ひとりで5時、室温13.4度。雨が春の空気を連れてきたようです。暖房なしだとちょっとひんやりしますが、暖房なしでもなんとかなる気温です。
午前中に歯医者。
午後一番で臨時の会議。面倒ですが、議題が議題ですから仕方ありません。
→会議は、やっかいな議題でしたが、予定通り、1時間で終了しました。
その後、研究室に戻り、せっかくなので、ネットワーク設備切替後のネットワークの不調を責任者の方に報告しました。そもそもそのメールがなかなか発信されなかったのですが、トイレに行っている間に発信されたのでしょうか、しばらくして電話があり、いつとははっきり言えないが業者の方がチェックに伺いますということでした。
お見えになったのは、3時20分頃だったと思われます。問題となる症状を説明しました。その方の説明では、ウィンドーズではほぼ(全部前と同じというわけではないが)使えているが、マックでは同じような症状が継続しているということでした。原因はまだ不明ということです。
私の普段使っているマックの前に座ってもらい、いろいろ試してもらいました。どうも時間がかかりそうです。後藤新平についての特集を読んでいました。
1時間ぐらい経ってからでしょうか、トラフィックを追跡し記録する機器をもってきて、データを取らせてもらってよいかと聞かれました。必要な作業でしょう、大丈夫ですと回答し、業者の方が機器を取りに戻られる間に自宅に電話し、電話にでたちいさいちびに帰宅が遅れる(6時をすぎる)ことを伝えました。
1時間作業をし、5分程度説明してくれるという感じだったでしょうか。最後の説明によれば、問題はスイッチにあるようです。テーブルが上下に2重化してしまう、ということでした。すぐに対応策を取れるわけではないが、次に大学に見えるときまでには問題なしというふうにできるよう努力しますと言われました。
まったく不明だった原因がおおよそ見えて来ただけでも進歩でしょう。
6時頃、機器をもって部屋を去られました。私もほんのわずかの片づけをして、帰途に着きました。
ひとりで4時、室温12.3度。
起床が早くなったのは、昨日の疲れ(神経の興奮)が残っているせいです。室温を見ると、すこし春が近づいたようです。朝、玄関のドアを開けると、地面が濡れていました。子どもたちが出かける頃には、傘の必要な雨になりました。小雨ですが、降ったり止んだりの一日でした。
夕刻、ちいさいちびの中学校の制服ができたという連絡があり、雨のなか、取りに行きました。思ったより、すこしお店が遠かった。帰ってきて早速試着。この子も4月から中学生です。
ひとりで5時10分、室温10.1度。午前10時から業務。たぶん、6時頃に終了。
→ほぼ予想通りでした。6時5分すぎに終わりました。なかなか苦しい仕事でしたが、ともあれほぼ予定通りに終わることができました。おおきいちびは今日、明日と定期考査。いっぱいあると文句を言っていました。
帰宅すると次の本が届いていました。
見市雅俊
『ロンドン=炎が生んだ世界都市―大火・ペスト・反カソリック』
講談社選書メチエ、1999
ひとりで6時、室温10.4度。前期日程の入試があります。その後、会議。
会議は、開始が10分遅れて3時40分スタート、終了が4時半。司会している方々に次の会議があり、一種の強制終了です。
この業務は、大した量は動いていないのですが、なんだか疲れます。
妻、息子とほぼ同時で7時前、室温9.8度。春はまだまだです。わけあって、雑誌『化学史研究』の最近の編集長の在任期間を調べました。
1999年〜2004年:古川安氏
2005年〜2006年:梶雅範氏
(ただし、最初の1年間、梶さんは在外研究でロシアでした。その間、編集長代行として古川さんが実質的には編集中をつとめられています。)
2007年〜現在:私編集実務は20世紀の末から引き受けています。
調べていくうちにいくらか記憶が甦りました。1994年に私は、在外研究でロンドンに滞在しています。それまで引き受けていた編集実務をその1年間だけ橋本さんにお願いした記憶があります。1994年4月から1995年3月まで橋本さんに化学史研究編集局をやってもらっています。
橋本さんの前は私がやっていますから、1990年代の早い時期から編集実務を引き受けていたことがわかります。帰国後は(特別研修で内田さんに替わっていただいた半年間を除き)ずっと私のところです。
ちなみに、このマシーンには1996年の「学会事務」のフォルダーがあります。それ以前は、NEC 98 Note パソコンで学会事務をこなしていた記憶があります。化学史学会に関しては、理事会に呼ばれて割とすぐに書記(理事会議事録の作成)をさせられた記憶はあります。鎌谷編集長の時代です。
鎌谷さんが編集長、私が編集実務という時代が一定期間ありました。せっかくですから、まずは、記憶で書いておきます。私が化学史学会の理事会に呼ばれたとき、会長兼編集委員長は、故柏木肇氏でした。
1991年、会長は故芝哲夫氏、副会長は鎌谷親善氏で鎌谷さんが編集長を兼ねるようになりました。私が編集実務を引き受けたのは、このあとからだと思います。
→これで調べる目処がはっきりしました。私が編集実務を担当したのは、1992年4月からでした。1992年第1号(1992.3.25発行)の編集後記に鎌谷編集長が次の趣旨のことを書いています。
それまで編集実務を担当されていた古川安氏が1年間ベックマンセンターに留学される。それに伴い、投稿先を古川氏の電機大から吉本委員の外大に変更する。
古川さんのベックマンセンター留学の件は、すっかり忘れていました。編集委員会の通知は、鎌谷さんと電話で協議してから葉書を出していた記憶があります。メールはまだ全員に連絡できるまでには普及していなかったと思います。
芝会長の次は、すこしトラブルがあり、1999年から亀山哲也氏が12年間会長職にありました。亀山会長、古川副会長兼編集委員長という形が2004年まで継続します。
午後、要町で出張校正。
印刷所は長野に工場があることが多い。雪で進行が大きくずれ込んでいるということでした。さらに、4月からの消費税増税を控えての駆け込みがあります。どの印刷所も、例年に増して、2月3月は混雑状態だそうです。なるほど。
ひとりで4時55分、室温9.8度。おやつの時刻に次の本が届きました。
ウィリアム・H・マクニール『疫病と世界史 下』佐々木昭夫訳、 中公文庫、2007(新潮社、1985)
ひとりで6時30分、室温7.8度。まだまだ寒い日が続きます。夕刻、次の本が届きました。
ウィリアム・H・マクニール『疫病と世界史 上』佐々木昭夫訳、 中公文庫、2007(新潮社、1985)
アマゾンは、上だけ先に送ってきました。下は明日来るのでしょうか。早く届けてくれるのはうれしいのですが、そこまでしなくても、という気がします。
妻、息子といっしょに6時45分、室温8.0度。すこしずつですが、寒さが和らいでいます。本日締切(23時59分に閉まります)の仕事はなんとかこなせたと思います。タイプミス等は残っているかも知れません。
次の本を全部ではありませんが、ほぼ読みました。
なるほど、これは重要な書物です。
見市雅俊, 脇村孝平,斎藤修, 飯島渉 編『疾病・開発・帝国医療:アジアにおける病気と医療の歴史学』( 東京大学出版会、2001 )
2014年度の外語の授業(大学院:歴史文化論)のテキストとして使います。医学史が重要かなと感じている方は、是非、読んでおいて下さい。丁寧な文献案内もあるので、ここから広げていきます。
ひとりで5時50分、室温7.8度。わおー、さむ。
ひとりで6時、室温7.5度。わー、さむ。会議の日。
昨日、「荷物はそろそろ正常化」と書きましたが、本が比較的早く届いたというだけのようです。普通1日で届くアマゾンの荷物ですが、1週間近くかかりそうな雰囲気です。
自宅で一度、大学に行って一度、成績の確認をしました。不規則行動をする学生が多いと、チェックに手間取ります。いずれにせよ、人数が多いと大変は大変なのですが・・・。
ひとりで5時40分、室温8.1度。再び気温が下がりました。今日は私を除き全員が出動。私は昨日持ち帰ったレポートの採点作業を自宅で行っています。そして、いつものごとく、9時40分に歯医者さんがあります。
確認作業が残っていますが、とりあえず、まずはひとまず、本年度の成績評価と来年度のシラバス入力作業を最後まで通しました。ほー。
量が多いので大変です。次の本が届きました。荷物はそろそろ正常化に向かっているようです。
川越修,鈴木晃仁 編著
『分別される生命: 二〇世紀社会の医療戦略』
法政大学出版局、2008
目次は次です。
川越修「二〇世紀社会の生命と医療」
美馬達哉「リスク・パニックの二一世紀―新型インフルエンザを読み解く」 猪飼周平「近代日本における病床概念の意味転換―医療制度改革への歴史的アプローチ」
山下麻衣「 明治期日本における看護婦の誕生―内務省令「看護婦規則」前史」
鈴木晃仁「 治療の社会史的考察―滝野川健康調査(一九三八年)を中心に」
服部伸「世紀転換期ドイツにおける病気治療の多元性―ホメオパシー健康雑誌の記事を中心に」
大谷誠「世紀転換期イギリスにおける「精神薄弱者問題」―上流・中流階級と「公」的管理」
原葉子「「危険な年齢」―ドイツにおける「更年期」をめぐるポリティクス」
柿本昭人「 誰が「生きている」のか―痴呆・認知症・心神喪失」
見市雅俊, 脇村孝平,斎藤修, 飯島渉 編
『疾病・開発・帝国医療:アジアにおける病気と医療の歴史学』
東京大学出版会、2001
目次は次です。
第I部 領域と視角
見市雅俊 「病気と医療の世界史――開発原病と帝国医療をめぐって」
斎藤修 「開発と疾病」
飯島渉・脇村孝平 「近代アジアにおける帝国主義と医療・公衆衛生」
第II部 事例と比較
阿部安成「衛生」という秩序」
鬼頭宏 「前近代日本の死亡の季節変動」
川越修 「乳児死亡問題の比較社会史」
脇村孝平 「アノフェレス・ファクターとヒューマン・ファクター――植民地統治下のマラリア防遏:インドと台湾」
飯島渉 「近代日本の熱帯医学と開拓医学」
劉士永 「台湾における植民地医学の形成とその特質」
上田信 「細菌兵器と村落社会――中国浙江省義烏市崇山村の事例」
妻、息子につづいて、7時10分、室温11.4度(参考)。息子は今日もお休み。インフルエンザの場合、熱が下がってから2日間、自宅待機を求められます。おおきいちびは、その基準によってもう OK です。
妻が帰ってきて、昼食をとってから、大学へ。まだまだ採点業務が残っています。6時までということで1科目は済ませました。もう1科目は、カバンに詰めて帰ってきました。往路は暖かく感じましたが、復路は寒く感じます。水曜日にはまた雪の予報です。
ひとりで3時35分、室温10.3度。ときに、どーんという音がします。屋根につもった雪がおおきな塊で地面に落ちる音です。普段耳にしない大きな音です。びっくりします。
昨日の入力を確認しました。ミスはありませんでした。
おお、ジャンプの葛西が銀。41歳。これは世界のメディアで年齢が繰り返されるでしょう。
[一面の雪と床暖房器]
ひとりで3時30分、室温8.4度。窓を開けて外の様子を確認しました。前より雪が積もっています。何もかも白く、きれいな景色ではあります。
ちなみに東京の積雪は26センチだそうです。→5時現在、27センチで、先週の記録的大雪に並んだそうです。しかも寒いのですが我慢して窓を開けてみると、雨に変わっています。これで今日は地面がぐちゃぐちゃになります。ちいさいちびは、午前中に中学に行く用事があります。足許に気を付けてゆっくり歩くしかないでしょう。→午後にする、あるいは日を改めるのがよいかもしれません。
おお、羽生が金。テレビをつけたら、ちょうど演技が終わったところでした。
小学2年生は8時前に起きてきました。36.2分だと言っています。咳は残っていますが、熱は下がったようです。おおきいちびの熱は昨日から下がっています。
なんだか床がいつものように暖かくありません。もしやと思い、所によっては膝まで積もっている雪を踏みしめて、外の床暖房期(湯沸かし器)を見に行きました。思った通り、止まっています。ちょうど雪が溶けた水が床暖房期(湯沸かし器)を直撃しています。数度再起動してみましたが、もとに戻りません。ドライヤーで乾かしてやったら戻るのではないかという案を思いつきましたが、雨が止んでから再トライすることにしました。居間の暖房は、その間、エアコンを使うことにしました。
こういうときに限って、と思いますが、こういうときだからこそ故障しやすいのでしょう。
→何度か修理を試みました。これまでは有効だった方法です。そのうち、リモコンの電源が入らなくなりました。完全にお陀仏になったかもしれません。
ほんとうにこの時期に、嗚呼、です。本日の仕事。シラバスの入力は、7割ぐらいはできたと思います。いかんせん、数が多い。ただちにというわけにはまいりません。
成績の入力は、1科目のみ。残る2科目は研究室に行かなければ完了できません。250人分に関しては集計からやる必要があります。
ひとりで6時50分、室温9.8度。小雪が舞っています。夜に向かってまた大雪だそうです。みなが始動するまでに、今日締切の仕事(駒場の来年度シラバス入力)をすませました。2013年度の継続としました。ただし、中心点は18世紀初頭におき、そこから17世紀と19世紀の変化を見るようにしたいと思っています。
妻は今日も午前中仕事。小雪のちらつくなかでかけました。しばらくしてから、ちいさいちびが残り少ない小学校での勉強のためでかけていきました。
私は9時半に歯医者。9時15分に家をでました。歯医者につくと患者はまだ誰もいませんでした。この雪ですから、来院を見合わせる人もいるでしょう。妻は昨日や一昨日より1時間遅くなると言っています。12時頃、息子といっしょにありあわせのもので昼食。おおきいちびはほぼ回復したようです。小学2年生はまだ微熱が残っています。
私は昼食の前後で、昨日大学から持って帰ってきた宿題(レポートの採点)を行いました。とりあえず、持って帰った分はすませました。あとは、集計です。それに、ネット上での成績記入。
さて、今日はバレンタインデーです。おおきいちびは元気になってヒマだし、友チョコをつくっても配れないので、自分チョコをつくると言い出しました。仕方がないので、湯煎の部分を手伝ってやりました。配ることはできませんが、ヒマなので、きれいな包装を自分で工夫していました。
小学2年生にはこの雪の中おいしいクッキーを届けてくれる子がいました。お母さんと犬といっしょに見えました。
今日の夕刻の感じでは、3人はインフルの感染から免れたようです。
ひとりで6時20分、室温8.5度。[二人のB型]
風邪引き二人組がすぐに下に降りてきました。ともに37.5度。症状としてはほぼ同じ風邪です。ですが、ちいさいほうはインフルエンザ、おおきいほうはふつうの風邪。(しかし、本人は症状があまりに小学生といっしょなので、インフルエンザではないかと疑っています。昨日の時点では検出されなかっただけで、そうなのかもしれません。)昨日と同じく、妻は朝仕事。お昼に帰ってきます。
採点がまだまだ相当量残っています。昼食後、大学にでて、こなせる範囲を行うことにしました。おお、昨日とまったく同じく1時半に大学に到着。1点書類を提出してから、研究室に籠もり採点作業。量が半端ありません。5限終了時刻よりいくらか長めに作業を行い、帰途へ。
おおきいちびはまた医師のところに行ったということです。我々の予想通り、B型が出たそうです。小学2年生はまた熱が38度を超えたということでソファーの上で寝込んでいました。これまでは昼寝をしなかったので、状態が悪くなったのでしょう。
生き残っている3人はできるだけもらわないようにしないと。
ひとりで5時10分、室温8.5度。妻が午前中に仕事。
9時過ぎに病気の子どもを二人残し、昼食の買い物にでかけました。牛乳、ならびに鶏ガラスープの材料ほか。1時半から会議。ちょうど1時半に会議室につきました。
会議は3つ。最後の教授会は、4時40分すぎに終了。
帰宅してすぐに医者の様子を妻に聞きました。小学2年生は、B型インフルエンザ。おおきいちびはインフルエンザではなかったということでした。これで小学生は今週はお休みとなります。おおきいちびはすぐにでもなおって学校に行きたいようでしたが、経過を見守る必要があります。同じく今週は無理かも知れません。
ひとりで3時40分、室温10.9度。[二人目の風邪]
おおきいちびは練習試合があり、9時半と言っています。中学でも風邪やインフルエンザで休む子が増えているようです。1クラス学級閉鎖になったそうです。小学校での流行は収まりつつあるようです。採点が終わっていないので、おおきいちびとほぼ同時に家をでて、大学に向かいました。数が半端ではありません。あまり頑張りすぎるとばてます。2時過ぎに切り上げて帰途につきました。もちろん完了はしていません。
さて、セイユウで買い物を頼まれています。友チョコの材料です。なんと明治のミルクチョコを17枚。わおー。他に夕食の材料として、焼きそばと豚肉。朝食のパンほか。
小学2年生の熱は上がったり下がったりです。この子はいつもこういう感じです。ママといっしょに相棒を見ていました。おおきいちびは6時半すぎに帰宅。塾の日ですが、喉が痛いと言っています。顔も微妙に熱っぽい。今日は休ませることにしました。バスケの練習試合をしてきています。先にお風呂に入らせました。その後、夕食。
熱を計るとやはり37度6分。我が家で二人目の風邪です。
ひとりで3時30分、室温10度。おおきいちびと私は普通の月曜日。小学生は土曜日の振替休日。ちいさいちびは友達とボーリング&カラオケ。最初はラウンドワンに行くと行っていましたが、ラウンドワンはちょっと遠いので、近所のボーリング&カラオケに変更にしたようです。
息子はついていかないと言っているので、私と留守番。私は午前中に歯医者。夕刻教授会があるので、妻とバトンタッチして大学に向かいます。[息子の風邪と妻のダウン]
昨夜からちょっと風邪気味かなと思っていた息子が熱を出しました。朝方は、37度ちょい。それからあがって、38.6度まで。それほど苦しくしていませんが、もちろん元気というわけではなく、ソファのところでおとなしくしています。
妻もダウン。風邪ではないと思われます。立ち上がるとくらくらする、それに吐き気がすると言っています。明日の火曜日が休日なので、歯医者は今日の9時半。いつも10分程度前に着くようにしています。ちょうど9時半に診察台に座ることになりました。もうすこし痛みが残っています。どこかに触れるとちくっとした痛みが体に走ります。
ちいさいちびのお友達との約束ですが、集合時刻を30分おくらせてもらい、ボーリングとカラオケの順序を逆にしてもらうことにしました。私が妻の代わりに集合場所の駅までついていって、説明し、駅前のカラオケに連れていきました。もう6年生なので、あとは自分たちで大丈夫です。3時間のセット。昼食も自分たちで頼むよう言っておきました。
セイユウで、息子のためにはマグロ、妻には焼き鳥、それに鶏ガラスープの材料を買って帰りました。急いで、ご飯を炊き、お粥をわかし、鶏ガラスープをつくりました。マグロが大好きな息子ですが、さすがに食欲はなく、食べたのはいつもの半分ぐらいでしょうか。妻は午後は私が行くと言います。どこまで回復するのか不明でしたが、本人がなんとかなりそうだというので、まかせることにしました。3時間の終了は1時40分頃。1時半前に出かけていきました。カラオケで支払いをすませてから、荻窪のボーリングに連れていくことになっています。
妻は4時10分頃帰ってきました。入れ替わりで、私が大学へ。5時半から学部教授会。5時半スタートだから短く済むかと思ったら、議案が多くあり、終了は7時半をすぎていました。
ひとりで3時25分、室温8.1度。積雪20センチ(たぶん)。風は吹いていますが、雪はほぼやんだ感じです。ニュースによれば、積雪27センチで戦後4番目だそうです。1994年2月以来の20センチ超えということです。
1994年2月の積雪というのは覚えていません。まだ大学のキャンパスが西ヶ原にあった頃です。朝一番で投票に行くつもりだったのですが、雪の状態を見て、時間を遅らせました。8時半に買い物を兼ねて投票所の小学校まで。小学校の周辺は、雪かきがなされていました。ただし、投票所は閑散としています。この雪ですから当然でしょう。
車が雪にタイヤを取られるシーンを2回見ました。99ショップでとりあえず必要なものだけ買って帰宅しました。
気温が高くなっています。最高気温は9度まで上がるそうです。道路の雪は部分的に溶けて水になっています。水・みぞれ状態の部分はすべります。固い部分を選んで歩きました。練習が雪のせいでオフになったおおきいちびがフルーツパフェに行きたいと言います。やはり息子は行かないと言います。3人は11時過ぎに新宿に向かいました。
ひとりで5時35分、室温9.4度。積雪1センチ。大雪の予報。まだ粉雪が舞っているだけです。夜にかけて、吹雪を伴う大雪ということです。私は午前中に大学で業務。小学校も中学校も参観日(学校開放日)。それに、中学入学のための説明会、塾の説明会が重なるので、妻は大忙しとなります。
私も業務が終わり次第、とってかえして、こどもたちの昼食の世話です。
→雪の中、小学2年生とちいさいちびの間ででかけました。業務そのものは順調に終わり、すぐに帰途に。乗換駅の三鷹で、昼食を買いました。給食のあるおおきいちび以外の分です。お寿司。さびぬきをつくってもらったのでいくらか時間がかかりました。チキン手羽先の唐揚げパックも買いました。
こういう雪ではホームが滑ります。急いで走って見事に尻餅をつく人を見かけました。行き、吉祥寺駅で乗り換えたら、ホームがつるつるでした。構内放送で、すべるので気をつけるように何度も注意をしていました。
ガード下を通って帰ってきました。
子どもたちは、12時40分から50分で帰ってきました。二人とも雪の中うれしそうでした。
妻は1時半に一度帰宅しました。昼食をとっている間、中学校から説明会の機会はまた設けるので今日は休んでもらってよいという連絡がありました。大雪警報が発令されています。またでいいんじゃないということで、その後の予定は取りやめとしました。
大雪警報が出されたせいでしょう、おおきいちびも午後の1限で切り上げて帰ってきました。部活もなし。塾もなし。
おおきいちびの誕生日ですし、おやつの時刻のあと、ガード下のお肉屋とスーパーに鍋の材料を買い出しに行きました。なにか品物が少なくなっている気がしました。買い出し本能に駆られる人たちが一定数いるようです。
4時ぐらいから小学2年生が雪遊びをしたいといって外にでました。見事に積もっています。テレビでは16年ぶりの雪と連呼しています。
近所の方が雪かきを始められたので、いっしょに歩く場所をつくるための雪かきをしました。4人になりました。大人4人が揃うとさすがにすぐでした。夕食はお腹がすいたものから順番に。外で動いた私と小学2年生から食べ始め、妻とちいさいちび、そしておおきいちびの順序となりました。
ガラス窓の外に積もっている雪は見事です。雪が横に舞うきれいな風景。
私も妻も南国育ちですから、こういう雪は人生初かもしれません。とくに吹雪は初めての体験です。こどもたちはもちろんです。
ひとりで6時、室温8.6度。午前中に歯医者。ほぼリズムが固まっています。火曜日と金曜日の午前9時40分。
大学に荷物が届いたという報せがありました。メールは1時半に発送してくれていますが、こちらが受け取ったのが5時半。大学のランが普通に動いていれば、昨日処理できたことですが、仕方ありません。急いだ方がよい荷物です。昼食後、大学にでかけて、荷物だけ受け取り、駅前のコンビニで発送しました。
その後、吉祥寺で下車して、夕食の材料とおおきいちびの誕生日ケーキを買いました。おおきいちびの誕生日は明日ですが、明日は、一日中忙しく、時間がとれません。それで一日はやめにバースデーケーキを食べることにしたものです。本人の希望でタカノのフルーツケーキ。アトレの肉屋・魚屋・八百屋のあるあたりは、え?なんでこんなにというほど混んでいます。お肉を3パック、ホールケーキを1個買ってすぐに帰ってきました。
要望のあった芋をガード下のスーパーで買い足して、私の用事は終了しました。
タカノのフルーツケーキはおいしいんだそうです。夕食後、子どもたちはみんなよく食べていました。おおきいちびは、明日14歳の誕生日を迎えます。
ひとりで5時20分、室温6.7度。本日も外は氷点下ということです。室温でさえこれだけ下がりました。本日も出講日です。早めにでかけて採点業務に力を注ぎます。
子どもたちのすぐあとに出かけました。8時30分武蔵境発の電車に乗ることができました。
「表象文化とグローバリゼーション」の登録者数を確認しました。250名。この授業にとっては大勢出席してくれることはよいことです。おお、でも、250点の期末レポートを読むのは大変です。途中に別の仕事を挟んで、3時ぐらいまでは続けましたが、半分はこなせたでしょうか。
目の疲れ、そして眼精疲労による軽い頭痛を感じたので、そのあたりで本日は打ち切りとしました。
その他の仕事で、月曜日以来、私のゼミ生以外の卒論を3点読みました。もう1点、来週に読むことになりそうです。大学のネットですが、午前中ほんのしばらく繋がって、その後はまた繋がらなくなっています。2月1日〜2月2日にサーバーの更新(契約期間満了による機器の更新 replacement)を行ったが、有線ランに不具合が生じた。ご不便をおかけして申し訳ありませんが、まだ原因を特定できていません、という趣旨の連絡が事務からありました。成績の記入もシラバスの記入もネットで行います。締切は遠くありません。一体どうするつもりなのでしょうか。
(ちなみに、無線ランWiFi、ならびに学外からはとくに問題なく動いています。)
ひとりで5時20分、室温8.6度。外は氷点下ということです。この冬一番の大寒気団が日本列島を覆っているということです。ちいさいちびが学校に行くとき、ゴミをもって玄関のドアから10メートルほどの距離にあるゴミ置き場に行きました。わー、さむ。これはさむい。気温はまだ2度とか3度ではないでしょうか。
会議の日。大学に行くので、採点業務を行います。
子どもたちがでてしばらくしてから家をでました。9時6分武蔵境発の電車に乗ることができました。
大学のネットワークはまだ回復していません。朝方しばらく繋がったと思ったら、すぐに繋がらなくなりました。ちょうどよい、あるいは仕方がないので、採点に集中しました。積み残していた冬の集中講義の最終レポートをひたすら読んで採点しました。昼食を挟み、ほぼ終わりまで行きました。12時40分から2時半近くまで会議。
今の体調で採点を続けるともちません。そのまま帰宅し、自宅で別の作業を行うことにしました。
ひとりで6時35分、室温13.9度。室温はまだ高いのですが、今日は昨日とはうってかわって寒い日になるということです。最低気温5度、最高気温6度の予報。要するに朝の気温のままほとんどあがらないということです。
新聞をとるためにドアをあけると、地面が濡れています。昨夜すこし雨が降ったようです。まったく気づきませんでした。歯医者の日。いつもと同じ時間帯に歯医者に行きます。→小雨ですが、雨は降っています。非常に冷たいという感じではありませんが、どんよりした冬空から冷たい雨がしとしと降ってくると言えばよいでしょうか。
ちいさいちびは小学2年生より早く、3時50分に帰ってきました。玄関のドアを開けると雪が舞っています。しとしと降っていた雨がちょうど雪に変わったところでした。その十数分後、予想通り、小学2年生が雪に大喜びしつつ帰ってきました。
[君も「過去**年の**学の歴史を愚弄している」と一度は言われてみたくないか?]
ニュースを賑わせていることですが、理研の小保方さんが最初 STAP 細胞に関する論文をNatureに投稿したとき、レフェリーの一人から「過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄している」と言われたそうです。
一生に一度でよいので、こういうふうに言われてみたいと思った人文系の研究者はどのくらいいるでしょうか?
私はそう思いました。
人文系で、そもそもそういうことが言われる前提条件がなかなか成立しがたいように思われます。とんでも系の主張はいくつか思いつきますが、まともなレフェリーからは無視されるだけでしょう。
理研の1月29日付の報道発表資料では「体細胞の分化状態の記憶を消去し初期化する原理を発見」とあります。私は、ここの「記憶」という用語に違和感を感じました。消去されるのは、「記憶」なのでしょうか? 分化状態そのものがリセットされるのではないでしょうか。
Natureの論文そのものは、8名の共著論文です。Haruko Obokataさんが筆頭著者です。
ひとりで3時15分、室温13.3度。今日は4月のように暖かくなり、その後、2月に戻るということです。なかなか難しい気候です。2回目の起床は、7時半、室温13.6度。おおきいちびは朝練でとっくにでかけていました。ちいさいちびは昨日からスムージーつくりにはまっています。私と息子のためにバナナスムージーをつくってくれました。
東大の教務システムにログインできなくなりました。朝一番で事務の方にパスワードの初期化(最初紙でもらったときのパスワードに戻す)をしてもらい、成績評価を先にすませました。シラバス入力は、締切間際になると思われます。
正午に学生と面談。早めの昼食をとり、11時過ぎに大学につきました。
たいへんな採点作業が待っています。その前に事務的な用件をすませようと思って、コンピュータを開けると、ネットに繋がりません。事務からネット機器の更新時期に来ており、更新作業が入る、という連絡はありました。
有線(普通のLAN)と無線(WiFi)の場合で状況が違うという説明はありました。有線はnetwork authentation まではいくのですが、その先がまったく動きません。無線は(私の環境では電波が弱いのですが)なんとか遅くても繋がります。必要最小限の連絡だけして、それ以上は諦めました。いつもは仕事のためのファイル一式を USB メモリー(64GB)にいれて持ち歩くのですが、今日はそれも忘れています。
今の体調で採点作業を長くやるとほんとうにダウンします。学生との面談のあと、長くて3時までと決めて、先週の木曜日の3限の採点をしました。先週の木曜日の3限の分だけは終わることができました。今日の重要な用件は、土曜日の仕事時間を確認することです。おお、たすかりました。9時台で完了です。土曜日は妻が3人ともの学校参観に参加し、さらに塾の説明会に行き、ちいさいちびの入学説明会があり、しかも、学校参観(学校開放)のためのPTAの手伝いがあります。3人の子どもの仕事が集中します。
とくに小学生が帰宅する時間に誰もいないのは避ける必要があります。今回大学から割当たられた時間帯だと十分に対応できます。今の体調で採点すべきものの山に埋もれているのは精神衛生上よくありません。3時過ぎに帰宅しました。
家では、3月末締切の仕事の準備をしました。
自分で、週に3日は採点作業、同じく週に3日は執筆作業というふうに時間を割り振ることにしました。2月の第3週ぐらいまではそういうリズムで行きます。それにシラバスの入力が混じる感じになります。
家族で3番目で6時15分、室温12.0度。おおきいちびが朝から練習があるようです。妻が起きて、起こしていました。6時45分に家をでていきました。朝一番で次の本が届きました。
日独交流史編集委員会
『日独交流150年の軌跡』
雄松堂書店、2013
エーリッヒ・パウアー「自然科学と技術分野における日独の学問移転:第一次世界大戦まで」を読んでみようと思い、買ったのですが、これはちょうどよい日独交流史の教科書・概論書です。目次をとっておきましょう。
ペーター・パンツァー「オイレンブルク使節団と日独関係の樹立」 pp.3-17
中村尚明「将軍への贈り物 徳川記念財団所蔵のプロイセン王立磁器製作所(KPM)製リトファニーについて」 pp.18-30
ロルフ=ハラルド・ヴィッピヒ「プロイセンにおける竹内使節団 ドイツの地を踏んだ最初の日本人」 pp.31-34
レギーネ・マティアス「ハンザ諸都市と日本」 pp.35-38
箱石大「戊辰戦争とプロイセン」 pp.39-45
カティヤ・シュミットポット「第一次世界大戦以前の独日貿易」 pp.46-49
スヴェン・サーラ「日独関係の「黄金時代」」 pp.53-60
久米邦貞「ドイツに目を開いた日本 エッセンとベルリンにおける岩倉使節団」 pp.61-65
ニクラス・サルム=ライファーシャイト「青木周蔵 ドイツと日本の橋渡しをした外交官 」 pp.66-69
瀧井一博「明治憲法の制定とドイツの影響 」 pp.70-76
トビアス・エルンスト・エシュケ「ヤコブ・メッケル少佐 お雇い外国人、プロイセン参謀将校」 pp.77-82
マティアス・ヒルシュフェルド「行進曲と神々の煌めき 日本の西洋音楽の草創期におけるドイツの役割」 pp.83-87
エーリッヒ・パウアー「自然科学と技術分野における日独の学問移転:第一次世界大戦まで」 pp.88-92
フランク・ケーザー「ドイツを模範とした日本の医学」 pp.93-98
スザンネ・ゲルマン「エルヴィン・ベルツ 日本近代医学の父」 pp.99-101
ベアーテ・ヴォンデ「森鴎外と独日文化の橋渡し役」 pp.102-110
ペーター・パンツァー「ドイツにおけるジャポニスム 芸術と好奇心の間にある日本への熱狂」 pp.111-122
ゲルハルト・クレープス「日本の俘虜収容所における青島の守護兵たち」 pp.123-129
ハインリヒ・ゼーマン「明治日本はドイツだけを手本としていたのか」 pp. 130-133
ヴォルフガング・サイフェルト「ドイツにおける日本学・日本研究」 pp. 137-142
デートレフ・ハーバーラント「ヴァレニウス、カロン、ケンペル シーボルト以前にヨーロッパにおける日本理解を深めた人々」 pp.143-147
コンスタンティン・フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと日本開国への影響」 pp.148-153
レギーネ・マティアス「ルール大学ボーフムのシーボルト・アーカイブズ」 pp. 154-156
宮坂正英「呉秀三のシーボルト研究」 pp.157-165
ハルトムート・ヴァールラーヴェンス「世紀転換期の日本人によるドイツ像 1900年から1902年のベルリンにおける巌谷季雄」 pp.166-170
エーリッヒ・パウアー「日独学術交流の再出発 2人のノーベル賞受賞者アルベルト・アインシュタインとフリッツ・ハーバー」 pp.171-174
スヴェン・サーラ、クリスティアン・W.シュパング、ロルフ=ハラルド・ヴィッピヒ「ドイツ東洋文化研究協会(OAG)」 pp.175-177
トム・グリグル「グラッシ民族学博物館所蔵の徳川家の能面 旧ドイツ東洋文化研究協会コレクション」 pp. 178-180
ラインハルト・ツェルナー「ボン大学日本・韓国研究専攻所蔵のトラウツ・コレクション」 pp.181-183
テオ・ゾンマー「両大戦の間 ヴェルサイユ条約から日独同盟、そして総力戦へ」 pp.187-196
宮田奈々「第一次世界大戦後のドイツ国境画定問題と日本委員」 pp.197-200
フランク・ケーザー「ヴィルヘルム・ゾルフ 第一次世界大戦後の初代駐日ドイツ大使 」 pp.201-203
小田博志「ハンス・パーシェと日本 国境を越えたつながりの物語」 pp.204-209
平山洋「ドイツ哲学と近代日本」 pp.210-216
田中祐介「ドイツ語が輝いたとき 大正・昭和戦前期の旧制高等学校におけるドイツの言語と文化の影響」 pp.217-222
田嶋信雄「日本から見た防共協定」 pp.223-230
安松みゆき「1939年の「伯林日本古美術展覧会」について 開催経緯と日独双方の思惑 」 pp.231-238
ジャニーヌ・ハンセン「「武士の娘」(邦題:新しき土) 日独合作映画で交わる芸術とプロパガンダ」 pp.239-243
イングリッド・フリッチュ「リヒャルト・シュトラウス 大管弦楽のための日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」 pp.244-247
ハインツ・エーバーハルト・マウル「杉原千畝とユダヤ人迫害問題 反ユダヤ人種政策への同調を拒否した日本」 pp.248-251
ハインリヒ・ゼーマン「辿ってきたのは同じ道のりか 第二次世界大戦後のドイツと日本、その復興の歩み」 pp.255-264
石田勇治「過去の克服 ドイツと日本を分ける要因」 pp.265-269
ホルガー・レッテル「コンラート・アデナウアーの訪日 政治と文化の視点から見たある旅の記録」 pp.270-273
ペーター・パンツァー「日本とドイツ民主共和国(1973-1989年)」 pp.274-277
黒川剛「日独関係の歴史と日独協会の歩み」 pp.278-281
ルプレヒト・フォンドラン「雨天の友 独日協会と協会の課題」 pp.282-286
ダヴィッド・ベンダー「ドイツにおける日本の武道の伝播と育成」 pp.287-291
ジャクリーヌ・ベルント「マンガに見る「ドイツ」 パロディ・ツールとしての役割」 pp.292-298
ルプレヒト・フォンドラン「将来の日独アジェンダに取り上げるべきものは何か」 pp.301-306
フリデリーケ・ボッセ「財団法人ベルリン日独センター」 pp.307-309
ハンス=エルク・シュテーレ「日本とドイツ 学術・科学技術協力」 pp.310-313
ユリア・ホルマン「日本とドイツ われわれの経済協力のための課題」 pp.314-318
夕刻、次の本が届きました。
最相葉月『セラピスト』新潮社、2014
最相葉月さんが自身双極性障害(昔の用語では躁鬱病)であることを告白しつつ、日本の「セラピスト」の歴史を追った本です。帯には、「心の病は、どのように治るのか。二人の巨星、河合隼雄と中井久夫:箱庭療法の意義を問い、治療の変遷を辿り、著者自らカウンセリングを学んだ。そして浮かび上がってきたこと――。」とあります。
ひとりで5時45分、室温10.1度。室温の表示以上に寒く感じます。夕食の前後で、昨日のレスポンスシートの採点を行いました。もちろん、とんちんかんなコメントもゼロではありませんが、だいたいは理解してもらったようです。理解すると同時に根本的な問いに直面する、そういう内容の講義を行いました。
自分のための備忘録として、教務上の仕事を書きとめておきます。
本務校(外大):成績入力:2月14日〜2月21日
東大:来年度シラバス:2月14日 成績入力:2月17日締切
本務校のシラバス入力については、まだ連絡が来ていません。
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