ちいさいちびといっしょに7時前後。雨。おおきいちびはすぐあと。あかんぼうは7時半。→雨はすぐに上がりました。2限、3限、4限の授業。
ちいさいちびといっしょに7時。あかんぼうとおおきいちびははやくに起きていたようです。雨。明日から、今学期では一番忙しい週がはじまります。木曜日の大コンパがあり、土日に学会があります。学会では、発表も司会もあるので、ほぼ2日間ずっと仕事モードで対応します。
というふうに思って、明日の準備だけではなく、来週の月曜日の授業も準備しておかないといけないな、と思っていたら、妻がちびどもを品川のエプソン・アクア・スタジアムに連れていってくれました。品川水族館とは違って、品川駅のすぐ近くです。プリンスホテルの一角という立地です。こどもたちが帰ってくるまでに、重要なものはすませておこうと思います。
4時頃に帰ってくるかと思ったら、3時過ぎに帰ってきました。ちょうどあかんぼうが寝ていました。電車に乗る前に寝付いたということです。
ちいさくて高かった、というのが妻の感想。カップルにはちょうどよいけど、こどもにはいまいちだということです。片づけの途中で、見捨てられた本が山をなしています。ふと作業中にその1冊に目が止まりました。
竹熊健太郎『篦棒な人々:戦後カルチャー偉人伝』(太田出版、1998)。
4人へのインタビューです。最初の康芳夫氏がけっさく。彼に張りぼてを叩かれなければならない人ばかりになった気がします。
7時前。晴れ。ちびどもとあかんぼうは起きていました。[ネイション・オブ・イスラム]
午前中に次の本が届きました。
『世界の宗教と経典・総解説: 古代から現代まで信仰と神仏の変遷 (総解説シリーズ)』
改訂第1版、自由国民社、1998
「ネイション・オブ・イスラム」の項は、世界の秘密宗教の分類のもと、「ブラック・マズレム(黒い回教徒)」として立項されています、pp.300-302. 次のように記述されています。
「ブラック・マズレムは、正式には「イスラムの国」と称し、シカゴに本拠をおく、アメリカの黒人民族主義者の政治・宗教組織であり、きたるべき「イスラムの国」は黒人、黄色人、紅色人(アメリカ・インディアン)からなるものとされている。
ブラック・マズレムは一種のメシア思想を基盤としている。聖なる予言者であり、アラーの使徒であると自ら称するエリジェー・ムハメッドの使命は、アメリカの黒人にアラーのメッセージを伝え、コーランの教えと導きによって、「黒人の国」を合衆国内に建設することである。・・・
ブラック・マズレムはその人種主義を除いてはマホメットの教義に忠実であるが、中東の正統派イスラムからは、いまだにみとめられていない。」この記述の見やすい問題点。
1.「ネイション・オブ・イスラム」は、秘密宗教ではない。教義も指導者も教徒も教会も公開されている。
2.正式の名称「ネイション・オブ・イスラム」ではなく、おそらくアメリカ本国においては偏見をはらむと思われる「ブラック・マズレム(黒い回教徒)」という名称で立項されている。
(Black Muslim という名称は、特定の教団ではなく、黒人のムスリムという一般名詞と混同されやすいであろう。)ネイション・オブ・イスラムの思想のなかで、気にかかるのは、ネイション・オブ・イスラムの先行運動のひとつ、「アメリカのムーア人科学寺院」の流れから入ってきたものです。「アメリカのムーア人科学寺院」の創始者チモースィー・ドゥルー(1866-1929) によれば、「アメリカの黒人はアフリカのムーア人を祖先とする“アジア”系の人間である。したがって“ニグロ黒人”という名称を捨て去り、“ムーア系アメリカ人”であることを宣言すべであるとする。」(p.301)
ムーア人をアジア人とする見方のもとは何でしょうか? 気にかかります。ちなみに、『世界の宗教と経典・総解説』そのものは、しっかりとした宗教学者が執筆しており、悪くありません。手元において置いて役に立つ事典だと思われます。
菊池好行氏ゲスト講演
本日、東大駒場14号館308号室で、イギリスで博士号を取得された菊池好行氏に自身の研究について語ってもらいます。飛び入り参加を歓迎します。
4時20分、14号館308号室においで下さい。ちびどもは6時半。私はひとり遅れて7時15分。疲れが蓄積しているようです。晴れ。
久しぶりに図書館でじっくりと作業をしようと思い、いつもより2時間近くはやく家を出ました。最初にコピーをしようと思ったものは、どうもだれかがどこかに移動したようです。見つかりませんでした。
次には、次のものをコピー。安岡治子「ユーラシア主義の誘惑―ロシア正教との結びつきを中心に」『ヨーロッパ研究 特別号 ヨーロッパとアジアの間』(2005): 1-15
それから、DSBのコピー。DSBのコピーは肉体労働です。3冊ずつをかかえて、階段を上がり降りしました。6人分。
かなり汗をかきました。一休みしようと、図書館の隣のイタリアン・トマトへ。アイスティーを頼んで、さっきとったばかりのコピーを整理し、読みました。2点を除き、全部鉛筆をもって読了。終わって、4時前。ちょうどよい時刻です。そのまま、14号館に行き、しばらく科哲の事務室で休んでいると、ゲストの菊池氏が見えました。
授業のあと、菊池夫妻と食事会。
あかんぼうといっしょに6時過ぎ。雨。涼しい。最高気温が20度を下回るという予報。10時半に昼食を食べて出かけました。
[マルコムXとネイション・オブ・イスラム]
まず図書館。昨日取ろうと思っていた次の論考のコピーを取りました。
越智道雄「アメリカ 移民宗教からの脱皮 ブラック・ムスリムの急増」『世界』679号(2000年9月号): 84-88
昼休みに、留学から帰ってきた学生と打ち合わせたあと、連続3コマの授業。帰宅すると、次の本が届いていました。
マルコムX『完訳 マルコムX自伝』上下、濱本武雄訳、中公文庫、2002
丸子王児『マルコム・Xとは誰か? NOI(ネイション・オブ・イスラム)とラップ・ムーブメントの源流』JIXX出版、1993
荒このみ教授の「マルコムXの精神的遺産」に刺激を受けて、マルコムXとネイション・オブ・イスラムの活動について、関心をもちました。とくに知りたいと思ったのは、ネイション・オブ・イスラムの呼称と位置づけ。
たとえば、越智道雄氏は「アメリカ 移民宗教からの脱皮 ブラック・ムスリムの急増」のp.85で次のように述べています。
「NOI の登場は、民主主義のアメリカで最底辺に位置づけられてきた黒人たちが、プロテスタンティズム・アメリカ否定の梃子にイスラーム教をねじ曲げて駆使したケースとして注目に値する。」
確かに、NOI=ネイション・オブ・イスラムの教義は、正統派イスラームとはずれている部分があります。しかしそれを「イスラーム教をねじ曲げて駆使した」というふうに切って捨てるのは、研究者/歴史家のとる態度ではないでしょう。
マルコムXはどうしてイスラームなのか?
この根本的問いの前に、しばらく立ちすくむべきでしょう。それから、ひとつの注目に値する宗教運動として、NOI=ネイション・オブ・イスラムの思想(教義)と活動に取り組むべきだと思われます。そして、その研究は、アメリカの深層について、非常に興味深い知見をもたらしてくれることが予想されます。日本には、新宗教、新々宗教と呼ばれる宗教運動が数多く知られています。もちろん、日本だけではなく、他の国にもそうした新宗教、新々宗教は存在します。
新宗教、新々宗教を仏教系、キリスト教系というふうに分類していったときに、イスラーム系というのはあまりないように思われます。(私は宗教学の専門家ではありません。ただ知らないだけかもしれません。)
新宗教の一形態としての「抵抗宗教」というようなものを考えることが許されるとすれば、その比較史は、とても興味深いビジョンを与えてくれるように思われます。
(ホブズボームやサバルタン研究に繋がる視座です。)
かぞくそろって6時過ぎ。曇り。会議の日。いくらか早めに家を出ました。10時半武蔵境発の電車。この電車だと2限にぎりぎり間に合います。大勢の学生達。
まず、人事課に行って、共済組合ねんきん特別便というのを受け取りました。
それから図書館へ。コピーを取りたいものがあったのですが、月末休館日。仕方なし。
金曜日に発行されていた雑誌をもって研究室へ。急ぎで発送すべき4冊をまずは処理しました。
それから、特別食堂へ。11時20分。おお、今日は貸し切り状態ではありませんでした。メールボックスに入っていた書類を読みながら、ゆっくり昼食。片づけをしようと思っていたのですが、その気になりません。論文を読んだり、本の一部を読んだり。
大学院教授会:2時半〜4時過ぎ。
2時28分に会議室に入ると、寒々としていました。冷房が効いていて、しかも出席者が少ない。開始予定時刻を20分ぐらい過ぎてからやっと定足数に達しました。時間をかけて審議すべき議題がなかったので、とっと進みました。おかげでお昼に封筒に入れた雑誌を郵便局に寄って出すことができました。帰宅して、5時。遠くからでもよくわかる賑やかさ。ちいさいちびのお友達が数名来ていました。ママさんつき。
あかんぼうにも同じ学年になるお友達が来ていました。ちいさいちびの幼稚園時代のもっとも仲良しの子の弟です。車の趣味で一致したということです。
6時前。階下に降りると、妻とあかんぼうがソファの上で毛布にくるまって寝ていました。あかんぼうがはやく目覚めたのでしょう。私がお手洗いに行っているあいだに、あかんぼうは起き出して元気に遊んでいました。[オバマの文脈]
昨日の研究会の発表は、荒このみ氏による「マルコムXの精神的遺産」次期アメリカ大統領になる可能性がたぶん5割以上あるバラク・オバマ(1961-) の思想的起源にマルコムXがあることを論証したものです。
マルコムXは、刑務所に入れられているときに、NOI=ネイション・オブ・イスラムの会員になり、1963年までネイション・オブ・イスラムのために積極的に活動します。当時の日本では、「黒い回教徒」と翻訳されたようです。このムスリムとしての活動は、日本ではもちろん、アメリカでもよくは理解されていないマルコムXの重要な側面です。
8月にロバート・L・ジェンキンズ/エムフォニア・ドナルド・トライマン編著『マルコムX事典―アメリカの人種問題を理解するために―』(荒このみ訳、雄松堂出版、2008年8月)が出版されます。オバマに関心をもつジャーナリストには必携の事典となるでしょう。
いろいろと気になることがでてきました。調べものをしていると、次のサイトに出会いました。
リズム&ブルースの政治学
勉強になります。
7時前。雨は上がっています。晴れてはいません。→すぐに晴れて、また雨が降って、そして止みました。帰宅したあと、また降っています。2限から3コマの授業。
忘れていました。5限に研究会がありました。ということで、4コマ連続になります。
研究会のあとの打ち合わせで、同僚の先生が昨日のバーレーン戦を現場に見に行っていたことがわかりました。あの雨のなか、あの試合で、もし引き分けに終わっていたら、なんだよこの試合は、だったでしょう。なんと、帰りは、同僚の先生に車で送ってもらいました。車だとほんとうにらくちんです。
6時前。雨。昨日昼寝せず、5時前に就寝したあかんぼうははやくに起きていました。ストレスのせいか、ちいさいちびは夜夢を見て暴れています。何か寝言を言い、足をばたばたさせます。天気予報を見ると、東京23区に大雨洪水注意報が出ています。わ、そんなに。今はほんの弱い雨ですが、西に降っている雨がやってくるのかもしれません。
ほんの小雨のなか、ジャナサンに昼食に。妻とちいさいちびが遅れてきました。あかんぼうは大人しくしていましたが、スパゲッティを2本しか食べませんでした。
買い物があるということで、先にあかんぼうと妻がセイユウへ。その15分後ぐらいに、ちびどもといっしょにセイユウに向かいました。雨。来るときには必要がないぐらいにしか降っていなかった雨ですが、本格的に降り始めていました。
ちびどもは自由帳を買いました。
妻とあかんぼうはタオルを買い、ちびどもと私は今日のおやつと明日の朝のパンを買い、さらに駅前の本屋さんに寄って帰りました。ちびどもはコナン。私は、アエラと栗坪良樹・柘植光彦編『村上春樹スタディーズ』(若草書房、1999)。帰宅してすぐに読みましたが、こんなものでしょうか。作品の水準に迫ることができていないと感じました。[雨のなかのバーレーン戦]
ホームの日本対バーレーン戦。内容的には満足いくものではありませんが、1対0で日本の勝ち。
かぞくそろって6時40分。レレは、もう帰ることがわかっていたのでしょう、昨夜は遅くまでぐずっていました。リリの一家も今日は早めに起きてきています。雨。8時前に、妻の運転する車で無事帰途につきました。フライトは午後ですが、赤ん坊連 れなので、はやめに旅路についたものです。お昼前に、飛行場に到着するでしょう。
昨日買ってきた村上春樹『辺境・近境』(新潮文庫、1998)ですが、「ノモンハンの鉄の墓場」pp.161-231 だけまず読みました。私の演習で中国を専攻している院生は、勉強すればするほど中国のことはわからなくなると言っていました。無知の知からはじめるしかないでしょう。
村上春樹『うずまき猫のみつけかた』(新潮文庫、1996)に関しても、中国旅行と地震のところだけ読みました。村上春樹じゃありませんが、満州が気にかかります。来年度の大学院の授業でとりあげようかと考えています。
ひとりで5時半。やはり曇り。お昼までに、村上春樹『ねじまき鳥クロニカル』3冊(新潮文庫)を読了しました。
駒場からの帰途、駅前の本屋さんで次の2冊を購入。
村上春樹『辺境・近境』新潮文庫、1998
村上春樹『うずまき猫のみつけかた』新潮文庫、1996
あかんぼうが5時前後。私が5時半。まだ曇り。午後に3コマの授業。11時過ぎに家を出て、授業の準備。
5限終了後、いつもお世話になっている小谷真理さんとの会食会。教員3人、院生1人。全然知らなかった、とても興味深い話をお伺いしました。(小谷さんがご自身でどこかに執筆されるでしょうから、ここでは内容には触れません。)
小谷さん、いつもありがとうございます。なお、小谷さんのイチオシは、乙一ということです。
9時10分にラチェロを出て、10時前に帰宅しました。おお、玄関を開けると、荷物の群れ。大中小のスーツケースが3つ、ちびどものランドセルといっしょに並んでいます。帰国は土曜日。明日、飛行場に荷物を送ることとしたようです。
ひとりで5時15分。やはり昨夜はやく寝たせいです。まだ曇り。大学院企画運営室会議:3時〜5時40分
予定通り帰宅できました。ありがたい。
ひとりで5時45分。昨夜疲れてはやく寝たせいです。5時前後に一度目覚めたあかんぼうもまた寝付いています。曇り。1限の授業ですから、ちびどもと同じ時間帯に家を出ます。
→ちいさいちびといっしょに家を出て、8時半武蔵境発の電車。偶然、副学長といっしょになりました。早速仕事の打ち合わせ。
すぐに授業。CDをかけるので、数分前に教室に入りました。ふだんはしないことです。227教室は、すこし音が弱い=よくないように感じました。スピーカーの性能の問題だと思われます。
終わって、部屋を片づけ、すぐに帰途に。吉祥寺で降りて、すこし買い物をして帰りました。駅に近づくとバスが待っていました。バスで座って帰ってくることとしました。朝とは乗っている客層が違います。おばあちゃんが圧倒的に多い。そして、ほんの一人の東京女子大の学生。
ひとりで7時半。ひとりだとまったく普通の大人の時間に戻りました。昨夜寝た時間もそうでした。晴れ。いつもより若干遅めに家をでました。9時42分多磨駅発。明日1限の授業のためにコピーを取ってから研究室へ。
3限連続の授業を終えてから帰途へ。昨夜もうすこしはやく寝るべきだったかもしれません。明日の1限のために、今日ははやめに休みます。
帰宅すると、ちょうどあかんぼうが目覚めたところでした。昨夜はホテルでおおはしゃぎ。いつもより2時間就寝が遅くなったということです。
6時15分。まずまず。曇り。全員が7時前には起きてきました。そして、予定よりずっとはやく8時前に家を出ていきました。静かな父の日、妻はそう言い残していきました。梅雨の合間に、雨の心配もなく真夏の暑さもない、ちょうどよい日です。
おやつの時間に次の3冊が届きました。
村上春樹
『ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編』 新潮文庫、1994
『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 』 新潮文庫、1994
『ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 』 新潮文庫、1995
6時半。まずまずです。快晴。ちびどもは、小学校の創立80年式典があるということで、午前中学校があります。その代わりに、月曜日はお休み。日曜日から月曜日にかけて、私ひとりが留守番に残り、一族郎党8人でディズニーランドにでかけます。ちびどもはそれがなによりも楽しみです。あかんぼうもわかるようです。喜んでいます。
お昼過ぎに、マイケル・ムーア監督の『シッコ』が届きました。授業で使うことを考えていますが、何分、123分。うーん。しかも、未公開映像・インタビューが80分も収録されているとあります。90分の授業のなかにおさめることはまずは不可能。
ともあれ、一度見てから、どう利用できるか考えます。咳は完全にひいたわけではありませんが、おさまってきました。その代わりというわけでもないでしょうが、軽い頭痛。さらに、朝、7月のシンポのためにパソコンに向かっていると、私の愛用するエディター(Jedit2)がフリーズ。よほどのことがない限り、フリーズやエラーを起こすことのないテキスト・エディターです。どうもインプットメソッドの学習辞書の一部にバグがあるようです。
再起動しても直っていなかったので、ノートンをかけました。普段使いのソフトなので、エラーがあると影響が大きい。
今回のエラーで失ったのは、10行程度です。内容的には、ただちに回復できます。小さな損失ですが、心理的な影響が無視できません。来週は、火曜日1限に1年に1度の授業があります。月曜日に帰宅してからでは用意が間に合いません。昨日からはじました。昭和の音を流すます。コンピュータにヘッドフォンを接続して、聴いています。音楽は、忘れていた情感を記憶の底から引き出してくれます。
[タイ戦]
ワールドカップ予選、アウェイでの日本対タイ戦を見ました。3対0で日本の勝ち。負傷を押して出場した中村俊輔をはじめ、体調が不十分な選手がいましたが、良い結果を残しました。[ベートーベン・リターンズ]
ちびどものあいだで、ベートーベンが人気です。おおきいちびは、9月のピアノ発表会で「エリーゼのために」を演奏することに決めて、一生懸命練習しています。お友達が上手に弾いているのを聴いたのに刺激を受けたようです。小学校では、本日の創立80周年記念式典のために、第9を全員で(?)合唱するようです。耳から聞き覚えたドイツ語をちいさいちびが一生懸命に歌っていました。意味はまったくわからなくても、音をそのまま真似しています。
夜半に目覚め、すこし仕事。ひとりおくれて7時15分。快晴。暑くなりそうです。
あかんぼ軍団は、朝から井の頭公園に出かけました。私が一人で留守番。今回はこのパターンが多くなりそうです。咳はふとしたきっかけで連続して出ます。ほんと何なんでしょうか? よくわかりません。
ひとりのあいだに、夏休みまでのスケジュールを壁のカレンダーに書き込みました。最大のピークは、学会のある7月上旬にきます。発表もありますし、司会もあります。
駒場で授業。いつもの時間に出かけ、いつも通り、非常勤講師室、図書館へと。
先週借りた本を返し、次のものを借りました。フリッツ・ハーバー
『ハーバー博士講演集 : 国家と学術の研究』
田丸節郎訳、 岩波書店、1931
田丸節郎に関して何か情報がないかと思い、借りてみました。附録に、田丸節郎「日本に於ける学術研究の振興」があります。いくらか参考になりますが、欲しい情報そのものはありませんでした。
ひとりおくれて7時過ぎ。雨。本格的に降っています。健康診断の日。ということで、朝は何も食べることができません。数時間の辛抱です。
→ちいさいちびといっしょに家を出ました。武蔵境発8時30分の電車に間に合い、大学には8時45分頃に到着。
研究室に荷物をおいてから、保健センターへ。9時開始でしたが、9時前に着いても受け付けてくれました。たぶん朝の3番目。だいたいいつも通りです。すぐに終わりました。
研究室に戻り、大学前のコンビニで買った焼きそばパンとコロッケパンを食べてから、研究所に赴き、コピーと資料の整理。と思ったら、途中で頭が痒くなりました。最近は見なくても自分ではっきりわかります。頭の全体にジンマシン。とくに耳の後ろの部分がひどい。あきらめてしばらくソファーの上で休んでいました。発症が10時前。30分以上たってから手にも発疹。そう、ちょうど注射をする当たりに出てきました。
ひどい痒み!!!
1時間ほど休んでいるとなんとか動けるようになりました。一度研究室に戻り、しばらくコンピューターに向かってから、早めの昼食に。11時40分頃に特別食堂に着くと、やはり貸し切り状態。ゆっくりご飯を食べてから、研究室に戻りました。
ジンマシンで体力をなくすことはないと思いますが、元気がでないまま、3限の講義。咳も重なってしまいました。
無理をしないようにして、5限まで過ごし、10分早く切り上げて帰ってきました。
夕ご飯を食べ、お風呂に入ったあとも、右手にははっきりとジンマシンの痕が残っています。たぶん、頭部にも残っているのだと思いますが、自分では見ることができません。
ひとりで7時。あかんぼうとおおきいちびは起きていました。ちいさいちびは15分後。昨日学校ではじめてのプールがありました。疲れたようです。ひどくはありませんが、不定期に咳がでます。何でしょうか。
会議の日。→学部教授会です。2時半〜5時過ぎ。
教授会終了後すぐに図書館に足を運び、次のものをコピーしました。
佐々木正勇 「フライベルク鉱山学校の日本人留学生」 『日本大学人文研究所研究紀要』31(1985): 26-44
佐々木正勇氏は、基本的に大植四郎『明治過去帳』と『日本人名大事典』を使っています。
ひとりおくれて8時過ぎ。ちびどもがでかけたあとでした。やはり軽く風邪気味です。軽度の頭痛があります。快晴。貴重な晴れです。私を除く6人が新宿に遊びに行きました。
その間に駅前の本屋さんで、3冊の雑誌、すなわち、『中央公論』『文芸春秋』の7月号と『現代思想』の6月号を買ってきて読んでいました。
新宿に出かけた組は、おやつの前に、帰ってきました。我が家の2歳男子はすやすや寝ていました。おお、1歳年下のレレが起きたまま帰ってきました。
ちびどもを歯医者に連れていったあと、我が家の5人とリリの6人で焼き肉屋さん。よく寝た我が家の2歳男子は絶好調。ただし、焼き肉はまだ何でもありません。ジュースを飲んで、ご飯を食べて、冷麺の麺をすこし食べて満足。
先のことを考えて、今日はゆっくりとしました。
夜半に目覚めすこしだけ仕事。ちびどもといっしょに7時前。ちびどもは昨日の夜いつもより1時間以上遅くなりました。そのことを考えるとまずまずの時間です。あかんぼうははやく起きましたが、下に行くと寝ていました。私と同じ症状。すなわち、咳。あかんぼうはまだ自分より年下のレレに対面していません。
雨。梅雨の雨。ひんやりとしています。
いつもよりわずかに早めに大学に出ました。まず保健センターで健康診断セットというのを受け取りました。それから図書館へ。
文献複写依頼で届いていた次のコピーを受け取りました。
エドワード・サイード&バーナード・ルイス 「オリエンタリズム論争2」『みすず』25(2)(1983): 40-60.
1を頼んだつもりだったのですが、2が来ました。仕方なし。次に書庫に入って雑誌を取り出し、次の論考をコピーしました。
都甲幸治「村上春樹の知られざる顔―外国語版インタビューを読む」『文学界』2007年7月号、pp.118-238.
総合文化研究所に寄って作業をしているあいだに読みました。これは、おもしろい! すごくおもしろい!
村上春樹の小説の愛読者であれば、誰でも面白いと思う種類の文章です。村上春樹の愛読者でなくても、村上春樹に何らかの意味で関心ある方には必ず面白いと思うであろう内容です。まちがいなし。
授業が始まってしまうと、やはり、ほとんど余裕がありません。
ひとりおくれて7時過ぎ。ひどくはありませんが、喉の風邪気味です。咳がよくでます。午後は理事会&編集委員会。
電車のなかで、藤井省三『現代中国文化探検―四つの都市の物語―』(岩波新書、1999)の残り、すなわち、北京と香港の章を読みました。北京の章が意外に興味深いものでした。つい、中国4千年の伝統の奥深さを感じた、というふうなクリシェを言いたくなります。単位とメディアのあり方がいちばん関心を引いた点です。
ポポ、リリー、レレ、とレレの世話係のお手伝いさんは、予定通り、台北からやってきて、日本に着きました。我が家へは8時35分。2週間滞在。しばらくたいへんにぎやかになります。
夜半に目覚めすこしだけ仕事。ちびどもといっしょに6時。晴れ。今日はほんとうに貴重な晴れ間です。
棚を片づけていたら、藤井省三氏の『現代中国文化探検―四つの都市の物語―』(岩波新書、1999)が出てきました。買ったことを忘れていました。
4つの都市とは、北京、香港、上海、台北。
藤井さんは、「1970年代早々にバックパッカーとして香港を訪れ、1970年代中頃に台北を歩き、そして1970年代末には北京・上海に留学した。」さらに、「1995年夏から96年春にかけて北京・上海で七カ月を過ごした。九七年と九八年には台北と香港で一カ月ずつを過ごしてもいる。」
とりあえず、台北と上海の章だけ読みました。アウェイでのオマーン対日本戦。どろどろの試合になり、1対1の引き分け。
勝てるチャンスはありましたが、これはこれで仕方ないでしょう。
夜半にすこしだけ仕事。おおきいちびが先に起きて、6時半。あかんぼうはとっくに起きていました。曇り。
あかんぼうは早すぎたようで、朝から暴れています。おお、ちびどもがでかけて、そうこうするうちに、晴れてきました。貴重な晴れ間。今日は夏のように暑くなるということです。いつもより1時間ほど早くでて、図書館で作業。非常勤講師室で同僚のM先生にお会いしました。3限の授業を終えて帰られるところでした。
図書館では次の本を借り出しました。
『宗教改革著作集4 ルターとその周辺II』教文館, 2003
この著作は次の2点を収めています。
1.マルティン・ルター 聖書序文集 (1522-45年)
2.フィリップ・メランヒトン 神学要綱あるいは神学の基礎概念 (1521年)
必要だったのは、もちろん、メランヒトン。Loci Communes Theologici(1521) 、正確にはLoci Communes rerum theologicarum seu Hypotyposes theologicae。
タイトルに、Loci Communes を含む本で、邦訳されている数少ない著作だと思われます。訳者の方も、解説者の方も、なぜメランヒトンがこのタイトルを選んだのかについては触れていません。解題によって、すこしだけメランヒトンとこの書を紹介しておきましょう。
メランヒトンは、1518年弱冠21歳の若さで、ヴィッテンベルク大学のギリシャ語・文学の教師となる。1521年、プロテスタント・キリスト教の最初の<教義学>と言われる『神学要綱 ロキ・コンムーネース』を出版。
出版前史:
1.エコランパディウス宛の手紙(1519)&エック批判文書(1519)
2.Theologica institutio Philippi Melanchtonis in Epistolam ad Romanos (1519), Rerum theologicarum capita seu loci(1520)
5限の授業では、発表者の院生がうまく「極東の限界」というフレイズで事態(コモンプレイス=Loci Communes に関する日本人の把握)をまとめてくれました。
全員で、なるほどと深く納得。
おおきいちびといっしょに6時10分。ちびどもが出かけてから2時間ほど経って、雨が降り始めました。今年は梅雨らしい梅雨です。
朝方に、昨日の出張校正には間に合わなかった入稿分を準備しました。書評(紹介)6点と解説1点。その後、机の上の片づけ。表面が見える前にダウン。片づけは疲れます。
午後は3コマの授業。
3コマ続けて授業があると、ほんとうに余裕なし。図書館で次の文献を受け取りました。
佐藤一夫
「日本の化学を築いたひとたち 37 田丸節郎先生」 『化学』19巻2号(昭和39年2月1964):24-274頁の紹介なので、とくに目新しい情報はありません。
しかし、そのなかでも、次の点に注目しました。1.ハーバー夫妻が星一氏の招きで1924年来日したとき、約一年半にわたり、日本全土はもとより、朝鮮・満州・仏印まで案内し、帰国をエジプトまで見送った、とあります。えー、一年半!
2.1929年東工大創立。1934年10月「岡の上に白亜の研究の大殿堂が出現」したとき、「教授兼図書館長の職に就かれ、物理化学および冶金学大意の講義を持たれた。」
私の関心から言えば、この図書館長就任というのにもひっかかるものがあります。「住友文庫」の選書をしたことと何か関係するのでしょうか? 東工大図書館に何か資料が残されていないでしょうか?
ひとりで6時。雨は上がっています。晴れてはいません。午前中に出張校正。
10時前から11時15分ぐらいまで。
そのまま、大学へ。新宿で乗り換えました。ちょうどよいので中央線のプラットフォームで弁当(深川飯)を買いました。大学へは、12時半ごろ着。お昼を食べてすぐに次の会議。午後は、会議。1時から2時35分まで。大学院企画運営室会議。かなり頭の痛いことになっています。
4限の様子を確かめてから帰宅。今日はすこし疲れました。
ちいさいちびといっしょに6時50分。おおきいちびは6時半ぐらいか。あかんぼうは7時過ぎ。よく降っています。しばらくこういう天気が続きそうです。[ベルリン科学アカデミー]
もうすこししっかりとした情報がないかと検索をかけていると、Scholarly Societry Project のサイトにKurfürstrich Brandenburgische Sozietät der Wissenschaft.=Electoral Brandenburg Society of Sciences and Humanities (ブランデンブルク選帝侯学術協会)に関する情報が整理されていました。紀要の名前、発行時期も知りたかったのですが、きちんと挙げられています。
T.1 (1710) - T.7 (1743/1744): Miscellanea Berolinensia ad incrementum Scientiarum ex scriptis Societati Regiae Scientiarum exhibitis edita
1745 - 1769[i.e. pub. 1746 - 1771](1. - 25.): Histoire de l'Académie Royale des Sciences et des Belles Lettres de Berlin
1770 - 1786[i.e. pub. 1772 - 1788]: Nouveaux Mémoires de l'Académie Royale des Sciences et Belles-Lettres
1781 - 1786(1. - 4.): Physikalische und Medicinische Abhandlungen der Königlichen Academie der Wissenschaften in Berlin
1786/1787 - 1796[i.e. pub. 1792 - 1799]: Mémoires de l'Académie Royale des Sciences et Belles-Lettres
1788/1789 - 1803[i.e. pub. 1793 - 1806]: Sammlung der deutschen Abhandlungen, welche in der Königlichen Akademie der Wissenschaften zu Berlin vorgelesen worden
1804/1811 - 1899/1900: Abhandlungen der Königlichen Akademie der Wissenschaften in Berlin
(一部略しています)
なんというややこしさ。年表を手元においておかないとすぐにわからなくなります。
すべては、 Preussiche Akademie der Wissenschaften: Digitalisierte Akademieschriften. で1頁1頁画像で見ることができます。
夜半に目覚めたので、すこし仕事。ちびどもといっしょに6時15分。曇り。
梅雨入り、梅雨入りと唱えていたら、ほんとうに梅雨入りが宣言されていました。明日はちいさいちびの2回流れたピクニックの3度目の候補日ですが、結局流れて中止ということになりそうです。こればっかりはしかたありません。
大学につくと、次の本がメールボックスにありました。柳原さん、いつもありがとうございます。
フィデル・カストロ、柳原孝敦
『チェ・ゲバラの記憶』
トランスワールドジャパン、2008
表紙の写真がとても格好良い書物です。3コマ連続は、やはり疲れます。
ワールドカップ予選。日本対オマーン。久しぶりに快勝。
今日のような試合をつづけてもらえれば、突破できるでしょう。
5時半。やっと晴れました。もう寒さは感じられません。6月。
貴重な晴れ間。[18世紀化学史:文献]
文献の整理も必要です。まずは手元にある次の2点を読み直しました。[特集ラヴワジェ研究入門第2回]大野誠「文献案内(1963〜1985)」『化学史研究』第43号(1988年): 67-73
[特集ラヴワジェ研究入門第9回] 川崎勝「文献案内Part2(1985-1990)―ラヴワジェ『化学原論』200周年祭を終えて―」『化学史研究』第18巻(1991): 137-143文献案内第2部が1990年までです。OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988) : The Chemical Revolution: Essays in Reinterpretation や Frederic Lawrence Holmes, Eighteenth-Century Chemistry as an Investigative Enterprise , Berkeley: University of California Press, 1989 あたりが丁度境目です。
オサイリス誌の特集「化学革命の再解釈」の冒頭で、ドノーヴァンが信頼できる数少ないレビューと呼んでいる論文をピックアップしておきましょう。クロスランドの論文2点とスミートン、それにゲラックの著作の計4点を挙げています。
Maurice Crosland, "The Development of Chemistry in the Eighteenth Century," Studies on Voltaire and the Eighteenth Century, 24(1963): 369-441
Maurice Crosland, "Chemistry and the Chemical Revolution," in The Ferment of Knowledge: Studies in the Historiography of Eighteenth Century Science, ed. G.S. Rousseau and Roy Porter (Cambridge: Cambridge University Press, 1980), pp.
W.A. Smeaton, "New Light on Lavoisier: The Research of the Last Ten Years," History of Science, 2(1963): 52-69
Henry Guerlac, Lavoisier: Chemist and Revolutionary
他に重要な研究として挙げているのは、ホームズの『ラヴォワジェと生命の化学』(1985) ならびに、我等のフッフバウアーの『ドイツの化学者共同体の形成,1720-1795』(1982) です。
せっかくですから、オサイリス誌の特集「化学革命の再解釈」の目次も挙げておきましょう。
OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988) : The Chemical Revolution: Essays in Reinterpretation, Table of Contents
Arthur Donovan, "An Introduction," OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988): 5-12
J.B. Gough, "Lavoisier and the Fulfillment of the Stahlian Revolution," OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988): 15-33
Robert Siegfried, "The Chemical Revolution in the History of Chemistry," OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988): 34-50
C.E. Perrin, "Research Traditions, Lavoisier, and the Chemical Revolution," OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988): 53-81
Frederick L. Holmes, "Lavoisier's Conceptual Passage," OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988): 82-92
Seymour H. Mauskopf, "Gunpowder and the Chemical Revolution," OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988): 93-118
H. A. M. Snelders, "The New Chemistry in the Netherlands," OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988): 121-145
Anders Lundgren, "The New Chemistry in Sweden," OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988): 146-168
Ramon Gago, "The New Chemistry in Spain," OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988): 169-192
John G. McEvoy, "Continuity and Discontinuity in the Chemical Revolution," OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988): 195-213
Arthur Donovan, "Lavoisier and the Origins of Modern Chemistry," OSIRIS, 2nd Series, Vol.4(1988): 214-231
なお、ペリン氏は、1988年4月に病没されています。ゲラク氏の弟子として、師を継いで、もっとも大きなラヴォワジェ研究をまとめると期待されていました。これも、残念なことですが、歴史学のひとつの転換点です。
[元素の発見]
自然の産する元素87のうち、金属が63(約4分の3にあたる)、9が半金属、そして16が非金属。元素とは何か?元素の発見とは何か?という根本的問題はしばらく棚上げにして、一般書で元素の発見と呼ばれるものを整理してみます。
古代に知られていた元素:9:金、銀、銅、鉄、鉛、錫、水銀、硫黄、炭素
中世から初期近代に知られた元素:4:亜鉛、砒素、アンチモン、ビスマス、燐(1669、ブラント)
18世紀に発見された元素:20: コバルト(1735、ブラント)、 白金(1748)、 ニッケル(1751、クローンステット)、 水素(1766、キャベンディッシュ)、 フッ素(1771)、窒素(1772)、マンガン(1774、シェーレ)、バリウム(1774、シェーレ)、酸素(1774)、塩素(1774、シェーレ)、モリブデン(1778、シェーレ) タングステン(1781、シェーレ)、テルル(1782、ミュラー)、ジルコニウム(1789、クラープロート)、ウラン(1789、クラープロート) ストロンチウム(1790、クロフォード)、イットリウム(1794、ガドリン)、チタン(1795、クラープロート)、クロム(1797、ヴォークラン)、ベリリウム(1798、ヴォークラン)
(出典。D.N. トリフォノフ& V.D. . トリフォノフ『化学元素発見のみち』内田老鶴圃、1994)
[ドイツのアカデミー]
(17世紀のちいさなものはひとまず略)。ライプニッツのベルリン科学アカデミーから。
1700年7月11日、Kurfürstrich Brandenburgische Sozietät der Wissenschaft. 「ブランデンブルク選帝侯科学協会」創設。ライプニッツ初代会長(-1716)
1718年、植物園を吸収。
1723年、医学教育機関として、 Collegium Medico-chirurgicum を設立。
1744年、ベルリン文学会を統合した形で、「王立科学アカデミー」と改称。
1746年、モーペルチュイ会長に。名前も、Académie Royal des Sciences et Belles-Lettres とフランス語に。フランスの王立科学アカデミーに最も近づく。紀要も、フランス語で発表されるものが多くなる。
(1810年、ベルリン大学創立。)
過去の科学の制度史において、ドイツは不当に軽視されています。手元の科学の社会史 や制度史の概論・教科書的記述を見ましたが、18世紀は大学の衰退のみ、19世紀はギーセンのリービッヒから新規に始まるかのように書かれています。
上記の年譜は、丹治智博・平野葉一「ベルリン科学アカデミーにおけるフランス科学者との関わり:1746年〜1766年の議事録を中心に」『東海大学紀要 文学部』85(2006): 37-58 によりました。(著者は、<研究ノート>に分類されていますが、よい論文です。周知の事項に関する注(たとえば、ライプニッツの伝記とか)を削除し、研究史をもう少し広くおさえ(アカデミーの比較制度史の観点が必要)、一次資料の読み込みを中心に据えれば、立派な論文として、きちんとした学術雑誌に掲載することができます。そうすべき内容の論文だと思います。)
(また、ウェブにある、「オイラー年譜」(「近代数学史年表」より抜粋)というのがとてもよく出来ていて、参考になります。)フッフバウアーによって、基本的なことをまとめておきます。
ライプニッツの望みとは違って、「科学協会」は、有給の化学ポストも実験室も持つことがなかった。しかし、「科学協会」は、ノイマンとポットには、「内科-外科医学カレッジ」の化学教師として給料を支給した。
「科学アカデミー」に再編(1744)されてからは、少数だが有給のポストが創設された。ポットとマルクグラーフが化学アカデミー会員として給料をもらった。1753年、住居付の実験室が完成し、マルクグラーフがその室長(director)に任命された。
7年戦争後、実験室は、改築された。その後、マルクグラーフの弟子の二人、C.A. ゲルハルト(1768-1821) とF.C. アーカート(1776-1800) がアカデミーの正会員となる。1782年、マルクグラーフのあとをアーカートが継ぐ。ベルリン内科-外科医学カレッジ。
1723年創設。1809年、教授の多くがベルリン大学及び内科-外科軍事アカデミーに移籍したのに伴い、閉鎖。
おそらく、シュタールのおかげで、ポットが理論化学の正教授、ノイマンが実践化学の正教授という形でスタート。1737年ノイマンが没すると、地位もサラリーもポットが引き継ぐ。教育のために、宮廷薬局を利用することが出来た。1777年ポットが没すると、宮廷薬剤師C.H. ペインが化学と薬学の教授に任命される。無能だと判明したペインに代えて、1792年、ヘルムシュタットがその地位につく。ヘルムシュタットは、1809年ベルリン大学創設に伴い、哲学部の技術化学員外教授に採用された。
フライベルク鉱山アカデミー Bergakademie Freiberg 。
1733年、フライベルク鉱山アカデミーの正式の創設の30年以上前にヘンケルがフライベルクで化学を教えていた。その後、1749年からはゲレート(C.E. Gellert)がヘンケルを継いで化学を教授。
1765年にフライベルク鉱山アカデミーが創設されると、ゲレートが冶金化学の教授(1765-1795)に任命された。ゲレートの後任は、ランパディウス(W.A. Lampadius)。1794年員外教授、1795年化学と精錬の正教授(-1842)につく。 1797年、ランパディウスは実験施設Laboratory と運営資金を得る。
(なお、有名なヴェルナーの任期は、1775-1817 の42年間。ヨーロッパだけではなく世界各地から人が集まる。木本忠昭氏のカウントによれば、日本からも1935年までに47名がこの地に留学している。大島高任:岩倉使節団に従って渡欧し、視察。今井(岩佐)厳;原田豊吉;巖谷立太郎;野呂景義;的場中;渡邊渡;山田直矢等々。)
おやつの時間に次の本が届きました。
黒川 高明
『ガラスの技術史』
アグネ技術センター、2005
2007年
台北滞在記2007
(台北滞在記2004)
田舎にて2007
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