ある程度つかまえることができるかもしれません。
6時50分。妻は起きていました。子どもたちはよく寝ています。昨夜一気に気温が下がりました。もう夏は戻ってこないということです。今日はおおきいちびのピアノの発表会。杉並公会堂なので、それほど遠くではないのですが、雨の予報。自転車で行くわけにはいきません。朝のうちにいろいろ相談となります。
9時過ぎに雨が降り始めました。冷たい秋の雨。
午前中、雨のなか昨日引越をされたお向かいさんがご挨拶に見えました。幼稚園児がなんとちいさい子の名前を覚えていました。早速幼稚園探しということでした。
おおきいちびは結局お友達のお母さんがいっしょに車で連れていってくれることとなりました。残りはどうするか? 幼稚園児とちいさいちびの気持ちが定まりません。ずっと家のなかにいるよりも、外に連れだした方が(精神衛生上)よいだろうという判断で、残りがそろって発表会を聞きに行くこととしました。雨足はときに非常に強い。2時過ぎにタクシーを呼んででかけることとしました。
しばらく会場のドアの外で待ってから、ちょうど演奏の間に、なかに入りました。右の前の席が空いています。幼稚園児はおとなしく聞くとは言っていましたが、すぐにあきてきて、ぐずりはじめました。ママに叱られて、えーん。妻が一度会場の外に連れ出し気持ちが落ち着いてから、再び来ました。
おおきいちびの演奏は、最後から3番目。ちいさいころよりはましになっていますが、緊張するようです。挨拶のときも下を向いたまま、客席をまったくみません。演奏も椅子にすわるとすぐに始めています。
演奏そのものは、何カ所かでミスタッチがありましたが、ミスに影響されず、家で練習しているときよりはずっとましに弾けていました。
幼稚園児がもたないようなので、次の子どもの演奏が終わった瞬間、今度は私が会場の外に連れ出しました。
会場は地下2階。幼稚園児は1階まで上がって、ロビーのところで遊んでいました。でもやはりあきてきて、再度会場の前のところへ。ママまだ?ママまだ?の繰り返し。やっとママとちいさいおねえちゃんがでてきたので、先に1階に上がらせました。演奏をしたおおきいおねえちゃんは、なんとか私がつかまえて、着替えてひとりで上に来るように連絡しました。
1階のロビーに着くと、幼稚園児が泣いています。今日3回目。ちいさいおねえちゃんとけんかしたようです。
ちいさいちびと幼稚園児は、1階にあるカフェでケーキを食べるのを楽しみに来ています。しかし、席が空いていません。待っていても仕方がないので、雨のなか、バスで帰ることとしました。ちょうどバス停にバスが止まっていました。ちいさいちびの希望で、ケーキは食べてから帰るということです。駅前のコージーコーナーがなくなったあと、気楽にはいれるケーキ屋さんはありません。駅で降りて、かろうじて残っているこけしやさんに入りました。実はこけしやさんの喫茶部ははじめてです。昔ながらの喫茶店でした。雰囲気がすこし暗くて、タバコ臭い。おおきいちびと幼稚園児はイチゴのショートケーキ、ちいさいちびはティラミス。子どもたちは満足したようです。
ちいさいちびは帰途靴屋さんで上履きをママといっしょに探しました。残り3人は先に家に帰り、ご飯をしかけたり、お風呂を入れたり。寒かったようです。幼稚園児が珍しくいちばんにお風呂に入りました。それから順番にお風呂と夕ご飯。
明日の最高気温は、19度の予報。風邪をひかさないよう、プラス一枚が必要になります。
ひとりおくれて7時10分。幼稚園児まで起きていました。幼稚園児は寝ているときにも咳をしていました。風邪の影響でリズムが崩れたようです。斜め向かいの新築さんの引越だそうです。昔は一つだった土地に、新しい家が計6軒建って、我が家のまわりの雰囲気はすっかり変わりました。セットバックがおそらく7割程度まで進んで、道幅が広くなりました。
→引越屋さんは、6時前に来ました。現地の調査をせずに動かしたようです。車が道に入りません。いずれにせよ、最後は人間の手と足で動かすしかありません。2時間近くかかって完了した模様です。
ひとりで7時。ちびどもと妻は起きていました。晴れ。今週の学校は、火、水、金の3日のみ。
昨夜から暑いと思っていたら、今日の最高気温予想が32度。ふつうの夏の暑さです。昨日から咳をしていた幼稚園児ですが、朝起きてきて、喉の痛みを感じたのでしょう、自分で今日はお医者さんのところへ行く、と言いました。とうわけで、幼稚園はお休みにして、お医者さんに診てもらうこととしました。
小学生二人は元気にでていきました。私もそろそろ2学期の開始に備える必要があります。ほんとうに久しぶりに机のトップが見えるまでに積み重ねていた書類を片づけました。部屋も片づけないといけないのですが、なかなか手を付けられません。
予報では、明日の最高気温が33度。そして、秋分の日の木曜日から夏の暑さは去るということです。小学生は、まっかになって(たぶん走り回ったせい)、あるいは疲れ果てて(やはり走り回ったせいか)帰ってきました。
ひとりで7時半。昨日いつもよりも就寝時間の遅かった子どもたちはすやすや寝ています。曇り。[カバンがいっぱい]
来たばかりで新鮮なのでしょう、今日もミシンの日でした。カバンがいっぱいできました。子どもたちはとても喜んでいました。
幼稚園児が起きて、7時15分。幼稚園児は起きたらすぐに昨日買ってもらった布(マリオのプリントがなされえています)を取り出しました。すっかり涼しくなっています。室温は8時の時点で26度。
[ミシンが来た]
幼稚園児は、8時過ぎから、まだこないの? まだこないの? と言っていました。おねえちゃんたちは、9時過ぎから、まだ? と言っています。
午前ということなので、私は、11時から12時の間だと思っていました。11時35分、待望のミシンが来ました。
昼食の最中でした。昼食をすませ、テーブルの上をすべて片づけてから、ミシンのセットアップ。
箱から出すところは私がやりました。
さて、機械の使い方を説明するDVDがついています。まず、ノートパソコンをテーブルの上に置いて、そのDVDを見ました。
わかってしまえば何てことはない、しかし、最初はなかなか難しい、そういう種類の事柄です。妻とちいさいちびが実行係。糸の通し方ですこし苦労していましたが、なんとかセットアップに成功しました。そこでいきなり幼稚園児が自分のものを最初に作れと言って、昨日買ってきたマリオの絵柄の生地を持ち出しました。なんといっても妻とちいさいちびのコンビははじめてのミシンです。幼稚園児のハンカチから始めました。端を縫うだけなので、はじめてでもハンカチらしくなりました。
幼稚園児は、次にはカバンと言います。肩掛け方式のちいさなカバンの製作にかかりました。幼稚園児はともかくうれしい。私は完成を確認して、ソファーの上で休憩。
次はちいさいちびの絵本カバン。昨日買ってきた布と裏地が活躍します。取っ手を逆さまに付けていたりということはありましたが、かわいい絵本カバンができました。満足。
やっぱり幼稚園児もやりたいというので、余ったマリオの生地で、ミシンに内蔵されているコンピュータによって可能になっているいろんな縫い方を試してみることにしました。ちいさいちびと幼稚園児でなんとかやっています。
もちろん幼稚園児は、おねえちゃんの指示に従って、スイッチを押したり、とめたりするだけのことですが、自分も参加しているという事実がうれしいようです。初日なので、以上で終了。ピアノの練習に行って、途中から帰ってきたおおきいちびは今日は見るだけでした。おおきいちびの分は明日です。
ちなみに、おおきいちびはお友達の家族に誘われて、4時から神宮球場へ向かいました。ヤクルト対中日戦を見るようです。もちろん、野球にはまったく関心のないおおきいちびですが、お友達と珍しい場所に行けるのがうれしい。
試合は9時半頃に終了したようです。10時10分過ぎに帰ってきました。幼稚園児はさすがにすでにすやすや寝ています。ちいさいちびはおねえちゃんが帰ってくるのを待っています。年の近い姉妹なので、自分だけ先に寝る気持ちになれないのでしょう。
それでも10時半すぎに床につきました。
幼稚園児が起きて、7時45分。晴れ。ちびどもは8時前後に降りてきました。午後、家族揃って、吉祥寺のユザワヤ。布を見に行きました。妻が裁縫を子どもたちといっしょにやってみる気になっています。明日には、新宿のユザワヤでたのんだミシンも送られてきます。妻自身はこれまでミシンに一度も触れたことがないと言っています。
手始めに絵本袋を作るようです。丸井の横でおやつを食べてから帰宅しました。
ひとりで6時過ぎ。居間に降りると、妻は子どもたちのお弁当の準備を始めていました。室温は23度。いきなりずいぶん下がりました。晴れています。気温はある程度まで上がってくるのではと思われます。
午後3時からの研修会に出たあと、医科歯科に向かいます。食事をする時間をいれるとぎりぎりかもしれません。
→研修会は、「個人情報保護および情報セキュリティ研修会」。3時から4時半。企業の方が話をしてくれました。ネットワーク技術者として、自分が体験したエピソードを交えながら興味深い話をしてくれました。ただし、一番根本的な点、個人情報とプライバシーはどう違うかはスルーされました。個人情報保護法はなかなかやっかいな存在です。
医科歯科の授業があるので、4時半に教室を出ました。電車はうまく繋がって、5時20分には御茶ノ水に着きました。駅前のラーメン屋で湯麺を食べてから、医科歯科の教室に。
今年は反応がよい、と栗田さんから聞いていましたが、その通りでした。1限と2限の休憩時間に考えて、2限目に話す内容を変更することとしました。臓器移植法成立に至る日本の事情はパスして、本質的な問題に時間を割きました。15分ぐらいその場で考えた内容を話しました。
ひとりで5時半。2時から6時間以上も続いた昨日の会議のせいです。私はただただ迷走する議論を聞いていただけですが、神経の興奮が残ったようです。
雨。昨日帰り道で降り始めた雨がしっかりと降っています。いきなり深い秋。居間の室温は25度。外はもっとひんやりとした感じがします。しばらくすると、24度まで下がり、そこで止まりました。明日は一年に一度の、医科歯科大学での授業。午後2時ぐらいまでかかって何とか準備をすませました。
ISIS のメンバーシップ更新早割という通知が来ていたので、申し込んでおきました。よく考えれば、9月というのはなるほどずいぶんはやい。
ちびどもとほぼ同時で6時25分。なんと居間の室温は25度まで下がっています。昨日の雨がやっと秋らしい空気を連れてきてくれました。→窓を開けていると、室温は24度まで下がりました。天気予報によれば、本日の最高気温は26度。いきなり下がります。今日は午後ずっと会議。5つあります。終了時刻が予定で7時とあります。嗚呼!
→最初の会議は異常に順調で、10分で終了しました。ああ、しかし、はじめてプロメテウスホールで開かれた、その後の会議がすごいことになりました。教授会が4つ。大学院後期、大学院前期、学部、研究院教授会と続きました。
学部教授会がもめて(もめるのは案件からして仕方がないのですが、一歩も前進せず、というより後退してしまいました、嗚呼!嗚呼!)予定をおそらく2時間近くオーバーしてしまいました。
ということで、研究院教授会が終わって、多磨駅に駆けつけたときには、8時20分でした。
家に辿り着いて、ちょうど9時。子どもたちを寝かせ付けて、お風呂に入り、夕食。家の遠い方は、そもそも帰り着くのが10時をずっと過ぎるでしょう。
[科学史分野日本の博士号:追補5]
古川さんと中村さんより、次の情報を教えていただきました。言葉は不適切ですが、どんどん出てくるという感じです。ご両人、ありがとうございます。
(現時点のカウントで、57件、56人となっています。)1962 昭和37年3月31日 名古屋大学 理学博士
廣重徹「Lorentz電子論の形成と電磁場概念の確立」1965 昭和40年3月29日 東京大学 理学博士
八木江里「日本物理学史における重要五項目の解析」1996 平成8年9月24日 京都大学 博士(文学)
矢野道雄「クーシュヤールの占星術書写本の校訂研究」1997 平成9年3月31日 大阪府立大学 博士(学術)
井上尚之「カロザースのナイロン発明が日本社会及び高分子化学の発展 に与えた影響」2002 平成14年7月31日 昭和女子大学 博士(学術)
土井康弘「幕末尾張藩洋学者伊藤圭介の研究」2005 2005年3月 東京大学大学院工学系研究科 博士(学術)
中村征樹「近代フランスにおける技術教育の展開 ―技師集団と職人層の 技術知の創造と共有をめぐって」2005 2005年3月 東京大学大学院工学系研究科 博士(学術)
金凡性「明治・大正期における日本地震学の歴史的展開 : 知識生産システムとしての科学研究とその分析」2005 平成17年3月8日 昭和女子大学 博士(学術)
荒尾美代「江戸時代の白砂糖生産法 : 「覆土法」を中心に」2005 平成17年3月25日 岡山大学 博士(文化科学)
石田純郎「蘭学医書の原著者とオランダの訳者たちの医学世界」2008 平成20年9月12日 立命館大学(社会学)
宮下晋吉「模倣から「科学大国」へ : 19世紀ドイツにおける科学と技術の社会史」[中山茂氏自伝]
一部で大人気の中山茂氏の自伝ですが、最新のエントリーは天安門後の北京です。1989年に北京では天安門事件が起こります。中山茂氏は、その翌年、呼ばれて北京日本文化センターに行っています。2月から半年そこで生活しています。
中山さんのよいところは、こういうところです。私が同じ立場だった場合、招聘を受諾するでしょうか? (好奇心と怖さとどちらが優先するでしょうか。)
そして、この文章自体とても貴重な証言です。書かれてしまうとそうかとよくわかりますが、証言がない以上まったく不明な世界です。
さらに、個人的には、中山さんが教えた大学院生が全員「外国語大学」出身者だったという部分が興味深い。「外国語大学」という制度は、実は、東アジアに特有のものです。(大学の同僚の先生に教わりました。欧米に「外国語大学」というようなものはありません。)
ひとりおくれて7時15分。今日は幼稚園児が子どものなかでは一番に起きたそうです。曇り。室温28度。室温は午後29度に上がりました。そのころ、昨日大学の研究室で読み始めた、中島秀人『ロバート・フック:ニュートンに消された男』(朝日選書、1996)を読了しました。朝日選書で312頁ですから、一般的な新書よりもすこし長い程度でしょうか。
[雨のなか]
幼稚園から帰ってきたなおが東急に行くと言います。運動を兼ねて、自転車で連れていくこととしました。東急には裏側に自転車置き場があります。
さて、東急に着いて6階に行くと幼稚園児のお目当てのゲームはどれもカード切れでご使用になれませんという紙が貼っています。仕方がないので、ヨドバシに向かうこととしました。その途中ロフトの前に来ました。ヨドバシまで行かなくても、ロフトの地下のゲームセンターにお目当てのものがあるのではと思い、ロフトの地下に行ってみました。幼稚園児が自分でポケモンカードゲーム機を探し出しました。
プリクラの大きなコーナーがあるのが目立ちます。幼稚園児がゲームをしている間、こちらはただただ待っています。1歳過ぎぐらいの子どもをベビーカーに乗せたギャル軍団がやってきました。みんな似たような感じです。そのプリクラのコーナーに入っていきました。
もういいというので、1階に上がると、強い雨足の俄雨が降っています。しばらく待機すれば雨足は弱まるだろうと判断し、幼稚園児が欲しがっている傘を見て回ることとしました。1階と2階においています。結局最初見つけた1階のものがよいというので、青の子ども傘を一本買って、東急へ。地下でおやつを買いました。チョコ、チョコというので、4袋千円のセットを買ってから、自転車置き場へ。500円以上のレシートを見せれば、3時間まで駐輪無料というシステムです。雨は止んではいませんが、小降りになりつつあります。傘をさした幼稚園児を後ろに乗せて出発です。
雨中なので、かなり気を付けて、運転しました。ガード下の道路に着いたとき、幼稚園児はもう雨かからないねと言いました。その後は、おとなしくなりました。
やっとの思いで家に着いて、自転車に乗ったままドアフォンを押し、幼稚園児を見ると、なんと傘をさしたまま寝ています。傘をさしたまま寝た子どもを自転車の後ろに乗せて走ったのは初めてのことです。ガード下で安心して寝たものと思われます。
ママに抱っこしてもらうとすぐに復活して、買ってきたチョコを食べています。私はすぐにお風呂に直行。しばらくして幼稚園児もお風呂にやってきました。[科学史分野日本の博士号:追補4]
古川さんより日大の人々を教えてもらいました。1974 昭和49年6月26日 名古屋大学 理学博士
西尾成子「1916年のSommerfeldの量子論の形成」1988 昭和63年3月14日 日本大学 学術博士
中村邦光「江戸時代の日本における密度概念に関する研究」1992 平成4年11月25日 日本大学 博士(理学)
植松英穂「学位取得者名よみ結晶磁性研究の歴史 -W.ThomsonとP.Weiss-」1992 平成4年11月25日 日本大学 理学博士
藤崎千代子「The Role of T.Heurlinger in the Development of Modern Visible Molecular Spectroscopy(近代可視分子分光学の発展におけるT.Heurlingerの役割)」2005 平成17年3月14日 日本大学 博士(理学)
小島智恵子「フランスに於ける量子論の歴史」これまでの情報を別ファイル(科学史分野日本の博士号のリスト)にまとめました。
網羅はできていないと思いますが、せっかくですから、この時点で簡単な分析を示しておきましょう。
年代順。
1950年代 1
1960年代 4
1970年代 2
1980年代 2
1990年代 9
2000年 0
2001年 2
2002年 3
2003年 1
2004年 3
2005年 2
2006年 3
2007年 7
2008年 3
2009年 5
博士号取得が本格化するのが1990年代からだということがよくわかります。当然、国策(文科省の方針: 文化系でも理科系とほぼ同じ基準で博士号をだすように)の影響を受けています。大学別。
東大 20
東工大 14
日大 4
東京教育大 2
京大 2
名大 1
北大 1
東北 1
九大 1
桃山 1
科学史分野日本人の博士号(海外)のリストもまとめました。
ひとりおくれて7時10分。幼稚園児以外は起きていました。外のゴミを出しに行っていると、雨が降ってきました。これでやっと猛暑から逃れられるのでしょうか。今日から仕事。会議が午前にひとつ、午後にひとつあります。
幼稚園児を幼稚園に自転車で送って帰ってきてからでかけました。9時42分武蔵境発の電車。
図書館で次の本を借りました。
中島秀人『ロバート・フック:ニュートンに消された男』朝日選書、1996
購入して、手にとったことは覚えているのですが、どこのおいたのかさっぱりわかりません。この部屋と研究室を隅々まで探せば出てくると思いますが、それより図書館で借りた方がずっとはやいと気付き、借りたものです。文庫のコーナーに置いていました。そのせいで探すのにすこし手間取りました。調べたかったのは、ウィキにでてくる「ニュートンがフックの肖像画を廃棄した」という記述のもと(ソース)です。フックの肖像画がないことは有名です。(同時代の証言によればかつて王立協会にフックの肖像画はあった。)しかし、「ニュートンがフックの肖像画を廃棄した」というのは私の知識にも直感にも反します。
どうもウィキは、中島秀人氏の上記の本に依拠しているようです。該当個所を見てみました。274頁に次のようにあります。
「[フックの]肖像画にしても[フックの]実験装置にしても、[会長のニュートンが独断で進めた]協会の移転の際に廃棄されたと考えるのが自然だろう。そして、それにニュートンが深く関与したとするなら・・・・・・。フックの肖像画を焼くニュートン、その姿を思い浮かべるのは、ひどい誇大妄想だろうか?」
事実は、こうです。王立協会にフックの肖像画が飾られていたという同時代の信頼できる証言がある。そして、現在、どこにもフックの肖像画は残されていない。
つまり、1710年夏(証言者が見たと証言する時期)以降のどこかで、フックの肖像画は消失した。
それ以上は(記録がまったくない以上)すべて推測です。1710年の王立協会の引越しの際になくなった可能性はあります。その可能性は高いでしょう。そしてその紛失(消失)にニュートンは責任があったかもしれません。しかし、「ニュートンがフックの肖像画を廃棄した」というのは、中島氏が書いている通り、中島氏の妄想です。
ひとつの可能性として考えることは許されるでしょうが、妄想は妄想です。
中島氏のレトリックから、「ニュートンがフックの肖像画を廃棄した」と読解したとすれば、責任はもちろんそう読解した人にありますが、日本でただ一人のフック専門家がそうした妄想を記すことの当否は問われてよいと思います。
みなさんは、いかがお考えでしょうか? ちなみに、『ロバート・フック:ニュートンに消された男』は朝日の大佛次郎賞を取った書物です。10時40分からの会議は、予定よりも15分ぐらいはやく終了しました。ありがたい。妻が作ってくれた(妻は、9月から4ヶ月間、日によっては4人分のお弁当を作ることになりました)お弁当を食べてから、今度は、大森荘蔵著作集と伊東俊太郎著作集の伝記的部分を中心に読みました。
大森荘蔵著作集全10巻には、月報が挟まれており、そこに大森さんにゆかりのある方々が思い出を書かれています。これが抜群に面白い。そして、私の調査にとっても有用な情報が含まれていました。
いろいろ面白かったのですが、まずは今の駒場のヘッド村田純一氏の話を紹介しましょう。村田さんはもともとロシア語クラスで、ドイツ語は勉強しはじめたばかりであったが、大森先生と話して卒論にはフッサールを選ぶことにした。すると次の指示があった。
「フッサールをテーマに選んだのなら、フッサールの著作を暗記するほど繰り返し読む必要がある。ノートをとったり、カードを作ることも必要だが、手っ取り早い方法として、翻訳でもよいから同じ著作を三冊買い、一冊を書き込み用、二冊目を切り貼りしてノートを作るために用い、三冊目を予備にとっておくのがよい。解説本はすべてそろえて、片っ端から読むこと。」
大森先生がこういう指導をされたんだというのが私には新鮮でした。廣松渉がほぼ同様の趣旨の発言をされていたのは覚えています。哲学を勉強するというのは、そういうことだとすくなくとも私は理解しました。時期的な問題もあるでしょうし、何よりも、私が哲学を選ばなかった(大森先生の授業は面白かったので、出るだけは出ていました。)せいでしょうが、私/私達には、大森先生は自分の読書の姿を見せなかったと思います。
しかし、哲学者(の卵)には、まっとな哲学の勉強の仕方を指導されていたわけです。
私も実は、卒論指導は大森先生に受けています。卒論生が取るべきそういう授業が用意されていました。しかし、一度お部屋に行って、こういうテーマの卒論を書こうと思っています、と説明しただけでした。「マートンテーゼ論争の分析」というのが私の選んだテーマですが、どうも大森先生は、この種の主題には興味がないらしく、ふーん、まあ、頑張ってやりなさい、といったような感じでした。関心のない大森先生に、まずウェーバー・テーゼというのがあって、その科学版と言えるマートン・テーゼというのがあります、その論争史をやりたいと説明したのですが、それ以上の説明は要さない(要するに聞きたくない)という雰囲気でしたので、それだけでした。冷淡というより、ただ本当に関心がないという風情でした。(出来上がった私の卒論のタイトルは、「17世紀科学の社会的思想的背景:マートンテーゼの検討」というものです。内容は、上述の通り、論争史の分析です。)
実際、こういう話題には、ずっと関心がなかったと思います。伊東俊太郎著作集全11巻の最終巻に収められた「我が師・我が友・我が人生」も非常に興味深く読みました。
372頁に次の言葉があります。「そのころのセミナーには、高橋憲一、佐藤徹、五十嵐一、三浦伸夫、鈴木孝典、楠葉隆徳、斎藤憲、伊藤和行、羽片俊夫、小松真理子、和泉ちえらの皆さんのように、後に科学史学で大いに活躍することになる俊英たちが集い、まことに楽しい授業をすることができた。ギリシャ語やラテン語やアラビア語やイタリア語のしんどい授業であったと思うが、みんなよくついてきてくれた。このころが私の科学史における黄金時代だったと思う。」
素直な吐露かと思います。そして、ここに名前が挙がっている方々が、伊東先生の弟子と呼べると思います。私自身は、伊東先生の授業にはほとんど出ていません。学部後期課程に進学したばかりの入門の授業(出された課題が想定外だったこと、ならびに「そうしたことに関しては、イタリア語の○○の百科辞典がとてもよい」と発言されたことをよく覚えています。え、そんなことを言われても、という一般学生の反応です。)と柴田有先生がでてこられたギリシャ錬金術の授業(私の大学院生時代のほぼ最後のころです)の2つだけだと思います。私にはもちろんギリシャ語はあてられなかったので、そこはお客さんですが、柴田有先生のギリシャ語の発音の流麗さに感心したことはよく覚えています。ギリシャ語表現のいくつかの決まり切ったフレイズは、まだ耳に残っています。それから、再び、中島秀人氏の『ロバート・フック:ニュートンに消された男』を頭から読み始めました。いくらか違うと思うところがあります(たとえば、フックのイオウ説の部分)が、この本そのものはよく書けていると思います。一般読者の方には、フックを知りたいということであれば、この本を薦めます。
半分ぐらいまで読んだところで、4時半から5時半までの会議。学部のコース会議です。これはとても頭の痛いものでした。頭を抱えた同僚が大勢いました。どうするのでしょう?
ともあれ、私は、会議終了後、すぐに帰りの電車に飛び乗りました。多磨駅5時52分発の電車です。武蔵境で中央線を待っている間に、空が真っ暗になり、大粒の雨が降り始めました。本格的に降るのはいつかはわかりませんが、夜には降るだろうとという空になっていました。
[科学史分野日本の博士号:追補3]
2009 平成21年3月17日 桃山学院大学 博士(比較文化学) 乙第6号
藤岡毅「ルィセンコ主義はなぜ出現したか :生物学の弁証法化の成果と挫折」
ひとりおくれて7時半。全員起きていました。猛暑再来!子どもたちの行きたいところがあわず、今日はばらけることとなりました。まず、朝一番で、長女のパスポートを立川にもらいに行くこととしました。私と二人。8ガジ45分頃家をでました。予想通り、立川には9時25分に到着。お店はまだ開いていませんが、パスポートセンターは、9時から営業です。日曜日は、申請業務を受け付けていないので、閑散としています。切り替え5年で、6千円。
そのまま帰るのが嫌だというので、伊勢丹、高島屋の方に行ってみることとしました。立川はまた独特の街の作りとなっています。基地があったせいでしょう。草原の手前まで行って戻ってきました。不思議なモニュメントが多くおかれていました。何でしょうか? どこもかしこもまだ閉まっていることを確認して諦めたのでしょう、もう帰るというのでそのまま帰途へ。長女へのママからの伝言だということで、三鷹駅のなかでお昼ご飯のお弁当を買って帰ることとなりました。5人分はそれなりの重さになります。
帰ると、ヨドバシ(ポケモンゲーム)に行きたくてうずうずしていた幼稚園児がうるさくしています。ささっt全員お昼ご飯を食べて、今度は下の二人を妻がヨドバシに連れていきました。長女は1時から近所の神社のお祭りに友達二人とでかけます。
そういえば、一昨日、八耳さんより次の本を送ってもらいました。
足立元之編著
『川本幸民の遠西奇器述 解読』NPO法人 歴史文化財ネットワークさんだ、2010
川本幸民の有名な『遠西奇器述』を現代語訳し、解説を付したものです。市販はしていないかもしれません。NPO法人 歴史文化財ネットワークさんだ に問い合わせてみられると入手できるかもしれません。
遠西奇器、とは、写真機、電信機、蒸気機関、マッチ、気球、ビール等です。ちなみに、ビールは幸民のレシピによって日本で初めて作られたビールの復刻版が販売されています。今年の化学史年会のときに、八耳さんがサンプルをもって見えたので、味見することができました。ヨーロッパの地ビールに近い味でした。
ひとりで7時15分。妻と幼稚園児はよく寝ています。ちびどもはたぶん同じぐらいの時刻に起きて、部屋でなにか歌を歌っています。晴れ。今日は猛暑が再来するそうです。昨夜、ひとりでぼんやりとテレビを見ていました。ふと、History チャンネルに変えると、9.11のテロのドキュメンタリーを放映しています。最初の30分ほどは何が起きたのかまったく理解できない様子がよくわかります。2機目が突っ込んだあと、おおよそ事態がつかめたようですが、では、何をどうすればよいのかがわからない状況が続きます。事態の推移を知っている我々の立場(後知恵)で言えば、どうするのがよかったのはある程度言えますが、現場の様子を見る限り、貿易センターの近隣から一般人を遠ざけ、救急車と警察車両の通行を確保する、ということだけはわかりますが、その他のことに関してはどうしたものか途方にくれるしかなかったことが見て取れます。
そうした中でも救急隊員達は、ビルのなかに救出に向かいます。日本のテレビのニュースが伝えない、現場の時間の感覚、ほんとうに現場にいるのにまるでテレビ画面で見ているしかないときのような、不思議な現実感覚が襲ってきます。
これをついつい見てしまって、今朝は睡眠不足に陥っています。夕刻、駅前の本屋さんに言って、ちびどもの『コナン』(第69巻)と『中央公論』の最新刊(2010年10月号)を買ってきました。特集「消えた100歳老人、堕ちた倫理」の3本がなかなか面白いものでした。「堕ちた倫理」というタイトルとは違って、むしろ、現状を把握し、そうなった理由を探っています。松原隆一郎氏の「〈野垂れ死にする自由もある〉 問題とすべきは年金詐欺のみ」は、正論です。「年金や介護手当等の福祉や公共サービスを提供する際には」本人と対面の上、本人から領収書を受け取ることを徹底すればよい。「本人が顔を見せるのが嫌だというのなら、福祉を停止すればいい。」年金や公的サービスの不正受給を防ぐには、この松原氏の意見が一番よい点をついていると思います。
日がすっかり暮れてから、次の本がアマゾンより届きました。
平川秀幸
『科学は誰のものか:社会の側から問い直す』NHK出版、生活人新書、2010
発行日を見ると、9月10日です。本屋さんに並んだばかりと言えるでしょう。昨日に続き、みんなが寝静まってから、History チャンネルと National Geographics チャンネルを見ていました。両方とも、9.11のドキュメンタリーです。今日は、ナショ・ジオの方を見ていました。アメリカ全土の航空管制の場面(すべての飛行機に緊急着陸の指示を出した)、空軍の発進の場面、そして、ツインタワーが崩落するシーン。
6時15分起床。昨日と同じく妻はお弁当の準備中。居間の室温も昨日と同じく25度。幼稚園児が出た後、家をでて、駒場へ。久しぶりの図書館での仕事です。
まず、4階で、『大森荘蔵著作集』と『伊東俊太郎著作集』の年譜の部分を中心にコピーを取りました。
『科学史研究』1975年春号(通巻113号)から「第14回国際科学史会議」の部分、pp.37-48 をコピーしました。1974年8月19日から8月27日まで東京(日本都市センサー)と京都(国立京都国際会館)で開催された「第14回国際科学史会議」の報告記事です。藪内清、辻哲夫、吉仲正和、鈴木善次、小林達也、中山茂、山崎俊雄、伊東俊太郎の8氏が執筆しています。
意外だったのが編集後記で、石山洋氏が「本誌編集委員長廣重徹氏が1月7日逝去された。専攻の物理学史ばかりでなく、科学体制史の面でも優れた業績を残され、他の人なら天寿を全うしても、これだけ多くの仕事をできるだろうかと思われるほど、精力的だった彼が癌疾のため、50前の若さで亡くなったことは痛恨の極みである。・・・
廣重氏は学会が幅広く活動するよりも、レベルの高い機関誌を刊行し、盛んな年次大会を開くことにしぼるべきである、という意見で、・・・」
国際学会を開き、学会全体がほっとした瞬間に廣重徹氏が亡くなったことがよくわかります。次に、その1974年の国際科学史会議の論集、 Proceedings / XIVth International Congress of the History of Science, Tokyo & Kyoto, Japan, 19-27, August, 1974 (Tokyo : Science Council of Japan, 1975) から No.2 "Plerary Lecutures; Antiquity, Middle Ages and Renaissance; Mathematics; Physics and Astronomy; Chemistry" のなかの、Chemistry の部分のみ、pp.367-453 コピーと取りました。
そして、おそらくご本人から頂いたのに、どこに行ったのかわからなくなっている次の論文。
Yasu Furukawa, "From Chemistry to History: Historians of Chemsitry and Their Community in Japan," Historia Scientiarum, Vol.6, No. 2 (1996), 87-107それから科哲教室に寄って、次の2点を頂きました。
竹内敬人「玉蟲先生と一般教育」『科哲』第4号(2002), pp.37-41
竹内さんが科哲に進学された1958年4月の時点で、科哲の専任は、大森助教授と伊東助手の二人であった。ちなみに、玉蟲さんは、翌春(1959年3月末)定年退職されています。(玉蟲さんは、化学教室所属であったと明言されています。)科学史・科学哲学 博士論文・修士論文・卒業論文一覧
2007年までですが、これで、科哲の出した科学史博士号はほぼわかります。これにより、以下の情報を追加します。
([科学史分野日本の博士号:追補2])2001 平成13年6月28日 東京大学 博士(学術) 乙第15094号
松永俊男「ダーウィン進化論の自然神学的背景」1998 1998.3.30 東京大学
佐藤賢一「関孝和、建部賢明、建部賢弘編『大成算経』の研究:角術の分析を中心として」2002 2002.3.29 東京大学
林知宏「ライプニッツ数学思想の形成」2002 2002.3.29 東京大学
高橋秀裕「ニュートン数学思想の形成」2006 平成18年3月9日 東京大学 博士(学術)
篠田真理子「20世紀前半の日本における天然紀念物 : 科学・政策・自然保護の接点(Natural monuments in Japan in the first half of the 20th century : the interface among science, policy and nature preservation)」科学史ではないと判断したものは、ピックアップしていません。(しかし、もしかしたら、科学史に属するものかもしれません。もしそういうものがあれば、これも是非、お教え下さい。)
6時起床。妻はお弁当の準備中。室温25度。台風一過の晴れとはいかず、曇っています。しばらく曇ってくれている方がたすかる。幼稚園児は、今日からお弁当。昨日は東急から帰ってきたときまっしろな顔をしていました。疲れているしるしです。カレーをたくさん食べ、お風呂に入ったあとは、いつもの顔に戻りましたが、猛暑のなかの幼稚園は、午前中だけとはいえ、疲れるでしょう。来週には慣れてくれるでしょうか。
学会の仕事を行い、家まわりの片づけを行ったあと、室温を見るとやはり25度。
今日の私の中心的仕事は、J-COM のケーブル取り替え工事の立ち会い。打ち合わせのときには、午後3時といわれていたのですが、1時過ぎに見えました。そして、2時前に終了。電話もテレビもネットもOKです。我が家の場合、J-COM はライフラインです。工事が無事完了してほっとしています。
夕刻、次の本がアマゾンのマーケットプレイスから届きました。
山田圭一『現代化学技術史』コロナ社、1966
山田圭一氏は、1958年にゲッチンゲン大学で理学博士号を取得されています。そして、1964年東京大学で工学博士号を取得されています。
この本は、「現代の化学技術の全体の流れを概観」するためのものです。先行研究としは、山崎俊雄『化学技術史』(1953)をあげています。山崎さんの概観から山田さんの本の「10数年の間に、化学技術の主流は、石炭化学や電気化学を中心とする体系から、石油化学や高分子合成技術などを基幹とする」体系へと大きく変貌している。その変貌に対応するために、新しい化学技術史が必要とされようと書かれています。化学産業、化学工業に焦点をあわせる化学技術史と言えるでしょう。
1.近代的無機・物理化学技術の成立と展開
2.近代的有機合成技術の展開
3.高分子合成技術の成立と展開
4.エネルギー資源の開発と利用
5.石炭化学と石油化学
6.反応の制御と化学装置の工学
7.化学工業と研究開発
6時半起床。妻はお弁当と格闘中。室温はやはり29度。久しぶりの晴れ間のない曇り。わずかに雨が降ったようです。ちびどもはすぐに起きてきました。7時。幼稚園児の泣き声が聞こえました。幼稚園が始まってリズムが作れていないようです。疲れた顔をしていますし、よく泣きます。おお、そして、雨の音が聞こえてきました。なんだかほっとします。→お昼に近づくと雨足が強くなってきました。室温も28度となっています。自然に室温が29度を割ったのはいつ以来のことになるでしょうか?
12時過ぎに帰宅した幼稚園児は、雨が小降りになった1時過ぎに東急に出かけていきました。昨日からの約束なので、ママも諦めて付き合うことにしたものです。帰りは運次第です。現在のように小降りかもしれませんし、どしゃぶりかもしれません。
結局台風は、昨日の夜天気予報が言っていた進路とはずいぶん違い、能登から南に降りてしまい、すぐに熱帯低気圧にかわりました。今日の夜に台風の雨を覚悟したのですが、天気図の雨雲を見ると、今夜、この地で本格的に降ることはないようです。
外の気温は25度まで下がったようです。居間の室温も27度まで下がっています。窓から流れ込んでくる空気がひんやりとしていて、ほんとうに気持ちがよい。[科学史分野日本の博士号:追補]
古川さんより、渡辺正雄氏の博士号のことを教えてもらいました。渡辺正雄氏は私の学部時代の先生ですが、すっかり忘れていました。1961 昭和36年7月27日 東京大学 文学博士
渡辺正雄「一七八○-一八五〇年期の英国に於ける熱理論の発展」1962 昭和37年3月31日 東京大学 理学博士
渡辺正雄「熱運動論発展の過程」これはちょっと不思議です。渡辺先生が学位を二つもっているのは知っていましたが、二つの学位の間に半年しか差がありません。タイトルから判断すれば、ほぼ同一の内容、あるいは同一の内容の2側面というふうにしか見えません。どういう仕組みになっていたのでしょうか?
2004 平成16年12月24日 東京大学 博士(学術)
岡本拓司「Percy Williams Bridgman and the evolution of operationalism(パーシー・ウィリアムズ・ブリッジマンと操作主義の展開)」こちらは、現在の駒場のスタッフの岡本氏の博士論文です。英語で数百ページの博士論文を執筆したということは聞いていたのですが、テーマがこういうものだとは初めて知りました。ノーベル賞関係で書かれたものと思いこんでいました。調べてみないとわからないものです。
ところで、パーシー・ウィリアムズ・ブリッジマンて、だれじゃ? ウィキで見てみると、ノーベル賞を受賞した物理学者でした。高圧研究と操作主義で有名なようです。岡本氏の博士論文はこの操作主義を研究したものでしょうか?坂本氏から高橋憲一氏のものも教えてもらいました。けっこう忘れています。
1990 平成2年9月27日 東京大学理学博士 乙第9854号
高橋憲一「The Medieval latin Traditions of Euclid′s Catoprica: A Critical Edition of De speculis with an Introduction,English Translation and Commentary(中世西欧世界におけるユ-クリッド『反射光学』の諸伝承)(The Medieval latin Translations of Fuclids: A Critecal Edition of with a Introduction English Translation and Commentary)」 以上、情報をお寄せいただいた古川氏、坂本氏に感謝します。
まだまだ遺漏はあると思っています。科学史分野で博士号を取得された方のお名前を是非お教え下さるようお願い致します。
7時15分起床。ちびどもは、ママといっしょにお弁当作りに精を出していました。昨夜の酒は、それほど残っていません。たすかります。室温は相変わらず29度。我が家では居間の室温は、原則、一日中29度です。クーラーをかけても、クーラーの性能の問題もあり、いつも29度です。よほど強くかけたときだけ28度台に下がっていますが、極めて稀です。
幼稚園児は7時半過ぎ。台風のおかげでやっと明日雨が降るようです。子どもたちに話を聞くと、今日から運動会の練習に入る予定だったのが、見合わせているということです。35度を超えるなかで本格的な運動は避けるべきでしょう。少しずつ気分が悪くなる子がでてきているということです。
午後は、保護者会。3年生です。教室が暑かったというのが妻の感想でした。木曜日には5年生の保護者会。
ひとりで5時30分。室温は相変わらず29度のまま。9月の真ん中頃まで真夏が続くようです。わー。あつ。大学から帰ってきてまずはシャワーを浴びました。
今日は幼稚園児といっしょに出て、大学に行って来ました。9時30分武蔵境発の電車。大学では、まず事務(4階)で書類を1点提出しました。それから、研究講義棟3階で郵便物を1点受け取り、研究室へ。研究室には熱がたまっています。冷えるまでにけっこう時間がかかりました。
本を探す目的もあったのですが、結局見つかりませんでした。本格的な捜索の気力はないので、またの機会としました。
研究所で、スキャンを4冊。それから、図書館で本を返却し、生協食堂2階で昼食を取り、1階の生協でわずかの買い物をして帰ってきました。やはり、駅が暑い。電車に乗る前に、『ダ・ヴィンチ』(2010年10月号)買いました。もしかしたら10年ぶりぐらいかもしれません。表紙の右上に書かれた「山岸凉子『テレプシコーラ』ついに最終回!」の言葉に反応したものです。
10年の連載だったということです。最終回は、ハッピー・エンド。7時から吉祥寺で送別会。ドイツに長期留学する院生です。4名。本人の希望により和風飲み屋。久しぶりに日本酒を飲みました。11時半お開き。
ひとりで6時15分。曇り。室温は29度のまま。
7時過ぎに外に出てみると、かすかに雨。雨量を記録するほどではありませんが、水滴を皮膚に知覚しました。むしろざっと降ってくれるとよいのですが、結局今日もすぐに晴れてきました。[科学史分野日本の博士号]
海外で博士号を取得された日本人研究者のリストは(たぶんまだまだ不完全でしょうが)前に作りました。
日本国内での博士号取得者ももちろんリストを作ろうとはしています。これがなんともやっかいです。博士論文の検索サイトはありますが、検索のコツをつかんでいないのか、なかなかうまく行きません。
おそらく、もっとも早い例だと思われる3人までは見つけました。1958 昭和33年11月14日 東京大学理学博士
板倉聖宣「古典力学と電磁気学の成立過程とその比較研究」1961 昭和36年3月29日 東京教育大学 文学博士
八杉龍一「科学史的分析に基づく進化学方法論の基礎的考察」1961 昭和36年11月1日 東京教育大学 文学博士
田中実「近代原子観の成立に於て化学研究が果した役割の科学史的考察 : 原子観史への一寄与」1961 昭和36年7月27日 東京大学 文学博士
渡辺正雄「一七八○-一八五〇年期の英国に於ける熱理論の発展」1962 昭和37年3月31日 東京大学 理学博士
渡辺正雄「熱運動論発展の過程」1976 昭和51年3月25日 北海道大学 理学博士 報告番号*乙第1363号
道家達將「生化学成立過程の科学史的分析に基づく生命研究方法論の基礎」1985 昭和60年6月30日 東京工業大学博士(学術) 甲第1684号
山口宙平「H.von Helmholtzのエネルギ-保存則形成過程の研究」1990 平成2年9月27日 東京大学 理学博士 甲第8754号
斎藤憲「エウクレイデス「原論」における比例論の研究」1990 平成2年9月27日 東京大学 理学博士 乙第9854号
高橋憲一「The Medieval latin Traditions of Euclid′s Catoprica: A Critical Edition of De speculis with an Introduction,English Translation and Commentary(中世西欧世界におけるユ-クリッド『反射光学』の諸伝承)(The Medieval latin Translations of Fuclids: A Critecal Edition of with a Introduction English Translation and Commentary)」 1991 平成3年3月26日 東京工業大学博士(学術) 甲第2307号
菊地重秋「ベンゼン分子構造論史―芳香族セクステット説とヒュッケル則―」1993 1993-06-30 東京工業大学博士(学術) 乙第2498号
杉山滋郎 「J.Tyndallの物理科学的研究と粒子論的物質観」1995 平成7年3月10日 東京大学 博士(学術) 乙第12178号
中島秀人「ロバート・フックの科学研究―天文学・光学研究を中心として」1998 東京工業大学
梶雅範「メンデレーエフによる元素の周期律発見と発見に至る過程の歴史的考察」2001 平成13年10月26日 東北大学 博士(国際文化) 報告番号*乙第8121号
高橋智子「19世紀物理学とその実験的研究の展開 : 理論と実験の関係をめぐる科学史論的試論」2002 京都大学
伊藤和行「ガリレオの数学的運動論」2003 東京大学大学院総合文化系
本間栄男「17世紀ネーデルラントにおける機械論的生理学の展開」2004 平成16年12月24日 東京大学 博士(学術)
岡本拓司「Percy Williams Bridgman and the evolution of operationalism(パーシー・ウィリアムズ・ブリッジマンと操作主義の展開)」2004 東京大学大学院総合文化系
山田俊弘「17世紀西欧地球論の発生と展開―ニコラウス・ステノの業績を中心として―」2004 2004年12月31日 東工大 博士(学術)
水沢光「太平洋戦争初期における旧日本陸軍の航空研究戦略の変容」2005 2005年04月30日 東工大 博士(学術)
岡田大士「東京工業大学における戦後大学改革に関する歴史的研究」2006 2006年3月26日 東工大 博士(学術)
恒川清爾「明治期における技術者の分析 : 近代技術確立をめぐる職人と職人的技術者」2006 東京大学大学院総合文化系
坂野徹「日本人類学の軌跡─1884─1952年」2007 東工大 2007年3月26日 博士(学術)
小林学「19世紀における高圧蒸気原動機の発展に関する研究」2007 東工大 2007年3月26日 博士(学術)
加治木紳哉「国家プロジェクトによる輸送技術開発の歴史的分析」2007 東工大 2007年3月26日 博士(学術)
奥田謙造「冷戦期のアメリカの対日外交政策と日本への技術導入 : 読売新聞グループと日本のテレビジョン放送及び原子力導入 : 1945年〜1956年」2007 5月 京都大学 文学博士
瀬戸口明久「〈害虫〉の環境史──日本における応用昆虫学の成立と展開」2007 東工大 2007年9月25日 博士(学術)
詫間直樹「戦後日本における計量標準の設定・維持・供給の歴史」2008 東工大 2008年9月25日 博士(学術)
荒川文生「日本における電力系統技術の発展に関する研究」2007 H19.3.8 東京大学 博総合第708号
河野俊哉「プリーストリの化学と18世紀のイギリス社会」2007 H19.3.22 東京大学 博総合第733号
泊次郎「日本におけるプレートテクトニクスの受容」2008 H20.2.28 東京大学 博総合第791号
隠岐さや香「十八世紀パリ王立科学アカデミーと「有用な科学」の追求: 理想の学者像と道具的専門性の狭間で」2008 H20.4.24 東京大学 博総合第825号
三村太郎「アッバース朝におけるギリシャの学問の存在意義とは何か −論証科学の展開を中心として」2009 東工大 2009年3月26日 博士(学術)
小長谷大介「19世紀末ドイツの熱輻射実験の展開―目的・機器・機器構成を介しての実験プログラムの相互交流」2009 九州大学 比文博乙第0022号
菊地原洋平「パラケルススの「徴」の教義」2009 東京大学 東京大学大学院総合文化系
金山浩司「ソヴィエト連邦における物理学哲学論争:1930-1941年」2009 東工大 2009年9月25日 博士(学術)
野澤聡「ヨハン・ベルヌーイの力学研究―18世紀力学史における位置付けと再評価」この作業はぼちぼち続けます。2007年に出版した「日本における化学史文献:日本篇」では、学位論文の採録を途中で諦めています。その復活ということになります。
情報の提供を歓迎します。ほんとうは実物も集めたいのですが、手間暇がどのぐらいかかるか見当もつきません。
ひとりで6時45分。子どもたちにはよく寝るように言ってあります。道路工事ですが、昨日の言葉通り、ほぼ8時半にスタートしました。がたがたがたがた、どんどん、どんどん。仕方がありませんが、なかなかにうるさい。
1時20分。ピンポーン。終わりました、の挨拶がありました。おお、確かに終わっています。セットバックの工事も同時に行ったので、我が家の前の道の様子はずいぶん変わりました。もちろん、すぐに慣れてしまうと思われますが。
幼稚園児は、10時に七五三の撮影があると言って、10時10分前に出かけていきました。どうもそのまま東急に行ったようです。今日は準備万態(すなわち、ポケモンカードをもって)です。
6時15分起床。妻がひとりでお弁当の準備をしていました。空気はすこし秋っぽくなっていますが、気温は真夏のまま。室温29度。小学生は、6時半前に起きてきました。幼稚園児は、よく寝ています。昨日友達のお家に行って疲れたようです。我が家の幼稚園児の場合、男の子の遊びが好きなのですが、仲間になるための前提条件を共有していません。たとえば、○○ごっこ、といった場合の、○○の部分に入る、テレビ番組を見ていません。親が方針として見せていないのではなく、やっているよと見せても、こわいといって見ようとしません。また、今我が家の幼稚園児のお気に入りのポケモンゲームも、お友達にとっては過去のものになっているようです。こういうのは、まあ、しかたない。
その代わりにというわけでもないのですが、女の子にはかばってもらっていることがあります。また、小学校2〜3年生以上の年長の男の子で、小さい子が好きな子にはよく遊んでもらっています。朝の8時前から、工事の人が来ました。まず、街灯を撤去するようです。それから道路工事でしょうか。
→工事は予想外の展開となりました。まず、新築工事のセットバックを先に行っています。道路工事は、騒音も振動もなかなかうるさい。そして、夕刻、我が家の前の私道部分もアスファルトが劣化しているので、明日張り替えます、との言。明日も一日うるさくなります。
妻とほぼ同時に6時前。妻は、お弁当の準備のため、学校があるときには、この時刻に起床します。昨日持ち帰った編集委員会の仕事をしていました。結局、2回郵便局に行き、計4通の郵便物を出しました。メールは8通。
11時に、幼稚園児がお友達のお家に遊びに行きました。午後1時、J-COMさんがケーブル取り替えの工事に来ましたが、こういう古いケーブルは手持ちにはない、また来るということで来週の木曜日に付け替え工事となりました。
東浩紀・宮台真司『父として考える』(NHK出版、 生活人新書、2010)を読みました。東氏も宮台氏も、女の子の父(東氏の場合一人、宮台氏の場合二人)であって、男の子の父ではない、また母親の視点・問題がほとんど触れられていないという与件に基づく欠落がありますが、面白い本となっています。(「父」という存在は、「母」の対としてあります。「父として考える」ためにも、「母」の視点は必要だったと思います。)個人的には若者論(大学生・大学院生についての現状診断)のところが面白かった、あるいはもっと正確に言えば、私の実体験に照らしてもよくわかる話でした。
「地域」の中核には「小学校」がある、そして、日本社会においてそれ以外の地域はもうほとんど存在しない、という指摘もその通りだと思います。その意味で、私の母の実家のある山村は、小学校を廃校にし、さらに校舎そのものを撤去してしまいましたから、「限界集落」への坂道を下り始めたことになります。日本中にそういう場所はそれこそやまのようにあると思われます。
私自身、どうするのがよいのかわからないのですが、「地域主権」を主張するのであれば(そして、「地域主権」は日本社会の現状においては正しい主張だと思われます)、こういう問題をどう捉え、どう対応するのか確たるビジョンが必要だと思われます。
私の某友人のような、合理主義者は、生存競争に委ねる(要するに、特段何もしない)ことを主張します。「限界集落」を救うための、大きなお金をかける余裕は日本社会にはもうないと思います。しかし、「限界集落」であれ「社会をまわる」ようにするためのやり方は残されているではないかと思います。いずれにせよ、子の親になってはじめてわかることは多くあります。その点に関してはほとんどの父は、同じ感想・認識になると思われます。
5時起床。蝉がうるさく鳴き始めています。薄明。室温29度。9月になりました。いましばらく真夏が続きます。
妻はお弁当を作る必要があり、6時前に起きてきました。午前中に編集委員会とWG。東工大にお邪魔します。
10時開始なので、9時前に家をでました。余裕をもって出たはずなのですが、山手線が少し遅れて、ちょうど10時に東工大の会議室に到着しました。
1時間予定だったのですが、いろいろ案件があり、45分ほど超過しました。そのあと、40周年WG。梶さんの都合で、12時半まで。
その後は、東工大の100年記念会館で、昼食。
この時期ですが、他の方は、午後他にも仕事があるようです。代々木の時点で私一人となりました。帰宅は、小学校の下校の時刻と重なりました。真夏の暑さです。小学校では水筒持参となったようです。こまめに水飲みタイムを設けると言っていました。
すこし休んでから、編集委員会から持ち帰った仕事に集中しました。今回は量があります。明日の午前中までで何とか宿題はこなすつもりです。
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