ひとりで5時50分。昨日の編集委員会で持ち帰った宿題がたくさんあります。てんやわんや。私の手元にあるもので進めることができることがらは進めました。あとは、資料の郵送を待ちます。
[ぼくはまりお]
おおきいちびが(おともだちがみんなもっているので)財布が欲しいと言っています。吉祥寺のお店をまわりたいということです。ちいさいちびもついていくと言っています。幼稚園児もいっしょに行くと言っていますが、幼稚園児がついていったらお店を回ってゆっくり品定めをすることはできません。
幼稚園児は前からマリオの髭を探しています。(実は朝にもちいさいちびといっしょに近所の100円ショップに探しに行きましたが、ありませんでした。)ちょうどよいので、おねえちゃんたちとは別行動で、私が荻窪の100円ショップに連れていくこととしました。まず、我々が1時過ぎにでかけました。空模様はあやしかったのですが、晴れ間が見えています。荻窪の駅ビルの7階に直行し、100円ショップを見て回りましたが、ありません。吉祥寺に探しに行くかと幼稚園児に聞くと、行くと答えます。そのままとってかえして、再度電車に乗って、吉祥寺のロフトへ。ロフトの2階にはパーティグッズがあります。実際ロフトに着いて探してみると、パーティグッズはあまり売れないのでしょう、売場が小さくなっていました。探すのにすこし苦労しましたが、髭と黒の蝶ネクタイのセット(髭ダンスのための)がありました。幼稚園児はこれでOKということです。
504円の髭を買って、バスに乗り込み、帰宅しました。幼稚園児はうれしいようで、バスを降りてから近所の知らないおにいちゃんに見せびらかしています。
両面テープで張り付ける仕組みです。両面テープの処理にすこし苦労しましたが、なんとか髭をつけることができました。マリオの赤いお帽子をかぶり、マリオの髭をつけた、なおマリオができあがりました。早速デジカメで撮影。
幼稚園児は、1週間ほど前に、ギャラクシー2をクリアーしています。ピーチ姫を救出しました。そのときは大喜びで踊っていました。おねえちゃんたちは、途中からあまりマリオを触らなくなりました。幼稚園児がひとりでマリオをやっていることが多く、幼稚園児はすっかりマリオとなっています。
7時10分。幼稚園児が一番に起きて、お気に入りの毛布にくるまったままひとりで階下に向かいました。
雨。台風接近による雨。今日最接近するということです。午後に、理事会と編集委員会があります。さて、どうなりますことやら。
台風は接近していますが、なんとかなりそうです。3時からの理事会出席のために、東工大に出かけます。会議のために必要な資料があり、久しぶりに机のトップが見えるようにしました。忙しくて疲れていると、ついつい紙の資料が机の上に堆積していきます。授業のための資料も一部見失っていましたが、ここしばらく必要なものは探し出しました。その作業に午前中かかりました。
→テレビで、台風の影響で総武線や中央線はいつもの7割で運行しています、と言っていました。念のため、いつもより10分程度はやめにでかけました。とくに問題はなく、いつもより10分はやく東工大に着きました。さすがにひとはすくない。
しかし、台風の影響で遠くの方は見えていません。6人で理事会と編集委員会をこなしました。通常の業務の他に、異議申し立ての手紙があったので、その審議にほぼ1時間かかり、3時からはじまり、終了は7時前。
駅前の西洋料理屋さんで、全員そろって夕食。帰ることには、台風は過ぎ去っていました。東京はかすったぐらいの感じでした。
今月は、ここでやっと100枚を越えました。ほんとやっとです。夜半に目覚めてすこし仕事。
2回目の起床は、7時10分。夜届いたのか、朝届いたのかわかりませんが、アマゾンのマーケットプレイスより次の本が朝ポストに入っていました。
伊東俊太郎・村上陽一郎編『講座科学史 第1巻 西欧科学史の位相』(培風舘、1989年)
昔誰か学生に貸してあげたら帰ってきていません。自分の手元に一部あった方が便利なので、古書で仕入れたものです。いろいろあって、お昼ご飯のあと、大学にでかけました。途中、昨日集めた科学思想史のレスポンスシートを読んでいました。まだすこし無意味なレスポンスを書く学生がいます。なかなか秀逸なコメントを書くのもいます。
大学ではまず図書館にむかい、一冊本を返却しました。それから、ILL で来ている次の本を借りました。
菊池俊彦(研究代表者)『我が国の科学史研究の歴史と現状についての実証的研究』(平成元年〜3年度科学研究費補助金研究成果報告書)平成4年3月
目次は次の通りです。
1.日本科学史学会小史
2.聞き取り
3.学会年表
4.日本科学史学会総会・年会記録
5.日本科学史学会年会・例会など報告発表者記録
6.日本科学史学会歴代役員名簿
あとがきご覧のとおり、資料集です。日本科学史学会のサイトにある「日本科学史年表」は、この3.でした。たしかに、この資料集は本の形態よりも、ウェブサイトが向きます。できたら、ほかもすべてウェブに掲載してもらうのが、学問に対する貢献だと思います。
資料集は、資料集としていろいろ使えます。たとえば、私自身が科学史学会ではじめて発表したのが、1983年東工大です。「ロバート・ボイルの自然哲学」というタイトルで修士論文の骨子を発表しました。このときは、赤平清蔵さんが「ロバート・ボイルの『形相と質の起源』(1666)」、内田正夫さんが「ロバート・ボイルと元素転換」を発表されています。細部は忘れましたが、なんとなく、覚えているシーンがあります。
翌年は<報告と討論>として(一種のミニシンポでしょうか、今となってはしっかりと思い出すことができません)「17世紀の機械論哲学―ボイルを中心として」で、やはり、内田さん、赤平さん、私でボイルについて発表しています。私は「ロバート・ボイルの質の理論―その用語法の分析」です。(1984年京大)
その翌年(1985年立正大)では、「1次質-2次質の区別の歴史:ロック、ライプニッツまで」というタイトルで発表しています。
1986年名大で行われた年会では発表をしていません。そもそも行ったのか行かなかったのか、それはどうしてか、すべて忘れています。
1987年は東大駒場でやっています。このときのことはスタッフとして働いたのでよく覚えています。スタッフとしての仕事に集中することにしたのでしょうか、発表はしていません。
1988年は、北大。発表はしていません。行ったのか行かなかったのか、記憶にありません。ちなみにこの年の7月1日に外語に着任しています。たった3ヶ月ですが、この年の4月から6月までは学振の特別研究員を務めています。
1989年は、関西大学。これはまったく記憶がないので、行かなかったのでしょう。1990年は、中央大学駿河台記念館。創立50周年記念講演が行われています。発表はしていませんが、駿河台に行ったような気がします。
(この資料集の記録は、ここまで。)
つまり、私の行動パターンとしては、博士課程に進学してから3年間は続けて学会で発表した、そしてそこでつきた、ということになります。次に科学史学会で発表したのがいつか、実はすぐには調べがつきません。ともあれ、しばらく科学史学会では発表しなかったのを覚えています。院生の途中から(ボイルをやっているんだからということで)化学史学会の方に誘われて、発表活動は場所をそちらに移したようです。
1986年には、「なぜ化学だったのか」というシンポジウムで「17世紀の化学の伝統」という発表をしています。同年、『化学史研究』に「ロバート・ボイルの質の理論―一次性質・二次性質の区別の分析」という論文を発表しています。
この前後で化学史を勉強し始めたという感じでしょうか。
次の発表は、1991年です。「若きボイルの化学研究」というタイトルで発表しています。就職の前後、しばらく発表はお休みしていたことになります。その翌年、たぶんその発表を拡張する形で、論文「初期ボイルの化学―ヘルモント主義の位相と種子原理―」を発表しています。
その次の発表は、1995年です。「文化史におけるボイル―ボイル研究の新動向―」として発表しています。1995年の1月末にイギリス留学から帰国しています。イギリス留学中はあまり化学史をやっているつもりはなかったように思います。
1998年に「ボイル化学における理論的背景」と「ボイル化学における物質分類」という発表をしています。ボイルの化学を本格的に研究対象にしたようです。おお、なんと、来週の火曜日の夜に教授会でやれやれと思っていたら、月曜日の夜にも会議を行うという通知がきました。(ともに6時10分開始。)ほんとうに、やれやれ、やれやれ、です。
やれやれはすくなくないのですが、いくつか朗報も入ってきました。前向けに進めるときには、進んでほしい。
夜半に目覚めてすこし仕事。本日2回目の起床は、6時50分。幼稚園児が目覚めて、おしっこ、もれた、と言ってきました。就寝前におしっこはさせましたが、同時にミルクも飲んでいます。最近は顔が疲れ気味です。何日か前には、めくまがみえました。
今朝読んだ昨日の夕刊によれば、昨日の(深夜から)早朝にかけての風はやはり木枯らしだったようです。そのときの気温が10度ちょいとありました。寒かったわけです。
今日は朝から雨模様です。ちいさいちびがでかけるときにはかろうじて雨は降っていませんでした。おおきいちびがでかけるときには雨音が聞こえるぐらいに雨が降ってきていました。雰囲気は、初冬の寒いどんよりとした朝となっています。
9時過ぎの室温が16度まで下がってきました。外の気温はずいぶん低いようです。授業の日。
ひとりで4時15分。室温17度。幼稚園児はちゃんと毛布にくるまっています。
外は非常に寒くなっているのかもしれませんが、室温17度であれば、急激に寒くなったという感覚はありません。昨日に引き続き、まだ日が昇らないうちに、買い物のために外出しました。木枯らしでしょうか、冷たい風が吹いて、寒い。外は冬の冷たい風が吹いていました。(昨日はコピーを取るため、今日はちいさいちびの理科の実験でプリンの空き容器が必要だというので早朝に外に出ました。)
会議の日。スムーズに進行してくれればよいのですが・・・。
→最初の大学院の会議はスムーズに進行しました。しかし、学部教授会は、来週の火曜日の夜に臨時教授会を開くはめになりました。めちゃくちゃです。
次の院教授会は順調に推移して、予想していた時刻よりずっとはやく帰宅することができました。
ひとりで4時45分。室温21度。この温度だと幼稚園児はふとんを蹴飛ばしています。19度の時は毛布にくるまっています。今日は、幼稚園児といっしょに出て、駒場の図書館に行くこととしました。妻も用事があるということで、妻は自転車の後ろに幼稚園児を乗せて幼稚園へ、私は徒歩で駅に向かいました。
まずは、次の論文をコピーしました。
Allen G. Debus, "The Significance of Chemical History," Ambix, 32(1985): 1-14
その場で読みました。さすがディーバスです。私の関心にピンポイントの問題を扱ってくれています。知らなかった、あるいは注目していなかった事実も提示されており、非常に有益な論文でした。ディーバスが一番地道にきっちりと仕事をしているのではないかと痛感するようになっています。テーマは、10月21日に記した化学史・学です。
17世紀・18世紀の化学コレクションには、2つ大きなものがあります。ひとつは、ツェツネルの『化学の劇場』(1602)、もうひとつはManget の『深遠なる化学文庫』(1702)です。『化学の劇場』(1602)の最初の論考は、Robertus Vallensis の「化学の術の真理性と古代性」であり、『深遠なる化学文庫』の最初は、オーレ・ボルク(オラウス・ボリキウス)の『化学の起源と進歩』です。つまり、ともに化学の歴史から始まっています。
ディーバスは、化学史の転回点を1958年に求めています。この年、一方では有名なマリー・ボアズの『ロバート・ボイルと17世紀の化学』が出版されています。他方では、パーゲルの『パラケルスス:ルネサンスの時代における哲学的医学の導入』が出版されています。ボアズの仕事は、低くみられていた化学を科学革命の本流=機械論哲学に位置づけるもの、そして、パーゲルの仕事は言うまでもなくパラケルスス派の医化学が大きなインパクトをもった時代の文脈を掘り起こしています。
こういうふうに、ボアズとパーゲルを併置し、化学史の転換点とする見方は私には新鮮です。論文は、自分の体験から始めています。化学者になろうと化学の訓練を受けていたとき、そこには化学史があった。訓練の中心ではないと言え、すくなくとも教科書の序論には歴史があった。
科学史を目指して、ハーバードで勉強を始めたとき、学部ではかろうじてラヴォワジェだけはあった、しかし、大学院では物理科学の歴史のセミナーで化学はまったく無視されていた。
化学の世界では、化学者のための化学史は、長い伝統を誇っていた。
ただし、一般科学史の世界では、化学史は奇妙に無視・軽視されてきた。
「化学史がこのように科学者-歴史家の長い伝統をもつものであれば、なぜ科学史全般の発展にとってそのように小さな役割しか果たしていないのかを問わなければならない。」(p.5)
その理由はひとつには、伝統的に化学史が化学者に向けて書かれていたということがある。もうひとつには、20世紀になって勃興してきた科学史が、たとえばサートンの位置付けにみられるように、物理学が中心であり、学問の順位としては、数学がトップ、次いで、物理学と天文学、そして化学、生物諸科学となっていたことを指摘できる。
(→パーゲルは、基本的に、医学史家であったとディーバスは記しています。当時の自然哲学を語るとき、医学はひとつの柱としてみなければなりません。これまでの科学革命論の欠点は、当時の医学の社会的位置と医学的知識の大きさ・広がりを見逃してきたことだとまとめられそうです。)DSB のBorrichius (or Borch), Olaus (b. 7 April 1626 - d.13 October 1690) についての記事(by Rattansi) もコピーしました。Vol.2, pp.317-8.
→短いものなので、大きな収穫はないのですが、1644年コペンハーゲン大学で医学を学んでいたときの教師が、トマス・バルトリン、オラウス・ウォーム、シモン・パウリだったというのは、私には有益な情報です。次もコピーしました。
菊池俊彦「日本科学史学会の創立―草創のころ」『科学史研究』II, 32(1993): 166-173.
→わー、これは、非常に面白い。やはり、うわさ話で満足するのではなく、もとのものを読むべきでした。日本における科学史は、かなり変わった出自をもつと言えます。
東大の科学史・科学哲学が、日本科学史の世界で不評なのも、わかります。東大の科学史・科学哲学は、その出発点から、先人の苦労をほとんど引き継いでいない。
学問的にはそれゆえによかった点と苦労した人から恨まれた点と両方あると思います。すこし刺激的に語れば、戦中の科学史の設立・隆盛は「時局便乗」であった。戦後の科学史(東大の科学史です)は、アメリカの占領政策の延長線上にあった。こう言えそうです。
もちろん、新制大学、とくに一般教育は、アメリカの占領政策によって形成されたものです。科学史だけが特別というわけではありませんが、戦中に「時局便乗」によって基盤形成され、それが戦後も継続したというのは、そのことの持つ意味・位置付けをやはりもう一度考えてみる必要があります。
もっとも重要な継続は、『明治前科学史』の計画と遂行です。「1940年は、・・・「皇紀2600年」の奉祝記念事業が華々しく行われた年であった。このころ中国戦線は拡大の一途をたどり、軍事科学の振興、国粋的な日本科学の確立が叫ばれ、多くの科学啓蒙書が出版され、科学史も啓蒙には有効な手段と認識されたのか、1940年前後には科学史や技術史の啓蒙書、概説書あるいは翻訳書がかつてないほど現われた。」(p.166)
「1940年12月、帝国学士院は『日本科学史』・・・の編纂出版を「紀元二千六百年奉祝会」から委嘱されて、・・・『明治前日本科学史』は第二部で田中館愛橘部長が運営に当たることになった。ここに『日本科学史』(のち『明治前日本科学史』)の編纂が、多額の補助を得て、翌1941年から着手され、当時の帝国学士院会員を中心に指導的科学者がこれに関係する態勢がとられることになった。」
この事業は、戦後も継続され、「結局『明治前日本科学史』(日本学士院編あるいは刊行会編)は全28冊(A5) となり、1954年から1973年にかけ日本学術振興会(数学史のみ岩波書店)から刊行され」た。(p171)
注20)によれば、奉祝会が支出した「経費は総額五二万二千余円に達し、これを今日の貨幣(昭和42年)の換算をすると約5億円の巨額に当る」(p.173)「なお光華会は試金凍結解除後の1955年から再び補助金を出している。」(同)他にコピーを取ったのは、次の2点。
菊池俊彦「平田先生を悼む」『科学史研究』II, 32(1993): 236-238.
半谷高久「科学史入門:化学史の見直し」『科学史研究』II, 32(1993): 225-228.
ともに興味深い記事でした。
7時。ちびどもは朝食を食べ終わった頃でした。幼稚園児はよく寝ています。雨は上がっています。授業の日。
ひとりで5時20分。室温18度。曇り。寒く感じます。水曜日には冬が来ると言っています。いきなり晩秋という雰囲気になりました。おおきいちびはお友達のうちでハロウィーン・パーティ。ちいさいちびはお友達といっしょに児童館。幼稚園児はママといっしょに東急の屋上で遊ぶということです。
ということで、午後は、ひとりでお留守番。
5時頃、幼稚園児が一番で帰ってきました。雨が降り始めていました。ちびどもも5時半までには帰ってきました。結局、本日の室温は20度に達しませんでした。寒くなってきたと実感した一日でした。
ひとりで5時50分。室温19度。晴れ。今日も仕事。しばらく土曜日も仕事という日が続きます。
朝一番で『理科教室』2010年11月号が届きました。私の「時代を切り拓いた科学者第44回 ロバート・フック 技師にして科学者」が掲載されています。
この「フック」ですが、もくろみとしては、シェイピンの議論をたたき台にして、フックの社会的位置を論じようと思ったのですが、4頁の紙幅ではとてもその種の議論を展開することはできないとはやめに気付き、基本的事実の提示にとどめました。それでもごくわずかに私の主張は入れていますが、気づかずに流してしまわれる方は流してしまわれる、そういう書き方しかしていません。
基本的事実を4頁にまとめることに意味はあると思いますが、こういうものはもうよいと感じたので、世話役の梶さんにその旨伝えました。
ひとりおくれて7時20分。ちびどもはもう朝ご飯を食べ終わっていました。今日は、何日かぶりにパン。朝出来上がるように昨晩セットしていました。少し甘くて、ふわふわになるカボチャパンがちびどものお気に入りです。
妻に続いて、6時10分。雨。昨日ふとテレビをつけると、奄美ではすごい雨が降っていました。700ミリを越えたと言っていました。え?700ミリ?授業の日。
[科学史関係公募情報(アメリカ)]
ミットMIT のDr. KIKUCHI (菊池好行氏)より、つぎの公募情報を教えてもらいました。
菊池好行氏の後任ポスト(ポスドク)
CHFフェローの公募
どちらも専攻分野の設定はかなり広く行われているということです。若手の方々に是非応募してもらいたいということです。[化学と化学史]
どうも日本では、[化学と化学史]の関係の歴史があまり知られていないようです。日本語で読めるものとしては、『OU科学史 I 宇宙の秩序』の冒頭におかれたコリン・ラッセルの「1 科学史へのさまざまなアプローチ」がもっともよい記述だと思われます。紹介しましょう。「・・・すべての科学の中では、とりわけ化学がみずからの歴史に 強い関心を示してきた・・・。実際、十七世紀までにも、オラウス・ ボリキウスの重要な著作『化学の起源と進歩』(1668) のような、化学史 を取扱った書物が数多く世に出されているのである。以後、多くの化学史 書が連綿として今日まで書き継がれてきた。ところで、こういう昔の化学 史の書物に関して特に重要だと思われる点は、それらが、化学が有する時 間的広がりを重要なものだとしていることである。化学と化学史について 今日なされているような区別は、十九世紀以前には、はっきりと認めるこ とができない。」(p.11)
「トマス・トムソンの『化学の体系』(1823版)System of Chemistry の 中の次の言葉に最もよく言い現わされていると言えよう。本書の目的は、化学の現状についてできるだけ完全な展望を与えること である。同時に、科学としては素朴な夜明けの段階から、今日の進歩し た状態までの化学の漸進的な歩みをたどるのが本書の目的である。この ように歴史と科学とを混ぜ合わせることで、さまざまな事実がより深く 理解されると同時に、記憶もたやすくなるであろう。加えて、化学に目 ざましい貢献をした人々に対して、しかるべき敬意を表わそうと考えて いる。」(p.12)
「このようにして、十九世紀の初めには、しっかりとした歴史的基礎付け をもった科学的著作が現われるにいたった。しかし、すべての科学的著作 がそのようなものであったわけではない。すでに別のアプローチも行なわ れていた。それな、歴史的記述を書物の序論(往々にして長大なものであ ったが)だけに限って、以下の部分は「現代的」な科学の説明に当てると いう方法であった。このような事例は、ブールハーヴェの『化学原論』 Elementa Chemiae (1732)をはじめ、一八〇〇年以前の他のいくつかの 著作に見られる。この方法は十九世紀にいっそう一般的なものになり、 トムソン流の概括的な方法は人気がなくなってきた。時を経るにつれて 歴史的な序論さえも削除しようとする傾向が認められる(もっとも、 トマス・ヘンリーは自分の化学の教科書から歴史的な序論を全く削除しよ うとするに際して若干の弁明が必要であると感じたのであるが)。 少なくとも化学については、歴史的な事項を、小文字で印刷したわずか 数節で片づけるようになったのは今世紀になってからのことである。」(p.13)19世紀の代表的なケミスト=ヒストリアンとして、ラッセルは、 グメリン、トムソン、Hoefer、コップ、ヴュルツをあげています。
→10.10.22 ラッセルは上のように記述しています。
しかし、個人的には疑問が生じてきました。仮にボリキウス(オレ・ボルク)の『化学の起源と進歩』De ortu et progressu chemiae(1668)が最初の化学史書だとすると、それがどういう状況・背景のもとで執筆されたのか、目的は何か、どういう内容か、「17世紀までに・・・化学史を取扱った書物が数多く世に出されている」というが具体的にどういうものがあるのか、それらの間に関連、系譜関係はあるのか? 18世紀初頭のブールハーヴェの序論における化学史との関係はどうか? 等々の疑問です。
仮に最初のものでないとしても、成書として重要だったと思われます。化学史・学を考えた場合、起源や系譜への探究がどうも欠けているのではないか、と思われるようになったのです。→10.10.23 すこし引いて考えてみると、化学にもうすこし特別な地位を与えることができます。
17世紀には、錬金術=化学の分野に関しては、多くの論考のコレクションが出版されています。『化学の劇場』が筆頭格でしょうが、他にも数多くのコレクションがあります。(このサイトで紹介しています。)
この一事を取ってみても、他の分野ではそれほどみられない事例だと言えます。物理学分野ではそういうことはありません。当たり前です、まだ、「物理学」というディシプリンは成立していません。自然学は、あります。大学のなかでは「自然哲学」。
生物学は、"biology" の成立が19世紀のことなので、もちろんまだ存在しません。存在したのは、大学で教えられていた7科のうちの数学的4科の、算術、幾何学、音楽、天文学です。他に数学的分野として、光学、静力学です。クーンは、「天文学、和声学(音楽)、数学、光学、静力学」の5つを古典科学と読んでいます。
17世紀の間に、静力学は、流体静力学として水だけではなく空気を含むものへ拡張された。学問の伝統としては、医学はすこし別格です。多くの著作が出版され続けます。
妻に続いて、6時。曇り。幼稚園児は今日芋掘りがあります。わずかに雨は降りましたが、芋掘りは決行でした。11時過ぎに芋の袋を抱えて帰ってきました。面白かったようです。
会議の日。
1時10分から、大学院の企画運営会議。ちょうど予定通り、2時40分まで。
4時から、コース会議。1時間半の予定ということですが、8点もの大きな資料をワタされました。本来資料をきちんと読むだけで、1時間半かかります。頭の痛いことが多くあります。
5時40分から研究所所員会議。こちらは、短くすみました。6時16分多磨駅発の電車で帰途に着くことができました。[月報]
前に記した疑問ですが、グーグルで検索をかけて半分までわかりました。Weblio 辞書やウィキペディア。古本用語としては次の解説があります。短いのでまとめることをせず、そのまま引用しておきます。「月ごとに出版していく全集や双書や百科事典などに挟む印刷物。著者をめぐっての近況やエピソード、編集者からの情報、読者のお便り、座談会、刊行予告といったものを載せる。月報つきの出版物で月報が抜けていたら、価値が下がってしまう。」
出自:1920年代、春陽堂や改造社によって円本と呼ばれる文学全集が企画された。購読者獲得のために春陽堂は、付録として挟み込みの小冊子を添付した。これが月報のはじまりとされている。
そして次のようにあります。これもそのまま引用しておきます。
「月報には、その巻に関係したさまざまな資料や研究ノートが掲載される。その中で、新しい知見が披露されることも多く、研究者の必読文献とされている。」基本はこれでよいと思われます。私が知りたい残り半分は、欧米(とくにヨーロッパ)の出版界に、この形態が存在したのかどうかということです。
ご存じの方がいらしたら、是非、お教え下さい。さて、『日本科学技術史大系13 物理科学』には、「科学史手帖」と称する月報が挟み込まれていました。これには、中山茂「(科学史研究の動向)タヌリとデュエム―フランス 1 戦前―」や大森実「(資料の泉)福井県・石川県・富山県」が掲載されています。なるほど、これは、研究者の必読文献です。大森実氏の「資料の泉」のその県にあるアーカイブ・資料館・文庫が紹介されています。この情報は貴重です。
また、最後に編著者紹介があります。これも貴重な情報源です。9名中、そのとき大学に職をもつのは、菅井準一氏(専修大)、田中実氏(和光大学)、大沼正則氏(東京経済大学)、道家達将氏(東京工業大学)、藤村淳氏(横浜国立大学)の5名です。高田誠二氏は計量研究所熱学計測課長、塚原徳道氏は都立高校、富田徹男氏は特許庁審査官、山下愛子氏は、「現在、科学史専攻(日本の化学史)」とだけ記載されています。そのときは定職にはなかったようです。ということで、手元の資料でわかる範囲で山下愛子さんの仕事をまとめておきましょう。
アグネス・デ・ミル『高峰譲吉伝―松楓殿の回想』山下愛子訳・出版 (2000)
山下愛子編『近代日本女性史 科学』鹿島研究所出版(1970)
ウィリアム・セシル・ダンピア卿『科学の歴史 : 科学はどのように発達してきたか』山下愛子, 小林克雄訳 (雄松堂出版, 1994)
H.J.モザンス『科学史における女性』山下 愛子訳、 柏書房 (1986/03)
R.J. フォーブス, E.J. デイクステルホイス『科学と技術の歴史』広重 徹 , 西尾 成子 , 高橋 尚, 山下 愛子 共訳、 みすず書房,1977〔新装版〕
山下愛子「ロテノーン発見者永井一雄の探求」 Journal of history of science, Japan (37), 23-27, 1956-01
山下愛子「長井長義についての一考察(補遺)―エフェドリンの発見を1885年とする根拠について」『科学史研究』通号79(1966/09): 49-150,
山下愛子「長井長義について一考察―そのエフェドリン研究について」『科学史研究』通号76(1966/02): 156-163
Yamashita Aiko, "Adrenaline Research Note of Uyenaka Keizo (1900)," The journal of Seigakuin University 14(1)(2001-10-15), 147-161,
6時半起床。妻とちびどもは起きて、朝食を食べていました。幼稚園児は、6時40分。曇り。昨夜、8時半頃ミルクを飲んでそのまま寝てしまった幼稚園児は、朝の3時頃、案の定おもらしをしました。いつもはちゃんとおしっこをさせてから寝させますが、昨夜はそのまえに寝入ってしまったわけです。昼間ママといった荻窪の屋上でよく遊んだそうです。その疲れのせいでしょう。
昨日からちいさいちびが風邪気味。咳、鼻水、目の痛み。初期症状でひどくはありません。今朝、いつになく朝食をよく食べるなと思ったら、咳をしてもどしてしまいました。この子はちいさいときからよくもどします。もどしたらすっきりするようです。咳はひいてはいませんが、元気に学校にでかけました。
昼食前に、年末調整の書類を完成しました。毎年のことなのですが、これがけっこう面倒です。我が家の場合、住宅ローン減税は今年で終了です。この家に引っ越してから10年目ということになります。ちいさいちびがあかちゃん(2ヶ月)のときに移っていますから、ちいさいちびの年齢で住んだ年がわかります。
午前中にゲラが届きました。編集委員会の仕事です。数時間でまず全体を通しました。これで完成ではなく、追加で2点あります。
ひとりで4時45分。まだ暗い。幼稚園児は土曜日に運動会があったので今日はお休み。ちょうどよいのでいつもよりもはやめに大学にでました。武蔵境8時42分発の電車に間に合いました。
大学前のコンビニですこし買い物をし、印刷センターでコピーをとり、郵便物を受け取ってから研究室へ。今日はそれでも授業まで十分な時間がありました。処理すべき事柄は多くあります。体調と相談しながら、少しずつですが、進めました。帰宅すると次の本が届いていました。
日本科学史学会編『日本科学技術史大系13 物理科学』第一法規出版、1970
物理科学とあるのは、Physical Sciences のことです。すなわち、物理学と化学です。
まえがきに次のようにあります。
「物理学分野の諸章は、菅井・高田・藤村・富田の合議でその編集方針を定め、第1・3・5章を富田徹男、第7・8章を高田誠二、第10・11章を藤村淳が、それぞれ資料の選択と概説・解説の執筆を行った。
化学を扱った第2・4・6・9・12章については、物理化学を大沼正則、無機化学・分析化学を塚原徳道、有機化学を山下愛子、生化学を道家達将が、それぞれ資料の収集に当たり、田中を含めた5名の合議によって、資料選択、各章概説と資料解説の完稿を作成した。」
ひとりで7時。曇り。すぐに妻に背負われて幼稚園児とちいさいちびが同時に降りてきました。朝一番の郵便で次の書物が届きました。
山岡望伝編集委員会編『山岡望傳 : ある旧制高校教師の生涯』内田老鶴圃, 1985
夕刻、次の本がアマゾンのマーケットプレイスより届きました。
『科学の名著 第II期 8 ボイル』
伊東俊太郎・村上陽一郎編、朝日出版社、1989年
私の手元にあるものがそろそろ壊れかけています。第2刷の報せがなかったので、たぶん、800部しか出まわっていないと思います。こうした事情を考慮して、自著ではありますが、購入したものです。午後、おおきいちびといっしょに荻窪に出かけました。おおきいちびは本が欲しいようです。同時に、新装なったタウンセブンも見たいようです。7階(100円ショップが入っています)から順番に見て回りました。エレベーターのなかでどこかの子どもも言っていましたが、きれいになっただけです。
6時20分起床。妻は起きて、朝食と昼食の準備をしていました。幼稚園児は、6時40分に起きてきました。運動会の当日です。薄曇りの晴れ。2010.10.15(金)妻は、8時30分前に幼稚園児を連れてでかけます。我々は、9時前。おおきいちびはやはりお留守番。
子どもの数に関してはちょっと淋しいなと思うこともあるのですが、運動会には、おじいちゃん、おばあちゃんを含めて、家族揃ってみえる方が少なくなく、にぎやかな雰囲気になっていました。
天候もちょうどよく晴れています。我が家の幼稚園児は、自分の赤組が一度も勝てなかったことが悔しかったらしく、親子ダンスのときにはずっと泣いていました。
しかし、そこが幼稚園児です。メダルをもらって、お土産をもらった頃にはすっかり立ち直っていました。疲れたといいながら、12時15分頃無事帰宅しました。
妻とおおきいちびは、昼食後一休みしてから、吉祥寺伊勢丹あとに新装オープンしたコピス吉祥寺 coppice KICHIJOJI にでかけました。アトレのように全体図はまだ新聞折込広告にはありませんが、こちらは使えそうな感じです。おおきいちびの目的は、シャープペン。シャープペンは学生時代よく使っていましたが、今は使っていません。結局昔ながらの普通の鉛筆の方が使いやすいことがわかりました。
すごく混んでいたといって帰ってきました。夕刻、アマゾンより次の2冊が届きました。
玉虫文一『一化学者の回想』中公自然選書、1978
塚原徳道『明治化学の開拓者』三省堂選書、1978
『下村寅太郎著作集13 エッセ・ビオグラフィック』(みすず書房、1999)の年譜より。
一九八三(昭和五八)年 八一歳
『ブルクハルトの世界』を刊行する。・・・七十歳代のすべてを傾けて成ったこの大著への反響は、ほとんど皆無だった。相応の批評も評価も行わない―行い得ない学界や読者界への失望が急に深まり、お座なりの礼状でお茶を濁した「旧友」に、贈呈本を返送させたりもする。・・「老躯に鞭打って十年を傾けた労作を一頁も目を通さず(そのやうな印象を受けました)年賀状のやうな一片の葉書をよこされたことに学究者の学究者に対する仁義に反すること、これ以上のものはない、と腹を立てたのです。何時ものやうに雑文集に対する余りに忸れた仕儀に腹を立てた次第です。立腹を表明するために。実際に読みたくない本を贈られるのは迷惑なことですが、しかし真に労作―学究者に対する労作に対しては、(内的な価値は別として)敬意を捧げて、苦労して精読し、そくばくの批評と感謝を呈すべきことを平生心がけているので、・・・」(****あて、未投函)(p.627)
ここに書かれている通り、下村寅太郎氏は、「学究者に対する労作に対しては、敬意を捧げて、苦労して精読し、そくばくの批評と感謝」を手紙に丁寧に記して送る習慣を生涯続けておられたようです。下村氏の師匠田邊元氏がカントよりも厳格な生を送られた方で、その習慣は師を受け継いだもののようです。
この習慣は私のまわりにはすっかり消えています。私の世代では、そうした習慣がなくなったことをそもそも知らないぐらいに、絶滅していました。賞の偶然性・恣意性とあわせ、きちんとした書評の不在(ほんとうは不在ではなく、稀少)は、我が国の読書界の不幸でしょう。
一九九五(平成七)年
一月一八日、阪神大震災。・・一月二二日深更、逗子市桜山の自宅にて死去。
私がロンドンに留学していたときです。阪神大震災はイタリア人の大家さんから聞きました。ただし、地震ということはわかりましたが、それ以上は、テレビを見てはじめて知りました。帰国は一月末です。ですから、下村さんの訃報を知らなかったわけです。ちなみに、廣松渉も、私がイギリス留学中の1994年5月22日に亡くなっています。東大を60歳で定年退職してすぐに亡くなったことになります。むしろ病気にもかかわらず、定年までは気力で生きたのではないかと思われる迫力が晩年の廣松にはありました。
ひとりで4時。もちろんはやすぎます。2010.10.14(木)幼稚園児は、運動会の練習で疲れたのでしょう、遅く起きてきて、幼稚園行かない、と言います。妻が交渉して、はやおかえり、ということで手打ち。ということで、午前中に帰ってきました。明日が運動会当日。いつもと違って、お隣の小学校、すなわち、ちびどもが通っている小学校の校庭を借ります。雨の場合は体育館を借りますから、いずれにせよ、明日開催されます。天気はよさそうなので、火曜日のちびどもの運動会に続き、同じグラウンドで運動会ということになりそうです。
おおきいちびは、見に行かないでおうちで留守番をすると言っています。まあ、それもよいでしょう。夜は、昨日借りてきた『下村寅太郎著作集13 エッセ・ビオグラフィック』(みすず書房、1999)に挟み込まれている月報を読んでいました。
私の目的には、月報に記されていることが有用であることが多い。さて、月報ですが、日本以外にこうした種類の出版物はあるのでしょうか? 月報という出版形態の起源と特徴が気になります。どなたかご存じの方いらしたら、是非、お教え下さい。
とくに村田全氏の「下村先生と西谷裕作君のこと」が私には興味深いものでした。村田全氏の授業には一度出席したことがあります。専門は数学史なので、私には、縁遠いものですが、出席しました。カントールとゲーデルを取り上げていました。
「西谷裕作君」とは、「故西谷啓治先生の唯一のご子息で、下村先生が我が子のように愛し、また期待しておられた人物だったが、・・・京大文学部定年の後、スペインのヴァレンシアに住まわれ、日本から一緒に移住された夫人に看取られながら、その地で長逝された。」(p.5) 下村先生は「中世からライプニッツの辺りのことは、彼が一番よくやっとるんやが、あいつ、ちっとも書きよらんのや。」と言われていた。(工作舎版『ライプニッツ著作集』の8巻と9巻に採録された『形而上学叙説』と『モナドロジー』の邦訳は、西谷裕作氏の仕事です。)
幼稚園児が夢を見て、泣いて、6時前。ちいさいちびも起きました。曇り。疲れが残っているのでしょう、おおきいちびは6時20分に降りてきました。授業の日。
12時6分武蔵境発の電車で大学に。まず、図書館に寄って、次の本を借り出しました。
『下村寅太郎著作集13 エッセ・ビオグラフィック』みすず書房、1999
(『下村寅太郎著作集』のこれが最終巻です。)
最初は経歴の確認。編者の竹田篤司氏は、下村寅太郎の生を次の五期に分けています。(p.670)
第一期:1902-23 三高卒業まで
第二期:1923-40 京大入学以来の修業時代
第三期:1941-56 東京文理大赴任から初のヨーロッパ旅行まで
第四期:1956-73 学習院大学定年退職まで
第五期:1973-95三九歳の年に定職を得ています。すなわち、1941年3月、東京文理科大学助教授となっています。同僚には、務台理作(50)、福原麟太郎(47)、菅原正夫(39)、中村幸四郎(40)、藤岡由夫(38)、朝永振一郎(35)がいた。
64歳のときに、東京教育大学を定年退職しています。1966年3月。
注目に値する事件。1963年(61歳)、11月9日、国鉄鶴見事故、三枝博音(71)が犠牲となる。その日、下村は、日本学術会議「科学史・科学基礎論シンポジウム」に出席、三枝(北鎌倉で下車)とともに東京駅横須賀線ホームにまで到るが、下村は「逗子まで立って帰ってよい」として先発電車に乗り、三枝と生死を分けた。(p.613)
鶴見事故の話は知っていましたが、こういうふうに日本の科学史に関わっているとは思いませんでした。
さらに竹田篤司氏は、次のように記します。「50代半ばにして初めて可能となったヨーロッパ体験が、下村自身の精神の歴史にとって、最大の「事件」と化す。その精神の底部に潜む「眠れる美女」のまどろみを、覚醒させるべく白馬に乗って出現した「王子」さまこそ、3ヶ月のこの西欧遍歴にほかならない。」(p.670)
年譜では、次のように記されています。
一九五六(昭和三一)年 五四歳
七月、日本学術会議から派遣され、イギリス・アベリストゥウィズで開催される「アリストテレス」「マインド」合同学会(六日から八日まで)に出席。・・・爾後、スペイン、フランス、(西)ドイツ、スイス、イタリアを歴訪。・・・出発、六月二〇日。往路、イスタンブール、アテネに立ち寄る。・・・九月一三日帰国。一九五九年(昭和三四)年 五七歳
四月、東京大学教養学部講師になる(科学史・科学哲学/昭和三六年まで)一九六七(昭和四二)年 六五歳
六月、日本哲学会委員長に選出される(四二年/四三年度)一九九六(平成八)年 没後二年
五月、所蔵和書のすべて(約二万冊)を関東学院大学に寄贈する。「下村文庫」として同大学図書館に所蔵。
ひとりで4時半。こんな時刻に目覚めたのは久しぶりです。
夜半かなり強い雨足で雨が降っていました。会議の日。午後、大学院関係の会議が続きます。
→大学ですこし仕事をしようと思い、すこしはやめにでかけました。着いてすぐに特別食堂で昼食をとってから、図書館へ。次の資料のコピーを取りました。
長谷川輝夫「大沼正則教授退任記念号の発刊に寄せて」『東京経済大学 人文自然科学論集』No.104(1997.9), 3
「大沼正則教授退年譜並びに主要著作」『東京経済大学 人文自然科学論集』No.104(1997.9), 5-9次に研究室で『科学史研究』を探しましたが、見つからず。どこかに片づけたようです。変に暑い日です。埋もれているものまで探す気にはならず、またの機会としました。
そのかわりに、ウェブに、原始技術史で有名な岩城正夫氏の自伝「エッセイ:私の学問研究法」を見つけて読んでいました。非常に興味深い。
1.板倉聖宣氏が国研(国立教育研究所)の物理教育担当ポストに着任する機縁。最初、岩城正夫氏にオファーがあったが、「私の代わりに板倉聖宣氏(当時オーバードクター)を推薦したところ、無事にその席につくことができたのでした。」偶然とは言え、これが日本の理科教育にも大きな影響を与えることとなります。
2.科学史学会専任職員。岩城氏は、国鉄鶴見事故(1963年)で不幸にも当時の科学史学会会長三枝博音氏が事故死するまで約3年間、飯田橋で科学史学会専任職員を勤められています。岩城さんがこの時期の科学史学会のことに詳しいのは、こういう事情があるのでした。大学院の会議そのものは、司会の方々がうまく進めてくれて、順調に終わりました。
[パラダイマー中山茂氏]
一部で大人気を呼んでいる中山茂氏のブログ「パラダイマー」ですが、138回(10月11日)は出版賞についてです。まっとうな意見だと思われます。139回(10月13日本日)は、鎌谷親善氏についてです。ここには私たちに必要な情報がありました。的確な批評だと思われます。
ひとりおくれて6時半。全員起きていました。小学校の運動会の当日。なんと地面が濡れています。夜の間にすこし雨が降ったようです。天気予報は曇り。今日運動会を行わないとたぶん行える日程はありません。すこしにわか雨が降っても決行だろうと思っていたら、7時前にやりますという掲示がありました。
小学生達はほぼいつも通りの時刻に出かけていきました。お弁当は妻が後で手渡すことになっています。レジャーシートと水筒と連絡帳と筆箱をもってでかけました。
今日は普通の火曜日ですから、幼稚園もあります。妻は幼稚園児を幼稚園に送ってから小学校へ。私はそれよりいくらか遅れてでかけました。
ちいさいちびの75メートル走、おおきいちびの80メートル走は、デジカメで動画撮影。
11時45分頃午前の部は終了しました。午後は12時半スタート。急いで帰宅して、昼食。ずっと立ちっぱなしだったので、腰が痛い。お昼休みは短いので、ほんの一息いれてから再度小学校へ。妻は、PTA なので、すこし早めに。私は、ちいさいちびのダンス(よさこい鳴子おどり)に間に合えばよいという感じでゆっくりめで出かけました。
よさこい鳴子おどりは予想よりずっと長く、動画撮影に苦労しました。
それから見学場所を日陰に変えました。PTA の綱引き(妻はここでプラカードを持つ係です。虎のはちまきを3年生の父兄チームは絞めていました。)1年生の父兄チームが圧倒的な力で優勝。
それから、幼稚園になおを迎えに行きました。先生に挨拶したあと、他のお友達といっしょに走って小学校へ。小学校へ一歩踏み入れると、知り合いのお母さんがなおくんの面倒は見てあげるから、5年・6年生の組体操の見学に言って下さいの言葉。ありがたく厚意を受け入れて、組体操を見るため、体育館の前へ。おおきいちびは見やすい場所に位置取ってくれたので比較的うまく撮影できました。
それから、リレー戦。低学年と高学年に分かれて行います。
ちいさいちびは赤チームの7番目。頑張って走っていましたが、それまでにはっきりと差がついていたので、3番で引き継いで3番のまま。おおきいちびは緑チームの4番目。これもバトンを受け取ったときに大きな差がついていました。ほとんどそのままの間隔で5番目の走者に引き継いでいました。
幼稚園児も幼稚園児で運動会の練習で疲れたようです。ままといっしょにかえるというので、リレーの後、すぐに帰宅しました。
私は、結果(紅白の競争になります。つまり、赤何点、白何点)を聞いてから帰宅。
妻は疲れたといって夕食後ダウン。ちいさいちびも珍しくはやく寝るといって、8時45分頃には横になっていました。
小学校は明日も普通にあるというのがちょっとしんどいようです。[八杉龍一『一生物学者の思索と遍歴』(1968)]
日曜日に古書店に発注していた次の本がお昼に届きました。八杉龍一『一生物学者の思索と遍歴』(岩波書店、1968)
いくぶん意外な点もありましたが、ほぼ予想した通りの書物でした。
116頁に次の言葉があります。「・・・私は科学史をしろうと学問としてやってこなければならなかった。大学を卒業してから東京工大に勤めるようになるまで二三年のあいだ、私は定職をもたなかった。終戦まで一〇年、その後一三年である。そして、単に定職なしというだけでなく、科学史に関してはアカデミズムの背景も基盤のなかったわけである。
こうしたことから私は、しろうと学問でつらぬく覚悟をいやおうなしに固めざるをえなかった。あとで知ったことだが、ながく勤めずにきた私を東京工大に呼ぶように配慮されたのは心理学者の宮城音弥氏であった。この大学には科学史での先輩の田中実氏や技術史家の山崎俊雄氏もいて心強かった。しばらくして道家達将氏が加わり、また江上生子さんが、科学概論という私の担当課目の助手となって科学史研究をはじめた。・・・」
→八杉さんは科学史家ですが、科学史の担当ではなく、「科学概論」という一般教育科目の担当であったことがここからわかります。112頁には次の言葉があります。「ながく科学史の仕事をしながら、私にはいつもしろうと学問の不安がつきまとった。私は正規に歴史研究の訓練を受けたわけではなく、だいいち私が学生のころには、科学史学科などというものはどの大学にもなかった。いや、それどころか、日本ではごく最近に東大の教養学科の科学史科学哲学のコースを基盤とし、大学院で科学史を専攻する道がひらかれたばかりである。その他の科学史という講義があり、担当者がいたとしても、一般教育どまりである。それさえ数は非常に少ない。」
→八杉さんが勤める東工大に関しても、八杉さんが在職のあいだはこの認識が成り立つと言えるでしょう。すなわち、東工大に科学史家は日本でもっとも多くいたにせよ、「一般教育どまり」であって、学生はそうした先生について卒論を書くことさえできなかったのではないかと推測されます。(そのあたりは、近々きちんと調べます。)学位については、241頁に次の記述があります。「私は東京工大に専任で勤める以前には、大学の研究者になるという期待も努力も放棄してしまっていた。大学にいってみると、学位はやはり必要であった。東京教育大に遅ればせの学位論文を提出した。その題目は「科学史的分析にもとづく進化学方法論の基礎的考察」であって、のちにそれを補訂して書物としたのが『進化学序論』である。そのころまで、科学史を主体とした論文を審査してくれる大学はほとんどなかった。東京教育大にはさいわい下村寅太郎先生がおられて科学史の論文を受けつけてもらえることとなった。・・・こうして文学博士という、まったく予想になかった学位を取得することになった。ついでだが、私の担当した科学概論というのは、東京工大では人文系列の科目であった。」
これで、日本の科学史分野の初期の博士論文が東京教育大である理由が判明しました。下村寅太郎氏が出してくれたわけです。なるほど。
「東京工大に勤めてからも、私は大学の管理とか運営とか(それらの言葉の意味さえ私にはまだよく分からない)には、ほとんど関係しなかった。おそらく、それらの面では私は無能と見られていたであろう。」(243頁)
ひとりで6時15分。昨夜いつもよりも遅かったちびどもはよく寝ているようです。快晴。抜けるような秋の青空となっています。
ひとりで7時。雨。夜も目覚めると雨が降っていました。天気予報の通りです。妻とおおきいちびは起きていました。ちいさいちびはほぼ同時。
運動会は、火曜日の12日に延期。子どもたちは、日曜日の学校に気乗りしないようですが、朝ご飯をきちんと食べて、いつもの時刻にでかけました。子どもたちがでかけたときは、かなり強い雨足でしたが、30分もするとずいぶん弱まりました。鳥の鳴き声が聞こえるので、午前中に雨は上がるように思われます。
→予想通り、雨はすぐに上がりました。すっかり上がってから幼稚園児といっしょに今日は吉祥寺にでかけました。まずは、アトレのなかの本屋さん。私は本日発売の2点の月刊誌(『中央公論』と『文芸春秋』の2010年11月号)を買いました。そのまま階段を下りて、前に来ていたクオカショップへ。幼稚園児に選ばせると、粉(強力粉)と砂糖(粉糖)とフレッシュを選びました。さらにすこし大きめのバターとカボチャパンの粉を買いました。今回はリュックサックをもっていたので、リュックにつめました。
幼稚園児は満足したようで、もう帰るといいます。ということで、たぶん吉祥寺滞留15分で帰途へ。
西荻の駅をでるとまたすこし雨が降り始めていましたが、時間が経つと止むでしょう。ガード下のお店で、牛乳や卵等必需品を少し買い入れ、コンビニで幼稚園児のシャケ入りおむすびを買って帰宅しました。
幼稚園児にとっては二日続けてお使いをしたことになります。[日本の科学史家]
9月にずっとおいかけていた日本の科学史家ですが、投げ出したわけではありません。授業がはじまってここに載せる余裕がなくなっただけです。東工大には、戦後の一時期、科学史・技術史家が4人いました。しかし、それ以上のことは、なかなかわかりません。科学史の世界に「東工大系」という言葉があります。4人のなかで、もっとも「東工大系」のイメージから遠いのは、八杉龍一氏だと思われます。前に記したように、八杉氏の東工大着任は、1962年です。教授として着任されています。1911年生まれですから、着任の年、51歳です。定年退職の年を記述しているものはすぐには見つからなかったのですが、早稲田大学就任が1972年という記述はありました。この時代、60歳定年だと思われますから、1972年春に東工大を定年退職し、早稲田に移ったと考えれば、計算が合います。
学生の頃は、八杉氏の著作は割と読んでいました。(私の著作リストを見ると、7点持っています。)八杉氏が読書界に記憶されるのは、進化論史の著作でしょう。
ざっと調べてみたところ、八杉龍一先生○○記念出版のようなものはないようです。『一生物学者の思索と遍歴』(岩波書店)がたぶん経歴に触れているだろうと予想し、発注しました。今週中には届くでしょう。→ウェブに八杉龍一「流れる固体(<特集>印象に残った一冊の本)」『化学教育』Vol.24, No.3(1976-06-20): 208 という文章があります。これは、中川鶴太郎『流れる固体』(岩波書店、1975)を「印象に残った一冊の本」という特集で取り上げているものです。「私の場合、もともと動物はあまり好きでなくて・・・」とか「私は、どちらかといえば、いわゆる文科型で、現在も半分ぐらいはそのほうにもどっています。」とか、八杉龍一氏の自己認識として基本的なことがふと書き付けられています。さもありなん。
ひとりで6時40分。居間に降りるとおおきいちびと妻が運動会の話をしていました。天気予報を見る限り、延期の可能性が高い。6時50分頃、延期の一斉メールが回ってきました。すぐにホームページでも延期の掲示がありました。
午前中から雨が降り始めるということなので、仕方なし。一応明日に延期とありますが、明日はもっと雨なので、その次の日程、すなわち火曜日になるでしょう。明日雨ならば子どもたちは勉強のため普通に学校に行きます。つまり晴れていれば運動会、雨ならば通常授業となります。体育の日の11日月曜日にすればよいのに、と思いますが、体育の日にはできないのだそうです。天気と戦うことはできませんから、こういうのは致し方なし。雨は、9時過ぎに降り始めました。冷たい晩秋の雨です。
お昼過ぎ、幼稚園児とふたりで荻窪のでかけることとしました。タウンセブンが夏の間改修工事をしており、つい最近リニューアル・オープンしています。様子を見るのも目的のひとつでした。
幼稚園児は、前と同じく、おもちゃ屋が設けているプラレールのコーナーに行きました。おともだちがいっぱい。そろそろ我が家の幼稚園児は、プラレール・コーナーでは年長組になってきました。明らかに幼稚園児よりも大きいのはひとりだけ。あとは、小さい子たちです。友達に慣れていない子のなかには、おもちゃを独り占めしたがる子もいますが、たいてい親が指導しています。私はただ見守っているだけにしました。
仲良く遊んでいた子が消えて、もういいといいます。おねえちゃんたちに頼まれたマンガを見に行きましたが、棚にはありません。もうすこし遊びたいというので、8階の遊び場で4回だけゲームをやらせました。
それから地下の食品売場に降りて、買い物。ヒラメかカレエかをいれた水槽のまえで喜んでいます。しばらく水槽のなかの魚を見てから、幼稚園児に欲しいものを選ばせました。夕食のおかずです。アサリ、しらす、鰺を選びました。鰺は調理にいくらか手間がかかります。簡単なサンマにしました。
幼稚園児は自分で選んだので、自分で持つと言います。もちろん、5分ぐらいにパパにバトンタッチとなりました。タウンセブンのリニューアルは、新鮮味にかけました。いくつか新しいお店は入っていますが、西荻にあるものです。正直、きれいになっただけと言えます。
吉祥寺の駅ビル、アトレの方はまだ十分見ていません。買い物をする側からすれば駅ビルが充実するのはとても便利です。
そして、吉祥寺ではもうすぐ伊勢丹のあとが、もうすぐリニューアル・オープンします。さて、どういうふうになっているでしょうか。
ひとりで6時45分。なんとちびどもはまだ起きていませんでした。疲れてきているのでしょう。運動会は明日が本番。秋晴れの好天。ちいさいちびは今日が運動会だったらよかったのにと言っていました。天気予報を見ると、明日は、曇りのり80%の確率で雨となっています。日曜日も曇りときどき雨の予報。難しいところです。
[日本、勝った]
おお、勝った。日本対アルゼンチンのキリンカップ(親善試合)は、1対0で日本の勝利です。久しぶりに面白い試合でした。アルゼンチンはメッシ以外の何人かの調子(体調)が悪かったのかもしれませんが、日本がきちんと攻撃の姿勢を見せてくれたのが大きかったと思います。弱い点も多く見られましたが、サッカーはゴールを目指す競技です。正しい方向へ行っていると思います。
このまま日本全体のサッカー力を底上げしていってほしい。
夜半に目覚めて、すこし仕事。妻がいつも使っている頭痛薬を昨夜夕食後に飲みました。1時間ほどで効き目があり、今は楽になっています。2回目の起床は、7時45分。ちいさいちびは今日が最後の朝練ですでに小学校に行っていました。おおきいちびはしばらくして出かけました。
木曜日の授業は今日がスタート。
なんとか無事スタートが切れたと思います。
ひとりおくれて6時50分。ちびどもと妻はテーブルでいっしょに朝ご飯を食べていました。珍しい光景です。幼稚園児も7時過ぎには起きてきました。とりあえず、晴れ。→秋の好天になりました。午後に会議。5限の時間帯に入っている会議は、紛糾が必至です。嗚呼!
→実は、火曜日からずっと頭痛があります。すぐに引くかと思っていたら、水曜日になってもまったく変わりません。会議に出席するのはすこしきつかったのですが、なんとかなるという感覚もあり、2時過ぎに家をでて、大学で明日の授業の準備をして、最初の会議に臨みました。なんとかはなりました。そのまま、4時半からの学部教授会へ。会議の部屋から直接行くと、4時20分に大会議室に着きました。6番目でした。
明日のことを考えて、ひととおり案を説明し終え、一番ポイントになる専攻語の先生達の意見・コメントを聞いてから、おいとますることとしました。6時15分。
9月の学部教授会はどうなることやらと心配になりました。まだ書き込まれていない部分が多く案に不満は残りますが、やっと正しい方向に向かったようです。それでも時間が足りないことにかわりはない。
妻と同時に5時45分。ちいさいちびの誕生日。学校から帰ってきてから自分でケーキを作る(スポンジケーキは買ってきているので、デコレーションを自分で飾り付ける)予定になっています。ちいさいちびの友達は、4時過ぎに集合しました。たった二人ですが、にぎやかです。もちろん、幼稚園児もなかまになります。おおきいちびはさすがに別の場所に退避。
ひとりで5時55分。妻は起きてお弁当の準備をしていました。小雨が降っています。いよいよ授業再開です。幼稚園児といっしょに出かけました。傘をもたずに歩いていると途中から小雨が降ってきました。小雨のままです。9時18分武蔵境発の電車に間に合いました。同僚の先生がiPad で何かを読んでいる隣に座りました。読むには便利ということです。
久しぶりの授業で疲れましたが、なんとか無事スタートすることができたようです。
夜半に目覚めてすこし仕事。2度目の起床は、ひとりおくれて8時。天気はまだもっています。
昨日遅く帰り着くと、次の本が届いていました。
天文年鑑編集委員会編『天文年鑑 2010』誠文堂新光社、2009
例年の作業です。明日の授業の材料です。pp.210-212 に「人工天体」の項があります。表1が「2008年8月から2009年7月までに打ち上げられた人工衛星」です。
この表1に基づき、国別の人工衛星打ち上げ数を表を作ります。
アメリカ:41
ロシア: 26
中国: 14
日本: 9
ドイツ: 5
ユーテルサット:4
ヨーロッパ宇宙機関:3
インド: 3
フランス: 2
イタリア: 2
イラン : 2
マレーシア:2
スペイン:2
イギリス:1
UAE: 1
インマルサット:1
ルクセンブルク:1
ベネズエラ:1
オランダ:1
タイ:1ここ数年、1位アメリカ、2位ロシア、3位中国、という上位3位は固定した観があります。総数で124機です。
今年の日本の人工衛星の目玉は、小惑星イトカワに行って帰ってきたはやぶさ(MUSES-C)でしょうか。2003年5月9日に打ち上げられ、イオンエンジンの実証研究を行いながら、2005年夏小惑星イトカワに降りたって(うまくすればサンプルを採集して)2010年6月13日オーストラリアの砂漠地帯(ウーメラ砂漠。アボニジニの聖地。立ち入り制限区域)にパラシュート落下した。今は日本にもどってサンプルを調査中。(このはやぶさに関しては、ウィキの記事はよくできています。)
ひとりで7時15分。子どもたちはよく寝ています。快晴。午後、東工大にて、編集委員会。議題が多いのですこし時間がかかるでしょう。
→午後3時から始まった会議ですが、途中で休憩を5分挟んで、8時15分までかかりました。ああ、しんど。途中からは別の会議になりましたが、メンバーはほぼ同じままでした。
ひとりで6時55分。都民の日で子どもたちはお休み。昨夜はよく寝るようにと言っています。とりあえず、よく寝ているようです。私は52歳の誕生日。大学の2学期は今日からです。私自身の授業は、4日の月曜日から。本格的な準備に着手しました。手間も時間もかかります。
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