5時40分。晴れ。あかんぼうは4時に目覚めひとしきり遊んでからまた寝たとのこと。ちいさいちびも先に起きていました。
今日は夏日&秋晴れという予報。ちびどもはお友達といっしょに動物園に行く約束があります。日曜日から楽しみにしていました。
私は出張校正。午前中飯田橋に行って来ます。
→11時に着いて1時20分ぐらいまで印刷所にいました。帰り着いて、2時15分前後。
ちびどもは3時半過ぎに帰ってきました。ちいさいちびのお友達がいっぱい集まって、おおはしゃぎで遊んできたようです。あかんぼうも水遊びできる場所があったということで、いつもの午前中の昼寝が消えたとのこと。
あかんぼうが目覚めて5時50分。曇り。
お昼過ぎに小雨。すぐに止みましたが、今日はこういうふうにはっきりしない天気が続くようです。
あかんぼうが目覚めて5時半。快晴。
朝はまだそれほど気温が上がっていませんが、予報によれば33度まで気温が上昇するとのこと。再び暑い夏が戻ってきます。大学に行って帰ってくると次の本が届いていました。
ルートヴィッヒ・ハーゲマン
『キリスト教とイスラーム―対話への歩み』
知泉書房、2003
もちろん、日曜日の発表の前に入手し読んでおくのが望ましい書物でした。
→コーラン(最近は、クルアーンと表記される)を最初にラテン語訳した Robert of Ketton とは誰だろうと思っていたら、この本にイングランド人ケトンのロベルトゥス(チェスターのロバート)とあります。
チェスターのロバートであれば、よく知っています。伊東俊太郎氏の『近代科学の源流』(中央公論、1978)を読んで覚えた記憶があります。
ややこしいのは、名前の表記で、Robertus Retinennsis, Robertus Ketensis, Robert de Ketene, Robert de Retines, Robertus Cataneus等々あるそうです。『キリスト教とイスラーム―対話への歩み』でも、ケトンと表記されています。これは知識がないと間違えます。
さらに、「チェスターのロバート」で検索をかけたとき真っ先にでてくる、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 では、「チェスターのロバート(あるいはバスのアデレード)」という表記があります。
これは困った。「バスのアデレード」は、普通「バースのアデラード」と表記されます。バースは、有名なイギリスの温泉地 Bath です。 バースのアデラードは、アラビアの占星術書(アブー・マアシャルとサービト・イブン・クッラ)、アル=フワーリズミー(『天文表』と『インド数学について』)、そしてとくにユークリッドの『原論』の翻訳(アラビア語からラテン語へ)で知られています。
チェスターのロバートの方は、コーラン(クルアーン)の他に、錬金術書(ハーリド・イブン・ヤズィード, Liber de compositione alchimiae) 、そしてとくにアル=フワーリズミーの『アル=ジャーブルとアル=ムカーバラの書』(Liber algebrae et almucabola, 1145)を翻訳したことで有名です。→”チェスターのロバート(あるいはバスのアデレード)”で検索をかけてみました。101件でてきます。出典は、ほぼ間違いなく、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でしょう。
たぶん、もとの執筆者の方は、○○を訳したのは、チェスターのロバートまたはバスのアデレード、という意味で書かれたのだと思います。しかし、「チェスターのロバート(あるいはバスのアデレード)」という表記は、チェスターのロバートの別名がバスのアデレードという解釈を惹起します。
『ウィキペディア』を読んでそう思った方はけっこういるのではと予想しています。必要があって、中山茂・石山洋『科学史研究入門』(東京大学出版会、1987)をざっと読み直しています。内容的には古くなってしまったことは否めませんが、古くなってしまったものとして、すなわち近い過去の歴史資料として、興味深く読んでいます。(買った当初も実は古いと思いました。)
今、20代の方にはそもそもまったく実感をもつことができないであろう、多くの事情が記されています。
→前にこのページで記したマイクロフィルムコレクション Album of Science の情報がありました。(149頁)
次のようにあります。
「新潟大学では、渡辺正雄の肝煎りで、オクラホマ大学科学史大学院の科学史コレクションのマイクロフィルム・コピーを購入している。古代から20世紀初期まで図書250万ページ、雑誌140種をふくむもので、米国の科学史の一拠点の収集成果をコピーでも確保しておくことは有意義である。基本資料は大体揃っていると思われる。」
渡辺正雄「オクラホマ大学科学史コレクションのマイクロ・フィルム」『図書館雑誌』 77(8)(1983)p.497.
しかし、Album of Science というコレクション名が記載されていません。これでは探すのが非常に難しい。
→ということで、やっと『新潟大学附属図書館報』No.25(1982. 5) に「科学史関係文献コレクションオクラホマ大学編」という記事があることがわかりました。
無事帰ってきました:長野駅2時57分の新幹線に乗車し、西荻窪に5時5分に到着しました。接続がうまくいけば、ずいぶん近い感じです。午前中は、研究会。
ほぼ正午に終わりました。
一人の方は、すぐに用事があるということで、ご自身の車でそのまま帰宅の途に。
残りは、地元の方の車に乗せてもらって、長野駅まで。やはり、夕刻横浜で用事があるおひとりの方を新幹線駅で見送ってから、お寺へ。
まずはなにより、善光寺。
駅からの近さと大きさに驚きました。時間がなかったので、ざっと境内を見るだけでした。いつ始まったのかと質問してみると、諸説あってはっきりしないが、日本で最初の仏教寺院という説もあると紹介されました。誰も見たことのない、秘仏がある、のだそうです。
それから、今回の合宿にあたり大変親切に世話をしてくれた方のお寺往生寺へ。びっくりしました。風景の点で超一等地にあります。しかもかなり古い立派な仏殿。法然上人の直接の弟子が開祖です。
住職、すなわちその方の父さんに絵解きをしていただきましたが、時間があれば、いっぱい質問をしたくなる、非常に興味深い内容でした。
新幹線の時間があるので、1時間近くお邪魔してから去りました。→おお、お寺のサイトがありました。
往生寺の由来
→どうも話を聞いたことがあるな、と思ったら、古典文学でも有名な説話でした。 説経浄瑠璃「かるかや」(1631)、「かるかや道心」 「かるかや道心事」、謡曲「刈萱」があるということです。
るるぶ.com にも案内があります。
刈萱堂往生寺
→善光寺に行かれる方は、是非、尋ねてみて下さい。長野盆地(?)を見渡すことのできる高台に、趣のあるお寺があります。
おお、涼しいのはありがたい。あかんぼうが目覚めて、6時前。
さて、長野に行く前に、気温の調査。最低気温が東京より2〜3度低いだけの模様。長袖が必要かと思いましたが、大丈夫なようです。
10時24分東京発のアサマを予約していました。自宅を9時半近くにでました。十分な余裕をもって家をでたつもりでしたが、東京駅での乗換が少し時間がかかります。プラットフォームで10分以上待っていたので、まあ、ちょうどよいぐらいだったのかもしれません。
長野には12時ちょうどに到着。そこから長野電鉄に乗り換えるように指示がありました。長野駅の駅前広場にでれば、長野電鉄が見えるということでしたが、すぐには見えませんでした。立ってビラを配っている方に尋ねました。地下通路の入口のような形で、たしかに長野電鉄の文字がありました。
終点までの乗車券と100円の特急券を買って、3両編成の電車に乗り込みました。 リンゴ、もも、ブドウ畑が車窓より見えます。45分ほどで終点の湯田中に。
湯田中駅には、地元の同僚が迎えに来てくれていました。
私は、その土地のことをまったく調べずにきましたが、まさに温泉街でした。1時過ぎから研究会。
夜中に目覚めて、すこし仕事。日付が変わったあたりから、雨が降り始めました。やっと熱帯夜から解放されそうです。ちいさいちびといっしょに7時過ぎ。窓から入ってくる空気はたしかにひんやりして気持ちがよい。
長野にもっていく資料は一応作成できました。統一テーマは「イスラーム表象」。
私の把握できた範囲では、コーラン(古い表現)のヨーロッパ語訳は次の通りです。1543 Machumetis Saracenorum principis, eiusque successorum uitae, ac doctrina, ipseque Alcoran, (The first Latin translation of the Koran by Robert of Ketton about 1143 was published by Theodor Bibliander ('Buchmann') (1500-64) at Basel in 1543. )
1647 Le Sieur Du Ryer (tr.), L'Alcoran de Mahomet, Paris, 1647
1649 Alcoran of Mahomet, London, 1649英訳は、アンドレ・デュ・リエによるフランス語訳からの重訳で、新哲学の面々にかみついたアレキサンダー・ロスという人物によります。時代の流れからすると、真正の保守反動ということになりますが、ロスはかなり不思議な人物です。
なお、この時代の西欧人は、アルコランという呼称を採用しています。コーランという旧名はここからアルを取ったものとなります。
さて、もしご存じの方がいらしたらお教え下さい。
そもそも「イスラーム」と呼び方はいつごろどういう方面から出現し、定着したのでしょうか?
(私の研究している時代には、Islam という用語は使われていないように思われます。)
→27日の合宿のときに、専門家から教えていただきました。Islamというのがもっとも由緒正しい言葉で、『クルアーン(コーラン)』のなかにあるのだそうです。そして、キリスト教とは違って、イスラーム教ではなく、ただイスラームと呼ぶのがよいそうです。
あかんぼうが起きて、うんちをして、6時20分。小雨。日曜日から月曜日にかけて、科研費の合宿が長野であります。もうほんとうに泥縄ですが、準備を開始しました。ちゃんとした研究成果の発表まではできませんが、関心の所在と問題点、見通しだけでも示すことができれば、と思っています。
モーゼス・マイモニデスの本は、読み始めた次の日に読了しています。基本的な伝記事項をここにまとめておきましょう。
1135 モーゼス・マイモニデス、代々コルドバのダヤンを務めてきた家柄に、ラビ・マイモンを父として生まれる。
1148-58(13-23) ムワッヒド派の迫害により、一家はアンダルシア南部から北アフリカを流転する。
1159(24)-1165 フェズ(モロッコの北部)に定住。
1165 迫害に耐えかねて、一家は、アッコ、エルサレム、へブロンを訪れるが十字軍の圧迫により聖地定住を断念し、エジプトに向かう。
1168(33) カイロ旧市のフスタートに定住(-1205)。『ミシュナー注解書』完成
1170(35) 『戒律の書』完成。
1171(36) 父死去。生計を支えてきた弟ダビドもインド洋で遭難死。実存的危機。
生計のために医師として開業。フスタートのユダヤ共同体ラビに就任。
1174(39) カイロのユダヤ人首長スッタの迫害により身を隠す。
1178(43) 『ミシュネー・トーラー』完成。
1185(50) モロッコから唯一の弟子ヨセフ・イブン・アクニン来る。
1187(52) サラディンの高官アル・ファディルの侍医(アイユーブ朝の宮廷医)。
カイロのユダヤ共同体のナギド(首長)に任命される。
1190(55) 『迷える者のための道案内』完成。
1204(69) 12月23日死去。フスタートのユダヤ教徒とイスラム教徒が3日間共同の喪に服した。
このページで最初探った『迷える者のための道案内』(モーレー・ネヴーヒーム)のヘブライ語訳についても事情がわかりました。
ルネル(マルセーユの西方)の地に100程度の数でしかなかったがユダヤ人共同体があった。ヨナタン・コーヘンをリーダーとするその地の学者グループがマイモニデスに手紙を送り、『迷える者のための道案内』の原書またはヘブライ語版を送ってくれるように依頼した。マイモニデスは要望に応え、アラビア語の原書を一冊送った。彼らは、有名な翻訳家の息子、サムエル・イブン・ティボンにそのヘブライ語訳を依頼した。(279頁)
1204年11月30日(マイモニデスの死の14日前)、翻訳は完了。サムエル・イブン・ティボンはただちに乗船し、マイモニデスに会いに行ったがとき既に遅し。それにしても、現在のイスラエル-パレスチナ問題をみるに、ユダヤ人社会にマイモニデスの精神はどうして根付かなかったのかと強く思います。その点に関しては、ヘッシェルの次の言葉を引用しておきましょう。
「結局ユダヤ民族をしつけ、教え、形成したのは法典編纂者にして『道案内』のマイモニデスではなく、聖書注解者ラシであった。その後の諸世代の精神を形造ったのは、マイモニデスの形而上学ではなく、カバラーであり、ハシディズムであった。ユダヤ民族に対するマイモニデスの影響は間接的であり、まったく異質な道を通して作用した。」(250頁)
「マイモニデスは哲学を地上における最高の位置にすえた。ミシュナー注解書と法典において、哲学的な教えを宗教的戒めの形式で提示した。『迷える者のための道案内』において、聖書とアリストテレスの「結婚」が行われている。この哲学的成功、啓示と哲学の和解は、混血婚のようなものと受け取られ、拒絶された。にもかかわらず、これらの諸理念は比類ない影響力を持つに至った。マイモニデスはその神学説が、キリスト教、イスラム教、カライ派等の他宗教あるいは他宗派、およびユダヤ教に、後々まで持続する影響を及ぼした、中世唯一の思想家である。」(249頁)
ひとり遅れて7時20分。昨夜つい手に取った、畑村洋太郎『危険学のすすめ―ドアプロジェクトに学ぶ』(講談社、2006)を読み始めたせいです。安全を求めるためには、ありうる危険の地図を作成し、危険を避けることが必要だ、一言で言えば、こういう内容の本ですが、工学者らしくドアという具体例の蓄積によっているので、非常によくわかります。
あかんぼうが起きて、6時前。まだ暑い。
あかんぼうが起きて、6時。やはり暑い。日本のアマゾンより次の本が届きました。
William R. Eaton
Boyle On Fire: The Mechanical Revolution In Scientific Explanation
(Continuum Studies in British Philosophy)
London: Continium, 2005
ボイルの認識論と科学哲学に関する著作です。
かぞくそろって6時40分。このぐらいだと助かります。今朝もなかなかに暑い。昨日から今朝にかけて、土曜日の編集委員会の宿題をこなしていました。今朝郵便局にもっていった郵便が7点。日曜日に4点、今朝3点を処理しました。
宿題そのものはそれで完了。今日と明日は、幼稚園の登園日。ちいさいちびはおともだちと遊べるのがうれしいようです。妻もやっと回復したので、家族揃ってちいさいちびをおくっていきました。
妻、おおきいちび、あかんぼうの組は、幼稚園に行ったあと、銀行や商店をまわってたまっていた用事を処理。私は、郵便局に寄ってから大学へ向かいました。
本を探すためとメールの対応です。
気象庁によれば、東京の暑さは今日明日あたりがピークということです。たいしたことをしたわけではないのですが、帰ってきたときには体中がそうとう暑くなっていました。
編集委員会の仕事のあとは、翻訳の監修(改訂)作業をやっていました。チームで翻訳し、チームで監修(改訂)をします。私は翻訳は担当しません。15章の本のうち、3章分の監修(改訂)を担当します。一度手の入った訳稿だったので、1ページにつき1〜2点手を入れるだけですみました。
ちびどもが寝付いてから、その翻訳改訂作業も完了しました。もとのものがしっかりしていると赤を入れるがとても楽です。
あかんぼうが起きて、6時前。今日も朝から気温が高い。
午前中は東工大で編集委員会。→11時〜12時半。
午後は、化学史研修会。
上のプログラムのリンク先にあるように、私は3番目の講師。前のお二人のお話が伸びたので、私は予定されていた1時間よりもいくらか短め(5分から10分)に話しました。東工大のフェライト会議室という部屋でしたが、我々が5時まで借りており、次の行事が5時半から入っていました。
テキストのドラフトを書いたあと、講演用のスクリプトを作成する時間はまったくありませんでした。
まあ、頭のなかにあることを話した方が、わかりやすい話になるだろうと前向きに考え、演壇に登りました。授業のときもそうですが、大勢の人前で話すときの調子は、第1声を発したときの、声の感じでわかります。
喉の力が抜けて、しっかりと届く声が出るときは、調子がよい。
(逆に、喉に力が入って、声が割れる感じのときは、調子が悪い。)
夏休みだし、会場の天井が不自然に高いのでどうなることかと思っていたのですが、第1声がわりとよくでました。
ということで、調子よく最後まで話すことができました。
→スタッフ7人で夕食を食べて帰ってきました。
妻の熱が39度まで上がりました。
ちびどものお昼ご飯を作っていたら、片手鍋の取っ手の部分が熱をもっていて火傷をしてしまいました。すごく痛い。火傷はともかく冷やせと教わっていたので、夕刻まで4時間ほど氷を当てて冷やし続けたら、治ったとまではいきませんが、5〜6ミリの楕円形の水膨れだけにとどまりました。
妻が発熱。38度5分。風邪です。
きつい一日でした。夕刻次の2冊が届きました。
矢作 俊彦『悲劇週間』文芸春秋、2005
畑村洋太郎『危険学のすすめ―ドアプロジェクトに学ぶ』講談社、2006
ひとり遅れて7時半。
夜半からまた雨。台風接近に伴う雨のようです。帰京と同時に届いていたA.J.ヘッシェルの『マイモニデス伝』(森泉弘次訳、教文館、2006)を読んでいます。マイモニデスについて日本語で最初に読むものとしては、最適と言ってよいのではないでしょうか。
マイモニデスのことば:「学び究める途中で苦しみが多ければ多いほど報いは大きい。努力し苦しんでマスターした知識だけが長持ちし、いざというときに役立つ」
ちょっと意外だった点をまず2点紹介しておきましょう。
1.モーゼス・マイモニデスには、弟のダビドを除き、ほとんど友人と呼べる人物がいなかった。
人生の途上、一度だけすばらしい友情に恵まれた。アメリアで出会った(と思われる)アヴェロエスである。
2.父らラビ・マイモンと同じく、早くからラビの仕事をしていたと思っていましたが、モーゼス自身は働いていない、父が生きているあいだは父が養い、父亡きあとは弟のダビドが宝石商をして生活を支えた。(流浪のあいだ、そうして研究、執筆に専念していた。)
そして最愛の弟が客死したとき、彼は深いメランコリーに沈んだ。必要に迫られて選んだ職業が医師であった。(ラビの役目は勤めたが、お金をもらうことを拒んでいます。)
ひとり遅れて7時過ぎ。ちびどもは6時前。遅れて階下にいくと、なんとあかんぼうの姿がありません。早く起きすぎて、また寝たとのこと。
夜半から雨。ちいさいちびがなかなか回復しません。思うようにならないことがあるとおねえちゃんにあたります。昔と違っておねえちゃんも(必要以上に)反撃するので、けんかばかりとなります。
妻と相談して、昼食後、プールに連れていってやることにしました。井草スポーツセンターというところにある温水プール。
あかんぼうはプールに入ることができない(おしめのとれていない乳幼児はプールにそもそも入ることが許されていない)ので妻が面倒を見ます。そうすると、必然的にちびどもの泳ぎに付き添うのが私の役目となります。
もちろん、水深75センチの子ども用プールに入って、ちびどもの様子を見てやっているだけです。
たったこれだけですが、けっこう疲れます。
1時間すこしプールに入っていたあと、ちびどもはアイスクリームを食べ、それから子ども広場(室内)で遊びました。今回はあかんぼうも仲間。
あかんぼうはどうもかなり外向的な性格のようです。自分と同じくらいの子ども(1歳前後)を見つけるとはいはいで寄っていって、とんとんします。ついでにその子のお母さんにもとんとん。だいたいそのころに妻が寄っていって、相手のお母さんに済みませんと言って離すのですが、もちろん、相手のお母さんは嫌がっているわけではありません。
幼稚園でもわりと小さい子の面倒を見てやっているちいさいちびは、その弟の同級生の相手をしてやっています。その子はうれしいようで、しばらくするとにこにこしはじめ、ちいさいちびを追うようになります。
そういうとき、その子のお兄さん(たぶん3歳前ぐらい)はお母さんにくっついたままです。兄弟は、こういうふうになりやすい。
[東京大停電]
杉並は大丈夫ですが、都心地帯は広く停電しているようです。8時半現在。
原因はまだわからないとのことでした。
アメリカの大停電を思い起こさせます。
アサヒ.comのニュース
ヨミウリにはまだ記事がありません。
→今更ながらですが、クレーン船が旧江戸川にかかる高圧線に接触し、損傷させたことが停電の原因でした。なんというアナログでレトロな原因でしょうか。
6時起床。あかんぼうはもう起きていました。おおきいちびは6時20分。ちいさいちびは7時過ぎ。
ちいさいちびは今日も昼寝をせず。でも、歩くのもあまりせず。体力の回復まではもうすこし時間がかかるようです。
そして、6時半過ぎに眠いと言って就寝しました。[ベビーのぼる]
我が家のあかんぼうですが、一昨日、ピアノに登ろうとしました。おねえちゃんたちがピアノを弾いているせいか、どうもピアノが大好きなようです。ふと見ると、ピアノの椅子の横にブーブーのおもちゃが横付けされており、それを足場にピアノの椅子に登ろうとしていました。案の定、体勢を崩して、畳の上にすってんころりん。もちろん、泣きましたが、この子は、抱っこしてやるとすぐに泣きやみます。
まだ8ヶ月なのに、こやつはと思っていたら、昨日、おねえちゃんたちがお風呂に入っているあいだに、ソファーの上に登りました。我が家のリビング=ダイニングではソファーの背に腰の高さの食器棚を並べています。食器棚の上においていたコップややかんをつかみにいったようです。もちろん、一番上までは登りませんでしたが、途中までは登りプラスチックのコップを掴みました。もちろん、しばらくして落下。さすがに受け取ってやりました。まだ未練そうでしたが、2回目のチャレンジは後日にしたようです。午後のお昼寝から目覚めたあかんぼうは、やっぱりやんちゃぼうずの面目躍如、あっちにはいはい、こっちにはいはいして遊んでいましたが、おかあさんとおねえちゃんの3人が2階に上がると、自分が取り残されたと思ったのか、2階に向かいました。階段の下に辿り着き、見ていると、なんと階段を上り始めました。上るのはいいのですが、たぶん後ろを向いた途端に、後ろ側に転がり落ちます。3段まで上がったところで、後ろに付いてやりました。すると、もう自分では上がろうとせず、抱っこせよと言います。仕方がないので抱っこして上ってやりましたが、はいはいもやっとできるようになったばかりのあかんぼうのすることとはとても思えません。
こういうふうに目が離せなくなるということは、予想できませんでした。兄弟といってもそれぞれ違うなと痛感しています。
ひとり遅れて7時半。蓄積疲労のせいでしょう。
よく寝たせいで、すこし動けるような気がします。[大学のお休み]
大学は、8月12日から16日にかけて、 夏期一斉休暇というのにはいります。お知らせによれば、「研究講義棟には入れませんので、ご注意ください。」とのこと。
ちょっと用事があるのですが、17日(木曜日)まで待たなければなりません。ちいさいちびは今日は昼寝をせず。でも、まだ歩けないと言っています。39度前後の熱で3日間寝込むと体力が失われるようです。回復したとき、ほっそりしていました。昨日、今日と食べることは食べるようになってきましたから、週明けのどこかで歩けるようになるのではないでしょうか。
なお、おばあちゃんがおそらく近所か医者で聞いてきた情報によると、今年は梅雨が長引いて、ばい菌が繁殖したので、子どもの病気が田舎でも流行っているとのことです。東京で流行っていたプール熱も状況は基本的に同じだと思われます。留守中にきていた2校の処理をほぼ終えました。
サミットの上のコジマで電波時計を購入。2千7百円程度。居間に時間のわかるものがないのは不便(心配性でおおげさなおおきいちびは、時計がないと小学校に行けないとまで言っています)なので、千円程度のものを買おうと思って、サミットに買い物に行ったついでにコジマを見たのですが、1台正確な時計があるのも悪くないだろうと考えて、千円よりは2〜3倍高かったのですが電波時計にしました。
電池を入れ、リセットボタンというのを押します。それから時計を窓際において、最長14分待てば、自動的に正しい日時と時刻にセットされるという仕組みでした。確かに、10分程度で、正しい時刻にセットされました。
買うときに丁寧に選んだわけでもないのですが、気温計がついていました。これはこれで便利です。普通の気温計は買ってあったのですが、ちびどもの扱いによって10度近い誤差がでるようになっていました。クーラーや暖房を入れる目安として、室温が正確にわかることは役立ちます。
お昼のあと、すさまじい雷光と雷鳴。
これは停電もありうるなと思っていたら、停電。1分ほどで回復しましたが、部屋はまっくらとまではいかないまでも、夕方のような暗さになりました。
雷は短時間で収まりましたが、雨があがって気温がぐっと下がりました。ちいさいちびは今日も昼寝。昨日、一昨日と違うのは、起きてから暴れたり、泣かなかったこと。あかんぼう、おかあさん、そしておおきいちびと順番に風呂にはいっている最中でしたが、数分で自分もおねえちゃんといっしょに風呂に入ると2階に上がりました。それから、夕ご飯。お肉おかわりとの言。おなかがすいてくるようになれば、もう少しでしょう。
雷雨のあと、空気はかなり冷えました。そのひんやりとして空気のなか、約束によってビデオ屋さんに。ちびどもは「クレヨンしんちゃん」をそれぞれ1巻ずつ。私は、雑誌を買いたかったのでその足で本屋さんへ。
ちびどもはともに小学2年生の学年誌。私は、『月刊現代』『中央公論』『論座』という総合雑誌の9月号を3冊、ならびに次の2冊の文庫・新書を買いました。
梅田望夫『ウェブ進化論―本当の大変化はこれから始まる』ちくま新書、2006
ルドルフ・シュタイナー『シュタイナーの死者の書』高橋巌訳、ちくま学芸文庫、2006
本屋さんの帰途、ちいさいちびがもう歩けない。仕方がないので、あかんぼうを抱っこしてちいさいちびをベビーカーに乗せました。押す役はおねえちゃん。
[帰京]
東京にほぼ12時に着く便で帰京。
白浜空港までの車に酔ったおおきいちびは、飛行機はなんとか平気だったのですが、飛行機を降りて、バスに乗った途端、「もどしそう」とのこと。急いで、カバンからレジ袋を探し出し、口にあてさせました。1〜2度吐くと気分がおさまったようです。
ゲートをでると、「おなか空いた!」。
トイレの近くにあったソバ屋さんで昼食。ちびどもは天ざる。私は親子丼。妻は鴨南蛮ソバ。おおきいちびはほぼ完食。ちいさいちびは3分の1か、4分の1。
その時点でちいさいちびの力は切れていたようで、歩けない。赤ん坊を妻が抱っこして、ちいさいちびがベビーカーに。浜松町から東京に着く頃、寝てしまいました。
そのままの体勢で、東京から西荻窪へ。ちいさいちびは、家に帰り着いてもしばらく昼寝を継続していました。
1週間以上閉めきっていた家の換気や片づけがあるので、ちいさいちびはそのままベビーカーで寝てもらいました。やはり2〜3時間して目覚めましたが、元気はまだないようです。7月25日に発注した次の本がやっと届いていました。
A.J.ヘッシェル 『マイモニデス伝』森泉弘次訳、教文館、2006、 ¥ 2,940
おそらくマイモニデスについての邦語はじめての成書です。
同時に、化学史研究の3号の2校も届いていました。
昼寝のしすぎか、別の原因かよく分かりませんが、ちいさいちびは夜うまく寝付かず、短い間隔で目覚めました。
時計を見ていたわけではないのですが、寝入りばなを何度も起こされました。きつい。
ちいさいちびの熱がやっと引きました。
ただし、まだあまり元気はありません。昼寝をさせると、3時間も寝ました。
ちいさいちびの熱が下がらず。39度を超えている時間が割と続いています。台風が接近中。
あかんぼうが起きて、5時。5時なら許容範囲でしょうか。
ちいさいちびは朝方はまだ熱があります。37.5度。
でもすこしお腹が空いたようで、リンゴを1切れ食べ、ヨーグルトを飲みました。
7時ぐらいになって、お腹が痛いといい、お手洗いに行って下しました。同時にかなりの発汗。それで熱が下がり、36.5度。
熱があるあいだはずっと静かにしていたのですが、熱がひいて、いつものようによくしゃべるようになりました。まる一日ほとんどなにも食べていなかったので、またすこし痩せた感じがします。
念のため、朝一番で近所のお医者さんに連れていくこととしました。
→お医者さんの診断は、扁桃腺炎。しばらく、熱が高下するということです。
あかんぼうは、なんとか6時前まで寝させていました。
6時になってやはり全員を起こしました。ちいさいちびは相変わらず。朝食もほとんど食べようとしません。朝食もよく食べて元気そうだったおおきいちびがそうこうするうちに気分が悪いと言い出します。自分で布団に行って寝付きました。ちいさいちびも寝かせたかったのですが、なかなか寝てくれません。
すこし部屋のなかをうろうろして、お昼前に、居間のソファーの上で寝付きました。
目覚めて、38度。原因はともあれ、風邪の症状です。
3時すぎに、あかんぼうといっしょに昼寝をさせました。
起きてきても熱が下がりませんし、食欲もまったくありません。
おばあちゃんが用意してくれた氷枕と冷たいタオル、並びに昼間買ってきた冷えピタという3種で冷やすことにしました。
9時前後、あかんぼうが目覚めるのと同時にちいさいちびも泣いています。痛い、痛い。どうも足が痛いようで、見るとつったようです。すぐにのばしてやりました。足の痛みが抜けるとまたすぐに寝入りました。
[午前4時]
あかんぼうが午前4時に目覚め、うんちをして、騒いで4時半には全員を起こしてしまいました。5時なら昨日の朝のように散歩に連れていくことも出来ますが、4時代ではまだ外が暗い。
ともかく何とか理由を付けて、お昼寝をさせないといけません。
→おおきいちびはうまく寝付いて、よく昼寝をしました。しかし、ちいさいちびは眠れないとすぐに起きてきました。
おおきいちびが目覚めてから、おばあちゃんにおにぎりを作ってもらって、小目津海岸公園へ。ちょうど人が少なくなってきたところでした。喜び勇んでジャングルロープで遊んでいました。
その後、波打ち際にでて、貝殻拾い。きゃっ、きゃっいいながら、小さい貝殻を拾っていました。
ちいさいちびが体力切れの様子でしたが、そのままその近くの温泉へ。
温泉も面白かったようですが、ちいさいちびが帰りの車で寝てしまいました。すこし身体が熱い。帰って寝かしつけると、微熱。軽度の熱当たりではないかと思われます。
そのまま寝入りました。よく昼寝をしていたおおきいちびは、いちもよりもおよそ1時間ほで遅くまで起きていました。食事が終わった後、そのまま食卓で話を聞いてやりましたが、学校の話をいろいろしていました。
あかんぼうはいつもとおり、朝早い。5時過ぎにはすっかり目覚めて、おねえちゃんを起こしそうだったので、散歩に連れていきました。ベビーカーに乗せて、小学校、中学校と回ってきました。校舎がずいぶん立派になっていました。
3〜4キロの行程だと思われます。あかんぼうは、途中から飽きてきたのか怒っていましたが、なんかと機嫌を保ったまま帰宅。ちびどもはまだよく寝ていました。
帰りはちょうど日の出の光を浴びていました。日の出まではいくらかひんやりとした空気です。日中は、32度〜3度で蒸し暑くなりますが、早朝は気分良く仕事が出来ます。ちびどもはふたりともすこし鼻水を出していますが、あかんぼうの鼻水はやっと止まりました。途端に元気な顔になっています。風邪気味の時はなかなかひとりでは遊んでくれなかったのですが、風邪がなおるとけっこう遊んでくれます。うまく状況を作ってやると、1時間程度ひとりで遊んでくれることがあります。
いちいち泣かれて、抱っこをしていると、私も妻も、腰と肩がぎりぎりになります。
田舎に来ても、あかんぼうのリズムはほとんどいっしょです。6時前には全員を起こしてしまいました。
朝食を終えて7時。もうずいぶん時間が経った気がします。お昼までに2度お腹をこわしました。というわけで、今日は一日中あまり元気なし。
妹、妹の子供二人(甥っ子2人)が帰京。新幹線で帰ると言うことで、お昼前の電車に乗りました。30〜40センチぐらいの虫かごに虫を入れて持って帰りました。
こちらの田舎に住んでいる弟が虫取り名人なので、とってもらったものでしょう。ずっと涼しい東京で生活していたので、こちらの暑さに慣れるのにしばらく時間がかかりそうです。ちびどもも暑い、暑い、とうるさいですが、どうもあかんぼうも暑い模様。私も動く意欲が減退しています。
最高気温は32度から33度。最低気温は25度。ともに天気予報によります。朝方の気温は、体感ではもうすこし低いようです。ひんやりします。[田舎の変貌]
田舎を出て、もうすぐ30年。変貌するのは当たり前です。
おじいちゃんに聞いたところでは、裏山にサルが出没している可能性があるのだそうです。(目撃情報があったわけではなく、木になる桃が見事に取られていたことからの推測出そうです。)間違いなく増えたのは、アライグマ。野生化したアライグマが野山で増殖して、農作物に被害を与えているというのは日本全国よく聞く話ですが、この田舎でも同じことが起きているようです。相当増えてかなり悪さをしているようです。
昔はいなかった野獣で最近目撃されている動物には他に、イノシシがいると言うことです。もう少し山奥にはイノシシは昔からいました。おばあちゃんの実家(つまり私の祖母のお家)では、イノシシ猟は普通のことでした。その実家の隣家で、イノシシをさばくところをよく見に行ったのを記憶しています。
川にはたぶん鵜と思われる鳥が羽を広げていました。夏休み、こどものころ毎日のように泳ぎにいっていた川は今は遊泳禁止だそうです。汚くなったのが理由のひとつとのこと。
最低気温が21度。けっこう肌寒い。外は曇り。
あかんぼうが起きて騒いで、5時過ぎ。
昨夜もおおきいちびのいびきがすごかった。かわいそうになるぐらいでした。[帰省]
しばらく帰省しています。20世紀の接続環境に戻ります。プリンターもありません。連絡・応答が遅れますが、ご容赦下さい。(リムネットのアドレスにくれた連絡に関しては、1日程度で返事ができると思います。他のアドレスには接続できる環境がありません。)熱は下がったとはいえ、おおきいちびの風邪が直りきっていないので、道中なかなか大変でした。飛行機のなかでも泣いていましたし、車のなかでも泣いていました。
白浜空港から実家(おじいちゃんのおうち)までの車中、こどもは3人とも寝入りました。ずっとぐずぐずぐずぐず泣いていたおおきいちびも、睡眠がよかったのでしょうか、おじいちゃん家に着くと、10分もしないうちに元気になりました。こどもというのは現金なものです。
実家には、妹と甥っ子どもが先客としています。弟の方が、けっこうあかんぼうを遊んでくれます。と思ったら、あかんぼうだけではなく、ちびどもも遊んでくれます。追いかけっこで走り回って喜んでいます。
さて、夕食は、お寿司。いつも人が集まるときに頼むお店があり、そこから、わさび抜き3人前、大人用6人前、それに串あげを一箱、おじいちゃんとおばあちゃんが買ってきました。
中学生の甥っ子の食べっぷりが見事でした。(私の妹、すなわち甥っ子のお母さんに、そんなに食べてはいけないと叱られてばかりいました。ある食べ物を食べ過ぎて、病気になったことがあるのだそうです。)
私は、私の口にいれたアナゴに骨が残っていました。見事に喉に刺さってしまいました。田舎に帰るとどうも喉に骨がささりやすくなるようです。理由は不明。
鏡を見ながら、懐中電灯の光を喉に当て、ピンセットで抜きました。
指で刺さった位置は分かったのですが、目で確かめないまま指で抜くことが出来ませんでした。
8時から、浜で花火大会ということでしたが、私は音だけ聞いて、花火は見ませんでした。
2005年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2004年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2003年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2002年
12月
11月
10月
9月
7月〜8月
5月〜6月
3月〜4月
1月〜2月
2001年
11月〜12月
9月〜10月
7月〜8月
5月〜6月
3月〜4月
1月〜2月
2000年
11月〜12月
9月〜10月
7月〜8月
6月
4月〜5月
1月〜4月
1999年
10月〜12月
6月〜9月
4月〜5月
1月〜3月
1998年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
春(1月から5月)
1997年
97年度
最初のページ=
HomePageに戻る。