6時。あかんぼうははやかったもよう。居間に降りると元気いっぱい。そういえば、今日は4月の最後。もうすぐ連休ですが、カレンダーを見てみると、木曜日と金曜日は連休の影響を受けず、休みなしに続きます。授業のリズムからすると、4月に始まっていきなり休みになるよりも、すくなくとも3カ月は同じリズムを継続する方が望ましい。とくに、東京外語のように、語学を中心とする教育機関はそうだと思います。連休は休まずに、その分夏休み前にもっていく、なんてことを提案したら、同僚の先生方からも学生諸君からも一蹴されそうです。
個人的には、でも、この時期には休まない方がよいと考えます。[スウェーデンボルグ]
前にスウェーデンボルグのことは調べたと書きましたが、2次文献までは手が回っていませんでした。今一度調べ直しています。
手元に荒俣宏編の『世界神秘学事典』があります。スウェーデンボルグの項を読んでみました。まず、表記ですが、「スエデンボルイ」。読むと、「スェデンボルグ全集」(静思社)と言う文字があります。日本では全集と言っても著作集であることが多いので、ただちに全著作の邦訳があるとは考えることができませんが、それでも調べてみる価値はあります。検索をかけ直しました。やはり、(人名のカタカナ)表記が壁となります。
「スエデンボルイ」
「スェデンボルグ」
「スエデンボルグ」
「スウェデンボルグ」
「スエーデンボルグ」
「スウェーデンボルグ」これは、「ラヴォワジェ」の例よりひどいかもしれません。nii で調べが付く範囲では、科学者・物理学者・鉱物学者としての著作は、邦訳されていない模様です。ほんとうにスウェーデンボルグの科学文献を直接読んだ研究もない模様です。今のところ、ベックの『鉄の歴史』にあるのが一番優れていると思われます。
父の名は、Jesper Swedberg (ジェスパ・スウェドベルクと表記されています)。1709年ウプサラで博士号を取得したあと、4年間、イギリス、オランダ、フランスを旅して回った。1716年、鉱山庁(Bergkollegium) の補佐官(Assessor)に任命される。ながくスウェーデンの鉱山を見て回ったあと、1721年から15ヶ月間、ニーダーランド、ハノーヴァ、ザクセン他のドイツの鉱山を調査旅行した。
1733年には、プロイセン、ザクセン、ベーメン(ボヘミア)、オーストラリア、シュタイエルマルク、ハンガリーの鉱山(採鉱冶金場)を訪れた。
その成果が、Opera Philosophia et Mineralia(1734) 。この書の鉄の部分(De ferro)は、ベックによれば、「鉄冶金学の最初にして最古の教科書である。」(138頁)。フランスでは特に重視され、一部はフランス語に訳されて、科学アカデミーの「工芸叢書」に利用された。(Justi が翻訳し、Bertrand が複製したものではこの部分は削除された、とあります。)→08.5.1 私のサイトを調べ直しました。2005年9月にスウェーデンボルグの鉱物書について言及しています。
Swedenborg, Emanuel.
Miscellanea observata circa res naturales & praesertim circa mineralia, ignem & montium strata.
Lipsiae, 1722
Swedenborg, Emanuel.
Opera philosophica et mineralia.
Dresdae, [1734]. (1541pp. 3 vols.)
v. 1, pt. 1: Principia rerum naturalium
v. 1, pt. 2: Examen principiorum rerum naturalium
v. 1, pt. 3: Principiorum rerum naturalium
v. 2, pt. 1: Regnum subterraneum sive minerale: De ferro
v. 2, pt. 2: Regnum subterraneum sive minerale: De vena et lapide ferri
v. 2, pt. 3: Regnum subterraneum sive minerale: De variis cum ferro et ejus victriolo
v. 3, pt. 1: Regnum subterraneum sive minerale: De cupro et orichalco
v. 3, pt. 2: Regnum subterraneum sive minerale: De vena et lapide cupri
v. 3, pt. 3: Regnum subterraneum sive minerale: De variis cum cupro et orichalco.
思い起こして、早稲田で検索をかけてみました。なんと、銅の巻は英訳が出版されています。
Swedenborg, Emanuel, 1688-1772.
Swedenborg's Treatise on copper
(Opera philosophica et mineralia, volume 3)
translated into English by Arthur Hodson Searle
London : Published in collaboration with the Swedenborg Society by British Non-ferrous Metals Research Association, 1938.
大型の3巻本です。すばらしい。鉱物関係ではありませんが、次の本も早稲田の検索によって判明。
Swedenborg, Emanuel, 1688-1772.
Oeconomia regni animalis in transactiones divisa
Londini et Amstelodami, 1740-41.
→08.5.2 せっかくですから、これもダウンロードしておきました。エッコから。したがって、私のデジタルライブラリーにはスウェデンボルグの科学的著作が3点揃ったことになります。スウェデンボルグは、科学者としては、先行研究を徹底的に研究するタイプです。そういう著作(ドクソグラフィカルな著作)として有効活用しようというのが私のねらいです。
夜半に目覚めてすこし仕事。けっこう遅くまで(朝まで)やってしまいました。夜が明けてから布団にもぐり、目覚めると8時。好天です。おおきいちびが新宿御苑が行きたいと言います。ちいさいちびの意見も聞いて、新宿御苑に。今日は入場無料の日。9時半に家を出て、10時過ぎに公園につきました。さすがに大勢来ています。
はしゃぎすぎたあかんぼうが眠そうな様子。1時過ぎに帰ってくることとしました。あかんぼうは、千駄ヶ谷の駅に着いたあたりで寝入りました。体力の回復していない妻もダウン気味。
ひとりで5時20分。今日は雨なしか。[ジャーマンウォール ii ]
金曜日に駒場で借りてきたベック『鉄の歴史』ですが、やはり有用です。
フランスでは圧倒的にレオミュールに仕事が重要だとわかりました。
ドイツでは、世紀の前半においては、スェーデンボルグ。後半では、スヴェン・リンマン。
スェーデンボルグのことは、前に調べました。今回は、リンマンを調べてみます。ウェブキャットでは、東大に1点 (Sven Rinman, tryckta skrifter, 1922-1969)、関外大 に3点(Lyriska,Psalmer,Dikter)あります。
そして、実は、早稲田に重要な文献が一番多くあります。このページではおなじみの、"MOME: Making of the modern world : the Goldsmiths'-Kress library of economic literature 1450-1850. "のマイクロフィルムとそれに対応するデジタルライブラリーです。(スウェーデン語の表示がわからないので、リストは省略します。)ついでですから、レオミュール(René Antoine Ferchault de Réaumur, 1683-1757) も。
邦語の2次文献は1点だけ nii でヒットします。
山根正次
「レオミュール「鉄鋼論」の金属学史的意義」
『科学史研究』 [第2期] 通号 67(1963/09)今回もっとも見てみたい文献、Descriptions des arts et métiersのマイクロは、ただ1館、京大人環総人 哲学が所蔵しています。
これは重要だと思われるので、詳細を記しておきます。マイクロフィッシュのカセットが9箱とブックレット1冊。
9巻の構成
リンクを辿ると全巻がブラウズできます。リプリント(Slatkine Reprints )の方は、さすがに22館が所蔵しています。
日本語では『工芸叢書』と訳すようです。次の文献があります。
内田星美
「技術史の原典(22)--フランス科学アカデミー「工芸叢書」--ドマシー「硝酸の蒸留ほか」(化学工業)」
『東京経大学会誌』202(1997.3): 149-186もちろん、『工芸叢書』は『百科全書』とどう見てもよく似ている。ウェブにある解説では、多くの項目で『百科全書』のより短い記事のバックグランドをなした、また、150もの銅版画の原稿がディドロの代理人により盗まれ、『百科全書』で再利用されたことも明かであり、技術史のためには、詳細さと正確さの点で『百科全書』よりもすぐれた資料となっている、とあります。なるほど。
あかんぼうは昨日に続きはやかったようです。私は6時前。ちびどもは7時15分。あかんぼうが部屋に入ってきて、本の山を崩しました。そのなかに、『スパイスの人類史』がありました。知りたいことがあるので繙くと、いろいろ興味深いことが記されていました。
紀元前4千年頃、オーストロネシア人が中国南東部の海岸地方や台湾から移動を開始し、マレー群島を経て、南に広がっていった。最終的には、マダガスカル島やイースター島にまで達した彼らが「ジンジャー(生姜)」を携えていった。こうして、原産地(中国南部とインドネシア)を越えてアジアからエリトリア、東アフリカまで広まったということのようです。
プリニウスがすでにアフリカ北東部で栽培されていると記している。
中世のヨーロッパでは、「熱い食物」(レタスのように身体を冷やす食べ物に対して、身体を暖める食べ物の意)として重宝された。16世紀初頭、フランシスコ・デ・メンドーサが西印度諸島と熱帯アメリカにジンジャーを移植した。
モナルデスから。
「かの賢人(ウエルギリウスのこと)は、すべての国々が同じように植物や果実を産するわけではないといっている。ある地域ではこれこれの果実や木、あるいは草が生えるが、別の地域では生えないのであるから、われわれは、ディプタモはクレタでしか採れないし、香木はシバ地方でだけ、そしてシナモン、クローブ、コショウその他のスパイスはモルッカ初等でしか採れないことを知っている。」
あかんぼうははやかったようです。ちびどもは6時20分。あかんぼうは今週ははしゃぎすぎで寝不足に陥ったようです。朝から、ぴー、ぴー、ぎゃー、ぎゃー、とてもうるさい。お昼をすぎても、同じように、うるさい。と思っていたら、雨が降り始めました。2時半。
金曜日に持ち帰った資料を整理していました。パーティントンから取ったコピーを折っていたら、クレルの雑誌に英訳があると出ていました。早速エッコでダウンロード。
Crell, Lorenz Frorenz Friedrich von, 1744-1816
Crell's chemical journal; giving an account of the latest discoveries in chemistry, with extracts from various foreign transactions
3 vols., London, 1791-93
Chemisches Journal(6 vols. Lemgo, 1778-81) の英訳です。雑誌ですからどういう記事がどういうふうに載っているのか、一度自分の目で確かめたいと思っていました。Chemische Annalen(40 vols. Helmstädt and Leipzig, 1784-1803-4) の方は、今のところ日本国内ではすぐに見れる場所が見つかっていません。
第1巻は、いきなりシェーレです。まず、(1)クレルによるシェーレの伝記。それからシェーレの論文。(2)「ゴールのエッセンシャル塩について」、(3)「エプソム塩からのマグネシアの調合に関する観察」、(4)「ルバーブに含まれる特有の土の本性について」。
これは有用な論集です。また別に、検索結果に、次の雑誌が44巻現れました。
Commentarii de rebus in scientia naturali et medicina gestis. ...
Lipsiae : apud Ioh. Fridericum Gleditsch, 1752-1808.
私の知識にはない雑誌です。検索をかけてみました。すると、次の記事が見つかりました。
Iain Chalmers and Ulrich Tröhler,
"Helping Physicians to Keep Abreast of the Medical Litarature: Medical and Philosophical Commentaries, 1773-1795",
Annals of Internal Medicine, 133(2000): 238-243.
この論文そのものは、ドイツのCommentarii de rebus in scientia naturali et medicina gestis.をモデルにエジンバラで発刊された医学情報誌についてのものですが、雑誌の性格はこれでわかりました。そういえば、Braunschweig Digital Libraryから1週間以上前に次のものもダウンロードしていました。
Scherer, Alexander Nicolaus
Codex medicamentarius Europaeus
Lipsiae, 1822
かぞくそろって6時20分。まあちょうどよいでしょう。雨模様の曇り。今月は、ここで105枚。やはり授業がはじまると減速します。
2回目の駒場の授業。
わー、今日はいろんな人と会いました。そういう日もあるのですね。
久しぶりに図書館で作業をするために、いつもより1時間以上はやく家を出ました。非常勤講師室で判子を押してから、科哲事務室によってコピーを依頼しました。それから、生協でUSB メモリを買いました。2Gで14800円。私の見た範囲では一番安い。それから図書館へ。まず、コピー。次の論文。
John G. McEvoy, "Positivism, Whiggism, and the Chemical Revolution: A Study in the Historiography of Science," History of Science 35(1997) : 1-33それから、コピーをとるべきかどうか迷ったのですが、パーティントン第3巻より18世紀ドイツ化学の章(第3巻第12章)。
最後に、ベックの『鉄の歴史』から、18世紀の概況を記した部分を借り出しました。
生協で本を見て回ってから、再度科哲事務室へ。H教授、T編集子、K博士、・・・にお会いしました。すぐに授業。
帰り道で、Tくんに会いました。Tくんは荻窪。私が電車を降りるまで話をしていました。四方山話です。
[18世紀化学史(続)]
講演要旨は提出しました。ですが、もちろん、作業はそれで終わりというわけではありません。日本語のものも目を通しておこうと考えました。
まずは、手元にある『元素発見の歴史』第1巻。この第4章が「18世紀の金属」です。この章が、今回の私の発表に大きく関わります。
実は、人名のカタカナ表記にかなり苦労しました。ドイツ人としても他ではあまり見ない珍しい名前ということもあったのですが、スウェーデン人がかなり混じっていることも一因だとわかりました。最も有名なシェーレは、ドイツ系のスウェーデン人です。理論化学では、ベリマン(Bergman)とベルセーリウス(Berzelius)。
迷った一人は、Cronstedt. ドイツ語の "s" は、位置によって、ズの場合も、スの場合もシュの場合もあります。クローンシュテットかクローンステットか迷ったのですが、この場合は『固有名詞英語発音辞典』にスウェーデン人の名前でクローンステットとありました。『元素発見の歴史』第1巻の第4章「18世紀の金属」に、「スウェーデンの金属」という項目があり、ここに、クローンステット(Axel Fredrik Cronstedt, 1722-1765)、ブラント(Georg Brandt, 1694-1768)、シェファー(Henrik Teophilus Scheffer, 1710-1759)、スヴァブ(Anton von Svab, 1703-1768)、ベリマン(Torbern Olof Bergman, 1735-1792)、リンマン(Sven Rinman, 1720-1792)、ベルセーリウス(Jöns Jacob Berzelius, 1779-1878)等々のスウェーデン人化学者についてまとまった記述があります。
たぶん、次に見るべきは、チャールズ・シンガー他著『技術の歴史』全14巻(筑摩書房 ,1985)でしょう。これは、昨日大学に行ったとき、図書館に寄って見ました。記述は、上の『元素発見の歴史』第1巻第4章「18世紀の金属」にほぼ重なっています。ソースが同じなのでしょう。
いつか、スウェーデンの鉱山そのものについても調べてみようと思います。
手元にあるもので、次に見たのは、ベックマンの発明の歴史。
ヨハン・ベックマン『西洋事物起源』3巻、ダイヤモンド社、1980-82
これが意外に役立ちます。
第2巻の「薬種商」の項目。pp.484-499.
出発点に記述が絞られ、展開が記されていないのは残念ですが、それでも他では簡単に見つけられないおもしろい情報が載っています。
古い時代に薬を売っていたのは、顔料商pigmentarius、香料商seplasiarius、薬物商pharmacopola、調剤人medicamentarius。
古い時代の薬は、ほぼハーバル=薬用植物のみ。薬用植物は、調理料、染料、塗料、化粧品、香料、軟膏に使われた。訳注も有用です。日本の古代染料はすべて薬用植物でもあった。
紫根:解熱、利尿、切傷
紅花:増血、のぼせ、頭痛
茜:婦人病、利尿、解熱、神経痛、皮膚病
きはだ:胃腸病等
(→個人的には、ほんとうに効いたのかどうか知りたい。)(→完全に脱線ですが、親たちが昔、センブリ、センブリと言っていたのを思い出しました。ネットで調べてみると、漢字では千振、生薬名としては当薬。日本固有の植物で、最も苦いハーブということです。苦味配糖体は含まれているが、とくに薬効成分は含まれていないとあります。それなのに、日本薬局方に収載され、薬事法の許可なく販売すると薬事法違反になるとあります。それは、どう考えても、おかしい。薬効成分のないものを日本薬局方に載せるのも変ですし、薬にも毒にもならないものを売ったからといって、薬事法違反になるのもおかしいと思います。
薬効成分が含まれないのにもしほんとうに効くのであれば、「良薬口に苦し」という言葉の働きによるプラシーボと見なさなければなりません。それでよいのでしょうか?)[ジャマンウォール:ドイツの壁]
西谷さんと中山さんの表現(西谷修・中山智香子編『視覚のジオポリティクス:メディアウォールを突き崩す』2005)を借りて、「ジャーマンウォール」と言い表すことができるかもしれません。
おおきいちびといっしょに6時20分。頭痛が残っています。若いときのように、すっかり快復ということがありません。だましだましやっていくしかないでしょう。
ちいさいちびは、7時20分。8時53分に家を出ます。30分前には起きていないとまずいと思い、起こしにいくとちょうど目覚めたばかりでした。幼稚園のときは8時まで寝ていました。7時に目覚めるリズムを定着させてやる必要があります。
あかんぼうは7時半。昨日遊び疲れたようです。
ちびどもが出かける頃に、雨が降り始めました。天気図で雨雲を見ると、今日は雨を覚悟しなければなりません。それにしても、雨の新学期でした。午後3コマの授業。
→3コマ連続の授業というのは、なかなかに忙しいことを再認識しました。余裕がなくなります。
夜中に起きて、仕事。花粉症がまだ終了していません。なんと今頃になって鼻水がたらたら出てくるようになりました。そろそろおさらばの時期と期待していただけに、ちょっとつらい。妻によれば、この症状は、ちいさいちびが学校でもらってきた風邪の症状だろうということです。そうかもしれません。いずれにせよ、はじまって2〜3週目で休むわけにはいきませんから、なんとかやりすごす必要があります。ひとりで5時20分。これも寝た時間からするとはやすぎます。鼻と喉の状態が思わしくないせいです。
昨日から今朝にかけて、遅れていたシンポジウムの講演要旨をやっと書き上げました。0次稿です。もうすこし手を入れてから、入稿します。→2次稿までブラッシュアップしました。もうすこし手を入れます。
午後は会議。予定では遅くまでずっとあります。今の状況では、最後まではもたないような気がします。
→5時40分から最後の拡大再編部会。大学院の再編部会と学部の再編部会の共同の会議です。どうなることやらと心配でしたが、7時30分には終了しました。8時10分ぐらいに帰宅することができました。昼寝をしなかったあかんぼうがハイパーパワー状態になっています。こんな時間まで昼寝をせずに起きているとは。結局8時半過ぎに泣きながら寝ました。疲れすぎたときの寝方です。
私は、風邪です。花粉症か風邪か区別がつかなかったのですが、体内環境に対する内的感覚(体感)から風邪だとわかりました。緊張が解けたときに、身体もとけるような感じになる、風邪状態です。体が溶けると、鼻がつまって、息が苦しい。
おおきいちびといっしょに6時過ぎ。あかんぼうは6時半ごろひとりで起きてきました。ちいさいちびはそのすぐあと。おおきいちびのピクニックの日。高尾山に行くとのこと。妻は免許の更新。ともに7時半前後に家を出ます。
あかんぼうも行く気まんまん。仕方がないので、全員一緒に家を出ました。遠足の子どもたちは走っています。さすがに子ども。小学校の校門の前で妻にはうまく消えてもらいました。1年生が中に入るのは、しばらく先です。あかんぼう、私、ちいさいちびの3人で校門前で待っていました。ちいさいちびのお友達が数名見えたあたりで学校のなかに入っていきました。あかんぼうはピクニック部隊に着いていきたい模様。あきらめて、駅まで連れていきました。ちょうど駅前広場に集結していました。そのまま、通勤ラッシュ時間帯の電車に乗り、またしても、吉祥寺で西荻窪行きのバスに乗りました。今朝も乗っているのは、我々父子を除けば、東京女子大の学生たちだけです。
駅のひとつ前のバスストップで降りて、おんぶして帰ってきました。
しばらく休んでいましたが、ママ、ママ、ママ、ママ、と言います。仕方がないので、外に出て、あかんぼうの自転車の補助輪をつけてやりました。ちいさいちびが自転車に乗れるようになったときにはずしています。でもまだペダルを漕ぐのに慣れないようです。代わりに片づけてあったあかんちゃんのころころを引き出してきました。それを押して、公園まで。公園には、保育園児たちの集団が。かまわず、あかんぼうは、ころころを押しながら走り回っていました。ちょうどお昼ご飯前に帰ってくれました。
正午にならないうちに、おお疲れました。
妻は、1時15分頃帰宅。
ちいさいちびは、1時半頃帰宅。新しいお友達を連れてきました。いつもいっしょに帰ってくる一番近所のクラスメートです。疲れていたあかんぼうも元気を取り戻しました。
夕食を食べたあと、6時過ぎに、妻とあかんぼうが寝入りました。あかんぼうはこういうふうによく遊んで昼寝をしなかった日は、ソファに座って、ぼんやりテレビを見ていると、こてんと寝入ります。妻は、病あけで身体が重いようです。
ひとりで3時40分。もちろんはやすぎ。5時前後に、またジンマシン。パターンが読めてきました。頭皮が痒くなる。首まわりと腹部と背部の一部が痒くなる。軽い場合にはそれで終了。そうでなければ、手や足にも出現し、痒さに悶絶する。。。
私は、授業の第2週目。ちいさいちびは今日から給食が始まります。ただし、給食を食べて片づけてから帰ってきます。午後の授業はまだありません。4月いっぱいそういう感じの模様。
妻が一時保育にあかんぼうを預けて、整骨医に行ってみるということです。ほっておくと私の方にもあかんぼうが付いてきそうなので、3人で車に乗り、途中で降ろしてもらいました。その後、妻とあかんぼうは荻窪へ。私は大学へ。
去年より1本だけ遅い電車に乗り込むことができました。授業は、本格的にはじまるとなかなかに忙しい。とくにスタートの時点では、履修上の相談もあり、あっというまに3コマが終わりました。
帰り着くと、あかんぼうは昼寝をしていないせいで、すぐおこり、すぐなく状態です。パパ、シャチの形をした浮き袋に空気を入れろ、と要求してきます。さっと服を片づけてから、私の身長ほどのシャチの浮き袋に空気を吹き込みました。はーはー。
ご飯はちびどももあかんぼうもよく食べました。あかんぼうが寝付いてから、妻が近所の整骨医へ。電話で予約がとれて、夜9時までやっているということです。
ひとりで5時40分。とりあえず晴れてはいませんが、雨は降っていません。妻がダウン中。ちびどもは一歩も外出せず。
はっきりしなかった天気ですが、あかんぼうが昼寝した3時半ごろから空が明るくなってきました。明日は晴れるでしょうか。
夜半に目覚めてすこし仕事。まだ雨が降っています。ほぼそろって6時半。やっと雨は上がったようです。
妻がダウン。昨日あかんぼうを連れて、あちこち動いたのが効いたようです。私が抱っこしてもかなり重い。この重いあかんぼうを抱っこして長く移動すると弱っている身体にボディーブロー。
[疑問]
今回の作業をしていて疑問に思ったことがいくつかあります。1.「薬史学」と「薬学史」
日本の History of Pharmacy の学会は、「薬史学会」と言うようです。何となく、こういうふうに表現したくなる理由もわからないではないのですが、日本語としてストレートには「薬学史」だと思います。
どうして、「薬史学」が広く使われるようになったのか、その理由や経緯を知りたいと思います。ご存じの方がいたらお教え下さい。
(「医学史」と「医史学」ももしかしたら同じような事情かもしれません。)→とりあえず、自分でできることとして、グーグルで検索をかけてみました。「薬史学」で847件。「薬学史」で2180件。普通は、「薬学史」、「薬史学」は学会と会誌名称が「薬史学会」『薬史学雑誌』なので使われる、といったところでしょうか。中国語でも、「薬史学」というのかもしれません。
ちなみに、「医史学」では17400件。「医学史」では389000件。これは「医学史」が広く関心をもたれているということによるでしょう。やはり日本の医学史の学会は、「日本医史学会」という名前です。発行する雑誌は、『日本医史学雑誌』。
→歴史学科というのか史学科というのかの差も同じかもしれません。
2.雑誌『ケミカルタイムズ』
日本の薬学史について、先達者のおひとり、根本曽代子がこの雑誌に多くの記事を書いておられます。読んでみようとウェブキャットで検索をかけると、そこでは、0ヒット。大学関係の図書館はどこも所蔵していないということです。えー?。
利用しやすい場所で、所蔵している機関・場所をご存じの方、是非、お教え下さい。よろしくお願いします。
かぞくそろって6時15分。雨。雨足が強い。今年の新学期はよく雨が降ります。ちびどもがでかけるころかなり強く降って、幼稚園児たちがでかけるころにはほぼ止んでいました。雨が止んでからクリーニング屋さんに行き、昨日処理できなった用件を銀行で処理してきました。実は、昨日帰宅しようとすると、消防車が数台、家の近くに並んでおり、普段私が使っている道は封鎖されていました。仕方がないので、すこし回り道をして、ほんとうに家に近い場所では封鎖をすりぬけて帰ってきました。パトカーも数台、救急車も1台来ていました。
何があったのか知りたいと思い、今朝その周辺を回ってみましたが、火事の痕跡らしきものは見あたりませんでした。あるアパートで調査員らしき人が数名うろうろしているのが見えたので、そこで何かがあったのかもしれません。外からは今のところ何があったか不明。気になるので、ウェブで調べてみました。
東京消防庁>災害情報><災害・救急最新情報>というサイトがあるのがわかりました。このサイトの更新は、昨日で、最新情報は4月13日です。ここにでるのかな?
(→お昼頃、更新されていましたが、昨日のことは出ていません。たぶん、軽くすんだのでしょう。)あれあれ、止んだと思った雨が11時前にまた強く降り出しました。今日は晴れるのをあきらめるしかないようです。
さすがに新学期、授業に関する問い合わせメールが10件近く来ていました。
駒場の授業の第1回目。
ばたばたと準備を進めています。あかんぼうは2時過ぎにソファーに座ったまた昼寝に入りました。様子を見て、3時15分前ぐらいに家をでました。去年と同じく、まずは非常勤講師室へ。東大駒場は、きちんと連絡をくれないので、日程を出勤簿で確認しました。5月祭の部分が黄色く塗られています。大学院はやるかもしれない/やらないかもしれない、とあります。なんじゃ。こういう書き方は迷惑です。よそから来る人間に対する書き方ではありません。困ったもんだ、東大は。
それから、図書館へ行ってカードの更新。5分ぐらいかかりました。
時間もあまりなかったので、DSBからトロムスドルフとヘンリーの項だけコピーをとりました。
その後、科哲事務室へ。会計監査の話を聞いてから、教室へ。6人。
無事帰宅しました。あー、1週間が終わりました。水曜日に会議が連続するので、わー、忙しい、という感覚が強くなります。
ひとりで4時。→すこし仕事をしたあと5時に寝て、再度起きたのは、6時半。ちびどもは6時前後に起きた模様。妻があかんぼうを産んだ産婦人科に行って診てもらうというので、ちびどもといっしょにあかんぼうを連れ出しました。途中で自分から小学校への道からははずれて、電車に乗るルートに向かいました。8時過ぎですから、駅は通勤の人でごった返しています。そのなかを総武線に乗り、吉祥寺まで行き、駅を半周して、西荻行きのバスに乗り込みました。私とあかんぼうと運転手以外は、全員、女性。雰囲気からして東女の学生諸君です。実際、東女の前のバス停で全員降りました。
駅に着いてから、銀行によって帰ってきました。それでもまだ9時前。今日は、3限、4限、5限の授業。
無事帰宅、次の本が届いていました。
池田 清彦
『脳死臓器移植は正しいか』
角川ソフィア文庫、2006保阪正康
『"安楽死と尊厳死:医療の中の生と死』
講談社現代新書、2003中島 みち
『脳死と臓器移植法』
文春新書、2000
(以上3冊は、授業に関するもの。)ルネ・ファーブル、ジョルジュ・ディルマン共著
『薬学の歴史』
白水社,文庫クセジュ、1969
これはマーケットプレイスからです。
もちろん、こちらから読み始めました。基本的に、フランスの歴史です。他国の事例はほとんど触れられていません。ドイツに関しては似たところがあると思われますが、英国がどうなっていたのか不明です。
ひとりで5時15分。と思ったら、すぐにあかんぼうが起きてきました。まだ晴れ。
ちびどもは6時前。昨日Hさんに教えてもらったサイトをすこし見て回りました。
Internet Archive: Universal Access to Human Knowledge
まだどういうものがどの程度あるのか見通しをつけることができていませんが、検索をかけてみる価値はあります。今日は、会議の日。会議が3つと授業(初回の案内だけです)が1つあります。
1時〜2時:大学院企画運営会議
2時半〜?:学部教授会
2時50分〜(15分程度):4限講義の案内
?〜?:大学院再編部会
一応予想としては、学部教授会は5時終了。大学院再編部会は6時半終了と見ています。この予想にどの程度の確度があるのかはまったくわかりません。
→学部教授会はほぼ予想とおり、5時前に終了しました。大学院再編部会は、6時40分終了。→7時半には帰宅できました。帰宅すると妻がダウンしています。さすがにお医者さんに診てもらうと言っています。
ひとりで5時15分。今日はよい天気。短いものなので、朝のうちに、次の本を読み通しました。
ジョ-ジ・ウルダング『薬学、薬局の社会活動史』南山堂(1973)
これはこれで、貴重な仕事ですが、内容をアップデートしたもうすこし詳細に記した薬学と化学の制度史/社会史が書かれるべきです。
ひとりで5時半。雨。また雨です。今日からいよいよ授業が始まります。
朝メールを受信すると、Hさんから次のサイトにWilliam Henry, An Epitome of Chemistry (2d ed., London: Johnson, 1801)があることを教えていただきました。Hさん、ありがとうございます。なお、サイトでは、pdf だけではなく、テキストファイルもダウンロードできます。テキストファイルがあると、調べものには最強です。
http://www.archive.org/details/epitomeofchemist00henrrich
S氏から、別件と同時に、次の書評を送ってもらいました。
William Newmann, "Review Essay: The Chemical Revolution and its Chemical Antecedents," Early Science and Medicine, 13(2008): 171-191
レビューされているのは、
1. Ursula Klein and Wolfgang Lefèvre eds.,Materials in Eighteenth-Century Science: A Historical Ontology, Cambridge, Mass.:The MIT Press, 2007
2. Mi Gyung Kim, Affinity, That Elusive Dream, Cambridge, MA: MIT Press,2003
の2点です。ホームズが18世紀化学史のために新しい正しい道を示したということからはじめて、両著をこてんぱんにやっつけています。基本的に私はニューマンの指摘する論点は正しいと思いますが、中心的に論じられているのは、(中世、ルネッサンスから)17世紀の化学変化において保存される成分粒子の概念です。
ニューマン氏は、しかし、両著の対象である18世紀化学史をほとんど取り上げません。両著の欠点をぐりぐり抉り出すそういう書き方をしています。
わー、すごい。(同じことですが、おー、ひどい。)あかんぼうといっしょに9時過ぎに家を出ました。妻がはじめてあかんぼうを一時的な預かり保育に預けてみることにしたからです。
駅まで3人でいっしょに行って、エスカレーターを1つ登ったところで別れました。2008年度の新学期の始まりです。大学のなかの雰囲気が新しい。
2限の講義は、久しぶりの講義だったので、声のでかたが100%ではありませんでした。まあ、でも、まずまずでしょう。人数も最近はだいたい同じ水準で推移しています。
3限の大学院の演習は、知り合いの院生が一人だけ見えました。どうしたことかと思っていると、事務から電話が。授業はどこでやっていますか? 大学院の授業は、研究室以外で行ったことはなく、よくわからなかたったのですが、遅れて学生がやってきて事態が飲み込めました。浩瀚なシラバスの最初の方にある、時間割を見ると、たしかに、別の教室が指定されています。まったくその箇所は読んでいませんでした。参加者は結局4名。もうひとり帰国してから参加しますというメールをくれている院生がいて、計5名。ちょうどよいでしょう。
4限の演習は、さすがにあらかじめ7階の教室に張り紙をしてきました。やはり、5名。1学期の授業回数(たぶん実質で13回ほど)と研究室の広さを考えると、5名から7名あたりがちょうどやりやすい。
帰宅すると、前のものはアマゾンのマーケットプレイスから、後のものは古書店から届いていました。
石坂哲夫『薬学の歴史』南山堂(1981)
ジョ-ジ・ウルダング『薬学、薬局の社会活動史』南山堂(1973)
ウルダングの『薬学、薬局の社会活動史』は本文104頁と短いのですが、私の今回の関心にぴったりの書物です。薬学史はドイツ語圏に蓄積があることがよくわかります。
(ウルダング George Urdangは、ドイツのユダヤ人で、1938年アメリカに移住しています。薬局で徒弟として修行をしたあと、フランクフルト、ロストック、ドレスデンで薬局助手として修行し、その後ライプチッヒ大学で薬学を学んだ。それから薬剤師試験に合格し、「みどりの薬局」の調剤主任となっている。結婚後、ローゼンバーグの薬局を購入し、経営した。投稿した論文が認められ、1919年から1934年まで薬学雑誌記者として活躍。1926年、友人4人とドイツの薬学史学会を創立。1933年、ベルリン大学から理学博士号を取得。
アメリカ移住後、1939年、ニューヨーク州の薬剤師試験に合格。1941年、アメリカ薬学史学会を創設。1947年ウイスコンシン大学に創設された薬学史講座の初代教授となる。)
ひとりで5時15分。天気予報では、今日は雨。まだ降っていません。
あかんぼうが階下に来た頃に、雨が降り始めました。ちびどもは7時前。このぐらいがちょうどよい。
[18世紀化学史]
昨日紹介したブランシュバイクデジタルライブラリーから、トロムスドルフの次の3点をダウンロードしました。Ziparchive というのがあり、一頁一頁画像ファイルをダウンロードしなくてすみます。Trommsdorff, Johann Bartholomäus
Handbuch der pharmaceutischen Waarenkunde : zum Gebrauch für Aerzte, Apotheker und Droguisten
Verlag: Gotha : Hennings 1822.Systematisches Handbuch der Pharmacie für Ärzte und Apotheker ...
Verlag: Erfurt : Keyser 1827.Chemische Receptirkunst oder Taschenbuch fü r praktische Aerzte welche bei dem Verordnen der Arzneien Fehler in chemischer und pharmaceutischer Hinsicht vermeiden wollen
Verlag: Erfurt : Maring 1826.次のものもついでにダウンロードしました。
Stefan Wulle, 50 Jahre DFG-Sondersammelgebiet Pharmazie: Bilsenkraut und Bibergeil Zur Entwicklung des Arzneischatzes, Brauschweig, 1999
薬局のお店の図版をプリントしようとして、全部をプリントしてしまいました。こういうものは、役に立つのでよしとしましょう。ちなみに、トロムスドルフですが、日本ではとても有名です。それは、宇田川榕菴の『舎密開宗』の種本であることが知られているからです。
ラヴォワジェ『化学原論』→ウィリアム・ヘンリー『化学提要』William Henry, An Epitome of Chemistry→トロムスドルフ『愛好者のための化学』Trommsfdorff, Chemir für Dilettanten→イペイ『初学者のための化学入門書』Adolphus Ypey, Chemie Voor Beginnende Liefhebbers→宇田川榕菴『舎密開宗』
さて、このトロムスドルフの本を見たかったのですが、今のところ、情報学研究所のサイトで検索をかけても、何も出てきません。
グーグルで検索をかけると、早稲田の古典籍(宇田川家,岡村千曳旧蔵)に次のものがあると出てきます。Trommsdorff, Johann Bartholomaus
Leerboek der artseneimengkundige, proefondervindelijke scheikunde : naar de derde veel verbeterde uitgave uit het Hoogduitsch,
Amsterdam, 18152次文献はいまのところ、根本さんの次の1点のみ。
根本曽代子
「 薬学ゆかりの外国人(24)
―トロムスドルフ Johann Bartholomaeus Trommsdorff―」
『ケミカルタイムズ』1986年4号(通号122 )
さて、ウィリアム・ヘンリーの書物ですが、ずっと見ようと思って、そもそも日本国内で持っている機関を見つけることができていません。日本国内で個人的に持っている(BLがマイクロにしています)人は少なくないと思うのですが、どなたか個人的にお見せいただけないでしょうか?
Henry, William, 1774-1836
An epitome of chemistry
2d ed., corr. London : Johnson, 1801.
これは、後の版では、表題をThe elements of experimental chemistryと「実験的」を付加しています。An epitome of chemistry, in three parts.
Part I. Intended to facilitate, to the student, the acquisition of chemical knowledge by minute instructions for the performance of experiments.
Part II. Directions for the analysis of mineral waters, of earths and stones, of ores, of metals, and of mineral bodies in general and
Part III. Instructions for applying chemical tests and reagents to various useful purposes.
手元にあるのは、ECCO にあったA General View of the Nature and Objects of Chemistry, and its Application to Arts and Manufactures. (London, 1799) のみです。これは、1798年の冬マンチェスターで行った講演のパンフレットです。本文44頁。
とりあえず、引用している書物のみ抜き出してみましょう。1. Dugald Stewart, Elements of the Philosophy of the Human Mind
2. Kirwan, On Manures
短いものなのでさっと読み通しました。一番感動的だったのは、若き(24歳)ヘンリーが、きっぱりと新しい化学(ラヴォアジェ派の理論と命名法)に味方していることです。教育のためには、フロギストン派の混乱した順序と非論理的な推論と比べて、新しい化学の教説とそれに結びついている命名法の明白な配列と正確さを万人が好むであろうと断定しています。そして、この科学における革命の前後に化学を教えたことのあるものは、知識を習得する労力が比べようもなく減少したことを証言してくれよう、とあります。(なお、ラヴォアジェの名前は出していません。出てくる名前は、カーワン、シェーレ、ベルトレ、ベリマンです。)
短いものなので、それほどきっちりとしているわけではありませんが、昨日の "simple substance" を基本的用語とするなど、よく見れば、ラヴォワジェに従っていることははっきりと見て取れます。
ここまで来たら、イペイも調べないとおさまりません。イペイはさすがに日本の図書館にも所蔵されています。
早稲田の古典籍に、Handboek der materies medica, Amsterdam, 1811
東大に次の2点。
Bladwijzer, der voornaamste zaken, voorkomende in het systematisch handboek, der beschouwende en werkdaadige scheikunde
Amsterdam : Willem van Vliet, 1812Sijstematisch handboek der beschouwende en werkdaadige scheikunde : ingericht volgens den leiddraad der chemie, voor beginnende liefhebbers
Amsterdam : Willem van Vliet, 1804-1807日文研に次のもの。
Vervolg op de Afbeeldingen der artsenijgewassen met derzelver nederduitsche en latijnsche beschrijvingen
Amsterdam : J.C. Sepp en Zoon, 1813Handboek der materies medica, of, Aanwijzing der kenteekenen en krachten der voornaamste geneesmiddelen, voor min geoefende liefhebbers der geneeskunde : ook dienende tot bevordering, van het gebruik der bataafsche apotheek
Te Amsterdam : Bij Willem van Vliet, 1818Handboek der materies medicaは、名大医学部分館にも。
イペイそのものを扱った2次文献はまだ未発見。
お昼に次の本がアマゾンから届きました。
山川浩司『国際薬学史: 東と西の医薬文明史』南江堂(2000)
概説的な教科書です。
ひとり遅れて7時15分。くもり。[薬学史]
1927年原著のものというのは、いかにも古い。もうすこし新しいものがないか探してみました。日本語の通史・概論的なものとしては次のものが見つかりました。(日本の薬学史は今回は除外します。)山川浩司『国際薬学史: 東と西の医薬文明史』南江堂(2000)
ジョ-ジ・ウルダング『 薬学、薬局の社会活動史』南山堂(1973)
村山義温『薬化学小史』広川書店(1959)
ルネ・ファーブル、ジョルジュ・ディルマン共著『薬学の歴史』白水社,文庫クセジュ( 1969)
石坂哲夫『薬学の歴史』南山堂(1981)
サイトとしては、次のものがよくできています。
水野薬局
このサイトの記事に、医薬分業のはじまりは、アラビアであったとあります。はじめて聞く事実です。また、イタリアにおいて、薬剤師は香料商人の分派としてギルドを形成したとあります。
なお、日本の議論は、「医薬分業」が大きな焦点となっています。検索をしていると、ブランシュバイクにとてもよいデジタル・ライブリーがあることに気付きました。
Digital Bibliothek Braunschweig/ Braunschweig Digital Library
早朝(4時)に目覚めました。雨はまだ降っています。
この時間は、小鳥たちが目覚める直前、あるいはまさにその時間のようです。キーボードを打っていると、鳥たちの朝のさえずりが聞こえてきます。8時前、私を除く全員が学校に向かいました。いちばんはりきっているのは、いうまでもなくあかんぼう。ひとりで先頭をどんどん歩いていきます。
9時過ぎに家をでて、大学へ。
新入生の姿がちらほら。最初に図書館に行って、opac のパスワードというのをもらいました。ネットから、相互貸借と文献複写依頼ができます。これはかなりたすかる。
2点、紀要論文を探しましたが、その号は所蔵していませんでした。その後、研究室に行って、授業をはじめるための準備作業を行いました。7割程度までは進めることができたでしょうか。
11時ちょうどに特別食堂へ。やはり1番。和風スパゲッティを注文しました。電車のなかで読み始めたDSBの記事を読みながら、ゆっくり食べました。それから、再度図書館へ。次の3点の吉田晃氏の論文をコピーしました。
吉田晃
「Lavoisierにおける火の元素の概念と酸の理論の形成」
『明治大学教養論集』 通号214(1988): 55-85
吉田晃
「Lavoisier「化学原論」(1789年)成立の過程」
『明治大学教養論集』通号230 (1990): 43-66吉田晃
「Lavoisierにおける天秤を使った化学定量実験」
『明治大学教養論集』 通号266(1994): 53-82研究室に戻って、早速読み始めました。どれもオリジナリティのしっかりしているよい論文です。よい論文だけに、媒体がもったいないと思います。
2時から水曜日の授業に関して、打ち合わせ。すぐにすみました。
時間のあいまに、部屋の本棚をスキャンしました。次の本が見つかりました。
David L. Cowen and William H. Helfand,
Pharmacy: An Illustrated History
New York, 1990
いわゆるカラー図版が満載のジャイアントフォリオです。300頁に満たないのですが、カラー印刷のためによい紙を使っています。ずっしり重い。
これは概説書としてとてもよくできています。さらに次の本も見つかりました。
ディヴィッド・クローリー+ポール・ヘイヤー編『歴史のなかのコミュニケーション』新曜社、1995
論文集です。第2部「西欧のリテラシーの伝統」(第4章はハブロック)と第3部「印刷革命」(第8章はオング)が入り用です。重いのですが、頑張って両方ともに持って帰りました。
帰宅して、部屋のなかをスキャンしていると、次の本が見つかりました。
チャールズ・H・ラウォール『世界薬学史』科学書院、1981
ちょっと記述が古いのですが、ともあれ概説書で流れをおさえておくために目を通しています。
→原著は、次のものです。
Lawall, Charles H.
The Curious Lore of Drugs and Medicines
New York, 1927
80年前のものです。古いのは仕方ないでしょう。コーエンとヘルファンドの『ファーマシー』(上記の英語の本)は、この本を18頁にわたる参考文献表に挙げていません。英語圏では役目が終了したと見なされているのかもしれません。→そういえば、朝のうちに、内田正夫「近代化学成立の一断面―近代的元素概念の成立過程について―」『科学史 その課題と方法』(青木書店、1987),pp.79-97 を読み直しました。(たぶん、3度目に読んだことになると思います。)
しっかりと書かれています。94頁に、「ラヴォアジェの単一物質の表」が引かれています。その第1群が、「3界に属し、諸物体の元素とみなしうる単一物質」です。ラヴォアジェは、光、カロリック、酸素、窒素、水素の5つを挙げています。
内田さんは「自然界に広く存在し、顕著で一般的な化学的機能をもつもので、元素(elements)という語はこれらに対してのみ用い」られると表現されています。
すこし後ろの方で次のようにも言っています。「金属は単体が識別しやすいため、化学変化において保存されることが古くから経験的に認められてきた物質である。にもかかわらず、それは元素と認められることなく、金属変成の考えやフロギストン説は金属を複合的な物質とする前提に立っていた。」
なお、「ラヴォアジェの単一物質の表」では、第2群が非金属(「酸化されて酸になる非金属性の単一物質」、第3群が金属(「酸化されて酸になる金属性の単一物質」)、第4群が土類(「塩になる土性の単一物質」)です。
ここで、私がわざわざこうしたフレイズを引用したのは、ラヴォアジェの「元素(elements)」の語の用法が、ボイルが標的とした用法と同じ、あるいはボイルの用法をまだ引き継いでいることに、はっと気付いたからです。ポイントは、金属との比較にあります。そう、金属が古くから単体としてあったのに、18世紀においても元素として扱われていません。ラヴォアジェは、元素とはいわず、単一物質と言っています。
「元素観」の歴史として扱ったときに、見落とされる重大なポイントがここに潜んでいます。化学史に特有の難しさはこのあたりにあります。実は、同じ用語の意味がドラスティックに変化しているのに、ただ同じ用語が使われているだけで、同じ問題の枠組み―概念枠―で異なる問題群-概念ネットワークを扱ってしまうという事態です。
ボイルもよく行っている錬金術師に対する批判、「同じものを別の名前で呼び、同じ用語で別の物質を指す」(ボイルは同じ批判をアリストテレス派に対しても向けています)を化学史の歴史記述においても、(額面通りに)真剣に受け止めないといけない、ということです。
この問題にアタックした論文は少なくないのですが、まだ問題解決というところまでは至ったいないと思われます。それは、同一人物のなかでも、用語の意味用法が一定しない(そのときそのときで変化している)ことを掴み切れていないことも一因でしょう。吉田晃氏もこの問題に気付いています。2番目の論文の56-57頁。
「さてここで注意を促したいのは、「元素」(élément)と「単体」(substance simple) の使い分けである。Lavoisier は、この草稿においてもっぱら「元素」という/p.57 言葉を使っている。一方『化学原論』においては、有名な元素の定義(分析によって達する事のできる最後のもの)が序論にでてくるが、実際の物質を指すときには「元素」という言葉を避け、「単体」と言っている。よって「元素表」ではなく、「単体表」となっているのである。実は、定義としては1787年の『化学命名法』に既に同じものが出ているが、「元素」ではなく、「単体」の定義になっている。Lavoisier が「元素」をやめて「単体」としたのは、他の『化学命名法』共同執筆者の影響があったからかもしれない。いずれにせよ、彼は「元素」という言葉に古来からの意味を認めたため、使うのをやめた事は確かである。 その意味とは、自然界に普遍的に存在し、大部分の物質を構成する要素という事である。であるから、例えば金は単体ではあっても、元素とは呼べない、という内容の手稿を、Lavoisier は草稿とは別に残している。(39)」(強調は、私。)
なお、注39では、Lavoisier手稿No.1259 "idées générales sur les élémens" と草稿が特定されている。実は、「単体」(substance simple) という用語にも概念史的問題が残ります。Lavoisier 以降の化学に慣れている我々は、「単体」に何も違和感を感じません。しかし、Lavoisier 以前の化学の世界において、「単体」(substance simple)は決して一般的な用語ではなかった。この用法の歴史が追究されなければなりません。(基本的術語を定義するのは、基本的に非常に難しい。)
ちなみに、理化学辞典を引用してみましょう。
「単体 [英 simple substance 仏 corps simple 独 einfacher K&ooml;per ] 純粋物であって、かつ化学変化によって2種またはそれ以上の物質に分けることのできないものをいう。すなわち単一の元素から成るものである。単体を元素と呼ぶ場合もある。」(ロシア語は略)
ということで、今度は「元素」。
「元素 [英 element 仏(élément 独 Element ] 正確には化学元素というが、ふつは単に元素といっている。元素は特定の原子種(*原子番号によって区別される)によって代表される物質であると定義される。いいかえれば、元素はただ1種類の原子(同じ原子番号をもつ)によってつくられる物質である。元素と単体はしばしば同義語として用いられるが、たとえば酸素とオゾンの場合のように、2種の単体が同じ元素に対応することもある(*同素体)から、厳密には区別する方がよい。両者を区別する場合、単体は実在物質であり、元素は単体を構成する要素であるとする。つまりこの場合は元素は原子とほぼ同義のものと解釈される。・・・」
一言だけ、注意を。現代の「元素」の定義は、「原子(周期律表の位置)」の概念に依拠し、「原子」の概念を前提としている、ということ。
さらに、ちなみに、ラヴォワジェは、molécules という用語も使っていますが、もちろん、現代的な「分子」の意味ではなく、ただ、「粒子」の意味で使っています。
昨日買ってきた『中央公論』と『文芸春秋』ですが、『中央公論』を脇に置いて、『文芸春秋』を見てみました。現代社会を理解するためには、明らかに『中央公論』の方が向いています。タイムリーな特集、タイムリーな記事が多い。総力特集で「脳力革命」とか言っている『文芸春秋』は、なんだかなと思って、先頭からページを繰っていくと、なんと、またまた亀山学長の姿が。冒頭の写真エッセイ(『文芸春秋』の分類では、グラビア>モノクロ>「日本の顔」)です。8頁分。
『文芸春秋』のグラビアは、とても趣味的な写真を掲載します。次長課長なみにマニアックと表現すればよいでしょうか。今回の号では、イギリスに200近く保存・運営されている保存鉄道がそうした例です。おお『機関車トーマス』が実際に走っています。個人的にはマン島の風景にいちばんひかれます。
夜半過ぎに目覚めて仕事。半分は花粉症のせい。
→起きてしばらくすると、雨。新学期早々に降り続く雨は、新1年生には、ちょっとたいへんです。→おおきいちびは自己申告では6時前。残りは、そろって7時10分前ぐらい。小学校は8時過ぎに始まります。7時前後に起床するのがちょうどよい。
授業の準備。
「6例」同時の腎移植手術
玉突き移植という意味です。アサヒに見やすい図があります。「広告批評」来年4月休刊
来年4月に創刊30年記念号をもって休刊するということです。79年創刊。80年代には私もわりと読んでいました。そうか、まだ続いていたのかというのが素直な感想。個人的には、80年代の記憶と結びついています。紙媒体の朝日に、カーナビの記事。手の平サイズの小型カーナビが売れはじめているという内容です。地図情報の収容媒体に(DVDやHDではなく)フラッシュメモリーを採用したことがきっかけということです。
これも隔世の感があります。私がポータブルナビを取り上げた1990年代にはあまり売れていなかった。カーナビも売れていなかった。それが2008年度では予想で400万台を突破しています。昼食後、近所を一周し、駅前の本屋さんで2008年5月号の『中央公論』と『文芸春秋』を買ってきました。
『中央公論』から読み始めました。とても勉強になります。
久保田宏「バイオエタノールで自動車を走らせるべきではない」『中央公論』2008年5月号、pp.230-239.
きちんと計算した上で、バイオエタノールでガソリン代わりにすることは、(ごく一部の特定利害者を除き)誰のとくにもならない、資源保護にも環境保護にもつながらないことが示されています。著者の言うとおり「アルコールで自動車を走らせるべきではない」のです。[18世紀化学史]
けっこうミスタイプが見つかった18世紀化学史を校正しました。まだ残っている可能性はありますが、大きな重複は削除できました。(印刷すると28頁になります。さすがに大きすぎます。トピックス毎に整理する必要があります。)
ひとりで5時前。雨はやっと上がりました。今日は大学の入学式(私は出席しません。)編集委員会の仕事は、ちびどもが寝ているあいだにもう2件。
あかんぼうは6時過ぎ。おおきいちびは6時半。ちいさいちびは6時50分。
おねえちゃんたちに、あかんぼうもついて家をでました。小学校の校門のところで、おねえちゃんと言って泣いていたようです。しばらく続くでしょう。
ちいさいちびは昨日と同じ11時45分に顔を上気させて帰ってきました。走って帰ってきたのでしょうか。
[18世紀化学史]
レジメの提出期限が迫っています。授業の準備とあわせ急ぎ作成する必要があります。まず、手元にある次のシェーレの評伝から読み直しました。たぶん、これで3度目か4度目に目を通すことになります。
[評伝西洋の化学者 第3回] 日吉芳朗 「カール・ウィルヘルム・シェーレ―その生涯と業績―」『化学史研究』第28巻(2001): 69-85
Carl Wilhelm Scheele, 1742-1786
スウェーデンで活躍したためスウェーデン人の化学者として扱われるが、家系としてはドイツ人である。
生地は、シュトラールズント。Stralsund は、1648-1814 はスウェーデン領。東西ドイツがあった時代には、東ドイツロストク県北東部の都市。バルト海を北側にわたるとほぼ対岸の地にコペンハーゲンがある。1742-57 Stralsund,
1757-1765 Gothenberg (Götebory, イェテボリ)で薬剤師バウホ(M.A. Bauch)の薬局「一角獣薬局」で徒弟。かれは、この薬局に備えられていたノイマン、レムリ、ブールハーヴェ、クンケルの化学(教科)書を読む。
1765-1768 Malmö マルメ(スウェーデンの南端)で薬剤師キュルストレーム(P.M. Kjellström) の薬局「まだらワシ薬局」で働く。
1768-1770 ストックホルムで、シャーレンベルク(J. Scharenberg)の薬局「金色カラス薬局」で徒弟として働く。
1770-75 ウプサラで、ロック(L. Lokk) の薬局「ウップランドの紋章薬局」で徒弟として働く。
1775-86 Köping シェーピンの薬局で働く。ストックホルムで薬剤師試験を受け、正規の薬剤師となる。
フリードリッヒ2世のはからいで、ベルリン(科学アカデミー)のマルクグラーフ(A.S. Marggraf, 1709-1782)の後任に誘われるが断る。つまり、シェーレは、人生の大半を薬剤師徒弟として働いたということです。
そして、もしベルリン大学からの招聘を受けていれば、薬剤師徒弟の職業的身分のまま、大学化学教授に匹敵する地位についたことになります。(Klein, p.126)
ちなみに、ベルリン科学アカデミーで、大学の学位をもたないまま有給の職についた科学者としては、1)マルクグラーフ、2)アーカート Franz Carl Archard 1753-1821、3)クラープロート。
クラープロートは、1810年新設のベルリン大学の初代化学教授(哲学部正教授)となる。(他にロンドン王立協会会員(1795)、パリ科学アカデミー会員(1804))
彼の化学講義には、有名な哲学者ショーペンハウエルやシュライエルマッハーも出席した。
マルクグラーフとクラープロートは、徒弟修行を受けた職人としての薬剤師であり、大学の学位とは無縁のまま、長い間薬局を運営し、あるいは所有し、薬剤を製造・販売していた。同様に、当時の有名な薬剤師-化学者であるヴィークレープもヴェストルンプも決して自身の薬局を離れることはなかった。マルクグラーフとクラープロートは、ベルリン科学アカデミーに有給のポストをもち、その化学実験室の管理人であった。さらに、マルクグラーフは、物理部門の長であった。ドイツ国内だけではなく海外の学会の会員であり、広範囲にわたる化学的テーマに関して化学の教科書を執筆し、化学の教師であった。 クラープロートの場合では、ベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の化学教授にさえなっている。彼らの学者-化学者としてのキャリアは、薬剤師の職業を終えたあとはじまったのではなく、薬剤師の職業と同時に、あるいは薬剤師と仕事と結びついた形で展開しているのである。
マルクグラーフとクラープロートは、同時に開業薬剤師であり、科学的な化学者であった。すなわち、薬剤師-化学者であったのである。たしかに、薬剤師-化学者として彼らはトップに上り詰めた人材であったが、18世紀のドイツには、ノイマン、ヴィークレープ、ヴェストルンプ、グレン F.A.C. Gren 1760-98、ローゼ(父)V. Rose Sr. 1736-71、ローゼ(子)V. Rose Jr. 1762-1807、トロムスドルフ、ヘルムシュテットのような有名な薬剤師-化学者の一群がいたのである。
(Hufbauer, p.88)
『化学年報 Chemische Annalen』1784-1789 にもっとも数多く論考を寄せた上位8人。(年齢順)
ヴィークレープ 薬剤師-化学者
クラープロート 薬剤師-化学者
ヘイヤー 薬剤師
グメリン 科学者
アーカート 科学者
ヴェストルンプ 薬剤師
グレン 科学者
ヘルムシュテット 科学者-技術者論考数で並べると、1)ヴェストルンプ、2)ヘルムシュテット、3)ヴィークレープ;クラープロート、5)アーカート、6)グレン、7)ヘイヤー、8)グメリン
掲載ページ数で並べると、1)ヴェストルンプ、2)グメリン、3)アーカート、4)ヴィークレープ、5)ヘイヤー、6)グレン、7)クラープロート、8)ヘルムシュテット
(Hufbauer, p.91)
『化学年報 Chemische Annalen』1784-1789における引用分析から、当時のドイツ化学の中心メンバー15人。
核:アーカート、ゲトリンク、クラープロート、ヴェストルンプ、ヴィークレープ
中位層:グメリン、グレン、ハーゲン、ハーネマン、クレル、ヘルムシュテット、イルゼマン、レオンハルディ、マイヤー、ストール
周辺:ボルン、デーネ、フェーベル、ヴァイグル
おおきいちびといっしょに5時半。昨夜から激しい雨。天気図を見ると、東京の上空に低気圧が居座っています。新1年生にはちょっとたいへんなスタートとなります。ちびどもは、着替えて6時15分に階下に来ました。あかんぼうは6時半。昨日は入学式がはじめる20分も前に会場を逃亡したくせに、あかんぼうは、ランドセルには思いがあるようです。ちいさいちびのをとって自分で勝手に背負っていました。自分だけないのが納得いかないのでしょう。
ちょうどよいので、ちびどもを小学校までおくってから大学へ。最初の頃は付き添うお父さんやお母さんの姿がちらほら。
大学には、8時45分頃着きました。研究室にいって、2件(6点)の書類を処理。春休みに地層をなしていた研究室の机を片づけてから、帰宅しました。11時前に帰り着きました。12時前に、お帽子も反対(前後)、長靴も反対(左右)でちいさいちびが帰ってきました。学校や思ったより楽しいという感想。
おおきいちびはさすがに3年生。いつも通り、3時前に帰宅しました。帰ってくるなり、3年生になって得した、教科書とノートをたくさんもらった、とのこと。教科書は増えたでしょうが、ノートは、学校がおそらく形式をあわせるために共同購入したものです。もらった書類にちゃんとお金の請求がありました。数えてみると、14点ありました。
帰宅して、編集委員会の宿題を4件処理。ふー。元気なときは4件程度はなんてことはないのですが、疲れてくるとこれがなかなかに重い。
夜半に目覚めて、すこし仕事。夜半に目覚めるのは、軽度の花粉症がまだ続いているせいです。昼間はほとんど症状がありませんが、寝ていると鼻がつまったり、鼻水がでたりします。今日入学式のちいさいちびといっしょに6時20分。あかんぼうとおおきいちびは6時前でしょうか。以前の天気予報では途中から雨。しかし、この朝の感じだと雨は降ってもかなり遅くなってからだと思われます。あかんぼうを連れての入学式で雨は面倒なので、帰宅するまではもってほしい。
朝方に、昨日持ち帰った宿題を6件、処理しました。
おおきいちびはいつもの時間で小学校へ。残りは、9時15分頃小学校に向かいました。あかんぼうはまるで自分の入学式であるかのように張り切っています。
途中でおおきいちびと合流し、お仲間と挨拶を交わしながら、受付へ。今年はクラスが1つ増えて3クラスです。ちいさいちびは1年2組。幼稚園で一番仲のよかった子は3組。ちょっとしょんぼりしていました。
式は10時から。みんな体育館に入っているので、我々も9時40分頃体育館へ。あかんぼうはすぐに自分で席を取りました。5分も経たないうちに、ミルク欲しい。仕方がないので、おおきいちびといっしょに連れ出しました。
しばらく校庭で遊んでいましたが、ケーキを買いに行こうと言って外に出ました。ケーキ、ケーキと歌いながら、駅前のコージーコーナーへ。
いつものチョコレートケーキを買い、帰途。途中であかんぼうは座りこみ、歩かなくなりました。ケーキはおおきいちびに持ってもらって、おんぶ。帰り着いてしばらくケーキが欲しいと泣いていましたが、10分ほどであきらめて、いつものおもちゃで遊びはじめました。
11時頃おおきいちびがお腹が空いた、先に食べるというので、朝方妻が仕掛けてあった炊き込みご飯を食べさせました。3杯も食べました。妻とちいさいちびは12時前に帰ってきました。ちいさいちびは新入生を示す黄色い帽子を被っています。あかんぼうがそれを早速奪い取って自分が被りました。
急いで昼食をとったあと、今日の衣装をクリーニング屋さんにだし、ミルクを買って帰っていると雨。ちょうどよかった。天気はもってくれたわけです。
午後4件、編集委員会の宿題を処理しました。あと2点残っていますが、それは一度大学にいかないと処理できません。1日に10件処理すると、一仕事した気持ちになります。
授業の準備。
ヨミウリに67例目の脳死・臓器移植が行われたという短い記事がありました。(脳死判定としては68例目)。
67例目の脳死・臓器移植
すこし検索をかけてみると、大阪ヨミウリのページに問われる腎移植というよくできたサイトがありました。6回にわたる「<連載>移植医療を問う」というシリーズを含みます。
[2008年度スケジュールの整理]
4.6に確認したのは、2008年度の授業スケジュールです。次の通りとなりました。記憶するためにしばらく第2位に置いておきます。
4月14日(月曜日)スタート:2限「科学技術と社会」;3限「院・ヨーロッパ歴史文化論」;4限「院・思想文化論」;5限「院・共通特殊研究」
4月16日(水曜日)スタート:4限「生協寄付講座・生活と権利を守る」(前期のみ227教室)
4月17日(木曜日)スタート:3限「科学思想史講義」;4限「科学思想史演習」;5限「科学思想史卒業論文演習」
4月18日(金曜日)スタート:5限「東大駒場・相関基礎科学特殊講義III 」(14号館308教室)
外大吉本担当授業時間割
/ 月 木 1 2 総合科目III/107 3 院・ヨーロッパ歴史文化論 科学思想史講義/227 4 院・思想文化論 科学思想史演習/420 5 院・共通特殊研究 科学思想史卒演/529
学内リレー講義
総合文化コース専修科目「表象文化論」火曜日1限(117教室)
6月17日(火曜日)担当「都市の表象:東京スタディーズ」
非常勤
2008年度夏学期、東大駒場授業「相関基礎科学特殊講義III 」
金曜日5限(14号館308教室)
夜半に目覚めて、すこし仕事。今日は夕刻東工大にて編集委員会があります。さすがにこの日程だと3人の方から欠席通知がありました。あかんぼうは5時過ぎ。私は、5時50分。ちびどもは6時過ぎ。小学校入学にあたり、ちいさいちびの起床時間がすこし気になっていました。冬のあいだ、ずっと8時前に起床していました。帰省旅行のおかげで、うまくすくなくとも7時前後に起きることができるようになりました。(小学校は幼稚園よりもおおよそ1時間はやく家をでます。)
9時前に子どもたちは全員揃って公園にでかけました。朝のあいだに今日の編集委員会の仕事をほぼ終えることができました。半日すぎたような感じがありますが、まだ9時。
ちびどもがいないあいだに、帰京したときに郵便受けに入っていた『科学史研究』通号245号から、山田博士の論文を読みました。
山田俊弘「フック地震論とステノ固体論の比較―鉱物コレクションを基礎として―」『科学史研究』第47巻(通号245号)(2008年春), pp.13-25.
なるほど。同じく、帰京のときに駅からの帰り道に買った『論座』と『月刊現代』の5月号も読み始めました。
→東工大にて編集委員会。4時から6時。東工大の桜は8割方散っていましたが、家族連れの花見客の方がけっこう見えていました。芝生の上で、子どもたちが打ち興じていました。
あかんぼうといっしょに5時半。今日から日常の生活。月曜日には、ちいさいちびの入学式。郵便物を取ってこようと朝一番、なんと6時40分に家をでました。駅につくと、御茶の水駅で信号故障があり、下り電車は中央線も総武線も止まっていました。仕方がないのでベンチに座って、昨日着いた次の本を読んでいました。
鈴木隆志『ステンレス鋼発明史』アグネ技術センター、2000
故障はかなり長引き、西武線に乗り込めたのは、8時54分武蔵境発の電車となりました。駅のベンチで長く待っていたおかげで、上記の本の必要な部分には目を通すことができました。
大学に着くと、巨大な2008年度のシラバスでメールボックスがいっぱいです。こんな大きなものをカバンにいれて運ぶ気にはなりません。研究室にいって、必要な箇所のチェックをしました。
チェックがすんでから帰宅。途中で買い物をしましたが、9時45分頃帰り着きました。ちょうど昨日送った荷物が着いたばかりで、ちびどもがピアノの先生のところにでかける直前でした。あかんぼうが外に出ると、自分の三輪車ででかけるといってききません。やっと妻の自転車の前に乗せました。ということで、ピアノの先生のところへは私が送っていき、妻はクイーンズに買い物へ。おや、まだ一日の半分も終わっていません。
昼食前、あかんぼうが暴れています。眠いのでしょう。妻がベビーカーに乗せて、散歩に出ました。帰ってきたときにはベビーカーで寝ていました。おおきいちびの体操着を買ってきていました。けっこう遠くまで散歩したようです。
3時から、小学校に校庭開放へちびどもを連れていってやりました。ちびどもとサッカー。私対ちびどもの組。ちょうどよいぐらいです。久しぶりに走りました。
そうこうするうちに昼寝から目覚めたあかんぼうが合流してきました。4時から6時のあいだに、荷物(セイユウの買い物)が届くので誰かいないといけないというので、私がセイユウに紙を買いにいったあと、戻りました。帰宅してしばし休憩。30分ほどしてセイユウさんが来ました。荷物を片づけているうちに、子どもたちも帰ってきました。昼寝の時間が定まらないせいもあるのでしょう、あかんぼうは最近ヤーダマンになっています。何を言っても、ヤダー、ヤダーと答えます。欲しいものがあるときだけ、素直に、ミルク欲しい、と言います。上の子たちにもあったことです。自我の形成に必要な時期だということは理解しています。しかし、疲れている親には、なかなかにしんどいことです。
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