ひとり遅れて7時10分。好天&春のように暖かい日。
今月は、これでやっと80枚を超えました。ちいさいちびの幼稚園は、今日はお休み。9時半頃、友達と約束して、近所の公園に遊びにでかけました。お友達がきっと大勢見えているのではないでしょうか。ちいさいちびは自転車に乗って行きました。
会議の日。数えてみると、把握しているだけで、5つあります。
→お昼休みの会議は、私の思い違いでした。12時20分に部屋の前で待っていても、誰も現れない。よく見ると、30日、つまり昨日でした。会議は、よほどのことがなければ水曜日に設定されています。ということで、つい、31日の水曜日だとばかり思っていました。次の会議は1時半スタートの講座会議。誰にとってもいやな議題で3時まで。
3時からは私が委員長を務める会議。こちらは、もめたりする内容も、ややこしいこともないので、淡々と作業を進めました。40分で終了。
4時半から、学長選挙の、組合主催による意思表明演説会。6時半に終了。
6時半から総合文化研究所で、青野聰さんによる、講演会「 作家は語る :小説を書くということ」 。
たいへんに興味深い話。その後、お礼の飲み会。1軒目のお店はお休み、2軒目は満員、で3軒目に入りました。前にいた人たちが席をあけてくれて、ほぼ貸し切り状態になりました。青野聰さん、編集者の方1名、教員が6名、学生が4名で、合計12名の賑やかな飲み会となりました。
飲み会の席上で、出来上がったばかりの『カラマーゾフの兄弟3』(光文社古典新訳文庫、2007年2月20日)を訳者の亀山郁夫氏から頂きました。
亀山先生、いつもありがとうございます。これで完結ではありません。帯に、全4巻+エピローグ別巻とあります。ちょうど12時に帰宅しました。ちょっと疲れましたが、よい会合だったと思います。
夜中に目覚めたので、すこし仕事。大学の同僚の先生方に話を聞いても、みんな、多くの書類で苦労されています。ひとり遅れて7時10分。好天。
いつもの通り、10時前後にマッサージ屋さんに。仕事で読まなければならない論文を1本ポケットに入れて出かけました。いつもと違って、マッサージ屋さんはかなり混んでいた(待ち合わせのソファーに隙間がないぐらい)のですが、ちょうどよいので、待ちながらその論文を読むこととしました。
予想とおり、読み終わることができました。それでもまだまだ私の順番にはなりません。約1時間ぐらい待ちました。
今日の担当の方は、ひどい状態ですね、の一言。おばあちゃんたちには、ずっと大きな声で世間話を続ける方もいますが、私は、半分寝ているような状態でマッサージを受けます。今日は、お隣のおばあちゃんがよくしゃべる方で、そのおうちのプライバシーが手に取るようにわかりました。そして、そのおばあちゃんはお医者さんの言うことをほとんど聞かない。そういうひともいます。おやつの時間に、アマゾンのマーケットプレイスに発注した次の本が届きました。
鈴木明『人物・日本化学技術史』日刊工業新聞社、1987
人物と冒頭にあるので、人物伝かと思っていました。化学技術を焦点とする産業革命論でした。郵便物を3点出しました。書類を1件、処理しました。2件目は、いま処理中(作文中)です。明日までに完成させる必要があるものです。
→どうも作業を続ける気がしなくなったので、学生諸君から提出されたレポートを読みました。うーん。正直に言えば、このレベルのものは読みたくない、というものが少なくなかった。本を読まずに、ウェブの記事・情報だけでレポートを作成しています。どうしても内容の薄いものになりがちです。学生諸君よ、まずは、本を読め、本を! たぶん、こう言わなければなりません。
ついでに卒論も。卒論はほっとします。かなりの力作もあります。なかなかによいものもあります。
ひとりで4時45分。ひさしぶりにはやくおきました。今日は月曜日の授業の最終日。来週は試験。
講義の授業は終了しましたが、大学院のゼミは、発表が伸びて、来週もやることになりました。私は話を聞いてコメントするだけですから、これはまったく問題ありません。
昨日に続き、ひとり遅れて7時30分。昨日の編集委員会の宿題。8割方は、処理しました。
午前中からちびどもが荻窪にでかけました。昼食を食べてから帰ってきました。あかんぼうは、屋上でもどしたということで、妻に抱っこされて眠ったまま帰ってきました。
ひとり遅れて7時45分。[ラヴォアジェのノート]
化学史メーリングリスト[CHEM-HIST] (chem-hist @ mailman.uni-regensburg.de) で、日本でもおなじみのマルコ・ベレッタ氏より、ラヴォアジェの実験ノート14冊中13冊分がウェブで見られるようになったという通知がありました。
Panopticon Lavoisier
[花待つ場所]
東工大で編集委員会。
(途中の電車のなかで水曜日の委員会のための読書。1点完了しました。)
2時スタートの予定でしたが、人が集まったのがすこし遅れて、2時20分スタート。2時間以内で終了しました。
ということで、5時20分すぎに帰宅することができました。
(表題は、東工大ではもうしっかりと花見の準備がすんでいて、開花を待つばかりの状態だったことを指しています。紅梅はにおいあざやかに咲いていました。)夕刻にかなり前に発注していた松岡正剛氏の次の2冊がアマゾンより届きました。
松岡正剛
『17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義』春秋社、2006
『日本という方法―おもかげ・うつろいの文化』NHKブックス、2006
ひとりで7時。明日の編集委員会の準備をすこし。それから、いつも通り、10時を目途にマッサージ屋さんに。
ずっと休みなしで来ていたので、へたるほどではありませんが、ああ、しんど、という状態です。[ウェブキャットプラス]
仕事の合間に、今やっていることをすこしだけ紹介しましょう。
ウェブキャットプラスで、「日本 化学史」と入力すると、全部で289870件(およそ30万点)がヒットします。そこから、ほんとうに日本化学史に関係する文献を抽出しています。
サイトには「連想検索」とありますが、おそらく、ある単語に対して「連想語」というのを検索エンジンのなかに記述しておき、ある単語が入力されたらそうした「連想語」を含む書籍も検索結果として掃き出す、そういう仕組みだと思われます。たぶん、30万点のうちの9割は、日本化学史に関係ありませんが、この検索方式の利点は、意外なものがヒットするということです。
私の出生前の例を3点あげておきましょう。黄金の花 : 日本製油株式会社沿革史
[ 日本製油株式会社編] -- 改訂増補. -- 新潮社, 1948.3, 1冊(項目別頁付), 表6枚.日本カーバイド工業株式會社二十年史
創立二十年史編纂委員會 [編] -- 日本カーバイド工業株式會社, 1958.2, 331, 41p, 図版.日本碍子株式會社三十年史
日本碍子株式會社編 -- 日本碍子, 1949.5, 195p.「カーバイド」なんていったって、若い世代はたぶん知らないのではないでしょうか。
ウェブで調べた社史を多く所蔵するアーカイブを以下にあげていきます。
神奈川県立川崎図書館
大阪府立中之島図書館
神戸大学 経済経営研究所 附属政策研究リエゾンセンター
ウェブキャットプラスでも最初の10点あたりは、次の通り、妥当な線に収まっています。
日本の化学百年史 : 化学と化学工業の歩み
日本化学会編 -- 東京化学同人, 1978.3, xiii,1302p.日本の化学百年史 : 化学と化学工業の歩み
日本化学会編 -- 縮刷版. -- 東京化学同人, 1978.11, xiii, 1302p.明治前日本物理化学史
日本学士院編 -- 日本学術振興会, 1964.2, 3, 11, 645, 24p.日本分析化学史
日本分析化学会編 -- 東京化学同人, 1981.10, xii, 395p.日本化学技術史
柴村羊五著 -- 日刊工業新聞社, 1959.9, 134, 4p. -- (工業化学全書 ; 3)戦後日本石炭化学工業史
下野克己著 -- 御茶の水書房, 1987.12, 255p. -- (岡山大学経済学研究叢書 ; 第2冊)日本化学繊維産業史
日本化学繊維協会編 -- 日本化学繊維協会, 1974.12, 1223p.明治前日本物理化学史
明治前日本科学史刊行会著 ; 日本学士院編 -- 日本学術振興会, 1964.2, 645,24p.日本化學纎維工業發展略史
東洋紡績株式會社經濟研究所[編] -- 東洋紡績経済研究所, 1951.12, 32p. -- (調査資料 ; 第10號)
ひとりで6時。木曜日の講義は、今日が最終回。来週は試験を行います。
[卒論]
大学に着いてまずしたことは、卒業論文の受け取り。卒論演習に参加していた11名全員がきちんと提出してくれていました。安心。
具体的には次の11点。「ニコラ・テスラ―時を超える「魔法使い」―」
「環境思想の可能性を探る―ディープ・エコロジー/ソーシャル・エコロジー/エコフェミニズムの分析を通して―」
「特殊相対性理論の成立をめぐるアインシュタインとポアンカレの思考」
「日本SFおよびその論争史―日本SFが見てきたもの」
「モード史における女性像の変遷」
「Misia Godebska ――生涯と功績――」
「現代日本サブカルチャーの表象文化論的分析―東浩紀『動物化するポストモダン』をめぐって」
「クオリアに関する志向性説および感覚与件説の、「物理主義」との関係における位置づけ直し」
「凧型共通志向モデルのインターネットメディアへの適用案―情報操作を例として―」
「自動車の歴史」
「都市空間における「透明」への憧れ―イベント・消費の場を中心とする欲望の変遷史―」
ご覧の通り、今年は、なかなかに多彩です。ここでは具体的に指摘しませんが、力作・秀作も多い。
[シンポジウム「翻訳する、とは何か?」]
5限は、次のシンポ
1/25(木)16:30〜18:30 研究講義棟101
シンポジウム「翻訳する、とは何か?」
司会:野谷文昭
パネリスト:都甲幸治、沼野恭子、和田忠彦
とてもおもしろい話を聞くことができました。
(→ほんとうにおもしろい話でしたが、ここで具体的に記すことが差し障りがあるのではと思わせるほどだったので、具体的には記述しません。翻訳の現場で、一流の翻訳者が何を努力しているのか、学生諸君にも見えたのではないでしょうか。)野谷文昭さん、都甲幸治さん、沼野恭子さん、いつもありがとうございます。
しばらく総合文化研究所で歓談してから、いつものイタリア料理屋で夕食会。渡邉総合文化研究所長、会議で顔を出せなかった亀山郁夫さんも参加されました。
(→個人的にもっとも興味深かったのは、ドストエフスキーも口述筆記だったという点です。ドストエフスキーは、「突然」にあたるロシア語を何度も何度もまるで口癖のように使っていて、翻訳者の頭を悩ませるのだそうですが、実際、それが口癖だったということになります。まさにテキストを通して、声を聞くことができる=必要となるわけです。)
(→おもしろい話の山盛りでしたが、そういえばここに書けない話が大半でした。そうです、真理は消えゆくものとともに。)
ちいさいちびといっしょに7時20分。1時から私が司会を担当する委員会。
2時半から大学院教授会。→4時半には終了したので、割とはやく帰ってくることができました。年度末になるといろんな書類が飛び込んできます。それでなくても、締切があやしいものがあるのに、嗚呼。
7時10分前。おおきいちびはその10分前。ちいさいちびは20分後。やっとマッサージ屋さんに行くことができました。いつも通り、朝の10時につくと、ほぼ待ち時間0でやってもらうことができました。
そのあと、駅前の本屋さんで、『アエラ』と『サイゾー』並びに次の2冊の文庫を買ってきました。
久我勝利『知の分類史:常識としての博物学』中公新書ラクレ、2007
岡本裕一郎『モノ・サピエンス:物質化・単一化していく人類』光文社新書、2006新聞より。ヨミウリに次の記事がありました。
遺伝子組み換え作物、全世界で栽培面積1億ha突破
除草剤耐性の農作物が68%、害虫耐性のものが19%、残りが両方を兼ね備えた作物ということです。[ここは、イギリスか?]
会議は、6時〜9時で駒場。図書館でコピーをとろうと思い、30分ぐらい早めに着くようにでかけました。
わー、ここは、イギリスか。
駒場の図書館の周辺は、再開発(?)されて、まるでイギリスのショッピングモールのように変貌していました。おしゃれなキャフェにおしゃれな生協購買部。昨年11月に行ったロンドンに似たような場所がありました。ラッセル・スクエアのすぐ近くですから、ロンドンの中心部です。コピーをとったのは、ラブジョイ氏の紹介されている次の2点。
Anthony Grafton, "The History of Ideas: Precept and Practice, 1950-2000 and Beyond," JHI, 67 (2006), 1-33
Martin Mulsow, "Practices of Unmasking: Polyhistors, Correspondence, and the Birth of Dictionaries of Pseudonymity in Seventeenth-Century Germany," JHI, 67 (2006), 219-250.
15分で完了。
それから、生協購買部で文房具をすこしとホットレモネードを買いました。
指定された会議室には5分前に到着しました。博士論文の公開審査会。私は外部委員という役目です。
9時までを覚悟していましたが、8時半には終わっていました。
その後、審査主幹の方に誘われて、下北沢の飲み屋で夕食会。
帰宅して、12時過ぎ。
おおきいちびといっしょに7時10分前。比較的暖かな夜でした。大学の授業は、いよいよラストスパートの時期をむかえました。今日と明日は卒論提出日。卒論生諸君、しっかりだしてくれよ。
事務的な書類ですが、締切の迫っているものが数多く押し寄せてきます。今日も新たに1件飛び込んできました。
1件1件こなしていくしかないのですが、これがなかなかに面倒。明日の仕事は夜。ということで、怒濤の日々に一休み。
ひとりで5時前。外の気温は、3度から4度のようです。室温は、それより10度高く14度。
昨日、関東でも海辺では初雪が降ったようですが、東京はただの雨。雨量はわずかでした。土曜日日曜日は、中央線の快速電車が西荻窪を通過します。でも、6時55分と7時7分の2本の総武線電車だけが例外的に、三鷹から先まで走ります。(たぶん、中央線の電車が2本だけ総武線を走っているということなのだと思います。)
たった3駅なのに三鷹で乗り換えるのはばからしい。ということで、今日は6時55分の電車に乗ることにしました。
お仲間が二人いました。
その方といっしょに西武線に乗り換え。武蔵境駅で10分程度待つことになりますが、そこまではうまくいきません。
我々は7時半から仕事。ちょうど7時半のほんの少し前に、仕事場に着きました。
今日はトラブルと言えるトラブルはなく、6時15分には「ご苦労様でした」となりました。受験生諸君の同じ電車で帰ってきて、昨日よりちょうど1時間はやく家に帰り着きました。日本全国の同業者のみなさま、ごくろうさまでした。思うに、これは、なかなかに変な業務です。
明日からも、仕事が続きます。締切もいろいろあります。ほんとうに、「がんばれよ、俺!」の気分です。
ひとりで5時半。仕事のときは、自然に目覚めます。もちろん、まだ暗い。センター試験の当日。
おおきなトラブルはなく、8時過ぎに帰ってくることができました。
明日もほぼ同じ仕事。50肩がかなりひどくなってきました。今日は肩への負担を考えて、リュックにしましたが、リュックを背負ったり、はずしたりで痛みが走ります。
おおきいちびといっしょに6時40分。あかんぼうもすぐに起きてきました。ちいさいちびはここのところよく寝るようになっています。やはり、10時ぐらいにマッサージ屋さんへ。今日担当してくれた方は、左肩だけではなく、右肩も背中全般も腰もマッサージしてくれます。これも、左肩と同様にけっこう痛い。痛いポイントはほんとうに痛くて、声をのみ、涙目になってしまいます。
明日、明後日は、センター試験。業務で朝から夜まで拘束されます。今日はゆっくりめに休んでおく必要があります。
ちいさいちびといっしょに7時。おおきいちびは6時過ぎか。冬というのにかなり暖かく感じる夜でした。3コマの授業。
その間に事務の仕事が入ったので、余裕のない1日でした。
3時。目覚めてしまったので、しばらく仕事。6時前に再度寝て、ちいさいちびといっしょに7時半。小学校1年生のおおきいちびは8時前に家を出ます。顔を見た途端、出ていったことになります。
さて、あかんぼうが昨日から声をぜいぜいさせています。風邪です。
朝一番で、あかんぼうと妻が小児科へ。私はちいさいちびを幼稚園におくりました。医師の診断は、喉がひどく腫れているということです。まあ、声を聞けばあきらかではあります。午後1時から2時半まで会議。出席者の大半の方が、なんだろう、この会議は、と思った会議でした。
会議のあと、総合文化研究所で雑談兼打ち合わせ。帰宅すると、あかんぼうの声が消えかけていました。ふだんはほんとうによくしゃべる子ですが、さすがに喉が痛いのか、声が少ない。
妻がお風呂にはいっているあいだ、私と下で賢く遊んでいましたが、いきなりおかあさん(実際には、表示できないような声=音です。)といって泣き始め、2階のお風呂場の前のドアに辿り着くと、ばーともどしてしまいました。直前に飲んだミルクを半分近くもどしたでしょうか。
でも、もどすときぶんがよくなったようで、居間でいつも以上にやんちゃるもんちゃをしていました。そして、熱がわずかにでてきました。大学で訳者ご本人より次の本をいただきました。いつもありがとうございます。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟2』亀山郁夫訳、光文社、2006
ご本人に聞いた話では、1は第4刷りにはいったのだそうです。それはめでたい。
ちいさいちびといっしょに7時10分前。おおきいちびは、?。朝の10時に、マッサージ屋さんに。9時開業ですが、9時前後に行くと、おじいちゃん、おばあちゃんを中心に大勢待っています。一人一回四〇分から五〇分程度なので、1サイクルしてから出かけた方が待ち時間が少なくなるだろうと予想してのものです。
本日はその予想通りでした。
肩の痛みは、腕をつく、服を着替えるという日常的な営みでも生じます。ということで、マッサージ屋さんのベッドの上では、ただ痛みに耐える四〇分になります。
すぐに痛みがひくというようなことはないので、終わっても治療の効果は実感できませんが、ともかくしばらく通うほかないようです。
ちいさいちびといっしょに7時10分。おおきいちびは6時すぎ。久しぶりに「科学技術と社会」の講義。講義は、あと3回。肩の痛みはいつも通り。講義をしていて腰まで痛くなったのはまいりました。
午後は、大学院の授業。修論を書いていた院生諸子に、無事提出したかどうか確認。無事出したことを聞いてほっとしました。夜の7時過ぎのちびども待望のあやとりの本が届きました。おおきいちびがあやとりの本が欲しいというので、土曜日にアマゾンに注文していました。1冊はDVD付き。1冊は百科を称しています。
ひとりおくれて7時20分。ちびどもは7時過ぎ。昼食後、かぞくそろって車で、サミットに買い物に。あかんぼうのおしめの購入が目的です。ちびどもが凧揚げをしたいというので、その後、クィーンズ・イセタンへ。
はらっぱ公園に着くと、すごい数の凧が揚がっています。「はらっぱ広場手作り凧揚げ大会」とありました。晴れていて、それほど気温が低くなく、風が強かったので、凧揚げには最適の日でした。
風が強いと、糸をひっぱる力も強くなるので、途中からちびどもにかわって私が紐の持ち手となりました。こどもの操作する凧が100以上(たぶん)なので、絡まないように気をつけていました。
どうも凧揚げに関心があるのはおおきいちびで、ちいさいちびはすぐに別のことをしたがります。おおきいちびが紐を10メートル程度で凧揚げをしている最中、ちいさいちびはあかんぼうと遊んでいました。
風が強いと寒いので、割と早めに切り上げ、クィーンズ・イセタンでおやつを買って帰宅。昨日総武線で開始した仕事を一応完了しました。付随して、2点ほど文献をダウンロードしました。また手持ちの資料と照合する作業を行う必要がでてきました。
→ダウンロードしたのは、次の2点。Lewis, William (1708-1781) ,
A course of practical chemistry : in which are contained all the operations described in Wilson's Complete course of chemistry : with many new, and several uncommon processes : to each article is given, the chemical history, and to most, an account of the quantities of oils, salts, spirits, yielded in distillation, &c. : from Lemery, Hoffman, the French Memoirs, Philosophical transactions, &c. and from the author's own experience : with copper plates
London, 1746Lewis, William (1708-1781) ,
The chemical works of Caspar Neumann, professor of chemistry at Berlin, F.R.S. &c. Abridged and methodized : With large additions, containing the later discoveries and improvements made in chemistry and the arts depending thereon
London, 1759一八世紀における化学教科書の系譜を見るときに、割と重要そうですが、手元にその分野のよい研究文献がありません。
→07.1.17 せっかくですから、第2版もダウンロードしておきました。初版は、1759年で639頁。第2版は、1773年に第1巻459頁、第2巻538頁というほぼ千頁の書物として出版されています。
ちいさいちびといっしょに7時10分。どうもあかんぼうははやく起きたようです。おおきいちびは、6時半頃か。朝の10時過ぎに、青山の眼鏡屋さんから、新しいレンズが入荷しましたの電話。レンズははやく交換したいので、昼食後すぐにでかけました。たぶん12時前後。
レンズの交換だけなので、お店の滞在時間は10分以内ですみました。さっかく青山に来たのですから、すこし珍しいものをと思い、紀伊国屋で食品をいくらか仕入れて帰りました。(節分の豆も仕入れました。)西荻駅にはほぼ2時につきました。
電車のなかでは仕事の読書。たぶん、座っていた時間が合計30分程度なので、それほで読み進めることができたわけではありませんが、おおよその状況はつかめました。
さて、新しいレンズですが、遠くを見るための上部はほとんど変更なし、近くを見るための下部の度を1ランクあげています。たしかに、手元は視界がクリアーになりました。おお、しかし、やはり目にはそれほど迅速な対応力はなく、遠くは見え方がわるくなったというよりも変な感じです。あかんぼうにものをくれる方は多くいます。昨日も幼稚園のお友達のお母さんがわざわざおもちゃをもってきてくれました。
いろいろあって、ちびどもも喜んでいたのですが、あかんぼうは、動くブーブー(レールの上を走るプラレールの本体。電池で走る機関車部分)が気に入ったようです。動き始めると追いかけていってつかまえます。車輪の動いているブーブーをつかまえているとうれしいようで、しばらくは手放そうとはしません。
これは、電車オタク系の素質を示しているのでしょうか。
ちいさいちびといっしょに7時。おおきいちびとあかんぼうはとっくに起きていました。
昨日帰り着いたとき、あかんぼうはもう寝ていました。ということで、今朝、パパの顔を見て、甘えることにしたようです。しばらくくっついてきます。
6時半。やっと普通の時間帯に起きられるようになりました。ちびどももほぼ同じ時間に起きてきました。
授業の再開。→久しぶりに講義。2つめの講義では、50肩のせいで、肩が痛くなってきました。ここまで悪化するとは予想していませんでした。夜の間に次の2冊がポストに入っていました。アマゾンのマーケットプレイスで購入した本です。
毎日新聞東京本社情報調査部
『毎日新聞 戦後の重大事件早見表』毎日新聞、1987小林修
『年表 昭和の事件・事故史』東方出版、1989帰宅すると次の本が届いていました。上の2冊と同時に、アマゾンのマーケットプレイスで購入したものです。
平凡社編
『昭和・平成史年表』
平凡社、1997
ひとりおくれて7時半。ちいさいちびの幼稚園も今日から再開。ヨミウリに次の記事がありました。
荻窪病院がHIVの夫婦の体外受精へ
病院の倫理委員会が申請を承認したというニュースです。ふたりともHIVに感染した夫婦への生殖補助医療の実施は世界初とあります。会議の日。
11時からの会議がひとつ。
3時半からの会議がひとつ。=学部教授会。委員長の仕事をひとつ仰せつかってしまいました。
5時50分からの会議がひとつ。
昨日までとは一転して、忙しくなりました。帰途、駅前の本屋さんで、『文芸春秋』と『中央公論』2007年2月号を買って帰りました。『中央公論』の特集「大学下流化時代」が興味深い内容でした。
ひとりおくれて7時半。おおきいちびは今日が3学期の始業式。いつも通り、8時前に家を出ました。→最低気温が2度とのこと。朝は冬の寒さでした。(でも、この気温でさえ、終戦直後の冬の平均気温よりも高い!)昨夜から通常の仕事モードにもどしました。
10時過ぎにマッサージ屋さんへ。肩の状態が悪いのでしょう、もう、これは、ほんとうに痛かった。普通に服を着たり脱いだりするだけでも激痛が襲ってきます。
マッサージ屋さんに次の本を持っていって、待合い室で読んでいました。
保阪正康
『あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書』新潮新書、2005
となんと、あまりの痛さのせいでしょうか、本をマッサージ屋さんに忘れてきてしまいました。午後の営業の直前に取りに行って、残りの部分をちびどもが寝付いてから読みました。
非常によい本だと思います。日本を考える場合、太平洋戦争の失敗の事実を直視し、きちんと分析しておくことは必須です。
→アマゾンのレビューを読みました。54件ものレビューがついていました。まずこの数に驚きました。専門書では「ありえない」数字です。大半の方は、常識派・良識派のコメントをしていますが、一部、的はずれなコメントもありました。明日から本格的に大学の仕事が始まります。まるで季節労働者であるかのように、ある時期に仕事が集中します。1月はセンター試験の前後の2週ほどがもっとも忙しい週となります。
ひとりおおきく遅れて9時。おおきいちびに「仕事の日だったらパパ遅刻」と言われてしまいました。ヨミウリに次の記事がありました。
刑法犯の1割超が65歳以上
平成元年(1989年)には、約2・1%だったこの割合が、2005年に10・9%に達したという記事です。ただ、社会における65歳以上の割合が増えたということだけで説明できる事象ではありません。
犯罪者率も1989年には46人/10万人だったものが、2005年には165人/10万人と3倍以上に増えています。
記事には要因の分析はありませんが、今後の日本社会にとって意味の深い、重要な数字です。2007年問題(団塊の世代の大量退職)の話題がいろんなところで取り上げられています。
団塊の世代は、昭和22年生まれから昭和24年生まれを指すようです。
終戦の年(昭和20年=1945年)生まれの方は、今年62歳になります。
終戦の翌年生まれの方は、今年61歳になります。
そして、終戦の2年後生まれの方が、今年60歳を迎えます。そして、一般企業ではこの春に定年退職。
ちなみに、JMM の最新のニュースから数字を拾えば、今年60歳を迎える方は219万人。最近の出生数は1年に100万少しですから、ほぼあかんぼうの数の2倍ということになります。新成人の数が130何万人ということですから、新成人と比べても1.6倍程度となります。たまには出身地のニュース。
コウヤマキとトガサワラにライムと同じ香り成分
スギ科のコウヤマキとマツ科のトガサワラにライムと同じ成分が含まれていることがわかったというニュースです。それは「ゲルマクレンB」だということです。
ちいさいちびを除き、7時前後。昨日強く降った雨は上がっています。まったくの偶然ですが、今日3通の年賀状を出しました。これで用意していた年賀状がちょうど0となりました。
おひまな方は、あかんぼうの写真を探してみて下さい。この位置からだと10回ぐらいのリンクの先にアップしておきました。
かぞくそろって6時45分。雨。→一時強い雨。そしてどうも一日中雨。夕刻、昨日頼んだ次の3冊がアマゾンより届きました。
鴨下信一
『誰も「戦後」を覚えていない』文春新書、2005保阪正康
『あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書』新潮新書、2005山本夏彦
『誰か「戦前」を知らないか―夏彦迷惑問答』文春新書、1999
さっそく、鴨下信一氏の『誰も「戦後」を覚えていない』(文春新書、2005)から読み始めました。これは、圧倒的におもしろい。昭和20年から昭和25年までを扱っています。私は出生前ですが、両親が子供時代を送っています。こどものときに親から聞いた話は、まるで実体験したかのように覚えていることがあります。もちろん、私に餓えの体験はありませんが、繰り返される話によって鮮明なイメージが身体に焼き付いています。
鴨下さんの本から何点かデータを孫引きしておきます。
1.極寒。終戦の年(昭和二〇年=1945年)、東京の冬は非常に寒かった。
1月の平均気温が1.1度、2月が1.6度。
比較のために2000年を取ると、1月が7.6度、2月が6.0度。平均気温で1.1度は今の感覚では凍えるほど寒い。2.大凶作。昭和20年は未曾有の大凶作であった。米の収穫量は前年比68.8%、供出量は予定の23%。(大正、昭和期を通して最大の凶作)。これはたまらない。
3.大地震。終戦の前年(昭和19年)に東南海地震。死者はおそらく千人前後。
終戦の翌年(昭和21年)に、南海地震。死者1330人(異説では1362人)。家屋全壊2万戸以上、焼失戸数2598戸。4.預金封鎖。終戦の翌年(昭和21年)2月17日の朝、突然預金封鎖。セットで新円切り替え。さらに、臨時財産調査(3月3日)。
5.台風。終戦の年の秋(9月18日)枕崎台風が列島を縦断し、死者不明3756人、家屋損壊約9万戸。
昭和22年9月14日、キャスリーン台風が関東東北を襲い、死者不明1529人。
昭和23年9月15日、アイオン台風が関東東北を襲い、死者不明2794人。6.海難事故。終戦直後の8月22日、樺太引き揚げ船(奉東丸)、北海道沖で雷撃され沈没、死者667人。同じく8月22日、小笠原丸、第2新興丸も雷撃沈没、両隻で死者1041人。2日後、旧海軍輸送船(浮島丸)、舞鶴湾で触雷沈没、死者549人。
終戦直後、同様の沈没事故が相次ぐ。
終戦から9年後(昭和29年)、タイタニック号(1517名の死者)に次ぐ史上2番目の海難事故が生じる。青函連絡船洞爺丸が台風15号のなか出航し、座礁転覆。死者不明、1164人。他に、青函連絡貨物船の十勝丸、日高丸、北見丸、第十一青函丸もこの台風で沈没。5隻あわせて、死者1437人、行方不明者277人、生存者241人。7.鉄道事故。終戦直後の8月24日、八高線玉川鉄橋で列車が正面衝突、死者105人。9月6日、中央線笹子駅でブレーキ故障で列車が暴走衝突、死者60人。
終戦の2年後(昭和22年)2月25日、八高線高麗川駅近で列車が脱線転落、死者184人。
終戦の3年後(昭和23年)3月31日、近鉄奈良線花園駅で停車中の列車にブレーキ故障の列車が追突、死者49人。
終戦の6年後(昭和26年)4月24日、京浜東北線桜木町駅近くで木造の国電車両炎上。すしずめ状態の乗客はドアも窓も開けることができず焼死、死者106人。これほど集中的にひどい目にあった国は他にたぶんほとんどないでしょう。今からすれば、まさにこの世の煉獄です。
→ちなみに、私に父がしきりと話していたのは、昭和34年(私が1歳)のときの伊勢湾台風で、死者不明5098人。これはにわかには信じがたい数です。(管見では、昭和では最大の台風被害です。)次に、昭和36年(私が3歳)の第二室戸台風で、死者202人。なお、室戸台風(第1にあたります)は、昭和9年で、911.9ヘクトパスカルにまで達し、死者不明3246人。911.9ヘクトパスカルという気圧は驚異です。
ひとり遅れて7時20分。今日は去年から積み残した課題、すなわち、眼鏡の更新に行きます。
→朝一番ででかけることとしました。開店は10時。乗換案内で検索すると、西荻から表参道までは30分。歩く時間を入れて、1時間と計算して、9時に家を出ました。
電車の接続がスムーズにいったこともありますが、表参道から15分ぐらい歩く計算をしていたら、7〜8分でした。ということで、10分早くお店の前に到着。
仕方がないので、近所をぶらぶらしていました。児童館と保育園がありました。保育園はもうはじまっており、園庭であそぶこどもたちの声が響いていました。
開店と同時の(もしかしたら1番の)客となりました。
数字の上では、老眼がすこしだけ進んでいました。ワンランク上の度のレンズにしてもらうこととなりました。仕上がりは再来週の火曜日。
表参道ヒルズを見学したい気持ちもあったのですが、大学に郵便物を取りに行く必要もあって、そっちを優先しました。おそらく1時間程度で大学には着きます。
11時42分武蔵境発の電車に間に合いました。メールで授業の打ち合わせをしないといけないなと思っていた先生がちょうど電車に乗り合わせてきました。グッドタイミング! 電車のなかで打ち合わせをすることができました。
郵便物以外にとくに用事はなかったので、メールの処理と若干の書類の処理だけして帰途に。おなかがすいていたので、武蔵境駅側の、夜は飲み屋、昼や定食屋で、海鮮丼。
西荻駅からの帰り道、コンビニでおやつを買って帰ると家の前でちびどもが遊んでいました。あかんぼうがちょうど寝たばかりということでした。
持って帰った郵便物は編集委員会の仕事です。コーヒーを一杯飲んだあと、その郵便物の処理をして、郵便局に持っていきました。[占領下の日本]
去年の年末買ってきた次の本を読了。
鴨下信一『誰も「戦後」を覚えていない [昭和20年代後半篇]』文春新書、2006
もう少し歴史認識の問題があるかと思っていたのですが、これはこれで非常に興味深いものでした。
私は昭和33年生まれ。この本で扱われているのは、昭和25年から29年まで。私が生まれる前の日本です。私の父と母の青春時代でしょう。
私の基本的な動機は、占領下の日本のことをもうすこししっかりと知っておきたいというものです。鴨下信一氏の本の冒頭にあるとおり、この時代、「隣りの国では戦争をしていた」のに、日本は無視を決め込んでいました。そのように、今の日本はこの時代に対してどうも無視を決め込んでいる、あるいは、無意識に思い出すことを抑圧しているようです。
ひとりで6時。
可燃ゴミのスタートの日。外の落ち葉の分を含めて、4袋。いつもは2袋なので、妥当なところです。昼食後、近所に住む妹宅にお邪魔しました。甥っ子たちにお年玉をもっていって、ちびどもを遊ばせようと思ってのことです。
(一身上の都合で?)妹一人しかいませんでしたが、甥っ子たちは明日には帰ってくると言うことなので、お年玉を渡し、しばらくお邪魔をすることとしました。
あかんぼうは、甥っ子たちが家の各所においてあるおもちゃを早速手にしていました。ちびどもは、廊下と部屋をくるくる回って遊んでいます。途中からあかんぼうも参加していました。
私はただ炬燵に入って、巨大ザニガニを特集したテレビ番組をぼんやりと見ていました。我が家には炬燵がそもそもありません。ちびどももテレビで見た炬燵に入ってみたいとくるくる回りの合間に、炬燵にもぐっていました。
適当な頃合いを見計らって、妹宅の近くの公園へ。寒くなってきたのではやめに帰りたかったのですが、ちびどもが帰らないというので、あかんぼうと妻だけ先に帰宅。私はちびどもといっしょに公園に残りました。ちびどもはひたすら砂遊び。
あまり疲れさせるとあとであばれます。セイユウでたこ焼きを食べようと誘って、公園から去ることに成功しました。
ちびどもは、一船10個入りのたこ焼きをちょうど二人で食べきります。
駅前の本屋さんで、『週刊ポスト』と『論座』2007年2月号を買って帰ってきました。
かぞくそろって7時前。今日は寒さが緩んだようです。夜中、ちびどもがふたりとも毛布を蹴飛ばしていました。[初恋?]
ちびどもとの約束によって、朝から原っぱ公園にでかけ凧揚げ。
カイトなので風さえあれば、うまくあがります。でも、ちびどもは、ただ走ればよいと思っていたらしく、凧を見ないまま、円を描いて走ったり、往復運動をしたりしていました。
パパもやれというので、やってみました。確かにとてもよく揚がります。もともとついていた凧紐は100メートル。ほぼ一気に100メートルまで揚がりました。これだと紐さえあれば、相当の高さまで揚がります。
その間、あかんぼうは、はらっぱをあっちにうろうろ、こっちにうろうろして喜んでいました。近所のモスバーガーで昼食をとり、妻はあかんぼうを連れて、買い物をして帰宅。ちびどもはまだ凧揚げをしたいというので、もう一度原っぱ公園にもどり、凧揚げ。しかし、ちいさいちびがすぐに飽きて、遊具のあるところに。
おおきいちびは凧揚げに未練がありましたが、ちいさちびがもう帰ると言って1時過ぎに帰宅。
それほど寒くもなく、風も適当にあって、凧揚げにはちょうどよい日でした。
→表題は、ちいさいちびの発言からです。ちびどもがおもしろい遊具のあるちっちゃな公園で遊んでいるとき、あかんぼうは、そのまわりでただうろうろして遊んでいました。そのとき、近くのマンションから、ブーブー(幼児用の乗車可能なちいさな車。三輪車の前の段階。)を押して、1歳半ぐらいの女の子が出てきました。
ブーブーが大好きな我が家のあかんぼうは、うらやましそうにじっと見ていました。たとえば公園の砂場でみんなが遊んでいる状況だと平気で他人のおもちゃに手をだす子ですが、さすがに、ちょっと状況が違います。ほしい、でも手を出すのはためらわれるということで、ほんとうにじっと見ていました。
すると、出し抜けに、遊びを一休みしていたちいさいちびが「初恋!」と声に出しました。
女の子のお母さんも、妻も私も、思わず声を出して笑ってしまいました。
ひとりおくれて7時20分。曇り。
ちびどもがたこたこというので、朝、ユザワヤへ。ちびどもはたこ揚げの体験がありません。簡単なカイトを選ぼうと思い、1階で店員さんに尋ねると、けっこう時間をかけて問い合わせてくれて、結局、8階のおもちゃ売場にあることがわかりました。
お正月の遊具の一角にありました。もうすこし種類があるかと予想していたのですが、現実には1種類だけでした。差は色と絵柄だけでした。おおきいちびが100円ショップで買ってきたオセロをやりたがっています。もうすこしましな盤面をと思い、マグネットの携帯用オセロ盤、ならびにあかんぼうようにリモコンのチョロキュウを買ってやりました。
あかんぼうはそのかん、自由に動けるのがうれしいようで、あっちこっち冒険の旅でした。ちびどもはゲームをやっていました。
興奮しているとあかんぼうの昼寝の時間は遅くなりますが、それでも限度があります。あまり混まないうちに地下のラーメン屋さんでお昼ご飯を食べて帰宅。
あかんぼうがテーブルの上に登りたがるので、外ではなかなか落ち着いてご飯を食べることができません。たいてい私がはやく食べ終わって、あかんぼうの面倒をみる、という役割分担になってきています。→帰ってきてぐったり。50肩と肩凝りの2重攻撃がひどいので、さすがにお風呂のあと、痛み止めの効果がありそうなサロンパス系を肩にはってもらいました。
ちびどもは7時10分。私はひとり遅れて、7時40分。1歳1カ月を超えた(数え年では2歳)あかんぼうが、一段とパワーアップしています。性格的には楽な子ですが、これがおとこのこやんちゃるもんちゃパワーでしょうか、おねえちゃんたちがしかなったことをどんどんやってくれます。正月早々肩の痛みが増しています。
ちいさいちびの風邪もだいたいよいようなので、昼食後、買い物と初詣に行くことにしました。お正月も営業しているサミットが神社の近くで便利。と思って、妻の運転する車で近づくと、青梅街道がいつになく混んでいます。サミットの駐車場の一部を初詣のために解放していました。とてもあかんぼうの耐えられる行列ではなかったので、そのままぐるっと回って、別の神社の近くの駐車場へ。神社のなかにはいると、すごい行列。これもあきらめて、はらっぱ公園に向かいました。
いちばん喜んでいたのがあかんぼう。はじめてみるカイトを喜び勇んで追いかけていました。ちいさいちびはまだ体力が回復していませんでした。顔がまっしろ。
だいたいこの時期はこのぐらいの寒さですが、体力の回復していないちいさいちびにあわせて、はやめに帰ってきました。
2005年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2004年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2003年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2002年
12月
11月
10月
9月
7月〜8月
5月〜6月
3月〜4月
1月〜2月
2001年
11月〜12月
9月〜10月
7月〜8月
5月〜6月
3月〜4月
1月〜2月
2000年
11月〜12月
9月〜10月
7月〜8月
6月
4月〜5月
1月〜4月
1999年
10月〜12月
6月〜9月
4月〜5月
1月〜3月
1998年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
春(1月から5月)
1997年
97年度
最初のページ=
HomePageに戻る。