ひとりで4時30分、室温21.7度。木曜日の怒濤の日。
沼野先生より次の訳書をいただきました。沼野先生、いつもご高配、ありがとうございます。
リュドミラ・ウリツカヤ(沼野恭子訳)
『女が嘘をつくとき』
新潮クレストブックス、2012夕刻アマゾンより次の本がとどきました。
『フォーリン・アフェアーズ・リポート』2012年第5号
とりあえず、次の記事を読もうと考えました。大学の授業の関係です。
スティーブン・フィリップ・クレーマー「ベビー・ギャップ ― 出生率を向上させる方法はあるのか」
ジェフリー・ボール「風力・ソーラーエネルギーのポテンシャルを引き出すには ― 悪い補助金からスマートな促進策への転換を」
ユーリ・タクテエフ、バリー・ウェルマン、アナトリー・グルーズド「意外にローカルなツイッター」
トマス・ボリキー 「グローバル化する非感染性疾患 ― なぜ途上国で慢性疾患が広がりをみせているか」
ひとりで4時40分、室温21.9度。昨日とほぼ同じです。粗大ゴミを出します。B券6枚。すなわち、蛍光灯(シーリングライト)2点、ふとん4点。ふとんは子育てに伴うものです。おねしょに吐瀉物。カビが生えています。
子どもたちはいろんな行事があったせいで、疲れているようです。7時8分にいっせいに降りてきました。
大学はボート大会で休講ですが、3限の時間帯に会議があります。コース会議なので司会する必要があります。片づけの必要があるので、はやめにでて、大学の前のボックスカーでお弁当を買って、研究室に向かいました。1件の用事はすませることができました。会議は、ほぼ3限の時間帯分かかりました。
夕刻、次の本が届きました。日本の古本屋からです。
朝鮮電気事業史編集委員会編
『朝鮮電気事業史』
中央日韓協会、1981
これは貴重な仕事だと思われます。序文は、経済団体連合会名誉会長の土光敏夫氏が書いています。
「大正末期から約20年間に朝鮮半島の産業は大いに発展した。この間、電力の生産と消費に関係のある日本の主要企業のほとんどが朝鮮半島にかかわりを持ち、その遺産は今日もなお人脈の中、あるいは社風の中で生き続けていると思われる。
私が長い間経営して石川島とか東芝等はとりわけ密接な関係をもった企業であった。
この意味で今回「朝鮮電気事業史」が出版されることになり、経団連名誉会長の故をもって序文を呈することは、私にとり大きな喜びである。・・・・」あとがきに、次のようにあります。
「1.朝鮮電気事業史の生い立ち
朝鮮電気協会(兼日本電気協会朝鮮支部)においては、昭和11年に「朝鮮電気事業発展史」の編さんを決めた。武者委員長の下に故岸氏を主査として事業を進め、昭和15年には大半の原稿がまとまったが出版に至らなかった。原稿の主要部分は終戦後岸氏により一身を犠牲にして東京に運ばれ、昭和33年には勤務先の中央日韓協会と友邦協会の手によって、最初の第1巻「揺籃時代」B5版486ページが出版され、巻末56ページには発達史の構想として全6巻の内容が明らかにされた。その後20数年を経た今日未完成のままなのは、岸氏の病死と資金・資料面に問題があったためである。」(p.600)
ひとりで4時45分、室温22度。小学1年生は、前回延期になった遠足の日。昭和記念公園に行きます。なんとか天気は持ったようです。8時過ぎ、リュックを背負ってうれしそうに出ていきました。
さて、今日は6限の授業があります。
→研究室の片づけもしようと思い、2時半頃家をでました。授業でははじめてパワポ(Power Point)を使います。私が作ったものではなく、同僚の青山先生が作られたものです。よくできています。いつも使っているノートパソコンが使いやすいので Mac Book Air をもっていきました。画像出力のポートがウィンドーズと異なることは知っています。部屋にあるのを持っていきました。研究室でポートをよく見ると、普通のマックブックよりもポートが小さくなっています。仕方がないので、教育情報化支援室に駆け込むと、対応策を教えてくれました。一個だけその小さなポートに適合するアダプターがありましたが、5限の授業に借り出されるということです。返却が6限のスタートに間に合わない可能性があると言います。ウィンドーズのマシーンが借りることにしました。念のため USB メモリーにファイルは入れています。動きは微妙に遅いマシーンでしたが、パワポの動作に問題はなし。マシーンは、教育情報化支援室の方が、授業の始まる前に教室にもっていってセッティングしてくれるということです。こういうのはたすかります。
ひとりで4時20分、室温23.2度。今月は、昨日の時点で100枚。
月曜日の怒濤。
帰宅すると次の本が届いていました。
藤岡由夫
『科学者と人生』
講談社、1964
藤岡由夫は、明治36年東京生まれ。一中、一高、東大卒の物理学者。分光学、原子物理学。
「日本の原子力の研究がはじまる折りには、ずい分騒がれた。世界唯一の原爆被爆国ということも繰り返し叫ばれた。過ぎると思うくらい叫ばれた。
私は日本学術会議、原子力平和利用準備調査会、原子力委員会、国際原子力機関と、初期の原子力の研究問題を自分で体験してきた。その記録を残すつもりで、次の数項をしたためた。」(p.80)
ひとりで4時35分、室温22.2度。梅雨入り前の貴重な快晴です。おおきいちびは今日も7時前に出かけていきました。試合があるということです。
10時過ぎに家にひとりきりになりました。ちいさいちびは昨日と同じく友達といっしょにハロー西荻を回るということです。小学1年生は、ママといっしょに東急です。
昨日から、29日の火曜日の6限にある「学術リテラシー」の授業(リレー講義で学期に1度だけ分担します)の準備をしていました。一応目処がついた(完成したわけではありません)ので、やっておこうと思ってできていなかった研究上の基礎作業に戻ります。
ミニマ・ナチュラリア Minima Naturalia の研究史です。
(あまり必要ないかもしれませんが、私の論文「ロバート・ボイルの化学―元素・原質と化学的粒子」では、本文中に明示したように、エマートンによっています。メルセンは読んではいましたが、中心として使ってはいません。)三浦さんの論文。第6節が「ミニマ・ナトゥラリア」を扱っています。
「以上で中世西欧原子論は不可分者論として現れることを見てきたが、実は中世にはもう一種類の原子論的議論があった。アリストテレス『自然学』(第1巻第4章)に起因する混合体の構成要素に関するものである。つまり、物体をその形相が保持される限り分割した後に残る最小粒子のことであり、今日の分子により近い概念と言われている。」(p.182)
「ともあれこの最小者は物体が形相を持つ限りにおいての物理的構成要素であり、先の不可分者が数学的であったのとは対照的[もとは対称的だが、校正ミスである]である。さらに最小者の扱われたのは、あくまでもアリストテレス『自然学』、『生成消滅論』などの自然学的著作の注解という文脈の中であり、不可分者が主としてロンバルドゥスの『命題集』への注解で神学的に取り扱われたのとは異なることに注意せねばならない。」(p.183)
注では、「自然の最小者の中世における展開に関しては ibid. 179-196. が詳しい」と記述されています。同書とは、A. Maier, Vorläufer Galileis im 14. Jahrhundert, Roma, 1949, pp. 179-196 です。他にファンメルセンの DHI の記述を使っています。(私が邦訳したものです。邦訳は見てくれていないようです。)
つまり、三浦さんが使ったのは、マイヤーとメルセンです。グレゴリーは、ミニマ・ナチュラリア Minima Naturalia の研究史として次のものを挙げています。
P. Duhem, Le système du monde, vol. VII, Paris, 1956 (new ed.), pp.42ff.
A. Maier, Vorläufer Galileis im 14. Jahrhundert, Roma, 1949, pp. 154-196.
A. Maier, An der Grenze von Scholastik und Naturwissenschaft, Roma, 1952, pp.3-150.
A. G. M. Van Melsen, From atomos to atom, New York, 1960 (in English Translation), pp.41-44, 46-48, 58ff.
W. Subow, Zur Geschichte des Kampfes zwischen dem Atomismus und dem Aristotelismus im 17. Jahrhundert (Minima naturalia und Mixtio) , in Sowjestische Beiträge zur Geschichte der Naturwissenschaft, Berlin, 1960, pp.161-190
他にホーイカースも使っています。
ゼンネルトは、パリ1641年の全集版を使っています。使っている箇所は順番に、 pp.35, 11, 38, 15; 999, 999-1000; 120, 131, 131-2, 137, 138-9, 150, 156-7, 155, 157; 975; 154, 155, 158, 159, 161, 141, 146-7, 145, 175, 149-150, 565, 137-8, 175-7, 181-192; 967 他です。
個別には、次の著作です。
1. Epitome naturalis scientiae, Wittenberg, 1618
2. De chymicorum cum Aristotelicis et Galenicis consensu ac dissensu, Wittenberg, 1619
3. Hypomnemata physica, Wittenberg, 1636
これは出版順にならべましたが、ページ数では次です。
1. Epitome naturalis scientiae, In Opera Omnia, pp. 1-125
2. Hypomnemata physica, In Opera Omnia, pp.126-235
3. De chymicorum cum Aristotelicis et Galenicis consensu ac dissensu, In Opera Omnia, pp.915-1090グレゴリーの原子論史というのは、次です。
Tullio Gregory, "Studi sull'atomismo del Seicento, I: Sebastiano Basson," Giornale critico della Filosofia Italiana, 43(1964) : 38-65
Tullio Gregory, "Studi sull'atomismo del Seicento, II: David van Goorle e Daniel Sennert," Giornale critico della Filosofia Italiana, 45(1966) :44-63
Tullio Gregory, "Studi sull'atomismo del Seicento, III: Cudworth e L'Atomismo," Giornale critico della Filosofia Italiana, 46(1967) : 528-541.今回見ているのは、17世紀原子論研究の真ん中のもの、1966年に出版されたファン・フールレ(ゴルラエウス)とゼンネルトを扱ったものです。
(私のサイトでは2010年1月)→私の考えていること。上に見るようにまだ実現できていませんが、こういう作業で目指していることを明示しておきます。
上の例で言えば、ゼンネルトが原子論を扱っている箇所は、限定されます。研究者が取り上げる箇所も当然限定されます。(それまで誰も扱っていなかった箇所=資料を見つけた場合は、新しい論文に値します。)先行研究のフォローということで、2次文献が扱っている箇所の範囲を押さえておくことは、先に進むために有用です。
(扱っている論点と同時に、資料の範囲をまとめておくことが、そのテーマに関する研究状況を把握するのに役立ちます。)新しい研究に見えても、たとえば原子論史に関しては、グレゴリーの先行研究を無視しているだけ、あるいは、グレゴリーの研究を無視している(あるいは知らなかった)本当は論文として問題のあるものであった、ということがありえます。
(ちなみに、エマートンの出版は1984年なので、グレゴリーがエマートンを使っていないのは当然です。エマートンは、年代的にはグレゴリーを使っていてもよかったと思いますが、使っていません。)
→グレゴリーを使っている研究をネットで調べてみました。ニューマン、クレリクチオ、クリストフ・リュティ、マイネル。信頼できる研究者の名前が続きました。
イタリア語圏、スペイン語圏の研究者も出てきます。名前も評価もわかりませんが、シルヴィアのようによい研究の可能性はあります。
ひとりで4時50分、室温21.6度。今日はおおきいちびの運動会。妻は PTA の仕事で運動会にアテンドします。何か手伝いがあるようです。ちいさいちびは朝から友達とハロー西荻に参加すると言っています。小学1年生は、おねえちゃんの運動会にはあまり関心はなく、遊びに行きたいと言っています。これはあとから交渉です。
おおきいちびは7時20分に出ていきました。妻は9時のようです。
10時過ぎに小学1年生を東急に連れていきました。私は子どもの遊び場で座ったままでも、ひとりでパックゲームを遊んでいます。終了してお腹が空いたというので、マクドナルド。いつものものです。
帰宅すると妻が帰ってきていました。昼食を食べてから、また中学校に行くようです。ママが行ったあと、幼稚園児と借りていた図書館の本を返しに行きましたが、そのあとが暇になりました。おねえちゃんの応援に行くことにしました。
自転車置き場が不明だったので、ドングリ公園に自転車を置き、中学校へ。
おねえちゃんの走るリレー戦を2つみて、もう帰ると言います。ローソン100でおやつを買ってから帰宅。おおきいちびは、運動会のあと、バスケ部の練習。疲れ果てて帰ってきました。
ひとりで5時50分、室温22.7度。起床時間がすこしずつ遅くなっているのは疲れを表わしています。晴れ。今日は午前中に出張校正があります。お昼休みに学長主催の説明会。とってかえすことになります。
→出張校正は、10時からを予定していましたが、お昼休みの説明会が急遽入ったので、15分早めてもらいました。ほぼ予定していた時間で終わりました。
要町から大学へ。
11時半武蔵境発の電車に間に合いました。駅前のコンビニでおにぎりを買って、先に昼食を食べようと思ったのですが、先には図書館に向かい、ILL で届いている次の本を借り出しました。
Tulio Gregory, Mundana Sapientia, Roma, 1992
これは論文集です。
1."Forme di conoscenza e ideali de sapere nella cultura medievale"
2. "Filosofia e teologia nella cris del XIII secolo"
3. "L'idea di natura nella filosofia medievale prima dell'ingresso della fisica de Aristotele. Il secolo VII"
4. "La nouvelle idée de nature ete de savoir scientifique au XIIe siècle"
5. "The Platonic Inheritance"
6. "Abélard et Platon"
7. "Considérations sur ratio ete natura chez Abélard"
8. "L'escatologia di Giovanni Scoto"
9. "Escatologia e aristotelismo nella scolatica medievale"
10. "Sull'escatologia di Bonaventura e Tommaso d'Aquino"
11. "Astrologia e teologia nella cultura midievale"
12. "Temps astrologuque et temps chrétien"
13. "I sogni e gli astri"
14. "La tromperie divine"
15. "Dio ingannatore e genio maligno. Nota in margine alle Meditationes di Descartes"
16. "L'uomo di fronte al mondo animale nell'alto medioevo"
16番目は、Appendice となっています。
→私のサイト(2010年4月16日)で3番目の論文の邦訳を紹介しています。
トゥッリオ・グレゴリー(飯尾都人・近藤映子訳)
「アリストテレス自然学導入以前の中世哲学における自然観―十二世紀―」
『イタリア学会誌』17 (1969), 108-129
トゥッリオ・グレゴリー(飯尾都人訳)
「アリストテレス自然学導入以前の中世哲学における自然観(続)―十二世紀―」
『イタリア学会誌』19 (1971), 114-133
グレゴリーの原子論研究論文は、一番近いところにおいていました。1がバッソ(バッソン)、2がファン・フールレとゼンネルト、3がカドワースを扱っています。どなたか訳してくれないでしょうかね。説明会は、プロメテウスホールで12時スタートです。ちょうどよいので先に会場に入りこの本をみていることとしました。私は出席者としては二人目でした。最初の出席者は組合の委員長です。気さくな方なので、始まるまで雑談をしていました。
説明会終了後、会計課調達経理係におもむき、届いている物品を受け取りました。それから研究室。昼食をとってから、事務的用件を処理しました。
2時過ぎに帰宅。
実は出張校正には、いちばん大切な書類を持参するのを忘れました。帰宅してすぐに印刷所から持って帰ったゲラに赤字を入れ、速達郵便を作りました。
ひとりで5時25分、室温21.4度。室温でさえもこれだけ温度が上下しています。気温の変動が大きいしるしです。木曜日の怒濤。今日も忙しい時間がやってきます。
授業の登録者リストが公開されました。私の場合次の通りでした。(人数のみ)
木曜日3限「科学思想史(講義)」144名
火曜日1限「表象文化論(講義)」189名
月曜日2限「科学技術と社会」193+139=332名
木曜日5限「表象文化とグローバリゼーション」69+81=150名卒論演習18名
3年生演習9名忘れていましたが、今日は6限までありました。6限を終了して帰宅すると、次の2冊が届いていました。
神崎繁・熊野純彦・鈴木泉責任編集『西洋哲学史 IV:「哲学の現在」への回り道』講談社選書メチエ、2012
近藤完一・小山内宏監修、エコノミスト編集部編『戦後産業史への証言3 エネルギー革命/防衛生産の軌跡』毎日新聞社、1988
ひとりで5時40分、室温17.6度。雨は上がっています。午後は、会議。
[奥田謙造氏の研究]
昨日の東京新聞原発事故取材班『レベル7 福島原発事故、隠された真実』(幻冬舎、2012)によって、奥田謙造氏が「柴田秀利文書」を保管されていることを知りました。奥田さんは、東工大でたぶん山崎正勝氏の指導を受けつつ、博士論文を執筆されています。これまで奥田謙造氏の論文は視野に入っていませんでしたが、きちんとフォローする必要が出てきました。山崎正勝・奥田謙造「ビキニ事件後の原子炉導入論の台頭」『科学史研究』43(2004): 83-93
奥田謙造「冷戦期アメリカの対日外交政策と日本のテレビジョン放送導入」『科学史研究』46(2007): 83-93
まずこの2点をダウンロードし読みました。主張されている点に関しては、それでよろしいのではないかと思います。好論文だと思います。
(著者たちはこういう言い方をしていませんが、論点を一言でまとめれば、柴田秀利氏や中曽根さんたちは、なにかすべて自分の手柄のように回顧しているが、ほとんどはアメリカ側が計画した手の内で踊ったに過ぎないということになるでしょうか。)奥田謙造「冷戦期のアメリカの対日外交政策と日本への技術導入―読売新聞グループと日本のテレビジョン放送及び原子力導入: 1945年-1956年―」東工大博士論文、2006
ざっと捜したところでは以上でした。
ひとりで5時半、室温20.3度。気温が下がるということです。
子どもたちが学校に出かける頃には小雨が降っていました。冬に戻ったほどではありませんが、冷たいしとしと雨です。[東京新聞原発事故取材班]
夜になって、東京新聞原発事故取材班『レベル7 福島原発事故、隠された真実』(幻冬舎、2012)を取り出し、「少し長いあとがき」と第5部「安全神話の源流」だけ読みました。
信頼できる友人達は、福島原発事故に関する新聞報道では東京新聞が一番よかったと言います。しかし、私の読んだ部分に関しては、満足できません。(たぶん、第1部から第4部がこの本のメリットなのだと推測します。ですから弱い部分だけ読んでコメントしている可能性は高いのですが。)
またたぶん期待の裏返しなのかもしれませんが、第5部は、6.5頁という長い参考文献リストからわかるようによく調べられています。ジャーナリズムとしてしっかり取材されています。しかし、それが現実の記述にあまり活かされているようには思われません。本質的な問題に取り組むことを避けているように感じられます。ジャーナリストのみなさま(といってジャーナリストの方がどのくらいこのサイトをみてくれているかわかりませんが)、これが日本の大手ジャーナリズムの限界なのでしょうか?
ひとりで5時、室温22.5度。金環日食の日ですが、残念ながら曇りです。→と思いきや、ゴミをだすために外にでると薄曇りの晴れです。日射しが2階に当たっていますから、みられる可能性があります。→窓を開けてみると、雲がかかってきています。やはり半々でしょうか。(東京では7時34分頃ということです。)小学校はみんなでみるということで、7時頃登校です。おおきいちびは朝練でやはり7時頃登校。今日は私ひとり遅れて家をでます。
→雲はかかっていましたが、金環日食をみることはできました。雲がかかったりはずれたりというスリリング(?)な展開となりました。小学校の校庭のこどもたちは、みえた、みえないではしゃいでいたのではないでしょうか。
月曜日の怒濤。今日は疲れました。
ひとりで4時半、室温22.1度。鳥の鳴き声がにぎやかです。朝のうちに次の本が届きました。
東京新聞原発事故取材班
『レベル7 福島原発事故、隠された真実』
幻冬舎、2012[LED シーリングライト]
節電のためにも、室内の光はLED シーリングライトに変えたいと去年から思っていました。しかし、去年の時点では、LED はまだまだ高く諦めました。
春先から値段を調べているとかなり安くなっています。昔の普通の蛍光灯のシーリングライトとほぼ同じぐらいの値段のものがあります。(高いものはまだ高いままですが、安いものがでまわり、総体的に2年前と比べると半額程度になっているのではないでしょうか。)まず、暗いと感じていた私の部屋から変えてみることにしました。
お風呂から出てくると届いていたので、早速交換作業をしました。交換はそれほど難しい作業ではありませんでした。確かに前のものに比べてずいぶん明るい。前はよく見えなかった部屋のなかがよく見えます。次は、ちびどもの部屋を交換しようと思います。
ひとりで5時、室温19.1度。昨日より3度下がっています。肌寒く感じます。おおきいちびは今日も朝からバスケットの練習です。7時15分にでかけて、6時ぐらいに帰ってくると言っています。お昼休みには、隣の小学校で開かれるバザーにみんなで行くそうです。
夏に日射しに、抜けるような青空。朝方はすこし肌寒く感じましたが、外の気温は日射しとともにどんどん上がっている模様です。
ちいさいちびを皮膚科に連れていったあと、妻は、小学1年生もいっしょに吉祥寺にでかけました。ということで、私はひとりで留守番です。
ひとりで5時、室温22.4度。気温は昨日とまったく同じです。雨。しとしと雨が降っています。
朝起きるとメインマシーンのモニターが点灯しません。壊れているかも知れません。これはバックアップマシーン(iBook)から作業をしています。うーん。困った。どうしようかな。
→バックアップしていない重要なデータがあります。しばらく考えてから、モニターだけをアマゾンで捜しました。19インチのモニターが7999円であります。とりあえずこれを発注し、その先はまた考えることにしました。
→6時前に届きました。LED ということで、前のものより明るく感じます。見え方はどうでしょうか。こんなものでしょう。ウェブにある次の論文を読みました。とてもよく整理され書けていると思います。
友次晋介「1970年代の米国核不拡散政策と核燃料サイクル政策--東アジア多国間再処理構想と東海村施設を巡る外交交渉からの考察」『人間環境学研究』 Vol.7 No.2 (2009), 107-127
「フォード政権はその政権期のほとんどを通じ、使用済核燃料の再処理を西側の先進工業国などの一部に限定して、途上国、とりわけ微妙な地域にある国への当該施設・技術の拡散を防ごうとした。」(p.123)
しかし、カーター政権はまったく別の方法と論理をとった。カーター政権にとり、 「再処理は経済的でないばかりか、核拡散上も問題であった。」(p.123)
ブッシュ政権は、フォード政権に近い方針をとった。オバマ現政権は、カーター政権の方法と論理に従っているように見える。
具体的には、フォード政権は、朴(パクチョンヒ)大統領の画策した核開発を強い圧力で止めた。おおきなきっかけは、1974年5月18日のインドの核実験。インドは、「平和利用を建前として輸入したカナダ製の研究炉を用い、使用済核燃料を再処理しプルトニウムを取り出して核爆発実験」を行った。つまり、使用済核燃料の再処理が核機微技術であることが世界に対して明白になった。→1973年はオイルショック(石油危機)の年です。この前後の流れをまとめなおしておく必要があるようです。去年の3月19日に「1971年3.26の東京電力福島1号原発操業開始」までは年表にしています。もう一度まとめなおしておきます。
1955 12.16 原子力基本法成立
1960 東海発電所(イギリス製コルダーホール型原子炉)着工
1963 朴正熙、大統領就任。開発独裁路線をとった朴大統領は、1979に暗殺されている。
1966 7.25 東海発電所運転開始
1968 12.17 GNP世界2位に
1969 6.12 原子力船「むつ」進水
1970 3.14 日本原子力発電敦賀発電所、営業運転開始
11.28 完成電力美浜1号原発操業開始1971 3.26 東京電力福島1号原発操業開始
1972 10.17 朴大統領、非常戒厳令発令。
1973 8.8 金大中事件(KCIA が日本で活動していた金大中氏を拉致)1973 10.6 第4次中東戦争勃発。 12.23 OPEC 原油価格を2.3倍に引き揚げる決定(1974年1月から 5.12ドルから11.65ドルへ)
1974 5月インド核実験。
以上簡単ですが、インドの核実験が韓国にとっては非常に重要な時期に生じていることがわかります。日本は、商業的原子力発電が軌道に乗ったところで、オイルショック(石油危機)が生じています。1974年には戦後初めてGNP のマイナスを経験します。石油が足りない・高いから原子力だという声が強くなったのを覚えていますが、原子力発電そのものはオイルショックの前から立ち上がっていたわけです。そしてオイルショックが推進側の好材料となったのも間違いないと思います。
アメリカは、韓国には再処理を認めなかった代わりに、原子力発電施設は提供し、1977年6月19日韓国で最初の原子力発電所の点火があります。日本の東海発電所と比較すると10年以上遅れています。
→朴正熙大統領の簡単な伝記をウェブで読みました。興味深い人物です。岸信介が韓国で政治をするとこうなるでしょうか。日本名は高木正雄。満州国の軍官予科を主席で卒業し、日本陸軍士官学校(57期相当)に編入し、3位で卒業しています。敗戦時には満洲国軍中尉です。厳密に言えば日本軍人とはしきれない点がありますが、広くとれば、日本軍人として教育を受け戦争に従事したと言えるでしょう。
ということで、朴正熙は、日本軍人の精神で開発独裁型統治を行ったと言ってよいように思われます。
ひとりで5時20分、室温22.4度。昨日は7月上旬の気温だったそうです。その暑さが夜まで残り、寝苦しさがありました。
週間天気予報をみてみました。なんと、1週間、最高気温が26度から27度で推移するようです。昨日並みということです。しばらくは夏服にしようと思います。木曜日の怒濤。午後3限、4限、5限と授業が続きます。3限の講義には、両手いっぱいの荷物を運びました。重い画集を数点教室に持ち込みました。
ひとりで4時30分、室温19.8度。雨は上がっています。
まぶしいほど明るい朝です。6時の時点で、窓やドアから明るい光が射し込みます。再び気温が上昇する気配がします。会議の日。
会議は4時からたぶん6時ぐらいまで。ちょうどよいので、まずはこの部屋の机の上の片づけを行うことにしました。大きな山が2つあります。午前中に1つはなくすことができました。見つからなかった書類が出てきました。
昼食後、大学に出て、研究室の片づけを続行することにしました。余裕のあるときに断続的にやっています。捨てる作業が大半です。数回おおきなゴミ箱を運びました。疲れましたが、着実に進んだのは進みました。お昼に次の本が Amazon.com から届きました。
Anders Lundgren and Bernadette Bensaude-Vincent (eds.),
Communicating Chemistry: Textbooks and Their Audiences, 1789-1939 (European Studies in Science History and the Arts, 3)
Canton: Science History Publication, 2000目次は次の通りです。
Anders Lundgren and Bernadette Bensaude-Vincent," Preface"
John Hedley Brooke, "Introduction: The Study of Chemical Textbooks"
Antonio Garci´a Belmar and Jose´ Ramo´n Bertomeu Sa´nchez, "French Chemistry Textbooks, 1802-1852: New Books for New Readers and New Teaching Institutions"
Jose´ Ramo´n Bertomeu Sa´nchez and Antonio Garci´a Belmar, "Spanish Chemistry Textbooks, 1788-1845: A Sketch of the Audience for Chemistry in Early Nineteenth-Century Spain"
Anders Lundgren, "Theory and Practice in Swedish Chemical Textbooks during the Nineteenth Century: Some Thoughts from a Bibliographical Survey"
Gunter Lind, "Chemistry in Physics Textbooks, 1780-1820"
Brian Dolan, "The Language of Experiment in Chemical Textbooks: Some Examples from Early Nineteenth-Century Britain"
David Knight, Communicating Chemistry: The Frontier between Popular Books and "Textbooks in Britain during the First Half of the Nineteenth Century"
Catherine Kounelis, "Atomism in France: Chemical Textbooks and Dictionaries, 1810-1835"
Marika Blondel-Me´grelis, "Berzelius’s Textbook: In Translation and Multiple Editions, as Seen Through His Correspondence"
Merce` Izquierdo, "Three Rhetorical Constructions of the Chemistry of Water"
Bernadette Bensaude-Vincent, "From Teaching to Writing: Lecture Notes and Textbooks at the French E´cole Polytechnique"
Agusti´ Nieto-Galan, "From the Workshop into Print: Berthollet, Bancroft, and Textbooks on the Art of Dyeing in the Late Eighteenth Century"
Nathan M. Brooks, "Dimitri Mendeleev’s Principles of Chemistry and the Periodic Law of the Elements"
Ga´bor Pallo´, "Roles and Goals of Chemical Textbooks on the Periphery: The Hungarian Case"
Mary Jo Nye, "From Student to Teacher: Linus Pauling and the Reformulation of the Principles of Chemistry in the 1930s"
Kostas Gavroglu and Ana Simoes, "One Face or Many? The Role of Textbooks in Building the New Discipline of Quantum Chemistry"
Natalie Pigeard, "Chemistry for Women in Nineteenth-Century France"
Barbara Orland, "The Chemistry of Everyday Life: Popular Chemical Writing in Germany, 1780-1939"
ひとりで5時10分、室温20.6度。雨。新一年生の遠足の日ですが、朝から雨が降っています。遠足は残念ながら中止だと思われます。今日は休日のちいさいちびのような一日を過ごしました。すわなち、パジャマのまま、一歩も外へでず、片づけたり、ちょこっと読みものをしたり。雨にはふさわしい過ごし方だと言いたいのですが、疲れてだらだらしていただけです。
夕刻、次の本が届きました。
岩波 明
『精神科医が狂気をつくる:臨床現場からの緊急警告』
新潮社、2011岩波 明
『狂気の偽装:精神科医の臨床報告』
新潮文庫、2006(初版、新潮社、平成18年)おそらく岩波明氏は大学時代のクラスメートです。精神科医になったあと、この種の本を数多く出版されています。
ひとりで4時15分、室温19.4度。月曜日の授業は久しぶりということになります。なお、2限(「科学技術と社会」)の教室は、101に変更になっています。
→まず前の部屋に行ってホワイトボードに教室変更の件をおおきく板書しました。それから101教室に時間前に入り、様子を確認しました。ほぼ教室が一杯です。登録者は300人を越えている可能性があります。
本日の配付資料は2枚。今思い出しました。文献表に関しては説明するのを忘れてしまいました。参考文献リストなので、説明しなくても学生はわかると思いますが、ウェイトの付け方をしゃべろうと思って忘れてしまいました。
土日の間に、補講分の新しい方式を考え出しました。その説明に気をとられて、文献表の方は失念してしまったことになります。いつも書いていますが、3コマ授業が続くと、怒濤です。あっというまに4限終了となります。疲れのせいでしょう、ここんところ、いくらか体調が悪い。いつもできることができなくなっているというところには達していませんが、あぶないなと感じる瞬間はあります。
学生諸君のために、授業で配布した資料を掲示しておきます。
[月曜日2限「科学技術と社会」補講対応の小レポート]
課題1)5月7日分レポート
「大学での勉強法」 各自の「大学での勉強法」を高校までの勉強法と対比して具体的に述べよ。提出方法:
5月31日締切で、私の大学のアドレス (h.yoshimotoアットマークtufs.ac.jp)宛、 コンピュータのメールから送付のこと。添付ファイルではなく、メールの本文に記述すること。また、メールソフトのSubject欄には、「学籍番号:名前:STS課題」と記入すること(ここが空欄のものは評価しない)。本文の最後に、日付、学籍番号、所属、学年、名前を明記すること。課題2)第14回・第15回分レポート
次の2つのうちからいずれかを選択せよ。
1:科学技術に関して最近の話題(新聞でも雑誌でもネット上の情報でもよい)を2点以上引用した上で、要約と論評を付すこと
2:スクラップブックの作成
科学技術に関するテーマをひとつ選び、スクラップブックを作成すること提出方法:7月23日(授業最終日)期末レポート提出と同時に提出のこと。
(スクラップブックは実物を確認の上、返却します。)
日曜日2限の授業の準備をしていて、生きていれば今日が父の79歳の誕生日だったことに気付きました。78年と10ヶ月、この世で生きたことになります。
ひとりで3時55分、室温17.1度。外はもっと気温が下がっていると思われます。とりあえず、雲一つない快晴です。おおきいちびは朝7時にバスケの試合に行きます。まだ入部したばかりなので試合に出るのではなく、観戦ということです。それにしてもここまで部活中心の生活になるとは我が家では(そしてバスケ部に入ったおおきいちびのお友達グループも)予想していませんでした。
明日の授業の準備をしていて、ふと、実家の周辺の路線価はどうなっているのか疑問になりました。調べてみると、ほとんどの場所では路線価の表示はありませんが、何カ所か表示のあるところから想像すると、私の今住んでいる場所の1割でした。1割か。うーん。(2009年の1月にまとまった研究成果を載せています。3年間でけっこう下がっています。)
ひとりで5時、室温18.1度。くもり。
おや、新聞がまだ来ていません。配達の方が変わったのでしょうか。妻は今日は忙しい。午前中はちいさいちびを眼科医と皮膚科につれていきます。午後は中学のバスケ部の保護者会。
そして、ちいさいちびの目は悪化していたので、夕食の時間に妻が吉祥寺の眼鏡屋に連れていくことになりました。明日バザーでお友達と遊ぶ約束ができています。こころおきなく遊ぶためには、今日行った方がよいというママの説得をちいさいちびが聞き入れました。2時間ほどで帰ってきましたが、二人とも寒い、寒いと言って家のなかに駆け込んできました。妻にもちいさいちびにも夜の街の様子が新鮮だったようです。酔っぱらいを含む人の群に驚いたそうです。(我が家では夜外を出歩いていることがまずありません。)
ひとりで6時、室温18.2度。快晴。もうすこし頑張って研究室の片づけを続行することとしました。10時前に大学につくようにでかけました。西武線には2限に出席する学生たちが大勢乗っていました。
駅前の道具屋さんで箱を買って研究室に向かい、すぐに入るだけのファイルを詰めました。それから徐々に片づけをすすめ、ただの物置になっていたローテーブルの上をはじめて片づけました。10時半に生協がプリンターを持ってきてくれました。不要となった書類をかなり捨て、昼食をとってから、プリンターの設置にかかりました。
とりあえず、ローテーブルの上に置きました。故障して廃棄したのと比べるとずいぶん軽い。とくに難しい点はなく、LAN接続もすぐにできました。白黒のレーザーです。私の仕事にはこれで十分です。(カラーは不要です。)
プリンターが問題なく動作することを確認してから帰途に着きました。2時まえに帰宅。1番でした。1年生でも3時ということです。エジンバラの山本さんから次の論文を頂きました。
Koji Yamamoto, "Reformation and Distrust of the Projector in the Hartlib Circle", The Historical Jounal, 55, (2012): 375-397
山本さん、 pdf ありがとうございます。
ちなみに山本さんのサイトは次です。
Dr Koji Yamamoto on Academia.edu
日本語のサイト
夕方、次の論文をダウンロードして読みました。
Antonio Clericuzio, "Teaching Chemistry and Chemical Textbooks in France. From Beguin to Lemery," Science & Education, 15(2006): 335-355
オリジナルな論文というよりも、とくにディーバスの研究の整理という側面の強い、日本語で言えば総説論文ですが、非常によくまとめられていて、有益です。このテーマに関しては、教科書的記述と言えるのではないでしょうか。
なお、もともとは、"Science Teaching in Early Modern Europe" というコンフェランス (Florence, 5 - 7 June 2000)に基づきます。
このコンフェランスでは、化学についてモラン、クレリクチオ、ベレッタの3人が話しています。ベレッタは、 Science & Educationの特集号には論考を寄せなかったようです。せっかくなのでもうすこし関連情報を調べてみました。次のものがヒットしたのでダウンロードしておきました。
William R. Newman, "Decknamen or pseudochemical language ? : Eirenaeus Phialethes and Carl Jung," Revue d'histoire des sciences, 49(1996): 159-188
Bruce T. Moran, "Axioms, Essences, and Mostly Clean Hands: Preparing to Teach Chemistry with Libavius and Aristotle," Science & Education, 15(2006): 173-187
Marco Beretta, " Pneumatics vs.“Aerial Medicine”: Salubrity and Respirability of Air at the End of the Eighteenth Century," Nuova voltiana: studies on Volta and his times, 2001
ひとりで3時40分、室温20.3度。もちろんこれもはやすぎます。2時間ほど作業してまた休みました。6時半には再び目覚め、朝ご飯のしかけ等。
新中学生は、朝練ということで7時過ぎにでかけます。そのせいかどうか全員がはやく起きました。木曜日は大学に出ると怒濤です。配付資料をコピー(リソグラフ)し、授業で使うものを確認し、教室に行き、・・・・、あっというまに5限終了を迎えます。
[日本語の原子論史]
四十九日から帰宅すると次の本が届いていました。
板倉聖宣『原子論の歴史―誕生・勝利・追放―』仮説社、2004
板倉聖宣『原子論の歴史―復活・確立―』仮説社、2004
「私の原子論とのつきあいと原子論の教育の歴史―あとがきにかえて―」pp.151-175 だけまず先に読みました。私が日本語の原子論史に感じている不思議さ・違和感の一端がこれで解明されました。
板倉さんの本とほぼ同じタイトルの書物に田中実『原子論の誕生・追放・復活』(三一書房、1949)があります。板倉さんは田中さんの本は「史実がまるで違う」と評価しています。
「原子論の歴史を書いた本」としては、上の田中実氏のものの他に、1)ランゲ『唯物論史』(春秋社、1933;実業之日本社、1948)、2)ラスウィツ『原子論史』(全2巻 、1890、ドイツ語)、3)ホワイト『エッセー、原子論』(1961)、4)ステパーノフ『原子の歴史』(青木文庫、1955)、5)池田具美『ギリシャ時代における古代原子論の成立、追放、存続』(自費出版、1976)の5点を挙げています。
そして、次のように記します。「1)と2)は古典的な本ですが、本書を書くに際しては全くというほど役立ちませんでした。」
え? ランゲのものはよいにして、ラスヴィッツを捨てるのはあまりにもったいない。個人的には「役立たなかった」のではなく、ラスヴィッツは読まなかった、使わなかったのではないかと考えます。まともに読んでこういう反応がでてくることはありえません。せっかくですから、ラスヴィッツの本を本棚から引き出してみました。
ラスヴィッツの本のタイトルは、『中世からニュートンまでの原子論の歴史』です。第1巻の副題は「粒子論 Korpuskulartheorieの再生」です。研究室で埋もれていた『自立する科学史学―伊東俊太郎先生還暦記念論文集』を探し出しました。次の論文が採録されています。
三浦伸夫「中世の原子論」高橋憲一・佐藤徹編著『自立する科学史学―伊東俊太郎先生還暦記念論文集』(北樹出版、1990): 172-186
これは貴重な貢献だと思われます。
ひとりで3時、室温22.1度。
もちろんはやすぎます。2時間ほど留守中にたまっていたものを処理し、再度就寝しました。次は7時前に目覚めました。最初に起きてきたのは、ちいさいちび。しばらくしてから新中学生。クラブ活動で疲れているようです。7時40分、新一年生を起こしに行きました。足許に座っていると1分ほどで目覚めました。こちらは緊張のせいでしょう、疲れがあるようです。
私の今日の仕事は会議です。午後2時20分開始なので、午前中に3日分の蓄積を0にしておきたいと思います。
→会議は定刻通りに進行しました。私は研究室の片づけをほんのすこしだけ進めて、すぐに帰宅しました。うまく表現できない疲労感があります。
ひとりで4時45分、室温21.4度。[四十九日]
父の四十九日で本日帰省します。火曜日の夕刻には帰京します。手続きをすこしでも進めておきたいのですが、期間が短いので情報の確認だけで終わるかもしれません。あらかじめ、アマゾンで購入した自転車とプリンターの配送先を田舎の母にしておきました。ネットで調べると田舎には気軽に買える自転車屋さんが近くにはありません。プリンターは、コピーとスキャンの機能が必要です。もっとも安価な複合機を選びました。
自転車は、PANGAEA(パンゲア) ROBINSON 20インチ。¥ 11,162
プリンタは、EPSON Colorio インクジェット複合機 PX-404A。¥ 5,480帰省の電車は次の通りです。 新幹線のぞみ331号(東京発11時13分、新大阪着13時47分)
紀勢本線くろしお15号(新大阪14時、南部着16時10分)
こどもたちを連れて帰るときはもっと乗換に時間をみます。今回は、13分。とりあえずさっさと動きます。
東京駅でおみやげを3つ買ってから新幹線に乗り込みました。東京駅にはいろんなお店があり、土産物を買うには最適です。2つはお世話になった人へのお礼またはお参りに来てくれたひとのお礼になるとおもいます。1つは自分がたべるシフォンケーキ。ひとりで動くと、5分あれば乗換には十分な感じがします。疲れがたまっている真っ最中だったので、新幹線のなかでもくろしお号のなかではほとんどは寝ていました。起きていた時間は、駅で買った雑誌を読んでいました。
南部駅には、弟が迎えに来てくれていました。和歌山は暑いと感じました。
実家に帰り着いて、母は弟の車ですぐに買い物にでかけました。その間、私は、まずは自転車の組立。折り畳み式のものです。開いてハンドル、サドル、ペダルを到着します。工具がなくてもできるようになっています。サドルの高さは私に合わせました。ハンドルがすこし低く感じます。普通の26インチや27インチのものからすると、かわいく、すなわち小さく感じますが、近所を乗るのはこれで十分でしょう。
ついで、プリンター。キャノンの同じぐらいの値段のものに比べて、エプソンの方が小さく軽い。大きさではエプソンの勝ちでしょう。
我が家はもともと夕食がはやい。しかし、母はもっとはやく、5時半にならないうちに夕食を食べろと言います。プリンターの最終セッティングはあとまわしにして、弟の母のいる食卓につきました。肉じゃがと買ってきたばかりの刺身。弟は実家にいるときは、90%の時間居間のソファの前に座って、携帯を見ています。メールのやりとりをしているのかどうかはわかりません。
今回の目的のひとつは、書類の確認です。落ち着いてから、書類を捜しました。母がないといっていたものがすぐに見つかりました。父は、生前、かなりしっかりと書類を集め整理していました。もっとも大切な書類が見つかったので、母に報告し、私は内容を確認しました。
お風呂のあと、母の話をすこし聞きました。話の流れで思い出すようです。いろんなことを聞きました。いつもより遅く就寝。
[5月7日]
5時半起床。午後5時前に坊さんが来てくれます。それまで時間があります。肩凝りが悪化しないように、父の残していた書類の整理に着手しました。父は、箱に集めています。半分ぐらいは箱の横や上に内容物を記していますが、その表記がないものもあります。そうした箱を全部降ろしてきて、中身の確認をし、「昔の手紙」のように標識をつける作業をしました。去年の夏休み、父の父(父の父は、父が5歳のときになくなっています。私はもちろん、父本人もよくは知りません)の書類を見せてくれています。陸軍に入っているので、その種の書類が多くありました。その父の父の葬儀のときの弔辞が全部集められていました。時代が時代だったのでしょう。父の父の死去に際しては、弔問客が長蛇の列をなしたと言います。(陸軍は理由は不明ですが、割とすぐに除隊して、小学校の先生をしていたようです。そこで大勢の世話をしたようです。)和紙に筆で書かれた弔辞がたぶん20点以上ありました。長い葬儀だったと想像されます。
調べてみてびっくりしたのは、父は何でもよく残しています。忘れていましたが、中学生のとき、英検を受けています。4級、3級まで受けています。そのときの受験票と受験票に貼った私の写真がありました。4枚撮って1枚受験票に張り付けています。中学生の私はこんな顔だったのでしょうか。自分の顔はもちろん記憶にはありません。新鮮でした。
母は、結婚式の写真は集めておけと言います。父と母の結婚式の写真、母の長兄の結婚式の写真、上の妹の結婚式の写真、下の妹の結婚式の写真、弟の結婚式の写真等をまとめておきました。
いっしょに写っている方の姿が貴重です。片づけは疲れます。休んだり、是非もって帰ろうと思ったものは、スキャンしたりしていました。5400円のプリンター(複合機)ですが、実用にはなります。遅いのは仕方がありません。
母は明日の四十九日にそなえてお墓の掃除に行くと言います。父を埋めている場所にはひとりでは行きたくないそうです。すこし埋没しているので土を新たにかぶせるということで私は鍬を持ちました。
きつい坂を登り、海の見える埋葬場所に着くと、すでに埋没箇所はなおされています。母によればはやおちゃんがやってくれたにちがいないということです。鍬は草を取るのに使いました。お花を変えて、用はそれで終了。お坊さんは5時5分前ぐらいに来てくれます。歩いて2~3分の距離ですが、車で見えます。弟と弟のお嫁さんも来てくれました。四十九日のための和讃は、さすがにある程度聞き覚えができました。疑問な点をお坊さんに聞いてみたい気もしましたが、疲れているのでパスしました。
母によれば、ありあわせのものですぐに夕食。煮魚(さば)をつくっていました。弟夫妻は、食後しばらく休んでから帰りました。車はそれぞれに運転します。それぞれの車で帰りました。片づけで疲れたのでしょうか、はやく眠くなり、新一年生からおやすみなさいの電話があったときには、布団のなかでした。母がおやすみの相手はしてくれました。
[5月8日]
四十九日当日。4時25分起床。昨日床についた時間からすれば妥当なところです。父の書き残した「自分史」を読んでいました。家族のことは、嫁をもらった、長男が生まれた、以外には何も書いていません。
原稿用紙に下書きをし、それをワープロ(懐かしのオアシスです。ワープロ専用機の時代、もっともよく使われていたワープロの機種です)で打ったようです。私はほぼわかりますが、方言が混じっています。あとタイプミスも諸所に見受けられます。何カ所か理解に絶するところがありました。父の友人とかそういう人に聞けばわかるかもしれません。父は、ちいさいころはやんちゃだったようです。
はやく目覚めると朝が暇です。自転車でコンビニに行ってみることにしました。ちょうど小学生たちの登校の時間帯でした。がやがやと歩いていました。高速の降り口にファミリーマートがあります。そこまで10分。ファミリーマートには大型のトラックが数多く止まっていました。高速を降りて、ここで一休みするのでしょうか。
新一年生のためのポケモンカードとオレンジジュースを買ってすぐにまた自転車。今度はまえと別のルートをとりました。八丁田圃を半周するぐらいの感じで動いたでしょうか。すこしですが、お尻が痛くなりました。長距離には向かない自転車でした。8時半には、弟夫妻も揃いました。お寺には9時という話になっています。やはり5分ぐらい前に本堂に入りました。
30分ぐらい読経をして、それから埋葬場所へ。最後の7本の竹を抜き、その他のものも片づけました。短く読経。それから、下の墓石のところへ。これも短く読経。
片づけの仕方を教わり、自宅へ。
しばらくしてまたお坊さんが来てくれました。読経のあと、初盆の話。母は耳が遠くなっていて、お坊さんが普通の声で話す内容はほとんど聞き取れないのだそうです。不明なことは葬儀屋さんに聞けばよいと思っているようです。(葬儀屋さんは大きな声ではきはきと話してくれるので誰にとってもわかりやすいと思います。)
10時過ぎにすべて完了。11時頃、お昼ご飯の弁当が届きました。田辺から配達してくれたようです。そばは茹で方を教わり自宅で茹でました。45秒と言っていました。母が適当にやろうとするので私が腕時計で計測しました。そばそのものに関東も関西もたぶん差はないと思われますが、そばつゆがまったく違います。醤油をまったく使っていません。大根下ろしと梅が入っていたので味はそれが支配していました。(つまりおろしそばになっていました。)量がたぶん普通の大人の2人前。全部食べたのは弟だけでした。私も3つほど残しました。
食休みをしてから弟のお嫁さんは帰宅。帰りの電車は下です。1時10分ぐらいに母がそろそろというので、弟に駅まで送ってもらいました。弟はそのまま田辺に帰宅。駅では20分ぐらい待つことになりました。
紀勢本線くろしお18号(南部発13時38分、新大阪着15時50分)。
新幹線のぞみ36号(新大阪発16時、東京着18時33分)。
やはりほとんど寝ていました。新大阪駅での乗換は10分。子どもたちへのお土産を買い、雑誌を買い、お弁当を買って、のぞみ号に乗り込みました。横浜ぐらいで買った弁当を食べようと思っていたのですが、昼食の量が多かったようです。お腹が空きません。食べなくてもよいやということで、品川で停車したあと、お弁当もリュックにつめてはやめに席を立ちました。気分転換にデッキから外を見ていました。午後7時半、無事帰宅しました。新一年生は待っていてくれました。おねえちゃんたちはもういつもと何も変わりません。
ひとりで5時、室温20度。夜中にまた一度雨が降りました。なかなかすっきりと晴れる日がないゴールデンウィークでしたが、今日だけはすっきりとした青空の模様。午後、妻が新一年生とちいさいちびを井の頭公園(動物園)に連れていきました。真鍮学生は、そのあと、お友達を家に呼びました。4~5人来た感じです。
[伝統的科学史記述における原子論]
4月28日に「伝統的科学史記述における原子論」の問題を取り上げました。
山口さんにその問題を扱えと要求するのは無理筋なので、自分でぼちぼち調べてみようと思い立ちました。コップの化学史(1843)。「原子論」を章や節のタイトルに立項していません。ドルトンの化学的原子論の出現までは、原子論をテーマとしては取り上げていないようです。
ブルックの化学史(1992)。これも「原子論」を章や節のタイトルに立項していません。
ダンネマンの科学史(1920-23)。ニュートンの時代までで見ると、これも「原子論」を章や節のタイトルに立項していません。
もうすこし専門的なものをと思い、『原子論・分子論の原典 1』(化学史学会編、1989)を見てみました。藤井清久氏が「序言:原子論・分子論についての主要な参考文献」pp.1-4 と1章「粒子論哲学からニュートン原子論へ―キリスト教的原子論の系譜」pp.5-32 が書かれています。
藤井氏が「原子論・分子論についての主要な参考文献」として挙げているのは、次のものです。
Lasswitz(1890)= Kurd Lasswitz, Geschichte der Atomistik vom Mittelalter bis Newton, 2 vols., Hamburg/Leipzig, 1890.
J. C. Gregory(1931)
A. G. Van Melsen(1952)= A. G. M. van Melsen, From Atomos to Atom: The History of the Concept Atom, Pittsburgh: Duquesne University Press, 1952
L L. White(1961)
D. M. Knight(1967)
Arnold Thackray(1970)
D. P. Mellor(1971)
A. J. Rocke(1984)
論文としては次です。
G. B. Stones, ISIS, 10(1928)= G. B. Stone, "The Atomic View of Matter in the XVth, XVIth, and XVIIth Centuries," ISIS, 10(1928): 445-467.
J. R. Partington, "The Origins of the Atomic Theory," Annals of Science, 4(1939) : 245- 282.
Marie Boas, OSIRIS, 10(1952)
A. J. Rocke, Historical Studies in the Physical Sciences, 9(1978)
1989年の時点においてももの足りないと言わざるを得ません。島尾永康編著『科学の歴史』(創元社、1978)では、編者の島尾永康さん本人が第4章「古典的近代科学の離陸」の第3節で「原子論の復活」pp.118-124を書いています。
ということをやっているうちに、次の本が足許にあることを思い出しました。
Christoph Lüthy, John E. Murdoch and William R. Newman (eds.), Late Medieval and Early Modern Corpuscular Matter Theory (Brill, 2001)
3人の編者によるイントロダクションを読んでみました。さすがです。上記のものとはレベルが違います。ラスヴィッツの歴史的位置付けからはじめ、14世紀の数学的原子論(アリストテレス『自然学』第6書の不可分者と連続の議論に由来する議論)、アリストテレスの『気象学』4書に基づく粒子論の系譜(ニューマンが重視するものです)をきちんと描いてくれています。3人が取り上げていない例で説明しましょう。ガリレオの原子論です。私のように自然学の歴史をテーマに研究をしていると、ガリレオの原子論には違和感を感じます。それは「ガリレオの原子論」が数学的原子論の系譜にあるからです。17世紀の自然学は、どこかでそうした伝統とは切れます。(私の追いかけている範囲では切れています。もちろん、別の流れではどこかに繋がっている可能性はあると思います。)
3人の説明でこの点がすっきりしました。(2010年1月にも原子論を扱っています。)
(中世の原子論に関しては、三浦伸夫「中世の原子論」高橋憲一・佐藤徹編著『自立する科学史学―伊東俊太郎先生還暦記念論文集』北樹出版、1990、所収があります。2010年6月の記載。)日本語で簡単に読めるものとして次の論文を読みました。
中金聡「エピクロスの帰還―ガッサンディにおける哲学的著述の技法について―」『政治研究』第2号(??): 71-105
参考になる点はありますが、私には不思議な論文でした。
ひとりで4時50分、室温20.6度。雨は上がっています。
と思ったら、6時前にまた雨が降り始めました。雨雲がまだ残っていたようです。午後、まず新中学生が練習試合ということで、出ていきました。つぎのちいさいちびがお友達のお家に呼ばれて行きました。そして、新一年生が妻に連れられてイトーヨーカドーに行きました。
ということで、私はひとりで留守番。Amazon.com から次の本を発送したという連絡がありました。
Andrew Pettegiree,
The Book in the Renaissance
New Haven and London: Yale University Press, 2011
ひとりで4時35分、室温20度。本格的な雨降りです。新一年生が外に出たがったので、10時過ぎに吉祥寺のヨドバシに行きました。行きは小雨、帰りは本格的雨降りでした。目的はポケモンのフィギャー。アトレのスーパーでパンを買って帰りました。
この部屋の片づけも続行中です。積み重なった資料の量は半端ではありません。
ひとりで5時10分、室温22度。ちょうどよいので研究室の片づけを継続することにしました。8時54分武蔵境発の電車。さすがに人が少ない。学生も事務の方もほとんど乗り合わせていませんでした。
片づけはすこしずつです。
1時間ほどやってから、図書館に行き、次の論考のコピーを取りました。[『国際問題』]
『国際問題』1975年2月179号 焦点:NPT体制の現状と展望佐藤栄一「NPTからSALT へ」『国際問題』1975年2月179号, 2-14
木村修三「危機に立つNPTとその将来」『国際問題』1975年2月179号, 15-26
末田守「わが国の原子力開発計画と核防条約」『国際問題』1975年2月179号, 27-39
森利一「インドの核開発とその論理」『国際問題』1975年2月179号, 40-56
『国際問題』1985年8月305号 焦点:核拡散―40年目の検証
金子熊夫「核拡散問題の今日的意義と日本の役割」『国際問題』1985年8月305号, 2-18
矢田部厚彦「核不拡散条約15年の回顧と展望」『国際問題』1985年8月305号, 19-32
平田実穂「技術的側面からみた核拡散問題」『国際問題』1985年8月305号, 33-51
高橋正雄「開発途上国の安全保障と核開発」『国際問題』1985年8月305号, 51-62
『国際問題』1999年4月469号 焦点:南アジアの現況
西脇文昭「インド・パキスタンの核開発と国際関係」『国際問題』1999年4月469号, 2-20
広瀬崇子「インド・パキスタン関係の微妙な変化―国家間対立と民衆間交流」『国際問題』1999年4月469号, 21-33
竹中千春「政党再編とインド政治」『国際問題』1999年4月469号, 34-48
絵所秀紀「「新経済政策」以降のインド経済」『国際問題』1999年4月469号, 49-59
佐藤栄一「インド核開発の最近の動向―ゆらぐ自主開発路線」1978年6月, 59-56
→まず、インドの核開発に関するものから読み始めました。どうもよくわかりません。もうすこし読んで、もうすこし考えます。
→一番わからないのは、「平和目的のための核爆発」です。石油ショックの翌年、すなわち1974年5月18日、地下で核実験を行います。インドはそれを「平和目的のための核爆発」(PNE)と呼んだようです。平和目的って何?
夕刻次の本が届きました。
水島 司
『グローバル・ヒストリー入門』
山川出版社、 (世界史リブレット)、2010
ブックレットの良さは短さです。寝床に持ち込んで、1時間弱で読み通しました。実は私も大学の授業でこういうふうな内容を話したい。今のところ、準備がまったく追いついていませんが、いつかは取り上げてみたいと思います。ゼミで参考文献をどんどん読むというのもいいですね。
ひとりで3時40分、室温22度。とうとう5月です。
6時半頃、雨が降り始めました。空が明るいので、本格的な雨降りになるかどうかはわかりません。いろいろあって遅れていた仕事がありました。早朝から頑張り、なんとかこの日のうちに仕上げることができました。遅れている仕事が他にもあります。少しずつ進めていきます。
お昼に次の本が届きました。
Sean L. Malloy,
Atomic Tragedy: Henry L. Stimson and the Decision to Use the Bomb Against Japan
Ithaca: Cornell University Press, 2008
[Universal Short Title Catalogue]
いま行っている仕事の流れで、次のサイトThe Universal Short Title Catalogueが存在していることに気付きました。英国だけの Short Title Catalogue は20世紀初頭からありましたが、全ヨーロッパ的な Short Title Catalogue はこのプロジェクトが嚆矢です。すべてが一気に片づく種類のプロジェクトではありませんが、しっかりとした推進力で進んでいるようです。
(今のところ1600年までです。たとえばデジタルに入手/閲覧できるパラケルススでは71点ありました。はやく17世紀をカバーしてほしいな。)
学術の世界にとっては福音です。
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