ひとりで6時5分、室温22度。昨夜は暑さのせいで寝苦しい夜でした。曇り。今日はずっとこういう空模様のようです。ちいさいちびは朝から友達といっしょにコナンの映画を見に行きます。妻も同伴します。おおきいちびは午後友達と遊ぶ約束になっているようです。新一年生は、2時間も映画館のなかにいたくないということで、今日もポケモンのパックゲームをしたいと言っています。
→朝一番で荻窪につれていきました。荻窪駅ビルの6階おもちゃ売場にポケモンバトリオがあります。新一年生は百円玉を6つもっていきました。
ポケモンバトリオは場所・時間によってはまったくあいていることも多いのですが、本日の荻窪は数人並んでいました。新一年生はまったく人見知りをしないタイプなので、前の子や後ろの子とよく話しています。私はすることがないので、隣の文房具屋さんや本屋さんを見て回っていました。
1時間強。おおきいちびが家にいます。エキナカと駅前で昼食を買って帰りました。
おおきいちびは、午後お友達9人と吉祥寺に行くと言っています。[VPNサービス]
4月25日開催の研究院教授会で「VPNサービスのお知らせ」という資料が渡されています。これまで大学に行かなければアクセス/ダウンロードのできなかったオンラインジャーナルやオンラインデータベースに自宅からアクセスできます。ラスを使います。私にはこれはとてもたすかるサービスです。
Cisco のVPN Client というアプリをダウンロードして使うということで、しばらく放置していましたが、今朝、指定通りにアプリをダウンロードし、大学図書館のサイトにアクセスしてサービスを使ってみました。まったく問題なし。私にとくに関係するのは、ProQuest、JSTOR、CiNii 等です。
ひとりで5時半、室温19度。晴れています。新一年生が研究室の掃除を手伝ってくれるというので、朝食後ふたりで大学へ。拭き掃除と掃除機をやってくれました。私はともかく雑誌と書類の片づけ。新一年生の仕事がなくなったところで、帰途へ。
東急でパックゲームをしたいと言います。時間はあるのですが、キャンパスを歩いていて、イトーヨーカードーでよいことに気付きました。電車賃の点でも駅からの距離からの点でも武蔵境の駅前にあるイトーヨーカードーの方が便利です。
イトーヨーカードーのポケモンバトリオは一台が故障していました。あちゃーと思いましたが、新一年生が数台隣にもう一台バトリオのマシーンがあるのを見つけました。
3つ続けて強いカードがでました。新一年生は大喜び。テラキオン、ビクティニまでは私も覚えました。
三鷹駅構内で八つ橋を買って帰宅。うれしいのでしょう。西荻窪の駅から完全に私を振り切って帰りました。帰宅すると次の本が届いていました。
保坂正康『日本の原爆:その開発と挫折の道程』新潮社、2012
発行日は4月25日です。できたてほやほやです。はじめに、おわりに、あとがき、だけ先に読みました。保坂正康氏の著作のメリットは、当事者に直接聞いていることです。[原子論の基本文献 ii ]
原子論におけるゼンネルトの位置付け。
出版されたばかりの、拙稿「初期近代における読書と思想:ロバート・ボイルの化学的原子論の場合」『人文科学研究:キリスト教と文化』(国際基督教大学学報 IV-B)43(2012): 27-49 では、ボイルの原子論は、ゼンネルトの質的原子論からスタートしたと論じたわけですが、ゼンネルトそのひとの位置付けは学説史に依拠し、発表のときも論文でも説明しなかったことを思い出しました。
27日28日と原子論についての言説(教科書・事典的書物における原子論のついての学説史)を振り返ってみたわけですが、ゼンネルトについては専門の研究者の間でも認識が共有されていないことに気付きました。とくに原子論史におけるゼンネルトはニューマン等の研究を除き、そもそも意識されていないと思われます。
たとえば、カーゴンは次のように言います。
「エピクロスとルクレティウスの原子論哲学を復興した中心人物は、ピエール・ガッサンディである。彼は、フランスの聖職者、天文学者、自然哲学者であった。ガッサンディの原子論は、実質的にはエピクロスの原子論を改訂し、キリスト教化したものである。ガッサンディの主張では、すべての自然現象は、真空中を運動する個々の原子のさまざまな振る舞い、形、重さから生起するものであった。ガッサンディは、物理的世界における自然の力を生み出すものとして、物質的な発散気(エフルウィア=effluvia) を持ち出すことが非常に多かった。たとえば、電気的引力や磁気的引力は、引く物体から発出する小粒子の適当な流線によって引き起こされるというのである。」(p.80)私が「初期近代における読書と思想:ロバート・ボイルの化学的原子論の場合」(2012)で扱ったボイルの初期草稿「原子論哲学について」はハンターによれば、ウェストフォールの位置付けとは異なり、むしろ発散気(effluvia)による説明を主眼としています。(私はちょっと違うと考えていますが、発散気による自然現象の説明も十分な量取り上げられているので、ここでその点には触れません。)そうであるとすると、原子による自然現象の説明方式という点では、ガッサンディよりもゼンネルトの方が先であったと言わなければなりません。ガッサンディがゼンネルトにどこまで依拠しているかは調べてみる必要がありますが、説明方式という点ではガッサンディの前に、17世紀前半ずいぶん読まれた(大学の自然哲学の教科書として採用された)ゼンネルトがいます。やはり原子論史においても、ゼンネルトはもうすこし深く広く研究されなければならないでしょう。
ちなみに、ボイルがその草稿で使ったのは、ゼンネルトの『自然学覚え書き』(Hypomnemata physica,1636)です。この書の"HYPOMNEMATIS III"が "De Atomis & Mistione" です。「原子とミクスト」です。問題領域が明らかに純粋に物理的な領域から広い意味での化学的領域に移されていることがタイトルだけからもわかります。私の目には、『自然学覚え書き』の基本的は問題構成そのものがガッサンディを先取りしているように思われます。(その点は別途探究する必要があります。)というふうなことを考えていました。やはりファン・メルセンをもう一度見てみようと思い、本を探しはじめました。記憶していた場所にありません。1時間ほど(泣きそうになって)部屋中を探し回りました。放置していた片づけ・掃除もすこしですが手を付けました。やっと見つかったときには、部屋は発掘現場のようになっていました。嗚呼! 誰もせいでもありません。自分が整理をさぼっていたせいです。
今月は、ここでやっと100枚です。ひとりで4時50分、室温19度。雨は上がっていますが、まだ晴れてはいません。新一年生が起きてくるころには日射しが玄関に射し込むようになりました。夏日の予感。
→時間が経ってもそれほど晴れてはきませんでした。薄曇りです。
→お昼頃には、かすみがかかっているような感じは残りましたが、晴れといえる空になりました。おおきいちびは午後部活。新一年生は東急に行ってパックゲーム(ポケモンバトリオ)をしたがったので、私が連れていきました。数回してすぐに帰りました。強いパックを使ったので、あっけなく勝利していました。
ちいさいちびは、今日は一日家にいて、宿題に取り組んでいました。4年生のときはいろいろあってあまりきちんと勉強することができていません。面倒だ面倒だといいながら、宿題だけはなんとかきちんとやるようになっています。[山口義久氏の論文]
これまで気付いていませんでしたが、山口義久氏の論考は、私の関心に沿うものです。簡単にリストを作っておきます。山口義久「ソクラテスの夢とイデア―『テアイテトス』201D―206Bの解釈―」『古代哲学研究』VIII (1976): 1-9
山口義久「プラトンのφυσιsについての覚え書―対象としてのφυσιsを 中心にして―」『古代哲学研究』X(1978) : 1-10
山口義久「プロティノス哲学における「可能」と「現実」―『エンネアデス』II 5―」『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』第27巻(1979) : 19-33
山口義久「アリストテレスにおけるΕΝΕΡΓΕΙΑとΚΙΝΗΣΙΣの区別 ―Ενεργειαの多様な意味の間におけるその位置づけ―」『古代哲学研究』XI(1979) : 19-33
山口義久「プロティノスの感覚論」『西洋哲学史研究』1(1980) : 23-32
山口義久「アリストテレスの質料に関する一考察―「構成因」と「基体」―」『西洋古典学研究』XXXI(1983) : 32-42
山口義久「 アリストテレスにおける質料と可能性」『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』第31巻(1983) : 25-38
山口義久「プロティノスにおけるイデアと知性」『人文学論集(大阪府立大学人文学会編)』第3集(1985) : 33-49
山口義久「 内在と超越をめぐって―アリストテレス・プロティノスとイデア論―」 『理想』第636号(1987) : 38-48
山口義久「ストア派宇宙論の二つの原理」『人文学論集』第6集(1988): 49-60
山口義久「懐疑主義のパラドクス」『人文学論集』第7集(1989) : 35-52
山口義久「ソクラテスと産婆術」 『人文学論集』第9・10集(1991) : 59-75
山口義久「ストア派論理学の歴史的意義について」『文化学研究集録(大阪府大総合科学研究科)』第4集(1994) : 13-25
山口義久「初期ストア派の生命論」『人文学論集』第13集(1995) : 17-32
山口義久「インドとギリシアの古代「原子論」―比較思想の基本的問題―」 『人文学論集』第14集(1996) : 99-117
山口義久「カルネアデスの懐疑主義」『人文学論集』第15集(1997) : 31-45網羅はしていません。他にも『形の文化誌』等に掲載されたものがありますが、ここにはとっていません。
大阪府大の紀要に掲載されたものは多くウェブで入手できます。
山口義久「アリストテレスの質料に関する一考察―「構成因」と「基体」―」『西洋古典学研究』XXXI(1983) : 32-42
p.34 「湿・乾、熱・冷が、構成された物体の質料である(P.A. II 1, 646a17-8)
という説明を見ると、この要素性質がそのまま質料となっていると受け取れる。」
p.35 「この単純物体[火、空気、水、土]は通常「構成要素(元素)」と呼ばれるものであるが、 Ar. はプラトンと同様、これを直接その名で呼ぶことを避け「所謂構成要素」という表現を好んで用いている(G.C. II 1, 328b31; 329a26. Ph. I 4, 187a26 その他。Cf. G.C. II 3, 330b8))。むしろ先の構成性質の方を単純に「構成要素」と名指ししてさえいるのである (G.C. II 3, 330a30以下)。」
p.42 結論 「質料の、「ものがそれから生じるところのもの」という規定と、「基にあるもの」という規定とは相異なる方向性をもつこと。前者のうち構成因としての質料概念は或る意味で形相的な構成因子を含意すること。また、変化の始点として捉えられる場合には、質料のうちにも何らかの変化が含意されていること。それに対して、基体としての質料は基本的に変化における存続項であるが、生成が他の変化から区別されることによって、質料の基体としての性格が制限されることなど。」個人的には「基体としての物質」概念の歴史は十分には追究されていないように思われます。17世紀のおいてもそのことは問題だったと私は考えます。
[原子論の基本文献]
昨日の『科学史技術史事典』の「原子論」の記述があまりにすごいので、もうすこし使える記述はないものかと考えていたら、昔、翻訳をしたことを思い出しました。次です。A. G. M. Van Melsen ファン・メルセン「原子論:古代から17世紀まで」『西洋思想大事典』(平凡社、1990): 70-75
Robert K. Kargon カーゴン「原子論:17世紀」 『西洋思想大事典』(平凡社、1990): 76-84
この長さの邦語文献ではこの記述が一番よいと思います。ウェブで簡単に調べた範囲ではこれを使ってくれている方はいません。ファン・メルセンは原子論に関心があるのなら読んでおいた方がよいと思いますが、たぶんその知識が広まっていないのだと思います。
ひとりで5時35分、室温19.5度。雨。まるでもう梅雨であるかのような雨が降っています。昨日の帰途も雨でした。日曜日の宿題がまだ残っています。手間のかかる仕事です。朝10時までのなんとか3つの郵便物をつくるところまでは進めました。
[極微と原子]
卒論ゼミの学生がインドの「極微」説を取り上げました。私はほとんど知らない世界です。すこし勉強しようと思い、ウェブで次の論文をダウンロードして読みました。
山口義久「インドとギリシャの古代「原子論―比較思想の基本問題―」『人文学論集(大阪大学)』14(1996): 99-117
山口さんは古代ギリシャの専門家のようです。それが成立してきた背景に注目する限り、「原子」と「極微」は異なるということになるようです。
それとは別に、デモクリトスの「一次性質/二次性質」について触れる部分は私には非常に興味深いものでした。(デモクリトス自身はもちろん「一次性質」「二次性質」といった表現を使っている筈はないのですが、デモクリトスの研究者がわりとあっさりと「一次性質」「二次性質」という用語を使っているのは、私には新鮮です。個人的には、山口さんの主張に従えば、この文脈で「一次性質」「二次性質」という用語を使うことにも慎重さが求められると思いますが、「 」をつけるだけですませておられます。)
それとはまた別に山口さんは『科学史技術史事典』の「原子論」の項目を引用し、批判しています。気になるので、『科学史技術史事典』を足許から引き出して、その部分を読んでみました。正直に書きます。すごく気持ちの悪い文章です。いろんな箇所に????です。まず山口さんが問題とする箇所を引用してみましょう。(p.105)
「原子論は、万物が単一、不変の粒子からなるとした点でパルメニデスの不変性の思想を、また粒子のたえまない運動を考えた点でヘラクレイトスの流転の思想を受けついでいる。したがって古代において両極をなす思想の総合であった。あらゆる現象を真空と原子に還元したのは、還元の極致といえる。真空の導入は、感覚以下の究極粒子を想定したこと以上に大胆なものであった。その運動は外からの力によって行われるのではなく、原子に内在するものであり、原子が不変であると同様、永久不変のものとされた。原子論は、万物の形成をもっぱら原子の内在的性質によると考え、超越者をたてず、精神現象にいたるまで原子論で通そうとした。」(pp.332-3)
やはり、????です。山口さんは、この「記述は一般に流布している誤解のいくつかを代弁している可能性がある」として丁寧に訂正の作業をされています。そして、「これを最初に言い出した人が誰であったかは大した問題ではない」とされています。個人的には逆に、この誤謬を誰が言いだしたのか、どういうふうに受け継がれたのかに関心があります。
(すぐには見当がつきません。旧い科学史の安直なまとめのような気がしますが、まとめが強引だったとしても、プロの科学史家であればもうすこしセンシティブに書くと思われます。うーん。)
(歴史記述の問題として、こうした教科書的記述に含まれる問題点の系譜を追うことも意味のある仕事だと思われます。)『科学史技術史事典』の「原子論」の項目はそれ自体興味深いので、引用を続けましょう。
「原子論が排斥されたのは、それがあまりにも唯物論的であったためである。古代ギリシャ以来、均質粒子論と異質粒子論の二つの立場が交互に追求されてきた。アナクサゴラスはエンペドクレスの四元素をふまえて、4種の異質粒子を考え、デモクリトスは形と大きさは異なるが均質粒子を唱えた。アナクサゴラスの粒子は、その性質を変えることなく無限に分割できたが、デモクリトスの粒子は無限に分割できない。・・・
後世の学者を刺激したのは、むしろアリストテレスがすべての化合物にそれぞれの最小粒子(minima naturalia)が存在するとしたことだった。いわば近代の分子に相当するこの粒子は、化学現象の説明には均質原子よりも威力を発揮した。したがって17世紀初期に、ゼンネルトやド・クラーヴらの化学者は、この最小粒子やエンペドクレス的異質粒子を採用した。しかし、17世紀中葉、原子論が全面的に復活されると、学者の関心はデモクリトス的な均質粒子へと移行した。」
「原子論の全面的復興のためには、二つのことが解決されなければならなかった。アリストテレス主義と原子論を含めて古代の体系を排除したF.ベーコンの方法論との調整と、原子論にまつわる無神論的含蓄の排除である。ガッサンディやチャールトンの努力によって原子論がキリスト教化された。その結果、17世紀前半では、ガリレオが凝集力を原子論的に扱ったように、特定の問題に適用されたにすぎないが、後半では自然現象をすべて原子論で説明するようになった。ただし、均質ではあるが無限可分性の粒子を考え、真空を認めなかったデカルトのように原子論といえない立場もあった。ニュートンは圧倒的に真空部分の多い、物質の階層的な構造を考えた。のちに「くるみの殻理論」(nut-shell theory)と評されたこの原子論は、18世紀を通じておこなわれ、ボスコヴィッチは、この原子をさらに非物質化して力の中心の点とした。しかし18世紀の化学者は原子論に批判的だった。たとえばラヴォワジエはこれを形而上学的なものと断じた。そのラヴォワジエの提唱した33種の元素に対応する異質原子を提案したドールトンによって、原子論は19世紀初めに化学に重要なものとなった。しかし、デーヴィやプラウトのように均質粒子に固執し、物質の単一性を主張するものもいた。」 (p.333)
うーん、このまとめ方には悶絶します。時間があったらゆっくりと腑分けしたいと思います。すこしもとにもどって山口さんが引用する文献を見ておきたいと思います。
山口さん自身のものとして次を挙げています。山口義久「デモクリトスとアリストテレス」井上庄七・小林道夫編『自然観の展開と形而上学:西洋古代より現代まで』(紀伊国屋書店、1988), pp.31-56.
私には非常に有効な論文でした。個人的にはほぼこれでよいのではないかと思います。(私の知識と感覚ではこの記述はとても正鵠を得ているように思われます。)
p.41 「したがって、アリストテレスが物体について考察する場合に、水のような流動体をモデルにして考えていることの現われである。」
→これは大切なポイントだと思われます。つまり、物質を考えるとき、われわれはどうしてもかたい原子からなる物体をイメージしてしまいがちであるが、アリストテレスが物質存在のモデルとしていたものは、水のようなあるものが空隙のすべてを埋め「相互に場所を譲り合うことによって動く」流動的な存在であったということになります。もちろん我々原子論を意識的にせよ無意識にせよとる見方では、水のようは流体でさえも分子からなり当然分子と分子の間には空間(真空)が存在することになります。そういう我々からは、そもそもアリストテレスの物質がうなぎのようにつかみがたい。
p.51 「(実際、アリストテレスが「単純物体」と呼ぶものを「構成要素」と見なすなら、その通りである。ただし、『生成消滅論』の構成要素論からすれば、要素性質対が構成要素であることになる。)」
p.47 「デモクリトス(あるいはレウキッポス)自身の表現で「アトモン・ソーマ」と言われている例は見当たらない。」
→つまり、デモクリトスのアトムは、ただちにそしてただ物理的存在であったわけではない。山口さんの表現では「区別されない仕方で「理論的」であると同時に「物理的」な存在であった」エレア派の「あるもの」と同じ存在資格であったとみなされなければならない。ついでに気になったので次のものも読みました。
安孫子信「実証哲学の誕生」井上庄七・小林道夫編『自然観の展開と形而上学:西洋古代より現代まで』(紀伊国屋書店、1988), pp.251-291.
これも興味深い論考でした。コントは、今所謂実証主義的なものとは別の場所にあったと思います。(確かにその起源ではあるでしょうが。)そういえばこの書物に関しては、ずっと以前に読んだ章もあります。そのひとつが次です。
田村均「ジョン・ロックと微粒子説」井上庄七・小林道夫編『自然観の展開と形而上学:西洋古代より現代まで』(紀伊国屋書店、1988), pp.191-223.
これは私のテーマに関わります。書き込みを見ると、相当丁寧に読んでいます。出版年と書き込みの文字からして、私が外語に着任してからあまり時間の経っていない頃、つまりまだまだ初々しかったころの読書だと思われます。
書き込みと傍線のある箇所を読んでみると、ここでの田村均さんの議論は正鵠を得ていると思われます。
ひとりで5時15分、室温19.6度。正確な時計がもとの場所に戻っていました。おおきいちびは神奈川にいってサバイバル合宿だそうです。正確には、1年生がバスで神奈川のある施設に行って、自分たちで食事を作らないと飯が食えないという状況下、チームでなんとか頑張るというもののようです。昨日そのチームのメンバーと買い出しに行っていました。飯盒でご飯を炊いて、カレーを作るようです。定番ではあります。
本日もわずかですが研究室の片づけを続行します。途中(三鷹駅構内)でお弁当を買って昨日より1本遅い電車に乗りました。
午後は、3限4限5限と授業が続きます。いつものことですが、怒濤です。やってくる学生に対応し(ほとんどが判子です)、飛び込んでくる仕事のメールに対応し、そして時間になると教室へ。
とくに5限の卒論演習は、16人にまで膨れあがりました。教室にいっぱいになりました。
ひとりで5時45分、室温19度(電波時計の表示)。正確な温度計は息子がおもちゃにして今は行方不明。会議の日。
意を決して、研究室の片づけに着手することにしました。10時6分武蔵境発の電車に乗りました。2限の授業に出る学生が大勢乗っていました。2限は10時10分スタートなので教室にはいくらか遅刻して入ることになります。
まずは、不要な書類の整理。一気というわけにはいきませんが、1時間半分ぐらいは進めました。12時40分から2012年度第1回コース会議。司会をします。
→1時間半ですが、疲れました。学部長からの要請による会議です。実際にそのことに関し運営の体験がある方が的確な回答を導きだしてくれたと思います。一安心。4限の時間帯は、研究科教授会。
5限の時間帯は、研究院教授会。
とくに伸びることなく、時間内に終了しました。はやくおわってくれるのはたすかる。帰途雨がすこしですが降っていました。帰宅すると次の本が届いていました。
神崎 繁・熊野純彦・鈴木泉責任編集
『西洋哲学史 2 「知」の変貌・「信」の階梯』
講談社選書メチエ、2011
この哲学史シリーズは、全4巻で第3巻(ポストモダンの前に)以外は出版されているようです。『西洋哲学史 1 「ある」の衝撃からはじまる』、『西洋哲学史 4 「哲学の現代」への回り道』となっています。
いつか授業で全巻読んでみようかな。
ひとりで5時30分、室温16.7度。新1年生の登校がすこし遅れましたが、8時5分過ぎには私と妻だけが家に残されます。雨上がりの好天です。予報では25度まで気温が上がるということです。夏日。新1年生は半袖ででかけました。
朝から『化学史研究』の編集の仕事をずっとやっていました。昼食をはさんで仕事を続行し、午後1時半、大きな封筒を3つ郵便局に投函してきました。完了というわけではないのですが、最後までの目処はつきました。
お昼に次のものが届きました。
吉本秀之「初期近代における読書と思想:ロバート・ボイルの化学的原子論の場合」『人文科学研究:キリスト教と文化』(国際基督教大学学報 IV-B)43(2012): 27-49
アブストラクトは公開します。次の通りです。ボイルが現実に手元において使った書物を明らかにするため、第1に私自身が『ボイル著作集』『ボイル書簡集』の全体にわたる引用分析を行い、第2にブルガリア人科学史家アヴラモフ並びにロンドン大学歴史学教授マイケル・ハンターとの共同研究により王立協会ボイル草稿の全体をも分析対象として解析を行った。こうした分析結果と初期近代における読書習慣の研究成果に基づき、ボイルの化学的原子論は、ゼンネルトの『自然学覚え書き』Hypomnemata Physica (1636)における質的原子論から出発し、ガッサンディの厳密な原子論へと展開したことを論じた。さらに、「ミニマ・ナチュラリア」の伝統にたつゼンネルトの質的原子論においても、「分子」を導入したガッサンディの原子論においても、化学的現象の説明のための化学的粒子の想定が基本にあることを指摘した。吉本秀之「初期近代の読書空間:ロバート・ボイルの事例」『Newsletter 科学史フォーラム』No.11(2012): 2-4
お世話になった国際基督教大学キリスト教と文化研究所のスタッフのみなさんに深く感謝いたします。
夕刻、次の本が届きました。
林京子(聞き手:島村輝)『被爆を生きて:作品と生涯を語る』岩波ブックレット、2011
ブックレットは短い。すぐに読んでしまいました。実はこのブックレットは予想が的中して、私の読みたい内容になっていました。上海に住んでいた子供時代のことを林京子さんは多く語っています。そしてトリニティでのこと。
ひとりで4時30分、室温15.2度。月曜日は2回目の授業の日。そして、来週は、休日。
→月曜日も授業がはじまってしまえば怒濤です。2限は、教室のキャパに対して、20人〜30人が超過しています。事務に教室変更をお願いしましたが、1週間たっても音沙汰なしです。
昼食後、研究室を急いで片づけ、ゼミ(大学院の授業)を開くことができるようにしました。コピーを取ろうと思ったものがあったのですが、力尽きて学生に任せることとしました。
3限は二人の院生と3人ででしんみりと進行しました。
4限は院生がひとり増えて、出席学生5人となりました。私の部屋の状態からすればちょうどの数です。イタリア人の留学生の方が「原爆文学」について発表してくれました。イタリアでの卒論(『林京子と証言の大切さ』2006)に基づきます。「原爆文学」は私には盲点でした。非常に興味深い発表でした。
その後、学部長から電話で呼び出されました。リフォームされた学部長室にはじめてお邪魔し、話を伺いました。立場上引き受けざるを得ないと以前から考えていた案件だったので、話はすぐに終わりました。終わらない案件は、学部執行部と事務で対応を考える、具体的にすこしずつ処理していくということでした。(具体的内容は聞きませんでした。)夜次の本が届きました。
大田洋子『屍の街』潮文庫、1972原爆文学についてざっと知るには、ご自身広島で被爆された科学史家中山茂さんの次の文章を読むのがちょうどよいと思います。
中山茂「世界の原爆文学」『思想の科学』1969年8月号、pp.14-25.
ひとりで5時、室温14.8度。あさいちばんで次の本が届きました。
川口 隆行
『原爆文学という問題領域』
創言社、2008今日は12時から会議。編集委員会、事典編纂委員会、科研費打ち合わせと続きます。新中学生バスケ部は、7時20分にお弁当をもって出ると言っています。いつもよりはやい。私はたかだた11時前にでればよい。
→ほぼいつも通りに動いて、東工大には11時50分過ぎに到着しました。
会議は3つ続きましたが、雨のなか7時40分には帰宅できました。8時かなと予想していたので、まずまずです。
ひとりで5時30分、室温15.5度。[バスケ部]
新中学生は、土曜日なのに入ったばかりのバスケ部の練習だといって朝から出かけていきました。2時前に帰宅して、お腹空いた、疲れたといってご飯を食べ、しばらく休んでから友達といっしょにまた吉祥寺のスポーツ店にTシャツを買いに行きました。
明日は、どこだか知らないけど、試合があるので観戦に行くのだそうです。
妻は、中学に入学させたと思ったら、バスケ部に入れたようなものだとごちていました。さもありなん。
本人は仲の良い友達といられるのがうれしいのでしょう、疲れてはいますが、楽しそうです。ただし、休みさえないとは予想していなかったようです。
ひとりで5時30分、室温16度。妻は最近では今日が一番忙しい日。朝子どもたちがでかけてから、新宿にでかけます。月に何回か午前中だけ仕事に行くことになりました。
小学1年生のほぼ直前に帰宅し、一緒に食事をし、一休みしたあと、小学1年生との約束によりヨドバシへ。
帰ってきてから30分もしないうちに、今度は中学の保護者会。半分ぐらいはまったく知らないお母さん達と同席します。妻によればこれが疲れるそうです。2時間以上かかったでしょうか。
帰ってきて食事の準備と洗濯。部活は土日もあるということで、運動着の洗濯があります。これは新小学生のも小学5年生のもあります。週末にもってきて月曜日にもっていくリズムになっています。[すべては隠岐さんのつぶやきで知りました]
月曜日3限の授業に卒論で「原爆文学」を扱ったという博士の院生が顔を出してくれました。「原爆文学」は盲点でした。
忙しさにかまけて、「原爆文学」のこともすこし調べておこうと思い、そのまま放置していました。
今朝、隠岐さんのつぶやきのつぶやきに、「2012年4月12日、13日の『西日本新聞』に、“「原爆文学」以後 研究会 次への議論”と題する大矢和世記者の記事が掲載された」というつぶやきが引用(?)されていました。
そこから、「原爆文学研究会」なるものの存在を初めて知りました。21世紀にはいってから『原爆文学研究』という雑誌を出版しています。ウェブにサイトがあり、出版から1年たったものは、pdf でアップロードされています。最新刊は第10号(2011年12月25日発行)です。
目次を見ると、いわゆる昔の文学研究とはちょっと違うようです。ともあれ何点か論文・記事を読んでみることにしました。長野秀樹「科学としての原爆」『原爆文学研究』第5号(2006): 1-11
山本昭宏「核エネルギー言説の戦後史〜原子核物理学者を中心に〜」第8号(2009): 2-15
この2点を読んでみました。科学史の方ではありません。科学史家が扱った場合と違う点は多いのですが、参考になりました。
次に知ったのは、山崎正勝氏の『日本の核開発:1939〜1955−原爆から原子力へ』(績文堂)が「科学ジャーナリスト賞2012」を与えられたというニュースです。科学ジャーナリスト賞という賞の存在も同時に知りました。大賞は、「ETV特集 原発事故への道程」(2011年9月18日、25日)です。朝日新聞の中山由美記者の「プロメテウスの罠・第3部 観測中止令」(2011年11月7日〜11月23日)にも「科学ジャーナリスト賞2012」が与えられています。
また、2009年3月7日・8日に東工大で開かれた「違いを越えて―日韓核問題国際シンポジウム―」の記録も知りました。組織委員の代表は、山崎正勝さんがつとめています。私はレジメ(アブストラクト)をダウンロードして読んだだけですが、非常に興味深いシンポジウムでした。2009年春という開催日時も絶妙です。シンポジウムの参加者は、知り合いと言える方は少数ですが、お名前を知ってる方が中心です。
→前にも記しましたが、韓国の核開発=原子力導入史は、日本のことを知る上でも非常に有益だと思われます。そして、二宮さんの死去。心より、ご冥福をお祈りします。
ひとりで3時、室温17.4度。この時間は朝の起床と呼べるのでしょうか。夜中に目覚めただけでしょうか。微妙です。
→やはり夜中に目覚めただけでした。4時に再度就寝。5時45分頃おおきいちびの目覚めた音が聞こえたので再度起床。木曜日は一度はじまると怒濤の展開です。
大学に行って印刷室でまずコピー。それから研究室で、学生のもってきた書類に判子。それから博士論文を1点受け取り、いろいろ話を伺いました。
3限、4限、5限の授業。3限は、ほぼ教室がいっぱいです。受講者数はたぶん百数十人。
4限の発表は4人。パワーポイントを使ったのが2名、なしが2名。学生たちが読むものは、半分は私の知らない世界になっています。[部活]
おおきいちびは今日から部活です。昨日まではお試しで今日から本格稼働ということです。週に一度朝練があるということで、7時に家をでました。
入ったのはバスケット部。6〜7名の桃三軍団でバスケット部に入部しました。昨日はその軍団でシューズやウェアを買いに吉祥寺に行っています。急なことなので、ばたばた、ばたばたしていました。ちゃんとしたスポーツ店に行ったようです。正価なので高い。予定していた数量は買うことができず、夜バッグは友達のお兄さんに借りに行き、その他はまた他の安いお店(またはバーゲンのときに)買うことで決着しました。
本人は楽しそうですが、なんだかなー。厳しいお母さんなら学校にクレイムをつけるところです。
ひとりで4時、室温16.0度。妻は一応起きてきましたが、まだまだのようです。子どもたちを送り出してからまたダウンしています。新一年生の分もあわせて私が昼食を用意する必要があります。鶏ガラスープとブタのみそ漬けにしました。朝のスーパーはおじいちゃん、おばあちゃんたちで混んでいました。空いているときは空いているスーパーです。人の集まる時間帯というのがやはりあるようです。
会議の日。言語文化学部の最初の教授会があります。
ひとりで3時55分、室温16.0度。今日は1限にリレー講義(「表象文化論」)のイントロの仕事があります。子どもたちより先に家をでることになります。
→7時半に家をでました。おおきいちびの顔は見ないままとなりました。逆向き(東京から離れる方向)の電車なのに混んでいました。とくに、通学中の中学生、高校生が目立ちました。ただ忘れているだけかもしれませんが、はじめてのことで新鮮でした。大学には8時過ぎに着きました。
TA をやってもらう院生に仕事のことを説明しつつ、実際にやってもらい、仕事の手順を覚えてもらいました。初回なので、授業開始前に教室に入り、機器等の点検をしました。最終的に例年より少な目の受講者となりました。
大学で行うべきこともあったのですが、その気にならず、そのまま帰宅しました。妻がダウン中でした。新一年生の風邪をもらったか、蓄積疲労かだと思われます。新一年生はまだ給食がなく(来週の月曜日からはじまります)、12時半前に帰ってきました。さすがにお腹が空いているようです。よく食べました。
そして夕ご飯の前後、食べ過ぎました。夕ご飯の前にピザを2枚食べ、夕ご飯のあと、ミルクをコップに一杯のみ、ブドウを一口口にし、クルト(ヨーグルト)を3本食べました。こういうふうに多く食べられるようになったのは、新入生の緊張がやっととけてきたせいだと思われます。そして、2階に行って布団の上で休憩しているとき、咳をして、ミルクを戻してしまいました。明らかに食べ過ぎです。本人の弁では、ブドウが酸っぱかったということです。
ひとりで4時35分、室温14度。月曜日の授業は今日がスタート。
2限から始まります。準備があるので、新1年生が家をでたのを確認してからカバンをふたつもって大学に向かいました。本がたくさんあり、手を持つには重すぎると感じ、本だけはリュックにいれて背負うことにしました。
教育情報化支援室でAN卓の鍵を借り、印刷室で明日の1限の授業の分まで配布資料を印刷しました。原稿は3枚で250部。全部で750枚。なかなかの量です。
500枚の紙を抱えて教室へ。予想では去年よりずっと楽になるはずだったのですが、ほぼ去年を同じぐらいの学生が出席しています。このあたりは本当に予想の難しいところです。
どう見ても220〜230人程度です。紙は250枚用意しました。でも終わってみると、紙がないという学生が20人以上は出現しました。不思議ですが、これも仕方なし。来週用意することにしました。3限は、2名の院生。
4限は、1名の院生に3名の学部学生。
ひとりで7時、と思って下に降りたら、妻が先に起きていました。室温14.2度。快晴。昨日のまるで冬にもどったかのような冷たい雨は上がり、今日は春の好天です。東京近辺では絶好の花見日和ということです。お昼前、新1年生はママといっしょに吉祥寺へ、新中学生は卒業式のときに行けなかったスイパラへ、昼食後ちいさいちびはお友達に誘われて近所の公園へでかけました。昼食は、ちいさいちびがつくり、私とちいさいちびだけで食べました。
というわけで午後は私が家にひとりとなりました。部屋の片づけならびに授業の準備については相当程度進めることができました。夕刻次の本が届きました。
Elizabeth Potter,
Gender and Boyle's Law of Gases
Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press, 2001
著者がどういう方かどういう内容の本かまったくわかりませんが、とりあえず、タイトルで買ってみたものです。「人種、ジェンダー、科学」というシリーズの1冊です。
ひとりで4時25分。室温18.6度。今日は冷たい雨に伴い、これからどんどん気温が下がって、日中は11度ぐらいで推移するそうです。3月に逆戻りした天候になるそうです。[106頁]
昨日から始めている月曜日(と火曜日)の授業の準備ですが、最後に残ったのは、大学院の授業です。一日二日で終わる種類のものではないので、終わっていなくても当然なのですが、ともあれ、原子力と検閲としてまとめたものをプリントアウトしてもう一度読んでおくこととしました。
前回は(2011年)5月1日までをプリントアウトしました。それで49頁。今回は、(2012年)3月12日まで。106頁です。それ自体サブスタンシャルだと言えます。たぶん1時間では読み通せないと思います。
時間はかかりますが、作業の方向を思い起こすために、この作業はたぶん定期的に必要になります。→今回読み直してみて、気がついたのは戦争の持続時間です。日米戦争は、3年半で終結しています。朝鮮戦争は、3年強続いています。ほぼ同じぐらいの持続時間ですが、多くの日本人にとっては日米戦争の方が圧倒的に長く感じられているのではないでしょうか。それはまたそこに記した通り、アメリカが日本を占領した6年半と比べても約半分です。逆に言えば、占領は、日米戦争の期間の倍近く持続しています。たぶんそうした感覚が日本人には欠けていると思われます。
(事柄のもつインパクトの点では、致し方のないところもあります。しかし、歴史として冷静に振り返ったときには、そうした点にも注意すべきだと思われます。)
ひとりで5時5分。室温18.4度。
昨日は疲れてすぐに寝てしまいました。同じく、疲れてテレビを見ながらすぐに寝てしまった新一年生は夜中なんどか寝言で叫んでいました。新しい環境で強い緊張があるようです。新一年生は、体調は100%とは言えませんが、なんとか学校に行ってくれました。ほんとうにやれやれです。大丈夫だろうと思っていた新中学生が出かけてから10分ほどで戻ってきました。忘れ物をしたのだそうです。忘れ物をつかみ、走って出かけました。
妻は、今日から午前中短い仕事。やはり8時過ぎにでかけました。昨日と同じく、午前中は私がひとりとなりました。来週の月曜日と火曜日の授業の準備をできるだけ終わらせようと思っています。
ひとりで5時10分。室温17.4度。授業は今日がスタート。3限4限5限。お昼休みに学生たちがもってくる書類に判子を押す必要があります。
妻は面接があるということで9時前に家をでました。つまり9時の時点で家にひとり。授業の準備を確認し、はやめの昼食をとって、大学にでました。印刷室でコピーをとり、そのコピーを研究所においてから、研究室へ。
昼休みに2人の学生に判子を押しました。コース変更願です。役職による仕事です。そして、TA をやってもらう院生と打ち合わせ。続けて、3限の授業に向かいました。
はじまってしまうと怒濤です。4限はとりあえず8名、5限はとりあえず10名でした。帰宅すると、新一年生がお話があると言います。なにかとおもったら、授業中におなかが痛くなって保健室に行ったということです。熱もすこしあったと言います。新学期が始まる前すこし風邪気味でした。喉が痛いと言って小児科に行くとすこしですが喉が腫れているということでお薬をもらっています。月曜日は教室で咳をしたということで先生からわざわざ電話がありました。
妻の解釈ではきちんと食べていなかったことが主因です。私は、学校の教室は日当たりがよく暑くなりやすいので、軽い熱あたりかなと思いました。ともあれ、それほどひどい状態ではないのですが、明日は休むと言っています。明日朝起きてから説得の作業が待っています。机の上に次の本が届いていました。
粥川準二
『バイオ化する社会 「核時代」の生命と身体』
青土社、2012
目次は次の通りです。はじめに
序章 3・11 “以前”、科学 “以外”
二つの 「線」
被災地にて
地震・津波・原発事故
「津波の高さは 「北高南低」 なのに、死者の数は 「南高北低」」
社会的脆弱性
リスク社会再考第1章 家族のバイオ化 生殖補助医療技術
体外受精の先駆者、ノーベル賞を受賞
「人工生殖技術の見えないコスト」
不妊治療としての生殖補助医療技術
生殖補助医療技術のバリエーション
(1)人工授精
(2)体外受精
(3)代理出産
家族のバイオ化/脱バイオ化の逆説
生殖補助医療技術の現状
生殖補助医療技術の問題群
体外受精のリスク
体外受精からES細胞へ第2章 未来のバイオ化 遺伝子医療と出生前診断
「私のDNAをググってみた」
『GATTACA』
ヒトゲノム計画
ヒトゲノムと原子力
遺伝子医療
(1)遺伝子治療
(2)遺伝子診断
(3)出生前診断
(4)デザイナー・ベビー
遺伝学化した社会
ダウン症と出生前診断
出生前診断の結果にもとづく中絶
出生前診断にとって 「リスク」 とは?
代理出産+出生前診断第3章 資源のバイオ化 幹細胞科学
宗教? それとも社会?
幹細胞とは?
ES細胞の時代
ファン・ウソク事件
iPS細胞の誕生
万能細胞はどのように「万能」 か?
多能性とは?
倫理的な幹細胞
イアン・ウィルムットの撤退
社会的問題第4章 信頼のバイオ化
マインド・リーディング
語りえぬもの
ハーヴェイ・ネイサンの憂鬱
法廷に立つ脳
脳内現象と心的活動
信頼と不信第5章 悲しみのバイオ化 抗うつ薬
社会的殺人としての自殺
うつ病とその治療
うつ病の遺伝学化
抗うつ薬の神話
遺伝学化、生物医療化、バイオ化と社会的因子第6章 痛みのバイオ化 腰痛とその治療
当事者として
個人的な体験
腰痛を越えて
「身体的な痛み」 と 「社会的な痛み」
「 社会的な痛み」 の処方箋第7章 市民のバイオ化 原発事故
3・11のフクシマ事故
郡山市立明健中学校にて
原子力発電と放射線
放射線の人体への影響
生まれてくる子どもへの影響
放射能差別
生物学的市民権
出生前診断と 「産み控え」
『チェルノブイリ・ハート』
原子力的権力おわりに
ひとりで6時。室温18.1度!!。早朝からでしょうか、雨が降りました。今は止んでいるのでしょうか、小降りでしょうか。今学期は今日からスタートです。お昼休みに学生相談会。主として新学部の1年生を念頭において、履修相談に応じます。7〜8名の教員が2時間程度テーブルを出します。
4限の時間帯に言語文化学部協議会の第1回目。ちょうど90分で終了。
久しぶりの仕事で疲れました。帰宅すると頭痛があり、はやく休みました。
ひとりで5時45分。室温16度!。昨日の暖かさがまだ残っています。昨日子どもたちはみんな暑いと言って帰ってきました。
ひとりで6時30分。室温13.4度。午後は22度近くまであがるということです。新学期スタートとともに春です。ちいさいちびが一番先に下に降りてきました。新一年生はふたりとも緊張のせいでしょうか、疲れ気味です。
昨日いつもより遅くまでテレビを見たせいでちょっと寝起きが悪かった新小学生ですが、8時に行くと思いこんでいるようです。5分前にいきなり着替え始め、すぐに外に出ました。ランドセルと防災ずきんをもってほんとうにひとりで8時に出ていきました。5年生のおねえちゃんの付添も要らないと言います。張り切っているようです。さっさと歩いていきました。
新中学生は、8時5分前、5年生はこれまで通りの時刻で出かけていきました。
新小学生は新小学生ですから、しばらくは10時半に終わって帰ってきます。
→10時40分、走って帰ってきました。急激な気温上昇で、暑かったようです。お友達のお家に呼ばれています。しばらく休んでから、ママの自転車の後ろに乗って、また出かけていきました。帰宅は2時半。その後、3時前後にちいさいちび、4時過ぎにおおきいちびが帰ってきました。妻は提出しなければならない書類の多さに音を上げています。私は地図だけ手伝いました。
午後8時前、次の2冊が届きました。ガンダーセンさんが参考文献として挙げていたものです。
ステファニー・クック『原子力 その隠蔽された真実―人の手に負えない核エネルギーの70年史』藤井留美訳、飛鳥新社、2011
Stephanie Cooke, In Mortal Hands: A Cautionary History of the Nuclear Age, Bloomsbury, 2009
邦訳とその原著です。普段は邦訳なら邦訳だけですませるのですが、今回は、もとの用語を押さえておきたくて、原著も同時に購入しました。
→まず、著者による「日本版特別章 3.11 巨大地震の襲来」「おわりに―日本版刊行に寄せて」&池澤夏樹「解説 核エネルギーと文明の寿命」を先に読みました。
364頁に本書の成立について次の言葉があります。「本書は、2009年にアメリカで刊行されたオリジナル版に、2011年の福島第一原発事故を受けて加筆(日本版特別賞、おわりに)したものです。また原子力開発史と日本の関わりをより明確にするため、オリジナル版から一部の章を割愛しています。」
原著があります。ぱっと見たところ、原著の第14章(インドの核開発を扱っている)と第15章(パキスタンの核開発を扱っている)あたりを省略したようです。それ自体非常に興味深い/重要な章だと思うのですが・・・。ちなみに、ガンダーセンさんが推薦する最後の文献(次)は、アマゾンにはありませんが、ウェブでpdf が入手できます。(最終バージョンではないかもしれません。)
H. G. Brack, Fukushima Daiichi: Nulcear Information Handbook: A Guide to Accident Terminonogy and Information Sources, Pennywheel Press, Davistown Museum, 2011
この種の書物は、こういうふうにpdf で入手できるのが一番便利です。授業で使うときとても便利です。
ひとりで6時18分。室温11.9度。明日からは春の気温になるようですが、今朝はまだ冬の寒さです。子の親でないとなかなか分かりづらいことかもしれませんが、入学式が続いて、私も妻もぐったりです。今日は、最後の買い物をして、明日から新学期がスタートです。大学のスタートは11日水曜日です。
[観音講]
父の葬儀のときの講が気になっていました。名前は、観音講というようです。観音講の現在は、どうもさまざまなようですが、そのときチームで歌われた/朗唱されたものは御詠歌と呼ぶようです。西国三十三観音霊場の御詠歌らしい。
ここまでわかるとYouTube に音と映像があります。正確な記憶はもちろんありませんが、たぶんこれで間違いなし。では、講とはそもそも何か? これが疑問になりました。
ウェブ上にある文献に次のようにあります。「講は本来寺院の講経や法会を意味する。さらに講経の参集者をも指し、信仰に基づく結合を意味する。参拝講は同じ信仰を持っている信徒が参詣のため組織した地縁集団である。」
基本はたぶんこれでよいでしょう。起源と展開をしっかりとフォローした文献がないでしょうか?
ひとりで3時10分。室温13.4度。[中学の入学式]
さて、本日は、おおきいちびの中学の入学式。やはり10時に始まり、2時間程度かかるようです。
われわれは8時50分出発となりました。おおきいちびはその前にお友達といっしょに行くそうです。留守番のちいさいちびと新一年生のためのおむすび、卵焼き、鶏焼きを大急ぎで用意して外にでました。新一年生は天気予報では2月並みの寒さだと言っていると教えてくれています。コートかとも思ったのですが、重すぎる気がしました。ベストを1枚ジャケットのなかに着込みました。風が冷たい。さむーという風でした。
荻窪中学に足を踏み入れるのは初めてです。校庭が予想より広い。サッカーのグランドが十分とれます。400メートルトラックは無理かなといったところでした。
土曜日ですが在校生もそろっていました。しばらく外で立っていましたが、様子をみて体育館の中に入りました。体育館も天上が高く、広い。新入生が57人ということで、空間に余裕がありました。
式の進行そのもののは小学校と大きく変わりませんが、小学校1年生のように応答がないのが中学ということでしょうか。妻と在校生の顔を見ていましたが、まだまだかわいい。こどもです。じゃれあっているのも子どもの姿です。
式が終わったら、いきなり PTA の役員の選出。その場で親が2クラスに別れて、選出です。妻はそれだけで緊張していましたが、こちらの組はすぐに立候補してくれる方で役員がうまりました。すばらしい。そのあと、写真撮影。留守番をさせている下の二人が気がかりなので、私は写真撮影後すぐに帰りました。ふたりで仲良く工作をしていました。ママの誕生日プレゼントを作ったようです。
急いで昼食の準備。まさにクイックランチです。妻と新中学生はそれから40分ほどして帰ってきました。お友達集団と体育着を受け取りに指定のお店によったということです。おおきいちびのかばんは私でもつらい重さがありました。
月曜日から給食もはじまり、すぐに中学生活です。本人は部活はバスケと言っています。はじめて聞きます。
妹に確認すると、お友達がバスケだからということです。この子の場合、これで納得です。
ひとりで4時40分。室温15度。昨日の追加で来た(メールでお願いしました)書類を朝の間に処理しました。デフォルトでは OS X に対応していない形式だったので、すこし苦労しましたが、なんとか対応策を探し出すことができました。
[小学校の入学式]
今日は午前中に小学校の入学式。
8時頃、お友達が迎えに来て、ちいさいちびはいつも通りでかけました。今日から5年生。入学式は10時からです。9時過ぎにでかけることになります。おおきいちびはお留守番をすると言っています。
→小学校の入学式は、6年ぶりだと思います。正確な記憶はありませんが、ちいさいちびのときは、まだ幼稚園にあがっていなかったなおの相手をしていたのではないかと思われます。式典そのものは40分で終了しました。その後、PTA のサークル活動の紹介、子どもと父母の写真撮影、さらに教室に入っての担任の先生からのご挨拶と続きました。おおきいちびのときの、写真撮影と教室での挨拶は思い出しました。結局ほぼ2時間です。
→着替えた新一年生が外にでたくてうずうずしていたので、9時過ぎに妻と私と3人ででました。途中で新しいクラスと担任の決まったちいさいちびに出会いました。ちいさいちびのもらったクラス表をもらって学校へ。正門の前には写真撮影の列ができています。新一年生がそこでの撮影を嫌がったので、学校に入って桜の木のしたでの撮影となりました。新一年生を受付まで連れていくと、あとは上級生のおねえさんが世話をしてくれます。我々は、会場の体育館へ。今日は寒かった。とくに気温が低いとき、体育館は底冷えします。33名の3クラスで99名。
先生は数名異動したようです。去年までいらした方で見えない方、去年は見なかった方が数名程度います。[2012年授業]
大学の授業(2012年版)を更新しました。中身はまだ整っていません。
月曜日までに準備できればと思っています。
ひとりで4時45分。室温13.8度。処理すべき書類が発生したので、朝一番で大学にでかけました。8時18分武蔵境発の電車です。事務の方々が大勢乗っています。大学は8時半始業なので、この電車に乗るとちょうど間に合います。
書類は、ほぼ1時間で処理することができました。研究室の片づけよりも、この部屋の片づけが先です。すぐにとって返しました。
ひとりで6時10分。室温14.9度。台風一過の青空となっています。[原宿で日向ぼっこ]
ちいさいちびとそのお友達のアテンドで原宿に行きます。
→10時の出発予定でしたが、9時50分に家をでました。ちいさいちびが友達の家に行って友達を連れてきました。私は駅前のコンビニでお金をいくらか降ろしました。
総武線を使いました。原宿に着いたのは10時40分頃でしょうか。この時間帯であればまだそれほど混んでいません。
子どもたちは、アイドルショップだけ入っていました。私はポケットに新書を忍ばせていましたが、日当たりのぽかぽかが気持ちよく、ただ店の外で立って待っていました。道行く人をぼんやりと眺めていました。
正午前、一通り、買い物がすんで、子どもたちはお腹がすいたと言います。竹下通りは、ちゃんとした食事のできるお店は多くありません。あるものを説明しました。目の前にある「はなまる」でよいという結論になり、うどんを食べることになりました。
お店のなかは当然混んでいて、並んでいます。しかし、うどんであれば回転もはやい。うどんを受け取ったあと、席を捜すのに1〜2分かかりましたが、まあこのぐらいは仕方ありません。
食後ももう1軒だけ行きたいということで、もう1軒付き合いました。
帰途は、順調に行けば、2時半に帰り着くはずでした。しかし、子どもたちは話に夢中になり、私はアーニー・ガンダーセン『福島第一原発 ―真相と展望 』(岡崎玲子訳、集英社新書、2012)を読むのに夢中になり、吉祥寺駅で乗り過ごしたことに気付きました。これも仕方がないので、三鷹まで行き、Uターン。時間の超過は10分以内ですんだと思います。
帰り着くと、でかけたとばかり思っていた新一年生はまだ家にいました。遠くにおでかけはしたくないということで、しばらくしてからセブンイレブン、セイユウ、恵比寿屋と駅前のお店をまわって帰ってきました。→ガンダーセン『福島第一原発 ―真相と展望 』は必要な本です。このサイトでも何度か指摘していますが、そもそも福島第一原発の事故がどのようにして生じ、いま福島第一原発がどういう状況にあるのかが正確には知らされていません。
必要なデータが欠損している以上、合理的推測(ガンダーセンさんは仮説と呼んでいますが)によるほかありませんが、ガンダーセンさんの提示する仮説は極めて筋のよい推測だと思われます。Arnie Gundersen & 妻のマギーへのロングインタビュー並びに追加取材をもとに構成したとあります。
組織としては、フェアウィンズ・アソシエイツ www.fairewinds.com主要参考文献としては、次の5点を挙げています。
Andrew Porteous, Dictionary of Environmental Science and Technology, 4th ed., Wiley, 2008
Stephanie Cooke, In Mortal Hands: A Cautionary History of the Nuclear Age, Bloomsbury, 2009
John Grant Fuller, We Almost Lost Detroit, Reader's Digest Press, T.Y.Crowell, 1975
Ernest J. Sternglass, Low-Level Radiation, Ballantine Books, 1972
H. G. Brack, Fukushima Daiichi: Nulcear Information Handbook: A Guide to Accident Terminonogy and Information Sources, Pennywheel Press, Davistown Museum, 2011
5点中3点に邦訳があります。
ステファニー・クック『原子力 その隠蔽された真実―人の手に負えない核エネルギーの70年史』藤井留美訳、飛鳥新社、2011
ジョン・G・フラー『ドキュメント原子炉災害』田窪雅文訳、時事通信社、1978
E・J・スターングラス『死にすぎた赤ん坊―低レベル放射能の恐怖』肥田舜太郎訳、時事通信社、1978
ひとりで4時10分。室温14.5度。気温は上がりました。今日は午後台風のような強風が吹くそうです。低気圧の中心気圧を見ると、台風の強さです。午前中に大学にでて、やはりいくらか片づけを行います。「台風」を避けるため、お昼過ぎには帰ります。
→朝一番(武蔵境8時半の電車に間に合うよう)で出かけました。メールボックスで郵便物を受け取ってから研究室へ。今日はプリンターのセットアップと部屋の片づけです。
プリンターのセットアップは予想より時間がかかりました。小一時間でしょうか。9千円のものなので、つくりはおもちゃのようです。高品質は期待できませんが、それでも一般的用途には十分使えると思います。本年度の研究費が使えるようになったらすぐにもうすこしましなものを購入します。
同時に書類の整理。ばっさりと捨てることができるものは捨てました。仕分けが必要なものはすこしずつ進めるしかありません。駅前の中華料理屋でいつもの焼きそばを食べて帰宅。ちょうど嵐の先陣が到着したぐらいの時刻でした。
ひとりで6時30分。室温11.6度。昨日の朝より気温が下がっています。よく晴れているので日中に向けて気温は上がっていくのでしょう。子どもたちは、いろいろな用事。予防接種にいぼ治療(ちいさいちび)。歯の定期検診(全員)。おおきいちびの予防接種は水曜日(予約なしでやってくれる医院がイヤだということです)。その間に、ちいさいちびはお友達といっしょにカラオケ。おおきいちびは塾の体験にヘアカット。新一年生は、吉祥寺でポケモンとママの買い物。
私が留守番役です。ちょうどよいので、新学期に向けて、片づけを始めました。机の上の山はともかく1つにしました。新学期までにゼロにできるかどうかは不明です。こういうことがあると、忘れてしまうこともあります。忘れている用件は遠慮なく催促して下さい。
ひとりで5時40分。室温12.3度。また下がりました。今日はおおきいちびの2回目のまゆゆのミニライブ(渡辺麻友『シンクロときめき』発売記念ミニライブ)の日です。同伴する父兄は、今回は母。応募するときに、父と母で分けて応募し、4月1日分は母同伴の分が当たったということのようです。(3月20日の項目参照。)
前回は、グッズを買う時間がなかったということで、何と8時過ぎには出かけていきました。個人的には9時で十分だと思いますが、おおきいちびの気合いが違います。妻にとっても子どもがいなければ一生体験することのない世界です。
前回もそうですが、晴れたのが何よりです。私は、ちいさいちび、幼稚園児とお留守番。お昼にマックに連れていくぐらいでしょうか。
おおきいちびは予想通り、3時過ぎに帰ってきました。妻は、駅を降りてからセイユウによって買い物をするということで15分程度遅れて帰ってきました。新一年生は待ちくたびれていました。待ちくたびれていたので、2時過ぎから昨日の強風で家の前の道路に集まった葉っぱの掃除をすることにしました。新一年生はこういうのは好きです。喜んで細かいゴミまで集めてくれました。
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