ひとりで6時50分。室温14度。ちいさいちびは7時前に起きてきました。大学からメールが来ました。4月1日から、西武多摩川線が(土日)を除き、通常化するということです。こういうことではいつも通りが一番です。
(時刻表を手帖にメモし記憶したのは無駄になりましたが、もちろん、こういうのはよい無駄です。)[立川の日]
ちいさいちびは前からの約束で今日ディズニー映画を見に行きます。当初予定していた吉祥寺の館は、地震の影響で上映していないことがわかり、急遽立川に変更したようです。午後に、お友達のお母さんに立川に連れていってもらいます。おおきいちびは、どうしてこんなにおおきくなるのだと思うほど、おおきくなりつつあります。先日身長を測ったところ、ママと並びました。新学期には越えているでしょう。私にはよくわかりませんが、そのせいであう服がなくなったようです。(パパと行っても仕方がない―ほんと、そうです、私がついていっても服はまったくわかりません―ということで)朝一番でママと立川に行きました。ほぼ入れ違いぐらいで帰ってくるようです。
幼稚園児は、昨日、井の頭公園の運動場でよく遊んで疲れたようです。今日はお家にいると言います。それがありがたい。昨日、研究室の片づけに着手しました。これも諦めて私のこの部屋の片づけに朝から着手しています。地震のあとの対応は、通路をつくっただけです。そもそも量的にあふれいるのですが、新学期の仕事ができるぐらいまでは、整理をしなければなりません。
[計画停電をやめさせよう]
ウェブではもう有名人だと思われますが、現役の国会議員でただひとり、原子力工学の専門家(京大の工学部原子核工学科出身)がいます。共産党の吉井英勝議員です。「日本共産党 吉井英勝オフィシャルホームページ」というサイトがあるので読んでみました。
「福島原発事故や「計画停電」、ガソリン・灯油の需給状況などに関して」「基礎的な資料を公表させるべきだ」と求めたとあります。政府はすぐに基礎データを提供する、あるいは提供させるべきです。具体的には、「1)原発の破損状況や情報収集衛星の撮像データ、2)原子力安全委員会による放射性物質拡散状況の試算データ、3)東京電力の発電設備出力など計画停電の是非を検証する根拠データ」などです。
大学が昨日開いた説明会では、夏場には(計画されていない)広域停電がありうるという前提で話を進めていましたが、大きな違和感を感じました。(危機が続く間は)そういうことにならないように、民間の協力を得つつ、政府がきちんと管理すべきだと思います。
今東電が行っている「計画停電」は、総理の了承があるので、違法行為ではないでしょうが、不法行為に近いと私には感じられます。基礎データを公開して、どういう工夫がありえるかを討議すべきです。そして、仮に、どうしても「計画停電」が必要だとなった場合でも、特定の地域に負担を押しつけるのではなく、(政府機関や医療機関等はずすべきところははずして、あるいは十分なバックアップを準備して)きちんと計画的に遂行すべきです。直前まで実施するのかしないのかわからないというのは最悪の選択です。
東電の担当者(たぶんチームでしょう)が何を考えているのかまったく不思議です。官邸がこういうでたらめを放置しているのも不思議でなりません。
ウェブで検索をかけてみると、河野太郎氏の公式サイトに「自民党有志と環境エネルギー政策研究所(ISEP)の勉強会」の結論として、「無計画停電は必要ない」と断言されています。
非常事態です。党議拘束をはずし、協力すべきだと思います。マスメディアが「環境エネルギー政策研究所」の出したレポートを取り上げないのがほんとうに不思議です。
河野氏の見解を引用しておきましょう。「経産省と東京電力は、需給調整契約の内容や発動状況などの情報を意図的に隠蔽しているが、もはや電力需給に関しては、東電に任せておける状況ではなく、政府が対処すべき問題である。」
契約内容が公表されていない以上、推測しかできませんが、契約内容に不都合な点があると考えざるを得ません。
現役の国会議員がはっきりと指摘しているのに、大手のメディアが取り上げないのは責任問題だとさえ言えるでしょう。
[今週の亀山学長]
『アエラ』の今週号(2011年4月4日号)に亀山学長が出ています。「現代の肖像」です。68-72頁。文を書かれた山田さんがどういうライターさんかは知りませんが、明らかに亀山さんに騙されています。亀山さんの方法論は、同化(対象と自分の差が見えなくなるほど対象に心情的に同一化すること)です。過去の作品を読むときに同化が必要なことは否定できませんが、同化だけだといったきりです。そして、いったきりのまま文章が書けるのが亀山さんの持ち分です。
しかし、亀山さんでない我々は、批判と批評を方法論としなければなりません。「騙されている」という表現がもし不適切であれば、同化に飲み込まれていると言い換えてもよい。
さすがに亀山さんに自覚はあります。それが、たとえば次の言葉。
「僕は地獄に堕ちた天使。堕天使だね。」
悪魔学的に判定すれば、まさにルシフェルの徒です。(そして、アーリマンの徒は、○○さんほかです。)
その次の行にはこうあります。「亀山は、学長として外大の大改革を推進している。[学長]再選によって、現在の外国語学部1学部体制から、言語文化学部と国際社会学部の2学部体制への改組が確定。改革の狙いは、「語学学校」というイメージを払拭し、文学、文化、言語、心理学、人類学、歴史学、社会学を包括する国際的な地域研究の拠点として、外大を再生することにある。」
学長の目から見た、これが今回の改革の骨子です。[GLOBE Voice 2011 Number 3]
外語の広報誌に GLOBE Voice というのがあります。2010年春創刊です。知らない方も多いでしょう。私も知りませんでした。
その最新号(2011年3号)に私の紹介があります。person doing research と題されたコーナーで、各号3人の研究者(外大教師)を見開き2頁で紹介するものです。今回は、西谷修氏、西井凉子氏、に私の3人。現実のインタビューと編集は、日経BPの記者が行っています。
プロの手になる紹介です。よくできています。
ただし、この雑誌がどういうところに置かれているのかはわかりません。
ウェブでは次の場所です。東京外国語大学広報誌
花粉症で鼻が詰まり夜半に目覚めてすこし仕事。鼻が詰まるとほんとうに苦しい。2回目の起床はひとりで7時半。私以外はよく寝ています。
さて、本日は会議の日。午後に2つ予定されています。その前に研究室の片づけをしたいと思います。
妻が久しぶりに子どもたちを井の頭公園に連れていくと言っています。私といっしょに10時過ぎに出ました。駅のなかで、私は中央線、妻と子どもたちは総武線とわかれました。
西武多摩川線は、12分間隔から20分間隔に変わっています。
武蔵境発は、各時、10分、30分、50分の発車です。
帰途ですが、多磨駅発は、各時、15分、35分、55分の発車。
覚えやすいと言えば、覚えやすい数字です。地震でおちた本の片づけをさぼっていましたが、諦めて着手しました。おおよそもとあった場所にもどすことにしました。1時間続けたら、飽きてきました。
30分ほど休んでから、また諦めて着手。何とか窓まで辿り着けるようになりました。授業開始までにはなんとか地面や不思議な場所に散乱している本は片づけようと思います。
会議は1時10分から。3時半には終わりました。
学生との面接があり、多磨駅に到着できたのは、4時51分ぐらい。つまり、19分待たなければなりません。駅前のコンビニでコーヒーと『日刊ゲンダイ』を買いました。新聞を読みつつ、ほぼ20分駅のベンチで次の電車を待ちました。
1時10分開始の会議は、「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」への対応に関する説明会(大学院・学部)です。
とりあえず、大学執行部(学部・大学院執行部)の対応に対する賛否はおいておいて、事態はかなりわかりました。
大学の計画停電のエリアは、第3グループ(B)です。これまで4回停電が実施されています。大学には、ガスによる自家発電装置が2機あります。各500KWで両方同時に動かしても7百数十までしか出力できないということです。しかも手動なので、停電が生じてから手動で起動し、送電できるようになるまで10分から20分かかるそうです。能力的には足りませんが、もちろん、ないよりあったほうがずっとまし。
大学が夏に冷房用に使う電力量が600KW、冬に暖房用に使う電力量も600KW程度ということです。その程度の自家発電ということです。
ひとりで5時半。室温12度。今日は、気温が15度まで上がるそうです。ゆっくりと春が近づいています。
→7時半現在、私の他に誰も起きてきません。でも、すぐに、ちいさいちびから順番に起きてくると予想されます。子どもたちは今日はそろって歯医者さん。定期検診です。幼稚園児は歯茎が腫れて一度は診てもらっていますが、こちらは、我が家の風邪にいくらか地震も影響して、延び延びになっていました。
→8時を過ぎましたが、まだ誰も下に来ません。9時過ぎまでよく寝たおおきいちびはやっと復活したようです。すこし外へ連れ出して遊ばせないと子どもも(あるいは子どもだからこそ)イライラが募るようです。
昼食を食べ、3人揃って歯医者に診察を受けたあと、おおきいちびと幼稚園児は私が吉祥寺に連れていき、ちいさいちびはいつもの友達と遊ぶ(都合があえば友達に来てもらう)ということで合意ができました。おおきいちびはコピスで友達の誕生日プレゼントを買うと言います。幼稚園児は東急でポケモンゲーム。相変わらず東急は暖房が効きすぎです。幼稚園児はまっかになって汗までかいていました。
私は、8階で『週刊ダイヤモンド』を購入し、駅ビル内の成城石井でいくばくかのおやつを買いました。
朝のうちに次の本が届きました。
魚住 昭『渡邊恒雄 メディアと権力』 講談社文庫、2003(初版、2000)
文庫化にあたり、加筆し、巻末の対談が付されたとあります。
→対談者はスポーツライターの玉木正之氏。解説は、佐野眞一。ナベツネ問題、すなわち、ナベツネタイプの人物が組織のトップにすわってしまうことに関する危機感が全員に共有されています。
花粉症で鼻が詰まって、5時。室温13度。なかなか気温は上がってきません。[本日の計画停電]
自宅も勤務先もなしという情報がありました。[吉岡斉氏]
日本の原子力政策史の第1人者は、九大の吉岡斉氏だと思われます。今回の事故に関する吉岡氏の見解を知ろうと思い、ネットで検索をかけてみました。地元(福岡)のテレビでは話をされているようです。(直接関係はしませんが、副学長となられているようです。)しかし、放送媒体でも活字媒体でも直接的なものを見つけることはできませんでした。
MLでヘルプを求めると、田中氏が、東京新聞2011年3月18日夕刊の記事「「福島原発震災」をどう見るか」を送ってくれました。「東京電力や経済産業省原子力安全・保安院でさえ、真相を把握していないだろう。原発事故の真相をつかむには、わずかのモニター装置からの情報では不十分なのである。」とあります。そうだと思われます。データの隠蔽と言うよりも、彼ら自身把握できていないと見るべきでしょう。(隠蔽体質がないとも、今回隠蔽がないというわけではありません。下に見るように事故データの改竄さえも行っています。)
→河野氏が朝日新聞3月25日付「オピニオン」を送ってくれました。「原発賠償 国は負担するな」と題します。結論部分だけ引用します。「原発は、事故や災害が起きれば多数基が一度にダウンし、運転再開までに時間がかかるので、電力供給不安定を招きやすい。その可能性は前々から指摘されてきたのに、原発を作り続けてきた責任は重大だ。・・・天災によるやむをえない面はあるが、本質的にエネルギー政策の誤りであり、電力会社の誤りでもある。」ウェブの資料としては、「東京電力原子炉損傷隠し事件」2002.9.20 があります。今回の事故の前提条件として意味のある情報を含んでいます。
ほかにもいくつかあります。
夜半に目覚めてすこし仕事。花粉症で鼻がつまったせいです。2回目の起床は6時25分。室温12度。やはり鼻がつまりました。
おおきいちびはまだ半分以上布団のなかです。熱は出ていませんが、体力と気力が回復しないようです。結局、動けるようになるのは、月曜日か火曜日になりそうです。
ちいさいちびは朝の宿題を終えてから外に出て縄跳び。二重飛びに一生懸命になっています。幼稚園児はただいっしょに外にでて遊んでいます。やっと外に出る気持ちになったようです。夕刻、次の本が届きました。
Conal Condren, Stephen Gaukroger and Ian Hunter (eds.),
The Philosopher in Early Modern Europe: The Nature of a Contested Identity
(Ideas in Context),
Cambridge: Cambridge University Press, 2006
ペーパーバックで4101円です。目次は次の通り。
1." The persona of the natural philosopher," by Stephen Gaukroger
2. "The university philosopher in early modern Germany," by Ian Hunter
3. "The persona of the philosopher and the rhetorics of office in early modern England," by Conal Condren
4. "From Sir Thomas More to Robert Burton: the laughing philosopher in the early modern period," by Catherine Curtis
5. "'Vaine philosophy': Thomas Hobbes and the philosophy of the Schools," by Richard Serjeantson
6. "The judicial persona in historical context: the case of Matthew Hale," by David Saunders
7. "Persona and office: Althusius on the formation of magistrates and councillors," by Robert von Friedeburg
8. "Descartes as sage: spiritual askesis in Cartesian philosophy," by John Cottingham
9. "The natural philosopher and the virtues," by Peter Harrison
10. "Fictions of a feminine philosophical persona: Christine de Pizan, Margaret Cavendish, and philosophia lost," by Karen Green and Jacqueline Broad
11. "John Locke and polite philosophy," by Richard Yeo.
ひとりで4時40分。室温14度。晴れていてよい天気ですが、強い風が吹いています。春分を過ぎていますから光は春になっています。しかし、空気がまだ刺すような雰囲気をもっています。
お昼過ぎに次の本が届きました。アマゾンのマーケットプレイスからです。
渡邉 恒雄
『渡邉恒雄回顧録』
御厨貴監修・聞き手、伊藤隆+飯尾潤聞き手、中公文庫、2007(初版、2000)
もとは、『中央公論』1998年11月号から1999年6月号に連載された「渡邉恒雄 政治記者一代記」および1999年8月号掲載の「我が実践的ジャーナリズム論」です。
→まずは御厨貴氏による「解説」だけ読みました。渡邉恒雄は、ほんとうに面白い。
→次に、終章「我が実践的ジャーナリズム論」を読みました。原子力は、ナベツネ氏の関心からすれば周辺的であったようです。[東京外語の夏時間]
昨日、大学より次の連絡がありました。我々に対する連絡文ではなく、大学のサイトの言葉をそのまま引用します「◆現在府中市では、夕方以降に集中して約3時間にわたり計画停電が実施されています。そのため、新学期からの授業については、開始時刻を30分繰り上げることとしました。これは、日没前に5限目までを終えることによって、みなさんの安全を確保するための措置です。
授業時間は以下のとおりとなります。
1時限目 8:30~10:00
2時限目 10:10~11:40
3時限目 12:40~14:10
4時限目 14:20~15:50
5時限目 16:00~17:30」
ひとりで4時45分。(昨日に続き)室温12度。ほんとうに春になるのはいつでしょうか。小学校は卒業式ですが、本来送る側として出席予定だったおおきいちびが欠席なので、我が家の本格的な春休みが始まります。新学期は4月5日に始まりますから、あっという間です。
お昼過ぎに次の本が届きました。
新日本製鉄(株)編著
『カラー図解 鉄と鉄鋼がわかる本』日本実業出版社、2004おおきいちびが本日やっと居間に降りてきて、食卓について夕食を食べました。明日にはある程度までであれば動けると思います。妻もいつもの半分程度は動けるようになって来ています。土日の間には復活してくれると思います。
ちいさいちびが風邪を引いたのが震災の前です。ここまでくるのに2週間かかったことになります。[教員人事]
東京外国語大学のサイトに新しく、アフリカ地域研究、中央アジア地域研究、オセアニア地域研究、ベンガル語・ベンガル文化研究の4件の人事公募が掲載されています。前の3件(アフリカ地域研究、中央アジア地域研究、ベンガル語・ベンガル文化研究)と合わせて合計で7件です。この時代に、これは大きな動きです。私は学内の先生方を除き、地域研究の知り合いはいませんが、日本で地域研究に携わる方には大きなニュース(朗報)だと思います。[こういうときには雑誌メディアを]
被害の実態も事故の実態も簡単にはつかめない。報道が局所的になるのは仕方がないとはいえ、全体として物事を捉える視点が背後になければなりません。
その全体に迫るためには、活字メディアの方がふさわしい。家事のあいまに、2冊の週刊誌を買ってきて読みました。『週刊東洋経済』(2011年3月26日号)と『週刊文春』(2011年3月31日号)です。『週刊文春』は、特集が「御用メディアが絶対に報じない東京電力の「大罪」」。
東電の基本的な問題点は、多くの人に見えていると思います。原子力は、巨大利権です。電力会社、原子炉製造会社、政府と関係官庁(とくに経済産業省)、御用学者にマスメデア。利権を分けあっているところは、仲良くします(癒着)。
福島の原子力発電所が、今回の地震・津波以前にも、トラブル続きだったことが明らかにされています。140頁。
1998年12月、第1原発高温焼却炉の建家にある低レベル放射性廃棄物ドラム缶炎上。
1999年1月、第2原発の廃棄物処理建家から出火。
2002年8月以降、原子炉に関するデータの改竄。
2010年6月17日、第1原発の2号機、電源喪失、水位低下発生。(15分間停電)。(24頁)
24頁では、共産党議員(京都大学原子工学科出身の吉井英勝代議士)の質問が紹介されています。非常用ディーゼル発電器が3系統準備されているから安全だという政府・東電に対して、4系列の非常用ディーゼル発電機が備えられていたスウェーデンの原発が事故で2系統が止まるとその影響で残りの2系統も止まった事例をあげ、そうした場合どうするのか?質問したそうです。
個人的には、今回の事故で非常用ディーゼル発電機が3系列失われ、非常用電源が失われたということにびっくりしました。何と言っても原子力です。人間が手をつけるべきだったかどうかが問題になるぐらいやっかいなものです。3重、4重に対策がとられているものだとばかり思っていました。想定していなかった津波でディーゼル発電機3系列が同時に失われて、それで終わり、という事態はほんとうにびっくりです。すくなくともディーゼル発電機3系列が動かなくなったときに備えて、別種の非常用電源があるのだとばかり思っていました。→ 2011.3.26
ウェブで検索をかけていて、ウォールストリートジャーナルに「過去にもトラブル続きだった福島第1原発」(2011年 3月 22日)があることを見出しました。
原子力の専門家による記事ではなく、ジャーナリストによるものですが、ソースの明示と分析があります。ソースは、「原子力安全基盤機構に提出された事故報告書」です。分析結果は、「データが入手可能な2005年~2009年の5年間」で福島第一原発の事故率が大規模原発のなかでは一番高かったとしています。
「福島の3号機はプルサーマル」(2011/3/22)には、プルサーマルが日本語(和製英語)であること、3号機ではそのプルサーマル燃料すなわちMOX が使われていること(全体の548個のうち32個)も記されています。
この記事を読んではじめて、テレビで見る福島原発の模型や模式図で不思議に感じていた点が解明されました。
燃料プールの様子が腑に落ちませんでした。実は妻にもこの点を質問され、水の中から水のなかへ空気中に出すことなく移せるからいいんじゃないと答えましたが、自分自身で納得はできていませんでした。ウォールストリートジャーナルの記者に敬意を表してそのまま引用します。
「4号機で起きたことは、定期検査時の停止中に原子炉内のすべての燃料をプールに移送する「全炉心取り出し」という、日本で広く行われている慣行の危険性を露呈した。」
[災害緊急事態]
福島の原発に関しては、緊急事態が宣言されています。しかし、今回の地震・津波に関しては、「災害緊急事態」宣言(布告)がなされていません。「計画停電」という名の「無計画停電」が終了するまで、東電は国の直接の支配下に置くのがよいと思いますが、そうした措置はなされていません。今回の震災で「災害緊急事態」を宣言しないで、いつするのでしょうか?
22日午前の参議院予算委員会で、このことを質問した議員がいますが、「内閣府の小滝晃参事官はこうした措置の実施要件を同法が「国会閉会中」と定めていると指摘し」たとあります。
災害対策基本法105条は次のようにあります。
「第105条 非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるときは、内閣総理大臣は、閣議にかけて、関係地域の全部又は一部について災害緊急事態の布告を発することができる。」
そして、第106条に次のようにあります。
「(国会の承認及び布告の廃止)
第106条 内閣総理大臣は、前条の規定により災害緊急事態の布告を発したときは、これを発した日から20日以内に国会に付議して、その布告を発したことについて承認を求めなければならない。ただし、国会が閉会中の場合又は衆議院が解散されている場合は、その後最初に召集される国会において、すみやかに、その承認を求めなければならない。」
閣議で決し、国会の承認を求めなければならない、とありますが、「国会閉会中」なんてことは定めていません。とても不思議です。
このあたりのことがわかる方がいらしたら是非お教えください。
夜半に目覚めてすこし仕事。ちいさいちびは終業式。10時20分頃帰ってきました。そして、すぐにお昼ご飯を食べました。ちいさいちびにしては珍しい。
おおきいちびは熱はほとんどなくなりました。しかし、お手洗い以外布団から出ようとしません。夜になってさすがにお風呂に入りたくなったようです。簡単にお風呂に入りました。明日は少し布団から出るのではないでしょうか。
もちろんおおきいちびも終業式の日です。荷物を取りに行ってやる必要があります。電話するといつ取りに見えてもよいというので、11時頃でかけました。担任に先生は、明日の卒業式の練習中。体育館から呼んでくれました。私がお会いするのははじめてです。まだとても若い。3階の教室まで走って案内してくれました。荷物を渡してくれたあと、どうぞ、どうぞと言うとまた走って体育館まで帰られました。本来、おおきいちびもこの卒業式には参加する予定だったようです。無理だということは伝えました。幼稚園児は風邪からは回復しています。しかし、火曜日以来昼寝をするというのが続いています。すこし身体を動かした方がよいだろうと考え、昼下がり、自転車の後ろに乗せて、クイーンズに買い物にでかけました。おおきいペットボトルの水は当然なし。あまり意味がないと思いつつ、普段持ち歩くようなちいさいペットボトルを一本だけ買いました。パンの棚も、イギリスパン一つを残し見事に空です。不安解消行動です。東京都も杉並区も、はっきりと1歳以下の乳児には水道水の飲用を控えてくださいと言っただけなのに、乳児はもちろん、ちいさい子どものいない家庭、むしろお年寄り夫婦が水を買っています。帰宅して、幼稚園児はソファにすわりすぐに昼寝。寝てくれるのはありがたい。
妻はすこしですが、起きあがれるようになりました。熱は出ていません。全身が痛いと言っています。台北帰還以来の疲労がでたのでしょう。夜は、久しぶりにお風呂に入ることにしたようです。これも久しぶりの幼稚園児を洗ってやっていました。お風呂の外にでてきて、幼稚園児は、するするするすると自分の体を触っています。きれいにすべすべになったということのようです。
こうして我が家はなし崩し的に春休みです。
ずっと布団にもぐっていたおおきいちびですが、ずっとお風呂に入っていないと気持ちが悪いようです。久しぶりにお風呂に入ることにしたようです。
家族5人全員がお風呂にはいるのは2週間ぶりぐらいになります。
おおきいちびが鼻をならして、4時45分。室温13度。冬の寒さではありませんが、すこしひんやりしています。
幼稚園児、ちいさいちびの順に起きてきました。6時半前後。7時前に上に行くと、妻とおおきいちびは熟睡中でした。起きている人間は大丈夫、寝ている人間は風邪という区分になりました。JMMが環境エネルギー政策研究所(ISEP)の飯田哲也氏の見解を紹介しています。
「3.11後のエネルギー戦略ペーパー」No.1
今回の震災を前向きに活かすのであれば、この方向でなければならないと思います。未来はこちらです。JMM 編集長村上龍氏推薦の 今回の福島原発事故の評価
午前3時5分に目覚めました。雨はまだ降り続いています。室温15度。ちいさいちびは7時前に起床し、ひとりでほとんど準備して雨のなか学校にでかけました。おおきいちびの熱は37度6分。もうしばらくかかる模様です。妻は寝込んだままです。幼稚園児は咳はすこし残っていますが、ほぼ回復したと言えるでしょう。
幼稚園児は、ママが寝込んでいる間、ずっとひとりでテレビを見たり、ゲームをしたりしていました。ママは、正午過ぎにお腹が空いたといってよれよれで降りてきました。一度ママの顔を見ると、ママの側に行きたくなるのでしょう。自分の毛布をもって、ママの隣で横になっています。このまま昼寝をしてくれると一番よい展開です。
→昼寝してくれました。ちいさいちびは3時半に帰ってきて、すぐに遊びに飛び出しました。先日記した安否確認ですが、現時点で17名まで返事をくれました。残るは、アドレス不明と留学中の方です。アドレス不明の方は、致し方なし。
午後、次の本が届きました。
佐野眞一
『巨怪伝:正力松太郎と影武者たちの一世紀』上下、文春文庫、2000(初版、1994)
日本の原子力政策も科学技術政策も、その出発点から見直す時期に来ていると思います。そして、日本の原子力の出発点、科学技術政策の出発点にいるのが正力です。正力の後継者(その後の変化)も含めて、科学技術史と政治史が重なる領域での仕事が求められます。
[明日の電車と電力]
西武多摩川線は、明日、臨時ダイヤで運行するという報せがありました。杉並区のサイトを見ると、杉並区は計画停電のエリアからはずれたとあります。(場合によっては復活もありえるそうです。)
[春分の日]
ひとりで6時40分。室温16度。雨。春分の日。ゴミの片づけをしていると、幼稚園児が降りてきました。相変わらずひどい咳です。朝の9時現在、おおきいちびの熱は37度5分、幼稚園児は36時7分。おおきいちびはもうすこし時間がかかるようです。幼稚園児は咳が止まれば大丈夫だと思いますが、それがわからない。
10時半前、おおきいちびが息が出来ないと泣きました。この子は、病気のとき、おそらくクラスで一番うるさいタイプです。学年で一番かもしれません。喉が痛くて苦しいということのようです。苦しそうなのは苦しそうなので、いつものかかりつけの小児科医に妻が電話して診てもらうこととなりました。タクシーを呼んで、ついでに幼稚園児も妻が連れていきました。
ほぼ予想通り、おおきいちびはB型のインフルエンザ。幼稚園児はほぼなおっているので判定の必要なし。二人とも薬をもらって帰ってきました。
→昨日から腰の痛みを訴え疲れた顔をしていた妻もダウンしてしまいました。熱はないので、風邪ではないようです。3時半現在、起きているのは、私とちいさいちびだけです。残り3人は2階で寝ています。
→寝込んでいる妻もとうとう37度を越えました。まだフル Flu ではないようです。[安否確認]
学生たちに安否確認のメールを送っています。ただちに4通「ユーザー不明」というメールが返ってきました。学生諸君の場合には、これがあります。携帯やアドレスをわれわれよりもずっと頻繁に変えます。新しいアドレスを知っている友人がいれば最終的にはつかまえることができますが、それにはすこし時間がかかります。
現時点で10名から、学生本人も家族も被災していないという返事が来ています。もし本当に被災していたら、簡単には返信できないわけですから、これは当然の結果です。ほんとうの被災状況を知るには、友人・知人のつてをたどる必要があります。東洋経済が「東京からもっとも近い被災地・浦安」という連載を発表しています。グーグルニュースのトップページにでますから、読まれた方も多いと思います。バイクが砂で埋まっている写真は、液状化というのがこれほどのものかと驚きます。東電は容赦なく「計画停電」のエリアに入れているそうです。
JMMによれば、日立市も水道が復旧せず、とくに病院が大変な状況にあるようです。
ひとりで5時10分。室温15度。寒さはぐんと和らぎました。おおきいちびは夜の間はほぼおとなしく寝ています。かわいそうなのは幼稚園児です。咳がひどい。夜の間も咳で何度も目覚めていました。
→やはり、幼稚園児の風邪はぶり返してしまいました。また、38度3分の熱が出ています。いちどなおったと思ったのですが。→38度8分まであがりました。
病気のとき、おおきいちびはほんとうにうるさいのですが、普段は一番健康な食生活を送っています。今日または明日には、快復に向かうと思われます。
→といっていたら、やはり38度8分まで熱があがりました。経過からして、ふたりとももしかしたら、インフルエンザかもしれません。その確率がすこしあるように思われます。→といっているうちに、39度まで上がりました。幼稚園児はすこしだけ元気になっておしゃべるするようになりました。可能性としては上の子は、インフルかもしれませんが、幼稚園児は別の風邪かと思われます。
ひとりで5時半。室温12度。寒さは緩んだ感じがします。幼稚園児は7時に起きてきました。夜鼻が詰まって、泣いていました。朝起きてからも咳をよくします。そして、鼻をならしています。鼻詰まりが一番つらいようです。
おお、なんと、おおきいちびも発熱です。37度8分。ちいさいちび→幼稚園児→おおきいちび、と風邪が一巡しました。連休中休めばなおるでしょう。
→朝方はうるさくしていましたが、熱が上がってきて、おとなしく寝ています。38度3分まであがったということです。幼稚園児の経過に似ています。私は、昨日はジンマシンのあと、ほぼダウン状態でした。今日は、会議の日。体調と相談になります。
→2時間でダウンしました。熱はでていませんが、風邪かもしれません。妻は我が家はみんな病気と言っていました。→午前中よく休んだので、午後はなんかなりそうです。電車の運行がはっきりしないので、(最速であれば30分でつきますが)1時間を見て家をでました。
大学には、30分余裕をもってつきました。会議はほぼ予定された時刻通りに進行し、5時36分多磨駅発の電車に間に合いました。同僚の先生はすごい勢いで走っていました。一本遅れると20分待つことになります。20分は待ちたくないということで、とても大学の先生とは思えない速さで走ったようです。
私は、三鷹駅構内のクイーンズでちょっとしたお菓子を買い、西荻ガード下のスーパーでわずかの買い物をして帰りました。6時20分。7時は覚悟していたので上出来です。と思いきや、幼稚園児の咳がひどくなっており、熱がぶり返していました。ありゃりゃ。子どもが二人同時に風邪です。
[本日の大学よりの連絡]
卒業式(3月29日に予定されていた卒業式・学位授与式)は、中止。
予定されていた計画停電は本日については中止になったと東電から連絡があった。
西武多摩川線は、60%~70%で運行。(NHK朝のテレビで見た情報)[大地震発生から1週間が過ぎて]
1.名称。
地震の名称ですが、メディアは「東北・関東大地震」としたようです。個人的には、「3.11日本大地震」「M9.0日本大地震」のようは名称の方がよいように思います。2.原子炉の事故。
福島原子力発電所が地震によってどういう被害を受けたのか、きちんとまとめた報道はなされていないように思います。
・その場所の震度はいくつだったのか? その震度の揺れによって、原子力発電所の施設は、どういう被害を受け、どういう対応ができたのか?
・地震直後の津波は、原子力発電所のどこまで侵入したのか? またその侵入によって原子力発電所の施設・設備がどういう被害を受けたのか?
・まとめて、地震と津波によって、原子力発電所の1号機、2号機、3号機、4号機、5号機、6号機その他の施設・設備はどういう状況に置かれたのか? そして全体としての被害の評価は?
以上がきちんと報道されていないように思います。3.現状
現状を把握するためのデータにはどういうものがあるのか? モニタリング機能は、電源がないなかで、どこまで生きているのか?4.終息
どういう出口戦略をもっていま行動しているのか?
たとえば、東北電力からの電力線の引き込みがうまくいったとして、その後は、どういう対応になるのか? 期間はどのくらい?
最悪の事態があった場合、どういう処置が行われるのか? 住民のEvacuation はどの範囲になるのか、どのくらいの期間になるのか?
以上、最善と最悪のふたつの場合だけあげましたが、その中間に多くの段階があるでしょう。あまり複雑にする必要はないでしょうが、3,4,5通りに分けて、きちんとした出口戦略の見通しが説明されるべきでしょう。原子力の初期の歴史。
1955 2.27 正力松太郎、衆議院議員に初当選 11.15 保守大合同 12.16 原子力基本法成立1956 1.1 正力松太郎、初代原子力委員長に就任。原子力三法実施、原子力委員会、総理府原子局発足 4.6 原子力委員会、茨城県東海村を日本原子力研究所の敷地に選定 5.19 正力松太郎、初代科学技術庁長官就任、科学技術庁発足 12.20 正力松太郎、原子力委員長と科学技術庁長官の椅子を降りる
1957 7.10 正力、第1次岸信介改造内閣成立に伴い、原子力委員長と科学技術庁長官に返り咲く IRR-1 が臨海に達する
(10.4 ソ連、スプートニク1号打ち上げ、アメリカにスプートニクショック1958 6.12 第2次岸信介改造内閣成立に伴い、正力は原子力委員長と科学技術庁長官の地位を降りる 7.10 正力、日本テレビ会長に復帰
1960 東海発電所(イギリス製コルダーホール型原子炉)着工
1966 5.14 日本原子力発電、GE社と原子炉設備(BWR)購入契約締結 7.25 東海発電所運転開始
1968 12.17 GNP世界2位に
1969 6.12 原子力船「むつ」進水
1970 3.14 日本原子力発電敦賀発電所、営業運転開始 11.28 完成電力美浜1号原発操業開始
1971 3.26 東京電力福島1号原発操業開始
以上、商業発電としては福島原発は、日本3番目です。最初期のモデルということになります。具体的に、原子力情報資料室提供の資料によれば、福島第一原子力発電所の1号機はGE、2号機は GE/東芝、3号機は東芝、4号機は日立、5号機は東芝、6号機は GE/東芝です。運転開始は、1号機が1971年3月26日、2号機が1974年12月22日、3号機が1976年3月27日、4号機が1978年10月12日、5号機が1978年4月18日、6号機が1979年10月24日です。炉型はすべて BWR です。
今月は、この時点で107枚。風邪で熱のある幼稚園児が声が出ないと泣いて、4時過ぎ。水とミルクを飲んでまた寝付きました。室温11度。冷え込みがきつい。数値は変わったかもしれませんが、昨日見たときの予報では、東京でも最低気温が零下2度と出ていました。
小学生二人はいつもの時刻にでかけました。ちいさいちびは、地震のあった11日(金曜日)に発病しています。1週間ぶりの登校になります。給食で牛乳が出せないということで、お茶をポットに入れてもっていきました。
幼稚園児の起床は、8時半。夜中起きたせいで、朝が遅くなりました。よく寝てくれたので、現時点では熱は下がっています。(お昼過ぎまたは夕刻、熱が再度出てくるかもしれません。経過観察です。)
おっと、頭が妙に痒いと思ったら、ジンマシンでした。久しぶりです。データを調べないままでいうと、この時期に多い気がします。原因は、花粉症&疲労でしょうか。
→データを調べました。(すなわち、このサイトを検索しました。)去年の8月25日以来です。ほぼ半年ぶりです。発症するのは、やはり、2月3月が多い。
(2005.2.10; 2006.2.18; 2006.5.17; 2006.6.7; 2007.2.25; 2008.3, 4, 6; 2010.8.25)
日付データを見ると、花粉症はひとつのひきがねになっていると言えるでしょう。あとのひきがねは疲労でしょうか。[本日の計画停電]
杉並区は、東電からの連絡として、次のようにサイトに掲示しています。
○3月18日(金曜) 当初予定されていましたが、計画停電は中止になりました。
○3月19日(土曜) ・午後6時20分~午後10時 の間の約3時間
○3月20日(日曜) ・午後3時20分~午後7時 の間の約3時間
○3月21日(祝日) ・午後0時20分~午後4時 の間の約3時間
○3月22日(火曜) ・午前9時20分~午後1時 午後4時50分~午後8時30分の間の約3時間西武多摩川線は、(昨日大学の事務から届いたメールとは違って)西武線のサイトでは、終日運転するとあります。
夜半に目覚めてすこし仕事。目覚めたのは、花粉症のせいです。鼻が詰まりました。幼稚園児はまだ風邪(38度前後の熱が出ています)、ちいさいちびは学級閉鎖で、結局長女ひとり学校にでかけました。
私は用事があったので朝一番とお昼前に外出しました。人通りの多いコンビニ(たとえば駅のすぐ近く)ではほんとうにものが少なく、場所の不便なコンビニでは比較的多くの品物がありました。まあ、当然のことではあります。
テレビで心理学者が「不安解消行動」という言葉を口にしていました。「不安解消行動」なので大目に見る必要があります。その先は政府とメディアの責任となります。不安をできるだけ慰撫すること、正確な情報を提供して事態の把握ができるようにすること、このことが求められます。[本日の大学へのアクセスと計画停電]
大学の事務から、西武多摩川線の本日(3月17日)の運行予定が来ていました。
11時30分から16時30分まで運休だそうです。計画停電ですが、第3グループとして、午後3時20分から実施する旨東電より連絡があったと通知されました。大学にはバックアップ電源があります。非常用設備にはただちにバックアップ電源より電気が送られるとありました。
[杉並区の計画停電]
杉並区のサイトに「3月17日(木曜)~3月21日(祝日)に予定されていた計画停電は中止になりました」とあります。[献本]
昨日大学に次の本が届いていました。著者からの献本です。横田さん、ご高配頂き、ありがとうございます。横田陽子
『技術からみた日本衛生行政史』 晃洋書房、2011[『化学史研究』2011年第1号]
朝一番に『化学史研究』第38巻第1号(2011)が届きました。目次は次の通りです。[巻頭言]古川安「新会長に就任して」第38巻(2011): 1
[論文]古川安「化学から歴史へ:日本の化学史家とそのコミュニティ」第38巻(2011): 2-17
[論文]児玉洋一・藤村修三「化学企業内での技術伝播―三井化学における半導体表面保護テープ開発の事例―」第38巻(2011): 19-27
[資料]小澤健志「お雇いドイツ人理化学教師G.ワグネルの生い立ちと修学歴について 」第38巻(2011): 28-36
[広場]渡邉慶昭「化学啓蒙書の系譜:19世紀ドイツの啓蒙書」第38巻(2011): 37-41
[表紙絵解説]金城徳幸「Max Joseph von Pettenkofer (1818-1901)」 第38巻(2011): 41
[広場]内田正夫「カールスルーエ化学者国際会議150周年」第38巻(2011): 42-43
[寄書]大西寛, 第38巻(2011): 43
[紹介]菊地原洋平「パラケルスス『医師の迷宮』」第38巻(2011): 44-46
[紹介]三時眞貴子「大野誠編『近代イギリスと公共圏』」第38巻(2011): 46-48
[紹介]和田正法「天野郁夫『大学の誕生』上下」第38巻(2011): 48-50
[紹介]内田正夫「入口紀男『メチル水銀を水俣湾に流す』 」第38巻(2011): 50-51
[紹介] 大野誠「村上陽一郎編『日本の科学者 101』 」第38巻(2011): 52
午後、次の本が届きました。
Marco Beretta, Antonio Clericuzio and Lawrence M. Principe (eds.),
The Accademia Del Cimento and Its European Context
Sagamore Beach. Mass.; Science History Publications, 2009
幼稚園児が起きて、5時50分。はやすぎます。夜にも静岡を震源とする震度5の地震がありました。これも仕方がないのかもしれません。室温14度。ちいさいちびは昨日の時点でもう発熱はなくなりました。今日は普通の顔にもどっています。かわりに、昨日から幼稚園児が咳をするようになりました。今朝の目覚めもはやすぎます。と思ったら、熱が出ていました。37度7分。おねえちゃんの風邪をもらったようです。私が朝一番で青梅街道沿いのコンビニを回ってミルクを探してから帰ってくるといびきをかいて寝ていました。風邪のときは寝るのが一番です。
ちなみに4軒のコンビニを回りました。昨日よりは明らかにましな状況ですが、おおざっぱに見積もっていつもの半分といったところでしょうか。個人的には、都内で店頭にものがないのは、石油ショックのときのトイレットペーパー騒動と同じではないかと見ています。供給は足りている。ただし、地震のショックに計画停電の通報が重なり、自宅に食料を蓄える行動に多くの方が駆り立てられたせいで、店頭在庫が足りなくなっているだけだと思われます。
物流は遅れてはいるかもしれませんが、たかだか半日ではないでしょうか。
今週末には正常化すると見ています。一般のわれわれに何かができるわけではありませんが、今一番の関心は、福島の原子炉でしょう。昨日、原子力情報資料室が USTREAM で的確な情報整理をしてくれていました。諸外国の判断には、すでにスリーマイルの事故を越えたというのもあるようです。アメリカの本格的な支援も含めて、最悪の事態に備えた危機対応をとるべきでしょう。
さて、本日は午後ずっと会議。学部教授会も大学院教授会もあります。
まず、アクセスから。西武多摩川線は、当初は運行しないとありましたが、今朝の通告では、初電から14時30分頃までと19時30分から終電までは運行するとあります。 (逆に言えば、午後2時半から7時半は運休するということです。)
帰りの足は確保できたことになります。
(バスも大丈夫でしょう。)次は、キャンパスの計画停電。昨日大学から届いたメールでは、府中キャンパスは第3グループに属し、16日の夕刻(午後6時20分から午後10時)計画停電のエリアになるようです。
府中市のサイトを見ると、朝日町1丁目から3丁目(大学は3丁目)は、第2グループにも第3グループにも入っています。大学からのメールを信じれば、第3グループですが、ウェブでは第2グループとするのも多い。このあたりが困るところです。
→どうも、文字通り「第2グループにも第3グループにも入っている」ということのようです。つまり、両方で停電する計画のようです。(きちんとした説明がないので正確にはわかりませんが、地図ではそう読めます。)→会議は1時から。12時前に家をでました。武蔵境ではいつもとすこし時刻表が違っていました。しかし、支障なく動いています。大学について、郵便物を受け取り、研究室へ。途中、共同研究室をあけて片づけをしている李先生を見つけ、立ち話。ガラス戸が一枚割れたのでその片づけをしているということです。原子力についてしばらく雑談。
その後自分の研究室へ。地震後はじめてです。おお、ドアが開きません。ちょうどドアの前に本が積み重なっておちたようです。力任せに開けると、一歩も動けません。ざっと見積もったところ150冊から200冊近くの本が落下しています。まずはおちている本を拾ってテーブルの上に積み重ね、パソコンまでの道をつくりました。
1時からの会議はすぐに終わりました。次の会議までの間で、机のまわりにおちている本だけなんとか机の上に重ねました。本格的な片づけはまたにします。2時から、大学院教授会、それから学部教授会へと続きます。
夕刻から計画停電が実施されるということで、駆け足で議題を処理しています。何と、5時前に終了しました。駅前のバス停に行くと、6分と言っています。5時6分に三鷹駅行きのバスがきました。この路線のバスに乗るのははじめてです。30分で三鷹駅につきました。
ということで、6時前には帰宅することができました。次は土曜日にまた教授会です。
→久しぶりに(近所以外の)外にでたことで花粉症がひどい。長女のように泣き出したくなるぐらい目が痒く、鼻水もでます。ついに鼻がつまってきました。これは苦しい。
ひとりで4時15分。室温17度。大地震があって4日目になります。おおきいちびはいつもの時刻にいつものように、幼稚園児もいつもの時刻にでかけていきました。幼稚園児は今日からお弁当なしなので、お昼には帰ってきます。昨日はホワイトデーのお返しを5袋用意しましたが、一袋もって帰ってきました。お休みだったようです。そのなかに入れていた自分たちでつくったドーナッツを帰ってから早速食べていました。日持ちのするものではないので、ただしい対応です。
昨日から『地域研究としてのアジア』(末廣昭編、岩波書店、2006)をすこしずつ読み進めています。地域研究者による「日本と世界における地域研究の展望」が必要だと思われます。私の大学の同僚には地域研究者が数多くいます。誰とはよくわかりませんが、必要な作業だと思われます。学生にもわかる水準で記述して、できれば出版してほしい。
[地元の計画停電]
実際に計画停電が実施されるとするときちんと備えておかなくてはなりません。最初の発表から二転三転した東電の計画停電ですが、途中から杉並区はグループ1に名前があがるようになりました。
さて、それでは停電するのか?
東電のホームページは当然のことながら接続が難しい。東電は大きな事業者には連絡しているはずですから、そちらのサイトを見た方が詳細かつ正確です。
杉並区のサイトに次の情報がありました。(「杉並区」と「計画停電」で検索するとすぐに見つけることができます。)
杉並区のなかで計画停電の実施地区となったのは、松庵3丁目、善福寺1~4丁目、西荻北3~5丁目です。当初の発表から、グループ1には武蔵野市が含まれていました。要するに吉祥寺のある市です。区域を広げるのであれば、(電線を考えれば当然)その隣接する区域からでしょう。地図を見てみると、その通りになっていました。正確な名称では西荻南中央通りと(西荻)北銀座通りの西側(吉祥寺側)です。通りの名前に詳しくない方のために説明すると、西荻窪駅の駅の端で中央線の線路にほぼ直交している道路よりも吉祥寺寄りの区域です。(駅から東京女子大や善福寺公園に向かう一帯です。)
本日(15日火曜日)は、その地域で午後3時20分から午後6時20分の3時間計画停電が予定されているということです。正確には杉並区のサイトを見て下さい。東電の発表は、あまりに技術者サイドの視点に偏っていると思います。発表の前に女性に入ってもらい、普通の生活者にわかる・わかりやすい発表を心掛けるべきだと思います。東電にも女性の有能な広報担当者がいると思います。何を言っているのかよくわからないもごもごおじさんではなく、言語明瞭・頭脳明晰な方を広報担当者として立てるのがよいのではないでしょうか。
6時10分。室温15度。妻は起きて、テレビを見ていました。計画停電のことが心配のようです。昨日の夜確認したものと情報が変わってきています。計画停電の実施に当たり、相当程度の混乱が予想されます。我が家にとってはまずは小学校と幼稚園。ちいさいちびは風邪からの回復がまだなので、休ませることは昨日決めていました。学校が計画停電に当たるとどうするのでしょうか?ただちにはわかりません。
とりあえず、おおきいちびはいつもとおり学校に行きました。ただしランドセルは金曜日に学校においたままなので、手提げ袋ででかけていきました。
ちいさいちびはお休み。
幼稚園児は歯医者さんに行ったあと、幼稚園へ。幼稚園のお弁当は今日が最終日です。明日からは午前中で帰ってきます。妻は帰宅後、クイーンズにでかけましたが、閉まっていたということです。物流に影響があること、あとはみんな買いだめ行動にでているせいでしょう。
私自身も自分の目で外の様子を確かめるために、近所のコンビニを回ってみました。明らかに普段とわずかに様子が違います。月曜日だとありえないお父さんとちいさい子どものカップルが目立ちます。出社を取りやめた方でしょうか。
近所の、立地がいまいちなためいつも割と空いているコンビニにまず寄っていました。おお、そもそも店がなくなっています。もちろん、今回の地震とは関係なく、立地のせいで店を閉めたものでしょう。次に、セブンイレブンへ。確かにパンの棚に残りはほとんどありません。カップ麺のコーナーも店頭在庫はすくなくなっています。今日の昼食、すなわち、おにぎりやサンドイッチの棚には十分品物がありました。いずれにせよ物流がきびしい状況であるのは変わりないようです。幼稚園児が帰宅してしばらくしてから次の本がアマゾンのマーケットプレイスより届きました。
丸沢常哉『真中国建設と満鉄中央試験所』二月社、1979
図書館が所蔵を止めた本です。高石市立図書館のシールが貼っています。私にはありがたいが、もったいないことをします。
序文を陳舜臣が書いています。うしろに、「対談・満鉄中央試験所と丸沢先生」森川清・萩原定司;「あとがき」丸沢美千子;「付録・満鉄中央試験所概略年表&満鉄中央試験所研究工業化実績概略表」がついています。おおきいちびが帰ってきて、なんと、ちいさいちびのクラスが学級閉鎖になったことがわかりました。学校からの通知には、9名がインフルエンザ(大半が非A型)、他の病気もあわせて14名が欠席とあります。この期に及んで、インフルエンザが流行してしまったようです。他の学年の数字は普通ですから、何か要因があるのでしょう。
インフルエンザのときのように高熱になっているわけではないのですが、熱がひかず、相変わらずお腹が強烈に痛くなる時間帯があります。ちいさいちびは明日も休ませるつもりにしていましたが、これですくなくともあと3日は、お休みが決まりました。
担任の先生から電話があり、宿題を比較的多めに出したが、最悪、来週の火曜日でもよいです、ということでした。大学後期日程入試。
この状況で、入試を実施するのは極めて難しいだろうと考えていました。先ほど、大学のサイトを見ると、後期入試中止の知らせがありました。
状況によって正当な判断だと思われます。なお、我々教員へのメールはまだ来ていません。停電のせいで学内からメールが発進できないのかもしれません。あるいはサーバ、または接続が切られているのかもしれません。
→大学のネットワークの外部との接続が切れていました。回復してから、16日の入試は中止する、会議は午後ずっとやる、ということです。→西武多摩川線は、明日以降、運行停止とあります。帰途を確保できないまま送り出すことはできないとあります。そういう考え方も成り立ちます。大学当局も検討すると思いますが、私の方でも、会議に是非来いとなった場合のルートを確認しました。本数は電車よりも少なくなりますが、三鷹からバスで何とかなることがわかりました。一応時刻表をプリントアウトしておきました。
→武蔵境から大学へ直接向かうバスがあれば便利なのですが、存在しないようです。電車が混雑するかもしれませんが、三鷹がやはり便利なようです。戦中に存在した研究教育機関には興味深いものが多い。
東亜研究所
1938年(昭和13年)9月、企画院の外郭団体として設立された。第二次世界大戦終結後(1946年中)に解散したので8年の存続期間である。そのわずか8年の間に「広汎な領域にわたり、有能な研究者達を戦争遂行のために動員した。「国策」の下広汎に人材を動員する力は正に他の研究機関を睥するものがあり、優に1000名を越える研究者をかかえる(1943年当時)巨大組織として運営された。」とあります。「所蔵資料と土地資産は財団法人政治経済研究所に継承された」そうです。北京大学
今堀誠二(いまほり・せいじ 1914-92 広島文理大) 39年文部省留学生として内蒙古調査、北京師範大学講師
鞍田純(くらた・じゅん 1902-78 東大農学) 東京帝大農経助教授、北京大学農学院
高橋勇治(たかはし・ゆうじ 1909-92 東大法科) 38年東方文化学院、42-45年北京大学助教授、
那須皓(なす・しろし 1888-1970 東大農学) 回想録『惜石舎雑録』農村更正協会、1982.那須皓先生追悼集編集委員会編『那須皓先生―遺文と追想』農村更正協会、1985.横山宏編『遊華老残記―国立北京大学農学院への回想』私家版、1991。鞍田純「中国時代の那須先生」『明治大正農政経済名著集月報』農山漁村文化協会、1977。農業経済学者、17年東京帝大農学部助教授、20-22年欧米留学、23年同教授、昭和研究会常任委員、北京大学農学院創立者。戦後は、GHQ 天然資源局顧問、46年東大退官、47-50年公職追放、57-61年インド特命全権大使
錦織英夫(にしこり・ひでお 1903-89 東大農学) 北京大学農学院
西山武一(にしやま・たけいち 1903-85 東大農学) 北京大学農学院
さて、この「北京大学」とは何でしょう? ウェブで検索してもほとんどヒットしません。田島俊雄「第2章 農業農村調査の系譜」『地域研究としてのアジア』(末廣昭編、岩波書店、2006), pp.67-104のなかに次のように記されています。
「北京での日本の調査研究活動は、この義和団事件の賠償金等にもとづく外務省の「対支文化事業」として1923年に始まる。1937年7月以降の日本占領下には、国策会社としての・・・華北産業科学研究所・華北農事試験所が拡充され、華北総合調査研究所などが新設された。さらに国民政府の内陸移転とともに西遷した高等教育機関の空白を埋めるべく、興亜院華北連絡部および「臨時政府」によって農学院、医学院、理学院、人文学院、法学院などを有する総合大学として「国立北京大学」が設立されている。」(p.70)
「国立北京大学の場合には、日本からの「留学生」を受け入れつつ、中国人学生を主たる対象とする総合大学として設立されている。1938年より45年までの8年間近くの間に、占領地・傀儡政権治下の研究教育活動が集中的かつ本格的に展開された。」(p.71)
「このように農学院のスタッフは教授を中心に日本人が配置されたが、多くは中国人教員で、既述のように授業も中国語で行われた。日本人教員の場合は通訳付きの授業だった。一般の学生募集は男女共学、内外無差別による入試で行われ、中国人のみならず在中国で中国語教育を日本籍の高卒者も受験した。」(p.74)「国立北京大学」に関する研究は、ほんとうに少ないようです。「京城帝国大学」「台北帝国大学」だけではなく、「国立北京大学」も研究に値すると思われます。
ということで、田島俊雄氏の研究は非常に貴重な「国立北京大学」に関する研究だと言えるでしょう。
ひとりで4時25分。室温14度。[我が家の地震]
地震が来たとき私は居間にいました。ちいさいちびは風邪で2階の自分の部屋で寝ていました。居間ではものが数点おちました。ビデオ、CD、本を収納している棚がすこし傾きました。子どもたちの部屋では、おおきいちびの棚の上の荷物がすべておちていました。とくに重いものはないので、仮に落下のときに居合わせたとしても、すこし痛い思いをするだけですむでしょう。幼稚園児の部屋でも不安定なものが倒れていました。寝室でもいくらかものが落下していました。
そして、最大の落下は我が部屋です。本棚の上の空間、天上までのあいだに横置きしている本が一定割合でおちました。それが下の積み重なっている資料と本を直撃し、たぶんあわせて数十冊が床に散乱していました。面倒ですが、これはただ片づければよい話です。しばらくしてから通路だけつくりました。
おちてきたもののなかには、存在を忘れていたものもあります。たとえば、『マルコポーロ』1995年2月号。この雑誌が廃刊に追い込まれた記事が掲載されています。偶然開いたページは、佐野眞一の『巨怪伝』(文芸春秋)。正力松太郎の評伝・ルポルタージュです。「九四年は、讀賣新聞史上、最も輝ける一年だった。創刊百二十周年を迎え、発行部数一千万部達成。巨人軍創立六十週年を長嶋監督のもと、日本一で飾った。」とあります。日本の戦後史における正力の意味に迫る渾身のノンフィクションでしょう。
地震で動かなくなったもののうち、最大は床暖房です。風呂給湯器のコンセントが(おそらく猫のせいで)抜けていた事件のことは頭にあります。外に出て、床暖房の給湯器を見てみました。動いていません。コンセントを挿し直したら動き始めました。
しかし、しばらくするとまた止まっています。何度か同じ作業を繰り返しました。当日は、余震が何度も続きました。その振動でコンセントの部分が緩むのでしょう。何度目かのときに、別のコンセント口に差し替えました。それで安定して動くようになりました。 風呂給湯器の事例を参考にすれば、基盤を替えるだけで2~3万円、本体を替えるにはたぶん数十万円かかります。東京ガスのCMでやっているように給湯器には耐用年数がありますから、いずれ交換せざるをえないでしょう。去年の春からものいりが続いたのでいますぐはきつい。もうすこしもってくれるたたすかります。今年はもうすぐ春ですから、使わなくてすめばそれがいちばんです。
ひとりで4時30分。室温12度。今日は、大学の後期日程入学試験の日ですが、16日に延期というメールが大学から届きました。交通機関のことを考えたら当然の対応だと思われます。ブルガリアの研究者から安否確認のメールが来ていました。あの映像が世界に流れたのであれば、どういう大変なことが起きているのか心配になるのは当然の反応です。
幼稚園児といっしょに買い物に出ました。まずはセイユウ。おお、なんと閉まっています。地震の影響で閉店。いつ開店できるかわからないとあります。
仕方がないので、もとのダイエーに行きました。我々と同じようにセイユウからの回遊組がいて、いつもより明らかに混んでいます。幼稚園児は自分の欲しいものがおいてあって満足。私の方は、我が家の必需品であるミルクを3本と夕食の野菜をいくらか買いました。2時間ほどして、今度は、クイーンズへ。八幡神社の石灯籠が倒れています。あの揺れであれば、石灯籠はどこでも倒れたのではないでしょうか。屋根瓦が落下した家も散見されました。
クイーンズではパンのコーナーがからっぽでした。パン工場が被害を受けたか、物流が止まっているかのいずれかです。高速が開通しない限り、物流は影響を受けます。東電は明日3時間毎の停電を検討中とあります。
ひとりで4時10分。室温13度。学校にいく準備をしていて、ちいさいちびがお腹が痛い、気分が悪いと言います。お腹の風邪かもしれませんが、ただ、ちょっとした腹痛かもしれません。ともあれ、今日は休ませます。
様子を見ると、主としてお腹に来る風邪のようです。気分が悪く、微熱があります。妻が幼稚園児を迎えにいっているあいだに大地震。揺れからこれは大きいということがすぐにわかりました。2階で寝ていたちいさいちびが揺れが収まってから降りてきました。大人でも怖いほどの揺れですから、怖かったのでしょう。気分の悪さが増したようです。3時過ぎに妻と幼稚園児が帰ってきました。幼稚園のマンション(幼稚園は、マンションの1階2階に入っています)と隣の建築中のマンションが大きく揺れていて怖かったといいます。
妻は、すぐに小学校におおきいちびを迎えに行きました。ランドセルは教室に、靴は下駄履きに残したまま、すなわち上履きで帰ってきました。小学校では泣いていた子もいたようです。どうも電車が止まったままのようなので、両親ともに電車で働きに出ている家庭では、子どものアテンドが心配です。その後のニュースのよれば、マグニチュード8.8。気象庁も想定外の大きな地震だったようです。
朝一番で次の本が届きました。
読売新聞社『昭和史の天皇 ゴールド版4 関東軍壊滅す』読売新聞社、19803月1日に届いた末廣昭責任編集『岩波講座 「帝国」日本の学知〈第6巻〉地域研究としてのアジア』(岩波書店、2006)の最後には、編者末廣昭氏の手になる「付録 アジア調査研究関連人物データ」が掲載されています。286名をショートノーティスの形でリストアップする労作です。とくに、市場にはでなかった私家本としての自伝をきちんと収録してくれているのは非常に有用です。
さて、このリストですが、全部読み通すと気がつくことが多くあります。
286名のうち、まず、京城帝国大学と台北帝国大学に職を得た方を全部拾ってみます。秋葉隆(あきば・たかし 1888-1954)京城帝国大学教授 東北アジアのシャーマニズムの研究者
岩生誠一(いわお・せいいち 1900-88) 台北帝国大学 東京大学文学部南方研究所教授
移川子之蔵(うつしかわ・ねのぞう 1884-1947) ハーバード大学で最初の人類学博士号取得者、1928年台北帝国大学教授
小川尚義(おがわ・なおよし 1869-1947) 30年台北帝国大学創立とともに文政学部言語学教室講師、のちに教授
小倉進平(おぐら・しんぺい 1882-1944)26年京城帝国大学創立とともに教授
金関丈夫(かなぜき・たけお 1897-1983)京大医学部卒、台北帝国大学医学部教授
小葉田淳(こばた・あつし 1905-2001) 30年台北帝国大学講師、同助教授、35年琉球王国の『歴代宝案』交易記録を発掘。敗戦後、国立台湾大学副教授として留用。帰国後京大教授。
鈴木栄太郎(すずき・えいたろう 1894-1968)京城帝国大学法文学部教授。農村社会学。46-47年、GHQ/CIE の社会・農村調査に協力。
鈴木武雄(すずき・たけお 1901-75) 28年京城帝国大学助教授、35年同教授、同大満蒙文化研究会、
鳥山喜一(とりやま・きいち 1887-1959) 28-45年京城帝国大学教授。東大史学科卒、歴史家・啓蒙家。
根岸勉治(ねぎし・べんじ 1900-82) 台北帝国大学教授。農学者。
藤島亥治郎(ふじしま・がいじろう 1899-2002) 京城高等工業教授。東洋建築し研究の第一人者。
前嶋信次(まえしま・しんじ 1903-83) 台北帝国大学助手、満鉄東亜経済調査局、回教圏研究所、東亜研究所、東京外国大学講師を経て、51-71慶應義塾大学文学部教授。
松田壽男(まつだ・ひさお 1903-82) 京城帝国大学教授
馬淵東一(まぶち・とういち 1909-88) 台北帝国大学嘱託・助教授、満鉄東亜経済調査局、50年GHQ/CIE の家族調査に協力。
丸沢常哉(まるさわ・つねや 1883-1962) 東大応用化学科卒、09年東京工業試験所技師を経て、九州帝大助教授、ドイツ留学帰国後、同大教授。25年旅順工科大学教授、その後大阪大学工学部長、36-40年満鉄中央試験所長、敗戦後は中国に残留し55年帰国。
森谷克巳(もりたに・かつみ 1904-64) 京城帝国大学教授。経済学者。
山田三郎(やまだ・さぶろう 1869-1965) 36年京城帝国大学総長。法学者。『回顧録―山田三郎先生米寿祝賀会』(1957,非売品)
基本をまとめておきます。1924年、京城帝国大学は朝鮮総督府所管の帝国大学として設立されています。(帝国大学としては6番目。)このときにはまず大学予科(修業年限2年)ができています。1926年(大正15年)5月に法文学部と医学部が設置されています。理工学部の設置はずいぶん遅れて1941年。
台北帝国大学の方は、すこし遅れて、1928年3月16日に設立されています。(帝国大学としては7番目。)学部は、文政学部と理農学部の2学部でスタートしています。日本敗戦時には、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部の5学部となっています。その時点の理学部は、化学科、 動物学科、 植物学科、地質学科、附属植物園からなっていた。化学、生物学、地質学という構成です。物理学や数学がないことが大きな特徴でしょう。
つまり、理工系ということで言えば、明らかに、台北の方が重視されています。
ひとりで5時25分。室温13度。今日はまた真冬並みの寒さということです。花粉症がかなり苦しい。目と鼻口を直撃といった感じです。夕食前、宿題をやっていたおおきいちびが下に降りてきて、目が痒いといって大泣きをしていました。30分程度泣き続けました。1時間程度で立ち直りましたが、まあ、痒いは痒い。
お昼過ぎに次の本が届きました。
ルイーザ・ベケルッチ解説『日本語版 美術の宝庫 ウフィッチ』石橋典子訳、Guinti, 1998
本自体にはこれがどういう性格のものであるかの説明はありません。ISBN はついていますから、本として出版されたことには間違いありませんが、市場には出さなかったのかもしれません(展覧会のときにその会場にのみおいたのでしょうか?)。
63頁の新書より若干大きめの書物です。Guintiのこの本は美術の普及版として本屋さんにはよく並んでいるので、ほとんどの方は見たことがあるはずです。41点の図版、22点の図版解説が採録されています。ウフィッチ美術館の基本的な解説書です。ルネッサンス絵画が好きな方にはたまらない美術館ではないでしょうか。[山口直樹氏の論考 書評を中心に]
サイニーで山口直樹さんの次の論考(書評)がゲットできます。私にはとても勉強になります。中生勝美氏の『植民地人類学の展望』がこういう場所で紹介されていたとはちょっと意外でした。
(一時的なものかもしれませんが、今朝は、サイニーの著者検索ができなくなっていました。事項検索はできるので、代替手段はありますが、不便ではあります。)山口直樹「[書評]金子淳 『博物館の政治学』青弓社, 2001」『科学史研究』Series II 41(221), 45-48, 2002-06-27
山口直樹「[書評]任正〓編,『現代朝鮮の科学者たち』 彩流社, 1997年」『科学史研究』Series II 41(221), 48-51, 2002-06-27
山口直樹「[書評]中生勝美編『植民地人類学の展望』(風響社, 2000年)」『科学史研究』Series II 41(223), 184-188, 2002-09-25
山口直樹「[書評]小野清美『テクノクラートの世界とナチズム-「近代の超克」のユートピア』 (ミネルヴァ書房 1997)」『科学史研究』eries II 41(224), 250-253, 2002-12-25
山口直樹「「満州国」の科学技術動員体制について」『科学史研究』第II期 43(229), 50-51, 2004-03-25
河村 豊 , 田中 浩明 , 山口 直樹 , 矢島 道子 , 常石 敬一 , 加藤 茂生 , 山崎 正勝「日本戦時科学史の現状と課題(2003年度年会報告)」『科学史研究』Series II 43(229), 45-56, 2004-03-25
山口直樹「[書評]久保享他編『興亜院と戦時中国調査-付刊行物所在目録-』 (岩波書店, 2002)」『科学史研究』Series II 43(230), 120-123, 2004-06-25
山口直樹「[書評]宮武公夫『テクノロジーの人類学』 岩波書店, 2000年」『科学史研究』Series II 43(232), 247-249, 2004-12-22
山口直樹「満州国の科学技術動員体制の構造(第22回国際科学史会議での日本からの報告(続))」『科学史研究』Series II 45(238), 107-108, 2006-06-27
山口直樹「[書評]張九辰『地質学与民国社会 1916-1950』 山東教育出版社, 2005年」『科学史研究』Series II 46(242), 119-121, 2007-06-26
こちらもプリントアウトせずに画面で読んでいます。この目的のために、春になったら、iPad または マックブックエアーを入手しようと思います。
すこしおくれて7時。4番目。最後の幼稚園児もすぐに起きてきました。室温13度。[山崎正勝氏の原子力・原爆研究 『科学史研究』における]
山崎正勝氏の『科学史研究』に掲載された原子力・原爆関係の論文は読むつもりでした。『科学史研究』は研究室にあるはずなのですが、探し出すのが億劫で、場合によっては駒場の図書館まででかけてコピーを取ろうかと思っていました。
しかし、『科学史研究』の論文はネット(サイニーのpdf)で得られるという話題を思い出しました。
早速検索をかけて次のものをダウンロードし、読みました。
山崎正勝「日本における『平和のための原子(アトムズ・フォー・ピース)』政策の展開」『科学史研究』第47巻、249号、11-21頁、2009年
山崎正勝「ビキニ事件後の原子炉導入論の台頭」『科学史研究』第43巻、230号、83-93頁、2004年
山崎正勝「第二次世界大戦時の日本の原爆開発」『日本物理学会誌』第56巻8月号、584-590、2001年
山崎正勝「理研の「ウラニウム爆弾」構想-第二次世界大戦期の日本の核兵器研究-」『科学史研究』第40巻218号、87-96頁、2001年
これまでは読むときには全部プリントアウトしていたのですが、そろそろプリントアウトを減らし、画面上で済むものは済むようにしようかと考え、画面上で読みました。ノートパソコンの小さな画面ではいくらか不便ですが、大きな問題とはなりません。
2009年のものもありますから、山崎さん達の日本の原爆開発&原子力開発研究の到達点がほぼわかりました。有馬哲夫さんの本と比較すると、研究の動向がよく見えると思います。夕刻、次の本がアマゾンのマーケットプレイスより届きました。
豊崎 博光
『核の影を追って:ビキニからチェルノブイリへ』
(気球の本) NTT出版、1996会議の日。
会議は順調に終わりました。それはありがたかったのですが、帰宅すると花粉症がひどいことになっていました。鼻水もでますが、それよりも目の痒さがほとんど限界です。長女も同じ症状で、ほとんどクレイジーになっていました。
ひとりで5時50分。室温13度。今日はまた普通の気温に戻るようです。[17世紀のアカデミー]
日本語の先行研究もまとめておこうと思います。1.アカデミア・デル・チメント
サイニーとグーグルスカラーで見る限り、日本語ではアカデミア・デル・チメントそのものを研究対象とした研究論文はないようです。
なお、グーグルブックに美術の宝庫 ウフィッチという日本語訳が現れますが、この書物が現実の図書館で見つかりません。どなたかわかる方のヘルプを求めます。
→Tさんに教えてもらいました。ありがとうございます。日本の古本屋さんにありました。展覧会のときのカタログのようです。ウフィッチ美術館の力でしょうか。イタリア語、英語、スペイン語のものはずいぶん出されています。日本語でも売れると思うのですが、出版社は尻込みしているのでしょうか。2.パリの王立科学アカデミー
隠岐さんと吉田さんが論文を書いておられます。
隠岐さや香「一七八〇年代のパリ王立科学アカデミーと「政治経済学」」『Archive for philosophy and the history of science』3, 95-118, 2001-01-31
隠岐さや香「"The Utility of Science" in the Discourses of Permanent Secretaries at the Royal Academy of Sciences of Paris in the 18th Century and Its Historical Context [in Japanese]」『The Journal of the Japanese Society for the History of Chemistry』29(3), 154-171, 2002-09-14
隠岐さや香「パリ王立科学アカデミーと化学」『化学史研究』35(2), 110-111, 2008-06-25
OKI Sayaka 隠岐さや香「L' Academie royale des sciences de Paris et l'amenagement des rivieres au XVIII^e siecle [in Japanese]」『Journal of history of science, Japan.』Series II 48(251), 129-141, 2009-09-25
吉田晃「Pages for the history of science: History of the Paris Royal Academy of Sciences [in Japanese]」『学術の動向』12(6), 90-95, 2007-06
サイニーの表現をそのまま採用しておきます。時間のあるときに、本来日本語のものは日本語で表記するようになおします。3.ロンドンの王立協会
王立協会に関しては、何と言っても、マイケル・ハンターの研究が中心です。私にはなじみの世界ですが、邦語の論文を検索するのははじめてかもしれません。
川島昭夫「ロンドン王立協会の起源--初期王立協会研究ノ-ト-1-」『神戸外大論叢』30(4), p73-98, 1979-10
小野泰博「ロンドン王立協会の成立について (草野正名教授退官記念号) 」『Memoirs of the Toshokan Tanki Daigaku』 (17), p59-70, 1979
金子務「「王立協会秘書」以前のオルデンブルク--17世紀後半ヨ-ロッパの科学通信網の形成へ」『Bulletin of the Osaka Prefecture University. The Humanities and social sciences』(35), p17-31, 1987-03
金子務「「フィロソフィカル・トランザクションズ」の誕生--王立協会秘書時代のオルデンブルク-1- 」『Bulletin of the Osaka Prefecture University. The Humanities and social sciences』(36), p31-46, 1988
金子務「王立協会秘書時代のオルデンブルク-2-科学通信網の形成と初期郵便事情」『Bulletin of the Osaka Prefecture University. The Humanities and social sciences』 (37), p55-70, 1989
長尾伸一「ロンドン王立協会とエディンバラ哲学協会--18世紀スコットランド知識社会の中の17世紀イングランド初期啓蒙」『彦根論叢』(269), p131-161, 1991-03
ARIMOTO Takeo「Rise and fall of science and technology powers : ―History of institutionalization of science and technology― (1)」『Journal of Information Processing and Management』 36(7), 580-597, 1993
奥村 俊道 , 岡田 和正 , 鈴木 一「創立期のロンドン王立協会の精神(建築歴史・意匠) 」『研究報告集. 計画系』(63), 481-484, 1993-02-20
Onizuka Shiro「Hooke and Newton : What is Necessary for Studying Them(Series on History of Physics)」『物理教育』 42(3), 331-338, 1994-09-01
Ikuta Shogo「Exuberant Observations : Approaches to Nature by the Royal Society and Sir Thomas Browne [in Japanese]」『Kanazawa law review 』46(2), 43-68, 2004-03-25
FUKUMOTO Tadayuki「Naturalistic Point of View in Poems : Dryden, Pope, the Royal Society, and Bees [in Japanese]」『The Ryukoku journal of humanities and sciences』29(1), 61-74, 2007-09
高橋 誠「Jonathan Swift's "A tale of a tub" and Rosicrucian Movement [in Japanese]」『 国学院大学紀要』48, 93-119, 2010
榛葉 豊「Science at the restoration period and the gentry: Royal Society and virtuoso [in Japanese]」『The Bulletin of the Shizuoka Institute of Science and Technology』18, 85-92, 2010
これもサイニーの表記のままです。グーグルスカラーで検索をかけると数多くの関連する論文がヒットします。簡単には整理できそうにないので、時間ができたときにおってまた作業を行います。
→グーグルスカラーでヒットした pdf の論考をどんどん読んでいました。もちろん、役に立つものは役に立ちます。→すこし気分を変えて、別の検索をしてみました。北京に留学している山口氏のサイトに、中国社会科学院の孫歌氏の講演「竹内好に学ぶこと」(第12回北京日本人学術交流会報告,2009年3月6日於清華大学人文社会学院)がありました。感動しました。これはよい講演です。私は竹内好のそれほどよい読者ではありませんが、もういちどよんでみようかなという気持ちになりました。
ひとりで3時30分。室温16度。4時頃から雨音が聞こえるようになりました。予報の通りです。また冬に戻るということです。ネットで予報を見直すと、最高気温が5度とありました。気温の上下が激しく、体調管理の難しい季節です。
→幼稚園児が出かける頃には、雪に変わっていました。積もるかどうかはわかりませんが、しんしんとよく降っています。[外大教員募集]
東京外国語大学のサイトに、教員の募集が出ています。アフリカ地域研究、中央アジア地域研究、ベンガル語・ベンガル文化研究の3件です。募集要項のなかに新学部の計画が書かれています。このサイトをご覧になっている方で関係のある方はほとんどおられないとは思いますが、日本ではじめての募集かもしれません。ノーティスだけしておきます。[日本の近代化学のあけぼの]
化学史学会のために、「『化学史研究』総目次」(1999年第4号)を作成したとき、1976年11月奈良女子大学で開催された年会の記録が見つからず、誰がどういう講演をしたか不明のままでした。
しばらく前に創立時からの会員の方(須摩修治さん、ほんとうにありがとうございます)に送ってもらった会報に情報があり、WGのメンバーに連絡しました。
ふと思い立ってウェブの方を見ると、その不明部分が埋められています。紙の媒体で出したあとも補足作業をやっていたことは覚えていますが、どういう情報源によって埋めたかの記憶はまったくありません。
まあ、そういうこともあるかな、という話でした。やはり会報に、『化学と工業』誌で連載された「日本の近代化学のあけぼの」の通知が掲載されています。日本の化学史に関しては、まとまった書物は少なく、いまでもこの連載は価値があると思われます。せっかくですので、以下にリスト化しておきます。
島尾永康「命名法の確立と化学のあけぼの(日本の近代化学のあけぼの-1-) 」『化学と工業』29(2), p143-145, 1976-02
吉田忠「近代化学をうけいれはじめたとき―志筑忠雄と実素―(日本の近代化学のあけぼの-2-)」『化学と工業』29(3), p236-238, 1976-03
宗田一「江戸時代の化学装置--蒸留法を中心として(日本の近代化学のあけぼの-3-) 」『化学と工業』29(4), p315-317, 1976-04
坂口正男「"元素"と"原子"―宇田川榕菴を中心とした化学書の翻訳(日本の近代化学のあけぼの-4-) 」『化学と工業』29(5), p390-392, 1976-05
芝哲夫「舎密学から化学へ―川本幸民(日本の近代化学のあけぼの-5-)」『化学と工業』29(6), p467-469, 1976-06
鎌谷親善「塩硝づくりの近代化(日本の近代化学のあけぼの-6-) 」『化学と工業』29(7), p563-565, 1976-07
宗田一「伊勢白粉とソッピル・カロメル製造(日本の近代化学のあけぼの-7-) 」『化学と工業』29(8), p682-684, 1976-08
佐藤昌介「化学教育のはじまり―蕃書調所のばあい(日本の近代化学のあけぼの-8-) 」『化学と工業』 29(9), p761-763, 1976-09
芝哲夫「化学実験教育のはじまり--長崎分析究理所と大阪舎密局(日本の近代化学のあけぼの-9-)」『化学と工業』 29(10), p844-846, 1976-10
杉本勲「近代化学技術の移植と消化--とくに佐賀藩の事業を中心に(日本の近代化学のあけぼの-10-)」『化学と工業』 29(12), p1008-1010, 1976-12
三浦三郎「天然染料についての化学と技術-アイ・ベニ・ムラサキ(日本の近代化学のあけぼの-11-) 」『化学と工業』30(1), p94-96, 1977-01
会田軍太夫「江戸時代のガラス技術(日本の近代化学のあけぼの-12-) 」『化学と工業』30(2), p94-96, 1977-02
柚木学「灘の酒造り―江戸時代を中心に(日本の近代化学のあけぼの-13-) 」『化学と工業』 30(3), p197-199, 1977-03
鎌谷親善「幕末期における化学技術の変遷(日本の近代化学のあけぼの-14-) 」『化学と工業』30(4), p279-281, 1977-04
小沢健志「上野彦馬と写真(日本の近代化学のあけぼの-15-)」『化学と工業』30(5), p350-352, 1977-05
藤井清久「江戸期から明治期にかけての物質の理解―粒子から原子へ(日本の近代化学のあけぼの-16-) 」『化学と工業』30(6), p426-428, 1977-06
藤井清久「化学における力―求力と舎密親和力(日本の近代化学のあけぼの-17-) 」『化学と工業』30(7), p515-517, 1977-07
大岩正芳「"酸"をどのように考えていたか(日本の近代化学のあけぼの-18完-)」『化学と工業』 30(8), p595-597, 1977-08
以上、巻号数、ペース数の表記は、サイニーのままです。なお、サイニーで検索をかけると、12と17が出てきません。12は連載表記が「日本近代化学のあけぼの-12-」となっているせいです。17は「日本の近代科学のあけぼの-17-」となっているせいです。雑誌本体の方でこういう表記になっているのかどうかは実物を見て確認する必要があります。
ちょうど同じ頃、日本化学会編纂の通史『日本の化学百年史―化学と化学工業の歩み―』(東京化学同人、1978)が出版されています。
ここに、「原子力開発の20年」という節があります。
「わが国の原子力開発の出発点をいつとすべきかは議論の多い点であるが、事実上は、1954年(昭和29)4月、国会において突然に提出された2億3500万円の最初の原子力予算が成立したときと考えてよいであろう。」
「・・・1956年(昭和31)1月に“原子力基本法”が施行された。わが国最初の実質的な原子力研究機関として、日本原子力研究所が1955年(昭和30)年11月に設立され、1956年6月には特殊法人として改組され、本格的な研究開発はこのころよりスタートした。
わが国最初の研究用原子炉、JRR-1(日本原子力研究所)が臨海に達したのは、翌1957年8月27日である。」(p.1207)
「バラ色に見えた原子力の将来に、早くもかげりが見え始めたのは1960年(昭和35)ころからであろう。実際、第2回ジュネーブ原子力平和利用国際会議(1958)の前後から、原子力開発は世界的にスローダウンの地代にはいったのである。その原因としては、原子力発電の技術開発に当初の予想よりも困難が多く、早急な実用化が望めないことが明らかになってきたことと、もう一つとして、米ソ間の緊張緩和を背景に、石油など化石エネルギー資源の経済性が著しく優位に立つに至ったことがあげられる。」(p.1208)
文章中には、「1975年現在」という言葉があります。4頁の短い節ですが、原爆のことには一切触れていません。第5福竜丸の被爆のこともまったくあげられていません。アメリカの占領政策とその変化もまったく言及されていません。歴史記述としては明かに問題があると言えるでしょう。
学生にその問題を考えさせるのは、よい教育的課題になるとまで言えるでしょう。月に2回、新聞に「定年時代」という別冊子がはいってきます。今日のもの(3月上旬号)のトップが「フォトジャーナリスト豊崎博光さん “ビキニの悲劇”撮る」という記事です。4月3日(日曜日)まで、都立第五福竜丸展示館(JR新木場駅徒歩10分、午前9時半~午後4時)で緊急企画展「イケナイ世界遺産 ビキニ環礁」という展示をやっているということです。春休みに一度行ってこようと思います。
ひとりで4時10分。室温14度。寒さは緩んでいます。昨日の編集委員会の宿題をこなしつつ、手元のものを読んでいます。
ひとりで6時。室温11度。今日、やっと、寒さが緩むようです。いつもは前日に終わらせる編集委員会の準備ですが、昨日は会議が連続して疲れはて、夜はつかいものになりませんでした。したがって、直前まで、編集委員会の準備に追われました。しかも追われると、えてして忘れ物があるものです。
午後4時から東工大にて編集委員会。新築中の図書館がほぼ完成していました。目立つ(奇抜な)デザインです。編集委員会そのものは1時間15分で終了。
ISISの最新号(2010 No.4)とISIS Current Bibliography 2010が届きました。電車のなかでざっと見始めましたが、知らなかった出版物に出会います。何点かは直ちに購入する必要があります。
→まず次の2点を発注しました。
Marco Beretta, Antonio Clericuzio and Lawrence M. Principe (eds.),
The Accademia Del Cimento and Its European Context
Sagamore Beach. Mass.; Science History Publications, 2009Conal Condren, Stephen Gaukroger, and Ian Hunter (eds.),
The Philosopher in Early Modern Europe: The Nature of a Contested Identity
(Ideas in Context),
Cambridge: Cambridge University Press, 20063人の化学史家が編纂するアカデミア・デル・チメントの目次を掲げておきます。
Chap.1, "Lucretius as Hidden Auctoritas of the Cimento," by Marco Beretta
Chap.2, "The Other Side of the Accademia del Cimento: Borelli's Chemical Investigations," by Antonio Clericuzio
Chap.3, "The Experimenters' Anatomy," by Maria Conforti
Chap.4, "Experiments and Thoughts on Light around the Accademia del Cimento," by Suzana Gómez
Chap.5, "Air "articulae" and Mechanical Motions:From the Experiments of the Cimento Academy to Borelli's Hypotheses on the Nature of Air," by Stefania Montacutelli
Chap.6, "Saturn's Handles: Observations, Explanations and Censorship from Galileo to the Accademia del Cimento," by Giorgio Strano
Chap.7, "On the Cimento's "Oak Academies": An Unknown Contribution by Antonio Oliva," by Federica Favino
Chap.8, "A Lofty Mountain, Putrefying Flesh, Styptic Water, and Germinating Seeds: Reflections on Experimental Procedures from Perier to Redi and Beyond," by Domenico Bertoloni Meli
Chap.9, "Genesis of the Saggi and its Publishing Success in the Seventeenth through Nineteenth Centuries," by Alfonso Mirto
Chap.10, "Late Seventeenth-Century "Scientific" Academies in Rome and the Cimento's Disputed Legacy," by Maria Pia Donato
Chap.11, "The Republic of Letters: Boulliau, Leopoldo and the Accademia del Cimento," by Robert A. Hatch
Chap.12, "The Accademia del Cimento and the Académie Royale des Sciences," by David J. Sturdy
Chap.13, "Networking and Experimental Rhetoric in Florence, Bologna and London during the 1660s," by Luciano Boschiero
Chap.14, "Making Correspondents Network: Henry Oldenburg, Philosophical Commerce, and Italian Science 1660-72," by Rob Iliffe
Chap.15, "The Accademia del Cimento and the Royal Society," by Mordechai Feingold
以上の目次を見てもらえばわかるように、私には必須の論文集です。とくに後半の制度史そのものを扱ったものは必読文献となります。
→2011.3.7 ついたばかりのISISに書評が掲載されています。著者は Marta Cavaza。これはわかりやすく、よい書評です。まず、先行研究をきちんとあげてくれています。
1.Luciano Boschiero, Experiment and Natural Philosophy in Seventeenht Century Tuscany: The History of the Accademia del Ciment, Springer, 2007
2.W. E. Knowles Middleton, The Experimenters: A Study of the Academia del Cimento, Johns Hopkins, 1971
他に1980年代のパオロ・ガルッチ Paolo Galluzi 他の研究をあげています。
夜半に目覚めてすこし仕事。予報によれば、今日は昨日よりも寒くなるということです。2回目の起床は7時15分。抜けるような快晴。室温11度。幼稚園児も7時半前に起きてきました。家族揃うとにぎやかです。
会議の日。午後3つ続きます。
1時過ぎに大学につきました。郵便受けに、次の本が入っていました。
隠岐さや香
『科学アカデミーと「有用な科学」:フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』
名古屋大学出版会、2011、384+135pp、7,770円(税込み)
著者の隠岐さんからの献本です。ご高配いただき、ありがとうございます。目次は次の通りです。
序 章 「アカデミーの時代」と科学の制度化
第I部 18世紀前半までのパリ王立科学アカデミー
第1章 学者の社会的地位とアカデミー構想
1 17世紀初頭までにおける学者の社会的地位
2 王の庇護を求めて
3 科学アカデミーと学者の役割
第2章 「有用な科学」の追求と18世紀前半における一定の達成
1 終身書記フォントネルの言説と「有用な科学」の追求
2 「専門性」を生かした副業の模索 ―― レオミュルの嘆願
3 政府と科学アカデミーの関係
第3章 「科学の共和国」と外界に対する距離感
1 政治・文化における分水嶺としての18世紀中葉
2 技術・産業における変化との関わり
第II部 啓蒙のフィロゾーフ達と問い直される科学の「有用性」
第4章 再定義される科学の「有用性」
1 啓蒙のフィロゾーフ達とその科学観
2 啓蒙期の科学観における理論研究の位置と「実利主義」
3 コンドルセの科学観と「有用性」
第5章 政治改革と「科学の共和国」
1 テュルゴーの改革と学者達の挑戦
2 大臣ネッケルの政策と監獄調査
第III部 統治のための科学とコンドルセのユートピア
第6章 1780年代における「エコノミー」研究主題群の展開
1 「エコノミー」分類と旧字綴りの謎
2 宮内大臣ブルトゥイユと科学アカデミーの接近
3 「政治経済学」としての病院改革問題
第7章 コンドルセの社会数学と科学アカデミーの改革
1 《政治算術》とコンドルセ
2 新しい言語としての科学と科学アカデミーの改革
3 人口・保険・公共事業 ―― 「統治の科学」を介した学者と行政官の遭遇
第8章 フランス革命と科学のユートピア
1 革命と科学アカデミー
2 「有用な科学」をめぐる闘争
3 コンドルセの『人間精神進歩の歴史表』と夢の終焉
終 章 「アカデミーの時代」が遺したもの ―― 制度・ユートピア・忘却
1 科学技術史上における科学アカデミー像の再解釈
2 フランス啓蒙思想研究と科学アカデミー史の関わり ―― 「有用性」と科学
3 「エコノミー」と経済学史
4 むすび ―― 「有用な科学」と啓蒙の専制
次に図書館によると、必要な部分が工事中でした。急いでいるのでまたにしました。部屋に戻り、片づけをしてから、2時スタートの会議へ。
学部教授会は3時スタート、院教授会は、7時過ぎに終了。7時16分多磨駅発の電車になんとか間に合い、帰ってくることができました。
ひとりで5時10分。室温13度。天気予報によれは、今日は真冬の寒さが戻ってくるということです。子どもたちは全員無事小学校と幼稚園に行きました。気温が低い上に風が強く吹いて、なるほど寒い。日射しは春の日射しのまま、空気が冷たい。
妻から電話があり、離陸が1時間以上遅れるということです。
→ということで、予定より1時間以上遅れて、4時過ぎに帰ってきました。花巻、ローソン、ドライフルーツなど、食材をお土産に買って帰ってきています。子どもたちは早速好物の花巻をチンして(電子レンジで蒸して)かぶりついていました。夕刻に次の本が届きました。
有馬 哲夫
『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』
新潮社、2006生活時間の差もあり、妻は台北ではあまりよく眠られないようです。お風呂に入り、夕ご飯をたべると、脳も身体もとけるようだと言ってそのまま睡眠につきました。
ひとりで6時。室温14度。天気予報は冬のように寒い日と言っていますが、数字は着実に春に向かっていることを示しています。ちびどもは7時過ぎに階下に来ました。ふたりそろってうるさい。
今日幼稚園は、A組さんのお別れ遠足にあたり、お休み。つまり、ちびどもが帰ってくるまで、我が家に幼稚園児と私ふたりきりということです。
3時5分前、ちびどもがそろって帰ってきました。
3時、アマゾンより次の本が届きました。
有馬 哲夫
『原発・正力・CIA:機密文書で読む昭和裏面史』
新潮新書、20083時5分、ちびどもはふたりともでていきました。
有馬哲夫『原発・正力・CIA:機密文書で読む昭和裏面史』(新潮新書、2008)があまりに面白いので、一気に読んでしまいました。NHKがドラマにするのではないでしょうか。正力松太郎がCIAの後ろ盾を得たり、駆け引きをしたりしながら、自分の野心を実現したり、あるいは失敗したりする姿が圧倒的に面白い。
帯には「原潜ノーチラス号、第5福竜丸事件、日本テレビ、保守大合同、讀賣新聞、吉田茂、アイゼンハワー、原子力発電所、ディズニー、CIA・・・・連鎖の中心には正力松太郎がいた。」とあります。
個人的には、原子力の歴史を見直しておく必要を感じました。
→授業で話をしてわかることですが、学生諸君は、ロケット開発の歴史が、冷戦下の軍事競争であること、ある時期までは打ち上げられた人工衛星の大方が軍事衛星であることを知りません。そして、人工衛星とミサイル(ICBM)の開発においては、ソ連がアメリカをリードした。(スプートニックショック)。同様に、核に関しても、広島と長崎は知っていても、またビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験(1954年)によって第5福竜丸が被爆したことは知っていても、そのことによって日本国民に拡がった反原子力感情(原水爆禁止署名運動では3千万人が署名した)はほとんど知りません。昭和に生まれた人間は、同時代のこととしてそのことを知っていても、同じ年、讀賣新聞が社をあげて(つまり正力松太郎の強い意向で)原子力の平和利用のキャンペーンを始めたという認識は共有されていないと思います。
科学技術史においても、きちんとした冷戦研究が求められるでしょう。
→原爆そのものは、よく知られているように、アメリカが戦後のビッグサイエンスのあり方を導いたマンハッタン計画で1945年(昭和20年)に開発し、すぐに広島と長崎に投下しています。
まず、日本のことだけを見れば、占領下はGHQにより戦争技術に繋がるビッグサイエンス系、すなわち飛行機、宇宙、原子力の研究は禁止されます。禁止が解除されたあと、商業実用炉が運転を開始するのは、1970年です。最近の論調では、相当昔から日本は原子力発電をしていたような感覚を受けるかもしれませんが、まだ40年強の歴史しかありません。
実用炉そのものを見れば、世界で最初は、旧ソビエト連邦です。1954年。アメリカは、実験炉での発電は1951年ですが、実用炉に関しては1960年と旧ソビエト連邦にかなり遅れます。世界で考えても、実用炉の歴史は、50年強ということになります。ちなみに、スプートニックショックは、1957年。アメリカに、あせりや焦燥感があったのは間違いないでしょう。原子爆弾に戻れば、ソ連が原爆実験に成功するのは、1949年。アメリカは翌年、水爆の開発に着手します。また原子力潜水艦の建造に乗り出します。1952年、アメリカはエニウェトク環礁で水爆実験に成功します。1953年にはソ連がやはり水爆実験に成功します。この1953年、アメリカの大統領アイゼンハワーは国連で「アトムズ・フォー・ピース」演説を行います。いわゆる原子力の平和利用です。
翌1954年、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験により、マグロ漁船第5福竜丸が被爆し、無線長の久保山氏が半年後に亡くなります。
翌1955年は、いわゆる55年体制の開始の年です。すなわち、11月15日、保守合同によって「自由民主党」が誕生しています。敗戦後10年、政治的な方向が固まったと言えるでしょう。
さて、この年12月9日付の CIA 文書は、正力松太郎について次の分析を示しています。1.接触を始めたときの、正力の目的は、第一にマイクロ波通信網の完成、第二に原子力利権の所得であった、2.正力の今の野望は総理の椅子である、3.「彼のメディア帝国は日本で最も中央集権的で、従って最もコントロールしやすく、大衆の心を掻き立てるという点では影響力が強い。」(133頁より重引)。
CIAは正力を大いに利用した。しかし、中心的目的に関しては手を貸すつもりはなかった。マイクロ波通信網については、もしこうしたものができれば、「すべての自由アジア諸国に影響を与えることのできる途方もないプロパガンダ機関を日本人の手に渡す」ことになり到底認めがたい、原子力エネルギーについては、もし正力の「申し出を受け入れれば、必然的に日本に原子爆弾を所有させる」ことになりこれも到底認めがたい。(137頁。)この時点のアメリカからすれば当然の対応です。
ひとりで4時半。妻は無事に出発していました。10時には台北です。
正確に言えば、7時羽田発台北10時着のフライトです。市内まではタクシーで10分と言っていました。私は起きたなというのは気づいたのですが、時計は見なかったので、おそらく4時前後に起きて、4時半前に家をでたようです。羽田には5時半すぎには着いたと思います。
→用件は、台湾にとって重大な歴史的事件のあった2月28日、妻の父方の祖母が96歳で大往生しました。妻が子どものころお世話になったおばあちゃんにお別れするためにでかけます。台湾の習慣が分からないので、葬儀に出席できるかどうかは分かりません。私自身は2回会ったことがあるだけですが、リリーの結婚式のときの写真ではよいおばあちゃんの顔で映っています。合掌!雨の中、夕刻、次の本が届きました。
佐野眞一『旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三』文芸春秋、1996、文春文庫、2009
末廣昭責任編集『岩波講座 「帝国」日本の学知〈第6巻〉地域研究としてのアジア』岩波書店、2006
Roger Hahn, The anatomy of a scientific institution : the Paris Academy of Sciences, 1666-1803, University of California Press, 1971
433頁。幅4.2ミリ。ぼてっと厚い感じの書物です。一番手頃な佐野眞一氏の文庫第8章「大東亜の頃」から読み始めました。面白い。
次には、中生勝美「日本占領期の社会調査と人類学の再編:民族学から文化人類学へ」『「帝国」日本の学知第六巻 地域研究としてのアジア』(末廣昭編, 岩波書店, 2006) , pp.143-177。これも非常に面白い。
雨降る夜に次の本が届きました。
有馬 哲夫『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』 平凡社新書、2009
→ざっと主要部分を読みました。それでピースが埋まったという感覚の持てる本です。
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