日本対パラグアイ戦。
前半は0対0で折り返しました。両チームにとって計画通りでしょう。
90分でも決着がつかず、延長戦。
延長戦でも得点が入らず、0対0。
PK戦。一歩及ばず、敗退。
こうして日本の南アフリカワールドカップは終わりました。ひとりで5時5分。ご飯をしかけてから、おおきいちびを起こしました。5時15分と言っていたので、5時15分に起こしました。8時半に布団に入ったが、8時45分まで眠れなかったと言っています。もちろん、上出来です。昨夜ワールドカップを見てしまったたぶん多くの先生は、2時睡眠で、(通勤時間を考えて)たぶん4時半起床でしょうから、睡眠時間がとれていません。子どもたちだって、もう5年生6年生ですから、親といっしょに(親に早く寝ろと叱られながら)最後まで見た子はいるでしょう。バスのなかで爆睡することでしょう。
おおきいちびが6時15分に無事出かけたのを見送ってから、再度就寝。8時過ぎに、幼稚園児にパパ起きろと言って起こされました。街の中はワールドカップの話題で持ちきりのようです。
おおきいちびが出かける頃にはまだわずかに雨の気配があったのですが、それから天気がよくなり、午後は晴れました。最高気温が27度ということで、このぐらいの暑さならば、気持ちのよい夏です。
日本対パラグアイ戦。
前半は0対0で折り返しました。両チームにとって計画通りでしょう。子どもたちが起きて、6時50分。雨。梅雨らしい雨が降っています。
幼稚園児がでかける頃には雨は上がっていました。ただし、湿度は非常に高いまま。まるで蒸気のなかにいるような感じです。
妻は、つかれた、といいながらともかく幼稚園児を送り、PTAの仕事にでかけていきました。ぼちぼち回復気味ということです。
おおきいちびは、明日の朝から移動教室=すなわち、修学旅行ということです。どうも杉並区では、修学旅行はせず、5年生6年生がいっしょになって伊豆に2泊3日で行くようです。
昨日届いていた『科学史研究』2010年夏号(第49巻通号254号)を読んでみました。エルンスト・ヘッケルのKunstformen der Naturに邦訳がでていることを初めて知りました。書誌は次のように記されています。
小畠邦生日本語版監修、戸田裕之訳、エルンスト・ヘッケル
『生物の驚異的な形』
河出書房新社、2009、141頁、2800円+税
原著:Art Forms in Nature: The Prints of Ernst Haeckel, Prestel, Munich, 2004
この英訳版はもっています。評者の矢島道子さんによれば、日本語版出版の経緯はどこにも書かれていないとあります。ああ。
ひとりで5時55分。曇り。妻がダウンしているとなにやかやと忙しい。幼稚園児のお弁当を用意して、朝食も一応食べて外出すると、幼稚園児がはしる、はしる。とてもついていけません。途中お友達といっしょになって、二人ではしっていました。その子のお母さんはたぶんまだ若いのでしょう。おいかけてくれました。りっぱ。
駅で(昨日なんとかこなした)仕事を投函してから大学へ。
まず、コピー。3部ありました。
それから研究院事務室へ。次の本が献本されていました。
ギョーム・デュプラ文・絵、博多かおる訳
『地球のかたちを哲学する』
西村書店、2010
小学校高学年から中学生ぐらいが対象の絵本です。ボローニャ国際児童図書賞受賞、とあります。しかけ絵本ですが、よくできています。博多さん、ご高配、ありがとうございます。柳原さんより次の本がおくられていました。柳原さん、いつもありがとうございます。
柳原孝敦
『映画に学ぶスペイン語―台詞のある風景』
東洋書店、2010
妻がダウン中なので、今日は、2限の講義のあと、おむすびを一個だけ食べてすぐに帰途に着きました。もうすこし早く帰りつけると思ったのですが、帰宅して1時15分前後でした。妻はいちおう起きていました。近所の方が病気だと聞いて、差し入れをもってきてくれたということで、昼食をすませたところだったようです。
しばらく休憩してから、幼稚園児の迎えに自転車で出ました。B組になってから迎えに行くのははじめてです。先生の顔をはじめて見ました。次に町中であってもまだわからないと思います。C組さんのおかあさんたちも全く知りません。そう、なおのお友達のおかあさんを何人か知っていましたが、おおかたは知らない人ばかりです。
ワールドカップテレビ観戦もあって、リズムが乱れています。7時のNHKのニュースをぼんやりと見たあとぐらいにやっと普通に戻りました。今日すごく蒸し暑かったせいもあり、身体に力が入らないままでした。
妻の熱ですが、どうもウイルス感染症の模様です。今朝のPTAの会合は休んでいます。明日は出ると言っています。
ひとりで7時10分。曇り。まだだれも起きてきていません。妻の熱は37度代まで下がっていますが、全身が痛いと言って、起きてこられません。状態から見て、復活は火曜日かなと見ています。
忙しいときに、仕事が重なる。
幼稚園児が目覚めて6時半。曇り。
妻がダウン中。蓄積疲労か風邪と思われます。午後に編集委員会。
3時〜4時過ぎ:40周年WG
4時10分〜6時10分:編集委員会
妻が寝込んでいるので私は終わると同時に帰途へ。7時過ぎに帰宅すると、子どもたちが3人揃って、サンドイッチを食べています。ママは39度を超える熱を出したと言っています。私は急いでお風呂に入り、冷蔵庫にあるもので、夕食をつくり、ささっとすませました。ちびどももサンドイッチだけでは足りなかったようで、ご飯をすこしとキムチを少し食べていました。
上の方から音がするので行ってみると、妻が汗まみれ。汗が出たので、熱は7度代まで下がっていました。明日一日休んで月曜日にはすこし回復するでしょうか?子どもたちが寝床に着いたあたりから雨が降ってきました。もうすこし早めに降り出すかと思っていましたが、9時前となりました。
やはり昼間はネットが繋がらない時間が多い。ここんところこういう状態が続いています。夜には繋がるようになります。連絡が遅れがちなこと、ご勘弁下さい。
→朝からずっと繋がりません。こまるな。(子どもたちといっしょに寝て、1時に目覚めました。)もうすぐ日本対デンマーク戦。テレビはずっと特番をやっています。うるさすぎです。
ところで、日本中で今日本対デンマーク戦を見ようと思って起きている人はどのくらいいるのでしょうか?午前4時20分。小鳥たちがにぎやかにさえずっています。2対0で折り返しました。
午前5時20分。3対1で勝利。これで日本サッカーは一歩階段を上がったと言えるでしょう。本日2回目の起床は、7時20分。子どもたちは元気にしていました。晴れ。
ひとりで6時5分前。参議院選挙の公示がありました。
午後に3コマの授業。
授業が3コマ続くとほんとうに余裕がありません。あっというまに5限の終了時刻を迎えます。
ひとりで6時5分。雨。久しぶりに朝雨が降っています。→幼稚園児が幼稚園にでかける時刻には、ほぼあがりました。晴れたわけではないので、まった降ってくるかも知れません。妻も私もなんとか日常生活を送れるぐらいには回復しましたが、元気になったとまでは言えません。
午後につづけて教授会が3つ。ああ。
最初の学部教授会が2時から始まりました。最後の大学院教授会(研究科教授会)のひとつのテーマがもめて、終了が8時前。それがなければ6時半に終了していました。帰宅して8時半。こんなに遅くなるのは久しぶりでした。はじまるまえに記した「ああ」は当たってしまったことになります。ああ。
ひとりで5時15分。曇り。昨日から妻が風邪気味。幼稚園児の風邪をもらったようです。幼稚園児がでかける直前にゲラが届いたこともあり、予定していた駒場図書館での調査は延期して、午前中はゲラにかかることとしました。妻は、PTA。10時前にでかけて、1時半に帰ってくると言っています。
どうも私自身も風邪気味のようです。重くはありませんが、眼の奥が痛い。妻はいろいろあって、よれよれに近い。
午後の4時前にやっとネットが開通しました。J-COMの不安定な接続状態がまだ続いています。(多くは、昼間繋がらない。夜になると繋がります。)
午後、次の本が届きました。
『教養学科の三十年 1951-1981』東京大学出版会、1982
[表象文化論]
駒場のことを調べるのであれば、「表象文化論」に触れないわけにはいかないでしょう。基本を押さえておきたいと思います。1987年4月1日、教養学部教養学科第一(総合文化)に「表象文化論分科」が正式に設置される。
つまり、学部の後期課程(3年生4年生)としてスタートしたことになります。この点では、「科哲」と同じです。1990年4月1日、大学院総合文化研究科に表象文化論専攻修士課程が新設される。
1992年4月1日、同博士課程新設。
以上、学部後期課程に続き、ほぼ順調に大学院ができたことになります。この辺りが大学院が作られるまでに相当時間のかかった「科哲」との差です。大学院博士課程ができたあたりから、駒場表象の時代が始まったと言えるでしょう。後の東大総長になる蓮實重彦を中心とする「駒場表象学派」と外部からは見えたのではないでしょうか。
ともあれ、駒場の表象は、昭和の終焉の時期から平成の初期にかけての現象だということです。なお、同僚の李先生は、1997年助手就任とあります。
ひとりで6時10分。夏至の日。曇り。ちびどもがすぐに起きてきました。幼稚園児は7時過ぎ。今日も幼稚園児といっしょにでかけました。幼稚園児は、小学校の手前で、お友達と出会い、手をつないで幼稚園まで行きました。
武蔵境の電車は、いつも通り、9時半。同僚の先生がいて、話ながら大学まで。今日はまず、図書館で次のコピーを受け取りました。
大橋広好・大場秀章「追悼 木村陽二郎先生 (1912-2006)」『植物研究雑誌』82(2007):112-114
これには、1949年東京大学教養学部生物学科助教授に移り、1951年には創設された教養学科で科学史の講義も受け持ち、1960年教養学科教授となった、という記述があります。
この記述を信じれば、木村陽二郎氏は駒場の生物学教室(そのときの駒場に生物学科はないはずです)に赴任し、たぶん教養学科に移籍したのが1960年ということだと思われます。玉虫氏も当初は、化学教室所属だったと推測されます。授業のあと、部屋をわずかに片づけて、本棚を眺めていたら、『講座・比較文化』が目に付きました。研究社から8巻本で出版されたシリーズです。編集委員が、伊東俊太郎、井上光貞、梅棹忠夫、岡田英弘、木村肖三郎、佐伯彰一、鯖田豊之、M.B.ジャンセン、高階秀爾、芳賀徹、林屋辰三郎、増田義郎、私が持っていたのは、3巻、4巻、7巻、8巻でした。これは、蔵書カードを取る習慣のできる前に買った書物です。つまり、蔵書リストには上がっていません。
そんなことをしている場合ではないのですが、第8巻『比較文化への展望』に伊東俊太郎氏の論考があります。ともかく、これを読んでみることとしました。
「第5章 比較文化論の系譜 西洋」伊東俊太郎
おお、これがなかなかによくできていて、おもしろい。
ひとり遅れて7時前。今日は父の日ということで、子どもたちが食卓を用意してくれていました。曇り空から薄日が射しています。→すぐに日射しは消えました。J-COMのインターネット接続は、相変わらず、不定期に切れます。ということで、メールの連絡は、通常よりもおそらく半日程度遅れると思います。プロバイダー側の事情なのでこちらはどうしようもありません。ご承知おきいただければと思います。
お昼ごろ、次の本が届きました。
石原あえか
『科学する詩人ゲーテ』
慶應義塾大学出版会、2010著者の石原あえか氏は、慶応の院生時代にケルン大学に留学し、Dr.Phil. を取得。博士論文は、Makarie und das Weltall. Astronomie in Goethes "Wanderjahren", Köln/Weimar/Wien, 1998. その後すぐに、Goethes Buch der Natur. Ein Beispiel der Rezeption naturwissenschagtlicher Erkenntnisse und Methoden in der Literatur seiner Zeit. Würzburg, 2005.
この石原あえか氏の仕事は科学史としても通用すると思います。あるいは、それこそ比較文化としても受容されうると思います。
この本の存在は、中世史家の小澤実氏に教えてもらいました。ありがとうございます。
サイニーで検索をかけてみました。石原あえか氏の仕事はまさに科学史です。たとえば、パリティの次の論考。
石原あえか「オットー・ハーンに消された核物理学者―リーゼ・マイトナー(1)」『パリティ』2005-11, 52-55
石原あえか「オットー・ハーンに消された核物理学者―リーゼ・マイトナー(2) 」『パリティ』2005-12, 44-47
石原あえか「大戦下ベルリンの湯浅年子―パリから大戦下のベルリンへ」『パリティ』2008-08, 66-70
石原あえか「フランスに戻った湯浅年子 国外頭脳流出の先駆け」『パリティ』2008-09, 58-62そして、たぶん博士論文によると思われる次のような論考群。
石原あえか「マカーリエと天文学者―『遍歴時代』におけるゲーテ時代の数学と天文学 (ゲーテと自然科学)」『モルフォロギア』1999, 68-79
石原あえか「パリ・アカデミー論争(1830)―ゲーテ『動物哲学の原理』をめぐる一考察 (特集 形態学と進化論)」『モルフォロギア』2000, 2-11
石原あえか「垂直と螺旋―ゲーテ最後の植物学研究」『慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学』2000, 70-84
石原あえか「詩人の星空 : ゲーテにおける近代天文学受容とその限界」『慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学』2001-9, 1-27
石原あえか「フラスコの中の人工生命 : ゲーテ『ファウスト』におけるホムンクルス・エピソード」『慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学』2003, 1-23
日本対オランダ。1対0で日本の負け。実力の差でした。幼稚園児が起きて、7時20分。
おおきいちびが武蔵境のイトーヨーカドーに行きたいというので、おおきいちびのピアノのレッスンが終わってからでかけることとしました。たった3駅ですが、土日は乗換が必要です。
武蔵境について、11時半。ちょうど昼食時です。西館の地下に行くと、回転寿司ということですぐに話が決まりました。これも子どもたちが前から回転寿司に行ってみたいと言っていたのでちょうどよかった。子どもたちのためにはわさび抜きのものを7〜8皿作ってもらいました。幼稚園児もごはんのほうをよく食べています。一番回転寿司に行きたかったのはおおきいちび。マグロが大好きです。マグロにカンパチにカッパ巻きと王道を喜んで食べていました。ちいさいちびは、肉食系なので、イクラにエビを喜んで食べていました。5人で食べて5千500円。こんなものでしょう。
その後、文房具を少し調達したあと、東館3階に移動しました。おおきいちびが欲しいと言っていたのは、ピラメキーノのグッズ。
幼稚園児はおもちゃ売場で一心に遊んでいます。別のところに遊びに行こうと言って帰途に着きました。結局駅前のコンビニでアイスクリームを買ってやるから帰ろうとなりました。やれやれ。今月は、ここまでで100枚。
イングランドは、アルジェリアと引き分け。2試合続けてです。一次リーグを突破できるでしょうか?フランスについであぶない。
小谷野敦『東大駒場学派』(新書館、2009)を読了しました。私の大学時代の指導教官の村上陽一郎氏は、学部は科学史・科学哲学、大学院は比較です。(まだ科学史・科学哲学の大学院=科学史科学基礎論ができていなかったので、比較に行ったと伺っています。)科学史の仕事もある、というより、日本におけるフランスのエピステモロジーの数少ない専門家の金森修氏も、比較です。
置かれた状況としては、「科学史・科学哲学」と似ているところもあり、似ていないところもあります。一時伊東俊太郎氏も、比較で教えていました。そのときの出席者はほとんど留学生であったと聞いています。なんと、廣松渉も比較で教えていたことがあるということです。しかし、比較の院生の出席者は0であったと記されています。金森修氏は、廣松渉の影響を口にされていますから、比較の院生が出ていないこともあったということではないでしょうか。
この本で名前を出された方々の何人かは知り合いです。困った、と言っていました。まあ、そうでしょう。比較文学比較文化専門課程に関する基本をまとめておきましょう。
1953年新制東京大学大学院の発足にともない、人文科学研究科に「比較文学比較文化専門課程」「西洋古典学専門課程」、社会科学研究科に「国際関係論専門課程」が駒場の地に設置された。
大学院を見ると、1970年理学系研究科に「科学史科学基礎論専門課程」が設置されています。科哲の大学院の設置は、かなり遅いことがわかります。
同時に注意しておくべきは、比較が学部のない大学院として設置されたことです。つまり、しばらくは、比較とは、東京大学大学院人文科学研究科「比較文学比較文化専門課程」を指していたわけです。この辺りが本郷に拠点を置く組織との差です。
そして、科哲と比較もある意味で対照的です。
科哲は創設して20年間は大学院なき、学部として存在しました。日本で唯一の学部後記課程として存続します。
それに対して、比較は、学部なき大学院として出発(1953年)し、それがほぼ40年続いた。1992年にやっと学部後期課程として比較日本文化論分科が作られた。
(私は昭和のうちに駒場の地を離れています。平成になってから誕生した「比較日本文化論分科」の様子はまったくわかりません。しかし、名称がもしかしたら内容をよりよくあらわすようになったとは言えるかも知れません。比較をはずせば、日本文化論分科です。)
世間の比較のイメージは、ほぼ40年続いた大学院のみの「比較文学比較文化」によっていると思われます。公的な説明と私的な思いにあふれる『東大駒場学派』を併せ読むと、おおよそ駒場の比較の特徴がわかります。四天皇の一人、芳賀徹氏は主任のときに比較の学風について次のように書いています。
「それは東西の外国文学文化を体験し、研究しながら、その眼で日本の文学と歴史を見直し、日本研究をおし進めながら、その現場から世界を見晴るかす、という姿勢である。しかもそのとき、総合文化研究科の英訳名にもいわれる「国際」とか「学際」とかは、日常当然のこととして実行しながら、その研究法がときにもちうる社会科学風、ないしは輸入哲学風のこわぐるしさ、わざとらしさは、さりげなくおことわりして我を通す、という芸のこまやかさである。」
あらためてこれを読んでみて、え、「比較」って日本研究をするところなの?、え、「比較」って、哲学と社会科学を敵視するの? という感想を持たれたとしたら、内部にいる人間の実感としてそれが正しかったようです。え?え?です。いわゆるドイツ系の哲学の影響を受けたものを組織として(つまり「比較」の四天皇の趣味・志向として)嫌ったようです。個人として嫌いなのは仕方がないと思いますが、日本で唯一「比較文学比較文化」を名乗る大学院組織が組織としてそういう態度をとるのは、いかがなものかと思われます。問題と言えるのではないでしょうか?
ちなみに、四天皇とは、芳賀徹、平川祐弘、小堀桂一郎、亀井俊介の4人ですが、亀井俊介は4人のなかでは違った場所にいて、芳賀徹、平川祐弘、小堀桂一郎の3名が駒場の比較の顔ということになるでしょう。
初期の芳賀徹氏には、かなり科学史に近い仕事があります。
最初の論文は、次。
芳賀徹「Buffonの科学思想について」『科学史研究』1953-07, pp.24-27
これは科学史そのものの論文です。そして、次。
芳賀徹「ケンペルからツュンベリーへ―十八世紀後半の西欧世界と日本」『比較文化研究』1967, pp.1-36
もちろん、これは、科学史的内容に触れるたしかに比較文化の仕事でしょう。
芳賀徹「徳川日本と西欧世界―ケンペルからツュンベリーへ-上-」『自由』1971-08, pp.177-191
芳賀徹「徳川日本と西欧世界―ケンペルからツユンベリーへ-下-」『自由』1971-09, pp.210-223
芳賀徹「ルソ-と十八世紀の博物学」『思想』1978-07, pp.241-256
たとえば、1割から2割程度、科学史で仕事をしてもらってもよかったのではないでしょうか。そういう気がします。
ひとり遅れて、7時20分。幼稚園児はまだ寝ています。風邪のせいでしょう。朝のうちは薄曇りの晴れ。幼稚園児はほぼ大丈夫な感じですが、幼稚園は午前中だけにしました。はやおかえり。お弁当のないときの帰宅時間に迎えに行きます。
数日前からJ-COMの接続が不安定化しています。繋がる時間帯はあったり、しばらく繋がらなかったりを繰り返しています。妻によれば、昨日の昼間はずっと繋がらなかったそうです。夜には繋がるようになっています。パターンからいって、ネットワーク基幹部またはサーバーに繋がっているどこかで何か工事をやっているのではないかと思っています。問い合わせの電話をかけてみたところ、それも混み合っていて繋がりません。うーん、困った!
午後2時すぎに回復しましたが、仕事で使っている者には大変困った事態です。
おお、ドイツがスロベニアに負けました。クローゼが退場になったあと、1点を入れられて、結局1対0で負け。
アメリカは、スロベニアに対して2点差から盛り返して、引き分けました。
ひとり遅れて、7時前。ともかく今は快晴。今日も暑くなりそうです。
幼稚園児は、昨日帰宅するともう寝ていました。朝方も咳をよくしていました。風邪がぶりかえした/なおっていなかったようです。夜中もぞもぞするので不審に思って、身体を触ると、足の先、手の先、頭のてっぺんが熱い。しばらくすると、その熱が中心部分にまでやってきました。熱を計ると熱が出ています。本人はわりと元気ですが、風邪にはちがいありません。無理をさせずに休ませます。午後に3コマの授業。
イントロは、今日のアジアの都市の気温。東京31度、ピョンヤン30度、台北33度、シンガポール32度。台湾はずっと前に梅雨が明けています。つまり、これはほとんど変わらないという数字です。
3限の講義のあと、ひとりの学生が教壇にやってきて、四阿タイプのカメラ・オブスクーラがディズニーシーにあると教えてくれました。盲点でした。言われてしまえば、あってもおかしくありません。まんなかの冒険とイマジネーションというふうな名前のところにあるそうです。子連れで行って、なかなか親の目的地には行けないのですが、次の機会に実見したいと思います。アルゼンチン対韓国は、4対1でアルゼンチンの勝ち。やはりアルゼンチンは強い。
ひとりで5時50分。子どもたちがまた咳をしています。気温の変化が大きいので、そのせいでしょうか。夜は雨が降っていました。今は曇り。[大森荘蔵氏]
1921年岡山に生まれる
1942年東京帝国大学理学部物理学科入学
1946年東京帝国大学文学部哲学科入学
1951年アメリカ留学から帰国
1953年東京大学講師に就任
1954年から翌5月までアメリカ留学
1982年東京大学定年退官
1997年2月17日没大森先生は、私の学部・大学院(はじめのころ)の先生です。入学時に教養学部長だったと思います。アメリカ留学は聞いていましたが、年譜を見ると、どうも2度行かれているようです。この辺りもきちんと調べてみたいと思います。
東大に着任されたのは、1953年とありますから、教養学科がスタートして3年目です。着任してすぐにアメリカに留学されています。(期間は不明)1955年、すなわち教養学科の5年目からはずっと腰を落ち着けて、駒場におられるようです。金子務さんが「アメリカから帰国された大森荘蔵先生」というのは、この2度目の留学から帰国された大森先生ということだと思われます。
伊東俊太郎氏は、1956年着任とありますから、大森先生が帰った翌年に着任されたことになります。この辺りから、科哲は、大森+伊東体制になったのではないでしょうか。ただし、伊東俊太郎氏は、1961年から2年間アメリカに留学されますから、固まった感じはなかったのかもしれません。[木村陽二郎氏]
1912年山口に生まれる。
1933年東京帝国大学理学部植物学科入学
1938年同副手
1939年同助手
1949年東京大学教養学部生物学科助教授
1954年 パリの国立自然誌博物館に留学
1956年教養学科現代科学第二講座担当
1960年教養学科教授
1973年定年退官
2006年4月3日没木村陽二郎氏に直接お会いしたことも私はありません。私が入学するずっと前に東大を定年退官されています。経歴から分かるとおり、木村陽二郎氏は生物学者です。植物分類学者として出発され、おそらくパリ国立自然誌博物館留学をきっかけに生物学史に開眼され、帰国して1956年から、つまり教養学科の6年目から科学史を担当されたのだと思われます。科哲の創設時の木村雄吉氏が1956年に伝研に転出されていますから、木村氏の後任だったのかもしれません。植物分類学者兼生物学史家ということになるでしょうか。
ということで、科哲の初期は、Chemist Historian と Biologist Historian の方が支えたことになります。Chemist Historian は英語で決まった表現としてあります。Biologist Historian の方はどうでしょうか? なくはないかもしれないが、珍しい例かもしれません。
会議の日。3限の時間帯と5限の時間帯に会議があります。暑くなりました。30度を超え、むしむしします。
いつもより早めに出て、図書館で調査。『教養学科紀要』を見ました。1967年に創刊号が出されています。伊東俊太郎氏が、初期は頑張って多くの論考を寄せられています。
第2号の編集後記に「教養学科が昭和26年に発足して依頼、17年目を迎えてようやく紀要を発刊するまでのまとまりを見せ・・・」という言葉がありました。
渡辺正雄「ガリレイの潮汐論について」『教養学科紀要』2(1968): 19-28
木村陽二郎「中村*斎の「訓蒙図彙」について」『教養学科紀要』5(1972): 105-131
渡辺正雄・小川真里子「D.B. マッカーティー―医師・宣教師・外交官・御雇教師」 『教養学科紀要』7(1974): 37-49
第7号の後記に、1973年10月アジア分科が開設された。学生は初年度4名、次年度6名とあります。
第10号(1977)は、「東西の博物誌」という特集です。しかし、科哲のスタッフは誰も原稿を書いていません。[『教養学科紀要』における伊東俊太郎氏の論考]
伊東俊太郎「アリストテレスと日本―わが国における西欧的世界像の最初の受容―」『教養学科紀要』1(1967): 1-45
伊東俊太郎「近代化の視点―M.B.ジャンセン編「日本における近代化の問題」によせて 」『教養学科紀要』2(1968): 1-36
伊東俊太郎「ユークリッド―その著作と伝承〔含翻訳書リスト〕―」『教養学科紀要』3(1979): 13-56
長さを見て下さい。最初のものが45頁、次のものが36頁、そしてユークリッドが44頁。昔S先生がよく使っていた表現を借用すれば、毎年毎年修士論文を書くような、そういう力作が3年間続いています。
その後は、とくに『自然』における「近代科学の源流」の連載が大きいと思います。のちに伊東先生の代表的著作(『近代科学の源流』中央公論社、1978)としてまとめられる連載です。
伊東俊太郎「近代科学の源流-1-なぜ中世科学史か―その意義と現況」『自然』1976-05, pp.88-101
伊東俊太郎「」『自然』
伊東俊太郎「近代科学の源流-3-キリスト教教父の自然観―中世科学の発端-1-」『自然』1976-07, pp.63-73
伊東俊太郎「近代科学の源流-4-プラトニズムの伝統と初期ラテン科学--中世科学の発端-2-」『自然』1976-08, pp.78-87
伊東俊太郎「」『自然』
伊東俊太郎「近代科学の原流-6-アラビア科学の発祥」『自然』1976-11, pp.89-100
伊東俊太郎「近代科学の源流-7-アラビア科学の開花--数学・天文学・物理学」『自然』1976-12, pp.75-87
伊東俊太郎「近代科学の源流-8-アラビア科学の開花―続-錬金術と医学」『自然』1977-01, pp.105-115
伊東俊太郎「近代科学の源流-9-12世紀ルネサンス―西欧世界の離陸」『自然』1977-03, pp.74-85
伊東俊太郎「近代科学の源流-10-西欧ラテン科学の興隆--ヨルダヌスとグロ-ステスト」『自然』1977-04, pp.88-99
伊東俊太郎「近代科学の源流-11-西欧ラテン科学の発展--ガリレオの先駆者たち」『自然』1977-05, pp.91-103
伊東俊太郎「」『自然』教養学科紀要が創刊される前は、東京大学教養学部人文科学科紀要に多くの論文を執筆しています。
伊東俊太郎「生命の次元に就いて」『東京大学教養学部人文科学科紀要』1957-01
伊東俊太郎「生命の次元について-続-」『東京大学教養学部人文科学科紀要』1958-01
伊東俊太郎「近代科学成立史論―16,7世紀科学革命の研究-上-」『東京大学教養学部人文科学科紀要』1959-01
伊東俊太郎「近代科学成立史論―16.7世紀科学革命の研究-下-」『東京大学教養学部人文科学科紀要』1960-01
伊東俊太郎「中世アラビア科学史研究」『東京大学教養学部人文科学科紀要』1964
伊東俊太郎「14世紀におけるユークリッド「エレメンタ」の一写本―MS Paris, Bibliotheque Nationale latin 7215について」『東京大学教養学部人文科学科紀要』1965
伊東俊太郎「実証的存在論の体系としての科学哲学―私の哲学的立場について」『東京大学教養学部人文科学科紀要』1967
この次が、『教養学科紀要』となります。2つの会議に出席して、帰宅すると、次の2点が届いていました。
木村陽二郎編
『科学史』
有信堂、1971,1991
この科学史の教科書は、1970年の時点における日本の科学史学の水準を知るのによいのではと思い、購入しました。
平田寛「第1章 古代オリエントの科学」
平田寛「第2章 ギリシャ、ローマの科学」
伊東俊太郎「第3章 中世の科学」
伊東俊太郎「第4章 ルネサンスの科学」
近藤洋逸「第5章 17世紀の科学」
小堀憲「第6章 18世紀の科学」
渡辺正雄「第7章 19世紀の物理科学」
木村陽二郎「第8章 19世紀の生物科学」
広重徹「第9章 20世紀の物理科学」
木村陽二郎「第10章 20世紀の生物科学」
大矢真一「第11章 日本の科学」
大矢真一「第12章 中国の科学」
大網功「第13章 インドの科学」小谷野敦
『東大駒場学派』
新書館、2009
ともに、上記の件に関する資料です。
[日本対カメルーン戦]
おお、1対0で勝ちました。勝つならこういう勝ち方という仕方で勝ちました。その前にやっていたオランダ対デンマーク戦(2対0でオランダの勝ち)を見ても、オランダはやはり強い。でも、闘い方はあります。ひとりで4時50分。雨は止んでいます。曇り。→と書いて、外に出ると、雨上がりのきれいな青空がありました。どのぐらい続くかは分かりませんが、ともあれ、晴れ。
おお、新聞がまだ来ていません。珍しい。晴れて、午後は、夏の気候となりました。朝方はまだ涼しかったのですが、3時頃には室温で29度まで上がりました。30度直前。
ちいさいちびの帰宅(4時)を待って、目医者さんへ。近所に新築のなった眼科医があります。数日前テレビの番組表を見ていて、どうもちいさいちびの視力が低下しているようだとなりました。本人を説得して、今日診てもらうことにしたものです。
混んでいました。
1時間半近くかかりましたが、左目0.9、右目0.8、両眼視1.0、ということで、黒板の文字も見えていることだし、しばらくはこのままで行きましょうということになりました。両眼視1.0であれば合格ですが、これ以上悪化させないように気をつけないといけません。
[『生命のかたち』]
午前中に次の本が届きました。
永井 克孝・金子務編著
『生命のかたち:木村雄吉の学問と思策 (人と学問選書)』
学会出版センター、2004
これは、木村雄吉氏に関する基本的な事柄が記載されているのではないかと思い、発注したものです。正解でした。xii の年譜によれば、次のようです。木村雄吉(きむら・ゆうきち)
1904年(明治37年)秋田県に生まれる。
1925年東京帝国大学理学部動物学科入学
1928年同学科卒業後、医学部生化学教室で柿内三郎教授の指導のもと、脂質を中心として神経化学の研究を開始する
1933年理化学研究所入所
1949年(東京医科歯科大学より)東京大学教養学部教授に転任。
1955年 教養学部教養学科科学史科学哲学分科におけるテキストとして、L.L.ホワイトを使う。
1956年伝染病研究所に転任(細胞化学研究部長)、癌生化学を開始する
1965年 定年退職。
1989年10月10日没。木村雄吉氏は、教養学科立ち上げに際して、科学史・科学哲学分科担当の実行委員(玉虫氏とふたり)に選ばれています。(1950年7月6日第1委員会決定)(『東京大学百年史: 部局史 第 第 4 巻』p.163). さらに11月30日に15名からなる教養学科委員会が作られますが、そのときにも委員の一人として委嘱されています。(同,p.164)
つまり、科哲の立ち上げには、玉蟲文一氏と木村雄吉氏の二人であたり、しばらくは二人で支えていたのではないかと思われます。それからしばらくして、木村陽二郎氏、大森莊蔵氏を採用したのではないでしょうか。白雄会の面々、すなわち、永井克孝氏、金子務氏、武富保氏、秦葭哉氏、伊藤幸郎氏、田中健治氏、それに木村雄吉氏の子息、木村雄一氏と木村英二氏の略歴が掲載されています。科哲の第4期生の方が中心です。
科哲の諸先輩方、とくに初期の先輩方には医学方面、生物学方面に進まれた方が多い印象がありましたが、木村雄吉氏の影響だったのかも知れません。
木村雄吉氏自身は、生化学者と言うべきでしょうか。金子務氏は、「生物学思想家」と表現されています。ご子息の木村雄一氏は、父の本質は、「詩人・哲学者」であったと言っています。L.L.ホワイトの思想を柱として、アリストテレス流の生物学をほんとうに構想するつもりだったようです。
どう表現するのが適切なのかはわかりませんが、ともかく、この『生命のかたち』は正解でした。とても面白い。ちなみに、これは木村雄吉第2遺稿集という位置付けということです。第1遺稿集は次。
木村雄吉『生命―「もの」と「かたち」』学会出版センター、1991木村雄吉第2遺稿集の目次は次。
永井克孝「はじめに―生命科学研究の現状と木村雄吉先生の生命思想の意義―」
第1部 生命の本質と形―木村雄吉先生の思索記録―
「生命の本質3」
「自然観の歴史的変遷――自然観の移りゆきと生物学思想―」
「パラケルススの医学術思想―ルネッサンスの流星―」
[遺稿ノートから]
「ヨーロッパの夢」
「生物学思想―心に浮かんだこと」
L.L. Whyte の科学思想と西田哲学」
第2部 追悼集―木村雄吉先生をめぐって―
武富保「木村雄吉先生の訳によるL.L.ホワイト著『進化における内部要因』について」
木村雄一「父について―いくつかの回想場面―」
木村英二「父、「雄吉のこと」」
秦葭哉「恩師木村雄吉先生―初めて教えをうけた頃」
伊藤幸郎「木村雄吉先生の産業医科大学講義」
田中健治「見 える」と「観る」
金子務「おわりに―木村雄吉先生の遺稿と宗教観を中心に―」
[伊東俊太郎先生還暦記念論文集]
昨日の次の本ですが、さすがに伊東先生の略歴だけでは本の紹介としてはあまりですから、目次をまず掲げます。高橋憲一・佐藤徹編著『自立する科学史学―伊東俊太郎先生還暦記念論文集』北樹出版、1990
第1部 近代・現代ヨーロッパの科学
村上陽一郎「ルネサンス再考―科学史から見て」
吉仲正和「『運動について』後半から落下法則発見まで」
田中一郎「ガリレオの望遠鏡と近代光学をめぐって」
伊藤和行「トリチェッリの実験と真空の存在」
吉田忠「ファン・ミュッセンブルックのニュートニアリズム」
金子務「アインシュタインの思考実験」第2部 ギリシア・インド・アラビア・ラテンの世界
月川和雄「テオプラストス『植物誌』の典拠について」
佐藤徹「アルキメデスの浮体論より」
楠葉隆徳「ナー ラーヤナによる約数の見つけ方」
三浦伸夫「中世の原子論」
佐々木力「13世紀の数学論論争」
高橋憲一「グロステストと科学方法論」
五十嵐一「かくも長き医の道程」
「伊東俊太郎先生略歴」自分でもあまり記憶にはなかったのですが、ほとんどの論文を読んでいます。ちゃんと書き込みがあります。
夕刻、次の本が届きました。
パラケルスス
『医師の迷宮』
澤元瓦訳、由井寅子日本語版監修、ホメオパシー出版、2010
昔の澁澤ワールドのような、黒箱入り、白装幀の本です。もとは、Labyrinthus Medicorum Erratium
夜半に目覚め、すこし仕事。予報通り、その当たりから本格的な雨降り。梅雨がやってきたようです。2度目は、ちびどもが起きて、6時40分。雨は小降りになっていますが、止む気配なし。幼稚園児は、昨日から熱が上がったり下がったりを繰り返しています。熱が高いときは、さすがにあまり動かず、じーと(ぼんやり)しています。今日は、参加しなかった土曜日の振替休日で休みです。明日行けるかどうか、といったところでしょう。
幼稚園児が休みなので、いつもよりも早く出ました。8時42分武蔵境発の電車。1限に出る学生達が大勢乗り込んできます。いつもと違う時間帯なので、いつもは見ない顔ぶれです。
大学に着くと、次の本がメールボックスに入っていました。
修道士マルクス/修道士ヘンリクス
千葉敏之訳
『西洋中世奇譚集成』
講談社学術文庫、2010
千葉さん、ご高配頂き、ありがとうございます。今行っている作業の関係上、次の2冊を棚から探し出しました。
高橋憲一・佐藤徹編著
『自立する科学史学―伊東俊太郎先生還暦記念論文集』
北樹出版、1990
この本で見たかったのは、伊東先生の年譜。
1930年4月25日生まれ
1949年4月東大理科I類入学
1951年4月文学部哲学科進学
1956年東京大学教養学部助手に任官。科学史・科学哲学研究室に勤務。
1961年8月〜1963年8月まで、ウイスコンシン大学
1964年1月 ウイスコンシン大学より博士号(科学史)
1973年5月 現代科学第2講座担当
1977年4月 現代科学第2講座担当を免ぜられ、科学史・科学哲学第2講座担当を命ぜられる
1978年4月 教授昇進
1989年12月 国立国際日本文化センター教授に任命され、東京大学教養学部併任教授となる
つまり、伊東先生は、科哲ができて5年後に助手として着任したことになります。大森莊蔵+伊東俊太郎編
『科学と哲学の界面』
朝日出版社、1981
この本の後記に次のようにあります。「昭和51年に東大教養学部の教養学科に科学史・科学哲学分科が設けられて以来、今年の四月でちょうど三〇年を閲することになる。」え? 昭和51年? 遅すぎます。これは、1951年でなければなりません。大森莊蔵先生に伊東俊太郎先生、このミスは、ちょっと感心しません。(お二人らしいと言えば、お二人らしいミスかも知れません。)続きは次。「この機会に、この課程を新設することに主導的な役割を果された玉蟲文一先生を記念し、この課程で教えたり学んだりしたものが、科学史・科学哲学に関する一つの論集を編むこととなった。」
ということで、次の人が寄稿しています。
大森莊蔵、佐藤敬三、村上陽一郎、伊東俊太郎、吉仲正和、吉田忠、渡辺正雄、竹内敬人、金子務、玉蟲文一。2限終了後、図書館に赴いて、次のコピーを取りました。
村上陽一郎「第14回国際科学史会議寸感―新しい史観の建設を目指して」『ソフィア』23-3(1974年11月),71-75頁
国際科学史学会について、基本的な事実がこれでわかります。
8月19日から1週間、東京の日本都市センターで、 8月26日、27日は、京都の国際会議ホールで、開かれた。 参加者総数は500名、うち海外からの参加者が約半数、参加国数30を越える。 そのときの国際科学史学会の会長は、ジョセフ・ニーダム、日本側の組織委員長は藪内清前京大人文研所長であった。この記事は、もともとは、読売新聞夕刊(昭和49年9月2日)に載せたものに加筆したとあります。次いで次の本を借り出しました。
『東京大学百年史: 部局史 第 第 4 巻』
東京大学、1987
必要だと思われる部分をざっと読みました。知らなかったこともずいぶん書かれています。たとえば、次のような事柄。
p.169. 「教養学科は当初、学科目制のもとで始められたが、昭和30年(1955年)7月、現代文化、現代社会、現代科学、外国語、外国文化の各1講座が設置されたのを皮切りに、次々を講座が増設された。61年4月現在の教養学科の講座数は四十四である。」
(もちろん、こういうのは学生のときにはわかりません。学科目制とか講座制とか懐かしい言葉です。)
ちびどもとほぼ同時で6時15分。曇り。梅雨が間近に迫っています。[「脳死」と向き合った家族]
東京海洋大の小松美彦氏から次の連絡がありました。
本日午後10時からETV特集で、 「”さよならを言う前に”〜わが子の「脳死」と向き合った家族」 http://www.nhk.or.jp/etv21c/index.html が放映されるということです。わすれず、ビデオをとっておかないと。
→予想通り、忘れてしまいました。疲れて、先に寝てしまったせいです。[中山茂氏自伝]
何度か話題にしている中山茂氏の自伝ですが、本日のアップロードで80回に達しています。そして、1974年の国際科学史学会に触れています。
中山さんにとっても人生で一番忙しかったとあります。そして、終わって虚脱状態に陥り、同時に肝臓を悪くした(C型肝炎)とあります。
その部分を読むと、どうも、中山さんは国際科学史学会の折りは、広重徹が癌の手術の後というのを知らなかったのではないか、つまり、広重徹がいっしょに仕事をする親しい人間にも言わなかったのではないか、という推測が芽生えました。
私は個人的にはこういうのはありえない、と考えますが、今でもこういう対応をされる方は(多くはないものの)存在するように思われます。まして、1970年代には価値観としてあったように思われます。別の検索をかけていると、 金子務氏の日記にヒットしました。大学の先輩にあたります。「教養学科の第4期」という書かれ方をしています。私の卒業した「東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学」コースの第4期ということです。順調に推移すれば、[1954年進学]1956年(昭和31年)卒業生ということになります。(現実には金子務さんと伊藤幸郎さんは、1年留年して、1957年卒業ということです。)(ちなみに、私は、どうも29期生に当たるようです。)
金子務さんは、伊藤幸郎氏(産業医科大学)、田中健治氏(名古屋大名誉教授)、武富保氏(信州大名誉教授)、秦葭哉氏(杏林大名誉教授)、井口道生氏(米国アルゴンヌ原子力研部長)、佐竹誠也氏(武蔵工大名誉教授)、美川淳而氏(九州芸工大名誉教授)、井本(梅田)亮子氏の7名と書かれていますが、数えると9名になります。(これはやはり9名だと思います。)
この時代の先輩には医学畑に進まれた方が一定割合でいます。上の9人のなかでは、伊藤幸郎氏と秦葭哉氏が医学に進まれています。
その時代の教師には、「玉虫文一先生や木村雄吉先生」、「三枝博音先生や矢島祐利先生」、「フランス帰りの木村陽二郎先生・アメリカ帰りの大森荘蔵先生」がいたとあります。三枝博音氏と矢島祐利氏は明らかに非常勤です。
意外だったのは、この伊藤幸郎氏(産業医科大学)が平成2年脳死臨調(臨時脳死及び臓器移植調査会)参与となったという記述です。「脳死移植推進派の医者たちに与せず、「脳死は人の死である」ことに反対する梅原猛委員らの少数意見にも耳を傾けながら、今の時期には最適な「新臓器移植法」(1997年施行)に辿り着くのに尽力したのでした。」と金子務さんは書かれています。ちなみに、教養学部そのものは、1949年5月31日設置とあります。
教養学科(後期課程、すなわり3年生から)の設置は、1951年4月1日。
つまり、1951年3年生進学が教養学科第1期生ということになります。これは計算が楽です。
1952年進学が2期生、1953年進学が3期生、1954年進学が4期生ということで計算が合います。私が進学したときには、教養学科は教養学科第一・第二・第三に分かれていました。これは、1977年4月1日からです。私は1977年入学ですから、入学した年から3つに分かれたことになります。いまはじめて知りました。(はじめてのものはえてしてそういうふうに思うものです。)
(大学院の方は)大学院重点化に伴い、1994年4月1日「科学史・科学基礎論専攻を広域科学専攻に移管・統合し」たとあります。
学部の方は、1996年4月1日「後期課程の5学科(教養学科第一・第二・第三、基礎科学科第一・第二)を再編して現在の6学科を設置。」とあります。
[科哲と化学史学会の恩人、玉蟲文一氏]
さて、私自身は、科哲の創設者であり同時に化学史学会の創設者の一人でもある玉蟲文一(玉虫文一)氏にお会いしたことはありません。伝記を確認しておこうと思い、『化学史研究』1982年第4号(第21号)「玉蟲先生追悼号」を引っ張り出しました。次の6点の記事からなります。
[追悼]奥野久輝「前会長 玉蟲文一先生を悼む」第21号(1982年) : 176-177
[追悼]柏木肇「弔辞 」第21号(1982年) : 177-178
[追悼]永松一夫「不肖中の不肖として」第21号(1982年) : 178-180
[追悼]渡辺正雄「玉蟲文一先生を偲んで 」第21号(1982年) : 180-181
[追悼]林良重「玉蟲文一先生を偲んで 」第21号(1982年) : 181-182
[追悼]「玉蟲先生の経歴・著書・論文・総説等目録 」第21号(1982年) : 182-1921898年(明治31年)10月18日仙台に生まれる。
1922年 東京帝国大学理学部化学科卒業
1927年〜29年 カイザー・ヴィルヘルム物理化学研究所客員
1949年 第一高等学校教授、東京大学教授(教養学部)、東京大学評議員
1950年〜51年 アメリカ合衆国出張
1954年 東京大学教養学部長事務代理
1955年 東京大学教養学部教養学科現代科学第一講座担当
1959年 東京大学定年退職、東京女子大学教授
1982年 群馬県にて死去1973年12月に化学史研究会(後に化学史学会と名称変更)が創設されると、会長を8年勤める。(75歳から82歳まで?)。
化学者としては、玉蟲文一氏は、界面化学とコロイド化学の世界的な研究者でした。1975年にはドイツ・コロイド学会より、W.オストヴァルト賞を受けています。
1976年には、日本化学会より第1回化学教育賞を(西の山岡望氏とともに)受賞しています。1924年から武蔵高校の化学教授をつとめています。そのときの化学の授業がとても印象的だったようです。東大の科哲の創設については、渡辺正雄氏が次のように述べています。「「一般教育」の意義を重視し、研究にも教育にも人間的総合性が欠けてはならぬと考えておられた先生にとって、東大教養学部、教養学科、そして特に科学史科学哲学分科の新設は、戦後の大学教育において最も意義ある改革であると感じられたことであろう。矢内原忠雄学部長のもと、委員として、また評議員として、繰り返し趣旨を説明し、周囲の人々を説得して、実現にまでこぎつけられたのである。」(p.181)
この辺りのことは、私もどこかで聞いて知っています。しかし、新制大学として再出発した東大駒場にあって、正確にどういうポジションにあったのかは、年表からはわかりません。「教養学部長事務代理」とは何でしょうか? また「現代科学第一講座」とは何でしょうか? わかる方がいらしたら是非お教え下さい。
私が学生だった頃、科哲は、たぶん4つの席があったと思います。科学史で3人、哲学で1人、という構成でした。(変遷があって、実質上は今もそうだと思いますが、張り付けは変わっているのかもしれません。)
金子務さんの証言によれば、初期は、玉虫文一、木村雄吉、木村陽二郎、大森荘蔵の4氏だったと推測されます。
木村陽二郎氏は、1912.7.31-2006.4.3 です。1951年の時点で、39歳。玉虫氏は、53歳。
ひとりで5時50分。まだ、好天。貴重な晴れとなりそうです。ワールドカップが開幕しました。朝、BS1の録画で、フランス対ウルグアイを見ました。
→夜は、韓国対ギリシャ戦。韓国はよい試合をしました。2対0で韓国の勝ち。今日は幼稚園児の参観日。張り切ってはいますが、さて、どうなりますことやら。
幼稚園児は風邪気味です。咳をして、喉が痛いと言います。熱を計ると、37度ちょいの微熱。参観日はお休みです。
かぞくぜんいんほぼそろって6時半。疲れがたまってきたのか、子どもたちはすこしずつ調子が悪い。曇り。子どもたちがでかける頃には、晴れ間も出てきました。日射しもあります。梅雨入り前の最後の好天ということです。
ひとりで4時5分。小鳥たちがにぎやかに鳴いています。午後に3コマの授業。やはり、なにやかやといそがしい。
中山茂氏の自伝ですが、1974年に東京と京都で開かれた「国際科学史学会」のところまで来ました。知りたいことは、実はあまり書いてくれていませんが、勉強にはなります。1973年のオイルショックの影響がどうだったのか気になっていたのですが、やはり企業からのお金が止まったとあります。
どうも知りたいことは、自分で調べるか、本人に(あるいは関係者に)聞きに行くしかないようです。→知りたかったことのひとつは、廣重徹のことです。本を見ると、1975年癌にて死去とあります。国際学会との関係を知りたかったのですが、ウェブに奥さんの三木壽子氏の伝記があります。それでほぼわかりました。
廣重徹氏が出血で倒れたのが1972年11月3日。癌の手術をしたあと、すこし元気になり、1974年夏、国際科学史学会の準備委員長を務めるとあります。え、癌にかかった人にやらせるの?というのが私の正直な感想です。その年の11月再入院。12月自宅療養。12月28日再入院。翌1975年の1月7日に息を引き取られたとあります。うーん、どう表現すればよいのでしょうか? 今ならありえない話だと思います。いよいよ明日ワールドカップ開幕。はじまってしまえば、あっというまです。
ひとりで5時半。夜には雨が降りました。今は止んでいますが、どんよりとした空模様。梅雨が着実に近づいてきています。→といって、新聞を取りに外にでると、雨が降っていました。気温も下がっています。雨は一時強く降って、幼稚園児がでかける頃にはすっかり止んでいました。空を見ると、雲が切れつつあります。今日はこのまま晴れていくように思います。→と思ったら、妻がPTAの仕事に出かける頃、また強く降り始めました。天気予報を見ると、東京周辺だけがこういう空模様のようです。他の地域は晴れて暑くなるようです。
水曜日は会議の日ですが、ありがたいことに私には会議の開催通知が来ていません。ちょうどよいので、授業関係の整理を行っています。文献表は次の授業のときに渡すことにしました。ターム・ペーパーに関しては、ともかく原案を作成して、デスクトップに置いておきます。しばらく考えてから、6月末に配布しようと思っています。
原稿の方ですが、昨日の時点で、ほぼ指定の枚数にしました。ワードでカウントさせると、29.84枚。テキストファイルに変換して、エディターでカウントさせると28枚。これはエディターの方が正確です。(つまり、余計なものをカウントしていない。)指定は30枚ですが、もう文章を増やすことはせず、提示に関わる部分だけもうすこし手を入れようと思います。
幼稚園児がおしっこもれたと叫んで、6時。昨夜は、ミルクをたくさん飲んで、おしっこをせずにそのまま寝てしまいました。あれだけ飲むと漏れるでしょう。それから20分以内に全員が起きてきました。曇り。予報では、週末に九州地方が梅雨入り、おそらく週明けに関東も梅雨入りか、と言っています。そういう空気になっています。1限の授業のために、7時50分に家をでました。ちびどもよりもはやく、一番です。大学にはちょうど8時半に着きました。開いたばかりの部屋でAV卓の鍵を借りて、研究室へ。226教室には5分前に入りました。CDを4枚かけます。まず、決めた順番通りにCDをいれました。5枚まで入る器機です。
レスポンスシートの執筆に15分を取りました。すなわち、私の話は、10時15分で終わり、残り15分は学生達が書く時間に当てました。
紙は170部印刷しました。全員が提出し終わってから、余った紙を数えると、12枚。これを信じれば、158名出席したことになります。
TA の院生に手伝ってもらって、まずこの158枚を学籍番号順に並べ替える作業を行いました。総合文化研究所の真ん中の部屋を借りました。完了して11時前。まず、昼食と思い、整理したレスポンスシートを抱えて、特別食堂へ。やはり1番乗り。
食べ終わってから、研究室で早速採点作業。158枚は読むだけでそれなりの時間がかかります。読み終わって1時前後。得点の転記は別の機会にまわして、そのまま帰宅。いつでも雨がこぼれてきそうな空模様。
ちなみに、最初にかけたのは、小沢昭一の歌う「天然の美」。さすがに、ここまでしぶいとわかる学生はいないようでした。
ひとりで5時45分。今日も好転が続いています。最高気温も25度ということで、ちょうどよいでしょう。授業の日。
幼稚園児といっしょに出かけました。幼稚園には、開園前につきました。おかげで、いつもより一本早い武蔵境発の電車に乗り込むことができました。事務の方の顔がちらほら。
2限の授業では、新興感染症の話をしました。帰宅して妻に聞いたところ、インフルエンザがまた沖縄から流行しつつあるようです。早めに注意報を出して、対応した方がよいと思います。
3限は、オットーのシュライエルマッハー理解。どうしても自己理解が投影されます。よくわかる発表でした。
4限は、パラケルスス。
帰途は、上着を着ているとずいぶん暑く感じました。湿度もすこし上がってきたようです。梅雨が近づいています。家に近づくと、幼稚園児のお友達の群。ちょうど帰るところだったようです。親を含めて、7〜8名来たようです。幼稚園児はよく遊んだということです。7時半には、ソファに座ったまま寝込んでしまいました。
私の方は、帰宅してすぐに明日の授業の準備。1限の授業なので8時前に家をでます。明日起きてからでは間に合わない可能性があります。なんとかすませることができたと思います。音楽CDを10枚近くもっていきます。まあ、10枚はかけませんが、例として見せることになるでしょう。
ひとりで5時15分。今日は再び明るい。梅雨入り前の好天が続いています。幼稚園児とちいさいちびはママに連れていってもらって、ドングリ公園。私は、昨日届いたゲラの2回目のチェック。長さがあるので、2時間はかかります。おおきいちびは、セイユウにノートを買い出しに行ったあと、久しぶりにピアノの練習。終わってから、暇だと言っています。
午後は、おおきいちびがママとお出かけ。荻窪に行きました。ちいさいちびと幼稚園児は二人で遊んでいます。私が外に出ると、二人ともついてきて、外の道に水を撒いて遊んでいました。
ゲラの作業は、ほぼ終了。原稿の手入れも、ほぼ終了。あとは、カメラを大きく引いて、作業を位置付け直すことが残っています。
ひとりで4時55分。曇り。ずっと続いていた朝のまぶしさがありません。どんよりとした曇り空。雨は予報されていたほど降っていません。気温はかなり下がっています。
→日が昇るにつれて、雲がとれ、晴れてきました。気温もそれほど上がらず、外出にはちょうどよい日となりました。来週は、火曜日の1限にリレー講義があります。総合文化コース専修科目「表象文化論」火曜日1限(226教室)です。何と言っても1限ですから、今から準備しておかないと間に合いません。(配布物のコピーを取るのは、月曜日です。火曜日の朝で不可能ということはありませんが、危険です。)
朝からずっと(来週の授業全体の)準備にあたっています。[One Coin Shop in Harajuku]
ちいさいちびはマックに行きたいと言います。おおきいちびは原宿のダイソーに行きたいと言います。
まずはやめにマックに行って昼食。混んでいました。子どもたちはけっこう知り合いの顔を見たようです。原宿ですが、ちいさいちびは疲れていて行きたくないようです。水曜日と木曜日は学校を休んでいます。無理はさせない方がよいと判断して、そのままお家に帰ることに。幼稚園児は行きたいと言うので、私とおおきいちびと幼稚園児で原宿に出かけることとしました。
電車のなかで私は半分寝ていました。ぼーとしているうちに原宿に。竹下口から徒歩1分の場所に、3階建ての大きなダイソーがあります。おおきいちびは迷わず2階に行きました。おもちゃがおいています。幼稚園児はすぐに砂場で使う大きなスコップと熊手を選びました。私は、ちいさいちびのために、ぴかぴか(学校の授業で使うそうです)とその他工作の材料を少し買ってやりました。おおきいちびの買い物に時間がかかり暇になったので、幼稚園児と二人で3階にも上がりました。文房具が置いています。
私は10点、おおきいちびは数点買ってから、すぐに帰途へ。
ヨーロッパ系の方にも、アジア系の方にも、けっこう人気のスポットのようです。デジカメで撮影しながら、買い物をしている観光客の方の姿を多く見ました。
もし外国人の友人が見えた場合に、連れていくと、喜ばれるのではないでしょうか?
(明治神宮に参拝してから回るコースは、なかなかよいコースになると思います。)[棟上げ式]
お隣のお家は完成し、すぐに売れました。最初の土日のセールで売れたということです。私はまだ顔を把握していませんが、丁寧な挨拶に見えたと妻が報告してくれました。さて、道を挟んで斜め前のお家の新築工事が佳境に入ってきました。昔の言葉では今日が棟上げ式。しかし、今は、「新築工事の上棟」というようです。大きなクレーン車が来て、一番下の基礎の木材が置かれた状態から一気に2階の骨組みまで今日のうちに完成するつもりのようです。
[日本の科学史DB]
5月25日に次のように記しました。(いくらか書換ました。)
「2.化学史学会DB。化学史研究会は、1973年12月1日に設立集会をもっています。すると、2013年が設立40周年。設立40周年記念事業の一つとして、自分(化学史研究会→化学史学会)の歴史をきちんと作っておこうという話が出ています。まずは、データ・ベースの構築にかかっています。ヘッドは古川さん。今のところWG5人で下調べを行っています。」
年会のときに、Kn君から、中山茂氏の自伝(ブログ)がとても面白いという話を聞きました。早速、見てみました。(検索で簡単にヒットします。)
日本の科学史研究の歴史に関して、貴重な証言です。今ちょうど化学史研究会の設立の周辺まで進んできています。中山茂氏の専門は、天文学史です。化学史学会の方ではあまり名前を聞くことがありません。化学史研究会の設立の前後に関して、意味のある証言がなされる可能性はあまり高くないと踏んでいます。
ただし、設立の翌年、日本におけるたった一度の国際科学史学会が東京と京都で開かれています。日本の科学史の状況を押さえるには、重要な出来事だと考えます。そのことに関する証言は期待できます。こちらの方でも、広く背景となる事柄を押さえておく必要があります。まず、日本人が海外で Ph.D. を取得した事例を網羅的に押さえておきたいと思います。出発点として、以下の年表を作成します。足りないところ、間違っているところがあれば、是非、お教え下さい。よろしくお願い致します。
1960 中山茂 Ph.D. in History of Science and Learnin ハーバード大学
1964 伊東俊太郎 Ph.D.科学史 ウィスコンシン大学
1973 小泉賢吉郎 Ph.D. 科学史 ペンシルヴェニア大学
1974 吉田忠 Ph.D. 科学史 プリンストン大学
1979? 木本 忠昭 Phil.D. 技術史 ベルクアカデミー・フライベルク大学
1980 吉田晃 Ph.D. Doctorat de 3e cycle 歴史学 フランス
1983 古川安 Ph.D. 科学史 オクラホマ大学
1987 橋本敬造 Ph.D. 科学史科学論 ケンブリッジ大学
1989 佐々木力 Ph.D. 歴史学 プリンストン大学
1990 札野順 Ph.D. 科学史 オクラホマ大学
1991 橋本毅彦 Ph.D. 科学史 ジョンズ・ホプキンズ大学
1991 Sachiko Kusukawa Ph.D. History and philosophy of science, Cambridge1992 鈴木晃仁 Ph.D. 医学史 ウェルカム医学史研究所
1993 城地茂 Ph.D. ロンドン大学
1993 塚原東吾 Ph.D. 科学史 ライデン大学1994 楠葉隆徳 Ph.D. 数学史 ブラウン大学
1999 平井浩 Ph.D. リール大学(フランス)
とりあえず、2000年までで作成してみました。他にも取得されたことは書かれているが、取得年度が書かれていない方がけっこういます。繰り返しになりますが、足りないところ、間違っているところがあれば、是非、お教え下さい。よろしくお願い致します。
→2010.6.6 Kn君の情報でいくらか追加しました。
具体的に書いた方がいいかもしれません。1. 札野順さんがオクラホマ大学で学位を受けたことはすぐに調べがつくのですが、いつがわかりません。いつ、Ph.D. を受けたのでしょうか?→古川日大教授が教えてくれました。1990年ということです。
2. 木本さんがドイツで学位を受けたのは、1979でよいのでしょうか?
→2010.6.9 古川日大教授が小泉賢吉郎氏、吉田忠氏、札野順氏、塚原東吾氏の件を教えてくれました。古川教授に感謝!
さらに、古川教授から2000年以降に関しても情報を得ました。絹川知美氏(ウィスコンシン大学)、菊池好行氏(オープン・ユニバーシティ)、伊藤憲二氏(ハーバード大学)、佐藤靖氏(ペンシルヴェニア大学)。年度はまた調べます。(あるいは、情報提供を待ちます。)→自分で調べました。判った範囲では次の通りです。
2001 絹川知美 Ph.D. 科学史 ウィスコンシン大学
2002 伊藤憲二 Ph.D. 科学史 ハーバード大学
2005 佐藤靖 Ph.D. 科学史・科学社会学 ペンシルヴェニア大学
2006 菊池好行 Ph.D. 科学史 オープン・ユニバーシティ
ひとりで5時45分。まだ快晴が続いています。子どもたちは、いつもの時間に起きてきました。ちいさいちびもすっかり元気になっています。今日は全員普通に小学校と幼稚園です。
妻は朝から PTA の仕事。お昼までかかるということです。→結局、幼稚園児といっしょに3時前に帰ってきました。
ひとりで4時15分。小鳥たちの鳴き声がにぎやかです。たぶん、この時間帯に一番にぎやかに鳴くのでしょう。まだ晴れ。ちいさいちびは今日も休ませます。授業の日。バリウムの後に飲んだ下剤のせいで、まるでほんとうに下痢をしたときのような状態に陥っています。お粥をもぞもぞと食べてから、すこし早めに大学へ。
学会の仕事の一環で、ちょっとだけコピーを取りました。
メールボックスには、国際日本研究センターブックレット Np.1 『大航海時代の日本=スペイン関係』東京外国語大学国際日本研究センター、2010がはいっていました。
Juan Gil, "Del Cipango al Japón"
ファン・ヒル「日本におけるスペイン」(平山篤子訳)2009年9月28日に開催された講演会原稿(スペイン語とその日本語訳)からなります。ちょっと時間があいたので(他のことに取りかかる元気がなかったので)ちょっと読んでみることにしました。これが私にはなかなかに面白い。最後まで読んでしまいました。ちょうどお昼休みの間に読み切れる長さでした。
大航海時代に、スペインからみた日本のイメージが主題です。コロン(コロンブス)がどうして、中南米の土地を中国と日本に間違えたのか、よくわかるように書かれています。国際日本研究センターは、たぶんできたばかりの制度です。(できてまだ1年だと思います。)所在は、東京外国語大学アゴラグローバル2階とあります。まだ一度も足を運んだことがありません。一度いってみなくっちゃ。
それから、3コマ続けて授業。
今日は5限の講義で、都甲幸司先生の3回目。恒例の懇親会。今回は男性だけ4名となりました。都甲さんは、死にそうに忙しいと言っておられました。あの仕事量だとそうなるでしょう。去年の秋ご結婚されて、先週は奥さんもいらしたそうです。先週挨拶に顔を出せばよかった。
ともあれ、私にはつきあいのない、文学者の世界の話がとても興味深いものでしたが、ここに記すのはまずいでしょう。関心がある方は、外語の授業にもぐってもらうのが一番かと思います。
帰宅は11時過ぎ。体調を考えて、お酒を押さえたので、比較的楽な状態で床につくことができました。
[朝鮮科学技術史研究]
帰宅すると、次の本が届いていました。
任正[火赤赤](偏は火、旁は赤が二つならびます)
『朝鮮科学技術史研究―李朝時代の諸問題―』
皓星社、2001
昨日紹介した書物の前編です。目次は次の通りです。一部出ない漢字があります。
任正[火赤赤]「李朝科学技術史の特徴と基本性格」
ロ・ユンジュン「李朝時代の技術教育」
洪淳元「李朝時代の医学書出版事業の特徴」
朴時亨「李朝前期手工業の性格について」
李容泰「一五世紀の諸科学」
キム・スンイル「『世宗実録』に関するいくつかの考察」
リ・ジン「弘文館に関する歴史的考察」
リ・チョルファ「朝鮮実学派とその著書」
チェ・ドンジョン「朝鮮実学派の科学思想」
朴時亨「李朝後期における手工業の変遷」
金錫淡・許宗浩・洪*裕「李朝後期の金属加工業の形態について」
李容泰「一九世紀開国以前の諸科学」
任正[火赤赤]「「金正浩『大東輿地図』の版木と獄死説」
李相*「『漢城旬報』と開化思想」
金**&チョン・ヨンスル&ソン・ジョファン「交通運輸の発展と近代的逓信の出現」
リ・ファソン「李朝末期の近代建築」
[科学史技術史研究所]
検索をかけていると、次のサイトにヒットしました。科学史技術史研究所 The Institute for the History of Science and Technology in Tokyo
知らないな、と思って、サイトを読むと、去年 NPO 法人として設立されたばかりのようです。所在は、中野区野方のおそらくマンションの1室だと思われます。「田中・山崎・飯田・菊池・道家文庫」を収めるとあります。説明文によれば、「故田中実東京教工業大学科学史教授、故山崎俊雄東京工業大学技術史教授(国立大学で日本初の正規技術史講座教授)日本科学史学会会長及産業考古学会会長、故飯田賢一東京工業大学技術史教授、菊池俊彦元日本科学史学会会長中央大学教授、道家達将日本科学史学会会長・東京工業大学名誉教授」の蔵書とあります。この形もありだとは思いますが、できれば、東工大図書館に収めて欲しかった。保存のスパンと利用の便に差が出てきます。
東工大図書館ならびに東工大執行部を説得して、東工大にアーカイブを置くことは、東工大に関わる科学史・技術史家の責任だと思いますが、いかがでしょうか。
なお、会報「科学史技術史通信」第1号(2009.12.20)は、pdf でゲットできます。
「最近のニュース・新刊情報」はなかなか充実しています。私の知らない出版情報が数多く掲載されていて、有用です。ますますの充実を希望します。
ただし、代表者(あるいは幹事)の名前がすぐにわかる場所にないのには、不満です。おおよその見当はつくのですが、責任者の名前は出しておくべきだと思います。
ひとりで4時45分。朝ゴミを出すために外に出ると、快晴。梅雨入り前の好天が続いています。
朝起きた次女が泣いています。何事かと思ったら、喉の風邪が悪化して、咳が苦しいとのことです。ずっと風邪気味ではありました。おねえちゃんも2日間休んでいます。今日は休ませるしかないようです。
[健康診断]
学生達はボート大会の日。全学休講になります。私は、健康診断。いつもなかなかめんどうなのですが、仕方ありません。昨夜の8時以降、飲食禁止とあります。私にはこれが一番ききます。友達が早いというので、おおきいちびはいつもより10分早く家をでました。私もそれにあわせて家をでました。
健康診断の受付は、8時半から。ちょうど8時半に受付に着くと、ざっとみて20人以上が並んでいました。受付ですこし時間がかかります。私の順番が来て、25番。レントゲン、バリウムを飲んでの胃撮影から始まって、(私はすべてのオプションを選択して)採血で終了。9時35分に終わりました。ちいさいちびが風邪なので、そのままとって返しました。すれ違った先生方は不思議そうな顔をしていました。
駅前ですこし買い物をしてから帰宅したので、10時25分。ちいさいちびは寝ていました。朝方に一度もどしたのだそうです。
幼稚園児ははやおかえり、ということで、11時過ぎに帰ってきました。
私は、昨日の5時半から飲食は控えていたので、お腹がすくかと思ったら、バリウムのせいで、おなかはあまりすきません。その代わりに、大学からの帰途、自動販売機で買ったペットボトルの水をほぼ1本飲みました。空腹よりも水分です。
すこし落ちついてからテレビを付けてみると、鳩山総理の辞任を伝える特番になっていました。あれ、あれ。これをやってはいけなかった。2大政党制といっても、ダメな自民党が2つあっても意味がありません。混迷が深まるだけです。官邸に魔物が住んでいるのでしょうか。
すぐ出てくるかと思ったバリウムですが、5時間後に出てきました。バリウムそのものよりも、最初に飲む発泡剤(といったと思います)の方がきつい。味がきついうえに、思わずげっぷが出そうになります。げっぷは出さないで下さい、しゃべるものやめて下さいと言われてしまいました。
[税金の季節]
そろそろ来るなと思っていたら、今日固定資産税の通知が来ていました。去年の春、底地を購入しています。ネットで検索をかけると、底地分の税金は、一般的に地代の3分の1程度とあります。どのぐらいになるかと思っていたら、5分の1以下でした。
→10.6.3 具体的に書いた方が参考になるでしょう。\20,190でした。底地購入による固定資産税の増加分は\45,100です。一月あたりでは、\3,758。比率は、5.37倍です。[朝鮮近代科学技術史研究]
その後、次の本が届きました。編著者の任さんからです。科学史MLで出版通知があり、ご本人に申し込んだものです。任正[火赤赤](偏は火、旁は赤が二つならびます)
『朝鮮近代科学技術史研究‐開化期・植民地期の諸問題‐』
皓星社、2010目次は次の通りです。一部出ない文字があります。
朝鮮近代科学技術史研究への視点―まえがきにかえて―
朴星来:開化期の近代科学受容
金成根:1860年代における科学技術政策の推移
任正[火赤赤]:朝鮮開化派の近代化と福沢諭吉
申東源、黄尚翼:朝鮮末期近代保健医療体制の形成過程とその意味
申東源:牛痘法の政治学−啓蒙された近代か?「近代」の「啓蒙」なのか?
金根培、朴星来:植民地期における科学・技術者の形成について
李吉魯:植民地朝鮮の高等教育に関する一考察-京城帝国大学理工学部の成立との関連で-
姜雄:朝鮮総督府の電発送計画に基づく1930年代初期の朝窒のアルミナ製造研究と朝窒の技術体系
姜雄:日本窒素肥料興南肥料工場の化学技術体系の分析
任正[火赤赤]:朝鮮における日本の研究機関による放射性鉱物の探査および採掘について−原爆開発計画「ニ号研究」との関連における考察−
高成鳳:朝鮮鉄道の植民地的性格についての一考察
林宗台:金容[王灌](右の文字をさんずいを王ヘンに変えたもの)の発明学会と1930代科学運動
慎蒼健:覇道に抗する王道としての医学−1930年代朝鮮における東西医学論争から−
金兌豪:李升基のビナロン開発と工業化
任正[火赤赤]:物理学者都相禄の研究活動と解放直後の社会活動について
ひとりで5時10分。学会の直前に、すっかり忘れていた原稿の締切間近通知が来ました。千字程度加筆すればすむので、大きな労力が必要なものではありませんが、すっかり忘れていたので、あちゃー、でした。朝の間に集中して加筆作業を行い、お昼過ぎに送り出しました。千字の追加と言っても、300字分は図版で埋めました。追加したのは、実質原稿用紙2枚でしょうか。
と書いていたら、受付通知が来ました。これでしばらく(この件は)安心です。
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