昨日と同じく、7時50分。こどもたちはみんな起きていました。今日の夕刻から日本列島は嵐ということですが、今はまだ穏やかです。朝スーパーが開く時刻を見計らって、買い物。おおきいちびと幼稚園児がママに付き添いました。ちいさいちびは宿題をしていました。
夕刻、郵便が届きました。新しい『科学史研究』です。え、こんな日に。もうひとつの驚きは、坂本氏の次の論文が掲載されていることです。
坂本邦暢「フランシス・ベーコンにおける創造と摂理の原子論的解釈―テレジオ批判とセヴェリヌス受容―」『科学史研究』第48巻(no.252)(2009): 214-223.
驚いたのは、2009年春学期に駒場でおこなった授業の成果が年内に出版されたというその速さに対してです。
科学史家&思想史家の全員に読んでもらいたい。ベーコンを理解するためには、ベーコンの立っていた場所(思想史的位置)を理解する必要があります。思想史的には、ベーコンの思想形成に大きく寄与した書物、誰のどういう著作をスプリングボードにしてベーコンは、その自然思想を形成したのかを問う必要があります。これまでまったく未開拓というわけではないのですが、テレジオとセヴェリヌスの両方を読んだベーコン研究者はこれまでまったくいなかったと思います。(ゼロだとはもちろん証明できないが、私の把握しているベーコン研究者のなかにはいない。)
17世紀の原子論をテーマにするのであれば、この文脈を無視するのはもう許されないと思います。[マフェイ]
グーグル・ブックに多数のマフェイがありました。以下は、関係があるかもしれないものだけをダウンロードしたものです。Maffei, Giovanni Pietro
Historiarum Indicarum libri XVI: Selectarum item ex India Epistolarum eodem interprete Libri IIII ; accessit Ignatii Loiolae Vita postremo recognita,
Venetiis, 1588Maffei, Giovanni Pietro
Historiarum Indicarum libri XVI: Selectarum item ex India Epistolarum eodem interprete Libri IIII ; accessit Ignatii Loiolae Vita postremo recognita,
Coloniae Agrippinae, 1589Hay, John and Maffei, Giovanni Pietro
De rebus Iaponicis, Indicis, et Peruanis epistolae recentiores
Antwerp, 1605
7時50分。幼稚園児は起きていました。ちびどもは不明。晴れ。朝のうちは穏やかな年末の風景です。朝、おおきいちびがママについて、食料品の買い出しに出ました。
午後、私が幼稚園児を連れて、お散歩。やはり、ガード下のスーパーでおやつ類を買いました。
ちいさいちびは、おもちゃを買いにヨドバシに行きたいと言っていましたが、結局、外出をしませんでした。幼稚園児、ちいさいちび、妻の3人は、非常に軽い風邪の模様。外出したときにどこかでもらったのでしょう。
ひとりで8時20分。昨夜いつもよりずっと遅くまで作業していたせいです。おおきいちびが本を買いたいというので、一度だけ外出。昼食後、おおきいちびと二人で荻窪に出かけました。駅ビルに2店舗本屋さんがあります。欲しいものは、両方に置いていませんでした。セイユウの文房具売場で、年賀状を入れるクリアーファイルを5点(今年からは、幼稚園児の分も必要となりました。幼稚園児にはミッキーのクリアファイルを選びました。ママのためには、プーさん。)購入。
おおきいちびが西荻の新しい本屋さんにも念のためよってみるというので、寄ってみました。ありました。おおきいちびには、ままあることだといっておきました。私は、『SIGHT 2010 Winter 総力特集:大丈夫か?民主党 何かヘンだぞ』を買いました。
ひとりで7時20分。幼稚園児はまだよく寝ています。ちびどもは起きて、ゲームをしている模様。燃えるゴミ、年内の最後。ゴミを出すために外に出ると、地面が濡れています。夜の間に雨が降ったようです。気がつきませんでした。たぶん、官公庁は御用納めの日。大学も今日が(事務の開いている)年内最終日となります。書類の処理のため、朝一番で大学に行って来ました。8時42分武蔵境発の電車に乗り、大学に向かいました。交流センターがほとんど出来上がっていました。ぱっと見た目、ちょっと変な格好をしている気がします。
書類とメールの処理をしました。次の書物が届いていました。
林栄治・斎藤憲
『天秤の魔術師 アルキメデスの数学』
共立出版、2009
著者の林栄治さん、斎藤憲さん、ご高配頂き、ありがとうございます。多磨駅9時42分の電車で帰途へ。武蔵境の駅では、東京行きもはじめて高架の上の電車です。西武線からJRへの通路がまた迷路のようになっていました。
10時過ぎに帰宅。おじいちゃん・おばあちゃんから年末恒例のお餅が届いていました。子どもたちの大好きなお餅です。
[後楽園]
子どもたちが外に出たがっています。相談の上、後楽園、すなわち、東京ドームシティに出かけることとしました。1時半過ぎに出発。ウェブで混雑状況を調べて妻は、今日は空いていると言っています。総武線に事故があり、中央線ででかけ、四谷で乗り換えました。いずれにせよ、水道橋は、電車に乗ってしまえば30分弱です。
確かに空いています。一番奥の広場に直行しました。ちびどもは、前に来たとき乗ることができなかったウォータードロップ。幼稚園児は新しくできたというシューティングゲームと分かれました。私はちびどもといっしょにウォータードロップ。確かに空いています。10分弱で乗車できました。濡れるということなので、100円のビニールを購入してかぶりました。おおきいちびは落下のときに悲鳴。まあ、でも、そんなに高低差がありません。いくらか水しぶきが顔にかかった程度ですみました。ちびどもは満足。
新しいゲームの方は、30分待ちだということです。ちいさいちびがお腹が空いたというので、たこ焼き。二人で一皿きれいに平らげました。まだお腹が空いていると言いますが、幼稚園児が出てくるのを待つように指示しました。
幼稚園児が出てきてからは、私がベンチで待機し、こどもたちは、メリーゴーランドに乗ったり、アイスを食べたり、噴水ショーを見たり。幼稚園児の噴水ショーには私が付き合いました。ちょうど4時からの回があります。4時5分前から待っていました。隣にちび軍団がいました。ちび軍団が大声を上げると、幼稚園児も同じように大声を上げていました。
その間、妻とちびどもは、ケンタッキーフライドチキンの前で、フライドチキンと食べていました。噴水ショー終了後、合流して、我々も軽食。先に食べ終わったおおきいちびが本屋さんを見たいと言って、建物のなかに入っていきました。私はひとりで残ったチキンを食べていました。食べ終わってから、本屋さんのところに合流。本屋さんではなく、その前のオモチャ屋さんにいました。4時35分。
ちょうどよい。帰途に着きました。妻はどこかで4時半点灯と聞いてきたようですが、まだ点灯していません。でもかまわず、もと来た道を戻りました。ウルトラマンの置いている広場は点灯していました。舟が白色、屋根が青で点灯しています。喜んだ幼稚園児は走り出して、結局、入り口まで。そして、おシッコをしたいと言います。入り口のコンビニで聞くと、2階にあるということなので、2階に上がっておシッコをさせました。それからすこしバック。携帯に電話があり、ちびどもが遅れて入り口に戻ってきました。
ちいさいちびは6時からのテレビを見たいと言っています。しかも、風が寒くなってきています。そのまま電車に乗り込みました。西荻駅前のコンビニに入り、ミルク。なんと幼稚園児は、こんどはうんち。トイレを借りてうんちをさせました。この子の場合、座って1分以内に終了します。
おおきいちびがマンガを買いたいというので、私とおおきいちびが別れて本屋さんに向かいました。今日発売の子どもマンガ雑誌を2冊買ってから、帰宅。6時5分前。
7時25分。幼稚園児は7時過ぎか。ちびどもは不明。曇り。朝から、大掃除というほどではないのですが、全体にわたる清掃を始めました。私の部屋はさすがの妻もお手上げだったようです。
私は、家の敷地内の落ち葉を拾いました。ちょうどゴミ袋一つ分ありました。
午後、幼稚園児とちいさいちびはカラオケ。一昨日から幼稚園児が行きたいと言っていました。おおきいちびは、お友達のおうちで、パーティー。たぶん、2時〜5時。
私にはひとりの時間となりましたが、まずは、ウィーフィットで、体重測定とヨガ。ヨガと言っても、単純なエキササイズです。15分程度で、けっこうよい運動になります。[ガッサンディとチャールトン]
気になるので、チャールトンの『エピクロス-ガッサンディ-チャールトンの自然学』(1654)とガッサンディの『ディオゲネス・ラエルチオス第10書注解』(1649)の関係をもうすこし正確に記述したものがないか捜してみました。『ディオゲネス・ラエルチオス第10書注解』のアペンディス『エピクロス哲学のシンタグマ』の翻訳とするものと、『ディオゲネス・ラエルチオス第10書注解』の翻訳とするものと両方あります。もちろん、広義には、同じことになりますが、こちらとしては正確に知りたい。古い研究ですが、Robert Kargon, "Walter Charleton, Robert Boyle, and the Acceptance of Epicurean Atomism in England," ISIS, 55(1964): 184-192 をダウンロードして、読んでみました。「1654年の『自然学』は『注解』の選択的翻訳にして拡張」だと記しています。
ちなみに、カーゴンは一昔前は有名な研究者でした。しかし、この論文は、今の時点で読むとあまりに表面的すぎて、逆にびっくりします。そろそろ本格的な分析や議論が始まるかなと思った瞬間、終わります。無価値というわけではありませんが、現時点の学術雑誌に論文として掲載されることはないと思います。
私が知りたいのは、チャールトンが何をどう拡張したのかということですが、どうも自分で調べるしかないようです。
夜半に目覚めて、すこし仕事。朝のうちに、ちいさいちびがお餅をつくりたい、幼稚園児がケーキをつくりたい、と言い始めました。お餅は時間がかかります。ケーキも時間がかかりますが、生クリームはあります。何とかなるだろうと思い、同時に着手しました。生クリームはほんとうに久しぶりに機械を使ってかき混ぜましたが、なかなか固まらない。そうこうするうちに、餅米が炊きあがり、15分の蒸らしの時間も経過しました。
生クリームは妻に任せて、お餅の方に取り組みました。チョコ餅がよいというので、ココアパウダーに砂糖を混ぜ、それをいっしょに炊きあがった餅米に入れました。分量は目分量です。3回目です。慣れてきました。結構きれいにできました。ちょうどそのころ、生クリームもやっとかたまりました。
ちいさいちびは出来上がったばかりのチョコ餅に生クリームをつけて食べるという不思議な食べ方をしていました。さすがにあまり美味しくはなかったようです。幼稚園児は、予想とおり、ケーキとは言っていましたが、生クリームができて満足です。生クリームをスプーン一杯ぐらいなめて、それ以上は何も言わなくなりました。おおきいちびが明日友達のお家でパーティがある、そのときにプレゼントの交換をする、プレゼントの買い物に行きたい、というので、幼稚園児と3人でユザワヤに行きました。ちいさいちびはおうちに残ると言いました。
幼稚園児は、走って止まる、の繰り返しです。幼稚園児にはシール、風船(帰ったらおねちゃんと遊びます、たぶん)、ガチャポンのシンケンジャーを買ってやりました。おおきいちびは時間をかけて自分で選びました。西荻駅前のパン屋さんでおやつを買ってから帰宅。やはり、走って止まる、走って止まるで帰ってきました。
[ガッサンディ]
ひとり遅れて、9時。昨夜、いつもよりずっと遅くまで、ガッサンディ=チャールトンと格闘していたせいです。まず、チャールトンの『エピクロス-ガッサンディ-チャールトンの自然学』(1654、リプリント1966)を取り出して見ていました。院生時代に全部読んでいます。書き込みもしっかりしています。途中から、一部ノートを取ったことも思い出し、(パソコンを導入する前に使っていた)ルーズリーフノートを本棚から取り出しました。ノートの一部には1987年4月19日の日付が入っています。チャールトンは時間をかけて読んだ記憶があるので、(読書会でも一部読んだはずです)、日月ははっきりしませんが、年としては、院生後期(博士課程に在籍はしていたが実質的には3年を過ぎてオーバードクター状態だった時期)だろうと思われます。
やはり、ガッサンディも必要だと思い、コピーをとった記憶がある『ディオゲネス・ラエルチオス第10書注解』(1649)を捜しました。これにはすこし時間がかかりましたが、B4の用紙に1頁をとったものが見つかりました。vol.1, pp.91-126がありました。Epicuri Physiologia, seu Philosophiae Pars Physica の始まる部分です。
リプリントにイントロを書いているロバート・カーゴンは、簡単に『エピクロス-ガッサンディ-チャールトンの自然学』(1654)は、ガッサンディの『ディオゲネス・ラエルチオス第10書注解』(1649)に基づく翻訳だと記しています。学説史上もそうです。しかし、ただの翻訳ではなく、ガッサンディに嫌になるほど出てくる古代・中世の注釈家からの引用を相当数カットし、論点を見やすくしています。さらに、必要だと思えば、デカルトの『哲学原理』や『方法叙説』に付された『屈折光学』『幾何学』『気象学』からも引用し、チャールトンなりの記述をしています。当たり前ですが、本文479頁の『エピクロス-ガッサンディ-チャールトンの自然学』(1654)の方が、3巻の巨大フォリオである『ディオゲネス・ラエルチオス第10書注解』(1649)よりもずっと使いやすい。ニュートンがチャールトンを使ったことはよく知られています。カーゴンは「おそらくボイルも」と記述していますが、私の見るところ、ボイルがチャールトンを使った形跡はまったくありません。『ディオゲネス・ラエルチオス第10書注解』(1649)のなかでいっしょに出版された『エピクロス哲学のシンタグマ』の方を使っています。資料としては、手元に『ディオゲネス・ラエルチオス第10書注解』(1649)の全部が欲しい。ダウンロードしたような記憶があるのですが、手元のHDでは見つかりませんでした。ガリカからその3巻をダウンロードしておきました。昔と違って、こういうのがさくさくできるのは、非常に助かります。
というふうなことをやっていて、昨夜はいつもよりずいぶん遅くなったわけです。3巻目のダウンロードが終わった当たりで、さすがに就寝することとしました。
さて、ジョンソン・リプリントによりリプリントされた『エピクロス-ガッサンディ-チャールトンの自然学』(1654)ですが、新たに、人名索引、主題索引、そして、引用索引を付けてくれています。こういう作業が学術的には有用です。さて、私の仕事としては当然、引用索引をすみずみまで読みます。誰でも気付くことですが、アリストテレスの名前がミスプリで落ちています。それだけではなく、言及されている著作の同定作業を完了できずに、書誌事項を [ ] という仕方でブランクにしたままの箇所が20箇所あります。([ ]: Information incomplete)
ひとつは、Cornarius, Janus, De resusciatatione formarum ex cineribus plantarum (Syntagm. Arcan. Chymic. lib. 1) [ ], 109-110 です。コルナリウスは、非常に多作の翻訳家です。ギリシャ語(医学関係中心)から多くのものをラテン語に訳しています。ひとりでできるのかと思うぐらいの量です。しかし、調べてみても、この著作の表示がよくわからない。
本文は、「Hierem. Cornarius、ブランデンブルクで長く哲学と医学の教授をした有名な人物が、偉大なリバヴィウス宛の手紙で記述していることがら、そしてそれを鋭い論説 acute dissertation, De resusciatatione formarum ex cineribus plantarum (Syntagm. Arcan. Chymic. lib. 1, cap.22.)」とあります。これは、むしろリバヴィウスの著作に採録されたコルナリウスではないかと思い、調べてみました。
( )の中の書名は次のものでほぼ間違いないでしょう。
Libavius, Syntagmatis selectorum undiquaque et perspicue traditorum Alchymiae arcanorum, 3vols., Frankfurt, 1611, 1613-1615.
コルナリウスの書簡そのものまではまだ確かめることができていません。追って調べるつもりです。
扱われているトピクスは、ヘルメスの木、植物の灰からの再生 palingenesis です。この時代にはかなり有名で、よく取り上げられています。さて、やはり、『ディオゲネス・ラエルチオス第10書注解』(1649)3巻本の構成をしっかり把握しておく必要があります。昨夜ダウンロードしたものを見ながら、確かめました。3巻ですが、第1巻が複雑な構成となっています。
第1巻は本文が751頁までです。その後に、ノンブルをローマン数字に変えて、Appendix が二つついています。最初のアペンディスには雑多にいろんなものが入っています。そして、アペンディス2(Appendix Altera) が『エピクロス哲学のシンタグマ』 です。xcvii-cclxiiを占めます。
第2巻は単純に、Epicuri Meteorologiaです。ページは、第1巻から連続で、752-1179です。
第3巻も単純です。Epicuri Ethica です。ノンブルは、やはり前の巻から連続していて、1180-1768です。最後に、索引があって、それで終了です。つまり、本編1768頁、附編262頁、本文計2030頁、その他に目次と索引からなる見事に浩瀚な書物です。ボイルならずとも、こんなものは簡単には読めない。
→09.12.29 ふと思いついて、このテーマであれば、クレリクチオが扱っているはずだと思い、本を取り出しました。Elements, Principles and Corpuscles: A Study of Atomism and Chemistry in the Seventeenth Century, p.96 に言及があります。「それ(1654年の『自然学』)の多くのセクションがガッサンディの『注釈』の翻訳に過ぎないことはよく知られている」と記しています。(すなわち、私が知りたいことに関する具体的な記述はなかったのですが、クレリクチオがこういう書き方をしているということは注記していおいてよいでしょう。)そして、ちょうど私の注目した箇所については、Secret F., "Palingenesis, alchemy and metempsychosis in Renaissance medicine," Ambix (1979): 81-92 を挙げています。(p.97, note 110.)
本文中では次の通り。「同様に重要なのは、リバヴィウス、ケルケタヌス、ガファレルによって報告されたような、灰からの植物の再生の実験であった。明らかに、チャールトンは灰の中には種子的力あるいは形成的力を付与された原子がひそんでいると信じている。」
次のパラグラフもなかなか興味深い。「トーマス・ウイリスやヘンリー・パワーの精気に対する見解と同様に、チャールトンの精気観は、その生理学にとって中心的なものであるが、多くをフランシス・グリッソンの教えによっている。」→ともあれ、まず、『注釈』3巻本の本体とその第1巻に付加された『エピクロス哲学のシンタグマ』の関係を確認しておかなければなりません。本文の対照をする前に、ざっと見た印象では、『エピクロス哲学のシンタグマ』は、引用と注釈にあふれる本文に対する、そうした引用と注釈を省略したレジメであるように見えます。もちろん、原子論哲学の概要(ガッサンディの解釈になるエピクロス哲学の概要)を知るには、『エピクロス哲学のシンタグマ』の方がずっと便利です。
17世紀の読者にもそうだったのでしょう、『エピクロス哲学のシンタグマ』はそれだけを切り出した出版が何種類か出されています。
1.1659年版。
Syntagma philosophiae Epicuri : cum refutationibus dogmatum quae contra fidem Christianam ab eo asserta sunt ... Praefigitur Samuelis Sorberii dissertatio De vita ac moribus Petri Gassendi.., Hagae-Comitis, Ex typographia Adriani Vlacq, 1659. ( [42], 495, [1] p. 4?.)2.ロンドン、1660年版。
Philosophiae Epicuri syntagma, continens canonicam, physicam, & ethicam, London : Ex officina Rogeri Danielis, 1660. ( [14], 256 p.)
3.ロンドン、1660年版。(2とはタイトル・ページ数が違うが同じ出版者)
Institutio logica, et philosophiae Epicuri syntagma, Londini : ex officina Rogeri Danielis, MDCLX. ([12], 100 p. : ill. ; 12?.)4.ロンドン、1668年版。
Institutio logica, et philosophiae Epicuri syntagma, Ex officina Johannis Redmayne, 1668. ([13], 118 p., [14], 288 p.)5.1684年版。
Syntagma philosophiae Epicuri : cum refutationibus dogmatum quae contra fidem Christianam ab eo asserta sunt ... Praefigitur Samuelis Sorberii dissertatio De vita ac moribus Petri Gassendi.. , 1684私の手元には、上の2.の版(ロンドン、1660年)があります。自然学の部分の一部の目次をみてみましょう。
Pars Philosophiae Secunda, Quae est Physica, sive de Natura
Sectio 1.
De Universo, seu Natura rerum.
Cap. 1. Constare Universum ex corpore & inani, seu Loco. 27
II. Esse Universum infinitum, immobile, immutabile, 27
III. De Divina in Universo Natura 29
IV. De Prima Materia, sive de Principiis concretarum in Universo rerum 34
V. Dari in natura rerum Atomos, quae sint concretorum corporum principia 35
VI. De Atomorum Proprietatibus, Magnitudineque imprimis 37
VII. De Atomorum figura 40
VIII. De Gravitate, seu Pondere, ac multiplici motu Atomorum 41
IX. Atomos, non item vulgaria Elementa, aut Homoeomera, esse prima principia rerum 45
X. De Prima & radicali Concretionum Causa; hoc est de Agente, sive Efficiente 47
XI. De Motu, qui idem cum Actione Effectioneve est; ac de Fortuna, Fato, Fine, & Sympatheticis Antipatheticisque causis 48
XII. De rerum Concretarum Qualitatibus, generatim 51
XIII. Qualitates ex Atomis, spectatis secundum substantiam ac Inanis interceptionem 53
XIV. Qualitate ex Atomis, spectatis sucundum proprietates singulatim sumptas 54
XV. Qualitate ex Atomis, spectatis sucundum proprietates conjuctim acceptus 56
XVI. De iis Qualitatibus, quae habentur rerum Eventa; ac praesertim de Tempore 60
XVII. De Ortu, & Interitu; seu Generatione, & Corruptione rerum Concretarum 62
XVIII. De iis, ob quae genitum corpus in certo rerum genere, & discernitur a caterisu rebus 66
Section II.
De Mundo.Sect. III.
De rebus Humilibus, seu Terrenis.Sect. IV
De rebus Sullimibus, tam Coelestibus, quam Aereis.
Animadversionesの方は次。
EPICURI PHYSIOLOGIA.
SEU
PHILOSOPHIAE PARS PHYSICAPraefatiuncula, in qua etiam ... 139
Ex Nihilo nihil Fieri; Physicam Effatum;.. 161
De Universo, seu Natura Rerum; quam ex Corpore, Inanique constantem, Episucus ut infinitam, ita immutabilem facit. 165
Dari praeter Corporum, etiam INANE in rerum Natura; ... 169
Dari Atomos, seu Corpuscula insectilia;... 177
ATOMOS esse Principia rerum;... 185
Esse Universum Epicuro & Inanis magnitudine, & Atomorum multitudine infinitium; ... 196
De Proprietatibus Atomorum. 201
De Figura Atomorum;... 202
De Motu Atomorum; ... 211
De Magnitudine Atomorum; ... 220
Unde Qualitates rerum Concretarum; .... 222
Abs re asseri ab Epicuro infinitos Mundos. 232
De Simuracris, seu Imaginibus, quas etiam Species Visibileis, & Intentionaleis appellant. ... 236
Peragi Visionem ex Simulacrorum incursu;... 249
De Colore, & Luce, sine qua Imagines no sunt, neque visum movent.... 260
De Cogitatione per Imagines itidem incurrenteis.... 267
Auditionem peragi per incurrentem similiter Sonum..... 272
Fieri Olfactionem per Odorem consimiliter incurrentem.... 287
Obieter etiam de Sapore, quo ipse afficur Gustatus. 291
De Tactilibus... 295
De Raritate, Densitate, Perspicuitate, Opacitate; 297
De Magnitudine, Figura, Subtilitate, Hebetudine, Laeuore, & Asperitate; ... 303
De vi Motrice, Facultate, Habitu, Gravitate, & Levitate; ... 309
De Calore, & Frigore;... 317
De Fluiditate, Firmitate, Humiditate, Siccitate;... 331
De Mollitie, Duritie, Flexilitate, Tractilitate, Ductilitate, & c.... 338
De Qualitatibus vocatis Occultis: ... 347
De Proprietatibus Magnetis;... 362
De Ortu, & Interitu; seu Generatione, & Corruptione rerum; ... 389
Multiplicem quidem, sed inuisibilem tamen Atomorum magnitudinem esse. 408
Non esse Magnitudinem Epicuro infinite dividuam; .... 410
De Minimo in Atomo ex comparatione minimi ad sensum. 418
De Aequi velocitate motus Atomorum per Inane immensum. 421
De Nupero Experimento circa Inane coaceruatum; ... 424
De Aequi-velocitate Motus Atomorum in ipsis Concretionibus. ... 444
De Motu ipsarum rerum concretatum.... 446
Quae sit Epicuro Natura, contexturaque Animae.... 494
Non esse proinde Animam in Plantis. 501
De Sensu. 505
Qui fieri possit, ut res Sensilis, sive sensus capax ex Insensibilibus gignatur; ... 508
De Excessu Animae, ac privatione sensu, seu Morte. 522
De Anime Sede, Passionibus Animae, & Motu spontaneo. 525
De Somno, & Insomniis. 539
De Semine; .... 544
Esse Animos Hominum IMMORTALEIS, contra Epicurum..... 549
Charleton, Physiologia Epicuro-Gassendo-Charltoniana
THE CONTENTS, SEIRIES, AND ORDER OF THE WHOLE BOOK.
BOOK THE FIRST.Chap. 1. All Modern Philosophers reduced to four general Orders; and the principal causes of their Dissention. pag.1
Chap. II. That this world is the Universe. pag.9
Chap. III. Corporiety and Inanity. p.16
Chap. IV. A Vacuum in Nature. p.21
Chap. V. A Vacuun praeternatural. p.35
Chap. VI. Of Place. p.62
Chap. VII. Of Time and Eternity. p.72
The Second Book.
Chap. I. The Existence of Atoms, Evicted. p.84Chap. II. No Physical Continuum, infinitely Divisible. p.90
Chap. III. Atoms, the First and Universal Matter. p.99
Chap. IV. The Essential Properties of Atoms. p.111.
The Third Book.
Chap. I. The Origine of Qualities. p.127.Chap. II. That Species Vicible are Substantial Emanations. p.136.
Chap. III. Concerning the Manner and Reason of VISION. p.149.
Chap. IV. The Nature of Colours. p.182.
Chap. V. The Nature of Light. p.198.
Chap. VI. The Nature of Sound. p.208.
Chap. VII. Of Odours. p.233.
Chap. VIII. Of Sapours. p.241.
Chap. IX. Of Rarity, Density, Perspicity, Opacity. p.248.
Chap. X. Of Magnitude, Figure; And their Consequents, Subtility, Hebetude, Smoothness, Asperity. p.261.
Chap. XI. Of the Motive Vertue, Habit, Gravity, and Levity of Concretions. p.269.
Chap. XII. Of Heat and Cold. p.293.
Chap. XIII. Fluidity, Stability, Humidity, Siccity. p.316.
Chap. XIV. Softness, Hardness, Flexility, Tracility, Ductility, &c. p.325.
Chap. XV. Occult Qualities made Manifest. p.341.
Chap. XVI. The Phenomena of the Loadstone Explicated. p.383.
The Fourth Book.
Chap. I. Of Generation and Corruption. p.415.Chap. II. Of Motion. p.435.
以上、基本的にチャールトンは、附編の『エピクロス哲学のシンタグマ』ではなく、本編の『注釈』の方を、比較的自由に英訳したことがわかるかと思います。もちろん、テキストを比較するとその点は明白です。チャールトンは、『エピクロス哲学のシンタグマ』では省略された引用と注釈をかなり採用しています。そして、丁寧に比較してみればわかるように、チャールトンは引用と注釈をかなりの数追加しています。ガッサンディがほとんど使わない同時代の著作からの引用と注釈を付加しています。
私が確認したかったのは、この点です。基本的にチャールトンの『自然学』(1654)は、ガッサンディの『注釈』(1649)を手元において、チャールトンの判断で必要な章句を取捨選択した英訳ですが、ガッサンディ以外の同時代の著者から学説史的観察を必要と思えば追加しています。同時代の学説史的観察の部分が、実は、科学史家には有用です。
第1に、本のタイトルページには、フェルネルを引用しています。
Fernelius, in praefat. ad lib. 2. de Abditis rerum Caussis.
Atomos veteres jam ridemus, miramurq; ut sibi quiquam persuaserit, Corpora quaedam solida, atque individua, fortuita illa concursione, res magnitudine immensas, varietate multitudineq; infinitas, omneq; absolutissimum hunc Mundi ornatum efficisse. At certe, si Democritus mortem cum vita commutare posset, multo acriune haec, quae putamus Elementa, suo more rideret.
献辞は、いきなりデカルトから始まります。
「かの卓越したデカルト氏は、『哲学原理』の、あの聡明なる婦人、エリザベス王女に献呈書簡において、彼の以前の著作を精読した者のなかでそれらを完全に理解した者は、王女以外に知らない・・・と記しています。」そして、チャールトンの最後の部分では、「生成消滅論」から「運動論」に飛びます。第4書第2章第2節では、デカルトの運動法則が導入されています。落下の際の時間2乗則が図入りで説明されています。まだ力学とまでは言えませんが、力学への端緒は明らかに見られます。
私にとって重要な箇所は何カ所かありますが、そのひとつを丁寧に分析してみましょう。「質の起源」の部分です。
チャールトンから。第2書第1章。
p.128 Aristotle, Meteorolog. lib.1 cap. 7. initio 3 lines in Greek and 4 lines in Latin
p.128 Descartes, Principia Philosophia, IV, 204
p.129 Galen, in lib.1. de Element. cap. 2., 4 lines in Greek, 4 lines in Latin. Lege enim Color, lege amaror, lege dulcor; revera autem Atomus, & Inane, inquit Democritus, existimans omneis Qualitates sensibileis ex Atomorum concurs gigni, quatenus se habent ad nos, qui ipsarum sensum habemus: Natura autem nihil candidum esse, aut flavum, aut rubrum, &c.
p.129 Laertius, 2 lines in Greek, 2 lines in Latin
p.129 Empiricus 1. hypot. 30 1 line in Greek, 1 line in Latin
p.129 the exposition of Magnenus, that Democritus by that unfrequent and gentilitious phrase, Nomo esse Qualtitates, would have the determinate natuer of any Quality to consist in certa quadam lege, & proportione inter agens & patiens
p.129 Maffeus, in libro de Japonum moribus
p.131 Aristotle, in lib. de ortu & interitu
p.131 Aristotle, in metaphys. 1. cap. 4 A N, and N A in order, and Z N, in situation.
p.131 Empiricus, 2. advers. phys.
p.132 as E T, T E, I S, S I, M U S, S U M, R O M A, A M O R, M A R O, R A M O, O R A M, M O R A, A R M O, &c.
p. 134. Epicurus,
pp.134-5 Empiricus, 2 advers. Phys. Exempli caussa, ut ex dulci fiat aliquid amarum, aut ex albo nigrum; opertet moleculas, seu Corpuscula quae ipsum constituunt, tranponi, & alium, vice alterius, ordinem suscipere: Hoc autem non contigerit, nisi ipse moleculae, motione transistus, moveantur. Et rursus, ut ex molli fiat quid Durum, & ex duro molle; oppertet eas, quae illud constituunt, particulas secundum locum moveri: quippe earum extensione mollitur, coitione vero & condensatione durescit, &c. All which is most adaequately exemplified in a rotten Apple.
ガッサンディ『注解』(1649)から。
p.226 Aristoteles, in Libris de Ortu, & Interitu, lib. 1. c.2
p.226 Aristoteles, Physicis, lib. 1. c.5
p.226 Aristoteles, libro Metaphysices octavo cap. 2
p.226 Aristoteles, libro primo Metaphysices cap. 4 A N, & N A Ordine: Z, & N Situ.
p.226 Apud Empiricum, 2 advers. Phys.
p.226 Apud Plutarchum, lib.1. adv. Colot.
p.226 Apud Lactantium, lib.3. c.17.
p.227 E T, T E; I S, S I; M V S, S V M; R O M A, A M O R, M A R O, O R A M, M O R A, A R M O, R A M O
p.230 Empiricus 2 adv. Phys. 9 lines in Greek, 9 lines in Latin.
p.230 apud Plutarchum 1 adv. Colot
p.230 apud Sextum 1 hypot. 30
pp.231-2 Galeno, lib.1. de Elem. c.2. 29 lines in Greek, 30 lines in Latin. Lege enim Color, lege amaror, lege dulcor; revera autem Atomus, & Inane, inquit Democritus, existimans omneis Qualitates sensibileis ex Atomorum concurs gigni, quatenus se habent ad nos, qui ipsarum sensum habemus: Natura autem nihil candidum esse, aut flavum, aut rubrum, aut amaruns, aut dulce. Hoc enim, quod ait Nomo, idem esse vult, quod ex lege (seu opinione mauis ) & habito ad nos respectu, non ex ipsa rerum ipsarum natura; quod quidem rursus Etee dicit,
『エピクロス哲学のシンタグマ』(1660)
no citations at all.
p.52 situs, ut in N, & Z; ordo,ut in A N, & N A:
比べてみればわかるように、引用はかなり省略しています。ガレノスからの引用だと10数パーセントに圧縮しています。古代の著者の引用に関しては、相当程度削除しています。(順序もかなり入れ替えています。)
そして、同時代の著者からの引用を相当程度付加しています。この箇所だと、デカルト、マグネヌス、マフェウスを追加しています。
マフェウスとは、Maffei, Giovanni Pietro, Japonum moribus [Historiarum Indicarum Florence, 1588] と"Works Cited Index" にあります。[マフェイ]
せっかくなので調べてみました。私が知らなかっただけで、マフェイは、日本関係では非常に有名なようです。『インド史』(1588年初刊)と『東方布教史』(1571年初刊)はイエズス会の日本関係文献のなかでも、相当貴重なもののようです。「第1回大阪大学附属図書館所蔵貴重書展示会目録」の言葉をそのまま引用すると次です。「マッフェイ Maffei, Giovan Pietro 東洋イエズス会士書簡集 第16巻 1590年刊 ジョヴァン・ピエトロ・マッフェイ(1533-1603)は、1565年にイエズス会に入り、1578年にはポルトガル語による資料を文庫や図書館から集めて、東洋におけるイエズス会士とその布教活動の歴史を編集するよう命ぜられた。1588年には「16世紀の布教史」と題してラテン語で出版され、この本はヨーロッパの種々の言葉に翻訳された。宣教師たちの手紙を基礎にしているのが特色である。」
別のものには、おおよそ次のようにあります。「イエズス会士のアメリカ、インド、日本に対する布教活動を書簡という1次資料から編纂したもの。ロヨラの伝記を付す。日本に関する情報は、1569年織田信長に実際にあったルイス・フロイスからヨーロッパに送られた手紙に依拠しており、同時代の(中国と)日本の社会、慣習、言語、信仰について詳細な情報を提供している。」
→09.12.31
次は、原子の章。チャールトンでは、第2書第3章「原子、第1の普遍的物質」pp.99-110
p.99 ut Magnenas, in Democrit. Script. Elench. ex Plinio in praefat. ad D. Vespanianum Imp.
p.99 Aristotle, 1. Metaphys.4.
p.100 Aristotle, in 1. phys.
p.102 Plutarch, 1. placit. 3. from those of Anaxagoras, ...CONSIMILAR Parts, ...SIMILARITY
p.105 reading the 45. page of our Treatise against Atheism, and of Archimeds book de Arenarum Numero
p.106 Aristotle, 1. Meteor. 3.
Sect. II
p.107 Aristotle 3. phys.27
p.107 9. proposit. I. lib. Euclid.
p.107 Aristotle in 6. physio.
p.107 Arriaga
p.107 Marcgravius in histor. Animal. Brasiliens
p.108 Arriaga
p.108 Suarez, in Metaphy. Disput. de qualitat.
p.109 Sennertus, in Hyponemat. de Atomis
p.109 Magnenus, in cap.2 .disput. 2. de Atomis
p.109 Gaffarel, in Curiositat. inaudit.
p.109 Quercetan, in defens contra Anonym. cap. 23
pp.109-10 Hierem. Cornarius, in an Epistle to the great Libavius, which he therefore mede an Appendix to his acute dissertation de Resuscitatione Formarum ex cineribus plantarum (syntagm. Arcan. Chymic. lib. 1.cap.22.)
p.110 Aristotle, in de Generat. & Corrupt. cap. 2.
Animadversiones(1649)
p.185 Aristoteles, in Metaphysicis lib.1. c.4 plenum, inquit, & Inane elemeta esse dicunt.
p.185 Et de Democrito speciatim, dum probat in Physicis, (1. Phys. 5. ) Principia esse contraria, vel ex eo, quod Democritus, Solidam, & Inane statuat.
p.190 alia esse ab Anaxagorae principiis, quae dicta sunt *** similes, seu similares partes, ac etiam ****, quasi dixeris similaritatem ( **: in greek word)
こどもたちは自分では5時45分に目覚めたと言っています。私は6時45分、そして幼稚園児は7時。一時の寒さからすると、ずいぶん暖かくなった感じがします。起きたときの室温が違います。寒いときには10度前後まで下がっていましたが、今日はすでに16度ありました。[子どものクリスマス]
クリスマス。。プレゼントをもらって大喜びしています。クリスマスですが、ちびどもは終業式です。正午過ぎに帰ってきますが、ともあれ、小学校に行きました。
帰ってきて、昼食を食べたあとは、ケーキ作りをすることになっています。朝の間に、2度郵便局に行って、ともかく出す年賀状は、全部出しました。結局20枚追加して、購入枚数は180枚となりました。返事に一定数必要です。足りるか足りないぐらいだと予想しています。
→ちいさいちびは12時半、おおきいちびは1時前に帰ってきました。急いでおひるをたべ、おおきいちびは宿題が心配だからと宿題に取組み、ちいさいちびと幼稚園児二人でケーキ作りにのぞみました。スポンジと生クリームとトッピングは買ってきています。作業は、クリームをしぼって、トッピングするだけです。幼稚園児も楽しいようで、摘み食いをしながらトッピングをしていました。完成してから、おねえちゃんも呼んで、幼稚園児はみんなのハッピーバースデーを歌っていました。
怒濤の時間でした。妻はそのままダウン、一休み。私も昨夜がすこし睡眠不足でした。やはり一休み。起きてから、幼稚園児の外遊びに付き合ってやりました。鉢に水をやったあとは、三輪車、自転車で遊んでいました。3時半から、おおきいちびと幼稚園児は、歯医者の予約を入れています。3時20分ごろ、ママと3人で出かけました。
おおきいちびは、また抜歯をするということで、幼稚園児だけ先に帰ってきました。おおきいちびは5時前にママの夕食の買い物を手伝ってから帰ってきました。詰めた歯がすべてなくなったということで、現状虫歯0ということです。
幼稚園児の虫歯かしら、というのは、虫歯ではなくゴミがくっついていただけだそうです。やれやれ。どういうわけは、最近甘いものをよく欲しがります。このぐらいの年齢だと虫歯は親の責任です。注意してやらないと。
ちびどもに遅れて、7時10分。確かに寒さがすこし緩んでいます。小学生は、明日まで学校があります。ちびどもはけっこうなんでクリスマスに学校に行くの?と文句を言っています。[パリシー]
お昼過ぎに、アマゾンのマーケットプレイスに注文していた次の本が届きました。ピエール・ガスカール
『ベルナール師匠の秘密:ベルナール・パリシーとその時代』
佐藤和生訳、法政大学出版局、 (叢書・ウニベルシタス)、1986[年賀状]
さすがにそろそろ着手しないとやばいかなと思い、夕刻から年賀状の宛名書き&一言添えに取り組みました。
夜の10時に手持ちの年賀状は尽きました。つまり、足りなかったことになります。最初に130枚、次に30枚、計160枚買っています。すこし印刷ミスがありますが、家族全員だと、170枚は必要だったことになります。明日、郵便局に出来上がった分を投函してから、足りない分を買い足してきます。[Sennert, Hypomnemata physica (1636) revisited]
ニューマンの仕事を確認/検討するためには、ゼンネルトのHypomnemata physica (1636) をきちんと見てみる必要があります。ゼンネルトに関しては、既に一定程度情報を整理しています。2006年11月1日にHypomnemata physica (1636) の詳細目次を挙げています。これがやはり役立ちます。ただし、てもとのファイルはかなりばらばらの状態で存在します。ともあれ、必要箇所は印刷しようと思って印刷したら、Hypomnemata physica (1636) , pp.86-146 は2回プリントアウトしてしまったことに気がつきました。さらに、pp142-7 は3回です。(こちらは私のせいではなく、ファイル側の問題でした。)
今回のリサーチにとってポイントとなるのは、HYPOMNEMATIS III「原子と混合について」の部分です。当該箇所のページは次のようになっています。
HYPOMNEMATIS III. De Atomis & Mistione,
Cap. I. De Atomis. 86-117
Cap. II. De Mistione. 118-146
つまり、重なって印刷してしまったのは、この部分が重要だと思い、綴じていたファイルから抜き出して作業していたのをそのままにしてしまったせいであることがわかりました。(いろいろ書き込みがあり、ポストイットが貼っています。)英訳Thirteen books of natural philosophy(London, 1660) との対照も少しですが、ゼンネルトで行っています。ただし、書き込みから判断すると途中で投げ出している様子です。この英訳の9書から13書がHypomnemata physica (1636)の英訳です。原子と混合については、11書です。
探究の順序としては、出版されたばかりの Iordan Avramov, Michael Hunter and Hideyuki YOSHIMOTO, Boyle's Books: The Evidence of his Citations, Robert Boyle Project, Occasional Papers No.4, 2010 で、まず確認です。ボイル自身のpage referenceからボイルが使ったことが明確なゼンネルトは、『一致と不一致』(1629または同じノンブルの1633,1655版。初版の1619版はノンブルが異なる)、『自然科学のエピトーム』(オクスフォード、1632)、それに『医学の実践』(版の特定できず)の3点です。『懐疑的化学者』(1661)では8回 『一致と不一致』を使っています。『有用性』で2回『一致と不一致』を使っています。
つまり、『ヒポムネマータ』(1636)はボイル自身によって明示的には言及されていません。しかし、『形相と質の起源』(1666)における巻頭の引用句(スカリゲル、トマス・アキナス、ゼンネルトから一文ずつ引用している)の一つは、『ヒポムネマータ』(1636)のII, i (p.48)からです。また、『形相と質の起源』(1666)の最後に付された小論考「従属形相についての自由な考察」は、明らかに『ヒポムネマータ』(1636)における従属形相論を批判対象として取り上げています。(ゼンネルトが従属形相を論じているのは、II, iii= HYPOMNEMATIS II. De Occultis QualitatibusII, Cap. III. De origine qualitatum Occultatum, pp.72-4 ならびに、V, ii =HYPOMNEMATIS V. De Spontaneo viventium ortu, Cap. II. Vera de spontaneo viventium ortu, & caussa Efficiente sententia, pp.395-402です。)
正面から批判するために小論考とは言え、一編の論考を立てるは、ボイルがゼンネルトを重視している証拠です。そして、『ヒポムネマータ』(1636)を手元において使っていることは間違いありません。ボイルがどうして『ヒポムネマータ』(1636)の名前を挙げないのかは別途探究に値する問題ですが、ともあれ、手元において使ったことだけは間違いない。研究の便のためには、もとのラテン語(1636)と英訳(1660)の対照リストが欲しい。英訳は、版型の大きな書物で、1頁にラテン語原文の3頁強を収めています。 もとのラテン語のDe Atomis, pp.86-117 は英訳では Of Atomes, pp.445-454 (ただし、本来のp.445 はミスプリで、455 と印刷されています)、De Mistione, pp.118-146 は、Of Mixture, pp.455-463 です。
内容的には、ニューマンの指摘するとおり、初期のボイル草稿「原子論哲学について」に重なります。もちろん、ボイルがゼンネルトからノートを取った、あるいはゼンネルトの考えのまとめを作った上で、それをスプリングボード(踏切板)として、自分の考えを展開したということになります。
→ 09.12.25 新しいボイル著作集の編者達が指摘するようにボイル草稿「原子論哲学について」の主眼が「発散気による自然現象の説明」にあるだとすると、そもそもタイトルが問題になります。そして、それは、ごく単純にゼンネルトの章のタイトル「原子について」に影響されたと見ておいてよいでしょう。ただし、まったく同じでは、ノートに過ぎませんから、「原子論哲学について」と一段視野を広げて見せたのでしょう。
ゼンネルトの「ヒポムネマータ3 原子と混合について」をよく読むと、初期の草稿「原子論哲学について」だけではなく、ボイルの自然思想、とくに原子論と化学の関わりについて永続的で根本的な影響を与えたと評価できます。(全体としてまったく同じ考えというわけではないが、基本のアイディアの点で、根本的と言える。)
あまりに大きな影響を受けたものに関しては、名前を出さないと剽窃になるが、しかし直接その場で出すのは躊躇される、という気持ちがあったと推測できます。そして、そうした著者に対しては、立場が分かれる点については、きちんと論点を提示しておきたい、その気持ちがボイルの理論的主著『形相と質の起源』に付された小論考「従属形相の自由な考察」だったと見ることができます。それだけではなく、『ヒポムネマータ』(1636)全体が重要だったと言えるでしょう。「ヒポムネマータ1 自然物の原理について」、「ヒポムネマータ2 隠れた質について」、「ヒポムネマータ3 原子と混合について」、「ヒポムネマータ4 生命の発生について」、「ヒポムネマータ5 生命の自然発生について」と並べてみると、問題設定の点において、ボイルは、ゼンネルトにおおきく影響されていることがわかる。
ただし、自然発生に関しては、ボイルの考えが最終的に固まらなかったこともあり、草稿に止まる(出版までは至らず)が、ゼンネルトの問題設定がボイルの基本的プログラムに影響したと見るべきであろう。この点に関して、ガッサンディとどちらが大きいかという問いがありえる。そして、その問いに対しては、深い詳細な分析が必要とされる。
分析の実施の前に見通しを語っておけば、ガッサンディも化学のことは視野に入っていたが、そういう表現をとるとすればボイルの原子論パラダイムの形成における化学操作のもつ根本的意味は、ゼンネルトの方にあったと言えるのではと予見しています。
そして、その柱のひとつがニューマンの指摘する「もとの状態への還元」(むしろ「化学的復元」と概念化した方がよいかもしれません)であったことは間違いなく(現時点においても)言えるでしょう。
(ボイル自身の使う用語に則せば、「化学的復元」の方が近いと思います。)
ひとりで6時前。まだまだ暗い。子どもたちは、7時半に起きてきました。昨日からの続きで、年賀状に取り組んでいます。幼稚園児のを含め、子どもたちの分のプリントアウトは完了しました。親たちの分は、苦労しています。
[幼稚園児のピクニック]
おうちで遊ぶのに飽きたようです。幼稚園児が2時前に、今日はピクニックと言い出しました。実はママと約束していました。ママは体調のせいで、お留守番。私と子どもたちででかけることとなりました。ねずみちゃん(ハムスター)のところに行きたいと言っています。
駅前のポストに、私以外の年賀状を投函し、それから駅に出店をしていた郵便局で追加の年賀状を30枚買ってから、動物園へ。
井の頭公園のなかを通らず、動物園に行きました。ちょうど着いたころ、モルモット(ハムスター)のコーナーは終了です、という案内。仕方がありません。各自1本ずつお団子を買って、真ん中の道を通って、お猿のコーナーへ。お餅はそこで食べきってから、乗り物。妻にチケットをもらってきています。子どもたち3人で乗ってもらうこととしました。1枚を余して、使い切りました。
それから、遊具のある場所へ。シーソー、滑り台、ブランコ、走り回る・・・。よく遊んでいました。幼稚園児がお腹が空いたというので、外に出て、ちょうど前に止まっていた焼き芋を2本頼みました。2本で1100円。ちょっと高いかなと思ったのですが、これがおいしい。3人とも歩きながらよく食べています。今度は幼稚園児の要望で、公園の中を通るルート。池の橋を2回わたる大回りのルートとなりました。
幼稚園児が、お腹が空いた、もう歩けないと言うので、公園前のコンビニに入ったら、おむすびではなく、リンゴジュースを買ってしまいました。ちびどもは、う゛ぃ他民ウォーター。やはりお腹が空いているようです。西荻の駅のなかのコンビニで、鮭おにぎりを買ってやりました。お腹が空いていたのは本当のようです。食べながら、ゆっくり歩き、ほぼ3分の2を食べたところでもうよいとのこと。
帰宅して、5時過ぎ。3時間外出していたことになります。
夕ご飯がちょうど出来上がったタイミングでした。
私はまだ1枚も年賀状を完成させていません。クリスマスの終わる頃までには、完成させようと思います。
→子どもたちが寝静まってから、印刷の作業だけは(持っている葉書すべてに関して)全部やりました。今回は、(表面)自分の住所はワード、(裏面)写真はイラストレーター→pdf 、背景とスタンプはヤフーキッズ(幼稚園児がデザインしたものをいくらかモディファイしたヴァージョンを利用しました)と同じ葉書を3回プリンターに通しました。
子どもたちに遅れて、7時半。幼稚園児は、8時現在まだよく寝ています。もうすぐ起きてくるでしょう。まだまだ寒い。ちびどもは小学校に元気に出かけました。幼稚園児はでかけた直後ぐらいに、階下に降りてきました。昨日遊び疲れたのでしょう。
[年賀状]
おおきいちびが年賀状は25日までに出して下さいという郵便局のCMを見て、年賀状、年賀状となかなかうるさい。おおきいちびが帰ってから、年賀状を作るかと聞くと、作るというので、印刷の手伝いをしてやりました。友達がヤフー・キッズのサイトにある年賀状作成ソフトを使うというのを聞いて、同じようにすると言います。
見てみると、文字入力ができませんが、画面デザインはいたって簡単です。34枚必要だというので、裏面だけ34枚プリントしました。早速、添え書きと宛名書きに勤しんでいました。この調子だと、おおきいちびのものは明日中に完成します。ちいさいちびは明日でよいと言っていましたが、お風呂に入ってから今日は好きなテレビもなく、やはりわたくしもつくるとやってきました。やはり裏面だけ16枚印刷しました。自分の住所の印刷もできるが、どうするかと問うと、いらない、自分で書くと言います。こちらも明日か明後日には出来上がるでしょう。
残るは、私と妻と幼稚園児の分ですが、差出人印刷だけすませておくこととしました。裏面は明日か明後日に考えます。幼稚園児は自分のは自分でやりたいと言っています。明日にでもやらせてやります。
今月は、ここで、200枚を越えました。
[ケンブリッジ科学史巻3:初期近代]
おやつ前に、日曜日アマゾンのマーケットプレイスに発注していた次の本が届きました。Katharine Park and Lorraine Daston (eds.),
The Cambridge History of Science: Volume 3, Early Modern Science
Cambridge, 2006
わおー、厚い。865頁あります。百科辞典的に使う本かもしれません。およそ1500年から1700年をカバーするとあります。ルネサンス(後期)から初期近代ということになります。目次は次の通り。目を通しておいた方がよいものが多くあります。1. Introduction: The Age of the New by Katharine Park and Lorraine Daston
PART 1. THE NEW NATURE
2. Physics and Foundations by Daniel Garber
3. Scientific Explanation from Formal Causes to Laws of Nature by Lynn S. Joy
4. The Meanings of Experience by Peter Dear
5. Proof and Persuasion by R. W. Serjeantson
PART II. PERSONE AND SITES OF NATURAL KNOWLEDGE
6. The Man of Science by Steven Shapin
7. Women of Natural Knowledge by Londa Schiebinger
8. Markets, Piazzas, and Villages by William Eamon
9. Homes and Households by Alix Cooper
10. Libraries and Lecture Halls by Anthony Grafton
11. Courts and Academies by Bruce T. Moran
12. Anatomy Theaters, Botanical Gardens, and Natural History Collections by Paula Findlen
13. Laboratories by Pamela H. Smith
14. Sites of Military Science and Technology by Kelly DeVries
15. Coffeehouses and Print Shops by Adrian Johns
16. Networks of Travel, Correspondence, and Exchange by Steven J. Harris
PART III. DIVIDING THE STUDY OF NATURE
17. Natural Philosophy by Ann Blair
18. Medicine by Harold J. Cook
19. Natural History by Paula Findlen
20. Cosmography by Klaus A. Vogel
21. From Alchemy to "Chymistry" by William R. Newman
22. Magic by Brian P. Copenhaver
23. Astrology by H. Darrel Rutkin
24. Astronomy by William Donahue
25. Acoustics and Optics by Paolo Mancosu
26. Mechanics by Domenico Bertoloni Meli
27. The Mechanical Arts by Jim Bennett
28. Pure Mathematics by Kirsti Andersen and Henk J. M. Bos
PART IV. CULTURAL MEANING OF NATURAL KNOLEDGE
29. Religion by Rivka Feldhay
30. Literature by Mary Baine Campbell
31. Art by Carmen Niekrasz and Claudia Swan
32. Gender by Dorinda Outram
33. European Expansion and Self-Definition by Klaus A. Vogel
ちびどもと同時に7時。冬の朝が続いてます。この寒さは明日からすこしゆるんでくるということです。[ニューマン on Boyle and Sennert]
必要があって、ニューマンの次の論文を見直そうと思ったのですが、論文そのものがここ2週間ほど見つかりませんでした。(読んだ記録はあるが、実物が行方不明になっていました。)Newman, William, "The alchemical sources of Robert Boyle's corpuscular philosophy," Annals of Science, 53(1996): 567-85.
仕方がないので、今日駒場の図書館に出かけて、コピーをとろうと思い、これまで手を付けていなかった部分も片づけていたら、隠れた本棚から出てきました。
図書館では他の用事もあるのですが、ともかくもっとも必要なものが出てきたので、図書館での仕事は延期としました。
→実は、ニューマンの論文「ロバート・ボイルの粒子哲学の錬金術起源」ですが、それを取り出すために、50センチの高さに積み上げていた本の山を崩して、別の場所に移しています。その山の下から3冊目に、同じくニューマンの本『原子と錬金術』(シカゴ、2006)が挟まっていました。
1.ゼンネルト以前の舞台
2.ダニエル・ゼンネルトの原子論とアリストテレス主義の物質理論の変革
3.ロバート・ボイルの物質理論
ああ、読むのを忘れていたと思い、私にとって最も重要な3.から読み始めました。ボイルの機械論哲学とは何かを論じた部分は、私の修論を読んでいるような感触を持ちました。ボイルから同じ部分を引用しています。もちろん、ニューマンの議論(プレゼンテーション)の華は、ボイルがゼンネルトから引き継いだ部分にあります。議論の核心部分は、ボイルの「原子論哲学について」(12月20日の「次に向けて」をご覧下さい)がゼンネルトの借用からなっていることを論じるところです。
Sennert, Hypomnemata Physica (1636), pp.111, 113-114.
ゼンネルトもボイルも同じ実験事実を、同じ順序で、しかも同じ仕方で連続して提示していることが、ボイルがゼンネルトを使ったもっとも強力な証拠として挙げられています。そして、ボイルは、ゼンネルトの実験手法「もとの状態への還元 reduction to the pristine state」をゼンネルトから借用し、ゼンネルトとは別の目的に用いた、もっと言えば、ゼンネルトの武器を借りて、ゼンネルトの主張の中心(形相論)を粉砕している、というのがニューマンの主張です。ボイルがガッサンディを使った可能性がある部分もきちんと取り上げ、比較・検討しており、このあたりはさすがにニューマンです。
ただし、あまりに論争的に(対人論争)論じていて、(ボイルの機械論哲学の解釈に関して、藁人形とされているのは、クレリクチオとチャルマーズです。かなり力を入れて、クレリクチオとチャルマーズの解釈が違うことを論じています)思想史研究として考慮すべき文脈を意図的にかあるいは無意識にか、単純化しすぎていると私には思われます。
ただし、その単純化されたシーン(mise en scène)においては、破壊力抜群の議論を展開しています。
こういう人物と戦ったウルズラ・クラインは、えらいと言えばよいのか、たいへんですねと言えばよいのか、顔もあわせたくない気持ちになるかもしれません。
3.の後は、(1.と2.を後回しにして)文献表を詳細にチェックしました。平井さんのものに関しては、本ではなく博論だけを挙げています。ファン・ヘルモントに関しては、(英語圏の大半の著作がそうであるように、h の位置ではなく、ちゃんと v の位置においているのはこれもさすがにニューマンですが)Ortus Medicinae ではなく、Opuscula medica inaudita (Amsterdam, 1648)だけを挙げています。ニューマンが(プリンシーペの助けを借りて)掘り起こしたといってよいアメリカ人キミスト、スターキーに関しては、プリンシーペといっしょに編纂した『錬金術の実験ノートと書簡』(Chicago, 2004) だけを挙げています。17世紀に出版されたフィラレーテスは一つも挙げていません。どういう基準で選択しているのか、ちょっと見えない文献リストとなっています。
ただし、英語圏の研究者が無視しがちな、ドイツ語圏、フランス語圏、イタリア語の研究書やリプリントをかなり丁寧にピックアップしています。
たとえば、サラについてのドイツ語の著作を載せています。
Urs Leo Gantenbein, Der Chemiker Angelus Sala, Zurich: Juris Druck und Verlag, 1992.
他に次のようなもの。
Frans A. J. de Haas, "Mixture in Philoponus. An Encouter with a Third Kind of Potentiality," In J. M. M. H. Thijsen and H. A. G. Brakhuis (eds.), The Commentary Tradition on Aristotle's "De generatione et corruptione" (Tunhout: Brepols, 1999), pp.21-46.
Danielle Jacquart, "Minima in Twelfth-Century Medical Texts from Salerno," in Christoph Lüthy, John E. Murdoch, and William R. Newman (eds.), Medieval and Early Modern Corpuscuraian Matter Theory (Leiden: Brill), pp.39-56.
Tara Nummedal, "Practical Alchemy and Commercial Exchange in the Holy Roman Empire," In Pamela H. Smith and Paul Findlen, Merchant and Marvels: Commerce, Science and Art in Early Modern Europe (New York: Routledge), pp.210-222.
Rembert Ramsauer, Die Atomistik des Daniel Sennert: Als Ansatz zu einer deutschartig-schauenden in Naturforschung und Theorie der Materie im 17. Jahrhundert, Braunschweig: Vieweg, 1935.
W. Subow, "Zur Geschichte der Kampfes zwischen dem Atomismus und dem Aristotelisumus in 17. Jahrhundert (Minima naturalia und Mixio)," in Gerhard Harig (ed.), Sowjetishce Beiträge zur Geschichte der Naturwissenschaften (Berin, 1960), pp.161-191.こういう分野の研究では欠かせないアリストテレスの『気象論』巻4の伝統については、次の研究を取り上げています。
Carmela Baffione, Il IV Libro dei "Meterologica" di Aristotele, Naples: C.N.R., Centro di studio dep pensiero antico, 1981.
David Furley, "The Mechanics of Meteorogica IV. A Prolegomenon to Biology," In Paul Moraux and Jürgen Wiesner (eds.) Zweifelhaftes im Corpus Aristotelicum, (Berlin: de Gruyter, 1983), pp.73-93.
Craig Martin, Interpretation and Utility: The Renaissance Commentary Tradition on Aristotle's "Meteorologica IV." Ph.D. diss., Harvard University, 2002.
H. Strohm, "Beobachtungen zum vierten Buch der aristotelischen Meteorogie," In Paul Moraux and Jürgen Wiesner (eds.) Zweifelhaftes im Corpus Aristotelicum, (Berlin: de Gruyter, 1983), pp.94-115.
たぶんですが、今アリストテレスの『気象論』について、ルネサンスや初期近代の物質理論との関係で論じるのであれば、こうした研究を読め、という意味なのだと思います。
おそらく、そういう読み方をするのが、ニューマンの文献表の正しい読み方なのでしょう。確かに、その点では、とても有用です。→ニューマンの論文「ロバート・ボイルの粒子哲学の錬金術起源」と『原子と錬金術』を細かく比較してみました。議論の中心部分は、ほぼ同じです。『原子と錬金術』のその部分は、ほぼそのまま論文「ロバート・ボイルの粒子哲学の錬金術起源」の議論・材料を使っています。
ただし、ゼンネルトのHypomnemata Physicaについては、論文と本では、違う版を使っています。論文では1637年版、本では1636年版を使っています。ページ数はすこし違ってきます。1637, p.100 が 1636, p.111 に当たります。
こういうことは、本来、本のなかに注記すべきだと思いますが、私は今のところ何の言及も見つけていません。(1.と2.とを丁寧に読んでみないと確定的なことは言えませんが、索引で挙げられている箇所では、1637 版に対する言及はまったくありません。)この辺りがニューマンのよくわからない点です。一言あってもよいと思うのですが・・・。
(単純に、論文(1996)執筆の時点では、1637版しか入手できず、それを使ったが、後にどこかで1636版を入手/閲覧することができて、初版の方を使うようにしたということかもしれません。それにしても・・・。)→ 09.12.25
初版1636年版は、 [32], 528 p., [10] l ; (8vo)
翌年の第2版1637年版は、 [32], 471, [23] p. ; 8?.
つまり、オクタヴォのまま、約1割ページ数が少なくなっています。1650年にはフランクフルトで、第2版修正版Editio secunda correctiorというのが出されています。ちょっとややこしいのは、同じ1650年にオクスフォードで、Hypomnemata, logica, rhetorica, physica, metaphysica, pneumatica, ethica, politica, oeconomica(Oxford, 1650?) という版が出版されていることです。これは一種の全集版(あるいは縮約版)でしょうか。
[16], 111, [1], 111-379, [3] p. ; 8?.全集は何度か版型を変えて出版されています。
パリで1641年に3巻本。
1650年にやはり3巻本。1656年に4巻本、1676年に6巻本です。
17世紀後半になっても需要があったことがわかります。ただし、こういう仕方で出版されていると、使った版の同定には苦労することになります。
幼稚園児に10分遅れて、7時10分。寒い、寒い、と幼稚園児は叫んで目覚めました。確かに寒い。[くるりんもっちー]
今日は脱落者なしにお出かけすることができました。吉祥寺のヨドバシへ。元気になった幼稚園児は、走っています。走って止まって、走って止まってして、ヨドバシへ。まずは、おもちゃ売場。ガチャポンでシンケンオウが当たって、満足したようです。レストランの開店にあわせて、8階へ。中華料理のお店に1番客として入りました。幼稚園児は、やっと安定的によく食べるようになりました。
食後は、私一人、ヨドバシに残り、子どもたちと妻は東急に向かいました。私は、餅つき器を見ました。1万7千〜8千円ぐらいで、5合炊きの餅つき器があります。5合はちょっと多い。捜していたのは、セガトイズの発売した「つきたておもち くるりんもっちー」です。おもちゃですが、1合でちょうどよいかと考えました。ヨドバシには見つかりませんでした。地下一階で、昔ながらの紙のファイルバインダー(A3 対応と A4 のもの)を買ってから、伊勢丹も見て(伊勢丹にもありませんでした)、東急本店に合流しました。東急本店おもちゃ売場にはさりげなく置いていました。幼稚園児とちいさいちびはよく遊んでいます。おおきいちびはシールを買い、本を探しましたが本はなし。幼稚園児とちいさいちびがまだ遊びたいようなので、私とおおきいちびで先に帰ることとしました。高架下のスーパーで、餅米を1キロ買ってから帰宅。早速餅米の支度をしました。
後発組は、30分後に帰ってきました。それから30分後ぐらいに餅米が炊きあがりました。全員で順番でくるりんくるりんしました。電動方式ではなく、手でクルクル回します。ちゃんとお餅になりました。ただし、ちょっとしかけるときに水の量が多かったようで、手にとってまとめることはできませんでした。でも、できたのお餅です。子どもたちはあっというまに1合のお餅を食べてしまいました。次はもうすこし上手にできるでしょう。
[パリッシ]
16日の続きです。昨夜、家のものが寝静まってから、足下の片づけをすこしだけ進めました。キーシンガーによりソーンダイクのリプリントの第9部が出てきました。16世紀を扱った巻です。今の私の関心にあう部分をざっと読んでいました。「Taisneir, Besson, and Palissy」の章がありました。パリッシの最後で、ソーンダイクは次のように記述しています。
「ある医師がパリッシに教えたとこでは、封建領主のキャビネットで、石化した人間の足を見たことがある、他の人物が教えたところでは、ドイツのある侯爵のコレクションにはほとんどの部分が石化した人体がある。オーヴェルニュの高貴な人は、沼地から引き抜かれた棒をもっているが、その地面より下にあった部分は鉄になり、水のなかにあった部分は石になり、そして残りは木のままであった。」(p.598) (Palissy, Discours, pp. 203-5)パリッシは確か邦訳があったと思い、部屋のなかを見回してみました。昼間は見つからなかったのですが、今回は、すぐに目に飛び込んできました。『陶工パリシーのルネサンス博物問答』(Bernard Palissy, Recepte Véritable, 1563)(佐藤和生訳、晶文社、1993)です。こういう邦訳は助かります。
邦訳で「1 自然のしくみ」と題された部分は、石や鉱物を凝固させる塩についての話が大半です。いわゆるパラケルススの3原質の一つの塩の基本的力、すなわち凝固・凝結させる力について非常にわかりやすい説を展開しています。
マルソーフが紹介するエメラルドの話もあります。
「エメラルドは一種のよく澄んだ水であり、青銅鉱とか、青銅がつくられるもとになる硫酸塩鉱のなかを通過したものです。そこからガラスの色合いと、凝固を惹き起す塩とを吸収したわけです。なぜなら、その硫酸塩とは塩にほかならず、これはぼくが前に述べたことの変らぬ証ですね。」(p.70)
私には、この訳がすこし変に感じられます。ガリカからもとのRecepte Véritable, 1563をダウンロードして、見てみました。ノンブルの数字は見づらいのですが、たぶん、26頁です。気になる言葉の原語は、couppe-rose 現在の綴りでは、couperose です。(硫酸塩)礬です。青銅は、銅と錫の合金です。airain は確かに青銅ですが、青銅鉱なるものはたぶん存在しないと思われます。(銅鉱は同時に錫を含むことが多いので、精錬の過程で、青銅が得られるということはありえても、それを青銅鉱とは呼ばないと思います。)
ウェブにある古い仏英辞書を引くと、brasse と出てきます。ブラスなら真鍮です。古い時代は、銅とスズ・亜鉛またはその他の卑金属との合金の総称とあります。
See arain とあるので、見ると、やはり brasse です。そして、Pierre d'arain に赤いヴィトリオル:ブラスを試金する石とあります。青いヴィトリオル=硫酸銅、緑のヴィトリオル=硫酸鉄、白いヴィトリオル=硫酸亜鉛までは知識にありますが、赤いヴィトリオルは何でしょうか。(ウェブでは、コバルトの硫酸塩がでてきますが、この時代にコバルトはまだ知られていません。)
もうすこし調査が必要ですが、ここの解釈は、マルソーフのもので正しいと思われます。昔の言葉では、やはりヴィトリオルです。硫酸塩でよいと思われます。グーグルブックから次のものをダウンロードしておきました。
Palissy, Bernard
Oeuvres Complletes de Bernard Palissy
Paris, 1844Palissy, Bernard
Discours admirables de la nature des eaux et fontaines tant naturelles qu'artificielles, des metaux, des sels & salines, des pierres, des terres, du feu & des emaux ... plus vn traité de la Marne ...
chez Martin le Ieune, 1580Palissy, Bernard
Discours admirable de l'art de terre de son utilité des esmaux et du feu
Gneve, 1863ガリカから次のものをダウンロードしておきました。
Palissy, Bernard , 1510?-1589?
De l'art de terre, de son utilité des esmaux et du feu
Paris, 1941Palissy, Bernard
Discours admirables de la nature des eaux et fontaines, tant naturelles qu'artificielles, des métaux, des sels et salines, des pierres, des terres, du feu et des émaux...
Paris, 1580Palissy, Bernard
Recepte véritable
impr. de B. Berton (La Rochelle), 1563
幼稚園児に10分遅れて、6時45分。寒さが続いています。お昼前にお出かけ。ちいさいちびがリタイアして、結局、おおきいちび、幼稚園児と3人で出かけることとなりました。おおきいちびは、ユザワヤで筆と筆巻きを買いたいと言っています。文房具売場にあるはずですが、見つけるのに苦労しました。結局、お店の人に聞いて解決。
幼稚園児がおなかがすいた、おなかがすいたというので、地下のレストランで昼食をとることとしました。おおきいちびはいつもとおり、大人用オムライス。私と幼稚園児は、クリスマスプレートを分けることとしました。
今日は混んでおり、来るまでけっこう時間がかかりました。幼稚園児は、スパゲッティを気に入ったようです。自分でそれなりに食べました。
そして、かなり遅れて、デザートのケーキが来ました。おおきいちびと二人で仲良く分けて完食しました。
おばあちゃんたちが多く来ていました。理由は不明です。昼下がり、昨日発注した次の2冊の中公新書がアマゾンより届きました。
飯島 渉『感染症の中国史 - 公衆衛生と東アジア』
中公新書、2009上村 忠男『ヴィーコ - 学問の起源へ』
中公新書、2009飯島さんの本は、場合によっては、大学の授業で使おうかなと思っています。
子どもたちに続いて、7時過ぎ。幼稚園児は、今日が終了式です。
今日は、部屋のなかにいても寒さを感じます。幼稚園児を迎えに行った妻は、風が強くて寒いと言っていました。風のせいで、寒く感じるのかもしれません。あるいは、気温が実際いくらか下がっているのかもしれません。[苦手な整理、続行中]
コピーのかたまりのなかに、次のものがありました。Robert P. Multhauf, "Operationa Practice and the Emergence of Modern Chemical Concepts," Science in Context 9(1996): 241-9.
コピーがセピア色になって古びて見えますが、1990年代後半の論文です。読んでいる気配がなかったのでざっと読みました。
私には、まさに必要な論文でした。私の知りたかったことの核心部分に触れています。ポタッシュ(炭酸カリウム)とソーダ(炭酸ナトリウム)は、ガラス製造業&石鹸製造業を生み出すもとだが、古代において漠然と区別されていた。同じく、ヴィトリオル(金属の硫酸塩)とアルム(明礬)はおそらく最初その目立つ結晶型によって認知され、染色(textile and dying)に役立つことが見出された。
1700年、産業化学のプロセスはヨーロッパではまだほとんど理解されていなかった。そして、もっとも有名で身近な化学薬品はまだ輸入されていた。最良のアルカリは、エジプトとトリポリから来る、そしてポタッシュ(炭酸カリウム)は北からとくにロシアから来る、とブールハーヴェが記している。明礬は、イタリアの輸入業者の間に貿易戦争を引き起こすほど重要だった。
これらの物質は、共通の性質をもつ。粒状で、結晶形態をもち、通常白く、水に溶ける。この共通性により、塩(最も身近な食塩から)と呼ばれた。こうした塩は、味の差によって区別された。「中世」に、塩の数は徐々に増えた。アラビア語で9世紀におそらく執筆され、12世紀にラテン語訳された De Aluminibus et Salibusは、サル・アンモニアック(ろ砂;塩安)とボラックス(硼砂)を付け加えた。ろ砂と硼砂は、ヨーロッパでは知られておらず、やはり輸入された。13世紀に、硝石が中国からもたらされた。
塩は、化学的概念と呼びうる。
18世紀においても塩は、まだ初等的段階にあった化学という学の中心概念の一つであった。その時代、ろ砂と硼砂など商業的に重要な塩が輸入品であった。
金属を溶かすもの。古くは、アセトゥム(酢)。ただし、働きは非常にゆっくり。錬金術では、卑金属を殺すものとして、強熱と酢が使われた。
新しく知った塩(明礬とヴィトリオル)といっしょに熱するともっと効果的に卑金属を殺すことができた。
この過程で、鉱酸として知る腐食的な精気corrosive spirit が得られた。誰が鉱酸を発見したか? すくなくとも、報告されたということでは、マイケル・スコットの『錬金の術』(1225から30年前後に執筆された)が最初だと私は主張した。硫酸、塩酸、硝酸(これは、過程が複雑なので、もうすこし後の発明であろう)。
14世紀から、鉱酸の記述に多く出会うようになる。硝酸(強水)は、銀を溶かすが金を溶かさない、王水は金を溶かすが、銀を溶かさない。
冶金術の分野で、鉱酸がきちんと位置づけられるようになる。ルネサンスの著者、ビリングッチョ1540;アグリコラ1546、1556;エルカー1574。
ジョン・グラハム・スミスは、フランスの化学工業の歴史において、政府は、1639年、蒸留家(distillers)を商売tradeのひとつとして認知したことを記している。酸の蒸留家。つまり、酸を蒸留によって、商業規模で生産する者。
硫酸は、17世紀半ばはじめてチューリンゲンの鉱山町ノルドハウゼンで商業規模で生産された。Spirit of Sulphur は、硫黄を燃やした煙を水に入れることで得られる弱い硫酸。ベルの形状のガラスで硫黄が燃やされたので、ベル・プロセスと呼ばれたが、これは、ベガンの1608年の教科書(Tyrocinium Chymicum、後に『化学の基礎』と呼ばれる)で記述されている。そのときすでに商業的に生産されていたであろう。
パラケルスス派の医薬品(製造)も、鉱酸に大きく依拠している。リバヴィウスの『アルケミア』(1597)は何よりも鉱酸の化学と呼べる。
Spirit of Sulphur とOil of Vitriol の同一性がはっきりと認識されるようになる。(ベガン、1656, pp.134-6; シュタール、1697)。15世紀、錬金術の理論化が、オカルトの方向、変成、マジストリー、エリクシル、純粋なものを不純物から分離すること、に向かうと、 実際的な(空想的ではない)錬金術師は、ドラッグ研究、すなわち、薬学に向かうようになる。
蒸留術の向上が技術的にはポイント。塩を燃やしたときに出る蒸気を、長いガラス管を通して、そしてコイル状に巻きそれを水中に浸すことで、もっと効率的に集めることができるようになった。この向上は、ワインやビールをよくしようという試みから出現した。13世紀半ばには、アルコール(燃える水aqua ardens、あるいは生命の水aqua vitae)は、ふつうの医薬品となっていた。
14世紀、カタロニア出身の修道士3人組 trio of Katalan monks、ルルス、ヴィラノヴァのアーノルド、ルペスシッサのヨハネ(ジョン)は、蒸留の生成物に対する深い関心を示している。
15世紀末に薬剤書が出版されるようになる。Ricettario Fiorentino, 1496. しかし、オフィシャルではないレシピブック、たとえばブルンシュビッヒの『蒸留の書』には化学的レシピが掲載されている。後者は、いわゆる秘伝書の伝統に関わる。
酸-アルカリ理論。サル・アンモニアック、中央アジアから中国にもヨーロッパにも輸出される。アンゲロ・サラとグラウバーは、かなり正確にサル・アンモニアックを分析した。グラゼ、レムリ、ブールハーヴェ、ボイルのような化学者は、灰、尿、海塩の混合物から昇華によって商業的に生産されていたことを示しているように見える。しかし、通常は、なおまだ輸入されていた。
1756年、エジンバラにろ砂の生産のための工場が造られた。ブラウンシュヴァイクのグラーフェンホスルト兄弟の工場の主要な産物は、ろ砂であった。1760年、ボーメがパリにやはり工場を建てた。マルソーフの化学史研究は、以前読んだ記憶があるのですが、今一度きちんと読む必要があるようです。
この論文には、自身のものとしては4点を挙げています。Multhauf, R.P. 1953. "The Relationship between Techology and Natural Philosophy, ca. 1250-1650, as Illustrated by the Technology of the Mineral Acids." Ph.D. Diss. University of California, Berkeley.
Multhauf, R.P. 1954. "John of Rupescissa and the Origin of Mecical Chemistry." Bulletin of the History of Medicine, 45: 359-67. [This Journal is in error. Correct Journal is ISIS. See below.]
Multhauf, R.P. 1965. "Sal Ammoniac, a Case History in Industrialization." Technology and Culture, 6: 569-86.
Multhauf, R.P. 1966. The Origins of Chemistry. London
ウェブで検索をかけていると、Robert P. Multhauf (1919-2004)という記事にヒットしました。訃報です。第2次世界大戦のときに海軍に従軍し、1946年退役後、日本に滞在していたとあります。何をしていたのでしょうか? アメリカ帰国後、1953年に上記の博士論文を提出しています。その後は、スミソニアンのassociate curator となっています。スミソニアンの経歴が長い。ISIS の編集長を1964年から1978年まで務め、またHSS の会長を1979-1980 の期間つとめています。
2004年5月8日、心臓発作で亡くなった、享年84才ということです。マルソーフには翻訳が1点あります。
R.P.マルソーフ
『塩の世界史』市場泰男訳、東京 : 平凡社, 1989.11せっかくなので、ISIS の論文2点をダウンロードして読みました。
Robert Multhauf, "The Beginning of Mineralogical Chemistry," ISIS, 49(1958): 50-53.
Robert Multhauf, "John of Rupescissa and the Origin of Mecical Chemistry," ISIS, 45(1954): 359-367.
→上の, Multhauf, R.P. 1954. が医学史雑誌となっているのは、単純に本人の思い違い(あるいは書誌事項の記入ミス)だと思われます。雑誌名だけ ISIS に置き換えればぴったり合っていますから、ごく単純なミスだと思われます。こういうミスは誰にでもあるものです。さて、たった4ページの短い論考「鉱物化学の出発点」は、短いが故に有用です。とくに、次の事例の提示が私には有用です。ハンガリーの鉱山では、青いヴィトリオル溶液(つまり、硫酸銅の溶液)に鉄屑を透入して銅を得るというのは、確立した産業となっていたとあります。
これは、この時代の錬金術=化学書でよく使われる事例です。
同時代にはあまり読まれなかったようですが、ユンギウスがこの事例を、ほぼ正しく置換だと推測しているとあります。青いヴィトリオル(硫酸銅溶液)は、銅と硫黄精との結合物であり、より不完全な金属(鉄)と硫黄精との近接性により、鉄と硫黄精が結合し、銅がリリースされる(析出する)。硝酸銀溶液に、銅を投入したときにも、同様の置換が生じる。したがって、金属が塩や溶液の形で存在しうることは、ユンギウスによれば、塩や溶液(水)が金属の構成要素として存在することをまったく証明するわけではない。フランス人化学者クリストフ・グラゼは、金属の溶解は、ただの浸食であって、我々が金属から抽出すると言い張るエッセンス、ティンクチャー、オイルは、正確に言えば、その構成要素の分割と溶剤との結合によって変装している金属実体に他ならず、それが証拠に、また金属に還元される、と述べている。 (p.53)鉱山地帯で、金属ともっとも多く関連しているのは、礬類(ヴィトリオル、金属の硫酸塩)である。後期中世の錬金術師は、金造りの過程を礬精の調合と操作に基づかせようとした。そして、もっとも影響力のあった著者(偽ルルス)は、地中の蒸気的発散気(vaporous exhalations)を真っ黒い蒸気 vapor atramentosis 、すなわち硫酸に同定した。(Atrament は、主として、硫酸鉄。)パリッシは、オーヴェルニュAuvergneで、木片が金属に変わるのを目撃したと記している。そして、その近隣には、ヴィトリオルに富み、このヴィトリオルのせいで、そうした凝結と変成が生じると注記している。さらに彼は、宝石のエメラルドは、真鍮や銅の鉱脈を通過する硝酸(強水)によって形成されると推測している。(p.52)
→ 09.12.19 どうもオーヴェルニュに見覚えがあるなと思い、調べてみました。有名なパスカルが真空実験をした(ほんとうは人に頼んでやってもらった)ピュイ・ド・ドームLe Puy de Dommer は、オーヴェルニュにある高山でした。
それだけではなく、ボイルのグランド・ツアーの付添&家庭教師をつとめたフランス人イサーク・マルコンベ(Isaac Marcombes) は、オーヴェルニュの Mersena 生まれでした。 1637年、彼は、Madeleine Burlamacchi, widow of Antoine Drelincourt,と結婚し、有名なプロテスタントの神学者ディオダッティ( Jean Diodati, 1576-1649) の甥となった。この縁戚関係により、彼は、国際的なプロテスタンティズムの多くの著名人と知り合うことになる。ボイルの父、初代コーク伯との繋がりもこうして生まれた。ボイルがディオダッティと繋がりを有するジュネーヴの私的アカデミーで学ぶこととなったのもマルコンベの紹介があったせいであった。
ボイルの大陸におけるプロテスタンティズムとの関わりあいにとって、マルコンベ-ディオダッティが重要な役目を果たす。そして、私にとって重要なのは、ボイルが草稿において、ゴエベリウスからゲスネルへの手紙を重要な直接証言として引用していることです。NewRBW, 13, p.380
「オーヴェルニュから戻ってきて2〜3日目、私は継続的な調査によりどういう新しいことが発見されるべきだったか振り返ってみました。この旅では、ピサスファルタ(?)、ナフタ、ビチュメンについて報告することができます。これらは、ジェルゴビーの郊外の泉(オーヴェルニュの人々は有名な山を今こう呼びます)に生じます。この泉の水は、ビチュメンをもたらすだけではなく、土地の人々が真顔で請け合うには、それを石に固めるのだそうです。そして、彼らの橋は、それで造られているのです。私はこの目でそれを見ました。」Severino Goebilio to Gesner, in Gesner (ed.), De omni rerum fossilium genere gemmis et lapidibus (1565), on the last page of Goebelius. オーヴェルニュの医師からゴエベリウスへ宛てた手紙を含む。この手紙をボイルは(伝聞ではなく)直接証言として引用している。
フランスの火山地帯であるオーヴェルニュの泉は、パリッシだけではなく、ゲスネルの本も証言していることになり、当時有名だったと推測される。
ひとり遅れて、7時半。子どもたちは、居間でにぎやかにしていました。[苦手な整理]
昨日、『ボイルの蔵書:引用という証拠によって』をプリントアウトした時点で、ちょうどよい区切れかと思い、部屋の片づけを開始しました。論文のコピーは綴じてアルファベット順に並べているのですが、作業のために引き出したあと、もとにもどしていないものが非常に数多くあります。たぶん、それが数年分たまっています。つまり、ただ、本来の位置にもどすだけではなく、掃除も同時にしなければならないはめに陥っているわけです。整理と掃除をしやすいように、衣装掛けを外にだしておいたら、幼稚園児からこわいとクレームがつきました。そもそも苦手な作業をしています。幼稚園児のクレームをいいことに、整理と掃除の作業を中断しました。
かといって、その作業の必要性はすこしも減じていません。少しずつは進めています。私にとってもカオスですが、私以外の者にとってはブラックホールかもしれません。ほんとうにぼちぼちですが、進めています。
イギリス留学中にとったコピーがかたまりとして出てきました。1994年なので、もう15年も前のことです。日本と同じ製本器具はなかったので、どうしようか迷って、そのままホッチキスで一箇所を止めて、クリアーファイルに入れるというだけの処理をしていました。クリアーファイルに入れておくのは便利なようで使い勝手は悪い。あるとき出してしまいました。その出したままのものが一定数でてきました。
次のようなものです。
Clericuzio, Antonio, 'Note sulle Boyle Papers Conservate negli Archivi della Royal Society di Londra', Nouvelles de la Republique des Lettres 1990-I: 83-95.
(これは、ウォーバーグ図書館でとりました。)Clericuzio, Antonio, "Filosofia corpuscolare e teorie chimiche in Robert Boyle: uno studio preliminare," in Atti del II COnvegno Nazionale di Storia e Fondamenti della Chimica (Rome, 1987), pp.305-313
Clericuzio, Antonio, "New Trends in the History of Philosophy and Science: Paracelisianism," Bulletin of the Society for Renassance Studies, 10(1993), 13-16.
Ursula Klein, "Robert Boyle - Der Begründer der neuzeitlichen Chemie?," Philosophia Naturalis (1994): 63-106.
(今となってはもう書けない小さな文字で細かく書き込みがあります。正確なことは思い出せませんが、読んだときの、かすかな感触が残っています。すごくよい論文かどうかはわかりませんが、読む価値はある論文だと思います。)
クレリクチオの最初のものとクラインのこの論文は、微妙にA4より大きく、クリアーファイルに収まりません。日本の大きさであるB版でもなく、いったいどういう大きさだったのかすぐには思い出せません。そのとき、マイケルに頼まれた査読用の論文も出てきました。査読を頼まれているのだが、意見を聞きたいと言って渡されたフランス語の論文です。苦労して意見を書きました。(結局、採用されなかったようです。単純にオリジナリティに欠けていました。)
欲しかったけれども日本ではどうしても見つけることのできなかったいろんな資料が目の前にあるのに興奮して、ゼロキスト(ゼロックスマシーンに張り付く男)となっていた時期があります。とくに、ウォーバーグ図書館は、イギリス国内にもあまりない(大陸側の)資料が割と揃っていて、ここでとっておかないとと思い、けっこうたくさんとったのをよく覚えています。『化学の劇場』のイタリアでリプリントされた版もあり、うーんと思ったのですが、さすがにそれには手を付けませんでした。
できたら、不要な紙は捨てようと思っていますが、さて、どこまで処分できることやら。
[Robert Boyle Project, Occasional Papers No.4, 2010]
マイケルからメールがあり、年明け早々に、印刷・製本したバージョンを5部送ってくれるということです。当座の用はpdfをプリントアウトしたもので間に合いますが、長期的にはきちんと製本していた方がずっと使いやすい。本棚に立てておけるという1点をとっても、冊子・本の形態の方が使いやすい。A List of Books that I have not yet consulted at 2007.2.28
自分のために、2007年2月28日の時点で閲覧することができなかったもののリストを掲げておきます。Table 2: A List of Books tha I have not yet consulted. 2007.2.28
(from My Origins and Background of Robert Boyle's Scientific Ideas and his Research Style, Report of Grant-in-Aid for Exploratory Research granted by the Japan Society for the Promotion of Science(Tokyo, 2007), pp.72-75)1. Balbinus, Boheslaus Aloysius, Epistolae historia rerum Bohemicarum (1677)
2. Barretto, Francesco , Relatione delle missioni all Provincia de Malavar (1645)
3. Busbecq, Ogier Ghislain de, A.G.Busbequii legationis Turciae Epistolae IV (1581)
4. Descartes, Rene, Responsinoe ad Objectinoes secundas (1647)
5. Egrezes(?)
6. Gassendi, Pierre, De apparente magnitudine solis humilis et sublimis epistolae quatuor (1642)
7. Hackspan, Theodor, Fides et leges Mohammedis (1646)
8. Hartmann, Johannes ,Praxis cymiatrica (1633)
9. Heer, Henri de , Observationes medicae rarae in Spa (1643)
10. Hottinger,J.H., Historia Orientalis (1651)
11. Kessaeus(?)
12. Magnus,Olaus, Historia de gentibus septentrioalibus (1555)
13. Manasseh ben Israel, De creatione problemata XXX (1635)
14. Martini, Martinus (1614-61), Novus atlas Sinensis (1654)
15. M.L.M.D.D., Denombrement, facultez et origine de pierre precieuses (1667)
16. Morin, Jean-Baptiste , Nova mundi sublunaris anatomia (1619)
17. Olearius, Adam, Relation du voyage de Moscovie , Tartarie, et de Perse
18. Pauli, Simon, Tract de Febribus malignis (1660)
19. Piso, Willem, Historia naturalis et medica Brasiliae (1648)
20. Platter, Felix, Observationum medicinalium libri tres (1613)/ Felix Platter the elder (1536-1614), Observationum , in hominis affectibus plerisque (1614)
21. Rodrigues de Castro, Estevan, Ratio consultationis habitae utrum inter sanitatem et morbum detur medium (1642)
22. Schlichting, Janasz, De SS. trinitate, de moralibus N.& V. Testamenti praeceptis... adversus Balthasrem Meisnerum disputatio (1637)
23. Sennert, Daniel, Practica medicinae (1628-34)
24. Sextus Empiricus, Adversus mathematicos
25. Suarez,Franciscus, Disputationes Metaphysicae (1605)
26. Tycho Brahe, De mundi aetherei recentioribus phaenomenis liber secundus (1577)
27. Werner,Georg, De admirandis Hungariae aquis (1551)
28. Zeiller, Martin, Regnorum Sueciae, Gothiae, Magnique Ducatus Finlandiae, ut et Livoniae..., descrpitio nova (1656)
以上の28点を2007年の2月末の時点では、コンサルト(手に取る、閲覧する)することができていませんでした。ちなみに、( )のなかの出版年は、もちろんボイルが使ったものという意味ではなく、基本的には『新しいボイル著作集』の編者が挙げている版のものです。代表的な版という意味です。
さて、下に記した通り、8番ハートマン『化学の実践』、23番ゼンネルト『医学の実践』、27番ヴェルナー『驚異のハンガリー水』については結局共同作業の結果としてもボイルの使った版を同定できていません。
28点のうちには、著者・著作名でないものが混じっています。5番です。ボイルの出版された著作ではまるで著者名であるかのように引用されていますが、実は、フランス語の動詞です。これは、ヨルダン&ハンター(2008)のリストで報告されたフランス語の『宝石誌』(Samuel Chappzeau, Histoire des ioyaux et des principales richesse de l'Orient et l'Occident(Geneva, 1665) :これはヨルダン&ハンターによる草稿の記述からの発見です。)のある部分に対する言及ですが、ボイルはそこで著者名としてではなく、キータームとして欄外注で引用しています。異例の引用の仕方で、普通の読者は(私のように)著者名を指示しているものと見てしまいます。キータームというのは、本文中でボイルは次のように英訳しています。「(もし私が彼の使うタームを理解しているとして)お互いの摩擦により磨り減る」。
この著作は、一ツ橋に行って、マイクロフィルムで確認しています。自分の目でも確認しないと安心できない種類のものです。また、11番は、人名ですが、重引です。ホッティンガーの『東方誌』で言及されているものです。マイケルが見つけたようです。私自身ホッティンガーの『東方誌』はずっと欲しかったのですが、閲覧も入手もできないでいましたが、今年の5月に入って、ウェブで1660年版を見つけ、ダウンロードしました。ボイルにとって、ホッティンガーの『東方誌』は重要な位置を占めることがわかりました。その点に関しては、論文にまとめようと思ったのですが、間に合っていません。遠からず着手します。
1番バルビヌス、2番バレット、3番ブスベック、6番ガッサンディ、7番ハックスパン、9番ヘール、10番ホッティンガー、12番マグヌス、13番メナッセ・ベン・イスラエル、14番マルティーニ、15番(新しいボイル著作集の編者によって推定されたM.L.M.D.D.ではなく、シャプゾーであることをヨルダン&ハンターは発見した)、16番モラン、17番オレアリウス、18番パウリ、19番ピソ、20番プラッター、21番(これも15番と同じく、編者の推定したロドリゲス・デ・カストロではなく、フォンセカであることをヨルダン&ハンターは発見している)、24番のセクストス・エンペイリコスは、ヨルダン&ハンター(2008)が使った版を同定することに成功しています。
6番ガッサンディの書簡ですが、2009年5月24日にグーグルブックに見つけてダウンロードし、自分の目で確認しています。8番目のハートマンの『化学実践』は、1659年版がやはりグーグルブックにあり、ダウンロードして照合してみましたが、ボイルの使った版ではないことがわかりました。9番目のヘールの本は、ウェルカムに行ったときに照合していますが、出してもらった版はボイルの使っていた版ではありませんでした。やはり2009年5月23日、グーグルブックに1645年ライプチッヒ版があり、自分の目で照合して、これがボイルの使った版であることを確認しました。14番のマルティーニの『シナ新地図』については、2007年10月2日にリプリントを見つけ、確認しています。1654年の版でOKでした。オレアリウスに関しては、いくらか苦労しましたが、ボイルは異なる二つの版を使っていることを確かな証拠を挙げて証明しました。この点はハンターも納得してくれて、今回のバージョンでは私の主張通りになっています。
私にとって大きいのは、彼らが、ボイルが使ったガレノスの版と、セクストス・エンペイリコスの版を同定してくれたことです。やらなければとは思っていたのですが、ガレノスやセクストス・エンペイリコスは、ルネサンスから初期近代にかけて非常に数多く出版されています。どうやって手を着けたものかと途方にくれていたら、ヨルダン&ハンターが作業日誌の引用箇所から同定してくれました。
ガレノスについては、Galen, De simplicium medicamentorum facultatibus, 12mo, Lyon, 1547 (or the identically paginated edition of 1561)、ならびに、Galen, Casp. Hoffmanni commentarii in Galeni de usu partium corporis humani lib. XVII Folio, Frankfurt, 1625 をボイルは使っています。
セクストス・エンペイリコスについては、Sextus Empiricus, Adversus mathmaticos in Sexti Empirici opera quae extant Folio, Geneva, 1621 を使っています。
(個人的には、ボイルの用いたアリストテレスも明らかにしたいと思っていますが、できるかどうかはわかりません。手がかりとなるヒントや証拠がそもそも残っているかどうかが不明だからです。ただし、ボイルは、知的キャリアの比較的後になって、アリストテレスを直接読む必要を感じています。翻訳があてにならない点があることを発見したせいです。)なお、スアレス『形而上学的討論』に関しては、我々の誰も、実物を見ているわけではないのですが、スチュワートの証言(M.A. Stewart (ed.), Selected Philosophical Papers of Robert Boyle (Manchester, 1979), pp.8 and 243n)を信用して、1630年マインツ版としています。もちろん、いつかは確認したいところです。(リプリントは比較的大きな図書館には入っているので、その版と照合することは簡単です。)
ヨルダン&ハンター(2008)からの進展もあります。大きいのは、22番のシリヒティングでしょう。2008年の時点では、不明だったボイルが引用するシリヒティングの真の著作を見出しています。編者の推定するものではなく、ほんとうは、Jonasz Schlichting, Questiones duae...Contra Balthasarem Meisnerium...disputatae 12mo, Raków, 1636 です。(ヨルダンの仕事なのかマイケルの仕事なのかわかりませんが)こんなのよく探し出したと思います。
シャプゾーの『宝石誌』とあわせて、このシリヒティングのソッチーニ派の討論書は、非常な稀書だとあります。作業日誌やボイル草稿の記述から、ヨルダン&マイケルが見出したものをリストアップしておきましょう。
Academia Naturae Curiosorum, Miscellanea curiosa decuriae II annus primus, 4to, Nuremberg, 1683.
Barlow, William, Magnetical Advertisements, 4to, London, 1616 (Or the identically paginated edition of 1618)
Beale, John, 'A Relation of some Mercurial Observations' Phil. Trans. 1(1666), 153-9
Bernier, Francois, The History of the Late Revolution of the Empire of the Great Mogol, 4 vols 8vo, London, 1671-2.
Bontekoe, Willem, Relation ou journal du voyage de Bontokoe aux Indes orientales, in vol.1 of M. Thévenot, Relations de divers voyages curieux, 4 vols folio, Paris, 1663-72
Boodt, Anselmus Boetius de, Gemmarum et lapidum historia, 8vo, Leiden, 1647 (Or identically paginated edition of 1636)
Brahe, Tycho, Tychonis Brahe mathem: eminent: Dani Opera omnia, sive Astronomiae instauratae progymnasmata, 4to, Frankfurt, 1648
Brosse, Gui de la, De la natura, vertu, et utilité des Plantes 8vo, Paris, 1628.
Castelli, Pietro, Hyaena odorifera, 12mo, Frankfurt, 1668.
Chappzeau, Samuel, Histoire des ioyaux et des principales richesse de l'Orient et l'Occident, 12mo, Geneva, 1665.
Conradt, Israel, Dissertatio medico-physica de frigoris natura et effectibus, 12mo, Danzig, 1677.
Du Terte, Jean-Bapsite, Histoire générale des Antilles, 4 vols 4to, Paris, 1667-71.
Entzelt, Christoph, De re metallica, hoc est, de origine, varitate, et natura corporum metallicorum, lapidum gemmarum, 8vo, Frankfurt, 1551 (Or the identically paginated edition of 1557)
Eunonymus, Pancratius, Pyretologia mystica, 8vo, Padua, 1686.
Feynes, Henri de, Voyage par terre depuis Paris jusques la Chine, 8vo, Paris, 1630.
Fonseca, Rodrigo da, De tuenda valetudine & producenda vita liber, 4to, Florence, 1602.
Fracastoro, Girolamo, De sympathea et antipatha rerum not identified
Gaffarel, Jacques, Curiositéz inouyes sur la sculpture talismanique des Persans, horoscope des patriaches et lecture des estoiles, 8vo, Ruen, 1631 (Or the identically paginated edition of 1637 and 1650.
Galilei, Galileo, Sidereus nuncius in Opera de Galileo Galilei 2 vols 4to, Bologna, 1656.
Gervaise, Nicolas, Description historique de Royaume de Macacar, 8vo, Paris, 1688.
Glauber, Johann Rudolf, Furni novi philosophici, 8vo, Amsterdam, 1651 (Or the identically paginated edition of 1661)
Herbert, Thomas, Some Years Travels into Divers Parts of Asia and Afrique , Folio, London, 1665.
Jobson, Richard, The Golden Trade, or a discovery of the River Gambra, 4to, London, 1623.
Journal des scavans,issue 16 (28 june 1683), pp.186-8.
Laet, Ja de, Novus orbis, seu Descriptionis Indiae occidentalis libri XVIII, Folio, Leiden, 1633.
to be continued...
ちびどもと同時に、7時。冬の朝。この冬一番の寒さだとテレビは言っています。[I wanna Sweet]
幼稚園児は、元気になって、お腹が空くようになりました。昼食後、甘いものを欲しがります。昨日はママの誕生日だと言ってケーキを買いに行かされましたが、今日はパパの誕生日なんだそうです。これで終わりだよというとわかったと答えたので、わかってはいるようです。要するにクリームが食べたいということのようです。
運動を兼ねて、近所のスーパーに行きました。最近は、コンビニでもスーパーでもまずまずのケーキを置いています。イチゴのショートケーキ1個で満足してくれました。昨日の4分の1程度の出費ですみました。
やはり、上に乗っているイチゴと生クリームだけすこし食べて、それでよかったようです。ちいさいちびが残された3分の1を食べました。おおきいちびは、お絵かき教室のクリスマス会ということで、そもそもケーキの存在には気がつきませんでした。
私の子どもの頃は、クリスマスにしか、ケーキは食べることができませんでした。昭和の田舎で暮らした私には、クリスマスと言えば、ただただケーキでした。他はなし。子どもの舌には、ほんとうにスイートでした。
妻は子供時代、洋菓子系のものをデザートとしてはほとんど食べていないようです。今では子どもたちに付き合って、一口二口食べますが、おいしいとは感じられないようです。つまり、歯と健康のためには、中華の食習慣の方がずっとよい。日本では、甘いものを食べさせないわけにはいきませんが、できるだけ節度を守る、という対応しかできないと思います。
頭脳労働者として、私も実は、甘いものを割と食べます。実は、アンコがけっこう嫌い(わが家はほとんど全員がアンコ嫌いです。おおきいちびは、たとえばどらやきが好きですが、なかのアンコは全部取り出してから食べます。私も、8割から9割方アンコはとって食べます。アンコが好きな方には、信じがたい外道でしょう)なので、饅頭が好きな方とはパターンが異なってきます。でも、割と甘いものを食べます。
そのせいだけではありませんが、歯に関しては悲しい思いをしています。その点、妻は、私と付き合うまではほんとうにきれいな歯をしていました。単純に日本人は砂糖のとりすぎです。[Robert Boyle Project, Occasional Papers No.4, 2010]
マイケルからメールがありました。とうとう、Iordan Avramov, マイケル、私の共同研究が出版されたという連絡です。Iordan Avramov, Michael Hunter and Hideyuki YOSHIMOTO
Boyle's Books: The Evidence of his Citations
Robert Boyle Project, Occasional Papers No.4, 2010
ISBN: 978-0-9551608-3-7
Copies of this book may be downloaded as a PDF file from the Robert Boyle Website, www.bbk.ac.uk/boyle書誌情報にあるとおり、ボイルサイトからダウンロードできます。デザインは、ロジャー・ギャスケルさんがやってくれています。なかなかよい出来です。
長さですが、全部で66枚です。序が、vii-xxvii (21 pages)、表(Table of Works to which Boyle refers by page number)が35頁です。
趣旨説明の部分を訳出しておきましょう。「ロバート・ボイルのおおきな蔵書は、1691年のボイルの死後15ヶ月のうちに、回復できない仕方で分散してしまった。今ボイルの蔵書であったことが確認できるのは、ごくわずかの冊数にとどまる。しかしながら、ボイルがどういう書物を所有していたかについてのヒントは、ページを明示してボイルが他者の著作を引用している箇所から得られる。とくに、"page mihi" すなわち、「私の所有している版では○○頁」という表示は有用なヒントとなる。我々の『ボイルの蔵書:引用という証拠によって』は、ボイルの出版された著作と読書ノートからそうした証拠を集め、ボイルが所有していたであろうおよそ125冊の本の詳細を提示するものである。したがって、これは、ボイルの蔵書の再構成に向けて大きな一歩だと言えよう。」
"page mihi" の実際の使用例は、『特効薬が粒子論哲学と調和すべきこと』 (ロンドン、1685) , p.70 を示しています。ケルガーの『発酵について』という書物の、"sect.3. cap.3. Pag. mini 250" を引用しています。(カバーイラストと扉の2箇所でページの写真が使われています。) 本の写真は、ほとんどウェルカムライブラリーの所蔵するものを利用しています。
今一度、通して読んでみました。前にも記しましたが、とても勉強になります。ドラフトは何度かもちろん読んでいるのですが、私の手の届かない部分にもきちんと目配りがされていて、とても勉強になります。
予約購読方式(publications by subscription)はちょうど17世紀後半に始まりますが、ボイルは、予約購読方式の書物にもかなり参加しています。つまり、出版費用を分担しています。そのリストがあります。pp.xvi-xvii. note 42.
ネヘミア・グルーの『植物の解剖』(London, 1682)、『Musaeum regalis societatis』(London, 1681)、パッケによるグラウバーの英訳(London, 1689) 、プロットの『スタフォードシャーの自然誌』(Oxford, 1686)などはわかりますが、ブロームの『ジェントルマンの娯楽』(1686)やジョン・ニュートンの『薬草』(1681)にもサブスクライブしています。自分の今後のためにも、研究の経緯を整理しておきましょう。
出発点は、私の2004年の論文「ロバート・ボイルの読書/引用/執筆―ボイルのマージナリアの分析―」『東京外国語大学論集』第68号(2004),pp.129-151 にありました。そこでは、ボイルの出版された著作(現実には、マイケルが編集主幹として編んだ『新しいボイル著作集』を使った)のマージェント(マージナリア)を分析の対象とし、"page mihi" citations と page citations をすべてリストアップし、可能な限り、ボイルの引用する文章ともとの箇所を照合しました。そもそも、その時点では入手できる原典が制限されており、いくつかの顕著な事例を分析するにとどまったのですが、『新しいボイル著作集』の問題点を正確に指摘できた点は、大きかったと思います。次の段階は、科研費を得て、可能な限りその照合作業を拡張して遂行したことです。ちょうどデジタル革命とでも称すべき事態が進行中であり、ボイルが利用した本を(一部は版を含めて)かなりの程度まで同定することができました。
科研費を用いて、2006年は2回(2月と11月)ロンドンのウェルカムライブラリーに行って、日本では見ることの出来ない資料の調査を行いました。2006年2月16日にマイケル・ハンターの部屋を尋ね、そこで、ブルかリア人の研究者(Iordan Avramov)とも会って、今回の共同研究の話を決めています。ヨルダンは、私と同じではありませんが、似たような問題関心で作業を進めていました。
そのときまでの作業結果を交換して、共同研究が始まりました。
科研費の研究は、科研費の研究として、2007年の3月に成果を冊子にまとめました。(『ロバート・ボイルの科学思想の起源・背景と研究スタイル』(研究課題番号:17650272)2007年3月、213頁)
私の方の研究と、ヨルダン&ハンターの研究の関係ですが、私の方は、分析範囲を『新しいボイル著作集』に限定していました。しかし、ヨルダンとハンターは、範囲を草稿にまで広げ、(草稿と言ってもすべてではなく、ウェブにアップされた読書ノートを含む作業日誌)照合作業を続けていました。2008年8月、ヨルダンとハンターの最初のリストを受け取り、コメントを返しています。
進行具合ですが、科研費の報告書(2007年3月)の時点では、40人の著者・59点の著作に関して、同定することができています。しかし、ボイルがページ数を明示して引用する著書のうち、28点を未見(not yet consulted)として残しています。
2008年8月、ヨルダンとハンターは、その28点のうち、19点までを同定し、さらに『新しいボイル著作集』ではまったく言及されていない著者、作業日誌でだけ引用されている著者を一定数同定することに成功しています。そのなかには、私の視野にまったく入っていなかった著作、たとえば、リチャード・ジョブソンの『黄金の取引、あるいはガンブラ川の発見』(London, 1623)等の著作が含まれていました。
情報と意見の交換を続け、途中マイケルの交通事故(バイクで転倒したようです)等があって予定より遅れることとなりましたが、2009年秋にここまでと区切りをつけ、ロジャー・ギャスケルさんの手助けにより、最終形態の編集に至ったというわけです。
(最終的には、118点までを同定することができています。私が2007年3月の時点でできていたちょうど倍です。私自身が2007年3月以来追加することができたのは、3点にとどまります。作業日誌を分析範囲に入れたことが非常に有効だったことがよくわかります。)
事柄の性質上、どうしても不明な個所は残っています。たとえば、ハートマンの『化学の実践』、ゼンネルトの『医学実務』、クロメルの『ポーランド』、フラカストーロの『共感と反感』、ヴェルナーの『驚異のハンガリー水』については、結局どの版を使ったか不明なままに残しています。(私の方ではそこまでできていませんが、ヨルダンとハンターは、存在の知られているすべての版に当たり、該当しないことを確認しています。この作業だけは日本にいたのでは無理です。最低3ヶ月程度は、ロンドンやパリにいて、貴重書を多く所蔵していて閲覧できる図書館にこもる必要があります。)
また、草稿の言及では、どの著作を指しているのかまったくわからなかったものも7点残っています。(表の最後に、「同定できずunidentified」として並べられています。)
全体として、ボイルは、かなり珍しい著作、意外な著作を手元において使っており、ボイル研究者には必須のリストとなっています。
そして、この分析手法そのものが、ボイル以外にも適用可能だと思われます。資料論一般に関心がある方は、序文だけでも読んでみる価値があると言ってよいでしょう。
私の次の仕事ですが、スコープを少し変え(版までは特定できなくても使ったことが明かなものは今回のリストより多く挙げることができます)、また逆向きの作業もする(ボイルが使っていることが明白なものから、ボイルの執筆の現場に迫る、つまり歴史的にこれまでよりもずっとしっかりとした根拠に基づく思想史の研究です)こととなります。もちろん、すでに進行中です。
今回の共同作業のなかで、私にとって非常にありがたいのは、草稿で使われているのに出版されたものでは一度も言及されていない著者・著作がかなりの数確定できることです。私の研究の出発点のアイディアが、ボイルの著作のテキスト(本文)以外の項目の全体的・体系的分析だったので、私自身は草稿まで手を広げることは考えなかったのですが、その部分をヨルダンとマイケルがやってくれました。読んでノートはとったけれども著作では使わなかった資料がかたまりとして見えているということは、深みのある思想史研究が可能になるということです。
同時に、ON THE BOYLE, No 9 WHAT'S NEW IN BOYLE STUDIES DECEMBER 2009もアップされています。
→09.12.17 自分のために、「ロバート・ボイルの読書/引用/執筆―ボイルのマージナリアの分析―」『東京外国語大学論集』第68号(2004),pp.129-151 のTable 2 (List of Boyle's citations by page number) に対する書き込みから、数字を拾っておこう。情報を付加するたびに、照合した箇所の数をカウントしています。 2006年11月7日時点で、累計314箇所の照合を行っています。2007年3月に科研費の成果をまとめたあとは、そちらに書き込みをするようにしています。不注意によるミスの修正も行っています。
今回の共著『ボイルの蔵書:引用という証拠によって』と私の2004年の「ロバート・ボイルの読書/引用/執筆」は、スコープに違いがあります。今回のボイル・プロジェクトはあくまで引用というテキスト内の証拠から、ボイルの使った書物とその版を特定しようとしています。ですから、たとえば、パーチャスのような集成本の場合には、パーチャスのどの版を使ったか(ボイルは1625年の4巻本とさらに1626年の版を両方使っています)がわかればよく、パーチャスのなかで誰の旅行記をボイルは使ったのかは省略しています。(方針からすれば当然そうすべきです。)
しかし、ボイルがどの旅行記を使ったかを知りたいという要求は別にありえます。パーチャスの1625年版に対する引用は、全部で302箇所あり、そのうち262箇所はボイル草稿32にあります。出版されたものでは、引用がかなり厳選されているということになります。その厳選されたもの、つまり出版物で引用されたリストを掲げておきます。
3 times to Wemouth in Purchas
11 times to Veer in Purchas
3 times to Marco Polo in Purchas
1 time to Baffin in Purchas
4 times to Hudson in Purchas
1 times to Logan in Purchas
3 times to Pool in Purchas
7 times to Fletcher in Purchas
2 times to Blefkens in Purchas
2 times to Hawkins in Purchas
1 time to Salis in Purchas全部で38箇所の照合を済ませています。
ひとり遅れて、7時10分。週末にかけてどんどん寒くなっていくということです。予報では、今日の最高気温が9度。
ちびどもはいつも通り、8時前には元気に出かけました。
幼稚園児も、9時前に妻の自転車の後ろに乗って、元気に出かけました。妻はそのままおでかけして、お昼に幼稚園児を連れて帰ってくるということです。幼稚園児は、放課後よく遊び、12時20分頃帰ってきました。おなかぺこぺこ、くたくたになったようです。
ご飯を食べた後、やたらおやつをたくさん食べました。そして、極めつけは、ママのハッピーバースデーをしたい、ケーキがほしいというので、駅前のケーキ屋さんに行って、小さめのケーキを買ってやりました。ローソクも2本。どうして2本かは不明です。すでに帰ってきていたちいさいちびとハッピーバースデーを歌ってから、ケーキを食べていました。今月は、この時点で、100枚を越えました。
[Boyle, Certain Physiological Essays, 1661]
この観点(この観点が何かは10日に戻って下さい)からは、『いくつかの自然学のエッセイ』(1661)が重要な位置を占める。
実際に出版されたのは、1661年3月。フルタイトルは、『以前に様々な機会に執筆されたいくつかの自然学のエッセイとその他の論考』(1669年の第2版においては、物体の絶対的静止についての論考が付加された)。全部で5つのエッセイを収める。
[1番目のエッセイ]1.「前提的エッセイ」pp.9-34
2.「実験の失敗に関する2つのエッセイ、この主題に関する(主として化学的な)様々な忠告と観察を含む
[2番目のエッセイ] 第1のエッセイ、すなわち、実験の失敗について pp.37-56
[3番目のエッセイ] 第2のエッセイ、すなわち、うまくいかない実験について」pp.57-823.「化学的実験によって粒子論哲学の観念を例証するいくつかの試みの実例」
、 3a 「これに続く2論考について説明し、粒子論哲学者とキミストがお互いよく知り合うことが望ましいことを提案する序文」pp.85-91
[4番目のエッセイ]3.−1.「硝石の異なる部分と再生に関する実験と考察を含む、自然学-化学的エッセイ」pp.93-113
[5番目のエッセイ]3.−2.「流性と固性に関する自然誌」pp.115-2033a の「これに続く2論考について説明し、粒子論哲学者とキミストがお互いよく知り合うことが望ましいことを提案する序文」は、「硝石に関するエッセイ」に対する序文として、出版の直前に挿入されている。残りの部分が刷り上がり、ノンブルがつけられた後から挿入されている。その証拠に、初版のノンブル[106](隠れノンブル)と107の間に、ノンブルなしで挿入されている。この時代の出版物において、ノンブルが連続しないことは珍しくないこととはいえ、これは極めて異例の処置である。また部分的には『空気のバネ』(1660)の出版後に執筆されたことが内的証拠からわかる。
さらに、「硝石に関するエッセイ」の部分に関しては、「硝石に関するエッセイについてのノート」と称する初期草稿が残存している。RSBP, 10, fols. 82-4. 写字生の筆跡から、この草稿が1650年代に書かれたことは明らかである。しかも、草稿と実際に出版 された論考の間には、小さいが重要な語彙の差が見られる。
その一つは、「原子」から「粒子」への変化である。草稿においては、安直に(あるいは成熟した観点からは不注意に)「原子」と表現されていた事柄が出版物においては、「粒子」に直されている。とくに、草稿の「原子論者 Attomists」がこの序文においては「粒子論哲学者 Corpuscular Philosophers」に置き換えられている。(NewRBW, 2, p.90, editor's note e))つまり、3a の「序」が重要な内容を含むと判断できます。
この論考を出版するにいたった理由として、ボイルは「とくに新哲学者の間では、彼らの多くの意見にとてもよく合致する実験がたったひとつでも提示されているのを見たことがないからです。そして実際私は公然と次のように言いましょう。私がこうした論考やその他の同様の目的をもつ論考において化学者と機械論哲学者の間によりよい理解を生むことが幸いにもできたとすれば、私は学問共和国に少なからざる貢献をなしたと考えます。化学者と機械論哲学者はこれまでのところ、あまりにもお互いに知らなすぎます。今日まで、粒子論哲学者と化学者の間には、おおきくかつ一般的な誤解が存在しています。一報で機械論哲学者は、スパギリストをただの不合理な作業員operator の仲間と見ています。彼らの実験は、薬剤師や医師には役に立つが、無知以外の病を治すことを目的としない哲学者には不要だというのです。他方、ほとんどのスパギリストは、(そういう呼び方をするとして)粒子論者(corpuscularians)を内容の空疎な法外な思弁家の一種だと見ています。スパギリストによれば、粒子論者は、自然の大冊を、その中心的かつ困難な部分、すなわち、彼らの術がこの巨大で曖昧な大冊の前の版に付加した現象を配慮することもなく、説明したと言い張るのです。しかし、スパギリストの意見Hermetic Opinions は、通常の元素と実体形相の哲学よりも、原子論仮説 Phoenician Hypotheses の考えにうまく適合させられます。このことは、次のことからわかるでしょう。すなわち、学院派は一般的にひとつの種から別の種への変成、とくに卑金属から金への変成は、自然に反しており自然学的に不可能だと言うのですが、粒子論の理論は、学院派の実体形相を退け、物体の差は、無限の変化をもちうる、構成粒子の大きさ、形、運動または静止、配置だけに存するとするので、すばらしい変化を引き起こし、混合物体の変成さえも可能だとする化学派の教説の方により適合するということです。そして他方、化学者の実験室から借り受けた実験ほど、原子論仮説Phoenician Hypotheses に適合する実験はほとんどないのです。というのは、第一に、化学は、物体を浄化し、ある程度物体を分析し、異質な部分を分離することができるので、化学的実験においては他のものよりずっとよく、我々の利用する物体がどのように我々に現れてくるのか理解することができるのです。化学の術は、自然だけが働いた場合よりも物体をもっと単純で複合されていないものとなすことができます。そして2番目に、多くの化学の操作は、閉じたしかも透明な容器のなかで行われるので、効果を生じるのに何が関与しているのかよりよく理解できるのです。なぜなら、外来の物体(すくなくとも粗大なものは)が我々が考察しているそうした操作に侵入するのを防ぐことができるからです。最後に、化学者が用いる物体は、大部分活性のあるものなので、実験における自然の過程、ならびに物質が最初の状態から最後の状態へと変化する一連の継起的変性がより素早くなされ、したがって、より簡単に注目し理解することができるようになるのです。」(NewRBW, 2, pp.90-1)典拠の明示と盗用(剽窃)について
1.NewRBW, 2, p.29 プリニウス
「私が他の著作家から借り受けた、あるいは友人から受け取ったことがらについて非常に頻繁に言及していることは、プリニウスの次の言葉によって弁明しましょう。すなわち、「誰から受け継いだのかをはっきりと言うことは、(私の意見では)楽しいことでもありますし、また誠実な謙遜を示すものであります。」(Pliny, Historia Naturalis, Pref., 21) 私はおおくの現代の著作家が他者の思考や観察をあまりにも大胆に盗用しているのを見ていますが、同じプリニウスが付言する次の言葉を彼らには当てはめよう。「多くの著者を照合してみると、多くの権威ある者や最近の著作家が古い著者から、名前を挙げることなく、一字一句借り受けていることを見出しました。」(ibid., 22)もし、他の著者がこうした人物よりももっと公正(感謝の念を示していればとは言いません)でなかったとすれば、彼らは、その目的がもっと高貴でも誠実でもない者たちに公衆を発明で喜ばせるのをすぐに思いとどまらせるであろう。発明者への賞賛と感謝の念は、発明者の名前を挙げないものによって、強奪されるであろう。しかし、もし彼らが我等の著者がさらに述べる点を考慮するのであれば、公正だと言えよう。すなわち、「確かにこのようなことは、借金を返すよりも窃盗の現行犯で逮捕される方がよいというさもしい不毛な精神を現わしています。(邦訳,p.7)」(ibid., 23)
さて、私は以上のように他の著者から買い受けたパッセージについて述べたのであるから、私が借用することを拒絶した者たちについても付言しておくことは不適切ではなかろう。私の著作の自然誌的部分の多くの場所で、私が、私の議論に適していて、私のねらいを証明するにふさわしいと思われる、プリニウス、ソリヌス、アリストテレス、テオフラストス、アエリアン、あるいは古代の医師の何人か(彼らは事物によく通じていて、普通信頼に値します)の証言を省略しているのを見て、貴方は驚かれるかもしれません。」 こうした著者を信頼しないわけではないが、自然学者が十分依拠できるよう、事実事項を伝えるのは難しいと感じたので、採用しなかった、さらに、自分自身の知識を伝えている箇所を除き、そうした伝統の一部は、明らかに虚偽であるか、あるいは確実に正しいものではないことがわかったのです。また、ヴェッカーやパラケルススやポルタのようなとても不確かで疑問をもたれている章句の上に何ものかを建造することには後込みします。(pp.29-30)2.NewRBW, 2, p.89 グラウバーと剽窃
「硝石についてのエッセイの最後で、当時出版されたばかりの勤勉なるグラウバーの論考に触れました。そのとき私は精読できていませんでしたが、硝石の自然誌に関する観察を含むことを見出しました。その観察がもし本当であれば、非常に重要です。・・・・
さらに、数年後前の著作に続きグラウバーが別の小著を出版したことを知らされました。その小著で彼は、硝石を純化し、硝石の精気的部分と固定的部分を結合し、それからその混合物を蒸発させて、硝石に結晶させる仕方について述べています。この記述から私は、告白しますが、私のことを知らない者には、私の剽窃だと受け取られかねないという懸念を抱かきました。」しかし、友人の証言によって、その疑念を晴らすことは簡単です。
最初ボイルが言及する、グラウバーの出版されたばかりの論考というのは、『哲学的な炉の記述』(1651)であり、数年後に小著というのは、『ドイツの繁栄』(1656-61)であろうと編者は記している。
出版はグラウバーの方が早いので、ボイルはここで剽窃だと疑われるのを気にしている。『いくつかの自然学のエッセイ』(1661)の重要性は、後の著作で十全に展開されることとなる種が多く含まれているということです。ボイルの理論的主著と呼べる『形相と質の起源』(1666)は、「硝石に関するエッセイ」の続編と位置づけられています。
また、『色に関する実験と考察』(1664)や『冷の実験誌』(1665)において、十全に展開される自然誌・実験誌のスタイルが一部先取りされています。引用される著作、またその引用の方式において、『いくつかの自然学のエッセイ』(1661)は『色』(1664)と『冷』(1665)を先取りしています。
そして、最後のエッセイ「流性と固性に関する自然誌」の終わりに近い部分では、石化汁や種子原理やグルについて言及しています。
全部ではないにせよ、手持ちの札の一部を開示して見せた、という感があります。
ひとりで6時。珍しく、一番です。幼稚園児は、6時40分、ちびどもはそのあと起きてきました。ちょうどよいぐらいです。
幼稚園児は、今日は土曜日(クリスマス会)の振替でお休み。あと、4回行けば冬休みです。小学生達は、25日まであります。インフルエンザはさすがに下火になりつつありますが、学級閉鎖、学年閉鎖がいっぱいありました。一度も学級閉鎖にならなかったのは、2年生の(ちいさいちびのとは)別のクラスだけでした。ほとんどの子どもは軽く済んだようです。何よりです。
ちなみに、幼稚園でもかなり罹った子がいます。わが家もそうですが、幼稚園児の場合、症状が重くなる傾向があるようです。わが家の幼稚園児も、まだインフルエンザに罹る前の体調には戻っていません。冬休みに入る頃に、戻るような気がします。昼寝しそうで結局寝なかった幼稚園児は、2時頃、ママの許可をもらったのでお外で遊ぼうと言います。家のまえの道に、自転車、三輪車、ショベルカーの3台を出して、お遊び。自転車はまだすこし怖いようですが、すこしずつ慣れてきてはいるようです。パパにあれやれ、これやれとなかなかうるさい。ちいさいちびが帰ってきてしばらくしてから、もうおうち帰ると家のなかに飛び込みました。おしっこがしたかったようです。
風邪が残っているときには、外に行きたがりませんでしたから、だいぶよくなったのでしょう。幼稚園は年内のこすところ4回。火、水、木、金と午前中だけ行っておしまい。
幼稚園児は、やはり、8時前には寝てしまいました。
幼稚園児に続いて、6時半。薄日が射しています。おおきいちびが買い物があるというので、昼食後、子ども3人と吉祥寺のユザワヤへ。吉祥寺のユザワヤはもうすぐ閉店です。いろんな閉店セールをしていました。ちびどもは1階に用があります。おおきいちびはかなり考えて、お絵かき教室のクリスマス会の贈り物を選びました。幼稚園児とちいさいちびは、風船。
西荻駅内のパン屋さんで、おやつを買って、さらにその場で販売していた年賀状を買って帰りました。幼稚園児は迷わず、プーさんの年賀状をとりました。
ウェブに次の議事録がありました。
学術研究推進部会・人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第9回)議事録
平成20年2月15日(金曜日)16時〜18時に、亀山学長が「文学と大学教育」について語っています。ペンブルを捜していたら、次のサイトに行き着きました。
The Digital Library of Classic Protestant Texts
まだ十分に調べてはいませんが、他にないデジタル・ライブラリーを収録しているのは確かなようです。ペンブルの『形相の起源』がありました。Pemble, William
De Formarum Origine
Oxford, 1659[Henricus Regius (Henri le Roy), (1598-1679)]
グーグルに次のレギウスがありました。レギウスは、ユトレヒト大学医学教授ですが、オランダにおけるデカルト自然学の最大の放送塔です。デカルト主義の浸透を語る際には、欠かせない人物です。Regius, Henricus
Fundamenta physices
Amsterdam, 1646Regius, Henricus
Henrici Regii Ultrajectini Fundamenta physices
Amsterdam, 1646Regius, Henricus
Henrici Regii Ultrajectini Philosophia naturalis
Apud Ludovicum Elzevirium., 1654Regius, Henricus
Philosophica naturalis: in qua tota rerum universitas, per clara & facilia ...
Amsterdam, 1661Regius, Henricus
Recentiorum disceptationes de motu cordis, sanguinis, et chyli, in ...
Leiden, 1647
[クリスマス会]
ひとり遅れて8時前。昨日の天気予報のとおり、雨は上がっています。気温も上がってくるということです。昼食後すぐに、幼稚園児のクリスマス会。大人が歩いて20分ぐらいの場所です。妻と幼稚園児は、11時半過ぎにでかけました。ベビーカー。
ちびどもと私は、12時5分に家をでて、12時22分に会場に着きました。私はずっとすこしゆっくりめの大人のペースで歩きました。わが家から20分はかからないということになります。すこし早く歩けば15分で着きます。
会場に入ると、すでに妻と幼稚園児が座席を確保していました。
ちいさいちびはお友達といっしょに端っこの方に座りました。私は、軽い頭痛があり、半ば眠るように座っていました。実際、開演後、牧師さんのお話の途中ですこし眠ったようです。子どもたちの演目が始まることには目覚め、幼稚園児の出演の場面は、デジカメの動画に収めました。最初の演目では、あまり出来ていませんでした。しかし、2番目の踊る演目(幼稚園の言葉では、リズム遊戯)では、前列のまんなかに立って、しっかり踊っていました。練習量を考えれば、りっぱなものです。
予定よりいくらか遅くなって、4時5分前に閉幕。妻は幹事として、片づけがあります。30分ほどかかったでしょうか。
幼稚園児がママを待つというので、終わるのを待って、モスバーガーへ。モスバーガーはずいぶん久しぶりです。お腹が空いていたようで、みんなよく食べました。
外に出たときには、いくぶん明るさがあったのですが、モスにいるうちにどんどん暗くなり、帰り道はすっかり夜になっていました。ちいさなイルミネーションがいろんな所にあります。子どもたちは、見つけるたびに、声をあげていました。妻は疲労困憊したようです。幼稚園児は、久しぶりに6時を過ぎて起きていました。7時半。徐々にもとのリズムに戻っていくでしょう。
[カンパネッラ Campanella, Tommaso, 1568-1639]
12月10日に記した理由により、トンマーゾ・カンパネッラをすこし調べました。まず、手元の『哲学の歴史4』からカンパネッラの節を。pp.579-597.
壮年期のかなりの割合を牢獄で過ごしています(27年間)。「革新への情熱に満ちた生涯」と執筆者の近藤恒一さんはまとめています。そうかもしれません。テレージオの主著『事物の本性について』に深く共感したとあります。「カンパネッラは旧来の知を、あらゆる分野において革新しようとし、そして「大革新」の理想を情熱的に追求したのである。
カンパネッラの「革新」は、個々の学問分野の革新を目指すだけでなく、新しい包括的な知の体系、新しい「百科全書」を作り上げようとするものであった。彼の多様な智的探究はすべて、究極的にはこの百科全書的要求に促されていたと言えよう。」(p.586)「カンパネッラによれば、自然はすべて神の自己表現にほかならない。「世界は神の姿・似姿であり、神の生ける神殿であって、神はそこに自己の動作を描き、自己の考えを書いた」(『事物の感覚および魔術について』第4巻「結び」」(p.594)
「それゆえ哲学的探究は、人間の手による書物ではなく神の手による自然という書物を読みつつなされるべきである。つまり、あらゆる既成の権威から解放されて、自然という原典そのものに集注すべきである。この点でカンパネッラはガリレオに一致する。」(ibid.)
「彼にとっては、読みとるべき重要な意味は自然自体の内にはなく、神が不断に自然を生成発展させつつ自然を通じて意図するところにある。神が宇宙という書物に書き込んでいく神秘な言葉、神秘な徴の内に、神の深遠な意図を読み取ることこそ重要なのである。」(p.595)グーグルに一定数の著作があります。他にもありますが、自然哲学関係では次でしょうか。
Campanella, Tommaso
Civitas solis poetica, idea reipublicae philosophicae
Ultraiecti, 1643Campanella, Tommaso
Astrologicorum libri VI
Lugduni, 1629Campanella, Tommaso
Atheismus triumphatus: seu contra antichristianismum
Paris, 1636Campanella, Tommaso
Astrologicorum libri VII
Frankfurt, 1630Campanella, Tommaso
De sensu rerum et magia libros quatuor
1637Joseph Hall, Tommaso Campanella, Francis Bacon
Mundus alter et idem sive Terra Australis antehac semper per incognita
Ultraiecti, 1643
ひとり遅れて6時50分。地面が濡れています。今日は、冬の雨が降るということです。明日は、幼稚園児のクリスマス会です。午後に行われます。妻は明日に向けて休ませるつもりでしたが、幼稚園に連絡すると、30分だけでも練習をさせたいということだったので、急遽、9時半から10時まで明日の練習のため幼稚園にでかけました。雨なので自転車は無理。ベビーカーででかけました。
ちょうどその間に、私は、郵便局、コンビニ、銀行、駅、コンビニとまわり、必要な用事を済ませてきました。
ちびどもが帰ってくる前の時間に、雨のなか、駅前の本屋さんに行って次の3冊を買ってきました。
1.『中央公論』2010年1月号;2.上杉隆『ジャーナリズム崩壊』幻冬舎新書、2008;3.『週刊朝日臨時増刊 夫婦で考える定年後のお金と暮らし2010』
次の論考のpdf をSさんが作って送ってくれました。ありがとうございます。必要な方はメールで一報ください。添付でお送りします。
[シリーズ:18世紀の化学の諸相]
吉本秀之「18世紀ドイツの化学:歴史記述の問題」
『化学史研究』第36巻(2009): 225-235
17世紀の化学に関しても、これと同様な論考を書く必要があると考えるようになっています。もちろん、ルネサンスに関しても必要かもしれませんが、私の方で準備が整いません。私がここで「17世紀の化学」というのは、だいたい、リバヴィウスの『アルキミア』から、科学アカデミーのドイツ人化学者ホンベルクあたりまでです。
グラウバーやスターキーのような、初期の化学工業家とでも称すべきキミストの活動をきちんと位置づける必要があります。
そして、化学操作と化学薬品の普及ということでは、昔、川崎勝氏がやっていた「ポータブル・ラボラトリー」の系譜をきちんとフォローしておく必要があります。日本の化学に絶大な影響を与えたトロムスドルフのような人が「ポータブル・ラボラトリー」の開発・販売をしています。ベッヒャーの1689年の図版が有名ですが、トロムスドルフあるいはそのあとまで繋がる系譜があります。
錬金術工房や薬剤師の工房(すなわちラボラトリー)で徒弟修行するのでないとすれば、こうした装置は必要になります。
純粋の推測ですが、幕末から明治初頭にかけて欧米にでかけ、化学を学んだ先人のなかには、その当時の「ポータブル・ラボラトリー」を購入してきた者がいるのでは、と睨んでいます。このあたりを跡づけられれば、非常におもしろい。
ほぼそろって6時半。昨日は5時半に寝た幼稚園児がやはり一番先でした。今日はほんとうに久しぶりに幼稚園児も幼稚園に出かけます。妻の運転する自転車の後ろに乗って、快活にでかけました。体力を配慮して、はやおかえりということで、昼食の時間におなかをすかせて帰ってきました。
まだ前の体力にはもどっていないようです。1時過ぎにお昼寝といって2階に上がっていきました。音がしなくなったので、昼寝をしている模様です。[ロンバール『5世紀から11世紀までの金属』]
お昼過ぎに次の本が届きました。Maurice Lombard
Les métaux dans l'ancien monde du Ve au XIe siècle
Paris: Mouton 1974
中世史の小澤さんの教示によるものです。たしかにこの地図はすごい。発注したのは9月29日。向こうは、10月12日に送り出されています。船便でゆっくり来たのでしょう。そろそろ問い合わせようと思っていた矢先でした。
→内容については、小澤さんのサイトをご覧下さい。私はその紹介を読んで、すぐにこの本を発注しました。[次に向けて]
次に向けての作業の一端を紹介しましょう。ボイルに、「原子論哲学について」"Of ye Atomicall Philosophy"という草稿があります。( Royal Society, Boyle Papers, XXVI, pp.162-163 [ca.1651], published in R. Westfall, "Unpublished Boyle Papers relating to Scientific Method," Annals of Science, 12(1956): 111-113.)
化学史学会編『原子論・分子論の原典1』(学会出版センター、1989)のために私が訳出しました。pp.33-5.
はじめの部分を引用すると、次のようになります。「デモクルトス、レオキッポス、エピクロスによって創案された、あるいは要請された原子論哲学は、たまたま破壊を免れた逍遥学派の哲学は別として、すべてのものが、野蛮人と蛮行の氾濫によりローマ世界から追い払われて以来、ヨーロッパの学院においてはまったく無視されるか、破綻した不合理な体系としてのみ言及されるかのいずれかであった。しかしより公平で探究的な我々の時代において、ガッサンディ、マグネン、デカルトとその弟子達、我々の同国人で有名なケネルム・ディグビー卿、そして特に磁気的・電気的作用を扱っている他の多くの著作家の学識ある筆によって首尾良く復興され、きわめて高名に世に知らされたので、今ではもはや笑殺するにはあまりにも重要なもの、真摯な探究に値する重要なものとなった。 原子論者が次のような不平をもらすのには十分な理由があろう。すなわち、アリストテレスは、嫉妬から彼以前の者の見解を不当な観念で表現したが、この同じ嫉妬から彼はデモクリトスとエピクロスの見解をきわめて不公平に表現した、と。」
私が問題としたいのは、「ガッサンディ、マグネン、デカルトとその弟子達、我々の同国人で有名なケネルム・ディグビー卿、そして特に磁気的・電気的作用を扱っている他の多くの著作家」の部分です。すなわち、ボイルはこの草稿を書いたとき、実際に原子論の著作をどの程度読んでいたのか?ということです。
ウェストファールの執筆年代推定(1651年前後)を仮に正しいとすると、ボイルが科学研究を始めたばかりの頃ということになります。そのとき、ガッサンディの著作『ディオゲネル・ラエルテイオス巻10注解』(リヨン、1649)、とくにこの補遺として第2巻、pp.365-458に収められた『エピクロス哲学概要』とデカルトの主著『哲学原理』(1644)は既に出版されており、マグネン(J. Chrysostomus Magnenus, ca. 1590-ca. 1679) の『復活せるデモクリトス』(パヴィア、1646)も出版されていた。ケネルム・ディグビーの『一方で物体、もう一方で人間の魂を扱う、2論考』(パリ、1644;ロンドン、1645)も出版はされていた。
しかし、1651年のボイルがこういう著作を入手し、実際に読んで、こういう文書を記したかというと、それはほとんどありえません。(入手は一部していたかもしれません。)デカルトとガッサンディに関しては、後に、入手して読んでいる(精読ではありません、ぱらぱら見る、一部読むという読み方です)ことは著作中で自ら証言しています。
では、マグネンとディグビーはどうでしょう。
ボイルは、全集のなかで、マグネンを取り上げています。しかし、それは、 De manna liber singularis (1648) という著作です。この著作に関しては、テキスト内の証拠から手元に置いて使ったことは間違いありません。しかし、『復活せるデモクリトス』(1646)の方は、一度の言及もありません。ただし、未出版の草稿で、この著作からの引用をしています。(重引かもしれません。)
すくなくとも、ボイルが『復活せるデモクリトス』(1646)を入手して使った証拠はない、ということは言えます。ディグビーはどうでしょう。
ディグビーは、ボイルの友人です。股人的な繋ぜがあります。1650年代には、レシピを共有していますヽしかし、壮舜銚に、ディダビーの『2論考』ほ対する言及はありません。友人なまで、をう等ぷ所椌「オ「トイイイス可エ\ーォイヘェネ単にイヘエロ定イナきイワイケイが羨イ亊中「ナ「ヘセwびていイワせんヽ-}年濯土に考よも〈砥ネベト内ゎ証拠る鋼懲てを、直接読んで判断跳たのでみなく、何せの著作か学説史の観察をノー堵帝取った(自分の考えは付卉したかもしれま鳥提阻よ碁イライォでし禎彫礎<ミ>香タ→0ケ.ア2ョ1ア。タ珍イネインに唾ψω豚」邉」ネアロウ挟ェはイカイ゚「ト釜セ嚔サイオ朕チフエョヴコツノ辻調綴‡ぷイキ勅チηテ譽」ウウ陦ロ崢コシケウカイオたムアイォ「ェあ「爪す。メ草索イコスャ乱籠粐篆「籬ツルアチテ螢譽肅テテネチロ幵キイ鴦ミヘ蠅韭エ「ソイマユイ籠ツメ簷メスイアイニ糴イイイワメミ箏イイテテヒムモマ籤ムツミツメレツナムムヨ犁ェツナイュ箏「蔗「籤イキチメュ鳬セヘ糘セヘÅメSツャイv琥osョ`アvイスアオ。リユナチ「豎アわ「「の剃拓惇賑店肉迩豚⊥呑わ最ッゥイびオイソイ逑ノモモリ奈咐」イオ≫ュツメヘ矜゙オム聹糯粲aasサテノテモ諾xqvオイ}utyイ「ャチチリモ゙苔聢ロ籤庇メメリメミナヒ粨鰌ルメゥ粡アウ皀テテ脩xアスxqvutアzイウメメ゚ンメムメト帯モナテニリ逑鞦ロモサイミ糢ヤツムヤ゙メンー蔗勒ウア黨rメヘチ璢罕磊ウイチ糂粮メルアイ鴣{緲肭緘粮騏糅ホ惇「オツムメラメ゙bヤhupq肛qモo脉ーメsモ獎韜モ肓褓肄ウケコオカキスク|p~0nセ珎シメヘ矜ウ燉衲ノ粳「ヘチラフ歴性ム趙ミユ飛跟マテヌ胄聶粳アrーオサイヨツユヤコイル嬬モ韭眥ツワツ脉リモロロ砒耋チロ霙フ篷粐糘メプソメネツムメンミセpカ{オカイ瞋゙ツラ牾pppセ227=235~}|p挫ミユメqモロモウテモテ譽竅}ウ|ウウアqウvzウ銖ウ贊Rモ゚テムロま癒ム゚挺゚メメエツ轤ヒメレツヤムム橢ソツワ反uヒツのムスイーイテ蠱ロテムツツムメツ趙篷ホサsソテフマ。鰊胄ソソコイイーイアチツマたツ靦゙イメフムツーカイオイ萃イイイーイアqイヘヒフイメイイキツ」譽粤マr{イカシアイオメメイワムチメルuウtサsウ鰡糅オ低籠ツイシのクス磋ツワをメ趙ノムモ頷メワメニめ帝ワユメユメキ≫スp~}アpウ{ウsウサク゚ツヘユイウ蜥訂謦アwイキァイトメイ「葢粐メチツ刷~ヘチミqイイコシエセqq長ヨメメヌヨワミ爪微ンラウイヨウノメメイン}コツメイーイ鰓イ翹聒ツイアqアセキz゚ヤラフハ糯qアyイイウツ趙粡粲鶯イエ鱆ヤスツワ粳筱眞xイサイヘルyvイケス「サ瑩メヤメメリ「ア踉銷衒ユツノリ鰓ワ瑣アuUu}シ第ホマツルムQメ糯メヤメオイ゚usイイシqイソツン糯メメアイン矮イ粐クrなツムメ「ツサ超「ツヤ゙ユヒモメノツ゚メヤ糢メ糴イ畭。uアア蜩イ壷メびメヤ訂ア締イメツ‰ウ梯メイメセソイメリ帯ユムワメユツメん椿ムキ紆「イ粐ウツイメリメメワメノチチハラツハイソイムムヒサメイイツ締ヨヤ禎籵ツ鮹筍チuuアv}|p~=puーホメ艪ノツ鬚ツ籃イ蠶ツノヤ゙サヤ鯆メンムムワシメルヘヌメイメチツ‡詐ミンムタ†イ蓊メムメヨツロル鵡メミメメ狠ムヤピメツイメ糴イロカ鈔褪「メツツqセソイイツヨイメミユマメ粢粹糲ア皀胚テ憧Φウ鳥イrウw糶イツリミ゙メイイイモ聽蔘x「イツムムヨミ゙モメ訂メロレ梯赳゚ツ篦メワムロ鰈メメqyイツ引ツ「「袵訂簔ナ†アミイpqウ禿゙イツ鴣イオ「イメイムム肚テ」テ碯璢qu||qplquvx}qカムツ粨紆糯zウウp緲脩ア逓ワ草ヘム鮹ミケルメ鴣脣翕磋uケr{サニツ篦ヤムメ裘粨゚メイ糶イアr粮セイノメムルメテレモモ汝入モルムメツ鰾ムルウモテ肓メ粐糜ツ萃ル粢粐糜ア磆゚ムイメモウ弐ア}糴qテ聽瞻チム聰テモチナモ篥モモロモモモモロア縻p|。テxsr胚vv~wws粮縣聽胚縱肅胚粫糢イr緘綯縻緜粮紆痃utu|usyus|prassq|pvuru|q}|pspur~ysus0vpx~ot`to`me~ty~0txupsxy}ystsi`gassenduspruwyus`fptxuprust0vptxupqt}ysts|pvptxurpvruuppxylspxers|o`to`omytptxupqsutupsampanel|q|アvイイイ鴕o糅珞粭r}|br~}アpx緞p|粢糢糜qz胚縣緲脩}粭糘疵uqクn黔粳粐粐vイイアqusz縣緲肓疂粮t|qq|籵糴j疱粫q粭粐粳畸m
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ボイルがテレジオの名前を挙げるのは、以上の3箇所に留まる。そして、『書簡集』でも作業日誌でも一度もテレジオの名前に触れていない。
つまり、テレジオの名前は、古いアリストテレス主義自然哲学への挑戦者として視野に入っていたが、直接読んだ形跡はまったくないということである。
テレジオに関しては、途中から態度を変えたわけではなく、新哲学の陣営の一人として位置づけられていたが、手にとって参考にすることはなかったと言える。2.バッソ。
バッソについても、ほぼ同様のことが言える。『形相と質の起源』(1666)でボイルは次のように述べる。「前に言った言葉で、私は、公然とアリストテレスの自然学に反対した我等の時代の著作家たち(ルクレティウス、ヴェルラム、バッソ、デカルトとその追随者、ガッサンディ、ブート兄弟、マグネン、ペンブル、ヘルモント)をおとしめるつもりはまったくなく、また彼らの思考や議論をまったく利用するつもりがないというわけでもありません。そういう意図はありません。というのは、私が彼らの議論に言及しようと思ったとき、その書物の一部は入手できなかったというだけではなく、また、私は私の目の弱さのせいで、私が取り上げたテーマに関しない部分については精読する余裕がなかったのです。しかし、私が参照しえた部分からは有益な示唆を得ていますし、さらにとくにもしそのとき学識あるガッサンディの優れた小著『エピクロス哲学のシンタグマ』に精通していたら、もっとそうであったことは間違いがないのです。」(NewRBW, 5, p.295; 邦訳,p.18)
ボイルがバッソの名前を出すのは、この『形相と質の起源』と前掲の草稿「聖書に関するエッセイ」の2箇所だけである。やはり、『書簡集』でも作業日誌でも一度も名前を挙げていない。『反アリストテレス自然哲学12書』Philosophiae natvralis adversus Aristotelem Libri XII. (Amsterdam, 1649) の存在は目に入っていたが、入手して読むことはなかったと見なければならない。3.ペンブル。
『形相と質の起源』に名前の出てくるペンブルですが、William Pemble, 1592?-1623 です。De formarum origine. Guilielmi Pembeli, Angli, Oxoniensis, tractatus (Oxford, 1629; [1650?])があります。ボイルが言及しているのはこの書物で間違いないでしょう。
ボイルがペンブルの名前を挙げるのは、『著作集』『書簡集』作業日誌中、たった1箇所、上記の『形相と質の起源』だけです。ペンブルの『形相の起源』という著作は視野に入っていたが、入手して読むことをしていない、と考えるべきでしょう。4.レギウス。
レギウスの著作であれば、デカルト自然学の便利な梗概として使った可能性を考えることが出来ます。『自然学基礎』(Fundamenta physices, Amsterdam, 1646) あるいは、『自然哲学』(Amsterdam, 1661) は、手元にあった可能性はあると思います。しかし、ボイルは、『著作集』のなかでは3回しかレギウスに言及していません。そのうち2回は、ヘンリー・モアの『形而上学綱要』におけるボイル批判に答える文脈で、モアの言及に合わせて、レギウスの名前を出しています。残り1回は、上の草稿「聖書に関するエッセイ」における言及です。『書簡集』では、ローワーがボイル宛の手紙でレギウスの名前を出していますが、編者はローワーの何かの思い違いであろうと指摘しています。 作業日誌でも一度も言及されていません。つまり、ボイルの立場を考えれば、もらう等で入手していた可能性は考えておくべきでしょうが、実際に使った形跡はありません。(デカルトの『哲学原理』を読んでいれば)わざわざ読む必要性を感じなかったとみておいてよいでしょう。
5.キルヒャー。
キルヒャーは、明らかに様子が違っています。『光と影のおおいなる術』Ars magna lucis et umbrae『磁石』Magnes 『地下世界』Mundus subterraneus『普遍音楽学』Musurgia universalis (Rome, 1650)『シナ図説』China monumentis(Amsterdam, 1667) は手元において使っています。基本的には、自然現象の収集本として重宝しています。
草稿「原子論哲学について」の焦点が、磁気・電気現象の微細な発散気(微細な蒸気粒子)による説明であったことを思い起こそう。ボイルの時代における磁気現象、磁気に関する教説の最大の収集本『マグネス』(初版、ローマ、1641)がボイルに持つ価値は明白である。『著作集』中、15箇所で『マグネス』に言及・引用している。しかも、その言及は初期の著作から中期の著作、後期の著作まで途切れていない。6.ブート兄弟。
Arnold Boate(Boot), 1600?- 1653? & Gerald Boate(Boot), 1604-1650 。アーノルドとジェラルドのブート兄弟は、ともにオランダ生まれで、ライデン大学で医学を学んでいる。
ジェラルド・ボートは、1628年ライデンで医学博士号を取得したあと、1630年代後半にアイルランドに亡命し、英国軍隊の軍医長となる。のちに、ロンドンに移住し、ハートリッブ・サークルの一員となり、ラニラ卿夫人とボイルの医師となる。『アイルランドの自然誌』は、彼の死後、ハートリッブの手で出版される。ボイルが『形相と質の起源』で言及しているのは、兄アーノルドといっしょに著した『改革された自然哲学』Philosophia naturalis reformata (1641)。
ボイルが科学者となる1649年以前から知り合いになっており、ボイルの近くにいた医師である。『書簡集』のなかでも作業日誌のなかでも数多く言及されている。
『自然哲学の有用性』(1663)のなかでは、「非常に学識のある経験豊かな医師ジェラルド・ボート先生は、ピロフィルスよ、貴方自身がその力量のおかげを受けているし、また『改革された自然哲学』を著した二人の教授のひとりであるが、。。。」と言及している。
ボイルとの身近さから考えて、『改革された自然哲学』(1641)は持っていた可能性はあるが、著作中でも書簡のなかでも作業日誌においても使った形跡はない。7.セヴェリヌス。
Petrus Severinus (1542-1602) は、デンマークの宮廷医師です。パラケルスス主義の医学書Idea medicinae philosophicae (1571)が有名です。
ボイルがセヴェリヌスを直接使っていると非常に面白いのですが、『著作集』で2回名前を挙げているだけです。上記の『神学の優越性』の箇所の他には、『自然哲学の有用性』(1663)の次の箇所、「というのは、アーノルド・ヴィラノヴァ、パラケルスス、ルーランドゥス、セヴェリヌス、ヘルモントの多くの約束といくたりかの偉大な治癒によって、目覚め、興奮を引き起こされる前にも、医師たちは、あまりにも簡単にこれこれの病気に罹った者は不治であると言いがちでした。」だけである。
『書簡集』でも作業日誌にも言及がない。つまり、知ってはいたが、著作を入手し読んだとは考えられないのである。8.ベイコン、デカルト、ガッサンディ
ベイコン、デカルト、ガッサンディは、新哲学の陣営の3巨頭と言えよう。『懐疑的化学者』と同じ年に『懐疑的化学者』よりすこし先に出版された『いくつかの自然学のエッセイ』(1661)の冒頭のエッセイ「実験的エッセイ全般に関わる考察を付した皮切りのエッセイ」のなかで次のように述べる。「(体系という言葉で私は)学識あるガッサンディの小著『エピクロス哲学のシンタグマ』[1649]、とあの極まりない才をもつ紳士デカルト氏の『哲学の原理』[1644]の名を挙げよう。こうしたすばらしい著作(お互いに見解は異なりますが)や、さらにはフランシス・ベイコン卿の『ノーヴム・オルガヌム』[1620]については、いくつかの事項についてときに参照しなかったわけではもちろんありませんが、しかし、そうした書物を本格的に秩序立てて通読することを私は意図的に避けました。それは、事物そのものが私にある考えを抱かせるようになるまでは、何らかの理論・原理にとりつかれることのないようにと考えてのことでした。」(吉本秀之「ロバート・ボイル、人と仕事」cxxiv-v; OldRBW, 1, p.302; NewRBW, 2, pp.12-3)
新哲学のもっとも重要な書物として、(出版年代順に挙げれば)ベイコンの『ノーヴム・オルガヌム』(1620)、デカルトの『哲学原理』(1644)、ガッサンディの『エピクロス哲学のシンタグマ』(1649)の3冊を列挙しているのである。
ベイコン、デカルト、ガッサンディについては、ひとつの章をたててボイルがどう読んだかを探究する価値がある。→09.12.15 古いものだが、ボイルとデカルトについては、次の論文を書いています。
「ボイルとデカルト」『科学史科学哲学』1983年、No. 3、11−16頁
ボイルとベイコンについては、まだ草稿段階ですが、「ベイコンを読むボイル」をまとめています。(1〜2年のうちに論文としてきちんとした形にします。)
ガッサンディに関しては、まだ何もまとめていません。論文の長さのものを書くには時間が必要ですが、ポイントをまとめておくことは遠からず行おうと思っています。→ 09.12.15 ガッサンディ。
ボイルは、ガッサンディについては、かなりよく使っています。非常に浩瀚な『ディオゲネス・ラエルティオス巻10注解』(1649)とこれに付されていた『エピクロス哲学のシンタグマ』(1649)は、テキスト中で明示的に言及していますし、どういうふうに読んだのかもコメントしています。
『ペレスク伝』も割とよく言及していますし、珍しいところでは、 De apparente magnitudine solis humilis et sublimis epistolae quatuor (Paris, 1642)を手元において、『色に関する実験と考察』(1664) で何度か使っています。ガッサンディは同時代人は天文学者として受け入れられていた側面があります。その講義録の出版『天文学綱要』Institutio astronomica juxta hypotheseis tam veterum quam Copernici et Tychonis (1647)もボイルは何度か使っています。
そして、ガッサンディの著作のなかでボイルがもっともよく使ったのは、『全集』(Lyon, 1658)第1巻に収められた「自然学Physica」の部分です。1673年に出版された『論文集:海の塩性についてを含む』の最初に収められた論文「冷の実在的あるいは欠如的本性について。カルネアデス、テミスティウス、エレウテリウス、フィロポヌスによる懐疑的対話」(NewRBW, 7, pp.341-367) では、とくにガッサンディの冷の議論(「冷の効果は大きく、とても欠如によっては生じ得ないものである。欠如は作用することができない。」(Gassendi, Opera Omnia, vol.1, p.401) を取り上げ、討論の対象としている。
その部分の表現が面白いので、訳出しよう。「カルネアデス:貴方はたぶん、学識があって緻密なガッサンディのことを仰っているのでしょう。そうであれば、貴方の意見の主導者としてガッサンディを挙げてもらったのは、ありがたいことです。なぜなら、通常の見解を弁論するに際して、彼が非常に数多くの著者を引用することで読者を当惑させるというよくある習癖に陥っている―その習癖は、こうした場合私にはほとんど意味をもたないことだと思われますし、議論のための議論を呼び起こすだけだと考えますが―というだけではなく、まさに彼は現代の明敏な著作家であって、主張する意見のために言いうることをうまくまとめあげているだろうと見なすことができるからです。」(NewRBW, 7, p.343)
ボイルは、あまりに浩瀚な『ディオゲネス・ラエルティオス巻10注解』(1649)は読み通すことができていないとテキスト中で音を上げています。ボイルならずとも、現代の一般的読者には、あまりの多くの著者からの引用と注釈からなるガッサンディの書物はとても通読できないと感じられるでしょう。カルネアデスは、『懐疑的化学者』(1661)の場合と同じく、ボイルの代弁者です。ガッサンディのような、非常に数多くの著者から引用に引用を重ね、さらにその引用を注釈するという執筆法にボイルは批判的だったことは、この引用からよくわかる。
このカルネアデスの発言にテミスティウスが続き、さらにエレウティウスが続くが、エレウティウスの発言もなかなかに興味深い。
「次に進む前に、カルネアデスさん、ひとつ短い質問をさせて下さい。その回答は、あなた方の間の論争の状態をはっきりさせるのに必要だとは言わないまでも、有用だと思われるからです。というのは、一般に受容されている意見、すなわち冷は実定的質だということを否定することと、冷は熱の欠如に過ぎないと主張することは別のことだからです。もしカルネアデスさんが後者の意見だとすれば、冷が否定的な存在に過ぎないことを証明する実定的論拠を示さなければなりません。」(ibid.)草稿。
ボイルの草稿をハンターに従って、まとめておこう。NewRBW, 13, Introductory Notes第1セクション:モラリストの時代のボイルの草稿。ただし、ハーウッドが出版したもの(『倫理原論』Ethical Element)は除く。1640年代の執筆。
第2セクション:1650年代前半。ボイルが科学と学問に目覚めて最初のまとまった書き物。
1「自然の書物の研究について」:モラリストの時期のものに一部重なる。pp.145-172
2「聖書のついてのエッセイ」:後に、内容はばらばらにされて『聖書のスタイル』(1661)の材料となる。pp.173-224
3「原子論哲学について」pp.225-236第3セクション:1650年代後半。オクスフォード時代の草稿。ボイルの思想形成にとって非常に重要な時期のもの。
「毒について」pp.237-258
「熱と炎に関する対話」ならびに「よい仮説の条件」pp.259-272
「自然発生について」pp.273-288『自然哲学の有用性』(1663)に関わる草稿。
『有用性』のオリジナル・バージョンのセクション, pp.289-318
『有用性』第2部第2章(1671)に関するエッセイのテキストと断片,pp.319-362第5セクション:石化と鉱物学に関する論考
「鉱物の生成に関する思考と観察」pp.363-376
「石化汁の存在について」pp.377-402
「大気に影響しうる地下の蒸気について」pp.403-424NewRBW, 14,
第6セクション:『質の機械的起源』に関する資料
「光の機械的産出に関する実験ノート」sections 1-3、pp.3ff.
「炎に関する論考」pp.55ff.
「展性と堅性の機械的産出に関するノート」pp.63ff.第7セクション:さまざまな科学的論考
「27番目のセクションに関するノート」pp.75ff.
「物体の表面の孔に依存する様々な現象」pp.89ff.
「水のインチについて」pp.109ff.
「地球の磁気の本性と効果に関する論説」
「スズの自然誌のためのメモワール」第8セクション:『自然の観念』と『目的因』に関する論考
『自然の観念』(1686)に対するポストスクリプトと出版物からは除去された資料, pp145ff.
『目的因』(1688)の補遺, pp.165ff.第9セクション:人間理性の限界に関する対話と神学的論考
「キリスト教はいかに理性に合致するのか」pp.173ff.
「人間悟性の弱さがその生まれつきの光に明かされる」pp.219ff.
「宗教の多様性について」pp.235ff.
「ヘンリー・オルデンバーグ宛の手紙」pp.265ff.
「私の神学的ノートに対する序」pp.277ff.第10セクション:晩年の医学的著作
「ロバート・ボイルに伝えられた医学的処方」に対する序文, pp285ff.
「メディキーナ・クロマティカ」のセクション, pp.317ff.[Magnen in GoogleBook]
Magnen, Jean Chrysostome
Democritus reviviscens
Leiden, 1648Magnen, Jean Chrysostome
Democritus reviviscens s. Vita et Philosophia Democriti
London, 1658Magnen, Jean Chrysostome
Democritus reviviscens: sive vita et philosophia Democriti
Editio Ultima, Hagae-Comitis, 1658Magnen, Jean Chrysostome
Exercitationes de Tabaco (et de Manna)
1658Magnen, Jean Chrysostome
De tabaco exercitationes quatuordecim
Editio Ultima, Hagae-Comitis, 1658ディグビーの著作もリストアップしておきましょう。
Digby, Kenelm
The closet of the eminently learned Sir Kenelme Digbie Kt. opened whereby is discovered several ways for making of metheglin, sider, cherry-wine, &c. : together with excellent directions for cookery, as also for preserving, conserving, candying, &c.
London, 1669, 1671Digby, Kenelm
An ansvver to the declaration of the House of Commons of the 11. of February 1647 In which they expresse the reasons for their resolutions for making no more addresses, nor receaving any from His Majesty. Digby, Kenelm, Sir, 1603-1665.
[Paris? : s.n.], 1648.Digby, Kenelm
Choice and experimented receipts in physick and chirurgery as also cordial and distilled waters and spirits, perfumes, and other curiosities
London, 1668, 1675Digby, Kenelm
Chymical secrets and rare experiments in physick & philosophy with figures
London, 1683Digby, Kenelm
A conference with a lady about choice of religion
Paris, 1638Digby, Kenelm
Of the sympathetick powder a discourse in a solemn assembly at Montpellie
London, 1669Digby, Kenelm
A late discourse made in a solemne assembly of nobles and learned men at Montpellier in France
London, 1658Digby, Kenelm
The history of generation examining the several opinions of divers authors, especially that of Sir Kenelm Digby, in his discourse of bodies : with a general relation of the manner of generation, as well in plants as animals
London, 1651Digby, Kenelm
A discourse concerning infallibility in religion
Paris, 1652Digby, Kenelm
Journal of a voyage into the Mediterranean by Sir Kenelm Digby, A.D. 1628
Digby, Kenelm
Observations vpon Religio medici
London, 1643Digby, Kenelm
Of bodies, and of mans soul. To discover the immortality of reasonable souls. With two discourses Of the powder of sympathy, and Of the vegetation of plants ...
London, 1669Digby, Kenelm
Two treatises in the one of which, the nature of bodies : in the other, the nature of mans soul is looked into in way of discovery of the immortality of reasonable souls
Paris, 1644, London, 1645, 1658, 1665,
ほぼそろって7時前。曇り。おおきちびの熱はまだ下がっていませんが、本人はわりと元気です。夜はまっかな顔をして寝ていました。38度5分ぐらいまで上がったようです。ちいさいちびにもすこし疲れがあるようですが、とりあえず元気。幼稚園児はまだすっきり回復というわけにはいかないようです。修正稿を編者の方の送り出しました。ひとつ肩の荷が下りました。
次に向かって、机の上の片づけを開始しました。実は、11月以来、今の私にとって一番大切な書類が行方不明となっていました。2004年の論文「ロバート・ボイルの読書/引用/執筆―ボイルのマージナリアの分析―」『東京外国語大学論集』第68号(2004),pp.129-151 の抜き刷りにその後の作業を書き込んでいたものです。次の作業ではこれが出発点になります。部屋中をかなり探し回ったのですが、なにぶん、迷い込むと14枚の紙を綴じただけのものです。砂浜のなかで砂粒を捜すような作業になります。捨てることはない、いつか出てくるだろうと途中で捜す作業を放棄していたのですが、肩の荷が下りた途端、そういえば、別の冊子に挟み込んでいるのではと思いつき、最初に手に取った冊子に実際に挟んでいました。
わかってしまえば、こういうものです。ぼちぼちと次の作業に移行します。
お昼過ぎに、次の荷物が届きました。
吉村壽次編集代表
『化学辞典 第2版』
森北出版、2009。(初版、1981)
1716頁、25,200円の重い本です。ちいさいちびと幼稚園児が二人で格闘していました。編集者に名を連ねる梶さんからの依頼で、いくつか項目を執筆しています。もちろん、化学についてではなく、17世紀の化学者についてです。
→記憶がなかったので調べてみました。2003年に最終原稿を提出しています。書いたのは、6名、グラウバー、ボイル、ニュートン、シュタール、プリーストリー、シェーレ、です。
ひとり遅れて7時過ぎ。子どもたちは全員起きていました。ちいさいちびも今日から学校です。久しぶりとなります。いつも通り、7時55分に二人とも元気に出ていきました。ちいさいちびはすこし疲れて帰ってくるかもしれません。
→ちいさいちびは元気に帰ってきました。幼稚園児がまたまた3時半頃になると眠そうな顔をしています。何とか妻がお風呂にだけは入れさせました。5時前に就寝。
何と、おおきいちびが帰ってきて疲れた顔をしています。夕食の前後で、熱を計ると、37度9分。すぐに冷えピタをして布団に入らせました。
原稿ですが、昨夜家族全員が寝静まってから、全体を通して、チェックしました。意外な見落としがいくつか見つかりました。迷っていた点に関しては、気持ちが定まりました。
→朝のうちに、昨日チェックした箇所を原稿に反映しました。段落分けの改行が落ちていた箇所をまた見つけました。[ドニ・パパン Denis Papin (1647-1712?)]
グーグルブックに次の4点がありました。ガリカにある2点はずっと前にダウンロードしています。Papin, Denis
La manilere d'amolir les Os
Amsterdam, 1688Papin, Denis
Recueil de diverses pieces touchant quelques nouvelles machines
Cassell, 1695Papin, Denis
Nouvelle maniere pour lever l'eau par la force du feu
Cassell, 1707Papin, Denis
Nouvelle manièe pour lever l'eau par la force du feu mise en lumièe
Jean Gaspard Voguel, 1707Papin, Denis
Ars Nova Ad Aquam Ignis Adminiculo Efficacissime Elevandam
Leipzig, 1707
HAB
以上、グーグルにある4点とハブにある1点です。
他の出版物もできるだけ上げておきます。Papin, Denis
A New Digester Or Engine for Softning Bones - Containing the Description of Its Make and Use in These Particulars : Viz. Cookery, Voyages at Sea, Confectionary, Making of Drinks, Chymistry, and Dying : with an Account of the Price a Good Big Engine Will Cost, and of the Profit it Will Afford
London, 1681Papin, Denis
Nouvelles experiences du vuide avec la description des machines qui servent à les faire.
Paris : Chez J. Cusson, 1674.Papin, Denis
Traité de plusieurs nouvelles machines et inventions extraordinaires sur differents sujets.
1698Robert Boyle and Papin, Denis
Experimentorum novorum physico-mechanicorum continuatio secunda : in qua experimenta varia tum in aere compresso, tum in factitio, instituta, circa ignem, animalia, &c. una cum descriptione machinarum continentur
1682Robert Boyle and Papin, Denis
A continuation of New experiments physico-mechanical : touching the spring and weight of the air, and their effects. The second part wherein are contained divers experiments made both in compressed and also in factitious air, about fire, animals, &c. Together with a description of the engines wherein they were made
1682Papin, Denis
A continuation of The new digester of bones: it's improvements and new uses it hath been applyed to, both for sea and land : together with some improvements and new uses of the air pump, tryed both in England and in Italy
1687Papin, Denis
Fasciculus dissertationum de novis quibusdam machinis : atque aliis argumentis philosophicis quorum seriem versa pagina exhibet
Marburgi Cattorum, 1695.さて、パパンとは誰か。普通は、圧力鍋や蒸気機関のひとつのもとを作ったユグノー科学者ということになるでしょう。生まれは、1647年、フランスのブロワの近く。カルヴィニストの家に生まれ、ナントの勅令の廃止(1685)にいたるフランスの宗教政策の影響と強く受け、実際にナントの勅令が廃止される以前から、亡命者となっていた。学位は、アンジェーで医学博士号(1669)。普通の伝記からは医師の姿はほとんど見えないが、学位を取った後、1〜2年間、アンジェーで開業していた模様。しかし、その後は医学とはほぼ縁を切っている。
ウェストフォールは、「パパンをどうカテゴライズすべきか難しい」と表現しています。そして、パパンは、理論的科学者というよりもむしろ発明家である、と続けています。
1671年から4年にかけて、クリスチャン・ホイヘンスの助手となり、ホイヘンスの部屋に寄寓した。
1675年、ホイヘンスの紹介状を携えて、英国に渡り、しばらくは名前の知られていないジェントリーの子弟の家庭教師となり、次いで、ボイルの助手となる。1675年〜9年。1679年から81年にかけては、王立協会のフックの助手となる。サラリーが20ポンド。
次いで、イタリア。アンボロゼ・サロッティの科学アカデミーの実験管理者となる。1681年〜4年。しかし、このアカデミーが財政的に破綻したあと、英国に戻る。
1684年〜7年、王立協会の実験責任者(curator)となる。サラリーが30ポンド。
ヘッセ−カッセル方伯のCharles-Auguste が彼をマールブルク大学の数学教授に任命する。1687年〜95年。とても不幸な体験だったとあります。1696年から1707年にかけては、ヘッセ−カッセル方伯の顧問官としてカッセルで暮らすが、方伯以外の全員が彼を敵視したとあります。
1707年英国に戻ってきて、王立協会からわずかのサラリーを受け、絶対的貧窮のうちに亡くなった。
たしかに、分類が難しい人です。医学博士号を取得した大学出の医師ですが、医師としたの活動はほとんどしていません。わたり技師、のような職業形態です。技術者として有能であったことに間違いありませんが、科学者と呼ぶべきかどうかは難しいところです。ウェストフォールが言うとおり、かなり興味深い事例です。ウェストフォールの結論は、(科学が成熟する前の)時が満ちる前の産業科学者 industrial scientist というものです。エジソンなんかに比べるのが、やはり落ち着く。
→つらつら考えて、現在であれば、工学部教授というふうにみればよいのではと思いつきました。もっとシンボリカルに表現すれば、MIT 教授、といってもよいでしょう。工学部が制度化されるのは、19世紀の最後の最後となります。17世紀において、フックやパパンのような学者には、公的に定まったポジションがなかったということです。
幼稚園児はたぶん6時前後。私は6時40分。ちびどもは7時過ぎ。気温がひどく下がったというわけではありませんが、空気が冬の朝。
わが家はインフルエンザの一週間が明けて、正常化に動き出します。
おおきいちびは、今日から普通に学校です。ちいさいちびは、まずお医者さん。妻に連れられて、すこし遠くのお医者さんまで行ってきました。ごくわずかにウィルスが残っているが、明日から登校して大丈夫という判断でした。幼稚園児はどうでしょう。今日の様子によります。せめて6時とか7時ぐらいまでは起きていてほしいのですが、さてどうなることでしょう。
私は昨夜からはじめた原稿の見直し作業ですが、一応、全体にわたりました。赤字の部分に関しては、何らかの回答を用意しました。それから、学会関係の用件で郵便局から雑誌を2冊送付しました。体力的には、これで一休みといったところです。
夜になって、図版の処理まですませました。あと一箇所処理をどうしようか気持ちが決まらない箇所があります。これを決めたら、もういちど細部を見直して、一度完成としようと思っています。幼稚園児ですが、ほんとうに久しぶりにお風呂。寝てしまうことを危惧した妻が、おやつの時刻にお風呂をいれ、ちいさいちびといっしょに入浴させました。最近は、ちいさいちびがいっしょにはいって幼稚園児のお風呂の面倒を見てくれます。親としてはこういうのがけっこうたすかります。
もうすこしもつかとおもったら、4時半ぐらいに寝室に向かいました。5時前には寝付いたということです。これで次の日の朝まで寝続けるわけですから、赤ん坊よりもよく寝ることとなります。(赤ん坊もよく寝ますが、長く寝続けることができません。お腹がすくせいです。)おおきいちびは全く問題ないようです。ちいさいちびも咳はすこし残っていますが、まあ大丈夫でしょう。親は体力が回復していません。幼稚園児ももうちょいのようです。
[Flu Week] 6時40分。ちびどもはすぐに起きてきました。まったく寝起きの呆然とした顔。昨日の昼寝からそのまま寝続けた幼稚園児は、たぶん6時前後でしょうか、さすがにいくらか回復した顔をしています。全員が病み上がり。雨上がりの晴れ。わが家のようです。ちびどもはほぼ回復しています。幼稚園児ももう熱は出ていません。しかし、まだ体力は回復していないようです。今日も4時に寝てしまいました。明日の朝まで寝続けるでしょう。妻は、こんなによく寝る子ははじめてだと言っています。たしかに。熱は引いたのに、これだけ寝ることができるのは、幼い子どもだからです。
私の方も、明日からは普通に行動できそうです。→私を除く全員が寝静まってから、インフルエンザの間中断していた仕事を再開しました。提出した原稿に対する編集者の方の赤入れと注記が丁寧で感激しています。何度目を通しても自分では気付かなかったタイプミス(頭のなかに正しいスペルがあり、手もそのように入力したつもりになっていて、読むときにもそれを読んでしまい、現実に打ち出されている文字が違っていることに目が止まらない)がカタカナに複数ありました。この辺りは、他者の助けが必要です。
それにたぶん私がワードに慣れていないせいで、ちょっと不思議なこと(段落分けが消えて文章が続いてしまう)が生じていましたが、それにもほぼ的確に対応してくれていました。感謝です。
[Flu Week] 5日(土曜日)午前9時半に以下を記しています。
12月2日に「私も風邪です」ですと書いてすぐ後、熱が出て、ダウン。熱は37.7度だったので、それほど高いものではなかったのですが、頭痛がひどくて起きあがれません。2日間、ほぼ寝続けました。起きた時間は、初日に10分間、2日目に15分間ぐらいです。最初の日は、リンゴを数切れだけ、2日目は、リンゴとおかゆだけ食しました。そして、わたくしがダウンして、2日目にとうとうちいさいちびも発熱。37度半ばなので熱はたいしたことがありませんが、咳がひどい。
幼稚園児は、熱が下がってはまた上がるを繰り返しました。39度を超えること4度。
こうして、全員がインフルエンザに罹ってしまいました。わたくしの快復には、土・日がかかる感じです。
3日間にたまったメールが150通。大半は、ジャンクメールと不要メールですが、仕分けに時間がかかります。来年度の業務にかかわる1通のみ、返事をしました。
もう1通、問い合わせるべき用件がありますが、それは明日にでも回そうと思います。おやつの時刻に、新しい『化学史研究』が届きました。第36巻(2009)の第4号です。私の次の特集原稿が掲載されています。
[シリーズ:18世紀の化学の諸相]
吉本秀之「18世紀ドイツの化学:歴史記述の問題」
『化学史研究』第36巻(2009): 225-235
基本的には、フフバウアーとクラインの研究に基づくレヴューですが、科学史家であれば読んでもらってよい論考であると思っています。元気になったら pdf を作成しておきます。ご請求があれば、メールに添付してお送りします。
[Flu Week] 幼稚園児はさすがにはやく起きました。5時半。われわれには早すぎますが、仕方ありません。熱はすっかり下がりました。しかし、咳が残っています。私にも咳がでるようになりました。フルかもしれませんし、乾燥のせいかもしれません。ちびどもはゆっくり起きてきました。ちいさいちびも咳をします。症状があまり出ていないだけで全員が罹っているのかもしれません。私自身も、体感としては、風邪の初期症状です。熱はでていませんが、ほんとうにすぐに疲れます。
熱は出ていませんが、私も風邪です。はっきりといつ頃からはわかりませんが、最近の私の風邪はこういう形をとります。熱を出して寝込むことはほとんどないが、起きてちゃんと仕事ができる時間が非常に短くなる、というものです。決まった時間の範囲に収まれば、外での仕事もできます。ただし、(日本の会議ではありがちなことですが)だらだらとのびてしまうと、わたくしがのびてしまいます。
[Flu Week] 幼稚園児は、苦しいのでしょう、夜中中、断続的に目覚めて、泣いていました。目覚めておちゃを飲むを繰り返しました。私は、6時。ちびどもは、まだよく寝ています。わおー、幼稚園児の熱は朝になっても下がりません。また冷たいのを嫌がります。そして、妻も発熱。普通の風邪なのか、インフルなのかはわかりません。おおきいちびは、朝目覚めたときには平熱でしたが、お昼前には、37度5分。
わが家で、風邪にかかっていないのは、ちいさいちびと私だけになりました。ちいさいちびは、前の風邪がもしかしたら、インフルだったのかもしれません。
あまりに高熱だとゆっくりと眠れないようです。幼稚園児は、昨夜からずっと39度台が続き、寝たり起きたりを繰り返していましたが、お昼過ぎにやっと38度台まで下がりました。おお、1時半から今度は爆睡。そのまま翌朝まで寝るのではないかと思われます。結局軽く済んだおおきいちびと元気なちいさいちびが、夕食時に、なお、いつおきてくるの? と質問にきましたが、ちびどもが就寝する時刻までには、起きる気配がまったくありませんでした。これだけ寝ると、さすがに明日には(仮にまた熱が出てとしても)かなり軽くなっているでしょう。
熱が38度を超えた妻も、幼稚園児といっしょに寝ています。
11月のシンポジウムの日にとってきた次の論文を読みました。
Steven Shapin, "Who was Robert Hooke?," in Michael Hunter and Simon Schaffer (eds.), Robert Hooke: New Studies, Woodbridge: The Boyldell Press, 1989, pp.253-286
私が読むべき論文です。シャイピンは、文がもうすこし短いとよいなと思うのですが、これは私の関心にぴったりです。フックの社会的地位ですが、特有の両義性があります。基本的には、メカニック(機械工、機械を扱う職人)ですが、ジェントルマン=自然哲学者の仲間入りも果たします。すなわち、王立協会でいえば、正規のF.R.S. (王立協会会員)にも選出されます。しかし、会費を免除される等、会から仕事として実験を命じられる実験管理人(キュレーター)であった過去がすぐに消えるわけでもなく、同僚のF.R.S. からほんとうに同等と扱われたわけでもありません。オルデンバーグのあと、事務局長(Secretary)の地位に選出されますが、冗談好きの会長に「もっと高い椅子が必要でしょう。」とからかわれるなど、扱いに不満があったようです。
ロンドン大火のあと建築家としてずいぶん稼いだようです。長持のなかの金庫にもう一生送ることができるほどのお金を蓄えたとあります。しかし、社会的出自とフック自身の性格があいまって、お金には非常に細かく、びっくりするほど正確にきちんとお金の貸し借りを日記に記しています。(経済史の観点からは、フックの日記は非常に貴重な資料ということになります。ボイルの作業日誌にはお金の話はまず出てきませんから、ものの動きをつかまえるためには、フックの日記が役に立つことになります。)
しかも、特許や発明がかかわる技術的情報に非常に敏感で、細心の注意を払って、同僚たちにも隠していたようです。オルデンバーグと仲が悪かったフック側の理由は、オルデンバーグにイノヴェーション・技術的発明・特許に関する感覚がなく、すぐに海外の通信相手にばらしてしまうせいだったようです。(自然哲学の情報であれば、オルデンバーグの行為に何の問題もないのですが、職人・技師の立場からは「産業スパイ」に見えたようです。)
切り口に納得のいかない点はあるのですが、シャイピンは力のある歴史家です。切り取り方と見せ方がうまい。クーンへの批判が必要なように、シェイピンへの批判も必要です。
同時に、エスピーナスの『ロバート・フック』(国文社、1999)も読み始めました。このホームページのスタートは、2007年11月でした。干支を一回りしたことになります。日記のページは、ブログにしようかなという気持ちはあるのですが、なんとはなしに、昔のままにしています。
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