ひとりで4時半、室温10.1度。やっと室温を記すことの意味が復帰しました。ちいさいちびは昨日の時点で完治と言ってよいでしょう。妻はもう少しです。妻と相談しつつ、我が家用の年賀状の作成に着手しました。裏面のデザインだけ決定しすこしずつプリントアウト。
紅白がはじまってから、ちいさいちびが残っていた年賀状の文章入れに着手。大晦日なのでいつもよりも早く帰ってきていたおおきいちびにバスケ部の分をすこしだけ手伝ってもらってちいさいちびの分は終わらせたようです。
おおきいちびはたぶん6時半前、小学生と私は6時45分。昨日と同じです。昨日と違うのは妻が起きていて、おおきいちびのお弁当の準備をしていたことです。100%とまでは言えませんが、ちいさいちびも妻もほぼ回復したようです。おおきいちびが挨拶のあと、年賀状は? そう、我が家の年賀状はまだ1枚も準備できていません。早くて明日、遅ければお正月の仕事となります。ちいさいちびも今日からは普通に動いてくれると思います。
息子とでかける直前に次の本が届きました。
青木冨貴子『731:石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』新潮社、2003;新潮文庫、2005
解説を除き、519頁の大冊です。解説はあの佐藤優。
息子と出かけたのは、ヨドバシ。自分の小遣いで「3DS とびだせ動物の森」を買いたいと昨夜。アマゾンでという要望だったのですが、少し外に連れ出そうとヨドバシに買い出しに行くことにしたものです。アマゾンの販売価格と、ヨドバシの10%ポイントバックはほぼ同じです。息子はアマゾンの安売り価格を見て、アマゾンがよいと思ったようです。
ヨドバシの開店時刻は9時半。9時32分に着きました。さすがにこの時刻はまだそれほど混んでいません。すぐに買って、すぐに帰宅。西荻に戻ってから、セイユーで牛乳等すぐに必要な若干のものを買い、妻の風邪薬を仕入れ、門松を息子に買わせて帰ってきました。今日はかなり暖かく感じます。ちいさいちびはやっと動く気になったようです。昼食後、食卓の上で宿題に着手。宿題が終わったあとは、年賀状に着手しました。絵はいっしょうけんめいに描く子です。スマホ、iPad、パソコンの3台を駆使し、ママに手伝ってもらって印刷案を完成させました。このプリンターで年賀状を作成するのは初めてです。いくらか私も手伝いました。
1枚1枚丁寧に仕上げていくので途中で飽きたようです。残りは明日ということにしたようです。
それにしても、これが我が家の年賀状はじめ。私は明日からの着手になります。頑張りすぎたおおきいちびは早めに帰ってきました。久しぶりに揃って夕食。塾で受験生仲間の友達ができたそうです。夕食後、小学生の新しいゲームに付き合ってやっていました。小学生はいっしょにゲームをやってくれる人がいるとうれしい。
おおきいちびはたぶん6時半前、小学生と私は6時45分。妻とちいさいちびは居間ですやすやしていました。ちいさいちびは昨日の時点でもう熱はありません。妻は、37.5度前後の熱が続いています。新聞を取るため郵便受けを開けると次のDVD が届いていました。
『ロックンロール創世期 : ビートの誕生(20世紀ポップ・ロック大全集, vol.1)』BBC、NHKソフトウェア、1996
BBC が制作放映したテレビ番組、Pop Frontier: Dancing in the Street のDVD 化です。今年最後のゼミの発表者は二人とも音楽をテーマに選びました。若い学生諸君は、20世紀のポップスの歴史をほとんど知りません。自分の好きな音楽と一定割合で親が聞いていた音楽だけを知っています。つまり大多数の学生諸君にとって、宝の山が眠っています。授業で取りあげるのもおもしろいと思います。→20世紀音楽史というテーマでポップスの歴史を振り返ることは、必要な作業ではないかと思うようになりました。2単位でも4単位でも、学生諸君だけではなく、教える側にとっても発見の旅になると思われます。
同様に、20世紀美術史というテーマで半年または1年の授業を行う価値があります。学生諸君はアバンギャルドをほとんど知りません。概念としてのアバンギャルド、運動としてのアバンギャルドを知らないままだと、そもそも20世紀の芸術がほとんどわからないままにとどまるでしょう。ピカソの絵を見て、ぼくでも書けると表する子どものままということになります。
こう考えてくると、20世紀の歴史という大きな授業が必要になってきます。これはひとりでは難しいので、数名でチームを組んで、月曜日(20世紀の歴史:戦争編)、水曜日(20世紀の歴史:科学技術と社会)、金曜日(20世紀の歴史:芸術編)というような感じでやると効果的だと思われます。同様の発想で、イエズス会の歴史というのもよい授業となるでしょう。イエズス会(発祥と展開:ヨーロッパ)、イエズス会と日本、イエズス会と中国、イエズス会と中南米、というふうに柱を立てることができれば、意義ある歴史の授業になることは間違いありません。
ひとりで6時40分、息子は7時前。ちいさいちびと妻は居間で並んですやすや。食卓に次の本が置いていました。昨夜届いたのでしょう。
松尾沙戸子『ワシントンハイツ―GHQが東京に刻んだ戦後』新潮社、2009 ;新潮文庫、2011
新潮文庫の解説は、片岡義男が書いています。うまいな。関東村には触れられていません。「ワシントンハイツの機能は、調布・府中・三鷹にまたがる地域に、あらたに建設されたアメリカ軍施設に移転した」とだけ記されています。
ちなみに、1940年生まれの片岡義男は子供時代ワシントンハイツに出入りしていたそうです。当時普通の日本人はオフリミットで入れませんでしたから、彼には特別な繋がりがあったことになります。ウェブで調べてみると、片岡義男は山口からハワイに移民にした日系2世の子どもで、彼自身子供時代ハワイにすこし行っているそうです。この1点だけでは情報が少ないのですが、英語と日本語の話せる父が、あるいは父の知り合いが米軍関係の仕事をしていたという推測ができます。「調布・府中・三鷹にまたがる地域」が気になるので本文を読んでみました。もちろんちゃんと書かれています。
オリンピックの選手村はもともと朝霞選手村の方が優勢で、渋谷では主婦を中心に代々木に呼ぼうという運動を展開していた。
(日本国内にも対立するかなり複雑な動きがあり)アメリカは、突然、ワシントンハイツは(オリンピック選手村として使われることを前提に)返還する、かわりに調布飛行場と水耕農園の地に米軍設備を拡張してもらうと言ってきた。調布・府中・三鷹にまたがる地元は「オリンピック協力の旗印」のもと、この案を飲まざるをえず、代わりに東京都は野川の治水工事と周辺道路整備を約束した。(p.462-3。私の言葉でまとめています)
次に秋尾沙戸子さんは讀賣新聞の記事(昭和37年11月21日夕刊)を引用しています。
「<府中、調布、三鷹三市にまたがる元米軍水耕農園跡に建設中のワシントンハイツは、第一工事が終わり二十一日午前十一時から入所式が行われた。・・・こんご「カントウ村」(関東村)と呼ぶ。」以前から、ハーディーバラックスの正確な位置を知りたかったのですが、ウェブ上の何枚かの地図を重ねてみることで、わかりました。青山公園南地区に接して、Hardy Barracks、星条旗新聞社、ヘリポートがあります。政策研究大学院大学からはヘリポートが見えます。ちなみにグーグルマップで“ハーディーバラックス”で検索しても見つかりません。グーグルマップの表記が"HARDYBARRACKS"だからです。
[風邪]
ひとりで6時30分。息子といっしょに5時半ぐらいに目覚めましたが、何とか再び寝させました。妻とちいさいちびが暖房をつけたままソファで寝ています。条件がいつもと異なるのでLDKの室温は記しません。小学生は7時半、おおきいちびは8時前に起きました。ちいさいちびは8時過ぎ。熱を計ると36.6度。平熱よりは高いですが、とりあえず熱は下がったようです。もちろん昨日のようにまた上がるかもしれませんが、起きたあと iPad を見るようになりました。すこし回復したようです。
昼食前から妻もちいさいちびの寝ているソファーの下で寝込みました。昨日あたりから調子は悪そうでした。おやつの時間に目覚めて体温を計ると38.6度。ちいさいちびの風邪がうつったのかどうかはわかりません。風邪を引かないよう、残った家族の体調管理に留意する必要があります。
ちいさいちびはもう熱は収まったようです。ソファーの上で、お絵描き(iPad上)をしたり、スマホをいじくったり、休んだりしています。[Kindle版『作文訓練法』]
木曜日3限の授業で次のキンドル本の紹介をしました。日曜日の学会の忘年会のときに本人より教えてもらったものです。
和田正法 『作文がうまくなる訓練方法: 小論文でレポート・論文の基礎力をつける』[Kindle版], \450
彼の指南通り、(中・高・大)学生に訓練させることができると確実に効果が上がると思います。要求されているのは簡単なことです。友達に読んでもらう。繰り返し実践すれば上達することは間違いないでしょう。
息子といっしょに7時10分。妻とちいさいちびはソファでまだ寝ています。
7時45分、まず妻が目覚ました。やばい、おおきいちびのお弁当をつくらないとといってお弁当つくりを始めました。朝はゆっくりめなので、ぎりぎり間に合うそうです。ちいさいちびの熱はひとまず37度以下まで下がっています。
ちいさいちびは今日一日は寝たきりの模様です。熱は、38.1度まですぐに上がり、その高さを保っています。昨日妻はインフルエンザを心配したようですが、この状態はインフルエンザではないと思われます。(医者に行って確認しないとはっきりとは言えませんが。)おやつの時刻になって、お腹が痛いと叫び、トイレにかけこみました。便秘と下痢の合併だったようです。
バスケ部の仲間も数名風邪を引いていたり、体調を崩していたりするようです。私は本務校で金曜日の授業はありませんが、今日はまだ学校があります。さて、どのぐらいのクラスが通常通り営業しているのでしょうか。
大学から大学院・学部主要会議一覧(2015/1/5〜3/31) というファイルが送られてきました。私のスケジュール管理は、B4 サイズの壁掛けカレンダーに記入することで行っています。早速、カレンダーを壁から降ろし、私が出席しなければならない会議や行事を書き込みました。わずかですが、既存のスケジュールとバッティングするところがあります。選択をするか、調整をするかしなければなりません。
なお、年明けは1月5日(月曜日)から始動します。その週は集中講義で毎日大学に行きます。その次の週は、火曜日と土曜日に季節的業務が追加されます。その次の週は通常通り。そしてその次の週は、毎日仕事があります。2月に入るとすこしですが楽になります。3月は、2日(月曜日)から4日(水曜日)にかけて国際ワークショップ。どうもフルに参加できるのは、3日だけかもしれません。たぶん、官公庁も大学も御用納めです。年賀状は家族の誰も1枚も準備できていません。場合によってはお正月にあたふたとやっているかもしれません。
ひとりで5時、室温9.9度。全員、学校があります。私は午後。
5限終了後、慰労会。武蔵境の駅前の焼鳥屋さん。10時半まで。
帰宅すると、妻とちいさいちびがソファで寝ていました。自分の部屋で勉強しているおおきいちびに聞くと、ちいさいちびが終業式から帰ってくるとまずジンマシンが出て、しばらくお昼寝。目覚めると熱が出ていたそうです。38.8度。医師の診断を仰がないと正確なことはわかりませんが、おそらく疲労による風邪だと思われます。埼玉に住む妹から、ムロタニ・ツネ象『まんが 発明・発見の科学史 科学偉人伝』くもん出版、1997とハニー・ベア・プチが送られてきました。おおきいちびには両方とも人気でした。普段、この種のマンガを手に取ることはあまりないのですが、科学史家としてたまにはこういうものを読んでみるのもよいことかもしれません。
おおきいちび、妻、小学生に続いて6時35分、室温9.0度。お昼に会議。
子どもたちの学校も大学も明日まであります。クリスマスの日に終業式というのも個人的には悪くないと思いますが、なんで?と思う子もいるでしょう。
10時18分武蔵境発の電車で大学へ。デスクワークをすこしこなしてからお昼一番で昼食。午後の会議は、12時から。12時1分前に会場につきました。
4時前に帰宅。ちいさいちびだけ部活があっていつもとおり7時になります。本日の夕食はちいさいちびの帰宅を待ちます。
ひとりで6時5分、室温9.5度。10度を下回ると寒く感じます。ちいさいちびは一日練。6時半に起こすよう言われています。
→ちいさいちびと妻を6時半に起こしました。いっしょに小学生も起きてきました。おおきいちびだけが遅くなりました。おおきいちびは9時半から夕刻まで塾。[クリスマスケーキ]
街の噂では、東京女子大の前のケーキ屋さんがとてもおいしいということです。おおきいちびがクリスマスケーキはそこがよいと言っています。
3時過ぎ、散歩を兼ねて、行ってみることにしました。まだクリスマスではありませんから、子どもたちように小さいケーキを買ってこようかなと思って家をでました。
自転車で通ったことはありますが、歩いたのは初めてです。おおよその方向は理解できているので、セイユウから西に向かう道路を歩いていきました。我が家からだと2キロ程度でしょうか。お店の正確な位置は頭のなかにはなかったのですが、東京女子大前のバス停のところに立つと、すぐにわかりました。一軒だけ人が並んでいるお店があります。
予約の方の列はこちら、予約されていない方の列はこちら、という案内がありました。せっかく来たので並びました。おお、置いているのはクリスマスケーキだけです。10人近い店員さんがてきぱきと来ているお客さんの対応をしています。並んでいますが、すぐにショーケースの前にでて、せっかくですからクリスマスケーキを1個オーダーしました。2〜3分、レジの前で待っていると、柔らかいのでお気をつけてお持ち帰りくださいという言葉といっしょに袋を渡してくれました。
帰途は、たぶん最短ルートだと思われる道にしました。アケタのところからラドンサウナの前を通るルートです。ゆっくり歩くと往復で1時間、散歩にはちょうどよい距離でした。
(お店の名前は検索ですぐに出てきます。私は覚えていません。おおきいちびはすぐに覚えていました。)→お店の方がはやく食べた方がよいということだったので、子どもたちの就寝前に食べることにしました。ちいさいちびは入浴中でしたが、小学生の就寝時間を優先しました。私も一切れ味見。甘味を押さえた上品でふわふわのクリームに仕上げていました。日本の上物はこうなるという、そういうケーキでした。
あまーいのが好きな方は、もっとふつうの有名なケーキ屋さんの方がよいかもしれません。さて、こんな近くにラドンがあることにすこし驚きました。銭湯としての名前は文化湯です。家から遠いので、この銭湯には行ったことがなく、ラドンがあるのを忘れていました。1階がラドン&サウナの「サンテパレス」で、地下が銭湯だそうです。
東京都内で生き残っている数少ない銭湯です。時間に余裕のある方は、一度尋ねられても面白いのではないでしょうか。
ひとりで6時、室温11.5度。10度以下の気温になれてきたのでしょう、いくらか暖かく感じます。
6時20分、朝練のあるちいさいちびを起こしました。うーん、という反応です。[え、もう?]
9時18分武蔵境発の電車で大学へ。
お昼休みに会議。
3限4限。
3限の院生はみんなアレルギーもちだと判明しました。動物アレルギーもあるそうです。
4限にでてきた学生は少ない。聞くと、クリスマス・イブ・イブ・イブだから、ということです。え、もう?
明日は休み[休日]ですし、休み明けの水曜日はイブですし、木曜日はクリスマスです。学生たちの一部は、もうそういう気分なのだそうです。
早すぎません?
ともあれ、月曜日は今日で年内最後。
5時半から学長室での懇談会。所長は尻を叩かれた形になりましたが、とてもやさしくぺんぺん、ぐらいの感じでしょうか。私はほとんど立会人の気分でした。
7時過ぎに駅につくと駅の中でもクリスマスケーキを売っていました。
ひとりで5時10分、室温10.5度。昨日ずっと降っていた冷たい冬の雨は止んでいます。妻とちいさいちびを6時半に起こします。予報のよれば最低気温5度、最高気温13度。ちいさいちびは7時過ぎ、おおきいちびは9時頃、妻は9時過ぎにでかけました。妻は私がでかける11時前に帰ってくるそうです。ちいさいちびの応援に行っています。
正午からずっと会議です。
→11時10分前に家をでました。目黒駅のトイレで内田さんといっしょになりました。大岡山駅のパン屋さんで昼食のパンを買って会議室へ。4つの会議が続きました。最後の会議は時間切れ終了となり、そこから緑が丘駅まで歩きました。駅前のイタリアンで忘年会。貸し切りになっていました。
めでたい話が1件。9時10分ぐらいにレストランをお暇しました。緑が丘駅は初めてです。どうやって帰るのか路線図をうーんと見て、久しぶりに自由が丘、渋谷経由で帰ることにしました。昔、東横線と井の頭線の接続はそれほど悪くありませんでした。しかし、今回、渋谷駅で東横線から井の頭線へ乗り換えてみて、わー、とおー、となりました。遠いだけではなく、複雑に入り組んでいます。もしかしたらもっと短いルートはあるのかもしれませんが、渋谷駅は巨大な迷路と化していました。
渋谷、吉祥寺、と通る帰途。疲れました。10時20分過ぎに帰宅できました。
ひとりで4時25分、室温10.1度。すこし寒さが緩んだでしょうか。
本日、おおきいちびは9時〜6時で塾。お弁当をもってでかけます。ちいさいちびは午後に練習試合。小学生に予定は入っていません。私も仕事は明日なので、今日はばたばたしなくてすみます。昨日大学からシラバス入力が可能になったという案内が来ました。12月19日(金)19時から1月30日(金)17時までという通知です。つまり、締切が1月30日金曜日の午後5時。案はあります。年が明けて、授業が始まってから入力作業を始めようと思っています。
同時に年明けのスケジュールをつくりました。不定期にいろいろあり、あらかじめきちんと組んでおく必要があります。学会の理事会等の連続会議が明日あります。会場校の都合でいつもの土曜日ではなく、日曜日開催となりました。
ひとりで4時45分、室温8.7度。空気がひやーとしています。子どもたちが寝静まっているあいだに、年末年始の仕事の目処をつけました。一番大きいのは、1月5日(月曜日)から1月9日(金曜日)までの集中講義です。医療制度について医科歯科の先生方にリレー講義で来てもらいます。窓口担当は私です。学生向けにはとくにコメントシートの準備と成績が大切になります。
年明けの日程に不規則性があります。外大は、1月15日(木曜日)には月曜日の授業を行います。駒場は、最終回が1月27日(火曜日)となります。お昼休みに打ち合わせがあり、大学に行きます。その後、駒場の授業です。年内最後です。
→9時42分武蔵境発の電車で大学へ。残っている仕事をできるだけこなそうと思います。手元にあるコメントシートの整理はすませました。昼食をとったあと、11時50分から院長と打ち合わせ。説明を受け、書類をもらいました。このあとはこちらの仕事となります。
短く済んだので、一度帰宅してしばらく休憩し、それから駒場に行くことにしました。家に帰ったあとは、仕事のメールを出し、休憩。妻が見ていたテレビで理研の会見をやっていました。小保方さんの件です。STAP細胞は再現できなかったという公表です。理研の対応は当初よりずれていますし、マスメディアの報道もずれています。
2時半ぐらいに家をでました。3時半ぐらいに駒場に到着し、1号館、生協(ちいさいちびに文房具を頼まれています)、図書館と回りました。図書館では新雑誌の記事をざっと見ていました。
4時20分に科哲事務室へ。簡単に挨拶してから、教室へ。
6時55分帰宅することができました。家の前の曲がり角でちいさいちびといっしょになりました。部活の帰りです。バカ重いリュックを背負い、制服等を手提げ袋で抱えています。中学校の教材の重さはクレージーです。どうにかしているのではないかと思われます。ちびどもは9時から放映されるコナンを見ると言っています。小学生もいっしょに見ていましたが、40分で寝室に上がってきました。録画しているので明日に続きを見ることができます。実際ひとりで見るかは不明です。
ひとりで6時5分、室温7.5度。昨日到来した冬の台風の影響がちゃんと室温にもあらわれています。室温でこの冬一番の寒さ。昨日の帰りが寒かったことを考えればこのぐらいかなという気がします。午後に授業。3限4限5限。3限と5限では期末レポートの要領を配布し説明します。
中央線が武蔵境に到着して9時29分。例によって駅の外にでて昼食のパンを買い、9時42分武蔵境発の西武線で大学へ。印刷センターで3限5限の授業のプリントをしてから研究室へ。コメントシートの整理を2つだけ行いました。こういうふうに今年はすこしずつ進めていこうと思います。
連続している授業はいつものように怒濤。5限は、101教室で簡単に説明したあと、卒演。101教室に忘れ物をしてすこしばたばたしました。通常の5限に関しては学生諸君に任せました。
帰宅して6時前。おおきいちびは塾へ、小学生は児童館のダンスにでかけていました。小学生はすぐに帰ってきました。ちょうどよいのでお風呂。
ひとりで4時45分、室温10.4度。外の気温がすこし戻しているのかどうかは不明です。室温は昨夜の暖房の状態で変化します。→ゴミを出すため外にでました。寒さはいくらか緩んでいるように思われます。予報を見ると、最低気温2度、最高気温9度です。昨日よりはあきらかにましです。午後、連続で会議。相当数続きます。とりあえずすべて大会議室ですので、12時40分に大会議室にいればあとは司会が変わるだけで、我々のような一般参加者は同じ席に座り続ければよいことになります。これが得てして苦行に変わります。
→ 10時30分武蔵境発の西武線。コメントシートを整理しようと思っていたのですが、片づけをしていたら時間がありませんでした。12時40分から試験の説明会。その後会議が3つ続きました。とくにもめた案件はありませんが、議事が多く、終了して7時半すぎ。7時40分多磨駅発の電車は、大学の前の交差点から出ていくのが見えました。7時42分発多磨駅発の電車に同僚の先生方4人と乗り込みました。朝方とは空気が違います。上空に大寒気が来たのでしょう、刺すような冷え込みです。
7時10分過ぎに帰宅することができました。
ひとりで5時55分、室温9.1度。理由はよくわかりませんが、昨日は帰宅後かなり疲れていました。坂本邦暢氏の推薦で、次の書評をダウンロードしプリントアウトし読みました。
有賀暢迪・中尾央「<書評>認識論的徳としての客観性:イメージから見える科学の姿(エッセイ・レビュー:L. Daston & P. Galison, Objectivity)」『科学哲学科学史』4(2010): 127-136
400頁を越える大著をエッセイレビューの対象とされた点、まず賞賛したいと思います。朝方、妻の荷物を郵便局に持っていきました。わおー、寒い。帰り道、雨が降り始めました。天気予報を確認すると、本日最低気温3度、最高気温5度とあります。寒波が東京まで届きました。
ちょうどよいので、妻の荷物の後ろにおいていたデロンギを私の部屋に導入しました。つまり、これまでは膝掛け電気毛布以外、暖房器具なしで過ごしてきたわけです。さすがにもうむりだと判断しました。(デロンギというのは、ほんとうにデロンギの製品というわけではなく、オイルヒーターの総称として使っています。我が家には、オイルヒーターが3台あります。1台のみ、ほんとうにデロンギ製です。)
ひとりで5時半、室温8.8度。
朝練のあるちいさいちびを6時20分に起こします。ちゃんと7時前にでました。それまでには他に誰も降りてきませんでした。午後に授業。
→9時半武蔵境発の電車で大学へ。簡単にデスクワークをすませたあと、レスポンスシートの整理を行いました。3回分。途中、いつも通り11時に生協で昼食。整理すべきレスポンスシートはまだ多くあります。少しずつ進めます。
3限4限の授業。
4限の授業終了後、すぐに帰ってきました。
著者の方より、次の論文の別刷りが大学宛てに届いていました。
保科英人「三崎嘯輔の生涯」『(福井大学地域環境研究教育センター研究紀要)日本海地域の自然と環境』No.21(2014), 51-78
保科英人さん、丁寧にありがとうございます。保科さんは、本職は昆虫学者とあります。
ひとりで6時、室温9.8度。駅伝のあるおおきいちびとお弁当を作る妻を6時半に起こします。東京は大寒波というほどではありませんが、大寒波からの冷たい空気は確かに届いています。ちいさいちびはたぶん駅伝の応援をしてから練習試合。
おおきいちび、妻、ちいさいちびの順番にでかけます。行き先は同じです。帰りは、妻、おおきいちび、ちいさいちびになると思われます。朝一番で投票に行ってきました。投票所で10番台でした。この寒空コートなしでスーツ姿の老人が私を追い抜いていきました。背が高くて背筋が伸びています。テレビに出てくるベテラン執事のようでした。小学校の校舎では3階部分に朝日が当たっていました。高いマンションは朝日に包まれているように見えました。半月。
晴れていて、平年並みの気温でしょう。妻、30秒後ぐらいにおおきいちびの順番で帰ってきました。去年は4位、今年は13位。単純に練習が足りていなかったようです。おおきいちびとしてはずっと痛かった足が痛くならず、無事アンカーをつとめたことで一応満足したようです。ちいさいちびは応援後バスケ部みんなで保谷高校へ練習試合で行きます。
しばらくしてからおおきいちびが吉祥寺に買い物に行きたいというので付き合ってやることにしました。まず、公園に行ってお団子。こんなに並んでいる公園のお団子屋さんははじめてです。10分程度待ちました。家族連れが大勢来ています。小さい子は泣いている子もいます。おおきいちびはさすがに小さい子の無茶泣きを見て笑っていました。親は困りますが、小さい子はこんなものです。
次いで駅ビルのなかへ。ユザワヤへ行くつもりでしたが、エスカレーターから手帖売場が見えたので手帖を探しました。2つ目の売場にちょうどよいのがありました。他に文具を2点追加してその売場の買い物は終了。
次はリュック探し。近いのでヨドバシに行ってみました。実用的なリュックはそれなりの数揃っています。候補となるものを2つ決めてから、ロフトへ。途中帽子屋さんに寄って(帽子が目的ではなく、店頭にリュックが並んでいた)、それから、ロフトへ。ロフトも子どもがいっぱいでした。
ロフトにはリュックが多く展示されています。2つほど候補を絞り、ずっと悩んでいます。結局、現在使っているリュックに近い方を選びました。
次に靴を見ると言います。駅前の大きな靴屋さんに入りました。欲しいものは置いていませんでした。靴はまたママとおいで、ということで、買い物は終了。ちいさいちびの帰宅は、西武線が遅れて、8時頃になりました。高校がきれいだったというのが感想です。
夜半に目覚めてすこし仕事。室温は、まだ13度台。
ひとりで6時半、室温10.6度。
こどもたちは全員、土曜学校。小学生とちいさいちびは7時に起こしましたが、うーんと言っています。ちいさいちびは薬を飲み忘れて就寝してからジンマシンが出たと言っています。朝方、スイカのチャージと買い物のため駅へ。好天です。気温もまだそれほど下がっていません。寒くなるのは明日からということのようです。
子どもたちは3人とも給食はなし。小学生は帰ってきてからずっと居間。ちいさいちびは妻が順番をとっている医院へ。ジンマシンの薬をもらいます。おおきいちびは自分でふれあいに。
ちいさいちびと妻は、2時頃、吉祥寺にでかけました。買い物をしてから、ちいさいちびはバスケ部でスイパラ。友達とスイパラが一番楽しい時期でしょう。妻はスイパラにはアテンドせず帰宅。おおきいちびは3時頃塾に出かけていきました。
ひとりで6時15分、室温12.6度。昨日のコンパのとき、学生は来週また大寒波がやってくると言っていました。週末は寒さの一休みといったところでしょうか。→天気予報をきちんと見ました。昨日の雨が暖かさを連れてきただけのようです。明日からこれまでと同じような寒さが続き、日曜日からの週は、最高気温が10度に達しない日が半分といったところです。(最高気温が10度に達しないのは、日曜日、水曜日、木曜日。とくに木曜日は、最高気温8度、最低気温零下1度の予報となっています。)台所にお餅をつく準備がなされています。すぐに餅つきにかかりました。ほぼ1時間かかります。7時半前にできあがりました。
8時20分頃妻がでかけて、午前中はひとりでお留守番。昨日の疲れがすこし残っているので、動き出すのは妻が帰宅してからにしようと思います。
午後に駒場の授業。
2時過ぎに家をでました。まずお金を降ろしてから郵便局に戻り、固定資産税と学会の年会費(まずひとつだけ)を支払いました。それから、ズボンを受け取りに。預り証には午後3時とありましたが、すこし早く行ってもお店には来ているだろうという予測で、たぶん2時45分頃お店に着きました。来ていました。今履いているズボンは夏物です。お店で着替えて、夏物はカバンに詰めて、駒場へ。いつも通り、1号館、生協、図書館と回りました。図書館でしばらく読書。外へ出ると、昨日の5限挨拶しようと思っていた文学部の先生に会いました。偶然ですが、とても好都合です。昨日したかった挨拶をし、非常勤として外語に来てもらうに必要な打ち合わせをし、四方山話をしていました。5限開始2分前にさよならをして、教室へ。キャンパスの端から端だったので、2分ほど遅れました。本日は細胞学説の形成。なかなか形成のプロセスは予想しがたい迂路を辿っていることはわかってくれたと思います。
7時前に帰宅することができました。珍しくちいさいちびが先に帰宅していました。私は息子といっしょに風呂に入ってから、夕食。息子はここのところ疲れ気味です。明日の土曜学校、ほんとうは休みがよかったな、と言っています。
ひとりで5時55分、室温10.1度。かろうじて10度を上回っています。6時17分頃、朝練のあるちいさいちびを起こしました。半には起きるでしょう。
ちいさいちびがでかける前に、燃えるゴミを出しました。空気に裂くような冷たさがありません。寒気がいくらか緩んだように思われます。3限4限5限(ここまでは授業)、6限7限(?)。
9時30分武蔵境発の電車で大学へ。印刷センターで3限の資料をリソグラフプリントしたあと、研究室へ。デスクワーク。ひとつの事柄に関しては、今年度分を完了させました。
大学は授業評価のアンケートを実施する週に当たっています。指示通り、いつもより15分程度早めに授業を切り上げ、アンケートに回答する時間をつくりました。回収は学生に依頼して、私は配って説明を終えたら教室を出ました。3限4限5限に関して行いました。4限は2種類になりました。
5限終了後は、幹事の指示で5時40分多磨駅発の電車で武蔵境へ。駅前の飲み屋さんで打ち上げコンパ。開店が6時だったのでお店の前で数分待っていました。すでに4人待っている方がいました。こちらは8名。9時過ぎに切り上げて、私を含め3人が帰り、残りは新しく来る1名とともにカラオケに行きました。
9時半ぐらいに帰り着きました。
最近私はアルコールを摂取することはこういう機会がなければありません。すこし多めに飲んだようです。
夜半に目覚めてすこし仕事。
ひとりで5時15分、室温10.6度。
午後は、ずっと会議です。ちょうどよいので、懸案の冬ズボンを吉祥寺に買いに行きました。その後必要があってお店を3軒まわり、ステーキ屋で昼食。妻によればテレビで取りあげられたお店だそうです。立ち食いという意外な形式でしたが、まあ、ものはためしということで入ってみました。お腹を空かした若者向けです。食べきることができませんでした。
そこから、大学へ。大学には12時前に着きました。会議は1時40分から。この会議はスムーズに終わりました。次の会議は3時半から。この会議には地雷が潜んでいました。長引いて、終了が7時を大きく過ぎました。7時40分多磨駅発の電車で帰途へ。帰宅して8時10分でした。疲れました。帰宅すると、新しい『化学史研究』が届いていました。目次は次です。
第41巻第4号(2014)目次
[論文]古川安「燃料化学から量子化学へ―福井謙一と京都学派のもう一つの展開―」第41巻(2014): 181-233
[会 報] 「2014年度総会報告」第41巻(2014): 234-236
[会 報] 「化学史国際ワークショップ「1920年代から1960年代における化学の変容」一般参加の案内とプログラム(英文)」第41巻(2014): 237-240
ひとりで7時20分、たぶんちびどもと同じぐらい、室温13.0度(参考)。妻と小学生はおそらく7時前。室温は、暖房が入ったあとなので参考記録です。
朝が遅くなったのは単純に疲れが出てきたせいです。私の場合就寝の時刻はほぼ一定しているので、体調は目覚める時刻で判断できます。
まだまだ冬の空気。妻が清掃のために台所の窓を開け放ちました。閉める前で室温が9.6度。そのぐらいの感じだと思われます。[数学と自然学]
ディーバスが次の論文で扱っています。A. G. Debus, "Mathematics and Nature in the Chemical Texts of the Renaissacne," AMBIX, 15(1968): 1-28
ディーバスはアリストテレスの立場として『形而上学』第2巻第3章の末尾の言葉を引用します。
ここは岩波文庫訳で引用しましょう。「ところで、数学的推理におけるがごとき厳密さは、あらやる対象について要求されるべきでなくて、ただ質料を具有しないものの場合にのみ要求されるべきである。まさにそれゆえに、この数学の方法は自然学の方法ではない。そのわけは、おそらく、およそ自然は、すべて質料を具有しているからであろう。それゆえに我々は、まず第一に自然のなにであるかを考究せねばならない。そうすればまた、自然学がなにものを対象とするかも明らかになるであろうから、また果たして原理や原因を研究するのは或る一つの学のすることか多くの学のかも・・・。」(p.78)
最後の・・・は原文のものです。
数学の方法は自然学の方法ではない、自然学は質料を有するものを対象とするので数学的な厳密さを要求できない、数学的厳密さを要求できるのは質料を有しない対象だけである、アリストテレスははっきりと述べています。結局、昨日大学でプリントアウトした論文を読んでいます。Stephen Gaugroger と John Schusterの共著論文「流体静力学のパラドクスとデカルト動力学の起源」はよく書けた論文だと思います。デカルトの宇宙論(機械論的宇宙論の形成)に体系的で一貫した解釈を与えることに成功していると思います。
アブストラクトをざっと訳してみましょう。17世紀の最初の何十年か、実践数学、とくに静力学と流体静力学にもとづき、動力学的用語法をつくろうとする様々な動きがあった。この論文は、偽アリストテレスの機械学の伝統とアルキメデス的アプローチを対比させた上で、アルキメデス的アプローチのなかで静力学と流体静力学の概念を比較し、そうした概念のステヴィン、ベークマン、デカルトにおける展開の試みを探る。この論文の核心部分は、デカルトの流体静力学へのアプローチとなるが、同時代のものとまったく異なることが示される。とりわけ、デカルトは、流体静力学に自然哲学的根拠を与えようとした点が特筆される。同時にデカルトは、流体静力学を用いて一連の概念、アプローチ、思考法を発展させ、問題を解こうとした。こうした一連の概念等が光学と宇宙論の成熟した思考を形作った。
実践数学としては、著者たちは、幾何光学、位置天文学、和声学、気体静力学、流体静力学をあげ、アレキサンドリアで開発されたとします。
著者たちは、アリストテレスの『分析論後書』の重要な箇所も引用してくれています。Post. Anal., 75b14-16 "the theorem of one science cannot be demonstrated by means of another science, except where these theorems are related as subordinate to superior: for example, as optical theorem to geometry, or harmonic theorems to arithmetic,"
John A. Schuster と Craeme Watchirsの共著論文は、必要な作業をしていると思いますが、独特の用語に引っかかるかもしれません。私自身、クーンとバシュラールの問題構成には見直しが必要だと感じているので、こちらはじっくりと取り組みたいと考えています。
ひとりで6時40分、室温9.9度。朝練のあるちいさいちびは6時20分に起こすように言われていました。妻を起こし、大急ぎで支度。なんとか間に合うようにでかけたと思います。小学生はいっしょに起きました。おおきいちびは7時半。昨夜、遅くまで宿題と書類作成を行っていたそうです。まだまだ冬の空気。
3限4限。
9時半武蔵境発の電車で大学へ。まず図書館へ行って次の本を受け取りました。
『アリストテレス全集第2巻 分析論前書・分析論後書』岩波書店、2014
読んではいません。ざっと目を通しました。アリストテレスは、すごいな。
デスクワーク。11時に生協に行って昼食。昼休みに3人の学生と面談。[混合数学/実践数学]
別のものを探していたら、次のものが pdf で見つかりました。
J. A. Schuster, 'Consuming and Appropriating Practical Mathematics and the Mixed Mathematical Fields, or Being 'Influenced' by Them: The Case of the Young Descartes',
2005年北京の国際科学史学会のシンポジウムで発表し、前に記した本に掲載される予定であったが、本の出版計画は2012年に頓挫した。シュースターは積極的にこうしたドラフトをネットに挙げています。研究室でのデスクワークの合間にシュースターの研究を探していました。全部かどうかはわかりませんが、多くの論文をネットに挙げていました。10点ほどダウンロードしました。読むことはできていないので、詳しくは、後ほど。
→大学にいる間に次の2点は、プリントアウトしました。
John A. Schuster and Craeme Watchirs, "Natural Philosophy, Experimental Discourse: Beyond the Kuhn/Bachelard Problematic," in H. E. LeGrand (ed), Experimental Inquiries (Dordrecht, 1990), 1-48
これは実際に出版されたバージョンの直前のバージョンだということです。英語で penultimate pre-publication version 。引用するためには、出版バージョンが必要ですが、論点を知るにはこれで間に合います。
Stephen Gaugroger and John Schuster, "The Hydrostatic paradox and the origins of Cartesian dynamics," Stud. Hist. Phil. Sci., 33(2002): 535-572
ひとりで6時20分、室温10.1度。外はきれいな青空。昨日とおなじ寒さだそうです。[混合数学/実践数学]
"Aristotelian Mixed Mathmatics" で検索をかけたら、隠岐さんの論文が4番目に出てきました。次です。Sayaka Oki, "The Establishment of 'Mixed Mathematics' and Its Decline 1600-1800," Historia Scientiarum, 23(2013): 82-91. ちょうど10頁の論文です。最初は画面上で読んでいたのですが、鉛筆をもってよむ読書の習慣に従い、プリントアウトして読みました。隠岐さんが2013年にこの論文というのはちょっと意外だったのですが、簡潔・明瞭にポイントがまとめられていて、よくわかる論文です。ただし、私の関心からはすこしずれていて、数学と言った場合、(器具製造業者は実用の世界、実践の世界、商業の世界に住んでいるので)実践数学、実用数学の伝統との関連を私は知りたいと思っています。自分で調べろ、ということでしょうか。
ちなみに検索で3番目に出てくるのは、隠岐さんの注3)に挙げられているロレーヌの次の論文です。Lorraine J. Daston, "Fitting Numbers to the World: The Case of Probability Theory," History and Philosophy of Modern Mathematics, William Aspray and Philip Kitcher ed. (Mineapolis: University of Minnesota Press, 1988), 222-228. ページ数は、混合数学を扱っている箇所です。論文そのものは、pp. 221-237 です。
同じ検索でトップに来るのは次です。
John A. Schuster, "What was Early Seventeenth Century 'Physico-Mathematics'? Or, Did the 'usual suspects' aim to replace natural philosophy with mathematics, or to reform natural philosophy from within?"
2008年オクスフォードで開催された会議(Quadrennial Conference of the US, UK and Canadian History of Science Societies)のダブルセッション「分野を結合する:初期近代における数学と自然学、そして理性」で発表した原稿のようです。
非常に面白い議論を展開しています。私は、このシュースターの議論でよいと思います。
伝統的な混合数学という用語は、アリストテレス主義に属するもので、自然哲学と数学の間に存在し、それらに従属する専門分野であった。アリストテレスにとって、自然哲学の説明とは、質料と原因による説明であった。数学はそうではなかった。光学、機械学、天文学、音楽理論のような混合数学的諸科学は、原因の説明のために数学を用いるわけではなかった。物理的事物と過程を表象するために道具的に数学を利用した。たとえば、幾何光学は、光を光線として表象するため幾何学を用いた。
Physico-mathematicsは、自然哲学の数学化ではなかった。逆に、Physico-mathematicsは、既に存在していた混合数学的諸科学の自然哲学化(physicalization)であった。
Physico-mathematical Initiative は、16世紀に出現し始めた。たとえば、機械学を、とくに単純機械に対する動力学的なアプローチを自然哲学化する試みがあった。
自然哲学化する、すなわち、質料と原因の探究を付加することとなった。たとえばケプラーは、数理天文学を自然哲学化し、天体力学(天体運動の原因を研究する)を創始した。
ギルバートに触れる余裕はないが、一言だけ指摘すれば、ギルバートは混合数学ではなく、実践数学の材料を取り扱い、実践数学に存在したものを自然哲学化したのである。
実践数学のマスター、ステヴィンは、自然哲学の外から混合数学の分野に関与し、それを自然哲学の資産とするのを目指したのではなく、実践数学の領域を拡張し、体系化しようとしたのである。
全体として、通常、自然哲学の数学化と呼ばれる事態は、現実には、混合数学的諸科学の自然哲学化であったと言ってよいであろう。
文献としては4点を挙げていますが、最後のものが私の関心(実践数学の位置付けの変更の問題/実践数学の変貌)に沿うものです。
J. A. Schuster, 'Consuming and Appropriating Practical Mathematics and the Mixed Mathematical Fields, or Being 'Influenced' by Them: The Case of the Young Descartes', in Lesley Cormack (ed.), Mathematical Practitioners and the Trasformation of Natural Knowledge in Early Modern Europe [Chicago University Press, forthcoming ?!]
いつ出版されるのか不明ということでしょうが、この論文を入手して読むことができれば、私の関心に対する回答が部分的には見つかるように思われます。→すぐに読むことはできませんが、もう一度この問題を扱ってみたいと思ったので、シュースターの挙げる他の3点も挙げておきます。
S. Gaukroger and J. A. Schuster , “The Hydrostatic Paradox and the Origins of Cartesian Dynamics,”Studies in the History and Philosophy of Science 33/3 (2001), pp.535-572
J. A. Schuster , 'Descartes Opticien: The Construction of the Law of Refraction and the Manufacture of its Physical and Methodological Rationales 1618-1629' in S. Gaukroger and J.A.Schuster and J. Sutton (eds.), Descartes' Natural Philosophy: Optics, Mechanics and Cosmology ( London: Routledge:, 2000), pp.258-312.
J. A .Schuster, ‘Waterworld: Descartes Vortical Celestial Mechanics and Cosmological Optics―A Gambit in the Natural Philosophical Agon of the Early 17th Century’, in J.A.Schuster and P. Anstey (eds.), The Science of Nature in the 17th Century: Patterns of Change in Early Modern Natural Philosophy (Dordrecht: Kluwer/Springer, 2005), pp. 35-79
息子に起こされて6時30分、室温9.5度。とうとう室温が10度を下回りました。寒いです。
目の奥に軽い頭痛があります。疲れが残っているしるしです。
妻は7時、おおきいちびは7時半。本日は運動を兼ねて2度外出しました。一度は午前中で、セイユウに書類をとりに行きました。ついでに豚肉と鶏肉の買い物をして帰宅。2度目は3時過ぎに吉祥寺へ。娘の願書を本屋さんに買いに行きました。妻と長女が以前行ったときには置いていなかったということです。本屋さんに入って2〜3分で探すことができました。
今日はどこもとても混んでいました。とくに子ども連れの家族が多く、大きな買い物袋をぶら下げている人も少なくありませんでした。帰宅して、ああ、そうか、民間はもうボーナスが出たんだなと気づきました。夕刻次の本が届きました。
〓島(ぬでしま) 次郎,出河 雅彦『移植医療』 岩波新書、2014
ぬでしまのぬではパソコン上に文字がありません。 脳死論議の陰に隠れた問題を追う、と帯にあります。その点はまったくその通りです。昨日駒場でコピーをとったデボラの論文を読みました。
Deborah Warner, "Terrestrial Magnetism: For the Glory of God and the Benefit of Mankind," OSIRIS, 2nd series, vol. 9(1993): 65-84
水曜日にはタイトルから私の関心にはあまり関係しないと思ったのですが、半分は「科学的装置とは何か?」論文と重なる内容でした。そして半分がタイトルにある「地磁気の研究史」です。全面的にデボラの議論に賛成できるわけではないのですが、必要な方向の議論をある地点まで展開してくれています。今はっきりと明示的に指摘できるわけではないのですが、分類だけに止まらない科学史的内容・内実が必要なように思われます。
私の関心にとっては、光学の位置付けが重要です。
光学は、クーンのいう古典的物理諸科学(あるいは端的に古典的諸科学)、天文学、幾何光学、静力学、和声学、数学(クーンの順序では、天文学、和声学、数学、光学、静力学)のひとつです。クーンはこの5つを数学ともくくれるとしています。
18世紀の器具製造業者は、数学器具、光学器具、自然哲学(現在の科学器具)の3種類に分けるのが普通です。
アリストテレスの分類では、純粋の数学(算術と幾何学)と物質世界へ適用された数学=混合数学{天文学、音楽、光学、静力学}
大学の7科で教えられていたのは、幾何学、算術、天文学、音楽。
装置・器具が学問分類と別立てになるのに不思議はないのですが、どういう関係になるのかはしっかりと考察してみる必要があります。
ひとりで5時30分、室温11.2度。
台所にお餅がしかけていました。すっかり我が家の冬の風物詩となった黒い砂糖餅です。6時に餅つき器にセットしお餅つきを始めました。砂糖餅つくりのコツは、餅がほぼつきあがってから砂糖を入れることです。餅の状態を見ながら砂糖を入れます。よくついたほうがおいしくできると思います。ほぼ7時にできあがりました。
すぐに小学生と妻が降りてきました。4時50分に駒場に着きました。1号館で判子を押してから、図書館へ。地下2階に降りて、次の論文のコピーを取りました。
Deborah Warner, "Terrestrial Magnetism: For the Glory of God and the Benefit of Mankind," OSIRIS, 2nd series, vol. 9(1993): 65-84
次いで生協に行って長女に頼まれたコピーをとりました。それから、科哲事務室へ。事務室の前で、小松美彦氏と出会いました。久しぶりだったので挨拶をしていたら、時間となったので教室に入りました。ほぼぴったりにはじめてほぼぴったりにおわりました。やはり7時前に帰宅することができました。帰宅すると次の本が届いていました。
Manfred Berg and Geoffrey Cocks (eds.), Medicine and Modernity: Public Health and Medical Care in Nineteenth- and Twentieth-Century Germany, Cambridge, 1997
目次は次。
Johanna Bleker, "To benefit the poor and advance medical science: hospitals and hospital care in Germany, 1820−1870"
Alfons Labisch, " From traditional individualism to collective professionalism: state, patient, compulsory health insurance and the panel doctor question in Germany, 1883−1931"
Richard J. Evans, " In search of German social Darwinism"
Charles E. McClelland, " Modern German doctors"
Heinz-Peter Schmiedebach, "The mentally ill patient caught between the state's demands and the professional interests of psychiatrists"
Paul Lerner, "Rationalizing the therapeutic arsenal"
Gisela Bock, "Sterilization and 'medical' massacres in National Socialist Germany"
Geoffrey Cocks, "The Nuremberg doctors' trial and the German Sonderweg as harbinger"
Atina Grossman, "The debate that will not end: the politics of abortion"
Michael H. Kater, "The sewering scandal of 1993 and the German medical establishment"1月3日の続き。グルーの本を確認しました。
Nehemiah Grew, Museum Regalis Societatis. Or A Catalogue & Description of the Natural and Artificial Rarities Belonging to the Royal Society And Preserved at Gresham College. Whereunto Subjoying the Comparative Anatomy of Stomachs and Guts , London, 1681
グルーは、王立協会の所蔵品を4部に分けて記述しています。第1部動物、第2部植物、第3部鉱物、第4部人工物(Artificial Matters)。第4部はまた4節に分けられています。第1節化学に関する人工物ならびに自然哲学の他の部分に関わる人工物、第2節数学に関わる人工物;さらにある種の機械学に関する人工物、第3節機械道具、第4章硬貨と古代に関係する事物。
ちなみにカメラ・オブスクラは項目として取りあげられていません。科学革命期の有名な科学者の学位のことがずっと気にかかっています。ニュートンは、博士号を取得していません。ハリーは、そもそも学位を取らずにオクスフォードを卒業しています。(後に、名誉学位をもらっていますが、学位にはカウントしないということです。)フックも学位をとっていません。修士号にはノミネイトされていますが、ウェストフォールはカウントしないと書いています。M.D をもらっていますが、これもカウントしないそうです。ボイルはそもそも大学には一度も行っていません。ホイヘンスは、大学では法学を学び、法学博士号を買ったとあります。
そもそも博士号は、上級3学部、すなわち神学、法学、医学だけが出すことができます。自由7科では科学革命期にはまだ学位を取得することはできません。
Liberal Arts の学部は、中世においては、Master of Arts を出します。しかし、博士号を出す上級学部とは異なっていました。
変化は、19世紀、ドイツの大学改革によります。Liberal Arts の学部は、哲学部と改称され、研究論文に対して最終学位としての哲学博士号を出すようになります。
これに刺激を受けたアメリカの大学は、やはり哲学博士号を出すようになります。ウィキの記述によれば、1861年イエール大学がPh.D を出すことを始めたそうです。
ひとりで4時55分、室温12.1度。予報によれば、今日は、雨が降り始め1月並みの寒さとなるそうです。
台所にちいさいちびは朝練、6時20分に起こして欲しいというメモがありました。胃腸炎から復帰したばかりなので、親としては朝練は休ませたいところですが、本人が行くと言っています。→顔色はいまいちですが、朝練に間に合うようにでかけていきました。お昼休み、3限4限5限6限。お昼休みは学生との面談が2件、6限は会議です。長い一日となります。
→9時42分武蔵境発の電車で大学へ。中央線が武蔵境についたのが9時32分だったので駅の外にでて、昼食のパンを買ってから電車に乗り込みました。
大学ではまず印刷センター。約300枚の印刷をしました。それから研究室へ。お昼休みに予定より1人ふえて3人の学生と面談。
3限4限5限の怒濤。4限の学生の発表で、リアル・マドリッドのリアルがロイヤルの意味だと初めて知りました。いつか調べようと思って一度も調べなかったことが不思議な縁で判明しました。
6限の会議は短くすんだので、7時5分前に帰宅することができました。短い会議はたすかります。
ひとりで5時35分、室温12.0度。昨日より、ずいぶん室温が下がりました。約3度。冬の大寒波は近づいてきてはいますが、まだ東京に到着はしていないようです。ただし、外はまったく冬の空気です。
ちいさいちびも今日は学校に行くことができました。寒いといったのでかなり着込んででかけました。小学3年生とおおきいちびはいつもとおり。駒場の図書館に用事ができたので朝一番で行ってくることにしました。井の頭線が混むといやなので、すこし遅めにでかけました。9時40分過ぎに駒場に着きました。正門ではなく薔薇を植えている所を通って図書館へ。次の3点をコピーしました。
Deborah Jean Warner, "What Is a Scientific Instrument, When Did It Become One, and Why?," British Journal for the History of Science, 23(1990): 83-93
Albert van Helden and Thomas L. Hawkins, "Introduction: Instruments in the History of Science," OSIRIS, 2nd series, vol. 9(1993): 1-6
Thomas L. Hawkins, "The Ocular Harpsicord of Louis-Bertrand Castel; or, the Instrument That wasn't," OSIRIS, 2nd series, vol. 9(1993): 141-156
OSIRIS, 2nd series は、雑誌のコーナーではなく、図書のところにあったので探すのにすこし手間取りました。
デボラの論文は、すぐに片隅のテーブルで読みました。エッセイ・レビューですが、私には意味のあるものでした。名前(命名法)は知覚におおきな影響を及ぼす。「自然哲学的装置・器具」は17世紀の間に「音楽装置、医療機器、数学器具」とは別個のものとして徐々に形成されていった。(私の気づいた範囲で)「(自然)哲学的装置」の最初の使用は、1649年ハートリッブがボイルに送った手紙中の "models and philosophical apparatus"である。新しい用語の意味は、グルーが1681年に出版した王立協会の所蔵品のカタログで明確に示されている。グルーは、伝統的な「数学に関係するものとしての」実用的道具 practical instruments と区別されるべきともとして「自然哲学に関する装置・器具」を挙げている。
18世紀、こうした「(自然)哲学的装置」は人気を博した。それは、科学研究にも使われたが、それよりもずっと教育的目的で使われた。もうひとつは、一種のショー(spectacular display)や娯楽(recreation)のために使われた。1747年、ジョセフ・ヒックマンは、「(自然)哲学的機器製造者 Philosophical Instrument Maker」という用語をはじめて用い、数学的機器製造業者 mathematical instrument maker や光学機器製造業者 opitical instrument makerと対置してみせた。18世紀中葉、この3つをすべてカバーする用語は存在しなかったのである。(光学装置とは、レンズ、鏡、プリズムを主たる要素とする装置と理解されていた。)
「科学者」とは違い、「科学的器具」の起源ははっきりしない。しかし、1851年の第1回万博がおおきなインパクトをもったことは間違いない。1世紀後、アメリカ人がスプートニックショックで NASA をつくったごとく、イギリスは、第1回万博における他国の進歩に驚き、すぐに技術教育を向上させるため「科学技術庁 A Department of Science and Art 」を設置した。プレイフェアは、その目的を「初等教育にふさわしい科学的ダイアグラムと装置の備え付けを監督すること」とした。私が見出した限りでは、英語の「科学的器具」の初出はアメリカで1847年であった。そこでも初等教育のための器具が意味されていた。
この新しい用語は、18世紀後半、フランスで誕生したようである。1787年フランス政府は、光学機器、数学機器、物理機器、そしてその他の科学的用途の装置を専門とする工兵隊=技師団を設置した。1830年代までにこの語は、研究と高等教育に適用されるようになっていた。1850年代には「現代科学器具」という表現が出現した。
ドイツ語の「科学的器具」という用語は、おそらく1830年代に使用されるようになった。
フランス語とドイツ語に共通する「科学的器具」の広い意味は、19世紀後半に英語圏に導入された。本日は以上で終了。すぐに取って返しました。予定通り、11時半前には帰り着くことができました。
帰宅してしばらくしてから、オサイリスの器具特集の序文を読みました。アイシスの1943年の号にコイレによる2頁の論考が掲載された。コイレはそこで「原著のものとまったく異なる概念と思考の習慣を我々の概念、我々の思考の習慣と取り違えてしまう危険がある」ことを正しく指摘した。そして、ガリレオの新科学対話の英訳でもとの comperioを英訳者は「実験によって発見した」と訳した事例を挙げた。確かに、ガリレオを我々と同じ実験科学者と位置づけるのは、時代錯誤である。しかし、コイレ自身同じ年にThe Philosophical Reviewで出版した論文や1953年出版の論文で、完全に観念論的プラトニスト的ガリレオ(科学においては理論が事実に先立つ。実験は専攻する理論を例証するものとしてのみ意味を有する)を描いた。すなわち、コイレの科学観をガリレオに読み込むという逆の錯誤をおかしたのである。
こういうふうにスタートし展開していきます。間違っているとは思いませんが、今、器具や装置を問題にするのであれば、もう一歩先に進んでおく必要があります。もうすこし具体的な科学器具・装置の形成を丁寧な文脈探査に基づき遂行すべきです。もちろん、個別の論考はその課題に一定程度答えています。
ひとりで6時、室温14.8度。冬の大寒波が日本列島にやってくるそうです。家の外まできているのでしょうか、それとも東京の外まで来ているのでしょうか。
新聞をとるため、玄関のドアを開けました。東京にはまだ来ていないようです。
胃腸炎のちいさいちびは本日も休み。
妻は11時頃でかけました。病気の次女と二人が残りました。考えるところがあって、ケラーの次の論文を読むことにしました。
Vera Keller, "Re-entangling the Thermometer: Cornelius Drebbel's Description of his Self-regurationg Oven, the Regiment of Fire, and the Early History of Temperature, " Nuncius, 28(2013): 243-275
好論文です。ケラーは、科学装置、科学器具の歴史研究として、Instruments of Science: An Historical Encyclopedia(London, 1998)(邦訳:橋本毅彦・梶雅範・廣野喜幸監訳『科学大博物館-装置・器具の歴史事典』 朝倉書店, 東京, 2005年3月, 829頁, ISBN4-254-10186-4, 26000円+税)、オサイリスの新シリーズの第9号(1994)、アイシスのフォーカス(2011)、『オクスフォード初期近代の哲学ハンドブック』(2011)におけるジャン−フランソワ・ゴーヴァンの記事「知識の器具」をあげています。
そのなかから、次の論文をダウンロードして読みました。
Liba Taub, "Introduction: Reengaging with Instruments," ISIS (Focus: The History of Scientific Instruments) , 102(2011): 689-696
ここ20年間ぐらいの科学装置、科学器具の研究史をまとめてくれています。書きだしは、「1994年オサリスの第9巻は、器具に焦点をあて、ファン・ヘルデンとハンキンズの編集で科学史学会により出版された。」です。特集は11のエッセイを含みます。ファン・ヘルデンが望遠鏡と権威について、ゴリンスキーがラヴォワジェの化学の証明の順序について、ブルース・ハントが電気の標準の発展について、デボラ・ワーナーが地磁気について、等々のエッセイを含みます。
ひとりで4時45分、室温16.8度。暖かいと思ったら、室温が秋の室温です。もう、12月です。家族が起きてくるまでに、次の論文を読みました。
Vera Keller, "How to become a Seventeenth-Century Natural Philosopher: The Case of Cornelis Drebbel (1572-1633)," in Sven Dupré and Christoph Lüthy (eds.), Silent Messengers: The Circulation of Material Objects of Knowledge in the Early Modern Low Countreis (Berlin, 2011), pp.125-151
とても面白く、私には有用な論文でした。有名な発明家ドレベルがどういうルートを通して自然哲学者の位置付けを得たのかを問う論文です。扱われているテキストは、ドレベルの『元素の本性について』です。
パンフレット『元素の本性について』は1604年に初版が出版されるが、これは現存していない。ヨアキム・モルシウスがラテン語訳を準備。1608年ドイツ語訳 Ein kurzer Tractat von der Natur der Elementum(Leiden, 1608)が出版される。1628年ヨハン・ハートマンの友人Johann Ernst Burggrav がラテン語とドイツ語の半を出版した。Cornelii Dorebelii Belgae, Tractatus duo. I. De Natura Elementorum. II. De Quinta Essentia. Accedit his de Mobilis Perpetui inventione Epistola lectu dignissima. E Belgico idiomate in Latinum vertit D. Petrus Laurembergius Professor in Atheneo Hamburgensi, Geneveae, 1628 . グーグルブックにはこのラウレンベルク訳1628年ジュネーヴ版があります。
ケラーの主張を思い切りまとめると、職人=技術者=発明家ドレベルを自然哲学者として知識人層に受け入れさせたのは、モルシウスの出版活動であった、となります。もうすこし丁寧には時間があるときにまとめられればと思います。
→あとから調べてみると、ヴィエラ・ケラーさんが現在ドレベルについてもっともよく研究している研究者のようです。ネットで入手できる論文が数多く見つかりました。
ダウンロードしたのは次の2点。
Vera Keller, "Drebbel's Living Instruments, Hartmann's Microcosm, and Libavius's Thelesmos: Epistemic Machines before Descartes," History of Science, 48(2010): 39-74
Vera Keller, "Re-entangling the Thermometer: Cornelius Drebbel's Description of his Self-regurationg Oven, the Regiment of Fire, and the Early History of Temperature, " Nuncius, 28(2013): 243-275午後の授業。10時6分武蔵境発の電車で大学へ。10時6分武蔵境発だと2限には遅刻します。隣の学生の会話は、遅刻する学生の会話でした。大学に到着してまず事務棟3階に行って物品を受け取りました。それから図書館に行って本を2冊返却しました。もどって印刷センターで木曜日のための準備。それが終わってから研究室へ。書類を1件処理して、3階の研究院事務室に持っていきました。
再び研究室に戻って、デスクワーク。
3限4限。[胃腸炎]
小学生はまだ咳が残っていますが、元気なのでそのまま学校に行かせました。ちいさいちびはまだお腹が痛いと言います。朝はよく寝ています。起きてから妻が病院に連れていくことになりました。→帰宅して結果を聞くと、ストレス性かウィルス性かは検査しないとわからないが胃腸炎でしょう、という診断でした。帰ったとき、床でごろごろしているちいさいちびに聞くと、まだお腹が痛いと答えます。様子を見ながらすこしずつ復帰させます。
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