遅れて7時15分。幼稚園児は7時半。もしかしたら幼稚園児の咳は花粉症ではなく軽い風邪かもしれません。雨。春の雨が降っています。→様子を見て、今日は休ませることとしました。おねえちゃんはふたりとも元気にいつもと同じ時刻に出かけていきました。
今月は125枚。
金曜日に次のコピーを持ち帰りました。
Roger Hahn, The anatomy of a scientific institution : the Paris Academy of Sciences, 1666-1803, University of California Press, 1971
修士1年のときに読んでいます。そのころのちっちゃな文字で書き込みをしています。土曜日に次の本を持ち帰りました。
坂野徹『帝国日本と人類学者 一八八四年―一九五二年』勁草書房、2005。
今必要な第七章「大東亜共栄圏と人類学者―戦時体制下の人類学研究」だけ目を通しました。私の問題関心からすれば、中生勝美(なかお・かつみ)さんの研究をきちんとフォローすべきことがよくわかりました。まず次のものを基本的研究として読む必要があります。中生勝美「民族研究所の組織と活動:戦時中の日本民族学」『民族学研究』第62巻第1号(1997), pp.47-65
佐野眞一『旅する巨人―宮本常一と渋沢敬三』文芸春秋、1996私の関心にぴったりだといったのは、次の科研費の研究です。
中生勝美「戦後のGHQの極東政策と人類学の利用」2003年度~2005年度、大阪市立大学研究成果報告書としてまとまった形で図書館に入っているのが一番使いやすいのですが、ご本人は、次のものを成果としてリストアップされています。
中生勝美「GHQと民族学・民俗学:民族学振興会文書に見る戦中・戦後の学術界」『神奈川大学評論』47. (2005)
中生勝美「GHQと民族学・民俗学」 『歴史と民俗』 21巻 (2005), pp. 51-69
中生勝美「日本の植民地における家族政策:戸籍・家族制度」『国民国家と家族・個人』(田中真砂子・白石玲子・三成美保編)(早稲田大学出版, 2005), pp.151-174.
Nakao Katsumi, "The Imperial Past of Anthropology in Japan," A companion to the anthropology of Japan (Jennifer Robertson ed. , 2005), pp.19-35
中生勝美「日本占領期の社会調査と人類学の再編:民族学から文化人類学へ」『「帝国」日本の学知第六巻 地域研究としてのアジア』(末廣昭編, 岩波書店, 2006)わけあって、今すぐには動くことができませんが、動けるようになったら、収集作業を行います。
→ウェブで読めるものをダウンロードして読んでいます。中生勝美氏の論考そのものはないようですが、次の加藤哲郎氏のものは非常に参考になりました。
加藤哲郎「戦後米国の情報戦と六〇年安保―ウィロビーから岸信介まで」(『年報 日本現代史』第一五号(現代史料出版、二〇一〇年六月刊のウェブ版)
「日本史という領域が、インターネットによるグローバル・コミュニケーションとデジタル資料公開の時代に入ったにもかかわらず、日本語文書資料による日本国籍取得者の世界に閉じられている」状況に対する批判には、100%賛同します。
ポイントになるのは、新資料です。2007年1月、アメリカ国立公文書館(NARA)は、アメリカ中央情報局(CIA)、陸軍情報部(MIS)などのもつ「ナチス・日本帝国戦争犯罪記録」の機密解除を行った。量としては、ナチス関係120万頁のなかに日本関係の約10万頁が点在しているということです。加藤哲郎さんの文章を読むと、非常に興味深い資料が公開されています。10万頁ですから、そう簡単には解読・分析はできない。チームをつくって1年かけた分を公表しているということです。→早稲田大学20世紀メディア研究所が仕事をしています。ウェブにも重要なファイルを載せてくれています。
→中生勝美氏による「戦前の情報戦略とアジア研究=大陸政策の情報戦」という講演(平成15年3月19日)記録(概要)があります。その結論が「戦後、GHQは、日本の満蒙資料を根こそぎ接収した。アメリカの内陸アジア工作の動向は秘匿されている。」つまり、アメリカの戦後の内陸アジア政策は、日本の満蒙政策の上にある、という見通しが立てられるということです。アメリカの宇宙政策がドイツのフォン・ブラウンの引き抜きの上に立っているのと同じ事態が東アジア・太平洋においても広範囲に見られるだろうということです。
幼稚園児といっしょに6時20分。室温13度。やっと休みです。花粉症もあり、疲れがたまってきています。[我が家の花粉症]
いちばんひどいのがおおきいちび、次いで私です。その他のメンバーもまだ軽い症状ですが、花粉症が発症しているようです。妻とちいさいちびは目が痒いらしい。幼稚園児は咳をします。つまり、どうも全員が花粉症となっているようです。→私は頭痛までするようになりました。花粉症の本格化です。来るときは来る。頭痛はちょっと辛い。
ひとりで6時40分。室温13度。予報によれば、最高気温9度。昨日から10度以上下がるということです。諦めて淡々と業務をこなしたいと思います。
業務は10時~5時です。9時過ぎに大学に着き、すこしだけ片づけを行いました。10時前に会議室の前に行くと、ちょっとした事務の連絡ミスがあり、10分ほど待機するはめになりましたが、その後は普通に仕事をこなしました。
5時には帰宅することができました。業務が終わって花粉症が本格化しました。昨日までは喉の症状(咳)だけだったのですが、目が痒くなり、鼻水もでてきます。こういうのに弱いおおきいちびは朝から大騒ぎをしていたようです。そしてあげくのはてに妹にあたったということです。
目薬を出し、甜茶を飲み始めました。
幼稚園児が起きて、6時25分。今日は暖かくなります。昨夜、次の本がアマゾンより届いていました。
クェンティン・スキナー
『思想史とはなにか:意味とコンテクスト』
半澤高麿・加藤節編訳、岩波書店 (SELECTION21)、1990前期日程に伴う業務の日。その後会議が2つ入っているので、一日仕事となります。
5時半に終了し、帰ってきました。疲れました。さて、明日もこの業務の続き。今日よりは始まりも終わりもいくらか余裕があります。
遅れて7時20分。幼稚園児だけまだ寝ています。授業の準備のために大林信治・森田敏照編著『科学思想の系譜学』 (Minerva21世紀ライブラリー、1994)に目を通し始めました。
第一に科学思想史だけではなく「人間の科学」、「言語の科学」、「身体の科学」等を扱っている点において、第二に現実に行われた授業に基づいている点において、この書物は私の目的には使えます。検索をかけていて、思想史の基本的辞書Dictionary of the History of Ideasがウェブにあることを見つけました。いくらか古くなったことは否めませんが、まだ有用性を保持していると思います。
[花粉症来る]
ついに花粉症が来ました。一昨日の夜から、喉の調子がおかしく、風邪でもないのに変な咳がでます。ほぼ花粉症の襲来で間違いないでしょう。昨日、コンパのときにあった学生に聞いてみたところ、ほぼ同じ時期に花粉症が始まったと言っていました。おおきいちびは帰ってきて、すぐに医者に行くこととなりました。学校で花粉症が悪化して保健室の世話になったのだそうです。顔が変わっています。家族ではいちばんおおきく症状が出ています。
ひとりで5時40分。室温13度。空気がどんどん春になっていっています。午後、出張校正。昨日からその準備をしています。今回はかなり手間がかかります。フォーマットがあっていないものを投稿規程にあわせてなおす作業をしているせいです。
幼稚園児が帰ってくる前に家をでました。12時。現地には10分前に着きました。
校正そのものは、神経は使いますが、単純作業です。1時間で終了しました。
3時前に帰宅。入稿のために、科学史分野国内博士号を見直しました。取得年度の欠けているもの、間違えているものが相当数見つかりました。上にあるのは修正バージョンです。
さて、夜は追いコンです。武蔵境にでかけます。武蔵境であれば、20分で着きます。
→6時半に手ぶらで出かけました。予定通り、武蔵境南口に6時50分に着きました。3年生は就活がはじまっています。出席予定で来られなくなった学生が何人かいたようです。総勢私を含めて6名。こじんまりとした飲み会となりました。
7時からスタートして、10時20分ぐらいまでお店にいました。
ひとりで5時25分。室温13度。午前と午後に会議。よって幼稚園児といっしょにでかけます。
幼稚園児といっしょにでかけ、多磨駅前のコンビニで昼食を買い込んでから、研究室へ。まずは片づけ。それからILL で借りている本を図書館に返却。それから会議(学部の改組に関する説明会)。教授会ではないので、出席率は約5割といったところでしょうか。
短いお昼休みをはさんでコース説明会。この期に及んで、という驚愕の変更がありました。説明会のあと、4人で居残りをして、当てられた宿題を相談していました。事情をお伺いして、意思を確認する作業です。同僚の先生方とはいえ、普段に話しているわけではありません。こういう機会に基本的な意思の疎通をはかります。
残った4人の間で、もめる事項はありません。お互いの意思を確認して、情勢に関する情報交換をして、解散しました。家に近づくと、20メートルほど前をちいさいちびがランドセルを揺らせて帰るところでした。小学3年生ですが、小学生らしくまだまだぴょんぴょんしています。
夜半に目覚めてすこし仕事。2回目の起床はひとり遅れて7時25分。曇り。夜には雨が降っていました。空気はもう春です。
ちびどもはいつもの時刻にでかけていきました。幼稚園児は今日は振替休日です。ママに東急に連れていってもらいます。ゲーム用に100円玉を5枚用意しています。
[パリ王立科学アカデミー ii ]
アリス・ストループ(1990) : Alice Stroup, A company of scientists : botany, patronage, and community at the Seventeenth-century Parisian Royal Academy of Sciences, . University of California Press, 1990 より、情報をピックアップしていきます。p.18: クロード・ペロー Claude Perrault, 1613-1688
p.18: マリオット Edme Mariotte, c. 1620-1684
p.19: ドダール Denis Dodart, 1634-1717
p.19: Claude Bourdelin, 1621-1699
p.19: Nicolas Marchant, ?-1678
p.19: Jean Marchant, ?-1738
p.20: ホンベルク Guillaume Homberg, ?-1715
p.20: トゥルンフォール Joseph Pitton de Tournefort, ?-1708
p.20: Jacques Borelly, ?-1689
p.20: Moyse Charas, 1619-1698
p.21: Joseph Guichard Du Verney, 1648-1730
p.21: Daniel Tauvry, 1669-1701
p.21: Morin, ?-1707
p.21: ホイヘンス Christian Huygens, 1629-1695
p.21: ラ・イール Philippe de La Hire, 1640-1718 1678年会員に選出される。 Encyc, p.353.
p.22: ラ・イール息 Gabriel Philippe de LA Hire, 1677-1719
p.22: Sédeleau, ?-1693
p.22: カッシーニ Jean Dominique Cassini, 1625-1712
p.22: ガロワ Jean Gallois, 1632-1707
p.22: デュアメル Jean Baptiste Du Hamel, 1623-1706
p.22: フォントネル Bernard Le Bovier de Fontenelle, 1657-1757
入ってもおかしくなかったのに、アカデミー会員に選ばれなかった人物。
プティ Pierre Petit, ca. 1598-1677 軍事技師。優れた実験家。トリチェリの真空の追試をフランスでは最初に行う。→科学アカデミーの初期の歴史に関しては、多くの研究があるに違いないと思っていたのですが、むしろ、非常に薄いことがわかりました。研究史の空白と言っても言い過ぎではないかもしれません。
夜半に目覚めてすこし仕事。本日2回目の起床は6時半。妻はもう起きていました。ちびどもは7時。今日はちいさいちびの表彰式があり、妻と二人で大手町にでかけます。誰がついていくのかいろいろ相談したのですが、おおきいちびが行かないと言い、幼稚園児には無理なので、結局妻とちいさいちびが二人で行って来ることになりました。
→8時半にでかけ、3時半につかれたといって帰ってきました。妻のとった動画によれば、ちいさいちびは壇上でもしっかり声が出ていました。[パリ王立科学アカデミー]
部屋を見回していると、『科学革命の百科辞典』が目に止まりました。最初に読むにはちょうどよい辞書です。おっと、最初の項目でした。pp.1-5。アリス・ストループが執筆しています。当たり前かもしれませんが、パリの王立科学アカデミーの成立と活動は、科学史の非常に重要なターニングポイントです。アリスの記事を読むと、アカデミーの活動に焦点をあわせた研究が必ずしも十分にはなされていないようです。ポイントの一つは、国家との関係、別のポイントは研究の組織性、もうひとつのポイントは産業技術・職人の技術との関係です。ともあれ、アリス・ストループの本を買っていることは昨日判明しましたから、本を探すことにしました。弱い記憶があり、本はすぐに見つかりました。青いカバーに見覚えがありました。
→アリス・ストループの本をきちんと読むのが一番てっとりばやいことに気付き、読み始めました。
ひとりで4時45分。採点から解放されて、すこし元気になったのかもしれません。室温13度。今日は幼稚園児のリズム参観。みんな見に来てくれると言って、大張り切りしていました。
妻、幼稚園児、おおきいちびがいっしょに9時前にでました。おおきいちびはそのままお医者さんに行きます。去年の秋に膝上の部分に深い裂傷を負っています。その治療のために定期的に学校から指定された医院に通っています。
残る私とちいさいちびは、10時に間に合うようでかけます。
→現実には、医者からは30分で帰ってきました。9時50分、全員ででかけました。幼稚園に着くと、教頭先生に当たる方がなおくんのクラスは10時半からですよ、というお言葉。妻が書類を読み間違えていたようです。おおきいちびが本屋さんというので、幼稚園のすぐそばの本屋さんに入りました。おおきいちびはコナンの最新刊、ちいさいちびはコナンの学習マンガ(日本史編)を選びました。20分の滞在で、幼稚園に戻りました。
なおは、挨拶のときに笑った以外は、とてもまじめに一生懸命にリトミックをやっていました。私は椅子に座って撮影。動画撮影の腕です。ずっと同じ構えをしていると腕が疲れて痛くなってきます。適当に腕を休ませながら、まずまずの撮影ができました。
終了後、おおきいちびが買い物があるというので、ママといっしょに吉祥寺へ。幼稚園児とちいさいちびと私は、駅前のマックで昼食。ふたりでおとなしくちゃんと食べていました。
今月は、ここで100枚を越えました。
[無線化に成功]
2時過ぎに、アマゾンから、「BUFFALO おまかせ節電 USBポート搭載 11n/b/g対応 ハイパワー 無線LANルーター Air Station 単体 WZR-HP-G301NH」という無線ランルーターが届きました。妻が子どもたちに邪魔をされないでノートパソコンが使いたいというので、ちょうどよい時期かと考えて、下から2番目の機種を昨日アマゾンで発注したものです。値段は¥ 5,926。価格.COM では、バッファローの3千円台のものがもっともよく売れています。評価を見る限り、それでも大丈夫だと思われましたが、ルーターは1階の私の部屋、妻の使うノートパソコンは2階の端っこの部屋です。電波の強いものの方が安心だろうという考えで、もうひとつ上の機種を選んだものです。いずれにせよ、無線LANルーターがここまで安くなっていたとは。(無線ランルーターそのものは、実は、これが最初ではありません。台北に住む妻の妹の家に世話になったときに、お土産として1台もらってきています。ただし、パスワードの設定をしっかり教えてもらわなかったので、途中で投げ出していました。)
箱を開けて説明書を読むと、繋げてスイッチを押すだけで繋がる模様。前のものと同じく、ルーターは横置きにしました。モデムを一度再起動してから、まず、ランケーブルで繋げているウィンドーズマシーンでごく簡単な設定をすませました。次いで、妻のパソコンをケーブルからはずし、食卓の上で、附属のCD-ROM から設定。なるほど、ルーターのスイッチを一度長押しするだけで繋がりました。速度的にもまったく問題ありません。
2階の部屋にもっていきましたが、電波も問題なし。しばらくしてから、おおきいちびのものも同様に無線で使えるようにしました。幼稚園児がなおもというので、幼稚園児のものも無線接続してやりました。おおきいちびといっしょに食卓で並んでゲームをしていました。
私のマシーンは、とりあえず、このまま有線で使います。→2011.2.20 せっかくですから、ウィも無線でつなぎました。ネットでの対戦は考えていない(させるつもりはない)ので、今のところ、天気予報とニュースぐらいです。
[2011年度授業準備]
2010年度の成績評価が終了すると、次は、2011年度の授業準備です。まずは、2月15日に記した冬の駒場の授業の準備から始めました。15日の部分に、追加する形で、内容をつめています。17世紀に出現した科学学会に関しては、 History: Nature & Artifice, Lecture 12. Mechanism, "Scientific Societies" によいまとめがあります。
メルセンヌ・サークルからいくと、そのメンバーは次のようになります。
メルセンヌ (Marin Mersenne, 1588-1648)
ファン・ヘルモント (Jan Baptist van Helmont, 1577-1644)
ペレスク (Fabri de Peiresc, 1580-1637)
ホッブズ (Thomas Hobbes, 1588-1679)
ベークマン(Isaac Beeckman, 1588-1637)
パスカル(父)(Etienne Pascal, 1588-1651)
ガッサンディ(Pierre Gassendi, 1592-1655)
デカルト (René Descartes, 1596-1650)
フェルマー (Pierre Fermat, 1601-1665)
ロベルヴァル (Gilles Personne de Roberval, 1602-1675)
パスカル (Blaise Pascal, 1623-1662)
メルセンヌが1648年に亡くなると、このメンバーはモンモール・アカデミーに引き継がれる。モンモール (Habert de Montmor ,1600-1679)。
デカルトは、1650年、すなわち17世紀のほぼ真ん中で死没しています。残ったのが、ガッサンディ、フェルマー、パスカル、ロベルヴァルです。モンモールのサークルには、他にクレルセリエ (Claude Clerselier, 1614-1686?) 、パタン (Guy Patin ,1601-1672)、プティ (Pierre Petit , 1594?-1677)等が加わります。
ひとりで5時55分。夜半から春の雨が降っています。居間に降りて、室温15度。雨は幼稚園児が出る頃にはすっかり上がっていました。その代わりというわけでもないのでしょうが、嵐のような風が吹いています。時期的にはまだ春一番とは呼べないのかもしれませんが、そのような強風です。
昨日、東大駒場のシラバスの入力をすませてから(「その他」の欄を入力しようとしたとき、タイムアウトになりました。面倒なのでそこで一度切っています。今日あとでもういちど確認して完成させます)、気になるので、山本義隆氏の『16世紀文化革命 2』(みすず書房、2007)の最終章第10章「16世紀文化革命と17世紀科学革命」を読み直し始めました。山本氏の使う「哲学」「自然哲学」という用語がどうも気になります。
もう一度、中世の大学における「哲学」と「自然哲学」を確認しておかなければならないと気付き、書棚からグラント『中世における科学の基礎づけ』(小林剛訳、知泉書館、2007)を引っぱり出しました。
中世史の小澤さんによい書評(「エッセイレビュー:グラント『中世における科学の基礎づけ』」『化学史研究』第35巻(2008): 225-229)を書いてもらったので、すっかりすんだ気持ちになっていましたが、私自身は目を通していませんでした。ありがちなことです。
ともあれ、私の疑問にとって必要な箇所を読んでみました。グラントのこの本が中世の自然哲学に関するとてもよい概説書であることがよくわかりました。同じ著者(グラント)による『中世の自然学』(横山雅彦訳、みすず書房、1982)と同じく、基本書として読まれるべき書物です。さて、私の疑問は、中世の大学(教育カリキュラム)において「哲学」と「自然哲学」はどういう位置付けだったかということです。私の理解では、科学革命の前、大学では自然哲学が基本として教えられていたはずです。しかし、学芸学部の7自由学科(文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽)のなかには、「哲学」と「自然哲学」は(まったくかかわるものがないとはいえないまでも)「科目」としてはない。
では、「哲学」と「自然哲学」は、科目としてはどういう形で教育されていたのか? これが私の疑問でした。グラントに必要な解答がありました。
(67頁)「ギリシャ-アラビアの科学と自然哲学を導入する以前の中世の「学芸」教育は、自由学芸七科に基づいていた。十二世紀後期と十三世紀にアリストテレスの諸著作とギリシャ-アラビアの科学を導入したのに伴って、伝統的な自由学芸七科の優勢は失われ、自由学芸は哲学、もっと正確に言えば自然哲学の侍女、つまり、それへの通り道となった。」
(73頁)「中世後期において自由学芸七科は広まり、変容しさえしたけれども、それでもやはり自由学芸七科は伝統的教育形態の代表であった。十三世紀の大学における真に新しい学問はアリストテレスの哲学著作が導入されることによって到来した。アリストテレスの哲学著作は、学芸学修士号に主として必要とされるものを構成していたのであろう。アリストテレスの著作に基づいて哲学は三つの主たる領域に区別された。すなわち道徳哲学(倫理学)、/(74頁)形而上学、自然哲学である。これらのうち一つ目の学科領域(道徳哲学)の主要なテキストはアリストテレスの『ニコマコス倫理学』であった。一方アリストテレスの『形而上学』が二つ目(形而上学)の学科のテキストであったのは明らかである。アリストテレスの自然哲学はこの三つの哲学のうち最も重要で、大学教育の核を形成した。アリストテレスの「自然学著作」は自然哲学研究のテキストとして役立ったが、その中にはアリストテレスの『自然学』と『霊魂論』が含まれた。これらは恐らく自然哲学において最も重要な二冊であった。その他『天界論』『生成消滅論』『気象論』『自然学小論集』もそこに含まれた。」
「自然哲学は中世において道徳哲学の基礎として役立ち、ほとんどすべての大学で形而上学に織り交ぜられた。神学でさえ自然哲学を非常に頼りにした。」→解答をまとめておきます。
1.中世の大学における哲学とは、アリストテレスの哲学であり、道徳哲学、形而上学、自然哲学であった。いわゆる現代語で哲学と呼ばれているものとはまったく違うまでは言えないまでも、相当に違う。
2.自然哲学は、基本として中世の大学において教授されていた。とくに学芸学修士号の取得のための柱となっていた。
ひとりで5時20分。居間に降りたとき、いくらか寒さが緩んだように感じました。昨日より一度上がって、室温13度。今日も小学生たちといっしょにでます。仕事は、試験監督です。教室が4つにわたる授業の試験監督補助のひとりです。もう15年ぐらいやっていない仕事です。事務からもらった書類には去年の4月21日に改訂されたとあります。全然気づいていませんでした。
家をでるまでに、一応、東大のシラバスの入力をすませました。もう一度見直して完了とします。成績表もバックアップのためのコピーを完了しました。こちらはあと教務課に提出するだけです。
→ちびどもよりわずかに先にでました。8時半武蔵境発の西武線。余裕があるかと思ったのですが、研究室に入ってすぐに教務課にかけつけました。
試験監督業務はとくにむずかしいことはありません。しかも試験時間は60分。さっと終わりました。
監督業務のあと、成績表を教務課に手渡しました。量が多いので、確認のためにいくらか時間がかかりましたが、2学期の教務関係にこれにて終了。研究室でゼミの相談を一件受けたあと、生協で昼飯を食ってから帰宅。まずは机の上の片づけから。どこまでできるか不明ですが、ともかく進めておきます。
来週は、火曜日午前中に会議、水曜日は午後出張校正(大学では出席が任意の会合が二つありますがパスします)、金曜日は前期入試・・・。まだまだ仕事は続きます。
おやつの時刻に、次の本が届きました。
山路勝彦『近代日本の海外学術調査』日本史リブレット64、山川出版、2006
最後のパラグラフ(106頁)「明治以来、日本の人類学的学術調査はおもに植民地を舞台に展開してきた。その研究史を考えるとき、植民地主義との関係は切実である。実際に植民地行政にかかわった人類学者は多数というわけではなく、むしろ多くは純学術的調査に精力をそそいできた。だからいって、学術研究がはらむ権力性の問題には必ずしも自覚的であったわけではない。」
ひとりで4時35分。室温12度。採点業務は終わっていません。やはり木曜日までかかりそうです。朝がこのようにはやくなったのも、健康になったせいではなく、昨日の採点で疲れて、はやく寝てしまったせいです。仕事は仕事ですから、今日も会議が始まるまで頑張ります。
ちなみに会議は、大学院関係で4つ。前期専攻会議、後期専攻会議、研究科教授会、研究院教授会。→採点ははやめに終わらせた方がよい。ちびどもといっしょに家をでました。多磨駅前のコンビニで食事を買い込んで研究室へ。
そもそも採点がかなり残っています。適宜休憩を入れながら、ともかく採点。採点そのものは12時頃なんとか終わりました。
次は成績表への転記。転記を間違えると意味がありませんから、注意を払いつつ、転記。
会議は2時からはじまりますが、2時からの会議、3時からの会議、いずれもすぐに終了しました。空いた時間で転記を続行しました。そのおかげでなんとか転記は完了しました。
4時からの会議は、2つ連続します。終わって7時前。7時4分多磨駅発の電車に間に合いました。
採点は疲れます。やはり子どもたちといっしょの時間に寝てしまいました。
ひとりで4時55分。室温12度。外は一面の銀世界。昨夜8時過ぎから降り始めた雪が積もっています。ただし、気温はそれほど低くなっておらず、比較的はやめに解けるように思われます。
朝食を用意している間に、室温は11度まで下がりました。採点・成績表転記の作業は、今日も続行します。終わらなければ水曜日、木曜日と続けます。遅くとも木曜日には完了にしたいと思います。
次の締切は、18日(金曜日)で来年度の駒場の授業(学部用、冬学期、金曜日5限「科学史特論V」。3限は廣野氏の「科学社会学」、4限は古川さんの「科学史特論 I 」。続けて受講してもらうとちょうどよいのではないでしょうか)です。案を記します。
「ロンドン王立協会・パリ科学アカデミー再訪:科学革命の見直しにむけて」
ロンドン王立協会とパリの王立科学アカデミーの研究の最前線を展望し、さらにクーンの見方に修正を迫りたいと思います。新たな研究を進める展望台のような位置を確保できればよいかと思っています。
個人的には、知識社会学的観点と技術史(実験道具や技術の伝統)との関連を重視しますが、学部の授業ですから、先行研究の正しいサーベイができればよいでしょう。文献ですが、王立協会に関しては、何と言ってもマイケル・ハンターの仕事が基本です。日本語で読めるものとしては、大野誠氏が訳されたものがあります。
マイケル・ハンター『イギリス科学革命:王政復古期の科学と社会』大野誠訳、 南窓社、1999
もともとは、Science and Society in Restoration England, 1981, 1992 です。出版社の意向かもしれませんが、メインタイトルを「イギリス科学革命」とするのはミスリーディングだと思われます。さて、パリの王立科学アカデミーに関しては、何が基本でしょうか。
→専門家の隠岐さんに聞いていました。
隠岐さや香『科学アカデミーと「有用な科学」:フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』名古屋大学出版会、2011年2月21日
Roger Hahn, The anatomy of a scientific institution : the Paris Academy of Sciences, 1666-1803, University of California Press, 1971
Alice Stroup, A company of scientists : botany, patronage, and community at the Seve nteenth-century Parisian Royal Academy of Sciences, . University of California Press, 1990
→あやうくもう一冊注文するところでした。この本は、2001年8月にアマゾンから購入しています。David J. Sturdy, Science and social status : the members of the Academie des sciences, 1666-1750, . Boydell Press, 1995
古いものとしては、1980年朝倉からでた村上陽一郎編『知の革命史1 科学史の哲学』に収録(93-171)された吉田忠氏の「科学と社会―科学の専門職業化と制度化―」でしょうか。
どういうテーマがありえるか、順不同に記してみましょう。
・ハートリッブ・サークルとメルセンヌ・サークル
相馬伸一『教育思想とデカルト哲学:ハートリッブ・サークル 知の連関』ミネルヴァ書房、2001
この本の私による書評:『化学史研究』第29巻第3号(2002), pp.201-204.
Mark Greengrass, Michael Leslie and Timothy Raylor (eds.), Samuel Hartlib & Universal Reformation: Studies in Intellectual Communication, Cambridge: Cambridge University Press,1994.
Charles Webster, The Great Instauration: Science , Medicine and Reform 1626-60, London, 1975.
John T.Young, Faith, Medical Alchemy and the Natural Philosophy: Johann Moriaen, reformed inteligencer and the Hartlib Circle, Ashgate,1998.
芳賀守『イギリス革命期の農業思想 S.ハートリブの関わった農書研究』八朔社、1992
R. Lenoble, Mersenne ou la naissance du mécanisme, Paris, 1943.
V. Boria, Marin Mersenne : Educator of Scientists, PhD Thesis, The American University, 1989
A. Beaulieu, "Le groupe de Mersenne," in Geometry and atomism in the Galilean school (Florence, 1992), 17-34.
D. Garber, "On the frontlines of the scientific revolution : how Mersenne learned to love Galileo," Perspect. Sci. 12 (2) (2004), 135-163.・王立協会初代事務局長(Secretary)オルデンバーグの仕事
文献:金子務『オルデンバーグ―17世紀科学・情報革命の演出者』中央公論新社、2005・ボイル研究<BR> マイケル・ハンターの仕事を中心に、私のものも。
・フック研究
日本語としては、中島秀人氏の研究を中心に、英語ではシェイピンの仕事を中心に、フックの科学史的な位置を検討する。
文献:
Steven Shapin, "Who was Robert Hooke?," in Michael Hunter and Simon Schaffer (eds.), Robert Hooke: New Studies, Woodbridge: The Boyldell Press, 1989, pp.253-286
Shapin, S. "The invisible technician," American Scientist 7(1989) : 554-563
Rob Illiffe, "Technicians", Notes Rec. R. Soc.62(2008): 3-16
Steven Shapin, ""A Sholar and Gentleman": The Problematic Identity of the Scientific Practitioners in Early Modern England," Hist. Sci., xxix(1991): 279-327
中島秀人『ロバート・フック:ニュートンに消された男』朝日新聞社、1996
中島秀人『ロバート・フック』朝倉書店、1997
マーガレット・エスピナース『ロバート・フック』横家恭介訳、国文社、1999
ロバート・フック『ミクログラフィア:微小世界図説』板倉聖宣・永田英治訳 仮説社 1984年(抄訳)
Rostenberg, Leona, The Library of Robert Hooke, Santa Monica, California :Modoc Pr.,1989.
Michael Hunter (ed.), Robert Hooke: New Studies , Woodbridge: The Boydell Pr., 1989.・実験室と実験研究
化学のラボラトリーの実態に迫る。・望遠鏡と顕微鏡
エンゲルハルト・ヴァイグル『近代の小道具たち』(三島憲一訳、青土社、1990)の論点を確認した上で、その先の望遠鏡研究史と顕微鏡研究史を可能な限り押さえる。・ベイコン主義の実相
フランスと英国におけるベイコンの受容とベイコン主義の成立を見る。・王立協会の敵ホッブズ
シェイピンとシェーファーの仕事を中心に。あるいは、ミンツの『リヴァイアサン狩り』。
Shapin,Steven and Simon Schaffer, Leviathan and the Air-Pump: Hobbes,Boyle and Experimental Life, Princeton: Princeton U.Pr., 1985.・パリの王立科学アカデミーのメンバー
誰がいて、何をしたのか? どうして選ばれたのか?
ホイヘンスの仕事の全貌。
ライプニッツの仕事の全貌。・ネットワークの中の科学
ネットワーク内存在としての科学。・職人の知との比較
ギルド的知との比較における科学者共同体内知としての科学。ほんとうのところ何が違うのか、相同と相違。
山本義隆氏の仕事の検討。とくに、『磁力と重力の発見』ならびに『16世紀文化革命』
英語ではとくにロングとエイモンの仕事。
William Eamon, Science and the Secrets of Nature: Books of Secrets in Medieval and Early Modern Culture, Princeton University Press, 1994
Pamela Long, Openness, Secrecy, Authorship: Technical Arts and the Culture of Knowledge from Antiquity to the Renaissance, The Johns Hopkins University Press, 2001→東大の事務(東京大学教養学部教務課後期課程係)からもらった書類を引っぱり出しました。
・授業の目標・概要
・授業の方法
・成績評価方法以上の3点を記入せよとあります。シラバス(詳細な授業計画)は「授業計画欄」(公開対象外)に入力せよ、とあります。公開する箇所には必要ないという意味でしょう。
成績評価方法ですが、「全出席が前提となりますので、なるべく平常点や出席点という表記はさけてください」とあります。指摘されてしまえば、これはそうです。私の担当する授業については、次のようになるでしょうか。
・授業の目標・概要
「ロンドン王立協会・パリ科学アカデミー再訪:科学革命の見直しにむけて」
目標:「科学革命期に創設されたロンドン王立協会とパリの王立科学アカデミーの科学史上の意味を再検討したいと思います。クーンの改訂を目指します。」
概要:「重要な先行研究をサーベイした上で、新しい研究のための「展望台」を築きたい。」・授業の方法
「基本的には演習方式で行う。学生諸君に一回一回の分担分を発表してもらう。必要に応じて、私の講義も含める。」・成績評価方法
「発表による。発表の内容と発表の方法を評価する。」
妻に続いて、6時前。室温12度。今は曇り、夕刻に雨という予報。→7時頃、みぞれが降り始めました。今日も寒い一日になりそうです。[採点業務続行中]
今日はひたすら採点業務です。朝から答案(期末レポート)に向かい「表象文化とグローバリゼーション」の採点そのものは完了しました。すぐに幼稚園児といっしょに家をでて、私は幼稚園児をおくっていったその足で大学へ。共同研究室に陣取って、(採点そのものではなく)整理をしました。答案(期末レポート)とレスポンスシートを学生毎に合体させる作業です。この単純な作業がけっこう手間も時間もかかります。肩に痛みを感じながら、でも、遅らせることもできないので、ともあれ、3科目の整理を完了しました。3時40分。
[今西錦司と西北研究所、または人類学の戦時研究]
こういう作業ばかりだと精神衛生上よくないので、帰り際、図書館によって次の本を借り出しました。
中生勝美編『植民地人類学の展望』風響社、2000
帰宅してひといきついてから、次の論文を読みました。
中生勝美「内陸アジア研究と京都学派 西北研究所の組織と活動」『植民地人類学の展望』(中生勝美編、風響社), pp.211-258
これはとても面白い論文でした。まずは西北研究所のメンバーだけでも書き写しておきます。機関長:土橋一次
所長:今西錦司
次長:石田英一郎
:藤枝晃
:磯野誠一
:酒井行雄
:甲田和衛
:菊池杜夫
:加藤泰安
:野村正良
:森下正明
:中尾佐助
:梅棹忠夫
民族学的な知識は、戦争遂行のために必要だと認められ、「1943年に東京で民族研究所が設立され、さらに1944年には蒙古連合自治政府(略称は蒙彊政府)首都の張家口に西北研究所、同年、台湾に南方文化研究所が設立された。」(211頁)今西氏は、晩年になって、所長に就任した経緯を次のように述べている。
「もちろん国民の一人として、私も戦争はぜひ勝たなければと念じてはいたが、一方では戦争のために、学者がむざむざと殺されてよいのだろうか、という心配があった。だから、日増しに息ぐるしくなる国内を逃れて、蒙古に疎開し、そこで学問に打ちこめるならば、その学問が戦争協力に役立とうと、あるいは戦争をこえて民族に役立とうと、それは現地にいってからゆっくり考えたらよいことであって、とにかくこれは渡りに船だから、この船に乗らねばならない、そして、船の収容力のあるかぎり、一人でも多く、若い有望な学者をつれださねばならない。」(226頁)
以上はもちろん、経緯というよりも、引き受けた際の気持ち(心情)です。正直な述懐だと思われます。
実際そこには、植民地の自由があった。しかも彼らは、満洲の研究(調査)機関とはことなり、研究成果を日本に持ち帰ることができた。
科学者が多く戦時研究に駆り出されています。(総動員体制)。同じように、これは、人類学の戦時研究と位置づけることができるでしょう。
ひとりで6時10分。室温11度。雨は上がっています。ちびどもは今日は友チョコつくりに励むと言うことです。クッキーを基本にしてつくるようです。このようにして伝統はつくられていく・・・。
午前中はちいさいちびが友チョコ用のクッキー作り。ひとりあたりクッキー2枚を作りました。それにチョコ1本(または小一箱)。
午後はおおきいちびがクッキー作り。20人近くに配ると言っています。そうこうしている間に、先行組が配りに来ました。7~8件までは来たような感じです。
ちいさいちびは今日配るというので、ついてまわってやりました。本人が自転車がよいというので、自転車。5年目で場所がわからなくなりました。ちいさいちびは漠然とは覚えていますが、正確な記憶がありません。妻に電話して、住所を確認してもらって、やっと辿り着きました。川をわたるところがポイントでした。
帰宅すると、おおきいちびはまだクッキー作りでした。最後の焼きがうまくいかず、焼き足しをしていました。
あまりのめんどうくささに妻はきれかけていました。私もああつかれた!でした。
ひとりで6時。室温11度。昨日いつもより遅くまでテレビを見ていた子どもたちはまだ起きてきません。→6時半過ぎに起きてきました。買い物があるということで、妻とおおきいちびは10時前にでていきました。幼稚園児とちいさいちびは外出したくないということで、好きずきに遊んでいます。雪がまたちらつきはじめました。今はぱらぱらという感じですが、また昨日のようにどさどさと降ってくるのでしょうか。
午後、おおきいちびと買い物にでかけ、2冊の総合雑誌(『中央公論』『文芸春秋』3月号)の他に、村上もとか『JIN―仁―20』(集英社、2011年2月9日)を買いました。冬休みに19巻まで読んでいます。19巻はどう考えても終わっていません。この第20巻が最終巻です。とりあえず、現在にもどってきて、終わりです。
総合雑誌では『中央公論』から読み始めました。私には、竹森俊平「欧州銀行危機が目前に迫っている」がいちばん勉強になりました。銀行の危機と国家の危機が深くリンクしている、という事情がよくわかりました(アイルランドの場合、銀行を救ったせいで、国家が破綻した)。オランダに続き、イタリアの大学もひどいことになっているようです。
ひとりで6時20分。室温12度。地面が濡れています。予報では最高気温が3度で雪になるそうです。幼稚園児は昨日その予報をママに教えてもらって、玄関のところに雪遊びに準備をすませています。子どものためには雪になってくれるとよいのですが。→8時前に細かく降っていた雨が雪にかわりました。地面の温度が高いのか、ほとんど積もることがないまま降り続きました。夕方になってやっとすこし積もった場所ができました。
午後2時からおおきいちびの誕生会。ケーキの予約が12時です。11時半頃、おおきいちびと受け取りに行きました。お菓子と飲み物が欲しいというので、まずセイユウ。それからケーキ屋さん。このあたりでは有名なケーキ屋さんです。シフォンケーキの上にスヌーピーの飾り物が乗っていました。
幼稚園児はどうしても混じりたいようです。妻が(ちょっとつらいのをおして)幼稚園児を東急に連れていくことになりました。ちいさいちびは最近休みはほとんど外出したがりません。私とお留守番。
おねえちゃんたちは、さすがにもう自分たちで進めています。ローソクに火をつけるのだけ手伝ってやりました。幼稚園児は、5時前に帰ってきました。
午前中に、次の本が届きました。
大林信治・森田敏照編著
『科学思想の系譜学』
Minerva21世紀ライブラリー、1994
目次は次の通りです。
序-三つの原風景 大林信治
第1部 機械論的世界像の成立
第1章 ルネサンスにおける芸術と科学 岡田温司
第2章 実験的方法と科学-錬金術、ベーコンの実験的科学- 小森田精子
第3章 哲学と科学-デカルトの場合- 宗像恵
第4章 宗教と科学-魔術からの解放- 大林信治
第2部 有機体的世界像の新しい展開
第5章 人間の科学-人類学の誕生- 山中浩司
第6章 言語の科学-比較文法の成立- 三谷研爾
第7章 身体の科学-計測と器具- 上山隆大
第8章 生命の科学-進化論の成立と展開を中心に- 越田豊
第3部 非ユークリッド的・量子力学的世界像への転換
第9章 非ユークリッド幾何学と多様体 難波誠
第10章 ニュートンからアインシュタインへ 窪田高弘
第11章 確率論的思考と現代物理学 高橋憲明
第12章 戦争と科学-原爆開発を中心に- 森田敏照
京大の岡田温司さん、神戸大の宗像恵さんを除き、大阪大学のメンバーによる論集です。総合科目として開講されていた「科学思想史」を本にしたということです。現役のサイエンティストが大勢参加しています。越田豊氏は動物形態学、難波誠氏は幾何学、窪田高弘氏は素粒子論、高橋憲明氏は原子核物理が専門です。編者の森田敏照氏は細胞生物学が専門、と「科学思想史」をうたう書物としてはかなり異色です。夕刻次の本が届きました。
『歴史読本』編集部編
『石原完爾と満洲帝国:夢と野望の「大帝国」の実像』
新人物文庫、2010
昨日お会いした編集者に勧められたものです。冒頭に、松本健一と佐野真一の特別対談「満洲帝国の二人の帝王:石原完爾と甘粕正彦の思想と行動」が収録されています。もとは『歴史読本特集』(2009)を再編集したものということです。
ともあれ、松本健一と佐野真一の特別対談だけ読みました。→全体をざっと読みました。
事実として、31頁「京都大学人文研究所のブラック人脈と北一輝の遺書」で記述されている、「北京の北門」が興味深い。河北省の張家口に西北研究所という民族学の研究機関があった。トップは今西錦司、次長は石田英一郎、大学院生だった梅棹忠夫も参加している。→「西北研究所」が気になったので、ウェブで調べてみました。九州大学理学部 生物学教室 生態学研究室に所属する粕谷英一氏のサイト 歴史の中の今西錦司(http://kasuya.ecology1.org/ima01.html) に、文献がもっともきちんとまとめられています。
第一に目を通すべきは、次の論文でしょう。
中生勝美「内陸アジア研究と京都学派 西北研究所の組織と活動」『植民地人類学の展望』(中生勝美編、風響社)所収梅棹氏自身の回想録でも触れられているようです。
梅棹忠夫『回想のモンゴル』中公文庫
磯野富士子『冬のモンゴル』中公文庫西川一三『秘境西域八年の潜行』(上)(中)(下)中公文庫 には、驚くべき話がでているようです。
妻に続いて、6時。雲がかかっています。お昼休みから3限にかけて、答案とレスポンスシートの整理。予想外のことに終了しませんでした。後15分残った感じです。ほんと、この整理はいつも意外に手間取ります。全部で6時間から7時間かかる計算となります。
4限は、ゼミ。3年生に話を聞くと、ちょうど就活がはじまったということでした。今日から始めるという学生も2名いました。
5限、編集者の方を迎え、(仕事の話ではなく)雑談。いろいろ面白い情報を伺いました。
帰宅すると次の3点が届いていました。
山崎正勝・日野川静枝編著『(増補)原爆はこうして開発された』青木書店、1997
この書物は、基本的にはマンハッタン計画についての書物です。目次は次の通り。
第1章 原爆構想のはじまり
第2章 研究と開発の組織化
第3章 原料製造法の検討と軍の管理
第4章 原爆の開発と生産へ
第5章 原爆の効果と放射能
第6章 ドイツの原爆開発と投下目標
第7章 核と科学者たち
[DVD] 『広島・長崎における原子爆弾の影響』
[DVD] 『ヒロシマナガサキ』
幼稚園児がこけこっこーとないて、6時40分。夜半から雨が降っています。本格的な降雨はほんとうに久しぶりです。雨は朝方止んだかと思いましたが、幼稚園児が出発する直前に雪にかわりました。幼稚園児は、ほんとうの雪だと喜び、傘をさして駆けながらでかけました。
子どもは喜びますが、大人には寒い。今日も会議の日。4時半から6時まで。
時間を見つけて採点を進めています。まずはともあれ4年生の答案から。[山崎正勝氏原爆研究]
原爆の開発史に関して、日本でもっともよく調べられているのは、山崎正勝氏です。科研費での研究が目立ちます。便利なのでリストアップしておきます。山崎 正勝
研究期間 : 1984年度~1986年度
「第二次世界大戦下における各国の原爆開発過程の実証的な比較研究」山崎 正勝
研究期間 : 1988年度~1989年度
「第二次世界大戦期における原爆開発製造過程の実証的研究」山崎 正勝
研究期間 : 1994年度~1994年度
「第2次世界大戦期における科学技術動員に関する実証的研究」山崎 正勝
研究期間 : 1996年度~1996年度
「第2次世界大戦期における科学技術動員に関する実証的研究」山崎 正勝
研究期間 : 1998年度~1999年度
「第二次世界大戦期の旧日本海軍における科学研究開発」山崎 正勝
研究期間 : 2000年度~2002年度
「戦後核関連科学技術政策に関する日米関係の実証的研究」山崎 正勝
研究期間 : 2003年度~2005年度
「初期原子力開発の歴史に関する日独露の実証的な比較研究」 +市川浩(広島大学)+梶雅範(東工大)市川 浩
研究期間 : 2005年度~2005年度
特定領域研究「20世紀における戦争・冷戦と科学・技術」の展望に関わる企画調査」山崎 正勝
研究期間 : 2008年度~2010年度
「戦後初期原子力開発の歴史に関する日韓の実証的な比較研究」科研費の成果は、いくつかの論文となっています。網羅はできませんが、めぼしいものを拾います。
山崎正勝「第二次世界大戦期における原爆の物理学的研究と核兵器工学の成立」『科学史研究』第II期、Vol.25、1987年
山崎正勝+日野川静枝+兵藤友博+奥山修平「原爆開発の科学技術史」『科学史研究』 28. 1-4 (1989)
山崎正勝「ロスアラモス研究所における原爆の開発と製造」『東京工業大学人文論叢』 16. 211-221 (1990)
山崎正勝「GHQ史料から見たサイクロトロン破壊 」『科学史研究』第II期、Vol.33、1995年
山崎正勝&河村豊「物理懇談会と旧日本海軍における核および強力マグネトロン開発」『科学史研究』Vol.37、pp.161-171、1998年
山崎正勝&深井佑造「陸軍東京第二造兵廠に対する仁科芳雄の報告記録」『技術文化論叢.』 No.2. 45-54 (1999)
山崎正勝&深井佑造&里見志朗「東京第二陸軍造兵廠に対する仁科芳雄の報告:1943年7月から1944年11月」『技術文化論叢』Vol. 3、2000年
山崎正勝「理研の「原子爆弾」」『技術文化論叢』 No.3. (2000)
山崎正勝「つくられた原爆による「人命救助」論」『サジアトーレ』No. 30、44-53頁、2001年
山崎正勝「理研の「ウラニウム爆弾」構想-第二次世界大戦期の日本の核兵器研究-」『科学史研究』第40巻218号、87-96頁、2001年
山崎正勝「第二次世界大戦時の日本の原爆開発」『日本物理学会誌』第56巻8月号、584-590、2001年
山崎正勝「エノラ・ゲイ展示が示す米国のおごり」『被爆者問題研究』第10 巻、32-42頁、2004年
山崎正勝「ビキニ事件後の原子炉導入論の台頭」『科学史研究』第43巻、230号、83-93頁、2004年
山崎正勝「日本における『平和のための原子(アトムズ・フォー・ピース)』政策の展開」『科学史研究』第47巻、249号、11-21頁、2009年
日本の原爆開発史については、こうした成果をもとに、書物にまとめられるべきだと思います。志のある編集者の方、本の形にして下さい。よろしくお願いします。
原爆開発と科学者(の倫理)の問題については、2010年度後期に田中浩明氏が授業をされています。ウェブにその記録があります。
田中浩朗の授業サイト
東京電機大学 工学部 人間科学系列 科学技術史研究室
科学技術と倫理(2010年度後期)
文献がきちんとあげられています。そして、何よりも、関連するテレビ番組がきちんとあげられています。テレビ番組をきちんと録画し、授業で使えるように編集してストックしておく、これはほんとうに大変な労力です。田中浩明氏ならではのことでしょう。
ひとりで4時55分。室温13度。今日はおおきいちびの11回目の誕生日。大きくなりました。背中のランドセルが小さい。お友達を呼ぶ誕生会は、11日の休日に開くそうです。今日は幼稚園児がケーキを焼くそうです。
「インフルエンザ流行警報」。小学校から通知が来ました。東京都が2月2日に発令したのだそうです。ちびどもの学校は2クラスが学級閉鎖。先生も二人インフルエンザに罹って休んでいるということです。
自分のためにスケジュール(締切)を記しておきます。
2月14日(月曜日):本務校シラバス入力締切。
2月18日(金曜日):東大駒場シラバス入力締切。
2月21日(月曜日):4年生成績提出締切。
2月25日(金曜日):全科目成績提出締切。(この日は、前期日程の入試があります。)
上のために大学院の授業を作ってみました。あとから、もう少し手を加えますが、基本はこれでいこうと思います。
大学院月曜日3限
大学院月曜日4限
ともあれ、外大のシラバス入力が一番はやい締切です。朝から頑張ってひととおりはすませました。完全なものではありません。もういちどチェックして、明日ぐらいには完成としたい。
お昼前に次の本が届きました。
ボーエン・C・ディーンズ
『占領軍の科学技術基礎づくり:占領下日本 1945-1952』
笹本征男訳、河出書房新社、2003今日も夕刻に会議。
幼稚園児が作ったケーキを食べてから飛び出しました。まず図書館に寄って次の本を借りました。
広島大学総合科学部編、市川浩・山崎正勝責任編集『“戦争と科学”の諸相:原爆と科学者をめぐる2つのシンポジウムの記録』丸善株式会社、2006
会議のあいまに、山崎正勝さんの部分{第4章「日本の戦時核開発と広島の衝撃」)は目を通しました。会議そのものは次の通りでした。
学部教授会:4時半~6時半
研究院教授会:6時半~7時半前
7時40分多磨発の電車になんとか間に合いました。8時10分過ぎに帰宅できました。
妻、幼稚園児に続いて、6時40分。おおきいちびは10分後に起きてきました。曇り。2限の授業(「科学技術と社会」)は期末レポートの提出日。その後、合計500枚以上の採点が待っています。こう書くだけで、肩に重みを感じます。
[清水榮氏経歴]
京都大学化学研究所のニュースレター『黄檗 OBKU ICR Newsletter』第20号(2004)に「清水榮名誉教授 ご逝去」という記事があります。重要な情報を含むのでそのまま引用します。
「先生の研究活動は戦時中に始まり、主にサイクロトロンの建設に没頭された。このサイクロトロンは終戦後米軍により廃棄されたが、戦後、再建に尽力され昭和30年重水素イオン・ビームの取出しに成功した。終戦間際の爆撃による広島の惨状を調査するため、第一次京都帝国大学調査隊の一員として現地に赴き、これが原子爆弾によるものであることを明らかにした。さらに第二次調査隊を編成し再度現地に赴き、採取した数百点に及ぶ試料を通して原子爆弾の威力を科学的に立証した。昭和29年米国によるビキニ環礁の核爆発実験に関しては、水素爆弾が使用されていることを第五福竜丸から採取した“死の灰”の分析により実証した。分析結果を化学研究所英文報告特集号としていち早く公表し、驚愕すべき爆発の本性を全世界に知らせた。」(p.18)ILL(図書館相互貸借)により届いていた次の本を図書館で受け取りました。
Sakae Shimizu (ed),
Hiroshima Atomic Bomb, August 1945 and Super-Hydrogen Bomb Test at Bkini Atoll in the mid-Pacific, March 1954 : Investigation by Scientists of Kyoto University
Kyoto: Kyoto Forum, 1995Table of Contents
Foreward by Sakae Shimizu (Editor).................4
Bunsaku Arakatsu: Nuclear Investigation on Field Survey in Hiroshima (in Japanese)...............6
English Translation of Report by B. Arakatsu...............15
Shigeteru Sugiyama: Medical Investigation in Hiroshima City (in Japanese). .............26
English Translation of Report by S. Sugiyama...............28
Sakae Shimizu: Historical Sketch of the Scietific Field Survey in Hiroshima Several Days after the Atomic Bombing..............33
Sakae Shimizu(Ed.): The Radioactive Dust from the Nuclear Detonation....... .......51
Sakae Shimizu: Gamma-Ray Spectrum of the Radioactive Dust Produced by the Super-Hydrogen Bomb Test Explosion on March 1, 1954 ..............199
Personal Record of Sakae Shimizu (Editor).................................207pp.51-197 を占めるのは、Bulletin of the Institute for Chemical Research Kyoto University, Supplementary Issue
THE RADIOACTIVE DUST FROM THE NUCLEAR DETONATION
The Institute for Chemical Research in Collabotation with The Radioisotope Research Committee Kyoto University Kyoto, Japan. Nov. 1954
(Bull. Inst. Chem. Res., Kyoto Univ.)
すなわち、これが上の「化学研究所英文報告特集号」です。14本の報告が掲載されています。日本語とあるのは、朝日新聞の記事です。
荒勝文策「原子爆弾報告記(1)廣島市における原子核學的調査」『朝日新聞(大阪)』1945年9月14日
荒勝文策「原子爆弾報告記(2)廣島市における原子核學的調査」『朝日新聞(大阪)』1945年9月15日
荒勝文策「原子爆弾報告記(3)廣島市における原子核學的調査」『朝日新聞(大阪)』1945年9月16日
荒勝文策「原子爆弾報告記(4)廣島市における原子核學的調査」『朝日新聞(大阪)』1945年9月17日
杉山繁輝「原子爆弾報告記(5)廣島市における医學的調査」『朝日新聞(大阪)』1945年9月18日他のものに関しても、初出情報を拾っておきます。
Sakae Shimizu, "Historical Sketch of the Scietific Field Survey in Hiroshima Several Days after the Atomic Bombing," Bull. Inst. Chem. Res., Kyoto Univ. Vol.60, No. 2, 1982.Sakae Shimizu, "Gamma-Ray Spectrum of the Radioactive Dust Produced by the Super-Hydrogen Bomb Test Explosion on March 1, 1954," Nuclear Instruments and Method in Physics Research A255(1987) 177-182
ウェブで調べていると、『理研ニュース』(2006年度)に「歴史秘話 サイクロトロント原爆研究 中根良平 元理研副理事長に聞く」という2回の連載がありました。(2006年3月号並びに4月号)。
序には次のようにあります。
「第二次世界大戦中、政府の命令により理研では仁科博士を中心に原爆研究が行われ、その実態についてはこれまでも多くの調査報告があるが、直接携わった研究者自身の証言はあまり紹介されてこなかった。今回、仁科研究室の出身で、原爆研究に直接携わった中根良平元理研副理事長(現・仁科記念財団常務理事)が語る、これまで触れられることのなかった秘話を、本号と4月号の2回に分けて紹介する。」
こうした事柄に関する当事者の証言は慎重に評価する必要がありますが、貴重な当事者証言であることに違いはありません。
幼稚園児が夢を見て泣いて、7時半。ちびどもはまだ起きてきていません。金曜の夜遅くまでテレビを見ていたせいでしょうか。(3年生がタノシンゴを見たいというので、中居くんの金スマを見ていました。今子どもたちにタノシンゴは大人気です。)まだいくらか確定できない部分はありますが、『化学史研究』2011年1号の表関係を作成し終えました。(確定できなかったところは、ゲラで赤字を入れます。)表は神経だけ使う仕事と言えばよいでしょうか。人名と行事の日付には細心の注意が求められます。あ、やれやれ。
ひとりで6時40分。室温13度。動いているうちに12.5度に下がりました。今日も大学の業務があります。業務ですが、午前10時に家をでて、午後1時過ぎに帰ってきました。
長女が中学を見てきたいというので、付き合って、中学まで行って来ました。仲の良いお友達が二人とも受験をします。どうも取り残された気分になっているようです。どちらの中学に行くのか、心配になってきているようです。
途中で、電信柱に不動産の広告がありました。1枚ポケットに入れて帰ってきました。かなり広い更地です。チラシには「整形地・60坪」とあります。値段は直接書いていませんが、計算すると7980万円です。坪の感覚が私にないのでピンとは来ませんが、坪133万円となります。チラシには「驚きの価格」とありますが、まあ、相場なのかもしれません。大学に出かけようと思ったら、郵便受けにゲラが入っていました。大学への行き帰りと家族が寝静まったあとに、何とか校正をすませました。
昨夜から2月1日に届いた次の本も読み始めました。
繁沢敦子『原爆と検閲:アメリカ人記者たちが見た広島・長崎』 (中公新書、2010)
アメリカ人の記者達もかなりの数、終戦の年の秋に、広島と長崎を取材しています。いくらか記事にはなっていますが、アメリカの新聞の紙面を埋めた量はあまりにすくない。米国側にも検閲があった(とくに原子力開発に関しては当初から検閲があり、この点でアメリカのプレスは軍に協力している。)のは事実ですが、事態はそれ以上です。
繁沢さんの結論は、「被爆地を最初に訪れたとき、自分たちが目にした光景が、そうした価値観[日米戦争は民主主義のための戦いである]をまったく裏切るものであったことは、米国の報道陣が一番よく理解したはずだ。だが、それは大っぴらに語れる話ではなかったのである。」
事実の提示は、とても貴重です。ただし、解釈(意見)は表面的な気がします。まず、重要な実実として、日本政府が、原爆投下直後の8月10日、スイス政府を通してアメリカ政府に「米機の新型爆彈による攻撃に対する抗議文」というのを出しているということです。
「米國政府は今次世界の戰乱勃発以來再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戰争方法の使用は文明社會の與論により不法とせられをれりとし、相手國側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨聲明したるが、米國が今回使用したる本件爆彈は、その性能の無差別かつ惨虐性において從來かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり
米國は國際法および人道の根本原則を無視して、すでに廣範圍にわたり帝國の諸都市に対して無差別爆撃を実施し來り多數の老幼婦女子を殺傷し神社佛閣學校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、而していまや新奇にして、かつ從來のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆彈を使用せるは人類文化に対する新たなる罪惡なり
帝國政府はこゝに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米國政府を糾彈すると共に即時かゝる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」(繁澤、2010,156頁)
この抗議の内容はそれ自体まったく正しい。
ただし、日本政府はこれを取引の材料とした。結果としてアメリカ政府はその取引に応じた。
6時40分。妻だけ起きていました。子どもたちは7時前後。今日は午前中に幼稚園児の体育参観。それから一日中、小学校の学校開放。妻は、9時に幼稚園児をおくっていったあと、小学校と幼稚園を行ったり来たりするそうです。それから幼稚園児を迎えに行って帰ってくる予定。お昼ご飯を食べる時間もないかも知れないと言っていました。
→妻は1時前に帰ってきて、急ぎでお弁当を食べ、また出かけました。5年生の体育をじっくり見たいということで、幼稚園児の迎えは私が行くこととなりました。今日は、3月中旬の気温だそうです。たしかに1月末の刺すような寒さはなく、立春を感じさせる陽気でした。
7時10分。幼稚園児もすぐに起きてきて、全員居間に集まりました。節分。今日はすこし暖かくなるそうです。明日は、立春です。帰宅すると次の本が届いていました。
笹本征男
『米軍占領下の原爆調査:原爆加害国になった日本』
新幹社、1995笹本征男(ささもと・ゆくお)さんは、民間の占領史研究家です。リビングサイエンスアーカイブズに、市民科学研究室代表上田昌文さんによるインタビュー「笹本征男さん 占領下の原爆調査が意味するもの(上)(下)」がアップされています。論旨のわかりやすい提示となっています。
『米軍占領下の原爆調査』の奥付には、関連する論文が載っています。
笹本征男「原爆初動調査における日本軍の役割」『歴史と社会』9号(1989)
笹本征男「国策と科学者の責任―占領下の原爆調査から」『科学・社会・人間』40号(1992.4.1)
笹本征男「コンプトン調査」『通史 日本の科学技術』第1巻、1995
笹本征男「原爆調査」『通史 日本の科学技術』第1巻
笹本征男「軍の解体とマンパワーの平和転換」『通史 日本の科学技術』第1巻
笹本征男「原爆報道とプレスコード」『通史 日本の科学技術』第1巻
笹本征男「ビキニ事件と放射能調査」『通史 日本の科学技術』第2巻
個人的には、こうした論考やインタビューを集めたもう一冊の書物が必要だと感じます。
中心的論点を整理しておきます。
1.主語の明示
原爆投下の主語は、米国軍であり、投下に責任を負うのはアメリカ政府です。日本ではあまりにこの主語があいまいにされてきている。
→(私のコメント)この点に関しては、100%同意します。2.原爆被害報道の不均衡
占領下、日本ではほとんど原爆被害報道がなされなかった。それなのに、アメリカでは日本の情報に基づいて、報道がなされている。「そうか、これは原爆被害を利用したんだ」とひらめき、「原爆被害者を日本政府・日本軍はアメリカに売った」という言葉が頭に浮かんだとあります。
→「売った」という言葉が適切かどうかはわかりませんが、「利用した」のは間違いないと思います。しかも、笹本氏のことばを借りれば、日本政府とアメリカ政府の共同共謀正犯として利用した」と言えるでしょう。3.原爆投下は戦争中のことだ
日本側の初動調査も、戦争中の営みとして理解されなければならない。仁科のかかわった調査も荒勝の調査も、日本軍の調査、「米占領軍が来るまでの戦時調査、純粋な戦時における軍事調査、兵器効果調査」と理解されなければならない。
→これもその通りです。そして、占領軍が日本に上陸しても、日本政府は続いており、戦時中日本の検閲を担っていた情報局が報道機関に対する干渉を停止させられたのはやっと10月1日ですし、解散は12月31日である。(モリカ、p.35. 事実、アメリカの特派員が天皇の会見に成功したとき、内務省は発行停止命令を出している。9月24日には、報道に対するすべての統制を解くように命令されており、9月27日にも再度命令を受けていたにもかかわらず、9月29日、内務省は命令を発した。)
→
妻に続いて、6時40分。私は会議の日。幼稚園児は今日はお休み。お友達のお家に遊びに行くそうです。9時前に次の本が届きました。
モニカ・ブラウ
『検閲 1945‐1949:禁じられた原爆報道』
立花誠逸訳、時事通信社、1988
原著は、Monica Braw, The Atomic Bomb Suppressed: American Censorship in Japan 1945-1949 Malmö, Sweden: Liber International, 1986 です。著者のモリカさんは、スウェーデンのジャーナリストです。この著作で、スウェーデンのルント大学より歴史学の博士号を授与されています。
「原子爆弾の検閲の問題は、40年前の日本にのみかかわる問題ではない。それは、私たち一人びとりの将来にもかかわっている。」と「日本の読者のために」の最後のセンテンスで書かれています。そうです。その通りです。原子爆弾の検閲の問題は、日本だけの問題ではまったくありません。
→私にはとても面白い本です。会議の時にも持っていって、子どもたちが寝静まってから読み終えました。これは収穫でした。午後、次の本が届きました。
清水榮
『放射能研究の初期の歴史』
丸善出版、2004
著者の清水榮(しみず・さかえ)氏について、奥付の経歴を引用します。
大正4年東京に生まれる
昭和15年 京都帝国大学理学部卒業
昭和18年 同大学院終了
昭和21年 同大学理学部助教授
昭和27年 同大学化学研究所教授
昭和46年 同大学放射性同位元素総合センター長
昭和54年 同大学退官
平成15年12月13日 死去
後書きには遺族の方の言葉が記されています。「本書は、亡き父清水榮が人生の最後の約10年間にわたり熱心に執筆に励んだ原稿をまとめたものです。元々は堀場製作所の社内誌に掲載するための書いたものでしたが、その後、一冊の本として出版したと思い立ち、内容をさらに追加したと聞いております。
・・・
2003年12月に父が亡くなった後、私どもは、出版まであと一息というところまで進んでいたこの原稿を自費出版することで、生前に賜った皆様からのご厚情に対する感謝の印にさせていただきたいと考えました。」清水氏は、本文の最後で、「1934年:我が国における最初の加速器による原子核の人工変換 (Cockcroft-Waltonの実験)」と題し、荒勝文策氏の仕事に触れています。
「台北帝国大学(当時)において荒勝文策教授は、Cockcroft-Walton の加速器を建設し、1934年7月25日に水素イオンビームによる Li 原子核の人工変換を観測した。
・・・
1936年荒勝教授が京都帝国大学に転任した時、この装置は京都帝国大学理学部の物理学教室に移転され、1940年に新しいCockcroft-Walton(800kV)が建設されるまで使われていた。荒勝文策は1890年3月25日、現在の姫路市的形町に生れ、御影師範学校を経て東京高等師範学校卒業、1915年京都帝国大学理科大学に入学し、1918年卒業と同時に講師になり、1921年に助教授になり、1926年、台北総督府高等農林学校教授、1928年、台北帝国大学教授(物理学講座担当)になった。
その時期に2年余欧州に留学することが出来、Berlin 大学に暫くいた後、Zürich のETH で Paul Scherrer 教授(1890-1969)の許で Li 原子内の自由電子の分布に関する実験を行った。その後Cambridge のCavendish Laboratory にも数ヶ月滞在し、当時のヨーロッパの物理学の中心に身をおいて多くの経験を積み、1931年に帰国した。
1936年に京都帝国大学教授(物理学)に転任し、1945年8月のいわゆる“新型爆弾”投下の報に接するや、いち早く調査隊を組織して広島の現地に赴き、原子爆弾の真相を認知した。」(216頁)
7時10分。妻とちびどもは起きていました。幼稚園児はよく寝ています。2月。夕刻、次の本が届きました。
繁沢 敦子
『原爆と検閲:アメリカ人記者たちが見た広島・長崎』
中公新書、2010
はじめに、「本書は、連合国側ジャーナリストたちが被爆地に立ち、何を見て、何を記述しようとしたのかを検証する。さらに、被爆の惨状がなぜ伝わらなかったのか、報道と米国メディアの役割を検証することを目的としている。また、原爆報道をめぐる関係者の対応を検証し、それがどのように現在までの米国における原爆観の形成に影響を与えてきたかの解明を試みる。」とあります。
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