おおきいちびが目覚めて6時。すこし早すぎます。→暖かい春の日。裏山の山桜も開花しています。しかし、風は弱まったとはいえまだ吹いています。
ちいさいちびが疲れ気味なので、近所。→近所の公園(歩いて5分程度の場所)と裏山に連れていってやりました。近所の公園には近所のおねえちゃんたち4人(たぶん中学生)が来ていました。携帯を手に持ち、おしゃべりをしていました。たぶん率としては都会に劣るでしょうが、携帯文化そのものは都会も田舎もないということだと思います。メールの話をしているのが耳に入りました。
裏山は花を見たいというので、連れていってやりましたが、疲れていたのかあまり登ろうとしません。途中で写真をとって帰ってきました。桜は咲き始めという感じでした。[花粉症]
花粉の飛散量というのは具体的には分かりませんが、症状からいうと東京と変わらない気がします。昼間はあまりつよい症状は出ません。しかし、夜寝ているときに集中して出る感じです。私の場合は、気が付くと口で息をしており、喉がからからになっています。そういう状態で目覚めるのはなかなか嫌なものです。どうも目が少し痒いと言っているおばあちゃんも軽い花粉症だと思われます。ちびどもの症状は東京にいるときよりすこしましかも知れません。
ほぼそろって6時50分。昨日爆睡したちいさいちびも元気になっています。
晴れ。風は昨日より弱まっていますが、でもまだ吹いています。[同級生]
今日は紀南地方ではおそらくもっともおおきな公園へ。公園は海からの風が直接くる場所にあり、ずっと帽子が飛ばされそうな強さで吹いていました。地面にいわば埋め込みになったトロンポリン状の遊具があり、そこでちびどもは女の子二人組と遭遇しました。どうも体つきが同じぐらいなので、年齢を問うと、5歳と3歳。よく聞くと、うちのちびどもとまったく同じ学年です。とくにちいさいちびは、自分と同じ3歳だと言って大喜び。30分ほどですが、いっしょに遊んで大満足でした。
さすがに疲れたようで、帰りの車でふたりとも睡眠。おおきいちびは家につくと目覚めましたが、ちいさいちびはそのまま昼寝。よくあそぶとまだ昼寝をすることが分かりました。[日本対バーレーン]
7時半から日本対バーレーン戦。バーレーンのエースのオウン・ゴールで1対0で日本の辛勝。→高原の切れのなさ(体調が悪いのではないでしょうか)と攻めに転じたときのスピードの欠如が気になりました。みんなまだ中田に遠慮をしているのかも知れません。最終予選としては、こういうじりじりした試合を続ける方がよいのかも知れません。気の緩む瞬間がない、常に緊張と集中を迫られる展開の方があとに繋がるのかも知れません。
おおきいちびがおしっこに起きて6時。田舎ですから、こんなものかも知れません。私も昨夜はちびどもといっしょに寝たので、これで十分です。時差ボケが完全に抜けるでしょう。晴れ。ただし、一日中風が強く、「寒いのか暖かいのかわからない」天候となりました。
[世界で一番走った日]
ちいさいちびは朝から走り回っています。ちょっと裏山への散歩も走って戻る、走って戻るを繰り返しています。立地から言って風の隙間かも知れないと、3時過ぎに海辺の公園へ。風の隙間でした。ちいさいちびも9割方の遊具で遊べるようになっていました。あっちからこっちへやはり走っています。砂浜にでると、石を拾っては海に投げ入れていました。おねえちゃんとおかあさんが合流した後は、貝殻拾い。夢中で拾っていました。おそらく1キロ近く集めました。
近くの温泉に入って帰りの車で寝ました。夜一度起きましたが、でもそのまま寝続けました。ちいさいちびにとっては生まれてこの方いちばんよく走った一日でした。[どこにも花粉]
こちらに来ると、花粉症が緩和されるかと期待していたのですが、甘かった。ほとんど変わりません。もちろん花粉そのものは目に見えないのですが、ほぼ同じ程度の量飛散しているのではと思われます。
マスクの人を見かける割合はこちらの方が少ない。
おおきいちびがおなかすいたと耳元でささやいて、7時20分。少し雨が降っています。[フライト]
今日は、和歌山のおじいちゃん、おばあちゃんちへ。飛行機は1時45分羽田ですが、なんといってもちびどもですから、十分に余裕をもって動く必要があります。朝の10時前に家を出ました。今回はちいさいちびがはじめて歩きます。(ベビーカーなし。)いつもは東京駅で中央線から山の手線に乗り換えるのですが、今日は神田で乗り換えました。乗換案内ではこれが最短経路。羽田には11時半ぐらいに着きました。
チケットはインッターネットのチケットレスで購入していたのですが、自動チェックインが効きません。(後から分かったことですが、そもそもまだチェックインが出来ない状況でした。機材の変更、すなわち、飛ぶ飛行機そのものを変更していたようです。)仕方がないので、チケット売場に並んで、搭乗券だけ発券してもらいました。
それから昼食。おおきいちびはサンドイッチ。朝からサンドイッチ、サンドイッチと言っていました。ちいさいちびはたらこスパゲッティ。私はカツカレー。妻は、ショウガ焼き。食べ終わって12時半。まだ時間は十分あるので、私が椅子で休んでいる間に、ちびどもは遊びに出かけました。1時前にノートのお土産をもって帰ってきたので、チェックインをして、セキュリティ・チェックをくぐり、87番搭乗口へ。
外は雨。低気圧の影響で、少し揺れる鴨知れないと言うことでした。確かに、雲のちょうど上を飛んでいましたが、少し揺れました。もともと乗り物の苦手なおおきなちびは目をつぶっています。ちいさいちびは乗り物は平気なのですが、旅程の半分を過ぎたあたりから眠くなったのか、すこしごねています。着陸前の15分ほど寝ました。白浜は晴れで17度。ちいさいちびは着くと目覚め、荷物受け取り場で、靴を履き、おじいちゃん、おばあちゃんのところへ走ってきました。
おおきいちびは車のなかで寝ました。
かぞくそろって8時。今朝は起きたときから目の痒みがひどい。花粉の飛散量が大きくなっているようです。[Varia]
少し古いニュースですが、科学技術振興機構が「失敗知識データベース」の公開をしたという記事がありました。このページでは幾度か紹介した、元東大工学部教授畑村洋太郎氏が中心となり4年をかけて完成したものということです。
科学技術振興機構の失敗知識データベースのページ
まだ内容の詳しい点検はしていません。時間ができたときにきちんと見てみたいと思います。
平井さんのサイトで、グリムの辞書のサイトが紹介されていました。使ってみましたが、すばらしい。Oxford Latin Dictionary ほどではありませんが、グリムの辞書も老眼の進行中の目にはすこししんどい。インターネットだと自由に大きな活字に変換して見ることができます。重い辞書を机まで運ぶ必要もありませんし、これは福音です。
最近、ちびどもが寝た後、ひとりでテレビを見ていることがあります。今日はディスカベリーチャンネルで、チェルノブイリの原子力発電所の事故のドキュメンタリーを見ました。おそらく50分で、制御室の動きを再現していました。十分勉強にはなったのですが、副所長の個人的問題に還元されそうな構成でした。倍の時間をかけてもよいので、まわりのことも取り上げて欲しかったと思います。
途中でとても印象に残った事実があります。それは、イスラエルがイラクの原子炉を攻撃したことがあるということです。チェルノブイリの事故に繋がった安全実験は、それに刺激されてのことだったということです。
アメリカは、かわいそうなアフガンを本格的に攻撃する以前にも、アフガンにミサイルを撃ち込んでいます。アフガンは冷戦の時期にソ連にも侵攻されています。今はアメリカのグローバリズムのマイナス面に焦点があわされていますが、ソ連も相当に罪深い。昨日はタケシのテレビで、レオナルド・ダ・ヴィンチ特集を見ていました。番組スタッフがもうひとつのモナリザ、すなわち肖像画として若きレオナルドが描いたモナリザを発見(知られてはいましたが、取材を受けてこなかった)し、撮影したところまではよかったと思います。しかし、番組がレオナルドがモナリザに込めた暗号を解読したという部分は、大問題です。彼らの主張は簡単です。レオナルドが最後まで手元においていたモナリザとは、イエスの子をはらんだマグダラのマリアである、というものです。
その根拠としたのは、フランスのビブリオテーク・ナショナルにある文書です。それには秘密結社シオン修道会の総長(おそらくグランドマスターということでしょう)の名前が記されていました。近代では、ジャン・コクトー、クロード・ドビュッシー、ヴィクトル・ユゴーの名前が出ていましたが、ニュートンやレオナルド自身の名前もあがっていました。タケシがわざわざビブリオテーク・ナショナルに行って見ていたその文書のマイクロフィルムには、シオン修道会の名の下に薔薇十字のordre の文字がありましたが、薔薇十字団の言葉は番組では一切触れられていませんでした。さらに、ある文書に書かれていたからと言って、その内容が真実だという保証はもちろんまったくありませんが、文書の真贋、真正性、正当性に関するコメントも一切ありませんでした。
そもそも秘密文書というものに対しては、半分は偽書だと疑ってかかる懐疑心が欠かせませんが、それがありませんでした。
さらに、タケシは母性の偉大さで話を締めくくりましたが、もし、番組の暗号の解明が真実だとすると、もと娼婦のマグダラのマリアがイエスの子を身ごもったということ以上にキリスト教会には大きな事柄が存在します。すなわち、イエスの子が地上に産まれた可能性です。この点にも番組は一切触れていませんでした。
グノーシスやマニ教、テンプル騎士団のことに詳しいクリスチャンの方が番組をどう見たのか、意見を知りたいと思います。
(問題の番組「時空ミステリー 世紀の天才ダ・ヴィンチ」(8チャンネル)が話題の書物『ダ・ヴィンチ・コード』に刺激されてのものであることは番組中でも明らかにされていました。)
かぞくそろって7時40分。明るくて春らしい朝。でも、まだいくぶんか寒い。午後、来年度の授業の連絡をして、今年度に私がなすべき仕事は終わった(はずです)。
[校庭開放]
居間の30ワット丸形蛍光灯のひとつが切れたので、3時過ぎに家族全員で西友に出かけました。ちびどもは、いつもの抹茶アイスクリーム。私は、蛍光灯とパンと紙を買いました。妻もいくらか買い物をして、そのまま帰ってきました。ちびどもがまだ遊びたいというので、私がつきあうことにしました。自転車で近所を散歩する、ということで話し合いがなされました。ちびどもの行くところに私はただついていきます。どこに行くかと思ったら、幼稚園。土曜日の幼稚園には誰もいませんが、ともあれ幼稚園まで補助輪つきの自転車2台ででかけました。目的は達したはずですが、ちいさいちびがまだどこにも行っていないというので、幼稚園の隣の小学校を覗いてみることにしました。うまいぐあいに、学校開放をしています。おねえちゃんは勝手に入っていいのかどうか確信を持てないようでしたが、私が大丈夫と3度言うと、納得して休日の小学校の校庭にはいりました。おそらく、その小学校の子どもが10人ほどサッカーをやって遊んでいます。ちびどもは、滑り台、ジャングルジム、鉄棒、ブランコ、と幼稚園のよりは一回り大きな遊具に喜んでいました。小学校には、ニワトリが一羽とウサギが一羽飼われていました。私の子ども時代の感覚では、一羽だけ飼育するというのは不思議なのですが、都会の学校ですから、何かの都合があるのかもしれません。
おしっこというので、そのウサギ小屋の隣にある屋外トイレで二人ともおしっこをさせました。目に入った外階段をいくつか登ったあと、言いくるめて帰宅しました。
ちいさいちびは階段を見ると、他人の家の階段でもまったく気にせずに登りたがります。おねえちゃんの方にもそういう時期がありました。たいていは2〜3度上り下りすると満足するので、数軒の家の階段上下につきあいつつ、帰宅しました。家の主人が偶然出てくるとびっくりされるでしょう。
ちびどもにこういうふうにつきあってやったのも久しぶりでした。『レキシントンの幽霊』に収められている村上春樹の短編をいくつか読みました。「7番目の男」は、少年時代台風の高波で親友をさらわれた人物の回顧談です。インドネシアの津波のときに読んでいたら、びっくりしたでしょう。
本日はゼミの追いコンです。
現3年生の諸君、来年度のゼミ生は連絡が取れなかったのですが、卒業生をふくめ、参加希望者は私までメールを下さい。幹事の植田君と交渉して場所を連絡します。
本日午後7時に新宿中央口のお店(海峡)に集合です。
ひとりだけ遅れて、9時。外出すると当然のことながら花粉症がひどくなります。昨夜も2時間ほど寝付けないでいました。
本日は、駒場の図書館で本を返してから、飯田橋に原稿を持参します。数が多いので、担当者の方と確認をとっておこうと考えたからです。それから、新宿にもどって上記のコンパ。(気持ち的には、それで、今年度の終了。)それからたぶん、日本対イラン戦。やってみないとわかりませんが、イランは力的には相当なものです。→家を3時前にでて、上記の予定通り、動きました。新宿にもどったのが5時過ぎ。かなりおなかが空いていたので、まず沖縄ソバを食べ、それからジュンク堂に向かいました。ジュンク堂ではちいさい本4冊を購入しました。
村上春樹『やがて哀しき外国語』講談社文庫、1997
村上春樹『若い読者のための短編小説』文春文庫、2004
村上春樹『レキシントンの幽霊』文春文庫、1999
山岸凉子『舞姫 テレプシコーラ』第7巻、メディアファクトリー、2005
ジュンク堂のキャフェで、まず『テレプシコーラ』の最新刊を読み、ついで、『レキシントンの幽霊』に収録されている「トニー滝谷」を読みました。それでちょうどコンパの時間。学生諸君は、昨日の卒業式のあとの謝恩会あるいは追いコンで朝まで飲んでいたようです。卒業式には出たものも、出なかったものも。
ちょうどイラン戦のはじまる時刻に帰宅しました。2対1でイランの勝ち。残念ですが、次をどう頑張るかでしょう。次の3冊がアマゾンより届きました。
Jean D'Espagnet, Hermetic Arcanum, Kessinger,
Jean D'Espagnet, Jean D'Espagnet's the Summary of Physics Restored (Enchyridion Physicae Restitutae), The 1651 Translation with D'Espagnet Arcanum (1650), Ed. by Thomas Willard, New York: Garland, 1999
Arthur Dee ,Fasciculus Chemicus , translated by Elias Ashmole, edited by Lyndy Abraham, (English Renaissance Hermeticism), New York: Garland, 1997
ほぼ全員そろって7時半過ぎ。私の時差ボケはやっと正常化しつつあるようです。いつもより寝付きが悪くなっていますが、それが時差ボケのせいか、花粉症のせいかははかりかねています。[春や春]
ちびどもが遊びに出るのにあわせて、外出し、大学へ。研究室で昨日作成した原稿にわずかに手を加えたうえで(一部ホワイトを塗りました)、バックアップのコピーをとって生協へ。雑誌にするための見積もりを作成してもらいました。計算に手間取ったので、見積書は1時間後ということで、昼食。それから図書館へ行って、本を返却し、『文芸』最新号にでていた村上春樹のインタービューを読んでいました。アフターダークに関するものです。長いインタービューで、読み応えがありました。
生協で見積もりをもらったあと、大学の担当事務に提出に出向きました。担当者の方が卒業式に出向いていて―そう言えば、今日が大学の卒業式でした。停年退職までに一度ぐらい、入学式、卒業式にでる機会があるのでしょうか―別の方に書類を渡し、説明をして帰ってきました。
やれやれ、これで、気分は春休みです。[ちびどもの今]
午後3時過ぎ、駅前の西友までちびどもを自転車で迎えに行きました。帰り着いて、おおきいちびはすぐにピアノの前に座りました。ちいさいちびは、紙を出して腹這いでお絵かき。10時前に家をでていますから、かなり疲れているのではないかというのが大人の発想ですが、どうもちびどもは疲れていても遊び優先のようです。
これまであまり歩こうとしなかったちいさいちびですが、幼稚園入園を目前に、しっかり歩くようになりました。おおきいちびはもともと小さい頃からよく歩いていたのですが、ちいさいちびはちいさいころはベビーカーにも座ってくれず、抱っこ。歩けるようになってやっとベビーカーに座ってくれるようになりましたが、なかなか思ったようには歩いてくれませんでした。それが暖かくなって、ほぼおねえちゃんなみに歩くようになりました。それにあわせて、ご飯もしっかり食べるようになりました。
これまでほんとうによく食べていたおおきいちびの方が最近はあまり食べません。もしかしたら軽い花粉症にかかっているのかもしれません。人参が大好き、ひじきが大好き、もずくが大好きという草食性の性格です。それに対してちいさいちびの方は、挽肉が一番好きという肉食性です。性格的にも、見事に草食性対肉食性の対比を見せてくれています。大学からの帰途、駅前の本屋さんで、『月刊現代』(2005年4月号)の他に次の2冊を買いました。
村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』中公文庫、1986、2004
玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安:揺れる若年の現在』中公文庫、2001、2005
夕食をすませ、風呂にはいり、買ってきたばかりの『仕事のなかの曖昧な不安』を居間のソファーで読んでいたら、睡魔に襲われました。ふだんはあまり体験することのない眠気。本そのものはとてもよい・おもしろい本なのですが、そのままふっと寝入ってしまいました。ブックレットの原稿をだしてほっとしたせいかもしれません。
ひとり遅れて、10時。昨夜は鼻つまりがそれほどひどくありませんでしたが、お酒を飲んだのがきいたようです。
今週は、積み残した課題の処理に集中します。年度末なので、25日の金曜日までには終わらせようと思っています。
→最後に残っていた仕事というのは、ブックレットの作成です。前に半日でできるだろうという予想を記しましたが、甘かった。どういうものを作るかの構想はできていたのですが、前書きを書いたり、目次を作ったり、ページ数を数えたり、表紙を作ったり、奥付を作成したり、等々、等々をやっていると、丸一日かかりました。今回は手元に PSプリンターがなかったので、品質は最初から妥協することにしていました。品質を大幅に妥協してさえ、丸一日はかかりました。個人的には、印刷の品質には目をつぶってもらうことにして、まあでも、まったくひとりで51頁のブックレットを作成できたことそのものには満足しています。明日、遅れて済みませんと関係事務に頭を下げ、提出してきます。
とにもかくにも、一通りは、年度末の課題をこなしました。
なお、あと二つは、学会の講演要旨です。6月4日〜5日に北海道開拓記念館で行われる日本科学史学会の発表要旨と、6月18日〜19日に神戸大で開かれる化学史学会の発表要旨です。どちらも、一応の下案はできています。去年1ヶ月もしない間に、2回の発表はたいへんきついと懲りたのですが、今年もチャレンジとなりました。今日はそう言えばずっと雨。一歩も外出しませんでした。
昨夜は鼻がつまって苦しかった。布団にはいって3時間も寝付けなかったのはほんとうに久しぶりにことです。まあでも、今朝は8時前に目覚めました。
会議の日。学部教授会をはじめ、4つ会議があります。そして、教授会終了後はお別れコンパ。
最初の会議は、11時〜12時。次の会議は、13時半〜14時半。その次の会議は、14時半〜17時でした。2番目の講座会議が長引いたために、3番目の会議は自然消滅。昨夜鼻がつまって寝付けなかったのは、予想通り私だけではありませんでした。かなり多くの方が同じ目にあっていました。睡眠不足が5時終了の教授会ででました。最後の30分ほどあまりの眠さに時間はわかりませんが、本当に眠ってしまいました。
5時半から大学の近所のレストランで、同僚の送別会。8時20分頃に終了し、9時に帰宅しました。すると、次の本が届いていました。
Frank Dawson Adams, The Birth and Development of the Geological Sciences, New York: Dover, 1954 (1938)
出版年からわかるように、古書です。図書館にあるものより状態はよいのですが、やはり出版されてから50年経っていますから、古びてはいます。50年の割にはましと言えるかもしれません。(図書館で借りて一部読んでいますが、手元にあるべき本なので、発注したものです。)
今朝は10時。やはり昨夜3時ぐらいまで起きていたせいです。雑誌を読んでいました。
昨夜読んだものでは、青木保氏の次のエッセイがとてもよかった。
青木保「トニー滝谷」『中央公論』2005年4月号,pp.26-7.
「トニー滝谷」とは村上春樹の小説であり、2004年に市川準監督の手で映画化された作品です。なお、この作品は、『レキシントンの幽霊』(文春文庫)所収です。
18日に買った、日垣隆『売文生活』(ちくま新書、2005)を読了しました。要するに原稿料と印税の話です。きわめておもしろい。とくに火宅の人、最後の無頼派、壇一雄の話は衝撃的でした。作家の黄金時代という言葉に納得しました。
緊張感のない生活をしているとなかなか時差ボケから抜け出ることができません。真夜中に目覚めてしまい、すこし調べものをしています。→けっこう長く続けたために、今朝はひとりおくれて10時半。下に降りるとちびどもはぬいぐるみのわんわんが病気だという設定で、ふたりでなかよく遊んでいました。ちびどもによれば熱が出たのだそうです。[ボルドー国際コロック4]
・Varia
*ラーメン。そう言えば、帰りの飛行機のなかで、夕食と朝食の間がかなりあきました。ちょうど小腹がすいた頃に、左前のお母さんとひとつおいて左隣のおやじさんがカップラーメンを食べていました。そのにおいにくらーと来ました。別にフランスの料理に不満があったわけではないのですが、身体にしみついた文化的記憶が呼び覚まされました。たぶん、カップラーメンそのものは、JAL との共同運行ということで備えてあるのだと思います。ちょうどボルドーで舌は形而上学的かどうかという議論をしたばかりでした。
そういうわけで、帰り着いたあと3日続けて夜食にカップラーメンを食べてしまいました。
・「21世紀のボイル」
会議の席上で、マイケル・ハンターに "REPORT: Robert Boyle for the twenty-first century", Notes Rec. R. Soc. 59(1), 87-90(2005) の別刷りをもらいました。すでにこのページでは紹介していますが、ボイルの作業日誌に関する新しいプロジェクトに関するレポートです。The Heritage Lottery Fund からもお金をもらったということです。
Library of The Royal Society
ARCHIVES
この二つのサイトから新たにアクセスできるようになったということです。
そして、出版予告 The Boyle Papers: Understanding the Manuscripts of Robert Boyle, Forthcoming from Ashgate 2006 ももらいました。協力しているのは、エドワード・B.デーヴィス、ハリエット・ナイト、チャールズ・リトルトン、ローレンス・プリンシーペ。
おおきいちびといっしょに7時半。おおきいちびはすこしはやく起きていたようです。快晴。実は今月いっぱいに終えないといけない仕事が何点か積み残されています。ボルドー会議のために発表ではふれない部分までふくめてかなり集中的に時間を割きました。そのため致し方ないのですが、今月末までにその宿題を片づけないといけません。あと10日間ほど頑張ってなんとかかただけもでつけようと思っています。
平井さんから預かってきたコピーを院生に渡すために昼食前外出しました。西荻窪駅で待ち合わせしたので、外出した時間はたかだか20分ほどです。しかし、その20分で花粉症が爆発しました。帰ってくると目が痒くてたまりません。いろんなところから伝わる情報では、私と同じ目に遭っている方は少なくないようです。今年は、ひどいという予報にも拘わらず、ボルドーに出かけるまでずっと軽症だったので、軽症のまますむかと甘い期待をいだいていたのですが、もろくも崩れました。
時差ボケが抜けません。たぶん、自宅にいると緊張感がゼロになっているせいです。いつ起きていつ寝てもよいという安心感があると、ついそのように行動してしまいます。この学期の業務は、あと学部教授会1度を残すのみです。そういう安心感もきいていると思います。(これは、午前3時に目覚めて書いています。)
おおきいちびは7時から7時半ぐらいに目覚めたようです。私は8時。ちいさいちびどもは8時半。妻の準備が整わないので、おねえちゃんは私が幼稚園に送っていきました。ちょうどよいのでそのまま駒場の図書館に本の返却に。
来ました、ほんとうに本格的な花粉症が! 目がとても痒く、鼻水も断続的に出てきました。→どうも、私と同じように、ここ2〜3日の間に、花粉症が本格化してきた方が少なくないようです。ちびどもがいっしょに昼ご飯を食べた幼稚園のお友達のお母さんがそのひとりです。
駒場の図書館では、返却前に借りた本の一部のコピーをとりました。月末までにもう一度来るのが面倒だったので、新たに本を借りて帰るつもりはなかったのですが、返した本の続きを見ると、ボルドーの発表に関係する情報が記載されています。あきらめて3冊借りてきました。
ベック『鉄の歴史』(中沢護人訳、たたら書房、1978)第2巻第2分冊、第3分冊、第4分冊
原著は、19世紀の出版です。
Ludwig Beck,
Die Geschichte des Eisens in Technisches und Kulturgeschichtlicher Beziehung,
Braunschweig, 1897
今回の我々のテーマは鉱物論でしたが、16世紀の鉱物論に関して日本語で読める、これがおそらくいまでももっとも情報に富む書物です。もとの書物は、どかべん2つ分ぐらいの重さのあるどぶとい紙の塊が5冊。よくぞ翻訳する気になったものです。
翻訳があるだけで貴重ではあるのですが、訳者の中沢氏(有名な学者一族)はラテン語が一切できず、訳さずそのままにしています。また古いドイツ語も苦手であると正直に告白しています。その自覚があったために、古い時代のやっかいな鉱山用語に関してはかなりの頻度で原語を翻訳中に入れています。実はこれが役に立ちます。この時代の鉱山用語にはグリムの辞書にあたっても不明な部分が残るぐらい難しいものがまじります。原語のドイツ語を入れておいてくれるともとのドイツ語にかえって調べ直すことができるので重宝です。駒場からの帰り道、駅前の書店で、一冊の書物と4冊の総合雑誌を買いました。
日垣隆『売文生活』ちくま新書、2005
『サイゾー』4月号;『新潮45』4月号;『論座』2005年4月号;『中央公論』4月号
雑誌の並び順にはとくに意味はなく、ただ私が手にとって読んだ順です。→今回は、『中央公論』の学力低下論を検討する特集がよかった。今日はおおきいちびの3学期終了式。春休みが終わると、いよいよちいさいちびの入園式が待っています。おねえちゃんのクラスのお友達の名前はすっかり覚えています。ひとつ学年が上のクラスにもお友達がひとりできています。(来年はおねえちゃんの小学校入学です。どの親も同じ感想をもつのでしょうが、はやいものです。)
夕食後下痢。今度はそうとうに痛い。一昨日の下痢は、ほぼ半日断続的に続きましたが、痛みがまったくありませんでした。今日のは苦しいので、大事をとって一度休むことにしました。ちょうどちびどもが寝付いた後、調子がもどって目覚めました。結局、まだ寝たり起きたりを繰り返しています。
緊張がとけたせいでしょう。ひとりだけ遅れて10時。今日はちびの幼稚園の卒園式。おおきいちびはB組なので、卒園ではないのですが、スケジュールが特別なものになります。ちいさいちびをつれてでかけ、同時にポポを送っていくということで妻が2階に来て目覚めました。→ちびどもがマックでお昼ご飯を食べて帰ってくるあたりから、雨。春の雨。→雨は、すぐに小降りになり、午後にはあがりました。小康状態を保っていた私の花粉症ですが、どうもきたようです。夕刻外出して帰ってくると、目が痒い。これまでは咳と夜の鼻づまりだけですんでいたのですが、きてしまったようです。とほほ。
ポポは無事に台北にもどったようです。実は、午前11時に藤沢で打ち合わせ会議があったのですが、今日は休ませてもらうこととしました。(研究室の主に電話しても連絡がつかないのですが・・・。→何度電話してもつながりません。教えてもらった電話番号のところにおられないのでしょう。そのうちに向こうから電話がかかってきました。)
ボルドー・コロックの主催者ラモンさんから写真が送られてきました。9枚。全体写真が2枚に、最後の日の昼食中にとられた部分写真が7枚。そういえば、キャサリン・ウイルソンが写真を撮っていました。[ボルドー国際コロック3]
今回のボルドー国際コロックではほんとうに多くのことがわかりました。フランスにいる留学生諸君といろいろ話しをして、留学生活の実態が見えてきました。
・留学生活
日本では、アメリカの大学院留学体験は多く知られています。科学史の世界でも、博士号をもっている年長世代はほとんどがアメリカの大学に留学して学位を取得されています。そもそも科学史なるディシプリンが制度的な裏付けをもったのが英語圏(とくにアメリカ)という事情がそこにはきいています。
今回フランスの留学事情を聞いて、根本的に様子が違うことがわかりました。
アメリカのイメージでは、大学院でも毎週毎週セミナーがあり、かなり強いノルマを課され、そのことの継続によって、鍛えられ訓練を受けます。しかし、フランスだけではなくヨーロッパの多くの大学では、そうした大学院のしっかりした授業体制というのはなく、むしろ日本の大学院に近い。つまり、授業タスクそのものは大きくなく、博士論文のテーマが決まった後は、たとえば、何ヶ月に一度かできあがった分をもって指導教官と議論をし、進めていくという形式になっているようです。(平井さんの場合では、3ヶ月に一度リール大学にでかけ、あらかじめ渡してあった章に関して、指導教官のジョリーさんと何時間かつっこんだ議論をするということを繰り返されたということでした。)
私はともあれ大学院なんだから留学生活とはいえ、基礎的な訓練を受けるのだとばかり思っていました。
自分のテーマがしっかり決まっていないとこれは危険です。学位取得のために留学するには、日本でやはり修士号をとってからが一番良いというのが、これでわかりました。日本の大学の学部卒段階で、自分のテーマをしっかりつかんでいることはかなり珍しいことだからです。
(昨日教授会で隣に座られたロシア文学者亀山氏は、医科歯科のMMA の最初の修士論文発表に立ち会ったばかりだが、すばらしいものであったという感想を教えてくれました。MMA=医療政策学のコースに入ってくる人々は、半分は現場の医師、半分は医療管理・医療政策に仕事で関わりをもつ方々です。つまり、それぞれの関心・テーマが最初から鮮明です。そうした場合は、ほんとうに2年間の集中的な勉強・研究で、めざましい論文が書けることとなります。あるものは、ドイツの専門誌に掲載されることが決まったと言っていました。)
教訓:自分のテーマが決まったら躊躇せず留学せよ。ただし、自分のテーマが決まるまでは日本で勉強を続けていた方がよい。
まとめるとこういう感じになると思います。そして、語学留学は、こうした学位のための留学とは別物なので、大学に入った時点でいつでもよい。まあ、そういうことでしょう。
そして、学位取得のための留学の場合、アメリカへの留学とヨーロッパへの留学は、相当違うということをわかっている必要がある、ということになるかと思います。
ともあれ、現在、ヨーロッパに学位取得のために留学されている諸君、健闘を祈っています。
もう1点、別の観点から付言しておきます。若い頃私は、戦争論を好んで読んでいました。引き分けなしとすれば、あらゆる勝負事において、勝ちの絶対数と負けの絶対数は同じになります。つまり、どんなに優秀なものでも、数多くの勝負において負けることは必ずある。孫子の兵法にもあったと思いますが、これが負け戦だと悟ったら、ただちに撤退することです。これは人生においてもっとも重要な教訓のひとつかもしれません。
日本軍がだめだった理由はいろいろ指摘されています。しかし、もっとも重要なポイントは、負け戦になったときにどうやって戦争を終わらせるのかというイメージをまったく持たず、むしろ持つことを悪として戦端を開いたということです。最悪です。
そして、いろんな組織において、その最悪を引き継いでいます。組織の長に、一度はじめたものをどうやって終わらせるのか、まったくイメージがない場合が少なくありません。高度経済成長期のように社会全体が勝ち戦、すなわち経済的に拡張している場合にはその根本的弱点が露見しない場合がありえます。しかし、明らかに今後は日本社会は全体として人口が減って行くわけですから、負けの局面が多くなります。(わかりやすい例では、年金制度がそうです。)
撤退できる場合には、ただちに断固として撤退する、撤退するわけにはいかない(たとえば年金)場合には、負けを最小にとどめる負け方を考える・工夫する必要があります。
学位取得留学の場合、負けを悟ったら、少なくとも1本(どんな小さな内容のものでもよいので)現地の言語で論文を書きあげ、ずるずると滞在を延ばさず、撤退するのが賢明です。・Varia
*花粉症で思い出しました。ボルドーには立派な松の木がありました。日本で見るものより立派な松ぼっくりがついていました。そして、やはり花粉症の原因となっているということでした。フランスに来てまで花粉症に苦しめられることになるとは、とのコメントにそれはちょっと嫌だろうな、と同感でした。
*携帯電話。量的な広がりはわかりませんが、フランス社会にも携帯電話はしっかり食い込んでいました。会議のオルガナイザー、ラモンさんが携帯を持ち歩くのは理解できます。何かの折りに連絡を取らないといけない事態は生じます。しかし、コロックの最中に何人かは携帯を使っていました。もちろん、会話ではなく、メールを読んでいました。その辺は日本と変わりませんでした。とくに若手。
爆睡。起きると11時でした。ほぼ12時間の爆睡でした。はじめてのユーラシア大陸、はじめてのフランス、はじめての国際コロック、等々はじめてだらけだったので、疲れていたのでしょう。→たぶん、ほんとうにリズムや体調がもとにもどるのは、週末になりそうです。朝食/昼食後、いくぶんか下痢気味になり、それが夕刻まで続きました。本人的にはいたって平気なのですが、おなかの調子が悪いのは悪い、ということです。
起きると、日本は一転して春。暖かい陽気になりました。昨日まではかなり寒かったようです。本日は、大学院教授会の日。コース委員会(2時開始)と教授会(3時半開始)。→コース委員会は、前の会議がおして、いくらか遅れて開始しましたがすぐに終了。その後、総合文化研究所へ。いや驚きました。見違えるばかりにきれいになっていました。荒所長が自ら陣頭指揮をとって、月曜日に大掃除をされたということです。さらに、これまで倉庫としてしか使われてこなかった奥の部屋を大胆に改造し、立派なソファーとピアノのある、すばらしい会議室=集会室とされていました。驚嘆。
それだけではなく、会誌『総合文化研究』の最新号(第8巻、2004:特集=文化表象としてのイスラーム)も立派に出来上がっていました。留守中に、本間博士の最新作が届いていました。いつもありがとうございます。
本間栄男「 Jacob de Back (1594-1658) の生理学」『東京大学教養学部 哲学・科学史部会 哲学・科学史論叢』第7号(2005),pp.1-38.
私は、本間栄男氏のこの論文を見るまで、Jacob de Backという人物を知りませんでした。[ボルドー国際コロック2]
私の日程があった方が、全体の流れが理解しやすくなるだろうと考え、まず日程をあげておきます。
3月7日 午後9時50分 エールフランス機で成田出発。
3月8日 14時間のフライトの後、午前4時30分、パリのシャルル・ドゴール空港着。
3月9日 平井さんと午前11時過ぎに私のホテルの近くで落ちあい、午後2時過ぎの TGV でモンパルナスからボルドーへ。必要時間3時間。ボルドーでは用意されたホテルに。
3月10日 ボルドー大学でコロック初日。8時半入室。9時開始(予定)。9時から12時半まで、途中30分の休みを挟んで、3人が発表。12時半から2時半までいわば特別食堂で昼食。2時半から7時までやはり間に30分の休憩を挟み4人の発表。その後市内にもどり市庁舎内でレセプション。
3月11日 ボルドー大学でコロック2日目。8時スタート。終了7時。午前中に4人、午後4人の発表。休憩や昼食時間の取り方は初日と同じ。
3月12日 コロック最終日。午前中に4本の発表。それにてコロックそのものは終了。隣の部屋で昼食後、希望者だけ貸し切りバスで遠足(エクスカーション)。サンテ・ミリオンというワイン・シャトーを訪問。
3月13日 午前中の TGV でパリに戻る。私は、さらに一泊。平井さんはそのままリエージュに帰還。
3月14日 午前10時半、パリ・シャルル・ドゴール空港発のエールフランス機で日本へ。
3月15日 およそ12時間弱のフライトで、早朝6時半に成田着。
・時差
このスケジュール、とくに初日まずパリに一泊するというスケジュールは、平井さんのアドバイスと妻のアドバイスによります。今日大学の同僚に聞いたところでは、アメリカのシンポにでかけたとき、時差に対応する日程を用意しなかったので、シンポジウムの間がくん、がくんなっていたという話でした。実際、私も、早朝の4時半に着いたその日は、午後5時までは何とか持ちましたが、そこで一度昼寝。6時に目覚めて夕食後、7時過ぎには再度睡眠につきました。飛行機のなかと同じく、寝たり起きたりを繰り返し、翌朝5時にはすっかり目覚めました。ふだんそのぐらいの時間に起きることはよくあることですが、たぶんその日はけっこう早く眠くなると予想されました。
ボルドーではコロックの参加メンバーがコロック開始前日同じホテルに集まったので、みんなで近所に食事にでかけましたが、ヨーロッパ方式でまずバーで軽くお酒。これはもたないと思ったので、支援に来てくれた坂本君と9時前に抜け出して、近所のベトナム料理屋で軽く食事をとり、私は一足先にホテルに帰還し、そのままシャワーだけ浴びてベッドにつきました。やはり寝たり起きたりを繰り返し、翌朝6時にはすっかり目覚めました。
コロック初日のレセプション後も、参加者みんなで食事にでかけたようですが、私はそのままホテルに帰還し、ゆっくりとシャワーを浴びて、おそらく10時頃には就寝。翌朝はやはり6時起床。初日は実は朝食をとらずに大学に向かったのですが、この2日目はちゃんと朝食もとり、ああ、これでやっと体がいつもと同じ感覚に戻ったと感じました。
日本に帰る便は、パリ早朝発ですが、途中からずっと夜です。パリ行きはずっと夜でした。夜というのは、時差ボケ対策にはよいようです。ずっと寝ていられるわけではないのですが、飛行機会社が就寝時間として対応します。つまり、窓を閉め、明かりを消します。そうすると寝たり起きたりですが、一定時間は睡眠がとれます。
日本に帰り着くと、会議とかは仕方がないので、大人しく出席していますが、その他の時間はいつでも寝られるという安心感で、つい、昼寝をしてしまいそうです。でもまあ、週末には時差もとれていると思います。
教訓:アメリカやヨーロッパ等時差の大きな国での国際会議に出席するときには、可能であれば、はやめに現地にはいっておいた方がよい。
午前10時、無事に帰宅しました。ボルドーに行っている間に連絡をくれた方への返事は遅くなりますが、しばらくご勘弁下さい。
もし、本日午後6時までに返事がないということがありましたら、お手数ですが、今一度連絡してみて下さい。
時差の影響です。昼食後吸い込まれるように眠くなり、2時間ほど昼寝をしました。これだと明日も眠くなるかも知れません。ちょうど会議の時間帯です。フランスでお世話になったみなさま、ありがとうございます。心より感謝申し上げます。
bh 主催平井博士をはじめとして、パリの戸田君、吉川君、ボルドーの坂本君、そしてパリに滞在していた東君、いろんなお世話を本当にありがとうございます。とてもたすかりました。
そして、日本語が読めない方々ですが、会議の組織者シャルル・ラモンさん、ボルドー大学のスタッフの方々、8カ国からの参加者の世話役をつとめられたミリアン・デニーさんに深く感謝いたします。[ボルドー国際コロック1]
平井さんがすでに報告されていますが、私は私で印象に残った点を記しておこうと思います。・フライト
今回は家をでる1時間前まで調べものを継続していました。そのせいで、旅行の調査がかなり抜けていました。
第1に、成田を午後10時前に出発し、パリに午前4時半に到着するエールフランスのフライトですが、JAL との乗り入れ便でした。9時ぐらいに出発ゲート(待合い室)について待っていましたが、寝ている人もいて活気のないうら寂しい感じがしました。しかし、実際に乗ってみるとほぼ満席でした。まわりを見ても空席はありませんでした。そんなに人気のあるフライトだとはまったく思いませんでした。(十分な空席があり、横になって眠れるのではという甘い期待をいだいていました。)
第2に、通路側の席について落ち着いていると、つい目の前を知っている顔が通過します。数学史専攻のK氏でした。肩をたたくと向こうはそれほど驚いた様子ではありませんでした。便のことまでは知らずとも、私がほぼ同じスケジュールでボルドーに向かうことをホームページの情報でご存じでした。まわりの迷惑にもなるので、機中では、2回ほど合計30分ほどいろんな四方山話。K氏は、私と同様、イタリアのシチリアで開かれる国際コロッキウムに呼ばれて発表をするんだそうです。パリで2泊してその間に発表原稿を仕上げるということでした
フライトは14時間。これを知りませんでした。イメージで、8〜9時間でつくものだとばかり思っていました。夜の10時に出発して、現地の早朝に着くということは、ナイト・フライトということです。出発地の12時頃に食事があって、その後は、睡眠タイム。もちろん、寝たり起きたりですが、私はそれなりに眠ることができました。到着1時間半ほど前に朝食が配られ、ほぼ予定通り、早朝の4時半のパリに着きました。
税関を出る頃には、電車(RER とメトロ)は動き始めていましたが、そんな時間にパリ市内に入っても、ほとんどどこもあいていない。ということで、6時にオープンする店でK氏といっしょに朝食をとることとしました。つまり、機中の四方山話の続きです。7時頃にそのお店は出て、電車でパリ市内に向かいました。飛行機のなかで『地球の歩き方』を読んで、パリ市内に入り、ホテルに着くところまではおさらいしていました。チケット売場ではじめてフランス語で用をたし、K氏といっしょに RER に。北駅でバイバイ。
・メトロ
最初、メトロの駅名や路線名がまったく頭にはいっていなかったので、ホームにやってくるメトロの行き先を把握するまで少し時間がかかりましたが、『地球の歩き方』の地図とにらめっこをして、なんとかメトロの様子はつかみました。北駅の乗換だけで、ホテルを予約していた Place de Clinchy には着きました。たぶん、8時頃だったと思います。ホテルの予約券にホテルの所在の地図があるので、それを手がかりにともあれホテル探し。今回は、これに一番苦労したかもしれません。予約券の地図は印刷がぼけていて、通り名がはっきり読みとれません。五叉路ぐらいのところに出たので、方向だけ目処をつけて探しましたが、見つかりません。地図による限り、駅から数分の位置です。通り名がはっきり読みとれれば問題はないのですが、読みとれないのは読みとれないで仕方なし。五叉路の5つを虱潰しにあたれば、そのうち行き当たるだろうと、10分までは歩いてなければもどる、を繰り返し、3つ目で見つかりました。ホテルということばで日本でいうホテルをイメージしていたのが敗因でした。私の知識では、英国の B&B です。角を曲がったちょっとわかりづらい場所にドア一つ分の横幅の入口しかありませんでした。見つけたのが9時。ホテルは英語が通じるということでとっているので、受付のお兄さんに予約券を見せ名前を告げると、すごい早いと驚かれましたが、まずは荷物だけ預かってもらいました。朝食を食べる食堂の片隅に勝手に置けということなので、2階の食堂の片隅に置いて、また後で来ると伝えて、ホテルは出ました。
・オルセー
今回予習をしてきていたのは、ここまででした。すなわち、ホテルに着くところまで。ということで、駅前でもうあいているキャフェに入り、おもむろに『地球の歩き方』を出して、どうするか考えました。まず、成田で借りた携帯電話で自宅に無事ついた旨連絡し、それから『地球の歩き方』を読みつつ思案。飛行機であったK氏が電車のなかで予定を決めているのではなければ、ルーブルがよい、と言っていたのを思い出し、まあではこういう場合にはアドバイスに従っておこうと、『地球の歩き方』のメトロ路線図を見ながらルーブルに。路線名と行き先名をゆっくり確認すれば、メトロはわかります。さて、ルーブルらしい建物はあるのですが、人通りがほとんどない。どうしたことかと思いましたが、入口につくと、火曜日はお休みの表示。今日が火曜日だという意識もなかったのですが、休みは休みで仕方ありません。いまいちど『地球の歩き方』で美術館、博物館関係の説明を読んでみました。多くは、火曜日が休館日。しかし、オルセーがあいています。ということでオルセーに向かいました。川向かいですが、乗換がちょっと複雑。まあでもゆっくり確かめながら向かえばよいだけのことです。オルセー美術館という名の駅の外に出ると、長蛇の列。私みたいな観光客がけっこう大勢いたのでしょう。こんな列に並ぶのは、中学生のときの大阪万博以来ですが、なにせ朝がまだ早いし、ほかに行く場所も知らないので、待っていました。おそらく、1時間近くかかって、なかに入りました。
あんなに並んでいたのに、とっとと奥の方の2階や3階に向かうとごくわずかの人しかいませんでした。とくにこれを見ておこうというのはなかったので、気まぐれに歩いて、気に入ったところでゆっくりと見ることにしました。私はもともと室内装飾やデザイン関係が好きなので、こんなところにフランク・ロイド・ライトがある、あ、こんなところにマッキントッシュの椅子がある、あ、こんなところにラリックがある、というふうに見て回りました。オルセーは印象派の収集で有名なようです。(ガイドもまったく読まずにただ適当に歩き回りました。)確かに、印象派のコーナーには多くの人がいました。ゴーギャン、ゴッホもあり、実際に見てみると、ああ、このパワーはすごいと思いましたが、人の多い場所は好きではないので軽く通過していきました。名前を知らない彫刻作品にかなり面白いものがありました。
英国の体験からいえば、美術館・博物館の食堂は使いやすい。たぶん、英語も問題なく通じるだろうということで、割とちゃんとした感じのレストランに入りました。○○プレートというセットメニューを頼みました。そこで食事をしていた方々は、多くの方が身なりがよかった。
そこでゆっくり休んでから、午後は、1階のモネなどがある場所を見て回りました。モネの前では10分ほど階段に腰掛けて見ていました。2時ぐらいになるとけっこう歩き疲れてきたので、大きな絵画を見るにはちょうどよい場所にあった階段に座って、彫刻、巨大な絵画、そして人々を見ていました。小学校低学年ぐらいの子どもたちが先生に引率されて来ていました。子どもは子どもで、どの国でも似たような子どもです。日本よりすこしお行儀がよいかなと感じましたが、そうじゃないグループもいるのかもしれません。
夜までオルセーにいることも考えたのですが、何といってもパリ時間では午前0時ぐらいに起きたことになります。早めにホテルに戻ることにしました。川沿いをすこし散歩してから、元気だったら舟にも乗ったのにな、と思いつつ、ホテルに戻りました。せめて午後6時までは起きていようと思ったのですが、あまりに眠くなったので5時に一度就寝。1時間で目覚めて、おなかが空いていることに気付き、ホテルのすぐ近くのマクドナルドに入りました。私の定番、フィレオ・フィッシュ・セットを頼んで、5ユーロ札を出すと、確か10セントか20セント足りないとお店のお姉さんが言います。5ユーロは私の感覚では700円。マックが5ユーロを超えるということで、フランスの物価の高さ、あるいはユーロの強さを実感しました。
・Varia
*フランスの入国審査は驚くほど簡単でした。パスポートを見せることもなく、ただフランス入国カードを係員に渡しただけでした。イギリスとのなんたる差!
*オルセーには、多くの日本人も並んでいました。大学生が多く、高校生らしき人々もいました。荷物チェックを受けた後、館内のチケット売場に並ぶと、前が日本人の女子大学生2人組。ある年齢以下だと割引があるので、売場の女性が(日本人だと判断して、フランス語を話さないであろうから)"Please show me your passports" と言っていましたが、どうもお二人には何を言われたのかわからなかったようです。仕方がないので売場の方は別の対応をしていましたが、うーん、このぐらいの英語はわかるようになってから海外旅行をしてほしい。心底そう思いました。
*パリにもコンビニがあると便利だと思っていたのですが、私がまわった範囲にはコンビニはありませんでした。マクドナルドはボルドーにもあり、けっこう目立ちました。
*パリには、緑の公園がいっぱいある、という勝手なイメージを抱いていたのですが、その種の公園はほとんど見かけませんでした。パリ在住の人々に聞くと、緑はまとまった場所にあるということでした。
*日本もロンドンも、ちょっとした駅の前には必ず銀行があります。パリもそうだと思っていたら、すこし少ないと感じました。まわった場所が多くないので、銀行等の金融機関が集まっている場所があるのかもしれません。
以上、パリ初日(8日)です。
おおきいちびといっしょに6時15分。とうとうボルドーに発つ当日となりました。とはいえ、夜の便なので、日中は丸一日まだ使えます。資料以外の荷造りは、私がパソコンに向かっている間に、妻がささっとすませてしましました。せめて机の上だけでもと思い、机の上だけは片づけました。足下やら後ろに積み上げている地層はそのままです。発掘作業は帰ってきてからになります。とほほ。
[プリンター]
長く愛用してきたプリンターですが、どうもそろそろお役ご免の時期が来たようです。レーザープリンターが個人でも買える価格(10数万だったと記憶します)になったときに、その最初のものを今は見かけなくなったゼロONE ショップで買っています。1990年代の早い時期です。正確な記憶はありません。ちょっと遅いことを除けば問題なく働いてくれていたのですが、ここにきて、かすれが目立つようになりました。今となっては1万円のインクジェット機に印刷品位で負けていますが、きれいにでれば私の方は問題がなかったのですが、ちょっと読むのに影響するかなという品位になってきました。
ボルドーから帰ってきたら、更新を考えなければなりません。
ということで、年賀状作成用に購入したカラーのインクジェットプリンターで、ボルドーの発表原稿と、それから平井さんの「もう一人のガレノス」論文を印刷したら、ちょうどブラックトナーが切れました。更新といっても当分はこれをメインにしようかなと思っていたので、出発直前ですが、吉祥寺のラオックスにトナーを買いに行くこととしました。ちいさいちびもついてくるというので、ポポにお留守番を任せて、妻と3人ででかけることとしました。トナーだけですから、駅についてすぎに別々になり、また15分後に落ちあいました。2本で2000円弱のものを買ってきました。フランスに今日発つわけですが、どうも気持ちの準備が整っていない気がします。なんだろうと思ったら、パリについてからの動き方が頭に入っていませんでした。ちょうどちびどもが幼稚園で遊んでいる時間帯だったので、『地球の歩き方』で飛行場、ホテル、TVG の乗り場の地理と動き方を頭に入れました。それですこし安心しました。
それに、いまさら馬鹿みたいでもありますが、飛行機のなかでずっと寝ていることもできないだろうということで、昔著者にもらった『フランス語超入門』という新書をもっていくことにしました。私はそもそもフランス語を話したことは一度もありません。(その著者の方に私のフランス語の話をしたら、心配いらない、今は政府の指導もあって、英語で大丈夫ということでした。)
まあ、ロンドンに留学したときも、実際に英語を使うのはそのときがはじめてでした。(たとえばテープ教材ですこし練習はしましたが、実際に使ったことはゼロに近かった。)そのときは10ヶ月の滞在でした。入国管理でちゃんと受け答えする必要があるかもしれないと思い、飛行機のなかで一生懸命自分で作成した想定問答集を予習した記憶があります。というわけで、およそ1週間フランスに行って来ます。パソコンを持たずに行くので、メールの連絡もホームページの更新も1週間は止まります。
夜中に目覚めて、少し仕事。[朝のリサイタル]
ちいさいちびがおそらく7時前に起きて、リサイタル。他のものが起きないので、ひとりで半分ぐらいはあっている歌を歌っていました。飽きてくると、お母さん下に行こう、とすこしごねました。私は、昨夜起きていた影響で、7時40分。午前中に、昨日の編集委員会で持ち帰った宿題をこなしました。今回の宿題は少なかったので、とても助かりました。すぐに全部解決するとは思っていないのですが、ボルドーでの発表に関係して疑問Query が残っています。どうも気になって、その調査につい手をつけてしまいました。
一例を示しておきましょう。1673年出版の発散気に関する論文集でボイルは、アグリコラを引用しています。大気中にはいろんな物体の粒子があって、それが多くの自然現象に関与しているということの例証として、ボイルはたとえば1631年12月15日から16日に生じたヴェスヴィオ火山の噴火をあげています。
同様の事例としてボイルはアグリコラのDe natura eorum quae effluunt ex terra (1546) から2回ラテン語で数行ずつ引用しています。2つ目の方を訳してみましょう。「このケムニッツの地で11年前の9月、黄色い土をいっぱいに含む雨が降った。そのせいで、通りという通りは黄色い土で覆われた。」
2箇所の引用に対して、ボイルは注をつけています。最初のには、"Lib. 12. pag. 236." 邦訳を示した方には、"Lib. 12. pag. 263." しかし、アグリコラの『地下から発出するものの本性について』は4書構成で、そもそも第12書というのはありません。明らかにボイルのミスです。さらに、ヴァレンシア大学にこの書の第2版(1558)があるので、当該ページを何とか入手して読むと、ボイルの引用する箇所がありません。この書の初版をもっている平井さんに頼んで、初版の236頁と263頁を見せてもらいましたが、やはり、ボイルの引用している箇所はありません。
こういうときには悩んでも仕方ありません。今一度、ボイルの当該箇所をよく見てみました。そうすると、編者が、"Lat. has ref. as 'l. 3 p. 236 edit. prius in 8'" という注をつけています。書に関しては、これで、ラテン語訳者がおそらく間違いに気付いて、第3書と訂正したことがわかります。しかし、次のオクタヴォが新しい謎を生みます。つまり、このアグリコラの書物は、初版も第2版もフォリオで出版されています。1612年の版は、12mo で出されています。De Re Metallica を含む1657年のバーゼル版はやはりフォリオです。つまり、オクタヴォで出されたものは、フーバーの文献リストによっても、イギリスのcopak の調査によってもありません。
こういう場合には、ちゃんとした索引のある版で、当該箇所を探すしかありません。私の手元にはそうした版はありませんが、どこかで借りて調べれば、たぶんわかると思います。誰でもたまには間違いをします。前にこのページで記したことがありますが、ボイルはその種の間違いが多い方だと思います。マイケル・ハンターが指摘するとおり、ボイルは、「鋭い批判性と不注意さの不思議な混淆」を示します。
ただの不注意であればそれで終わりですが、理由のある間違いであるとすれば、その理由が歴史的研究の対象となります。個人的には、理由のある間違いの確率の方がすこし高いのではと見ています。
ただし、もう時間はありませんから、この調査はボルドー後となります。→05.3.16 私が家をでたあと、平井さんからメールがあり、"l.3, p.136" が正しい数字であることが判明しました。どうも単純なエラーである可能性が高いような気がしてきましたが、確定的ではありません。あまり根を詰めると、旅行に差し障りがでるかもしれないと考えて、2時頃外に遊びにいきたそうなちびどもを公園に連れていってやりました。ふたりとも補助輪つきの自転車ででかけました。さすがにもう慣れたものです。
公園に風船をもってきたお友達をみて、風船がほしいというので、じゃあ風船を探しに行こうということで家に連れて帰りました。おおきいちびはそのままうちでひとやすみ。ちいさいちびはやはり買いに行くというので自転車の後ろに乗せて、西友に連れていってやりました。自分でお菓子のコーナーに行って、2つ小さなおもちゃを買うと満足しました。おねえちゃんの分とあわせて4つを買って無事帰宅。
自分の欲しいものが買えたせいか、外で遊んできたせいか、帰ってからも機嫌がよかった。
ひとりで5時45分。昨夜、ポポは予想通り、11時に着きました。近所で道がわからなくなったということで、妻が急遽迎えにでました。午後3時から東大先端研で理事会&編集委員会。その前はすこしのんびりしようと思っていたのですが、結局調べものをしていました。理事会&編集委員会はいつも通り。開始が遅かったので、終了も遅く6時半。家に帰り着いたときには、ちびどもはちょうど風呂に入っていました。
ひとりで6時。昨日の天気予報の通り、雪がしんしんと降っています。数センチ積もっています。→気温は、テレビによれば、0.3度。最高で5度ぐらいのようです。雪に慣れている方々には些細なものでしょうが、ついテレビで雪を見てしまいます。
7時過ぎにおおきなちびが起きてきました。疲れが残っているのでしょうか、目の下の隈が残っています。妻が30分ほどかけて説得して、今日は幼稚園を休ませることとしました。午前中に飯田橋に出張校正。→私は、10分ほど前に着きましたが、編集長代理は小田急線が雪で遅れて30分遅刻。昼食をたべて帰る頃には雪は上がっていました。人通りの多い道にはもうほとんど雪は残っておらず、気温も少し上がったようです。旅行用のカバンは最悪月曜日に買おうかなと思っていましたが、ちょうどよいので、西荻で降りずに吉祥寺まで行って、キムラヤで安売りしている軽量キャリーというのを買ってきました。W43×H32×D20で4980円。今後国内の学会出張等でもちょうど良さそうです。家に帰り着くと、妻がさっそく荷造りをしてくれました。(私にまかせておくと出発当日の月曜日になりそうなのを察したのでしょう。)ちょうどよい感じでした。
今日は、台北からポポの来る日。ちびどもはそれは楽しみに待っていたのですが、何とキャセイ航空の飛行機が燃料不足で一度羽田に降りて、それから成田に向かったということで、予定よりほぼ2時間遅れとなりました。おそらく我が家への到着は11時前後となるでしょう。雪のせいで遅れたのかと思ったのですが、燃料不足とは。ちょっと想像できませんでした。
新しい ISIS が届きました。2004年9月号です。(第95巻第3号)そのなかに一種の特集(英語では、FOCUS)として、「科学の読者」というものがありました。
Ann Blair: An Early Modernist's Perspective, pp.420-430.
Jonathan R. Topham: A View from the Industrial Age,pp431-442.
Lorrane Daston: Taking Note(s),pp.443-448.
私の今の関心にちょうど重なる特集(フォーカス)です。早速、1番目と3番目のものを読みました。アン・ブレアのレヴューが研究の紹介としてとても有益でした。一昨日報告したヴァレンシア大学のサイトですが、30頁ぐらいまではダウンロードできますが、その後はデータベースサーバーのエラーを返してきます。そういう仕様なのかもしれませんし、あるいはただただサーバーの調子なのかもしれません。
ちいさいちちびが目覚めて叫んで、6時。6時半にちいさいちびは再度寝付いたので、おおきいちびといっしょに下に降りてきました。10時半〜12時で会議。学長の出席する打ち合わせ会議です。ちびどもといっしょに出て、駅で月曜日の成田エクスプレスの切符を買い、それから大学へ。会議は11時50分ぐらいには終了したので、同僚の方と試験の最後の連絡をしたあと、お昼ご飯。研究室に帰って、今年度の試験の最後の転記を行い、教務課に持っていきました。ともあれ、一安心。その後すこし仕事をしてから、吉祥寺にでて、ラオックスに行き、ちびどものお土産を買って帰りました。
ちびどもはおともだちのおうちに遊びに行っていました。帰ってくるとすごく疲れた顔。どうもともだちといっしょのときは、ほんとうに走り回っているようです。エネルギー切れでぐったりしていましたが、お風呂に入って、ご飯を食べると幾分か復活。ほとんどそのまま寝かせつけました。
ちびどもが目覚めて、6時半。昨日と同じ。
昨夜はよく寝ました。気分的にお休みモードにはいったせいでしょう。
夜ちびどもが寝た後、旅行のために書類の片づけからはじめました。いろんなところにいろんな書類が堆く積み上げられています。全部とはいきませんが、8割方は片づけました。[いたい、いたい、いたい]
電話で予約して朝一番でマッサージ屋さんに行ってきました。ものすごく、痛い。めちゃくちゃ、痛い。私の痛さの表現が間に合わないほど痛かった。自覚症状があったのは右肩ですが、左肩も同じくらい時間をかけてやってくれました。一瞬飛び上がらんばかりの痛みを覚えました。こんなに痛いのにとても散髪屋に行く気はしません。マッサージに行く前から格闘していたスペイン語訳のアグリコラとの格闘を続けました。
実は、 ヴァレンシア大学のサイトでラテン語の原文がゲットできかけたのですが、途中でアクセスできなくなりました。たぶん、認証が甘かったのでしょう。マドリッド大学デジタルライブラリーほどではありませんが、このサイトも有用です。偶然つけたディスカベリー・チャンネルでロケット事故の特集をしていました。ビデオにとればよかったのですが、できませんでした。印象的だったのは、20世紀末(おそらく1997年の前後)長征3号か4号の事故のシーンです。打ち上げ直後に機体が斜めになり、弧を描いて地面に直撃しました。近くの村民500名が亡くなったということです。史上最大のロケット事故です。中国政府は、ただちに外国人を5時間拘束して、証拠の隠滅をはかったようです。しかし、バスのなかから隠し撮りされたビデオがあり、惨状を物語っていました。こういう情報は貴重です。
金曜日の午後にベルギーの平井さんのところに送った髭文字の後半部分は、火曜日に着いたようです。思ったよりもずっと迅速でした。たぶん、問題は信頼性でしょう。100送って100がある範囲でしっかり届くかどうかということだと思われます。うろ覚えの統計では、日本の郵便物は万に1個のエラーもない、あるいはそのぐらいのようです。
ちびどもが目覚めて、6時半。本を返却するためと、すこし調べものをするために、ちびどもといっしょにでて、駒場の図書館へ。着いた頃にはおなかがすいていたので、いつもの定番、駅前のマックでフィレオフィッシュセット。ルードウィヒ・ベック『鉄の歴史』(中沢護人訳、米子 : たたら書房, 1968-1986)ならびにその元の本を見ました。
役に立つ本ですが、今回の最後の詰めのための情報はありませんでした。ただし、ゆっくりと読んでおきたい部分があったので、16世紀のところ(日本語では第2巻第1分冊、もとのドイツ語版では第2巻)を借りることとしました。
それ以上、駒場の図書館にいても最後の詰めはできないと見限って、外大に行くこととしました。大学につくとまずお昼ご飯。お昼ご飯が済んでから、教務課に行って、成績票を渡してきました。成績票は残り一つとなりました。相方の進行の都合で、それは3月3日に提出となりました。
大学のメールボックスには、ボルドーからパンフレットの一式が届いていました。今回のシンポジウムのものだけではなく、ボルドー市のパンフレットもあります。フランス語、英語、ドイツ語、イタリア語(たぶん。もしかしたらスペイン語)、についで、日本語の「ようこそ」が表紙にあります。なかも、一部は日本語があります。日本人観光客は、よいお客さんなんだろうなと感慨。
仕事の目処がたったところで、あまりに重いベックのドイツ語の本は研究室において、帰ることとしました。ちょうど帰るとき、大学の前の道に消防車が7〜8台とパトカーが2台集結していましたが、何があったのか正確にはわかりませんでした。火事、あるいはぼやがあったのかもしれません。(ちょっとものが焼けたにおいが漂っていました。ただし、煙も火も見えませんでした。)家に帰り着くと、今日は3人のお客さん。幼稚園のお友達です。顔見知りの子は挨拶にきます。何がどうなったのか、わかりませんが、みんなが帰るころ二人とも泣いていました。感じとしてはほとんどなんてことはなかったようです。
今日はボルドー並に寒い一日でしたが、ちびどもは私道の出口まで最後のお友達を送っていきました。ジャンパーを着ないで外へ出たので、これが寒かった。右肩が痛い、腰も全体的に痛い、等々、すこし疲れがたまってきています。明日は、マッサージをうけて、散髪をし、体を休めていようと思います。そして、旅の準備に着手します。