ひとりで6時35分、室温9.2度。今日はすこし暖かくなるということです。9時過ぎに切符を買いに駅に行きました。父の一周忌です。法事そのものは、お寺の都合もあり、3月23日(土曜日)午後1時に決定しています。
苦手な片づけに着手しました。新学期までにすませる必要のある仕事を考えると、整理は必須です。普段のつけがまわってきて、ほんとうに大変ですが、少しずつ進めています。
本日中には7割程度まで進めることができました。[『日本医史学雑誌』一般口演要旨]
かなり前ですが、駒場図書館でとったコピーを整理します。やっとです。
澤井直「ウィリアム・ハーヴィの方法論:類推の正当化をめぐって」『日本医史学雑誌』46(3)(2000): 348-349
月沢美代子「カスパール・ボーアン "Theatrum Anatomicum"について(1)―初版(1605)と第2版(1621)の序文の比較検討」『日本医史学雑誌』46(3)(2000): 378-379
清水陽人・蒲原宏・ガストン・ティニュシェ・オーギュスト・アルマンゴー「来日フランス人医師ヴィダールの生涯:フランス側からの報告」『日本医史学雑誌』46(3)(2000): 376-377
栗本宗治「英国医史における学と職と:法制的考察(その二)」『日本医史学雑誌』46(3)(2000): 374-375
小林晶「膝関節に名前を残す二人のフランス人―GerbyとSegond」『日本医史学雑誌』46(3)(2000): 380-381
月沢美代子「ウィリアム・ハーヴィ「普遍解剖学講義」における心臓の運動の提示」『日本医史学雑誌』45(2)(1999): 180-181
坂井建雄「系統解剖学の起源としてのヴェサリウス解剖」『日本医史学雑誌』45(2)(1999): 178-179
濱中淑彦「アヴィセンナ(イブン・シーナ)の「医学典範」(ラテン語訳)における精神医学(第2回)」『日本医史学雑誌』45(2)(1999): 176-177
『日本医史学雑誌』においてこういうふうに2頁のものは、学会の講演要旨です。正式には、日本医史学総会の「一般口演」と称するようです。
息子といっしょに6時50分、室温10.0度。地面が濡れています。夜雨が降ったようです。朝方も降ったり止んだりです。おおきちびは、今日まで期末試験。月曜日から始まっています。確かに私の記憶でも期末テストは3日間でした。
午後に面談。
息子といっしょに6時50分、室温7.6度。昨日よりは精神的には楽ですが、拘束時間が長い仕事が大学で待っています。
10時に始まり、6時過ぎに終わりました。我々のグループは先に終わったのですが、別グループの手伝いに入りました。これがきつい作業でした。
ひとりで6時、室温6.6度。今日からしばらく、仕事。ちいさな大学なので、ほぼ全員が出動します。
→ 3時半過ぎに無事に解放されました。やれやれ。
ひとりで5時45分、室温9.5度。
ルネサンスの水フイゴ。Bate, p.12 より。
ルネサンスの消防ポンプ。Les Rasons, p.64 より。
ひとりで6時20分、室温9.1度。7時15分現在誰も下に降りてきません。土曜日なのでゆっくりです。
ひとりで5時45分、室温8.8度。[本日 カルステンさん講演会2 at 駒場]
体調が悪くなければ、午後次の講演会にでます。講演テーマは、化学物質の規制についての歴史的研究です。
講師:Carsten Reinhardt 氏(ドイツBielefeld大学 )
日時:2月22日(金)16時から
テーマ: "Limit values as a regulatory concept"
会場: 東京大学 駒場キャンパス 14号館308号室 http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam02_01_13_j.html
会場は、ふだん科哲の授業が行われることの多い教室です。14号館3階に行けばすぐにわかると思います。自由参加です。関心のある方はどうぞ。講演会の前に駒場図書館。次の3点のコピーをとり、その場で読みました。
Charles Webster, "William Harvey's Conception of the Heart as a Pump," Bull. Hist. Med. 39(1965): 508-517
C. Webster, "Harvey's De Generatione: Its Origins and Relevance to the Theory of Circulation," The British Journal for the History of Science 3(1967): 262-274
George Basalla, "William Harveyand the Heart as a Pump," Bull. Hist. Med. 36(1962): 467-470
ウェブスターの主張はよくわかります。
ウェブスターが同時代の水フイゴの資料として挙げるのは、ベイトの『自然と技術のミステリー』です。第3版のpp.16-7 に掲載されている図です。(初版ではp.12)
John Bate, The Mysteryes of Nature, and Art, London, 1634; 2nd. ed., 1635; 3rd. ed., 1654
グーグルブックにはなかったのですが、これがネット上にないわけがないと思い、検索をかけるとやはり存在しました。1634年の初版です。ヘロンの図版をへたうま化したような絵も含まれます。
ウェブスターの仕事はしっかりとしていますが、この種の著作についてもうすこし情報があってもよいと感じました。生協でノートを買ってから、講演会場へ。山口さんが見えていました。橋本さんに挨拶に行って、四方山話。4時ちょっと過ぎに梶さんとカルステンさんが現れました。
橋本さんが今年、安全基準をプロジェクトとして研究されていたそうです。ちょうど講演のテーマとかみ合いました。
ひとりで5時20分、室温8.0度。室温は昨日と同じです。寒い。午前中に出張校正で要町に行きます。
→ 10時から11時。予定通り、1時間程度で終わりました。
[aging]
電車に乗っていてどうも調子が悪い。以前はあまり感じたことのない手の冷えを感じます。スピリトゥス概念が用いられていた頃には、aging= 老化は、体内のスピリトゥスの減少であって、スピリトゥスがもたらす温(温熱)と湿が失われていくことだと理解されていました。たぶん、実感として老いは温(温熱)と湿の喪失なのでしょう。
印刷所の担当者の方は、那須にお住いです。寒さの話になって、私と似たような状況にあることがわかりました。年齢は聞きませんでしたが、大きくは変わらないと思われます。
以前失神したときは、こういう状態の数倍だと解釈できるのでないかと思いつきました。寒さに対抗する代謝力の低下が基本的な現象で、蓄積疲労等でエンジン不調が重なると血圧低下に繋がるのではないか、と思うようになりました。
すぐに確認できることではありませんが、自分として注意すべき事態ははっきりしてきたように思います。
ひとりで5時30分、室温8.0度。また寒くなっています。午後は、会議。いつもの水曜日のスケジュールです。
お昼休みに学生と面談。1時半から研究院教授会。2時間程度で終わりました。珍しく本日の会議はこれで終了。そのまま帰宅しました。
ひとりで5時10分、室温12.3度。すこし寒さがゆるんだ気がします。コーヒーがなくなっていたので、6時前後に買い物にでました。この時間外を歩いているのはほとんどおじさんです。仕事帰り?、仕事に向かう人、それに犬の散歩。風が残っていて外を歩くと寒い。
[カルステン講演会]
今日は午後、東工大の梶さん主催の次の講演会に参加します。自由参加です。ご関心のある方は、どうぞ自由にお出で下さいということでした。
日時:2013年2月19日(火)15時から
発表者: Carsten Reinhardt 氏(ドイツBielefeld大学 )
テーマ:「Transfer and transformation of chemical research methods in the twentieth century」
会場:東京工業大学 大岡山キャンパス 西9号館4階407号室(東急大井町線・目黒線「大岡山駅」下車徒歩3分 交通 http://www.titech.ac.jp/about/campus/index.html)
以下の地図28番の建物です(円形のホールが目印です)。
http://www.histec.me.titech.ac.jp/course/where.htm
Reinhardt教授は、現在46歳のドイツの中堅の科学史家です。 http://www.uni-bielefeld.de/iwt/personen/reinhardt/kontakt.html (論著)http://www.uni-bielefeld.de/iwt/personen/reinhardt/publikationen.html
主として20世紀の化学史とくに機器分析の歴史や化学技術史・環境科学史などを研究しています。1930-60年代の日本化学の転換点についての歴史研究をおこなう科研費の研究グループ(梶さんが中心)が招待しました。
私の20世紀の化学史は詳しくありません。ただ話を聞くだけになりそうです。→講演会の前の打ち合わせ。1時半から。ほぼぴったりに着きました。
上記の通り、3時から講演会。私には有意義な面白い発表でした。化学の機器革命がメーンテーマでした。6時まで。私は帰ってきましたが、その後おそらく十数名で懇親会に行かれたようです。次は、金曜日の4時から2回目の講演会があります。駒場では規制の話をされるそうです。こちらも自由参加ですから、環境問題に関心がある方は足を運んで下さい。
ひとりで6時20分、室温8,8度。まだまだ寒い。今日はしたのふたりは振替休日。おおきいちびだけ学校(中学校)があります。7時半に起きてきて、8時頃でかけました。
大学で書類の用事があります。ちょうどよいので小学1年生を連れていくことにしました。宿題を一枚もたせて、大学でやらせることにしました。
用件は行けば簡単です。息子は机で宿題を始めましたが、おおあくび。昨日の疲れが残っているようです。4分の3で切り上げることにしました。
それから約束により、イトーヨーカードーへ。先にゲームをするというので、カメンライダーガンバライドのゲーム機へ。ゲームは任せます。よいカードが出たと言って喜んでいます。
ゲームコーナーにアイスやらクレープがあります。アイスクリームが欲しいというので食べさせました。それからケンタッキーに行って大きい箱を買いました。
帰宅するとちいさいちびは予想とおり、床の上でごろごろしています。やはり昨日の疲れが残っているようです。リズムをつくるために、ビデオを借りてきてやることにしました。ちいさいちびはくれよんしんちゃん。小学1年生は仮面ライダー。お風呂に入るか宿題をしたら、ビデオ見てもよいよ、と言いました。
しばらく空いていた隣のお家ですが、本日、入居者があったようです。
ビデオを借りるために外に出ていたら、2軒隣の方に声をかけられました。家を建て替えされるそうです。設計事務所のおじさんが2名来ていました。建て替えのために荷物を整理中ということで、息子にグローブをくれました。息子に渡すとすごく喜んでいます。ほとんど使われてなかった感じです。柔らかくする方法をネットで検索して教えてやりました。使ってみるのは暖かくなってからです。
ひとりで4時10分、室温7.3度。空気がひんやりしています。外の最低気温が−1度だそうです。風が止んだことがすくいです。牛乳が切れていたので、5時前後に買い出しのため外にでました。寒い。なるほど寒い。
[真冬の舞浜]
7時20分、おおきいちびを除き、ディズニーにでかけました。妻がちいさいちびの友達3人と小学1年生あわせて5人の子どもを連れていきます。楽しみにしていたようで、6時半に起こしに行くと二人ともすぐに起きました。→ 妻はよる中学の臨時保護者会があります。相談して、3時半でアテンドを交代することにしました。
乗換案内では、2時8分西荻発で舞浜に3時15分に着きます。2時8分の電車に乗り込みました。大人の足が乗換案内よりもはやいのでしょう、およそ15分はやく現地に着きました。妻が今朝非常に苦労していた e-ticket をかざすと難なく入ることができました。朝は長蛇の列で、けっこう並んだようですが、さすがに3時を過ぎると入り口に人はほとんどいませんでした。
すぐに妻と小学1年生が現れました。スティッチの耳(カチューシャ状)をかぶっています。5年生4人は自分たちでまわっています。妻が携帯で連絡して、7時半パレードのあとという打ち合わせだけしました。小学1年生はまだディズニーにいたいということで、純粋の交代。妻はそのまま帰りました。
昨日のような強い風はおさまっていますが、まだまだ寒い。朝はもっと寒かったと言います。アドベンチャーランドに行きたいというので、左手の方に向かいました。
30分以上は待ちますが、前に来たときよりはましです。船に2回のって、スティッチのショーを見た後、スペースジェットに乗りたいというので、係のお兄さんに聞いて、西から東へ移動。スペースジェットから降りてきたら、もう外は暗く、私はお腹が空いています。小学1年生はまだ空かないと言います。私だけそこの肉まんを買って食べました。
スペースマウンテンに乗りたいと言います。これは人気のようです。1時間待ちです。小学1年生は入り口で身長を測られましたが、パス。手にパスの印のバンドをしてもらいました。
暗闇をジェットコースターが疾走します。私にはそうとうきつい。入るまえに何度も何度も警告の放送をしていた理由がわかりました。降りると足許がふらふら。小学1年生は面白かったといって強がっていますが、やはり足許がふらふらです。
1度休んだ方がよいと考えて、入り口に近いところにある食堂へ。そぼろご飯を食べさせました。食べているときに、クラスは違うが小学校の同級生が現れました。学校公開日の翌日というのはありえるパターンですが、会う確率は非常に低いと思われます。
ゆっくりめに食べさせて、外にでました。お掃除をしている係の方を見つけて、パレードはどこで待てばよいのか小学1年生は自分で質問しました。人見知りをまったくしない子なので、知りたいことは全部自分で聞いています。ちょうど目の前の丸い広場がその場所だとわかりました。すでに人が座っています。自分で隙間を見つけて座りました。座ったまますこしずつ前に進んでいます。地面に座ったまま15分ほどすると、エレクトリックパレードというイルミネーションショーが始まりました。ディズニーにキャラクタが総出です。40分近くあったでしょうか。
終わったらすぐに入り口=出口に向かいました。入り口で待っているとちいさいちびから電話がありました。ホテルの前とかわけのわからないことを言っています。ともかくディズニーの外に出なさいと指示をして、我々もゲートの外で待っていると小学1年生がおねえちゃんたちを見つけました。おねえちゃんたちは、おしっこがしたいと言っています。ともかく、駅に向かい、途中のお土産屋さんに入り、トイレを捜しました。
その時点で8時20分。
駅のなかに入るとホームに人があふれていますが、ともかく最初に来た電車に乗り込みました。電車のなかはそれほどの混雑ではありません。東京駅での乗換は、歩く時間が長すぎます。新木場で有楽町線、それから市ヶ谷で総武線というルートにしました。新木場の駅でおねえちゃんたちは、お茶を買いました。
市ヶ谷では9時7分の電車に乗ることができました。ひとりだけ席に座らせた小学1年生がうとうとしはじめます。全員が座ることができた新宿でもう寝込みました。
あれだけ遊んだら眠くなるでしょう。駅のなかぐらい起こして歩かせようと思いましたが、簡単には起きないので、荷物をちいさいちびに預けて抱っこしました。改札だけは起こして自分で歩かせました。二人のお母さん、一人のおじいちゃんが迎えに来ています。小学1年生をおんぶして家まで帰りました。
妻も帰ってきたばかりだったようです。おおきいちびと話しています。
ともあれ、できるだけはやく就寝するように言いました。プリントアウトはしたのですが、捜すのが面倒なので、画面上で次の論文を読みました。
比留間亮平「ルネサンスにおけるスピリトゥス概念と生命論」『死生学研究』第7号(2006): 139−164
一種の展望、サーベイ論文です。とくにオリジナルな部分はありませんが、まとめとしてはこれでよいのではないでしょうか。
柴田マスターが前に指摘されているように、依拠した2次文献がきちんと挙げられていないのがちょっと残念です。
夜半に目覚めてすこし仕事。2回目の起床は、7時20分。妻と小学1年生は起きていました。強い風が吹いています。そのせいでしょうか、寒さを感じます。
小学校は学校公開日(昔の授業参観日)。
8時過ぎに起きてきたおおきいちびが「おもちあきた」。最近バスケの練習に行っていないのでお腹が空かないのだそうです。長く続いたもちつきですが、やっとここですこし切れそうです。
[本間栄男氏の仕事]
本間栄男さんの博士論文、『17世紀ネーデルラントにおける機械論的生理学の展開』東京大学、2002、の第3章「ルネサンス生理学の理論」を読み直しました。本間さんは、ルネサンス生理学史の専門家として貴重な仕事をなされています。
この分野に関わる業績をリストアップします。
[年会特集]本間栄男「Cornelis van Hogelande (1590-1662) と医化学」『化学史研究』第28巻(2001): 127
本間栄男「医学独学者としてのIsaac Beeckman(1588-1637):付BeeckmanのCatalogusの医学書一覧」『哲学・科学史論叢』4(2002): 1-43
[論文]本間栄男「デカルトと胃での消化」『化学史研究』第29巻(2002): 222-236
本間栄男「16-17世紀のルネサンス生理学と機械論的生理学の構成」『哲学・科学史論叢』5(2003): 1-36
[論文]本間栄男「『エピクロスへの注釈』(1649年)におけるガサンディの生理学」『化学史研究』第31巻(2004): 163-178
本間栄男「17世紀Leiden大学の医学教授たち:付録登場人物略伝」『哲学・科学史論叢』6(2004): 1-28
本間栄男「Jacob de Back(1594-1658)の生理学」『哲学・科学史論叢』7(2005): 1-38
本間栄男「消化という物語を<わかる>--17世紀西欧生理学の理解と認知」『UTCP研究論集』5(2006): 27-44
本間栄男「17世紀ネーデルラントにおけるルネサンス生理学」『哲学・科学史論叢』8(2006): 1-63
本間栄男「デカルト派生理学と図像表象」『科学思想史』(金森修編著、勁草書房、2010): 325-369
本間栄男「科学史とビブリオグラフィ」『桃山学院大学人間科学』39(2010): 1-27
多くは、本間さん自身から別刷りを頂いています。最後のものは初見だったので、ダウンロードして読みました。サートンや桑木さんの科学史の文献収集・作成・科学史学についての話でした。ハーヴィの話が触れられています。実は、10日以上前から部屋のなかで次の本を探していました。去年の夏(8月2日)に入手しています。
Roger French, William Harvey's Natural Philosophy, Cambridge, 1994
今日は諦めて、部屋のなかに堆積した10以上の山をひとつひとつ確認することにしました。最後から3つ目の山で見つかりました。同時に、本間さんに頂いた別刷り4点(いずれも『哲学・科学史論叢』(東京大学教養学部 哲学・科学史部会)に掲載されたものです)も見つかりました。
フレンチの『ハーヴィの自然哲学』は書評を読む限り、そのテーマの基本書です。できれば、文献表ともうすこし丁寧な索引があれば、使いやすいものとなったでしょう。→せっかくですので、「16-17世紀のルネサンス生理学」(2003)から、ルネサンス生理学の定義の部分を引用しましょう。
"phyisologia" という語をはじめて「生理学」の意で用いたのは、フェルネルです。De naturali parte medicinae(1542) 。これは、後のMedicina(1554)、Universa Medicina(1567)の生理学部門に引き継がれます。
Universa Medicinaにおける生理学の定義は「すべての内の第一のものは生理学で、それは完全に健康な人間の本性、そのすべての力と機能を探究する。」であった。
その構成はつぎの7つであった。
1.人体の諸部分
2.諸元素
3.調和状態
4.精気と生得温熱
5.霊魂の諸能力
6.諸機能と諸体液
7.人間の生成と種子1.は解剖学、7.は人間の発生学、2.から6.が本来の生理学にあたります。したがってリオランでは次の構成となります。
元素
調和状態
精気と生得温熱
体液
部分
霊魂の能力
霊魂の機能機械論的生理学は、デカルトの影響下で形成された。デカルトの『人間論』の出版は遅れ1664年となるが、デカルト派生理学は、それ以前レギウスの著作によってすでに広まっていた。
Henricus Regius, Fundamenta physices, 1646
Henricus Regius, Fundamenta medica, 1647
Henricus Regius, Philosophia naturalis, 1654チャールトンによる展開。「アニマル・エコノミー」というフレイズによる。
Walter Charleton, De Oeconomia Animali, Amsterdam, 1659
この伝統の完成が18世紀のブールハーヴェ。Institutiones Medicae(1708) では、生理学と「アニマル・エコノミー」が同一視されている。そしてルネサンス生理学の基本的変貌を著者の本間氏は次のようにまとめています。「ルネサンス生理学の7つの部分のうち諸元素・調和状態の部分が落ち、諸部分は別個の解剖学へと任され、諸体液と精気が取捨選択されて諸能力・諸機能に含まれる。そして、諸能力が脱落し、諸機能論が残る。」(p.23)
つまり後知恵で言えば、ルネサンス生理学の核心は、人体各部の機能論であったということになるでしょう。「17世紀ネーデルラントにおけるルネサンス生理学」からも基本的ポイントを抽出しておきましょう。
p.24 そもそも能力とは何か。ガレノスの定義は次である。「能動的な変化あるいは運動を私は作用(エネルゲイア)と呼び、その原因となるものを力(ヂナミス)と呼んでいる。」
力(ヂナミス)は ギリシャ語で dynamis(ラティナイズド)、そのラテン語訳が facultas である。
p.31 「ガレノスが能力を元々は仮説的な原因として導入し、それが何かを述べなかったことである。能力は霊魂の道具であり、同時に具体的機能あるいは活動の原因として理解される。それがいつしか造血能力や呼吸能力などに細分化されていけば、ほとんど機能と違いがなくなる。一方で能力が名目に過ぎないことが批判の対象になっていくことで、能力という概念装置が生理学書から落ちていくのである。」フェルネル生理学の基本を本間さんの整理に従ってまとめてみます。
機能は、3つの系で考えられています。栄養系、身体運動と感覚の系(たぶん今の神経系にあたる)、脈動と呼吸の系。(言葉遣いは本間さんのものからすこし変えています。)
栄養系は、食べ物を摂取して、それを消化し、栄養となして、体内に運び、老廃物を糞尿として排出するまでを含みます。ガレノスにおいても、フェルネルにおいても、生理学の中心はここです。
消化は3段階あります。第1段階は胃での消化です。第2段階は、肝臓での消化、そして第3段階は個々の諸部分で行われる消化です。 胃での消化では、乳糜(chylus)がつくられます。牽引によって、この乳糜(chylus)が肝臓に運ばれ、そこで第2の消化をうける。乳糜(chylus)が血液となる。(血液化と同時に黒胆汁、黄胆汁が生じる。)
肝臓でつくられた血液は、空静脈=大静脈を通って、左心室に運ばれる。「肝臓から出る残りの血液は静脈を通じて全身に分配され身体諸部分の栄養に使われる。」(p.35)
身体運動と感覚の系:「大脳は要塞内にいる司令官のごとく、従者や仲介者を使って身体末端部分を動かしている。」(p.37) 仲介者とは精気であり、脳湿、脊髄、神経をとおって霊魂精気(動物精気)が運ばれる。心臓から送られてきた精気が脳内で霊魂精気(動物精気)に転換される。
脈動と呼吸の系:外気は肺で鍛錬されて精気的空気となり、左心室に入る。これが右心室から来る血液の熱い蒸気と心臓の生得精気=生得温熱によって生命精気に変えられる。この生命精気が動脈を通して全身に分配される。このとき生じる灼熱の蒸気=ススは、心臓と動脈の脈動や肺の排気によって外に捨てられる。(p.39)血液循環説を受け入れると、この構図は大幅な書換が要求されることとなる。
ひとりで6時45分、室温11.4度。またいくらか寒さが緩んでいます。午前中に、シラバス入力をすませました。駒場(冬学期大学院)は、今日が締切です。外語は、週明けの月曜日が締切です。ぎりぎりでまにあったといったところです。
朝方は寒さが緩んだのかと思いましたが、今日も寒い。降り続く冷たい雨のせいかもしれません。
[バレンタインのお仕事 2]
さて、次女のバレンタインクッキーですが、昨日はつくっただけです。小袋に分けて入れることと、配布作業が残っています。お友達が来て遊んだあと、5時半から雨のなか配布作業を手伝いました。6軒。
近所の3軒は無事にすみました。一番遠くの子の家の場所を次女は正確に覚えていません。近所まで行って、覚えている場所の目印や目安を聞きましたが、私に参考になる情報は含まれていません。あっちこっち動いてみて、覚えている建物が見当たらないので、諦めることとしました。
駅に一度もどり、幼稚園からのお友達の家へ。
夜、駅の周辺を歩くことはまずありません。けっこう知らないお店がたくさんありました。最近落ち目になっている喫茶店も何店かみかけました。昭和の人間としてはこういうお店が続いてくれるとうれしいのですが。ちいさいちびは、道は一部しか覚えていません。見慣れない光景にここどこ?ここどこ?と言っていました。
最後は、5年生になってから同じクラスになったお友達の家へ。他の子とは向きが逆ですが、その子の家が我が家からは一番近い。なんやかんやでたぶん10キロ程度歩いたことになります。帰宅してすぐに夕食。お腹が空いた状態で飛び出したので、いつもより多くご飯を食べてしまいました。
バレンタインデーで親にこんな仕事が発生するとは、予想していませんでした。
夜半に目覚めてすこし仕事。2回目の起床は、6時35分、室温10.1度。昨日の寒さはいくらかゆるんだ気がします。
2限目に試験監督補助の仕事があります。9時ぐらいには家をでる予定です。
→9時半に大学に着きました。電車のなかで昔大学院の授業をとっていた院生に会いました。カリブで1年、フランスで2年暮らしていたということでした。どうも私の当たっている試験監督の補助のアルバイトのようです。
9時55分教務課に行きました。成績を全部提出しました。それから試験監督の説明が事務の方からありましたが、試験監督は身体が覚えています。電車であった補助の院生が見えるとすぐに教室に向かいました。
90分のほぼ無の時間。
昼食をとってから、シラバス入力に着手。数が多い。1時間半で疲れて今日はこれで切り上げることにしました。[バレンタインのお仕事]
次女が昨日失敗したクッキーつくりに再挑戦します。妻はあらかじめ材料を買いそろえています。
次女は4時帰宅。すぐにクッキーつくりに着手しました。ともかく落ち着いて、レシピ通り、ちゃんとつくるよう指示をしました。
するとしばらくバスケットを休んでいるおおきいちびが帰ってきて、自分もつくると言います。おー、まい、ごー。おおきいちびてきには友チョコは卒業したつもりだったのが、友達が卒業していなかったので、やはりつくるということです。そちらも手伝ってやりました。チョコを湯煎するだけですが、いまいちへたくそ。でもなんとかやっています。
次女は心配だったようですが、クッキーもなんとかたねができました。あとは食後ということにして、夕食。私はお風呂に先に入りました。食後しばらくして冷蔵庫のたねを出していると、ちょうどよいぐらいの固さになっています。今回は落ち着いて包丁を使い、まずまずのものができました。やれやれ。切ったり、形を作ったりはちいさいちびに任せ、私はオーブンを担当。全部で4回になりました。それだけでほぼ1時間。とほほ。
シラバス入力もちょこつくりも疲れました。
夜半に目覚めてすこし仕事。窓の外でさわさわおとがします。何かと思ったら、雪が積もっていました。今年3回目です。2度目の起床は、7時15分。妻と小学1年生が起きていました。雪は残っていますが、解けている箇所もあります。屋根の音から判断する限り、途中から雨に変わったように思われます。
さて、今日も午後はずっと会議です。5つ連続します。
→今日も早めに大学に行き、仕事をこなしました。まず成績の転記。これはまったく機械的作業です。集中力を切らさないようにだけ注意しました。転記ミスがないかどうかチェックをして完了。
11時過ぎに昼食を取り、12時に学生と面談。1時10分から図書館で委員会。その後、大学院の会議が3つ続きました。すこし身体がつらくなったので、ひとつだけ遠慮しました。最後の会議は4時半から始まり、6時前には終了しました。
冷たくて強い風が吹いて、寒い一日でした。最後の会議が終了後、窓の外をみると、きれいな富士山が。強風が空気をきれいにしてくれたのでしょう。鮮やかな夕日をあびる富士山を見ることができました。→8時過ぎにお風呂から出てきたちいさいちびが友チョコ用のクッキーの最後の作業に取りかかりました。食事前に生地をつくって冷蔵庫に入れていたものです。白い方が明らかに柔らかすぎです。最初から泣きそうでしたが、いらいらしながら作業をして、結局失敗でした。仕方ありません。ここは親の仕事です。すこし落ち着くのを待ってから、失敗は失敗だ、これはもう仕方がない、さて次をどうするのか考えようと言いました。しばらく考えてから、つくりなおすと言います。友達は明日配るそうです。明日には間に合わないが、15日か16日に配ればよいでしょう。半時間強泣いていましたが、何とか9時過ぎには立ち直りました。失敗したものは失敗したものとしてオーブンで焼きました。味には問題ありません。見て目はけっこうぐちゃぐちゃになりました。
帰宅してすぐに夕食。おおきいちびがお風呂にはいっている最中でした。
次の本が届いていました。
James J. Bono, The Word of God and the Languages of Man: Interpreting Nature in Early Modern Science and Medicine, Madison: The University of Wisconsin Press, 1995
副題のあとに、Volume 1, Ficino to Descartes とあります。Volume 2 があるのでしょうか。第4章が「テキスト優先:本優位文化と神的真理の解釈的探究(フェルネル対ハーヴィ)」です。フェルネルの観察に対する態度、フェルネルと改革の理念、医学的精気の概念:フェルネル、医学的精気の概念:ハーヴィ、ハーヴィの生物学的物質の理論からなります。
今回の作業に関して言えば、ここから読み始めるのはちょうどよいように思われます。研究室で本間栄男さんの博士論文(『17世紀ネーデルラントにおける機械論的生理学の展開』東京大学、2002)を捜し出して、空いた時間にすこし読んでいました。ルネサンス生理学に慣れるためには最初に読んでもらってよい博士論文だと思われます。たとえば、「白乳菅(venae albae et laceae)」(p.99) 、「胸菅(ductus thoratica)」(p.100)、「粗製液汁(succus crudior)」(p.101)のように、原語が表記されています。
第3章は「ルネサンス生理学の理論」にあてられており、精気(spiritus)や生得温熱(calidum innatum)のような用語・概念になじむために最適だと思われます。→例示 フェルネルの定義「生得温熱とは内在精気と熱で至る所浸されている原始的湿である。」わおー。「生得温熱(calidum innatum)」、「内在精気(spiritus insitus)」、「原始的湿 (humidum primigenium)」がほとんど同じとされているに等しい。本間氏は、この節のタイトルを「内在精気即ち生得温熱」とされています。
整理の部分を引用します。p.78 「精気は微細な物体である。微細であることは細かく動き回り他の物体の隙間に入り込むという含みが当時はある。微細であるだけで可動性があったのである。これは我々の身体内にある原始的湿と混合して調和し熱によって活性化すると生得温熱になる。この熱も精気も何らかの形で失われるので、それらを回復するのが流入精気の役目である。流入精気は身体外部から、主に食物から精製される。それが何段階かあるが、自然的・生命的・霊魂的という3種類の分類は霊魂の分類に倣ったものであるために、無理があると考えられる場合もあった。その場合、自然精気が不要なものと考えられた。3つも認める人の場合でも、重要なのは生命精気と霊魂精気の2種類だけだった。」
ガレノスの能力について。 p.85 医学史家レスター・キングの説をまとめて。「ガレノスの考えの根幹には目的論がある。即ち、自然は無駄をしないということから、何らかの構造は何らかの機能を必ず持ち、それは直接観察可能な構造から実験・類推を用いて推論できる、という信念をガレノスは持っている。この時、多くの事実全体の中からひとかたまりの何らかの内的統一性のある事実を取り出して「能力」という名称でひとまとめにする、つまり生命現象の機能単位を作り出すことを行った。それは現象の説明のために用いられるのではなく、記述のための単位であると考えられる。」
p.92 注目すべきは、「ガレノスが能力を元々は仮設的な原因として導入し、それが何かを述べなかったことである。能力は霊魂の道具であり、同時に身体的機能あるいは活動の原因として理解される。」
ひとりで6時5分、室温7.4度。また寒くなりました。今日は夕刻(6限の時間帯)に教授会。
ちょうどよいので、しばらく放置していた採点の仕事をすることにします。できれば今日中に終えたいと思います。
→11時に登校しました。会議開始は5時半です。ずいぶん時間があります。採点だけは何とか終わらせることができました。転記は明日にします。
そして、5時に、書類の判子押し。1年2ヶ月ぶりぐらいの学生に会いました。2番目に好きなものを仕事に選んだ由。5時半開始の教授会はちょうど7時に終わりました。珍しい予定調和。
採点というのは苦行です。あまりに続けるとつらいので、途中息抜きをします。
次の論文をダウンロードし、一部読みました。Allen G. Debus, "Chemists, Physicians, and Changing Perspectives on the Scientific Revolution," ISIS 89(1998): 66-81
さすがにディーバスです。今でも読むと啓発されます。むしろ、私のようなテーマで研究している者は、定期的に目を通す必要があると言えるかもしれません。Gweneth Whitteridge, "Of the Local Movement of Animals: The Wilkins Lecture, 1979," Notes and Records of the Royal Society of London 34(1980): 139-153.
Vivian Nutton, "Obituary: Gweneth Whitteridge(1910-1993)," Medical History 38(1994): 103
「彼女は中世フランス語研究とパレオグラフィーの教育を受けたが、1935年ロンドンの聖バートロミュー病院のアーキヴィストの地位を得、エジンバラとオクスフォードの生理学教授になる人物と結婚したことが、ハーヴィ研究者としての彼女の道をつけた。バーツにかんする短い歴史(1961)を除き、彼女の精力は、ハーヴィの著作を編纂し、翻訳することに注がれた。『動物の運動について』(1959)、『解剖講義』(1964)、『血液の循環について』(1976)、『発生について』(1981)。『循環と乳び菅についての手紙』の新しい翻訳が印刷中である。彼女は、ハーヴィの著作に関する価値ある文献表(1989、クリスティーン・イングリッシュと共同で)を出版し、『ウィリアム・ハーヴィと血液循環について』(1971)で彼女自身のハーヴィ解釈のまとめを出版した。彼女は、ウォルター・パーゲルならびにジョローム・ビルビルとの険しい論争において、自身の見解を擁護した。彼女には、パーゲルやビルビルの文脈主義はハーヴィの生理学者としての意義を減ずるもののように思われたのである。彼女の後期の翻訳がたとえ喝采を受けたものとはならなかったにしても、彼女の初期の『運動について』ならびに『解剖学的講義』の翻訳は、草稿としてのみあるいは稀書としてのみ存在していたテキストを公に利用可能とした点でかけがえのない貢献であった。」(一部略、ただしほぼ直訳)→ 編集委員会宛、次の本が献本されていました。
西條敏美『知っていますか? 西洋科学者ゆかりの地 IN JAPAN: Part 1 新しい世界を開いた西洋科学者』恒星社厚生閣、2013
恒星社厚生閣の編集者のKさんありがとうございます。
7時15分、妻とおおきいちびは起きていました。おおきいちびは今日もバスケを休みました。練習試合ですが、体育館に暖房が入っていていやだと言っていました。[two clacks of a water bellows]
さて、 "two clacks of a water bellows" とは具体的に何かの問題に帰ります。辞書には、Clack は、カチッと言う音、俗語で舌、機械でclack valve 逆止め弁、とあります。ここを逆止め弁と訳すと、ある見方の読み込みになってしまいます。(場合によっては、それも仕方ないこともあるでしょう。)
ハーヴィがこのフレイズを使うとき、具体的な装置としては何をイメージしていたのでしょうか?
水を押し出す仕組みとしては、水フイゴも消防ポンプも同じだと思われます。内部に弁のついた装置によって、圧縮された空気の力で水をより強く押し出すものです。ウィキは、「気密な空気の体積を変化させることによって空気の流れを生み出す器具」としています。ウィキに”鞴”として示されている絵では、二つの取っ手は Clack と呼べると思います。
そして、もちろん、ハーヴィが鞴やポンプの逆止め弁の仕組みを知っていれば、あるいは直接知っていなくてもその言い回しを知っていれば、吸気と呼気の両方で働く逆止め弁そのものを指している可能性を第一に考える必要があります。
うーん、どっちでしょうか。
ひとりで5時25分、室温8.9度。7時半現在まだだれも下に降りてきません。休日の朝です。おおきいちびは午後練があると言っていました。室温は2時間かかってやっと10度を超えました。床暖房はすぐには効きません。じんわりとです。
生理学史は今日の時点で210枚を突破しました。
[ホイットリッジの仕事]
昨日検索をかけているとホイットリッジの仕事がいくつか見つかりました。ケインズが「ハーヴィの解剖学講義」について書評を書いています。結論部分で次のように言います。
「他のラティニストが、ホイットリッジのテキスト解釈にみんな同意するわけではないであろうが、この本は全体として医学史への大きな貢献であることは間違いがなく、その一般的正確さには疑いがない。」
まずこの評価があった上で、細部の批判がなされるべきでしょう。
Geoffrey Keynes, "Book Reviews: Harvey's Anatomy Lectures" p.1304
Gweneth Whitteridge, "Growth of Harvey's Ideas on the Circulation of the Blood," British Medical Journal, 1966, 2 , 7-12
Herbert Schendl, "William Harvey's Prelectiones Anatomie Universalis(1616): Code-Switching in Early English Lecture Note," Brno Studies in English, 35(2009): 185-198
Code-Switchingは、辞書によれば、一言語体系から他の言語体系へ切り替えることとあります。シェンドルさんが扱っているのは、ハーヴィの講義ノートにおけるラテン語体系から英語体系への切り替えです。医学史・科学史の観点から研究しているとこういう観点はつい見逃してしまいますが、興味深い切り込みだと思われます。Walter Pagel, "Review: William Harvey, De Motu Locali Animalium(1627). Edited, translated and introduced by Gweneth Whitteridge, Cambridge University Press, 1959." Medical History 4(1960): 361-362.
Walter Pagel, "Review: William Harvey, Lectures on the Whole of Anatomy, an Annotated Traslation of Praelectiones Anatomiae Unversalis. by C.D. O'MAlley, F.N. Poynter, K.F. Russell, University of California Press, 1961." Medical History 7(1963): 89-90
Walter Pagel, "Review: The Anatomical Lectures of William Harvey, Praelectiones Anatomie Unversalis. De musculis, edited with an introduction, translation and notes by Gweneth Whitteridge, Edinburgh and London: Livingstone 1964." Medical History 9(1965): 187-190
ともかくまずはパーゲルと思い、この3点の書評を読んでみました。労をねぎらうものとなっています。17世紀初頭の講義ノートですから当然と言えば当然ですが、ハーヴィの解剖講義ノートは、相当の難物のようです。簡単には読み解けない文字を読み解き活字化してくれた仕事は真の偉業です。→次は、ホイットリッジの文章を読みました。
Gweneth Whitteridge, "Growth of Harvey's Ideas on the Circulation of the Blood," British Medical Journal, 1966, 2 , 7-12
(1966年3月16日ロンドンのハーヴィ協会で行ったハーヴィ講演の記録)
もしかしたら間違いはあるのかもしれませんが、これはすばらしい整理です。事実を正確に確定しようという意図と努力がすばらしい。すこしずつノートをとります。p.7 『心臓の運動』(1628)出版以前に書かれ、今に伝わる3つの草稿はすべて出版された。1)解剖講義(1619)、2)筋肉に関する講義(1619)、3)動物の運動に関する論考(1627)
(ハーヴィは1619年にはじめて腕と足の解剖について講義した。筋肉に関するノートは、この内容によく合致するので、2)の筋肉に関する草稿が1619年に執筆されたとする想定は十分受け入れることができる。)p.7 解剖講義は、最初、1616年4月16日、17日、18日の3日にわたって行われた。
p.8 200年以上続く公開解剖講義の伝統。3日連続。初日、腹部下部。中日、腹部中部上部、心臓と肺を含む。最終日、頭部と脳。
1620年から1627年にかけてハーヴィは毎年一般公開解剖講義を行った。(1621年と1625年が例外)。こうした講義でハーヴィは同じ講義ノートを使った。パドヴァの影響はおおきいとみなければならない。
パドヴァでは(検屍)解剖にかなり立ち会っていると考えることができる。またロンドンに帰ってきてからも(検屍)解剖に立ち会っていると考えられる。
ハーヴィがパドヴァ留学中、クレモニーニがアリストテレスの『自然学』、おそらく『霊魂について』『生成と消滅について』講義をしていた。
ハーヴィのベイコン評:「ベーコンは大法官のように哲学を書く」は、パドヴァの伝統と比較すると理解することができる。
p.11 講演に欠けるのは、動物実験。(人間の死体解剖では、心臓の動きも血液の動きも見ることはできない。)
p.12 解剖講義ノートは、本文への書き込みにも関わらず、ハーヴィの公的顔のみを表す。それは彼の私的な実験ノートを示さず、医師会のメンバーに証明した内容を明らかにはしない。
→ 13.2.11 講義ノートへのもっとも問題となる書き込みは次です。"WH It is certain from the structure of the heart that the blood in perpetually carried across through the lungs into aoruta, as by two clacks of a water bellows to raise water"
WH はWillam Harvey 自身の書き込みを意味するハーヴィの略語です。「WH 心臓の構造から、血液が水フイゴの2つの舌が水を押し上げるのと同じように、肺から大動脈へと常に運ばれているのは確かだ。」
ホイットリッジの結論は、要するに、解剖講義ノートは、定説・古い説を学生に示すためのものであって、研究発表のためのものではない、とまとめることができるでしょう。講義が基本そういう性格のものであることは間違いありません。
しかし、自分の目でみて確かめることをもっとも重視するハーヴィが解剖講義を繰り返したとき、定説と異なること、自分の目で見て違うと思ったことを書き込むことはありえます。たとえ講義ではそのことを言わないにせよ、ありえます。
さらに、この先は純粋な推測になりますが、ずっと気になっていること(ここでも心臓の運動の実際)をつい脱線して話すことはありえるように思います。
つまり、ホイットリッジの講義ノートという位置付けに間違いはないが、繰り返された講義の場合、そのなかに自分の考え、疑問、発見、新しい現象を説明するアイディアを書きつけたとしてとくに不思議ではないように思われます。17世紀初頭であってもそうだと思われます。ハーヴィの講義ノートと格闘し、活字化したホイットリッジの判断は尊重されなければならないが、その過程で思いこみが生じることもありえ、やはり我々はそうした判断にも批判的に対応しなければならないということだと考えます。なお、上記の書き込みの日付に関しては、ホイットリッジの考察が正しいでしょう。最初の講義(1616)のときではなく、ずっと後からの書き込み。
ひとりおくれて7時45分、室温12.4度。朝練のあるおおきいちびはもうでかけていました。中学校は学校公開日。ちいさいちびはまだ下にいませんでした。わおー、今日も寒い。室内でも寒い。外は相当に寒そうです。妻は学校公開日なので、9時過ぎに出かけていきました。お昼前に受付の仕事があると言います。マフラーでも何でも見に巻くものをもっていくように言いました。
妻は3時前に、おおきいちびは3時過ぎに帰ってきました。さいたまスーパーアリーナで開催されるマユユの握手会に間に合います。すぐに着替えて、ママといっしょに飛び出しました。
→受付は4時半までとなっていたのに、最後の高崎線がのろまで、さいたま新都心駅に着いたのは4時29分だったそうです。諦めかけていたのですが、前の男の子4人が走ったので、たぶんこれだと思い、ついて走ったら、受けつけてくれたそうです。妻は先に走るおおきいちびを見失いそうになったと言っていました。
おおきいちびはいろいろ言葉を考えていたようですが、緊張した何も話せなかったと言っていました。[月沢「解剖学者ハーヴィの方法」]
月澤美代子「W・ハーヴィのアナトミアと方法」『日本医史学雑誌』47(1)(2001): 33-81
3つのテキストにしぼって分析しています。
1.「心臓の運動について」:ロンドン医師会(月澤さんは「ロンドン医師協会」と表記されていますが、一般的な表記を採用します)にむけて書かれた解剖学的論究
2.「講義準備」(これは私の訳です。月澤さんはただPrelectionesとだけ表記されています):ラムリ講義の準備ノート
3.ボーアンの『解剖学劇場』:ハーヴィPrelectionesの底本。初学者用の解剖学講義テキスト
ハーヴィの生存当時に出版されたテキストでは、『動物発生論』の序文(これは、ハーヴィが、自身の方法論・学的認識論をきちんとまとまった形で論じた唯一のテキストだということです。)
論考の目的の部分は、そのまま引用します。「ハーヴィ自身の言明を分析することにより、医師協会主催の解剖示説講義という、一定の相互了解の成り立つ空間において、テキストの注釈からの離脱としての、「Scinetia(学知)の獲得に至る、新しい、より確かな道」を模索しつつ、新しい「方法」を形成していくハーヴィ像を統一的に描き出そうとするものである。」(p.41)
「結語」の部分も、そのまま引用します。「ハーヴィが示したのは、古代ギリシャの知に由来するテキストの注釈に基づく既存の概念枠・説の擁護、あるいは、既存の概念枠・説どうしの調停から離脱し、「自己の説」を他者に対して「教える」新しい「方法」であった。これは、「見ること」に認識論上、特権的な身分を与える「方法」であり、アリストテレス的形式論理に基づく論証に代わって、観察主体の前に具体的な事物を提示することに大きな位置付けを与える「方法」であった。
この「方法」は、解剖講義教科書という形式内部で書かれたボーアンの"Theatrum Anatomicum"の記述、すなわち、一般的な通説に対する批判が、医師協会主催の解剖学示説講義という、当該時代としては、きわめて特殊な了解のかわされる空間を通過して、医師協会員に向けて書かれた exercitationesという新たな形式の内部に整序させられる過程で形を整えていった。」(p.66)もう何点か確認しないと月澤さんの論点が正確には理解できません。
exercitationesとは?:「Exercitationesとは、論述の形で、自ら主張したい一定の説を、既存、または想定される対論から擁護しつつ、その正当性を主張していく形式である。」(p.39)
注には、French(1994)と月澤(1995)を挙げています。
ラムリ講義とは?: 1582年、ラムリ卿がロンドン医師会に寄付した講義であり、1)外科医に対し、医師会所属の医師が6年間で1コースとなる解剖講義、ならびに2)毎年行われている解剖示説、のふたつからなる。解剖示説には、ラムリ講義のものとは別にロンドン医師会は、1565年以降、会員(だから医師)にむけての解剖示説を隔年毎に行った。(p.42)
ハーヴィは、1618年以降、この2種類の解剖示説講義を引き受けた。その準備ノートがPrelectionesである。この草稿を解読・研究・英訳したウィットリッジによれば、Prelectionesは長年にわたって書き加えられ、欄外余白には実際の講義の体験が赤インクで記入されている。(p.42)
ということであれば、Prelectionesは、解剖示説講義ノートと訳してよいと思われます。そう訳した方がすっきりと理解できると思います。
そして、ボーアンの著作(『解剖劇場』)はその底本。すなわち、講義ノート作成時に一番大きく依拠した教科書ということになります。授業のタネ本と言ってよいでしょう。
ひとりで6時15分、室温10.5度。予報によれば、最高気温が7度。またまた寒い日に逆戻りです。
起きてすぐに餅つき。20分程度水切りをしてから、器械にかけます。
おおきいちびが起きてくる直前に仕上がりました。冬の間はずっと餅つきをすることになりそうです。長女の誕生日。誕生日プレゼントはずっと前にリュックを買ってもらっています。ママといっしょにでかけたときちょうどよいリュックがあったようです。バスケットボールというのも言っていましたが、家では使うことができないのでもうしばらく様子を見ることにしました。その代わりというわけでもないのですが、妻がおいしいケーキを新宿で買ってくることになりました。フルーツいっぱいのがよいということです。
医学史家の鈴木氏に質問したところ、Andrew Wear の編集本・著作と、The Western Medical Tradition, 2 vols をおしえてもらいました。
手元で捜すと、次の2冊が見つかりました。Roger French and Andrew Wear (eds.),
The medical revolution of the sevneteenth century
Cambridge: Cambridge University Press, 1989
Table of Contents :
"Medicine, religion and the puritan revolution" by Peter Elmer
"Harvey in Holland: circulation and the Calvinists" by Roger Fench
"The matter of souls: medical theory and theology in sevneteenth-century England" by John Henry
"Mental illness, magical medicine and the Devil in northern England, 1650-1700" by David Harley
"Passions and ghost in the machine: or what not to ask about science in seventeenth- and eighteenth- century Germany" by Johanna Geyer-Kordesch
"Thomas Sydenham: epidemics, experiment and the 'Good Old Cause'" by Andrew Cunningham
"The medico-religious universe of an early eighteenth-century Parisian doctor: the case of Philippe Hecquet" by L. W. B. Brockliss
"Isaac Newton, George Cheyne and the Principia Medicinae" by Anita Guerini
"Physicians and the new philosophy: Henry Stubbe and the virtuosi-physicians" by Harold J. Cook
"The early Royal Society and the spread of medical knowledge" by Roy Porter
"Medical practice in late seventeenth- and early eighteenth century Enland: continuity and union" by Andrew WearOle Peter Grell and Andrew Cunningham (eds.),
Religio Medici: Medicine and Religion in Seventeenth-Century England
Aldershot: Scolar Press, 1996The Western Medical Traditionについては、遠からず入手しようと思います。
さて、今日は、平井浩氏の駒場科学史講演会。ちょうどよいので図書館で作業をすることにしました。
おっと、その前に澤井さんが次の論文を送ってくれました。これは大感謝です。
澤井さん、たすかります、ありがとうございます。
月沢美代子「W・ハーヴィのアナトミアと方法」『日本医史学雑誌』47(1)(2001): 33-81駒場には2時半に着きました。寒い。気温が低い上に風が吹いて寒い。駒場図書館は久しぶりです。やるべきことが多くあります。欲張っても仕方ありません。できることをやります。文献調査とコピーとり。
お腹が空いてきたので5時で切り上げ、生協へ。文房具を少し買い、同時にカレーパンに似たパン(正確に何であったかは忘れました)も買って、生協食堂の外のテーブルで食べました。この程度の寒さはまあなんとかなります。
それから講演会場へ。前もそうでしたが、場所が分かりづらい。
平井さんの講演、その後の質疑応答が終わったあと、ちょうど前に座られた澤井さんに感謝のことばを述べてから、疑問におもっていたことを何点か質問しました。
ひとつは月沢さんの博士論文です。上の『日本医史学雑誌』に掲載された論文(附論はあったかも知れないそうです)で順天堂大学から医学博士号を取得されたということです。ですからこれの他に博士論文本体といったものはないそうです。ちなみに、澤井さん自身もそのようにして医学博士号を取得されたということです。
医学博士号がすこし独特なのは知っていました。これで納得です。医学博士という肩書きに魅力を感じるので、外部の人間も申請できるのか聞いてみました。それは受けつけていないということです。
今日は来ると言ったいた鈴木晃仁氏にも挨拶し、ベーコン研究者の方とすこし雑談してから、帰途へ。誕生日ケーキはおいしかったそうです。それはよかった。落ち着いてから、月沢さんの論文を読みました。なるほど、これは月沢さんのハーヴィ研究の到達点です。
そして澤井さんによれば、月沢さんはこの論文のあと、西洋医学史から離れたということです。今は日本や東洋のことを研究されているということです。
ひとりで6時10分、室温9.7度。昨日、今日で、1号の編集作業をほぼ終えました。残るは表紙の写真だけです。写真に関しては担当者の連絡待ちです。
雑誌(学会誌)作成の最後の作業は、表作成です。元気なときにはなんてことのない作業ですが、疲れてくるとこれがけっこう負担です。5限は、卒論演習の打ち上げコンパ。完全に学生まかせになりました。それぞれがよいと思うものを持ち寄ります。
9時前まで。久しぶりにワインと日本酒を飲みました。片づけにいくらか時間がかかって、帰宅したのは9時50分。なんとおおきいちびが床の上で寝かけています。ついうとうとしたのでしょう。起こして上でちゃんと寝るように言いました。餅米が水につけています。おおきいちびがやはりお餅が欲しいというので、朝アマゾンに注文したものです。夜には届いたようです。これで明日の朝、黒砂糖餅をつきます。小学1年生はすこし食べます。ちいさいちびはほとんど食べません。
ひとりで6時、室温12.4度。いつとは正確にはわかりませんが、夜半から雨の音。予報ほど気温が下がらず、雨となったようです。窓を開けて外をみると郵便受けの上にうっすらと氷状のものが積もっています。上空の雪が地面につくまでにほとんどとけたのでしょうか。
→小学1年生が7時前に起きてきました。再び外を見ると前より白い。雨は雪に変わっています。そして、時間が経つと地面も白くなってきました。うっすらと積もる感じです。会議の日。3限の時間帯。
大学では今日も数点卒論を読みました。採点はまだ着手する気持ちになりません。会議終了後、挨拶だけしてすぐに帰途に着きました。生理学史
原子力と検閲
事典・辞典の歴史
上の2つだけではなく、最後のものも久しぶりに更新しました。[月沢さんのハーヴィ研究]
生物学史家の林さんに、次の論文が月沢さんのハーヴィ研究の到達点を示していると教えてもらいました。
月沢美代子「W・ハーヴィのアナトミアと方法」『日本医史学雑誌』47(1)(2001): 33-81
まだ入手していません。ウェブで調べてみると、月澤美代子さんはこの論文(のもととなった論文?)で医学博士号を取得されています。知りませんでした。
月沢さんの博士論文を読みたいと思います。どなたか貸していただける方、いないでしょうか?
ひとりで5時45分、室温12.4度。強い風が一晩中吹いていました。基礎演習は本日が15回目。すなわち、最終回。
→なんとか無事に終了しました。はじめてなので、すべて試行錯誤でした。
今学期の授業そのものは、これにて終了。後は、採点や成績の転記が残っています。今日は卒論を数点読みました。今夜から明日の早朝にかけて大雪が降るかもしれません。警報が出た場合は、休講というメールが流れました。
妻におくれて6時20分。室温12度。すぐにゴミをだすため外にでましたが、土曜日の暖かさがまだすこし残っている感じがします。朝練のあるおおきいちびがすぐに起きてきました。昨日の練習で筋肉痛だと言っています。月曜日の授業は今日が最後。
帰宅すると、次の2冊が届いていました。
Francis Gotch, Two Oxford Physiologists: Richard Lower 16312-1691, and John Mayow 1643 to 1679, Oxford, 1908
Thomas Wright, William Harvey: A Life in Circulation, Oxford University Press, 2013
→ 最初のゴッチのものは、40頁の小冊子です。Oxford University Extension Summer Meeting, 1907 と表紙にあるので、夏の学校のような形で開催されたときの配布物ではないかと想像します。p.40 の注を見ると、ウッドに多く依拠しています。ウッドの目から見たローワーとメーヨーとして価値があるのではないでしょうか。[中村禎里『近代生物学史論集』 論点整理]
思いつくまま、論点整理を試みます。1.ハーヴィが心臓をポンプ/フイゴに喩えたとして、ハーヴィの考え方は全体として機械論とは言えない。
これはまさにその通りです。このこと自体は最初に確認されるべき事柄ですが、考慮すべき点が残ります。通史における古い見方の残存です。このモメントは非常に強く、中村さんの時代も今もハーヴィの心臓運動論を機械論としてデカルトと同時に紹介する文章は圧倒的多数です。
もう1点は、ハーヴィのデカルト説への対応です。中村さんの記述によれば、ハーヴィはデカルトの批判を受けて、よい出発点にたった自説をのちに変更します。後知恵で言えば、半分古い説に逆戻りしてしまいます。デカルトの提示した全体的な機械論の強力さを考えることができるかもしれません。2.ハーヴィ自身の思考・思想における揺らぎや変化
揺らぎや変化は誰にでもあることです。しかし、ハーヴィの場合、根本において揺らぎや変化が見られます。
ハーヴィ「限られた知識しかもちあわせていない人たちは、あることの原因をどうしても説明できないばあいに、ちゅうちょなく、それが精気によってなされていると考える。こうしてかれらは、精気をあらゆる場面にもちだしてきて、それにすべての原因の役割をおしつけるのである。」 (p.131)
中村さんはこの非常に印象的なことば(そして我々がつい同意してしまう見方)をハーヴィの『血液循環について』(1649)から引用します。W. Harvey, Excercitationes duae Anatomicae de Circulatione Sanguinis (1649), tr. by K. J. Franklin, Blackwell Scientific Publ. (1958), p. 37. (注の表記法は中村さんのものをそのまま写しました。)
しかし、ハーヴィは『動物の発生』において「[心房の]拡張は、精気をふくむためにふくれあがった血液によってひきおこされる(第51論)」(p.137)と言っている。半分は古い説に逆戻りしている。
ひとりの個人における思想の揺らぎや変化という視点だけではなく、根本的でありつつ、不安定な「精気概念」という観点も必要でしょう。
デカルトへの対応としては中村さんは次のようにまとめています。「この時期[『血液の循環』(1649)のころ]のハーヴィの説は、精気が姿をけし、それが熱でおきかえられた点で『動物の発生』時代の見解と異なり、熱の本源が心臓にではなく血液じたいに存在するとしている点でデカルト説と異なっている。しかし、拡張が周期的収縮のあいだの休止状態であると考えた旧説の比べれば、心臓運動論に関するかぎりこの三つの立場は全く同じ型に属する。ハーヴィは自説と通説との折衷をこころみ、さらに精気を追放することによってデカルトに答えたのであり、こうしてここでも、デカルトをつうじて、当時うつぼつと興りつつあった機械論自然観の影響を受け入れる結果となったと考えることができる。」 (pp.140-1)
さらにハーヴィは、「内在する熱こそが・・・摶動の第一の動因である」と言っています。(Harvey, Excercitationes duae (1649), p.63)
ここでは、「内在熱」がふたたびところを得ているように見えます。
息子とほぼ同時で7時、室温13.7度。息子は目覚めた瞬間、節分おめでとうと言っていました。節分の豆まきが大好きです。
新聞を取るためドアを開けると外の空気は冷たい。室温が昨日を保っているだけのようです。[中村禎里『近代生物学史論集』]
この本のハーヴィに関する部分は読みました。1950年代、1960年代、1970年代の価値ある仕事です。今となってはもうそこは敵としなくてよいと思われるところもあります。それは半世紀も前のものですから、仕方ないでしょう。
目の前にあった実験(観察)事実は何か、そこから考えたことは何か、年代あるいは思想家毎のこういう整理・分析が必要です。中村さんはクーンが嫌いなようですが、ハーヴィ以降を分析するためには、科学者共同体(関心を共有する研究者共同体)の視点は必須です。金森さんが言われる社会史的分析が必要です。そして、中村さんの研究成果をそうした社会史的分析に接続することは可能ですし、求められていることでもあります。
1630年代、ハーヴィにとってもデカルトにとっても、心臓には神経がないと見えていた。
1664年のウイリス、心臓に迷走神経、交感神経、回帰神経が分布していることが確認された。(p.244)この時代までの古代から繋がる前提:神経には、動物精気が流れている。そして動物精気が運動を引き起こす。(p.230)
ハーヴィにとってずっと。『動物の発生』(1651)で例示。ニワトリ等の胚発生において血液が最初に出現すること、死につつある動物で心臓が止まっても血液がかすかに運動していること、冬眠中の動物では心臓が止まっているのに生きていて血液を含むこと。→血液中心説。(p.192)
ところがハーヴィには心臓中心説も残存していた。血液中心説と心臓中心説の併存。『心臓と血液の運動』(1628)(p.193)
第4章「他の部分が現われる前に、*動する血液の滴点が出現する。滴点が大きくなると・・・・、そこから心房が形成される」
第17章「我われは、心臓の優位性についても、アリストテレスの意見に賛成しなければならない。・・・最初につくられた心臓によって、自然は、動物全体が形成され、養育され、完成されるよう・・・意図する。」
顕微鏡観察。ハーヴィは顕微鏡を使っていない。ロウアーは、顕微鏡によって、発生の順序において、心臓より先に血液ができるのではないことを見て取った。(p.230)
1665年のロウアーは、ハーヴィの発生順序を支持した。しかし、『心臓論』(1669)では、胚発生初期における血液の運動は、血液を取り巻いている膜による、そして心室が死んだあとの血液の揺動は、血管の局所的収縮による。ヘンリー・パワーは、『実験哲学』(1664) においてニワトリ胚では血液の運動が始まるまえに二心室二心房の心臓が完全に出来上がっていることを指摘している。 (p.255)
p.256 にロウアーが行った実験が列挙されている。その結果、ロウアーは、1)静脈血が心臓において熱せられて動脈血に変わるというデカルト説(1659年のウイリス説)を拒否し、2)動脈血と静脈血の差違を認めない1649年のハーヴィ説を否定した。(p.257)
おおきいちびと同時に7時20分。よく寝ました。室温は、13度を超えています。暖かい。今日だけ4月の気温になるそうです。最低気温10度、最高気温20度という予報でした。日曜日は普通のこの時期の気温に戻るそうです。気温の落差が大きいので風邪にはきをつけないと。[中村禎里『近代生物学史論集』]
息子と帰宅すると次の本が届いていました。
中村禎里『近代生物学史論集』みすず書房、2004
これは私には必要な書物でした。「あとがき」と「ウィリスとロウアーの生理学説―とくに心臓運動論について」だけまず読みました。あとがきには、これまでの調査に欠けていた事項がありました。「ウィリスとロウアーの生理学説」はよい論文です。
「あとがき」で中村さんは次のように言います。「生物学の近代化は、数学的方法の採用によってなりたったのではない。特定の基本理論(たとえば物理学でいえばニュートンの法則など0の定立とともに、時代を画したのでもない。また特定の自然観のみと結びついていたわけではない。生理学・生物学における分析的思考法は解剖学に起源し、実験的方法は動物の生体解剖に由来する。」(p.371)今回の私の調査に関係するのは、II ウィリアム・ハーヴィ研究 と III ハーヴィをめぐる人たち、 です。
II ウィリアム・ハーヴィ研究
ウィリアム・ハーヴィ
ハーヴィとその生理学説
ハーヴィ その生物学史上の地位
ハーヴィ研究の現状
III ハーヴィをめぐる人たち
フランシス・ベーコンにおける生物学思想
デカルトのハーヴィ評価
ロウアーの生理学
ウィリスとロウァーの生理学説――とくに心臓運動論について
機械論的生命観の系譜と現状章立てよりも初出の方が今は意味があります。
「ウィリアム・ハーヴィ」『医学選粋』19(1979): 11-15
「ハーヴィとその生理学説」『科学史研究』68(1963): 145-149, 69(1964): 18-25
「ハーヴィ その生物学史上の地位」『生物学史研究ノート』10(1964): 1-13
「ハーヴィ研究の現状」『生物学史研究ノート』16(1969): 1-14
「フランシス・ベーコンにおける生物学思想」『生物学史研究』14(1968): 1-5
「デカルトのハーヴィ評価」『科学史研究』103(1972): 114-117
「ロウアーの生理学」『生物学史研究』21(1972): 1-6
「ウィリスとロウァーの生理学説――とくに心臓運動論について」『科学史研究』114(1975): 55-66
「機械論的生命観の系譜と現状」『看護展望』1(1976): 75-80次は、「ハーヴィ研究の現状」(1969)を読みました。1957年がハーヴィ没後300年にあたり、ハーヴィに関する1次資料の出版が引き続いたとあります。次です。
K.J. Franklin (trans.), De Motu Cordis, Blackwell, 1957
K.J. Franklin (trans.), De Circulatione Sanguinis , Blackwell, 1958
C. D. O'Malley et al (trans.), Prelectiones Anatomiae Universalis, University of California Press, 1961
G. Whitteridge (trans.), Prelectiones Anatomiae Universalis, Livingstone, 1964
G. Whitteridge (trans.), De Motu Locali Animalium, Cambridge University Press, 1959
R. Willis (trans.), The Works of William Harvey, Johnson Reprint, 1965私が血液中心説と述べた点も明確に主張されています。「まずハーヴィは、発生過程における血液の始源性を認めた。この知見が血液中心説に誘う。一方彼は、精気の概念の重要性に疑問をもつ。ちょうどその頃、デカルトの「熱機関説」が出現した。ハーヴィの晩年の心臓運動論は、「熱機関説」と血液中心説の交配によって誕生したと思われる。」(p.196)
ハーヴィ没後300年の12年後の時点で気になった先行研究は、ウェブスターのものがあります。
Charles Webster, "William Harvey's Conception of the Heart as a Pump," Bull. Hist. Med. 39(1965): 508-517
一般的にハーヴィは心臓をポンプに喩えたとして知られています。原語は、サイフォンということです。これはポンプではなく、「水フイゴ」を指している。従って、正確には、心臓水フイゴ類比と表現すべきである。(p.177)
では、水フイゴとは何か?
まず、ポンプとしてもっとも普通なのは、押し上げポンプであった。(今でもたまにみかける井戸水を押し上げるポンプです。公園や学校では万が一のために飲料水には適しませんという表示で残っていることが少なくありません。日本語では、汲み上げポンプでしょうか。)「固定した円筒のなかを弁つきのピストンが上下することによって」水を地下から汲み上げる仕組みとなっている。「一方水フイゴは、柔軟な弁と伸縮性の本体をもった装置であり、古代から冶金のためにつかわれていた風フイゴの改変物」(p.178)である。心臓は、ポンプよりも水フイゴに似ている。
ウェブスターは、17世紀初頭の「サイフォン」の語義を探る。当時、「サイフォン」はひとつはほんとうのサイフォン、もうひとつは消防用のポンプ装置に使われていた。これは、「革のフイゴによって連結された二つのベル状の真鍮の容器を本体とし、金属性の導管を上のベルの頂点から斜上方に突出させている。この装置は半分だけ水に浸され、底の弁をとおって水を内部に入れる。上のベルの内部にも弁が配置され、水が導管にむかうことを可能にしている。テコによって下のベルが上下し、フイゴが圧縮されるごとに、水が導管から斜上方に投射される。」(p.180) ウェブスターは、ハーヴィの「サイフォン」はこの装置を指すと推定し、この種の消防ポンプがロンドンに出現したのが1626年以降であるから、ハーヴィが心臓と水ポンプ=消防ポンプとの類似性に気づいたのは、1626年より後であると主張した。
私が引っかかったのは、ここです。後でウェブスターの論文そのものを読んで検討しますが、この種の技術史的事項(消防ポンプが1626年以降にロンドンに現れた)が正確に決定できるものでしょうか?
まず第一に「消防ポンプ」そのものは、クテシビオスの名前で知られるように、古代ギリシャからあります。ヨーロッパでどのように使われたのかは知りませんが、どういう種類の道具であれ、1626年にロンドンに初めて出現したというのはなかなか言えることではありません。(その可能性がゼロとは言いませんが、相当に難しいように思われます。)
この点の疑問は残りますが、ウェブスターは必要は作業をしたということは言えます。→「消防ポンプ」そのものの歴史が気になりました。部屋中を探し回って、ヨハン・ベックマンの『西洋事物起源 III』の記述が一番詳しいかなと思うようになりました。もし、よい文献を知っている方がいらしたら是非お教え下さい。
個人的には、ハーヴィの使った「サイフォン」は「消防ポンプ」でよいのではと考えるようになっています。ともあれ、この点はもうすこし調べてみます。→ 13.2.3 調べる前に考察します。
仮にウェブスターの言っていることが本当だとします。そうではあっても、ハーヴィが自著に「サイフォン」という言葉を使うためには、ロンドンにそうした装置が実際に設置されている必要はないでしょう。
ハーヴィはよく知られているように、パドヴァに留学し医学博士号を取得しています。イギリスに帰ってきて、医師会の会員となった後も、オランダに行っています。海外で実物を見た可能性を考える必要があります。
それよりも何よりも、クテシビオスの「消防ポンプ」は紀元前2世紀に発明されています。それ(サイフォンと呼ばれた)がどう使われたかは、ベックマンでもほとんど謎とされていますが、17世紀前半、ゲーリケ、ショット(その後ボイルやホイヘンス)が真空ポンプ(空気排出ポンプ)を作ったとき、空気排出の原型となったのは、「消防ポンプ」以外にありえません。書物でそうした装置を見て知っていた可能性を排除するのは原理的に非常に難しい。不可能に近いと言えるでしょう。
それにハーヴィは、新規な装置・物珍しい装置としてではなく、当たり前の装置として「サイフォン」(その言葉で彼が何を念頭に置いているにせよ)を挙げているように思われます。フランシス・ベーコンも、ヘロンのPneumatica は使っています。最初のラテン語訳は、Spiritali の語のもと、1589年に出版されています。別の訳が1592年、1595年に出版されています。ロバート・バートンが1621年出版の『憂鬱の解剖』で "de spiritalibus" に言及しています。
ハーヴィがこの書物そのもの、あるいはこの書物から派生する何らかの情報を知っていたとしても、まったく不思議ではないと思われます。→ 自分のサイトを検索しました。2010年5月8日と14日にヘロンの『プネウマティカ』を項目として取り上げています。よく読まれたラテン語訳は、コマンディーノ訳のSpiritalium Liber,1575; Paris, 1583 です。Pneumatica と言う語は、ポルタが使っています。(出版は1601年。)
夜半に目覚めてすこし仕事。本日2回目の起床は、7時20分。妻、おおきいちび、小学1年生は起きていました。ちいさいちびだけ遅くなっています。
2つのファイルを更新しました。
生理学史
原子力と検閲
後半の更新は久しぶりです。更新の際に、過去の備忘録を読み返します。すっかり忘れていることがあります。ノートをとっていても忘れるのですから、とらなかったものは一体どこに行ってしまうのでしょうか。→忘れていたのは、生理学史の先頭に追加した部分です。すなわち、次の論文を読んだことを忘れていました。
澤井直「ウィリアム・ハーヴィの発生論『すべては卵から』」『ルネサンス研究』6(1999): 59-74
澤井さんは、Exerc. 62 を使っています。これも英訳でざっと読みました。やはり澤井さんの論文で予想したことと印象が違います。ひとつはハーヴィの文体の問題だと思います。デカルトなら絶対こういう書き方はしないでしょう。ただし、前と同じですが、ハーヴィの主張そのものは明快です。アリストテレスはこういうが、私はこう考えるとはっきりと書いてます。→ハーヴィの動物発生論の構成をきちんと見ておく必要があります。
医学博士、ロンドン医師会解剖学外科学教授ウィリアム・ハーヴィによる
『動物の発生に関する解剖学的演習:分娩、子宮の膜と液体、受胎に関するエッセイを付す』(ロンドン、1651)
エント医師による序
序文
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