ひとりで4時30分。室温19度。梅雨入り5日目。
今日はちいさいちびのハイキングです。朝方は晴れているようです。梅雨入り後、待望の晴れ間です。
→ちいさいちびがでかけるまではどんよりとした雲がかかっていました。出かけてすぐに日射しが射し込んでくるようになりました。晴れるとやれやれです。明日大学の定期検診があります。たいしたことではないのですが、いつも少しずつ面倒です。とくに大腸癌の検査がやっかいです。1年に1度なので、覚えてもよいのでしょうが、毎年毎年戸惑っているような気がします。
今月は172枚。
ひとりで4時55分。室温20度。梅雨入り4日目。台風は温帯低気圧に変わりましたが、しばらく強い雨の降る時間帯があるようです。テレビによれば、渋谷の今の気温は16度ということでした。
テレビを見る限り、近所の生活圏では大きな影響はないようです。授業で感染症の話をしています。ネットですこし調べてみました。麻疹が流行気味の模様です。また、ドイツで病原性大腸菌による食中毒が流行っているようです。276人発症、10人死亡というニュースがありました。
月曜日は3限連続の授業。
いつもとおり、ちびどもがでかけたあと、幼稚園児がまだ準備をすませないうちに出かけました。大学には9時過ぎに着きます。木曜日5限の分を含めて、印刷室でコピーをとってから研究室へ。
一度始まってしまうと、ほんとうにあっというまに、4限終了の時刻となっています。大学で次の本を頂きました。
アントニオ・タブッキ
『他人まかせの自伝」あとづけの詩学』
和田忠彦・花本知子訳、岩波書店、2011
和田さん、いつもご高配いただき、ありがとうございます。帰宅すると次の本が届いていました。
Peter Galison and Bruce Hevly eds.,
Big Science: The Growth of Large-Scale Research
Stanford: Stanford University Press, 1992
ひとりで4時35分。室温21度。梅雨入り3日目。やはり雨。まだ疲れが残っています。
6時のニュースを見ました。台風2号も接近しているということです。月曜日には関東にも近づいているようです。(ネットで調べると、30日、関東地方の手前で温帯低気圧に変わるとありました。いずれにせよ今月いっぱいは影響を避けられません。)台風の影響なのかどうかわかりませんが、9時前になると雨足が強くなってきました。今日もハロー西荻というイベントがあります。小学生二人は、昨日に続きスタンプラリーに参加するつもりのようです。
→6年生は予定通り傘をさして出ていきました。4年生は昨日で疲れたようです。お友達に電話して今日は家でのんびりすることにしたようです。我が家の4年生もお友達もぴょんぴょんむすめです。昨日は二人で走ってスタンプラリーを完成させたようです。台風が接近していることもあり、今日は休みで正解でしょう。
ひとりで5時15分。室温21度。梅雨入り2日目。梅雨らしい雨が降っています。午前中になんとか今週木曜日5限の授業のスクリプトを完成しました。90分の授業で話せることには限界があります。テーマをしぼることにしました。日本の原子力体制については、別の機会を待たざるを得ません。
小学生二人は、ハロー西荻のスタンプラリーにそれぞれのお友達と参加するということで、昼食代をもって、10時前にでかけていきました。私は学会ですが、今年は休息に当てたいと思います。ともかく風邪をなおさないと先がつらい。
幼稚園児がひとり取り残されてうるさいので、行きたいという東急に連れていくことにしました。昼食後です。ポケモンのゲームを3回やるだけです。たぶん1年生のお兄さんが並んでいました。いっちょまえにいろいろコメントしています。子ども同士の会話には私は介入しません。3回終わって、アイスを食べてから帰途へ。
駅前のおかしのまちおかですこしおやつを仕入れてから帰宅しました。
帰ってから私は爆睡。
ひとりで5時。室温21度。午後に出張校正。朝の間に処理すべきことをできるだけ処理しておきたいと思います。
朝起きたときの感覚では、風邪はなおったのかという気がしましたが、昨日の興奮が残っていただけでした。すぐに風邪の症状が現われ、どうじに疲れもぐんと出てきました。やすみ、やすみ、ともかく今日必要なことをこなしました。
印刷所にもっていくものを準備しているうちに、見落としがあることに気づきました。30分遅れるという連絡をして、30分でなんとか片を付けました。ということで、12時半に家をでて、1時半前に印刷所に着きました。
校正作業そのものは予想とおり1時間。元気なときは要町から池袋まで歩いて帰るのですが、今日は蓄積疲労がはんぱじゃありません。行きも帰りも地下鉄を使いました。
帰宅すると妻が関東も梅雨入りだと話していました。5月中に梅雨入りですか。今年の雰囲気にはふさわしい。ニュースで検索をかけて、確認を取りました。
ひとりで5時40分。室温20度。いくらか気温は戻りました。この時期の平均的な気温でしょうか。
病身のとき、会議は非常に疲れることがよくわかりましあ。4つ続いた教授会ではただ黙って座っていただけですが、とても疲れました。午後3コマの授業。風邪が直っていないことを考えた授業にしなければなりません。
→ああ、疲れました。風邪はまだまだです。帰宅すると次の本が届いていました。
春名 幹男
『秘密のファイル CIAの対日工作』(上) (下)共同通信社、2000
昨日、大学のメールボックスで次の本を受け取りました。
カルヴィーノ
『アメリカ講義:新たな千年紀のための六つのメモ』
米川良夫・和田忠彦訳、岩波文庫、2011
和田さん、いつもご高配いただき、ありがとうございます。昨日から、『通史 日本の科学技術』に収録された笹本征男氏の文章を読み始めました。さすがだと思います。
第1巻68頁ff. 原子力委員会の公式の歴史に「通常の環境のもとでは、人間は放射能に関する実験室の実験対象ではありえなかった。しかし、1945年8月の広島、長崎の爆撃は、人間集団における放射能効果の測定のために、例外的な(特有の、見込みある)機会を提供した。」(Hewlett and Duncan, Atomic Shield, 1947-1952 (A History of the United States of Atomic Energy Commission, Vol. 2, University Park: Pennsylvania University Press, 1969, p.244.)
→この辺りがアメリカ人らしいストレートな(配慮のない)表現です。広島、長崎に対する原爆投下は、いわば放射能が人体に与える効果を知る実験室だったと言っているに等しい。アメリカが国内でガン患者に行った人体実験とは別種のものですが、「人体実験的まなざし」で被爆者を見ていることは間違いない。残酷な事実です。笹本征男「コンプトン調査」『通史 日本の科学技術』第1巻、1995, pp.46-58
笹本征男「原爆被害調査」『通史 日本の科学技術』第1巻, pp.59-76
笹本征男「軍の解体とマンパワーの平和転換」『通史 日本の科学技術』第1巻,pp. 85-93
笹本征男「原爆報道とプレスコード」『通史 日本の科学技術』第1巻, pp.286-307
笹本征男「ビキニ事件と放射能調査」『通史 日本の科学技術』第2巻, pp.94-107
笹本、p.304 現実に検閲によって削除された部分。都築正男「所謂原子爆弾症、特に医学の立場からの対策」『総合医学』2巻14号(45年10月) の校閲校正ゲラ。「幾多の点から考えてみて、爆発に伴う毒瓦斯様物の発生が認められることであり、これ等の毒物によって死亡された犠牲者のあったであろうことは想像に難くない。次にこの爆発が故意に毒瓦斯様物を発散する様作られて居たかどうかと云うことは目下のところ何等の手懸を得て居ない。適当な機会があればアメリカ側に聞いてみたいと思って居る。」笹本、p.297. 「原子爆弾 完成に9年 議会報告 従業員実に10万」(毎日新聞9月6日)「一方わが国ではこの研究に深い関心をもちながらもウラニウムの資源に乏しく科学者も当面的研究に動員されたため、この惨禍を防ぐ対策を得なかった」。
「荒野に忽然大工場 製作費用20億ドル 従業員12万 覆面のマンハッタン地区」(毎日新聞9月10日)。笹本、p.296. 9月13日重光葵外務大臣が在スイス、スウェーデン、ポルトガル日本公使館宛公電をアメリカが解読・分析した結果。日本が原爆を強調するのは、日本の降伏を日本国民に説明するため、「日本における連合国の捕虜の待遇にかんする評判を相殺すること」。
笹本、p.291. 「広島に投下された原子爆弾は大地に放射能すなわち残留紫外線を与え、被爆後2週間に3万人の犠牲者がこの死の光線により死亡したことを日本のラジオ東京は去る金曜日[1945.8.24]に伝えた。広島および同様に原爆をこうむった長崎に於ける死者数は今なお増大していると同放送は伝えている。・・・現在、広島に住む人々は“生きた幽霊”であり放射能の影響により死すべく運命づけられた人たちである。・・・同盟通信によれば、原爆のウラニウム核分裂により生じた放射能は死者数を増大しつつあり、復興作業に従事した人たちに様々な症状を惹起しつつある。」(ニューヨークタイムズ、1945.8.25)
→原爆が投下された8月の間は、アメリカ側の報道でも「現在、広島に住む人々は“生きた幽霊”であり放射能の影響により死すべく運命づけられた人たちである。」とするのものもあったということです。アメリカは直ちにこの種の報道を公式に否定し、押さえようとします。ただし、放射能の影響がどのようなものか正確に把握されていたわけではありません。もちろん、日本側の報道もそうです。日本における医学的影響研究の中心人物都築正男においてすら、上記の認識です。ある程度の認識があったのは、アメリカで核開発を行った一部の科学者だけと言えるでしょう。
ひとりで4時10分。室温18度。気温が下がったままです。元気がなかったので、ここに記述する余裕がありませんでしたが、昨日、 自由報道協会での吉井英勝議員の講演を通しで聞きました。既に知っている部分は、ただ音声だけを聞き流していました。吉井議員の主張は読んでいて知っています。しかし実際に聞いてみてはじめてわかることもあります。地震・津波直後の福島第1原発の全電源喪失の詳細です。最後の砦、外部電源の鉄塔が倒壊したことが全電源喪失に繋がりました。女川原発との比較では、女川原発ではそれがたったひとつだが生き残り、冷温停止できたということです。
まだ全部ではないのかもしれませんが、東電はやっと今になってデータを公開し、メルトダウン、メルトスルーを認め始めています。事故そのものに関する落ち着いた分析がやっと可能になりつつあります。
文章を読み返してみました。明らかに風邪はなおっていません。病気のときに特有の乱れがあります。まあ、ぼちぼちやっていくしかありません。
会議は疲れました。帰宅すると次の本が届いていました。アマゾンのマーケットプレイスからです。
読売新聞社編『昭和史の天皇 原爆投下』角川文庫、1988
しっかりとした取材に基づく、よいまとめだと思われます。
ひとりで5時45分。室温18度。気温が下がりました。[風邪 ii ]
1限の授業はだましだましでもなんとかこなしたいと思います。
(昨日の夜の状態では、声がうまくでない可能性もありました。そのときのためのDVDも用意しましたが、DVDは使わなくてすみそうです。)→1限の授業のときは、ちびよりもずっと先にでます。7時50分前に大学に着きました。いくらか作業をしてから、研究室へ。
教室には、2分前に入りました。機器の準備をして、配布文書を配布してからスタート。声の調子は、でたとこ勝負です。よい声とは行きませんでしたが、咳は昨日よりはずっとましでした。咳き込むことは1回か2回ですみました。
私の話は15分前で打ち切って、あとは学生たちがレスポンスシートを書く時間に当てました。すぐに提出する学生もいます。チャイムが鳴ってからやっと提出する学生もまいす。
本調子ではありませんが、これで週の後半も乗り切れそうです。[冷蔵庫]
我が家の冷蔵庫は、妹の旦那が仕事で南アフリカに行くことがきまったときに、妹夫妻からもらったものです。おそらく25年ぐらい前の製品になります。庫内容量が216Lの東芝製です。
この夏にむけ節電対応を行うことを妻と話していました。
たぶん冷蔵庫は大幅に耐用年数を過ぎている上に電力消費量も多い。しかも妻はもうすこし大きな冷蔵庫が欲しいと前から言っています。以上を考えあわせて、買い換えることとしていました。
授業終了後の体調ですが、元気なときのものではありませんが、それほど苦しいというわけでもありません。(月曜日は苦しかった。)(月曜日にヨドバシで簡単な調査をすませている)妻に電話して、ヨドバシで落ちあい、冷蔵庫を見てみることにしました。
11時の約束で、ちょうど11時に到着しました。冷蔵庫売場で実物を見ながら、相談。216Lから買い換えるので、300L以上という目安はあらかじめ決めていました。30分ほど見て回ってから、一呼吸入れることにしました。上の階の中華料理屋さんで昼食。私は焼きそば、妻は牛筋麺(?)。
その時点で候補は2〜3点に絞られていました。食後1階のキャッシングマシーンでお金を降ろしてから再び冷蔵庫の階に向かいました。今回は数分で決定しました。最後の候補には、シャープの両開きのものとサンヨウのものの2点が残りましたが、両開きは子どもたちのことを考えるとこわいということで、サンヨウのものにしました。SR-361U-S という機種です。古い冷蔵庫のリサイクル費用、送料あわせて9万6千円強となりました。
店員さんは、なんと今日でも配送できますと言ってくれています。私が確実に家に居るときが便利です。では、今日の夜でお願いしますということで6時から10時の間に来てくれることとなりました。
帰宅して、私は休憩。疲れが出ました。妻は、早速ふるい冷蔵庫の片づけに着手しています。それから幼稚園児がお友達のお家にお遊びに行くのに付き合いました。幼稚園児と帰ってきてから、お片づけの続行。幼稚園児は喜んでやっています。6時前後にお伺いしますという電話があって、実際に6時前に見えました。古い冷蔵庫は簡単に掃除して玄関のところに出しておきました。仕事のお兄さん達はまず設置場所を確認し、古い冷蔵庫を外に出してから、新しい冷蔵庫を台所に置いてくれました。ヨドバシの売場には、もっと大きな冷蔵庫がいっぱいおいてあります。しかも天上も高く、売場も広い。それほど大きく感じなかったのですが、我が家の台所に設置すると大きく感じます。設置はすぐにすみました。中のものを入れるのは、数時間待ってからの方がよいですというお兄さんの言葉により、子どもたちが就寝する前の8時半に入れることとしました。
8時半に妻が指揮をし、ちいさいちびと幼稚園児が係となって食品やその他のものを冷蔵庫に戻しました。
もっとも忙しい週が始まります。まずは風邪をおさめることです。(咳のせいで夜半に目覚めました。)ひとりで4時55分。室温22度。1時間もたつと、21度まで下がりました。今日は最高気温が21度ということです。
朝のうちは雨が上がっています。[風邪 ii ]
咳が止まらないまま授業を行うこととなりました。なかなか苦しい。明日1限があります。とっとと帰って休むことにしました。
ひとりで4時30分。室温24度。
昨日よりも蒸し暑い感じがします。ちびどもはチャリティバザーということで10時前から友達と待ち合わせして学校に行きました。お昼ご飯を食べてから2時までに帰ってくるということです。ちいさいちびはビデオ屋さんだけにでかけます。ポケモンとコナンのDVDを1枚ずつ借りて満足していました。
正午過ぎから空が曇り、雨模様になってきました。子どもたちが帰ってくる時刻にはすっかり雨です。雨と同時に気温が下がりました。室温よりざっとみて10度近く下がった感じです。部屋のなかは暑く、外は肌寒い。体調管理に注意が必要です。[風邪]
昨日、幼稚園児とちいさいちびを動物園に連れていったときからどうも調子がおかしいと思っていたら、やはり風邪でした。金曜日の幼稚園児とほぼ同じ症状です。もらったのかもしれません。
夕食後、葛根湯を飲んで、ダウンしていました。まだ回復した感じはありません。今日一日休んでなんとか明日仕事ができるまでにもっていきたいと思います。風邪ではありますが、休んでばかりもいられないので、昨日買ってきた雑誌を読んでいます。
『アエラ』2011.5.23, p.29 に次の文章があります。「現在、核兵器の保有国以外でプルトニウムを取り出せる再処理施設を持っているのは日本だけだ。」
そして次の段落におそらく吉岡氏の公理に関係する文書が挙げられています。「わが国の外交政策大綱」(1969年9月25日付)。極秘文書ですが、1994年8月に明らかになった、ということです。そこに「核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」とあります。→秘密解除されているのであれば、ネットでも見ることができるに違いないと考えて、検索をかけてみました。次のサイトに「わが国の外交政策大綱」(1969年9月25日付)そのものが上がっていました。
核情報ホーム > 核データ >日米安保関連略年表・リンク集
このpp.67-68 にアエラが引用した文があります。
「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器の製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘をうけないよう配慮する。又核兵器一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの趣旨を国民に啓発することとし、将来万一の場合における戦術核持ち込みに際し無用の国内的混乱を避けるように配慮する。」
琉球新聞が記事にしています。さすがです。
(→なお、吉岡斉氏の公理で言えば、核機微技術という用語は使われておらず、原子力との関連も明示されていませんが、内容的にはその先駆形態と言えるでしょう。外務省のお役人の一部、通産省のお役人の一部がそういうふうな思想をもっていた、もっている模様です。)春名幹男「原爆から原発へ:マンハッタン計画という淵源」『世界』 2011.6, pp.69-76.
春名幹男氏の論考は、きちんと世界の動き(とくにアメリカの核戦略史)に日本の原子力開発史を位置づけています。的確な整理だと思われます。
『核の男爵たち』によれば、日本の原子力開発の立て役者として、正力、中曽根、そして芦原義重氏(1901-2003 関西電力社長、関西経済連合会会長)、木川田一隆氏(1899-1977 東京電力社長、経済同友会代表幹事)の名前が挙げられているそうです。
(→もちろん、『核の男爵たち』はアマゾンに発注しました。日本語には訳されていない英語の本です。1ヶ月以内には届くでしょう。)
ひとりで5時5分。室温23度。ちいさいちびが前から動物園でモルモットに触りたいと言っています。行ける者、行きたい者で朝から動物園へ行くことになります。
ちいさいちびは動物系です。犬を飼っているお友達がうらやましくてならないようです。
→11時にちいさいちびと幼稚園児の二人を連れていくことになりました。モルモットに触りたいというのことで、急いで歩き、なんと11時半には動物園に着いていました。30分モルモットを触ったあと、動物園を一周して遊びました。2時半に動物園を出ました。
幼稚園児も全行程を問題なく歩きました。私はぐったり。私が日常的に見て回っているブログに面白い/重要な情報がありました。自分の目で確認してからコメントするならするでします。
そのひとつが、1週間ほどまえに放映されたETV特集「ネットワークで作る放射能汚染地図 福島原発事故から2か月」です。森岡正博氏のサイトで知りました。
ネットで検索してすぐに YouTube で見ることができました。放射性物質が風の流れでどのように飛散したかの映像がありました。一度東京方面にも来ています。最近は、スクリプト(文字起こし)も重要な番組に関しては誰かが作っていることが少なくありません。検索をかけると次のサイトにありました。 全文文字起こし。個人的には、文字起こしの方が便利です。
「ただちに健康被害がでる」レベルではないというのはウソではないでしょうが、東京に関してもメッシュ状の具体的な数値を知りたいと思います。ガイガーカウンターを購入しようかな。
→きっこさんのサイトに、5月20日(木)25時30分と5月28日(土)15時に再放送があるというという情報がありました。学生たちにはこちらを報せましょう。朝のうちに次の本が届きました。
Martin J. Medhurst, Robert L. Ivie, Philip Wander and Robert L. Scott,
Cold War Rhetoric
East Lansing: Michigan State University Press, 1990
ひとりで4時15分。室温22度。昨日は暑かった。もうしばらく暑いようです。まだ5月なのに、もう夏みたいな天気になってきました。正午前に室温が25度を超えています。外は、26度から27度まで上がっているようです。
来週が2011年夏学期では一番忙しい週となります。話す内容が決まっていたとしても、200人前後の学生を前に90分話すためには十分な準備が必要です。いつもはそういう授業は1週間に2コマですが、来週はリレー講義が2コマ入ってくるので全部で4コマとなります。今からきちんと準備しないと間に合いません。ともかく順番にやっています。
[核エネルギー開発 基本のみ]
核エネルギー開発に関して、ほんとうに基本のみの年表を作成してみます。1933年 ヒトラー政権奪取
1938年 ウランの核分裂の発見
1939年 イギリスで二人のドイツ生まれの科学者、フリッシュとパイエルスによりウラン爆弾が構想される。イギリス政府は原爆の基礎研究のためモード委員会を組織し、プルトリウム爆弾も構想される。
(科学者たちの間では原子爆弾の可能性が信じられるようになる。)
9月1日 ドイツ、ポーランド侵攻。第2次世界大戦の勃発。1941年 モード委員会の結論がアメリカに伝えられ、ルーズベルト大統領は10月原爆の本格的開発を決定。
1941年12月7日 日本が真珠湾を奇襲攻撃
1942年夏 アメリカ陸軍工兵司令部、マンハッタン工兵管区(MED)創設。
12月2日 シカゴ・パイル、歴史上はじめての臨界1943年 ルーズベルトとチャーチルがケベック協定に署名。イギリスの科学者チームがマンハッタン計画に合流。
1944年
1945年 5月7日 ナチスドイツ降伏
7月16日 トリニティ実験がアラモゴードで行われる。
8月6日 アメリカ、広島にリトルボーイ(ウラン型爆弾)投下
8月9日 アメリカ、長崎にファットマン(プルトニウム型爆弾)投下1946年 民生用・軍事用を問わず、原子力に関する情報の海外提供を禁じる原子力法成立。(この時点では、同盟国イギリス・カナダを除いて、軍事用・民生用核エネルギー利用法の独占ができると考えていた。)
→とりあえず、以上までで確認できること。核兵器の可能性は第2次世界大戦勃発前後に科学者たちの確信になっていたこと。日本の真珠湾攻撃は、アメリカで核兵器開発が動き始めたあとのこと。日米戦争はあしかけ4年(実質3年半)で終結している。占領はあしかけ7年(実質6年半)続くから、占領期の方が日米戦争の期間よりずっと長い。
(高校レベルの)世界史の教科書や参考書にも明確に書かれているように、アメリカは日本に原爆を投下したのは、反ソ戦略であった。共産主義国家ソ連に対して、アメリカの圧倒的軍事的優位を保持(誇示)するためであった。トリニティ実験、リトルボーイ、ファットマンでアメリカは手持ちの原爆を使い果たしていた。
マスメディアが陥りがちなドラマ仕立ての理解によれば、第2次世界大戦終結からただちに冷戦構造に移ったと描かれがちだが、戦後はしばらく混乱のなかにあった。
アジアに限定して確認しておこう。日本が占領を脱し独立するのは1952年。中国が共産主義国家となるのは、1949年10月1日。すなわち、国民党と共産党の内戦を経て、正式に毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立するのは、第2次世界大戦終結の4年後。朝鮮半島では、アメリカ軍政(南)を経て、1948年夏大韓民国と朝鮮人民民主主義共和国が成立。ソ連軍撤退がその冬、アメリカ軍撤退が翌年(1949年)。ただし安定は束の間。1950年6月25日朝鮮戦争勃発。ほぼ3年後(1953年)7月27日休戦協定が成立。今ではよく知られているように、アメリカは朝鮮戦争のときに核兵器を実践使用する計画をもっていた。(実際は使用せず。)
アジアの冷戦構造を決定的なものにしたのは、この朝鮮戦争であった。アメリカにとって日本は反共産主義の砦として極めて重要な位置を占めることになる。→(年表に戻る)
1949年 アメリカ(イギリス、カナダ)の核技術の独占が崩壊する、すなわち、ソ連が8月29日セミパラチンスク核実験場で初めての原爆実験に成功する。1952年 11月1日、アメリカ、エニウェトク環礁で水爆(熱核爆弾)実験を行う。水爆の設置されたエルゲラブ島は消滅。
1953年 8月12日 ソ連も水爆(熱核爆弾)実験に成功。
1954年 3月1日 アメリカ、ビキニ環礁で航空機に搭載可能な小型の熱核兵器の実験に成功。広範囲に死の灰が降る。マグロ漁船第五福竜丸の乗員が死の灰によって被爆。(もちろん、マーシャル諸島の住人も被爆。)
1957年10月4日 スプートニックショック。アメリカははじめて巨大科学・巨大技術・先端軍事技術においてソ連に先を越される。ミサイルによって核兵器がアメリカに投下されるかもしれないというビジョン。アメリカの原罪を思い起こさせる。(アメリカが日本に行ったことが、ソ連によってアメリカに起こるかもしれない。)
1960年 フランス核兵器開発
ひとりで5時。室温21度。曇り。今日から来週まで、もっとも忙しい週が始まります。今日は5限にリレー講義があります。3週間続きます。来週は火曜日1限にリレー講義があります。
3限に通常通りの講義、4限にゼミ、5限にリレー講義でした。
始まるとあっというまです。[顕微鏡]
3限の講義で、顕微鏡をポケットから見せました。5月17日にアマゾンに注文し、その日のうちに届いた、Kenko ドゥネイチャー携帯型顕微鏡 STV-40M コンパクトというものです。消費税込みで\1,386。20倍から40倍。重さ約75グラム。アマゾンのレビューにまったく問題なく使えるとありました。LED がついているのが大きいのでしょう、たしかにまったく問題なく使えます。ちいさくて軽いので、子どもだけではなく大人にも重宝だと思われます。
帰宅して、妻が指先に何かが刺さったというので早速使ってみました。ちいさいちびは昔チェレンジ3年生のおまけについていた顕微鏡をもっていました。ほぼ同様なつくりです。今は行方不明です。
用がすんだあとは、ちいさいちびと幼稚園児で交互に使っていました。私は紙の表面の印刷の品位(色のドットがどのくらいか)を見ていました。そういう用途にちょうどよい。[吉岡斉氏のブックレット]
しばらく版元品切れだった吉岡斉『原発と日本の未来』(岩波ブックレット、2011)が再刷されたという告知がすこしまえにありました。アマゾンではまだ品切れですが、他のネットショップでは在庫が確認できます。原発問題に関心がある方で、未読の方は是非購入して自分で読んでみて下さい。メディア関係者は必読だと思います。[現代化学6月号]
『現代化学』2011年6月号が届きました。西村肇・神足史人「[続報]理論物理計算が示す原発事故の真相―地震直後にどうすべきであったか―」『現代化学』2011年6月号: 16-19 をまず読みました。5月16日に公表されたデータは(もちろん間に合わず)使っていません。[続報]は[続報]です。最初の論文のインパクトはありませんが、これは致し方ないのでしょう。「地震直後にどうすべきであったか」については多くの人が思っていることを書かれています。私も会って話すことが出きる人には、ノーハウもあり、経験もあるアメリカの助けを借りよ、東電にほんとうに危機対応できる力はないと言っていました。平穏無事なときはよいのですが、危機のときのためにやはりトップはしっかりとした人でなければなりません。自分の組織のトップを見て、ああ、このひとは、東電の社長と同じだ、あるいはかんさんと同じだと感じた人は多いのではないでしょうか。無能で何もしないのであればまだしも、現場の足を引っ張る。次に、林幸秀「論文数と特許数からみえてくる姿 今の日本の科学技術力は?」『現代化学』2011年6月号: 52-54 と読みました。日本の科学力は論文数からすると落ち目です。技術力は特許数からするとまだ頑張っています。そういう数字が紹介されています。
ひとりで5時45分。室温20度。朝の仕事(公的なメールを5通だしました)が一息ついてから、16日発表のデータを自分の目で確かめることとしました。場所は次です。
原子炉等規制法に基づく東京電力株式会社からの報告内容(5月16日に報告のあった福島第一原子力発電所の事故に係る事故記録等)
プラントの詳細がわかっていないと直ちにイメージできるというものではありませんが、これが今回の事故のオリジナルデータです。関心がある方はやはり自分の目で確認した方がよいでしょう。
すぐに読み通すことはできませんが、少しずつ目を通していきたいと思います。→すべてのデータをダウンロードしました。もちろん環境にもよりますが、30分はかからないと思います。
[『放射線被曝の歴史』]
時間がかかりましたが、図書館から次の本が届いたという報せがありました。ILL です。
中川保雄『放射線被曝の歴史』技術と人間、1991
古書に入手しようと思ったのですが、ばかだかい。ILL で借りることにしたものです。科学史としてはこれが放射線被曝に関する基本書だと思われます。
表紙に次のようにあります。
「今日の放射線被曝防護の基準とは、核・原子力開発のためにヒバクを強制する側が、それを強制される側に、ヒバクはやむをえないもので、我慢して受忍すべきものと思わせるために、科学的装いを凝らして作った社会的基準であり、原子力開発の推進策を政治的・経済的に支える行政的手段なのである。」中川保雄さんは科学史家です。残念ながら生前に面識はありません。大阪大学で工学博士号を取得したあと、大阪府科学教育センターに勤務し、ついで神戸大学の教養部自然科学教室に着任されています。この著をほぼ仕上げられたから1991年に病没されています。低線量被爆研究会は中川氏の遺志を引き継がれたのでしょうか。
ひとりで5時45分。室温21度。[ゼミ登録学生数]
他の授業科目の登録者数も記録しておきます。
月曜日4限「思想史」1名
木曜日4限「科学思想史演習」14名
「卒論演習」12名
大学院の方は延べ8名です。[1号機、2号機、3号機]
やっと昨日、今日の新聞報道で、1号機、2号機、3号機がメルトダウンしていることを東電が認めました。
重要なのは、データの公開です。事故直後の東電の持つ情報のうち「公表されたのは、記録紙に打ち出されたグラフや、当直長がつける運転日誌、原子炉を冷やす装置の操作記録などで、全部で大型ファイル4冊分にあたる」とあります。
経済産業省原子力安全・保安院や原子力安全委員会、そして原子力に関する専門的知識を有する組織の仕事は、「大型ファイル4冊分」の分析です。チームを作って大至急行うべきでしょう。同時に、重要な部分は英訳して世界に報せる必要もあると言えます。
新聞報道では4号機のことは触れられていません。炉のなかに燃料がなかったので、同列にはいきませんが、もうすこし何かないものかと思います。私が見た範囲では、毎日の記事が12日午後までですが、起きたことを時系列にまとめています。しかし、せめて1週間を載せて欲しい。
[Apple Shop in Shibuya]
午後3時、渋谷のアップルショップ Genius Bar から MacBook の修理が終わったという電話がありました。先週1週間という話だったので、まさにいわれたとおりです。
家庭の平和のためには、妻の MacBook ははやく帰ってきた方がよい。2時間で帰ってこれると見込んで、3時10分で家を飛び出しました。西荻発3時22分に電車に乗ることができました。井の頭線急行で渋谷に着くと雨。傘をさしていない人も目立ちました。場所を覚えているとすぐです。
Genius Bar は今日は大人気です。ほぼいっぱいでした。2階に上がり用件を伝えるとしばらくお待ち下さい、ということです。両サイドの棚にある商品を見ていました。イヤフォンを見ると、おお、いい値段。ちょっとしたスピーカー並みです。
20分で名前を呼ばれました。その後はすぐです。一度修理品を起動してみましたが、私がその場で試してみてもたいしたことができるわけではありません。作業を信じることにして Top Case with Keboard の交換代金1万5千円強を支払って帰途に着きました。ありがたいことに雨は上がっていました。
帰宅して5時10分。ちょうど2時間でした。
ひとりで4時25分。室温21度。小鳥たちがにぎやかに鳴いています。小鳥の鳴き声とともに目覚めました。今日はなかなか忙しい。子どもたちよりも30分早く、7時半過ぎに出ました。8時6分武蔵境発の電車に間に合いました。まじめな学生が8時30分スタートの1限のために大勢乗り込んできました。普段はお目にかかることのない学生たちです。
印刷センターで250枚を印刷してから研究室へ。事務の方にすぐに連絡して、打ち合わせ会議に向かいました。諸所に生じているメルトダウンの状況を伺いました。できるところからたてていくしかありません。
9時半に研究室に戻り、2限の授業の準備。
授業の前に人と話しておくとしたの回転がよくなります。用意していた内容はちょうど1時間で終わりました。15分は、配付資料でつないで、残り15分をレスポンスシート執筆に当てました。
こういう場合学生の反応は2とおりです。さっさとレスポンスシートを出して出ていく学生。最後まで粘って書いている学生に分かれます。
全部を受け取ってから、研究室に戻りました。今日3限4限は学生の都合でありません。ちょうどよいので一度プロペラカフェに行ってみようと思い立ち、地図を印刷してポケットに入れて歩き始めました。外語から味の素スタジアムの方に向かい、養護学校のあたりで左折して、グラウンドの方に向かいます。グラウンドのなかに入ると、管理室があります。お弁当を食べていた方をつかまえて話を聞くと、こっちからは行けない、ずっとまわるしかないということです。ざっと見積もって1時間でしょうか。
今日は諦めて、飛行場に接している道をたどり、武蔵野の森公園の方にもどっていきました。途中、セスナが一機飛び立ちました。ジャンボを見慣れているとほんとうに小さい。ヘリコプータが一機着陸してきました。地上の誘導の仕方がわかりました。
武蔵野の森公園には幼稚園児の集団が来ていました。なかなかきれいな芝生になっていて、子どもが遊ぶにはよい場所です。散歩したり運動したりするには外語はめぐまれていることがよくわかりました。公園を通り抜けて、大学に戻り、特別食堂で昼食。およど50分歩いたことになります。ちょうどお昼休みが終わる時間帯でした。
ゆっくりと昼食をとったあと、生協でノート1冊とボールペン1本を買ってから再度事務へ。今度は分厚い資料をみせてもらいました。ノートをすこし取りました。もっとも重要だと思われる書類はプリントアウトをもらいました。つぎに学部長室に顔を出して、数分の雑談。ほんとうにお疲れの模様でした。
部屋に帰るとメールで連絡が来ていました。今学期の授業の受講者がわかるようになったということです。早速指定されたアドレスにアクセスし、私の授業の受講者数を確認しました。
月曜日2限「科学技術と社会」290名
火曜日1限「表象文化論」226名
木曜日3限「科学思想史」136名
木曜日5限「表象文化とグローバリゼーション」268名
(学部の授業を全部足しあわせると951名になります。)
一番意外だったのが、2限に終わった授業の受講者数が290名にも達していることです。え、なんで? 同じ時間帯にあった授業がなくなったと解釈すべきだと思います。しばらく休んでから、5限の時間帯に開かれる会議へ。
時間前に終わりました。5限を終えて帰る学生たちといっしょに帰ってきました。なんかよく働いた気がします。
ひとりで4時15分。室温20度。よい天気です。7時現在、下に降りてきているのは、幼稚園児だけです。上でおそらくちいさいちびが起きたであろう音は聞こえました。
[しまむら]
おおきいちびが誰かから聞きつけて、しまむらに行きたいと言います。最寄りでは井荻駅の近くにあります。大人であれば自転車で行ってとくに問題になる距離ではありません。私であればおそらく20分、ゆっくり行っても30分で着くと思います。
もうすこし調べてみると、高田馬場駅の近くにもあります。いずれにせよピーコックの2階です。ドンキホーテの話をすると、そこにも行ってみたいと言います。これもネットで調べて西早稲田にもあることがわかりました。
ということで、結局、高田馬場におおきいちびといっしょに行くことになりました。ちいさいちびと幼稚園児はママに原っぱ公園に連れていってもらいます。分かれました。エスカレーターに乗っているときに東西線が来ました。ラッキーです。そのまま飛び乗りました。高田馬場は中野から2駅目。近い。出口の方向はさすがにわかりません。
外にでると早稲田通りの途中でした。ちょうどよいので、先に西早稲田のドンキホーテに行くことにしました。駅から徒歩10分とありましたが、もうすこし遠い気がします。明治通と交差してからはすぐ先でした。
私が昔住んでいた場所の近くにあったドンキホーテとはいくらか違っていました。もちろんかれこれもう十数年まえのことですから違って当たり前です。違いの理由は場所の問題かもしれません。
地階、2階、1階と見て回って、おおきいちびが必要だと行った日用雑貨とお菓子をすこし買いました。おおきいちびがティッシューが安い、私がもつというのでティッシューも一袋買いました。けっこうお腹が空いています。冷たい麺がよいというので蕎麦屋に入りました。私はざるそば、おおきいちびはひやしきつねそば。高田馬場駅前のピーコック2階にあるしまむらは、田舎のしまむらとはちょっと違った雰囲気でした。途中から私は店のすぐ外に設置されているソファーで休んでいました。おおきいちびはひとりで見て回っています。あまり気に入ったものはなかったようです。
駅前の「おかしのまちおか」でおやつのためのお菓子を買入れ、近くの本屋さんで本を見て回ってから帰宅。おおきいちびはまだ体力が回復していません。かなり疲れていました。帰りも電車は比較的すぐに来ました。帰宅すると、小さい組もちょうど帰ってきたばかりでした。
[欧州放射線リスク委員会2010年報告(ECRR2010)邦訳]
科学史ML[kagakusi:1466] で、次の報告書が公開されていることが流れました。
ECRR2010
ECRR2010の日本語訳(有志による試訳)
邦訳に参加された藤岡毅氏ほかの方々に感謝します。ともあれ、私はまず最後のサマリー(「ECRR 欧州放射線リスク委員会2010年勧告 放射線防護のための低線量における電離放射線被ばくの健康影響 規制当局社のための版」)を読み通しました。まだこなれた訳にはなっていませんが、趣旨は通じます。
結論のごく一部を紹介します。
国際放射線防護委員会 (ICRP)のリスクモデルは、体内被曝に関しては根本的欠陥を有する。「最低でも10倍の間違いが導かれる。」
セラフィールドの小児白血病の場合、ICRPモデルによる予測値と観察結果の間には300倍もの開きがあった。
チェルノブイリ後の小児白血病と、チェルノブイリ後のミニサテライト DNA 突然変異の場合、ICRPのリスク評価モデルは「100倍から1000倍の規模で誤っている」。
「国連が発表した1989年までの人口に対する被爆線量を元にICRPモデルで計算すると、原子力のためにガンで死亡した人間は117万6300人となる。」一方、本委員会 ECRR の「モデルで計算すると、6160万人の人々がガンで死亡しており、また子ども160万人、胎児190万人が死亡していると予測される。」
私はもちろんこの分野の専門家ではありませんが、ECRRの説明に納得しました。日本人の方もひとりこのリスク委員会に参加されています。Prof. Shoji Sawada です。メディアはこの方に話を聞くべきではないでしょうか?→ともあれ、まず私自身がProf. Shoji Sawada の日本語表記をつきとめたいと思いました。今は検索をうまく使えば、100%とは言えないまでもほぼ突き止めることができます。
1931年広島市に生まれ、1945年爆心地から1400mの自宅で被爆した元名古屋大学素粒子物理学教授の沢田昭二さんに間違いないと思われます。
前にも紹介した平和哲学センターのサイトに沢田昭二「放射線による内部被曝――福島原発事故に関連して――」がアップされています。日本の科学者』2011年6月号緊急特集に掲載予定の論文ということです。
ひとりで5時55分。室温20度。
おおきいちびは、移動教室で疲れたようです。昨日の夜は頭が痛いと言って8時過ぎに布団にもぐりました。8時現在、まだ階下に降りてきません。朝の間に次の本が届きました。アマゾンのマーケットプレイスですが、なんと沖縄の本屋さんでした。
西村肇・岡本達明『水俣病の科学』日本評論社、2001
今は第2版が出ています。私は初版の第5刷を入手しました。
西村さんの出身は東大の化学工学科です。奥付には、『冒険する頭』(筑摩書房、1983)と『古い日本人よさようなら―個人として生きるには』(本の森、1999)の2冊を挙げています。
岡本達明氏は、東大法学部卒、チッソ入社、チッソ水俣工場第一組合委員長を8年間つとめています。『近代民衆の記録7 漁民』(新人物往来社、1978)『聞書 水俣民衆史』全5巻(草風館、1989-90)。→序章「解かれなかった謎」と結語、あとがき、「補論」だけまず読みました。やはり今回も同じことが起きているという感を強くしました。
[原発事故、わかっていることとわかっていないこと]
今回の福島第一原発の事故では、1号機、2号機、3号機ともに水素爆発を起こしています。水素爆発の時刻は、1号機が3月12日15時36分、3号機が14日11時01分、2号機が15日6時14分です。
西村さんは「爆発の約8時間後には、放射線量の顕著な増加がみられる」(25頁。図4。東電プレスリリース、ISEP資料を参考に作成)と記述されています。図4をよく見てみると、約8時間後というのはどうも3つの爆発の平均値をとっているように思われます。正確な計測ではありませんが、図4をもとに、爆発から顕著な増加までの時間を計算してみました。
1号機では16時間後、3号機では10時間後、2号機では5.8時間後です。
私には、爆発から顕著な増加までどうして16時間もかかるのかわかりませんが、吹き上げられたものが舞い降りてくるまでの時間と理解すればよいのでしょうか?それとももっと別の経路があったのでしょうか?
ともあれ、これは平均を取らない方がよいのではと思うようになりました。爆発の推移の種類が異なる可能性を考えた方がよいと思うからです。
さて、JMM No.633 (2011.4.30) でアメリカ在住の冷泉彰彦氏は、「1号機と3号機の水素爆発の原因の謎」について考察されています。ポイントは、燃料被覆管のジルコニウムが高温で水(水蒸気)と反応して生成した水素がどうして原子炉建家の内部(上部)に充満したのか、ということです。
アメリカ側は、GEマーク I 型炉は仕様として建物上部内にベントするようになっている、ベントといっしょに水素が建物上部内にたまって水素爆発したと見ています。
問題は、日本側がベントを排気筒を使って建物外に、即ち外気に直接行ったと説明していることです。
もしそうだとすれば、格納容器の上部が一部破損し、そこから水素が建物内に漏れたということになります。え、ほんとうに?ともあれ、冷泉彰彦氏の指摘通り、責任ある方々からまだ納得できる説明はないことは確認できます。
ちなみに、2号機の爆発では「格納容器につながる圧力抑制室が損傷した」ということです。これは1号機3号機とは別種です。約6時間後に放射線量の最大のピークが観測されています。
(もし平均を取るのであれば、1号機と3号機のみでとるのがよいでしょう。そうすると、13時間となりますが、大きな意味のある数字であるかどうかは不明です。)さて、炉心のデータですが、西村さんは次のようにまとめています。「地震直後の炉心での温度、圧力のデータが欲しいが、地震当日の11日のデータはまったくなく、爆発当日の12日についても使えるのは水位データだけである。炉圧データはあるが、・・・計器不良と思われる。」
毎日新聞がはっきりと指摘した通り、その水位データでさえも信頼できないのであれば、使えるデータはまったくないことになります。嗚呼!やはり冷泉氏が本日の JMM (No.635)で福島原発の現状について書かれています。
ウェブで、原産協会が公開情報を元にまとめたものがあります。「福島第一原子力発電所の状況/5月5日 12:00現在」です。
情報源は3つです。
政府緊急対策本部発表
原子力安全・保安院発表
東京電力発表
これによれば、定期点検中で炉のなかには燃料のなかった4号機も水素爆発によって大きく損傷とあります。え? と思って、調べてみました。3月16日撮影の衛星写真で大破していることが判明したとあります。東京電力では、「柱を残しほとんど壁が吹き飛んでいることから」水素爆発だと判断したとあります。ただし、テレビカメラでは撮影されておらず、いわば知らない間に爆発していたということです。しかし、水素の由来が不明です。原子力安全委員会の一人はこれまで提示された「どの仮説も検討するとあり得ないという結論になる。いつ壊れたかすら特定できていない」と言っているそうです。(東京新聞5月10日夕刊)
いったいどうなっているのでしょうか? 謎は深まるばかりです。
ひとりで6時。遅くなったのは昨夜いつもよりずっと遅く寝たせいです。室温19度。雨は夜の間に上がっています。『現代化学』のサイトに次の論文があります。pdf でゲットできます。
杉浦紳之「放射能の人体に対する影響」『現代化学』2011年4月号特別付録。
(『現代化学』1999年12月号に掲載の記事の再掲です。)
私には文字が小さい。しかし、基本がしっかりとまとめられています。4時前にアマゾンのマーケットプレイスから次の本が届きました。
原子力ジャーナリストの会著『ジャーナリストの証言:原子力25年の軌跡』電力新報社、1981
編者の方に教えてもらったものです。実際に執筆したのは、佐々木孝二日本経済新聞社編集委員、中村政雄読売新聞社解説委員、石川欽也毎日新聞社編集委員の三名です。
→途中までざっと読みました。歴史として読むとあらっぽいというのが正直な感想です。新聞記者としての直接証言に近い部分だけ価値のある種類の読み物です。[ニュースサイト続報]
自分の書いたことに疑問が生じたので、もう一度よく考え直してみました。飯舘村に関してはかなり早い時期からホットスポットであるという趣旨の報道はありました。3月28日の時点のニュースでチェルノブイリの場合の移住対象レベルを超えたという分析がありました。そして、下にも追加記述したように、政府は4月22日に「計画的避難区域」に指定しています。
(「計画停電」もそうですが、「計画的避難区域」のようなわかりづらいお役所用語は止めてもらいたいと思います。報道機関としては政府が使っている以上、使わざるを得ないのでしょう。)もう一つの疑問は、西村さんの結論の2)「仮に3月22日の状態で大気への放出が100日続いたとすると、総放出量はチェルノブイリ事故の千分の1を超えない程度である」と、政府の発表(約10分の1)との落差です。
「仮に3月22日の状態で大気への放出が100日続いたとすると」の部分が問題なのではないかと思われます。西村さんの使った数字は、3月24日〜25日の40キロあたりの数字です。一番大きいのは飯舘村役場で約10μSv/h です(図1)。図4には、福島第一原発周辺の3月12日から3月18日までの放射線強度変化があります。5μSv/h 程度のときもありますが、水素爆発(1号機が3月12日15時36分;3号機が14日11時01分;2号機が15日6時14分)のあとでは10000μSv/h に達している瞬間があります。水素爆発のときの放出量が計算に入っていないと思われます。一番大きいのはこの差なのではないかと思われます。もう1点、3月12日夜から3月13日の朝の報道で、1号機に関しては「水位の把握すらできていなかった」(毎日)ことが指摘されています。(東電自身の発表。)西村さんの理論計算は、1号機に関して水位データは正しかったとして何が起きたのかを推測したものです。1号機に関しては、水素爆発までは正しい水位を示していたと仮定することもできるでしょう。しかし、地震の影響によって水位計が正しく動かなくなったと見ることもできます。(新聞報道ではそのどちらが正しいかを判断する材料は提供されていない。東電もそもそもいつから水位計が正しく働いていなかったのか把握していない可能性が高い。)そうであるとすれば、推論の前提が崩れることになります。
西村さんの提示した理論計算のモデルそのものは貴重です。そして解明に向けての重要な貢献です。
ただし、福島原発の事故のときに実際に何が起きたかまだ解明されていないと見ておくべきだと考えます。
ひとりで3時35分。室温19度。昨日の室温は21度〜20度の範囲で推移しました。気温が前日よりぐんと下がるので寒くなるかと思ったのですが、室温はほぼ一定を保っていました。夜は吉祥寺で3回ありがとうございましたの食事会。4名。都甲さん、いつもありがとうございます。教室でパワーパフガールズを見ることになるとは思っていませんでした。
帰宅すると次の本が届いていました。
Richard S. Hewlett and Jack H. Holl,
Atoms for Peace and War, 1953-1961: Eisenhower and the Atomic Energy Commission
Berkeley, Los Angeles and London: Univsersity of California Press, 1989
すこし古くなっていますが、これが基本書のようです。なお、本の上部にACLS HUMANITIES E-BOOK とあります。ACLS というのは、American Council of Learned Societies の略です。裏表紙には、“ACLS HUMANITIES E-BOOK presents this volume as part of its Print-on-Demand (POD) program. This program offers a wide range of titles, across the humanities, that remain essential to research, writing and teaching.”とあります。POD だからこうなるというわけではないでしょうが、本の作り方は明らかにへたくそです。本を開いたとき、真ん中の部分のマージンが狭すぎます。実際に読むときにはかなり読みづらくなります。むしろいきなり自炊してしまった方が読みやすいかもしれません。これは、PODそのものの欠点ではなく、そもそも紙をバインドした本として出版する以上、出版業で蓄積されたノーハウにきちんと従っていないせいです。[ニュースサイト]
駒場のS氏が次のサイトにニュースがあることを教えてくれました。アカハタはこの分野の専門家野口邦和・日本大学専任講師(放射線防護学)のコメントを取っており、しっかりとした紹介になっています。
アサヒは、佐藤久恵記者が京都大原子炉実験所の今中哲二氏(グーグルスカラーで検索してみて下さい。今中哲二氏の論考をゲットすることができます。チェルノブイリの事故の影響の概要(研究の現時点での概要)をつかむことができます)にコメントを取っています。記者のまとめは「汚染地域が広域で驚く。避難計画や、道路や公共施設などの除染対策の参考になる」ですが、今中さんが「避難計画や、道路や公共施設などの除染対策」の担当者というわけではありません。政府はこの地図に基づいて「避難計画や、道路や公共施設などの除染対策」を立てなければならない、立て直さなければならない、私は発言の趣旨はこうであったと推測します。前日の最後にも書きましたが、ポイントをまとめておきましょう。
1)グーグルニュースで「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」で検索しても〇ヒットの理由は、日本のマスメディアには出典を正確に表記する習慣がないことです。
読者が自分の目で直接確認できるようにする、そういう配慮は不要であると考えています。いつの時代のどの国の話なのでしょうか? 疑問です。
学生たちにレポートの基本は、典拠を正確に記載することであると口をすっぱくして言っています。何度言ってもわからない学生はわかってくれません。その大きな原因はマスメディアにあると思います。
今からでも遅くない、読者が自分の目で直接確認できるよう、典拠を正確に記載してほしいと思います。
(→ウィキペディアでは、典拠をきちんと示すようにというコメントが最初についていることがあります。)2)「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」によれば、明らかに30キロ圏の外にもホットスポットが存在します。地図上で赤い場所は、原発からの距離に関係なく避難指定をしなければなりません。チェルノブイリの場合、子どもの甲状腺ガンが事故の5年後から急増しています。政府も東電も記事を書いている記者の一部もそのことを知っているはずです。私の一番の疑問はここにあります。
→今中哲二、小出裕章、小林圭二、川野眞治、海老澤徹、渡辺美紀子、平野進一郎「ベラルーシ、ウクライナ、ロシアにおけるチェルノブイリ原発事故研究の現状調査報告」(2002) にチェルノブイリ事故の場合どの範囲が移住の対象となったかの記載があります。それによれば、セシウム137の土壌汚染密度平米当たり555キロベクレルが移住対象となり、被災3国あわせて1万キロ平米あまりに達している。チェルノブイリの周辺無人ゾーンは3700キロ平米で、大阪府の約2倍の面積である、とあります。
「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」では別紙4の表がセシウム137の地表面への蓄積量です。黄色の外、緑のゾーンで、平米当たり600キロベクレルから1000キロベクレルです。すなわち、緑のゾーンはチェルノブイリの場合移住対象地域となっています。地図をよく見ると、30キロ圏に接してちょうど外の飯舘村のほぼ全域をカバーしています。この状況を放置してよいのでしょうか?→ 11.5.13 もう一度ニュース情報を見直しました。4月22日、政府は「福島県飯館村の全域、葛尾村のほぼ全域、浪江町の20キロ圏外の全域、川俣町の一部、南相馬市の一部」を「計画的避難区域」に指定しています。5月下旬を目処に避難を完了させるとあります。「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」の地図(またはそれと同等の地図に基づいて区域が指定されたことがわかります。黄色の部分を指定したということのようです。地図をよく見ると、田村市や川内村の一部も黄色い。方針を一貫させて、そこも避難指定をすべきだと思います。
チェルノブイリのときよりも甘い基準を日本政府と日本国民は許すべきでしょうか? 地元の人の苦痛はよくわかりますが、方針を一貫させるべきだと思います。
ひとりで4時15分。室温22度。雨。比較的強く降っています。おおきいちびの移動教室の日。あいにくの雨ですが、こればかりはいたしかたなし。しかし、やはり当人には不満のようです。楽しみにしていたせっかくの移動教室なのに雨ばかりということで、2〜3日不機嫌にしていました。
6時55分、自分で荷造りした大きなカバンをかかえて小雨のなか出ていきました。どうせいっしょにいくお友達は5分程度は遅れると思います。でも本人としては6時55分と決めたわけです。まあ、そういう性格です。朝のうちに、次の本が届きました。
中山茂・後藤邦夫・吉岡斉編著
『通史 日本の科学技術』全5巻
学陽書房、1995
現実に着いてみると、でかい。購入にはけっこう迷ったのですが、手元におくことにしました。現状で私に一番必要なのは第1巻 [占領期] 1945-1952 です。原子力の問題は第2巻[自立期]1952-1959 で扱われています。
(発売の時点で全巻揃い10万8千円します。私はもちろん古書で購入しました。英米では普通、最近日本でもよく見かけるようになった元図書館所蔵本です。廃棄はもったいないと思いますが、我々にはたすかる。)[ビッグサイエンス ii ]
橋本さんに推薦された小泉賢吉郎『科学技術論講義:社会の中の科学・技術を考える』(培風館、1997)の序章「問題の所在」と第1章「第2次世界大戦後の科学技術」を読みました。本はずっと前に買っていたのですが、目を落としたのは今回がはじめてです。教科書的な著作という性格上、深い分析はありませんが、これはなかなかよくできた書物です。すくなくとも自分が第2次世界大戦後の科学技術ということで授業を行うとき参考にできる種類の書物となっています。小泉氏は1942年生まれ(団塊の世代の直前)、ペンシルベニア大学で博士号(科学史・科学社会学)を取得されています。[ニュースサイト]
不思議なので、「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」と西村肇・神足史人「理論物理計算が示す福島原発事故の真相」をグーグルニュースで検索し続けています。まだニュースサイトでは取り上げた事例が0です。不思議です。ブログではかなり数多くかかります。グーグルリアルタイムでもかなりの数がヒットします。日本のジャーナリストは一体何をしているのでしょうか?
→今朝の朝日新聞は、いちばん真ん中の部分(19から21)でまさに「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」の別紙1の地図を採用しています。「文科省およびアメリカエネルギー省の資料から作成。地表面から1メートルの高さの空間線量率。4月29日」と朝日のキャプションにありますから、これは、「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」を使ったことで間違いありません。日本のメディアには出典を正確に表記する習慣がないので、「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」で検索をかけてもでないということは言えます。しかし、問題は、別紙2から別紙4までの蓄積量の方です。セシウム134と137の蓄積量は平米当たり、福島の地図上赤いところで300万から3千万ベクレル、 黄色いところで100万から300万ベクレルです。これは相当に高い値です。こちらの方を取り上げ、紹介・分析しないことがわからないことです。
ひとりで6時10分。室温20度。最高気温の予想。本日29度、明日16度、明後日21度。
この変化はすごい。今日から明日にかけて13度下がります。激烈な気温変化です。体調管理に気をつけないと。今日は幼稚園児の遠足、明日はおおきいちびの移動教室(普通の学校の修学旅行)です。時間予報を見る限り、幼稚園児は行って遊んでくることはできそうです。ただし、はやめに帰ってくることになるでしょう。
→なんとか天気はもちました。善福寺公園でお昼ご飯を食べて、ふつうに(時間を切り上げることなく)帰ってきました。はしゃぎすぎて疲れたようです。夜に会議。5時40分スタートです。子どもたちが全員帰宅してからでかけました。授業で使うので大学のまわりの写真をすこし撮ってから研究室に向かい、おむすびとスープ春雨で簡単におなかをおさめてから会議に出席しました。7時終了。
[文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果]
きっこさんの日記で、5月6日の国と東京電力の事故対策統合本部の合同記者会見で公表された「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」が紹介されています。信じたくないぐらいひどい数字です。専門家による数字の評価がすぐに必要だと思います。
この数字であれば、まさにチェルノブイリ以上です。
→グーグルニュースで検索すると0です。え、これは、何? (ブログに引用されている方はかなりいます。)専門家の解説が求められます。
→11.5.11 翌日もグーグルニュースで検索してみましたが、ヒットするサイトはありません。グーグルがキャッチしているニュースサイトはどこも取り上げていないようです。え、なんで?[「理論物理計算が示す福島原発事故の真相」]
編集者の方より、次の論文を送ってもらいました。
西村肇・神足史人「理論物理計算が示す福島原発事故の真相」『現代化学』2011年5月号: 22-27
必要な計算をきちんと行っています。
西村肇氏のホームページを見ました。貴重なサイトだと思います。
そこから、理論物理計算が示す福島原発事故の真相を見ました。上記の論文の説明を西村肇氏本人がされています。私にはよくわかりました。→西村肇氏は、私には『水俣病の科学』(岡本達明氏との共著、日本評論社、2001)の著者です。今回西村氏のサイトを見てはじめて西村さんがどういう研究者であるのかわかりました。科学者らしい科学者です。こういう方は、現体制維持を第一義とする抵抗勢力の方々とは悶着を起こしやすいが、信頼できる方です。
水俣病の原因に関しては、このサイトのなかに 『水俣病の科学』第三章の要約があります。西村さんが言うとおり、「たしかに裁判ではチッソの加害責任は確定していますが、科学的には、それは立証されていません。」『水俣病の科学』はその科学的立証を行ったものです。2001年の出版であることに注目してほしいと思います。[ビッグサイエンス]
綾部広則「第7章 巨大科学の問題」『科学技術時代への処方箋』(調麻佐志・川崎勝編著、北樹出版、1997): 126-144
最後の部分に「巨大科学に関する研究書は実際のところあまりない」とあります。挙げているのは、吉岡さんや中山さんの仕事です。橋本毅彦「巨大加速器と巨大科学」『<科学の発想>をたずねて:自然哲学から現代科学まで』(左右社、2010): 211-220
[妻と渋谷へ]
5月2日にアマゾンより届いたMacBookですが、私が東工大にでかけた7日(土曜日)妻が夕刻作業をしていて、コーヒーをキーボードの上にこぼしたようです。妻によれば、そのまま作業をして、しばらくすると文字化けするようになったので、再起動をかけてみたが、状況は変わらず、別のマックを使って検索をかけ、乾燥に努めたということです。話を聞いてから、私もともかく乾燥に努めました。
ネットで調べて、渋谷にあるマック直営店(Genius Bar)に行って修理の相談をすることとしました。
とれた予約が今日の10時半。妻の幼稚園の用事(遠足に行く幼稚園児にバイバイをしてあげること)が済んでから、マックブックをカバンにおさめ二人で渋谷にでかけました。子どもたちもそうですが、妻も井の頭線は揺れて気分が悪くなると言っています。私自身は気にしたことはありませんが、確かに揺れます。
渋谷駅には10時過ぎに着きました。駅から歩いて7〜8分でしょうか。丸井のすぐ上の方にあります。いかにもマックらしい、日本のお店にはあまりない内装です。修理は2階ということで2階でしばらく待っていました。iPhone の相談に来ている人も多い。待っている間に自然と相談内容も耳に入ります。どこかで設定を間違えてうまく動かなくなっているようです。そういうこともあるでしょう。
ちょうど10時半に名前を呼ばれました。こぼしたのは、コーヒーではなくチャイということでした。担当者によれば、ただの水なら乾燥させれば大丈夫だそうです。砂糖等の成分が入っているとダメになることが多いということです。起動させてみて、交換するしかないでしょう、ということでした。2万までであれば、交換してもらうつもりでした。その場で告げられた見積もりが1万5千円。2万の範囲内です。その場でお願いしますと言って、3枚の書類にサインし、マックブックは預けました。1週間から10日ほどで連絡をくれるということです。
交番の近くの普通の中華料理屋さんでともに湯麺を食べてから帰宅。
ひとりで4時55分。室温20度。新しい週が始まります。また忙しくなります。
今の時期は着ていく服に迷います。まずは天気予報を見てみました。今日の最高気温24度、明日が29度、明後日が21度。変化が大きい。前に話題にした小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』ですが、妻が読んでいたことがわかりました。赤い表紙を裏返して使っていたので気づきませんでした。
小学生と幼稚園児の間で(8時半頃)家をでました。
大学のメールボックスで編集者の方からお送りいただいた『科学 社会 人間』の第116号(2011.3)から、吉岡斉「科学技術政策に関する備忘録・2010年」と藤田祐幸「黎明期の原子力―科学者たちの戦後」の2点の論考を受け取りました。ありがとうございます。
この雑誌は存在は知っていましたが、きちんと読んだことはありません。ウェブキャットでは次のタイトルになっています。
『科学・社会・人間 : 「物理学者の社会的責任」サーキュラー』
何と所蔵しているのは、中部大だけです。
ともあれ、受け取った2点を読み通しました。吉岡さんのものはさすがにしっかり書かれています。正確な状況分析だと思います。
藤田祐幸氏の論考は昔すこしだけ触れた記憶があります。むしろこっちが備忘録的文章です。資料の整理として有用ではあるが、分析がないように思います。授業の合間とお昼休みに、研究室を探しました。必要な文献が見つかりました。
1) John Krige and Kai-Henrik Barth (eds.), Global Power Knowledge: Science and Technology in International Affairs, OSIRIS21 (2006).
2)小泉賢吉郎『科学技術論講義:社会の中の科学・技術を考える』培風館、1997
3)調麻佐志・川崎勝編著『科学技術時代への処方箋』北樹出版、1997
4)橋本毅彦『<科学の発想>をたずねて:自然哲学から現代科学まで』左右社、2010
探していたのは、最初の2冊です。あとの2冊は探していたら見つかった文献です。調べている事柄は、「ビッグサイエンス」です。「ビッグサイエンス」は科学の社会的あり方として根本的な問題を抱えています。19世紀的な科学者個人の純粋科学の営み(とそうしたあり方を前提とする政治的・倫理的問題)とはまったく異なる社会的・政治的位相に存在することを、科学者自身が理解しておく必要があります。しかし、そのことが単純に「大きさ」(中でも組織の大きさが一番でしょうか)ゆえに難しい。原子力(核エネルギーの軍事的&民事的利用)の場合、第一にアメリカのマンハッタン計画から冷戦期の原子力政策までを組織的に理解すること(科学社会学・科学政策学の仕事でしょう)、第二にアメリカの原子力政策史を背景として日本の中曽根予算前後からの原子力政策史を組織的に理解することが求められます。後半に関しては、吉岡氏の先駆的な仕事があります。
ひとりで3時15分。室温19度。昨夜東工大で疲れてすぐに寝てしまったせいです。もちろんはやすぎます。
ちょうどよいので、昨日の編集委員会の宿題をこなしています。全部こなそうとするときつい。おおきなところだけでも今日中に処理したいと思っています。
→と記したのですが、誰も起きてこないので、7時15分までに私の把握している宿題はすべてこなしました。4時間かかったことになります。ふー。母の日。快晴。幼稚園児は昨日公園に行きたいと言っていました。どういう話になっているのでしょうか。→結局誰も遠きに行きたがっていないことがわかりました。妻が部屋の模様替えと大掃除を始めました。子どもたちも手伝っています。私の部屋では小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』が地震のあと行方不明になっています。全部を片づけるとどこからか出てくると思いますが、その気力がありません。たぶん5冊目の注文をアマゾンのマーケットプレイスに出しました。朝方届きました。授業で使うので手元に必要です。終わったら返すようにと学生に言って渡したものが1冊も帰ってきていません。どううもよくわかりません。
お昼過ぎに次の本が届きました。
武田徹
『私たちはこうして「原発大国」を選んだ:増補版「核」論』
中公新書ラクレ、2011
版ですが、もとは、『「核」論』勁草書房、2002;次は『「核」論』中公文庫、2002;そして今回のものは中公文庫版に若干の加筆・修正をしたうえで改題し、まえがきにかえてを付したものとあります。普通に言えば、第3版と言えます。[原子力工学出身代議士]
このサイトで以前、国会議員としては共産党の吉井英勝議員がただ一人の原子力工学の専門家だと記述しました。雑誌かウェブの記述の引き写しです。昨日買った『週刊現代』を読んでいると、民主党の空本誠喜議員も原子力工学出身です。東大大学院原子力工学科出身で、原子力工学の博士号をもち、東芝で勤めていたという経歴のようです。辞任会見で脚光を浴びた小佐古敏荘氏(もと内閣参与)の教え子ということです。
→ウェブで調べてみました。広島出身、早稲田の理工学部から東大大学院に進学し、博士号を取得してから東芝に勤めたということです。東芝でどういう仕事をしていたかのかはまだわかりません。(調査を続けます。)→YouTube に国会での質疑応答のシーンがあります。質問は重要なポイントを突いています。(すぐには難しいかもしれませんが、話し方をもう少し練習した方がよいと思いました。同じ趣旨でも言葉の選択によってインパクトはまったく違います。斑目春樹・原子力安全委員会委員長からもっとましな答弁を引き出すことができたのではないかと思います。政治家ですから、それは基本的能力です。)雑誌とウェブの情報を見ると、お二人ともに、もと原子力村の住人のようです。今回一番必要なのは、もと原子力村の住人からこれじゃまずい、これはまずいという批判が出てくることです。利権から離れて、個人でたてばよい。
『週刊現代』では、もともと個人でたっていたノーベル化学賞受賞者根岸英一氏のインタビューが出ています。
電源喪失の直接的原因
上記のサイトに、共産党の吉井英勝議員が27日開催の衆院経済産業委員会で、電源喪失の直接的原因は、津波ではなく「夜の森線の受電鉄塔1基の倒壊」であることを東電公表の資料から分析して原子力安全・保安院の寺坂院長に質問したところ、受電鉄塔が津波の及ばない場所にあったことは認めた、という情報がありました。
福島原発で実際何があったのか、まだ明らかになっていないと思います。この点でも東電は責任をまったく果たしていません。福島第一原発の事故は、地球規模の放射能汚染(そのなかであまり注目されていないが重要なのは空本誠喜議員も指摘するとおり海洋汚染だと思われます)を引き起こしています。東電には国際社会に対してまず何よりも何が起きたのかをできるだけ詳細にできるだけ正確に説明する義務があります。
ひとりで4時15分。室温19度。新聞を取るためドアを開けると、地面がわずかに濡れています。夜半小雨が降ったようです。今日は雨の予報。
昼食後、昨日橋本さんに教えてもらった次の本が届きました。
P.N. エドワーズ
『クローズド・ワールド:コンピュータとアメリカの軍事戦略』
深谷庄一監訳、日本評論社、2003
冷戦期の科学技術史に関する数少ない邦訳ということです。貴重です。午後4時から東工大で編集委員会があります。
週明けの月曜日からまた忙しくなります。火曜日の夕刻に会議が入ってくるので、私にとっては未曾有の忙しさです。5月の第3週からはリレー講義も追加されます。今からしっかりと準備をしておかないと間に合わない(体がもたない)。まずは、5月9日の講義のための資料探し。30分かかりました。私の場合、いつもこんな感じです。
原子力の問題は先送り(夏休みに入る前)にして、講義内容そのものは通常化したいと考えています。おそらく一両日中にカウンターが30万を通過すると思います。1997年末にホームページを立ち上げました。ブログもツィッターもスルーしてきました。30万辺りを目処にせめてこのページだけでもブログ化しようと考えていましたが、気持ちの余裕がなくなりました。1996年のマシーンで1997年モデルのサイトが持続するというのも意味があるかもしれません。しばらくこのままでいくとしましょうか。
→東工大での編集委員会から7時45分に帰宅し、急いで夕食をとりお風呂に入り、火狐を起動させると、300003でした。私が帰宅したころ、ちょうど30万を通過したのではないかと勝手に想像しています。
ひとりで5時18分。室温18度。ちびどもは6時半過ぎに起きたようです。2階ではっくしょんの音がします。おおきいちびはもうすぐ移動教室(普通の学校の修学旅行にあたる)です。富士山の麓なのでとくに遠くはありませんが、体調管理に気をつけてやらないといけません。
朝の間に、読みかけになっていた次の本を読了しました。
山崎正勝・日野川静枝編著『増補 原爆はこうして開発された』青木書店、1997
10名による共著です。ひとりで書き上げた方が読みやすいものとなったと思います。
→この本のメリットを挙げます。各章の冒頭に、1頁で「第○章への案内」がまとめられています。これはとてもわかりやすい工夫です。
たとえば、「第6章への案内」への第二段落は次の通りです。
「一九四三年の五月、軍事政策委員会は最初の原爆の投下目標にトラック島の日本艦隊を選んだ。一九四四年のはじめ、イギリスの諜報活動によってドイツでは原爆が作られていないことが判明した。これによって原爆開発はドイツ原爆の脅威に対抗するという防衛的な意味を失った。攻撃的な戦略へと転じた原爆計画は政策決定者たちによって日本投下へ向かって引き続き進められた。軍は、科学者たちの熱意が冷めるのを恐れ、ドイツに原爆がないという情報を科学者たちには秘密にしておいた。」
私にとって重要なのは第七章の次の部分です。
(二二三頁)「一九四五年四月一二日、原爆開発を指令した大統領ローズベルトが、心臓発作で急死した。かわって大統領になった H.S. トルーマンは、そのとき副大統領であったが、それまでまったく原爆開発計画の存在を知らされていなかった。」
(二二四頁)「五月八日、ドイツは無条件降伏した。ヨーロッパでの戦争は終結し、残るはアジアでの対日戦のみとなった。そのころ、ソ連の進出に対抗するために、アメリカの政策決定者たちの間でアジア政策が根本的に見直されることになった。そうした過程で、ソ連の対日参戦の前提となっているヤルタ秘密協定の内容を、アメリカに有利に改訂する課題が生まれた。当然、その改訂はソ連の対日参戦前に実現しなければならないものであった。また、アメリカのアジア政策の柱に中国ではなく日本を据えるという考え方も改めて主張された。それは、ソ連やアジアの革命勢力に対抗するために、日本をアメリカのパートナーとして残そうというものであり、そのためには、徹底的な破壊がなされる前に日本を終戦に追い込む必要があったのである。」
アメリカはこのときすでに日本がいずれ降伏すると見ていた。日本側の無条件降伏に対する抵抗のポイントは天皇制にあり、天皇制を保持する約束さえすれば無条件降伏に導きうるという確信があった。
たとえば、国務長官代理のJ.C. グルーは五月二八日朝、大統領トルーマンに東京大空襲で日本が大損害を被っている今こそ、日本が自分で将来政治形態を決定することができるというメッセージを伝えれば、警告によって日本を降伏に導くことができると進言した。しかし、原爆の完成を待っていたトルーマンは、原爆のことは秘密にしたまま、引き延ばし戦術をとった。
ポツダム会談は七月一七日に始まった。七月一六日原爆実験が大成功であったという第一報が伝えられた。トルーマンには翌朝その「予想を超える」成功が伝えられた。
彼はこの日の会談で、ソ連の対日参戦が八月一五日になることを知らされ、日記に「それが起こったときに、日本は終わる」と記した。
翌日(七月一八日)、第二報がもたらされた。会談でトルーマンはスターリンから日本の和平依頼の事実を知らされた。トルーマンは、日本が明白に終戦決意を示している以上、対日戦の終結は、ソ連の参戦によってではなく、アメリカの原爆投下によってもたらされるべきだと考えた。
原爆の力を過信したトルーマンは、二二日、「この報告(グローブズの覚書)を読んだ後で会議に出たとき、トルーマンは別人となった。トルーマンはロシアにああしろこうしろと言い、会議全体を牛耳った」(二二八頁。荒井信一『原爆投下への道』東京大学出版会、二二二頁より、チャーチルの発言の孫引き)。
七月二三日の夜、トルーマンに待望の報せが届いた。それは、八月一日ならばいつでも原爆が投下可能となったというものであった。
トルーマンが牛耳った現実のポツダム宣言では、わざと、天皇制保証条文をあいまいにして七月二六日に出された。(原爆投下まで日本の降伏を遅らせるため。)
スターリンは、トルーマンから前例のない破壊力をもつ新兵器をもっていると会議の終了間際に告げられたとき、それが原爆であることを理解し、一九四二年以来停止していた原爆開発を再開することをモロトフ外相と話した。
以上、トルーマンの行動のもとにあったのは、ソ連の対日参戦の前に原爆投下によって 日本降伏を導こうという意図であった。しかし、トルーマンの意図は実現しなかった。八月六日、リトルボーイが広島に投下された。日本は降伏しなかった。そして、ソ連が八月九日未明(八月一五日の予定を繰り上げて)対日参戦してきた。(トルーマン側からすれば二重の予想外)。
(以上、兵藤友博氏と日野川静枝氏の記述をいくらか書き換えました。)
アメリカがとくにソ連(共産主義に対する防波堤)に対する軍事戦略として、原爆を投下したことは明らかです。今回の調査を行っていて、ビッグサイエンスについての基本的知識、冷戦期の科学技術史に関する基本的知識を確認する必要を感じました。
ウェブで調べてみても、あまりあてになる情報はありません。そこで、アメリカで20世紀の科学技術史を勉強され、その分野で博士号を取得された橋本毅彦さんに質問してみました。すぐに教えてくれました。橋本さん、ありがとうございます。1)ビッグサイエンス
日本語では、小泉賢吉郎『科学技術講義』
英語ではすこし古くなったことは否めないが、Peter Galison and Bruce Hevly eds., Big Science: The Growth of Large-Scale Research, Stanford: Stanford University Press, 1992.2)冷戦期の科学技術史
橋本さん自身によるレビュー、Takehiko HASHIMOTO, “Science after 1940: Recent Historical Researches and Issues on Postwar American Science and Technology,”Historia Scientiarum, vol. 8, no. 1 (1998), pp. 87-96.
http://www.cmu.edu/coldwar/
あとは自分で調べます。
ひとりで4時40分。室温20度。
朝の室温は昨日より高いが、日中にかけて今日はずっと寒いようです。子どもの日。
予報をしっかり見ました。今日は終日くもりで、最高気温が14度とあります。昨日から10度の下落です。寒く感じるわけです。6時40分現在、まだだれも起きた様子はありません。2号の表関係を全部作成しました。表紙の写真を除き、完成です。表紙の写真はもしかしたら担当理事が入院されているのかもしれません。土曜日には編集委員会がありますから、そのとき事態が判明するでしょう。→7時半現在もだれも起きてきません。昨日の遠出で疲れたようです。→妻が7時40分頃に降りてきました。子どもたちの姿はまだです。
子どもの日なので、身長を測定します。
8時35分。幼稚園児の身長は109センチ。
9時10分。ちいさいちびは、134.5センチ。
9時20分。おおきいちびは、155センチ。研究室の片づけを投げ出したままにしています。ちょうどよいので子どもたちに手伝ってもらってすくなくとも地震の後かたづけだけは完了しようと考えました。
昼食後、子どもたちにパパの研究室のお掃除の手伝いをするかと聞くと、全員すると応えました。手伝えばお小遣いというのがきいたのかもしれません。子ども3人をつれて、大学へ向かいました。今日は電車がすべてうまく接続しました。ほぼ最速にちかい形で大学に到着することができました。
掃除と片づけのためには3人は多すぎますが、こればかりは仕方なし。ゴミを捨てる、落ちている本を拾う、掃除機をかける、拭き掃除をする、できるだけもとの場所に本をもどす、作業をしました。予想通り、幼稚園児が一番先に飽きて、お絵かきソフトで遊びはじめました。しばらく遊ばせてから、諦めて外にでることにしました。
今日の目的のひとつは図書館に本を返しておくことです。2階の通路で行くのが面白かったようです。図書館は今日は完全休館。返却ボックスを使うのは初めてでした。カードで建物のなかに入ってから、ボックスに入れる仕組みになっていました。
そこから図書館裏の広場に向かいました。
ちびどもは縄跳びをしたい。しかし、幼稚園児は縄跳びがまだうまくできません。かくれんぼとおにごっこをしていました。おねえちゃんたちがあきて、縄跳びを始めると怒ります。集合してすこし話し合って、隣の公園に行くこととしました。入ってすぐ左が迷路のような木の山となっています。3人とも気に入って、そこで走り回って遊んでいました。幼稚園児はあたまにびっしょり汗をかきました。4時までかなと思っていましたが、様子を見て、3時40分で切り上げました。ロータリーのローソンでそれぞれが好きなアイスを買って、電車へ。これもちょうどでした。
子どもは子どもです。昨日あんなにはしゃいで動きまわったのに、今日も同じように走り回っていました。こうやって体力がつき、成長していくのでしょう。
反面、親の体力は徐々に低下していきます。
ひとりで4時10分。室温19度。今日は子どもたちをすこし遠くの公園または遊び場に連れていきます。
お弁当(おにぎり)をつくっていくこととなりました。普段は2合ですが、こういうときには3合のご飯を炊きます。→子どもたちに希望を聞いて、昭和記念公園にしました。祝日は、三鷹で乗り換える必要があります。幼稚園児が乗り換えを嫌っています。立川から歩くこととしました。
子どもの足でも15分で着くはずなのに、公園らしきものがまったく見えてきません。コンビニに入って聞いてみました。1時間ほどかかるということです。違った方向へ30分程度歩いてしまったことになります。
タクシーをつかまえて行くこととしました。タクシーに乗っている間に、私が立川の駅を出るとき、180度逆の方向に出たと考えれば、間違いの謎が解けることがわかりました。駅を出た瞬間、高島屋や伊勢丹が見えないのはおかしいなと思ったのですが、こちらの方向だという思いこみで歩き出してしまいました。
疲れているときに典型的な、思考力を失った判断ミスです。
祝日で道はかなり混んでいましたが、車で動けばすぐです。一番近い入り口で降ろしてくれました。お腹が空いたというので、入ってすぐの木陰の芝生の上で昼食。3合をほぼ完食。
幼稚園児がプール、プールというので、そこからレインボープールのあるところまで歩きました。2キロ近くあります。現場につくと、すでに大勢の子どもがプールに入って遊んでいます。幼稚園児はそのまま入っていきました。水深は子どもの膝ぐらいです。
おねえちゃんたちは着替えてからやはりプールに入りました。最近幼児の雰囲気は抜けたかなと感じていましたが、水遊びしている顔はちいさいときのままです。手を底につけて泳いでいました。最高気温は24度の表示。太陽が隠れ、風が吹くと、寒く感じます。しばらく遊んでいると、幼稚園児が寒い、もうでるといってやってきました。おねえちゃんたちも続きました。すぐに着替えさせました。着替えてから持参したおやつ。
子どもたちはそろってふわふわぴょんぴょんのところに行くと言います。しばらく休んでから歩きはじめました。子どもの森のなかにあります。たぶん1キロほど歩きました。着くとすでに大勢の子どもがぴょんぴょんしています。すでに6キロ程度は歩いているはずです。2時前に幼稚園児がもう帰ると言います。ただし、帰るまえに氷がほしいというので、かき氷を2カップ買ってきました。それを食べ終えてから、バス停へ。2時20分のバスに間に合いました。
電車は、2時58分西立川発の青梅線特急に乗ることができました。三鷹で乗換になりますが、特急なのでやはりはやかった。三鷹駅のなかのクイーンズで夕食の材料を買ってから帰宅しました。買ったのは、ちょピッツァという餃子の皮と見まがうピザ生地です。一袋に10枚入ったものを3袋買いました。
プールに入ったことを考慮し、はやめにお風呂に入れました。その後、各自好きなようにピザをつくりました。子どもたちはよく食べました。4人で19枚。妻はこういうのは苦手です。中華薬膳をつくっていました。親は疲れました。子どもたちは満足したようです。
ひとりで5時25分。室温20度。
7時現在、まだだれもしたにおりてきません。[高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ』]
ぱっとみて、高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ』は短い本です。こちらを先に読み通すことにしました。お昼過ぎに読了しました。
まず、224頁で紹介されている USA Today 2002.2.28 の記事を孫引きしましょう。
「米国政府の未公開資料によると、冷戦期に地球の全域で行われた核実験による放射線降下物で、米国で51年以降に生まれた居住者のうち少なくとも1万5千人がガンで死亡した。
同資料は、上記政府調査結果と合わせて、致命的でない二万人の――おそらくはさらに多くの――ガンもまた、地上核実験による放射性落下物に起因すると見積もっている。」
次は、中川保雄氏の『放射線被爆の歴史』(技術と人間、1991)を入手して読む必要があるようです。一番のポイントがそこで指摘されているようです。→1点、不満があります。日本人の多くが原爆被害の不条理を知ったのは、中沢啓治氏のマンガ『はだしのゲン』によると思います。私も子どもの時に誰かの家(私の家にはマンガはなかったので、私以外の家ですが、どこで読んだのか記憶はありません)で読んだときの衝撃が今でも心の奥に鮮明に残っています。
『はだしのゲン』にきちんと触れてほしかった。(もしかしたら高橋博子さんは『はだしのゲン』を読んだことがないのでしょうか? その可能性もあるように思えてきました。)[連休]
連休なので子どもたちはすこし遠くまで外出したいと言っています。昨日の時点では、海に行こうということで決着しました。しかし、今日は3時から傘マークがついています。明日は終日晴れのようなので、遠出は明日にするかもしれません。はやく行ってはやく帰ってくるということで、今日になるかもしれません。子どもたちが起きてきてから相談します。
天気予報では3時には雨。明日に延期しました。昨日届いたシロマックブックですが、妻がメールを送信できないと言っています。受信はできます。J-COMのサイトを見てやってみますが、マックOS X にもともとあるメールソフトではどうやっても送信がうまくいきません。途中であきらて、パソコン引越前に妻が使っていた雷鳥をインストールしてみました。おお、こちらは、基本的な設定情報を入力するだけであとはソフトがサーバーに問い合わせて繋がる・動作するようにしてくれました。サンダーバードはずっと使っていたソフトなんで、妻はこちらを使うということです。私自身はあまりよく覚えていないのですが、前もそうだったということです。
どこが違うのかなー。解明したい気持ちはありますが、今はその粘りがありません。
お風呂のあと、妻は、標準添付のソフトをいろいろ試していました。バージョンアップしているものも少なくないようです。多くの人が使う、人気があるということなのでしょうが、iPHOTO の進化は見事です。[黄砂]
ここ数日、黄砂が飛来しているようです。関西には多く降っているということです。家族全員に軽い風邪に似た症状があります。花粉症はほぼ終焉に近づいています。私の場合は鼻先がひりひりします。妻にはそれに加えて経度の花粉症に近い症状があります。連休中におさまるということですが、なかなかへんなかんじです。
ひとりで3時55分。室温20度。連休中の平日。幼稚園児だけは幼稚園に行きたがっています。小学6年生は、中途半端だと文句を言っています。ただし、話を聞くと、書道と工作だけで一日が終わるようです。小学4年生のコメントはなし。
大学は、全学休校となっています。図書館も閉めるようです。私の次に階下に降りてきたのは、ちいさいちびでした。6時35分。おおきいちびも起きているということでした。
ところで今日は幼稚園児の歯医者さん。土曜日に子ども3人揃って歯医者さんに行っています。幼稚園児は、下の前歯のひとつを抜く必要がありました。永久歯が生えてきているのですが、ちょっと向きがずれていて、乳歯を抜かないと変な方向に生えてしまうということです。幼稚園児には言っていませんでした。台にすわって、歯医者さんがその話をすると、泣き始めました。来週なら頑張ってやってもらうと約束するので来週の金曜日にという予約を入れて帰ってきました。ちびどもはきれいにしてもらうだけなのですぐにすんでいます。
さて、昨日の夜、歯のことが心配になってきたのでしょう。幼稚園児は、抜くならはやく抜いてほしいと言います。ということで、予約した時間ではなかったのですが、朝一番にでかけて抜歯をやってもらうこととしました。
この子は、ちいさいころ歯では怖い思いをしています。私も歯科の椅子に妻に抱えられて(動かないようにということです)ふたりでいっしょに泣いていたシーンは心に焼き付いています。
心配していたのですが、10時過ぎにママにおんぶされて帰ってきました。無事抜歯ができたようです。麻酔がしばらく残るので、幼稚園はお休みすることとなりました。
ともあれ、ひといきつくことができました。[原子力と検閲]
今回の私の調査をまとめてみました。
核エネルギー(原爆と原発)と検閲
プリントアウトしたものを3種類のペンをもって読み通しました。49枚になっています。相当の量です。こうやって読むことで得られるアイディアとその繋がりがあります。
確認できたこと。このサイトでの私の調査は、1月31日にスタートしています。
3月2日に、「原子力の歴史を見直しておく必要」を感じています。
同じく、3月2日に、「科学技術史における冷戦研究の必要」を感じています。クリーゲの仕事はまさにそうした種類のものです。
つまり、個人的には、3月2日に自分の行っている調査がどういう分野・領域にわたるものか、見通しがついたことになります。それから、3月11日を迎えています。[ノートパソコン春モデル]
気分転換的話題を何点か。すこし前ですが、次の記事がありました。
パソコン価格が史上空前の急落
価格サイトで見てみると、昔は20万程度したものが5万円台まで下がっています。記事には、「17万円の高機能ノートが9万2000円」とあります。もちろん、全体的にパソコンの値段が下がってきているので、「昔は20万円が今5万円」というのは私の感覚に過ぎません。確実なのは、7〜8万円出せば、15インチ液晶で(日本社会では定評のあるメーカーの)最新鋭のノートパソコンがゲットできるということです。13インチでよければ5万台です。ほしい方にはお買い得な時期です。
ただし、一度下がったものが夏モデルでもとの水準まで上がることはありえないと思います。10万円前後で推移するのでないかと思っています。(とくに理由がなければ、焦って購入することはないでしょう。)→ 11.5.3 さて、我が家のパソコン事情ですが、私は1996年購入のデスクトップマックをメインマシーンとして使っています。今大学にいる学生たちが見た記憶もない種類かもしれません。仕事で必要なのでサブに小さなウインドーズノートがあります。そして、居間にノートパソコンが3台。幼稚園児が1台確保してしまっています。おおきいちびようには白いマックブックがあります。一番使っていなかったちいさいちびは AKB48 におねえちゃんといっしょにはまってから、妻のノートパソコンを借りて AKB 48 の動画をよく見るようになりました。母と娘なのでそれでもめたりはしませんが、妻とちいさいちびはすこしずつ残念な思いを持っているようです。
上の情報を見て、新しく1台ノートパソコンを購入すると、平和になると思いつき、安くなったと記されている NEC のラヴィエの値段を価格サイトでずっと見ていました。画面が13インチでよければ、5万円台であります。15インチになると7万円になります。ちいさいちびはウィンドーズでもよいと言っていますが、一台だけ違うと争いの種になる可能性があります。
うんと考えて、ウィンドーズほどではないといえ、ずいぶん安くなっているMacBook を選択することとしました。妻とちいさいちびと相談し、新しいマシーンはママが使う、今ママとちいさいちびがいっしょに使っている黒いマックブックはちいさいちび専用とする。データの引越が完了したら、ちいさいちびが好きにチューニングしてよい(デスクトップファイルぐらいですが)ということで話がつきました。おおきいちびにも話してわかってもらいました。
白いマックブックは、アマゾン価格8万5千円です。昨夜これを発注しました。本日の夕刻届きました。アマゾンのメリットはこういう点です。
昨日 USB にだいたいのデータは移しています。しかし、新しいシロマックブックを起動すると、自動で古いマシーンから設定をふくめいろんなものを移してくれるようです。急遽 LAN ケーブルを用意し、2台を接続しました。2時間近くかかるようなので、夕食をとりながら様子をみていました。なんと9割程度まで来て、接続が切れ、データ転送は終わってしまいました。時間を無駄にしましたが、仕方ありません。
次は、ネット接続の設定。何度試みても、バッファーローのAOSS 自動接続がききません。そうこうするうちに妻がお風呂から降りてきました。エアナビゲータのマニュアルを細かく読んでいくと、どうも OS が対応していないようです。10.4 と 10.5 はOKだが、10.6 (新しいシロマックです)には対応していないことがようやくわかりました。ネットに接続すれば、対応したソフトがあるはずだと考え、今度はLAN ケーブルで接続しました。こっちはなにもせずともすぐに繋がりました。10.6 に対応したソフトもすぐに見つかりました。それをダウンロードし、再び居間に戻って再度挑戦。今度は1分程度ですぐに繋がりました。ああ、やれやれ。
J-COM の設定情報は私が保管しています。メールの設定だけその場で行いました。妻の仕事としては、あとはエクセルとワードが動けばよい。エクセルが動いたことを確認した時点で「本日は終了」となりました。
新しいシロマックブックですが、電源コードは狭い場所対応に改良されています。妻の使用環境からすれば、これが一番よかったかもしれません。[37坪で5980万]
近所に耳の遠いおばあちゃんがひとりで住んでいるお家がありました。家の前を通りかかると、つけているテレビの音がよく聞こえる、すなわち一般家庭ではありえない大音量でテレビをつけているお家でした。たまに息子さんらしき人が来ていました。(確かめたわけではないので正体は不明。)どうもそのおばあちゃんは亡くなられたようです。
テレビの音が止んでいました。
と、思うや、家の取り壊し工事が始まりました。日本の伝統工法による家で、土壁(竹を組んで藁を混ぜた土を塗ってつくる壁)でした。ああ、もったいない。しかし、解体工事はすぐです。
解体工事が終わったと思いきや、地面をならしてから新築工事が始まりました。今は土台ができています。
そして、ゴールデンウィークにはいって、販売のための幟がたっています。昨日は業者の方が半日は座っていました。業者の方が帰ってから、ちらしだけもらってきました。
土地面積122平米、建物総床面積110平米(ともに小数点以下四捨五入)、建売住宅込みで5980万円です。新築のときの販売価格はよく見て回っています。これは安いと妻に話したら、妻がチラシをよく読んで、借地権だと教えてくれました。借地権でなければたぶん7〜8千万円の値段がついていました。
平成23年8月完成予定、旧法借地権(新規20年、地代月額3万円)とあります。我が家も借地権だったので、借地権のことはわかります。新築ならば相場かなという値段です。
ひとりで4時30分。室温20度。お昼前に次の本が届きました。著者の猪野修治さんによる献本です。猪野さん、ご高配ありがとうございます。
猪野修治『セイエンス・ブックレヴュー:科学技術は倫理を語りうるか』閏月社、2011[カラオケでAKB48]
ちいさいちびがさすがに外に行きたいと言います。幼稚園児はヨドバシに行きたい。子どもたちで話しあって、カラオケに行くこととなりました。
寝込んでいる妻のために、鶏ガラスープをつくってから、外出しました。
駅前のカラオケ店に到着したのが1時半。幼稚園児とちびどもがだいたい半分ずつ歌いました。ちびどもは一曲いきものがかりを選曲した以外は、すべてAKB48を選んでいました。私は前半はソファで寝ていましたが、後半は起きてAKB48の歌詞を見ていました。AKB48の歌詞をまともに読みのははじめてです。小中高の女の子向けの歌詞でした。
遠からず、AKB48を聞いて成長した世代が大学に入ってきます。[『現代思想』(2011年5月号)ii]
柄谷行人「地震と日本」
酒井直樹「「無責任の体系」 三たび 」
西谷修「「未来」 はどこにあるのか」
森達也「傷は残り、時おり疼く」
関曠野「ヒロシマからフクシマへ」
ハリー・ハルトゥーニアン (訳=後藤悠一)「破綻した国家」
ブライアン・マッスミ (訳=長原豊)「災害の半減期」
長原豊「滂沱の涙、緩慢な Artemisia vulgaris」
早尾貴紀「原発大震災、「孤立都市」 仙台脱出記」
吉岡斉「福島原発震災の政策的意味」
飯田哲也「ゲンパツを可能にし、不能にしたもの」
梅林宏道「軍事支配の下流に置かれた 「平和利用」 福島事態と市民社会」
小松美彦「封印された 「死の灰」 はそれでも降る」
ガヴァン・マコーマック (訳=佐野智規)「罰せられた過信 核国家としての日本」
高橋博子「「安全神話」 はだれが作ったのか ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ」
山本昭宏「原爆投下以後、反原発以前 戦後日本と 「平和」 で 「安全」 な核エネルギー」
マニュエル・ヤン「ミッドナイト・ノーツ・コレクティヴの一九七九年原発批判と新しい階級闘争」
『来るべき蜂起』 翻訳委員会「流言の氾濫はすでに革命の到来を告げている」
矢部史郎「東京を離れて」
土佐弘之「ハイブリッド・モンスターの政治学 不確実性という活断層」
美馬達哉「災害を考えるためのメモ リスク論を手がかりに」
篠原雅武「エコロジー論へ 崩壊状況からの思考」
平川秀幸「三・一一以降の科学技術ガバナンスに向けて 過去を通じての未来へ」
東琢磨「ヒロシマ4と命てんでんこのあいだで」
塚原東吾「災害資本主義の発動 二度破壊された神戸から何を学ぶのか?」
岡田知弘「東日本大震災からの復興の視座」
阿部安成「復興のリリック(fukkou no lyric)」
中島孝「災害の難病化とその中に見えた希望――逆トリアージ」
川島孝一郎「大規模複合災害における在宅医療・介護提供」
山田昭義+水谷真「障害者は避難所に避難できない 災害支援のあり方を根本から見直す」
鈴木江理子「大震災で見えてきた在日外国人たちの姿」
山口素明「誰も殺すな 原発労働者とは誰か」
高橋博子氏は121頁で「現在、政府や「専門家」やメディアで基準としている被爆線量推定システムは、もともと広島・長崎への原爆投下や核実験によって得られたデータによる外部被爆のシミュレーションにすぎず、食料や水を通して体内に入って被爆する内部被爆の影響については推し量ることは困難である。それにもかかわらず、原爆症集団認定訴訟の国側の証人として発言した科学者は「科学的データ」として、内部被爆によって被爆したであろう原告側の訴えを否定する道具として利用した。」
「このように放射線の「安全神話」は、被害を生み出した側がその犯罪性を隠蔽するために築かれたものであると言える。」
重要な指摘です。
内部被爆に関しては、被爆による被害を推定するための信頼できるデータがそもそも存在しない。そして、外部被爆に関してそのデータは存在するが、それは、アメリカによる広島・長崎への原爆投下とアメリカ国内外の核実験によって得られたものである。私が残念だと思うのは、数点でもよいので典拠・参考とできる文献の提示、ならびに著者に関する簡単が情報が付加されていないことです。注は人によっては付けています。編集部で統一的な扱いをしてほしかった。厳密に同一でなくてもよい、ある幅に収まるようしてほしかった。
具体的には、高橋博子氏は、2003年に同志社大学に提出した博士論文に基づき、広島平和研究所に赴任後の研究を付加して、2008年に『封印されたヒロシマ・ナガサキ―米核実験と民間防衛計画』(凱風社、2008)を出版されています。
すくなくともこの情報だけでも、付加すべきでした。私はそのように考えます。高橋博子氏のひとつ前の、ガヴァン・マコーマック(佐野智規訳)「罰せられた過信 核国家としての日本」も関係するテーマに関して、重要な事実を指摘してくれています。
1.日本のプルトニウムの備蓄は、世界の民生プルトニウムの備蓄の5分の1に達している。
2.「IAEA 前事務局長のムハメド・エルバラダイは再処理の危険性を認識した上で、それは最も厳しい国際的監視下でのみ行われるべきだとし、濃縮・再処理作業を5年間凍結するよう日本に勧告した。日本はこの勧告と取り合わなかった。」(p.112)
3.「高レベル廃棄物はガラス固化されキャニスターに入れられているが、六ヶ所村にもどされたのち、表面温度が500度前後からゆっくりと冷めるまで、30年から50年のあいだ保管される。」(p.113)
4.「高速増殖炉が、プルトニウムが蓄積されていくことに対する、もうひとつの解決策だ。高速増殖炉は非常に純粋な「超級」プルトニウムを増殖させる。だがそのリスクとコストを解決する技術は未だ確立されておらず、あまりに課題が多いのでいまや日本だけがそれを追及している。」(p.113)高橋博子氏の次の山本昭宏氏の論考も私がここで追究してきた問題に重なります。
「占領下の無邪気な期待感」として二人の科学者(嵯峨根遼吉と渡辺慧)の核エネルギーに対する「無邪気な期待」を引用しています。広島と長崎への原爆投下による晩発性障害については、核物理学者においても知られていなかったと理解する必要があると思います。GHQ の検閲と情報秘匿が大いに効いたと言えるでしょう。
武谷三男「われわれは原爆の被害国であるから、その点を外国に訴えて、原爆の被害国は最もフェアーに原子力の研究をやる権利があり、必要量のウラニウムを平和利用のためにのみ無条件に入手する便宜をはかる義務を諸外国はもっているはずである、と主張すべきだというのである。」
これは現在からすれば、非常に不思議な発言です。日本国内でしか通用しない、100%内向きの発言だと思います。あるいは、アメリカの「平和のための原子力」キャンペーンに完全にはめられたと言えばよいのでしょうか。まずは、甘えと国際的視野の欠如を指摘しなければなりません。夕刻降り出した雨のなか、次の本が届きました。午前中に注文したものです。アマゾンは連休も関係なく動いてくれています。
高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ―米核実験と民間防衛計画』凱風社、2008
この書物は、非常に重要な書物だと思われます。第2回日本平和学会平和研究奨励賞を受けていますが、大学等で基本的なテキストとして読まれるべきではないでしょうか。すくなくとも私のテキストとして使います。
(もっと正直に正確に語れば、私がこのテーマを追いかけるもととなったポイントに帰ってきています。核被害の検閲と情報隠蔽の問題です。
自分のサイトを検索してみました。この問題に取り組んだのは、今年に入ってからです。)「はじめに」で高橋さんは「第二次世界大戦後、核戦争の現実を伝える責任があるはずの日本は、米国の「核の傘」の下で原爆を投下した当事国(米国)にその責任を問わずに今日に至っている。同時に、植民地支配と戦争に苦しんだアジア・太平洋の人々に対する戦争責任に向き合っていないがために、事実を伝える力すらない状態にある。それどころか戦争をあたかも「天災」のように扱っている。」(p.11)
まったくそのとおりです。
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