7時過ぎ。おおきいちびは、6時前に目覚めたようです。ちいさいちびは、7時半。あかんぼうはまたまた風邪です。咳と鼻水。今朝はうるさく泣いていたと思ったら、おおきいちびがでかける前に寝付きました。
こういうふうに気温の変化が激しいときは、体調管理がなかなかに難しい。
おおきいちびといっしょに6時半。ちいさいちびも、あかんぼうもすぐに起きてきました。今日、アマゾンより次の2冊が届く予定。
読売新聞20世紀取材班編『20世紀 高度成長日本』中公文庫、2001
亀井高孝・三上次男・林健太郎・堀米庸三編『世界史年表・地図』吉川弘文館、1995
最初のものは、読売新聞のもの。前半がGHQを扱っています(ちょうど半分ぐらいでです。)2つ目は、受験界では超有名な吉川弘文館のもの。
(→帰宅すると届いていました。)月曜日は、2限、3限、4限と3コマの授業。
大学につくと、下に紹介した次の本が書評用に届いていました。
芝哲夫『日本の化学の開拓者たち(ポピュラー・サイエンス279)』
裳華房、2006年10月、1575円(本体1500円+税5%)、ISBN: 4-7853-8779-3
目次は次の通りです。
1.日本の化学は宇田川榕菴によって開かれた−『舎密開宗』−
2.「化学」の語をはじめて使った川本幸民
3.長崎におけるファン・デン・ブルグの化学伝習−九州諸藩の化学技術−
4.わが国最初の化学講義録『ポンペ化学書』
5.日本の写真術の開祖 上野彦馬−『舎密局必携』−
6.日本最初の外国人化学教師ハラタマ
7.大阪に舎密局が開設される
8.舎密局から育った日本の化学の開拓者たち
9.京都舎密局を開いた明石博高
10.宇都宮三郎がわが国に化学工業を開く
11.日本の製鉄事業を始めた大島高任
12.日本の化学の発足に貢献したお雇い外国人たち
13.日本の化学会を創った人びと
14.火薬で日本を救った化学者下瀬雅允
15.世界ではじめてホルモンを結晶として分離した高峰譲吉
16.日本の薬学を開いた長井長義
17.うまみの化学成分“味の素”を発見した池田菊苗
18.最初のビタミンを発見した鈴木梅太郎
山田博士より、次の論文が届いていました。山田さん、ありがとうございます。
Toshihiro Yamada,
"Kircher and Steno on the "geosocm" with a reassessment of the role of Gassendi's works,"
in Vai, G. B., and Caldwell, W. G. E., (eds.),
The Origins of Geology in Italy: Geological Society of America Special Paper 411,
Geological Society of America, Boulder, 2006, pp. 65-80.
[今月はこれでやっと100枚]
6時までに全員が起床。すこしはやい。とくにちいさいちびがあばれないか心配です。
冷たい雨という天気予報がはずれたので、昼食後ちびどもを近所の公園に連れていきました。おおきいちびは昨日買ったばかりの一輪車。ちいさいちびは自転車。
公園にはちょうどよいつかまる場所があります。おおきいちびは、1メートルぐらいであれば一輪車に乗ることができるようになっていました。最長で5メートル。
練習を続ければ、今年中にかなり乗れるようになりそうです。
あかんぼうが歩くとの競争になる、と言ったら、頑張るそうです。朝方、アマゾンのマーケットプレイスに発注していた次の本が届きました。
竹前栄治『GHQ』岩波新書(黄)、1983[50件目]
ヨミウリにもアサヒにも次の記事がありました。
脳死判定50例目
法的脳死判定50例
1997年に成立した日本の臓器移植法は、10年目にはいったことになります。アサヒは単に「節目を迎えた」と記しています。
脳死・臓器移植そのものは、1999年2月が初例です。移植を受けた人は、総数で188人ということです。
ひとりで6時。5時に起きていたあかんぼうは、ミルクを飲んでまた寝ました。ちいさちびは、6時25分。おおきいちびは6時45分。昼食後、家族全員でどんぐり公園へ。私が自転車の前にあかんぼう、後ろにおおきいちび、妻が自転車の後ろにちいさいちびを乗せて出かけました。
天気がよかったせいでしょうか、割とおおくの親子が来ていました。ちいさいちびの幼稚園の同級生が2人もいました。
あかんぼうは、基本的には砂場で遊び、ちびどもは滑り台、岩場、砂場を行き来していました。
帰宅すると、『化学史研究』第4号のゲラが届いていました。初校です。文献特集号なので、全部にしっかりを目を通します。目にはかなり負担の大きい作業となります。
ずっと前からおおきいちびが「一輪車、一輪車」といっており、どうも小学校でずっと練習していて少しできそうになっているようです。それほど高いものでもないので(5千円前後)、今年のクリスマスプレゼントの前倒しとして買ってやることにしました。帰宅後、近所でもっとも大きな自転車屋にちびどもを連れてでかけ、一輪車を探しました。
14インチ、16インチ、18インチとあります。最初、14インチを出してくれました。本人がそれでよいというので、14インチを買って、練習のために小学校に行くと、どうも小さいと言います。ほんの2度しか見たことはありませんが、確かに私の記憶でも小学校で子どもたちが使っていた一輪車はもう一回り大きかった感じがします。
面倒ですが、またもとの自転車屋に戻り、16インチのものに変えてもらいました。
時間的に小学校の校庭開放は終わりに近づいていました。今度はそのまま自宅に帰ってきました。サドルを最も下になおして、あとは、天気がよいときに再挑戦です。明日は冷たい雨という予報なので、来週になるでしょうか。[二歩歩む]
もしかしたらこの子は10カ月で歩き始めるのではないかという勢いだった我が家の3番目の子は、昨日、立って2歩歩きました。はいはいの速度には驚くべきものがあり、ちょっと目を離したすきに、別の場所に移動します。幼稚園の砂場ではすでに大活躍ということで、先輩の幼稚園児をあいてにいっちょうまえになわばりを主張しているようです。おねえちゃんを迎えに幼稚園に行って帰ってくると、必ず砂まみれで帰って来ます。
おばあちゃんは、1歳になる前に歩き始めると予想していました。どうも、そうなりそうです。
→今朝は、幼稚園のおねえちゃんにつかまって歩きました。おねえちゃんがブーブー代わりです。そういえば、この子はなんでもブーブーにします。そう、自分の手につかめるものであれば何でもブーブーにして、押していきます。アサヒ.コムに次の記事がありました。
科学技術施策評価、47件にC評価
国際宇宙ステーションへのHTV輸送機の開発や新しい原子力技術を開発する革新的原子力システム技術委託費などがC評価となっています。日本には、GHQによって研究開発が禁止された分野があります。原子力(核技術)と航空・宇宙(ミサイル・ロケット)です。GHQの呪い(この事態をほんとうは呪いとは言わないと思いますが)でしょうか。
(S、A、B、Cの4段階評価でCですから、最低ということです。)来月、ポポが2週間来ることとなりました。私が外語祭期間中(外語祭の準備日に出発して、外語祭の後かたづけ日に帰国)に科研費でロンドンに出張するのにあわせて、来てくれることとなったものです。
数字で言えば、私の出張は、11月21日(火曜日)成田発、11月27日(月曜日)成田着です。ロンドンに5日間滞在します。
ポポの来日は、おそらく赤ん坊の1歳の誕生日から2週間。
かぞくそろって6時30分。昨日、大橋さんのサイトで次の翻訳書の出版が告知されていました。
マージョリ・リーヴス『中世の預言とその影響: ヨアキム主義の研究』
大橋喜之訳、八坂書房、2006年10月、菊判・上製・784頁、10,290円(本体9,800円)
高いのですが、ヨアキム主義に関心のある方には、必携でなないかと思われます。出版者の担当者より、科学史MLで次の本の出版が告知されました。
芝哲夫『日本の化学の開拓者たち(ポピュラー・サイエンス279)』
裳華房、2006年10月、1575円(本体1500円+税5%)、ISBN: 4-7853-8779-3芝さんは、もう高齢ですが、化学史学会の元会長です。日本化学史に関して、非常によい研究を続けておられます。たとえば、次の書物を見てみて下さい。
芝哲夫『ポンペ化学書:日本最初の化学講義録』
化学同人、定価5250円(税込)、ISBN4-7598-0997-X
この分野の最前線に立つ研究書と言えます。
『化学史研究』の最新号(2006年第3号)に、大野誠氏による力のこもった書評が掲載されていますから、書評だけでもお目通し下さい。芝さんの研究の価値がわかってもらえるでしょう。ウェブで検索をかけていたら、次の画像が見つかりました。
Daniel Sennert, Hypomnemata physica, Frankfurt,1636
目次は、次の通りです。
I. De Rerum naturalium Principiis,
II. De Occultis Qualitatibus,
III. De Atomis & Mistione,
IV. De Generatione viventium,
V. De Spontaneo viventium ortu,
pdf ではなく、1頁1頁の JPEG 画像ですが、全頁あるので、使えます。サットンさんのサイトでまだキャッチされていませんが、グーグルで簡単に見つかります。
同じサイトには他にも多くの書物の画像がありましたが、時間がなくて調べていません。調べてサットンさんに教えてあげるのは親切だと思います。
ちいさいちびといっしょに6時20分。おおきいちびは珍しく6時55分。お昼休みは、学生と面接。その後、いつも通り、午後3コマの授業。
5限終了後は、「表象文化とグローバリゼーション」でいつもお世話になっているラテン文学者野谷文昭氏をお誘いしてのごくろうさま、ありがとうございます会食。ほんとうに久しぶりにワインを飲みました。最初の1本は、香りの高い、おいしいイタリアの赤ワイン。あと2本は、不明。
亀山ゼミの院生諸子が4名参加。いろいろ興味深いお話が聞けました。
おおきいちびといっしょに6時20分。あかんんぼうはちょうどうんちをしていました。ちいさいちびはたぶん7時過ぎ。かなり気温が下がってきています。会議の日。午後1時からと午後2時半からの2つの会議が今日は予定されています。(教授会終了後にも、研究会&懇親会が予定されていましたが、それは、都合により取り止めととなりました。)
→5時28分多磨駅発の電車で帰ってくることができました。教授会終了が5時15分前。数字的には上出来です。一両日中に、17万アクセスを通過します。個人的にはターニング・ポイントの数字だと思っています。ブログに変更しようかと思っていましたが、現状ではその余裕がありません。体力が回復し、余裕ができた時点で、ウェブ2.0 へのチューニングを考えたいと思います。
研究室から次の2冊を持ち帰りました。
伊東俊太郎『近代科学の源流』中公自然選書、1978
樺山紘一『ヨーロッパの出現』講談社、1985
伊東俊太郎先生の本を読んだのは、1979年です。おお、私がまだ学部学生だったときのことです。この第4章に「ビザンツの科学」があります。教授会の最中、その部分だけざっと再読しました。110頁に次のようにあります。
「従来の西欧中心主義のために、ビザンツ史は西欧歴史学界の盲点となっており、あまりよく研究されていない。西欧史学をとり入れたわが国の西洋史学についてもこのことは言え、ビザンツ史の専門家は日本でもきわめて少ない。ビザンツの科学史もしたがって未開拓のことが多く、その本格的研究をおし進めるのは今後の重要な課題である。」
伊東俊太郎先生のもとからは、優秀な中世科学史家、アラビア科学史家、インド科学史家が巣立ちましたが、ビザンツ科学史家については寡聞にして知りません。
ポイントとなる点だけ要約しておきます。
9世紀のレオン(テッサロニカの大司教)によってはじめられたギリシャ科学書の写本の組織的収集と整理が重要である。「ギリシャの第1級の精密科学の今日残されている写本の系統をたどってゆくと、そのほとんどがこのレオンのコレクションにたどりつく。」
数学者には、アンティノエイアのセレノス。アレキサンドリアのテオン(4世紀後半に活躍)。エウトキウス(480年頃生)。トラッレイスのアンテミオス。
ネオプラトニストには、3つの派がある。ローマ派:アンモニオス・サッカス(3世紀)→プロティノス(エジプト生まれ、ローマで活躍)。
シリア派:ヤンブリコス(シリア生まれ)。
アテナイ派:テミスティオス(4世紀)。プルタルコス→イエロクロス→テオセビウス→シュリアノス→プロクロス→アンモニオス・マニノス→フィロポノス(6世紀前半)・シンプリキオス(6世紀前半)・ダマスキオス。>理想的な中世科学史(思想史)というものを考えてみます。
ラテン語ヨーロッパとギリシャ語東ローマ帝国とアラビアの3本立てであるべきでしょう。
時間としては、4世紀(330年ビュザンティウム遷都/395年東西ローマ帝国の分裂)から15世紀ぐらいまででしょう。もっともわかりやすい指標としては、東ローマ帝国の存在した395年‐1453年をとっておけばよいと思われます。
伊東俊太郎氏の書物は、「中世一千年間におけるギリシャ科学・ラテン科学・アラビア科学を統一的視野で捉えて、科学史の忘れられた空隙を初めて埋める」(帯の言葉)ものです。つまり、構成としては理想に近い。
もちろん、全部で11章ある著作のうち、ビザンツにはたった1章しか割かれていませんが、その時点(1978年)では、そもそもビザンツをひとつの柱として立てていることが慧眼だと評価されるべきでしょう。
残念なのは、『近代科学の源流』が中公自然選書として出版された1978年からもうそろそろ30年に達しようというのに、この書物を超えるものが出ていないことです。とくにビザンツに関しては、個別のモノグラフも論文もほとんど出ていないように思われます。
韓国の民主化宣言、1987年。
台湾の戒厳令解除、1987年。
北朝鮮は、2006年現在独裁制。中国は、2006年現在一党独裁制。
日本は、GHQによる間接統治が1945年から1952年まで7年間続く。
6時40分。朝方は、本格的な雨降り。
今日も小学校の学校開放日(参観日)。一度のぞきにいきます。→小学校をのぞいた(4限の生活の後半と給食配りの前半を見ました)あと、駅前の本屋さんで次の2冊を購入。
木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説 世界史研究』山川出版社、1995(2005)
古今書院地理統計編集部『世界と日本の地理統計 2005/2006年版』古今書院、2005
どちらも高校の参考書です。一昨日の夜、コンピューターが不調になり、しばらく使えませんでした。時間をかければ修正できる不調でしたが、修正にはかなりの時間がかかる。そのとき、机のまわりを見回すと、ふと、次の本が目にとまりました。
内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書、2006
先月末に買ってあった本です。修復作業はコンピュータに任せて、読み始めました。おお、これが、おもしろい。一昨日、昨日と眠くてよれよれになりつつ、読み進め、先ほど読了しました。
長野合宿のときにも、ドイツ史を専攻している学生の発表のときにも、どうしてヨーロッパ人があれほどユダヤ人を憎み、迫害するのか、理解できないとコメントしてきました。良心的な学者がワイマール期の失政(あるいは失政の原因)にナチズムに繋がるものを見出したとして、でも、ナチズムが行ったユダヤ人虐殺はそうしたものを大きく超えています。
内田氏の著作で、その点の納得がいったわけではありませんが、納得の扉の手前ぐらいまでには行ってくれています。
そして、内田氏は、アンリ・コルバンの名前をあげていませんが、私が昔コルバンを読んだときにもっとも印象に残った概念、「始元の遅れ」を別の仕方で使っています。
→普通、キリスト教は、善の存在を前提として、悪の存在を問います。悪とは何か?悪の原因は何か? しかし、レヴィナス=内田は、逆に、善の起源、善の根拠を問います。掟で禁じられているからしない、法律で罰せられるからしない、ということに善は存在しない。では? というふうに問題を立てています。Yさんの弔問に行ってきました。合掌。冥福をお祈りいたします。
6時40分。
昨夜から降り始めた雨ですが、朝方は小休止しています。ですが、空を見ると、今日は降ったり止んだりでしょう。[4万5千人のひとり]
朝方、寝不足のあかんぼうが騒いで、炊飯器のスイッチを押すのを忘れました。ということで、幼稚園にでかけるときお弁当をもたせることでできませんでした。いつもとおり、ちいさいちびを幼稚園に送ってから再び家に帰り、ご飯がたけるのを待ちました。
妻のつくったお弁当を幼稚園に届けてから、JRに。
と、次の放送。
西国分寺駅で男性飛び込み死亡
中央線で人身事故
私もその4万5千人のひとりとなりました。事故が起きたのが午前9時半。1時間近く電車が止まっていたということです。
西荻窪ですぐに総武線にして、ともかく三鷹まで行きました。総武線の車中では、三鷹から車をつかまえようかと思っていましたが、30分もあれば事故の処理はできるのではと考えて、中央線下り電車に乗って待っていました。割と長く待ちましたが、10時10分すぎにともかく隣駅の武蔵境まで電車を動かしますという放送。私は、武蔵境まででOK。武蔵境10時18分の西武線に間に合ったので、2限の授業にはちょうどでした。印刷センターで配付資料をコピーし、研究室に荷物を置き、階段を歩いて降りて、いつもの時間に教室に入ることができました。風邪が完治していないまま、授業をやると疲れます。帰ってくると、とくに肩ががちがちになっていました。妻も雨の中あかんぼうを抱っこしたまま幼稚園の誕生会、おおきいちびの学校開放(昔の参観日)と行ったり来たりして、腰と肩ががちがちになったと言っていました。
カラスがお隣の屋根の上でケンカをはじめて、一斉に7時前。この時間ならよいのですが、カラスはほんとうにこまりものです。
曇り。ずっと好天でしたが、そろそろ雲行きがあやしくなってきています。週明けは雨か。[日本特許で3冠王]
いくらか古い情報ですが、
日本が2004年の特許出願件数に関し、「国内」「国外」「人口100万人あたり」の3部門で世界のトップとなったという記事がありました。昨日届いた文庫版のサイード『オリエンタリズム』ですが、次の3点のあとがきを読みました。
杉田英明「『オリエンタリズム』と私たち」『オリエンタリズム』下、pp.343-377
杉田英明「平凡社ライブラリー版補論―『オリエンタリズム』の波紋」下、pp.378-387
今沢紀子「訳者あとがき」『オリエンタリズム』下、pp.388-395
杉田氏の解説論考はとてもよくわかります。文献もしっかり紹介されているので、この先を勉強するのにうってつけです。
→06.10.23 研究室で単行本を確かめました。同じ箇所に線を引いています。まあ、おそらく、そうなるでしょう。[有名ブログ]
最も有名なブログサイト、 きっこの日記を読んでいました。なるほど、これは、おもしろい。
ひとり遅れて7時過ぎ。あかんぼうは4時半とのこと、ちびどもは6時半。
今日も晴れ。
おおきいちびは相変わらず。37度5分の熱。気分が悪いと言っています。私は、元気はありませんが、まあぼちぼち生活はできます。→普段と比べて、効率が3分の1程度といった感じです。各所で話題のYouTubeを見学しています。まだ様子がうまくつかめていません。
夕刻、アマゾンより次の本が届きました。
エドワード・W.サイード『オリエンタリズム』上下、板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳、平凡社ライブラリー、1993。
上下2冊の文庫版です。もとの単行本(平凡社、1986)も持っていますが、来年度の授業で使おうと思い、文庫版も入手しておきました。
ちいさいちびといっしょに7時10分。あかんぼうは5時。おおきいちびは、6時半頃泣き始めました。どうもまた風邪の症状が出たようです。熱は微熱(37.5度)。
→学校は休ませました。朝は2時間ほど昼寝をしました。私も昨日から頭痛がします。こちらも軽い風邪の症状だと思われます。と思ったら、舌に腫れ物が。あれあれ、とほと。
午前中に書類を1件、処理したあとは、寝たり起きたり。松岡正剛氏の千夜千冊は、現在、アラビアのロレンス、すわなち、トーマス・エドワード・ロレンスの智恵の7つの柱を取り上げています。ロレンスを一度読むと、必ずまたロレンスに戻ってきます。
ひとりで5時55分。やっとジェイコムでもサーバー側で迷惑メールのフィルタリングをやってくれるようになりました。10月18日からサービススタートということで、昨夜さっそくジェイコムのアドレスに設定しました。
効果抜群。昨夜からひとつのメールもジェイコムのアドレスには来ていません。逆に言えば、ジェイコムのアドレスに来ていたメールは、99%以上、ジャンクメール・迷惑メールだったわけです。[『異境の発見』]
処理すべき書類が残って(山積?)していますが、手にとってしまった、樺山 紘一『異境の発見』(東京大学出版会、1995)を最後まで読み通しました。個人的には、中世ヨーロッパの隣のギリシャ、すなわちビザンチン帝国との関わりを記した第2部第3章がとてもおもしろかった。とくに、ゲミストス事件の記述に興味をひかれました。
中世から初期ルネサンスまで(樺山さんは1450年までを扱っています)、ギリシャ語を勉強しようと思えば、隣接する東ローマ帝国にでかければよかった(我々現代人の観点からすれば)が、中世ヨーロッパと東ローマ帝国(ビザンチン)との関わりは、ほんとうに細い線で、どういう人物がやってくるかという偶然(偶有性)に大きく依存していた。
そして、ヨーロッパにとって古代ギリシャは2重の異境であった、と表現しています。ポイントとなる点を少し、引用/紹介しておきましょう。
フィレンツェでヨーロッパ最初のギリシャ語教授をつとめたクリュソロラスの授業に出たレオナルド・ブルーニの証言から。
「七〇〇年にわたり、イタリアではだれひとりとしてギリシャ語を解さなかった。」(一八〇頁)
(とブルーニは記すが、南イタリアとシチリアは本来のギリシャ語圏でもあり、ギリシャ語が使われていた。また、ヴェネチアやジェノヴァのようは商業都市でもギリシャ語を使う者はいた。ただし、大学教育とはじめとする公式の教育システムのなかに、ギリシャ語は存在しなかった。)1.1347年頃。アヴィニオン教皇庁に、ビザンチン皇帝の使節として、カラブリアバルラームが来訪。ペトラルカに会い、ギリシャ語熱を遺した。
2.1358年〜59年頃。バルラームの教え子、レオンティウス・ピラトゥスがコンスタンティノープルからアヴィニオンを来訪し、その途上パドヴァでペトラルカに会う。フィレンツェへの来訪を請い、ペトラルカとボッカチオは、ピラトゥスから直接ギリシャ語を学ぶ。
3.1396年。コンスタンティノープルの貴族&古典学者マヌエル・クリュソロラスをフィレンツェ政府は招聘し、ギリシャ語教授として任命した。(ヨーロッパにおける最初のギリシャ語高等教育。)1403年帰国。7年間、ギリシャ語を教授。
4.1403年、帰国するクリュソロラスについて、グアリーノがコンスタンティノープルにおもむき、5年間滞在して、ギリシャ語を修得した。(ギリシャ語を留学によりきちんと身につけた最初の人文主義者。)
5.1419年。トレントに生まれ、ヴェネチアで名をあげたフランチェスコ・フィエルフォは、コンスタンティノープルに留学。7年間勉強。50名以上のギリシャ語写本を持ち帰る。
6.シチリアに生まれたジョヴァンニ・アウリスパ。2度、コンスタンティノープルに留学。238点ものギリシャ語写本を持ち帰る。1423年、フィレンツェのギリシャ語教授に招聘される。
7.1438年〜39年。フェラーラ-フィレンツェでカトリック公会議。ビザンチン帝国からの代表団に、ミストラのネオプラトニスト、ゲオルギウス・ゲミストスとその弟子のヨハンネス・ベッサリオンがいた。
ゲオルギウス・ゲミストスは、コンスタンティノープルに生まれたが、西ヨーロッパをふくむ各地を転々とした後、ミストラに定着。その間に、イスラム哲学とユダヤ教教学に触れ、ゾロアスター教について知識を得た。独特のネオプラトニズムの哲学を構想。自らをプレトン Plethon と名乗る。1439年、80歳を超えていたゲミストスは、フィレンツェの知識人の前で、『ノモイ』という壮大な形而上学的宇宙体系を提示。
このゲミストスのネオプラトニズムに打たれた人物に、メディチ家のコジモがいた。十数年後に、「プラトン・アカデミー」が誕生する。
ゲミストスは2年間滞在。1441年に帰国。
1453年、コンスタンティノープル陥落。すなわち、東ローマ帝国=ビザンティン帝国の滅亡。
→このタイミングがすごい。やっとヨーロッパにギリシャ語に対する関心が定着した、あるいは定着しつつあったまさにそのときに、ヨーロッパに隣接するギリシャ語世界(ビザンティン帝国)が崩壊したわけです。ただし、樺山さんは、思考を詰め切れていないままにこの本を出版していると思われます。些細な点ですが、アルコーランの翻訳者について106頁では「イングランド人ケットンのロバート」と表記し、122頁では「ロベルト・デ・ケテネ」と表記しています。もちろん「ロベルト・デ・ケテネ」は、ケットンのロバート(Robert of Ketton )のフランス語表示(Robert de Ketene)です。
8月29日にも記しましたが、気になるのでもう一度調べなおしてみました。そのときはウィキペディア(Wikipedia)の日本語版によって、チェスターのロバートを調べました。そして、ケトンのロベートと同一人物だという説を紹介しました。
しかし、今回英語版(Wikipedia, the free encyclopedia )を見てみると、"Some sources identify him(Robert of Chester) with Robert of Ketton"だが、英国内でチェスターとケトンはずいぶん離れた場所であり、またスペイン国内でもケトンのロバートはナヴァレ王国で活躍し、チェスターのロバートはセゴヴィアで活躍した、とあります。典拠として、Oxford Dictionary of National Biographyをあげています。
これで、ほぼ、ケトンのロバートとチェスターのロバートは別人だと見ておいた方がよいでしょう。ちなみに地理を。チェスターは有名です。イングランド中部、チェシャー州の州都。古称、Deva, Devana Castra。リバプールの南27キロ。ローマ時代に建設。
ケトンは、それに比べてかなりローカルです。(私の手持ちの地理事典に記載がない。)イングランド中部、レスターシャー州東部。オーカムから8マイル東、リンカーシャー州のスタンフォードの3マイル西にある村。[東ローマ帝国歴史地図]
こうした話題をしっかり追いかけるために必要なものは、そう、歴史地図です。大阪市立大学西洋史の井上浩一教授の次のサイトにわかりやすい地図があります。
「『劇場国家』ビザンツ帝国」の開講にあたって
これと現在の地図を見比べてみます。出発点、すなわち395年では、ユーゴスラヴィア、アルバニア、マケドニア、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、トルコ、シリア、レバノン、イスラエル、エジプト(現在の領域ときれいには対応しないので、その一部であることが多いのですが、面倒なので明示していません)をカバーする、地中海東世界でした。
565年、ずいぶん西地中海世界にも領地を広げ、ボスニア・ヘルツゴヴィナ、クロアチア、スロヴェニア、イタリア、リビア、チュニジア、アルジェリアまでを包含する巨大帝国となっています。象のように広大な帝国。
8世紀半ば、イタリアの南(長靴の甲より先の部分)、シチリア島、アドリア海に面した海岸線の一部、ギリシャのエーゲ海に面した部分、そしてトルコ。
11世紀はじめ。イタリアの南(長靴のくるぶしより下のあたり)、バルカン半島のほぼ全域、そして、トルコ。
14世紀半ば。滅亡の前ですが、現在のトルコのヨーロッパ側とギリシャの東半分ほどです。盛時と比べると、蟻のような面積です。
ということで、ずっと東ローマ帝国であったのは、コンスタンティノープルとその左右だけということになります。
ひとりで5時半。会議の日。大学院の専攻会議と教授会。
→大学院教授会はほぼ予定通り進行し、5時28分多磨駅発の電車に間に合いました。朝方は涼しかったのに、お昼頃からへんに暑い日となりました。暑さのせいで、帰宅すると子どもたちもかなり疲れていました。[東洋史の来歴]
羽田さんの本にあるとおり、日本の大学の歴史学部(普通は史学部や史学科)は、基本的に日本史、西洋史、東洋史の3本立てのようです。ウェブで調べてみると、東洋史と名前のついた学科、研究室、講座は非常に数多く存在します。
代表的なものとして、東大の説明を引用してみます。
「1904年に漢学科から独立した支那史学科は中国以外の東洋も研究対象とする実情にあわせて、1910年に「東洋史学科」と改称された。支那史学科から数えれば本専修課程は100年の歴史をもつ。当初は中国およびその周辺の西域・北アジア史が中心であったが、次第にその対象は東南アジア、南アジア、西アジア、中央アジアにもひろがった。」
つまり、1910年に東大には「東洋史学科」ができたということです。そして、それはもともとは中国史(当時の用語では支那史)を専門としていた、ということもわかります。スタッフの数が少ない大学では、東洋史を称しつつ、全員が中国史専攻ということもままあります。
東大の場合には、教授5名・助教授1名・専任講師1名の7名の他に、東洋文化研究所(&文学部文化交流研究施設)の7名が東洋史の研究・教育スタッフとなっていますから、「東は中国から東南アジア・インドをへて西は北アフリカに至る広い範囲」をカバーすることができているようです。
また大学院は、最近の改編の結果、「東アジアコース、南アジア・東南アジア・仏教コース、西アジア・イスラム学コース」という3コースに別れているようです。南アジア・東南アジアに仏教をくっつけ、西アジアにイスラム学をくっつける、苦心の3コース分けです。(仏教は仏教学ではなく、仏教。イスラム学は、イスラームでもイスラーム教、イスラーム宗教ではなく、イスラーム学。改編時には、名称でずいぶんもめたのではないでしょうか。)次は大阪大学の事例。
ちょっと意外なことに、大阪大学の文系は、戦後のスタートです。1948年の大阪帝国大学法文学部設立に始まります。そのときの史学科は国史学講座だけでした。
翌1949(昭和24)年新制大学の文学部となり、史学科には、東洋史学講座、西洋史学講座がおかれます。さらに、1966(昭和41)年、史学科に西洋近世史講座がおかれます。1979(昭和54)年には、史学科にアジア諸民族史講座がおかれます。
現在の阪大の東洋史ですが、スタッフが5人で、中国2人、内陸アジア史2人、東南アジア1人という構成だそうです。やはり、中国とその周辺というコンセプトだと言えるでしょう。
基本的には、西洋史、東洋史、日本史という3本立てと見てよいでしょう。
おおきいちびに起こされて6時20分。雲は多いが、晴れ。今日の幼稚園は芋掘り。どこの幼稚園でもやっている人気行事のようです。
正午すぎに、芋をもって帰ってきました。おおきいちびがサツマイモ大好きです。(あばあちゃんによれば、おじいちゃんがサツマイモ大好きで、魚が好き、野菜が好き、という点も含めて、おおきいちびの食の好みはおじいちゃんに似たようです。)洗って、芋の素揚げをつくっておいてやりました。見た目はお店においてあるものほどよくありませんが、甘くておいしい芋でした。
夕食時、妻が芋のみそ汁をつくると、ちびどもはおかわりをしていました。個人的には、関東ローム層という土がサツマイモに適合しているのかな、と思います。
ちいさいちびといっしょに6時40分。風邪をひいているあかんぼうとおおきいちびがさきに起きていました。まだ咳と鼻水がなおりません。
青空。
2限、3限、4限と3コマの授業。帰り着くと、アマゾンのマーケットプレイスより次の本が届いていました。
樺山 紘一『異境の発見』東京大学出版会、1995
さっそく読み始めました。私にはこういう本が必要でした。まず、先行研究が序の部分できちんと明示されています。
サイードの『オリエンタリズム』(平凡社、1986)と彌永信美氏の『幻想の東洋』(青土社、1987)と阿部謹也氏の『中世賤民の宇宙』(筑摩書房、1987)の3点です。
テーマをひとつにしぼっています。ひとつの文明が別の文明をどのように「発見」(認識)するのか、いかなる像をもつのか? ということです。いわゆる「他者認識」という点に問題をしぼっています。帰宅前に駅前で、おもしろ地理学会『世界で一番おもしろい地図帳』(青春出版社、2005)を買って帰りました。世界史の哲学の再検討のためには、地理の知識のサーベイが必要になったからです。
[東か西か? ii]
この書物に、「トルコはアジア? それともヨーロッパ?」という節があります。私の言葉に直せば、「トルコは、東か西か? 」もちろん、トルコは地理的にはアジアに参入されます。ただし、国土の3%はヨーロッパ側にあります。
そして、ワールドカップのときに話題になりましたが、予選は、アジア地区ではなく、ヨーロッパ予選に参加しています。すなわち、FIFA の区分では、ヨーロッパということになります。
そして、イスタンブール(かつてのコンスタンティノープル)は、東ローマ帝国の首府でした。そうです。ヨーロッパのオリエント認識を問題にするとき、まず、ひっかかるのは、東ローマ帝国の存在です。日本では、「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」とも呼ばれる「東ローマ帝国」です。
ヨーロッパの東方認識において、「東ローマ帝国」が奇妙に影の薄い存在とされています。もっと強い言葉で表現すれば、奇妙に軽視されています。
ここから、ヨーロッパのオリエント認識の問題が始まる、と言ってよいでしょう。
→ヨーロッパにとっての、内なる東、内なるアジア、内なる異邦、という観点も考慮する必要があります。
ちいさいちびといっしょに7時15分。あかんぼうとおおきいちびはとっくに起きていました。おおきいちびの熱は下がりました。しかし、まだ鼻づまりと咳が残っています。あかんぼうは、運動会で身体が冷えたようです。また、よく咳をし、鼻水をおおく流しています。元気ですが、こういう場合、とてもうるさい。おやつ時に買い物にでて、駅前の本屋さんで、『中央公論』11月号、『文芸春秋』11月号の2冊を買ってきました。
あかんぼうが起きて、5時15分。あかんぼうはいたって元気。
私は、一晩寝ると昨日の疲れはとれましたが、一昨日からの口内炎がまだなおりません。理事会・編集委員会の日。→なかなか難しい問題があり、3時にスタートして、7時半に終了。残ったメンバーで夕食をともにして、帰宅して10時過ぎでした。
[オリエントは東か西か]
羽田正『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会、2005)から。
イスラームの表象を追いかけていて、ずっと気になっていたことがあります。それは、オリエント(中近東)は、西か東か、ということです。言葉の意味からすればもちろん東なのですが、ヨーロッパかアジアかというふうに言えば、むしろヨーロッパと思われる節もある。(言語的に言えば、インド-ヨーロッパ語族を西とすれば、インドまでヨーロッパ。)
261頁で、羽田氏は、学校教育の場における西アジアの扱いを取り上げています。その内容を紹介しましょう。
まず、日本では、西アジアの歴史は当初西洋史の範疇で扱われ、教えられていた。
そして、東洋史と西洋史という世界史記述の2軸ができたとき、本来、西アジアは東洋史に含められるものであった。しかし、イスラーム勃興以前の西アジア(古代オリエント)は、西洋史学が手放さず、イスラーム勃興以前の西アジア史は古代オリエント史として西洋史が扱い、イスラーム勃興以降の西アジア史は東洋史で扱われるという、なんとも不思議な事態が生じ、それが今に至るまで続いている。
そもそも、「古代オリエント」という術語がかなり変な術語ですが、上の指摘でひとつのもやもやがすっきりしました。
日本の学校教育のなかでは、西アジア(中近東)は、西と東の両方で扱われており、一貫性に欠ける、ということでした。
また、そもそも、「東洋史」という枠組みが違和感を感じさせる大きな要因です。私の大学には、「東洋史」出身の研究者が少なくありませんが、え、それがどうして東洋史?と思ったことを、思い出しました。つまり、大学の制度になかでは東洋史が確立していますが、一般の認識のなかで、「東洋史」という言葉はほとんど用いられない、その矛盾がこういう違和感となって出来します。さらに、「世界史」という枠組みそのものについて。私は、中学生や高校生の頃から、「世界史」という教科に違和感を感じていました。いまでも違和感を感じます。
その違和感の生まれる場所のひとつが、この本でわかりました。そもそも、世界中で、「世界史」という科目が正規の教育課程とくに小・中・高の教科として教えられているのは、どうも日本だけのようです。たいていの国は、自国の歴史とその周辺を教えているということです。これはこれでよくわかります。(たぶん、多くは自国中心主義でしょうが、国民国家のなかの事業としての義務教育で教えられるのであれば、そうなりやすい。)
それに対して、日本では、基本的に「日本史」と「世界史」に分けて歴史が教えられます。私は、この分け方(日本も世界の一部である!)そのものもおかしいと思いますが、「日本史」には「世界史」よりもずっと強い違和感を感じます。
私のこの探究の出発点となった彌永さんは、あとがきで血なまぐさいキリスト教がどうしても好きになれない、と書かれていますが、それに倣っていえば、日本で教えられている「日本史」も「世界史」も好きになることができません。強い反感ではありませんが、こんな歴史は嫌だな、こんなのは嫌いだという感情を拭い去ることができません。
そう、思い起こせば、日本の教育システムのなかで私が理科系を選んだ理由のひとつが、「社会科」嫌いでした。とくに、「歴史」に違和感を感じていました。
子どもながらに感じたことですが、「歴史」の教科書に書かれている歴史は、人間の歴史ではない、これはおかしい、と思っていました。今でもその直感/直観は、私のなかにあります。お昼過ぎに、アマゾンのマーケットプレイスに発注した次の本が届きました。
羽田正『勲爵士シャルダンの生涯―十七世紀のヨーロッパとイスラーム世界』中央公論新社、1999
5時40分。あかんぼうは起きていました。おおきいちびは、昨夜、鼻がつまるのか、かなり苦しそうにしていました。
先週の延期で、今日はちいさいちびの幼稚園の運動会。幼稚園ですから、午前中で終了します。
→車ででかけて、集合の15分前に会場に着きました。ちょうどよし。
かけっこは、男の子2人とくんで3人で走りましたが、1番になるという言葉とおり、1番になりましたが、紅組と白組に別れての、玉入れ合戦には完敗していました。おねえちゃんも白で完敗だったので、今年は白が完敗する年でした。
運動会観戦といっても、我が家の場合は半分はあかんぼうの世話。幼稚園のお母さん方で何人かあかんぼうの相手をしてくれる方がいます。あかんぼうは、あそんでくれるとうれしくて、すぐになついています。午後7時。おおきいちびは、とうとう発熱。38度前後。ちいさいちびは運動会の疲れでわけもなく泣いています。あかんぼうは、おねえちゃんが泣くと、いっしょに泣きます。私は風邪がなおらないまま運動会に行って、けっこう疲れました。
ということで、ちびどもは7時半に就寝させました。ふとんに入ってからもうすこしぐずるかと思っていましたが、5分程度で寝入りました。
9時半。上で泣き声がすると思ったら、おおきいちびでした。熱が上がっていました。アイスノンを枕に、冷えぴたをおでこに、濡れタオルを顔の上面に。
11時半。おおきいちびは汗をべったりかいて、着替えました。足の裏、手の平まで熱くなっていました。ヨミウリにJR西荻窪駅で人身事故の記事がありました。午前11時20分ごろ総武線で投身自殺のようです。
6時半。おおきいちびはたぶん6時前。ちいさいちびは7時。昨日の夕方曇っていた空は再び晴れています。午後3コマの授業。いつもより1時間早めに家を出ました。まず、近所の郵便局で4点を郵送。すべて編集委員会の仕事です。大学に着いてからはコピーをとる作業をしました。その後、研究室の片づけ。図書館、生協。
軽い風邪ですが、直らないまま授業を行うのは、すこししんどい。
ほぼ定刻に帰宅。おおきいちびが風邪気味ということです。やれやれ。
7時。昨日からすこし風邪気味。風邪の症状は、軽い頭痛、倦怠感、そして鼻水。無理をすれば、普通に働ける程度の軽い風邪の症状ですが、今日は明日明後日に備えて、ゆっくりめでいきます。昨日読み始めた、羽田正『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会、2005)を午前中に読み終わりました。とてもよい本です。私が今考えていたことに直接関わる、よい見方とよい材料を提供してくれています。
21世紀に入って、日本でもあまりにも多く語られるようになった「西欧対イスラーム世界」という2項対立図式に不満を持っている方は、是非、読んでみて下さい。
著者の主張をもっとも短くまとめれば、次のようになるでしょう。
「イスラーム世界」というものは、イデオロギーであって地理上に実在しない。正確な表現を欲するのであれば、「イスラーム世界」という術語は使わないのがよいであろう。
7時。おおきいちびとあかんぼうは起きていました。ちいさいちびは8時前。あかんぼう、ちいさいちび、私の3人は、鼻水。
ちいさいちびの幼稚園にあわせて、あかんぼうはお医者さんへ。子どもたちが大勢風邪をひいていたということです。これだけ朝夕の寒暖差があると、風邪をひきやすい。
7時15分。抜けるような秋の青空。おおきいちびとあかんぼうはとっくに起きていました。ちいさいちびは、8時。ほとんど入れ替わりに、あかんぼうが昼寝。
私の起床が遅くなったのは、昨夜、萩尾望都の『バルバラ異界』全4巻を読み通したせいです。すごい。好天なので、あかんぼうが朝の昼寝から目覚めたあと、ちびどもを新宿御苑に連れていってやることとしました。
新宿駅のなかのお店で、おにぎりとお弁当を買って、公園へ。
公園に着いてすぐにお弁当。
東京ガスの後援する、エコレンジャーの催しもの(正式には、新宿御苑100周年記念・東京ガス環境イベント「どんぐりとエコライフ」)を見て、帰途へ。催しのある場所から入口=出口に向かう途中、あかんぼうは睡眠につきました。入口の広場で、30分以上休んでから、駅に向かいました。その途中、あかんぼうは目が覚めました。
西荻駅に着いた後、セイユウへ。妻が買い物をしている間、ちびどもはたこ焼きを食べていました。
6時。あかんぼうはもう起きていました。おおきいちびは6時15分、昨夜寝付いたあと何度も暴れたちいさいいちびは、7時過ぎ。昨日に続き、快晴。一昨日買った坪内祐三氏の『同時代も歴史である:一九九七年問題』を朝方読了しました。直接一九九七年問題を扱っていたのは、最後のエッセイだけでしたが、基本的にはどのエッセイも現代史=二〇世紀後半から現在の歴史をテーマとしています。
1979年とは、どういう年か? ソビエトのアフガニスタン侵攻は、授業でも話しているので意識の前面にありました。しかし、1979年の2月11日に起きたイラン革命(亡命先のパリから帰国したホメイニ師を民衆は大歓迎した)は、意識の前面にはありませんでした。翌年(1980年)西側諸国は、モスクワオリンピックをボイコットします。
そして、1980年9月、シーア派の革命の浸透を恐れたイラクのフセインとの間で、イラン・イラク戦争が勃発しています。そのときアメリカはフセインを軍事的に支持した。
内容的に私が一番感心したのが、「軽い帝国」が行使する「まだましな悪」。批評家マイケル・イグナティエフについての章です。晴れてはいても、かなり風が強かったのですが、ちびどもをすこし青空のもとで遊ばせたほうがよいだろうと、井の頭公園に連れていってやりました。
ちいさいちびの体調がまだまだなので、車ででかけました。一番近い駐車場は満車でしたが、マルイの地下が空いていました。例によって、お団子を食べた後、アニメフェアを見に行きました。ステージの上でやっている演目を一生懸命見ていました。
その後、船、船とうるさいので、ボートに乗せてやりました。私と、おおきいちび、ちいさいちび。ちいさいちびがハンドルを握りたいというので、真ん中に座らせ、両サイドでペダルを踏みました。
湖の端っこまで行って、帰ってくることにしましたが、帰りが逆風で相当もどされます。明日のことが心配になるほど、頑張ってペダルを踏みました。強く風が吹くときは、それこそ1メートルも進まないことがありました。定刻の30分以内に発着場の戻れるか、というところまで風が吹きましたが、なんとか頑張って、3分前に着。
けっこう足に疲労が残りました。夕方、アマゾンから次の本が届きました。
羽田正『イスラーム世界の創造』東京大学出版会、2005
6時。あかんぼうは先に起きていました。ちびどもは、6時20分、6時30分。
昨日の雨は、台風がもたらしたもので、そこいらじゅうに葉っぱが落ちています。台風一過の青空とはいきませんが、それでも、雨が上がり、晴れ間が見えています。夕刻、アマゾンから次の漫画が届きました。
萩尾望都『バルバラ異界』1〜4,小学館、2003-2005こどもたちが見たいというので、夕方から日本テレビの芸能人社交ダンス番組を見ていました。あかんぼうは、ある種の音楽に反応し、座ったまま踊ります。あ、おどっているよ!
風邪がはいりかけている、あるいは疲労が残っていたちいさいちびは、そのままソファの上で寝入りました。途中から目がとろんとしてきたので、これは寝るな、と思ったら、だいたい真ん中頃に寝入りました。
ちいさいちびといっしょに7時。大雨。雨中、本屋さんへ。『論座』11月号と次の本を買ってきました。
坪内祐三『同時代も歴史である:一九九七年問題』文春文庫、2006
ちびどもには『チャオ』。あかんぼうは今日で3日連続お風呂に入っていません。そう、軽い風邪です。鼻水と咳だけですが、3日前から。本人はいたって元気ですが、こどもはだいたいそういうものです。
夕食後休んでいるとちいさいちびが頭が少し痛いと言います。もしやと思い、熱をはかると37度5分。風邪のはじまりの熱です。
ほぼそろって6時半。昨日と同じ様な曇り。
ちいさいちびの5歳の誕生日。ちいさいちびが幼稚園に行く頃に雨が降り始めました。明日の幼稚園の運動会もどうも雨天順延となりそうです。木曜日の授業は、今日が後期の最初。
やはり、普通のスタートでしょうか。
帰宅すると、明日に予定されていた幼稚園の運動会は延期になったということでした。この雨ですから、仮に明日雨が上がっても、とても無理です。
7時。あかんぼうは、うんちが固くなり、おしりが痛いと泣いていました。おおきいちびはたぶん30分前。ちいさいちびは、8時。よく寝ました。
とりあえず雨模様ですが、雨は降っていません。会議の日。今日は、午後遅くに大学院教授会。
→4時半に始まった大学院教授会ですが、5時20分に終了しました。いつもこのようだとなんとうれしいことでしょう。[カラマーゾフの兄弟新訳]
会議の席で隣に座った亀山郁夫氏から、新訳を頂きました。いつも、ありがとうございます。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟1』亀山郁夫訳、光文社、2006[コモンプレイス]
後期の大学院のテキストとした本を繰っていたら、R. Yeo が Cyclopaediaの初版(1728)から次のパッセージを引用しているのに出会いました。明快な定義だと思われるでそのまま紹介します。
"COMMON-PLACES, Adversaria, among the Learned, are a Register, or orderly Collection of what things occur worthy to be noted, and retain'd in the Courese of a Man's reading, or Study; so despos'd, as that among a Multiplisity of Heads, and Things of all Kinds, any one may be found, and turn'd to at pleasure.".
(Richard Yeo, "Encyclopaedic knowledge", in Books and Sciences in History, on p.219.)
そして、ジョン・ロックがもともとフランス語で著し(1678)、1706年に英訳で出版されたA New Method of a Common-Place-Bookからも適切な引用を行っています。
これはまえからほしいと思っていたものです。ウェブで検索をかけると真っ先に pdf とhtml のページが出現しました。というわけで、John Locke , A New Method of a Common-Place Book, in vol. 2 of The Works of John Locke in Nine Volumes, (London: Rivington, 1824) がpdf と html で入手できました。ついでに次のものもダウンロードしておきました。Locke, John (1632-1704)
Oeuvres diverses de M. Locke
par J. Le Clerc
2 vol. (CXIX-329-420 p.) ; in-12
Amsterdam : J. F. Bernard, 1732
おおきいちびといっしょに7時。雨は上がっています。いちどめざめていたあかんぼうはまた寝付いていました。あかんぼうを連れて、駅前まで散歩。帰りに、『月刊現代』11月号、ならびに次の本を買いました。
五木寛之『霊の発見』対話者:鎌田東二、平凡社、2006
→実際には、五木寛之と鎌田東二の対話でした。ふたりとも話したことがらの何十倍もの知識がある方ですが、一種の啓蒙書を目指したのでしょうか、耳から聞いてわかる話だけでした。自宅で『月刊現代』を読んでいると、次の本が届きました。
M.J.L. Young, J.D. Latham and R.B. Serjeamt, eds.,
Religion, Learning and Science in the 'Abbasid Period
(The Cambridge History of Arabic Literature)
Cambridge: Cambridge University Press, 1900
6時。雨。あかんぼうはとっくに起きていました。
後期の授業始め。授業があると(今日は、学部の講義が1つと大学院のゼミが2つあります)朝がけっこう忙しい。
→普通の開始でした。大学には、次のものが編集者の相馬伸一さんより届いていました。相馬さん、ありがとうございます。
『コメニウス』第16号(2006)
表紙には、―『光の道』掲載開始―とあります。Via Lucis, 1668 を数回に分けて、すべてを掲載する予定のようです。他に、論文として、藤田輝夫「コメニウス小史(2)」pp.1-56;相馬伸一「デカルト書簡の発見をめぐって―コメニウス研究へのインパクトを考える―」pp.57-68、ほか研究情報・文献目録があります。図書館で次の文献複写物を受け取りました。
John Murdoch, "The Analytic Character of Late Medieval Learning: Natural Philosophy without Nature", in Lawrence D. Roberts, ed. Approaches to Nature in the Middle Ages(Binghamton, NY.,1982), pp.171-213
また、相互貸借で次の本を借りました。
C.H. Leijenhorst, C.H. Luthy and J.M.M.H. Thijssen, eds.,
The Dynamics of Aristotelian Natural Philosophy from Antiquity to the Seventeenth Century,
Leiden: Brill,2001
帰宅すると、次の本が届いていました。
G.A. Russell ed.,
The 'Arabick' Interest of the Natural Philosophers in Seventeenth-Century England
Leiden: Brill, 1994
1986年、ロンドンのウェルカム医学史研究所で開かれた国際会議の結果だとあります。目次は次の通りです。
G.A. Russel, Introduction: The Seventeenth Century: The Age of 'Arabick'...1
P.M. Holt, Background to Arabic Studies in Seventeenth-Century England...20
Alastair Hamiloton, The English Interest in the Arabic-Speaking Christians,...30
Vivian Salmon, Arabists and Linguists in Seventeenth-Century England,...54
H.T. Norris, Edmund Castell and His Lexicon Heptaglotton (1669),.....70
Robert Jones, The Medical Oriental Press (Rome 1584-1614) and the Impact of its Arabic Publications on Nothern Europe,....88
Mordechai Feingold, Partons and Professors: The Origins and Motives for the Endowment of University Chairs - in Particular the Laudian Professorship of Arabic,....109
Colin Wakefield, Arabic Manuscripts in the Bodleian Library: The Seventeenth Century Collections,....128
M.B. Hall, Arabick Learning in the Correspondence of the Royal Society 1660-1677,...147
Raymond Mercier, English Orientalists and Mathematical Astronomy,...158
George Molland, The Limited Lure of Arabic Mathematics,... 215
G.A. Russell, The Impact of the Philosophus autodidactus: Pocockes, John Locke and the Society of Freinds,..... 224
Andrew Wear, English Medical Writers and their Interest in Classical Arabic Medicine in the Seventeenth Century, ....266
Williman Newman, Arabo-Latin Forgeries: The Case of the Summa perfectionis,... 278
John Harvey, Coronary Flowers and their 'Arabick' Background, ...297
6時10分。あかんぼうはずっとはやくに起きていたようです。ちびどもは、6時半と7時。曇り。昨夜のうちに、次の岩波文庫が届いていました。
内村鑑三『地人論』岩波文庫、1942
戦前のものにしたら、まずまずの状態です。文字は右から左。
まったくの偶然でしょうが、このサイトで取り上げている箇所に、栞のひもがはさんでありました。129頁。おっと、48歳になってしまいました。
→ちょっと計算してみました。私が65歳になったとき、おおきいちびは24歳、ちいさいちびは22歳、あかんぼうは18歳です。あかんぼうはちょうど大学生活が始まるときにあたります。朝一番で吉祥寺にでかけました。
ちびどもは、『きらりん』、私は、2006年度の『天文年鑑』の他に、次の2点を購入。
ルドルフ・シュタイナー『聖杯の探究:キリストと神霊世界』西川隆範訳・解説、イザラ書房、2006
山岸凉子『舞姫 テレプシコーラ9』メディアファクトリー、20062005年(2004年8月〜2005年7月)国別人工衛星打ち上げ数。
(データは、2006年度の『天文年鑑』より、その人工天体の項)
ロシア:23
アメリカ:21
中国:8
フランス:6
インド:3
日本:2
スペイン:2
ヨーロッパ宇宙機構:2
イスラエル:1
インテルサット:1
総数:69
特徴としては、久しぶりにロシアの打ち上げ数がアメリカを上回ったこと(昨年に続き)、中国が宇宙開発において第3番目の地位を確立しつつあること、全体に少ないことがあげられるでしょう。
日本の2機ですが、ひとつは、2005年2月26日やっと打ち上げに成功した MTSAT-1R (運輸多目的衛星)です。ひまわり6号がこれでやっと稼働しました(6月28日より正式運用。)(1999年11月15日 H-II ロケット8号の打ち上げ失敗により、ひまわり5号が寿命が尽きた後も働き、さらにアメリカのゴーズに代わりの仕事をしてもらっていたといういわくつきの衛星です。)
もう1機は、7月10日打上のアストロE2です。2000年2月に打ち上げに失敗したAstro-E の代替衛星で、X線天文衛星です。
同じ時期に落ちた(大気圏に再突入し、消滅した)人工衛星の数は、66機。増えたのは実数で3機ということになります。
2005年打上衛星のなかで、目立つのは、2005年1月13日(日本時間3時47分すぎ)にナサがテンペル第1周期彗星に向けて打ち上げた探査機『ディープインパクト』(映画の名前でも馬の名前でもありません!)。ケープカラベラル空軍基地から打ち上げられ、アメリカの独立記念日に彗星に到着し、重さ370Kgのインパクターを放出し、テンペル第1彗星の核に衝突させた。
失敗したものですが、ロシアの原子力潜水艦から発射された世界初の太陽帆船『コスモス 1』も注目に値します。
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