ひとり遅れて6時35分。ちびどもは6時20分に起きました。雨。また雨。台風に繋がっている雲からの雨。昨夜ちびどもがすぐにすやすや寝付いてから、明日の会議の準備を始めました。これまでに十数通のメールを出しました。すぐに返事をくれる方が、ざっと見積もって、1割から2割います。すぐに返事をくれる方は、原則、もっともしっかりと仕事をする方です。全部片が付いたわけではありませんが、おおよそ目処はついたと思います。
→結局、今日の夜までに、この件に関して、22通のメールを出しました。何通かまだ返事の来ていないものがありますが、よしとするに足だけの返事が来ました。夕食後休んでいる間に、次の本が届きました。
J. J. Macintosh ed.,
The Excellencies of Robert Boyle
Ontario: Broadview Press, 2008
ボイルの2著、The Exellency of Theology, Compared to Natural Philosophy, About the Excellency and Gronds of the Mechanical Hypothesis &その解説を付したものです。ディズニーから帰ってくると、『スピノザーナ』の最新号すなわち2008年号が届いていました。特集1「誌上ミニ・シンポジウム:17世紀人文学とスピノザ」が感動的です。
久保正彰「ヤコブス・ホイエル(1651-1689) とホメロス研究」
上野修「ホイエルをめぐる三人に人物とスピノザ」
手島勲矢「スピノザの聖書解釈の特異性について―16・17世紀のクリスチャン・ヘブライストとの関係で」そもそも「人文学」に関心がある方であれば、どなたが読んでも面白い、感動的な内容を含んでいると思います。
→久保正彰さんは、もちろん、あの久保正彰さんです。ウェブから便利な記述を拾えば、「東京大学の古典学の最初の教授は久保正彰氏である。彼は、ハーバード大学の古典学科を卒業し、東京大学に古典学科を作った」人です。昨年の10月77歳で日本学士院長に選出されています。ですから、今年は78歳。
この論文の仕事は、1994年ブリュッセルの古書店でヤコブス・ホイエルの書き込みのあるホメロスに出会ったことから始まっています。つまり、14年前、彼が64歳のとき。東大教授だったわけですから、東大退官後わりとすぐあと、ということになるかと思います。→次の一連の久保氏の仕事は、東大退官後の仕事です。
久保正彰「ブリンク教授の蔵書」
『図書』628(2001): 14-17久保正彰「ヤコブス・ホイエル(Jacobus Goyer, 1651-1689)とホメロス研究」
『日本學士院紀要』57(3)(2003): 235-271, 275-272久保正彰「ホメロスの流れに竿さして」
『日本ギリシャ協会会報』No.113(2006): 3-7久保正彰「ヤコブス・ホイエル(1651-1689)とホメロス研究--「船のカタログ」を中心に」
『西洋古典学研究』通号55(2007): 1-23
( CiNii でpdf がダウンロードできます。『スピノザーナ』の入手が難しい方はまずこちらを読まれるとよいでしょう。だいたいのところは、この論考でわかります。)久保正彰「ヤコブス・ホイエル(Jacobus Goyer, 1651-1689)とホメロス研究(承前)」
『日本學士院紀要』61(2)(2007): 45-64久保正彰「人文学のめざめ--ヤコブス・ホイエルのホメロス研究を中心に (日本学士院・大韓民国学術院学術共同事業 第2回日韓学術フォーラム報告)」
『日本學士院紀要』62(3)(2008): 22-25古典学者としての久保氏の代表的著作は次のあたりでしょうか。
久保正彰
『ギリシァ・ラテン文学研究 : 叙述技法を中心に』
岩波書店, 1992久保正彰
『Ovidiana : ギリシャ・ローマ神話の周辺』
青土社, 1978久保正彰
『ギリシァ思想の素地 : ヘシオドスと叙事詩』
岩波書店, 1973
あかんぼうに続き、7時前。曇り。昨日の疲れは残っていません。大丈夫です。
朝の片づけものをしているうちに雨。天気予報の通りでした。疲れもあり、急激に気温が下がったせいもあり、みんな少しずつ風邪気味。今日はゆっくり休ませます。ディズニーの経済規模。
昨日昼寝をしているあかんぼうを見ながら2時間座っているときに、通り過ぎゆく人の数に感動し、この場所ひとつで1日に1億以上のお金が動いているのだな、と思いつきました。
ざっと調べてみると、ディズニーランドとディズニーシーの入場者数は、21世紀のはじめのあたりで、年間2億2千万人。1日平均で6万人強。仮に大人:子どもの比が2:1だとし、簡単のために大人の入場料を5千円、子どもの入場料を3.5千円で計算すると、1日に2億7千万円になります。
昨日のような日には、10万人を超えているでしょう。そうすると、ざっと見積もって5億円前後のお金が動くこととなります。(園内での、飲食、買い物は計算していません。)
あかんぼうに続き、6時過ぎ。昨夜ちびどもには今日は起こさないでと言われています。さすがによく寝ています。曇り。あと1週間先に迫ったちいさいちびの誕生日のプレゼントですが、私の誕生日プレゼント、あかんぼうの誕生日プレゼントもまとめて、ディズニーランドに行くこととなりました。運動会の振替休日の月曜日が最適ですが、雨の予報。ちいさいちびと相談して、急遽今日行くこととなりました。
妻がおむすびを作り、ささっと準備して、出発しました。8時37分発の東西線に間に合いました。浦安まで行ってタクシーというパターンです。
運転手さんによれば、朝開場のときの混雑はすごかったということです。我々と同様、運動会の翌日ということで来ている家族連れが多いということです。
実は、私は、50を直前にして、ディズニーランドははじめてです。込み具合の判断はつきません。チケット売場では6人待ちました。中に入場したあとの妻の言葉では、日曜日にしては空いている方。私にはとても空いているとは見えませんが、混むときにはほんとうに混むのでしょう。
バズライトイヤー、カーレース、スペースシップと回って、お昼ご飯。子どもたちは、それぞれ首からかけるポップコーンを買ってもらって大満足。いちばんうれしかったのは、あかんぼうです。待ち時間は、それぞれ、45分、15分、40分。まずまずだそうです。
午後も、1時間待って5分というパターンでまわりながら、ピノキオ、ピーターパンと来たところで、あかんぼうが限界。ピノキオは、ちびどもと私の3人だけで並びました。あかんぼうはベビーカーでお昼寝のための散歩。ピーターパンに乗り込む直前に、ベビーカーの上で昼寝をしているあかんぼうと妻の姿を確認できました。
終わって一休みと思ったら、ちいさいちびがまだ乗りたいというので、今度はちびどもと妻で、大人気にスペースマウンテンへ。私は、昼寝をしているあかんぼうを見ながらただ植え込みの石の上に座っていました。途中で妻から電話。2時間待つことになる、という報告。2時半に就寝したあかんぼうは、4時過ぎのパレードの音にはびくともせず、これだけ休めば大丈夫という時間の5時前に起きました。ちびどもが帰ってきたのは、5時10分。怖かった、というのがちびどもの感想。妻は待ち時間で疲れ果てていました。
暖かい場所で休もうということで、入り口近くのレストランへ。ちいさいちびは、前に来たときのことを記憶していました。同じ外のテラスの一番端っこの席を取りました。ハンバーガーを人数分買ってきて夕食。
親はもう帰りたかったのですが、ちいさいちびが帰りたがりません。6時、すっかり暗くなっています。シンデレラ城のイルミネーションを見て、写真を撮らせました。昼寝をしたあかんぼうはすっかり回復して、走り回っています。
ちいさいちびは、プレゼントを1個買ってあげるという言葉で説得して、エントランスに近いショッピングモールへ。結局、あかんぼうも欲しがり、二人して光る棒を買いました。
8時帰宅。
ちびどもといっしょに6時20分。曇り。気温がうんと下がりました。今日はちびどもの運動会。朝のうちに太陽の光が射し込んできました。ただし、強い風が吹きます。
ちびどもはいつも通りの時間に、われわれ応援団は、8時半頃家を出ました。あかんぼうははじまって15分で飽きてしまいました。仕方がないので、妻が残り、私が遊びに連れていくこととしました。おもちゃとこ、おもちゃとこに行きたいと言います。ともあれ、電車に乗せることとしました。プラットフォームに立って、どっち行きたいと聞くと、荻窪方面を指しました。ということで、電車に乗って、荻窪へ。
荻窪のルミネ(セイユウ)のなかはもうけっこう覚えているようです。結局、屋上の子どもの遊び場へ。滑り台もその他の遊具ももう自分で遊べます。
ひとしきり遊んだあと、うまく話をつけて、小学校に帰ってきました。なにかで時間が伸びておしているようです。
あかんぼうは今度は校庭のすみっこで遊んでいます。12時頃、昼食。ちびどもにはお弁当を渡し、われわれは近所のコンビニにおむすびを買いにでかけました。あかんぼうがおうちかえらない、というので、結局小学校に戻り、体育館の端っこの階段のところで食べることとしました。あかんぼうには、おねえちゃんにあわせて、お弁当を作ってきています。遊んできておなかがすいたのでしょう、わりとよく食べました。
昼食後は、場所を校庭の反対方向に移動。あかんぼうは、ちっちゃいこが2〜3人遊んでいるなかに、勝手に参加しています。あかんぼうはそういう性格です。とくにおにいちゃんがお気に入りで、おにいちゃんたちが遊んでいると勝手になかまに参加します。遊んでくれる場合もありますし、相手にされない場合もあります。
たぶん、小学校の卒業生の(つまり父兄の一員)高校生ぐらいのお兄さんが来ていました。そのお兄さん2人がそこであそんでいるちびどもをまとめて遊んでくれました。あかんぼうはもう絶好調。2回ほど転んで顔に怪我をしましたが、まったく気にとめません。午後はずっと遊んでもらっていました。
2時40分頃に運動会は終了。もう帰ろうと言っても、帰りたがりません。そのお兄さんにくっついています。しかし、よく遊んだせいで明らかにもう眠そうです。妻がえいやとベビーカーに乗せて、連れ帰りました。しばらく泣いていました。
ちゃんと終了を確認してから帰宅すると、あかんぼうはまだ帰っていません。15分ほどしてベビーカーの上で昼寝して帰ってきました。
ちびどもは3時半過ぎに順番に帰ってきました。
ちびどもといっしょに6時15分。曇り。昨日と同じく、雨が降るのか降らないのかわからない曇り。昨夜から頭痛があります。気温の上下に身体がついていけていないのかもしれません。朝一番で予約してあった歯医者さんには行きましたが、その他の用事はあとまわしにせざるをえません。
ちびどもといっしょに6時過ぎ。涼しい。むしろすこし寒いぐらいです。雨が降るのか降らないのかわからない曇り空。今日も午後は会議。
昼食後すぐにでかけました。まず、昨日閉まっていた図書館へ。次の2点の論文のコピーをとりました。
浅井清
「グリフィス文庫の位相--W.E.グリフィスと明治日本」
『お茶の水女子大学人文科学紀要』通号43(1990): 67-81Ardath W. Burks & Jerome Cooperman,
"The William Elliot Griffis Collection",
The Journal of Asian studies, Vo.20. No.1(1960), pp.62-69
会議が始まるまでに読み通しました。「グリフィス文庫の位相--W.E.グリフィスと明治日本」はタイトルから予想されるものとは違い、グリフィス文庫を主題にしているわけではなく、グリフィスの生涯をコンパクトにまとめた論考でした。私には有用でしたが、ほんとうは「グリフィス文庫」そのものについて知りたかった。
なお、浅井氏は、「コーネル大学所蔵のグリフィス・コレクション」を調査したとあります。そして、現在は、「オーリン図書館ワソン文庫」に保管されている、とあります。ラトガース大学の資料についても言及があります。個人的には、「ラトガース大学所蔵のグリフィス・コレクション」だと思っていました。そのあたりのこと(両コレクションは同一のものか違うものか等)は書かれていません。うーん、どうなのでしょうか?英文の研究ノート、"The William Elliot Griffis Collection"の方は、きちんと、「ラトガース大学所蔵のグリフィス・コレクション」の解説です。どういう資料があるのか、短く的確に紹介してくれています。ちょっと意外だったのが、グリフィスがアメリカにおける朝鮮事情の最初の専門家になったという記述です。1882年に、『コリア』という本を出版し、これが8版を数えた。ただし、朝鮮訪問は死の前年1927年がはじめてだったとあります。
そうでしたか。興味深いところです。会議は、2時スタート。最初の会議は、3時半に終了。
次の会議は、3時45分スタートかと思ったら、4時スタート。5時10分前に終了しました。
ひとり遅れて7時半。秋晴れ。しかも、風が涼しい。9時半に歯医者。歯科衛生技師による清掃です。下の歯だけで30分かかりました。残りは、金曜日。
午後は3時から委員会。予定通り、3時〜4時半の1時間半ぴったりで終わりました。すこし打ち合わせをしてから、帰宅。
子どもたちを寝かしつけてから、ニュースステーションを見ていました。このつまらなさ、盛り上がりのなさはいったい何でしょう。妻は、あそうさんは軽すぎると言っていました。もちろん、番組のスタッフに熱意が欠けているということもあるのでしょう。
ひとり遅れて8時。秋分の日。久しぶりの快晴。気温も29度まで上がるという天気予報。とくにあかんぼうはずっと家のなかで力が余っています。公園に連れていくことにします。
→ちびどもの意見を聞いて、車で井の頭公園に行くこととしました。今日は祝日で人出が予想されます。9時過ぎに出発しました。
朝早かったのがよかったのでしょう、井の頭公園近くの駐車場が空いていました。ボート乗り場へ直行。しかし、ボートは10時からです。おおきいちびがひとりお団子を食べ、残りはただ待っていました。
久しぶりに外にでたあかんぼうが待てないようです。10時になって開いた途端、妻、ちいさいちび、あかんぼうの3人でブアタイプ(すなわち、足漕ぎボート)に乗り込みました。
私は、おおきいちびがお団子を食べ終わるのを待って、やはり足漕ぎボートへ。30分で600円。
25分あまりで帰ってきました。ちびどもはアイスクリームを食べました。あかんぼうが興奮しています。ちいさいちびも口の中が痛いのかあまりしゃべりませんが、動物園に行きたいと言います。
では、ということで、動物園へ。
歩道橋を渡って動物園へ向かいました。さすがにかなりの人出です。公園、モルモット(本当はハムスター)コーナー、遊園地、お昼、カエルコーナーと回って、帰途へ。あかんぼうもちいさいちびももうすこし遊びたかったようですが、顔に疲れが出ていますし、駐車場料金も心配です。帰りは公園のなかを通らず、公園に接した道を通って、駐車場まで。妻は駐車場料金をかなり心配していましたが、1500円ですみました。
あかんぼうは、おうち帰らない、おうち帰らないと言っていましたが、ブアのところに行くとごまかして、帰宅。ちびどもと私が下車し、あかんぼうはもうしばらくドライブ。10分ほどで昼寝して帰ってきました。
しばらく休んでから、ちいさいちびは私の後ろ、おおきいちびは自分の自転車で駅の逆側の古本屋へ。コナン2冊(おおきいちび)、クレヨンしんちゃん2冊(ちいさいちび)、それに私は次の本を買ってすぐに帰ってきました。
[グリフィス文庫(The William Elliot Griffis Collection)]
梅渓昇
『お雇い外国人:明治日本の脇役たち』
講談社学術文庫、2007(日本経済新聞社、1965)
この本をぱっと見て、もっとも興味をそそられたのは、「はじめに―グリフィス文庫をたずねて」の部分です。グリフィスは、1870年来日、まずは福井藩の教育にあたり、ついで1872年から74年(アメリカに帰国)まで南校で理学、化学を教えています。 このあたりのことはさすがに知っていたのですが、アメリカに帰国後、お雇い外国人研究そのものをはじめ、アメリカにおける日本研究の中心人物となっています。そして、死後、その資料がラトガーズ大学に寄贈され、グリフィス文庫(The William Elliot Griffis Collection) となっている、とあります。
この部分に私は関心があります。すこし調べてみます。→ちゃんとマイクロ化されています。Adam Matthew Publications が発売し、日本では丸善が販売しています。(いまでも購入可能かもしれません。)
グリフィスのゆかりの地の福井大学が「グリフィス文庫:明治初期のお雇い外国人W.E.グリフィス関係複写資料」というのを所蔵しています。さらにすばらしいのは、電子化の作業が始まっていることです。完成したのかどうかは現時点ではわかりませんが、ラトガーズ大学に直接行かなくてもほとんどはよいことになります。
アルコールのせいで、4時。雨はまだ上がっていません。9月19日に発覚した事件のせいで、朝10時から説明会。実はそのまえに歯医者さんに予約しています。歯医者が終了次第、急いで駆けつけようと思います。
歯医者さんは、お医者さんの歯医者さんではなく、歯科衛生技師(でよいのでしょうか)による歯の清掃(?)。10時から説明会があるので、15分だけでお願いしますと言ったところ、歯の磨き方の説明のあと、下の前歯の歯石だけ取ってくれました。磨き方は実は知っています。でも、なかなかそういうふうにはできていないことがよくわかりました。
9時42分武蔵境発の電車。大学には9時50分過ぎに着きました。一度研究室に行って戻るのは面倒なので、そのまま大会議室に座って待っていました。入り口で、メディアに公表したという書類を受け取りました。着服した金額が1円単位まで出ていました。
隣になった同僚が、徴候はあるものだ、と話していました。まさに。
その後、研究室で仕事をしかけたのですが、睡眠不足がたたって眠くなってきました。駅前で沖縄そばを食べ、帰宅。帰宅してから、昼寝。咳がすこし出ます。身体も重い。
あかんぼうの手足口病はなおりつつあります。明日は公園に行く約束をしました。
ちいさいちびの方は、発病が遅かった分、なおるのも遅れています。ちいさいころの性格から、もうすこし外に出たがる子になるかと思ったのですが、調子の悪いときは完全に家ッコとなります。クレヨンしんちゃんを見たり、お絵かきをしたり。手足口病は、口のなかに発疹ができるのが一番辛いようです。あかんぼうもしばらくミルクを飲もうとしませんでした。ちいさいちびもほんとうに少しずつしか食べません。元気がないのも仕方なし。
7時17分に地震。地震と同時に目覚めました。ちびどももいっしょ。
階下に降りると、あかんぼうが熱を出して寝ていました。手足口病は、「心配のない病気」ですが、熱が出ることもあります。大丈夫かと思ったら、2日目で出ました。
朝方は曇り。今日は夕刻に編集委員会。4時から6時10分まで。
終了後、時間に余裕のある5人で食事会。久しぶりにビールとワイン。
10時過ぎに帰宅しました。
たぶんかさぶたをはがしたのでしょう、あかんぼうが唇から血を流していました。ちいさいちびもとうとう熱が出たようです。冷えピタを額にはって寝ていました。
雨。台風による雨。雨の多い9月です。7時過ぎ。起きて階下に降りると、あかんぼうがどうも手足口病にかかった模様です。昨日、昼寝をしているときほっぺがまっかに腫れていました。私は単純にジンマシンかと思ったのですが、手足口病あるいはその仲間の病気にかかっていたようです。
朝一番で小児科に行ってきました。やはり手足口病という診断です。かゆみ止め以外にとくに薬はないということです。
おや、口内炎、口内炎と言っていたちいさいちびもよく見ると手足口病でした。友達からもらったようです。
ふたりともまあ元気です。しかし、機嫌が悪くなりやすい。
→ひとり元気なおおきいちびがひまだと言います。駅の反対側の古本屋に連れていってやりました。買うのは決まって名探偵コナン。足が痛いといって動きたがらないちいさいちびのためにはクレヨンしんちゃん。ずっと捜していたのですが、やっと見つかりました。
その後、お餅や(西荻の有名なお餅やです)に寄って、(柔らかいお餅なら口のなかに発疹ができていても食べられるだろうと考え)おもちを買おうと思ったら、おはぎが売っています。忘れていました。今日は彼岸の入りです。来週の火曜日が秋分の日。
おはぎ6個入りのパックを買って帰りました。
ちびどもは黄粉が好きです。知らない間に早速食っていました。
私もおやつの時間に一番普通のおはぎを食しました。さすがに人が並んでいるだけあります。うまい。
作り方のこつとかまったくわかりませんが、とても上手に作っています。昨日の事件ですが、 今朝のアサヒにも出ていました。実名はなし、金額(約2368万円。約2370万円という報道もあります)は出ています。このあたりは、社の方針による差のようです。
ちびどもといっしょに6時前。雨模様。小雨が降っています。朝は、昨日の午後に続き「平成20年度メンタルヘルス研究協議会」。夕方、1年に1度の医科歯科の授業。
午前の「平成20年度メンタルヘルス研究協議会」は9時20分に開始し、ぴったり予定とおり12時半に終了しました。朝は実は頭痛があったのですが、終了頃に直りました。抱えている問題の共通性のせいだと思われますが、予想していたよりずっと有益な会合でした。
駅前の中華料理屋で、麻婆豆腐定食を食べてから、帰宅。帰り着く頃には引いていましたが、気温の割に蒸し暑く、参宮橋のプラットフォームでなかなか来ない小田急の普通を待っている間、かなり汗が出てきました。シャワーを浴び、いっぷくしてから、再度、御茶の水にでかけることになります。
5時前に出発。15分前に医科歯科に着きました。ちょうどよいでしょう。
寄り道をまったくせず、教室へ。学生はひとりだけ。10分経ってもやはりひとりだけ。雑談という手もあったのですが、今年はみんな遅れるということだったので、ともかく普通に授業を開始しました。しばらくしてもう一人。結局、最後は4人。これまでで最少。
途中で声がちょっとおかしくなりました。ずっと夏休みで、いきなり3時間の講義だと、リズムを保持しきれなかったようです。声には、意識してどうにかなる部分とどうにもならない部分があります。身体の方の疲れが声に来たようです。台風が近づいてきています。風はまだありませんが、雨足が強まりました。
著者の斎藤憲氏より次の本を頂きました。ご配慮いただき、ありがとうございます。
斎藤憲
『ユークリッド『原論』とは何か:二千年読みつがれた数学の古典』
岩波科学ライブラリー、岩波書店、2008、130頁、1200円
学長よりメール。何かと思ったら、次の事に関する報告とお詫びでした。(あとから英文の通知も来ました。)
学生後援会経理をめぐる不祥事に関する報告とお詫び(08.09.19掲載)
事務のことに詳しい方であれば、固有名もわかるのではないでしょうか。妻は、副学長がかわいそうだとコメント。朝の会議に来られないわけです。公表するということだったので、調べてみると、次のサイトにニュースがありました。
Kahoku Online Network の報道
年齢と金額が出ています。
隠しても仕方がないと思います。毎日に実名が出ていました。
ひとり遅れて、7時。もうすこし寝たかったのですが、あかんぼうの起こされました。ちびどもは6時前。昨夜から雨。今日明日は、「平成20年度メンタルヘルス研究協議会」に参加しなければなりません。独立行政法人 日本学生支援機構が主催します。場所は、代々木の国立オリンピック記念青少年総合センター。行ったことはありませんが、代々木公園の一角、参宮橋の方にあります。たぶん、昔、進駐軍のアメリカンスクールがあったあたりでしょう。
国立オリンピック記念青少年総合センターにははじめて行きました。小田急線の車内から同じ場所に行く方が目立ちました。全員ではありませんが、おおよそ雰囲気でわかります。参宮橋の駅を降りてからも、人の流れに着いていけば、目的地に着くことができました。建物がきれいです。いまさら遅いのですが、外語の新キャンパスもこういうふうにすればよかったという外観をしています。
私が着いたのが12時10分頃。550名が一同に会して、12時半から開会式と基調講演。2時半まで。
弁護士の川人博氏が「キャンパスから過重労働とハラスメントをなくすために―大学における基準作りに向けて―」という講演をされました。
よくわかる講演でした。移動時間を挟んで、14時50分から分科会。17時20分まで。
「女子学生が抱える問題」という分科会に割り当てられました。26名。
いろんな種類の大学の、多様な事例を聞くことができました。勉強になりました。存在形態の差による差はもちろんあるのですが、どの大学もほぼ共通の問題に悩まされていました。
司会のお二人は専門家です。有益なコメントを伺うことができました。
ひとり遅れて7時40分。疲れが出てきました。リレーの練習があると言って、おおきいちびは7時45分にでかけました。会議の日。朝から夕方まで、一日中会議。
大学院企画運営室会議:10時〜11時半。
大学院専攻会議:2時半〜3時。
大学院教授会:3時半〜5時10分。
ちびどもといっしょに6時半。昨夜も途中で雨が降ってきました。昨日の場合は小雨。[アントニオ・ネリ]
ちょっとした経緯があり、アントニオ・ネリについて調べています。ウィキペディア的に紹介すれば、Antonio Neri (1576 - 1614)は、L'arte vetraria(ガラスの術)(1612) を出版したことだけで有名なイタリアの司祭、ということになるでしょうか。
ここではまずウェストフォールのウェブでのまとめにより基本的事項を整理しておきましょう。
1576年2月29日フィレンツェに生まれる。おそらくピサまたはフィレンツェで1614年(38歳)に没している。
職業としては、医師、名前の知られていない父も医師であった。
教育:大学には行っていない。彼の受けた教育について詳細な情報はない。以前は、有名なイタリアのムラノ島でガラス製造術を習ったと言われていたが、Zecchinの研究はその説をほぼ否定した。ただし、どこかでガラス製造術と化学技術を習得し、低地地方で研究を続けた。
司祭に叙任されたのは、1601年以前。
ネリが歴史に名を残すのは、ただ1点、厳しいギルドの掟によって秘密が保持されていたガラス製造法の多くをはじめて印刷に付したL'arte vetraria (1612)という点だけである。
17世紀において彼は、錬金術師としても知られる。彼のパトロン、ドン・アントニオ・メディチも深く錬金術に関わった。(ドン・アントニオ・メディチは、おそらく貴族であろうが、彼の地位については曖昧さが残る。)ネリ自身は、スパギリストを称している。
1604年から11年にかけては、アントワープに滞在していた。ポルトガルの貴族の邸宅に住んだ。先行研究。
1. Luigi Zecchin, "Lettere a prete Neri," Vetro e silicati, 8 (1964), 17-20.
2. Luigi Zecchin, "Il libro di prete Neri," Vetro e silicati, 7 (1963), 17- 20.
3. J. Ferguson, Bibliotheca chemica, 2, (Glasgow, 1906), 134-5.以上のウェストフォールの記述により、ほんとうにわずかのことしかネリについてはわかっていないことがわかります。研究史も調べます。
ネリ原典
Neri, Antonio ,
L'Arte Vetraria
Firenze, 1612
この最初の版は、ガリカでダウンロードできます。イタリア語は、次の版も出版されています。次のサイトからダウンロードできます。http://fermi.imss.fi.it/rd/bdv?/bdviewer/bid=000000300905Neri, Antonio ,
L'Arte Vetraria
Firenze, 1661
英訳も出版されています。次の通り、(ボイルの強い勧めで)メレットが翻訳し、ボイルに献呈する形で出版されています。王立協会が本格始動する年です。もちろん、イーボでダウンロードできます。Neri, Antonio,
The art of glass
,translated into English by C. Merret
London, 1662
このメレットの翻訳版の影響・反響は大きかったようです。アンドレアス・フリジウスがこのメレットの英訳からラテン語訳を作り、出版します。Neri, Antonio ,
De art vitraria libri septem, & in eosdem Christoph. Merretti observationes & Notae
Amsterdam : A. Frisius, 1668.
本文455頁の本ですが、約半分、233 - 455 はメレットの注記の訳です。金紫(人造ルビー、すなわちルビーのようにきれいな赤色のガラス)の製造・販売で有名なヨハン・クンケルが、フリジウスのラテン語訳からドイツ語訳を行い、出版します。Ars vitraria experimentalis: Oder vollkommene Glasmacher-Kunst
Frankfurt and Leipzig, 1679さらにドルバックがこのクンケルドイツ語訳からフランス語訳したものを出版します。
Art de la Verrerie de Neri, Merret et Kunckel
translated into Fench by D'Holbach,
Paris,1752
そして、2007年、日本ガラス工芸学会がドルバックのフランス語版から邦訳を出版しています。
アントニオ・ネリ『ラルテ・ヴェトラリア : 17世紀初頭のガラス製造術』
日本ガラス工芸学会編 ; 黒川高明, 上松敏明監訳 ; 坂田浩伸, 池田まゆみ訳、 春風社, 2007日本における原典の所在。
邦訳はもちろんそれなりの数の図書館に所蔵されています。ポイントはドルバックまでのものがどれだけあるかですが、ウェブキャットでは1点もありません。
2001年にMichael Cable編でSociety of Glass Technologyから出版された版だけが入っています。これは、みじめと称すべき状況です。
(ウェブキャットにはかかりませんが、早稲田大学は、マイクロフィルムとして、フィレンツェ1612版、ヴェネチア1663版、英訳(1662)、フランス語訳(1752)を持っています。さらに、 フランス語訳(Paris : Durand [etc.], 1752)については、原本(中央 4F貴重書庫 KM 00899 特)を所有しています。すばらしい。早稲田1館で、ウェブキャットの全体に圧勝しています。もちろん、そのほとんどは、Goldsmiths'-Kress library of economic literature のマイクロフィルムシリーズを所持していることによります。ですから、ほんとうは、このマイクロフィルムシリーズを所持している一橋大学でも4つの版までは見ることができるわけです。)今回気になったのは、2次文献です。
はじめてガラス製造の秘密を公にしたという評価のある書物であれば、ちゃんとした研究が一定数出されれているに違いないと予想しました。
日本語では、まさにこういうテーマを扱っている、山本義隆『一六世紀文化革命』を繙いてみましたが、索引にも文献リストにもネリはありません。え、どうして?
17世紀の書物だから敢えて言及しなかったのでしょうか?
山本氏の依拠した次の2点の英語文献も見てみました。Pamela O. Long,
Openness, Secrecy, Authorship,
Johns Hopkins University Press, 2001William Eamon,
Science and the Secrets of Nature,
Princeton University Press, 1994わー、びっくり。どちらも、山本さんと同じです。索引にも文献リストにもまったネリは見あたりません。これは看過できない問題です。どうしたことでしょうか?
まだまだ十分な調査だとは言えませんが、この時点で、ネリは先行研究における大きな穴だと言えそうです。
(しばらくこの調査を続けます。)
6時。階下に降りると、あかんぼうは元気に遊んでいました。昨夜は、突然、強い雨が降ってきました。あわてて窓を閉めてまわりました。敬老の日。ちびどものピアノの発表会です。12時から4時。あかんぼうはいちばん邪魔な時期です。私がどこか別の場所に遊びに連れていきます。
→結局、10時過ぎに自転車の後ろにあかんぼうを乗せて出発しました。動物園に連れていこうと思います。中央線のガード下で、杉並区と武蔵野市が接している場所にある公園に途中下車。あかんぼうは公園につくといつもあっちに走りこっちに走りします。ひととおり遊んでから、再出発。
こどもを後ろに乗せて井の頭公園まででかけるのは久しぶりです。ちびどもが小さい頃には何度かでかけました。あかんぼうはやはり途中で公園をみかけると降りたがりますが、無視して、井の頭公園まで。自転車置き場にはまだそれほど並んでいませんでした。
左回りに大きく回ります。そして、遊園地へ。あかんぼうの大好きな新幹線は故障中でしたが、他の遊具に順番に乗っていきます。途中で近くのリス園が目に入りました。リスも見たいというので、リス園へ。それから、彫像を見て、お茶室にお邪魔しました。管理のおばさんとしばらく話してから、カエルの展示室へ。
あかんぼうはカエルより、端っこに飼われているネズミが気に入ったようです。ハツカネズミは、5ミリ程度のまっかでちいさなあかちゃんを育てていました。3センチぐらいの親が世話をしていました。これだけ小さいとはなかなか不思議です。
それから、普通の公園と同じく、滑り台やブランコがあるコーナーへ。しばらく滑り台で遊んでから、入り口の売店へ。団子1本、おむすび1個、やきそば1箱、それにお茶を買って昼食。あかんぼうは団子を一個囓ってから、おむすびを1個ほぼ食べきりました。ノリがとくに好きです。残ったものを私が平らげてから、ハムスターのコーナーへ。すなわち、2週目。
ハムスターはほとんど触りませんでした。私の膝の上に載せたハムスターを1〜2分程度見て、次行こう、でした。
遊園地のコーナーに来ると、やはり乗り物に乗りたがります。開店する飛行機とチューリップ型のカップ。私は実は回転するものが苦手ですが、仕方ありません。
これまでずっと小走りに走ってきています。疲れと眠さが見えます。まだ乗り物に乗りたがってのですが、これで終わり、というと、地面に座りこんで泣きます。しばらく泣かしたあと、抱っこで抱え上げ、自転車置き場へ。
あまり早く寝てもらっても困るのですが、自転車で動き出して、1〜2分のうちにうとうとしはじめました。そして、数分ですっかり寝入りました。頭が背中にくっついてきます。できるだけ車通りのない道を選んで帰りました。問題がないと思われたところでは、右手で後ろのあかんぼうの額を支えながら走りました。たまにすれ違った人から、笑い声が聞こえます。
やっと帰り着いたと思ったら一度目覚めました。5分ほどとんとんしてやると再び寝入りました。あー、やれ、やれ。
5時直前まですやすや。妻とちびどもは5時過ぎに帰ってきました。ちびどもはこれまでのなかで一番上手に弾けたということです。実質4時間半近くの発表会はこどもには長いようです。妻もかなり疲れていました。
ひとりで4時半。やはり考え事があるとはやく起きてしまいます。
4時半はまだ暗く、5時半ぐらいになると、早朝の雰囲気になってきます。つまり、もう夜ではなく、朝という明るさになります。
昨日、居間の室温は、時間の経過とともに、どんどん上がり、夜には31度になっていました。5時半現在で28度。外は25度程度までは下がっているように思われます。
と書いていた矢先に、小雨がちらつき、そして止みました。今日は雨模様。
→と思いきや、朝のうちに日射しが部屋のなかに。結局晴れました。
午前中は、妻が3人の子どもを原っぱ公園に連れていってくれました。落ち着いてデータの整理にあたることができました。おおよその見通しはつきました。
1時を回ってくると、どうもあかんぼうが眠くなっています。1時半ぐらいに自転車の後ろに乗せて、ミッキーを探しに行きました。近所をおおきくぐるーと回りました。建て売り住宅の販売が諸処にありました。そういう季節なのでしょうか。それとも、西荻近辺の状況なのでしょうか、そのあたりの事情は正確にはわかりませんが、週末に新聞に折り込まれる膨大なチラシを見ても、不動産(住宅と土地)の販売が活発化していることがはっきりと見て取れます。
よく見ると、最近の建て売り住宅は、ほとんど同じパターンに従っています。もうすこし多様性があった方がよいだろうに、と私には思われますが、業者の方はそう考えないようです。見事に同じような間取りで同じような雰囲気の建物を売っています。
どうも一番の売れ線というものが業界のなかにあり、ほとんどすべての業者が売れ線になびいているようです。(あるいは売れ線と違う独自のものを売り出す勇気がない、あるいは気持ちの余裕がない。)あかんぼうは寝たかと思って、帰宅すると、ふと目覚めて、ミッキーと泣きます。諦めて、もう1周。さすがに次はすぐに寝入りました。後ろに乗せていますが、だいたい感じでわかります。ちいさく回って帰宅。結局半時間ちかく自転車でぐるぐる回っていました。ちびどもの友達によく会いました。
本日の新聞から。朝5時半に新聞を読んでいる人間もそれほど多くないと思われます。すこしだけ紹介しておきます。
76例目の脳死判定。
9月13日、前橋赤十字病院で30代の女性が脳死と判定され、午後臓器が摘出された。日本では、76例目の脳死判定、75例目の脳死・臓器提供。
ウェブのアサヒは、サイエンスのコーナーをトップページからなくしてしまいました。ヨミウリは残していますが、最近は、脳死・臓器移植の話題はほとんど取り上げていません。「ひと」欄に、幻の元素「ニッポニウム」の正体を明らかにした化学者、吉原賢二さん(78) が取り上げられています。
7月の東工大での化学史学会で、吉原さんに与えられた「化学史学会学術賞」のことにも触れられています。
ちいさいちびといっしょに7時前。薄曇り。Miyasita Saburo, "A Bibliography of the Dutch medical books traslated into Japanese," Archives Internationales d'Histoire des Sciences, 25(1975): 8-72
昨日入手した上記の文献に目を通しました。文献表ですから、全部をしっかりと読んだわけではなく、解説の部分とひとまず宇田川榕庵に関係する部分のみチェックしました。よく出来ています。英語で書いていることから来るのでしょうが、シンプルでストレートな表現が気持ちよい。(歴史認識としてどこまで正確かについては、わかりません。)
大阪の杏雨書屋に保存されている榕菴の翻訳原稿(草稿)は、有用な情報です。こういう情報こそ、ウェブに掲載(?)するのにふさわしい。
ひとりで5時。すこし難しい考え事があったせいです。午後気温が上がりました。32度まで。さすがに日陰の部分では夏の暑さは感じませんが、電車での移動中にずいぶん汗をかきました。
朝、新聞を読んでいると、亀山学長の新訳『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫)が全5巻合わせて、100万部を突破したとあります。30日付の増刷で101万部に達するとあります。なにはともあれ、100万部突破はすごい。
図書館から連絡があったので、朝一番で大学へ。
武蔵境発8時42分に間に合いました。図書館は9時から。駅前のコンビニで少し買い物をし、メールボックスを見て、図書館の入り口に向かうと、ちょうどオープンするところでした。1点は、次の本が届きました。
L. Serrurier
Bibliotheque Japonaise : catalogue raisonne des livres et des manuscrits japonais enregistres a la Bibliotheque de l'Universite de Leyde
E.J. Brill, 1896もう1点は次の論文のコピー。
Miyasita Saburo, "A Bibliography of the Dutch medical books traslated into Japanese," Archives Internationales d'Histoire des Sciences, 25(1975): 8-72
宮下三郎氏の仕事です。L. Serrurier, Bibliotheque Japonaise(1896) をざっと見ました。19世紀末のこのフランス語の書物がすでに、『舎密開宗』の原本について、正しく、M. Henry, Chemie voor erstbeginnende liefhebbers, uit het englesch vertaald met de aanmerkingen van den J.B. Trommsdorff, Utigegeven door Adolphus Ypey, 2e druk. Amsterdam, 1806 とあげています。(pp.213-5.)
次いで、榕菴の利用した本について、次を列挙しています。便利さを考えて、以前と同じ数字を使います。(榕菴があげている順。)1.『葛氏舎密』
P.J. Kastelein,Chemische oefenigen voor de beminnaas der scheikunst in hte algemeen en de apothekers in 't bijzonder, 5 st. Amsterdam, 17832.『貌氏人身窮理篇』
J. F. Blumenbach,Grondbeginselen der Natuurkunde van den mensch tr. by G. J. wolff, Amsterdan, 17913.『布氏明液論』
**4.『舎密備要』
J.J. Plenck, Grondbeginselen der scheikunde, Amsterdam, 1803.5.『舎密原本』
A. S. Lavoisier, Grondbeginselen der scheikunde6.『依氏広義』 A. Ypey, Sijstematische handboek der beschouwende en werkdadige scheikunde 5 deelen , Amsterdam, 1804-1807
7.『合薬問答』
**8.『越列機療法』
W. van Barneveld, Over de geneeskundige electriciteit , Amsterdam, 17899.『三有小学』
**10.『薬舗指南』
K. G. Hagen, Onderwijs in de grondbeginselen der apotheek, Amsterdam, 178011.『大気修繕法』
L. B. Guiton Morveau, Verhandeling over de middelen om de lucht te zuiveren, Leiden, 180212.『合薬舎密』
J. B. Trommsdorff,Leerboek der artsennijmengkundige, proefondervindelijke scheikunde, tr. by N. C. Meppen, Amsterdam, 181513.『舎密翰海』
O. Segur, Brieven over de grondbeginselen der scheikunde, Rotterdam, 181114.『福烏多薬論』
H. J. van Houte,Handleiding tot de materies medica, Amsterdam, 181715.『理学初歩』
Isfording, Naturkundig handboek voor Leerlingen in de heel- en geneeskunde , Amsterdam, 182616.『舎密崖略』
Hijmans,Ontwerp van eene algemeene scheikunde, Dordrecht, 182017.『幾那塩説』
Ez. Stratingh, Scheikundige verhandeling over de cinchonine en quinine, Groningen, 182218.『測山説』
C. G. C. Reinwardt, "Voorlezing over de hoogte en verdere natuurlijke gesteldheid van eenige bergen in de Preanger Regentschappen", 1823 in Verhandelingen van het Bataviaasch Genootschap, IXe deel, 182219.『紐氏韻府』
Nieuwenhuis, Woordenboek ,20.『和蘭局方』(1826年刊)
Nederlandsche apotheek, 's Gravenhage, 182621.『利氏人身窮理篇』
A. Richerand, Nieuwe grondbeginselen der naturkunde van den mensch, Amsterdam, 182622.『蘇氏舎密』
F. van Catz Smallenburg, Leerboek der Scheikunde, Leyden, 182723.『[ワー]多児薬論』
Van de Water,Beknopt, doch volledig handboek voor de leer der geneesmiddelen, Amsterdam, 182924.『ガルファニ記事』
W. van Rees, Verzameling van stukken als bijdragen tot het galvanismus, zoo in opzicht tot deszelfs genees- als natuurkundige werkingen, 2 deelen. Arnhem, 1802-5.このように19世紀末のフランス語の書物がすでに多くのソースを同定しています。(Serrurier氏が原典をあげていないのは、3.『布氏明液論』;7.『合薬問答』;9.『三有小学』の3点です。これはやはり難しい。)
日本人研究者では、塚原東吾氏が出現するまで、この『日本書誌』を手にとったものがいなかったということになります。先行研究が埋もれて、再発見されるひとつの典型的な例と言えるかもしれません。坂口氏を筆頭とする昭和の日本の研究は、基本的なものです。しかし、昭和という時代の人文系学問の「鎖国性」のなかでのみ研究は進められた、と現時点からは言わざるを得ません。自分たちが研究を行っている知的空間(の閉鎖性)を外部から見る視点をまったく欠いていたと断言したくなります。(もちろん、正確には、自分たちの研究空間・研究伝統を対自化する外部の視点を持ち得て、はじめて、その閉鎖性を自覚することができます。そのなかに即自的にいる人には、そもそも、「自分たちの研究空間・研究伝統」という意識もありませんし、それが閉鎖的であるということも意識できようがありません。)
そう、最初に必要なのは外部の目です。
そして、外部の目を持ったものだけが、ブレイクスルーの爽風をもたらす。もちろん、こうした事態は、昭和の日本の科学史研究に留まるものではまったくありません。平成の今となっても、人文系の多くは、ちいさな分野毎に閉鎖空間を作っているという判断に、軍配が上がるのではないでしょうか。
個人的には、Serrurier(1896) が依拠した先行研究を知りたい。Serrurier(1896) はリスト(文献目録)なので、いちいちの同定作業がSerrurier本人によるのか、先行研究によるのか記されていません。
つまりは、オランダやフランスや英米における蘭学研究の研究史を知りたい。どなたかご存じの方がいらしたら、是非、お教え下さい。
ちびどもは6時半。私は7時40分。疲れがあるとすぐに朝が遅くなります。今日も秋晴れ。→秋晴れは午前中だけでした。ちびどもが帰宅するころから雨が降り始めました。本格的な雨降りではなく、降ったり止んだり。雨量としてはわずか。
ちびどもといっしょに7時。今日も気持ちのよい秋晴れ。会議の日。午後はずっと会議です。
大学には12時過ぎに到着。まず待っていた学生に判子。
すぐに講座会議。12時15分〜1時。
片づけをしているうちに、教授会の時間。2時半〜6時過ぎ。こんなに時間がかかるとは予想していませんでした。
その後、カリキュラム委員会の説明会。40分ほど。結局多磨駅6時52分の電車で帰ってきました。
会議が長引くと疲れます。
最後で7時前。さわやかな秋晴れ。やっと秋の空気がやってきました。湿度が低いと体感がまったく違います。
→天気図をみると日本全国すみからすみまで秋晴れの模様です。2時前にあかんぼうが暴れていました。眠いせいだと思い、自転車の後ろに乗せて、半径2キロ以内でぐると回ってみました。これだけ快晴だと同じ町でも違って見えます。
あかんぼうが寝たかと思い、家に戻るとふと目を覚ましました。
そのままの体勢でまた半周。今度はすぐに寝付きました。
帰り着いて、ふと足を見ると片方のサンダルがありません。
ああ、先ほどの半周にまた出発。わが家に到着する100メートル手前に落ちていました。あかんぼうが昼寝し、妻がちいさいちびの保護者会に出かけている間に、次の本が届きました。
山岸凉子
『テレプシコーラ/舞姫 第2部1 』
(MFコミックス ダ・ヴィンチシリーズ)、メディアファクトリー、2008
巻末に、山岸凉子と首藤康之のスペシャル・バレエ対談があります。バレエは知っている世界ではありません。変な話ですが、とても勉強になります。マンガというメディアはこういうのに向いています。
ちいさいちびといっしょに7時半。こどもたちが休みだと、休みという雰囲気になります。ちびどもは朝一番で歯医者さん(検診)に行ったあと、幼稚園の開放で遊んでから、マックで昼食。→私は、昼食から参加し、あかんぼうが先に帰ったあとは、ちびどもを連れて、古本屋さんへ。おおきいちびはコナンを2冊。ちいさいちびは、ハロウィーンのおもちゃの方がよいと言います。セイユウに戻って、入り口の売場で、カボチャ型ランプ。この子は、ほんとうにこういうプニョプニョしたものが好きです。そういえば、朝方玄関で妻の大声。何かと思えば、かわいいあかちゃんヤモリ。あかんぼうとちいさいちびが見たい見たいというので、虫箱に入れたやりました。ネットで調べると、ヤモリは生きた昆虫しか食べないとあります。だとすれば、短期間であれ、飼うのは大変です。あかんぼうが昼寝をしている間に、30分ほどかけてちいさいちびを説得して、家の外に逃がしてやりました。どうも餌を食べるシーンを見たかったようです。
朝方に次の本が届きました。
ドストエフスキー
『賭博者』
原卓也訳、新潮文庫、1979山岸凉子
『ヴィリ』
メディアファクトリー、2007マンガはすぐに読みました。すごい世界です。
ドストエフスキー『賭博者』の方は、原卓也氏の解説だけ読みました。この本を口述筆記せざるをえなくなったドストエフスキーの事情が記されています。なんともロシア的!と評すとロシア関係者に叱られるでしょうか。
ということで、朝の5時半にもう一度寝ます。
9時に目覚めました。ちびどもはとっくにでかけていました。あかんぼうはお手洗いで気張っているところでした。やはり薄曇り。すこし光が射してきています。
つまり、まだまだ蒸し暑い。ちびどもは先週と同じくピアノの発表会のための全体練習。比較的近い児童館(の隣の集会所)。3時〜4時はちいさいちび、4時〜5時はおおきいちびの練習。そろそろおおきいちびの迎えにいかないとなと思った頃、4時半すぎに大粒の強い雨。空が真っ暗になってから強い雨足で降ってきました。自転車で行ったのですが、自転車はおいて歩いて帰ってくるしかありません。
今朝の朝日新聞に「漫画 人気でも雑誌苦戦」(メディアタイムズワイド)という記事がありました。9月2日の記事「有名雑誌 休刊相次ぐ 部数、広告収入の減響く」に続くものです。
『週刊ヤングサンデー』の休刊(7月)から話を起こして、最近の漫画雑誌の売れ行き不振を記事にまとめています。数字をすこし紹介しておきましょう。漫画雑誌全体では、1995年がピークで、13億4300万部(出版科学研究所推定)。それが、去年2007年には7億1700万部まで落ち込んだということです。半減に近い。
9月2日の記事と合わせて言えば、雑誌文化が新しいフェイズに入ったと言ってよいでしょう。人口動態とインターネットの普及を考えれば、最盛期は終わり、縮小期に入っていると見てよいでしょう。思い合わされるのは、CDの売れ行きの変化です。
音楽も漫画も、それの乗っかる基本的メディアに変化が生じたとまとめられます。雑誌に関しては寂しさを感じます。CDは仕方がないかなと思います。
ちいさいちびといっしょに7時過ぎ。曇り。ちびどもが寝る前頃から、雷光と雷鳴。一部ではかなり激しい雨が降っていることを伺わせる強さです。私の住む東京23区西部に大雨洪水警報が出たようです。梅雨明け前のような荒れた天候がいつまで続くのでしょうか。
明日は小学校で防災訓練。引き渡し訓練があるので、親は学校に子どもたちを引き取りに行かなければなりません。
訓練以外は普段の月曜日の授業だそうです。そして、月曜日が振替休日。日本時間9月7日午前3時過ぎからのバーレーン戦を見たいのですが、起きていられるか(あるいはうまく目覚められるか)わかりません。
→ちょうど3時に目覚めました。前半は、2対0で日本が優位に進めています。
→わー、なんたる試合。3対0で楽勝かと思ったら、終了間際に2点取られて、3対2での勝利となりました。2点目は、トゥーリオのバックパスとキーパーの受け渡しのミスによるオウン・ゴールですが、1点目は明らかにディフェンダーに注意力が欠けていました。
おお、あかんぼうが5時に起きてきました。見事な早起き鳥!
ひとり遅れて8時15分。ちびどもはもう出かけていました。曇り。昨日に続き、午後また雨の模様。2階から妻の悲鳴が。洗濯物を干そうと思ったら、スリッパに蝉がいっぱい着いていて踏んづけたということのようです。見てみると、おお、脱皮したばかりの蝉とその抜け殻がありました。脱皮したばかりなので、抜け殻はまだ暖かく、ミンミンゼミはまだ飛べませんでした。生まれてはじめて脱皮したばかりの蝉を触りました。(色は全体にみどりがかっていました。)
東急で北海道物産展をやっています。妻と相談して、車ででかけました。
私の昼の弁当を購入し、テレビで放映していたもちもちジャガイモ肉まん(名称は違います)を何箱か買ってからバイバイ。あかんぼうは私の手を引いて、遊び場に行きたかったようですが、妻がうまく引き離してくれました。
そのまま大学へ。多磨駅の駅前の金物屋さんで箱を買ってから研究室へ。部屋の片づけをしようと思いましたが、身体に疲れがあり、やる気になりません。情報の整理(コンピューターのデスクトップの整理)を行い、図書館の用事をすませてから帰宅しました。ちょうどちいさいちびの帰宅の時間に重なりました。黄色いお帽子(1年生の印です)をかぶった子どもたちがわらわらと帰途についていました。
ひとり遅れて7時半。疲れが出ると朝が遅くなります。曇り。出張校正の日。朝、印刷所に行って来ます。
西荻窪でやってきた電車に乗ったら、東西線。予定より早く飯田橋に着きました。駅前の銀行に寄ってから印刷所へ。10時10分前に着きました。
なんと、印刷所が引越先を捜しています。まわりの再開発で、土地を手放して、別の場所に移るということです。預かってもらっているバックナンバーも整理しなければなりません。10月にチームを組んでやってくることとしました。
事務局長とふたりで校正作業を行い、1時過ぎに帰ってきました。駅を出て、歩いていると雨が。やはり、雨。いっぷくしてから机に向かったあたりから大粒の雨。
今日は肩凝りがひどく、つらい校正作業でした。
ちいさいちびといっしょに7時過ぎ。まだちいさいちびには早く起きるリズムが見につていないようです。おおきいちびは7時前。あかんぼうはいつも通りに起きたようです。一応、晴れ。気温がそれほど高くなった感じはありませんが、居残った湿度のせいで、むしむしします。
昨日、駒場の図書館で、『日本医史学雑誌』から集中的にコピーを取ったのは、「文庫めぐり」です。
私の関心にとって、もっとも興味深いのは「ゲッチンゲン医学古典文庫」の来歴です。これは、もともとドイツのゲッティンゲン大学図書館がハノーファ候(英国王ジョージ2世)から寄贈されて所蔵していた古典医学書文庫であった。第1次世界大戦に敗戦したドイツ(の諸機関)が大恐慌に苦しみ、財源確保のために売りに出したものを、マルクの暴落にも助けられて、倉敷労働科学研究所がライプチヒの書肆グスターフ・ホックの仲介で購入したものとあります。出自が、前にこのページに記した「住友文庫」と同じです。第1次世界大戦後ドイツが困窮に陥っているときに、文庫をまるごと買い取っています。
現在は、倉敷中央病院図書館にあります。
目録は出版されています。
労研古典医学文庫目録刊行会編『ゲッチンゲン医学古典文庫目録』2巻、菜根出版、1977
第1巻は、2648番に及ぶ図書目録。第2巻は、主要著作171点のタイトルページ等。
単純に財政的な面で、医学は強い。ヨーロッパの文庫がまるごと入っている事例があります。一般的な科学史ではなかなか考えられないことです。なお、昨日ゲットできた「文庫めぐり」は、次。
(10) 京都府立医科大学附属図書館(原文では旧字)
(11) 九州大学附属図書館医学分館
(15) 岡山大学附属図書館鹿田分館(通称医学図書館)
(16) 鸚軒文庫(がくけんぶんこ)
(17) 立教大学越谷図書館池田文庫
(27) ゲッチンゲン医学古典文庫
(28) 下関市立長府図書館(下関文庫館) Vo.51No.1(2005),p.82
折りをみて、このシリーズは全部コピーを取りたいと思います。
おおきいちびは6時半。私は6時45分。ちいさいちびは7時。曇り。はっきりしない天気が続きます。ちいさいちびはプールがあります。今週はまだプールがあるようです。昨日、日本社会の知的基盤について記しましたが、朝刊の1面に「福田首相辞任」の文字が踊っていました。え、なんで、いま。福田首相の場合、政権基盤が弱かったことは否めませんが、ここでの辞任は根性ナサ過ぎです。
個人的に言えば、安倍晋三前首相は史上最低最悪の首相でした。あんなえらそうなことを言っておいて、1年で政権放棄をするとは、呆れ果てました。おおだぬき福田康夫首相はもうすこしましかと思っていました。1年で政権放棄したら、同類の誹りを免れません。
なお、昨夜は原稿書きに集中していてニュースを見ませんでした。記事を読むと、午後9時半からの首相官邸での記者会見で突如辞任表明をしたとあります。
こうなったら、自公の連立は解消し、総選挙を行って、さらに政界再編成というのが進むべき道だと思います。
まずは「政権交代」。次善の選択肢としてはそれしかないでしょう。
しっかりしろよ、民主党。昨日雑誌の休刊について触れました。おお、今日の朝日新聞の朝刊に「有名雑誌 休刊相次ぐ 部数、広告収入の減響く」という記事がありました。(社会、29面)
それによれば、講談社は、『月刊現代』『クロスワードin』『マガジンZ』の3誌を休刊にするということです。他に有名なところでは、集英社の『ロードショー』、マガジンハウスの『BOAO』、世界文化社の『GRACE』が休刊になるとあります。
確かに、ネットがあれば、不要な種類の雑誌もあります。しかし、むしろ雑誌ならではの雑誌が休刊を迫られているようです。駒場の図書館へ返す本があります。一昨日、ずっと愛用してきたゼットライトが故障してしまいました。スイッチが回らなくなりました。
あかんぼうのこともあり、妻と相談して、朝一番でヨドバシへ。ヨドバシは9時半から営業を開始しています。ちょうど9時半に駐車場に着きました。
形はゼットライトに似ていますが、もっとすっきりしてシンプルなものを選びました。いまどきの明かりはゼットライトでも蛍光灯です。支払いをすませてから、そっとあかんぼうと別れ、駒場へ。駒場もまだ夏休みだと思いますが、かなりの数の学生が門をくぐっていました。何かあるのでしょうか。
私は、図書館に行って、2冊でカバンをいっぱいにしていた本を返却し、地下へ。次のものの他に、『日本医史学雑誌』から何点かコピーを取りました。
石田純郎
「プレンク(J.J.E. von Plenck, 1739-1807)について」
『日本医史学雑誌』45(2)(1999): 242-243
プレンクは、蘭学書と呼ばれる書物のなかで(おそらく)もっとも数多く訳出された原著者です。この講演要旨で、石田純郎は、先行研究を2点あげています。
1.石田純郎『緒方洪庵の蘭学』(1992)第1章「プレンクとその著書」
2.石田純郎「プレンクに関する書誌学的考察」『洋学資料による日本文化史の研究IV』(1996)所収
たとえばすくなくとも新書ぐらいの長さの本格的なプレンク研究が待たれます。ちょうど11時過ぎ。駅前の蕎麦屋で、ざるそばを食べから帰宅。ちょうどよいので、吉祥寺のユザワヤに寄り、編集作業に必要なボックスと封筒を購入しました。
たぶん、31〜2度ですが、湿度があり、疲れました。ちびどもが寝付いたあと、昨日ちいさいちびが暴れたせいで完成させることができなかった原稿を一応最後まで書き上げました。0次稿です。たぶん、3次稿ぐらいまで手を入れてから、編集室に送ることになるでしょう。(量としては、400字詰めに換算して10枚強です。)
ちびどもは昨夜言っていた通り6時半に目覚めました。私は、6時45分。どんよりとした曇り。さて、新学期初日の今日は、どういう天気となるのでしょうか。ここ1週間ほどと同じような、まるで梅雨が戻ってきたような天候になりそうです。ちびどもはいつも通りの時間にでかけました。
妻とあかんぼうはその後、吉祥寺へ。ひとり留守番。今日は庭師の人がわが家の敷地の片隅に生えているプラタナスの剪定をしてくれます。どうも相当枝を伸ばしたようです。ばさばさ落ちていました。2人で2時間。
今回は処理した量が多いということで、予想していた金額を上回りました。妻とあかんぼうは1時前に帰ってきました。
それから私が大学へ。私の部屋のゼットライトが故障したので、研究室のをもってこようと思ったのですが、やめました。すこし情報を整理してから、帰宅。
あかんぼうは寝ていました。寝付いたばかりということです。おおきいちびは不在。お友達の家に遊びに行ったそうです。2階では、ちいさいちびとお友達が遊んでいました。新学期がはじまったばかりなのに早速です。ちいさいちびのお友達は4時に帰りました。おおきいちびは5時過ぎに帰ってきました。帰りの電車では、行きの電車に乗る前に買った『論座』2008年10月号と『月刊現代』2008年10月号を読んでいました。『論座』はこれが最終号。2008年10月号をもって休刊するとあります。正確な情報は知りませんが、『月刊現代』にも休刊の噂があります。あれあれ。
雑誌媒体はほんとうに経営が厳しいようです。宮崎哲弥&川端幹人「中吊り倶楽部」には、今出ている雑誌は、3分の1にまで淘汰されるという見通しが記されていました。バブルの崩壊のときに、それまで読んでいた雑誌がほとんど休刊になり、仕方なしに読み始めた『総合雑誌』ですが、それも、半減しそうな勢いです。
日本社会の知的基盤が蝕まれていくようです。
2008年
8月
7月
6月
5月
4月
春休み
3月
2月
1月
2007年
台北滞在記2007
(台北滞在記2004)
田舎にて2007
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2006年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2005年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2004年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2003年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
5月
4月
3月
2月
1月
2002年
12月
11月
10月
9月
7月〜8月
5月〜6月
3月〜4月
1月〜2月
2001年
11月〜12月
9月〜10月
7月〜8月
5月〜6月
3月〜4月
1月〜2月
2000年
11月〜12月
9月〜10月
7月〜8月
6月
4月〜5月
1月〜4月
1999年
10月〜12月
6月〜9月
4月〜5月
1月〜3月
1998年
12月
11月
10月
9月
8月
7月
6月
春(1月から5月)
1997年
97年度
最初のページ=
HomePageに戻る。