ひとり遅れて8時。居間に降りると子どもたちは3人でマリオ。今日まで暖かいようです。午後、アマゾンより次の本が届きました。
Jole Shackelford,
A Philosophical Path for Paracelsian Medicine: The Ideas, Intellectual Context, and Influence of Petrus Severinus, 1540-1602
Copenhagen, 2004
6567円ですが、思ったよりもずっと大きな本でした。519頁でへたなノートパソコンと同じくらいの重さがあります。
注文したのは記憶にありますが、いつ注文したのかは忘れています。ずいぶん前ということです。おおきいちびは1時45分に約束しているということで、1時35分頃でかけました。妻の風邪が完治していません。ちいさいちびと幼稚園児もどこかに連れていってあげるという昨日妻は約束していましたが、状態によって取りやめ。ちいさいちびはお絵かきをしたり、宿題の作文に取り組んだりしていました。
幼稚園児は、すこし外で遊んだ後(家の前の私道で自転車に乗るのが最近のお気に入りです。補助輪付きなら、かなり乗りこなせるようになりました。本人にその気があれば、このまま練習して、自転車に乗れるようにはなりますが、どうでしょうか)、家の中に戻り、ソファーと椅子の間に、自分の部屋を作りました。これも最近お気に入りの遊びです。自分の部屋は、座布団・クッション・毛布を集めて作ります。妻が夕食の準備に取りかかった頃、両手を頭の後ろに回して座った状態のまま寝入っていました。この辺りがまだまだC組さんです。ちいさいちびも階下に降りてきて、思わずにっこり。これは誰でも笑ってしまいます。
1度目覚めましたが、そのまま布団の上に連れていきました。しばらくうとうとしていましたが、ほどなくまた寝入りました。朝まで寝るでしょう。
今月は、30日になってやっと200枚を越えました。幼稚園児といっしょに7時半。よく寝ました。今日も日中は暖かいということです。
靴がひどい状態です。妻がABCマートのポイントカードがあるというので、昼食後、ヨドバシの上の階のABCマートに靴を買いに行きました。こどもたちに聞くと、幼稚園児だけがついてくるということです。二人ででかけました。
普段履きのズックです。私の方にこだわりはまったくありません。お店に行って、店頭を見回し、すぐに決めました。アディダスの製品。お店の人にフィッティングを手伝ってもらいました。店員さんによれば、アディダスは同じ数字でも他社のものより小さいということです。本当でした。いつも履いているものより数字上は1センチ上でぴったりでした。家に持って帰ってもただゴミ箱行きなので、お店で処分を頼みました。
幼稚園児にはガチャポンを一個買ってやりました。それで直帰するつもりだったのですが、幼稚園児が入り口のところにアイスクリーム屋さんがあるのを見つけ、ほしいと言います。暖かいのでよいでしょう。アイスクリームを買ってやりました。8割方食べたあたりでもういい。残りを私がさっと口のなかに放り込んで帰途へ。
ちいさいちびがおやつにピザ、おやつにピザと言っていました。西荻のガード下のスーパーで、ピザの台ともろもろを買って帰宅しました。
帰宅すると、ちびどもが自分たちでピザ作り。といって、買ってきた台の上に、チーズとトマトを乗せ、あとは好きなものをトッピングするだけです。ハムとウインナーソーセージとコーン。自分で作ると美味しく感じるようです。それぞれ、半分以上食べました。幼稚園児も欲しがったので、おおきいちびのを少し切り分けてやると、お肉とコーンだけを選り分けて食べていました。
明日おおきいちびはお友達のおばあちゃん家に行って、老人の知恵を聞いてくる(昔の道具や生活を聞く授業の一環です)のだそうです。他人のお家にお邪魔するのに、手ぶらというわけにもいかなので、お土産をもたせることとしました。おやつの時間のあと、私が幼稚園児を自転車の荷台に乗せ、ちびどもは自分の自転車で、クイーンズへ買い出しに。妻から牛乳の要望があったので、牛乳3本、幼稚園児の欲しがったジュース2本、それにもうそろそろ底の見えそうだったお米も買いました。10キロを越える荷物となりました。さすがにけっこう重い。
幼稚園児とちいさいちびがまだ外で遊びたいと言います。一度買い物したものを家に置いて、今度は、幼稚園児とちいさいちびと3人で近所の公園に出かけました。幼稚園児は、自分の自転車に乗りたかったようです。ということは、私は徒歩。
暖かかったせいでしょう、公園には子どもたちが大勢来ていました。ちいさいちびは来てみたものの、お友達も見あたらず、幼稚園児は勝手にあっちこっちして喜んでいるだけなので、すぐにひまになり、短い滞在時間で帰りました。幼稚園児は、これがわが家の幼稚園児の性格ですが、知らない家族連れ(お父さん、お母さん、おねえちゃんといもうと)が遊んでいるところへ顔を出して、仲間になってしまいました。お父さんがとくによく相手をしてくれています。私は疲れていたので、ただベンチでじっと座っていました。おいかけっこをして公園内を走り回っています。5時前に寒くなってきました。ちょうどよい頃あいです。遊んでくれたお父さんにお礼を言ってから、帰ってきました。
妻は、疲労と風邪気味。
[錬金術師]
昨日はとってきたコピーのうち、次のマルソーフのルネサンスの蒸留技術史だけを読みましたMulthauf, R., "The Significance of Distillation in Renassance Medical Chemistry," Bulletin of the History of Medicine, 30(1956): 329-346.
私にとってはよい論文でした。中世の錬金術師のうち、このテーマに特に関与するのは、ルペシッサのヨハネス(Johannes de Rupescissa, John of Rupescissa) です。著作としては、最初にルペシッサの名前を出した出版物として、La vertu et proprieté de la quinta essence, translated by Antoine de Moulin Masconnois, Lyon, 1549.
パラケルススのArchidoxiesは、ルペシッサのヨハネスの伝統に属するが、ルペシッサのオリジナル(1350年頃)からパラケルススのArchidoxies(1569)の間に生じた精緻化は、ルペシッサの草稿を複製した者たちの手による。最初の印刷物は、ルルスに帰される(Raymundi Lulli de secretis maturae sive quinta essentia libri duo, Argentorati, 1514.) 。10年後、もう1点の労作がフィリップ・ウルシュタットの手で出版された(La ciel des philosophes, Paris, 1550. The first edition appeared in 1526 or 1528.)。1549年になってはじめてルペシッサの名を出した書物が出版された。
Johannes de Rupescissa, De consideratione quinta essetiae rerum omnium, edited by G. Gratorolo, Basel, 1561.
ここまではマルソーフのまとめです。さて、「ルペシッサのヨハネス」が気になり、日本語の錬金術関連書を本棚から引っ張りだして見てみました。コップの訳書に名前が出ていません。あれ、と思い、何冊か見てみましたが、まったく名前が出てきません。え? やっとホームヤードの『錬金術の歴史』(朝倉書店)に名前は出現しましたが、p.227でたった1行のみです。単純に辞典的にきちんとした書物が錬金術に関して(日本語の世界では)まだ出版されていないのではないでしょうか。仕方がないので、ドイツ語の錬金術辞典Alchemiae: Lexikon einer hermetischen Wissenschaftenを繰ってみました。Julian Paulus によるほぼ2頁にわたる記事が掲載されています。書誌もきちんとしています。『化学の劇場』にも、Bibliotheca Chemica Curiosaにも採録されています。(蒸留技術あるいは第5精髄を扱ったものの他に、重要な著作は、『光の書』Liber Lucisです。)
→Liber Lucis Ioannis de Rupescissa apud Theatrum Chemicum, vol.3(1613), pp.278-290.
& also Liber Lucis Ioannis de Rupescissa apud Bibliotheca Chemica Curiosa, vol.2, pp.84-87.
De materia lapidis nostri. Cap. II.
Materia lapidis est una & eadem res, villis precij, quae ubique reperitur in aqua viscola, quae dicitur Mercurius, & quoniam dicunt quod reperitur in vilibus locis, multi brutalium hominum qui non intelligunt sucundum intentionem Philosophorum, istum lapidem in stercoribus quaesiverunt. Et scias fili mi, quod materia praeparatur removendo terreitatem quam habet Mercurius, & apponendo ei sulphur Philosophorum, quod non est sulphur vulgare, imo sulphur nostrum est invisibile, & ego suo nomie propria *ominabo, quod est vitriolum Romanum, quod quidam philosophorum vocant magnesiam, & hae duae operationes sic fiunt.
Multhauf (1954), p.361 の英訳を参考に訳してみましょう。
「石の材料は、価値の低い、同一のものである。それは、水銀とよばれる粘水のうちに見出される。そして、それは悪所で見つけることができると言われているので、賢者の意図を解さない野蛮な男は、この石を汚物に捜そうとする。しかし、この材料は水銀の土性を除去し、賢者の硫黄にあわせることで調合されることを知るべきだ。これは、普通の硫黄でない。我等の硫黄は、不可視である。その正しい名前は、ローマのヴィトリオルであり、賢者のなかにはこれをマグネシアと呼ぶものもいる。このふたつによって、作業はこうのようになされるのである。」
これだけでプロセスそのものはわかりませんが、水銀、硫黄、硫酸を使うことはわかります。マルソーフによれば、(第1の作業は)Salpetrae との混合物をいっしょに昇華して、「雪のように白い昇汞」を得る。2番目のプロセスは次。
Posuisti intra ipsum sulphur invisibile, quod est tinctura rubedinis, & est spiritus vitrioli Romani & cum ipso fit magnum adminculum, quoniam cum habeat ipse spiritus naturam tingendi in rubeam, & ad congelandum mercurium in substantia, & facit ipsum album sicut nivem. Et hoc est illud quod magni philosophi acripserunt, quod lapis noster fit ex mercurio & sulphure praeparatis & separatis, & de hoc opere & substantia dicit Magister Arnoldus in tractatu suo parabolice, nisi granum frumenti in terram cadens mortuum fuerit, etc. Intelligens pro grano mortuo in terra, mercurium mortuum cum salepetrae & vitriolo Romano, & cum sulphure, & ibi mortificatur, & ibi sublimatur cum igne, & sic multum fructus adfert, & hic est lapis mojor omnibus, quem philosophi quaesiverunt, & in ventum absconderunt.
同じく、マルソーフ (Multhauf (1954), p.362) によって訳出しておきます。
「それを、赤のティンクチャーであり、ローマのヴィトリオルの精気である不可視の硫黄と混ぜよ。それはおおいなる助けとなる。そしてそれが自然を赤に染め水銀を実体へと凝結させるこの精気を保持しているときには、それは雪のように白い昇汞を作る。これが偉大なる賢者が我々の石は調合され分離された水銀と硫黄からなると書き記したことがらである。この作業と実体については師アーノルドがその論考『パラボリカ』で「果実の種が土中に落ち、死ぬことがなければ。。。」という言葉で言い表したものである。土中で死ぬ種子とは、サレペトラエとローマのヴィトリオルと硫黄にいっしょに死ぬ水銀であり、そこで浄化され、そこで火によって昇華されて、おおくの果実をもたらす。ここに、賢者が求め風のなかに隠されていたすべてのなかで最大の石がある。」
マルソーフによれば、最大の秘密は、サル・アルモニアック(ろしゃ)を付加する点にあるとあります。→Liber Magistri Ioannnis de Rupescissa, De Confectione Veri Lapidis Philosophorum... apud Theatrum Chemicum, vol.3(1613), pp.179-188.
中世の錬金術師について、情報をきちんとまとめておく価値/必要があると思われます。
もちろん、以前ダウンロードしてあった次の論文も同時に読みました。
Multhauf, Robert P., "John of Rupescissa and the Origin of Medical Chemistry," ISIS, 45(1954): 359-367.
(プリントアウトしたものを探し出すのが面倒だったので、もう一度プリントアウトしました。9頁の論文です。私にとってはその方が合理的です。)→ファーガソンは、次のように記述しています。Vol.2, p.305
RUPESCISSA (Joannes de)
Liber de confectione veri Lapidis philosophorum
See GRATAROLO (G.), Verae alchemiae...doctrina, 1561, ii, p.226.
See Theatrum Chemicum, 1659, iii, p.189.
See Manget (J.J.), Bibliotheca Chemica Curiosa, 1702, ii, p.80.Liber lucis.
See BROUCHUISIUS (Daniel), Secreta Alchimiae Magnalia, 1612, p.41.
See Theatrum Chemicum, 1659, iii, p.284.
See Manget (J.J.), Bibliotheca Chemica Curiosa, 1702, ii, p.84.Thesaurus Mundi, Ein Büchlein welches genandt wird ein Schatz der Welt.
See NAENDER (Theophilus), Heptas Alchymica, 1612, p.294.GRATAROLO (G.), Verae alchemiae...doctrina, 1561 はグーグルブックにあり、ダウンロードしています。フルタイトルは、次のようになります。
Gratarolo, Guglielmo (ed.),
Verae Alchemiae Artisque Metallicae, citra Aenigmata, Doctrina, certusque modus, scriptis turn novis tum veteribus nunc primum & fideliter maiori ex parte editis, comprehensus : quorum elenchum Praefatione reperies. Habes, amice Lector, admiranda utilissimaq; multa, quae hactenus occultata, & veluti sepulta iacuerunt: quorum editionis rationem in Praefatione ad philosophos Chemistas paucis intelliges.
Basel, 1561
ツェツネル編の『化学の劇場』に繋がる錬金術論考の集成です。2巻を1冊にバインドしています。 [15, 1 blank] 244, 299. 全部で53の論考が集成されています。第2巻35番目がJoannis de Rupescissa liber de confectione ver Lapidis Philosophorum, ii. p. 226 です。ゲーベル、ヴィラノヴァのアーノルド、ロジャー・ベイコン、ルルス等の名前が並びます。
7時。幼稚園児はまだよく寝ています。ちびどもが風邪気味。おおきいちびは頭が少し痛いようです。ちいさいちびは鼻水を流して、遊びたいようと言っています。暖かい。床暖房が不要なぐらい暖かい。
暖かい日がちょうどよいので久しぶりに図書館へ出かけることとしました。10時過ぎに簡単な昼食をとってから出ました。まず、駅前のコピー屋さんで製本をお願いしました。1時にできるということで、1時まで作業をすることとしました。
人が多いと嫌だなと思っていたのですが、駒場の地下の書庫には、私以外には2〜3名しかいませんでした。ほとんど待つことなく、次の論文のコピーを取ることができました。Multhauf, R., "The significance of distillation in Renaissancemedical chemistry," Bulletin of the History of Medicine, 30(1956): 329-346.
Crosland, Maurice, "Changes in Chemical Concepts and Language in the Seventeenth Century," Science in Context, 9 (1996): 225-240.
Multhauf, Robert K., "Operational Practice and the Emergence of Modern Chemical Concepts," Science in Context, 9 (1996): 241-249.
Klein, Ursula, "The Chemical Workshop Tradition and the Experimental Practice: Discontinuities within Continuities," Science in Context, 9 (1996): 251-287.
Kahn, Didier, "Entre atomisme, alchimie et théologie: la réception des thèses d'Antoine de Villon et Étienne de Clave contre Aristote, Paracelse et les 'cabalistes' (24-25 aout 1624), " Annals of Science, 58(2001): 241-286
Multhauf, R., "Sal Amoniac: a Case History of Industrization," Technology and Culture, 6(1965): 569-586.
Multhauf, R., "The Significance of Distillation in Renassance Medical Chemistry," Bulletin of the History of Medicine, 30(1956): 329-346.
Read, John, "William Davidson of Aberdeen: the first British Professor of Chemistry," Ambix, 9(1961): 40-101.
Avramov, Iordan, "An Apprenticeship of Scientific Communication: The Early Coorespondence of Henry Oldenburg (1656-63)," Notes Rec. R. Soc. Lond., 53(1999): 187-201.
Multhauf, Robert K., The origins of chemistry (London : Oldbourne, 1966), pp.201-298.
ご覧の通り、マルソーフのものが5点です。図書館で千円のコピーカードを購入しました。数十度数のものが1枚残っており、以上でちょうどぴったりコピーカードがなくなりました。もちろん、これで完了というわけではないのですが、一日の仕事としてはこれぐらいかな、と思い、今日はここで打ち切り、朝方頼んでいた製本を受け取って帰宅しました。出かけるときは暖かかったのですが、帰途は冷たい風が吹いていました。家に着いて、1時40分。妻が幼稚園児を迎えに行く直前でした。
幼稚園児は、幼稚園から直接友達の家に遊びに行きました。妻は幼稚園にもどっていろんな話し合い。
おおきいちびが最初に帰ってきました。ほとんど滞在時間なく、そのままお友達の家に遊びに行きました。ちいさいちびはそのしばらく後に帰ってきて、これもそのまま公園に遊びに行きました。
打ち合わせが長引いたようで、妻の帰宅は、5時過ぎ。妻が帰宅する前にちいさいちびがお腹空いたというので、冷蔵庫の中を見回して、ふわふわタマゴを作ってやりました。昨日のツナサラダが残っています。ちいさいちびはこれで夕食。食べ始めてすぐに妻と一緒に帰ってきた幼稚園児も合流。疲れたようでしばらくごねていましたが、洗濯物の処理をすませたママに食べさせてもらいました。
おおきいちびはお友達のお家で、夕ご飯をご馳走になりました。7時50分頃帰りました。
7時半。曇り。雨の予報です。へんになまあたたかい。
雨は結局お昼過ぎにちょっと降っただけで止みました。私の空判断では、もう降らないと思います。ゴミの収集が来る前に、隣地との境界の工事がやっと終了していました。前に工事(隣地とは高低差があります。こちらが数十センチ高い。低いブロック塀を盛り土を支えるために設置してもらいました)したときに、境界線が2センチずれていたということで、それを正しい位置にもどすということです。一昨日、すでにあるブロック塀の上部を取り壊していました。昨日、新たにブロック塀を乗せていました。工事のおじさんの話では、コンクリートがすぐには乾かないので、わが家の敷地の方の土の埋め戻しは今日にするということでした。朝一番に来て、30分ほどで完了していました。私でも30分あればできる程度の作業です。
今、その隣地と斜め向かいの土地が更地になっています。具体的にいつというのはまだ教えてもらっていませんが、春になってから、新築工事が始まるということです。最近は昔と違ってびっくりするほど速く建ちます。が、工事は工事。暖かくなってから、工事の音がしばらく続くのを覚悟しておく必要があります。
やっとですが、次の共著研究書の印刷版を受け取りました。5冊です。きれいにできています。
Iordan Avramov, Michael Hunter and Hideyuki YOSHIMOTO
Boyle's Books: The Evidence of his Citations
Robert Boyle Project, Occasional Papers No.4, 2010
ISBN: 978-0-9551608-3-7
ボイル・プロジェクトのサイトから pdf でダウンロードできますが、短くてもよいので、書評・紹介を書いて下さるという方がいたら印刷版をお送りします。遠慮なく連絡下さい。
幼稚園児に続いて7時15分。まだまだ快晴。1月24日に次のものをダウンロードしていました。午前中に読みました。
Allen Debus, "Chemistry and the universities in the seventeenth century," Estudos AvanÁados, vol.4, no. 10, (1990)
ニューマンの論文のような派手さはありませんが、使えます。
今回もっとも注目に値する事実だと思われるのは、(ブールハーヴェ以前に)ライデンで化学を教え始める二人、De Maet と Le Mort がアムステルダムのグラウバーの実験室で訓練を受けていたということです。化学の社会史を考えるときに、ひじょうに興味深い事例です。Carel de Maets (1640-1690):ライデン大学で最初に化学講義に指名された人物。アムステルダムのグラウバーの実験室で訓練を受けたあと、ユトレヒト大学に赴く。ライデン大学では新しい実験室が1669年に開かれる。そのとき、彼はサラリーなしに任命されるが、1672年までに哲学部の正教授となり、7年後医学部の正教授にも任命される。
著作は、次の2点。
Prodromus Chymiae rationalis(1684)
Chymia rationales et praxis chymiatricae rationalis(1689)
化学の目的は4つ。1)火による物体の分解(理論的あるいは思弁的部分)、2)化学的医薬の調合、3)冶金術、4)変成あるいは錬金術。教科書は、2)だけに関わる。Jacob Le Mort (1650-1718): やはりアムステルダムのグラウバーの実験室で訓練を受けたあと、自分の実験室をライデンに建造した。ユトレヒト大学でM.D.取得(1678)。De Maet が1690年に死去すると、 Le Mort にライデン大学化学実験室の管理が任せられた。1697年に教授昇任が承認されるが、1702年になるまでその昇進は公式のものとならなかった。1718年Le Mortが死去すると、化学教授の地位はブールハーヴェが引き継いだ。(ブールハーヴェは、医学・植物学・化学教授となる。)
17世紀後半のライデンの化学の授業をもっともよく伝える資料は、イギリスからの医学生 Christopher Love Morley (ca. 1646, M.D. 1679) のとった化学のノート。すなわち、Christopher Love Morley, Collectanea Chymica Leidensia, Maëtsiana, Margraviana, LeMortiana, Leiden, 1684.
タイトルが示す通り、ライデンでの3人(De Maet, Margraaf, Le Mort) の化学講義の Collectaneaです。
MargraafとはChristian Margraaf (1626-1687)。
このあたりはあまり分析されていない資料のようですが、ディーバスの指摘するとおり、非常に興味深いものです。ユトレヒト大学の事例。Johann Conrad Barchusen (1666-1723) が1694年から化学を教え始める。1703年彼は化学の員外教授に選出される。
ヨハン・クンケル(Johan Kunckel, 1630 or 1638-1703) がヴィッテンベルク大学で1677年実践化学の教授に任命される。
ヘルムシュタット大学では、Johann Andreas Stisse が1690年から1703/4年にかけて、化学を教え、Actaを発行する。
エアフルト大学では、カスパー・クラメル (Caspar Cramer, 1648-1682)が医学教授の身分で化学を教えた。彼の化学講義は、Collegium Chymicumとして1688年死後出版された。クラメルは、フィリードリッヒ・ホフマン(Friedrich Hoffman, 1660-1742)を教えた。彼は、イエナで(ロルフィンクの学生であった)ゲオルグ・ヴォルフガング・ヴェーデルのもと化学を学んだ。ホッフマンは、ハレ大学の最初の医学教授を与えられた。その同僚ゲオルグ・エルンスト・シュタール(Georg Ernst Stahl, 1660-1734) は、ヴェーデルのもと化学を学び、1684年にはイエナ大学で化学を教えていた。ライプチッヒでも状況は似たようなものであった。非常に大きな影響力をもった医学教授エットミューラー (Michael Ettmuller, 1644-1683) が化学を教えた。その講義は、Chymia rationalis ac experimentalis curiosa(1684) として出版された。この書物は多くの言語に訳され、数多くの版を閲した。
ディーバスのまとめは、「化学のアカデミズムでの認知は、医学のためという実践的理由によった。」1680年代までには、化学はヨーロッパ中の大学で広く教えられるようになっていた。ブレンデル→ブレンデル息→ロルフィンクとヴェーデル→シュタール。シュタールが1684年に化学を講義したときには、ヴィッテンベルク、ヘルムシュテット、エアフルト、アルトドルフ、ライプチッヒの大学で化学の講義が開かれていた。
化学が医学から独立したディシプリントなったのは、18世紀に入ってからのことである。しかし、上に見るように、17世紀後半ヨーロッパの大学で広く受け入れられていたが、それは医学の一部としてであった。
英国の状況。1655年末または1656年頭ボイルがオックスフォードに移住し、化学実験室を建造し、助手を呼んだ。呼ばれた助手のなかに、スタラスブールのピーター・シュタールがいた。彼は、1659年オクスフォードで私的に化学講義を行った。1663年オクスフォードを訪ねた Olaus Borrichius (1626-1690) は、オクスフォードでは化学に対する関心が高まっていることを観察している。この時期までに英国ではいくつかの化学実験室が出来上がっていた。ガンサー(R.T. Gunther)によれば、ルーパート王子、ジョージ・ウイルソン(George Wilson, 1631-1711)、コルネリス・ドレベル(Cornelis Drebbel, 1572-1633)とその息子、ジャナサン・ゴダード(Jonathan Goddard, 1617-1675)、ニコラ・ルフェーヴル(Nicolas Lefevre, or Le Febvre, Nicaise, c. 1610-1669)が主宰するセント・ジェームズ・パレスの実験室があった。(R.T. Gunther, Early Science in Oxford, 15 vols., Oxoford, 1923-1967, 1, pp.39-43) しかし、1680年代に入るまでオクスブリッジでは公式の化学講義はなかった。エリアス・アシュモール(Elias Ashmole, 1617-1692)は、オクスフォードに化学実験室を備えた博物館を建造する計画を立てた。ロバート・プロット(Robert Plot, 1640-1696)がジョン・イーヴリンの推薦で最初の化学教授に任命された。建物は1683年に開館し、プロットの化学講義はその年始まった。プロットは1689年にその職を辞した。
ケンブリッジでは1683年にはじめて定期的な化学講義が行われた。講師は、John Francis Vigani (c.1650-1713) といい、大陸で長く旅行・勉強し、テキスト(Medulla Chymiae)はダンチッヒで1682年に出版されていた。実験設備はオクスフォードに比べ非常に貧しかった。1703年、彼は、化学の名誉教授に任命され、1710年優れた化学実験室がトリニティに建造された。ヴィガーニの講義をとった人物に、ステーヴィン・ヘイルズとジョン・ヤードリーがいた。講義の特徴は、説明原理として原子論を強調したことにある。
フランスの状況。フランスに関しては、パリの医学部が医学への化学(パラケルススに由来する医化学)の導入に断固反対したということが大きい。
よく知られているように、フランスの化学教科書の伝統は、パリの王立植物園の化学教授達から生み出されていった。(William Davidson, Nicolas Lefevre, Christopher Glaser, Moyse Charas, Nicolas Lemery...)もうひとつのセンターは、モンペリエ大学。
Theodore Turquet de Mayerne, 1573-1655: モンペリエ大学で1597年医学博士号取得。17世紀における化学的医薬のもっとも際立つ提唱者の一人。
Theophraste Renaudot, 1586-1653: 化学的医薬を推進。
Sebastian Matte, called La Faveur がすでに化学講義をモンペリエで行っており、またその『化学の実際』Pratique de Chymie(1673)も2年前に出版されていたが、1675年、公式の書類(lettres-patentes) で医学部で化学講義を行うことを認めた。そして、教授に匹敵するサラリーと権限を得た。しかし、これは医学部教授にショックを与えた。医学部の教授達は、化学の職人 chemical operator が同じ地位にいるのを見たくなかった。M.D. 取得者がその任に当たるべきということで、Arnoldus Fonsorbe (d.1695) がモンペリエ大学の初代化学教授に任命された。
モンペリエは18世紀に入っても化学教育の最前線に立っていた。1695年のFonsorbeの死の後、1697年Antoine Deidier (d.1746) が化学教授に任命された。その地位を彼は約半世紀にわたって保持した。化学史/科学史の世界ではほとんど知られていない人物だが、彼は、化学と医学の分野で幅広く本を著している。(Chimie Raisonnèe(1715), Institutiones Medicinae Theoricae(1711) etc.)グーグルに次の本があったのでダウンロードしておきました。
Morley, Christopher Love
Collectanea Chymica Leidensia, Maëtsiana, Margraviana, LeMortiana
Leiden, 1693Le Mort, Jacob
Pharmacia Medico-Physica, Rationibus & Experimentis Instructa, Accuratione Methodo adornata
Leiden, 1684Vigani, Johann Franciscus
Chymia
London, 1688
幼稚園児に続いて7時前。幼稚園児は普通になっています。北風が吹いて寒い朝。
昨夜の風邪気味という言葉を聞いて、幼稚園休むと言い始めましたが、何とか説得して行かせました。休んで「ゲーム・オーバー」(マリオ)をひとりでやるつもりだったようです。幼稚園にちゃんと言ってきたら、マリオをやらせてあげるというと了解しました。
妻の打ち合わせや仕事が続いています。今日も幼稚園児を幼稚園に連れていったあと、ずっと小学校のPTAの仕事です。3時前に幼稚園児を連れて帰ってきました。Curtis Schuh's Bibliography of Mineralogy in the Site of Mineralogy Record
カーティス少年がどのように鉱物の世界に出会い、長じて鉱物学のファーガソンをめざし、そして砂漠に消えていったかが書かれています。昨夜、読む気もなく読み始めたのですが、ちょっと感動してしまいました。(私が見た範囲で)鉱物学の書誌として、ここが一番よいように思います。Albertus Magnus
De mineralibus et rebus metallicis libri quinque
Coloniae, 1569Lullus, Raymond
De secretis naturae sive: quinta essentia libri II
Venetiis, 1542Morienus
De re Metallica, Metallorum transmutatione, & occulta ...
Paris, 1564[ベッヒャー『地下の自然学』]
『地下の自然学』の版がやはりややこしい。まず、2008年のまとめを引用します。『地下の自然学』 Physica subterranea 1669.
3冊の補遺(1671, 1675, 1680)
4冊がまとめられて、完全第2版(1681)。
ベッヒャー自身によるドイツ語訳。『化学実験室、あるいは地中の博物学』Chymisches laboratorium, oder Unter-erdische Naturk殤digung (1680)
18世紀には、シュタールを通して知られる。シュタールは、『ベッヒャー例解』Specimen Beccherianum(1703、1738) を付したベッヒャーの版を出版する。これが18世紀の化学者には、フロギストン説の入門書の役割を果たした。タイトルをきちんと拾っていきます。
初版(1669)Actorum Laboratorii Chymici Monacensis, Seu Physicae Subterranae Libri Duo, Francofurti, 1669
補遺1(1671)Experimentum Chymicum Novum, Quo Artificialis & instantanea Metallorum Generatio & Transmutatio ad oculum demonstratur. Loco Supplementi in Physicam suam subterraneam et Responsi ad D. Rolfincii Schedas de non Entitate Mercurii corporum...., Francofurti, 1671
補遺2(1675)Supplementum Secudum In Physicam Subterraneam. Id est.. Demonstratio Philosophica, Seu These Chymicae, Veritatem, & Possibilitatem transmutationis metallorum in aurum evincentes. , Francofurti, 1675
補遺3(1680)Experimentum Novum Accuriosum De Minera Arenaria Perpetua., Francofurti, 1680
第2版(1681)Actorvm Laboratorii Chymici Monacensis, Seu Physicae Subterraneae Libro Duo, Francofurti, 1681
contains above 3 supplements.
pagination: [14], 1-560, [2], 561-678, [2], 679-810, [10]第3版(1703)Physica Subterranea Profundam Subterraneorum genesin e principiis hucusque ignotis, ostendens.... Specimen Beccherianum, fundamentorum, documentorum, experimentorum, subjunxit Georg. Ernestus Stahl.... , Lipsiae, 1703.
Newly added in this edition Stahl's Specimen Beccherianum第4版(1738)Physica Subterranea Profundam Subterraneorum Genesin, E Principiis Hucusque Ignotis, Ostendens, Lipsiae, 1738
ドイツ語版(1680)Chymisches Laboratorium, Oder Unter-erdische Naturkündigung, Franckfurt, 1680, 1690
第2版(1681)のベッヒャー自身によるドイツ語訳。最初の2つの補遺を含む。他にいくらか新しい資料が付加されている。こういう表を作っておかないとすっきりとは理解できない複雑さとなっています。
イギリス滞在中(コーンウォールの鉱山の検査中)に、Alphabetum Minerale(Francofurti, 1682)を出版しています。これは、鉱山業と鉱物学に関する用語集です。ボイルに献呈しています。(これのドイツ語訳は、Friederich Roth-Scholtzによりなされ、1723年に出版されています。)
昨日と同じく、8時。小学生は出かけたあとでした。幼稚園児はまだよく寝ています。8時半でしょうか。→8時50分に目覚めて、9時5分に出かけていきました。12時間睡眠です。
意外なことに、幼稚園児は2時過ぎに帰ってきました(普段は3時前です)。顔が赤い。熱を計ってみると、36度9分。微熱直前です。昨日はちょっと元気がなかったので、風邪の先駆症状でしょう。明日の朝には直っているかもしれませんし、本当に風邪の症状が出てくるかもしれません。本日の朝日新聞には、グローブ32号 globe.asahi.com というのが挟み込まれています。紙にして2枚、ページにして8頁の特集です。月2回月曜日発行、抜き出してお読み下さい、とあります。これは普通の紙面よりずっとよい内容だと思います。
私自身は昭和の人間ですから、新聞を読みつつ成長してきました。しかし、明らかに新聞もテレビも終わりつつあるメディアです。(まったくなくなることはないと思いますが、学生達がほとんど新聞を読む習慣をなくしていることを見れば、10年後に今の形で存続しているとも思えません。)
今回の特集は、「結婚、アジアの選択」です。もうすこし深く取材してほしいという思いもありますが、ジャーナリズムとしてはまさにこういう仕事をしてほしいという種類の仕事となっています。小さく挿入されているグラフが秀逸です。たとえば、合計初婚率のグラフを見ると、台湾に革命があったのかと思うほどの激減を示しています。紙面の取材でも妻に聞いてみても、台湾の人はほとんど気にしていないようですが、大きな変化が生じていることそのものは事実です。2050年時点における韓国の人口ピラミッドも非常に興味深いものです。
人口学者エマニュエル・トッド氏は、「少子化は長期的には外交や経済より切実な問題だ。日本のように出生率が1.3前後という水準が続くのは、単なる人口減少というよりも「国の没落」と言うべきだ。」と述べています。長期的に見ればまさにトッド氏の言う通りです。あるいは、「衰退国家」、もしくは衰退しつつある、衰退が運命付けられている国家、と言ってもよいでしょう。上手に衰退することが大切だと私は考えています。そう、内容的にはよい。しかし、この形式は読みづらいし、使いづらい。たぶん、変化の途上形態でしょう。もうすこし読みやすい形態を工夫してもらいたい。
昨夜遅くなってから、次の2点をダウンロードして読みました。
Allen G. Debus, "Alchemy and Iatrochemistry: Persistent Traditions in the 17th and 18th Centuries," Quimica Nova, 15(3)(1992): 262-268
John S. Davidson, "Chemistry at the King's Garden," [2005] [on the web http://www.chem.gla.ac.uk/staff/alanc/kingsgarden.pdf]
王の庭園とは、パリの王立植物園のことです。
さすがにここまで来ると、初見の内容は少なくなります。ディーバスの論文は、『フランスのパラケルスス主義者』が出版されるちょうど前のものです。論点が整理されていて使いやすい。
私にとってとくに重要なのは、以前にも注目していたがさらに掘り進める価値のある箇所に再び連れ戻してくれた点です。
すなわち、2004年の論文「17世紀後半の水銀学派の腐敗/発酵理論」『腐敗と再生―身体医文化論3』(慶應義塾大学出版会、2004), pp.115-134 で、ニューマンの『地獄の火:スターキーの伝記』(1994), p.226 からシュタールの『普遍化学の哲学原理』(1730)のpp.395-6 を引用しています。
この同じ箇所にディーバス(1992)は連れ戻してくれました。pp.376-424 を占める「補遺:水銀化の仕事、金属の水銀、活性化された水銀、そして偉大な哲学的(賢者の) 技に関する歴史的・実験的探究」です。第1節は「水銀化、または金属の水銀」pp376-393、第2節は「賢者の石」pp.393-424です。
使ったのは、第2節の「3.この点に関する探究には、3つの有名な学派three famous orders がある。その他のものは、この3つに由来する。」として、「賢者の石」の出発点とする物質で3つの流派を分けています。第1はパラケルススに基づき、ヴィトリオルから得ようとするもの。第2はセンディヴォギウスに基づき、ニトロ(硝石)から得ようとするもの。第3はフィラレーテスの筆名の著者(スターキーです)に基づき、水銀と金から得ようとするもの。こういうふうにシュタールは、賢者の石の流派を3つに分けています。
今回読み直す必要に迫られたのは、第1節「水銀化、または金属の水銀」の方です。非常に興味深い記述となっています。シュタールは、学説史的観察から始めています。「物体のスイギンに関しては、今、非常に多くの事が取り扱われており、また多大な期待がそれに寄せられている。しかし、そうしたスイギンを得るために通常記されるプロセスは、経験に基づくことがわずかであり、ロルフィンクはそうしたスイギンを得ることはそもそも不可能だと公然と告げ、そのために一個の論考を著した*ほどである。しかしながら、ベッヒャーは、ロルフィンクのこの行いを論駁した**。そして、その論駁において具体的にそうしたスイギンを得る方法を記した。」
* Guern. Rolfinck. de Non-entitat. Mercurij Corporum.
** Becher. Supplem, !. in Physic. Subterran.
こういうふうにシュタールは書き始めます。そして、ベッヒャーに味方する論者・論考を次に列挙していきます。
Kunkel. Observat. & Append. de Non-ent. Chymi. & c.
Langelot. In Epist. ad Natur. Curios.
Kerkringius. Ad Not. ad Currum triumphat. Anitmon.
Cassius. Tractat. de Auro, pag.3.
++ フォントネル氏の王立科学アカデミーの歴史において言及されているホンベルク氏のエッセイは、このタイトルのもと、こうしたスイギンを得る方法を教えると約束していますが、それは世間的には受け入れやすい贈り物です。
「2.こうした対立のなかで、我々は経験の側につかなければならない。」p.387 「ベッヒャーの推薦する酒石塩[ポタッシュ(炭酸カリウム)に同一]の揮発化は疑いもなくここで考察するに値する。しかし、彼がこの目的のために指示するプロセスには、ちいさな疎漏がある。欄外注ではヴィトリオル油から揮発塩を作る方法を言及しながら、本文中ではほとんど何も言及がないのである*。しかし、そのMinera Arenaria** において、ベッヒャーは、ヴィトリオルからの尿精[炭酸アンモニウム溶液]の調合方とその大いなる効能について触れており、さらにそのすぐ後、次の隠されたCuniculusにおいて、このアストラルなヴィトリオル塩はスイギン的なものだと証明されるだろうことを述べている***。この問題に対する回答は、Concordantia Chymicaに見出されるように思われる****。
.......
そしてベッヒャーのこうしたプロセス*****を我々は、様々な金属のスイギン化にもっともふさわしいものとして推薦する。」
* Supplem. II. in Physic. subterran.pag.791. §.190.
** Pag. 861, 862.
*** See Conclus. seu Synops. ibid. Cunicul. 5, 6. Edit. Francofurt. AN. 1681.
**** Pag. 314. No. 32.
***** Viz. in Concord. Chym. pag.314. No. 32, 33.これが錬金術の分散という手法です。秘法を明らかにするときに、一箇所で全部を述べるのではなく、関連する情報を別々の場所に分散させて述べることで、ほんとうに求める者にだけ秘法が伝わるようにします。これを暗号ととれば、シュタールはここで、ベッヒャーの暗号を解いて見せてくれているわけです。
欄外注には指示するが本文には述べない、そして別の場所で方法を開示する、という仕方をベッヒャーは使っていることになります。
ここで、シュタールは、出版地と出版年をきちんと挙げていることも注目に値するでしょう。ボイルの時代にはほとんどなかった習慣です。欄外注に対する注目は他にも見られる。p.388で「同じ趣旨のことを彼は『地下の自然学』の欄外注において+、金は辰砂に変えられる」と述べており、さらに同じページのすぐ下で、「このすぐ後†、欄外注において彼は銀のスイギン化の実験を提起しており、これもConcordantia Chymicaにおいてその内容を記している。」と述べる。
* Concord. Chym. pag. 299.
+ Supplement.II. pag. 812. §.253. ++Ibid.§.252.
† See Concord. Chym. loc. citat.
** Supplement.II. in Physic. Subterran. pag. 812. §.254.
グーグルでダウンロードできるシュタールの編集した『地下世界の自然学』(1703)がここでシュタールの使っているものと同じ版(ノンブルが同じ)です。こういうのは助かります。p.812の欄外には、次があります。 252. Distinguendum inter aurum solum & mixtum; 253. Aurum fit cinabrium. ; 254. Experimentum Mercurificationis argenti.
ちなみにp.791 の欄外は、189. Brevior Processus ; 190. Modus faciendi sal volatile ex oleo vitrioli ; 191. Sal tartari induit naturam mediam ; 192. Et tandem volatilem.(→まったく些細なことですが、ヨルダン&マイケルとの共同研究で、「本文で○○、欄外注で○○」という日本語の表現をどう英語でいうのかかなり頭を絞ったことを思い出しました。欄外注は、"margent" という英語をボイルは使っていて、これで大丈夫です。あるいは、"marginal notes"でもよい。「本文」に困りました。かなり考えて、"text" でよいだろうと思いつきました。シュタールの387頁の英語がこうなっていました。今更ながら、安心。)
→Concordantia Chymicaはリプリントを持っています。正確には、Johann Joachim Becher, Chymischer Glückshafen oder grosse chymische Concordantz und Collecition von fünffzehen hundert chymischen Processen(1682)です。314頁を見てみました。
32. [symbol of mercury] auss den Metallen zu machen
本文は化学記号を多用したラテン語です。
33. [symbol of mercury] auss [symbol of gold] und [symbol of silver] zu machen / wie auch auss allen Metallen durch ein ∇
こちらの本文はドイツ語です。Minera Arenariaは、Experimentum novum ac curiosum de minera arenaria perpetua(1680) です。全文を引用すれば、次の通りです。
Experimentum Chymicum Novum, Quo Artificialis & instantanea Metallorum Generatio & Transmutatio ad oculum demonstratur. Loco Supplementi in Physicam suam subterraneam et Responsi ad D. Rolfincii Schedas de non Entitate Mercurii corporum. Opusculum multis experimentis practicis, nec non preipuis Philosophorum dictis explicatis refertum, Lectori Philochymico non ingratum futurum.
(このようにロルフィンクの<物体のスイギンなんて、存在しないぞ>論に反論しています。)また、1681年フランクフルトで出版された著作は、タイトルを全文引用すると次の通りです。
Actorum laboratorii chymici Monacensis seu physicae subterraneae libri duo, quorum prior profundam subterraneorum genesin, nec non admirandam globi terr-aque-aerei super & subterranei fabricam, posterior specialem subterraneorum naturam, resolutionem inpartes partiumque proprietates exponit, accesserunt sub finem mille hypotheses seu mixtiones chymicae, ante haec nunquam visae, omnia, plusquam mille experimentis stabilita sumptibus & permissu serenissimi Electoris Bavariae &c. domini sui clementissimi elaboravit & publicavit Joannes Joachimus Becherus
Francofurti : imp. Mauritii Georgii Weidmanni, 1681, 1680.
『地下の自然学』(1669)の第2版となります。やはり若干複雑な構成をしています。2部を1冊( 2 part in 1 volume) にまとめて綴じています。補遺が3つあり、その3番目の補遺は独立したノンブル(pagination)とタイトルを持ちます。そのタイトルは、J. J. Becheri experimentum ... de minera arenaria perpetua ...
全巻を通したノンブル(pagination)は次の通りです。
[xxii] 560 [ii] 561-678 [ii] 679-810 [+ 10] [3] 4-136 [xlvii]ちなみに、1703年の版は『地下の自然学』(1669)の第3版となります。同様にタイトルのすべてを引用すると次のようになります。
Physica Subterranea Profundam Subterraneorum genesin e principiis hucusque ignotis, ostendens: Opus sine pari, primum hactenus & princeps ... Praefatione utili praemissa, indice locupletissimo adornato, sensuumque & rerum distinctionibus, libro tersius et curatius edendo, operam navavit; & Specimen Beccherianum, fundamentorum, documentorum, experimentorum, subjunxit Georg. Ernestus Stahl, Editio novissima. Lipsiae, Apud Joh. Ludov. Gleditschium, 1703.
ノンブル(pagination)は次の通りです。
[30], 560, [2], 561-1008 (i.e., 996), [36], [8], 304, [16]
3つの補遺は、上の第2版と同じです。すなわち、
1. Experimentum chymicum novum ... et Responsi ad D. Rolfincii Schedas de non entitate Mercurii corporum.
2. Demonstratio philosophica, seu Theses chymicae veritatem & possibilitatem transmutationis metallorum in aurum evincentes.
3. Experimentum novum ac curiosum de Minera Arenaria perpetua.
さらに、シュタールの次のものがつきます。
Specimen Beccherianum, sistens fundamenta, documenta, experimenta, quibus principia mixtionis subterraneae & instrumenta naturalia atque artificialia demonstrantur.
ひとり遅れて8時。快晴です。ちびどもと妻は、浜松町のバーゲン会場に朝からでかけました。幼稚園児は近所の公園の方がよいというので、公園に連れていきました。ネコとにらめっこし、鳩を追いかけていました。しばらくするともう帰る。ウンチということです。公園のトイレは嫌だというので、図書館まで。いつもは一分で終了する子ですが、すこしたまっていたようです。しばらくいたいと言っていました。行きにも同じトイレによって、おしっこをしています。図書館でおしっこをして公園にでかけ、図書館でうんちをして帰ってきたことになります。
→バーゲン組は、予想通り、2時頃帰ってきました。バーゲン会場がすごい雰囲気だったようです。子どもたちに1枚ずつ服、そして、おおきいちびにはカバン。[ジョン・ウェブスター John Webster, ]
ジョン・ウェブスターは私に重要です。エルマーの274頁をまるまる読んでみることとしました。
pp.1-14, "The Life and Career of John Webster,"
pp.15-43, "The Library of John Webster,"
"The Catalogue of the Library of John Webster"チャールズ・ウェブスターとディーバスの仕事によって、ジョン・ウェブスターは、科学史の世界では有名です。Academiarum examen(1654) & Metallographia, or , an history of metals(1671) の2冊の出版がとくに重要です。
蔵書カタログに目を通しました。パラケルススは、1658年ジュネーブ版(フォリオの2巻本)を持っており、『鉱物誌』(1671)ではこれを十分に利用しています。(他にもパラケルススの本は数多く所有しています。)
今の関心からして意味のあるものとして、次のような書物を持っていました。
87. Bernardus Caesius, Mineralogia, sive Naturalis philosophiae thesauri, Lyon, 1636
287. Angelo Sala, Opera Medico-Chymica quae extant omnia, Frankfurt, 1647; Roen, 1650
313. Geber, Gebri Arabis opera cum alijis multis, (ed. C. Polydorus), Nuremberg, 1541; Berne, 1545
327. Joseph du Chesne, Quercetanus redivivus, Frankfurt, 1648; 1667; 1679
341. Joannes Guidius the Elder, De Mineralibus, tractatus in genera... opus... nunc. prima vice... editum, Venice, 1625; Frankfurt, 1627
John Bate, The Mysteris of Nature and Art, London, 1634; 2nd ed., London, 1635; 3rd ed., London, 1654
519. Willielmus Davissonus, Oblatio salis sive Gallia lege salis condita. Tractatus salis naturam, Paris, 1641
520. Camillus Leonardus, Speculum lapidum, Paris, 1610.
526. Marianus Sanctus, M. Sancti Barolitani... de lapide rerum ... opusculum..., Venice, 1535.
544. Basilius Valentinus, Opera Germanicae, Strassbourg, 1645; 1651; 1667.
552. Willielmus Davissonus, Philosophia pyrotechnia ...seu Cursus chymiatricum, Paris, 1641.
637. Clovis Hestkau, Sieur de Nuysement, Tractatus de vero Sale Secreto Philosophorum & de Universali Mundi Spiritu Gothice primo scriptus, nunc Latine versus a L(udovico) Combachio, Cassel, 1651.ボイルがありません。売ってしまったのでしょうか。
8時。幼稚園児は起きて、毛布をかぶりミッキーを見ていました。ちびどもは布団のなかで、ちいさいほうはまんがを、おおきいほうはゲームをしていました。午後のアマゾン便で、次の雑誌が届きました。
『西洋中世研究』第1号(創刊号、2009)
目次等は、この雑誌を入手しようというきっかけとなった次のサイトをご覧下さい。
Nordica mediaevalis における評
日本中世学会は、新しい学会です。会長の佐藤彰一氏が巻頭言におおよその経緯を記しています。それによれば、2009年4月1日に発足、第1回大会を6月27日・28日に東大駒場で開催したとあります。そして、これが学会誌としての第1号となります。樺山紘一氏の巻頭論文「中世はいかにして発明されたか」から読み始めました。別の方も論評されていますが、「「中世」とは、「古代」や「近代」とはちがって、メタ概念にほかならない。」にずっこけました。え!?? 「古代」や「近代」の規定と相対的にしか規定できない相対的概念というのであれば、わかります。しかし、この文脈で「メタ概念」というのは一体なんでしょうか?どの学会でもよくある「老害」?
(詳説する必要はないのかもしれませんが、「近代」(あるいは「現代」)も自明のものではなく、相対的概念です。もちろん、「古代」もそうです。規定する我々の側の得てして無意識の価値観や概念体系に依拠する相対的概念です。もちろん、「中世」だけがそうした時代区分概念に対してメタの位置に来ることはありえない。)
日本社会は、過去に実績のある方の老人性治外法権を止めることができない。そういう場合、そーとはずれていただくのが日本的な対応策だと思います。
6時半。居間に降りると妻がひとりでいました。ちびどもは6時45分頃目覚めてガタガタする音がしました。幼稚園児はまだよく寝ています。冬の朝が戻ってきました。暖かくなる前の寒さを覚悟していましたが、そこまで寒くはなりませんでした。前のように寒いと、明らかに仕事の効率が落ちます。
10時半頃打ち合わせに出た妻は、2時5分前に帰ってきて、間に合わない、なおにしかられる、と言って、自転車に駆け乗って幼稚園に走りました。
4時過ぎにおおきいちびのお友達が二人来ました。幼稚園児がお願いしたのでしょうか、30分ほど居間に揃って(子どもが5人揃うとなかなか迫力です)マリオをやっていました。
見失っていた情報を探し出すのに苦労していました。日が変わる前に、なんとか探し出しました。私のような作業をしていると、pdf でも画像でもファイルがあるのはほんとうに助かります。
ひとり遅れて、7時20分。日が変わってから、小雨が降ったようです。地面が濡れています。ほとんど寒さを感じません。昨日に続き、暖かい日。妻のPTAの仕事が連続しています。今日は、10時半に出て、2時半に帰って来、また3時前に出て、4時半に帰ってきました。最初は幼稚園、午後は小学校の保護者会です。
明日は、打ち合わせ。土曜日は、小学校のPTAの運営会議。天気予報によれば、一気に季節が2ヶ月戻って、真冬の気温となるそうです。子どもたちが帰ってくる頃には、北風が吹いて、何だか嵐の前触れのような雰囲気になりました。このあと、どんどん、どんどん、気温が下がって、明日の朝には3度まで下がるということです。
昨日使った、次のサーチは有用です。
カメオのサーチ(ラテン地名、Zedler人名等)アンゲロ・サラを見ていて、私にとっては意味のある発見がありました。サラは、化学史・錬金術師プロパーにとって重要だと思いますが、研究はとても薄い。
サラを調べていたら、次の論文がヒットしました。
P. Elmer, "The Library of John Webster," Medical History. Supplement, 1986, pp.15-43
私にとっては必要な論文でした。次のサイトでカタログを含めて、全文をダウンロードできます。
Medical History. Supplement
全文の書誌は、次のようになります。
P. Elmer, "The library of Dr John Webster: the making of a seventeenth-century radical," Medical History. Supplement 1986; (6): 1-275.資料は、マンチェスターのチータムライブラリーに保管されているクリゼローのジョン・ウェブスターの所蔵本目録(Chetham MS A.6.47)。エントリー数にして1501。冊数にして1662冊前後。(カタログが作成されたとき、ウェブスターの蔵書ではなかったものが含まれるので、正確な数ではない。)
ウェブスターは、知の中心地から隔離されており、知的集団としても孤立していた。収入的には並みであった。ウェブスターの蔵書のなかで最も高価な書物は、フラッドの全集 Opera 5 vols. (Oppenheim and Frakfurt, 1617-26)で9ポンド10シリング。他に高価なものとしては、メルカトールの彩色地図(Atlas)が8ポンド、ゲスネルの『動物誌』(Historia Animalium, 3 vols., Zurich, 1551-58) が6ポンド10シリング。エルマーの分類では、自然哲学が647冊でほぼ4割。次いで神学が397冊で約4分の1。言語別ではラテン語が967冊で約6割。次いで英語の405冊で4分の1。
幼稚園児に続いて、7時過ぎ。幼稚園児は朝方いつも夢を見て、はっきりと寝言を言いながら泣きます。今日は、「いたちょこたべたい」。あーあ、です。
ちなみに、今日の幼稚園は、観劇です。幼稚園は経由せずに、直接会場に向かいます。どうもまちきれないようで、おねえちゃんたちが小学校に出かけたあと、まだ、まだ、と何度も聞きます。いつもは喜んでみているミッキーマウス・クラブハウスも、ミッキー嫌いと言って見ようとしません。9時半集合でしたが、9時10分過ぎに喜び勇んで出ていきました。
たぶん、お昼ご飯を食べてから帰ってくるのではないかと予想していたら、その通りとなりました。12時過ぎに終了して、劇場の外に出た途端、おなかすいたー。お友達といっしょに、劇場に付設するカフェでスパゲッティを食べたと言うことです。2時前に帰宅。[Theatrum Chemicum revisited]
何日か前に、ボイルは名前を出さずに『化学の劇場』を使っているのではないかという推測を述べています。ふとしたきっかけで、アウグレロの錬金術ラテン詩「クリソポエイア(金製造)」をボイルが使っているという指摘を思い出しました。Principe, The Aspiring Adept (1998), p.280 下の注cにその指摘があります。アウグレロのもとの著作は、1515年ヴェニスで出版されています。それが、『化学の劇場』の第3巻に採録されています。ボイルが使ったのは、ワンフレーズです。 "Cuncta adeo miris illic complexibus haerent"。これをボイルは、プリンシーペがはじめて活字化した「金属の生成と変成に関する対話」で使っています。出版された著作でも、最初は『懐疑的化学者』(1661) (NewRBW, 2, p.236) で、2回目は、『逆エリクシルによる金の腐敗について』(1678) においてです。プリンシーペは、このフレイズは、Theatrum Chemicum, 6 vols., Strasburg, 1659-61, iii, 197-244, on p. 208 にあると注記しています。念のため、確かめてみることとしました。グーグルからダウンロードした版では、そのページの前後に、それらしきフレイズが見あたりません。これは今ではすぐに版違いだとわかります。グーグルのものは1613年版です。 Giovanni Aurelio Augurello, Chrysopoeia (Venice, 1515) は、1613年の版では、pp.189-237に採録されています。プリンシーペが使った1659-61版では、pp.197-244 です。この微妙な差は、何でしょうか。
ともあれ、ロキ(引用箇所)を見つけます。以前は目で追っていたのですが、今回は pdf で189-237だけ切り出して、OCRをかけ、検索してみました。Cunta も adeo も miris でもヒットしませんでしたが、compag でやっとヒットしました。(OCR ソフトがこの時代の活字に対応しきれていません。)p.197 の下から3行目にありました。
"Cuncta adeo firmis illic compagibus haerent"
え?! ボイルが "miris" として引用する語は、もとは"firmis" です。ボイルが "complexibus" として引用する語は、もとは"compagibus" です。(『懐疑的化学者』では、"compagibus"と正しい方を使っています。)
プリンシーペは、"Slightly misquoted" としていますが、6語中、2語が違うのは、わずかにではなく、かなり違うとすべきだと思います。私にとって重要なのは、ボイルが『懐疑的化学者』でこのフレイズ(かくてそのすべての性質は驚異の結合によりかたく結びついている)を引用する次の文章で、ガスト・クラヴェウスを引用(ラテン語を直接ではなく、英語で内容を要約して)していることです。これだけ近接していると、やはりボイルは『懐疑的化学者』においても『化学の劇場』を使った可能性が非常に高いと見てよいでしょう。
→10.2.1
ボイル草稿 RSBP, MS 187, f5v-8 に「達人 adept による『化学の劇場』を読むことのメリットとデメリットについて」があります。写字生はロビン・ベイコン。p.78
NewRBW, v.8, p.283 に次の言葉があります。
「『化学の劇場』において、ルルスやゲーベルやアルテフィウスなどの中心的著者、達人であった、すなわちエリクシルを得たと自称している者たちは、錬金術という非常に高貴で有用な探究(その助けにより、最後に名前を挙げたアルテフィウスは1000年以上生きたと言われます。)に力を注ぐことを熱心に勧めていますが、彼らの提起するのは第1の種類の命題に過ぎません。」
(第1の種類は、受け入れると何かよいことが望みうること。第2の種類は、なすことにメリットがあるだけではなく、なさないと罰を受けるであろう義務。第3の種類は、大いなる災いを避けるに、あるいは大いなる善を得るに都合がよいこと。)
(My:結果について確定的なことが言えない約束という意味であろう。)
以下は脱線です。グーグルで検索をかけていると、次の著作が以下のようにボイルと同じ箇所をすこし広めに引用しているのに出会いました。
Bornitz, Jakob (ca. 1560-1625),
De Nummis In Repub. percutiendis & conservandis Libri Duo
Hanoviae, 1608
"Poeta canit:
Uni nil deperit auro
Igne, velut Solem consumit nulla vetustas:
Ac neque rubigo aut aerugo consicit ulla:
Cuncta adeo firmis illie compagibus haerent."ボイルと同じく、名前を挙げず、詩人がとしか言っていません。
グーグルブックに別のタイトルで次の本が上がっています。グラウバーが持っていた版(1653)の後の版となります。(グーグルブックはかなり不思議なタイトルを拾っています。)
Albineus, Nathan.
Bibliotheca chemica contracta ex delectu & emendatione Nathanis Albinei
Genevae : sumpt. I. A. & S. de Tournes, 1673.
幼稚園児といっしょに7時20分。朝はまだ寒いが、空気に暖かさの予感があります。やっと列島を覆っていた寒気団が去っていくようです。やれやれ。外の気温が10度を超えたということで、昼食後、近所をぐるっと散歩してみました。確かに暖かくなっています。昨日と比べて最高気温で5度アップということです。10分も歩いていると、手袋もマフラーも不要になりました。
3時から5時まで、妻はPTAの会合。幼稚園児は、その間、マリオをやっていました。かなり長い時間自分一人でプレイし、飽きてくると、模範プレイを見て、最後にパパにいっしょにやろうと提案してきました。15分ぐらい、いっしょにプレイしました。
ちいさいちびは3時に帰宅し、そのまま友達と遊ぶといって飛び出しました。おおきいちびは、4時に帰ってきて、しばらく宿題をしていましたが、30分ほどして、降りてきました。ちょうどよいので、幼稚園児のマリオの相手をしてもらいました。
そうこうしているうちに、妻が帰宅。体育館が寒かったとの弁。
幼稚園児がひとりで遊んでいる間に、前に買ってあった『中央公論』2010年2月号をだいたい読みました。特集は、「大学の敗北」。
特集は、内情を知っているせいかもしれませんが、いまいちです。統計的事実に関しては、有用な情報が引用されています。しかし、根本的な部分で物足りなさを感じました。私の尊敬する社会学者、吉見俊哉氏も「爆発の時代に大学の再定義は可能か」という論考を寄せています。時間がなかったのでしょうが、大学史の部分の記述が甘い。72頁から73頁にかけて、つぎの文があります。「大学は、このような近代の知識世界の形成において、ほとんど重要な役割を果たしていない。だいたいルネサンスの人文主義者、ガリレオからニュートンに至る近代科学の創造者たち、さらにはデカルト、パスカル、ロック、スピノザ、ライプニッツといった17世紀の知の巨人たちの中に、一人でも大学教授がいたであろうか。16世紀から18世紀まで、つまり近代という時代が立ちあがってくる最も重要な時期に、大学はまったく重要ではないのである。」
勉強せずに書いたのでしょう。ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galiei, 1564-1642)は、ピサ大学数学教授のあと、パドヴァ大学数学教授を18年勤めています。ニュートン (Isaac Newton, 1642-1727)は、26歳という若さでケンブリッジ大学のルーカス教授職に就きます。1701年にルーカス教授を辞し、お役人(造幣局長官)に専念しますが、若き大学教授でした。吉見さんが名前を挙げていないケプラー(Johannes Kepler, 1571-1630)も若くしてグラーツ大学数学天文学教授となっています。デカルト、パスカル、ロック、スピノザ、ライプニッツの他に、ベイコンもボイルも大学には職を得ていません。近代科学の新しい組織(王立協会やパリ王立科学アカデミー)や新しい推進力が大学の外にあったことは(科学の社会史として)間違いありませんが、大学がまったく重要でなかったとは言えません。大学は、知識の産出・交換・保管の場所として、重要な役目を果たし続けたと言えるでしょう。科学に関して、そうした知の拠点が大学の外に形成されたというのは、そうですが、大学が重要ではない、というわけにはいかない。社会学者の得意な人数を考えてみましょう。人数の点で見れば、知識の基盤はやはり大学にあったと言うべきでしょう。ただし、新しい知識・見方の多くが、大学の外で生まれたというのは正しい。一番の傑作は、橋本治の時評2010「草食系の虎(タイガー)について」でしょう。タイガー・ウッズの行動を、光源氏だと喝破しています。さすがに、橋本治。
根は貪婪な草食動物(モテ男)が近づいてくる美味しい草をすべて食べてしまう、という比喩で、タイガーの行動を解明しています。知っている人間で、すぐに名前が脳裏に浮かびますが、実名を出すのは、よしておきましょう。(Mr. T., Mr. K. ...実名を挙げると、知っている方は、ああ、そうだと深く納得するでしょう。橋本治が実に的確に記述しているように、本人には自覚がないことが多い。実名を挙げるという大いなる誘惑に駆られますが、コンパ用にとっておきます。)もっともだと思ったのは、佐藤優の新・帝国主義の時代、第12回、ゴルバチョフとの対話、です。ゴルバチョフは、「(日本の)社会がもっと鳩山総理を支えるべき」だと言っています。私もその通りだと思います。今の政権に問題はある。しかし、日本社会に対する客観的視点を持つ者であれば、どの方向へ向かうべきか、あるいは向かうしかないのか、かなりはっきりしていると思います。政権交代が失敗に終わったという選択肢はありえません。そんなことになれば、日本社会は、抵抗勢力の手に落ちます。(今の日本社会の最大の抵抗勢力=既得権益は、マスメディアです。)
たぶん、多くの日本人は、この点を直感的に理解していると思います。
子どもたちに遅れて、7時20分。新しい一週間が始まります。まだ寒い。ちいさいちびが3時頃、男の子の友達といっしょに帰ってきました。帰り道、マリオの話題になって、何とかレベルがクリアーできないとちいさいちびが話すと、では、やってみせてあげようという展開になったそうです。
お友達が見えて、幼稚園児がおおはしゃぎ。その子のお母さんから、宿題をすませてからやりなさいという電話があり、食卓の上で並んで宿題に取組始めました。仲間になりたい幼稚園児は、自分も昨日買ってもらった筆入れとその他もろもろの勉強道具を持ち出して、自分の席に座り、勉強のまねごとをしています。これは、笑えます。
さすがに、それほどもたず、「なお、宿題おわった・・・・、うそー。」の発言。宿題もやってみたいようですが、いかんせん、まだ文字も書けません。(幼稚園のお友達は、ほとんどがもう文字が書けます。残されているのは二人だけだそうです。)
ちびどもの宿題が終わったあと、3人でマリオを始めました。途中から、おおきいちびも加わりました。第5世界のクリアーを見せてもらったようです。
こういうのは親のついていけない世界です。
昨日から、新しいボイル全集で、ページ数が明示されているのに、使われた著作が同定されていないものを同定しておこうと思い、作業に着手しています。あまりにやっかいだと途中で放棄します。
私にとって重要なテーマである地下世界と鉱物の生成論に関するボイルの未出版だった草稿から始めました。第13巻のpp.412-423 に「(空気に変化をもたらす限りにおいての)地下の蒸気について」という草稿がおさめられています。ノートと論考の中間形態です。すなわち、注または本文に入れるべき引用をそのまま列挙して残している箇所があります。413頁に次があります。
"Relatio de locis Subteraneis pag. 135. 136.
Salutatis et in labore aliquantulum contemplatis operariis, ab iis petii quomodo sibi esset de Aere illo Subterraneo, exhalatione et spiritibus Mineralibus adeò infecto......."
編者は、編者注において、引用もとの著作はまったく不明だと記しています。ページ数が明示されているので、比較的簡単に同定できるのではと始めてみました。まず、キルヒャーの『地下世界』を見てみました。違うようです。次に、アグリコラを見てみました。アグリコラに関しては、確認すべき著作と版が数多くあり苦労しましたが、どうも違うようです。ともかく、グーグルを最大に活用して、調査を継続しました。バッチ(バキウス)のものも見ましたが、どうも違います。ふと、ラテン語は本来、"Subteraneis" ではなく、"Subterraneis" ではないかと気付き、検索をかけ直しました。なんと、我々が出版したばかりの『ボイル・プロジェクト4』がヒットしました。24頁に、Jean-Baptiste Morin (1583-1656)のNova mundi sublunaris anatomia (Paris, 1619)に付された"Relatio de locis subterraneis" が出ています。前後の文脈から言って、これで間違いありません。
わかってしまえば、簡単な話です。しかし、新しいボイル著作集の編者達も、Jean-Baptiste Morin (1583-1656), Nova mundi sublunaris anatomia (Paris, 1619) は視野に入っていながら、この箇所では、モランの著作に思い至らなかったようです。もちろん、「一般索引」にも採用されていません。そして、もちろん、『ボイル・プロジェクト4』でも、『冷』(1665)におけるモランの引用(8箇所もページ数を上げて引用している。最後の引用は、なんと"p.m.136" とこの草稿と重なるページを挙げています。)を挙げているのに、この草稿の箇所は落としてしまっています。
ちなみに、Jean-Baptiste Morin (1583-1656), Nova mundi sublunaris anatomia (Paris, 1619) はいまだに入手できないものの一つです。手元に欲しいので今一度よく捜してみました。デジタル化はされています。しかし、有料。(もちろん、購入を検討します。)話の内容は、後に(『論文集(空気の隠れた質について、金属の成長についての観察、ホッブズ氏の真空の諸問題に対する批判、吸引力の原因について、ボイル真空中における物体の保存についての新実験、を含む)』(1674) 、中の、「金属の成長についての観察」、フルタイトルは、「空気にさらされた鉱石中における金属の成長についての観察」NewRBW, 8, pp.143-164)ボイルが使うエドワード・ブラウンの旅行記に重なっています。
Edward Browne (1644-1708), A Brief Account of some Travels in Hungaria, Servia, Bulgaria, Macedonia, Thessaly, Austria, Styria, Carinthia, Carniola and Friuli. As also some observations on the gold, silver, copper, quick-silver mines those parts, London, 1673
「金属の成長についての観察」のポストスクリプト、すなわち出版直前にであった情報として本論終了後に付加されています。ブラウンの旅行記の出版が1673年、このボイルの論文集の出版が1674年ですから、ほんとうに、本文を書き上げたあと、ブラウンの著作に出会い、論文集の出版の前にポストスクリプトを付加したと間違いなく言えます。
ボイルの言葉をそのまま訳出しましょう。
「上記の観察を記したあと、とても有能なエドワード・ブラウン医師が最近行った旅行について綴った興味深い本に出会った。その100頁で上の2つの章句にとくに関連する記述を見出した。ひとつは、鉛の成長についてアグリコラからとった章句に関する記述であり、もうひとつは、この金の成長に関する小節に関する記述である。この学識ある著者の言葉をそのまま抜き書きするのがよいと考えた。 ”1.岩を切り開き、しばらくのあいだ放置されていたこの鉱山のパッセージは、再度成長していました。鉱石を運び出すために、以前は十分広かったその側面は、通行に困難を覚えるほどお互いに近づいていました。こうしたことがらは、湿った場所でよく起きます。パッセージは、上部から下部につながるのではなく、側面から側面へと繋がっていました。 2.クレムニッツに近いその地方によくある黄色い土は、とくに丘の西側にかけて、鉱石とは見なされていませんが、いくらか金を算出します。ある場所で私は、丘をおおきく掘り出して、精錬機にかけ、普通の鉱石と同じように洗い出すと、相当な利益が上がるのを目撃しました。”」(NewRBW, 8, p.151)もう1点重要なのは、ボイルは実はブラウンに直接会ってこの話を聞いていると言う事実です。「作業日誌21」(RSBP, vol.27, pp.5-159 Late 1660s)には数多くのインタビュー(会見記録)が出てきます。
エドワード・ブラウン(Edward Browne, 1644-1708)は、有名なトマス・ブラウンの息子です。1667年にF.R.S.、そして1668年から69年にかけて1年間半、オランダ、ウイーンを経て、ハンガリー等東欧の鉱山地帯に旅をしています。
ハンターとリトルトンの共著論文は、作業日誌から次の引用を行っています。
「私は、我等のヴェルラム卿(ベイコン)が注記した鉱物は地中における方が、あるいはそれ本来の鉱脈にある方が、地上にあるときよりもずっと軽いという言い伝えについて、彼と話した。彼は、トランシヴェニアのサル・ゲムという大鉱山を尋ねたとき、その言い伝えが鉱山で働くものの一般的信念であることであることを知りました。そして彼自身、このフォシル・サルト=岩塩が鉱山のなかでは簡単に持ち運びできるのに、空気にさらしておくと、3倍から4倍の重さになることを観察したのです。ほんとうのところ、それは、空気中の湿気(水分)によるように思われます。長く空気中にされされていると、水分を吸収し、それを保持するので、重さが増すのだと思われるのです。この岩塩における変化は、他の事例にも適用できるでしょう。そして、この性質をすべての鉱物種に一般的に適用することから、その言い伝えは生じたのだと思われるのです。」(Hunter & Littleton(2001), pp.378-9.)
以上の通り、空気中におかれた鉱物の重量の増加を、空気中の水分によると結論付けています。今の言葉では、「潮解現象」やそれに類似する現象に気付いたということになります。ボイルは、ポストスクリプトの続きで次のように述べています。
「私が今言及した事例に関して、こうした鉱物の増加をもたらすものが、部分的に空気の接触・作用によるのか、あるいは金属の種子や発酵素のような内的性向によるものかを決定するのは、もっと厳密な観察がなされるまでは、どちらと言うのは控えようと思います。」
「金属の種子や発酵素」の考えを捨て去ったわけではありませんが、空気中の粒子の付加によって説明しようとする傾向が見られます。旅行記において触れられる・探究されているのは、ハンガリーの鉱山の話です。1619年のモランの著作でも、1673年のブラウンの著作でも、ボイルの問題関心は同一と言えます。(鉱山の)地下の熱(暖かさ)と有害なあるいは鉱物の蒸気・発散気です。
さて、第13巻413頁の2つめの引用は、以下の通りです。
"Description generale de l'Afrique Livre 1 Pag 13.
Le grand Atlas est en quelques endroits inhabitable, pour estre trop froid, ou trop rude et escarpé et pour l'epaisseur et la hauteur des bois qui sont dans des valees obscures et profondes, ........"
編者は、Pierre d'Avity のDescription generale de l'Afrique(1660) としています。ガリカに、この著作はあります。ダウンロードして確かめてみました。1660年の版の13頁に、引用された箇所は、ありません。版を調べてみると、この『アフリカの一般誌』は、1637年に初版が出版されています。1660年の版では、かなり増補がなされたようです。もちろん、ボイルは、1637年版から引用した可能性を考えなければなりませんが、なにぶん、1637年版を見つけることができません。もちろん、これも将来の課題とするしかありません。地下世界ということで言えば、ともに17世紀の後半に出版された、キルヒャーの『地下世界』(1665)とベッヒャーの『地下の自然学』 (1669)を2大と位置づけてよいでしょう。
今回の作業を通して、ボイルのキルヒャーの『地下世界』(1665)に対する態度には、『化学の劇場』に対する態度に似たものがあるのでは、と感じるようになりました。利用できたはずなのに(オルデンバーグの所持本にあった)、全集中でボイルは一度もキルヒャーの『地下世界』に言及していません。(ちなみに、キルヒャーの他の著作は、ごく初期からよく使っており、しっかりと名前を挙げて引用しています。)
今詳しいことを記す余裕がありませんが、著作のタイトルをあげないまま、何カ所かで使っていることはほぼ確かです。(ただし、全巻を丁寧に読んだかどうかは不明です。ガッサンディの著作に対する態度ともしかしたら共通するかもしれません。浩瀚すぎる著作は、避ける、あるいは写字生に読ませて、必要な箇所のみを抜き書きさせる。)そして、ベッヒャー (J. J. Becher, 1635-82)。ボイルとベッヒャーには個人的関係があります。1669年の『地下の自然学』の出版を知らないわけがない。しかし、全集のなかでは、個々の著作はもちろん、ベッヒャーの名前を一度も挙げていません。
ベッヒャーの名前を挙げなかった理由はたぶんキルヒャーや『化学の劇場』とは別です。可能性としては2つ考えられます。ひとつは、スターキーやフックと同じ位置付けをされた可能性です。ベッヒャーはまずは発明家(永久運動する機械等)あるいはプロジェクターとして紹介されています。職人層に属すると見なされた可能性を考えることができます。あるいは、職人層と知識人の中間、境界領域の人物と見なされたのかもしれません。もうひとつの可能性は、ボイルの用語では「ヘルメティック哲学者 Hermetick Philosopher」(いわゆる錬金術という語で普通の人が想像するような錬金術師)と見なされた可能性です。たとえば『化学の劇場』を通してボイルは「ヘルメティック哲学者」の多くをよく知っていました。しかし、出版物で言及することはほとんどありませんでした。(草稿では多く見かけるが、出版物ではまったく見かけない、あるいはほとんど見かけない人物群です。)(そういうわけで、草稿でも出版物でもまったく名前のでない人物群とは区別されます。)
幼稚園児にすこしおくれて、7時15分。昨夜布団にもぐってからふたりでしゃべりしていたちびどもは、寝ているのか起きているのか。まだまだ寒い。昼食後、ちびどもといっしょに高島屋へ。おおきいちびの誕生日プレゼントです。誕生日は来月ですが、おおきいちびは高島屋で文房具を買いたいと言っています。すこし寒さも耐えられるようになってきたので、今日行くこととしたものです。幼稚園児は、行かない、お留守番するとのこと。ちびどもと3人で行ってきました。
私は、高島屋の中のユザワヤに行くものだと思っていたら、おおきいちびが9階の子供用文房具ショップにとっとと向かいました。お気に入りのようです。鉛筆やらシールやら下敷きやらを買っていました。ちいさいちびと幼稚園児には、おおきいちびの半額ということで、ちいさいちびはやはり文房具、幼稚園児のためにはディズニーの福袋(ちょうど半額でありました)を買って帰宅。
私が運動のためにいくらか早足で歩いたこともありますが、ちびどもはほとんど走っていました。ディズニーの福袋には、筆入れ、水筒、シャープペン、クリアーファイル、お手紙セット等が入っていました。ついていた値段のおそらく数倍のものです。幼稚園児は大喜び。
今月は、この時点で、100枚を突破しました。
[Theatrum Chemicum]
このサイトでは何度か話題にしているTheatrum Chemicumですが、私のところには、BL (British Library) から取り寄せたマイクロフィルムがあります。しかし、以前記した通り、マイクロフィルムの使い勝手は悪い。pdf の方がずっと便利です。たぶん、つい最近のことだと思いますが、グーグルブックで全6巻をダウンロードできるようになっています。(全6巻を集めるためにはすこし丁寧に捜す必要があります。)
ウェブを検索すると、次のポーランドのサイトにも揃っていることがすぐにわかります。速度的にはグーグルの圧勝ですが、こちらのサイトは、きちんと整理されています。そして、序文に「『化学の劇場』の目次を用意するのは、簡単なことではない。」各巻の冒頭には、 "elenchus"がつけられているが、作成方針に揺らぎがあり、たとえば、著者名の記載がないものが、匿名の作品なのか、あるいは前掲作品と同じ著者なのか識別できない。
ポーランドの研究者たちは、基本的に次の4点の書誌学的研究を使っています。
H. C. Bolton, A select bibliography of chemistry, Washington 1893, pp. 1051-1058
J. Ferguson, Bibliotheca chemica, Glasgow 1906, vol. 2, pp. 436-439
A. L. Caillet, Manuel bibliographique des sciences psychiques ou occultes, Paris 1912, vol. 3, pp. 591-595
T. Hofmeier, appendix to: C. Gilly, "On the genesis of L. Zetzner's Theatrum Chemicum in Strasbourg" in Magia, alchimia, scienza dal '400 al '700. L'influsso di Ermete Trismegisto, ed. C. Gilly, C. van Heertum, Firenze: Centro Di, 2003, pp. 435-441, with a bibliography of original editions on pp. 442-446
もっとも詳細なのはファガーソン、もっとも包括的なのは3つの版を比較し、採録されたもとの版の文献表を付したホフマイヤー/ジリーのものであるが、完全なものではないことが今回目次を編纂してみてわかった、と記述しています。
さらに、volumes 1, 2, 3 & 5 と、volumes 4 & 6 は別の大学のコレクションからデジタル化したので、引用にあたっては、ページ数に注意されたいとあります。ノンブルが大幅に違う、そして、第5巻のあるセクションは、フォリオによるノンブルとなっているとあります。この時代の出版物としてはありえることです。
しかし、だとすれば、たしかにこれはやっかいです。常に、使っている版、冒頭の"elenchus"、そしてランニングタイトルを意識しながら使う必要があるということになります。Theatrum Chemicumに関しては、ウィキペディアの記述も悪くありませんが、目次情報は、このポーランドのサイトによるのが一番かと思います。
ひとり遅れて8時40分。単純に就寝時間が遅くなると、起きるのも遅くなります。まだまだ寒い朝です。部屋の中にいると、感覚的には、昨日よりも寒い気がします。ミルクが切れそうになりました。私は郵便を2点出す用事があります。ちいさいちびは、マンガが欲しいと言います。寒いのですが、ちいさいちびといっしょに、郵便局に寄ってから、一番近い本屋さんに行って、本を5冊とミルクを買って帰りました。今日は、ほんとうに寒い。晴れてはいますが、気温が上がっていません。
私が買ったのは、山岸凉子の『舞姫 テレプシコーラ』第2部の第1巻から第3巻までです。
家に帰って、第1巻はすでに買ってあることに気がつきました。まま、ありえるはなしです。子どもたちが寝付いてから、2巻と3巻を読みました。もちろん、面白いのですが、とても勉強にもなります。
ひとり遅れて7時50分。ちびどもは出かける直前でした。幼稚園児は元気に朝食を食べていました。晴れ。朝の寒さはまだ残っています。窓辺がひんやりします。テレビでは、この冬一番の冷え込みになったと言っています。朝方に零下。
昼食前に駅前の本屋さんに寄って、『中央公論』2010年2月号、ならびに次の本を購入しました。
津谷典子・樋口美雄編『人口減少と日本経済』日本経済新聞社、2009
すぐあとに、アマゾンから次の本が届きました。
Adrian Johns
Piracy: The Intellectual Property Wars from Gutenberg to Gates,
Chicago, 2009今行っている作業の途上で、 次のプリンシーペの論文を未読であることに気付きました。本を探し出すのにいくらか時間が必要だったのですが、本棚の片隅に見出し、ペンを手に読み通しました。私には必要な論文でした。
L.M. Principe, "Diversity in Alchemy: the Case of Gaston "Claveus" DuClo"," in A.G. Debus and Michael Walton (eds.), Reading the Book of Nature (Kirksville, Mo., 1998), pp. 169-85.
錬金術と言ってもひとつではなく、その中に複数の学派を見分けることができる。ガストン・デュクロの錬金術には、ヴァイタリズム(生気論)、パラケルスス主義、化学的医薬、曖昧主義、等々一般に錬金術の固定的観念連合と呼べるほど錬金術に結びつけて語られる特徴が、まったく見られない。デュクロの錬金術は「スコラ的な水銀学派の金製造術」と位置づけられる。こうプリンシーペは結論付けています。
ちなみに、デュクロの名前は、不幸な歴史をもちます。Gaston DuClo が最初の著作に使われた名前です。それが、1602年の版において、(活字工のミス)Dulco と間違われた。そして、この間違った名前の方が広がり、1695年のプアなフランス語訳で、dulcis というラテン語と関係するものと見なされ、Le Douxとフランス語化された。もとのDuCloのラテン語形 Claveus は、再フランス語化されて、 de Claves とされた。結局、Le Doux de Clave とされてしまった。まあ、ひどい話ですが、稀にこういうことが生じます。ボイルは、ラテン語化された形の Claveusと呼んでいます。
→ 10.1.16
プリンシーペは、補遺として、ガストン・デュクロの著作リストを添付しています。pp.199-200Apologia chrysopoeiae et argyropoeiae adversus Thomam Erastum, Nevers, 1590
De recta et vera ratione progignendi lapidis philosophorum, Nevers, 1592
De triplici praeparatione auri et augenti, Nevers, 1594
Apologiaは、Theatrum chemicum, vol.2 (Ursel, 1602) に採録されます。さらに、De tripliciとDe rectaは、Theatrum chemicum, vol.4 (Strasburg, 1613) に採録されます。そして、1659年にTheatrum chemicumがリプリントされます。
ページは、Apologia, in Theatrum chemicum, vol.2, pp.4-80; De triplici in Theatrum chemicum, vol.4, pp.363-80; De recta in Theatrum chemicum, vol.4, pp.388-413
『アポロギア』の初版は、相当の稀書のようです。プリンシーペは、論文が印刷にかかっている最中にやっとひとつのコピー(本の実物)を見ることができたと注記しています。copacで調べてみました。『アポロギア』は本当に稀書です。Apologia chrysopoeiae et argyropoeiae adversus Thomam Erastumのタイトルでは、BLとイギリスの主要大学図書館を含むcopacの範囲で、所蔵されているのは、2点のみです。Geneva 1598 と Ursellis 1602 の版がグラスゴーにあります。含むものとしては、(『化学の劇場』はもちろん省き)Philosophia chymica tribus tractatibus comprehensa (Coloniae Allobrogum, 1612) の1点のみがやはりグラスゴーに所蔵されています。
つまり、初版は、copac の範囲にない。ハブには、さすがに1602年版が1点あります。しかし、著者名は、"Claves, Gaston LeDoux de" とされています。あるいは、"Gasto Dulco Claveus"。"c" と "l" が逆転した方を採用してしまっています。この辺りは、致し方がないところではありますが、やはり残念です。
簡単に調べた範囲では、初版の所蔵館は見つかりません。
私の関心は、内容的なものもありますが、(このところずっと研究を続けているように)ボイルがどの版を使ったかにもあります。これだけ稀書だとすれば、『化学の劇場』に採録されたものを利用した可能性が高くなります。実は、ボイルは『化学の劇場』を嫌っており、間違いなく所持していたのに、全集中でたった一箇所でしか言及していません。しかも、"Theatr. Chynic. volum. 6." の表記。恨みがあるのかと思うぐらいです。
今回、調べなおしてみて、ボイルは『化学の劇場』を使っているという心証を得ました。
7時15分。ちびどもは起きていました。幼稚園児は、朝方寝言をいっぱい言ってぐずっていましたが、また寝入りました。8時過ぎまで寝ているかもしれません。幼稚園児は今日から本格始動、すなわちお弁当が始まります。好天。しかし、さむい、さむい。この冬一番の冷え込みということです。
ガッサンディの全集ですが、ガリカにフロムマンのリプリント版の pdf があります。どういう経緯かはまったく記憶がありませんが、第2巻だけHD上に存在しませんでした。一昨日ダウンロードし、昨日お昼頃にOCRを動かしました。おお、その作業が終了したのは、夜の12時を大幅に過ぎていました。半日以上かかったことになります。数時間は覚悟していましたが、12時間以上とはさすがにびっくりです。
ガリカの第1巻は、紙面の状態が悪いのですが、第2巻は状態がよく、つかえます。
8時15分。ちびどもは学校に行っていました。幼稚園児は、よく寝て、8時25分。昨日より寒さがやわらいでいます。再び、ごく軽い風邪の初期症状です。軽い頭痛とひどい肩凝り。
午後の郵便で、ゲラが届きました。書評のゲラ2本です。短いものなので、1時間以内でささっとすませました。疲れているときに書いています。日本語の乱れがありました。→もう一度見直しました。あまりに直訳体の部分は、やはり手を入れました。明日か明後日にもう一度見直してからポストに入れます。
昨日の午後は、ガッサンディと格闘していました。やはり、簡略版文献リストは欲しい。以下に作成しました。
Exercitationes paradoxicae adversus aristoteleos, Grenoble: Pierre Verdier, 1624
Epistolica exercitatio, Paris, 1630.
Parhelia, sive soles quatuor, Paris, 1630.
Mercvrivs in sole visvs, et Venvs invisa Parisiis, anno 1631, Paris, 1632.
Viri illvstris Nicolai Clavdii Fabricii de Peiresc, senatoris aqvisextiensis vita, Paris, 1641.
De motu impresso a motore translato, Paris, 1642.
De apparente magnitvdine solis hvmilis et svblimis epistolae qvatvor,Paris, 1642.
Disquisitio metaphysica. seu, Dubitationes et instantiae adversus Renati Cartesii Metaphysicam, & responsa,Amsterdam, 1644.
De proportione, qva gravia decidentia accelerantvr epistolae tres, Paris, 1646.
De vita et moribus Epicuri libri octo, Lyons, 1647.
Institvtio astronomica, iuxta hypothesis tam vetervm, qvam Copernici, et Tychonis, Paris, 1647.
Syntagma philosophiae Epicuri , Lyon, 1649
Animadversiones in decimum librum Diogenis Laertii, Lyon, 1649
Opera omnia, 6 vol., Lyon, 1658
Pierre Gassendi (1592-1655) ですから、6巻本の全集(1649年の浩瀚な『注解』は含みません)は死後出版です。
ひとり遅れて、7時半。今日から2学期が本格的に始動します。幼稚園児は、始業式。今日は行ってすぐに帰ってきます。お友達と遊べるのが楽しみです。北半球を大寒波が襲っているようです。日本には、今週半ばに襲来するということです。今日は曇っていて、寒波の襲来を予感させます。
妻が幼稚園児を迎えに行こうとしたときに、冷たい雨が降り始めました。セーターのままで外に出ると、さむい、さむい。
ちいさいちびが3時に、ゆき、ゆきと言いながら帰ってきました。正午すぎに雨がみぞれに変わったのは見ました。テレビの報道によれば、都心で初雪を観測したのだそうです。国立の風景は確かに雪でした。しかも、最高気温が5度。さむいわけです。
ウェブで次の論文にヒットしました。(ファイル容量は20M以上と不自然に大きい。)
Marco Beretta, "Lavoisier as a reader of chemical literature," Revue d'histoire des sciences, 48(1995): 71-94.
私が今取り組んでいることと、方法的に重なります。早速ダウンロードして読みました。ちょうどよい記述です。ラヴォワジェの蔵書は、(ボイルとは違って)よく残っています。いつ入手し、どのように読んだのかがかなりの確度で確定できています。
(p.82) まず、語学能力から。ラヴォワジェは、英語とドイツ語が読めなかった。英語に関しては後に(カーワンの『フロギストン論考』をフランス語に訳した)妻に助けてもらい、ドイツ語に関しては助手のアサンフラッツに助けてもらった。
この時代のフランスの状況として重要なのは、外国語(すなわちフランス語以外)で書かれた化学書が相当数フランス語訳されているということです。翻訳家としてもっとも有名なのは、ドルバックでしょう。特徴的と思われるものをピックアップしておきましょう。
Leonhard Euler, "Nova Theoria Lucis & Colorum," Opuscula varii argumenti Berolini, 1746
Johann Heinrich Pott, Lithogéognosie, ou examen chymique des pierres et des terres en géneéral, Paris, 1753, traslated from Chymische Untersuchungen
J. G. Wallerius, Min&eaculte;ralogie, 2 vols., Paris, 1753
Johan Theodor Eller, "Dissertation sur les &eacule;lémens ou premiers principes des corps," Histoire de l'Académie Royal des Sciences et Belles-Lettres de Berlin, 2(2746): 3-48
Johann Friedrich Meyer, Essais de chymie sur la chaux vive, 2 vols., Paris, 1766
Lavoisier purchased the following books from Jean Hellot's Library in 1766.
Jean Aubery, Les bains de Borbon-Lancy, Paris, 1604
Andrea Bacci, De Thermis, Rome, 1622
Adrien Baillet, La Vie de Monsieur Des-Cartes, 2 vols., Paris, 1691
Anselme Boèce de Boodt, Gemmarum et lapidum historia, Lugduni Batavorum, 1647
Robert Boyle, Nouveau Traité ... sur la convenance des remèdes speécifiques avec la philosophie des corpuscules, Lyon, 1689
Isaac Cattier, De la nature des bains de Bourbon, Paris, 1650
Helvig Dietrich, Responsa medica de probatione et usu acidularum ac fontium Schwalbaci, Frankfurt, 1631
Claude Fouet, Les secrets des bains et eaux minérales de Vichy, Paris, 1679
Conrad Gesner, Historia plantarum, Paris, 1541
Blaise Pascal, Traitez de l'équilibre des liqueurs, et de la pesanteau de la masse de l'air, Paris, 1664
Giovanni Battista della Porta, Phytognomonica, Frankfurt, 1591
Blaise de Vigenère, Tracté du feu et du sel, Rouen, 1642
[Manuscripts] Georg Ernst Stahl, "Cogitationes et utiles reflexiones super contentione de sic dicto Sulphure, et quidem tam de Sulphure communi combustibili auc volatili quam incombustilili aut fixo...," Hallae, 1718. Latin version of Zufällige gedancken und nützliche bedencken über de Stret, vom den sogenannten Sulphure (Halle, 1718)
Lavoisier purchased the following books in Strasbourg in 1767.
Van Helmont, Ortus Medicinae, Amsterdam, 1648
J. Mayow, Tractatus quinque medico-physici; quorum primus agit de salnitro et spiritu nitro-aero..., Oxford, 1675
Metallurgy and Mineralogy.
Agricola, De re metallica, the 1st edition, 1556
Christoph Entzelt, De re metallica, 1557
Emmanuel Swedenborg, Opera philosophica et mineralia, 3 vols., Dresden, 1734
J .L. Waltersdorff, Systema mineral, 1748
Stephen Hales, Vegetable Staticks, translated into French as La Statique des végétaux et l'analyse de l'air (Paris, 1735). And other french translations of Hales.
ひとりで8時20分。幼稚園児は起きて、居間でおねえちゃんたちが降りてくるのを待っていました。いっしょにマリオをやりたいということのようです。曇り。この時期はほんとうはこのぐらいの気温ですが、ずっと暖かい日が続いたので、今日はとりわけ寒く感じます。3人でわめきながら、マリオをやっています。二人でやると上達が速い。
ずっと家のなかにいると健康のためにもよくないので、お昼過ぎにちびどもを外に連れ出しました。幼稚園児はママとお留守番をすると言いました。3千円台のものがあれば、ウィリモコンをもうひとつ買ってやるつもりでした。ユザワヤ、ヨドバシ、ロフト、伊勢丹と回りました。マリオがお年玉をもらった子どもたちの間でどうもブームになっているようです。ヨドバシでも、伊勢丹でも売り切れていました。単体のリモコンは一切なし。ちびどもは、ロフトで、シールを買っていました。シール・ブームは静かに継続している模様です。私はポストイットを一冊(100枚×5パッド)を買いました。
せっかくなので、アルベルトゥス・マグヌス全集のBorgnet編版もダウンロードしておきました。
Albertus Magnus
Opera omnia, ed. Borgnet
38 vols., Paris, 1890-99 (without volumes 13, 15, 16, 17, 36, and 37)→サイトには、第13, 15, 16, 17, 36, 37巻は、真作ではない(偽アルベルトゥスの著作)なので、はずした、とあります。それもひとつの見識ですが、私のような立場からすると、そうではあっても、同様に利用可能にしておいてもらった方がずっとありがたい。(私のような)ダウンロードマニアは、ほとんどそう思うのではないでしょうか。
8時50分。幼稚園児は、居間で毛布にくるまっていました。ちびどもは自分の部屋でシール帳を繰っていました。今日も快晴。昼食の直前、妻が子どもたちを荻窪に連れていってくれることとなりました。私は、いっしょに出て、郵便物の受け取りと若干の事務処理のために大学へ。幼稚園児は、昨日ママに買ってもらったおねえちゃんたちと同じ種類の靴がうれしいようです。ずっと走って駅まで。わずかずつですが、大学に行くときには、リュックに荷物を詰めていきます。この部屋ではもうつかわないけど、捨てる決心もつかない資料は一応研究室に蓄積しています。やまにいくような雰囲気で大学に行っているわけです。
1時間程度の滞留で、今日すべき事はすませました。
ちょうどよいので、帰途、吉祥寺で降りて、ヨドバシへ。地下の文房具売場で製本テープを買いました。コピーの整理用です。それから、オーディオとテレビを見て回りました。昔のようなオーディオセットはもう必要ありませんが、すこしはちゃんと音の出るコンポぐらいは欲しいという気持ちはずっとあります。しかし、設置形態が決まらず、いつも見送りになっています。とりあえず、機種と値段を見て回りました。テレビは、地上波デジタルの映らないテレビが売っているのか、売っているとすればどのくらいの値段か、知りたくなって見て回りました。ブラウン管は0ではありませんでしたが、今年中に売場からなるなる雰囲気です。大型液晶テレビ(プラズマ)は、売れ線商品のようです。座って説明するためのテーブルが数多く設置されていました。
3時前に帰宅。子どもたちは4時前に帰ってきました。
[ゼンネルトと格闘中02]
英訳 English Translations
1.Thirteen books of natural philosophy,
London, 1660
1st book to 8th book were translated from Epitome naturalis scientiae(1618) .
IX. Discourse to XIII. Discourse were translated from Hypomnemata physica(1636).2.Daniel Sennertus, Nich. Culpeper, and Abdiah Cole,
Chymistry Made Easy and Useful. Or, the Agreement and Disagreement of the Chymists and Galenists,
London, 1662
Translated from De chymicorum cum Aristotelicis et Galenicis consensu ac dissensu(1619)The Contents of the Book of the Chymists & Galenists Physick.
Chap. 1. Of the Nature of Chymistry. 1. Cap. I. pp.1-9.
Chap. 2. Of the Truth and Dignity of Chymistry. 5. Cap. II. pp.9-17.
Chap. 3. Of the Inventors and Users of Chymistry. 9. Cap. III. pp.17-28.
Chap. 4. Concerning Paracelsus. 14. Cap. IV. pp.28-51.
Chap. 5. Of the new Names and Principles by which Paracelsians are known. 21. Cap. V. pp.51-60.
Chap. 6. Of the Analogie of the great and little World. 25. Cap. VI. pp.60-66.
Chap. 7. Of the first Matter. 28. Cap. VII. pp.66-73.
Chap. 8. Of the Elements. 30. Cap. VIII. pp.73-85.
Chap. 9. Of the Forms, Seeds, or Stars of Things. 36. Cap. IX. pp.85-114.
And of the Originals of Forms. 38.Chap. 10. Of the Spirit and inbred Heat. 44. Cap. X. pp.114-127.
Chap. 11. Of the Principles of Chymists. 50. Cap. XI. pp. 127-190.
Chap. 12. Of the Generation and Mixture. 64. Cap. XII. pp.190-215
Chap. 13. Of the Foundation of Medicine. 76. Cap. XIII. pp.215-230
Chap. 14. Of the strength of Imagination. 83. Cap. XIV. pp.230-243
Chap. 15. Of the Physiological part of Physick. 92. Cap. XV. pp.243-252
Chap. 16. Of the Pathologie, or Diseases. 99. Cap. XVI. pp.252-296
Chap. 17. Of that part of Physick which is called Semiotick, or of Signs. 119. Cap. XVII. pp.296-312
Chap. 18. Of Medicines, and the Method of Curing. 125. Cap. XVIII. pp.312-385.
An Appendix 151. Cap. XIX. 385-434.
Chap. 19. Of the Constitution of Chymistry. 151.
ゼンネルトの『一致と不一致』がほとんど医化学書となったような翻訳です。
ゼンネルトからすこし脇道に逸れて、チャールトンがマグネンの1646年版ではなく、1648年版を使っていることを確認しました。引用箇所のページ数を挙げていれば、こういう作業が可能になります。ゼンネルトはかなりの箇所でページ数を明示しています。つまり、ゼンネルトに関して利用した著作の版をかなりの数特定できることとなります。気付いたところでは、セヴェリヌスとエラストゥスの利用が顕著です。
ひとり遅れて、9時過ぎ。軽い風邪でしょうか。昨日ひどい肩凝りを感じました。昼食後すぐに妻が子どもたちを吉祥寺に連れていってくれました。しばらく休めます。
大橋さんのサイトで、次のものがダウンロードできることを知り、早速21巻ダウンロードしておきました。デカルトの死の翌年に、アルベルトゥス・マグヌスの全集が出るとは、ちょっと不思議な時間感覚です。どういう人たちが読者層だったのでしょうか。
Albertus Magnus
Beati Albertus Magni Opera
Ed. P. Jammy, 21 vols., Lyon, 1651.子どもたちが寝静まってから、ふとBSのNHKを付けてみると、フレディー・マーキュリーを取り上げた番組が進行中でした。非常に面白く、最後まで見入ってしまいました。イギリス人が20世紀末にこの千年で選ぶとすると、ビートルズを押さえて、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」が1位になったというニュースに刺激されて作った番組だとありました。フレディー・マーキュリーの声は格別です。
フレディーは、アフリカでペルシャ系の家系に生まれ、インドで育ち(高校時代まではインド)、祖国の政情不安を避けて、イギリスに移民したと紹介されました。しかも、ゾロアスター教徒の家庭に育ったとあります。非常に興味深い。彼の生まれ育ったアフリカにおけるゾロアスター教とはどういうものであったのか、そして、その信仰や信条がフレディーにおいてどういう意味を持っていたのか、とても関心をそそられます。
番組では、この点を深入りしていませんでしたが、文献がないかどうか調べてみました。すぐには見つかりませんでした。(あれだけの人気ですから、英語で調べると必ず見つかると思います。私は背景知識がないので、とりあえず、邦語で検索してみました。)
実は、前日も、やはりBSのNHKで、アメリカに「ファンク」が立ち上がり、広がるシーンを放映していました。BBC製作の番組です。ジェイムズ・ブラウンに焦点を当てていました。テンプテーションや二十歳すぎのスティービーも出てきました。わー、なつかしい。リトルと呼ばれていたころのスティービーの声は、無神論者であってさえも神様からの贈り物というものがあると信じることができるとすればこれかと思うほどの宝物でした。
個人的には、私の授業の理想は、こういう番組です。
1年にたった1度であっても、こういう番組が与えてくれるものを学生に与えることができたとすれば、私はそれで満足です。
いつだったのかしっかりとは覚えていませんが、カレンを取り上げた番組でも、同種のフィーリングを受け取っています。感情に刻印されたものが記憶に刻まれる。彼ら/彼女たちの声が伝える何かを伝えることができれば、大満足です。
ちびどもに続いて、7時。晴れ。晴れの日が続いています。[ゼンネルトと格闘中01]
ゼンネルトと格闘中です。最初に出版リストが欲しいかと思い、簡略版ですが、作ってみました。Epitome Naturalis Scientiae, Wittenberg, 1600, 1618, 1624; Oxford, 1632; Wittenberg and Paris, 1633; Venice, 1641; Frankfurt, 1650; Amsterdam, 1651; Oxford, 1653, 1664, 1682
De Febribus, Wittenberg, 1605, 1619; Lyon, 1627; Wittenberg, 1628; Paris, 1633; Venice, 1641; Wittenberg and Frankfurt, 1653
Institutionum Medicinae Libri V, Wittenberg, 1611, 1620, 1628; Paris, 1631; Wittenberg, 1633; Paris, 1637; Wittenberg, 1646, 1667
De chymicorum cum Aristotelicis et Galenicis consensu ac dissensu, Wittenberg, 1619, 1629; Paris, 1633; Frankfurt and Wittenberg, 1655
Practica Medicina, Lyon, 1629; 6 vols., Paris, 1632-35; Wittenberg, 1635-39; 1652-54
Epitome Institutionum Medicinae, Wittenberg, 1631, 1634; Lyon, 1645; Amsterdam, 1644, 1655; Wittenberg, 1664
Hypomnemata physica, Wittenberg, 1636; Frankfurt, 1636; Lyon, 1637; Venice, 1641; Frankfurt, 1650
Opera Omnia, Paris, 1641; Venice, 1641; Lyon, 1650; Venice, 1651; Lyon, 1676
『自然科学のエピトーム』の初版が1600年、『一致と不一致』の初版が1619年と17世紀のかなり早い時期に科学史上重要な著作が出版されています。『自然学ヒポムネマータ』がいくらか遅れて1636年、最初の全集が1641年、です。しかも、上記の通り、数多くの版が出版されています。『自然科学のエピトーム』はオクスフォードでも2回出版されています。
『後期中世と初期近代における粒子論的物質理論』に確かゼンネルトに関するモノグラフがあったかと思い出して、本を取り出しました。この本はこの場所から動かず取り出せる場所に置いています。エミリー・マイケルの次の論文がありました。
Emily Michael, "Sennert's Sea Change: Atoms and Causes, " Late Medieval and Early Modern Corpuscular Matter Theories (Leiden, 2001), pp.331-362.
2003年2月2日に読んでいます。「ゼンネルトの原子に関する最初の見解と最後の見解の研究である」と最初にあります。出発点は、ゼンネルトがまだ医学博士号を受ける1年前に記した『26の討論を含む、自然科学のエピトーム』(1600)です。最後の見解というのは、『自然学ヒポムネマータ』(1636)に記された思想です。以前の見解に対する考え直しや見直しを多く含みます。
p.335 『自然学ヒポムネマータ』(1636)「量には最小ミニマというのはないが、光は自然の最小者をもつ。つまり、それ以上小さくなると消滅してしまうほど小さい光である。このように、自然物体の最小者ミニマが存在する。それをそれ以上分解すると、その形相と本質が失われる。」
p.348 「『自然学ヒポムネマータ』においてゼンネルトは、生命体に関する階層論的複数論的説明を粒子にまで拡張した。」
p.350-1 原子の階層構造。
[コインブラの注釈家]
ゼンネルトは、(アリストテレスの注釈として)コインブラの注釈家たちの仕事を使っています。もちろん、今回そこまで手を広げることはできませんが、アウトラインは押さえておきたい。コインブラ大学のイエズス会士の教授たち(有名なのは、モリーナ(Luis de Molina, 1535-1600)とスアレス(Francisco Suarez, 1548-1617)が学生に語った内容で、もともとは出版を目的とはしてなかったが、詐欺的に出版されてしまった。海賊版を正すために、Father Claudius Acquaviva が Father Peter Fonsecaに、修正された正規の版の出版を命じた。この注釈家のグループをコニンブリケンセスあるいはコレギウム・コニンブリケンセスと呼ぶ。(オルムズによるリプリントがあります。日本の大学にはリプリントさえ所蔵するとことは少ないが、たぶん、リプリントにはこの辺りの事情の詳しい書誌学的説明が付いているのでしょう。)
本としては次の8点。版としては多く出ています。Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in octo libros physicorum Aristotelis Stagyritae, Coimbra, 1591
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in quattuor libros physicorum Aristotelis de Coelo, Coimbra, 1592
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in libros meteorum Aristotelis Stagyritae, Coimbra, 1592
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in libros Aristotelis qui parva naturalia appelantur , Coimbra, 1592
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in libros Ethicorum Aristotelis ad Nichomachum aliquot Cursus Conimbricensis disputationes in quibus praecipua quaedam Ethicae disciplinae capita continentur, Coimbra, 1595
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in duos libros Aristotelis de generatione et coruptione, Coimbra, 1595
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in tres libros Aristotelis de Anima, Coimbra, 1592
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in universam dialecticam nunc primum, Venice, 1606
GoogleBookに次の版があります。
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in libros meteorum Aristotelis Stagyritae, Coimbra, 1593
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in duos libros Aristotelis de generatione et coruptione, Coimbra, 1597
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in duos libros Aristotelis de generatione et coruptione, Moguntiae, 1599
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in tres libros Aristotelis de Anima, 3rd edition, Coloniae, 1600
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in universam dialecticam Aristotelis Stagirtitae, Lyon, 1607
Commentarii Collegii Conimbricensis Societatis Jesu in quattuor libros physicorum Aristotelis de Coelo, Coloniae, 1603
エミリーは、以下のように記しています。
Collegium Conimbricense, In octo libros Physicorum Aristotelis, pars prima, Coimbra, 1572
7時40分。階下に降りて、誰もいません。子どもたちはみんなよく寝ている模様。やはり快晴。おおきいちびは新年会。お友達のお兄さんが新年会を開くのに、妹仲良し3人組のひとりとして参加します。昼食から。
おおきいちびがパーティに行っている間、ちいさいちびと幼稚園児は、ママに、動物園に連れていってもらうこととなりました。私はお留守番ということで、仕事に集中できます。ちいさいちびは、ねずみちゃん(モルモットとハムスター)にさわりたいようです。前に行ったとき、タイムアウトでさわれなかったのが悔しかったようです。
喜び勇んででかけました。
4時前に駅から迎えに来て欲しいという電話がありました。前は最後まで歩きましたが、甘えているのでしょう。自転車で迎えに行きました。ちいさいちびも疲れたというので、前に幼稚園児、後ろにちいさいちびを乗せて帰りました。ほんとうは前に乗るのは嫌だったようです。帰り着いてしばらく、前は怖かった、前は嫌だと泣いていました。本人は本気で泣いています。しかし、親の立場からは笑ってしまいます。本人の前で笑うと余計に泣かれるので、妻は、ごめんねー、ごめんねーをしていました。
明日から小学校が始まります。正月の間すこし遅くなることもあったちびどもですが、通常営業で、9時に寝かせ付けました。
ひとり遅れて9時。ちびどもは、布団のなかでマンガを読んでいました。幼稚園児は上機嫌で遊んでいました。昨日に続き、快晴。午後、幼稚園児といっしょにお出かけ。私に欲しい文房具がありました。ちいさいちびはどうも外出する気にならなかったようです。当初の目的地は、ヨドバシ。しかし、ユザワヤにもあるだろうと、近さも考えて、改札を出て、すぐにユザワヤに入りました。閉店前というのは難しい。目的のものを捜すことができませんでした。
フロアーを1周半して諦めました。そのまま8階へ。けっこう淋しくなって、つまりは空間が広がって、楽に遊べるようになっていたゲームコーナーで幼稚園児は、幼児用に置かれているブロックで遊び始めました。座ってみてれればよいので、親にとって楽です。けっこう長く(小一時間か)集中して遊んだ後、シンケンジャーのガチャポンをゲットして帰途へ。ガード下のスーパーでおやつを買ってから帰宅。4時10分。
片づけをしていたら、やはり、次の論文が出てきたので目を通しました。
C. H. Lüthy, "Thoughts and Circumstances of Sébastien Basson. Analysis, Micro-History, Questions," Early Science and Medicine, 2(1997): 1-73.
謎の人物バッソンに関する研究です。先行研究を正確に整理してくれています。バッソンに関して残されている1次資料をきちんとフォローしてくれています。今後バッソンについて言及するのであれば、最初に見るべき(コンサルトすべき)論文です。ただし、論文としては、非常に長い。
ひとり遅れて8時20分。夜の間に雨が降りました。今はよく晴れています。雨上がりの快晴です。しかも暖かくなってきました。子どもたちは、外に出るかと思っていたら、疲れたからおうちのなかにいると言っています。そうはいっても、おおきいちびは午後遅く歯医者さん。
蝸牛の歩みとはいえ、片づけは進めています。平井さんにもらったまま埋もれていた次の論文が出てきたので、読みました。
Hiro Hirai, "Living Atoms, the Origin of Souls and Spontaneous Generation in Daniel Sennert (and Fortunio Liceti)," in Mordechai Feingold (ed.), Hylomorphism, Cambridge MA , MIT Press,
出版は forthcoming なのでしょうか、確認できませんでした。私の現在の関心から言えば、後半の物質の階層構造を扱った部分(平井さんはそういうふうには書いていませんけれど)がとくに興味をひきました。ゼンネルトは、ほんとうによい線を行っていたと思います。検索をかけていると、つぎの博士論文にヒットしました。
John P. McCaskey,
Regula Socratis: The Rediscovery of Ancient Induction in Early Modern England
Ph.D. Dissertaion, Stanford Universiry, 2006
狭義の科学史の論文としてはもの足りないのですが、議論の整理の仕方に有用な部分はあります。私もそうですが、タイトルからはどういう研究対象をどういうふうに扱っているのか判りづらいと思います。最後は、ボイルです。
ほぼそろって7時10分。お正月の間はずっと同じような天気です。今日は、官公庁の御用始め。[ホワイト・サカス]
ちいさいちびの要望によって、スケート場へ。赤坂サカスにするようです。幼稚園児も行きたいというので、早めの昼食をとって、家族全員ででかけることとなりました。(オープンの10時に行くことも考えていたので、それからすると)時間もかなり遅くなっていたので、総武線で行こうかと思っていたのですが、プラットホームに着くと、総武線の間隔が一番長くなっている時間帯に当たっていました。子どもたちがはやく電車に乗りたがったので、最初に来た東西線に乗って、荻窪で乗換え、丸の内線の赤坂見附から歩くこととしました。案内には徒歩7分とあります。地図は印刷はしたのですが、持ってきてはいません。頭の中の地図がたよりです。
赤坂見附で外に出たことはほとんどなかったのですが、にぎやかな街でした。ビルの様子から、TBSは比較的にすぐにわかりました。サカスもわかりやすい場所にありました。
スケートリンクに着くと、幼稚園児もいっしょにやると言います。スケートの経験のある妻がアテンドすることとなりました。ちびどもは3回目なので、もう自分たちで大丈夫です。幼稚園児ですが、ママに手を引っ張ってもらって、何とか転ばず、滑っています。ただし、途中から、氷遊びに転じ、一番先にリタイアしました。
ちびどもはまだまだ滑り足りないというので、私が、幼稚園児の相手をしました。ココアをゆっくりと飲んだ後は、階段のところで、遊んでいます。小さい子どもは、ある程度自由に動ける場所があればそれで十分遊びます。
ちびどもも3時過ぎには疲れたようです。持参したおやつを食べてから、帰途へ。今度は便利さを考えて、赤坂の駅から。原宿で乗り換えようと思うと、明治神宮の側の入り口に回ってくれという指示があります。えー。まあ、仕方ありません。明治神宮の側に回りました。もう4日なのに、初詣の人が大勢来ていました。予想外。西荻の駅には、4時半過ぎに着きました。昼食がはやく、運動をしています。駅前のラーメン屋さんで、夕食を食べて帰ることとしました。幼稚園児もよく食べています。
外で遊んできたせいでしょう、帰宅後も子どもたちは機嫌がよい。明日からは新学期会しに向けて、通常化モードにもどします。
[ニュー・スーパーマリオブラザーズ・Wii ]
ひとり遅れて8時。子どもたちは元気に朝食中でした。幼稚園児がやるきまんまんです。
やるきまんまんなのは、昨夜、ニュー・スーパーマリオブラザーズ・Wii を買ってやると言ったせいです。朝一番で、買ってくると言います。おおきいちびと3人で9時20分に家をでて、ヨドバシへ。吉祥寺のヨドバシは9時半開店。ゲームのコーナーに行くと、「ニュー・スーパーマリオブラザーズ・Wii は売り切れです」の大きな掲示。半ば予想していました。次は伊勢丹。入り口で5分待ちました。どういう用があるのか知りませんが、いっしょに並んでいる人が数人いました。伊勢丹では定価で販売していました。
そのまま帰途。やはり駅前のコンビニでおやつ(おお、アイスクリームを選びました)を買って帰宅しました。
幼稚園児は、午後ママといっしょに歩いて、クイーンズ伊勢丹へ、片道1キロです。
さらに、夕刻になる前、八幡神社に初詣。よく歩きました。
ニュー・スーパーマリオブラザーズ・Wiiですが、ちびどもは二人プレイをしています。
ひとりで7時40分。ちびどもは、自分の部屋でDSをしていました。8時現在、幼稚園児はよく寝ています。
幼稚園児が外で遊びたがるので、昼食後、付き合ってやりました。久しぶりにセキネ公園。自分で選んで自分で行きました。好天、しかも外は暖かい。
しばらく一人で遊んでいましたが、あかちゃん(幼稚園児の表現、2才ぐらいの男の子)がパパ・ママといっしょに滑り台を始めると、世話をしたくなったようです。その子のまわりを走り回って、台の登り方と、滑り台の滑り方を一生懸命実演して見せます。滑り方は4種類実演して見せました。しかも、よくしゃべる(説明しています。)
その子はまだあまり慣れていないようで、すぐに帰りました。
もう帰ろうと言い始めたときに、ネコ。鳩と同じように、ネコも追いかけます。ただし、睨まれると怖い。パパを呼びます。ネコを追いかけているとき、やはり弟といっしょに遊んでいた年長さんぐらいの男の子が(弟はパパに任せて)合流してきました。二人でしばらくネコを追いかけて遊んでいました。その子は、公園の近くに住んでいて、これもいっしょに遊びはじめてわりとすぐに帰ってしまいました。
もう、帰る。
途中、歩こうとしなくなったので、ちゃんと歩いたら、おやつを買ってあげると誘うと俄然元気に歩き始めました。いつもは行かないちょっと遠い目のコンビニ。チョコクッキーとアイスクリーム二種を買いました。
何度も足が止まったのですが、うまくなだめて、家まで歩いて帰りました。帰り道は2キロぐらいでしょうか。いつもこの程度を問題なく歩けるようになると、ずいぶん楽になります。子どもの遊び場であれば、たいていの場所は行けるようになります。
1月2日深夜.
[マイネルの原子論史]
子どもたちが寝静まったあと、机の上の片づけをしていたら、日付が変わっていました。ほんとうにいろんなものがただただ堆積しています。つまり、机の上に置いたまま次に置いたものの下敷きになっていました。失神したときに折れた歯まで出てきました。研究上は、年末からずっと捜していたマイネルの17世紀の原子論の論文が出てきました。論文そのものは、ISIS のサイトから簡単にダウンロードできるのですが、バインドして書き込みをしている実物を見たかった。1988年の論文ですが、1990年10月20日に読んでいます。次の書き込みがありました。「これは基本的資料集としてとても役立つ。解釈に鋭さもエキサイティングなところもないが、穏当な見解の上に、非常に有用なデータがきれいに提示されている。こういうのはとても役に立つ。」一部見直してみました。ほんとうにしっかりと調べられていて、有用です。ニューマンの論文とセットで読むとちょうどよいかも知れません。原子論史として、実は今の私には必要な論文です。
Palingenesis に関しては、次の4点の論文を挙げています。(p.81, note 39)
Jacques Marx, "Alchimie et Palingenesie," Isis, 62(1971): 274-289
Allen G. Debus, "A Further Note on Palingenesis," Isis, 64(1973): 226-230
Joachim Telle, "Chymische Pflanzen in der deutschen Literatur," Medizinhistorisches Journal, 8(1973): 1-37
Francois Secret, "Palingenesis, Alchemy and Metempsychosis in Renaissance Medicine," Ambix, 26(1979) : 81-92.ゼンネルトの粒子理論に関しては、次のキール大学の博士論文がイデオロギー的偏向はあるにせよ、十分な長さの研究としていは唯一であるとあります。
Rembert Ramsauer, Die Atomistik des Daniel Sennert als Ansatz zu einer deutschartig- schauenden Naturforschung und Theorie der Materie im 17. Jahrhundert ,Ph.D. diss., Univ. Kiel, 1935.もとの状態への還元(Reduction to the Pristine State)については、pp.92-5.
その次には、「金属の変成」として、セメンテーション(置換法:イオン化傾向の大きい金属を利用してイオン化傾向の小さい金属イオンを還元析出させる方法)から話を始めています。1次資料としては、次のもの。
Daniel Sennert, De chymicorum cum Aristotelicis et Galenicis consensu ac dissensu liber, Wittenberg, 1619; 2nd edition, Wittenberg, 1629; 3rd edition, Paris, 1633.
David Gorlaeus (David Van Goorle), Excercitationes philosophicae quibus universa fere discutitur philosophiae theorica, Leiden, 1620.
Sebastianus Basso, Philosophiae Naturalis adversus Aristotelem Libri XII, 1621; Amsterdam, 1649.
Daniel Sennert, Hypomnemata physica , Francfurt, 1636.
Claudius Berigardus, Circulus Pisanus de veteri et peripatetica philosophia, 1643; Padua, 1661.
Jean Chrysostome Magnen, Democritus reviviscens, Pavia, 1646; Leiden, 1648.
Pierre Gassendi, Animadversiones in decimum librum Diogenis Laertii, qui est de vita, moribus placitisque Epicuri, 3 vols., Lyon,1649.
Walter Charleton, Physiologia Epicuro-Gassendo-Charltoniana, London, 1654.
→ 10.1.4 2次資料。ランダムに。
G. B. Stone, "The Atomic View of Matter in the XVth, XVIth, and XVIIth Centuries," ISIS, 10(1928): 445-467.
My Card 1983.4.12 ブルーノ、ゼンネルト、マグネン、バッソの所は使えるかもしれない。
p.446 Poggio Bracciolini (1380-1459) ルクレティウスのコピー, Brescia, 1473 最初の出版。
pp.446-7 Nicholas of Cusa(1401-1464)
pp.448-9 Girolamo Fracastoro(1478-1553)
pp.449-50 Peter Ramus(1515-1572)
pp.450-1 Giordano Bruno(1548-1600): minima とモナド、生きたミニマ
pp.452-3 ベイコン(Fransic Bacon, 1561-1626)とデカルト(René Descartes, 1596-1650)
pp.454-7 ドイツ派 ゼンネルト、David Gorlaeus (van Goorle), Johannes Phocylides Holwarda(1618-1651), Van Helmont(1577-1644), Johannes Sperling(1603-1658), ユンギウス(Jpachim Junge, 1578-1657)
pp.457-60 イタリア派 ベリガール(Claude Berigard, 1578?-1664)、マグネン(Jean Chrysostome Magnen, 1590-1679)、バッソ(Sebastian Basso)
pp.460-5 ガッサンディとチャールトン
(現時点で現物は発見できていません。以上は、27年前!のカードから。)
(→10.1.5 捜すよりもダウンロードの方がはやいので、ダウンロードして見直しました。情報を追加しました。)→10.1.7 マグネン。
p.459 原子が存在する8つの根本的理由。
1.Nature schrinks from the endless.
2.ミニマは、いろんな名前のもと、ほとんどすべての自然学に出現する。
3.物体を作り上げるにあたって、決まった不可視の部分がなければならない。さもなくば、形相のない質料を得ることになる。
4.さもなくば、分解が無を生むこととなる。従って、最少の形態が存在することとなる。分割は、無数の数の部分を与えるのではなく、量ある物理的部分を与える。
5.原子の受容は、化学の実験に依拠する。その1)ゼンネルトの『自然学のヒポムネマータ』3部、第2章(Magnen, Democritus reviviscens, Pavia, 1646, pp.109-110)、その2)ジャック・ガファレル(Jacques Gaffarel, 1601-1681)がCuriositez inouyes(Hamburg, 1629) に記録する不思議な話。
マグネンは、火の原子、水の原子、土の原子という表現を使っている。問題なのは、5.です。以前も引用したチャールトンの109頁「第7項目」を見てみよう。
「この2論拠に付け加えて、我々は、同様な意義をもつ論拠をあげることができよう。とくに、時の嫉妬とペリパトス派が導入したデモクリトスとその原理に対する不明瞭な表現と軽蔑に反して、デモクリトスとその原理を復興した現代の著作家の主張をあげることができる。すなわち、ゼンネルト(『自然学のヒポムネマータ』において)とマグネヌス(『原子について』第2章第2論説)は、彼らの豊富な実例に基づき、我々のテーゼの奥義を、化学の合成と分解の実験によって解き明かしたのである。(化学の分解によってすべての物体は、その物体の特殊な種性(specifical seminaries)を保持するあの分子、すなわち原子の最初の集塊(First Conventions of Atoms)に分解されるのである。さらにさまざまな具体物の異質な部分が分解後、ひとつのかたまりへと凝固し、ミニマによって結びつくのである。)しかしもっと顕著な例は、自然の奇跡、すなわちガラス容器中で原子から植物の全体を再生したヘルメスの木によって与えられる。ヘルメスの木は、ポーランドの医師がガファレルの臨席する機会に示したものであり、ガファレル自身が(『前代未聞の驚異』において)記録し、ケルケタヌスが(Ad veritatem hermeticae medicinae ex Hippocratis...adversus cujusdam anonymi phantasmata responsio)で主張し、さらにブランデンブルクで長く哲学と医学の教授であったHierem.コルナリウスが偉大なるリバヴィウスに宛てた手紙中で記述した伝記でも紹介されている。この手紙は、リバヴィウスの著作(Sintagm. Arcan. Chymic第1書第22章)に添えられた(「植物の灰からの形相の再生について」)。」pp.109-110.忘れていましたが、マグネンは持っています。第2章「すべてのものは原子からなる」pp.104-116, on pp.109-110 (まったくの偶然ですが、チャールトンがマグネンを引用するのと同じページ)で次のように書いています。
VI. Fundamenum. Rationibus istis accedunt experientiae Chymicorum quas videbis apud Danielem Sennertum in hypomneumata 3. c. 2. ubi de atomis illo unico capite tractat, quod illibatum relinquo in fonte videndum. Curiosiorem habeo experientiam, & natulari miraculo propriorem ex Iacobo Gafarello in suis curiositatibus inauditis. Illam paucis expono quod scilicet in ea tanquam in speculo, Democriticae philosophie mysterium omne refulgeat. Narrat, ilie oculatosq; testes appelat suo nomine, viros graues, & suae domi satis notos, qui in Plloni Medici museo phialas complures viderunt, in quarum fundo pulueres ex arte praeparati floru animas in cineribus conservabant, vivebantq; veluti suis in urnis. Spectaculum hospitibus gratum exhiturus doctissimus ille chymicus, accensam candelam detentae in aere phialae qua roe cineres preparati asservuabantur certa distantia supponit, vix calore se se in vitrum insinuaverat, cum ecce tibi moveri corpusculorum puluerisq; populos, cinerem illum leniter agitari, dum tandem post hore fere intervallum totus ille pulvis collecto calore in media phialae area suspensus, varijs deinceps confusisq; motibus undiquaq; cieri cepit: sicut dum apes aluearia mutates in aeris medio in nubem coacte confuso volatu hinc, & inde per sua castra volitant: tandem variis agitationibus , quasi se se atomi ad unionem queritarent, paulatim in sama perfectissimam corpuscula illa coaluerunt, cui neq; in folijs ordo, neq; color, neq; meditullium croceum deess* videbatur.以上、マグネンがゼンネルトを使っていることは明らかです。ただし、原子についての章は、Hypomn. 3. c.1 であって、c. 2 ではありません。ここは単純なタイプミスでしょう。そして、チャールトンがこの箇所を使っていることも明らかです。ガファレルが『前代未聞の驚異』で報告した植物の再生実験も出てきますし、1頁あとには次の言葉があります。 Scio Fretatium in noctibus medicis hanc de rosa fabulam appellare, verum Quercetanus magni nominis Gallorum Regis Consiliarius, & medicus, eam a se visam refert in defens. contra Anonymum c. 23. adducitq; alios testes oculatos idem Gafarellus, Democritus aute chymiae mysterijs, & Aegyptiorum doctrinaeo argumento astruebat mortuorum resurrectionem ex Plin. l.7. c. 55. utq; (p.111)
図解すれば、ゼンネルト→マグネン→チャールトン、となる。
ちょうどよいので以前ダウンロードしていたディーバスの「ノートと通信:植物の再生に関するさらなる注記」を読んでみました。シブリの『占星術図解』(1784, 1792) の図版と説明は傑作です。その植物の姿は、「熱を取り去れば、まるで幽霊のように消え去る」と書いています。
錬金術的な意味に使われたデモクリトスの原子については、グラスホッフの『秘中の秘』を見よとあります。『化学の劇場』第6巻、pp.376ff
ケルケタヌスのパリンジェネシスの説明は、Ad veritatem hermeticae medicinae ex Hippocratis veterumque decretis ac Therapeusi, nec non viuae rerum anatomiae exegesi, ipsumque naturae luce staliliendam, adversus cujusdam anonymi phantasmata responsio (Frankfurt, 1604; 1605), pp.228-238, esp. on pp.233-5.
キルヒャーでは、『地下世界』(2 vols, Amsterdam, 1665), Vol.2, p.414.
ガファレルの英訳(London, 1650) では、pp.135-8.
ファン・ヘルモントの批判については、Ortus Medicinae, pp.459-60.ディーバスは、ジャック・マルクスの論文に刺激されて、「ノートと通信」を書いています。それは、次。
Jacques Marx, "Alchimie et Palingénésie," ISIS, 62(1971): 275-289.
ダウンロードしました。ディーバスの説明の通り、非常に豊かな実例が挙げられています。図版が4点掲載されています。一部は、銀樹のようなものを指していたことがわかります。p.70 of Meinel.
マイネルは、(原子論が関わる範囲で)中世のミニマ説に関するなおまだ最良の説明は、ファン・メルセンだと言っています。A. G. M. van Melsen, From Atomos to Atom: The History of the Concept Atom, Pittsburgh: Duquesne University Press, 1952
第2章が中世とルネサンスを扱っています。
第2章の1.概観
第2章の2.注釈家におけるアリストテレスのミニマ説
第2章の3.スカリジェ
第2章の4.原子論
第2章の5.実践的化学の発展第3章が17世紀。
第3章の1.17世紀の特別な重要性
第3章の2.ゼンネルト
第3章の3.バッソとファン・フールレ
第3章の4.ガッサンディ
第3章の5.デカルト
第3章の6.ロバート・ボイル
第3章の7.17世紀の力学
第3章の8.17世紀のレビューマイネルは、中世の章を評価していますが、20世紀のほぼ中間の時点で、17世紀の最初にゼンネルトをもってきた慧眼は大きく評価されるべきだと思います。ゼンネルトに関しては、注目は集めていますが、しっかりとしたモノグラフがなおまだ書かれる必要があると思われます。
p.86 Hypomnemata, p.94 "Cum vero atomorum non sit unum genus, sed pro corporum naturalium varietate varia; eas & secundum simplicia corpora, quae elementa dictur, & secundum composita, considerare libet."
English Translation, p.447 「そして、ただ一種の原子があるのではなく、物体の多様性に応じて多様な原子が存在する。したがって私は、いわゆる元素と呼びうる単純物体に関して、ならびに複合物体に関して、それぞれ別々に考察するのがふさわしいと考える。」
p.86 「ゼンネルトは、火の原子、水の原子、空気の原子、土の原子をこの順に検討した。これらの原子それぞれの性質に関する彼の考察は、スカリジェのものに正確に追随するものであった。・・・事実として、ゼンネルトの原子はスカリジェのミニマに他ならない。」
p.86「次のパッセージは、特別な注意に値する。そのなかで彼は、第2の種類の原子、すなわち複合物の原子を語っている。現代の用語法では、それは複合物の分子とも呼べるような存在である。」
Hypomnemata, p.107 "Sunt enim secundo alterius, praeter elementares, generis atomi, (quas si quis prima mixta appellare velit, suo sensu utatur) in quae, ut similaria, alia corpora composita resolvuntur."
English Translation, p.451. 「第2に、元素的原子の他に、別の種の原子(もしそう呼ぶのであれば、これをプリマ・ミクスタと呼ぶこともできよう)が存在する。他の複合物体は、均質部分として、プリマ・ミクスタに分解される。」
p.88 「ゼンネルトの粒子理論の重要性」「ゼンネルトの粒子理論の重要性は、元素的な原子と"prima mixta" 2番目の種類(オーダー)の原子を明確に区別したことにある。」 p.89「原子という語―これはさらに、ミニマ・ナチュラリアの代わりに用いられた―の不断の使用にも関わらず、質を欠く原子というデモクリトスの体系に陥ることはなかった。」→10.1.5 チュリオ・グレゴリーの原子論研究。
I. On Sebastiano Basso,
Tullio Gregory, "Studi sull'atomismo del Seicento, I: Sebastiano Basson," Giornale critico della Filosofia Italiana, 43(1964) : 38-65
II. On David van Goorle and Daniel Sennert,
Tullio Gregory, "Studi sull'atomismo del Seicento, II: David van Goorle e Daniel Sennert," Giornale critico della Filosofia Italiana, 45(1966) :44-63
III. On Cudworth,
Tullio Gregory, "Studi sull'atomismo del Seicento, III: Cudworth e L'Atomismo," Giornale critico della Filosofia Italiana, 46(1967) : 528-541.
これに関しては、カードがすぐには見つからないので、いつコピーを取ったのかわかりません。いくらか書き込みがあります。典型的な学生時代の文字です。ラスヴィッツの原子論史。何と言っても19世紀ドイツ文献学の大きな成果です。
Kurd Lasswitz, Geschichte der Atomistik vom Mittelalter bis Newton, 2 vols., Hamburg/Leipzig, 1890.
私はリプリントで持っています。パーティントンの原子論史。
J. R. Partington, "The Origins of the Atomic Theory," Annals of Science, 4(1939) : 245- 282.
新年おめでとうございます。
ひとり遅れて8時20分。冬の晴れ。
子どもたちは家のなかにずっといるとけんかになります。朝食後、外に連れ出しました。初詣は賛同者がいなかったので、お正月から営業しているヨドバシへ。ちっちゃなおもちゃと文房具を買いました。文房具は、私の書類整理のものが半分、ちびどものものが半分。
西荻駅で、おやつを買ってやると言ったら、ケーキを選びましたチョコシフォンケーキ。帰宅して、あっというまに平らげてしましました。この食欲は見事です。
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