息子といっしょに8時10分。室温13度。この室温は朝一度目覚めたときに、床暖房を付けたあとの数字です。いつもと同じ条件だと、1〜2度低いと思われます。大晦日。やっとここで12月の100枚目。
起きてすぐにメールをチェックしました。さすがに意味のあるメールは1通もありません。
[大掃除]
幼稚園児といっしょに大掃除を行いました。私は窓拭きを重点的に行いました。冬は結露があるので、放置しておくとカビがはえてきます。私の部屋を除き、すべての部屋の掃除をなんとか行うことができました。私の部屋に関しては、まず机の上の片づけが先決です。書類の山が2つできていました。ひとつは完全に整理しました。もうひとつは半分まで片づけました。
その間に山から出てきた次の論文を読みました。
上満信男「分子生物学の発展過程の分析―事例分析を通して―」『研究技術計画』第20巻第4号(2005): 336-344.
これはこれでよいと思われます。受付が平成14年11月、受理が平成17年12月と3年もかかったことだけが気にかかります。
分子生物学の発展過程をその中心的雑誌 J. Mol. Biol. における掲載論文の数値的分析から探るものです。活動期(ピーク)は1960年〜1974年、1990年以降にあり、中間の時期は停滞期であったことが結論として導かれています。
341頁掲載の「図.5 組換えDNA 技術の論文と引用論文の系統的流れ」は貴重な図示だと思われます。
ひとりで6時50分。室温12度。
起床がいくらか遅れたのは、歯のショックのせいでしょう。違和感をかかえたまま年末年始をおくります。[ランドセル]
いまでもずいぶん甘えん坊で愛想のよい我が家の幼稚園児ですが、来春から小学校です。小学校入学前の年末・年始にランドセルを購入するのが我が家の恒例です。
息子に聞くと、ヨーカドーでみたふくくんのランドセルがよいと言います。ヨーカドーには、398のものと、298のものが置いていました。妻がネットで調べて、398だと5千円の商品券、298だと3千円の商品券がもらえるそうです。nanaco カードを提示すればよいようです。ということで、2時を過ぎてから息子と二人だけで武蔵境のイトーヨーカドーへ。電車はすでに休日運転です。つまり、たった3駅ですが、一度乗り換えないといけません。
息子は一度来て覚えています。自分でどんどん前に進みます。息子の欲しいといっていた青(マリン・ブルー)のランドセルに関しては、398の方は売り切れで春まで入荷待ちとあります。これで迷う必要はなくなりました。息子は自分で残った298の方をとってレジへ。
nanaco カードと現金とランドセルを置くと、店員さんは、まずnanaco カードにまず現金を入金しています。一度に2万円までしかできないということで、入金は2回に分けました。もちろんそんなことは我々にどうでもよい。3枚のレシートと商品券と品物をゲットしました。
息子は自分のお小遣いをもってきています。まず、ポケモンカードを1パック買いました。それから、ポケモンゲームバトリオを2度。
息子がゲームをやっている途中、私のポケットに鍵がないことに気付きました。じっくり今日の自分の行動を考え直してもってこなかった可能性の方が高いと判断できましたが、もちろん、確認しないとわかりません。落とした可能性がある場所は見て回りましたが、その様子はなし。携帯はもっていません。店を出て、交番の裏側にある公衆電話から自宅に電話をしました。机の上においてあるということです。安心して、帰途につきました。
ひとりで6時30分。室温12度。わずかですが、寒さが緩んできています。朝一番でおじいちゃん・おばあちゃんから待望の荷物が届きました。お餅が入っています。子どもたちの冬休みの楽しみは、茶色いお餅、すなわち黒砂糖入りのお餅です。
幼稚園児と昨日約束した大掃除をしているときに来ました。当然掃除は中断。
ちびどもも加わって早速お餅をトースターで焼きました。
ひとり2個は食べました。さて、お餅を食べ終わってから私の口の中で違和感があります。なんと一部が欠けていました。妻によれば、もともとひびが入っていた部分がお餅のせいで欠けてしまったのだろうということです。そうでした。私も思い出しました。
お餅で歯に故障というのは私のパターンです。歯医者さんに電話すると留守電。今日からお正月休みのようです。1月4日または5日まで待つしかありません。歯はほんとうにショックです。今日一日はしょんぼりして過ごすことになりそうです。
幼稚園児は約束により昼食後浜松町にあるポケモンセンターへ。電車でママに連れていってもらいました。
→4時半頃帰ってきました。妻によれば、ディズニーショップと同じだということです。すなわち、商品をただ多く集めているだけということです。値段的に言えば、ヨドバシの方がずっと安く、わざわざでかける価値はないそうです。
ひとりで6時30分。室温11度。朝一番でメールを受信すると、意味のあるものはありませんでした。大学は今日が御用納めです。残っている仕事を処理することになるでしょう。
まだ幼稚園児以外下に降りてきていません。幼稚園児がポケモンを見ている間に、年賀状をほぼ書き終えました。あとは、住所がすぐにはわからない方です。
昼食後一休みしてから、幼稚園児を外に連れていくことにしました。幼稚園児と相談して、武蔵境のイトーヨーカードー。服を見たいと言っていたおおきいちびも連れていくことにしました。買い物は白菜、牛乳にお茶。
おおきいちびはほしいものがなかったようです。アルパカのはいったクレーンゲームがあり、やりたいと言います。おねえちゃんがやったら、自分もやりたいのが幼稚園児。おねえちゃんは自分で一体を獲得しました。幼稚園児もすこしやらせてみましたが、難しい(年末はお客さんが集まるせいでしょうか、アームのバネをゆるめていました)のはまだまだ無理です。私がなんとかポケモンを一体ゲットしてやりました。
幼稚園児を買い物に同行すると、あれほしい、これほしいと必ず言います。シリアル、ホイップチョコ、ヤクルトをプラスアルファで買わされました。買い物をしたあと、ポケモンのパックゲームを2回やらせたら、やっと帰る気になりました。
ひとりで6時10分。室温10度。室温がどんどん下がってきています。外は、0度近くまで下がっているのでしょうか。昨日の仕事の続きで朝一番で大学に行って、書類だけ受け取ってきました。それにもしかしたら冬休み中にできるかもしれない仕事のために、ファインダー1式の書類もカバンに入れて帰途へ。
昔の99ショップ、今はローソン100ですこしだけ買い物をしてから帰宅。ちいさいちびは昨日の午後からお泊まり会。昼食後、妻とおおきいちびが吉祥寺に買い物に出ました。幼稚園児とふたりでお留守番。えいやと年賀状の宛名書きに挑戦しました。半分まではこなしたと思います。
ちいさいちびが帰ってきてから、幼稚園児を連れてゲオへ。6枚借りて千円。レシラムとゼクロムがあるといって大喜びでした。
ひとりで5時30分。室温11度。→朝一番の天気予報をみました。外はこの冬一番の寒さとなっているようです。お昼前から会議が続きます。
→11時45分からお昼休み会議。12時半に終了。部屋にもどってから昼食に。特別食堂は貸し切りでした。
ちょうど非常勤に見えているS氏がきました。いっしょに駅前の中華料理屋に。S氏とは1年ぶりぐらいの歓談です。4限5限の時間帯は会議。約3時間半かかり、6時過ぎには終わりました。
子どもたちの声で目覚めて6時50分。クリスマスプレゼントを見つけた幼稚園児の声がとくに大きい。2階まではっきりと聞こえてきました。室温12度。12月25日がイエスの誕生日ではなくても、またクリスチャンではなくても、ともあれ、メリークリスマス!
子どもたちの年賀状はほぼ完成したようです。大人の年賀状もと思いつつ、気持ちが尽きていて、着手できていません。明日は会議なので、27日以降になりそうです。
おおきいちびが荻窪のブックオフに行きたいというので、3時を過ぎてから連れていきました。北口の交番のすぐ近くにありました。なかはでかい。おおきいちびはCDが高いと言って買うのを止めました。
かわりにというわけではないのですが、ママのために、カードを1枚ソニープラザで選び、ゲームセンターでアルパカを2体ゲットしました。
ひとりで5時25分。室温12度。午後、ずっと学会の会合。正午から編集委員会が始まり、最後の理事会はおそらく6時ぐらいまでかかると思われます。それから忘年会。つまり、一日仕事になります。
→11時前に家を飛び出しました。大岡山には11時50分に着きました。
私は簡単に昼食をすませてから家をでましたが、残りの方は、お弁当持参です。しばらく雑談をしてから(つまりほとんどの方が食べ終わるのを待って)編集委員会。
1時から事典会議。これはそもそも時間のかかる仕事です。予定より40分ほどオーバーしました。
それから理事会。6時半には終了しました。
大岡山駅前のレストランを借り切っての忘年会。ほぼ9時に終わりました。ちょうど10時に帰宅できました。ほぼ予定通りです。
ひとりで6時。室温13度。昨日持ち帰った大学の宿題をこなしつつ、こどもたちが年賀状を作成する手伝いをしました。3人ともパソコンです。パソコンの操作そのものは直感的にわかるので、教える必要はないのですが、印刷の箇所がいくらか複雑です。子どもたちがつくったものを私がプリントしてやりました。
午後は、幼稚園児といっしょに買い物にでました。明日の食料とポケモンの雑誌を1冊買って帰りました。セイユウはかなり混んでいました。
4時過ぎにおおきいちびちをつれてツタヤに行きました。借りたいCDがあると言います。ツタヤのカードはあったはずですが、見あたりません。新しく作りました。年賀状は親の分も必要です。ですが、本日は以上で気持ちがつきました。
ひとりで6時。室温12度。木曜日の授業。年内は最終回。終了後、ゼミ生と打ち上げコンパがあります。
昨日発覚した問題で急遽事務の方と相談することになりました。はやめに相談して、見通しをつけたかったのですが、そういう日に限ってほかの用件も重なります。
お昼休みに2人の学生と面接。ゼミ所属の相談です。偶然ですが、同じような関心をもっていました。
3限終了後も2人の学生と面接。ひとりは、やはりゼミ所属の相談。もうひとりは卒論の詰めの仕方の相談。4限終了後、書類を作成した上で、事務棟4階へ。課長と係長(?)が対応してくれました。何とか解消の目処が見えてきました。
研究室へ取って返してから最低限の書類の片づけをし、帰宅することにしました。
おおきいちびと幼稚園児が留守番をしていました。ちいさいちびがママに連れられて美容院に行ったようです。ちいさいちびは自分ではなかなか髪を切りたがらないのですが、お友達といっしょだということで行く気になったようです。
私は待っているあいだにお風呂に入ることにしました。風呂上がりにでかけることになりますが、ちゃんと乾かせば大丈夫でしょう。ちいさいちびは6時45分ごろ帰ってきました。おねえちゃんにそっくりになっていました。
ゼミの打ち上げコンパの待ち合わせは、7時15分吉祥寺駅。6時55分に家をでました。指定は緑の窓口の前。行ってみると、北口の緑の窓口は消えています。そもそももともとあった場所はすべて閉鎖されていて北口が消滅しています。ぐるーっとまわって、中央口に緑の窓口がありました。学生は、ほぼ集まっていました。場所は、サンロードを抜けたところにあるバックパッカーズカフェでした。そういうコンセプトのお店があるのをはじめて知りました。個室を借り切る形になりました。宴会にはもってこいです。
11時前に解散。
ひとりで6時。室温12度。会議の日。
3限の時間帯に総合文化コースのコース会議があります。午前中はその準備。
コース会議では、今回の改編に潜んでいた地雷が発覚しました。この期に及んでこういうやっかいな問題が現われるとは、全員が呆然としました。4限5限の時間帯は、準備室会議。残った問題を全部とは言わないまでも、できる範囲で大掃除するつもりのようです。結局、1時間延長して6時半近くまでかかりました。
帰宅して7時15分。うんとつかれました。
ひとりで6時30分。室温13度。久しぶりです。火曜日の夕刻に会議がないのが。これはほんとうにたすかります。逆に言えば、火曜日の夕刻の会議がいかに負担かということです。
ひとりで5時。室温13度。幼稚園児は今日から短縮、すなわちお弁当なし。明日が終業式です。ちびどもはもうすこしあって、木曜日に終業式。
月曜日の授業。おおきな教室でマイクの調子が悪いときはすこし疲れます。授業終了後、イトーヨーカドーに寄ってから帰りました。幼稚園児は友達のお家に遊びに行っていました。
いつもより早めに帰ってきたちいさいちびは昨日作った生チョコをもってクリスマス会へ。仲良くしているお友達の家です。
おおきいちびも友達の家に遊びに行きました。おおきいちびのクリスマス会は昨日ありました。もう一度くらいそれぞれそういう会合があるようです。大学に次の本が献本されていました。
ガレノス『解剖学論集』坂井建雄・池田黎太郎・澤井直訳、京都大学学術出版会、2011(西洋古典叢書、2011第5回配本)
ご高配いただいた坂井建雄さま、池田黎太郎さま、澤井直さま、貴重なお仕事ありがとうございます。
ひとりで5時10分。室温12度。朝一番で幼稚園児を連れてヨドバシへ。幼稚園児はポケモンカードを2パック購入し、ポケモンゲームバトリオを2回しました。ポケモンゲームでは、強いのが出たととても喜んでいました。
西荻窪の駅で、いろいろ頼まれたものを買って帰りました。なかに、チョコ6枚と生クリーム。ちいさいちびが明日のパーティのために生チョコを作ります。チョコ4枚と生クリームはその材料です。ほかは、幼稚園児がおねえちゃんをまねして作りたがる材料と、その他ふつうのご飯のおかずです。
昼食はたこ焼き。ちいさいちびが喜んで作りました。
昼食後は、ちいさいちびが生チョコを作るのを、そして幼稚園児がチョコケーキを作るのを手伝ってやりました。ちいさいちびはほぼ自分でできます。幼稚園児はほぼ私が作ってやります。
妻は、ポポが帰ってほっとしたのでしょう、パーマに行くと言ってでかけました。どうするのか迷っていたようですが、残っていた家族全員に意見を聞いて気持ちをかためたようです。
妻が帰ってきてから、ローソン100、ならびにダイソーに買い物に。牛乳と生チョコの箱です。
夜は、布団にはいって、バルセロナ対サントス。4対0でバルセロナの勝ち。圧倒的な力でした。
ずっと作業していた原稿は今日送り出しました。アブストラクトが残っていますが、あとでよいという編集部のお言葉に甘えることとしました。別の観点から論文をまとめ直そうとして力尽きました。元気を取り戻してからもう一度取り組みます。
ひとりで5時30分。室温12度。ポポが帰国する日。妻だけがアテンドします。子どもたちはただの見送りにはもう行きたくないようです。吉祥寺にでて、そこからリムジンバスに乗るルートです。
→ポポはふだん歩いていないので歩くのがとても遅い。妻は9時45分でタクシーを呼び、吉祥寺に向かいました。2時14分に吉祥寺に着くという電話がありました。そこでおおきいちびと合流して、買い物をし、4時過ぎに帰ってきました。つかれたー、といっていました。[裏でたぬき]
夕刻、妻が部屋の片づけをしているとき、おおきくない声で私を呼びます。行ってみると、我が家の裏の廃屋にたぬきがいました。立派なたぬきです。おおきくて健康そうなたぬきです。
写真を撮ろうと思い、妻にカメラを頼んでいる最中、別のおうちで大きな音がしたせいで、たぬきは逃げていきましたが、見るだけだと別に平然としています。
野生のたぬきをこんなに近くでじっと見るのはたぶん生まれてはじめてです。すぐにネットで、たぬき、ハクビシン、アライグマの写真を確認しました。ほぼたぬきで間違いなし。
妻はあまりに立派な体格をしているので、誰かが飼っているのではと言っています。たぬきを飼っているという話は聞いたことがないので、エサをあげている人はいるかも知れないが、野生だと思う、というのが私の回答。あとでもういちどネットで調べてみると、東京でもたぬきの出現は何度か目撃されています。しかも、西荻北という町名です。同じたぬきかもしれませんし、親子なのかもしれません。何年か前にハクビシンが我が家の屋根をつたっているのを見ました。妻は、私、動物嫌いなのに、動物だらけのところに住んでいる、と。
こどもたちに続いて、7時40分。室温14度。疲れが出てきました。今日はお昼に菊池夫妻と昼食会。まず駒場図書館に行き、借りていた本を返却しました。ついで、次の本を借り出しました。
中根良平、仁科雄一郎、仁科浩二郎、矢崎祐二、江沢洋編
『仁科芳雄往復書簡集 現代物理学の開拓 III 1940-1951』
みすず書房、2007
買おうかなと思ったのですが、あまりに高かったので、ともあれ借り出しました。III は、大サイクロトロン・二号研究・戦後の再出発です。
巻末に、別ノンブルで、解説、仁科芳雄関連年譜、人物紹介、索引等が付されています。解説は85頁あります。江沢洋氏の執筆。それから5限の授業に使える本がないか探しました。駒場の図書館は配置がやっかいです。結局ほしい本は見つからず、科哲の事務室へ。菊池夫妻はもういらしていました。橋本さんもすぐに見えて、昼食へ。
1時間半ちかく歓談してから、それぞれの場所へ。
5限の授業では、今ハーバードのポスドクフェローをしている菊池博士に簡単に挨拶してもらいました。年内最後の授業。
いつもとおりの時刻に帰宅すると、駒場の教務課から成績報告書の依頼文が来ていました。4年生の成績提出締切は2月3日です。わー、はや。3年生は3月2日です。
夜半に目覚めてすこし仕事。2回目の起床はひとりで5時55分。室温14度。
木曜日の授業。怒濤の展開。5限は、ひとりで片づけものをしていました。山積しています。
5限終了後、いつも来ていただいている野谷先生の慰労会。カンピレで。
ひとりで6時10分。室温14度。雨が降り始めました。乾燥がこれでいくらか和らぐと思います。朝一番で、『化学史研究』の最新号、すなわち2011年第4号が届きました。目次は次の通りです。
[論文] 梶雅範「日本の有機化学研究伝統の形成における眞島利行の役割」第38巻(2011): 173-185
[論文]川村範子「クリストファー・ドレッサーの日本視察旅行と大久保利通」第38巻(2011): 186-199
[研究ノート]唐木田健一「「力への意志」と生命論」第38巻(2011): 200-209
[総説]田中浩朗「日本の毒ガス戦の歴史」第38巻(2011): 210-220
[広場]川島慶子「フランス化学史クラブ」第38巻(2011): 221-224
[広場]三浦勇一「2012年度化学史研究発表会開催地山口県について」第38巻(2011): 225-226
[表紙写真解説]金城徳幸「マリー・キュリーの描かれたポーランド紙幣」 第38巻(2011): 227
[紹介]山田俊弘「Avramov, Hunter and Yoshimoto, Boyle's Books 」第38巻(2011): 228-229
[紹介]住田朋久「『科学の真理は永遠に不変なのだろうか サプライズの科学史入門』」第38巻(2011): 229-230
[会報]「2011年総会報告」第38巻(2011): 231-232
土曜日からの作業ですが、昨日の時点からは2周しました。ちょうどよい頃合いだと思い印刷して点検することとしました。いきなりタイプミスが目に飛び込みました。まあ、そんなものでしょう。もう2周は必要でしょう。
水曜日は本来の会議の日。私の場合、13時40分にスタートし、5つ会議が続きます。多い方は7つ以上になるようです。さて何時に終わることやら。→7時20分頃、やっと最後の会議が終わりました。8時にはなんとか帰宅できました。
ひとりで6時45分。室温13度。朝、幼稚園児が台所の電球がひとつ切れていることを発見しました。ほかにも用事があるので、妻といっしょに朝一番で吉祥寺にでかけ、ヨドバシほかのお店を回りました。朝からばたばたしてお腹が空いていたので、吉野屋でいくらかはやい昼食を食べて帰宅しました。やはり駅前でもいくらか買い物の用事がありました。
原稿化の作業は、3周ぐらいしたので一度プリントアウトしました。新しくプリントアウトすると、すぐにタイプミスが見つかりました。後、2周は必要な感じがします。
我々が帰ってきたあと、ポポがでかけました。ひとりで吉祥寺へ。台北に持って帰るお土産があるようです。冬の台北と東京の差は湿度です。妻もそうですが、日本の冬の乾燥に肌が対応しきれないようです。アレルギーに近い乾燥肌を発症していました。
やはり夕刻から会議。今日はもめるような内容ではないと期待しています。→もめる内容でしたが、審議ではなく、ヒアリングということで7時前には終了しました。何とも言いがたい状況です。
ひとりで5時40分。室温13度。2限と3限のあいだの、昼休みにも仕事をしたため、今日はほんとうにばたばたでした。
土曜日にスタートした原稿化の作業ですが、半分ぐらいまでは達したと思います。私の場合、講演のスクリプトは、そのまま読んでも耳から聞いてわかるように口語表現にします。そうすると文章語にするためにすこし手間がかかります。
幼稚園児が夕刻歯医者さんで下の前歯を抜いてもらいました。ちいさいときのケガのせいか、下前歯はずれる傾向にあります。本人は約束が違うと泣いたようですが、お医者さんが手早くさっと抜いてくれたようです。ポケモンカードを4パック買ってもらって機嫌を直したようです。帰宅してからは何度も鏡を見て確認していました。
ひとりで7時10分。室温13度。5時半から研究所で新しいメンバーの歓迎会。5時過ぎに大学に着くと、リクルートファッションの学生たちの群れ。この土日、研究講義棟の1階で企業説明会をやっていたのでした。忘れていました。
部屋を片づけているうちに、5時半に。研究所に着くと、もう宴は始まっていました。劇の打ち上げを兼ねています。日曜日ですから、劇に関わった方、研究所幹事以外で来ていた教員は、わずかでした。劇は成功だったようです。出演者の半分は留学生。日本語も上手にできたようです。
8時まで付き合って、帰宅。明日がありますから、このぐらいでしょう。
ひとりで5時40分。室温11度。おおきいちびがイルミネーションを見たいと言っています。またちびどもはふたりそろって大中に行きたいとも言っています。妻と相談して、夕刻原宿にでかけることとしました。
おおきちびは約束通り、4時前に帰ってきました。足が遅いからと言ってポポが先に駅に向かいました。あとは、準備が整い次第、外にでて、5人揃ってでかけました。久しぶりの外出です。
原宿駅はホームから外に出るのにもしばらく時間がかかるという大混雑。同じ発想の人が多いのでしょう。夕食は、ポポの希望により、牛角。位置が分かりづらく、太田美術館のところから電話をかけて問い合わせ戻りました。到着して5時10分。開店は5時なのにもういっぱいです。さすがに原宿です。10分ほど待って席が用意されました。カウンター席なので全部で3つの炭火が用意されました。
ちいさいちびと幼稚園児がコンビとなりました。うれしいようです。
食後は、イルミネーション。ポポは歩けないと言うので、近所の喫茶店で待ってもらうことになりました。残りは、坂を下ってけやき並木のイルミネーションへ。花がないせいか、街が明るすぎるせいか、幼稚園児は明らかにがっかりしています。それでもどんどん歩いて、表参道ヒルズの中まで行きました。大きなディズニーのクリスマスツリーがあります。これが気に入ったようです。子どもたちにデジカメを貸してやると、自分たちだけで喜んで撮りまくっています。
親は一番地下の部分で見ながら待機していました。
ポポのことも気になるので、7時10分に戻りました。ポポと合流したあと、大中へ。ポポはやはり歩けないというので、別の喫茶店で待ってもらい、我々で大中へ。ちょうど山手線で人身事故があり、止まっているという報せが耳に入りましたが、買い物が終わる頃にはどうにかなっているだろうという見込みのもと、買い物を続行しました。ちびどもは、ぬいぐるみが欲しかったようです。それぞれ2体買いました。
山手線の回復はまだです。お肉だけではお腹がいっぱいになっていないのでしょう、クレープが食べたいというので、竹下通りの真ん中あたりにあるクレープ屋さんに行きました。3人揃って完食。幼稚園児が完食したのは、はじめてかもしれません。ゆっくりと駅の方へもどり、ポポと合流して、原宿駅のなかへ。新宿方面は10時半まで止まっている、新宿方面は回復したばかりだという放送がありました。一本目の電車はあまりに混んでいたので見送り、2本目に乗り込みました。総武線も混んでいましたが、ポポが座る席はありました。
帰宅して、9時前。急いで風呂を用意し、順番に入りましたが、妻が出てきた頃には10時半になっていました。私はしばらく休んだあと、講演読み原稿の原稿化に着手しました。土日である程度のところまでもって行きたいと考えています。
ひとりで5時40分。室温12度。予報では、4度〜7度。真冬の寒さです。昼食後、幼稚園児のクリスマス会。ポポもいっしょに行きます。ポポの足には遠い距離です。タクシーを使うことにしています。私は、5限に駒場の授業がありますから、自転車で行って途中で抜けてきます。ちびどもはどうするのでしょうか。
これが我が家の最後のクリスマス会になります。末っ子だからでしょうか、幼稚園児は、クリスマス会で演じるのが楽しくて仕方がないようです。生誕劇に関しても、全員のパートを覚えたと言っています。おうたもおぼえています。ちびどもがでかけるころ、みぞれのような雨は雪に変わりました。台所のすりガラスの窓越しに白いものが舞っていたので、玄関の窓を開けてみると、雪でした。幼稚園児には、かっこうのホワイトクリスマスです。
→ポポ、妻、幼稚園児は、12時にタクシーを呼んででかけました。私は、妻からの電話をうけて、予備の子供用のネクタイを探し出して自転車ででかけました。
ちょうどクリスマス会の生誕劇が終わって3時過ぎ。終わった途端に会場の外にでて、自転車で帰宅。ちびどもは帰っていました。
カバンをもって私は駒場の授業へ。おおきいちびは自転車で遊びに出るようです。駒場の教室には、ちょうど前の授業が終了する時刻につきました。科哲の事務の方は、風邪でした。ぱっとみて、風邪という顔をされていました。
博論前のPD生と話してから教室へ。
やはり7時前に帰宅することができました。ばたばたした一日でした。
ひとりで5時15分。室温14度。幼稚園児は、今日から午前帰宅、すなわちお弁当がありません。そして明日がクリスマス会。年内の大きな行事はこれが最後です。
木曜日は2学期8回目の授業。ばたばたします。
朝一番で次の本が届きました。
小林信一・小林傳司・藤垣裕子
『社会技術概論』
放送大学教材、日本放送出版協会、2007
本の存在は、木原英逸「科学技術 「社会」 論の新自由主義的偏向 科学技術論の再建に向けて」『現代思想』2011年12月号, pp.121-135 on p.127 で知りました。
「社会技術」という馴染みのない概念・用語ですが、小林信一氏がまえがきに次のように説明しています。「社会的問題の解決に貢献する科学技術」。
章は最近の文部科学省の強い指導に従って、15回=15章立てとなっています。
1.社会の中の技術、社会のための技術 小林信一
2.BSE の経験 小林傳司
3.安全な社会をデザインする 小林信一
4.先端科学技術と社会 小林信一
5.社会のための科学技術―その歴史 小林信一
6.科学技術と社会のコミュニケーション・デザイン 小林傳司
7.これからの科学技術リテラシー 小川正賢
8.科学技術への市民参加 小林傳司
9.科学・技術と民主主義 藤垣裕子
10.知識・権力・政治 藤垣裕子
11.社会に役立つ知識とは 藤垣裕子
12.科学技術と公共政策 小林信一
13.海外の社会技術 藤垣裕子
14.科学技術と倫理の新次元 小林信一
15.社会技術のこれから 小林信一
ひとりで5時35分。室温14度。昨日夕刻雨が上がってからすこし気温が上がった気がしました。さて、会議の日。うんざりしてきています。まあ、でも、仕事ですから、昼食後、会議出席のため大学に出ます。
昨日大学に届いた『菊池正士業績と追想』を読んでいます。これが面白い。
伏見によれば、菊池の最後の仕事は、「原子力発電の安全性とパブリック・アクセプタンス」『日本原子力学会誌』Vol.15, No. 4(1973) (『菊池正士業績と追想』pp.84-89所収)です。
「パブリック・アクセプタンスの見地から原子力の安全性について検討を加えるときに、最後に残る問題はいわゆる「仮想的大事故」に対する考え方である。放射能の問題は、近年放射能の人体への影響が明らかにされて来たので一般の理解が得られやすくなってきているし、専門的立場から考えれば、管理さえ正しく行われ基準が守られていれば問題のないことがはっきりしてきている。それでもなお不安が残るのは、大事故が起って放射能の管理が不可能になり、炉心にたまった大量の放射能が炉の外へ出ることに対する不安から来るのである。このことは一般公衆の原子力アレルギーというような単純な問題ではなく、原子力の推進に当る専門家にとっても避けることのできない宿命的な課題である。」(p.84)
こういうふうに書き始めています。ついで、次のように言います。
「この不安を説得する標準的の論旨は「どういう場合にそういうことが起こるかについては充分検討されてきており、それに対する工学的安全対策が何重にもとられているからその心配はない」というものである。しかし工学的安全対策が絶対ではないことは、今日産業一般のあらゆる方面でその実例があり、原子力が例外である筈はない。」
以上、原子力を推進する側に立つものがもたなければならない危機意識を正確に示していると思います。
伏見はまた次のように書きます。「(死因は)肺癌であった。伏見の私見では、それには遠い原因があり、若いときに肺に吸いこんだラジウムの微量が悪さをしたのではないかと想像している。後に残された書きかけの原稿はやはり原子力の安全性に関するものであった。」(117頁)
ひとりで6時10分前。室温13度。わ、さむー。昨日は暖かく感じましたが、今日は一転して、寒い。午後雨が降るようです。ちょうど夜の会議に行って帰る途中が雨の模様です。
木村健二郎年譜より。
明治29年5月、宇都宮に生まれる
明治30年、横浜に引っ越す
大正6年7月 東京帝国大学理科大学化学科入学
大正9年7月 同大学理学部(改称)化学科卒業
大正9年9月 同大学副手を嘱託す
大正10年2月 同大学講師を嘱託す。分析化学講座に属する職務を分担すること
大正11年7月 同大学大学院終了
大正11年11月 任東京帝国大学助教授。分析化学講座分担を命ず(分析化学講座新設さる)
大正13年1月 柴田雄次の薦めで結婚
大正13年12月 分析化学研究ノタメ、フランス国・デンマーク国・アメリカ合衆国ヘ在留ヲ命ス。
大正14年1月 神戸港より出発
大正14年1月〜昭和2年4月までデンマークに在留
昭和2年7月 ドイツ、フランス、イギリス、米国を経て帰国
昭和2年8月 分析化学講座担任ヲ任ス
昭和6年7月 理学博士
昭和7年4月 日本化学会桜井賞
昭和8年3月 理学部教授
昭和15年2月 理化学研究所研究員。昭和33年6月30日まで。
昭和21年4月 日本化学会(旧)会長
昭和25年4月 アメリカより贈られたラジオアイソトープSb-125 化学教室に到着
昭和28年10月 理学部長
昭和29年3月 原爆症調査研究評議会委員〜昭和29年10月まで。
昭和29年11月 放射性物質の影響に関する日米合同会議における日本主席代表。
昭和31年3月 原子力委員会参与(31年9月まで)
昭和医31年7月 東京大学教授辞職を承認。日本原子力研究所理事。
昭和33年1月 日本原子力研究所ラジオアイソトープ研修所開設、担当理事所長兼務。
昭和33年6月 放射線審議会委員。(36年7月まで)
昭和33年7月 理化学研究所顧問
昭和36年7月 放射線審議会会長。(44年2月まで)
昭和36月12月 日本学士院会員。
昭和39年9月 日本原子力研究所理事満了退任。
昭和40年3月 日本化学会会長。(41年2月まで)
昭和40年9月 厚生省公害審議会委員。(41年10月まで)
昭和42年3月 日本分析化学会会長。(43年3月まで)
昭和44年5月 財団法人 放射線照射新興協会理事長。(49年4月まで)
昭和46年4月 日本分析化学会会長。(47年4月まで)
昭和46年5月 日本原子力文化振興財団理事。(49年6月まで)
昭和46年8月 社団法人 日本原子力産業会議「核分裂生成物等総合対策懇談会」院長。利用開発、処理処分、消滅処理につき答申。(48年5月まで)
昭和47年3月 社団法人 日本原子力産業会議常任理事。(48年10月まで)49年2月まで政策委員
昭和47年4月 原子力委員会環境安全専門部会長。(49年2月まで)
東京女子大学学長のことは記載からはずしています。日本の原子力の最初の時点で、重要な役目を担っています。図書館より、ILL で2冊本が届いているという連絡がありました。3時過ぎに家をでて、まず、次の2冊を借り出しました。(ともに大阪大学附属図書館より来ていました。)
木村毅一『アトムのひとりごと』丸善, 1982
菊池正士〔著〕 ; 菊池記念事業会編集委員会〔編〕『菊池正士業績と追想』 菊池記念事業会編集委員会, 1978
ともに日本の核科学者の追悼集・回想録です。木村毅一『アトムのひとりごと』(1982)では、まず、奥付より、著者略歴を拾います。
明治37(1904)年 京都に生まれる
大正15(1926)年 第3高等学校卒
昭和4(1929)年 京都大学理学部卒
京大教授、京大原子炉実験所長、大阪府立放射線中央研究所長、福井工業高等専門学校長を歴任。
著書『近代物理学』(昭和29年、共著)。はしがきに次のようにあります。「今年3月22日、私のために七十数名の若い人たちが集まって、喜寿のお祝いをして下さった。
その席で大阪府立放射線中央研究所の方がたから「先生が大放研の所長であった十年程の間、毎月書かれた随筆を出版されてはどうか」と勧められた。「もし皆様が興味をもって下さるのなら」と承諾した。
しかし、自費出版というので多額の負担を多くの方がたにおかけし、その上、原稿の整理や校正にも関係者のご苦労を煩わすこととなった。
八十年近い人生の坂道を登りつめて来た私は、ここに不思議なご縁に結ばれた多くの方がたのご好意に対し衷心よりお礼を申し上げる次第であります。
一九八二年八月六日」
最初に掲載されている写真がなかなか興味深い。『菊池正士業績と追想』(1978) はとてもよくできています。
第1部は業績で10数点の英文論文が掲載されています。次が随筆で、9点。そして、略歴、論文リスト、著書リストが続きます。
第2部はあゆみです。まず、伏見康治が「菊池正士先生略歴」を書かれています。そして、時代の錚々たるメンバーがそれぞれの時代の菊池正士氏のあゆみを執筆されています。
《理研時代》
電子回折研究における菊池先生の業績 三宅静雄
目的に向かってまっすぐに 藤岡由夫
《ドイツ留学時代》
ある面影 仁田勇
《阪大時代》
菊池研究室における中性子研究 若槻哲雄
阪大の昔のサイクロトロン 伊藤順吉
先生と宇宙線研究を中心に 渡瀬譲
阪大の二代目サイクロトロン 若槻哲雄
《核研時代》
原子核研究所の設立と菊池先生 朝永振一郎
核研時代 野中到
《原研時代》
原子力と菊池正士先生 宗像英二
原子力研究所時代 西堀栄三郎
《理研・ウラン濃縮》
菊池先生とウラン濃縮 中根良平
《理科大時代》
東京理科大学三代目学長としての菊池先生 宇喜多義昌
第3部は追想です。ここには非常に多くのかたの思い出が集められています。『現代思想』2011年12月号、特集:危機の大学
時間を見つけて、「危機の大学」をほぼ読みました。目次は、次の通りです。
石田葉月+岩崎稔+岡山茂+島薗進+西山雄二「大学はいかに可能か」
野家啓一「大学と科学者の社会的責任」
村上陽一郎「大学の変貌」
最首悟「マイナスからゼロへ」
塚原東吾「ポスト・ノーマル・サイエンスによる 「科学者の社会的責任」」
木原英逸「科学技術 「社会」 論の新自由主義的偏向 科学技術論の再建に向けて」
金森修「公共性の黄昏」
酒井直樹 (訳=本橋哲也)「文明的転移と 「西洋(ウエスト)/その他(レスト)」 という言説 」
廣瀬純「知力解放とその頭痛 新自由主義的政治状況における知識人の役割と債務」
白石嘉治「未開の大学 フクシマ以後のために」
クリストファー・ニューフィールド (訳=佐々木夏子)「コグニタリアートの構造と沈黙」
鈴木哲平「大学の未来、フレンチ・セオリーの現在」
村澤真保呂「都市、青年期、大学 ポスト・モラトリアム時代の大学」
安藤丈将「一九七〇年代日本の学習運動に見る産業社会への反省のかたち」違和感を感じたものに関してはもし時間があれば別途記述します。
今回は、金森さんの「公共性の黄昏」が私の考えていたこと、感じていたことをほぼ言語化してくれているという評だけ記します。ほんとうにもうだめかもしれない、と感じることが少なくありません。
ひとりで6時。室温14度。月曜日の授業。3限終了後、駒場へ。隠岐さんの講演会・討論会へ参加するためです。1時にスタートし、4時10分に終了という会議ですが、中央線の遅れもあり、やっと3時半に部屋に入ることができました。
終了後、司会をしている柴田君に届いたばかりの献本を渡し、講師の隠岐さんに本代を渡して、一応本日の最低限の仕事はこなしました。
献本として大学に届いていたのは、次です。
チャールズ・C・ギリスピー(島尾永康 訳)『科学というプロフェッションの出現』みすず書房 2010.12
ご高配いただいたみすず書房の編集者の方、化学史研究を代表してありがとうございますと感謝の意を表明します。
ひとりで6時。室温15度。昨日の夜から温かくなりました。寝る前幼稚園児はあつい、あついと言っていました。ポポ来る。たぶん、4時過ぎ。
妻は11時頃迎えにでました。1時半に予定通り、ゲートを出てきたと電話がありました。バスを待って帰るので、やはり帰宅は4時過ぎになります。
→4時15分頃に帰ってきました。ひとり楽しみにしていた幼稚園児はパソコンのゲームに夢中で、しばらく顔もみませんでした。
地震で目覚めて5時55分。昨日しばらく止んでいた冷たい雨がまた降っています。今は比較的雨足が強い。夕刻、次の雑誌が届きました。
『現代思想』2011年12月号、特集:危機の大学
→余裕があるときに読み進めています。ほんとうに、この光景はいったい何でしょうか?
夜半に目覚めてすこし仕事。目覚めたのは背中が痒くなったせいです。昨日からの冷たい冬の雨が降り続いています。雨量としてはたいしたことはないと思われますが、冷たい雨です。朝の起床は、6時半。室温13度。雨はどうもみぞれまじりにかわっています。関東の北では、雪が舞っているのではないでしょうか。天気予報の表現では、真冬並みの寒さ。たしかに一歩外にでると真冬並みの寒さを感じます。
妻は幼稚園児やおおきいちびと同じ症状になっています。すなわち、眼が赤い。うつったのでしょう。風邪の症状も残っているということで、今日は幼稚園の仕事を休みます。幼稚園児の送り迎えは私が担当します。
久しぶりの駒場の授業。
図書館に寄って、本屋さんを見て、直前に教室に入りました。4限に同じ教室で授業を行っている古川さんがまだ部屋におられ、しばらく話していました。古川さんは、中国出張のため、再来週は休講ということでした。
ひとりで5時55分。室温16度。外の気温はずっと下がっているはずですが、室温は昨日の高さを保っています。会議に追われているうちに、あっというまに、12月です。
どうも妻も、幼稚園児やおおきいちびと同じ風邪の症状です。眼が少し赤く、顔が全体に風邪の顔です。今日は休むということで、幼稚園児も休ませることにしたようです。
K氏より、次のテレビ番組を教えてもらいました。
BS歴史館「キュリー夫人と放射能の時代〜人は原子の力とどう出会ったのか?〜」
チャンネル:BSプレミアム
放送日: 2011年12月1日(木)
放送時間:午後4:00〜午後5:00(60分)
我が家の録画機能は、たぶん番組の後、回復しているはずです。つまり、その時刻には録画機能はない。大学でそういうサービスをしていたのを思いだし、図書館の次に教育情報化支援室に寄って、お願いしました。やってくれるということです。からのDVDを1枚持ってきて下さいということでした。受け取るときに必要なようです。ILL (図書館相互貸借)で次の本が届いているという連絡がありました。大学に着いてすぐに図書館により受け取りました。
斎藤信房先生記念誌編集委員会編
『うららなる湖 : 斎藤信房先生の想い出』
斎藤信房先生記念誌の会, 2010.10
これも制作は、岩波出版サービスセンターです。本としては市場に出まわっているまったく普通の本の体裁です。目次だけで8頁に及びます。すなわち、非常に多くの方の原稿を集めています。少しずつでも、目次をとっておきます。
斎藤信房先生記念誌序言 藤原鎮男
斎藤先生の著述・講演など
日本における放射化学研究の黎明―北投石からウラン-237まで
日本における放射能研究の黎明期―駒込と本郷の科学者たち
仁科芳雄とアイソトープ
原子量の基準―炭素-12
加速器と化学
学際領域の教育
四つの思い出話
放射能アレルギー
核分裂の見いだされた頃
“Chemical” chemistry
学界・知友・同僚・後輩
生涯の友 立花太郎
木石斎藤時代を懐かしむ 藤永太一郎
斎藤信房先生と理研 中根良平
追悼、感謝 藤原鎮男
斎藤信房先生との六十年 原禮之助
斎藤先生とおむすび 廣川節男
輸入ラジオアイソトープ第1号が到着した頃 池田長生
斎藤信房先生の思い出 不破敬一郎
斎藤信房先生を悼む 松浦辰男
トリウム溶融塩炉を通しての先生とのご縁 古川和夫
斎藤先生の思い出 田端米穂
お国のために―斎藤信房先生の想い出 吉原賢二
責任感―斎藤信房先生の思い出 山本明夫
斎藤信房先生と私 鈴木信男
斎藤先生、お世話になりました 木村幹
斎藤先生を偲んで 綿抜邦彦
斎藤信房先生と仁科研究室 一九四〇年 山崎敏光
アルセン会一員として師恩に謝す 岩本振武
あの頃の化学教室 大橋裕二
斎藤信房先生をしのんで 梅澤喜夫
斎藤信房先生の思い出 岩澤康裕
化学科「地球化学」の講義 野津憲治
門下生など(一房会会員)
想い出 横山祐之
斎藤先生から研究の手ほどきを受けた頃 竹田津富次
斎藤信房先生のご指導による卒業研究の思い出 大内昭
斎藤先生に教えられた事 佐々木行美
斎藤信房先生のこと 西連寺永康
斎藤先生をお偲びして―心に残る先生の語録 佐野博敏
ポロニウム顛末記 馬淵久夫
破れ傘のつぶやき 鈴木康雄
何事にも余力を残して 森川尚威
掲示板の向こう側の世界 佐藤和郎
斎藤信房先生を偲ぶ―掌上の日々 荒谷美智
「白金ツルボ」から「往復書簡集」まで 冨田功
放射能と付き合って五十年が経った 古川路明
斎藤信房先生追想 梅澤弘一
斎藤先生と私 富永健
斎藤先生を偲んで 西勝英雄
斎藤先生のもとで 安部文敏
放射化学との出会いと斎藤信房先生 中原弘道
冷や酒とお小言はあとで効く 山崎昶
斎藤先生の世界一強い放射性温泉沈殿物 佐藤純
斎藤先生からの励ましのお言葉―ご一緒したフライトの思い出とともに 庄司準
恩師斎藤信房先生 安部静子
生涯の研究テーマを戴いて 岡田勲
不詳の弟子 菅野等
斎藤先生と総合研、RI センターの思い出 中村愛子
斎藤信房先生を偲ぶ 竹田満洲雄
ウィーン時代―色あせることのない記憶 唐木田宣子
斎藤先生ならびに斎藤研究室の想い出 森本剛
ガスクロマトグラフのウラン同位体分離、そして先生最後の原稿とご講演 巻出義紘
斎藤先生と私 宮崎章
恩師斎藤先生と私 魏和祥
斎藤先生の教え 大木和雄
斎藤信房先生に教えていただいたこと 奥山公平
斎藤先生の思い出 小橋浅哉
斎藤信房研究室の思い出 福永健文
斎藤信房先生の思い出 細谷通夫
無題 薬袋好孝
斎藤先生との五年間 高田稔
特別縁故者
腰越の海は限りなく温かくて 夏目晴夫
斎藤先生の学位論文研究と都城秋穂氏 唐木田健一
海外の友人
In Remembrance of Professor Nobufusa Saito Jean-Pierre Adloff
Memoir of Late Prof. N. Saito F. Sherwood Rowland
ご親族
兄・斎藤信房の思い出 梅田健次郎
室の花(俳句) 斎藤治子
「大仏弁当」 斎藤治子
「うららなる湖」 土橋和子
お礼のことば 高橋祐子
斎藤信房先生略年譜
斎藤信房先生・研究室教職員名簿
斎藤信房先生・門下生名簿
あとがき
斎藤信房先生業績一覧→化学史学会で知っている方の名前がかなり見られます。藤原鎮男氏、立花太郎氏、吉原賢二氏、山本明夫氏、佐々木行美氏、荒谷美智氏、唐木田健一氏です。
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