ひとりで5時30分。室温15度。
理由は不明ですが、昨日の夜から変に暖かくなった気がします。就寝の際、幼稚園児もあついあついと言っていました。
天気予報を見ると、今日の最高気温が16度、明日が8度です。明日に向けて半減します。会議の日。午後会議が連続します。
[核物理学者 木村毅一]
井上信さんの記事にでてくる木村 毅一(きむら きいち、Kiichi Kimura、1904年4月7日 - 1992年7月8日)氏ですが、台北帝国大学時代、荒勝文策のもと、アジアで最初の加速器(コッククロフト・ウォルトン型)を作った人物です。木村毅一氏も調べなければなりません。
京大の物理出身です。(1929卒業)
1930年に台北帝国大学の助手として採用され、1936年に京都帝国大学の理学部講師として戻ってきています。ですから、戦争末期は京大にいたことになります。京大時代にも加速器の建設に関わっています。[核物理学者 山崎文男]
山崎文男 (やまさき ふみお、Humio Yamasaki, 1907年8月23日〜 1981年11月17 日)についても調べましょう。東京生まれ。1931年東京帝大理学部物理学科を卒業。1935年理化学研究所仁科研究室に入る。のちに、理化学研究所主任研究員に。
1945年8月30日、理研仁科研の一員として、爆心地の広島に入り、放射線を測定している。
ひとりで6時25分。室温15度。今朝起きてきたおおきいちびの両目がまっかっかです。昨日は片目だけ赤かったのですが、一晩寝ると両目になっています。たぶん、幼稚園児のウイルスがうつったのだと思われます。朝一番で眼科医に連れていくということです。
それにともない、幼稚園児は私が連れていくことになります。
→眼科医の診断は、たぶん細菌性の感染でしょう(ウイルスだともっとひどいことになるそうです)。風邪の症状もあるんで、今日は休ませることとしました。おおきいちび、ちいさいちびともに小学校の面談があります。幼稚園児の迎えも私が行きました。
[日本の放射能化学の歴史]
ウェブに『仁科記念財団50年の歩み』(2005年12月仁科記念財団)という長いパンフレットがあります。その中に次の記事が採録されています。鎌田甲一(仁科記念財団常任理事)「(特別講演)仁科博士とその時代」『仁科記念財団50年の歩み』(2005): 107-140
どうもこれは、Isotope News 2004年1月号、pp.1-32 をここに採録したもののようです。
「(特別講演)仁科博士とその時代 1.理化学研究所のあゆみ」1-10
「(特別講演)仁科博士とその時代 2.仁科研究室の足跡」11-23
「(特別講演)仁科博士とその時代 3.仁科記念財団」24-32
最初のページの脚注に「本記事は2003年2月25日〜27日、日本アイソトープ協会本館(元理化学研究所の23号館)の第2会議室で行われた講演を編集したものです。」とあります。ウェブに次の原稿があります。
井上信「初期のサイクロトロン覚え書き」(2008.10.24) 書誌はまだ不明ですが、とてもよく整理されていると思います。サイクロトロンの写真を多数掲載していることは大きな利点だと言えます。
「太平洋戦争の終わりまでの日本にはサイクロトロンが理研に大小2台、阪大に1台、京大に1台(建設中)あったが、いずれも戦後占領軍によって原爆製造に関係あるものとして破壊撤去されたことはよく知られている。」
こういう書きだしです。井上信さんには、次の論文があります。
井上信「日本加速器外史 その1」『加速器』(日本加速器学会誌)Vol.1, No.2 (2004): 149-157
井上信「日本加速器外史 その2」『加速器』(日本加速器学会誌)Vol.1, No.3 (2004): 255-263
井上信「日本加速器外史 その3」『加速器』(日本加速器学会誌)Vol.2, No.1 (2005): 84-92
井上信「日本加速器外史 その4」『加速器』(日本加速器学会誌)Vol.2, No.2 (2005): 224-232やはりウェブに井上信(京都大学原子炉実験所)「小型線形加速器開発備忘録」があります。これによれば、井上信さんは、平成11年から熊取にある原子炉実験所の所長となられています。(初代所長は木村毅一氏。)
さらに井上信さんは、F. T. Cole, "Oh Camelot! A Memoir of the MURA Years" という加速器の歴史(正確には、MURA=米国中西部大学連合の加速器グループの歴史)を訳してウェブに掲載されています。コール氏はその開発の当事者です。こういうのも貴重な証言です。
ウェブキャットで調べたところでは、『加速器』(日本加速器学会誌)の所蔵は2館のみです。ほんとうでしょうか? 信じがたい状況です。
ひとりで6時15分。室温14度。すこし寒さが緩んでいます。小学生は土曜日にあった音楽会の振替休日で休み。私と幼稚園児だけ、ふつうの月曜日。7時10分現在まだだれも起きてきません。
[我が家のブーム]
休みの日、ちいさいちびが我が家の諸所にころがっている『Death Note』に関心を示しました。私の部屋にあった数冊はまとめて居間においています。残りは、妻が2階で探し出してくれました。
小学4年生には難しいかと思ったのですが、休みの間に読み切ってしまいました。
そして、昨日は、アニメの『Death Note』をゲオで借りてきていたのをそろって見ました。幼稚園児は死に神が怖いといって自分の部屋に逃げました。テレビの放映をデュークの側から1巻にまとめたものです。アニメそのものは長いのでまたの機会を待ちます。
今日帰宅すると、ドラマバージョンを借りてきていました。妻とちびどもが見たようです。幼稚園児は相変わらず死に神の姿がこわいといって別の場所に逃亡します。妻に作者のことを聞かれたので調べてみました。原作者の大場つぐみは、謎の人物でした。説はいろいろあるものの、まだ謎のようです。ついつい名前だけから鋼の錬金術師と同じような感じかと思っていました。謎だと知りたくなります。
ひとりで4時45分。室温14度。寒いと床暖房を入れるようになっています。これからはあまり現実(家の外)の温度を反映していません。[核化学者 斎藤信房氏]
斎藤信房氏は、昭和15年東京大学理学部化学科を卒業後、昭和16年京城帝国大学理工学部助教授に採用された。終戦後、昭和21年に九州大学理学部に転任になり、昭和24年東大理学部助教授となる。昭和31年同教授に昇任とあります。無機化学と放射化学講座を担当。昭和52年定年退官。2007年12月19日逝去。(享年91歳とあります。1916年に神奈川に生まれたようです。)もちろん、科学史家として京城帝国大学理工学部助教授時代のことは気になります。
本人は、仁科と木村健二郎に教えを受けたと書いています。「昭和14年に化学科三年生になった私が、木村健二郎先生からいただいた卒業論文のテーマは、「93番元素について」と「随伴鉱物間におけるラジウムの分配」の二つであった。前者は人口放射能に関するもの、後者は天然放射能に関するものであるが、それ以来今日まで私はずっとこの二種の放射能と取組んできたことになる。」(斎藤信房「 “Chemical”chemistry」『東京大学理学部廣報』8巻, 7号, 1977年3月, p. 3)
「ご指導をいただいたのは、木村先生と仁科芳雄先生であり、実験は理研の旧いサイクロトロンを用いて行なった。」(斎藤信房「旧理研時代の経験」『化学教育』第19巻第4号,p.279)
「ウランの中性子照射に関する上記二つの実験は、仁科芳雄、矢崎為一、江副博、木村健二郎、井川正雄らの研究者によって行われたが、そのころ東大の理学部化学科三年生であった斎藤信房、松浦二郎の両者も化学分離の実験に協力した」(斎藤信房「仁科芳雄とアイソトープ」『日本物理学会誌』Vol.45, No. 10, 1990, p.738)
ちびどもが起きて7時25分。室温13度。
ちびどもは今日は音楽会。午前中にあります。父母は、完全入れ替え制で自分の子どもの学年のときだけ体育館に入れるそうです。幼稚園児は行きたがっていないので、たぶん、妻がひとりで参観することになります。今月は、ここでやっと100枚を突破しました。今月はできないと思っていました。木村健二郎の研究がふくらみました。
朝一番で次の本が届きました。
菊池正士・木村健二郎・杉本朝雄・武田栄一・八木栄・山崎文男編著
『ウランおよび原子炉材料ならびに放射化学(原子力工学講座)』
共立出版、1956
除籍本、シール・印、経年ヤケ、カバーキズ、A5判、
編者代表は木村健二郎です。執筆者は、岩瀬英一(科学研究所)、黒田正(電気試験所)、千谷利三(東京都立大学理学部)、市瀬元吉(大阪工業技術試験所)、島誠(科学研究所)、木村健二郎(原子力研究所)、斉藤信房(東京大学理学部)(執筆順)です。
第6章「放射化学概論」を斎藤信房と木村健二郎が執筆しています。原子力と検閲では、清水榮(しみず・さかえ)氏、嵯峨根遼吉氏、木村一治氏、菊池正士(きくちせいし、1902年8月25日 -1974年11月12日)氏について、基本的なことを押さえようとしています。
ひとりで6時半。室温14度。お昼過ぎに出張校正。
[日本の核化学者 木村健二郎 ii]
ネットに次のものがあります。以前読んだような気もしますが、読み直しました。
林良重; 木村健二郎「木村健二郎先生をお訪ねして」『化学教育』24(3)(1976): 243-246
「化学を志した動機、受けた化学教育」について、林良重氏が木村健二郎先生に尋ねるという趣旨の原稿です。伝記的事項に関して、たぶんほかでは見ることのできない貴重な証言があります。たとえば、大学卒業後、副手に採用されたが、それは有給の副手ではなく、無給の副手であった。しかし、柴田先生が有給の副手と同じ月55円を出してくれたとあります。そして、講師になってもらった月給が75円だったそうです。
今ではありえない佳き昔の話です。
ウラン237 は、仁科といっしょにたぶん世界で最初に見つけたと言っています。論文は先を越されますが、見た、見つけたということであれば、その可能性が高いと言えるでしょう。出張校正から帰ると次の本が届いていました。
木村健二郎・齋藤信房
『岩波講座現代化学 分冊分売 7J 超ウラン元素』
岩波書店、1956年
48頁のブックレットです。歴史的資料として購入しました。
ひとりで6時。室温16度。昨夜から降っていた雨は上がっています。昼間は暖かい風が吹き、夜になって寒気が南下するということです。
子どもたちが昨夜のうちに、今朝の朝食にと思っていたものを食べてしまいました。カフェオレを一杯飲んでから、近所のローソン100に朝食の材料(パンや卵、ジュース等)を買い出しにでました。今朝は冬の寒さが緩んでいます。季節が一ヶ月戻った感じでしょうか。予報に従えば、今日一日で季節の針が1ヶ月分進むらしい。会議の日。
[日本の核化学者 木村健二郎]
来年度の大学院の授業に向けて、日本の核化学者についてほぼ網羅的に調査しようと思い立ちました。今年の冬からやっていた作業の再開です。
まずは、木村健二郎氏。1896年5月12日〜1988年10月12日弘前にて没。
東京帝国大学理学部化学科卒。
1922年、同助教授就任。
1925年〜27年、ニールス・ボーアのところに留学。
1933年、同教授。
1956年、退官後、日本原子力研究所理事。東京女子大学学長等。『化学史研究』に基本的な文献があります。
1.[特集日本の化学者第3回]斎藤信房「放射化学領域における木村健二郎の業績」『化学史研究』第23巻(1996): 302-310
2.木村健二郎「ハフニウムの発見とX線分光分析の創始」『化学史研究』第6号(1977年): 1-5
3.[年会特集:特別講演] 吉原賢二(東北大学名誉教授)「 原子核分裂の夜明けから−木村健二郎の足跡− 」第38巻(2011): 92-93
斎藤信房さんも吉原賢二さんも木村健二郎の弟子または弟子筋の化学者です。流れとしては、柴田雄次の子弟筋と位置づけることができます。世間的には、広島・長崎の原子力爆弾による放射能の測定、ビキニ環礁の「死の灰」の測定、そして、日本の原子力の初期に関わったことが記憶されるでしょう。
サイニーにはたくさんの論文があがっています。私も過去次のリストを作成しています。 化学史研究サイトにおける「事項索引:木村健二郎」
33点あります。→これは、伝記に関して基本的書物『遠き峯々 : 木村健二郎その時代』を入手するのが早いだろうと考え、午前中に駒場図書館に行って来ることにしました。『化学史研究』第6号と第23巻(1996)第4号の2冊はカバンのなかにいれて、電車で読むこととしました。
駒場の図書館は、明日から駒場祭で休館です。
駒場の図書館では、先週借りた本を返し、最上階に向かいました。ありません。館内にあるコンピューターで調べると集密にあるとでました。こういうところは、別の場所に保存されると不便です。まあ、でも仕方ありません。地下1階まで降りて、借り出しました。
午後は、会議なのでそのまま取って返しました。
正確な書誌は次の通りです。木村健二郎先生記念誌編集委員会編集
『遠き峯々 : 木村健二郎その時代』
横浜 : 木村健二郎先生記念誌編集委員会, 1990.10
本屋さんにはでなかったようですが、制作は、岩波ブックサービスセンター。32の大学図書館には所蔵されています。ちゃんとした本のつくりです。五百頁を超える大冊です。すぐに読み通すことはできませんが、帰りの電車のなかで一部読んでいました。貴重な証言の数々が収められています。ただし、いくらか残念なことに、化学者木村健二郎の仕事のまとめはありません。年譜はありますが、著作リストはなし。
頑張って目次をとりましょう。
序 編集委員長 伊藤春三
序に代えて 木村芳子
随筆・対談・講演
放射線と私
ハフニウムの発見とX線分光分析の創始
仁科さんとの出会い
“ビキニの灰”の分析をめぐって
放射化学昔話
ももとせももきのふのごとし
回想の山上会議所
学士院・学界
木村健二郎先生を憶う 和達清夫
日本学士院での木村先生 森野米三
新潟県瀬波温泉からセシウムを抽出した話 野口喜三雄
木村先生と地球化学会 山崎一雄
思い出に残る木村先生 畑一夫
木村先生の思い出 多田格三
師からの教訓 立花太郎
木村健二郎先生のこと 田丸謙二
木村先生の教え賜いしこと 横山すみ
東大及び理研(一九二〇〜五六年)
木村研究室の卒論リスト
若き日の木村先生 三宅泰雄
温泉の総合研究の思い出 野口喜三雄
私の野外実験のこと始め 岩崎岩次
木村先生と私―無機定量分析の出版 宮本益夫
木村先生と鉱物 櫻井欽一
春の闇 伊藤春三
わが国の放射能泉 中井俊夫
海と空 濱口博
本郷と駒込 斎藤信房
オールバックとオールダウンを真似してみたが 松浦二郎
先生と私 河合貞吉
ニッケル、コバルト、X線 田中信行
研究室の初期から終戦まで
木村先生の思いで 木越邦彦
木村先生と私 関原彊
五十年を通じての先生 半谷高久
先生と津軽 浦川則男
木村先生と井上敏先生 中西正城
木村健二郎先生の思い出 中埜邦夫
出会い―弟子としていただいて 村上悠紀雄
忘れ得ない事の中から 長谷田泰一郎
昭和十八年代の木村先生の思い出 上野精一
教室の疎開
弘前の疎開分室 中西正城
有馬とセシウム 山寺秀雄
広島、長崎の原子爆弾災害調査の思い出 野口喜三雄
広島原子爆弾の解明 村上悠紀雄
追想 大橋茂
木村研での九年間 斎藤一夫
戦後の頃
戦後の木村研究室における研究活動 一國雅巳
運命の糸 原禮之助
磯邊鉱泉と南極 鳥居鉄也
好きなことといわれて 守永健一
木村先生―遺影点描 佐野博俊
ボストンにおける木村健二郎先生 不破敬一郎
旅の思い出 山田彬
ヨコヤマ・マイステルの徒弟時代 横山祐之
核分裂生成物と木村ファミリー 池田長生
木村先生と「死の灰」などについての思い出 猿橋勝子
木村先生との出会い 古川路明
猫になり損ねた家鴨の想い出 西連寺永康
「木村石」こぼれ話 冨田功
木村先生をしのんで 浅利健一
原研(一九五六〜六四年)
はじめに
木村先生と原研 中井敏夫
大いなる「人」木村先生 内藤*爾
木村先生とラジオアイソトープの製造 柴田長夫
北欧再訪にお供して 夏目晴夫
放射化学と木村健二郎先生の出会い 秋葉文正
私の接した木村健二郎先生 吉原賢二
地方巡業と木村先生 阪上正信
東京女子大(一九六四〜六八年)
私の女子教育―東京女子大学長に就任して 木村健二郎
木村健二郎先生をおくる 京極純一
木村健二郎先生の想い出 鳥山英雄
私の見た木村健二郎先生 岩原さかえ
木村先生と白塔会 瀬戸口春江
俳句・連句
悼 形型子、葉山、木村健二郎先生 有馬朗人
紅梅集(同人俳句) 木村形型子
選び終えて 有馬壽子
献句三句 和田水
芭蕉七部集歌仙の獣 木村健二郎
連句に現われた動物たち―牛・馬・犬・猫― 木村健二郎
歌仙「落葉宿」 宇田雫雨捌
歌仙「祝婚歌」 木村葉山捌
歌仙「祝婚歌」その一 木村葉山捌
歌仙「祝婚歌」その二 木村葉山捌
蛇 三題 木村健二郎
三度目の高知 木村健二郎
わが家の猫の先祖 木村健二郎
教会
昔のクリスマス 木村健二郎
木村健二郎さんについて 依田俊作
木村健二郎先生への弔辞 相原嘉一
弔詞(故木村先生) 小山弘一
一九六六年のこと 平賀寿雄
木村先生を偲んで 南種康暢
木村先生のこと 寺内幸男
木村先生 間山うた
木村先生を偲んで 湯川貞子
隠居生活を楽しむ平和科学者
人物紹介
思い出
思い出すまま 木村芳子
感謝 木村幹
葬儀の次第
納骨の次第
菩提樹「梅林寺」―埋骨式に参列して 秋葉文正
年譜
御礼
編集後記以上の方々のなかで、化学史学会を通して知った方(郵便物を通してのみでお会いしたことのない方もまじります)としては、(敬称は略します)佐々木行美、斎藤信房、立花太郎、林良重、吉原賢二、阪上正信、山寺秀雄、田丸謙二、山崎一雄、等々のお名前をあげることができます。
短いものでは、斎藤信房「放射化学領域における木村健二郎の業績」(1996)が一番よく木村健二郎の化学的業績を整理していると思われます。ポイントを引き出しておきましょう。
「木村の研究業績は、無機化学、分析化学、地球化学、放射化学など広汎な分野に及んでいる。」(302頁)
「筆者(木村健二郎のこと)は中学時代から父の影響もあって将来化学の勉強をしたいと思っていたが、高等学校時代に飯盛先生のよって無機化学への眼が開かれ、柴田先生の解説によって無機化学への興味が深められたので、心ひそかに東大に進学し、柴田先生について無機化学を専攻したいと考えるようになった。」(302頁。「分析化学の思いで話」1975より)
核物理学者仁科の最良の化学パートナーが「コペンハーゲン以来の親友である木村健二郎」であった。(305頁)
サイクロトロンの生成物の化学分析を木村健二郎と井川正雄という化学分析の達人がになった。サイクロトロンを使った初期の成果は、次。
Y. Nishina, T. Yasaki, K. Kimura, M. Ikawa, "Artificial Production of Uranium Y from Thorium," Nature 142, 874(1938)
Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura, M. Ikawa, "Induced β-Activity of Uranium by Fast Neutrons," Phys. Rev. 57, 1182(1940)
Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura, M. Ikawa, "Fission products of Uranium pruduced by Fast Neutrons," Nature 146, 24(1940)
Y. Nishina, T. Yasaki, K. Kimura, M. Ikawa, "Fission products of Uranium by Fast Neutrons," Phys. Rev. 58, 660(1940)
Y. Nishina, T. Yasaki, K. Kimura, M. Ikawa, "Fission products of Uranium by Fast Neutrons," Phys. Rev. 59, 323(1941)
Y. Nishina, T. Yasaki, K. Kimura, M. Ikawa, "Einige Spaltproducte aus der Bestrahlung des Urans mit schnellen Neutronen," Phys. Rev. 119, 195(1942)
(仁科芳雄、矢崎為一、江副博、木村健二郎、井川正雄+斎藤信房、松浦二郎)「木村研究室の分析能力の高さを世界に示した例としては、1954年の、いわゆる“ビキニの灰”の分析である。同年3月に木村研究室と南英一研究室の総力をあげて行った分析では、多種類の核分裂生成物やCa-45のような軽元素の誘導放射能のほかに、U-237, Pu-239 などが検出された。このうち U-237 の検出はビキニの実験で使用した爆弾が 3F 爆弾であったことを示す証拠となり、国際的に反響を呼んだ。」(308頁)
この報告は、『分析化学』 =JAPAN ANALYSTの昭和29年号に掲載されています。
木村 健二郎 , 南 英一 , 本田 雅健 , 横山 祐之 , 池田 長生 , 不破 敬一郎 , 夏目 晴夫 , 石森 達二郎 , 佐々木 行美 , 酒井 均 , 水町 邦彦 , 浅田 正子 , 阿部 修治 , 馬淵 久夫 , 鈴木 康雄 , 小松 一弘 , 中田 賢次,
「第五福龍丸に降った放射性物質について」 『分析化学』 3(4)(1954): 335-348
Kenjiro KIMURA, Eiiti MINAMI, Masatake HONDA, Yuji YOKOYAMA, Nagao IKEDA, Keiichiro FUWA, Haruo NATSUME, Tatsujiro ISHIMORI, Yukiyoshi SASAKI, Hitoshi SAKAI, Kunihiko MIZUMACHI, Masako ASADA, Shuji ABE, HIsao MABUCHI, Yasuo SUZUKI, Kazuhiro KOMATSU and Kenji NAKATA, "Radiochemical Analysis of "Bikini Ashes" fallen on Board the No. 5 Fukuryu Maru on March 1, 1954," JAPAN ANALYST 3(4)(1954): 335-348これはネットで入手できます。木村が『分析化学』 =JAPAN ANALYSTに発表した論文は他に次があります。多くはネットで入手できます。
木村 健二郎 , 島 誠「シアン化法製錬液中の金及び銀の定量について : 鉱山にて用いるための迅速分析法の研究(第1報)」『分析化学』 1(1)(1952): 27-29
木村 健二郎 , 斎藤 信房 , 立花 太郎 , 大沢 潤子 , 柴田 長夫「放射能測定用試料の調製に関する基礎的研究(第1報) : 試料皿における試料のクリーピングの防止について」『分析化学』 2(2)(1953): 92-96
木村 健二郎「 "ビキニの灰"の分析をめぐって」『分析化学』 3(4)(1954): 333-334
木村 健二郎 [他]「ゲルマニウムの分析法」『分析化学』 5(10)(1956): 578-595
木村 健二郎「原子力と分析化学」『分析化学』 9(10)(1960): 894-900木村健二郎の論考としては、次のものもネットで入手できます。
木村 健二郎 , 齋藤 一夫 , 長島 弘三 , 中田 賢次「1-15.ゲルマニウムの國内資源(東京大学理工学研究所第6回定期講演會プログラム)」『東京大學理工學研究所報告』4(5/6), 160, 1951-03-10
木村 健二郎 , 淺利 民彌「1-16.國産鑛石よりゲルマニウムの抽出(東京大学理工学研究所第6回定期講演會プログラム)」『東京大學理工學研究所報告』4(5/6), 160, 1951-03-10
木村 健二郎 , 淺利 民彌 , 長島 弘三「1-42.鐵鋼中の燐の新比色定量法(豫報)(物理化學)(第8囘定期講演會講演要旨)」『東京大學理工學研究所報告』5(3/4), iii, 1951-10-20
木村 健二郎 , 浅利 民彌「2-29.植物体内におけるストロンチウムの分布(生物化学)(第九囘定期講演會講演要旨)」『東京大學理工學研究所報告』6(4), 269, 1952-08-20
浅利 民彌 , 伊東 好靖 , 木村 健二郎「2-13.精製セレン中の不純物の定量法(高分子化学,分析化学,燃燒)(第10回定期講演会講演要旨)」『東京大學理工學研究所報告』7(5), 202-203, 1953-12-21
木村 健二郎「放射能と学校教育」『化学教育』23(3), 175-176, 1975-06-20
木村 健二郎 , 林 良重「木村健二郎先生をお訪ねして」『化学教育』24(3), 243-246, 1976-06-20
木村 健二郎「元素の周期律(<特集>化学における発明発見 : その芽と発展)」『化学教育』28(5), 395-400, 1980-10-20木村 健二郎「大正初期の中学の物理学と化学の教科書」『東京大学理学部廣報』8(4), 3-4, 1976-09
木村 健二郎「柴田雄次先生の分光器」『東京大学理学部廣報』 12(2), 2-3, 1980-07
化学史研究サイトにおける「事項索引:木村健二郎」 に収録できなかったものとしては次があります。
木村 健二郎「145. 長崎氏外西山にて採集せる試料の放射能 (第1回(昭和21年度)年會) 」『東大理學部物理學教室』 1946
木村 健二郎「人工放射性アイソトープ(同位体)の初荷入に際して」 『科学』 20(6), 22-23, 1950-06
木村 健二郎 , 野口 喜三郎 , 半谷 高久 [他]「 満洲に於ける井水及び河水の化学成分〔第1報〕」『日本化学雑誌』 71(4), 27-30, 1950-06
木村 健二郎 , 半谷 高久「東京都及び横浜市水道水並に多摩川及び道志川の水質」『水道協会雑誌』 (190), 18-22, 1950-08
木村 健二郎 , 野口 喜三雄 , 半谷 高久 [他]「満洲に於ける井水及び河水の化学成分〔第2報〕」『日本化学雑誌』 71(8・9), 28-31, 1950-09
木村 健二郎 , 藤原 鎭男 , 守永 健一「日立鉱山地帶自然水の化学的研究-特に自然電位との関聯について-」『日本化学雑誌』 71(8・9), 44-47, 1950-09
木村 健二郎 , 藤原 鎭男 , 安田 嘉男「佐渡鉱山南部地帶地表岩石中の微量の銀及び銅の分布」『日本化学雑誌』 71(8・9), 47-51, 1950-09
木村 健二郎「化学用語の制定について」 『化学の領域』 4(12), 22, 1950-12
木村 健二郎「 比色分析-色の濃さで物の量を計る」『科学の実験』 1(3), 19-23, 1950-12
木村 健二郎「仁科芳雄博士の思ひ出」『科学の実験』 2(3), 177, 1951-03
木村 健二郎「輸入後の一年をかえりみて-日本における放射性アイソトープ研究の現況-」『科学』 21(5), 233-234, 1951-05
木村 健二郎 , 藤原 鎭男「金屬鑛床の化學探鑛について」『地學雜誌』 60(1), 9-19, 1951
木村 健二郎 , 藤原 鎭男 , 安永 健一「細倉鉱山の化学探鉱-4-」『日本化学雑誌』 72(4), 398-402, 1951-04
木村 健二郎 , 藤原 鎭男 , 長島 弘三「 宝鉱山の化学探鉱」『日本化学雑誌』 72(5), 434-438, 1951-05
木村 健二郎 [他]「ゲルマニウムの地球化学的研究-1-」『日本化学雑誌』 73(8), 589-591, 1952-08
木村 健二郎 [他]「温泉水中のチタンの定量法について」『日本化学雑誌』 73(8), 584-587, 1952-08
木村 健二郎 [他]「ゲルマニウムの地球化学的研究(2)-金属製煉工程に於けるゲルマニウムの行動について-」『日本化学雑誌』 73(9), 677-679, 1952-09
木村健二郎「化学工業における人工放射性同位元素の応用 」『化学工業』 3(11), 747-750, 1952-11
木村 健二郎「イオン交換樹脂によるスズとアンチモンの分離」『日本化学雑誌』 74(4), 305-308, 1953-04
木村 健二郎 [他]「 東洋産含稀元素鉱物の化学的研究-45-」『日本化学雑誌』 74(8), 692-694, 1953-08
木村 健二郎 , 梅本 春次「温泉地の井戸水中並びに土壤に附着しているCl-,SO42-について-8-」『岡山大学温泉研究所報告』 (12), 1-5, 1953-09
木村 健二郎 , 島 誠「温泉と鉱脈との関係に就いて-1・2- 」『科学研究所報告』 29(5・6), 517-525, 1953-11
木村 健二郎 , 島 誠「温泉と鉱脈との関係に就いて-3- 」『科学研究所報告』 30(2), 144-148, 1954-03
木村 健二郎 , 池田 長生「放射性同位元素の精製,分離及び無担体放射性同位元素の調製」『化学の領域』 8(9), 551-559, 1954-09
木村 健二郎 [他]「死の灰の本体をこうしてつきとめた」『科学朝日』 14(5), 21-27, 1954-05
木村 健二郎「第五福龍丸に降つた放射性の灰」『科学』 24(6), 300-302, 1954-06
木村 健二郎「ビキニ事件の調査をめぐつて」『学術月報』 7(10), 595, 1955-01
木村 健二郎 [他]「アルミニウム地金中の鉄の迅速化学分析法の研究-1- 」 『科学研究所報告』 31(1), ????, 1955-01
木村 健二郎 [他]「リン酸マンガン(3)の生成によるマンガン鉱石のマンガン迅速分析方法」『科学研究所報告』 31(3), ????, 1955-05
木村 健二郎「ウランの資源・製錬・分析」『金属』 25(8), ????, 1955-08
木村健二郎ほか「原子炉の灰の利用と処置」 『化学工業』 6(9), ????, 1955-09
木村 健二郎 [他]「東洋産含希元素鉱物の化学的研究-46-」『日本化学雑誌』 77(2), ????, 1956-02
木村 健二郎 [他]「 東洋産含希元素鉱物の化学的研究-47- 」『日本化学雑誌』 77(4), ????, 1956-04
木村 健二郎 , 横山 祐之 , 佐野 博敏 , 馬淵 久夫「トリウムよりプロトアクチニウムの陽イオン交換樹脂による分離」『分析化学』 6(10), 637-641, 1957
木村 健二郎 , 夏目 晴夫 , 鈴木 康雄「ヨウ素酸カリウムによるセリウムの定量的分離法の検討 : 均一溶液からの沈殿」『分析化学』 6(11), 719-723, 1957
木村健二郎「ラジオ・アイソトープの工業への利用」『通商産業研究』 6(9), ????, 1958-07
木村 健二郎 , 池田 長生 , 稲荷田 万里子 , 川西 はる子「イオン交換樹脂による硫酸イオンとテルル酸イオンの分離」『分析化学』 7(2), 73-76, 1958
木村 健二郎 , 池田 長生 , 稲荷田 万里子「イオン交換樹脂による4価のテルルと6価のテルルの分離」『分析化学』 7(3), 174-176, 1958
木村 健二郎 [他]「JRR-1によるラジオアイソトープの製造」『原子力工業』 7(12), ????, 1961-12
木村健二郎「故オットー・ハーンの余白に」『化学と工業』 21(10), 1329-1330, 1968-10
木村健二郎「本邦温泉の化学的研究に関する回顧 」『温泉科学』 20(3・4), 135-139, 1969-12
木村 健二郎「長島乙吉翁をしのぶ (鉱物趣味の父・長島乙吉先生追悼(特集))」『地学研究』 21(11・12), 318-320, 1970-12
木村 健二郎 [他]「ボーア先生の8ミリ映画 昭和12年の日本拝見(対談)」『自然』 29(1), 44-51, 1974-01
木村健二郎「情報を活用し器械を駆使して(先輩からのおくりもの) (加速器と化学--中間子からイオンビ-ムまで)」『化学と工業』 36(7), p474-475, 1983-07
ひとりで6時15分。室温14度。昨日はあまりの寒さに床暖房をつけました。したがって、寒さが緩んだのか、床暖房の熱が残っているせいで寒さが昨日ほど厳しくないのか、わかりません。勤労感謝の日で、休日。外語祭は最終日です。→ゴミを出すために外に出てみました。明らかに寒さはいくらか緩んでいます。[非破壊自炊]
次のサイトに、 非破壊自炊の実際の様子がわかりやすく解説されています。
一部の方にはすでに常識でしょうが、機械の様子と値段がでているのがメリットでしょう。30万円であるとは予想外でした。(安い!)。もちろん、グーグルが使っている機械が1千万円ぐらいするのは、さもありなん、という感じです。
(こういう方面に詳しくない方のために、簡単に説明しておきましょう。非破壊自炊とは、本を壊さずにスキャンしてpdf 化することです。そうすれば、iPad 等のタブレットでいつもで本という形態を気にせずに読むことができます。)
ひとりで6時35分。室温14度。昨日の夜からうんと寒くなりました。外の気温はずっと下がっていると思われます。[番組録画]
実は我が家の環境では、テレビの録画ができません。唯一録画機能のあるVHSデッキが壊れています。
AKB にはまっているおおきいちびがともかく夜に放映されている番組を見たいと言います。(友達との共通の話題のために、他にも見たいドラマがあるようですが、それより、なにより、AKB らしい。)
実は私も見たい番組は少しあります。でも、たいていの場合、放映されている時間帯では見ることとができません。
子どもたちが全員でかけたあと、妻と相談して、J-COM のテレビチューナーを録画機能のあるものに変えることにしました。J-COM はHDR と呼んでいます。駅前にJ-COMのショップがあり、妻といっしょにそこに行ってみました。ありゃりゃ。そういう日に限って定休日。仕方がないので、近くにできているお店で昼ご飯を食べてから、ネットで調べた番号に電話をかけました。
月々消費税込みで840円。取り替え工事費が3150円。12月1日木曜日の午後遅く来てくれることになりました。
一度ヨドバシに行って、HDレコーディングだけの機器がないか見てこようと思ったのですが、1年でほぼ1万円。しばらくはこれでよいでしょう。
ひとりで6時20分。室温17度。外語祭で授業はなし。ただし、朝一番で打ち合わせ。幼稚園児より先に家をでます。
大学に出ると、化学史研究編集委員会に次の献本がありました。
西條敏美
『測り方の科学史 I : 地球から宇宙へ』
恒星社厚生閣、2011、\3000
ご高配いただいた恒星社厚生閣の編集担当者の方、ありがとうございます。
→理事会のなかですぐに挙手があって、書評者が決まりました。次の日の朝一番で本を郵送しました。
幼稚園児がだれか下に来てと叫んで、7時半。ひとり先に起きた幼稚園児ですが、ひとりじゃさびしいといって叫びました。雨は上がって、気温も上がったようです。室温17度。夕刻に東工大で編集委員会。4時過ぎスタート、5時半終了。近所の洋食屋に行って残った人間で夕食。明日1限の時間帯に仕事がありますが、はやめに帰宅すれば大丈夫であろうと、久しぶりにつきあいました。8時40分帰宅。妻は入浴中。子どもたちは各自好きなことをしていました。
帰宅すると次の本が届いていました。
ジョー・マーチャント(木村博江 訳)『アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ』 文春文庫 2011.11 ¥830
単行本では、文芸春秋社から、2009年に出版されています。今回、文庫化されたということのようです。私は、授業で話していますから、本来は2009年の時点で入手しておくべきでした。
私の授業では「アテナイの風の塔」とセットで「アンティキュテラの歯車装置」を紹介しています。もとのプライスやノーブルの研究に依拠しています。
ひとりで7時半。室温15度。雨が降っています。今日19日から、来週の木曜日23日まで外語祭です。
初日は雨なので、屋外企画は晴れてからが勝負でしょう。昨日駒場図書館で借りだした『社会学理論の「可能性」を読む』(情況出版、2001)から、冒頭の次の論文を読みました。
西原和久・杉本学「社会学理論と日本の社会学ー『社会学評論』の50年」『社会学理論の「可能性」を読む』(情況出版編集部編、情況出版、2001), pp.6-26
駒場の授業との関連で目を通しておいたものです。(これは目を通したと表現しましたが、注も文献も表も丁寧に読んでいます。)
おそらく、社会学の人を読者対象にしているせいなのでしょうが、社会学の外部にいる人間からすれば、基本をもうすこし丁寧に提示してくれるとなおよかったと思います。
それはたとえば次です。注1)に日本社会学会の会員数は21世紀の初頭において約3千人とありますが、社会学関連の学会にどういうものがあり、その会員数はどれだけであり、機関誌(学会誌)は何であるのか?、またいつ創設されたのかという情報を表にまとめてくれると門外漢にはわかりやすかったと思います。
著者のお二人がたぶんいわゆる理論系(社会学のなかの専攻分野では、「1.社会哲学・社会思想・社会学史」や「2.一般理論」に属するせいかもしれませんが、いわゆる実証研究についてももうすこし具体的に動向を分析してもらえばよかったな、と思います。たとえば、2倍とか3倍の原稿量でそうした分析を提示する価値はあると私は考えます。[深夜の同窓会]
今日は8時20分から3年前の卒業生の同窓会。私はお風呂も夕食もすませてから家をでました。靴のなかが濡れるほどの強い雨。仕方ありません。待ち合わせ場所は、新宿駅西口地下交番前。ネットで調べると待ち合わせ場所の定番になっていました。幹事の学生は、本日四国から電車を乗り継いで来たと言うことです。
私を含めて総勢4人。みんな直前になって用事ができたと言ってキャンセルした、とのこと。土曜日の8時半ですから、仕事が忙しくてめでたいと言うべきか、あるいは土曜日の夜ぐらい休みが取れないのは問題だと言うべきか。
ともあれ、集まった卒業生3人は、元気にしていました。ひとり、卒論で原子力発電を扱った子が東電落とされてよかったといったことばが印象的でした。11時にお店をでて、またね!
夜半に目覚めてすこし仕事。朝の起床は、6時55分。室温15度。妻とおおきいちびは起きていました。社会科見学があるということです。7時半に家をでました。
今日出したメールが19通。100%今大学で関わっている仕事というわけではないのですが、でも、ほとんどがそうです。余裕がないわけです。
そして、今日は駒場の授業の7回目。私を含めて5人の出席者。正確にはわかりませんが、何か行事的なものがあり、一部の学生はそっちに出ていたようです。
ひとりで6時20分。室温14度。室温でさえも着実に下がっています。昨日に続き、冬の風が吹いています。幼稚園児の6回目の誕生日です。
幼稚園児を幼稚園におくってから、こけし屋で誕生日ケーキを買ってやりました。9時からあいているのは助かります。
12時から打ち合わせがあります。11時20分に家をでました。大学に到着したのが12時3分か4分。打ち合わせには10分ほど遅刻しました。午後の授業は、12時40分から。始まってしまうといつも怒濤になります。4限の発表は、NLP とアメリカのカウンターカルチャーについて。発表者本人がカウンターカルチャーの体現者です。カウンターカルチャーをみをもっては知らない学生諸君には、なかなか興味深いようです。
子どもたちが待っていると思い、急いで帰宅して、6時半。ちょうど夕食を開始したところでした。食べ終わって、テーブルを片づけてからケーキ。幼稚園児にはおねえちゃんふたりからプレゼントがありました。いろいろたくさん用意してくれていて、大喜び。それから待望のケーキ。幼稚園児の希望により、チョコレートケーキです。
ひとりで4時40分。室温16度。確実に冬が近づいています。冬の風の音がします。会議の日。12時から始まります。7時前には終わって欲しい。
→6時20分終了。7時前に帰宅することができました。会議の間に時間があったので図書館で次の論文を見ました。(見ましたというのはちゃんとは読んでいないからです。ざっと目を通したという感じです。)
坂野正則「十七世紀ヌヴェル・フランスにおける植民地建設とカトリシズム」『史学雑誌』第113編第8号, 2004, 34-67頁
坂野正則「17世紀中葉におけるカトリック宣教戦略の再編―パリ外国宣教会と亡命スコットランド人聖職者―」『史学雑誌』第120編第10号, 2011, 59-84頁高林陽展「第一次世界大戦期イングランドにおける戦争神経症―近代社会における社会的排除/包摂のポリティクス」『西洋史学』No.239, 2010, 41-60頁
これには次の論文が上がっていました。
高林陽展「精神衛生思想の構築:20世紀初頭イングランドにおける早期治療言説と専門家利害」『史学雑誌』第120編第4号, 2011, 1-35頁
参考文献としては次の2点が大きいようです。
エイレン・ショーウォーター『心を病む女たち―狂気と英国文化―』朝日出版社、1990
アラン・ヤング『PTSD の医療人類学』みすず書房、2001
一般読者として興味深いテーマだと思われます。(ただちに読む余裕はもちろんありません。)ともに、院生の研究にいくらか関係するかもしれないと思い、見ておいたものです。
ひとりで6時15分。室温18度。昨夜俄雨のように降っていた雨は上がっています。きれいな空です。幼稚園児は今日落ち葉拾いです。地面の様子は微妙です。
→幼稚園児全員で行ったようです。我が家の幼稚園児はA組さんなので、C組さんと手をつないで、つまりC組さんの世話係として歩きます。ちゃんとしたおにいちゃんになってくれるといいのですが・・・。妻はママさんランチ会。11時15分頃出かけていきました。幼稚園児を連れて帰ってくるのでしょうか。
今日は夕刻に会議。火曜日は5限終了後に会議がはいります。
今日は後がつかえている(明日の教授会の準備がある)ということで、5時45分スタート、7時頃終了でした。時間限定の会議です。
ひとりで6時。室温19度。幼稚園児が6時半に起きてきました。ちょっとはやすぎます。
帰宅すると次の本が届いていました。
中野 剛志
『TPP亡国論』
集英社新書、2011
諸所で話題になっている本です。
ひとりで6時40分。室温19度。気温はもどっています。8時半現在、下にいるのは、私と幼稚園児だけです。2階の音はあまり聞こえてきません。日曜日の朝です。
ひとりで7時10分。室温17度。昨日降っていた雨は上がり、きれいな青空が見えます。最高気温の予想が21度。昨日だけ気温が下がっていたことになります。[外出]
ちいさいちびは最近休日は(友達に誘われた時以外は)まったく外出しようとしません。夏休み明けから新しい靴を買ってやらないといけないと妻と話していたのですが、本人はよいと言います。他の買い物もあるので、連れ出そうとしましたが、おうちにいるといいます。
ということで、妻とおおきいちびと幼稚園児の3人で吉祥寺に買い物に出ました。妻とおおきいちびはヘアアイロンと本、幼稚園児はずっと前から楽しみにしていた誕生日プレゼント(誕生日までにはまだ5日もありますが)。
12時15分頃帰ってきました。
ひとりで6時10分前。室温17度。コンピューターに向かっている間に雨が降り始めました。NHKニュースによれば、外の気温は12度ということです。今日は寒い一日です。
なお、午前中に、公式の会議ではありませんが、会議に近い打ち合わせ&作業があります。お昼に帰宅し、一休みしてから、駒場にでかけることとなります。
[隠岐さん、サントリー学芸賞、受賞]
起床して、コーヒーをいれつつ、新聞を開くと、サントリー学芸賞の記事が出ていました。おお、隠岐さんの著作『科学アカデミーと「有用な科学」』(名古屋大学出版会、2011年)がパピルス賞に続いて、第33回サントリー学芸賞を受賞したというニュースが掲載されていました。昨日の発表ということです。私は、一昨日、パピルス賞を坂本氏のブログで知って、このホームページにも掲載したとき、実は、「サントリー学芸賞」こそが向いている、と書こうと思いましたが、万が一にも選考過程に影響することがあってはならないと思い、控えました。
それが、たった2日後の「サントリー学芸賞」の発表です。
内容に関心のある方、是非、手にとってお読み下さい。(今週、来週の駒場の授業でも取り上げます。発表者の方、よろしく!)
ひとりで5時10分前。室温17度。確実に寒くなってきています。[冬の空]
昨日の朝は4時前に目覚め、朝食がなかったので、まだ暗い内に買い物にでました。空にオリオン。他にも星が意外なほどよく見えていました。これだけよく星が見えるのは、冬空のしるしです。
朝方大学の建物からは富士山が見えました。富士山は、冬になると見えてきます。昨日の会議は、打ち合わせを含めて、5つ。間に時間がけっこうあいたので、まず研究室でふと目に止まった次の論文を読みました。
Karin Figala, John Harrison and Ulrich Petzold,, "De Scriptoribus chemicis: sources for the establishment of Isaac Newton's (al)chemical library," in P.M. Harman and Alan E. Shapiro (eds.), The Investigation of Difficult Things: Essays on Newton and the History of the Exact Sciences in Honour of D. T. Whiteside (Cambridge: Cambridge University Press, 2002): 135-179
この論文は実は私の関心からすればずっと前に読んでおくべき論文でした。ニュートンは、錬金術に本格的に参入するにあたって、1669年『化学の劇場』をロンドンで購入しますが、だいたいそれに重なって、ボレリの『化学文庫 Bibliotecha Chimica』(1656)によって、入手すべき錬金術書のリストを作成します。それが、"De Scriptoribus chemicis" というMSです。錬金術書のDesideratum(入手すべき錬金術書のリスト)は、何度か作成されます。リストには入手できなかったものが残り、入手できたものはリストから消えます。これをこの共著論文は追いかけています。
このことがニュートンのMSの執筆年代推定にある修正を迫ります。ニュートン研究にとっては貴重で重要な貢献だと思われます。また、中会議室の会議と大会議室の会議の間で、時間が大きくあいたとき、佐々木力「ベイコン主義自然哲学の黄昏」『思想』2011年第11号 No.1051, pp117 ff. に目を通しました。これも典型的なエッセイです。縦糸に(ベイコン自然哲学に関する)研究レビュー、横糸に(原子力問題に関する)自分の意見が折り込まれています。そして、著者のウエイトは、自分の意見の提示にあります。
ひとりで4時10分前。室温19度。昨夜の天気予報によれば、外の気温はもっとずっと下がっていると思われます。今日も終日会議。打ち合わせが1件10時半に始まります。最後の会議はやはりいつ終わるか、不明です。→7時15分には帰宅できました。昨日よりずっとましです。
[隠岐さん、パピルス賞]
坂本氏のブログで、隠岐さんの著作『科学アカデミーと「有用な科学」』(名古屋大学出版会、2011年)が第9回パピルス賞(関科学技術振興記念財団主催)を受賞したというニュースを知りました。新聞では、毎日が報じています。
http://mainichi.jp/enta/art/news/20111108dde018040052000c.html
隠岐さん、おめでとうございます。
ちなみに、金曜日5限駒場の授業では、今週と来週、隠岐さんの本を発表してもらいます。関心がある方は、この回だけでてもらってもよいと思います。
(もちろん、私はパピルス賞がどういう賞なのか正確には知りません。)
ひとりで6時。室温20度。5時40分スタート(正式には10分程度遅れたと思います)、7時10分終了予定の会議が実際に終わったのは、9時でした。しかも積み残し事項満載です。クレイジーです。
ひとりで6時40分。室温21度。晴れ。きれいに晴れました。幼稚園児もすぐに起きてきました。月曜日の授業は5回目。2限の科学技術と社会では、今日はレスポンスシートを配ります。先週回収したレスポンスシートに関して、7名、名前の記入していないものがあることを伝えました。学籍番号と名前はすぐに記入するように伝えています。口を酸っぱくして言っていますが、7名。2〜3名ならわかるが、7名は多いので、自分で名前を記入するように言いました。
夕刻次の本が届きました。
吉岡斉『新版 原子力の社会史 その日本的展開』朝日新聞社、2011
中川保雄『増補 放射線被曝の歴史―アメリカ原爆開発から福島原発事故まで』 明石書店、2011
吉岡さんの本は、旧版(1999)年に現代史(たぶん、第6章「事故・事件の続発と開発利用低迷の時代(一)1995-2000」;第7章「事故・事件の続発と開発利用低迷の時代(二)2001-10」;第8章「福島原発事故の衝撃」)を付加されています。それゆえ、新版です。中川保雄さんの本は、ずっと欲しかったものです。今回の原発事故にあわせて、1991年技術と人間から出版された版を増補(増補は、稲岡宏蔵氏による「増補 福島と放射線被爆」です。pp.267-310)して再刊したものです。(著者の中川さんは残念ながら、1991年に亡くなられています。帯には、東大宗教学の島薗進氏の推薦文が付されています。)
このホームページ(!)を更新する余裕がほとんどありません。先週の金曜日の話題を今記しておきます。
ウェブに次の論文(エッセイ)がありました。
榛葉豊「王政復古期の科学と郷士階級―王立協会と好学者」『静岡理工科大学紀要』 18(2010): 85-92
参考文献がすべて日本語(邦訳を含む)です。英語は1点も見られていません。形式的には論文の形ですが、典型的に日本人の書くエッセイです。勉強して興味深いと思ったことを一応論文の形式で、しかし内実エッセイとしてまとめたものです。不正確な部分と面白い見立てが混在します。
学生諸君には、そういうものとして読んでもらえれば、有用な点もあると話をしました。
(1. ボイルを「大貴族」と記述されています。お金持ちの貴族的存在という意味で使われているのでしょう。ボイルは、正確には、ジェントリーです。爵位貴族、聖界貴族に次ぐ階層(エスクワイア)です。広い意味では、貴族と書くのは問題ない―私もわかりやすさを考えて、貴族と表現していますし、ハンターも aristocrat に分類しています―でしょうが、「大貴族」というような書き方は、ミスリーディングです。)
(2. インビジブルカレッジが2つあったと記述されています。え? 聞いたことがありません。インビジブルカレッジに関してはチャールズ・ウェブスターに基本となる優れた先行研究があります。私も朝日出版の解説のなかで、その先行研究を紹介し、インビジブルカレッジに関して世上に流通している誤解を解いています。先行研究にもう少し敬意を払ってもらうとよいのですが・・・・。)
ひとりで4時40分。室温21度。雨。雨は、昨日の日暮れから降っています。おおきいちびが遊びから帰ってきた時刻(6時前です)にちょうど降り始めました。
夜半に目覚めて、すこし仕事。2回目の起床は、ひとりで7時。室温20度。まだまだ暖かい。
午前中に季節的業務があります。
私の分担は1件のみ。30分前に大学に到着し、相棒の協力もあり、スムーズに進行して、すぐに帰ってきました。帰途、三鷹駅内のクイーンズでチョピザ2枚とチーズ、ハム等を購入しました。帰宅し、やっと回復した感じの妻とおおきいちびと幼稚園児のつくった餃子(100個作ったそうです)で昼食としたあと、一服していると、幼稚園児が外に出たいといいます。ヨドバシに行きたいそうです。連れていってやることとしました。
もう何度も通っています。道が分かっているところはさきさきにひとりで歩いていきます。購入するものもあらかじめ決まっていたということで、すぐに用事は終わりました。同じ階に、マリオの3Dゲームのデモがありました。3台あり、並んでいます。順便が回ってきたときには、ゲームは終了しており、幼稚園児にはどうしてもゲームを起動させることができません。私はこの種のゲームは触ったことがなく、指示通りにスイッチを押してみてもなにも起こりません。あきらめて帰ろうというと、あきらめきれないようです。しかし、起動しないものは起動しない。エレベーター脇にひとりで走って、涙目になっていました。
このぐらいのことで泣くと連れてこないよ、というと、そのことはわかっているのはわかっているようです。何とか我慢して、帰途につきました。西荻窪の駅についてから、夕食の材料を買って帰る仕事があります。ガード下のセイユウで焼きそば6食分、もやし、お肉を買いました。お肉は幼稚園児に選ばせました。ちいさいちびほどではありませんが、幼稚園児もおにくだいすきと言っています。かなり食べるようにもなっています。
こうして私とふたりででかけたときは、自宅の100メートルぐらいまえから一人で先に走って帰ります。走って帰ってママに報告して、おでかけは終了です。
ひとりで4時50分。室温20度。秋の進行がしばらく止まっています。あるいは戻っています。昨日は疲れて着手できなかった懸案事項について、早朝からメールの問い合わせを行い、なんとか解消することができました。小さいことですが、解消しないとやっかいな問題でした。やれやれ。
今取り組んだいる課題は、こういうふうに大きさ・小ささに関わらず、一個一個解消していくしかない種類の仕事です。妻の風邪はすこしよくなっていますが、まだ昼間の半分程度は寝込んでいる状態です。幼稚園児の送り迎えは私が役目となります。甘えん坊なので、ママ、ママ、ということもありますが、友達との遊びが楽しい場合は、そういうふうに言うこともありません。
朝は踊りながら、園庭に飛び込んでいきました。放課後(幼稚園は2時で終わりです)は、友達と走り回っていました。先生の腰のところにくっついて(すなわち、一番最初にさようならをして)みんなに、こおりおに、こおりおに、(そういう名前の鬼ごっこです)と呼びかけて、クラスの8割ぐらいを集めて、園庭を走り回っていました。
見ていると、ちいさなトラブルはあります。例えば、最初鬼に当たった子が、鬼がイヤだと泣き出したりとか、こおり=とまる(ということでしょうか)、の解釈でもめたりとかはしていましたが、全体としては最後まで走り回っていました。5限は、駒場の授業の5回目です。ハンターの書物の後半です。
幼稚園児といっしょに6時50分。室温19度。文化の日で休日。この休みは助かる。疲れがたまって休みがほしいところでした。
休みで今日が燃えるゴミの木曜日だということを忘れていました。たまっているゴミの量が少ないのでよしとしましょう。妻は風邪でほぼ一日寝込んでいました。夕方になってやっと起きてきました。蓄積疲労に幼稚園児の風邪をもらったのではないでしょうか。
昼食は簡単のため、鍋。10時半、近所のスーパーと肉屋さんで材料を買ってきました。朝からほとんど何も食べていなかったちいさいちびがお腹空いたといって、11時半に昼食。煮え立つまでに時間がかかります。まだと言っていたおおきいちびもいっしょに食べることになりました。幼稚園児は朝からディズニージュニアのおさるのジョージの特集(8時半から始まり、なんと2時半まであります)を見ながら、変なものを食べています。たとえば緑のレーズンを山盛りに食べました。
ということで、昼食は3人で鍋を囲みました。感覚的には5人分を用意したつもりでした。しかし、ちいさいちびがとくによく食べて、ほぼ5人分を3人で平らげました。この子もおおきいちびのように大きくなるのかもしれません。あるいは、ため食いをしただけかもしれません。
あらかじめ妻が買い置きしていた材料は冷蔵庫にあります。2時前に妻がお腹がすいて起きてきたときには、食べるものはあったのですが、やはりびっくりです。
実は私自身も軽い風邪気味です。ちゃんとした料理をする気にはなりません。夕食には、肉まん、あんまん、等、レンジでちんすればすむものを買ってきました。それにクラムチャウダー。ちびどもはとくにクラムチャウダーは好きです。
やはり食べる時間帯がずれた幼稚園児は、仲間に加わりませんでした。ちなみに、昨日の夜も同じコンセプトで、ピザと餃子。このときは幼稚園児もそろってよく食べました。
ひとりで4時10分。室温19度。今日は会議の日ですが、珍しく私の出席しなければならない会議はありません。朝から妻が風邪で寝込んだので、読みかけている本を読み通すこととしました。次です。
隠岐さや香
『科学アカデミーと「有用な科学」:フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』名古屋大学出版会、2011
春先に序章と1章を読んでいます。金曜日5限の駒場の授業では来週と再来週に取り上げます。日曜日から読み始め、おやつのころに読み通しました。
非常に面白い。且つとてもよく書けています。社会史と思想史の融合のひとつのお手本と言えるのではないでしょうか。
明らかにしたことにおいてだけ重要というのではなく、新しく追究すべき問題領域を切り開いたという点でも重要な著作です。この先に非常に豊かな研究のフィールドがあります。
残念ながら、日本人でその肥沃なフィールドの研究調査に向かう方がどのくらいいるか、何とも言えません。しかし、志があれば、どの場所にいても、この先の仕事をすることができます。
ひとりで6時45分。室温20度。昨日に続き快晴の模様。今日は小学生ふたりが通常通り登校しました。幼稚園児は、幼稚園の体験入園のためにお休み。お友達とどんぐり公園に行く約束があったようですが、ヨドバシに行きたいということで、9時半にママとふたりで吉祥寺に向かいました。公園で遊ばせてこようかと妻は言っています。
3時前、妻と幼稚園児は帰宅しました。妻は疲れ果てています。幼稚園児は、ポケモンカードをいっぱいゲットしてご機嫌です。
さて、私は5時半からの会議。軽く夕食をすませ、5時に大学に着きました。会議は5時45分ぐらいに始まりました。もうすこし遅くなることも覚悟したのですが、8時45分すぎには帰宅できました。ふー。
[Evernote と Facebook]
化学史学会の事典編集委員会では、田中委員の提案で、Evernote と Facebookを使ってみようということになりました。10月29日土曜日の会議のときに、1時間ほど説明があり、老人性拒否権が行使されそうになったのですが、話を重ねているうちに、拒否権は行使しないということで、ともかくやってみましょうという結論になりました。Evernote はそもそもこういう目的のためにつくられた共有データベースです。(最近流行のことばではクラウドを利用して、全員がデータを共有し、作業を行うものです。)
登録にもとくに難しいところはなく、順調に動いていると思います。Facebookは概念的にすこしちがったものです。クローズドな環境(事典編集グループだけで閉ざされた空間)で、連絡網として利用することになります。
会議の席上では、「友達」という用語が違和感を与えていました。私も登録は問題なかったのですが、その先でつまずきました。プライバシーの設定に難があったようです。こちらは使ってみての様子見になるかと思います。ともあれ、Evernote と Facebookは動き始めています。どうなることでしょうか。
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