ひとりで4時15分。室温18度。おっと、もう4月も最終日です。朝一番(5時半)に昨日まとめた郵便物(第2号ゲラ)を投函してきました。朝の時間帯で散歩して目立つのは、犬の散歩です。都会では犬を飼っている人が意外なほど多い。私の近所でも同じ私道を利用する7軒中、3軒のおうちで犬を飼っています。もちろん、夕刻の犬の散歩も目立ちます。大型犬を飼っている人もかなりの数います。
6時40分現在、まだ誰も起きてきません。子どもたちは、今日は歯科検診。お昼過ぎに3人揃って行くようです。窓からは明るい日射しが入ってきます。
7時40分現在も誰も下に来ません。2階でトイレに入る音は聞こえたので、ちびどもは起きてはいると思います。[『現代思想』(2011年5月号)]
「東日本大震災、危機を生きる思想」を特集した『現代思想』(2011年5月号)は全部読むべきだろうと思い、どんどん読んでいます。論点は、ほぼ出されているように思います。典拠・参考文献をきちんとあげた、もっとわかりやすいまとめが必要だと思います。『現代思想』を読む人はあまりに限られている。『現代思想』の編集部、またはそのまわりにいる方の責任ではないでしょうか。今月はここで180枚。
ひとりで4時50分。室温19度。
さて、今日から連休です。6時50分。まだだれも下に降りてきません。休みなのでゆっくり寝てくれた方がありがたい。6時58分、2階で幼稚園児の足音がします。これでたぶんみんな起きてくるのではないでしょうか。
失敗。
連休に入るので昨日帰り道コンビニによってお金を降ろしました。必要になったので、財布を見てみると、降ろしたはずのお金が入っていません。ポケット等入れた可能性のある場所も全部見ましたがありません。
実はコンビニのキャッシュディスペンサーは、ちょっとあぶないなというのは以前から感じていました。カード、レシート(利用明細票)、現金がこの順で別々の出口に、微妙に遅いタイミングで出てきます。最後の現金を取り忘れる可能性があるなと思っていました。ともあれ確認です。レシートをもってコンビニに行きました。
店員さんに話を聞くと、誰もお金を取らなかった場合、コンビニのキャッシュディスペンサーの場合お金はもとの口座に戻るということです。知りませんでした。
ということならば、お金を降ろしてみる(残高照会でも同じです)とわかります。昨日と同じ金額を降ろしましたが、レシートの残額は昨日と同じです。つまり、店員さんの言うとおり、現金を取り出すのを忘れて、口座に戻ったということです。
やれやれ。一安心です。
コンビニには防犯カメラが多く設置されています。誰かが取り忘れたお金を勝手にもっていった場合も映像は残ります。その意味では、セキュリティは他の場所よりも高い。しかし、やはり、気を付けないと。
授業を3コマ行ったあとは、いつもはまったく問題のない操作でもちょっと危ないことがよくわかりました。河野太郎氏の4月28日付のブログトップを副社長で天下りさせていただくと...は傑作です。是非、ご自身でお読み下さい。
何とか先週の土曜日に届いたゲラの処理を終えました。もう一息で2号に関する仕事はほぼ終了というところまで来ました。
ひとりで4時45分。昨夜は暖かかったと思ったら、室温21度。第3週目が無事終了しました。
3コマ授業が続くと、怒濤です。3限の講義(科学思想史)は100%正常化しました。最近の情勢には一切触れず、17世紀のオランダに焦点をあわせて話を始めました。
正確にいつからという記憶はありませんが、4限のゼミ(3年生主体のゼミ)では最初の発表時間を20分程度としています。一回に3人ないし4人発表してもらうという方式です。昔はひとりで90分の発表を割り当てていたこともありますが、助走は必要だったようです。うまくまわっています。今日は非常に珍しく実践バックパッカーの学生が発表してくれました。外語にはいそうでいないタイプです。
学生がコメントの途中で萩田氏のページを教えてくれました。藤原新也『印度放浪』を読んでウルドゥーに入ったとあります。全然知りませんでした。[メドハースト「平和のための原子力と核の覇権」]
昨日ダウンロードしたメドハーストの論文は非常に明晰な分析を提示しています。しかも、レトリックを問題にするだけあって、非常にうまく組み立てられています。
Martin J. Medhurst, "Atoms for Peace and Nuclear Hegemony: The Rhetorical Structure of a Cold War Campaign," Armed Forces and Society, 23(1997): 571-593.
結論部分だけ引用してみます。「この論文で私は、「平和のための原子力」キャンペーンがニュールック政策の履行のために直接利用された3つの方途をスケッチしようとした。このキャンペーンの軍事的/安全保障的側面に分析の焦点をあわせることで、「平和のための原子力」は、第1に聴衆の注意を原子力兵器の増強からそらせること、第2に1954年の原子力法の通過を容易にすることそしてその結果NATO の核兵器配備と調和させること、第3に外国の政府に対して放射能鉱石の交換であるいはお金になるマーケットへのアクセスと交換で研究用/発電用の原子炉の建造に繋がる2国間協定の締結へと誘うこと、この3つのうまく組み合わされた計画の一部であったことを示した。」
私はこれで納得しました。キャンペーンに関わった全員が3つの側面全部を理解していたとは思えませんが、メドハーストのように見ることで立体的な把握が可能になります。なお演説そのものは、アメリカ大使館のサイトに、平和のための原子力(1953 年)演説 by ドワイト・D・アイゼンハワーとして邦訳が掲載されています。「上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です」という注記があります。それはそうでしょう。
→全文を読んでみました。やはり実物を読まないとわからないことがあります。予想していたものと印象がまったく違いました。当時の情勢に対する言葉が数多くあります。
「軍人として人生の大半を送ってきた私が、でき得ることなら決して使いたくなかった言葉で、あえて話す必要があると感じている。」
アメリカが行った核実験の話と、核兵器の拡散、戦力のバランスの話は出てきますが、広島、長崎の語はありません。(アメリカの原爆投下を含意する表現としては、 Against the dark background of the atomic bomb, the United Stats.... とだけあります。)
「核軍備競争の対する「受け入れ可能な解決策」を模索するために、「主要関係国」とされる諸国と早急に個別会合を行う用意がある。」そして、その会議に新たな構想を持ち込む。その構想は「軍事目的の核物質の単なる削減や廃絶以上のもの」となる。
それが「核エネルギーの平和利用」である。
具体的提案としては次である。「主要関係国政府は、慎重な考慮に基づき、許容される範囲内で、標準ウランならびに核分裂物質の各国の備蓄から国際的な原子力機関に対して、それぞれ供出を行い、今後も供出を継続する。」
なんと、具体的に提案されているのは、国連講演ではこれだけです。現在の平和利用という言葉からイメージされるものとは大いに異なります。もちろん「平和のための原子力」キャンペーンは、国連演説だけで終わるわけではなく、これは出発点に過ぎません。「平和のための原子力」を掲げ「心理戦」を中心として(言葉のイメージがもたらすものとは逆行するような、すなわち核兵器の増強とヨーロッパへの配備)関連する計画が実行されていきます。そうした関連する数多くの計画の看板として「平和のための原子力」は利用され、そうしたものとして成功したと言えると思います。その流れのなか日本では、讀賣新聞(正力)や中曽根が中心となって原子力予算を成立させ、原子力関連法案を成立させます。ある意味ではしたたかに2国間交渉を行っています。
ひとりで6時。もちろんもう明るい。室温17度。次のサイトに国会議員でただひとり原子力工学の専門家だった吉井英勝衆院議員のインタービューが掲載されています。
福島第1原発事故は二重の人災だった:日本共産党・吉井英勝衆院議員に聞く(上)
まとめとしてとてもわかりやすい。そして、起きたことに関してはこれでよいでしょう。今後に向けて大切なことは、実行可能な複数のプランを提示して、国会でも国民の間でも議論していくことでしょう。最終的にはあるレベルの合理性が保持されていれば、現地の人が選ぶ形も視野にいれるべきでしょう。(被災地一律の復興プランは無理かもしれないという見通しに基づきます。)[研究用と医療用のアイソトープ]
日本側の状況。『仁科芳雄』(みすず書房)にあります。(radioisotope: 放射性同位体)
p.186とp.187 の間の挿入図版。no pag. 「国際学界への復帰とアイソトープの輸入。1948年ボーア教授がアメリカに来ていると聞いた仁科博士は、ちょうどプリンストンに赴く湯川秀樹博士に託してボーアに手紙を送った。ボーアは、1949年9月にコペンハーゲンで開かれる国際学術会議の総会に、仁科が日本代表として出席できるよう在日占領軍当局に働きかけてくれた。仁科博士は会議に出席できただけではなく、ボーア教授のところに泊って懇談することができた。1950年には、アメリカの科学アカデミーのよる招待で訪米する日本学術会議の代表団に、仁科博士は副会長として加わった。仁科博士はかねてから、アメリカの原子炉でつくられる放射性アイソトープ[強調は吉本]を、日本の科学者の研究用に輸入することを計画していたが、その訪米を機に輸入ができるようになった。」
本文中の斎藤信房氏の記事「仁科芳雄とアイソトープ」『仁科芳雄』pp.128-134 に詳しい経緯が記述されています。
「しかし、仁科の熱意はついに聞き入れられ、1950年4月10日アメリカ哲学会の好意により、オークりっじ国立研究所でつくられたアイソトープが仁科研究所に到着した。」(p.132)「戦後、米国がアイソトープを送る許可を与えた被占領国としては日本がはじめてであった・・。」(p.133)
「到着したアイソトープの利用は仁科の要望もあり、東大理学部木村健二郎研究室(地当時木村は(株)科学研究所の主任研究員も兼担していた)で行われることとなり、アンチモン125入りの容器は木村研究室に運ばれた。容器は、東大理学部化学教室の中庭において、研究室員監視の下に、斎藤信房、垣花秀武、原礼之助らが容器の開封作業を行ったが、内容物は銀白色のスズの粒子であり、アンチモン125そのものではなかった。」すなわち、「オークリッジ国立研究所の原子炉で照射したスズの粒子」であった。そこから化学分離により、「アンチモン125のみならず、インジウム113m 」も得られ、「いずれもトレーサーとして有効に利用された」のであった。(p.133)実は、これは、アイゼンハワーの演説のずっと前(3年半前)ですが、「平和のための原子力」プログラムにぴったりの事例です。アメリカの核戦略、外交戦略のなかにこうした事例が組み込まれたということを意味します。
[平和のための原子力]
英語の論文を読んでいる最中ですが、さすがにこのテーマで日本語文献がないのはおかしいと考えて、検索してみました。前に紹介した1994年のNHKの番組「原発導入のシナリオ:冷戦下の対日原子力戦略」のスクリプトが2種類みつかりました。公式のものではないのかもしれませんが、番組そのものが YouTube で見られるのでチェックは容易です。一般的な出発点としてはこれがよいと思います。(しかし、一度ちゃんとした英語の先行研究に目を通してしまうと、アイゼンハワーの「平和のための原子力」プログラムひとつとってみても、背景となったことがらの複雑性、プログラムそのものの重層性は見事にスキップされ単純化されています。単純にスターリンの死という重要な契機に対する対応ということが書かれていません。)また、外務省軍縮不拡散・科学部 国際原子力室長 小溝泰義氏による「原子力ルネサンスの潮流と日本の原子力外交」というポワーポイント類似書類がゲットできます。これは政府の公式文書で、どういう言葉がどういうふうに使われたのかを知るのに有用です。たとえば、12頁で、1945年11月15日、米英加三カ国共同宣言で「保障措置」という用語が核不拡散のコンテキストで初めて使われたと指摘されています。
11頁。核不拡散/保障措置:Non-proliferation / Safeguards.
核セキュリテイ: Nuclear Security
原子力安全: Nuclear Safety
17頁に、IAEA 保障措置とは何かが書かれています。「原子力が平和的利用から軍事的利用に転用されないことを確保するための措置」とあります。単純にまとめれば、軍事転用させない保障ということでしょうか。
20頁に、IAEA 核セキュリティの定義が記されています。「次の4つの脅威、1)核兵器の盗取、2)盗取された核物質を用いた核爆発装置の製造、3)放射性物質の発散装置(いわゆる「汚い爆弾」)の製造、4)原子力施設や放射性物質の輸送等に対する妨害破壊行為、が現実のものにならないように講じられる措置」を指す。
参考として挙げられている「核不拡散と不可分の原子力平和利用―若干の歴史的背景―」でさえも、NHKの番組ではスキップされた背景事項、前提となる歴史的経緯が列挙されています。他にも、金子熊夫(初代外務省原子力課長、外交評論家、エネルギー戦略研究会会長、WWW会議代表)という方の「技術と国際社会を考える」(科学技術と社会安全の関係を考える市民講座第2回、2005年11月12日 東京大学武田ホール)というやはりポワーポイント類似書類が見つかります。
この辺りの方の立場は、吉岡斉氏の記述する公理の立場に非常に近い。まとめに次のようにあります。
「もしチェルノブイリ事故のような大事故がアジアで発生すれば、日本の原子力も壊滅的な被害を受ける。日本は「安全で平和な原子力」を普及させよ。
原子力推進により石油需要を緩和すればエネルギー安全保障と地球温暖化防止に貢献する。他のエネルギー協力ももちろん必要である。」
結論として、アジアトム構想 APPA "Atoms for Peace and Prosperity in Asia" を !!とあります。
さて、現在の金子熊夫氏の意見を聞きたい。歴史的背景も必要だと考え、次の論文も読みました。
岩田修一郎「米国外交史再考―アイゼンハワー政権―」『東京家政学院筑波女子大学紀要』第4集(2000): 1-13
書き始めが「1950年の朝鮮戦争によって、東西冷戦の継続と激化が決定的なものになった」です。そのあと(1952年)アメリカ大統領に就任するのがアイゼンハワーです。ポイントとなる点を短くまとめます。1.ニュールック戦略。膨らんだ国防費(トルーマン時代に130億ドルから500億ドルまで膨張していた。340億ドルまで愛山はワー政権は削減することに成功した)を押さえつつ、ソ連に対する軍事的優位を保つため、核兵器に依拠した。1953年に千発程度だった核弾頭数が1961年には8千発にまで増えた。2.朝鮮戦争で核が使用される可能性があった。(ダレスはネールを通じ現実に中国に核兵器使用もありえることを警告している。)3.第2次ベルリン危機のときにも、軍事衝突の可能性が高まっていた。アイゼンハワーは、ソ連の挑戦を受け大量報復戦略で立ち向かった。5.「冷戦期のアメリカの拡大抑止戦略は、矛盾と摩擦をはらむ困難な戦略課題であった。」(8頁)
12時過ぎに研究室に着きました。まず、判子です。今年はお昼休みに判子を押して名前を書いていることが多い。(コース変更届にコース長として署名押印しています。)
次に、下の論文をダウンロードしました。
Martin J. Medhurst, "Atoms for Peace and Nuclear Hegemony: The Rhetorical Structure of a Cold War Campaign," Armed Forces and Society, 23(1997): 571-593.
まだ部分的にしか読んでいませんが、よくできた論文です。昼食の前に、次の雑誌を買いました。
『現代思想』2011年5月号、特集:東日本大震災、危機を生きる思想
待ち時間に、吉岡斉氏、飯田哲也氏、塚原東吾氏の論考は読みました。他の方のものはあとで。会議は1時半から。終了が6時35分過ぎ。疲れました。たぶん、みんな疲れたと思います。
ひとりで5時半。もう明るい。室温16度。朝の間に、宿題を一定数こなしました。もう少し残っていますが、今日中の処理を目指します。
ウェブで調べてみました。John Krige (発音不明)は「平和のための原子力」研究の中心人物の一人のようです。アイソトープに注目したのは、慧眼だと思われます。彼の研究をすこし追いかけようと思います。
→発音は普通にクリーゲでよいようです。南アフリカ生まれ、フランスで研究をしたのち、アメリカに渡ったことを古川安日大教授に教えてもらいました。夕刻、昼間アマゾンに注文した次の本が届きました。
John Krige, American Hegemony and the Postwar Reconstruction of Science in Europe
(Transformations: Studies in the History of Science and Technology)
Cambridge, Mass.: The MIT Press, 2006
目次は次の通りです。
1. Basic Science and the Coproduction of American Hegemony 1
2. Science and the Marshall Plan 15
3. The Place of CERN in U.S. Science and Foreign Policy 57
5. The Rockefeller Foundation Confronts Communism in Europe and Anti-Communism at Home: The Case of Boris Ephrussi 115
6. The Ford Foundation, Physicsm and the Intellectual Cold War in Europe 153
7. Providing "Trained Manpower for Freedom": NATO, the Ford Foundation, and MIT 191
8. "Carrying American Ideas to the Unconverted": Philip Morse's Promotion of Operations Research in NATO 227
9. Concluding Reflections: Hegemony and "Americanization" 253
(上記のサイトで1章と索引のpdf がダウンロードできます。)
(20世紀の科学技術史を考えるとき、必要となるポイントが探究されています。)→英語の研究文献をざっと読んでいきます。私はこの分野の専門家ではないので、一定数読んで、基本となるものをつかみ、できるだけよい文献を探りたいと思います。
→その前にもう少し基本をまとめておきます。
NPT の失敗。核兵器不拡散条約 (NPT: Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons) は1968年7月署名、1970年3月発効した。1967年1月1日以前に核兵器の製造と核爆発実験を行ったアメリカ・イギリス・フランス・中国・ソビエト連邦を核兵器国、その他を非核兵器国と位置づけた上で、非核兵器国に対しては核兵器の開発・保有を禁止するが、原子力の平和利用は認める。
第1に、1967年年頭の現状追認の差別的条約であることです。明かな差別性、不平等性があります。
第2に、NPT に加盟しなかった国のなかに、現実に核兵器保有に走った国が出現します。イスラエル(詳細は不明)、インド(1974;1998に核実験)、パキスタン(1998に核実験)の3国です。NPT 体制の根本的な危機です。
第3に、NPT 加盟国のなかにも核兵器開発疑惑が出ています。北朝鮮とイランです。(北朝鮮の地位は微妙です。2003年にNPT 脱退表明をしています。)
第4に、アメリカが市場の大きさに負けて(でしょうか)、インドとの間に、米印原子力協力協定を2008年10月10日に結びます(正式署名)。
これでは、なし崩しです。日本もアメリカに追随する(した?)様子です。[子どもの脳死・臓器移植続報]
林真理氏のブログで次のサイトが紹介されていました。
本邦初の小児脳死ドナー臓器移植に投げかけられた疑問‐大塚俊哉
大塚俊哉氏は、都立多摩総合医療センター心臓血管外科部長の地位にあります。医療関係者からこういう見解が出されたことを歓迎します。
→改正臓器移植法では、親族優先提供が認められています。これが実はやっかいです。臓器移植の前提、善意の第三者間の提供という枠組みを壊します。そして、そもそも、親族優先提供が実施されるシーンを考えてみると、人が脳死になるのは、ほぼ交通事故による場合と蜘蛛膜下出血のような脳の病気の場合の二とおりです。原則、自分の意思でそういう状況に陥ることはない。あるとすれば、自殺の場合だけです。自殺の場合に、脳死・臓器移植を認めてもよいのでしょうか? 個人的にこれは絶対的に NON です。認めてはならないと思います。
ひとりで4時半。まだ暗い。室温17度。3週目の授業。
はやく目覚めたので、子どもたちが学校にでかける前に、次の論文を読み通すことができました。
John Krige, "Atoms for Peace, Scientific Internationalism and Scientific Intelligence," ::, pp.1-44
「アメリカの外交政策の道具として優しいアトムを打ち出すことは、冷戦の初期、心理戦に勝利することを目指した科学者にも政策立案者にとっても重要なことであった。1940年代遅く研究目的&治療目的でラジオアイソトープを友好国に配ることに続いたのが、1953年12月アイゼンハワーが国連で行った「平和のための原子力」演説であった。これはめざましいものであった。この論文は、最初はラジオアイソトープの提供、ついで原子炉技術の提供(とくに1955年のジュネーブ会議における)がもつ多義的な意味を解明することである。」(サマリーの抄訳)
これですべての疑問が解消したとは言いませんが、見通しはつきました。「スターリンは死んだ。朝鮮戦争は終わった。」というフレイズが印象的です。スターリンの死は1953年(昭和28年)春、朝鮮戦争の終結(停戦)は同じ年の夏です。この辺りの基本的な年表に関しては、4月15日の項をご覧下さい。一気に時代が動いています。
この論文の注を見る限り、基本文献の一つは次のようです。Richard G. Hewlett and Jack M. Holl, Atoms for Peace and War. 1953-1961. Eisenhower and the Atomic Energy Commission, Berkeley, 1989.
この辺りは時間ができたときにまた調べます。
(John Krige, “Atoms for Peace, Scientific Internationalism, and Scientific Intelligence,” OSIRIS 2006, 21, 161-181.)ちびどもが学校に出て、幼稚園児が登園する中間に家をでました。
図書館から ILL での文献コピーが届いたという報せが来ていたので、まず図書館で次のものを受け取りました。吉岡斉「岐路に立つ日本の核政策」『平和研究』20巻(1996): 67-81
印刷室で印刷をしたあと、研究室で読みました。これは意味のある論文です。やはり資料的裏付けのない主張も混じるように思われますが、非常にクリアーカットな議論を組み立てています。議論を先に進めるためにとてもよい論文です。
→78頁から79頁にかけて次のように記述されています。
「日米双方の神話[吉本注:アメリカの原爆投下神話とは、「50万人から100万人の米国人の命を救うため原爆は投下された」というもの。日本の神話は「唯一の被爆国神話」]は互いに相補的役割を果たし、戦後の日米同盟の安定化に寄与することとなった。しかもこの神話の裏側には、原爆投下を通しての日米同盟構築という歴史的事実があった。原爆投下は戦後におけるソ連の極東地域での発言権を最小限に止めるために、米国が日本の協力を要請した行為であり、いわば米国から日本に対する日米同盟への「招待状」であった。米国としては関東平野上陸作戦(コロネット作戦)の開始(46年3月予定)までに、ソ連軍が極東地域の大部分を平定し、戦後も解放者としてそこを支配しつづけることを、容認できなかったのである。この「招待状」により日本政府は、連合国に対する降伏の大義名分を得て、国内の降伏反対勢力を押さえ込み、迫り来るソ連の驚異を免れることができたのである。早期終戦を望む日本の指導層にとって、それはまさに渡りに船であった。日米両国政府は、原爆被爆者の犠牲の上に、日米核同盟を構築したのである。「核加害国」と「核被害国」が戦後すぐに核同盟を結ぶことができたのは、原爆投下がまさにその方向への外向的取引であったことによる。」
→うーむ、どうでしょうか? 見立てとしては成り立つと思いますが、史実としては裏付けがないように思います。2限の教室のキャパシティは206名。教室はいっぱいにはなっていません。しかし、235部刷った配付資料がなくなり、授業の終了時にくれませんかと来る学生が10名近く現れました。いったいどこに消えるのでしょうか? 謎です。
3限は、今日は3人お休みして、出席学生2名のみ。4限には、16年ぶりぐらいのお客さん。博士号を取得されたばかりということです。
帰宅すると、次の本がアマゾンのマーケットプレイスより届いていました。
柴田秀利『炎のごとく、水のごとく:次代に賭けた柴田秀利遺稿集』中央公論事業出版、平成2年。
発注したのは、柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』(中公文庫)です。違ったものが送られてきましたが(アマゾンのマーケットプレイスでははじめて)、資料として手元にあってもよいものです。そのままとします。
ひとりで5時50分。室温18度。雨上がりの快晴。ちょうどよいので朝一番で杉並区議会選挙に行ってきました。5分前に着きました。3番目でした。今の日本では当然そうなりますが、投票に来ているのは圧倒的に老人が多い。1番目はおそらく80歳近いおじいちゃん、2番目は仕事に行く前のおじさん(40代でしょうか)、そして3番目が私でした。
[幼稚園児の買い物]
幼稚園児が昨日の夜から、自分のお小遣いで「歯ブラシとおもちゃのバイク」を買いたいと言っています。昨日はメモにきちんと書いて頭元においておきました。朝聞くと、行きたいと言います。朝一番ででかけることにしました。
吉祥寺に着いたのが9時45分。まずこの時刻にあいていた駅前の薬屋さんに入ってみました。気に入った歯ブラシはないそうです。
次は、近くの100円ショップがあいていました。歯ブラシにめぼしいものはなし。幼稚園児は、クッキーを見つけほしいと言います。クッキーを105円で買いました。
気分が変わったようでまたさっきの薬屋さんに行くと言います。そこで、プーさんの歯ブラシを買いました。125円。そこからヨドバシへ。幼稚園児は入り口のガチャポンに走りました。3階でトイレに入ってからラジオを見ていました。幼稚園児が文句をいうので、先にオモチャコーナーの5階へ。やっぱりガチャポンのコーナーへ。3つ買って満足したようです。(おもちゃのバイクはもう口にしませんでした。)
1階降りて電池を買いました。単1を4本と単2を4本。それ以上は買えません。また階を降りてラジオ。携帯用のラジオはほぼ売り切れていました。昔のラジカセは一定数残っています。電池でラジオが聴ければよいので、4千円弱のものを選びました。
[日米原子力研究協定の政治的背景]
編集者の方に教えてもらった次の論文を読みました。田中慎吾「日米原子力研究協定の成立:日本側交渉過程の分析」『国際公共政策研究(大阪大学)』第13巻第2号(2009): 141-156
好論文です。ただし、本人が最後に述べているように、米国側の資料を使っていないので、アメリカ側の考え方(対日核戦略)をきちんと捉えることができていません。一貫した見通しを得るためには、主従の関係では、主の側から見ることがどうしても必要です。大きなポイントは、United States, "Atoms for Peace", Proposal: Address by President Eisenhower to the General Assenbly, December 8, 1953 の政治的背景です。
→さすがに、英語の先行研究を調べると、科学史のものを含めて数多く存在します。こうしたものをきちんと読むと、見通しをつけることはできるかと思います。
夜半に目覚めてすこし仕事。ちょうど雨が降り始めました。室温18度。前回の雨のように冷たい雨ではありません。2回目の起床は7時10分。室温はやはり18度。雨はまだ上がっていません。
[吉岡斉氏の「国家安全保障のための原子力」公理]
昨日届いた『環境と公害』(2010年冬号)から吉岡斉氏の論文を読みました。吉岡斉「日本の原子力政策決定システム改革の可能性」『環境と公害』Vol.39, No.3 (Winter, 2010): 42-48
最初の部分に「「国家安全保障のための原子力」の公理というのは、この論文で初めて用いる表現である」(p.42)とあります。
これで謎の半分は解けました。この雑誌の発行は2010年1月です。原稿は内容から見て2009年に執筆されています。「国家安全保障のための原子力」の公理、という吉岡斉氏の表現は2009年の冬に見出され、使用されたものと見て間違いないでしょう。ただし、ここでも吉岡氏は、裏付けとなる資料を提示してくれていません。もうすこし探したいと思います。
(→この公理は、吉岡氏の見立てである可能性を考える必要が出てきました。インサイダーの一部、とくに政治家の一部と官僚の一部は、こうした見方をしているのかもしれませんが、全体に共有されている「公理」ではないのかもしれません。)お昼過ぎに、2号のゲラが届きました。すなわち、仕事です。まずは単純にカウントします。ページ数をあわせるためです。私自身はそのほかに、年会特集にあわせて詳細プログラムを作成する必要があります。
手持ちのものをほとんど入稿したので、第3号についても目処がつきました。やれやれ。
ひとりで5時10分。室温16度。[21世紀の原子力の理論リーダー 藤家洋一氏]
編者の方より、次の資料を教えてもらいました。芝一角「連載 電力人脈銘々伝11 原子力人脈の払底」『月刊政経人』(Dec. 1998): 95-107
原子力のあり方に関しては無批判的ですが、私にはとても参考になる資料です。
→初期原子力発電人脈。1.正力松太郎、2.石川一郎、3.太田垣士郎(関西電力社長)
4.嵯峨根遼吉(石川一郎訪米調査団、安川第五郎訪英団の中心人物)、5.茅誠司(東大学長、原子炉鉄材の専門家)、6.藤家洋一(原子力学界の理論武装のリーダー)次のサイトニュークリアサロン藤家 からダウンロードできます。「前原子力委員会委員長で東京工業大学名誉教授の藤家洋一先生のこれまでの原子力界における幅広い活動内容を紹介するもの」とあります。
藤家洋一氏について上の芝氏は「現在の原子力学界において、独自の理論展開を行う、理論武装のリーダーとしては、藤家洋一・原子力委員会委員長代理を挙げることができるだろう」と記しています。原子力委員長代理に就任したのは、(東工大定年退職後)1998年です。21世紀の原子力のリーダーの一人ということで間違いないようです。[『環境と公害』]
お昼過ぎに、岩波ブックオーダーから次の雑誌が届きました。
『環境と公害』Vol.39, No.3 (Winter, 2010)
2つの特集が組まれています。一つが、[緊急特集]「政権交代―環境政策はどう変わるか」。ふたつめが、[特集]低酸素社会への選択―原子力か再生可能エネルギーか。
[緊急特集]「政権交代―環境政策はどう変わるか」
永井進「サステイナブル交通と高速道路無料化政策」
保母武彦「公共事業の見直しと環境保護」
[特集]「低酸素社会への選択―原子力か再生可能エネルギーか」
大島堅一「持続可能な低炭素社会をつくる――特集にあたって」
長谷川公一「低炭素社会に向けて――コペンハーゲン会議の現場から」
鈴木達治郎「「原子力ルネッサンス」の期待と現実――課題は克服できるか」
福本榮雄「ドイツ脱原発見直しの矛盾――再生可能エネルギーとの競合激化へ」
渡辺満久「原子力施設安全審査システムへの疑問――変動地形学の視点から」
吉岡斉「日本の原子力政策決定システム改革の可能性」
飯田哲也「世界の自然エネルギー革命に追いつけるか――新政権のもとでの環境エネルギー政策の行方」
《座談会》飯田哲也・鈴木達治郎・大島堅一・高村ゆかり「低炭素社会をめざして――政権交代と構造転換」
今勉強するためにはちょうどよい特集になっています。[吉岡斉『原子力の社会史』(1999)]
せっかく研究室で吉岡斉『原子力の社会史』(1999)が見つかったので読み通しました。最後の方は、日本の政策決定過程の(吉岡氏自身が委員として参加した体験も影響しているでしょう)不合理性に対する怒りを感じます。
今回の福島第一原発の事故を背景に考えると、多くの人は怒りを禁じ得ないと思います。
(→本文と索引をあわせて335頁です。たぶん、朝日選書としては長いのだと思われます。どうせ長くなるんであれば、文献表はつけてほしかった。本文中の諸所に ( ) に入れて文献は挙げられていますが、歴史という以上、典拠を示すことは大切です。編集部の方針でしょうが、文献表とできれば重要な箇所だけでもよいので注を入れてほしかった。)
(→どこかで誰かも指摘していたと思いますが、広島と長崎の原爆投下のこともビキニの核実験のこともほとんど触れられていません。日本の原子力政策の形成と展開に影響を与えなかったということで触れなかったのかもしれませんが、核エネルギーの使用に対する根本的な NO は、被爆体験の理不尽さによります。触れないなら触れないで、そのことに関する断りを1パラグラフでも入れてほしかった。)
ひとりで3時40分。はやすぎます。ちょっとリズムが崩れたようです。室温15度。暖かいというほどではありません。
再度寝て、次は、7時に起きました。雨模様の空です。ちょっと寒いかなという感じです。[東洋経済]
今回の事件・事故に関しては、雑誌を買って読むことを続けています。昨日は多磨駅ロータリー前のコンビニで『週刊東洋経済』(2011年4月23日号)を買いました。あいた時間で読んでいました。第1特集が「迷走する巨大企業の正体:東京電力」です。第2特集が「日本経済 再生の道はあるか」です。
個人的には、「スペシャリスト・インタビュー 菅谷昭【松本市長/医師】チェルノブイリの経験を生かして悲劇を回避せよ」がとても勉強になりました。冒頭を引用すると「信州大学での外科医としての職をなげうち、チェルノブイリ原子力発電所事故後のベラルーシに滞在。5年半もの間、原発事故で放出された放射能による甲状腺がんで苦しむ多くの子どもたちを治療し続けた菅谷昭(すげのや・あきら)・松本市長。」
子どもの甲状腺がんは、「5年後に急増した」ことが明らかにされています。[グーグルアラート「吉岡斉」]
グーグルアラートに「吉岡斉」で登録しておくと次のニュースが届きました。
毎日新聞 「国策民営」日本の原子力、戦後史のツケ
目の付け所はこれでよいかと思います。ただし、細部の記述は、もうすこし正確を期してほしかった。[週刊文春]
昼食後大学生協で買った『週刊文春』を繰っていたら、「初の子ども脳死移植 「少年」は事故死ではなく自殺だった!?」という記事がありました。状況証拠から自殺だった可能性があることが指摘されています。なんて深い闇でしょうか。
ひとりで4時15分。室温14度。下がりました。昨日の低気圧のせいでしょう。[機微核技術]
4月15日(金曜日)にも触れましたが、吉岡斉氏の主張「日本の原子力政策は「国家安全保障のための原子力」の公理のもとで進められてきた。・・・日本は核武装を控えるが、核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持するために、あらゆる種類の機微核技術 を開発・保有し、それを日本の安全保障政策の不可欠の部分とする」(p.47)(吉岡斉「原子力政策の事例分析」『科学史研究』(2011年春号)pp.47-49) について、裏がとれません。裏付けとなる資料が見つかりません。ただの見通し、推測ですが、1975年に原子力供給国グループ(NSG) というのが結成されます。日本原子力開発機構「核不拡散科学技術センター」の発行する「核不拡散ニュース」によれば、1974年のインドによる核実験を契機とした国際的な核不拡散強化策の一つであり、非核兵器国に対する原子力資機材、技術の輸出管理を強化、調整する枠組みとして結成された。1978年にガイドラインを公表したということです。
このあたりかなと推測されますが、確証がありません。基本公理ですから非常に重要なポイントです。どなたか、根拠となる資料の所在をご存じの方、お教えいただけないでしょうか? 吉岡さんの『原子力の社会史』を研究室で探し出せば出てくるのかもしれませんが・・・。ともあれ、吉岡斉氏の論文を入手し、読むことからはじめたいと思います。
吉岡斉「日本の原子力発電政策の合理化へ向けて―4つの路線の合理化の総合評価の試み―」『比較社会文化(九州大学)』第3巻(1997): 1-10
上記の疑問に直接回答するものではありませんが、日本の原子力政策を理解するためにはこれも必読文献でしょう。ウェブで簡単に入手出来るので、是非!!吉岡斉「28a-J-4 日本の原子力研究の形成と展開」 『(日本物理学会)年会講演予稿集』 47(4), 281-282, 1992-03-12
基本的論点のまとめです。九大の紀要には他に次のものを挙げています。
吉岡斉「岐路に立つ日本の核政策」『平和研究』20巻(1996): 67-81
吉岡斉「日本の原子力体制の形成と展開:1954-1991―構造史的アプローチの試み」『年報 科学・技術・社会』第1巻(1992): 1-31
吉岡斉「戦後日本のプルトニウム政策史を考える」『年報 科学・技術・社会』第2巻(1993): 1-36
『年報 科学・技術・社会』は持っていたような持っていなかったような、記憶が定かではありません。
→すこしはやめに大学に出て、研究室で吉岡さんの『原子力の社会史』を探しました。地震の後かたづけを完了していないので苦労しましたが、見つけだしました。わかってしまえば、ここにおいたか、というところにありました。
全部をきちんと読んだわけではありませんが、この本の出版の時点では「日本の原子力政策の基本公理」という形の整理はないように見えます。だとすれば、21世紀のどこかで吉岡さんは基本公理を見出したころになります。ともかく資料を集めて調べます。さて、今日は会議の日です。私が司会をしなければならない会議が午後2つ続きます。もめる案件は扱わないので、長引くことはないという予想を立てています。
3限の時刻に行われたコース会議も、4限の時刻に行われた総合科目推進室会議も予定通り短く終了しました。帰宅すると、次の本が届いていました。
仁科記念財団編纂『原子爆弾:広島・長崎の写真と記録』光風社、1973
出版の昭和48年の時点で定価1万円の大冊です。タイトルにあるとおり、写真と記録からなります。夕刻次の本が届きました。
大庭里美『核拡散と原発:希望の種子を広めるために』南方新社、2005
ひとりで6時5分。昨夜から雨。強くふっています。室温17度。
7時前に妻と娘達は降りてきました。YouTube でNHKの番組「原発導入のシナリオ〜冷戦下の対日原子力戦略〜」(1994年放映)を見ました。おどろおどろしい音楽は趣味が悪いと思いますが、基本的なストーリーはこれでよいと思います。柴田よりも正力の方が重要な役目を果たしたと考えますが、その辺りはウェイトの置き方なのでテレビ番組としてはこれでよいのではないかと思います。
ソ連に対抗する、アメリカの核戦略の一環として原子力発電が導入されたことが押さえられればそれで OK でしょう。
お昼に次の本が届きました。
三宅泰雄『死の灰と闘う科学者』岩波新書、1972
ひとりで5時5分。室温17度。授業に関しては、第2週目。
図書館から次の本が ILL で届いているという報せが先週末ありました。
木村一治『核と共に50年』築地書館、1990
大学につくとまず図書館でこの本を借り出しました。それから AV 卓の鍵を借り、印刷センターでコピー。先週回収した2限の出席票は175枚です。200枚コピーをしました。
さて、教室は変更になっていますが、掲示板をきちんと見ない学生たちも大勢います。休み時間にもとの部屋に行って、新しい部屋を大きく板書。100人程度はすでに教室に入っていました。それから民族大移動。
新しい教室は扇形教室です。200枚で足りませんでした。予想外。
授業後、質問者が3人続いたので、昼食が遅くなりました。午後は、大学院の演習が2コマ続きます。花粉症が悪化し、マスクをしてもなかなか辛い。
帰宅すると次の2冊が届いていました。
矢部史郎『原子力都市』以文社、2010
五島勉『究極の終戦秘史:日本・原爆開発の真実』NON ブック、2001気になるので、あいている時間をみつけて、木村一治『核と共に50年』(築地書館、1990)を読んでいました。木村一治氏がどういう経緯で広島の放射能を測定したのかよくわかりました。
「仁科芳雄は責任上からも直ちに軍の飛行機で広島に飛ぶ。彼は焼け跡からいろいろな試料を集めて陸軍の飛行機で理研に送ってきた。しかし、仁科研究室には秘書の横山すみ女史と、玉木英彦しかいなくて、私が自分のローリッチェン電気計で試料の放射能を測ることになった。8月10日午後だった。もっと感度のよいガイガー計数管もあったが、故障でダメだった。土だの木材だの調べるうちに、銅線にかなりの放射能があることが分かり「やっぱり原子爆弾だ」と言って回ったのだった。それはもう夕方頃であった。たぶん東京で科学的に原爆だと証明した最初だと思う。」(p.46)
「阪大グループ、京大荒勝教授のグループは私より早く入広したが放射能の測定は私より後だった。」
「私は当然広島に調査に行きたかった。陸軍軍医学校の調査班も物理学者の同行を希望していたので話が合い、玉木氏のほか放射能生物学者の村地孝一、そして私は軍医少佐の御園生圭輔氏に引率されて広島に急行することとなった。御園生氏は一応上司の了解を得たのだと思うが、私は勝手に「行こう」と言って出かけただけだった。主任研究員など、どこにいるのやら全然連絡もつかない。旅費などはどうしたのか全然記憶がない。」
「陸軍の飛行機で、という玉木氏の話もあったが12日夜牛込の陸軍第一病院に勢ぞろいし、その夜の夜行列車に乗り込んだ。この夜の暗かったこと。月のない夜は東京の真ん中でも一寸先も見えない闇となる。赤紙を持つ身とはいえ悲愴感あまりなし。
14日の明け方広島に近づく。」(p.49)
以上で私の疑問は解消しました。つまり、木村一治氏が調査に行ったのは、彼自身の意志であること、ただしひとりで行ったのではなく、陸軍軍医学校の調査班に同行したことです。本人としてはそのまま広島で召集に応じるつもりだったのでしょう。しかし、調査している間に、8月15日を迎えます。しかし、調査はそのまま継続しています。
従って、この木村一治氏の調査は、(笹本さんの見立てと異なって)軍事行動の継続とは言い切れません。
花粉症で口呼吸となって3時半。室温18度。2回目の起床は、幼稚園児といっしょに7時25分。昨日の暖かさを体験すると、今日の空気はすこしひんやりしています。
[息子とコナン]
おおきいちびがお友達といっしょにコナンを見る約束をしています。ちいさいちびも見たいというので、お友達が塾から帰ってくる3時前に吉祥寺で待ち合わせをして行く予定になっていました。
幼稚園児がその雰囲気をかぎつけたのでしょう、なおもコナンに行きたいと言います。ただし、映画館のなかで最後までおとなしく見ることができるかどうかはわかりません。おおきいちびは映画の前に、ロフトに行きたいと言います。どういう事態にも対応できるように全員ででかけました。天気がよいためでしょうか、すごい人出です。まず、ロフト。幼稚園児は、はやくコナンを見たいと言います。予定では4時からの回。それまでもちそうにありません。先に見られるのであれば、パパといっしょでもよいと言います。(それまではママにくっついていました。)急げば2時10分からの回に間に合いそうです。息子と二人で映画館に向かいました。
着くと、立ち見ですの案内。幼稚園児に聞くと立ち見でよいと答えたので、そのまま映画館に入りました。一番後ろの階段のところに座ってみました。長く座ってみるのはまだ難しい。たって後ろに行ったり、すこし歩いたり、途中でお手洗いに行ったりしながら、でも最後まで見ました。
そのままふたりで帰ってきました。おんな4人組は4時過ぎからの回。階段に座って映画を見たのは、もしかしたら、ナウシカ以来かもしれません。戦中、戦後の日記や記録を読んでいます。今の気分にぴったりあいます。敗戦に近い状況なのでしょうか。
昨日届いた仁科の本も読んでいます。予想以上に面白い。いろいろ考えるところがあります。
朝一番で次の本が届きました。
日本原子力産業会議『日本の原子力 15年のあゆみ』全3冊(上、下、年表)、日本原子力産業会議、昭和46年(1971)
年表を丁寧に読むと、いろんなヒントを与えてくれそうです。たとえば東大核研の初代委員長、菊池正士氏。
菊池正士(きくちせいし、1902年8月25日 -1974年11月12日)
1926年東京大学物理学科卒、その後しばらくは大学院生として原子核物理の研究を行い、1928年理研に移り、西川正治研究室で陰極線の研究を行う。1932年は奇跡の年、中性子の発見、人工的な原子核の壊変、重水の発見が引き続く。
このころ、新設の大阪大学に移り、原子核研究の拠点をつくる。コッククロフト・ワルトン型の加速器をつくる。1941年からは、海軍の技師としてレーダーの研究に携わる。
1951年から1年アメリカ留学。
1955年原子核研究所の設立と同時に、初代所長に就任している。
1959年原子力研究所の理事長に移る。1964年理事長を辞し、1966年から4年間東京理科大学の学長を務める。1965年の『日本物理学会誌』20(7), 472-475, 1965-07-05に原研の肩書きで「原子力の将来について」と題する菊池正士の文章があります。科学者らしい冷静な議論を展開しています。
「まず原子力発電をやるならやるでその意味がなければならない。それは一体何であろうか。」という疑問を立てています。「なかなかそう簡単にはゆかない。」と回答しています。
原子力発電を従来の火力発電と比較したとき、蒸気タービン・発電機・配電システムは従来のままなので、ボイラーを見れば原子力の方がコスト高になる。「原子力の特長が出るのは燃料の面だけである。」
「今の型式の原子力発電で行く限りどの type をとるにしても画期的に安価な電力が得られることは無いと断言していい。」
ひとりで5時35分。室温はなんと20度あります。すっかり暖かくなりました。
天気予報を見ると、最高気温が26度。夏日です。昨日、幼稚園児のお友達の女の子が今日は20度、明日は25度と言っていた意味がやったわかりました。[新宿御苑と世界堂]
子どもたちを外に連れ出すことにしました。天気が良いので、久しぶりに新宿御苑。新宿駅で各自が好きなお弁当を選んで御苑へ。桜の花がまだ散らずに残っていました。7割ぐらいの感じでしょうか。
ついてすぐにお弁当。子どもたちはもってきた柔らかいボールや縄跳びで遊んでいました。地面に寝転がっていると地震。けっこうおおきい地震でした。地面に寝転がったまま地震を体験するのはたぶん生まれて初めてです。地面もこういうふうに揺れるのだと得心しました。子どもたちは走り回っていたので気づかなかったようです。
帰途、世界堂に寄りました。読みながら線を引くための鉛筆として、今一番気に入っているのは、トンボのタンジェリン・オレンジです。同系統の色鉛筆を4本とステッドラーのBを1本購入。子どもたちにもそれぞれすこしずつ文具を買ってやりました。
テレビによれば最高気温は24.8度。夏日までは行かなかったようです。明日はぐっと下がって20度を下回るそうです。アマゾンのマーケットプレイスから次の本が届きました。
玉木英彦・江沢洋編『仁科芳雄:日本の原子科学の曙』みすず書房、1991;新装版、2005
仁科について、27つの評伝・エッセイ・回想録を収める書物。1990年仁科芳雄生誕100年を記念して『日本物理学会誌』(10月号);『日本原子力学会誌』(12月号);『アイソトープ・ニュース』(12月号);『無限大』(秋号)で特集が組まれた。これらの特集記事を中心とする編纂。
→仁科の科学史における位置付けですが、ひとことではたぶん「日本におけるビッグサイエンス」の出発点を築いた物理学者ということになるでしょうか。
ひとりで6時15分。室温17度。あたたかい感じがします。妻もすぐに起きてきました。幼稚園児は昨日幼稚園にいるときに、口のまわりを虫に刺されたか、何か変なものに触ってかぶれたかしています。ちょっとかわいそうな状況です。ともあれ、怒濤の第1週を通過しました。授業にして8コマ。来週は正常化して6コマです。
今月は、ここで100枚を突破しました。ちょうど月の半分です。
今日は妻のPTAの会合があります。委員を決める会合です。いつもお見合いになってなかなか決まらない会合です。
2時から始まるということで、幼稚園児を迎えに行くのは私の役目です。幼稚園児が年長さんになってから初めてです。園庭について、やけに少ないなと思ったら、年中さん、年少さんは、午前中に(お弁当なし)で帰ったのでした。残っているのは、年長さんだけ。
私は基本的に、放課後遊びをサイドバーに腰掛けて見ているだけです。ママさんたちはおしゃべり。しばらくばらばらに遊んでいた年長さんたちは、そのうちに、砂場に集まるようになりました。半分以上は、各自が勝手に遊んでいます。
子どもらしい取り合いのけんか(年長さんになるとずいぶん少なくなっています)をやっている組もありますが、両方のおかあさんはまったくのほったらかしです。深刻なものでなければそれが正しい。自分たちで解決することを覚える必要があります。
我が息子は、すこしだけ仲裁に入りましたが、話を聞いてくれないのですぐに諦めました。子どものばあい、じゃれあっているのとけんかしているののあいだがはっきりしません。外から見ていてもはっきりしませんし、自分たちでもそうでしょう。両方が怒ってしまうとけんかでしょうが、子どもは子どもなので、ふとしたきっかけで(怒りを忘れて)また遊び始めます。[東京外大授業日程の変更]
たった今大学当局から「授業日程の変更について」通知が来ました。
1.授業は7月15日(金)までとする。
2.海の日の7月18日は、休日とせず、授業を行う。
3.7月18日(月曜日)から7月22日(金曜日)を試験実施期間とする。
基本は以上です。足りなくなった授業日数は、補講、課題研究、インターネットの活用などによって補うということです。なお、補講は、第6限や土曜日を使ってもよいということです。
→個人的には、こういうじたばたした対応を評価しません。授業開始を30分はやめた対応も学生たちにはすごい不評でした。大人のウソが見抜かれていると思います。ただし、我々一般教員には決定権がありません。学長を中心とする大学執行部が決めたことです。大学執行部が責任をとればよい。
→個人的には、これもちょうどよい機会なので、新しい試みをやってみようと思います。ある時期から何かの末期症のように、日本中の大学が制度いじりに熱中するようになっています。制度変更が意味をもつ時と状況はある。しかし、今は、いかにも官僚主義的な“改革”ではなく、学生と教師がであう一個一個の授業に新しい命を吹き込む工夫を各自があるいは組織的に行うことの方がずっと重要だと思います。
現場で頑張っている人は全員このことに気づいていると思います。[アルスの会]
私の今回の調査に関しては、アルスの会 〜文化としての学術を護る 学術文化同友会〜に関連資料が多く収録されていることがわかりました。名誉会長が伏見康治氏です。もっとも近い関心で調査・執筆されている福井崇時(ふくい・しゅうじ)氏も会員です。
昨日取り上げた、彦坂忠義氏については、伏見康治氏も福井崇時氏も取り上げています。→大阪大学で伏見氏のもと勉強した福井崇時氏(スパークチェンバーを開発し、仁科記念賞を受賞している)の研究が今回私の行っている調査におおきく重なっています。 「伏見先生の追憶」には、「彦坂先生の業績を調べる作業から私は科学史に関わることとなった」(p.5)とあります。彦坂氏の実家を実際に尋ねています。「1986年6月米国フェルミ研究所で日米合同科学史の会があり彦坂先生の研究を紹介した。会議の報告は京大基研より刊行されている。」
「伏見先生は翌年[1987]木村一治先生と共に彦坂邸を訪ねておられた。日本原子力学会誌第34巻第11号(1992)に「原子炉が誕生して50年」と題して記述されている文に、彦坂先生について再び書かれ彦坂先生京夫人との写真を掲載された。写真の説明では1980年とあるが1986年です。学会誌のこの号には、「特集」として彦坂論文を取り上げ住田健二さんの序文、彦坂論文の復刻、桂木學さんの解説と意義が掲載された。」(p.5)
1996年「ソ連邦における原子力開発の歴史に関する国際会議、HISAP'96」に出席し、「日本からの出席者、梶雅則[ただしくは範]、徳永盛一、藤井晴雄、神山弘章の諸子と合流した。」(p.5)
こんなところで、梶さんの名前にでくわすとは思いませんでした。
その後、東工大の『技術文化論叢』に割と数多く論考を寄せられているのは、このときの機縁によるのかもしれません。福井崇時「彦坂忠義先生と殻模型と原子炉」『日本物理学会誌』第41巻第10号(1986): 765-768 のp.767 に次の言葉があります。「旅順工科大学で8月15日を迎えるとソ連軍から甘い誘いをかけられた。日本政府は朝鮮と満洲に埋蔵されているウランを使って原子炉と原子爆弾を製造するために彦坂先生を派遣したという認識がソ連側にあったと言う。」
1998年(平成10年)『原子力文化』第29巻第7号に掲載された「伏見康治氏と中曽根康弘氏の対談:黎明期、そして今後の原子力開発は」もウェブで簡単にダウンロードできます。司会は、科学技術ジャーナリストの尾崎正直氏。
まさに批判的に読まなければならない種類の資料ですが、それが故に有用であることに間違いはありません。
司会者の冒頭の言葉「アイゼンハワーが1953年(昭和28)の12月8日、国連で「アトムズ・フォア・ピース」(平和のための原子力)を提唱しましたね。これをきっかけに、アメリカが独占し、今まで秘密のベールに閉ざされていた原子力が、初めて平和利用できそうな方向に向かって踏み出したわけです。」
この記述は、私には、??? ですが、気にせず、次をみましょう。
「それから三ヶ月経たないうちに、わが国でいきなり原子力予算2億3500万円というものが出てきた。これは中曽根さんがお作りになったわけですが・・・。」
中曽根さんの応答は次のようです。まず、学術会議で2度ほど出された原子力の研究を開始しようという提案が「共産党の民科(民主主義科学者協会)につぶされたんです。それで、このまま学者に任せておいたら、永久にできないと思った。」
その前、中曽根は、たまたまアメリカのキッシンジャー・ゼミに行って(昭和28年)、帰途、アメリカの原子力施設を見て回った。日本でもやらないと遅れると強く思った。サンフランシスコでは、ローレンス研究所にいた嵯峨根遼吉教授に会い(「総領事館に呼んで)、日本はどうしたらよいか質問すると、長期的な国策としてきちんとやりなさいという返事をもらった。
もともと、中曽根は、妻の父が小林儀一郎という地質学者で、軍がウラン採掘の話を知っていた。高松にいたとき、広島の原爆を目撃した。そのことがずっと頭のなかにあった。サンフランシスコ講和条約のときに「原子力の平和利用と民間航空機の製造・保有を講和条約で制限するな」という注文を出した。
学者の世界(学会)では、やはり反対論が強かった。(反対の首謀者としては、福島要一、早川幸男等の名前がでています。)
原子力予算そのものは、中曽根が画策して、予算案審議の最終段階で修正案として提出されています。翌日の新聞は、「原子力予算、知らぬ間に出現。驚く学界、・・・」ということで猛反対。
中曽根氏の発言「茅さんなどが政調会に予算反対だと抗議に来たとき、稲葉修がそばにいて「学者が眠っているから、札束でひっぱたいて目を覚まさせるんだ」と。」
茅さんは、「抗議に来て帰るときに」「できちまったら、仕方がない」とつぶやいた。中曽根はこれを通してくれる合図と見ています。
「予算が通って、そのおかげで企画庁を中心に準備会ができたんです。石川一郎さんが会長になって準備会ができて、役所としての準備をいろいろ始めたんです。」
司会の尾崎氏は、「日本の原子力というものは完全に政治、特に中曽根さんの主導で始まった」とまとめています。
さて、中曽根たちは、この予算で第1回国際原子力会議(国連主催、開催地ジュネーブ)にでかけます。駒形作次博士が団長、松前重義、志村茂治、前田政男、それに中曽根ででかけています。議長がインドのバーバ博士。インドの湯川秀樹というべき理論物理学者とあります。
帰国して、代議士4人で共同声明を出して、立法作業に入った。「あのとき、夜昼寝ずに8本法律を作りましたよ。」→この時点で、基本を整理しておきましょう。
1953年(昭和28年)、春にスターリンが死去します。夏に中曽根康弘はハーバードのキッシンジャーゼミに誘われ、全米の原子力施設を見て回ります。帰りには、バークレーに寄って嵯峨根遼吉に会い、原子力について助言をもらっています。年の暮れ(12月8日)アイゼンハワーが「平和のための原子」演説をします。
翌1954年(昭和29年)国会の会期末(3月3日)に保守3党が抜き打ちで原子力予算を国会に提出します。そのすぐあと(3月16日)、ビキニの水爆実験で第5福竜丸が被爆したことがわかります。このタイミングはほんとうにすごい。歴史のアイロニーでしょうか。
1955年(昭和30年)総理大臣になりたいがために CIA と丁々発止の交渉をしながら原子力の導入に努力してきた讀賣新聞社主正力松太郎が2月27日、富山2区から保守系無所属で立候補し初当選します。5月9日、米国の原子力平和利用使節団が来日し、晩秋(11月1日)には原子力平和利用博覧会が開催されます。11月15日、保守合同がなり、いわゆる55年体制が築かれます。11月25日、正力は第3次鳩山内閣の原子力担当国務大臣に就任します。そして、師走(12月16日)日米原子力協定の調印に至ります。
1956年(昭和31年)お正月、正力は原子力委員会の初代院長に就任し、5年以内の原子炉の導入を表明します。3月1日、日本原子力産業会議が発足し、5月18日正力は初代科学技術庁長官に就任します。秋(9月17日)原子力産業使節団が欧米の原子力事情の視察に出かけます。
明けて1957年(昭和32年)7月10日、正力は第1次岸内閣の国家公安委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長に就任します。→ 11.4.16 さて、ここで吉岡斉氏の論考に戻りましょう。吉岡氏は、「原子力というのは、官産の両セクターの進める事業です。」(16頁)としています。つまり、官僚組織と産業界が進めていて、物理学者は事業としての原子力にほとんど関与していないということです。3原則も現実に進められた原子力事業ではほとんど無視されていたということです。
この点は、上の中曽根+伏見対談からも裏付けられます。現実の原子力事業は、物理学者をはずして、物理学者の主張とはほとんど関係ない言論・実践空間で進められた、とまとめることができるでしょう。
日本の原子力史を見るとき、これは非常に重要なポイントです。1954年に提出された原子力予算について、吉岡氏は、「中曽根が一人で思いついたとはとうてい思えない。」「原子力予算は、非常にみごとなタイミングで出されたと僕は思っています。よほど物事を良く知っている人でなければ、あれは出せなかったと思います」(15頁)と評価しています。ここまで調べてきて、私の見解は、歴史には偶然がある、中曽根が証言していることでよいのではないか、というものです。原子力予算そのものは、中曽根が彼の観点から同志と呼べる政治家何人かと共謀して1954年3月3日に提出したということでよいと思います。原子力予算に関しては中曽根が首謀者だったということで問題はないでしょう。
つまり、原子力予算のときに、物理学者は事業としての原子力の推進からははずされた、と見てよいでしょう。
→同じことを別の観点から言えば、日本の原子力史は、物理学者の観点によって焦点をはずされていると言えるでしょう。→吉岡斉氏の著作は、原子力政策史の基本ですが、ブックレットにおいても一般読者に親切には書かれていません。
前に紹介した吉岡氏の基本的論点「日本の原子力政策は「国家安全保障のための原子力」の公理のもとで進められてきた。日本は核武装を控えるが、核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持するために、あらゆる種類の機微核技術を開発・保有し、それを日本の安全保障政策の不可欠の部分とする」(p.47) に関して、この公理がいつどういう経緯で形成されたのか、疑問になりました。当事者の間で共有されているのは、吉岡氏の言うとおり間違いないでしょう。しかし、マスメディアだけではなくちいさなメディアでもほとんど言及されることのない公理です。今回の原子炉事故に際しても、私は、吉岡氏以外の誰かがこの点に触れているのを見たことがありません。(もしあったら是非お教え下さい。)
ともあれ、まずは自分で調べてみますが、ご存じの方がいらしたら、是非お教え下さい。
鼻がつまってやはり夜半に目覚めました。ちょうどよいのでいくらか仕事をしています。2度目の起床は、ひとりで6時20分。室温16度。昨日の夜は寒かったのですが、もう寒さはほとんど感じません。
木曜日の授業は、今日がスタートです。
→3限、4限、5限となんとか無事に終了しました。
大学についてすぐに図書館に行き、ILL で到着したという報せのあった次の本を受け取りました。名古屋大学から来ていました。
『木村一治日記 : ヒロシマ・長崎の原爆調査の記 : 1945年4月16日〜10月10日』木村正子編、仙台 : 木村正子, 1998
最初の45頁に、写真製版の日記があります。あとは、次。
木村一治「焼夷弾の下で」
木村正子「疎開中の日々」
木村正子「あとがき」
野上耀三「核と共に50年を読んで」
服部学「木村先生の思い出」
→木村正子「疎開中の日々」に、「広島、長崎に原爆調査に行ったまま一度も便りのなかったパパがやっと10月の15日に帰ってきた。風水災害で寸断された山陰線を歩いた り汽車に乗ったりしながら、やっと松本の私達のところに帰ってきた。足を痛めてビッコをひき帰ってきた」(n.p.)とあります。2ヶ月以上、調査に行っていたことになります。
→「8月15日朝
・12日夜、夜行汽車にて・・二夜車中にて14日朝広島につく。広島まで行かなくても風評にてすでに本質的に新型爆弾なること一目瞭然である。・・・しかし未だ放射能関係を測定したものはいないらしい。
午後似の島の研究室にて測定をする。似の島で死んだ人の頭蓋骨に Natural の10倍程度の activity のあることを知る。Uranium bomb なること確定せり。」
「10月4日 7時30分長崎着。・・・」
以上のように木村は、おそらく初めて広島で放射能を測定しています。それからずっと広島、長崎の調査にあたっています。諫早をたったのが10月7日夜です。そこから線路を歩いたり汽車に乗ったりしながら、約1週間かけて疎開先の松本に着いたわけです。[彦坂理論]
昨日読んだ、木村一治「太平洋戦争開戦前後に於ける中性子研究」『物理学史ノート』第4号(1996年10月): 11-14 ですが、私の知らなかったことを指摘してくれています。すなわち、原子爆弾開発研究が戦時中の日本でも行われていたことは(理研の 仁科と京大の荒勝)このサイトでもいくらかまとめておきました。しかし、原子炉の理論まで提出されていたとは思いも寄りませんでした。
ウェブで調べてみると、同じく木村一治氏と古田島久哉氏の共著論文がダウンロードできました。
古田島久哉・木村一治「彦坂忠義の学位論文「原子核エネルギー利用の一方法に就て」の紹介―原子核エネルギー解放の先駆者達の足跡―」『日本物理学会誌』vo.47, No.12, 1992: 993-998
「原子核エネルギー利用の一方法に就て」は、1944年学術会議主催の「原子炉問題シンポジウム」で発表され、後に学位請求論文として東北大学に提出されています。(学位が授与されるのは、1950年です。原論文の発表から6年後です。)彦坂氏は、木村さんが紹介しているように、1949年まで大陸で拘留されています。遅れは、戦時中・終戦後の混乱によります。
東北大学の(たぶん)広報誌『東北大学ゆかりの研究者たち8 彦坂忠義』によれば、彦坂は1934年彦坂理論(原子核の殻模型)を米国物理学会誌に投稿したところ、クレイジーとして掲載拒否されています。原子炉の彦坂模型は、上記の通り、終戦前の1944年に講演発表しています。
そもそも、1944年に学術会議主催で「原子炉問題シンポジウム」が開催されたということが重要です。この点もきちんと調べる必要があります。
(→「原子炉問題シンポジウム」という表現は、木村さんの筆が滑ったのではと思うようになりました。昭和19年11月学術研究会議原子核分科会の会合ということでよいようです。今から言えば「原子炉」に当たる問題が議論された、という趣旨のようです。)→「原子核エネルギー利用の一方法に就て」のpdf ファイルもウェブで簡単にダウンロードできます。その最後には次のようにあります。
「実際、同位元素分離と言う言語に絶する困難を一方に見るが故に、此の全然注目されたこともなかった「高速中性子法」が「有望らしい」と判っただけでも著者にとって大なる喜びである。
此の法ならば自然産ウラニウムを単に化学的に純にすれば足るのであり、直に試験に移すことが出来るのである。仮に試験に必要なウラニウムさえ十分得られぬとしても、σ* σ* 等の値を正確にする小規模基礎実験を資料として、大切な結論を導く方法を本論文は提供し得たと信ずる。」(*: 私の能力では表記法が不明)
「此論文は昭和19年11月学術研究会議原子核分科会に於て発表したものであるが、昭和20年7月仙台の戦禍に原稿を焼かれた。当時著者は旅順にあったので、此の厄を知らず、今秋該地から引揚げ来てようやく此処に発表の機を得た次第である。(昭和24年12月記)」
ひとりで5時過ぎ。鼻が詰まって苦しい夜でした。こういう寝苦しさは久しぶりでした。昼食後、ソファーに横になりました。気がつくと、3時前です。鼻が詰まって眠れていない影響がこういうところにでました。4時から会議です。急いで身支度を整え飛び出しました。
飛び出すとき、郵便受けに次の本がありました。
木村一治・太宰恒吉・佐々木寛『放射線とその測定』技報堂、昭和31年(1956)
物理学史通信刊行会編『物理学史ノート』第4号(1996年10月)
この4号は、「日本における<核>と物理学者の五十年:日本物理学会第四十七回年会物理学史シンポジウム」特集となっています。シンポジウムの開催は1992年です。ですから、『物理学史ノート』に出るまでに4年もかかっています。ちょっと時間がかかりすぎだと思われます。特集の記事は、次の3点です。
熊澤正雄「私見:日本の動力炉開発」
木村一治「太平洋戦争開戦前後に於ける中性子研究」
吉岡斉「日本の原子力研究の形成と展開」
どれもなかなか興味深いものでした。木村一治氏の論考は、彦坂忠義氏の追悼記のような感じになっています。「菊池正士と同年生まれの彦坂忠義は1926年に東北大学を卒業、高橋胖教授の助手を長年勤めたが、中性子発見と共に核構造の問題に没頭した。」(p.12) Phys.Rev. に投稿し狂人扱いされた彦坂理論の再評価を試みています。1937年ボーアが来日するが、山内恭彦の群論によるシェルモデルにも彦坂理論にも湯川理論にも冷淡であった。
「1944年に学術研究会議の主催で、原子炉の問題でシンポジウムが行なわれた。彦坂は“原子核エネルギー利用の一方法について”という話をした。これはあとで学位請求論文として提出されるものとなる。」(p.13)
「私は今年1月末、彦坂未亡人にお目にかかりその後の波瀾万丈の運命を少し伺ったが、1945年5月にお子さん7人を連れ、一家9人の150個にのぼる家財道具を持って旅順に渡航された。幸いにも一家は命だけは助かったが、総ての家財道具は失われ、8月12日召集された直後に日本の敗戦に会い、立ち所に難民となって4年間の拘留生活をさせられた由。その間の話は涙なしには聞けない。彦坂氏は原子力の関係でソ連側から目をつけられ、甘言を以って氏の論文を詐取しようとしたが、難をのがれ、中国の新設の大連大学教授として教える機会を与えられた。ついに1949年開放されたが帰還に際しては、論文を没収されぬよう一枚一枚各氏、柳行李に貼りつけた由。同年10月仙台に帰ってみると空襲での焼失を知り、幸い手書き控え論文を再提出した由。それも相変わらず高橋胖教授の下に提出された。だが私は昔乍の学閥の空気を感じざるを得ない。」(p.14)
吉岡斉氏の論考からは、1992年現在の吉岡斉氏の日本の原子力政策史研究の状況がわかります。アプローチと問題関心がストレートに出ていて、とてもわかりやすい。会議は、時間的には順調に進行し、6時頃帰宅することができました。
今回の大震災で、メディアにはこういうことがなければでてこない専門的な知識が出てくるようになっています。丁寧に拾えば、重要な知見に繋がると思われます。
昨日の朝日の夕刊の一面は、1.福島第一最悪レベル7、2.前田元検事に実刑判決、3.10代前半が脳死、の3本立てでした。2面に地震予知連会長の島崎邦彦さんの談話がまとめられています。「これからは今回の地震に誘発された地震が起こるだろう。5年は続くのではないか。1940年代には43年の鳥取、44年の東南海、45年の三河、46年の南海、48年の福井と続いた。江戸時代にも地震が相次いだ記録がある。」ということで、宝永地震について見直す必要があると結論されています。
44年は日本敗戦の1年前、45年は日本敗戦の年、46年はその翌年です。敗戦に大地震の連続。台風も連続しています。海難事故も列車事故も連続しています。[教室変更]
月曜日2限「科学技術と社会」ですが、教室を115教室(収容人数206名)に変更します。昨日、教務課から連絡がありました。
私がきちんと覚えておく必要があります。[『嵯峨根遼吉記念文集』ii]
これはほんとうにとてもおもしろい。第2部は座談会になっています。それが6つに分けられている。1.原子核研究;2.真空技術の振興;3.終戦直後の新学術研究体創設への努力;4.原子力研究開発―原研時代を中心として―;5.核融合研究の推進;6.動力炉の導入―原電時代を中心として―
座談4の冒頭に、関わりがまとめられています。
「嵯峨根先生は原研創立早々の昭和31年6月から34年9月に退任されるまで、3年3ヶ月のご在職でしたが、前半は企画担当理事として、後半は副理事長・東海研究所長としてご活躍下さいました。」(村上昌俊氏の発言、p.220)
長山泰介氏の話には「当時茅先生が、日本の原子力開発のキーメンバーに是非嵯峨根先生を加えるべきだと考えられてアメリカから呼ばれたのだという話を聞かされていたからです。おそらく31年の2月頃日本に帰って来られたのだと思います。」(p.221)
ということで、留学との関わりあいを確認する必要があります。
前述の通り、嵯峨根遼吉は、フォックスの伝があって昭和24年12月4日アメリカに発ちます。昭和18年3月10日に東京帝国大学教授となっています。その身分のままアメリカに長期滞在します。それがあまりに長期になったせいかと思われますが、昭和30年2月28日に東京大学は辞職しています。
p.224 の神原豊三氏の発言に「先生はずっとバークレーにおられましたので、30年に原子力海外調査団がアメリカに参りましたときに、帰路バークレーに立ち寄って先生にお目にかかったことがあります。」とありますから、昭和31年の2月に帰国したという長山氏の発言はほぼ信じてよいでしょう。7年強のアメリカ留学ということになります。これは長い。
この時期7年強にわたってアメリカの核物理学のセンターにいたことは、日本側からすれば、非常に大きな窓口と感じられたと思います。冒頭の履歴によれば、帰国の昭和31年3月27日原子力委員会参与となり、同年6月26日日本原子力研究所理事になっています。5月28日新設なった科学技術庁長官にその年の2月27日はじめて国会議員に選出されたばかりの正力松太郎が初代長官として就任します。その科学技術庁の原子力調査員に9月7日選ばれています。
原研(日本原子力研究所)の副理事長を昭和34年9月22日に辞任したあとは、同年12月1日に日本原子力発電株式会社の顧問(常務)となっています。取締役、常務取締役、副社長を経て、昭和44年4月16日前立腺癌で亡くなっています。
ひとりで4時40分。室温14度。天気予報では今日だけ気温が下がるということでしたが、なるほど、室温でも下がっています。1限に授業。小学生よりはやく家をでなければなりません。
→7時半前に家をでました。リレー講義「表象文化論」(226教室)初回の出席者は147名でした。ほぼ30分で説明を終え、帰途につきました。
10時帰宅。妻は急いで、免許の更新にでかけました。今日は入園式で幼稚園児はお休み。ゲームをしたり、テレビをみたり、DVDを借りてきて(コナン!)みたり、テレビっこになっていました。明日から幼稚園がありますから、徐々に正常化するでしょう。[子どもの脳死臓器移植]
次のニュースが中日新聞に出ています。
15歳未満で初の脳死判定 家族が承諾、臓器移植へ
昨年7月の改正臓器移植法の施行で、15歳未満でも脳死・臓器移植は、家族承認で可能になっています。そのはじめての事例があったということです。日本社会ではなかなか踏み切れないのではないかと思っていましたが、施行後、8ヶ月ではじめての事例です。今後どうなるかはまだほとんどわかりません。[福島原発事故についての緊急建言]
昨日購入した『週刊現代』を読んでいたら、魚住昭氏のページで「福島原発事故についての緊急建言」(元原子力安全委員長2人を含む専門家16日の連署)が紹介されていました。ネットで検索をかけるとすぐに全文が見つかります。原子力を推進してきたおえらいさんたちですが、専門家としての判断は保持されていると思います。「特に懸念されることは、溶融炉心が時間とともに、圧力容器を溶かし、格納容器に移り、さらに格納容器の放射能の閉じ込め機能を破壊することや、圧力容器内で生成された大量の水素ガスの火災・爆発による格納容器の破壊などによる広範で深刻な放射能汚染の可能性を排除できないことである。」
このことが明示されています。最悪の事態に備えて最善の努力をするとありますが、それ以外ありえません。
(私が見たのは、次のサイトです。 平和哲学センター)[『核の目撃者たち』]
お昼頃、次の本が届きました。
レスターJ・フリーマン『核の目撃者たち:内部からの原子力批判』
中川保雄・中川慶子訳、筑摩書房、1983
帯には「『核の目撃者たち』は、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』でDDTの危険を公衆に警告して以来の、最も重要な科学啓蒙書だろう。」(ロサンザルス・タイムス・ブックレヴュー)とあります。[『嵯峨根遼吉記念文集』]
昨日 ILL で届いた『嵯峨根遼吉記念文集』が非常に面白い。仕事があるのですが、つい読んでしまいます。
謎が解けた部分だけ紹介していきましょう。1.1949年での留学。
嵯峨根遼吉は、『原子爆弾の話』を昭和24年(1949年)12月10日に発行したあと、すぐにアメリカに留学しています。占領下ですから、GHQの特別な計らいがなければ、こんなことはありません。「日本の戦後の科学研究の歩みを指導するためGHQの一員として来日していた Fox博士」(p.14)の「招聘でアイオワ大学へ留学が許されました」(p.15. 執筆者は娘さんの仙石節子氏「回顧談」)
これだけではなく、嵯峨根に関しては、占領軍から特別な計らいがいろいろあったと考えてよいでしょう。2.木村一治氏の原爆被害調査。
「嵯峨根遼吉先生の思い出」に「私は広島には2度、長崎には1度原爆被害調査で行ったが、終戦後、即ち2度目の時は日本映画社の記録映画を作るというので協力した。これは途中でGHQからストップを食い、やがてGHQのもとで製作をつづけることになった。この間、嵯峨根さんが仁科先生と共にいろいろ交渉に当られた。大へんな心労だったと想像する。」(p.299)3.放射能の危険性について。
放射能の危険性について、嵯峨根遼吉は今では信じられないぐらい楽観的だったようです。時代的制約かもしれません。
長崎の手紙への返信を『主婦の友』第30巻第9号に執筆しています。「1.長崎の手紙 戦争を超えて 原子爆弾と共に投下されたわが友の手紙」。
「友よ。君たちの努力の結晶は、この戦争を終結に導いた。今度こそ、僕たちが精進の本来の目的とした世界人類の福祉を増進するために、この原子力利用の共同戦線を張ってゆきたいと切望する。農作物のために嵐を吹き飛ばし、梅雨の日数を限り、または雨を降らせ、漁業のために風雨を払うなどは易々たることであるし、医学上その他あらやる面に、人類の幸福を増進するために何ができるかを真剣に考えてゆかねばならないのだ。」(p.10)
今では理解しがたいことですが、原子爆弾の力によって(まるで大型ダイナマイトのような感じで)台風の進路をそらしたり、気象を左右することを考えています。『原子爆弾の話』にも同じ話が載っていて私はびっくりしたのですが、当時の嵯峨根遼吉の認識として貴重な証言です。
田島英三氏が亡くなる前のこととして次の証言をされています。「亡くなられるときまで原子力のことを考えておられたのですね。逓信病院に入院されておられるとき、僕を病院に呼ばれまして、「放射能が体に悪いというので住民から反対されて困っているんだ。安全基準をきびしくしてもよいからいくらにすれば安全であるのか言ってほしい。そうすれば技術開発をしてそのとおりにする。」と言っておられました。このことで病床に2回呼ばれました。ずいぶん熱心に安全性について心配しておられました。」(p.181)
ひとりで4時10分前。室温17度。いよいよ新学期のスタートです。幼稚園児も年長さんのクラスが今日から始まります。お友達と遊べるのがなりよりうれしい。ただし、幼稚園ですから、しばらくお昼前に帰ってきます。とりあえず、初日は無事終わりました。しかし、疲れました。花粉症のまましゃべるのはちょっとしんどい。しかし、仕事です。
30分はやまったことの影響は、終了時刻の方におおくでます。しゃべっていて身についていた終了時刻がわからなくなる。しばらくは、時刻入りの時間割が手放せません。大震災からちょうど1ヶ月。荒れ模様の天気になりました。帰ろうと思ったら、嵐のような雨。様子からしてにわかあめです。研究所にむかって、次の日に回そうともっていた仕事をすこしこなしました。風が収まったのを確認して帰途へ。
妻は今日は学校説明会があり、雷が光って鳴ったときには、家には子どもたちだけだったようです。こわくなったのでしょう、三人でリュックサックにいろんなものを詰め込んで避難バッグをつくったようです。棚のなかのものがすっからかんになっていたと妻は笑っていました。
そして、5時過ぎにかなりおおきな余震。揺れ方からいって1ヶ月前にあった地震とおなじ東北沖の海底でしょう。揺れが長く続いたので、こわかったようです。妻は地震酔いで気分が悪くなったと言っていました。地震酔いにはおおくの方がかかっているのではないでしょうか。私にはもともとそういうけがあります。三半規管が弱い、あるいは過敏なところがあります。
(報道によれば、発生は午後5時16分頃。東京の震度は4。震源は福島県浜通り。震源の深さは約6キロで、マグニチュードは7.0。その後もずっと余震が続きました。)多磨駅前のロータリー(大学側)には、金曜日の朝、コンビニがオープンしています。ローソンです。金曜日のオープンの日には、店の前で野菜を売っていました。もともとの99ショップ系の部分を取り込むようです。大学周辺にはもともとお店がすくなく、スーパーではないとはいえ、すこしだけ便利になります。今朝大学に向かうときに、はじめて入ってみました。お昼のおにぎりと『週刊現代』他を買いました。ポンタカードに入会するようすすめられました。ちょうどよいので、入会しました。(個人情報を渡す、すなわち、住所、氏名、電話番号を記入するだけです。)すると、シュークリーム一個をおまけにくれました。コンビニもこういうサービスをするようになったのかと新鮮でした。
[需給調整契約]
4月10日河野太郎氏のブログに需給調整契約の約款が出ています。是非、自分の目で読んでみてください。(データが全部提示されたわけではありません。重要なのは、具体的な契約内容です。金額がポイントになります。)緊急会議 飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」も非常に興味深い。是非、こちらも。
→対談を全体として読みました。とてもわかりやすい。是非![ILL: 『嵯峨根遼吉記念文集』]
図書館から、ILLで頼んだ次の本が届いているという報せがありました。帰途、受け取りました。『嵯峨根遼吉記念文集』嵯峨根遼吉記念文集出版会、1981
電車のなかで一部読みました。謎だったことがこの書物でかなり解明されました。
ちいさいちびがおきて6時40分。曇り。室温17度。そういえば、都知事選挙の日でした。朝一番で子どもたちの通っている小学校に行って来ました。校庭の桜が満開で見事でした。投票後でしょうか、携帯で写真をとる人の姿もありました。[木村一治博士]
冬以来の私の調査の出発点は、<広場>吉原賢二「広島原爆の放射能を測った人々」 『化学史研究』2010年4号: 193-195 です。思うところがあって読み直してみました。
吉原氏の記載を辿ります。8月6日広島に原爆が投下されたあと、放射能を直接はかったのは、仁科ではなく、木村一治である。現地入りした仁科は、広島で集めた試料を理研に送った。その資料を測定したのは、西川正治研究室の木村一治研究員であった。木村は、試料の銅線を測り、8月10日放射能を見出した。
2つ後のパラグラフでは次の記述があります。「1945年の7月、37歳の木村は同年8月20日までに広島第二連隊に入隊せよとの軍の召集令状をもらった。彼は広島に行って入隊する前に、是非広島の放射能調査をやろうと決心した。8月12日夜行列車で出発、14日朝広島に着いた。一面の焼け野原にコンクリートの建造物が無惨に壊れている風景は異様であった。測定は旧式のローリツェン検電器で行われたが、紙屋町付近の西練兵場で最も高い値を示した。」
この記述が実はわかりません。吉原氏の書き方は、個人的に行ったかのような書き方です。しかし、そんなことがあるのでしょうか? 普通は、8月10日に放射能を見出して、それを上司に報告し、現地調査をしたいと言って、許可をもらい、あるいは出張許可(?)をもらって行くと思います。個人的に行くことがまったく不可能だとは思いませんが、戦時下ではあまりないことだと思われます。
吉原さんは、次の3点の文献をあげています。
1.木村一治『核と共に50年』 築地書館, 1990
2.『木村一治日記 : ヒロシマ・長崎の原爆調査の記 : 1945年4月16日〜10月10日』木村正子編、仙台 : 木村正子, 1998
3. Motoharu Kimura with John M. Carpenter, Living with nuclei : 50 years in the nuclear age, memoirs of a Japanese Physicist, Sendai: Sasaki Printing and Publishing, 1993
この疑問を解消するには、元の資料に当たる必要があります。
この吉原氏の記事に対して、大西寛氏から、京大の荒勝研究室の清水榮氏も広島に調査に赴いているというコメントがあったことは以前紹介しています。大西さんの言及される清水榮氏の英文の出版物についても、このサイトで紹介しています。
ということで、木村一治氏についても、調査してみようと思い、まずは、ネットで得られる資料を探しました。非常に興味深い資料として次のものがダウンロードできました。
木村一治「核実験現代史」『日本物理学会誌』第13巻第11号(1958): 680-690
「核実験の現代史をかけという編集委員会の命令に接し大変弱っている。その任にたえないばかりではなく、自分の歩んできた、おろかな、よろめく姿をイヤでも顧みる必要があるからである。敗戦と原子力の登場という二重の要素に誰しも進むべき道を思い悩んだものと思われる。敗戦後の虚脱期をすぎ、いくらか早く積極的に動き出したのは、同位体分離と質量分析器の試作研究であったろう。いずれも応用研究として役立つ見込みがあったからである。サイクロトロンは撤去され、Kelly-仁科ラインは理研ばかりでなく全国の原子核研究を押しつぶしてしまった。」(p.680)
「しかし、次第に後興のきざしもみえて来た。1951年初夏、ごく最近亡くなった Lawrence の来日はサイクロトロン再建の何かの契機になった。」(p.680)
p.681の第2節以下は、熊谷氏が記述しています。サイクロトロンの復興と原子核研究所設立前後の研究体勢が記されています。
結語として、「人の流れからいうと長岡・仁科・嵯峨根と原子力の方に発展した流れと、長岡・西川・菊池と原子核の方に発展していった流れがあるように思われる。・・・原子核実験全体として戦前の日本は米国についで第二位近くまで行っていた。少なくとも加速装置の大きさや数においては。」
「核の研究そのものは一体どうなるのであろうか? 昔の分光学のようにだんだん物理学の片隅に追いやられるだろうか?」
ひとりで4時20分。室温18度。曇り。予報では雨。まだ降り始めてはいません。明後日の月曜日から授業が本格始動です。来週の授業を全体として準備する必要があります。
[吉岡斉『原発と日本の未来』2011]
朝次の本が届きました。アマゾンのマーケットプレイスからです。
吉岡斉『原発と日本の未来:原子力は温暖化対策の切り札か』岩波ブックレット802、2011.2.8
大震災の1ヶ月前に発行されています。とてもタイムリーな書物です。アマゾンでは今品切れ中です。岩波は、すぐに大増刷をかける必要があるでしょう。
→63頁のブックレットです。さっと読みました。原子力問題について何か発言しようとすれば、まずきちんと読むべき書物となっています。国会議員、官僚、すべての教育関係者、メディアにかかわるものはいますぐ本屋に行って読むべき書物となっています。
(温暖化対策については、多くは触れられていません。最小限必要な論点だけ説明されています。)ちなみに、吉岡斉『原子力の社会史』(朝日選書、1999)は、部屋のなかで探し出すことができていません。研究室においてあるのでしょうか? 月曜日に時間がある限りで探してみようと思います。
[計画停電、原則実施せず]
本日の新聞に、東電と政府は、今後、計画停電は原則実施しないことにしたと報じています。一歩は前進です。ウェブでは、ロイターの記事が比較的詳しい。
朝日新聞では、4面の右上に記事があります。どうしてこんなに弱腰なんでしょうか? ほんとうに理解できません。→この点に関し、河野太郎氏の4月7日ブログは、経産省は需給調整契約のデータを出すと言ったがまだ出してきていないと報告しています。
ここで河野氏が行っているのが筋の正しい議論です。
面白いのは、都内の国立大学の電力使用量のデータです。昨年8月で、東大本郷が2272万キロワットアワー。(万以下切り捨て)外語は、31万キロワットアワー。東大本郷の14%です。
ひとりで4時まえ。花粉症で鼻が詰まったせいです。かなり苦しい。室温16度。昨日、日が変わる前にまた大きな地震がありました。揺れ方からいって震源地は東日本大地震と同じかなと思われました。東京の震度は3から4まででしょうが、長く揺れました。私と妻は目覚めましたが、子どもたちはよく寝ています。
そして今日。また荒れ気味の天候です。風が強い。郵便局に昨日届いた本の支払いに行こうと外にでると、お隣さんの自転車が風で倒れていました。花粉症もまだまだ辛い状態が続いています。昨日公園に遊びに行って帰ってきたおおきいちびは外で遊んだことを後悔していました。私は仕事なので仕方がないのですが、鼻の穴がそうとう痛い。お昼前に次の本(研究報告書)が届きました。
『原爆調査の歴史を問い直す』
日本学術振興会 科学研究費補助金 基盤研究(C)「原爆被爆者の放射線影響調査に関する科学史的研究」(研究代表者、柿原泰)
NPO 法人市民科学研究室・低線量被爆研究会、2011年3月
「終わりに」によれば、「本研究は、吉田由布子、笹本征男(2010年3月他界)、瀬川嘉之、上田昌文、柿原泰の、市民科学研究室低線量被爆研究会の6名のメンバーにより行い、その討論を経て進めてきたが、文責は吉田にある。」(99頁)
ということで、文章は、基本的に吉田由布子さんが書かれたようです。[嵯峨根遼吉の研究]
昨日からの続きです。
嵯峨根遼吉氏の本に、終戦直後の9月、長崎に原爆被害(効果)調査に行ったとき、現地の軍人に世話になったとあります。長崎県大村の第21航空廠の長官室に嵯峨根遼吉氏を迎えたのは、「リエイゾン・オフィサーの腕章をつけた中村中将」です。
「いや、あの手紙は当日午後拾得の報告があり、一両日後に自分の手元に届いたのでした。自分の興味も手伝ってか、実は自身で翻訳をし、書類をつけて佐世保の鎮守府に届け出たのは今でも忘れやしません。8月15日の午前のことでした。つまり終戦の日の朝でした。もちろんその前に手紙が落ちたということは海軍省に報告したのです。」
ここで言及されている手紙は、もちろん、長崎の原爆と同時に落とされた嵯峨根遼吉氏宛の手紙です。はっとしたのは、9月になっても軍が調査隊の世話をしていることです。よく考えてみれば当たり前のことですが、8月15日で日本陸軍・海軍が消滅したわけではありません。8月15日付で召集解除となった人もいるかもしれませんが、旧日本陸軍・海軍が解散するまでには一定の時間がかかったはずです。
ウェブで調べてみました。探し方の問題かもしれませんが、これぞという記述には出会いませんでした。
『舞鶴市史』によれば、舞鶴重砲兵連隊(上安久)に関して、「将兵の大半は二十年九月十四日、十五日にかけて除隊、復員したが、将校、下士官兵の一部は兵舎や火薬庫等の警備のため十一月十四日まで残留した」とあります。位が上の軍人は、復員が冬になっています。
9月2日付けで武装解除の命令が下ったところもあるようです。
これは私の知識不足ですが、中国では敗戦後も日本軍は戦争を続行した、とあります。降伏部隊である日本軍の武装解除にあたる国民党中央軍が自分たちが到着するまで匪賊から中国を守れと指示を出したとあります。その結果満洲を除く中国全体で、敗戦後も5万人が戦死したとあります。どなたか、敗戦後、日本の軍人がどういう順序でどういうふうに、召集解除、除隊、復員したのか、お教えいただけないでしょうか? サイトまたは書物の指示でもけっこうです。よろしくお願い致します。
→上の『原爆調査の歴史を問い直す』に回答の一部がありました。「大本営は9月13日、陸軍参謀本部、海軍軍令部は10月15日、そして陸・海軍省は11月30日という廃止日まで存続していた。・・・陸海軍の指揮命令系統は実質的に11月30日まで機能していたといえる。」(17頁)
夜半に目覚めてすこし仕事。2回目の起床は4時25分。室温16度。桜が満開ということです。
ちびどもは7時前後で起きてきました。今日から給食があり、本格的に始動です。
私は、新入生履修ガイダンスがあります。午前中。
→子どもたちが家をでてすぐあとに出かけました。大学は昨日が入学式、今日はガイダンスです。高校生の大きな尻尾をつけた新入生諸君ばかりが目立ちます。
メールボックスに入っていた書類に一通り目を通したあと、簡単な朝食を取り、そしてガイダンスのドラフト作成にかかりました。カリキュラムの基本は頭に入っています。しかし、新入生に説明するためには、1年生の目から見た、すなわち基本的に何も知らない学生たちに基本を説く必要があります。詳細は案内にありますから、私の役目は、理解するための方向付け・イメージを与えることです。1時間弱でA4で2枚程度のものができました。
10時半から11時半。115教室がほぼ満杯になっていました。花粉症で声はいまいちでしたが、こればかりはいかんともしがたい。
教育情報化支援室に鍵と案内を返却してから、生協2階へ。何人かの知り合いの先生方と、まだ慣れない感じの新入生諸君が大勢集まりつつありました。→明日も会議。これから本格的に忙しくなります。
ガイダンスを終え、帰宅すると、次の本が届いていました。
嵯峨根遼吉
『原子爆弾の話』
講談社、昭和24年(1949)これはなかなか興味深い本です。「一人でも多くの人が、少しでも原子爆弾と原子力を理解してもらいたい。」という意図でこの書物を記したとあります。
奥付の著者略歴を紹介しておきましょう。
明治38年11月東京に生る(旧姓長岡)
昭和4年 東京帝国大学理学部物理学科卒
同 6年 理化学研究所所員になる
同17年 東京大学教授となり現在に至る
外遊、1935年8月米国カリフォルニヤ大学放射線研究所に留学
翌36年11月英国ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所に留学し、さらに独逸、デンマーク、スエーデン、フランスを経て帰米、カリフォルニヤ大学に戻り、1938年2月日本に帰る。1949年12月再び渡米す。
→『原子爆弾の話』は11月30日印刷、12月10日発行です。本の発行後すぐにアメリカに経ったことになります。(発行は見ずに経ったかもしれません。)ともあれ、嵯峨根遼吉の研究基盤はカリフォルニア大学放射線研究所ということになります。目次は次の通りです。
序―長崎の手紙
原子力時代へ
怒る原爆
世界の原爆競争
原子力兵器の威力
原子爆弾は防げるか
科学の謎を解く
利用されている原子力
夢ではない原子力時代
平和の防壁これでわかるようにいろんなことが書かれています。しかも昭和24年出版ですから、まだGHQ統治下です。
嵯峨根自身は後書きで、次のように記しています。
「内容は大部分は自分の専門、自分の体験等ではあるが、歴史的のこととか、挿話中の会話等については、エーブ・キューリー著「キュリー夫人傳」、ブレークスリー著「原子力の将来」、ブラドレー著「隠るべき所なし」、ラップ著「隠るべきや」、ハーシー著「広島」、及び永井博士編「原子雲の下に生きて」等より引用させていただいたことを記し、終りに厚く感謝の意を表する」(291頁)→せっかくですから、ここに挙げられている本を確定しましょう。
H・W・ブレークスリー『原子力の将来』山屋三郎訳、朝日新聞社、昭和22年
ブラッドリー『隠るべき所なし―ビキニ環礁原爆実験記録』佐藤 亮一訳、大日本雄弁会講談社、1949
R.E.ラップ『我等は隠るべきか』奥田毅、南条書店、1950
ジョン・ハーシー『ヒロシマ』1946 (増補版は、法政大学出版会、2003)
永井隆編集『原子雲の下に生きて』1949
→.ラップ『我等は隠るべきか』の邦訳出版は、1950年です。『原子爆弾の話』出版の翌年です。タイトルも微妙に違います。嵯峨根は英語版を利用したのでしょうか? それても邦訳出版前のゲラをもらったのでしょうか?私の興味は、嵯峨根遼吉自身の思い出や関与が書かれている箇所です。たとえば、「長崎―原子爆弾調査団」という節には、次のように書かれています。
「終戦直後九月、まだ硝煙の匂いの消えていない頃である。世界に前にも後にも二度とないはずの原子爆弾の爆発現場の科学的調査はぜひやらなければならない、学術的研究会議で調査団をつくるべきだという声がにわかに起った。だがこれもどうやらアメリカ軍の上陸につづいて来着した米国科学調査団に刺激されてのことであった。
事実このような団体のまとまった背景なしに軍または軍部の半ば命令的な調査は統一なく、個々には行われていたのであった。広島では主として京都大学、大阪大学、理化学研究所が、長崎については九州大学が出かけたが、調査はほとんど原子核物理学者と医学者たちの分野だけであって、そのほかには軍部の上官に対する現地報告上の被害調査のみである。 」(35-36頁)
という書きだしで、自分が長崎の調査に行ったことが書かれています。(47頁まで)
「そこで解体しつつある陸海軍ながら、その援助を求めて、佐官級の技術出身者が連絡者として調査団に加わった。」
嵯峨根遼吉自身は、原子核関係の班長という資格です。
ひとりで5時10分。室温14度。ちいさいちび、おおきいちび、幼稚園児の順に下に降りてきました。いつも通りです。小学生二人は、今日から新学期。ちいさいちびは新しいクラスと担任の表だけもらってすぐに帰ってきました。おおきいちびは入学式の歓迎の式典に出るので、お昼前に帰宅します。
私は、日曜日の編集委員会で持ち帰った宿題をやっとこなしました。やっかいな作文があるとどうしても時間がかかります。
[日本の原子力のはじめ]
編集者の方から、平成17年11月7日に開催された第42回「原子力の日」記念シンポジウムにおける中曽根康弘氏の講演録を教えてもらいました。
政治家は他人の成果も自分の成果のように言いたがるので注意が必要ですが、交流関係や世話になった方の記憶にわざわざウソをつくことはないでしょう。
中曽根康弘氏は、原子力草創の指導者として3人の名前を挙げています。
1)理研の嵯峨根遼吉(さがね りょうきち)博士
2)正力松太郎
3)(書き方がはっきりしないが)インドのバーバー博士
前にも記した通り、政治的には、正力松太郎の力が大きい。科学者からは、嵯峨根遼吉の名前があがっています。嵯峨根遼吉の伝記をフォローする必要があります。こういうとき、ウィキは便利です。1905年11月27日 -1969年4月16日。長岡半太郎の五男とあります。1938年英国と米国の留学から帰ってから、理化学研究所研究員となり、仁科芳雄の下で原子核物理学の研究に従事したとあります。サイクロトロンをつくったとありますから、仁科研の原爆研究、二号研究に中心人物としてかかわったと言えるでしょう。
つまり、原爆研究の中心人物のひとりが原子力の父のひとりでもあった、この点はまず押さえておかなければなりません。
ということで、嵯峨根遼吉は、日本の戦後科学史で非常に重要な役目を果たします。
1)GHQが面接した第1号であった。
笹本氏の著作から引用しましょう。「マンハッタン管区調査団の調査目的の中に日本の原爆製造計画を含めた原子力研究状況、鉱物資源(朝鮮を含む)の調査があることは第1節で述べた。この第3班(東京グループ)は9月7日あたりから調査を開始した。東京グループは日本に上陸する前に日本の原子力研究の科学者に関する調査リストを作成していた。高い優先順位が付けられた科学者は、嵯峨根遼吉(東京帝国大学教授)、仁科芳雄(理化学研究所)、菊池正士(大阪帝国大学教授)、八木秀次(大阪帝国大学教授)、長岡半太郎(大阪帝国大学教授)、湯川秀樹(京都帝国大学教授)であった。」(75頁)日本学術会議(1949年)の発足にも、嵯峨根遼吉は大きくかかわっています。1948年有名なGHQ科学顧問ケリー博士が日本に赴任し、ケリー博士に対応する日本人グループとして、3人組(SL= Science Liason Group)がつくられます。田宮博、茅誠司、嵯峨根遼吉の3人です。
学術会議のもとに、朝永振一郎を委員長とする原子核特別委員会がつくられる。
1951年ローレンスが来日して、阪大と京大でサイクロトロンの再建がなった。東大の原子核研究所の設置(1955年に設立される)も、学術会議の勧告・要望・申し入れに基づく。東大核研の設立(1955年)の翌1956年に科技庁が発足している。そのもとで、日本原子力研究所が設置された。ここの研究と、基礎研究グループとの間に溝ができた。 原子力基本法に盛り込まれた「公開・民主・自主」の3原則は、学術会議の声明に基づく。
→ディーズ『科学技術基礎づくり』p.60 には、次の資料が引用されています。
「バークレーでの嵯峨根の同僚3人が、テニアン島で長崎原爆の準備に従事していた。ルイス・アルバレツ、フィリップ・モリソン、ロバート・サーバーの3人である。彼らは嵯峨根宛に署名なしの手書きの覚書を書き、長崎上空にパラシュートで落とされた機器にテープで張り付けた。覚書には次のように書かれていた。司令部原子爆弾指揮官
1945年8月9日
宛:嵯峨根遼吉博士
発信:博士がアメリカ合衆国滞在中科学研究の同僚であった3人の友
・・・・
この3週間の間に、アメリカの砂漠で1個の爆弾を試験的に爆発させ、1個(2個目)を広島で爆発させ、3個目を今朝爆発させた。
これらの事実を指導者に認めさせ、破壊と生命の浪費を止めさせるために貴方が最善を尽くすことを、私たちは懇願する。・・・・・」アメリカで核開発にかかわった科学者から見た場合、日本の核科学者で一番親しかったのが、嵯峨根遼吉だったと言えます。
ひとりで4時35分。室温12度。日中は暖かくなるようですが、朝方はまだまだ寒い。私にとっての新学期がいよいよ始まります。授業は来週からですが、怒濤のような会議の最初が今日あります。
昨日届いた『科学史研究』(2011年春号)ですが、タイムリーな記事が載っています。吉岡斉「原子力政策の事例分析」pp.47-49です。
シンポジウム「科学技術政策は変わるか―政権交代記の科学技術史―」のひとつとして掲載されているので、短いのですが、日本の原子力政策史の第一人者の手になるまとめです。非常に的確な指摘がなされていると思います。
「今までの日本の原子力政策は「国家安全保障のための原子力」の公理のもとで進められてきた。・・・日本は核武装を控えるが、核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持するために、あらゆる種類の機微核技術 SNT (Sensitive Nuclear Technology) ―核兵器開発への転用効果の高い一連の技術、ウラン濃縮、核燃料再処理、高速増殖炉などを代表格とする―を開発・保有し、それを日本の安全保障政策の不可欠の部分とすることである。」p.47
これが日本の原子力政策の根本的前提です。この前提のもと、「利権を有するステークホルダー―所轄省庁、電力業界、政治家、地方自治体有力者の四者を主な構成員とする。これにメーカー、原子力関係研究者を加えた六者としてもよい―の間でのインサイダー利害調整のもとづく合意にしたがって、原子力政策が決定されてきた。」p.47
「核の四面体構造」と呼ぶそうです。
ウェブに次の資料があります。
原子力安全基盤調査研究「日本人の安全観」(平成14年度〜16年度)報告書
Research Survey Report of Nuclear Energy Safety "Japanese Safety Views" (2001-2003), Funded by the Japan Nuclear Energy Safety Organization,
東洋大学、2005年3月
第3章が「「原子力の安全観」に関する社会心理学的分析―原子力安全神話の形成と崩壊―」です。科学技術史的には甘いところが散見されますが、それ自体非常に興味深い論点を提示してくれています。執筆者は、関谷直也氏(東京大学情報学環)です。
個人的には、「日本人の核アレルギー」というのは神話ではないかと思っていましたが、その点がほぼ裏付けられました。朝一番で次の本が届きました。
権香淑
『移動する朝鮮族─エスニック・マイノリティの自己統治』
彩流社、2011
ひとりで6時。室温12度。8時現在、まだ誰も下に降りてきません。
私とおおきいちびは明日から新学期が始まります。私の場合、いつもの年より1週間はやいはじまりとなります。
文房具等で必要なものがあります。ちびどもといっしょに買い出しに行くこととしました。ユザワヤの開店が10時かと思いでかけたら、10時半でした。15分はやくついてしまいました。待つしかありません。
子どもたちは、文具の他に、フェルトを買っていました。
その後は、ちびどもの希望で、コピスへ。キャラパークで、友達の誕生日プレゼントを買っていました。妻からはお昼を食べてくるように言われています。おおきいちびはおすしがよいといいますが、店を探すのが大変です。そのままコピスの地下の洋食屋さんに入りました。ちびどもは、例によって、オムライス。私は簡単さを考えて、ピラフ。
昼食後は、ちびどもがゲームセンターに行きたいと言います。隣の建物の地下へ。ちびどものねらいはプリクラでした。
プリクラが終わって帰途へ。西荻のガード下で、ちいさいちびのお絵かき用の割烹着を購入し、ついで本屋さんでチャオを買って帰りました。
疲れました。帰宅すると、幼稚園児を歯医者に連れていった妻も同様に疲れていました。家には、『科学史研究』2011年春号が届いていました。(第50巻 NO.257)。小特集「新しいベイコン像を求めて―神学、寓話解釈、物質理論―」が掲載されています。
下野葉月「フランシス・ベイコンにおける神学と哲学」
伊藤博明「フランシス・ベイコンと『古代人の智恵』」
柴田和宏「フランシス・ベイコンにおける濃と希―物質理論、精気、自然の支配―」
坂本邦暢「質料に宿る量と力―フランシス・ベイコンにおける諸学の統一性―」
吉本秀之「ロバート・ボイルにおけるベイコン主義」世話役は、坂本邦暢氏です。
ひとりで6時35分。室温14度。曇り。今日は寒さが戻って、最高気温が12度までしか上がらないという予報。私は午後化学史学会の編集委員会と理事会。子どもたちは、新しくオープンするはらっば公園の予定。ただし、冬が帰ってきたかのように寒いので、場合によっては今日は見合わせるかもしれません。
ちなみに、10時から開園式。その後、南相馬市支援のためのチャリティーバザー。→昼食後、幼稚園児とちいさいちびがはらっぱ公園にでかけました。私は1時前に家を出て、2時前に東工大に着きました。東工大の桜はもうかなり咲いていて、花見の人もけっこういました。
2時から3時は編集委員会。3時から理事会。いろいろあって、終了は6時半となりました。その後、原発問題の勉強会があったのですが、体調を考えて、勉強会はお暇しました。
昨日、「計画停電は必要ない」という見解がどのくらい出ているかと思い、検索をかけていると、「地震発生から1週間 福島原発事故の現状と今後」(大前研一ライブ579)が見つかりました。事故対応も含めて、ほぼ同様に考えています。暖かくなってしばらく東電の「計画停電」は実施されないようですが、夏場に向けて方針を練り直し、現状の「計画停電」は避けなければなりません。
ひとりで5時35分。室温13度。鼻が詰まって夜一度目が覚めました。疲れていたので、そのまま寝ましたが、朝も鼻が詰まって起きました。テレビでは花粉の残量が3割と言っていました。もうしばらく続きます。7時過ぎ、ちいさいちびが降りてきました。7時45分現在、残りはまだ静かです。
[2011年度授業]
授業は、4月11日(月曜日)から始まります。4月11日(月曜日)スタート:2限「科学技術と社会」;3限「院・ヨーロッパ歴史文化論」;4限「院・思想文化論」(学部「思想史特殊研究」と共通);5限「院・共通特殊研究」
4月12日(火曜日)スタート:1限「表象文化論」(226教室)
4月14日(木曜日)スタート:3限「科学思想史講義」;4限「科学思想史演習」;5限「科学思想史卒業論文演習」
外大吉本担当授業時間割
/ 月 木 1 2 総合科目III/107 3 院・ヨーロッパ歴史文化論 科学思想史講義/113 4 院・思想文化論 科学思想史演習/420 5 院・共通特殊研究 科学思想史卒演/529
ひとりで4時15分。室温13度。昨夜、たぶん歯痛で子どもたちよりもずっと早く寝込んだせいです。
何が痛いのか実はよくわかっていません。知覚過敏は知覚過敏になっています。しかし、痛みが虫歯なのか別の原因なのかは不明です。→7時45分現在まだだれも起きてきません。2日連続で動きまわって疲れたようです。
→8時にちいさいちびが起きてきました。おお、とうとう4月です。友人が辞任交付に出席します。
研究室の片づけのために、昼食後でかけることとしました。武蔵境1時6分の電車。お米のように重いシラバス等をもらってから研究室へ。
できたら本はもとあった場所に戻すのが便利です。しかし、それをしていたら、時間がかかる。非常におおざっぱにえいやともどすことにしました。
だいたい8割までは片づけができたでしょうか。まだ床に落ちたままの本がかなり残っていますが、またにします。午後4時に西荻の駅に着く電車で帰ってきました。歯痛なのか何の痛みなのかよくわからない痛みは、たぶん、ひどい肩凝りに連動しています。無理はしないようにしないと、あの痛みはごめんです。
[4月1日]
さすが4月1日です。重要なメールが数多く来ました。さらに、大学のサイトに外国語学部改編のお知らせが出ていました。公式にはこれが初めてだと思います。
来年の4月から新しい組織でスタートします。
1.学部を2学部とする。
2.1年半は、2学部共通の「世界教養プログラム」で言語教育と教養教育を受ける。
3.「言語文化学部」「国際社会学部」のそれぞれに3コースを設ける。
組織的には以上が骨子です。
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台北滞在記2007
(台北滞在記2004)
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