ひとりで2時45分、室温19.6度。起床時の室温が一日に1度ずつ下がっています。もちろん、起床時刻が異なるので意味のある数字ではありません。6時半におおきいちびを起こすよう書き置きがありました。たぶん、おおきいちびは朝練です。小学生は、11時に集合して、長縄飛びの大会です。校庭に集まってから別の小学校に行くようです。ちいさいちびは何もないと言っていました。
ちょうどよいので、靴屋さんにも行ってくることにしました。ネットには10時半開店とありました。ハロウィンのパンも頼まれています。10時過ぎにでかけました。駅ビルをさっと見てから、靴屋さん。11時開店でした。先に東急地下のアンデルセン。パンを買い、それからジュンク堂に行って、本を見ていました。最近はたまにしか実在の本屋さんをぶらぶらしないので、本の置き場所が把握できていません。あったら買おうかなと思っていたものを見つけることはできませんでした。
10時55分に本屋さんを出発して、靴屋さんに向かいました。買うものはほぼ決まっています。数分で終了しました。
帰宅すると、息子はもうでかけていました。吹く風が冷たく感じられるようになりました。もうすぐ11月です。
ひとりで4時25分、室温20.6度。
昨日定期考査の終わったおおきいちびは朝練ということで、6時半に起こします。大会が近いのだそうです。午後1番で医科歯科。それから日が暮れる頃に駒場。
寒くなった次の日。まだ夏物のズボンを履いていたので、そこいらじゅうを探して、冬物のズボンを引き出しました。4本見つけることができました。しかし、お腹がふくらんだせいで、はけるズボンが一本しかありませんでした。その日はその1本を履いて仕事に行きました。しかし、帰ってくると、後ろ側にすこし穴があることを妻が発見しました。ということで、冬物のズボンは全滅という事態に立ち入りました。
本日の午前中は時間があります。妻にアテンドしてもらって、少なくとも1本冬物のスラックスを買ってくることにしました。妻によれば、新宿の京王デパートでセールをしているそうです。ほぼちょうど10時に新宿に着くようにでかけました。
まず、ズボンを2本選びました。お腹まわりが3センチ膨らんでいました。裾直しを頼んでから、もうひとつ欲しかったシャツを選びました。シャツの支払いを済ませてから、列の外にでると、妻がベストもあると言っています。ベストも欲しかったので、見てみました。しっかりとしたものが欲しかったのですが、ちょうどよいぐらいのものがあります。それも購入しました。
妻が伊勢丹のポイントがあるというので、そこから、南口を通って伊勢丹まで行きました。6階でポイントを発行してもらって、地下に行き、パン屋さんでパンを買いました。ハロウィンのパンがあったのでそれも購入。
駅に向かいながら、ご飯の食べられるお店を探しました。飲み屋さんが昼間開いているランチがあったので、開店まで5分待ち、焼き魚定食。
服は妻に任せて、私はそこから御茶ノ水へ。天気もよかったので、外のベンチに腰掛け、資料を50分ほど読んでいました。それから、医科歯科の事務棟に行って、業務。ほぼ予定通りに終わりました。
新宿に取って返して、クイックで裾あげしてもらったスラックスを受け取ります。1時間ぐらい時間があったので、西口の方に行ってみました。おお、ソフマップがまだあると思い、すこし中を見ていました。買いたくなりますが、もちろん、見るだけに留めます。それから、久しぶりにゲームセンターに入ってみました。こころひかれるUFOキャッチャーがあったのですが、取って持って帰っても最近はだれも喜ばないので、こちらも見るだけに留め、近所の喫茶店へ。やはり45分程度、読書。
受け取りは3時から。3時5分に受け取りの場所に行って、出来上がったスラックスをもらいました。すぐに駒場に直行。京王線を使いました。駒場では、1号館のあと、図書館に入り、次の本を借りました。
板垣俊一『江戸期視覚文化の創造と歴史的展開:覗き眼鏡とのぞきからくり』三弥井書店、2012
(これは、板垣俊一さんの多くの論文をもとにまとめられた著作でした。探しましたが、どこにも初出が書かれていません。初出は、しっかりと記載されるべきだと思います。)
それから、『厚生新編』を確認しました。科哲事務室で橋本さんに挨拶したあと、三〇八教室へ。ちょっとした思い違いがありました。終了は六時四〇分。橋本さんはNHKの取材がちょうど終わったところでした。カメラがキャンパス内に入る場合には、きちんとした書類を作り、許可をもらうそうです。なるほど。
久しぶりに都内をたくさん移動して疲れたと妻にこぼしたところ、いつも疲れていると返されました。
帰宅してメールを開けると、来週の会議の開催通知がやまのように来ていました。月曜日に2つ、水曜日に5つ。緊急に対応を要する臨時の案件があり、このように会議が増えました。
ひとりで5時40分、室温21.6度。気温が高止まりしています。
今月は、29日でやっと100枚。明日お昼過ぎの医科歯科の仕事が終われば、一息つくことができます。燃えるゴミを出すため外にでると、昨夜降り始めた雨がわずかですが、残っていました。出かける頃には止むと思います。
昨夜帰り着くと、新しい『科学史研究』が届いていました。通号で275号。雑誌の表記では、「第III期第54巻 No.275 2015年10月号」です。何度も言いますが、これは、通常化すべきです。「第54巻第3号(2015)」が普通の表示法です。
なお、今号から梶雅範さんが編集長です。編集委員は、若手を中心に12名。私は田口直樹さん、樋口敏広さん、山崎文徳さんの3人を知りません。ここ2〜3日の間にダウンロードして読んでいた論文の書誌です。
板垣 俊一「江戸時代の覗き眼鏡 : 江戸時代における西洋製光学器具の受容」『新潟の生活文化』17(2011), 9-24
板垣 俊一「遠近法絵画と覗き見の装置 : 現実の風景はどのようにして絵になったのか」『国際地域研究論集』 2(2011), 157-175
板垣 俊一「中国の<のぞきからくり> : 拉洋片(ラーヤンビェン)」『県立新潟女子短期大学研究紀要』45(2008), 389-407
ヴォルフガング・ミヒェル「会長講演 :江戸初期の光学製品輸入について」『洋学 : 洋学史学会研究年報』12 (2003), 119-164
高橋則英「上野彦馬と初期写真家の撮影術」『古写真研究』3(2009): 17-20
高橋則英「日本の近代化を記録した写真」『日本写真学会誌』65(2002): 111-117
他にもありますが、まずは、以上にて。10時6分武蔵境発の西武線。一番にスキャン。それからデスクワーク。お昼休みから3限にかけて珍しい客人が見えました。
4限5限と授業。
5時52分多磨駅発の電車で帰ることができました。
ひとりで5時25分、室温20.7度。昨日舞い戻ってきた暖かさが残っています。
コーヒーを入れて、ご飯を2合しかけました。おおきいちびは昨日から定期考査。昨日は10時から試験ということで、9時半ぐらいまで家にいました。定期考査2日目の今日はお弁当をもっていくそうです。どうもよくわかりません。
東京は平日のお昼、いつでも街中をうろうろしている中学生・高校生がいます。さぼっているのもいるでしょうが、こういう不規則な授業・試験による部分もあるようです。
息子の咳はまだ収まっていませんが、月曜日から小学校にきちんと登校しています。疲れるようで、いつもよりよく寝ています。朝刊を開くと、久しぶりに師匠の村上先生が出演されていました。まんなかの「耕論」というページで、「がんと生きる」という特集が組まれています。雅楽師の方が乳ガンにかかってどう対応したかという話を、ガン細胞を研究する医師ががんとは何かの話を、そして師匠の村上陽一郎氏が前立腺がんにかかってどう考えたかを話をされています。
お昼休みに学生と面談。1時から科研費の打ち合わせ。5時から会議。
→ひさしぶりに武蔵境のヨーカドーで買い物をしてから、10時半武蔵境発の西武線。
学生はお昼休みにはいるとすぐに見えました。たぶん15分程度の面談。
1時から研究所で科研費の打ち合わせ。その場で、編者の沼野先生からできたてほやほやの次の本を頂きました。沼野先生、いつもありがとうございます。
沼野恭子編『世界を食べよう!東京外国語大学の世界料理』東京外国語大学出版会、2015年10月30日発行、1800円。
とてもきれいに仕上がっています。是非、本屋さんやアマゾンでお手に取ってみて下さい。
1時間半近くで終了。3時過ぎに思い立って、図書館に行き、調べものとコピーをしました。杉本つとむさんの仕事を2点、確認しました。
5時から会議。2時間を覚悟していましたが、1時間20分ほどで終わりました。6時28分多磨駅初の電車で帰ってくることができました。疲れがたまっていたので、この予定より1時間早い帰宅はたすかります。
食事をし、お風呂にはいってでてくると、猛烈な眠気が襲ってきました。
ひとりで4時35分、室温17.6度。正午に面談、その後会議。夕刻に医科歯科。その後渋谷で送別会。
→10時6分武蔵境発の電車。久しぶりに武蔵境の駅前のパン屋さんで昼食のパンを買ってから西武線に乗り込みました。デスクワークのあと、昼食のパンを食べ、すぐに面談の学生がやってきました。短くすみました。
会議は1時から。2時半まで。案件を2割ほど積み残したまま、次の会議へ。学長が司会をする会議です。案件が少なくすぐに終わりました。
医科歯科の会議の前に夕食を取ろうと思い、4時40分多磨駅発の電車に乗り込みました。御茶ノ水にはおよそ五時半に到着。湯麺を食べてから、医科歯科の会場へ。
ちょうど六時にはじまり、七時に終わりました。
久しぶりに地下鉄に乗ってみることにしました。医科歯科の真ん前に丸の内線の駅があります。赤坂見附で乗換え、銀座線で渋谷に。渋谷はおおきく変わりつつあります。246にそって坂を登り、ハウス青山へ。梶さん、鳥居さん、古川さん、田中さん、内田さんが集まっていました。みなさんに挨拶をして同席。最後のデザートとコーヒーだけ頂きました。この会議は、『化学史研究』の印刷をずっとやってくれている中央印刷で我々の担当をしてくれている鳥居さんがもうすぐ退職(定年退職の年齢になったらその日に退職ということです)ということで、梶さんが企画されたものです。鳥居さんは普段は遠くから通われていますが、本日は、都内に宿泊されるそうです。
九時過ぎに散会。私は、ひとり、井の頭線に乗りました。一〇時過ぎに帰宅。ちいさいちびと妻がゴキブリとたたかっている最中でした。ゴキブリを処理してから、お風呂に入り、11時頃就寝しました。
ひとりで5時40分、室温16.5度。木枯らし1号が冬の空気を連れてきたようです。外は、予報によれば11度ということです。朝練のあるちいさいちびを6時20分に起こしました。ちいさいちびは7時前に寒いと言ってでかけました。
8時半武蔵境発の西武線。一度研究室によって荷物をおいてから図書館へ。本を2冊返しました。それから ILL で届いている次の2点の論文を受け取りました。
M.A. Crawforth, "Evidence from trade cards for the scientific instrument industry," Annals of science, 42(1985): 453-544
A.J .Turner, "Mathematical instruments and the education of gentlemen," Annals of science, 30(1973): 51-88
次には地下の2層で、『日本洋学史の研究』を探しました。全部で3つの巻が入っていました。必要な第7巻はそのなかにありました。
上の階に行って、次の論文のコピーを取りました。
菅野陽「『厚生新編』の画法・顔料その他をめぐって―画法・顔料ならびに引用書『ケレルキ』と『ショメール』のフランス語原本について」『日本洋学史の研究7』(創元社、1985): 147-178
次に、辞典類で、写真と写真鏡を調べました。
驚いたことに、『日本語源大辞典』には「写真」の項がありません。『日本語源広辞典 増補版』には次のようにあります。「中国語の「真を写したもの」が語源です。英語Photograph の訳語として使用することが多い語です。」写真機は次。「語源はオランダ語 donkere-kamer(暗箱)」です。江戸期の訳語は写真鏡です。これを明治期に写真機と改訳しました。写真機の語の一般化は二十世紀です。カメラは、「ラテン語の camera(部屋)obscura(暗い)」で、江戸後期の訳語ですが、カメラの語が一般化したのは、二十世紀後半です。」
もっとも大きい辞典は、小学館『日本国語大辞典』です。もちろん、『日本語源広辞典 増補版』よりずっとましです。しかし、出典に年号が付されていません。と思って、棚の前後を見ると、『日本国語大辞典 第二版』というのがあります。おお、こちらは、年号が付されています。私のような声が多く、第二版で年号を取り入れたのだと思われます。OED と比べると見劣りはしますが、たぶん、これが日本語学の水準だと思います。ともかく、これからはじめるしかありません。
『日本国語大辞典 第二版』の「写真」は、私がまとめなおすと次のようになります。1)写生、写実。2)写真術またはその画像。3)動詞として2)の意味での写真を撮ること、うつすこと、4)活動写真の略語。
語誌として、(1)「伊京集」に「写真肖像已上二ツハ御影」と記されているように本来は神仏や貴人などを描いた絵を指していた。江戸時代後期に、西洋の画法が蘭学者によって紹介されてからは、ありのままに描くという技法すなわち「写生」の意味でも、またその技法で描かれた絵を指すこともあった。(2)江戸時代末期にありのままの姿が機械によって写された画像が舶来し、英語の photographの訳語として「写真」がこれに転用された。当初は「写真の絵」とか「写真絵」ということもあったが、次第に写真に統一され、意味もカメラによって撮影された画像を表わすことに固定された。
これは、こういうことでしょう。『日本国語大辞典 第二版』の「写真鏡」は、次のようです。「1)レンズを通して結ばせた像を磨りガラスなどに映させるようにした暗箱。古くは天体観測や絵を描くために用いられた。2)写真機に同じ。この意味での初出として1860年出版の渡米日誌を挙げている。
蘭説弁惑(1799)下「箱のうちに硝子の鏡を仕かけ、山水人物をうつし画ける器。此方にて写真鏡と呼べるものあり」
和蘭通舶(1805)一「画を作るの器あり、名て写真鏡と云、和蘭これを『ドンクルカーモル』と呼ぶ」
オランダからカメラが渡来した直後の1850年頃には、「真写影鏡」、「撮影鏡器」などの呼称も使われた。明治直前に「写真鏡」が一般的になり、その後19世紀末には「撮影機」「写真機」「カメラ」などの用例も見られるようになる。『遠西奇器述(えんせいききじゅつ)』嘉永7年(1854)刊、川本幸民口述、田中綱紀筆記。オランダ人ファン=デル=ベルグ(P. van der Burg)のEerste Grondtbeginselen der Natuurkunde(1844-47)に基づき、川本幸民が行った講義の余話を弟子の田中綱紀が筆記したもの。写真鏡は、「直写影鏡」として言及されている。
『遠鏡製造(えんきょうせいぞう)』全4丁。望遠鏡のわが国への初渡来は、、慶長18年(1613)のことだそうです。イギリスの東インド会社のジョン・セーリスが徳川家康に献じたそうです。1613年であれば、ガリレオの『星界の報告』(1610) の3年後です。
『厚生新編』「暗室中に其外面の景象を写し入れて真影を現せしむる器」
羅*「カメラ・オブスキユラ」
和蘭「ドンクルーカーメル」と名く
按に暗《室》の義、此方往々擬製するものあり。
此法は昼日一箇の室中に於て尽く其戸口を密閉し、其一戸中に一
円小孔を*開し、其孔より太陽の光景を摂入せしむ。 これよりして
其外面にある所の、物象の正しく相対する物影を室中に程よく
隔て置る白壁、或いは白紙に写り、しかもその物象の真形に天然の色
を加へて現す。 此法によりて能く其象をして全く現出するなり。
これを為す乙と晴天の日ほど、愈々物類益々鮮明に写るものな
り。 但其写影倒置し左右相反する也。其倒影を正しく本《形》に写
らしむるには、其孔口に眼鏡を張るときは正形となるなり。
何れの処へも随意に携へ行べき様に器に作る 「ドンクル・カーム
ル」 あり。大小適意に製造すべし。 此器は星学家用ひて以て太陽
の 暗 黒 斑 を精細に*察推考して測量するが為に用るなり。
又此携ひ行くに便にしたるの此器は、画家及其余画術の好事家等
各地の勝景を写真し、殊に各土の国地等を精密に画き、己が画術
の芸能を全熟し成し得んとするが為に、 緊要とする事なり。
(杉本つとむ『江戸時代西洋百科事典:『厚生新編』の研究』雄山閣出版、1998、384頁)→この箇所は、ノエル・ショメール原著、馬場貞由ほか訳『厚生新編』(厚生新編刊行会、1937)326頁にあります。もとの『厚生新編』だと第25巻の最後に掲載されています。)杉本つとむ『語源海』(東京書籍、2005)328-9頁。
「写真機 江戸期は〈写真鏡〉。明治期にはいって〈写真機〉。写真をとるための機器。暗箱、レンズ、 シャッターなどよりなる。[中]照像機。 camera.
真を写すの意の〈写真〉と オ ラ ンダ語で暗室の意の ドンケルカムール(donkere kamer) からの訳語。 すなわち、写真→写真鏡→写真機と成立。〈写真鏡〉 の鏡は当時舶載の〈遠眼鏡(望遠鏡)・顕微鏡〉など、レンズと鏡などを用いる共通点から理解しての意訳。」
→と杉本さんは記されますが、「写真→写真鏡→写真機」はとてもミスリーディングだと思います。意味をとれば、「写真(写生・写実)→写真鏡(カメラ・オブスクラ)→写真機(カメラ)」です。つまり、繋がりがありません。あるいは、正確に言えば、「写真(フォト)→写真鏡(現在日本語に対応するものなし)→写真機(カメラ)」という現在日本語での表記が示しているものとは、まったく違う繋がりを示しています。
むしろ、ここは、「写真鏡(カメラ・オブスクラ)→写真機(カメラ)→写真(フォト)」とすべきだと考えます。
→もとにもどって。
「〈 写 真〉 は古典中国語 (顔氏家訓)。 日本で借用し、 絵師が公卿や武将の肖像を えがく場合に限定的に用いた。16世紀成立の『節用集』 に、〈写真肖像ニハ御影也〉 とみえる。肖像= 写真は一般的理解。これを〈写真鏡〉では風景など広い範囲をもさして用いた。 さらに原理的に類似する 〈写真鏡〉 を採択して新しく紹介された〈写真機〉に用いた。写真機も初期は主として人物を写したのであ る。写 真術については江戸末期、柳河春三の翻訳書 『写真鏡図説』などにより詳しく説明さ れている。すなわち同書は、 L.J.M.ダゲール Daguerre の発明した銀の感光性を利用したコロジオン湿板法を紹介、現像法、感光材の調合などを解説。翻訳にあたり内容、用法な どで写真鏡と写真機とは異な るところ 一一写真鏡は写すのみであるが 、写真機はそ の像を印刷のように焼きつける点で異なるが、原理的には同一構造の機械ーーを認識、 理解していた。一般に翻訳は既成の語や類似の点を活用するのが一つの方法。しかし、 明治期にはいって〈写真機〉と改訳。明治 44年ごろでも、(camera) を 〈暗箱〉などと対訳していて、 オランダ語による中心的理解は20世紀までつづく。なお、カメラの語は同じ く江戸期にオランダ語に対訳の ラ テン語、 〈カメ ラ オプスキュ ラ (camera obscura) 〉(厚生新編) と してみえる これも暗室の意)。 日本でのカメラの初出はこれであ る。 カメラの語自体は、〈円天井の地下室、納骨所〉などの意。暗い部屋のイ メ ージにもどこか通じ るであろう。」お昼休みに2人の学生と面談。
3限4限と大学院の授業。
4時4分多磨駅発の電車で帰途。
息子が起きて6時25分、室温19.7度。快晴。ちいさいちびは、他校に行く(練習試合なのか、試合見学なのかきちんと確認していません)ということで7時20分に起こしました。自分で朝食をとり、準備をして8時前後にでかけました。おおきいちびと妻は昨夜遅かったようです。8時45分現在下に降りてきていません。
昨夜から強い風が吹いています。夜は木が屋根の一部に当たる音がうるさかった。風は朝止んだかと思いましたが、午後になってまた強く吹いています。温暖化は強風も連れてきたようです。→この風は、木枯らし1号だそうです。寒くもなりました。
来週は学生との面談が3件、東京医科歯科大学での仕事が2件、そして送別会が1件入っています。講義のように時間をかけての準備はいりませんが、身体は拘束されます。
ひとりで5時40分、室温20.6度。本日は土曜日ですが、9時〜5時の仕事。
7時54分武蔵境発の西武線。
業務は上の通り、9時〜5時。
無事終わって、5時40分多磨駅発の電車で帰ってきました。
ひとりで4時45分、室温20.1度。
本日のお弁当は、おおきいちび一人。1合をしかけました。6時過ぎには炊きあがります。[半分は終わり、半分は残りました]
昨日の講義が終わるまでお預けにしていたことがあります。ひとつは散髪、ひとつは病院です。土曜日の準備を昨日大学で終わらせることができたので、朝一番で両方をすませようと、9時前に家をでました。
散髪屋さんは、歩いて近づいているとき、ちょうどオープンとなりました。朝一番のお客さんです。約1時間。
そこから歩いて、医院へ。約1キロでしょうか。着いてみると、すごい人です。建物の入り口にはいった瞬間、(息子のように)風邪が流行っているので人が多いかもしれないとは予想したのですが、見たことのない混みようです。中を覗いて、看護婦さんに挨拶して、また来ます、と言って踵を返しました。
さて、または、いつ来られるでしょうか。3時頃家をでて、4時前に駒場に着きました。いつものルート。1号館2階で押印したあと、生協の方へ。本屋さんをブラウジングしました。入手すべき本がけっこう見つかりました。たまには本屋さんのブラウジングも必要です。それから図書館へ。新刊雑誌コーナーを見て回りました。そして、再度、生協へ、こんどは購買部。文房具を一式購入しました。4限終了時刻に、科哲研究室へ。すぐに教室へ。ちょっと力のいる英文を読んでもらいましたが、3年生のお二人は無事やり遂げてくれました。
終了後、質問に応じていたので、すこし遅くなって帰宅しました。[日本におけるカメラ・オブスクラ]
電車のなかで、中川邦昭『カメラ・オブスキュラの時代:映像の起源』(ちくま学芸文庫、2001)を読んでいました。意外な発見がありました。
p.272(美術出版社、1997では、p.246)「遠近法絵画の補助手段として考案されたカメラ・オブスキュラは、人間の眼で見える風物や事物の外観を正確、精密に捕らえることは出来たが、写真が科学の発達と結び付き、写真の特質が十分に活用される頃には、その使命を果たし終え完全に忘れ去られてしまった。」
これが、この著作本文の最後の文章です。典型的な写真史からの見方です。こういう典型的な見方を表現しておいてくれることも大切です。すこし先になりますが、次のような文章からはじまるエッセイを書こうかなと思っています。
「写真と写真機。今ではすっかりおなじみのものです。さて、写真と写真機では、どちらが先でしょうか? 光学装置としての写真機がなければ、写真は撮れませんから、ものとしては、写真機が先にあって、写真はその後、と言ってよいでしょう。
しかし、印画紙が存在すれば、写真機がなくても、ピンホールカメラで写真を撮ることはできます。ピンホールカメラは箱に穴を開けただけのものですから、写真機という範疇に入れることはできないでしょう。
つまり、論理的には、写真が先で、写真機があと、というのも可能ですが、歴史を辿れば、写真機=カメラ・オブスクラが先にあり、写真(印画面に焼き付けられた像)があとです。つぎは、言葉を見てみましょう。日本語で、「写真」と「写真機」、はどちらが先でしょうか? これは、どうしても「写真」が先で「写真機」があとと考えたくなります。しかし、江戸時代、蘭学を通して日本に入ったカメラ・オブスクラ(オランダ語のdonkerkamerをドンクルカームルと称した)は「写真鏡」として訳され、写真術が到来するまで使われています。つまり、「写真鏡」の「写真」は、名詞としてすでにあったものではなく、真を写す鏡という繋がりで鏡にかかっています。形容詞的に使われていると言えると思います。
「写真」というフレイズそのものは、中国の古典にある時期から用例があったようですが、それが、今の「写真」(picture)を指すことはありえません。カメラで撮影されたpicture がそもそもまだありませんから、当然です。
オランダ語がわかった人は、ドンクルカームルを暗室写真鏡と訳することもあったよです。それを『蘭学事始』の現代語訳者は、暗室写真機としています。ひとつの苦肉の策です。Camera Obscura の原義は暗室、用途は写真機、ということで、ひとつの言葉としたものです。
日本では、Camera Obscuraは、真を写すもの(装置)という範疇で受け入れられたと言ってよいでしょう。写真史の偏見を完全に助長し、強化するものです。」ここの「写真」は現在の「写実」とほぼ同じ言葉だと見ておいてよいようです。英語に訳すと、realism です。
日本にCamera Obscuraが到来した日付。(美術出版社、1997)p.58では、1645年9月には到来していたとあります。装置として Camera Obscura と呼ばれるものは、箱形の portable Camera Obscura です。ヨーロッパでの確認されている初出は、1620年のドレベル(証人は、ホイヘンス父)です。市中にでまわって比較的すぐに日本にも届いたことになります。ただし、すぐに日本で使われたとは言えないようです。ちなみにそのときの名称は、暗室鏡。
夜半に目覚めてすこし仕事。本日5限の授業では、ノーベル生理学・医学賞にも触れることにしました。久しぶりのよい話です。ひとりで5時半、室温19.2度。ちいさいちびの学芸発表会。妻も9時過ぎに家をでて見学にいくそうです。
起きてすぐ、3合のご飯をしかけました。私とちびどもがお弁当。妻と小学生がおむすび。
午後に授業。空いた時間で、土曜日の準備に当たります。土曜日が終わるまで、余裕がありません。昨日から小学生がよく咳をします。今朝はお腹のあたりが気持ち悪いと言います。様子からしてノロウィルスではないようですが、咳も止まらず、気分が悪いというので休ませることにしました。
妻は9時過ぎにちいさいちびの学芸発表会に行きました。私は10時に家をでました。小学生は家で一人になります。テレビやビデオを見たり、休んだり、ゲームをしたりで過ごします。妻は一度お昼ご飯に帰ってきます。
10時半、武蔵境発の西武線。コピーをしてから研究室へ。
土曜日の準備。なんとか最後まで通すことができました。
4限5限の授業。4限の学生諸君の発表ですが、よい発表をしてくれています。
5限はリレー講義の3回目。大村智さんとトウ・ヨウヨウさんの話からはじめました。熱帯の病の表象としてのマラリア。マラリア原虫というのは、話をしていても、不思議なやつだと思います。
私の担当は、無事、終了し、5時52分多磨駅発の電車で帰ってきました。同僚の先生3人といっしょになりました。帰宅すると、小学生は相変わらず咳をしています。ちいさいちびが何と学芸発表会終了後、髪を切ったようです。ずっとショートカットにすると言っていましたが、ショートカットにしていました。ちいさいときはショートカットのときもありましたが、大きくなってからはずっと伸ばしていました。久しぶりの短い髪です。おおきいちびが帰ってきて、私も短くすると言っていました。ほんとうにするかどうかはわかりません。
小学生が苦しがるので、8時過ぎにいっしょに寝室に上がり、就寝。しばらく咳をしてましたが、咳が止むと寝ていました。寝ているときは咳をしないので、時間はいくらかかかるかもしれませんが、そのうちなおってくるでしょう。
ひとりで6時30分、室温20.8度。今日は一日中会議。
→9時6分武蔵境発の西武線。
最初の会議は、10時スタート。11時40分終了。軽くお腹にいれてから、次の会議は11時50分スタート、12時15分終了。急いでお弁当を食べて、その次の会議が12時40分スタート、ほぼ1時間で終了。しばらく休憩してから、次の会議(大学院教授会)が2時20分スタート。4時15分頃には終了。
その後、4時半から朝の会議の続き。終わるまでやるというコンセプトです。6時前に終わりました。6時4分多磨駅発の電車で帰途。
見事に、会議だけの一日でした。なかなかに疲れます。
ひとりで4時20分、室温21.2度。わずかですが、朝の室温が逆行しています。
早朝のうちに、ゲラの処理を1本終えることができました。第4号です。午後、会議が続きます。
そして、夕刻、新宿で卒業祝いのコンパ。実態はふつうに4年生の飲み会です。
→9時42分武蔵境発の西武線。2限の学生たちが電車に大勢いました。大学では、まず、スキャンの仕事。それからデスクワーク。1時から会議。2時間ほど間があいて、5時半から次の会議。6時50分新宿駅集合となっています。6時4分多磨駅発の電車に乗るため、5時55分に会議をお暇しました。半分で抜けたことになります。
コンパには全部で7名が集まりました。明日の朝一番のアルバイトの子が2名いました。10時で切り上げてそれぞれ帰途へ。私は10時半ぐらいに帰り着きました。
就寝は11時過ぎ。ここまで遅くなるのは久しぶりです。
ひとりで4時30分、室温20.8度。
週間天気予報を見ると、ここしばらくは、14度〜21度くらいの日が続くようです。天気は晴れのち曇りか、曇りのち晴れ。おおきいちびは朝練があります。ちいさいちびも朝練。お弁当をつくる妻は6時、ちびどもは6時15分に起こします。
10時半武蔵境発の西武線。まず、図書館によって ILL で届いている次のコピーを受け取りました。
Robin Burning, "An unknown letter from Henricus Reneri to Constantijn Huygens on the Thermometer and the Camera Obscura", Lias, 37(2010): 89-106それから研究室に行ってデスクワーク。11時40分過ぎに学生が来て、面談。短くすみました。
3限4限の授業。
終わってすぐに帰途。4時16分多磨駅発の電車でリターン。
疲れがたまっているようです。お風呂に入り、夕食を食べたあと、すぐに寝入りました。8時過ぎに目覚めましたが、身体が重い。
ひとりで2時55分、室温20.5度。
朝の室温は、20度の前後を上がったり下がったりしています。隙間の時間をみつけて、何とか、来週木曜日5限の授業のスクリプトならびに配付資料を仕上げました。木曜日まではまだ時間があるので、もうすこし手を加えますが、ともかく、これで授業をすることはできます。
おおきいちびは午後練。ちいさいちびは欲しいものがあると言って妻といっしょに吉祥寺に買い物へ。小学生は、たかしでダンスの発表会。12時半集合ということで、12時15分自転車の後ろに乗せて、たかし小学校へ。後ろの席の座りごごちがよくないようです。途中で降りて、友達を見つけて、いっしょに歩き始めました。そのあとは任せて私は一端帰宅。2時から発表会ということで、1時45分にでかけ、体育館でしばらく待機しました。ビデオを撮るのが私の仕事です。子どもたちの発表ですから、はじまってしまえば数分で完了。ビデオをもってまた帰宅。
全部のイベントの終了は4時ということです。4時10分前に迎えに行くと、もう小学校の校門の前で待っていました。はやく終わったのだそうです。自転車に乗るというので後ろに乗せて帰宅。何度かプリントし赤を入れると繰り返し、ほぼ提出できる直前まで来ました。ずっと作業していた原稿です。あとは、図版の処理。
この次ですが、ひとつはめんたまそのものを考えています。もう一つは、写真術公表後のカメラ・オブスクラそのものの変化です。
1.目玉の解剖学の歴史。&眼球類似光学装置:1700年前後につかわれた"Scioptic Ball";19世紀後半の"demonstration eye"
2.Charles Louis Chevaller(1804-1859) カメラ・オブスクラや光学装置製造業者の活動。ニエプスに提供したカメラ・オブスクラ。フォトグラフという名の一般向けダゲレオタイプ写真機。
ひとりで5時55分、室温19.3度。業務で大学に行きます。3時ぐらいにはあがるのではないと予想しています。
8時54分武蔵境発の西武線。同僚の先生2名といっしょになりました。
業務は2時前にあがらせてもらいました。2時4分多磨駅発の電車で帰宅。木曜日5限に3回あるリレー講義ですが、光学装置全般の話をしようかと思っていたのですが、新聞広告で『マラリア全史』を見て、やっぱり熱帯の病の象徴としてのマラリアにしようと決意しました。今回は、医学史関係でまとめることになります。1回目は「命の表象(とくに心臓の役割について)」、2回目は「病気の表象(とくに病原菌と発見について)、3回目は「熱帯病の表象、とくにもっとも象徴的なマラリアについて」の講義となります。決まるとすこしですが、気持ちが楽になります。
帰宅すると次の本が届いていました。
馬場錬成『大村智 - 2億人を病魔から守った化学者』中央公論新社、2012夕刻次の本が届きました。
ソニア・シャー『人類五〇万年の闘い マラリア全史 (ヒストリカル・スタディーズ)』夏野徹也訳、20153時頃から妻とおおきいちびが吉祥寺に買い物に。全員がきちんと揃うのは久しぶりなので、夜、外食をすることにしました。6時半過ぎ、買い物帰りの妻達と合流して、駅前の焼き肉屋さんへ。お腹が空いていたようで、子どもたちはよく食べました。
8時過ぎに帰ってきました。順番にお風呂に入って、就寝。今週と同じく、来週も月火水木金土と連続して仕事があります。日常的にはこういう仕事の仕方はしていないので、ちょっと疲れがたまります。来週の土曜日は、9時から3時過ぎまで連続です。私の担当するリレー講義も終わりますし、来週が過ぎるとすこし楽になります。
ひとりで4時、室温20.7度。5時、新聞ととるためドアを開けると雨が降っていました。新聞はまだ来ていません。
9時過ぎに次の2冊が届きました。
中川邦昭『映像の起源:目の思索、「写真鏡」―カメラ・オブスキュラ―が果たした役割』美術出版社、1997
中川邦昭『カメラ・オブスキュラの時代:映像の起源』ちくま学芸文庫、2001
なかば予想していたことですが、ちくま学芸文庫は、美術出版から出された本にいくらか加筆修正して改題したものでした。
中川邦昭さんは、1943年生まれの写真家です。この本の売りは、日本における「写真鏡」の導入とそれによる日本の絵画の変容を扱った箇所かと思われます。本日は、夕刻に駒場で授業。私が「カメラ・オブスクラ」について講義をします。18世紀初頭までに限定し、一体何であったのかという話をします。お暇な方は聞きに来てもらってかまいません。
新しい授業の準備をしつつ、論文も仕上げるというのは疲れました。今日が終われば、来週の木曜日にもうひとつ残っています。明日も大学で業務がありますし、いましばらく緊張をゆるめることができません。
家を3時前にでて、駒場には4時前に着きました。1号館2階の非常勤講師室で判子を押し、隣の部屋で本日の配布物をコピーしました。それから生協に行って、すこしばかり文房具を買いました。
生協から橋本さんの部屋に行き、書類を渡しました。橋本さんは2〜3日で10枚以上の書類を完成してくれました。ほんとうはもう1週間余裕があったのだけれども、今日が締切だと思っていたので急いだとのことです。すっきりとした書類に仕上がっていました。
4時50分から授業。ちょうど6時35分に終わりました。一時止んでいた雨がしとしとまた降っていました。
ひとりで5時35分、室温19.8度。朝の室温が20度をわりました。
昨日と同じように、晴れています。ずっと早朝に取り組んできた作業ですが、一応、最後まで通すことができました。タイトルにはまだすこし迷っています。注ももうすこし正確にした方がよい部分が残っていますが、ともあれ、全体の1次草稿はできました。やれやれ。
午後に授業。
10時半武蔵境発の西武線。5時40分多磨駅発の電車で帰途へ。
ひとりで4時25分、室温20.9度。曇り空。本日は午後ずっと会議です。スタートは、3限の半ばくらいになります。
10時6分武蔵境発の西武線。
会議は13時40分から。私が司会をします。30分で終わる必要があると誤解していました。急がないように言われたので、アクセルを一度も踏むことなく、進めて、14時15分ぐらいに終わりました。10分遅れでスタートしていますから、本当に30分かからなかったことになります。もめる案件がなく、審議事項が少なかったせいです。
次の会議は15時20分から。こちらもすこしですが司会をします。例によって、例の人によって、無意味にすこしばかり余計に時間がかかりましたが、想定の範囲内です。4時終了予定が10分ほど遅くなりました。
次の会議には、やはり、もめる案件があり、6時20分頃までかかりました。6時28分多磨駅発の電車に乗ることができました。
今日は朝から軽い腹痛があり、お尻も痛くなり、帰りはちょっとよれよれでした。
ひとりで2時55分、室温21.5度。
この時刻に起きると、家族が始動するまでに時間があります。何とか、結論部の草稿を書き上げることができました。次は、序です。序は一応はつくっているのですが、全面的に書き直すつもりです。今日は会議の日。午後遅くにあります。そして、正午に学生との面談。そういう季節になりました。
10時6分武蔵境発の電車。
正午に学生と面談した以外は、ずっと、原稿の点検と直しを行っていました。詰めると、調べ直すべき点がいっぱいでてきます。一個一個埋めるしかありません。
予定より15分ほど早まって会議。でも、終了は7時前になりました。
7時4分多磨駅発の電車で帰途。
ひとりで4時20分、室温21.3度。
6時半、ゴミをだすために外にでると、東の空には、うろこ雲。秋の空です。祝日(体育の日)ですが、大学の授業はあります。最近は、国立大学でも、かなりの確率で休日に授業を入れるようになっています。私も大学に行きます。
→ちいさいちびが部活の男子の応援に行き、おおきいちびが朝練に出たあと、ゆっくりめで動きました。9時6分武蔵境発の電車。事務の方はあまり来ていないようですが、大学はたしかにふつうに開いています。しかし、学生の人数は、休みではない日と比べるとはっきりと少ない。ただ感覚的に言うと、すくなくとも3割程度は少ないように感じます。大学に行っても朝からやっていた作業の継続。お昼前に卒業生の学生が来て、やはり同窓会のような会話。昼食は、天気もよかったので、駅の反対側にある中華料理屋さんに行って、中華風五目焼きそば。それから、踏切を渡るルートを辿って、研究室に戻りました。パソコンでやっていた作業に一定の目処をつけてから帰途。2時4分多磨駅発の電車でもどってきました。土曜日なので2回乗り換えないといけないということもあるのですが、この時間帯は、電車の本数も少なくなっています。いつもより10分以上時間がかかったように思います。[デカルト先生、怖いですよ!/デカルト『屈折光学』第5講]
必要があって、デカルトの『方法叙説ならびに3つの試論』(1637)を読み直しました。学生の頃、読んだことは記憶があります。何と、1984年3月4日に読んでいます。そのとき26歳。博士課程の2年目です。若いときに特徴的な小さくて細い文字で書き込みをしています。
デカルト『 屈折光学』(青木靖三・水野和久共訳)『デカルト著作集1』(白水社、1973年)pp.138-140.
「すなわち、完全に閉めきった部屋のうちで、一つの穴だけを残し、この穴の前にレンズの形をしたガラスをおき、 そのうしろに或る距離をおいて黒いリンネル布を張ると、その上に外部の対象からやってくる光が形象 を形づくるというのである。というのは、彼らによれば、この部屋は、眼を表わしており、穴は瞳、ガラスは水晶液、あるい はむしろなんらかの屈折をひき起こす眼の部分すべてであり、このリンネルは視神経の末端でできてい る内部の膜だというのである」
「しかしこのことは次のようにすればさらに確かになる。すなわち死んだばかりの人の眼、 がなければ牛かなにかほかの大型の動物の眼をとり、これを包んでいる三重の膜をうまく底のほうに向って切り、内部にある体液Mが 、そのために垂れたりしないようにして、大部分をむき出しにする。次 にそれを陽が透けるほど薄いなにか白いもの、たとえば一枚の紙か卵の殻RSTでふたたび覆い、この眼をわざと窓の穴、Zにはめこみ、前方BCDをV、X、Y のような陽に照らされたさまざまな対象の在る方向に向ける。そして白い物体RSTの ある後方 を部屋 の内部の諸君 のいる方 、Pに向け、部屋にはこの眼を通ってくる光しか入れないよ うにする。 その眼のCからSまでのあらゆる部分は、ごらんのとおりに透明である。さてそうして、白い物体RSTの上を見ると、おそらく<p.139>驚嘆と喜悦を禁じえぬことだが、そこにはしごくありのままに透視画法的に外部のVXYの方にあるすべての対象 を表現 する絵を見ることであ ろう。ただし最小限、この眼がこれらの対象の距離に比例した自然な図像を とどめるようにはしてやらなけれぼならない。なぜなら、眼を少しでも比例を無視 して圧するならば、たちまち絵の鮮明度は減 じるからで ある。また対象がごく近いときはより遠いときより、眼を少しよけいに圧してその形をもう少し長 くしてやらね ぼならぬことに注意しなければならない。」
「というのは、この同じ手段で視覚に属する多くのことを理解できるようになるからである。」(p.140)
1984年には気がつかなかったのですが、デカルトは、レンズの代わりに、牛の眼球を暗い部屋の開口部に使っています。デカルトは、「死んだばかりの人の眼、 がなければ牛かなにかほかの大型の動物の眼」と表現していますが、死んだばかりの人間の眼ならばあまりに怖いので、ここは牛の眼球としておきます。
邦訳では139頁に非常に有名な図が付けられていますが、一番下に描かれている人間は、暗い部屋のなかで、開口部(すなわち、牛の眼球)の網膜部に映る pictura (ケプラーの用語)を見ています。(訳者の方は、"peinture " を「絵」と訳されています。一般的にはそれで誤訳というわけではありませんが、ここでデカルトは明らかにケプラーの用語 pictura を採用しています。もっとも現代的に訳せば、「実像」、ふつうに訳せば「映像」(写像)あるいはただ「像」の方がふさわしいと思います。imago と対比される pictura を指しています。)
絵だけを見ると、脳内の人間(視覚を担う霊魂。デカルトの表現では「見るのは魂であって眼ではなく、しかも魂は直接にではなく脳を介してしか見ない」(p.153))を指すように見えますが、暗い部屋のなかにいる観察者としての人間を示しています。
若い頃、この文章は読んでいますが、テキストの記憶はすっかりなく、哲学者であればだれでも突っ込みたくなる脳内の魂すなわち観察主体を指すとすっと誤解していました。本文を読めばこの誤解は解消されますが、きっと、私のように誤解している人は多いのではないかと推測します。
ひとりで3時、室温22.2度。朝の室温がすこしずつですが、季節の動きに逆行しています。こんな早朝に起きたのは、もちろん、原稿執筆に集中しているせいです。神経の興奮がどうしても残っていて、早く目覚めます。
気がつくと雨の音が聞こえます。予報では夜半に雨でした。いつ降り始めたのかはわかりませんが、しばらく降り続きそうな小雨が降っています。
原稿の執筆ですが、調べないといけないことが数多く出現して、手間取っています。
→結論部分はあとまわしにして、図版の処理と注の作成に入りました。注を作成していると、やはり調べ直す必要が諸所に出現します。
ひとりで5時50分、室温21.2度。朝の室温がまた少しですが、上がってきています。さて、来週に新しい授業を2回行います。木曜日5限と金曜日5限です。この週末はその準備をしています。
→ひたすら、原稿作成に従事しています。おおきいちびの要望で、妻が久しぶりにパン作り機を取り出して、パン作りに着手しました。午後11時半に出来上がると言っていました。私は寝ています。
ひとりで4時50分、室温20.8度。午後遅くに駒場の授業。
ママランチ会にでかけた妻は3時頃に帰ってきました。私は、3時半前に家をでて、4時20分頃駒場に着き、いつもの順路で動いて科哲事務室でしばらく休んでいました。たぶん出版されたばかりの紀要『東京大学教養学部哲学・科学史部会 哲学・科学史論叢』第17号(2015)を手に取り、ざっと読んでいました。今は圧倒的に哲学の雑誌になっています。
廣野氏が会議があるからと言って早めに授業を切り上げられたようです。同じ教室で私の前にやられています。その後橋本さんとちいさな共同研究のプロジェクトに関して短く打ち合わせ。4時50分教室に入りました。
学生諸君によれば、まだ、とるのかとらないのか迷っている子が2人いるそうです。決めてしまった方が早いのにと私は思いますが、どの授業をとるのかは学生の自由です。
授業が終わったあと、橋本さんのところで打ち合わせの続き。つい、二人だけの同窓会みたいな話しになります。帰りに橋本さんの部屋をでると、ふじもんとすみもんに出会いました。久しぶりです。元気そうにしていました。簡単に挨拶だけして、帰途へ。9時前に帰り着きました。
おおきいちびは今日から塾に行っています。終了時刻が9時20分ということです。帰りは10時頃となります。私はすぐに夕食を食べ、お風呂に入り、息子といっしょに就寝。火曜日水曜日の会議の疲れが残っています。すぐに寝付きました。ノーベル文学賞
予想会社の予想通り、本年度のノーベル文学賞は、ベラルーシのアレクシェービッチ氏に決まっていました。日本時間の昨夜8時に公表されるというのは知っていたのですが、疲れていたので、結果も見ずにそのまま就寝したものです。
水曜日の3限の時間帯の会議のあと、同僚の沼野先生と立ち話をしているとき、予想で1位になっていて、ほんとうにとったら、ほんの短い時間でコメントを書かないといけないとお話しされていました。本日1限に授業があるのだそうです。スベトラーナ・アレクシェービッチは、名前からわかる通り、社会派の女性ジャーナリストで、『戦争は女の顔をしていない』や『チェルノブイリの祈り』が邦訳されています。
大学の前の同僚は、予想2位の方がとったときに備え、コメントできるようにしてほしいと言われたそうです。(知っての通り、第2位は村上春樹氏。)
昨日電車でしゃべっていた理事の方は、候補の下の方の方の作品を邦訳したので、やはりコメントできるようにしていてほしいと頼まれたそうです。実際に受賞する確率はとても低いけどね、と言っていました。
ひとりで4時半、室温19.3度。本日はやっと会議ではなく授業という仕事。ミッションクリティカルな業務と、会議を同時にやっているととても疲れます。くわえて、会議での同僚の先生の不規則発言。みんながうんざりしていて、うんざりされていることに気づいているがゆえに勝手に引くわけにはいかないと思いこんで、ますますうんざりする発言を重ねるという悪循環。隣に座っている方は、T氏の方がずっとましだった、と言っていました。
ミッションクリティカルな業務は本日と明日締切ですが、今日の午前中に終わらせようと思います。(要するに提出することになります。)8時6分に武蔵境に中央線が入りました。12分待つことになります。いつもとは違って先頭に座ることにしました。西武線は8時18分に出発しましたが、先頭には明らかに高校生がいました。ICU 高校の生徒でしょう。電車が遅れて、6分の電車の乗り遅れたようです。数名が、次の駅でダッシュして学校に向かっていました。高校生らしいな。
まず、研究所によって、スキャンの仕事。それから研究室。すこし片づけをしてから、印刷センターへ。5限の講義資料の印刷。そのまま事務棟1階によって書類を提出しました。やれやれ。
研究室に戻って、研究に関する作業。すこしですが、進めることができました。
1時過ぎに学生。大学のキャリアセンターから連絡があった学生です。会社側のミスだとわかりました。
2時20分から4限。留学した学生6名は全員無事に帰国していました。それに一種のゲストで2名の留学帰りの学生。
ひととおり自己紹介をしてもらい、分担を決めて、本日は終了。
判子の必要があったので、2名の学生が研究室にいっしょに来ました。判子をおして送り出しました。5限は101教室の講義。人数が読めなかったのですが、春学期の半分程度です。半分に減るのには何か事情があるはずですが、まだつかめていません。4時ちょうどにスタートし、5時25分に話し終えました。
コメントシートを受け取って5時40分多磨駅発の電車に乗ることができました。ちょうど理事の方といっしょになり、5駅の間、ほんとうにまったくの四方山話をしていました。誰々さんのところにお孫さんが生まれるというような雑談です。帰宅すると、次の本が届いていました。
森岡恭彦『医学の近代史:苦闘の道のりをたどる』NHK出版、2015
森岡恭彦さんは、1930年生まれ、東大医学部卒、東大病院長、宮内庁御用掛等歴任されたお医者さんです。
目次は次です。
序章 近代医学の基礎の確立
第1章 臨床医学の発展―一八世紀から一九世紀
第2章 基礎医学の興隆―一九世紀後半
第3章 外科の大発展―一九世紀から二〇世紀
第4章 移植される臓器とつくられる臓器
第5章 二大死因克服への挑戦
第6章 生体を調節する仕組みの解明―二〇世紀の医学の発展
第7章 感染症との闘いと免疫学の進歩
第8章 神経疾患と精神疾患
第9章 日本の医学の発展
第10章 医学・医療の進歩と現代の課題
移植医療や精神疾患、免疫学や内分泌学等、新しい所に重点を置いた著作です。
ひとりで5時25分、室温19.8度。おお、室温が20度を割りました。本日は、お昼休みの時間帯から会議。最後の教授会は、5時半終了予定ですが、6時にはなるように思います。
→9時6分武蔵境発の西武線。研究所でスキャンしたあと、研究室で確認チェック作業。もうひとつ季節的業務。
会議は11時40分から。予定より20分早く終わり、すこし休憩することができました。次の会議は12時40分から。こちらは予定通り終わりました。
今日のメインは、4時からの研究科教授会。前の会議が遅れたということで、スタートの時点で30分遅れ。ちょうどノーベル化学賞の発表があってから、終了。7時前。7時4分多磨駅発の電車に乗ることができました。帰宅して7時半。電車がうまく接続すれば、大学と自宅は、ちょうど30分ということが再確認されました。帰宅すると、次の本が届いていました。
ジェリー・ブロトン『世界地図が語る12の歴史物語』西澤正明訳、バジリコ、2015
目次は次です。
第1章 科学―プトレマイオスの『地理学』 紀元一五〇年頃
第2章 交流―アル=イドリーシー 一一五四年
第3章 信仰―ヘレフォードの世界図 一三〇〇年頃
第4章 帝国―混一疆理歴代国都之図 一四〇二年頃
第5章 発見―マルティン・ヴァルトゼーミュラーの世界全図 一五〇七年
第6章 グローバリズム―ディオゴ・リベイロの世界地図 一五二九年
第7章 寛容―ゲラルドゥスメルカトルの世界地図 一五六九年
第8章 マネー―ヨアン・ブラウの『大地図帳』 一六六二年
第9章 国民―カッシニ一族、フランスの地図 一七九三年
第10章 地政学―ハルフォード・マッキンダー『歴史の地理学的な回転軸』 一九〇四年
第11章 平等―ペータース図法 一九七三年
第12章 情報―Google Earth 二〇一二年
終章 歴史の視点?
ひとりで4時35分前、室温20.4度。室温もぐんと下がりました。けっこう寒く感じます。本日は一日中会議です。
おおきいちびが朝練に出たのに続き、家をでました。7時54分武蔵境発の西武線。先にスキャンをして、研究室へ。今日はともかく仕事です。集中講義の採点を行いました。
10時10分から会議。ほぼ予定時刻に終わりました。
研究室に戻り、お弁当を食べたあと、再度、採点作業。なんとか次の会議が始まるまでに終えることができました。
2時40分から午後の会議。すこし遅れて、3時55分終了。
その次の会議は、4時から。6時20分ぐらいまで。6時40分多磨駅発の電車で帰ることができました。
根を詰めて仕事をしたので疲れました。
ひとりで3時5分前、室温22.7度。気温が下がりそうな空気です。早朝のうちに、10月8日5限の授業のスクリプトを図版と付き合わせながら確認しました。駒場のように、105分となっても、対応できるようになっています。
私の秋学期は、本日からスタートです。台所に書き置きがあり、ちいさいちびは朝練があるので6時20分に起こして欲しいということです。おおきいちびは土曜日学校があったので今日もまた振替休日です。
→9時6分武蔵境駅発の西武線。いろいろたまっています。金曜日に整理した集中講義の採点を開始しました。4分の1ぐらいはできたでしょうか。
11時45分、一人の学生が見え、書類に判子。
12時、別の学生が見え、しばらく話を聞いた上で、やはり書類に判子。
12時40分から3限。1名。
2時20分から4限。5名。
ひとりの院生に手伝ってもらって、研究室でスキャン。とりあえず必要な部分はできました。4時にお暇しました。
4時16分多磨駅発の電車で帰ってきました。今日が誕生日のちいさいちびはパジャマに着替えてソファーでのびのびしていました。ちいさいちびの14回目の誕生日。昨日、誕生日のご馳走はなにがよいと妻は再三ちいさいちびに問いました。これぞというのがなかなか見つからず、結局、グラタンとなりました。すこし前までは、肉娘だったのですが、最近はそんなに肉、肉、というふうにはなっていません。
ちなみに、この家は、ちいさいちびが誕生して2ヶ月後に購入しています。つまり、我が家がこの家に住んでいる年月は、ちいさいちびの年齢に一致します。
ひとりで4時25分、室温23.5度。ちいさいちびは午前練。おおきいちびは午後に練習試合。都立若葉台総合高校に行くと言っています。聞いたことはあるが、行ったことのない地名です。グーグルマップで調べてみると、駅からがちょっとこみいっています。
10月8日の講義スクリプトは、朝方、一応完成しました。つぎには、10月16日のに着手しました。一から書き起こしている部分は、そうそう進むわけもなく、半分には届いていません。
夕刻、次の本が届きました。
田口理穂『なぜドイツではエネルギーシフトが進むのか』学芸出版社、2015
田口さんは、ドイツで修士号をとられたジャーナリストの方です。ぱっとみて、こういう本でもやはり文献リストはあった方がよいなと思います。夜に入って、そう言えば、木曜日の授業のためには何部配布物を用意すればよいのだろうと思い、大学の教務システムにログインして、登録者数を見ました。木曜日5限の授業で42人。これは明らかに少なすぎます。春学期で200人近くありました。減ったとしても半減はしないと思います。秋学期(と冬学期)の授業の登録締切を見ると、8日(木曜日)までとなっています。月・過・水・木で登録する学生が相当数いると思われます。もちろんそれがどれだけになるのか予想はしがたい。とりあえず、春学期と同じ数用意しておくのが安全でしょう。
ひとりで5時15分、室温23.3度。晴れ。秋晴れの空です。おおきいちびは土曜授業。いつもと同じように、8時過ぎに自転車に乗って高校へ。
週明けの月曜日から本務校の授業が始まります。10月は4回臨時に教壇に立つので、この週末はその準備に勤しみます。
→月曜日3限は、参加者数がはっきりしないので、初回に顔を出した院生と相談しつつ進めようと思います。(シラバスにはきちんとした進行案を示していますが、そこからははずれることになると思います。)
→月曜日4限は、 中尾麻伊香『核の誘惑: 戦前日本の科学文化と「原子力ユートピア」の出現 』(勁草書房、2015)を1章ずつ読み進めようと思います。
第一章 放射能と科学者、メディア
第二章 放射能を愉しむ:大正期のラジウムブーム
第三章 帝国の原子爆弾とカタストロフィーをめぐる想像力
第四章 新しい錬金術:元素変換の夢を実現する
第五章 秘匿される科学:核分裂発見から原爆研究まで
第六章 戦時下のファンタジー:決戦兵器の待望
第七章 原子爆弾の出現
その後はまた考えます。木曜日5限のリレー講義(3回分)ですが、「命の表象:医学史から」というような感じで3回を話そうと思います。
夕刻、おおきいちびが泣きながら帰ってきました。何事かと聞くと、先輩が部活を止めると言ったということです。この子もなかなか意外です。ちいさいころはほんとうに泣き虫でした。大きくなるに連れて、泣く回数はぐんと減りました。しかし、親の予想できないところでまだ泣くことがあります。
高校の1年のクラスは、1年限りで2年生に上がる時、クラス替えがあるんだそうです。今のクラスがずっと続けばよいと言っています。この様子だと、クラス替えの時にまた泣きそうです。
ひとりで4時35分、室温23.8度。北海道沖の日本海に行った爆弾低気圧の影響でしょう、急に雨が強くなりました。まさに台風のようです。風は南風。気温も昨日の朝よりうんとあがったようです。
5時過ぎに雷鳴が轟きました。5時半には、雨は弱くなっています。ほんとうに台風のようです。
台風もどきの低気圧が南の空気を引き連れてきたようです。本日の最高気温予報が29度。駒場の授業の3回目。本務校の授業がまだ始まっていないのに、駒場はもう3回目です。
ちょっとした用事ができたので、朝方大学に行くことにしました。8時54分武蔵境発の西武線。研究室で過去の資料を引っぱり出して、確認作業。事態が判明したので、すぐに書類を作成して、該当セクションに送信しました。
「医療思想史」の成績をつけました。
医科歯科の先生方による集中講義「くらしと健康」の回収物(コメントシートと最終レポート)の整理をしました。数が多いとけっこうな時間がかかります。2限の時間は終了していました。11時52分多磨駅発の電車。中央線が事故で停まっていて、帰宅できたのは1時前となりました。妻はママ友ランチ。帰ってきてからと思っていたのですが、3時半になったので家をでました。道路で会ったので、簡単に話をして、駒場へ。4時20分に着きました。
今日は判子を押してすぐに科哲事務室に直行。橋本さんとすこし打ち合わせ。
6時35分過ぎに終わりました。
中央線快速がまた事故だということです。総武線(中央線緩行)があるので、私には影響なし。しかし、けっこう迷惑を被った方もすくないないでしょう。一日に2回はかんべんしてよ、と言った人がどのぐらいいるでしょうか。
ひとりで4時50分、室温21.9度。パパ、もうすぐ60歳じゃん、やばいじゃん、ちいさいちびの昨夜の発言です。本日、57歳になりました。60歳にはまだ3年あります。
午前中、妻が誕生日の食卓にカニを買ってきてくれました。昼食のためです。泊まり込みの避難訓練があったおおきいちびは結局みんなで朝までしゃべっていたということで8時半前帰ってきて風呂を浴びそのまま就寝。3時まで寝たので、昼食にはいませんでした。小学生もちゃんと食べるようになっています。
おおきいちびがもっとも楽しみにしているケーキは夜。ちいさいちびは中学のお友達と井荻八幡宮のお祭りに行きました。8時40分頃、ひとりで帰ってくると連絡がありました。道がちゃんとはわからないというので、おおきいちびの自転車を借りて迎えに行ってやることにしました。青梅街道をまっすぐ歩いてもらうのが一番わかりやすい。ほぼ予想したあたりでひとりで歩くちいさいちびを見つけ、自転車の荷台に乗せて帰りました。おおきいちびの自転車は最近のものでは珍しいちゃんと荷台のある自転車です。ちいさいちびは乗る前心配していましたが、まったく問題ありませんでした。夜の9時過ぎ、やっと全員が揃ってバースデーケーキ。秋学期のスタートですが、今日は授業がありません。来週からはじまる授業の準備をしていると、急遽、会議のお知らせが来ました。仕方がないので諦めて大学にでかけることにします。会議は4時半〜5時半ということです。
3時42分多磨駅発の西武線で大学へ。雨が降っています。先に教務課に寄って昨日提出した書類の訂正。それから研究室に行き、メールの処理。事務に提出する書類を1点もって3階会議室へ。いつも7人集まる会議ですが、本日は5人。背景に控える問題は難問ですが、本日は、特定の案件への対応策1件のみでした。そうするしかないという方針が示され、全員で合意しました。背景にある問題についてもすこし話し合いましたが、もちろん、意見や情報の交換に止まりました。
5時40分多磨駅発の電車で帰ってきました。中央線で、同じ会議に出席していた同僚の先生といっしょになり、3駅の間、話をしていました。
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