夜半に目覚めてすこし仕事、暑いと思ったら、室温は24.4度まで上がっていました。今日はまだ暑いままのようです。10月に入ったら、秋の気温にもどるようです。
2回目の起床は、6時45分、室温23.4度。小学生は10分後に起きてきました。今日は3限4限5限6限。集中講義の最終日。
9時42分に武蔵境駅に着きました。電車はでたばかりです。駅の外にでて昼食のパンを買い、9時54分武蔵境発の電車で大学に向かいました。印刷センター、教室と回ってから、研究室へ。
ネットでの文献調査、ダウンロードを行いました。気になった論文はその場で読みました。読んだのは次の2点。
Tenney L. Davis, "Pictorial Representations of Alchemical Theory," Isis, 28(1938): 73-86
Michela Pereira, "Alchemy and the Use of Vernacular Language in the Late Middle Ages," Speculum, 74(1999): 336-356
デイヴィスのものは、この時代であればこうでしょう、という論文です。錬金術の2元説(イオウとスイギン、男性原理と女性原理、太陽と月、等々)と中国の陰陽説の類似を説いています。
ペレイラの論文は勉強になりました。きちんと1次資料を数多く読み込んでいる方の研究はいずれにせよ意味のあるものです。
ほかに、画面上で、ユング説への批判(ウィリアム・ニューマンを中心とする)と再反論を読んでいました。ユングの錬金術解釈に対して、歴史家からする本格的な批判はどうもオブリストを嚆矢とするようです。オブリストは、ユングの錬金術解釈は非歴史的であると批判します。それはそのとおりです。ユングは歴史家ではありませんし、ユングの理論的立場からすれば狭義の歴史的研究というのは彼には意味をなさないものだと思います。ユングは最初から超歴史的な場所に立ちます。歴史家が超歴史的な立場にたってしまうと歴史家である存在根拠を失うことになりますから、学問の前提において折り合いがつかないとまずは理解しておく必要があるでしょう。
しかし、そうは言っても、ユングの影響は絶大ですから、歴史家としておさえるべき点はきちんとおさえる作業は必要かと思います。論争史の分析・整理は行う価値があります。ちょくちょく教室に顔を出しながら、上記の作業を続行。
6限に残ったのは、3割程度でしょうか。やはり10名を切ったあたりで、男子学生の姿が消えました。最後の子は、7時10分に最終レポートを提出。
片づけをして、7時28分多磨駅発の電車で帰ってきました。
ひとりで5時20分、室温22.8度。朝練のあるちいさいちびを6時10分に起こします。本日は、2限3限4限5限。その間に、講習会と科研費の研究発表会(私は発表しません)があります。
息子は、運動会の振替休日。ママといっしょに寿司屋に行くそうです。
おおきいちびがでかけてからすぐに私もでかけることにしました。8時42分武蔵境発の電車。本日のレスポンスシートを教室にまず持っていって、教室の様子を確認しました。さすがにまだ照明もついていませんでした。
その後、研究室ですこし片づけをしてから、9時50分に教室に入りました。TA のSくんを含め、数名来ています。医科歯科の先生方はみなさんはやい。10時前にお見えになりました。私は、教室の様子をずっと見ていました。部屋にやってくる学生ですが、10名までは全員女子学生。どうしてでしょう? ちょっと不思議な気がしました。
10時を過ぎるとパラパラと学生が入ってきます。10時10分、1分以内で開始の挨拶だけして、あとは医科歯科の先生にお任せしました。その時点では、まだ来ていない学生が一定数いたような気がします。(ざっとした見積もりでは、10時10分の開始に遅刻した学生が2割程度ではなかったかと思っています。)
そのまま図書館へ。本を一冊返却し、取り置きにしてもらっている図書をすこし読みました。今日のスケジュールからしてずっとライブラリーワークというわけには行きません。一度研究室に戻り、生協が開くと同時に昼食をとって、また部屋で整理を続行。初日2日目のレスポンスシートを出席簿に写す作業をしました。数をしっかり数えたわけではないのですが、20〜30名程度が放棄しています。2時から情報セキュリティの講習会。226教室が教職員で満杯になっていました。動員をかけたせいです。
それが終わってすぐに研究所へ。科研費の研究発表会。6時終了予定が7時を大きく超えました。私は、一度5限終了前に101教室に向かい、本日の終了処理の打ち合わせをTA としてから発表に戻りました。
同僚のお二人の先生の発表。ロシアとドイツ。自分では手のでない分野です。とても勉強になりました。
お二人の発表ともに、別々の意味で懐かしいものでした。
ひとりで6時10分、室温21.7度。久しぶりに全員がのんびりできる朝です。午前中に用事のあるものがいません。ひんやりした空気も風の音もほんとうに秋らしくなりました。7時半現在、息子だけが起きて下にきています。
昨日に続き、好天。日射しが玄関に入ってきます。
ひとりで3時45分、室温23.3度。[小学校の運動会]
小学校の運動会です。出場は息子のみ。ちいさいちびは午前練(練習試合ということです)。おおきいちびは塾。お弁当の準備があるので、6時に起こして欲しいと妻には言われています。
→妻は、6時、ちいさいちびは6時15分に起こしました。小学生は、6時15分前に自分で起きてきました。快晴。絶好の運動会日和になりました。→9時前に妻、おおきいちびといっしょに家をでました。おおきいちびはそのまま塾へ。われわれは運動会。ちょうどよいときに行ったと思います。
これまではずっと2人が出ていました。あっちを見たり、こっちを見たり、けっこう忙しかったのですが、一人だと余裕があります。午前中に一度帰ってきて、一休み。小学校の運動会ではお弁当は手渡しです。お弁当をもって再度でかけ、お昼休み前の競技を見て、お昼に帰りました。
昼食後、再々度でかけました。息子が一番張り切っていた踊り(ソーラン節)をデジカメに収めたあと、私は先に家に戻りました。ちいさいちびが練習から帰ってくる可能性がありました。(ちなみに、妻がビデオで撮影、私がデジカメ撮影。妻はバスケの試合を撮ってビデオに慣れています。おおきいちびもそうです。)
妻は、終了を確認してから帰ってきました。ちいさいちびはすこしだけ遅くなりましたが、午後の自主練には参加せず帰ってきました。
ひとりで3時10分、室温24.6度。台風崩れの温帯低気圧が連れてきた暑さがまだすこし残っています。妻と入れ替わりに大学に向かいます。1時半前後。
→2時18分武蔵境発の電車に乗ることができました。授業は2時20分に始まっています。 TA の院生にはあらかじめ連絡をしているので、教室は覗くだけ覗いて、研究室に行きました。片づけ続行。マシーンの配置を変えることにしました。複合プリンターを導入したことによる玉突きです。
終了は3時50分。3時25分に教室に行きました。終了処理中でした。登録した学生数は150名弱ですが、実際に授業にでてきているのは100名前後だと思われます。
暑くて疲れたので、レスポンスシートの整理ができたら、帰ってきました。
帰宅すると、東大駒場から大きな書類が届いていました。東京大学大学院総合文化研究科の履修案内、便覧、授業内容の3冊、および案内の小冊子です。午後7時前後、おおきいちび、ちいさいちびと続いて帰ってきました。おおきいちびは、バスケの練習に久しぶりに参加しました。引退した3年生として呼ばれたようです。2人を除き、全員が参加したそうです。足がつったが楽しかったということです。
[SGU結果判明]
お昼過ぎ、大学の執行部が気に病んでいたSGU (Super Global Universityをこう略すそうです)の申請にパスしたニュースが出ていました。グーグルニュースで見ました。当日の内に大学はホームページで掲載していました。
「トップ型」には、北から順番に北大、東北大、東大、名大、京大、阪大、九大の旧7帝大(帝大はほんとうは9つありました。台北と京城です)がすべて選ばれています。トップ型に選ばれたのは、帝大以外では、筑波、東京医科歯科、東京工業の首都圏の3大学(筑波はもちろんもとは東京教育大)に、広島大学です。私立では早稲田と慶應。
目立つのは、一橋が落ちていることです。新聞はそういう解説はしていませんが、大学執行部のごたごたが響いたのではないかと思われます。
(一時、5大学連合とか4大学連合とか言われた大学のなかでは、一橋だけが落ちています。次に何があるのかわかりませんが、抜群の政治力を発揮して巻き返しをはかるのは必然だと思われます。)
「グローバル化牽引型」には、東京外国語大学と東京芸大を含め、全部で24校が選ばれています。目立つのは、奈良、長岡、豊橋の技術科学大学、京都工繊、国立では他に千葉、岡山、熊本のみ。つまり、首都圏の大学では、(もしかしたら申請していない大学が含まれる可能性もありますが)一橋、東京農工大、電気通信大学、東京海洋大学、御茶ノ水、学芸大が落ちています。教育系には極めて冷淡な結果と言えるでしょう。(筑波は、もと東京教育大だが、今は教育系とは言えません。)
ちなみに、私は個人的に大学の SGU 申請には関与していません。アンケートには回答しましたが、そのぐらいです。実施の際にどうなるかは正確にはわかりませんが、小さな関与ですむのではないかと思っています。
ひとりで5時15分、室温24.3度。台風がくずれた温帯低気圧が暖かい雨を連れてきたのでしょうか、すこし気温が上がっています。
[9月卒業の卒業式]
9時過ぎに大学へ。まず、明日の集中講義の準備をすこしだけ行いました。
それから研究室ですこし片づけ。10時から9月卒業生のために卒業式がさくらホールであります。5分前には着席するようにしました。ずいぶんこぢんまりとした集まりでしたが、教員は、学長、研究科長、学部長代理、ほか副学長2名、副研究科長等えらいひとが来ていました。学生の方は、院生を含めて、ざっとみた感じ、20人〜30人程度。
私は式をどうこうする立場にはありませんが、この人数ですからもっと打ち解けた時には笑いのある式でもよかったように思います。
すぐに終わって、挨拶。ゼミの卒業生一人と、その卒業生のお友達と生協で昼食。朝方は傘が必要だったのですが、正午にはまるで夏空のようにきれいに晴れてきました。気温も上がったようで暑い。
研究室にもどり、やはりすこしですが片づけを行いました。新学期がはじまるときまでには模様替えとしたいと思っています。
暑さのなか、3時過ぎには帰宅。すぐに妻もママランチ会から帰ってきました。
ひとりで5時15分、室温23.4度。
会議もあります。集中講義もあります。いろいろあります。
→9時42分武蔵境発の電車で大学へ。まず、授業のためのスキャン。研究所で30分ほど。それから生協で昼食。副科長といっしょになりました。
101教室に行って、集中講義の準備。去年と同じく、医科歯科の先生は、かなり早めにお見えになります。事務的用件を2〜3分の時間をもらって学生諸君に伝えてから、無事スタートしたことを確認した上で、研究室に戻りました。あとは、TA に任せます。
先週研究室に入れた複合プリンターですが、最後、カラープリンターの機能を確かめました。もちろん問題なし。他のものと比較したわけではないので、カラーの品位は不明です。
研究院教授会は、2時20分から。90分の予定が、3時間を超えました。教室のことが気になるので、私は3時間で会議室を出て、教室に向かいました。6限の前、やはり2分程度をもらって、レスポンスシートの提出方を学生諸君に伝えました。
研究室に戻り、荷物を置いてから、帰途。6時4分多磨駅発の電車に乗り込みました。帰宅すると、おおきいちびはお風呂、小学生は夕食の直前でした。いっしょに夕食を食べてから、私もお風呂。すこしですが、むしむしした一日でした。
ひとりで5時30分、室温22.8度。秋分の日で休日。ちいさいちびは朝から練習試合。三鷹に行くということです。昨日と同じような空模様。[駒場の授業]
本年度も昨年と同じく駒場の冬学期に「相関基礎科学特殊講義」をもちます。時間割は去年と同じく、金曜日5限。たぶん教室も同じです。(8号館8-324と表示されていますが、2回目以降14号館308に変えてもらうつもりです。)→14.9.24 新しくメールで通知された資料では、8号館113教室となっています。紙の資料は来週にでも送ってくれるのでしょう、たぶん。
まずは、スケジュールだけ確認しました。
初回:10月10日
2回目:10月17日
3回目:10月24日
4回目:10月31日
5回目:11月7日
6回目:11月14日
7回目:11月28日
8回目:12月5日
9回目:12月12日
10回目:12月19日
11回目:1月9日
12回目:1月23日
13回目:1月27日(振替で火曜日となっています)
スタートが10月の2週目となること、11月21日が駒場祭で休講となること、最後が振替で火曜日となること、この3点が不規則性です。もしかしたら国立大学で一番遅い2学期スタートかもしれません。[外大2014月曜日2学期]
次のようになります。
10/6
10/20
10/27
11/11
11/17
[外語祭 11/19-25]
[11/26水曜日だが月曜日の授業を行う]
12/1
12/8
12/15
12/22
[1/15木曜日だが月曜日の授業を行う] 1/19
1/26
2/2
2/9
2回、不規則な部分があります。11月26日(水曜日)と1月15日(木曜日)です。ともに月曜日の授業を行います。[外大2014木曜日2学期]
次のようになります。
10/2
10/9
10/16
10/23
10/30
11/6
11/13
[外語祭 11/20]
11/27
12/4
12/11
12/18
12/25
1/22
1/29
2/5
こちらは一日他の曜日に振替になりますが、比較的順調なスケジュールとなっています。
ひとりで3時40分、室温23.1度。まだ夜のうちということもありますが、雰囲気はすっかり深い秋です。朝練のあるちいさいちびと妻を6時15分に起こしました。曇り。どんよりとしています。→時間が進むと、ほぼ快晴です。大きな雲は見当たりませんが、空全体に薄い白をのばしたような空模様になっています。
ひとりで5時40分、室温20.8度。起きたら、空気がひんやりしています。そんなにすぐには動かないでしょうが、室温が20度を下回りそうです。昨日の編集委員会の宿題は、ありがたいことにあまり多くありません。半日ですませることができました。
MMA の講義が終わったので、そろそろ2学期に向けて、準備が必要になります。まずスケジュールだけ確認しました。最近は、不規則なところが必ずあるので、きちんと確認しておかないと教師が間違えて格好のつかないことになる懼れがあります。
MMA の講義の際に書いてもらったレスポンスシートですが、整理をした上で、全部を読みました。偏見だな、と思うコメントもありましたが、非常に貴重なコメント(医療従事者でなければ知り得ないファーストハンドの情報)を書いてくれている方がいました。これはとてもありがたい。片づけをしていて、数日前にダウンロードしてプリントした次の論文が見つかりました。
Robert Hooke, "A Contrivande to Make the Picture of Any Thing Appear on a Wall, Cup-Board, or within a Picture-Frame, & c. in the Midst of a Light Room in the Day-Time; Or in the Night-Time in Any Room that is Enlightened with a Considerable Number of Candles; Devised and Communicated by the Ingenious Mr. Hook," Phil. Trans. Vol. 3(1668): 741-743
フックはここで "camera obscura" という用語も、"dark room" or "darkened room" という用語もまったく使っていません。Ahmed H. Zewail, "Micrographia of the twenty-first century: from camera obscura to 4D microscopy," Phil. Trans. A Vol. 368(2010): 1191-1204
最初にこの論文は38の論文を引用しているが、そのうち13は無料でアクセスできるという文章があります。やるな。
4次元の電子顕微鏡というのは最近の発展のようです。なるほど、今はここまで進んできているのかということがわかるレビューです。
→14.9.22 画像を見てみたかったのでウェブで検索をかけました。日本語では、アハメッド・ズウェイルと表記されています。1999年、フェムト秒化学の功績に対してノーベル化学賞を与えられています。エジプト出身では最初の科学分野のノーベル賞受賞者ということです。4D microscopyはほんとうに最近の発展のようで、日本語ではちょうどよい解説を見つけることができませんでした。
画像検索、動画検索で、映像そのものは簡単に見つけることができます。
ひとりで3時10分、室温23.1度。
いきなり早くなったのは、昨日の2コマ続きの授業の興奮が残っているせいです。昼食前、むすこの自転車の練習に付き合ってやりました。原っぱ公園まで。公園で走るというのでそれも付き合ってやりました。もちろん私は走りません。ただ歩きます。1周したところで、ぱぱ、おそー、と息子がやっていました。遊具のある場所でしばらく遊んでから帰宅。私にもちょうどよい運動になりました。
本日は、午後編集委員会と科研費の会合。いつものように東工大(梶さんのところ)に行きます。
→東工大には3時15分前に到着しました。編集委員会は定刻通り。その後の科研費の会合は、4時15分開始、6時40分頃終了しました。
予想通り、ちいさいちびのあと、おおきいちびの前に帰宅するとまだ誰も風呂に入っていないということで、私がまず入浴しました。その後夕食。
子どもたちは録画したお笑い番組を見ていました。
寝相の悪い息子に頭突きされて4時45分、室温22.1度。曇りのようです。
その息子は6時半に起きてきました。*夕刻医科歯科の講義がありますが、明日の編集委員会のために大学に行く必要が生じました。武蔵境10時半の電車で大学へ。まず、入試課によって書類を提出。その後図書館に行って、本を1冊返却し、1冊借り出しました。
研究室へ行って、メールボックスに入っていた書類を確認し、それから水曜日に入れたばかりの新しいプリンター複合機のもうひとつの機能を試しました。スキャナー。パソコン側からスキャナーが見えます。書類を入れろという指示がでました。来週の集中講義の書類が手元にあったのでそれを入れてみました。まったく問題なくスキャンし、pdf で表示されます。大きさは A4までですが、私の用途ではほぼ十分です。
11時半、生協で昼食をとってから、今度はすこし多めのものをスキャンしてみました。それでも大丈夫でした。
まだ試していないのは、カラープリンターの機能ですが、それは新学期になってからでも問題ないでしょう。[献本:堤 憲太郎『スイスと日本の近代化学』]
本日メールボックスで東北大学出版会の方(担当の高橋さん、ありがとうございます)から次の書物を書評用に献本いただきました。明日の編集委員会で書評を担当いただける編集委員の方に手渡します。
堤 憲太郎『スイスと日本の近代化学: スイス連邦工科大学と日本人化学者の軌跡』東北大学出版会、2014
目次は次の通りです。
第1章 スイスという国
第2章 連邦工科大学(ETH)の設立と有機化学の教授たち
第3章 日本人留学生と日本の近代化学
第4章 アルフレッド・ウエルナ−と柴田雄次
第5章 留学生たちの帰国に向けて
第6章 日本の近代化学
第7章 その後のスイス連邦工科大学(ETH)と有機化学
第8章 九つのトピックス
おわりに
帰途、武蔵境で駅の外にでて、パンと自転車のためのチェーン鍵を購入しました。帰宅すると、娘達がいます。おおきいちびは、何かの委員で打ち合わせがあると言います。ちいさいちびは久しぶりの部活。
4時を過ぎてから、入浴と夕食をすませ、5時過ぎにでかけました。西荻窪と御茶ノ水の間は、電車では30分かかりません。20分前に御茶ノ水の駅につきました。コンビニのよることも考えたのですが、そのまま講義室に向かいました。M&D棟13階大学院講義室2というのが目当ての部屋です。ドアが要所につくられている構造で、いつ行ってもすこし迷います。今回は入り口の警備の方に、行き方をすぐに聞きました。何かがあったのか、諸所に人が配置されています。7〜8分前に部屋につくと、すでに数名の出席者がいました。TA の方が書類の準備をしてくれています。判子を2箇所に押して、時間が来るのを待ちました。スタートの時点では、半分を下回っていたと思いますが、最後は登録者はほぼ見えていたようです。
全員のレスポンスシートを受け取り、TA の方(学部生とのことでした)の方の案内で外にでました。9時を過ぎるとドアが開かなくなるということで、外まで案内してくれました。
さっさと動いたので10時前に帰宅することができました。ちびどもはテレビを見ていました。猿の惑星:創世記、です。最後までいっしょに見てから就寝しました。
ひとりで6時、室温23.1度。ちびどもは定期考査の初日。朝のうちは曇り。時間が経つと晴れ間が多くなりました。
7時前に起きて下に降りてきた息子は、寒いと言います。空気がひんやりとしています。このひんやり感は今年はじめてです。さて、明日は1年に1度の集中講義。この形は今年が最後になります。来年からは、西谷先生の担当していた授業(4日連続)を私が担当し、こちらは別の方に譲ることで話がついています。
ともあれ、午前中に明日の準備。90分2コマを連続して講義するためには、けっこうちゃんとした準備が必要になります。5時から45分間、息子が近所の児童館で開かれるダンス教室に通っています。4時過ぎに私の部屋に来て、もじもじしながら自転車と言います。前から自転車を買ってあげるという約束があります。これまでは買いに行こうかと言ってもまだよいと言っていたのですが、11月にある自転車教室の前に欲しくなったようです。
4時50分自転車の後ろに乗せて、南児童館まで送りました。5時40分に迎えに行き、自転車に乗せたまま、駅前の自転車屋さんに向かいました。当初は、荻窪か吉祥寺のセイユウに行こうかと思っていたのですが、すでに暗い。息子は自転車には乗れますが、まだそれほどうまくはない。知らない暗い道をはじめての自転車で、というのがちょっと心配だったので、いくらか高くなりますが、近所の自転車屋さんが安心かという判断になったものです。
サドルをいっぱいに下げてちょうど足がつく大きさのものにしました。小学生の男の子が一番多く乗っている種類の自転車です。
いろいろで30分ほどかかったでしょうか。そろりそろりと帰ってきました。
ひとりで4時30分、室温25.2度。昨日は30度近くまであがったようですが、今日はまた涼しさが戻ってくるようです。→窓を開けると、7時現在、23.8度まで室温が下がりました。外は、20度前後まで下がったようです。午後に会議。
→今日の予定は、正確には、12時から学生との面談(書類に判子を押します)、2時に生協の方がプリンターを納入してくれます、そして4時から会議(説明会)。
他の用件もあるので、10時過ぎに家をでました。10時半武蔵境発の電車。入試課、図書館によってから研究室へ。
図書館では ILL で届いていた次の本を受け取りました。楠川さんを中心とするグループは、必要な研究をちゃんと進めてくれています。
Sachiko Kusukawa , Ian MacLean (eds.), Transmitting Knowledge: Words, Images, And Instruments in Early Modern Europe, (Oxford-Warburg Studies) , 2006
目次は次です。
Richard Scholar: Introduction
1: Sven Dupré: Visualization in Renaissance Optics: The Function of Geometrical Diagrams and Pictures in the Transmission of Practical Knowledge
2: Catherine Eagleton: Medieval Sundials and Manuscript Sources: The Transmission of Information about the Navicula and the organum ptolomei in Fifteenth-Century Europe
3: Sachiko Kusukawa: The Uses of Pictures in the Formation of Learned Knowledge: The Cases of Leonhard Fuchs and Andreas Vesalius
4: Christopher Lüthy: Where Logical Necessity Becomes Visual Persuasion: Descartes's Clear and Distinct Illustrations
5: Ian Maclean: Diagrams in the Defence of Galen: Medical Uses of Tables, Squares, Dichotomies, Wheels, and Latitudes, 1480-1574
6: Alexander Marr: The Production and Distribution of Mutio Oddi's Dello squadro (1625)
7: Adam Mosley: Objects of Knowledge: Mathematics and Models in Sixteenth-Century Cosmology and Astronomy
8: Isabelle Pantin: Kepler's Epitome: New Images for an Innovative Book
9: Volker R. Remmert: 'Docet parva pictura, quod multae scripturae non dicunt.' Frontispieces, their Functions, and their Audiences in Seventeenth-Century Mathematical Sciences
Index書類を読んでいるうちに11時25分になっていました。生協に行って昼食。帰ってきてやはり書類を読んでいると面談の学生が見えました。話を聞いて、書類に判子を押しました。
生協の方は、2時前に来てくれました。複合機です。けっこう大きい。置く場所をつくっていなかったので、部屋の前に置いてもらいました。
それから泥縄で部屋の片づけをし、ともかくプリンター複合機の置く場所をつくりました。久しぶりの肉体労働。汗が吹き出しました。プリンターは28キロの重さがあります。ちょっと力を入れる必要がありました。それでも3時には何とか設置することができました。プリンター機能とコピー機能を確認して、今日はこれまでとしました。
それから研究所に行ってスキャン。
スキャンが終わってすぐに会議室に行きました。事務の方がほぼ総動員されていました。私のまとめでは、学長の支援に文科省のお役人が来て話をした、となります。問題はほんとうは別の所にあることは、ものを考える人であればみんな気づいていると思います。
こういう会議は長引きません。5時4分多磨駅発の電車に乗ることができました。多磨駅でこれから韓国に研究調査に行くという同僚の方といっしょになりました。ちゃんと韓国人の留学生の方がアテンドしてくれるということです。
ひとりで5時35分、室温24.1度。室温はだいたいこのあたりで落ち着いてきたようです。
日が昇ると、よい秋晴れとなりました。妻も午後でかけるので、やはり私がひとりでお留守番となります。ひとりで留守番をしているときに次の本が届きました。
Leah DeVun
Prophecy, Alchemy, and the End of Time: John of Rupescissa in the Late Middle Ages
New York: Columbia University Press, 2009 (Paperback edition, 2014)
目次は次です。1.導入、2.キリスト教世界の証明、3.ルッペシッサのヨハネスの終末のビジョン、4.錬金術:理論と実践、5.術者と術、6.隠喩と錬金術、7.自然の終わり、8.結論[事典における Camera Obscura]
百科全書における「カメラ・オブスクラ」の記述は有名です。チェンバーズの『百科事典』にもこの項目があるということです。私が調べるのであれば、ジョン・ハリスの『百科事典』を見る必要があるでしょう。
第1巻の方に項目があります。
DARKENED Room: See Obscura Camera
Dark Tent, is the Term which some Writers give to a Box made almost like a Desk with Optick Glasses, to take the Prospect of any Building, Fortification, Landskip, & c. This is a Portable Camera Obscura, or Darkened Room : See the Description under Obscura Camera.
ということで、ハリスは、"Obscura Camera" で項目を立てています。(ノンブルがないので)pdf では、543−5。1.5頁を使っています。この長さは重視の証です。
「光学におけるオブスクラ・カメラは、暗い部屋であり、一箇所だけ小さな穴が開けられていて、その穴にはレンズが付けられる。その穴を通して、対象の光線が一枚の紙または布の上に投射される。しかし、これによって視覚の本性を説明するのに役立つ、光学におけるとても有用な実験がなされる。そのなかでは、つぎのものが特別に記述するのにふさわしい。」
最後にフックの『王立協会哲学紀要』第3巻(1668)の論文が取り上げられています。Mr. Hook, "A Contrivance to Make the Picture of Any Thing Appear on a Wall, Cub-Board, or within a Picture-Frame, &c. in the Midst of a Light Room in the Day-Time; Or in the Night-Time in Any Room That is Enlightned with a Considerable Number of Candles; Devised and Communicated by the Ingenious Mr. Hook, " Phil. Trans., Vol. 3(1668), 741-743
タイトルには、"Obscura Camera"あるいは"Camera Obscura"も"Camera Lucida"もありません。
→これでわかること。ハリスはこの記事の典拠を挙げていませんが、ボイルと同じ表現「暗くされた部屋 darkened room」をとっています。"Obscura Camera"の項目はあってそこで "Camera Obscura" の説明はしていますから、"Camera Obscura" という術語は普及していたことは伺えますが、その用法が確定していたわけではないと言えるでしょう。また「暗いテント」を項目として挙げていることも注目に値します。チェンバースも見てみました。E. Chambers, Cyclopaedia (1728), p.143
CAMERA OBSCURA, Dark Chamber, in Opticks, a Machine or Apparatus, representing an Articificial Eye ; whereon the Images of External Objects are exhibited distinctly, and in their native Colours; either invertedlye of erect. See Artifical Eye.
カメラオブスクラの最初の発明は、バプティスタ・ポルタに帰されている。
その後、カメラオブスクラの用途、理論、制作、携帯型カメラオブスクラの制作、別種の携帯型カメラオブスクラ、という項目が説明されています。ハリスよりもずっと整理された記述となっています。
もう1点目立つのは、「人工の眼」という観点。これが器具をみる中心的観点となっています。ツァーンの書物の力でしょう。
「人工の眼」をみよという指示があるので、見ました。何と「目」を見よ、とあります。仕方がないので、「目」を見ました。力の入った記述になっています。最後に、人工の眼があります。
Atificial Eye, is an Optical Machine, wherein Objects are represented after the same manner as in the natural Eye ; of considerable in illustrating the manner of Vision.
この文章があってから、あと3パラグラフ、説明が続きます。
息子が起きて6時前、室温24.4度。曇り。今日はずっと曇りの予報。敬老の日。朝練のリズムが身についているのでしょうか、ちいさいちびが6時過ぎに起きてきました。テスト前なので、朝練も普通練もしばらくありません。
Barbara Obrist, "Views on History of Medieval Achemical Writings," Ambix, 56(2009): 226-238
金曜日に駒場に行った目的の中心、バルバラ・オブリストの論文をやっと読みました。中世錬金術を理解するための見通しを与えてくれるよい論文だと思います。とくに、ロージャー・ベーコン、ヴィラノヴァのアルノー、ルッペシッサのヨハネス、という3人のフランシスコ会聖霊派(アルノーは修道士ではなかったが、強い結びつきがあった)が錬金術にもたらした新しい要素は、それとしてしっかり視野に入れておく必要があります。午後、次の本が届きました。
フィリップ・ステッドマン
『フェルメールのカメラ:光と空間の謎を解く』
鈴木光太郎訳、新曜社、2010
ルフェーブルが推薦すり第1章「カメラ・オブスクラ」だけまず読みました。とても安心できる記述です。この長さの記述としては日本語で読める最良のまとめではないでしょうか。
ポイントを整理しておきます。
暗い部屋での太陽の観測。図に示された最初が、フリシウスの『天文学と地理学の基本』(1558)。1544年の日蝕の観測が図で示されている。
レンズ付きのカメラ・オブスクラを最初に記したのは、おそらくジローラモ・カルダーノ。『精妙なるものについて』(1550)で、"ガラスの円盤"(orbis e vitra)という言葉を使っている、これはおそらくレンズを指す。しかし確実ではない。
レンズ付きのカメラ・オブスクラに関する初期の明確な記述は、2つ。1.ダニエル・バルバーロ、1568年に出版した遠近法の解説書。2.ベネデッティの1585年の著作。45度に鏡を置くことで、上面に像を写すカメラ・オブスクラについて記述している。
一時カメラ・オブスクラの発明者とされたデラ・ポルタについて。この誤解は『自然魔術』がよく読まれたせい。初版では、ピンホールカメラについて触れている。1589年の版では、記述を大幅に増補し、レンズの使用と像の転倒を正すことについて記述している。
ケプラーは、1600年頃、1つはデラ・ポルタの本より、もう一つはティコ・ブラーヘからこの装置について知った。『ウィテロ補足』(1604)と『屈折光学』(1611)でこの装置について触れている。ケプラーは、転倒像の矯正に鏡ではなく、二つの凸レンズ(すなわちケプラー式望遠鏡)を用いた。
17世紀半ばには、カメラオブスクラは、天文学者によく知られていただけではなく、自然魔術に関する一般的著作や遠近法の解説書のなかでも比較的ポピュラーであった。
持ち運びできる(portable)箱形のカメラオブスクラに関する明確な記述が最初に現れるのは、1657年であり、図示されるのは1670年代にはいってから。
ホイヘンス父は、イギリスで発明家ドレベルと知り合い、ドレベルの発明品の一つ、携帯用カメラ・オブスクラを購入してオランダに持ち帰った。そして、知り合いの画家達に見せた。フェルメールの25年前に、カメラ・オブスクラに慣れていた画家が存在し、すくなくても1点はほぼ間違いなくカメラ・オブスクラを使った絵(トレンティウス『静物』1614)が存在していた。
(ドレベルが制作し、ホイヘンス父がオランダに持ち帰った箱形カメラ・オブスクラについて図が存在すれば一番よいのですが、ないようです。ただし、ホイヘンス父は、手紙で何度もこの装置のことを書いていて、17世紀前半の貴重な資料となっています。)
用語について。暗くした部屋(今の用語では部屋型カメラ・オブスクラ)について、"Camera Obscura"という用語を(おそらく)はじめてもちいたのは、ケプラーである。Johannes Kepler, Ad vitellionem Paralipomena, Frankfurt, 1604, Index &Johannes Kepler, Dioptrice, Augusburg, 1611, p.16
ただし、"Camera Obscura"という用語が広く使われるようになったわけではなかった。科学における表象・図表示の問題は、まえからきちんと勉強しようとおもっていたテーマです。少なくともこの先2〜3年をかけてじっくりと勉強します。金曜日に駒場でコピーをとってきた次の論文によって、コレクトすべき文献をリストアップしていきます。
Christoph Lüthy and Alexis Smets, "Words, Lines, Diagrams, Images: Toward a History of Scientific Imagery," Early Science and Medicine, 14(2009): 398-439
Brian S. Baigrie (ed.), Picturing Knowledge: Historical and Philosophical Problems Concerning the Use of Arts in Science, Toronto, 1996
Ursula Klein (ed.), Experiments, Models, Paper Tools: Cultures of Organic Chemistry in the Nineteenth Century, Stanford, 2003
Wolfgang Lefèvre, Jürgen Renn and Urs Schoepflin (eds.), The Power of Images in Early Modern Science, Basel, 2003
Christoph Lüthy, De draad van Ariadne: een pledooi voor de wetenschapsgeschiedenis, Nijmegen, 2007
Renato G. Mazzolini, Non-verbal Communications in Science Prior to 1900, Florence, 1993
Isabelle Patin, "Simulachrum, species, forma, imago: What was Transported by Light into the Camera Obscura? Divergent Conceptions of Realism Revealed by Lexical Ambiguities at the Beginning of the Seventeenth Century, " Early Science and Medicine, 13(2008): 245-69
Christoph Lüthy, "Atomism, Lynceus, and the Fate of Seventeehth-Century Micoroscopy," Early Science and Medicine, 1(1997): 1-27
Sachiko Kusukawa and Ian Maclean, Transmitting Knowlege: Words, Images, and Instruments in Early Modern Europe, Oxford, 2006
Alan E. Shapiro (ed.), Kepler, Optical Imagery, and the Camera Obscura, 2008= Early Science and Medicine, 13.3(2008)
ひとりで5時35分、室温23.1度。薄曇りの晴れ。→時間が経つと、見事な快晴となりました。[久しぶりのピアノの発表会]
午後すぐに息子のピアノの発表会。はじめてなのでやはり緊張するそうです。おおきいちびは朝から塾。おおきいちびを除き、全員で見に行って、私とちいさいちびが先に帰ってきます。天候が許せば自転車で行く計画です。
雨の心配はないようです。おおきいちびは7時台にでかけました。我々は11時半ぐらいでしょうか。
→予定は変更になりました。まず妻がひとりで出かけました。バスです。息子はバスが嫌だと言ったので、私が自転車で会場まで送っていきました。会場の入り口のところで先に着いていた妻に引き渡しました。
そのまま自宅に帰ってしばらく休憩。ちいさいちびになおのピアノの発表会を見に行くかと聞くと、今日はよいと言います。1時スタートなので、12時50分には間に合うよう、12時30分に今度は一人乗りの自転車で出かけました。自転車置き場が心配だったのですが、十分あいていました。
第1部だけを見て、また帰宅。友達と遊んだせいでしょう、朝は緊張すると言っていた息子は、比較的落ち着いてピアノを弾いていました。小3ですから、演奏時間はたったの1分。
3時半過ぎに電話があったので、今度は最初と同じ自転車で迎えに行きました。会場に着いたら、ちょうど外にでてきたところでした。
そのまま後ろに乗せて帰宅。ママが帰ってきたら、お祭りに行くと言います。2日連続となります。やむなし。4時半過ぎに荻窪八幡さんに連れていってやりました。昨日より人出がある感じでした。
妻、小学生に続いて、7時。室温22.9度。服が難しい。夏の格好だともちろん寒い。でも、ちゃんと長袖を着ると暑い。妻には、この時期、いつも風邪を引いていると指摘されます。夏の強さはありませんが、太陽の光も玄関に射し込んでいます。ちびどもは、土曜日学校。同時に学校公開。妻は、見に行くと言っています。午前中は私と息子でお留守番。
中崎昌雄「カメラの原型「カメラ・オブスキュラ」(暗箱写生器)発達小史」『中京大学教養論叢』32(2)(1992): 293-343
典型的な紀要論文ですが、情報を網羅しようとしてくれているので、有用さはあります。科学史で有名な人物が頻出します。アリストテレスからはじまって、アルハーゼン、ロジャー・ベイコン、ウィッテロ、ケプラー、キルヒャー、ボイル、フック、ニュートン、プリーストリー、ファラデー等々。
ボイルから。ボイルは『宇宙的性質』(1669)で「portable dark room」に触れているとあります。
飛び道具を使ってもよいのですが、まずは実直に全集の索引から。
camera obscura 6:294-5; 12:442 in Leiden 2:13
つまり3箇所。
最初の箇所が当該箇所です。全集(著作集では)第6巻のp.295の上から3行目に"this portalbe darkned Roome" があります。表現は、「portable dark room」からわずかにずれています。「はじめてこれを使ったとき、その(像の)動きだけではなく、形も色もとてもいきいきとしていて、非常に楽しかった」とボイルは記しています。
第12巻のp.442 は、『キリスト教徒のヴァーチュオーソ2』アフォリズム2の最後に、「光学の通じた者が窓をすべて閉じて部屋を暗くし、適当な大きさで凸レンズをはめた穴から光を入れるだけで」外の風景を映し出すことができる、ということが指摘されています。つまり、ボイルは "camera obscura" という術語を使っていません。レンズの使用は明確に記述されています。
第2巻のp.13は、『いくつかの自然学のエッセイ』です。"I remember, that being once at Leyden, I was brought to the Top of the Tower, where in a darken'd room (such as used in many places to bring in the Species of external Objects) a Convex glass, apply'd to the only hole by which light was permitted to enter, did project upon the large white sheet of Paper, held at a just distance from it, a lively representation of divers of the chief Buildings in the Town, "
ボイルの場合、レンズ付きの暗くされた部屋です。ボイルが体験したのはライデンの塔の最上階だったわけですが、各地に多くそうした部屋があるとボイルは言っています。
ボイルがライデンを訪れたのは、1648年です。17世紀半ばにはヨーロッパ中で流行を見ていたひとつの証左になると思われます。
→(darkened room をラテン語訳すれば、camera obscurentur になるかと思います。ボイルのラテン語訳でどうなっているのかも調べる必要があります。)
→ウェブには、ボイルとフックが「携帯型カメラ・オブスクラ a portable camera obscura 」を発明したという記述もあります。(写真史の本やWiki等、この記述はかなり普及しているようです。)
→事典の記述も見てみます。Robert Bud and Deborah Jean Warner (eds.), Instuments of Science: An Historical Encylopedia には次のようにあります。Kircher, Ars Magna(1646) は肩に担いで運ぶことのできるa portable camera obsucura について記述している。キルヒャーの弟子のひとり、ショットは、Magia Universalis (1657)でちいさな携帯型カメラ・オブスクラ a portable box camera obscula について触れている。ボイルは、1669年彼自身が組み立てた類似の装置について記述している。最初の a portable reflex camera obscura に対する言及は、Johann Christoph Sturm, 1676である。1685年、ヨハン・ツァーンは、数種類のsmall reflex box camera についてイラストを載せている。
→うーん、どこかでボイルとフックが携帯型カメラ・オブスクラを発明した/制作したという誤解が生じ、広まったようです。
次はフック。
フックが「カメラ・ルシーダ」 "camera lucida" という術語を造ったというのは誤伝だとあります。
フックは、1668年8月17日、王立協会で読んだ報告では、一種の幻燈に触れている。
1680年1-2月に光に関する講演で発表したものは、「携帯用暗箱」でった。フックはそれを視覚の原理説明の器具として提示した。
17世紀の集大成は、Johann Zahn (1641-1707), Oculus artificialis, 1685
『人工の眼』。フルタイトルは、 Oculus artificialis Teledioptricus Sive Telescopium, ex Abditis rerum Naturalium & Artificialium principiis protractum nova methodo, eaque solida exlpicatum ac comprimis e triplici Hundamento Physico seu Naturali, Mathematico Dioptrico et Mechanica, seu Practico stabilitium (p.325) ツァーン『人工の眼』のイラストを見るだけで「この1685年以後カメラは写真術への準備を確実に整えていた」(Gernsheim)という主張に賛成したくなるだろう。
→ということで、グーグルブックでこの書物をダウンロードしました。確かに、図版がしっかりしていて、これは使えます。この分野は、2次文献が豊富です。
マックスプランク科学史研究所(Max-Planck-Institut für Wissenschaftsgeschichte)の研究文献に、Wolfgang Lefèvre (ed.), Inside the Camera Obsucura: Optics and Art under the Spell of the Projected Image, 2007 というpdf があります。これは助かります。実力者を揃えた論集なので、安心して使うことができます。
編者のルフェーブルは、次の3点が基本だと言います。
P. Steadman, Vermeer's Camera, Oxford University Press, 2001
J. Waterhouse, "Notes on the Early History of the Camera Obscura," The Photographic Journal, XXV/9(1901): 270-290
J. H. Hammond, The Camer Obsucura: A Chronicle, Adam Hilger, 1981→2014.9.14 『写真雑誌』(1901)はすぐには入手の方法が見つからなかったのですが、1つ目と3つ目のものは邦訳があります。
ハモンドの方は、書評を書いています。ステッドマンの方は、2010年に新曜社から出版されています。すぐにアマゾンに発注しました。原著ですが、ペーパーバックが品切れ中です。キンドル版があったのでそちらをダウンロードしておきました。
ひとりで5時半、室温22.6度。ほんとうに秋らしい空になりました。やっとじめじめした空気から解放されるようです。ひさしぶりに図書館の作業に出ることにしました。10時過ぎに駒場に着くようにでかけました。駒場も秋休みのようです。10時の時点では生協も閉まっていました。
地下2階に直行して次の論文のコピーをとりました。
Barbara Obrist, "Views on History of Medieval Achemical Writings," Ambix, 56(2009): 226-238
Christoph Lüthy and Alexis Smets, "Words, Lines, Diagrams, Images: Toward a History of Scientific Imagery," Early Science and Medicine, 14(2009): 398-439
D. E. Eichholz, "Aristotole's Theory of the Formation of Metals and Minerals," Classical Quarterly, 43(1949): 141-46
そして次の小著の一部。
Avicennae de Congelatione et Conglutinatione Lapidum, Paris, 1927
古典の世界は、時にとても文字が小さい。3つ目の論文もぱっと見て読むのが辛い大きさでした。面積で2倍に拡大してコピーしました。短いものなので、帰りの電車のなかで読みました。
最後の本はパリで出版されていますが、英語の本です。アラビア語、ラテン語、英訳が含まれます。100頁に達しない小著です。
もちろん他の作業もできたのですが、1時間から2時間と決めていました。生協で文具をいくらか購入し、駅前のマルカでそばを食べて帰宅しました。夕刻、次の本が届きました。
ジョナサン・クレーリー
『観察者の系譜:視覚空間の変容とモダニティ』 遠藤知巳訳、以文叢書、2005(初版、十月社、1997)
初版を持っています。木曜日3限の講義で使っているので、確実にこの部屋か研究室のどこかにあります。しかし、探し出すことができていません。丸一日使う覚悟があれば探し出すことはできると思いますが、今の体調を考え、新版の方も買っておくことにしたものです。
すこしですが、この方面の研究論文も読み始めています。本日は電車のなかで次のものを読みました。
犬伏雅一「視覚と触覚:クレーリーのカメラ・オブスクーラモデル再考」『(大阪芸術大学紀要)藝術』27号(2004): 19-30→他に次のもの。
中崎昌雄「カメラの原型「カメラ・オブスキュラ」(暗箱写生器)発達小史」『中京大学教養論叢』32(2)(1992): 293-343
柳橋大輔「カメラにおける魔術:ヴァルター・ベンヤミンと媒質としての写真」『詩・言語(東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会)』59号(2003): 17-35
夜半に目覚めてすこし仕事。ひとり遅れて7時50分、室温24.1度。階段を下りていると、雨音。昨日の雨を思わせるような強い雨が降り始めました。空が不安定です。
強い雨はすぐに止みました。小雨は降っています。朝のうちに一昨日とどいたモデムのACアダプターの交換を行いました。J-COM から届いていたものです。車の場合のリコールに当たります。「モトローラブランドのケーブル・モデム用のACアダプターの一部が、過熱・変形する可能性がある」ということで、送ってきたものです。交換はもちろん簡単です。しかし私の部屋では交換するためには、本の山を片づけなければなりません。それが面倒でさぼっていました。
今回は、最小の移動にしました。探し出さないといけない本もあるのですが、先延ばし先延ばしにしています。10時18分武蔵境発の電車で大学へ。昨日さぼった書類の処理を優先しました。メールボックスで荷物を受け取ってから、4階まで。2枚提出。
それから研究室へ。どういうトラブルだったのか不明ですが、ネットは復活していました。繋がったので、これも昨日はできなかった仕事を行いました。
11時半頃、生協の購買部で『中央公論』の最新号(2014年10月号)を買ってから食堂へ。ほぼ決まって一番奥の麺コーナーに行きます。
研究室に戻ってから、やはり書類作成。2時4分多磨駅発の電車で戻ってきました。9月のスケジュールをほんとうに自分のための備忘録として記しておきます。
9月17日(水曜日) 会議(文科省から課長補佐の方が見えての説明会)
9月19日(金曜日) 御茶ノ水の医科歯科で、MMA の授業。6時から9時10分まで。
9月24日(水曜日)集中講義「くらしと健康」3限4限5限6限
9月26日(金曜日)集中講義「くらしと健康」(3限)4限5限
9月29日(月曜日)集中講義「くらしと健康」2限3限(4限)5限
9月30日(火曜日)集中講義「くらしと健康」3限4限5限(6限)
ちなみにこの授業の登録者数は、約150名です。( 正確には146名)。『中央公論』最新号(2014年10月号)には、特集「「文系」「理系」の埋まらぬ溝」があります。福岡伸一、 隠岐さや香、大竹文雄、永田和宏、4氏の論考と、丸幸弘・元村有希子氏の対談が掲載されています。
福岡さん、隠岐さんの論考は、昼食後、研究室で読みました。 隠岐さや香「なぜ学問は分類されてきたのか―文系・理系の世界史」は、科学史家が語るとおおよそこうなるでしょうというものでした。
むすこがもう6時50分だよと言って6時50分、室温24.1度。曇り空。私は会議の日。午前からずっとあります。
いつものように武蔵境駅前のパン屋さんで昼食のパンを買ってから、9時54分の武蔵境発の電車に乗りました。
事務的な仕事もあったのですが、先送りにしてそのまま研究室へ。ネットが繋がりません。無線だと接続できるが、有線では繋がりませんでした。
やろうと思っていた仕事は、ネットが繋がらないとできないので、部屋のなかで本を探して会議まで読んでいました。
11時スタートの会議は、すこし遅れてはじまりましたが、はじまるとすぐに終わりました。
午後の会議は1時から。これま15分以上遅れて始まりました。発表が長引き、連続した4つの会議が終了したのは、6時半すぎ。駅までダッシュして、6時40分多磨駅発の電車で帰ってくることができました。
大会議室でずっと座っていました。5時間半。4時前にバケツをひっくりかえしたような雨が降ってきていました。トイレに立ったときに気づきました。帰るときには止んでいましたが、湿度は残っていました。
ひとりで6時20分、室温23.0度。雨。昨日の雨がまだ続いています。こどもたちが学校に出かける頃には、雨が止み、晴れ間も見えるようになりました。雨が続くと太陽がうれしい。
[ 擬トマス・アクイナス『立昇る曙』]
バルバラ・オブリストのあげる『立昇る曙』Aurora Consurgens ですが、大橋さんに貴重な訳業があったことを忘れていました。2008年末から2009年にかけて大橋さんのブログに掲載されています。ほんとうに貴重な訳業です。
大橋さんは、Aurora consurgens, in Artis Auriferae, Basileae 1593 を使われています。Artis Auriferaeは以前ダウンロードしてストックしていますが、グーグルブックを検索してもう一度ダウンロードしました。この版に有名な図版はありません。
グーグルの画像で検索すれば、すぐに図版そのものは見つかります。きちんと調べたわけではありませんが、全部スキャンされてウェブにアップされているようです。
本としては、ユングの高弟マリー・ルイーズ・フォン・フランツが編纂し、フルとローヴァーが翻訳した『立昇る曙:トマス・アクイナスに帰される錬金術の対立者に関する著作:ユングの『結合の神秘』を補う著作』が出まわっています。アマゾンのレビューでは、このフォン・フランツ編の著作は、高い評価を勝ち得ています。日本の図書館に入っているのもこの版です。(ドイツ語と英語の両方で)
ということで、ユング『結合の神秘』(池田紘一訳、人文書院、1995)を棚から取り出して見てみました。原注の8(p.325)に次の言葉があります。
『結合の神秘』初版は最初の2巻が『結合の神秘』と題して出版され、第3巻として『立ち昇る曙光:錬金術における対立の問題に関するトマス・アクイナスに帰せられる一文書』=『立ち昇る曙光 I』(Lit. B-40)が出版された。本訳書はユングがいうところの第一部、すなわち『結合の神秘』第1、2巻の翻訳で、『立ち昇る曙光』は含まれていない。ドイツ語全集版にも当初は含まれていなかったが、のちに『結合の神秘』(全集第14巻 I、II)の「補巻」として追加された。
『結合の神秘 I 』の最後には、文献として錬金術テキスト集成が挙げられています。私がこのサイトで錬金術テキスト集成のリストを作成したとき、ユングのことはすっかり忘れていました。つまり、邦訳『結合の神秘』は見ていませんでした。
『結合の神秘 I 』文献で挙げられているのは、『錬金術論集 De alchemia』『化学の術Ars Chemica』『錬金の術叢書Artis Auriferae』『霊妙化学叢書Bibliotheca chemica curiosa』『ヘルメス博物館Musaeum Hermeticum』『化学の劇場Theatrum Chemicum』『英国の化学の劇場Theatrum Chemicum Britannicum』『ドイツの化学の劇場Deutsches Theatrum Chemicum』です。このあたりが基本です。
息子といっしょに6時57分、室温23.4度。曇り。なかなかすっきりとした秋晴れの日は訪れません。
朝練のあるちいさいちびはでかけていました。おおきいちびは鏡にむかって髪を整えていました。[ カミッロ『劇場のイデア』]
午前中に次の本が届きました。
ジュリオ・ カミッロ『劇場のイデア』足達薫訳、ありな書房、2009
9圧4日ローマの大橋さんに、カルターリ『神々の姿』第二部を頂いてから気になって調べていたことに関して、足達薫さんのカミッロ『劇場のイデア』訳業に出会い、アマゾンで購入したものです。
もとのテキストは、Givlio Camillo, L'Idea Del Theatro Dell'Eccellie, Firenze, 1550 です。
この訳書は、前半は『ジュリオ・ カミッロ氏の劇場のイデア』の邦訳(pp.7-190)、後半が訳者足達薫氏による「ジュリオ・ カミッロと記憶の劇場―その歴史的位置と構造」(pp.191-355)です。
足達さんは弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢(人文科学篇)』第7号(2002)〜第11号(2004)に「『劇場のイデア』のテクストの前半部分」を「雛形として掲載」されています。その半分はすぐにウェブで入手できます。
16世紀のイタリア語の著作『ジュリオ・ カミッロ氏の劇場のイデア』が日本語で読めるのは、すばらしいことです。[Barbara Obrist, "Visualization in Medieval Alchemy," 2003]
ちなみに、私の問題関心は、錬金術の図像表現の形成と系譜です。英語では、"Visualization in Chemistry" とか"Visualization in Alchemy" と表現されています。HYLE - International Journal for Philosophy of Chemistry, Vol. 9(2003) に「化学の美学と視覚化」という特集があります。そこに次の論文がありました。
Barbara Obrist, "Visualization in Medieval Alchemy," HYLE - International Journal for Philosophy of Chemistry, Vol. 9(2003), No.2, 131-170
私の予想通り、先行研究はあったわけです。
→このBarbara Obristの論文はまさに私の求めるものでした。非常に明晰な文章で、中世錬金術における視覚化(図像利用)の歴史が描かれています。
挙げられている文献リストから判断すると、Barbara Obrist こそこの分野の第1人者だと言えるのではないでしょうか。
ともかく、最良の出発点に出会えたわけです。
→よく書けているので、ほぼ直訳に近い形で主要なポイントを紹介したいと思います。
中世錬金術における視覚化は、比較的遅くに生じた現象である。1140年前後のラテンヨーロッパへの錬金術の導入から13世紀半ばにかけての文書には、図像要素はほぼ存在しない。次の1世紀半、提示の主たる方式は、言語的であった。図像方式は、決してすぐに発展したわけでもなく、連続的に展開したわけでもなかった。状況が変化したのは、15世紀冒頭であり、図像表示はもはや錬金術テキストのなかに散発的に出現するものではなく、ひとつの表現体系として、錬金術の中心的原理を統一的に図像表示するものとなった。
・・・・
この論文の目的は、錬金術の図像表示の中心ラインをスケッチし、これまで知られている最初の出現事例によって例証を与えることである。このあとは、要点のみ。
バルバラさんが実践的錬金術の図像と呼ぶもの:器具の図像。炉、容器、装置類。それに物質の特徴と変成の段階を示すもの。
錬金術文書における言語的図像的直喩は、2つのグループに分けることができる。1つは、アナロジー(類比)。もうひとつは、アレゴリー、メタフォア、エニグマ等の比喩表現。
アレキサンドリアでの出現以来、錬金術は、体系的に直喩をもちいた只一つの科学分野であった。背景となる理論を画像表示するときには、もっと複雑で、背景思想による変化があります。バルバラさんはそれを、第2節「自然科学としての錬金術と技術としての錬金術:類比的議論と視覚化」、第3節「偶然的性質の観察:視覚化と比喩」、第4節「心霊主義的フランシスコ派、錬金術、視覚化」、第5節「認識的道具としての幾何学図形:ルルス派の錬金術文書」の4つにわけて記述しています。
第3節「偶然的性質の観察:視覚化と比喩」
この節で重視されるのは、グラテウスの『錬金術入門』(14世紀後半)。グラテウスは明らかに職人層に属し、ラテン語を解さない人々に向けて書いている。
この時点で、錬金術の哲学的背景は、主流のスコラ学からは離れて、ソクラテス以前の自然学やグノーシス思想とのアマルガムとなった。(p.149)
王と女王が登場するようになる。女性原理と男性原理という対立するものの統一。(p.150)
グラテウスのテキストは、動物発生と金属の生成の類比的関係がメタフォアへと変成する過程のおそらく最初のそして中心的な文書であろう。
こうして徐々に、錬金術のテキストと付随する図版は、前もって存在していたテキストのモザイクとなった。
(グラテウスとは、H. Birkha, Die alchemistishce Lehrdichtung des Gratheus filius philosophi in cod. vind. 2372. Ein Beitrag zur okkulten Wissenschaft im Spätmittelalter, 2 vols, Österreichesche Akademie der Wissenschaften, Wien で紹介された、それまでほとんど知られていなかった著者。)第4節「心霊主義的フランシスコ派、錬金術、視覚化」
『立ち上る夜明け Aurora Consurgens』(15世紀前半)の第1部は旧約聖書を錬金術過程だと解釈した。
フランシスコ派心霊主義者たちは、スコラの主流とは異なる道を辿った。主流のスコラ派では、自然哲学は超自然的なもの、啓示に関わる事柄を扱わなかった(神学の領分を犯さなかった)。それに対して、ヴィラノヴァのアルノーやルッペシッサのヨハネスは、超自然的現象を自然の領域に関係するものとして扱った。その意味で、錬金術によってなされる変成は、自然的なものであった。聖餐式の変化と錬金術変成をパラレルに捉えた。アルノーによれば、キリストは至高の医師であり、人間の医師は神の道具であった。
キリストの像と錬金術のイメージの混成は、主として彼らによる。キリストは苦悶する人間=スイギンであると同時に、復活せる神=金でもあった。第5節「認識的道具としての幾何学図形:ルルス派の錬金術文書」
ルルスは、普遍術(ars generalis)をすべての学問(science) に適用可能なものとしたが、彼自身は、占星術と医学に適用しただけだった。それを錬金術に広げたのは、擬ルルス文献。
擬ルルス文献において、宇宙論的理論、自然学的理論、操作理論のすべては、表、円形図、四角形、三角形のような幾何学図形や文字象徴の形にととのえられた。バルバラ・オブリストが自分で述べる通り、これで錬金術図像を尽くしたわけではないでしょうが、非常に見通しのよい、これは錬金術図像の分類・整理です。ある程度分けて理解しないと分かりませんから、必要な分類図式と言えるでしょう。
→彼女の重要な著作のひとつは、Barbara Obrist, Les débuts de l'imagirie alchimique (XIVe - XVe siècles), Paris, 1982 でしょう。328頁で102の白黒図版を掲載してます。
ニューマンは書評で「バルバラ・オブリストの『錬金術図像の出現』は、錬金術の懐胎・出産期である後期中世における錬金術図像学(イコノグラフィ)を体系的に研究しようとする最初の真摯な試みである。」と評しています。
(しかし、さすがニューマン。その後は、かなり辛口の批評をしています。)
ひとりで3時30分、室温27.2度。雨が降っています。昨日降り始めた雨がまだ降っています。夜、大雨警報が出ましたが、そこまでは降っていません。
予報によれば、本日は、22度〜23度。ほとんど気温に変化がないということになります。窓を開けると冷たい空気が入ってきます。外は、気温が下がっているようです。→ちいさな窓を2つあけてしばらくすると、室温は25度まで下がりました。おおきいちびは朝から塾、ちいさいちびはオフ、小学生は先週に続き合同練習です。
雨のなか、息子を合同練習の会場に連れていきました。地下に音楽室1、音楽室2とあり、前とは違う方でした。
待っている間、東京新聞を読み、ついで、杉並区の統計を読んでいました。統計のグラフと数字を見てはじめてわかることもあります。JRの駅の一日利用者数ですが、荻窪駅が他の3つ(西荻、高円寺、阿佐ヶ谷)の倍でした。そのせいで、土日は、快速が止まってくれないということがわかりました。
人口密度は、高円寺駅周辺が一番高く、ついで阿佐ヶ谷駅周辺でした。[ちいさいちびの棚付け]
昼食後、妻は美容室へ。ちいさいちびは以前イケアで買ってきた棚を自分の机の前に付けると言います。どうなるのか不明でしたが、ともかくやってみました。
自分で言い出しただけあって机の前と上の片づけは自分でやっていました。私の不安は壁の強度。棚を支える強度があるかどうかです。
ネジの食い込み方からして、棚そのものは取り付けられるが、重いものを置くのは無理ではないかと思われました。
高さが20センチ弱なので、下につっかえ棒の代わりになるものを入れることにしました。コナンの映画版のマンガがちょうどよい大きさです。横積みにしたマンガとコナン映画版マンガ数冊で下を支えることにしました。
ダメだった場合には、箱の上に載せる形式をとることにしました。あとは、娘に任せて私の手伝いは終了です。[光るイソギンチャク急減]
今朝の新聞に「光るイソギンチャク急減 和歌山沖で乱獲か」という記事がありました。具体的にみなべ町沖合の海中とあります。
8月の頭、大学時代の先輩が、みなべにダイビングに行ったことがあると話していました。私が田舎にいた頃、ダイビングのことは聞いたことがありません。なんだろうと思ったのですが、そのときは大勢でお酒を飲んでいたので、質問はしませんでした。
今朝の記事で納得が行きました。
ダイビングに連れていってくれるお店の地図を見ると、国民宿舎の下の海です。うちのちびどもは、おじいちゃんが存命中、国民宿舎の温泉にはたまに連れていってもらっています。ただし、国民宿舎のお湯は熱すぎて子どもたちには不評だったので、回数は多くあります。その下の食べ物屋さんにも何度か連れていってもらっています。その食べ物屋さんに行ったとき、ダイビングスーツの方を見た記憶があります。お店の名前は記憶がありませんが、場所はすぐにわかります。
ちなみに、同じ岬の入り口の方に、教会があります。おじいちゃんとおばあちゃんはそこで結婚式を挙げたのだそうです。光るイソギンチャクの名前は、「オオカワリギンチャク」。40メートルの深さに棲息するとあります。2004年に発見(専門誌に報告)されたそうです。世界でも日本国内の3箇所でしか棲息が確認されていないということです。
NHK のエコチャンネルに2011年2月21日に放映された「ダイバーに人気 水深40mの“生き物”」がアップされており、今でも見ることができます。白浜水族館には展示しているそうです。
ひとりで5時50分、室温27.9度。また室温が上がっています。
6時20分に妻とちいさいちびを起こします。ちいさいちびは午前中に練習試合。遠くの学校が来てくれるようです。
1時終了で、いつもは2時から3時の間に帰ってきます。今日は珍しく2時前に帰ってきました。
3時駅集合でコーチの誕生日プレゼントを買いに行くと言います。1年生部員ほぼ全員が行くようです。6時には帰ってくるように妻は指示していました。[ちいさいちびの靴を買う]
ちいさいちびの普段履く靴がダメになっています。つま先に穴が空いたということです。吉祥寺で買うのがちょうどよい。妻にスマホで連絡を取ってもらい、6時ぐらいに吉祥寺で落ちあって、靴を買ってやることにしました。
電話で話すとみんなでマックに行くと言います。夕食というよりおやつということのようです。ほぼ食べ終わる頃合いを見計らって、私がマックに行くことにしました。
いました。2階の片隅に中学生が固まっています。4人掛けの席に9人が固まって座っていました。こういうのも中学生ならではの行動パターンでしょう。娘に声をかけ、打ち合わせをして、外で待ちました。5分ぐらいで出てきたでしょうか。
靴屋さんは、マクドナルドのすぐ近くです。マックからは10メートルほど。妻からちいさいちびの靴下を手渡されています。試着(靴も試着というのかどうかはわかりませんが)のときに渡しました。しかし、前を見ると、試着ようの靴下が置いていました。日本のサービス業は気が利くなー。
ちいさいちびは選ぶのがはやい。たぶん合わせる時間を含めて、15分で決めたと思います。西荻の駅につくと、中学生がいっぱいいました。ちょうど部活帰りの時間に当たったのでしょうか。駅からは、小雨が降っていたので、折り畳み傘をさして帰ってきました。これで、3日続けて、夕刻に吉祥寺に来たことになります。
ひとり遅れて7時15分、室温25.6度。湿度が下がったのでしょう、とても爽やかに感じます。
昨夜は湿度が上がり、すこし蒸し暑く感じました。ちいさいちびが暑いと騒いだので、ちびどもの部屋だけ就寝時エアコンをつけさせたということでした。
爽やかだったのは朝のうちだけでした。徐々に気温も(たぶん湿度も)あがり、午後1時現在、室温29.4度。朝、丸善より次の本が届きました。封筒の表紙には、「教科書審査用献本在中」とあります。なかにアンケートがあり、大学の授業で教科書や参考書として採用するにふさわしいものかどうか聞いています。回答は、ファックスか郵送で、とあります。わおー、いまどきデフォルトでファックスというのはすごい。
Lawrence M. Principe『科学革命』菅谷 暁,山田 俊弘共訳、丸善 (サイエンス・パレット)、2014
私の授業で教科書は使ったことがありません。参考書としては、科学革命に関する非常に優れたものだと思います。おおきいちびが塾の先生に受験には時計が必要だ、ストップウォッチ付きがよい、と言われたので、時計が欲しいと言います。前に買ってやったものは、最近見ないと思ったらなくしたそうです。
塾の先生は、千円ので十分だと附言したとのこと。セイユウで買おうかというと、セイユウで買うとかぶるので嫌だというので、夕食後、ヨドバシに連れていってやりました。ショーケースに入っている70万円の腕時計をみてびっくりしていました。
千円から数千円のコーナーに使えそうなものがあります。迷っています。パパ、先に電球のところに行ってきてよいよ、というので、切れた居間のLED電球を上の階に買いに行って降りてきたら、ふたつにしぼっていました。パパ、どっちが見やすいかなと聞きますが、自分の目で見やすい方を選びなさいというとやはりしばらく迷ってから決めました。1050円。こういうものはほんとうに安くなりました。
帰りの電車のなかで早速腕に付けていました。
ひとりで5時40分、室温25.1度。ゴミをゴミ収集の場所に出しに行きました。外はもうすこし涼しい感じです。空気はすっかり秋です。8月の最後の週にいきなり気温が下がったあと、気温が30度を超えた日はありません。
本日は薄曇りの晴れ。ピンポイント予報を見てみると、明日は曇り後雨で最高気温が30度です。ですが、本当に最高気温が30度に達するかどうかはわかりません。ちなみに、5日、6日、7日、8日、すなわち金曜日から月曜日にかけて同じような傘マークが予報についています。6時20分、妻とちいさいちびと小学生が起きてきました。ちいさいちびはバスケ部の朝練です。
妻も用事があって、9時前にでかけたので、午前中はひとりでお留守番です。
[カルターリ『神々の姿』続編]
午後、次の本が届きました。ご高配いただいた大橋喜之さん、いつもほんとうにありがとうございます。
ヴィンチェンツォ・カルターリ『西欧古代神話図像大鑑 続篇 東洋・新世界篇』ロレンツォ・ピニョリア増補、大橋喜之訳、八坂書房、2014。429ページ、ISBN:978-4896941760
帯には次のようにあります。「ルネサンス以降、変容を重ねつつ読み継がれた神話概説書の代表的古典の、後代の増補部分をまとめた[続編]。ギリシャ・ローマ神話を扱う正篇への補註のほか、日本の神仏、さらには安土城の一部を奇蹟的に描きとどめたとされる東洋・新世界篇など、バロック期の増補を完全収録。新図版100点余。」
この帯の文章は、こういうものとしてはすこし珍しいことですが、正確な紹介となっています。目次は次です。
カルターリ『神々の姿』第二部 東西インドの神々..... 15
カルターリ『神々の姿』本文補注 .....55
カルターリ『神々の姿』追補 ......160
解題 ロレンツォ・ピニョリア版―変身する書物 .....191
付録1 アンリ・ド・ルバック『仏教』抄 .....277
付録 II 図版一覧 .....307前の『西欧古代神話図像大鑑―全訳『古人たちの神々の姿について』』は、2012年9月出版です。2年後に続編が出版されたことになります。
とても貴重な学的貢献です。→「 図版一覧」については、凡例に次の説明があります。
「付録のうち「 図版一覧」は、主として本書「本文補註」の参考に供すべく、邦訳正篇[I]〜[XV] の本文中図版と、本書「本文補註」掲載の全図版を再編、一覧にしたものである。補註のある図版の検索や、本著作の全体像の鳥瞰なども可能になるように編集を心がけ、各種参照に利便を図った。」
訳者あとがきとこの「 図版一覧」だけまず読みました。「 図版一覧」だけでもこの分野の研究者は手元におく価値がある書物だと言えるのではないでしょうか。→ウェブで次の論考をダウンロードし読みました。
木村三郎「ナターレ・コンティ『神話の手引き(寓話解釈の10巻の書)』について・・・フランス17世紀絵画史研究の視点から」『日本大学デジタルミュージアム』(2013)
神話図像研究としては、16世紀にイタリア語で出版された次の3点が重要だということです。
ジラルディ『異教の神々の歴史』バーゼル:オポリヌス、1548
カルターリ『西欧古代神話図像大鑑』ヴェネツィア:ナルコリーニ、1556
コンティ『神話の手引き(寓話解釈の10巻の書)』ヴェネツィア:アルドゥス、1567
セズネックやイエイツの研究によれば、フランスのアカデミーの画家達は、こうした書物やリーパの『イコノロギア』(ローマ、1593;仏訳1637)を「揃えて、アトリエに設置していたのであろう。」(p.4)
最新の研究としては、望月典子『ニコラ・プッサン・・・絵画的比喩を読む』慶應義塾大学出版会、2010→やはりウェブに次の原稿があります。ダウンロードして読みました。
徳永聡子・松田隆美・高宮利行・小川真理・菅野磨美「「D. S. Brewer 旧蔵神話学コレクション展」解題目録」
Derek Brewer Mythography Collectionとは、Derek Brewer(1923-2008)所蔵の全190点からなる神話学関係の蔵書。2007年に売りに出されたとき、慶大教授高宮利行が購入し、慶應図書館に寄贈したものとあります。
日本中世英語英文学第25回大会を慶應大学日吉キャンパスで開催するにあたり、この蔵書から10点を選んで展示した(2009年11月24日〜28日)。そのときの解題目録がこの原稿です。
1.ボッカチオ『異教の神々の系譜』(パリ、1511)から初めて、7.ヘリット・フォス『異教の神学とキリスト教自然科学』/マイモニデス『偶像崇拝の書』(アムステルダム、1668)、10.フランチェスコ・バルディ『歴史的、政治的、道徳的オウィディウス』(ヴェネチア、1696)までの解説があります。有用性はあります。→さらに検索をかけてみると、つぎの科研費の共同研究が見つかりました。
植月恵一郎・木村三郎・出羽尚・光田美作子・伊藤博明・山本真司「近代英国を中心とするエンブレムにおける宗教と科学に関する学際的研究」(基盤研究C、2012年より)→ただの思いつきで書きますが、錬金術の図像の形成について、美術史の成果を踏まえた研究があってもよいように思われます。もしかしたら、もうあるのかもしれませんが、錬金術図像の形成と系譜、という研究テーマがありえます。
[ゼミ飲み会]
夕刻は、ゼミの学生諸君との飲み会。留学に行く学生諸子を送る会です。13人中、6名がこの秋留学します。すでに海外に行った学生もいます。この後の学生もいます。ほぼ5割。帰国して、秋からこのゼミに参加する学生は1人。
(留学先は、ドイツ2名、アメリカ、カナダ、オーストラリア、韓国各1名です。)
→7時〜9時、吉祥寺駅1分の場所を幹事が学生は選んでくれました。吉祥寺なら歩いてでも行けます。のんびりしていると、長女に、パパ、まだいるの?と言われました。15分あれば、十分間に合うと答えましたが、その長女の修学旅行の代金の請求が来ており、明日、妻が振り込むというので、そのお金を降ろす必要もあります。じゃ、はやめに出るかと思い、6時35分頃家をでました。もちろん、お金を降ろすのにとくに時間はかかりません。駅ビルのなかの本屋さんで店頭に並んでいる本をしばらく見てから、お店の前の道路に行きました。2人来ていました。
お店の様子からいって、7時〜9時の予約でも9時過ぎに追い出されることはないだろうと思っていました。9時40分頃、おいとますることになりました。
10時前に帰宅。長女がごきぶり、ごきぶりと叫んでいます。次女が発見し、妻が殺したゴキブリの死骸を片づけて欲しいということでした。この夏、ゴキブリは見ませんでした。いなくなっていたらすごいな、と思っていたのですが、ゴキブリを完全になくすことは難しい。
ひとり遅れて7時50分、残りの家族は7時に起きた模様。室温、24.9度。[蚊と戦った夜]
昨夜、蚊の音が何度もしました。その都度、あかりををつけて、見える蚊は殺しました。妻が2匹、私が1匹。しかし、朝方、もう1匹、凶暴なのが残っていたようです。起きて下にいくと息子が3箇所刺されていました。顔で2箇所、足に一箇所。我が家の子達は虫に弱く、刺されるとかわいそうなぐらい腫れます。会った人は何があったの、と聞きたくなるぐらいです。(→妻によれば、4箇所ということです。)
私の起床が遅れたのは、その蚊との戦いのせいです。夜中に数度起きて、蚊を追っていました。[『化学史研究』第41巻第3号(2014)目次]
朝一番で『化学史研究』の最新号、すなわち2014年第3号が届きました。目次は次の通りです。
第41巻第3号(2014)目次[研究ノート]北原文雄「ロシア人からの移住化学者ワイマルン―その生涯と業績―」第41巻(2014): 121-130
[広 場] 岩村秀「東京大学理学部化学科発祥の地」第41巻(2014): 131-135
[広 場] 伊藤良一「創造的化学教育者山岡望の著作に学ぶ II」第41巻(2014): 136-150
[広 場] 川島慶子「『これはあなたのもの』―ノーベル化学賞受賞者が紡ぎ出す 戦争と平和の詩」第41巻(2014): 151-155
[広 場]園部利彦「高等学校「理科基礎」の十年」第41巻(2014): 156-159
[紹介] 吉田善哉、齋藤響、安西なつめ、藤本大士、平井正人「初期近代における動物の表象:Annals of Science 67(2010)」第41巻(2014): 160-162
[紹介] 柴田和宏「グリーンブラット『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』」第41巻(2014): 162-164
[紹介] 村瀬天出夫「菊地原洋平『パラケルススと魔術的ルネサンス』」第41巻(2014): 164-169
[紹介] 皆川卓「エヴァンズ『バロックの王国』」第41巻(2014): 169-174
[紹介] 飯島亜衣「ディクソン『科学と宗教』」第41巻(2014): 174-176
[紹介] ダニエル・フォーク「Keiko Kawashima, Emilie du Chatelet et Mari-Anne Lavoisier」第41巻(2014): 176-177
[紹介] 大野誠 「Miller, James Watt, Chemist」第41巻(2014): 177-179
[紹介] 丸浜江里子「佐々木英基『核の難民』」第41巻(2014): 179-180
今回は、充実した書評となったと思います。
夜半に目覚めて少し仕事。雨は現在のところ止んでいます。ほぼ揃って7時前、室温23.8度。珍しく朝日が玄関に射し込んでいます。雨が上がると雰囲気はすっかり秋です。
こどもたちがでかけたあと、私も大学に行って来ることにしました。9時6分武蔵境発の電車。中央線は8時54分に武蔵境についたので、外にでて、昼食のパンを買ってから乗り込みました。
大学について第1には書類を提出しました。添付書類が足りなかったようで、それだけ後日提出です。メールボックスで荷物を受け取ってから、研究室へ。
事務的用件を先にすませようと思い、すぐにもう1点の書類を3階に提出し、図書館へ行って本を返却&同じ本をもう一度借りました。
その後、研究所に行って、USB に移すのを忘れていたファイルを USB に入れました。それから研究室に戻りました。
コンピューターに向かっていた時間が半分、片づけをしていた時間が半分、といった感じでした。片づけはもうすこし体調が回復してからにします。ちょうど午後2時に家に帰り着きました。
ひとりで5時30分、室温24.6度。しとしとと雨が降っています。猛暑の夏から、梅雨に戻ったような天候が続きます。ピンポイント予報を見ると、本日の気温は、21度〜23度。肌寒く感じるわけです。
ちびどもの中学校は、今日始業式。ちいさいちびは朝練があります。6時20分に起床し、6時50分にでかけていきました。
おおきいちびと小学生はいつもの時間にでかけました。雨は午前中に一度止みましたが、午後また降り始めました。日が暮れる頃にはしっかりとした雨足になりました。藤本氏から次の論文の pdf を送ってもらい、読みました。
藤本大士「近世医療史研究の現在――民衆・公権力と医療」『洋学』21、2014、91−125頁。
36頁の力作です。特集「洋学史研究の現在」の1本のようです。私は日本のことはあまり知りません。とても勉強になる研究史のレビューです。
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