ひとりで5時10分、室温28.0度。息子は7時10分過ぎに起きてきました。
午前練のあるちいさいちびをいつもの時刻、7時20分に起こします。昼食には帰ってきます。ちなみに、(体験者はみんな知っていることですが)朝練とは、学校の始業(通常の授業開始)前に行う練習です。午前練とは、夏休み等休暇中に普通の午前に行う練習です。→ちいさいちびを起こすと、妻も起きてきました。
本日の外出は夕刻の1度のみ。スーパーに買い物にでました。昨日は外出なし。
今月は、最終日でやっと100枚を越えました。7月は会議が忙しかった。
[バイナム&バイナム編『医学を変えた70の発見』]
昨日から着手した医療思想史の準備作業ですが、通史的な著作をまず読もうと思い、一昨日研究室から持ち帰った次の本を読み始めました。
ウィリアム・バイナム , ヘレン・バイナム編『医学を変えた70の発見』鈴木 晃仁 , 鈴木 実佳訳、医学書院、2012
教科書的、あるいは事典的著作です。通読するにはちょうどよい本だと思われます。
目次は次です。
第1章 身体の発見
01. エジプト医学―美術、考古学、パピルス、ミイラ
02. 中国医学―全体を理解すること
03. インド医学
04. ヒポクラテスの伝統
05. イスラム医学
06. 解剖学
07. 病理解剖学
08. 細胞理論
09. ニューロン理論
10. 分子
第2章 健康と病い
11. 血液循環―往って、巡って、帰って
12. 精神病院の変遷―狂人の閉じ込め
13. 内部循環
14. 細菌
15. 寄生動物と媒介動物
16. 精神分析と心理療法
17. ホルモン
18. 免疫学
19. 遺伝学の革命
20. 癌の進行
21. 補完代替医療
第3章 商売道具
22. 聴診器―耳をすませば
23. 顕微鏡―新しい世界の発見
24. 皮下注射
25. 体温計
26. X線と放射線医学
27. 血圧計
28. 除細動器
29. レーザー
30. 内視鏡
31. 身体の画像化
32. 保育器
33. 医療ロボット
第4章 疫病との戦い
34. ペスト―大量死の世界
35. 発疹チフス―弱者を襲う病気
36. コレラ
37. 産褥熱
38. 結核
39. A型インフルエンザ
40. 天然痘
41. ポリオ
42. HIV
第5章 苦あれば薬あり
43. アヘン―快楽と苦痛
44. キニーネ―木の皮の特効薬
45. ジギタリス
46. ペニシリン
47. 経口避妊薬
48. 向精神薬
49. サルブタモール
50. β遮断薬
51. スタチン
第6章 外科の飛躍的進展
52. パレと外傷―戦場における革新
53. 麻酔―外科の革命
54. 消毒と無菌法
55. 輸血
56. 神経外科
57. 白内障手術
58. 帝王切開
59. 心臓外科
60. 移植手術
61. 人工股関節置換手術
62. キーホール手術
第7章 医学の勝利
63. ワクチン―病気の予防
64. ビタミン―補助栄養素
65. ビタミン
66. インスリン
67. 喫煙と健康
68. 生殖補助医療
69. パップテスト
70. ヘリコバクター・ピロリ
以上の通り、エジプト医学からピロリ菌まで、です。『70の発見』なので、制度史はありません。
18. 免疫学
p.86 免疫学 immunology という語が現れたのは1910年、アメリカ免疫学会は1913年に設立、Journal of Immunologyの創刊は1916年。→つまり、専門分野としての免疫学の成立は、1910年前後ということになる。
川喜田さんの指摘の通り、免疫現象の科学研究は、パストゥールに始まる。1880年夏、家禽コレラの菌を鶏に接種し、バカンスを過ごして帰ってきた。生き残っていたニワトリに、また新しくて生きのよい、すなわち強毒性の家禽コレラ菌を接種したところ、ニワトリは一羽も死ぬことがなかった。この事実に驚愕したパストゥールに浮かんだアイディアが、あのジェンナーの種痘との類似であった。(川喜多「免疫学100年史」p.546)14. 細菌
p.72 専門家達は、バクテリア、ウィルス、菌、寄生虫といった言葉を用い、「病原菌」は病気を引き起こすものを表す簡略語としてのみ用いる。それに対して、一般人は、「ばい菌」という言葉を用い、「ばい菌」は政府の健康PRや商品広告等、民衆文化に残っている。日本語では、アンパンマンに対する「バイキンマン」でしょう。第3章 商売道具
p.105 1890年代には医学のテクノロジーは飛躍的に進歩し、X線が用いられるようになった。
それ以前、(外科の道具を別にすれば)患者が接する医療道具は、体温計と聴診器ぐらいであった。内科医は、「脈拍をみて、舌や尿を検査し、患者の語る苦痛や異変に耳を傾け、診断していた。」p.106 聴診器は、1816年、フランス人医師ルネ・ラエネック(1781-1826)によって発明された。ただし、すぐには広まらず、病院での臨床教育に用いられるようになって、19世紀末には一般的となった。
[温度計/体温計]
温度計のもととなるものは、17世紀初頭にはあったが、すぐには標準化されなかった。(このあたりのことは、『近代の小道具たち』に詳しい。)
『近代の小道具たち』p.123 18世紀のある時期まで、簡単には、さまざまな場所で、さまざまな時点で、さまざまな器具で測定された観測値に、<比較可能性>がなかった。 p.130 使用した寒暖計についての信頼に足る記述のために必要な基準(定点の定義、目盛りの尺度、寒暖計に用いる液体の構成=あるいは純度)も存在しなければ、また設置場所についての基準もなかった。
『近代の小道具たち』p. 121 クーン「寒暖計を使った初期の実験の多くは、本当のところ、寒暖計による研究というよりは、この新しい道具についての研究という側面を持っていた。それも当然のことで、当時は、寒暖計が計っているものがなんであるのか、まったくわかっていない状態だったからである。寒暖計が示すデータは、<熱の度合い>らしきものにかかわるように見えたが、その仕組みはきわめて複雑なものと思われていた。」『装置・器具の歴史事典』p.72 空気温度計の最初は、おそらくサントリオ(Santorio Santorio, 1561-1636)により1612年までには作られていた。サントリオかガリレオが発明した蓋然性が高い。用語として、1617年、ビアンコーニ(Giuseppe Bianconi)が"thermoscopium" を使い、1626年、ルレション(Jean Leurechon, ca.1591-1670)が"thermometer"を使った。これがオートレッド(William Oughtred, 1575-1660)によって英訳され英語圏で使われるようになった。
ガラスのなかに液体の入った最初の温度計は、トスカーナ大公フェルディナンド・デ・メディチ(Ferdinando de' Medici)によって、1654年までにはデザインされ、アカデミア・デル・チメントのためにアラマッニ(Antonio Alamanni)によってつくられた。液体としては、アルコールが用いられた。このモデルはヨーロッパ中に広まり、さまざまな出来映えの模造品が作られた。フィレンツェ科学史博物館には、そうした温度計がたくさん所蔵されている。ただし、どういうふうに規格化されていたかは不明である。
『近代の小道具たち』p. 126 まず、口径の等しい二本のガラス管を使用した寒暖計を作ることそのものが技術的に難しかった。
酒精の使用には重大な欠陥を伴った。酒精は常に同じ成分で得ることが難しかった。水とアルコールの構成比が少しでも違うと膨張率に差が生じる。ゲージの取り方が同じ場合、出てくる数値が異なることとなる。そもそも膨張率が物質によって異なるという認識を得ること自体が、温度についての初期の研究の重要な課題であった。
1663年以降、王立協会において、ボイル、ウィルキンス、フック等が寒暖計の標準化に努力をした。しかし、18世紀半ばにいたるまで、実際に使われた寒暖計の状況は、見通しがつかないほどの混乱状態にあったと言わざるをえない。少なくとも71種類の目盛りの取り方が通用していて、定点の定義も揃っていなかったし、そのどれも正確性を欠いていた。18世紀にはいり、まずデンマークの天文学者レーマー(1644-1710)がはじめて1702年氷の融点と水の沸点により目盛りをつけた。
D.G. ファーレンハイトは、レーマーから温度計の目盛り付の方法を学び、注意深い職人技と誤差を取り除く固い決意で温度計制作に取り組んだ。アムステルダムに定住した ファーレンハイトは、1717年までに水銀を採用した温度計をつくり商業的に販売されるようになっていた。彼はのちに人体の体温を94度として高い方の定点とした。(いわゆる °F。)
セルシウム(Anders Celsius, 1701-1744)の名をもつ100度目盛りは、同国人リンネ(Carl von Linne, 1707-1778)により、おそらく1740年頃、はじめて用いられたと思われるが、先取権を主張する者はスウェーデン、スイス、オランダに数名いる。(今とは逆に、氷点を100度、沸点を0度とするものであった。)『装置・器具の歴史事典』p.73
「18世紀前半にさまざまな学者によってつくられた温度計は、異なった目盛りをもっている(基本的に同じ)温度計としてではなく、それぞれ全く独自の道具」と見なされなければならない。p.73
p.74 体温計は、1840年頃、パリで診療に使われはじめた。C.A. ヴンダーリッヒ (Carl August Wunderlich, )は、『病気の際の体温の挙動』(1868)で体温計の医療における利用について徹底的に論じている。それから20年以内に、温度計は診療所ではありふれたものとなった。つまり普及したのは、19世紀後半ということになる。
体温と病気の関係を調べようとした医師たち。ウィーンでは、アントン・デ・ハーン(1704-76)が熱病にかかった患者の体温を規則的に測り、平熱に戻ったら病気がなおったと見なした。パリでは、ガブリエル・アンドール(1797-1805)が病気による体温変化の標準を示した。ジェイムズ・カリー(1756-1805)は、体温計を組織的に使った臨床観察記録を残した。ヴンダーリッヒは、2万5千人の患者の体温を測り、変化のパターンを調べた。ヴンダーリッヒが用いた体温計は、30センチもの長さがあり、一回の計測に20分もかかった。彼は、検温は、医師が行う必要はなく、訓練を積んだものであれば家族でもナースでもよいことを示した。
イギリスでは、クリフォード・オールバット(1836-1925)が長さ15センチ、5分で計測できる温度計を開発した。この進歩により、1860年代後半には、体温を測ることが普通の診療の一部となった。
ひとりで4時50分、室温28.9度。息子はよく寝たといって7時過ぎに起きてきました。妻とちいさいちびは、8時現在も就寝中です。もうすぐ起きると思われます。
妻は9時過ぎに起きてきました。ちいさいちびは起きているのかもしれませんが、10時になってもまだ下に現われません。→10時過ぎに起きてきて、テレビを見ていました。今日は午後2時から部活があるそうです。居間に面した隣家との隙間でがそごそする音が聞こえます。たぬきかと思い、確認したところ、我が家のまわりでよくうろうろしている猫でした。理由はよくわかりませんが、しばらくがさごそしていました。
次女が部活にでかけようとしたころ、雨が降り始めました。雷もなっています。しかし、2時間もしないうちに雨はあがり、蒸し暑い空気が大気を覆っています。
[新刊:中尾麻伊香『核の誘惑』]
夕刻、次の本が届きました。
中尾麻伊香『核の誘惑: 戦前日本の科学文化と「原子力ユートピア」の出現 』勁草書房、2015
7月26日出版です。できたてのほやほやです。目次は次です。
序章 核の誘い
I 放射能の探求と放射能文化の創生
第一章 放射能と科学者、メディア
第一節 X線、ラジウムの魅惑
第二節 「原子エネルギー」の解放をめぐる予言
第三節 日本のX線、ラジウムをめぐる報道
第四節 メディアに登場する科学者
第二章 放射能を愉しむ:大正期のラジウムブーム
第一節 ラジウム療法
第二節 ラジウム温泉ブーム
第三節 モダン文化の中のラジウム
第四節 ラジウムの光と影
第三章 帝国の原子爆弾とカタストロフィーをめぐる想像力
第一節 最終兵器としての放射能
第二節 第一次世界大戦と「原子爆弾」
第三節 原子爆弾と関東大震災
II 原子核の破壊と原子力ユートピアの出現
第四章 新しい錬金術:元素変換の夢を実現する
第一節 長岡半太郎の錬金術
第二節 原子破壊工業への期待
第三節 サイクロトロンと人工ラジウムの夢
第五章 秘匿される科学:核分裂発見から原爆研究まで
第一節 核分裂発見のインパクト
第二節 日本メディアの核分裂への反応
第三節 原爆研究への着手
第四節 科学動員と仁科
第六章 戦時下のファンタジー:決戦兵器の待望
第一節 最終兵器への期待の高まり
第二節 戦時下の仁科:科学「振興」と「動員」のはざまで
第三節 戦時下の海野:科学小説時代
第四節 原爆待望論
第七章 原子爆弾の出現
第一節 原爆投下のインパクト
第二節 原子力を抱擁する
第三節 原子力時代を描く
終章 核の神話を解体する
注
あとがき
主要参考文献
人名索引
事項索引
会議の日に読み始めた次の論文を読み通しました。
川喜田愛郎「(特別講演)免疫学100年史」『順天堂医学』Vol. 28(1982) No. 4, pp.545-565
よく書けた研究展望だと思います。現時点では、ちがった形になるかもしれませんが、この時点ではとてもよい展望を与えているように思われます。
ともあれ、ここからスタートです。何をはじめるのか? 秋に行う医科歯科の集中講義「医療思想史」の準備です。
ひとりで5時、室温29.4度。部活の合宿にでかけるおおきいちびを6時半に起こすことになっています。同時にお弁当をつくる妻も起こします。7時20分、合宿に行くおおきいちびの荷物(スーツケース)を自転車で学校まで運んでやりました。たいした距離ではありませんが、往復すると汗だくでした。しばらく休憩してから会議のため大学に向かいます。曇りになりました。
10時から会議。今のところ、午前中2つ、午後2つ。
→8時56分駅前のリトルマーメイドで昼食を買って、9時6分武蔵境発の西武線で大学へ。昨日着手した新しいマシーンの設定ですが、やっと完成しました。大学がネットワークの担当業者を変更してから、メールの設定がすこし難しくなっています。マニュアルをプリントアウトして行いました。やっと送信も受信もできるようになりました。
10時から小2で会議。10時半までの予定がすこし延びました。引き続き301で会議。12時過ぎまで。
一度部屋に帰って、サンドイッチのお昼ご飯。1時半研究科長室で会議。2時から再び301で会議。4時で一度終了。4時過ぎから別の方3人が見えてヒアリング。約1時間。5時16分多磨駅発の電車で帰ってくることができました。 帰宅すると新しい『科学史研究』が届いていました。和文誌は(秋から?)梶さんが編集長です。
ひとりで4時45分、室温29.1度。東の空の朝焼けがきれいです。
午前8時頃になると空が一面の雲の覆われ、暗くなってきました。一雨あるでしょう。朝早いうちに、7月末に執筆した4項目を投稿し、届いていた翻訳の再校に赤をいれました。これはすぐにレターパックで送り返します。
→事典項目の執筆は、これで終了とします。正確にはまだカウントしていませんが、春の時点で200を越えていました。人名項目は比較的簡単です。概念や装置は相当に難しい。→事典を編纂した人はみんな同じ思いだと思いますが、出来上がった項目と、できなかった項目を見比べて、未練は残ります。どこかで線引きをするしかありませんが、取りあげることができなかった項目にも意味はあり、すっきりとした記述を与えることができれば気持ちもすっきりとするんだけどな、と感じます。まあ、できなかったものはできなかったで、会としての力量、個人としての力量の限界となります。2時半から会議。今日予定されているのはこれだけ。明日は今のところ3つありますが、もっと増える可能性があります。
10時6分武蔵境発の西武線。まず、保健センターに寄って、検診の結果、病院にもっていきなさいといわれたものを受け取りました。意外な大きさでした。それから研究室で片づけもの。机の上に採点の終わったコメントシートや期末レポートが載っています。別の場所に移しました。
ILL と TLL で本が届いていることを思い出し、カバンをもって図書館へ。次の2冊です。
ヘルムート・ゲルンシャイム, アリソン・ゲルンシャイム共著『世界の写真史』伊藤逸平訳、美術出版社, 1967
Hermut Gernsheim, The origins of photography, London: Thames and Hudson, 1982
最初のものは、背が壊れかけていました。丁寧に扱って下さいの指示が入っていました。2冊目は、巨大でした。見開きで A3 を越えています。つまり、普通のコピー機ではコピーもできない大きさです。
重い2冊をカバンに入れたまま、生協に行って昼食。この時期ですが、すこし人はいました。2時過ぎに学生のもってきた書類に署名・押印をしました。
2時半からの会議。30分で終わりました。短く終わるのは助かります。3時16分多磨駅発の電車で帰ってきました。
途中であった同僚の先生は、子どもが ICU に通っていると教えてくれました。わおー。学費が半端ありません。雨は朝方ほんのすこしだけ降りました。その後は、気温と湿度が上がって、体感気温は猛烈な暑さになりました。これはだれもつらいでしょう。
帰り着くと、夕食は焼き肉に決まったという話がありました。ちいさいちびが部活から帰ってくるのを待って、全員で出動です。汗まみれのちいさいちびはシャワーを浴びます。私と小学生が先遣隊としてでました。先に席をとり、一定量を注文しておきました。今日は混んでいます。暑いと焼き肉と思うひとが多いのでしょうか。ほぼ1時間。買い物隊をあとにして、私がひとりで先に帰りました。たぬき屋敷の前の道路に猫にしては尻尾がおおきい動物が2匹うろうろしていました。近づくとたぬきでした。昔、我が家の裏屋敷でたぬきが子育てをしていたことがあります。もうそれほど驚きません。しかし、驚く人は驚くでしょう。男性が一人、スマホで熱心に写真を撮っていました。ネットに上がっているのかもしれません。
息子が起きて6時10分、室温29.3度。朝の室温が30度に近づいています。昨日持ち帰った編集委員会の宿題をこなしていました。郵便(ポストに投函する普通の郵便です)を6通準備し、9通のメールを出しました。手元の材料でできることは全部行いました。3時過ぎまでは、エアコンをかけずに頑張っていたのですが、座っているだけで汗がだらだら流れてくるので、4時頃エアコンをかけました。
明日、明後日は再び会議の日。
ひとりで6時、室温29.1度。予報では、この夏一番の暑さかもと言っています。朝の時点でもうすぐ30度です。午前中、部屋にエアコンをかけて、なんとか1項目。部屋のなかからいろんな文献を引きだし、該当個所を読みます。どう訳してよいのかわからない単語に出会うと、けっこう苦労します。
午後すぐ小学生はピアノの発表会。ちびどもは二人ともオフなので、二人して買い物に行くそうです。
午後に編集委員会。3時から東工大。
→1時過ぎにちびどもを送り出しました。2時前に家をでました。目黒2時42分発の急行で大岡山へ。駅で古川さんといっしょになりました。いくらか遅れ目で会議が始まり、1時間半ほどで終了しました。
梶さんたちは夕食で残りましたが、私は帰りました。駅まで菊池君といっしょ。
ひとりで5時、室温28.1度。昨日はあんなに雨が降ったのに、室温は下がっていません。朝一番で昨日とってきた次の文章を読みました。
レオ・スタインバーグ「他の批評基準(3)」(林卓行訳)『美術手帖』1997年3月号、pp.174-191
とてもしばらしい批評の営みです。午前中、部屋にエアコンをかけて、やっと1項目。今日はこれで仕方ありません。
正午から大学院説明会。正午から4時まで予定されています。
三鷹駅でお昼ご飯を買ってから、中央線に乗り換え、10時18分武蔵境発西武線。机の上の片づけ。
5分前に教室に入りました。ほぼ満員です。盛況なのはともかくめでたい。研究科長の説明が12時からと2時からの2回、それぞれ1時間強。説明会のあとは質問を受けていました。個別の相談ブースを見て回りましたが、客入りに格差。もっとも多いのは留学生のところ。もっとも少ないのは博士課程。これは仕方ありません。4時で上がり。4時28分多磨駅発の電車で帰ってきました。
たいした仕事はしていませんが、暑いと疲れます。おおきいちびはクラスの友達と花火大会に行くと前から行っていました。電車のなかにも浴衣を着た若い女性がちょくちょくいました。昨日までは隅田川花火大会に行くと言っていましたが、帰ってくると、立川(昭和記念公園)に変更したそうです。賢明な変更だと思います。どちらも行ったことはありませんが、ネットで調べる限り、隅田川花火大会は人出が多く、相当苦労するようです。
妻によれば、10時半に帰ってきたそうです。浴衣はもう二度と着ないかもしれないが、花火大会は楽しかったそうです。なお、部活から帰ってきて、浴衣を着ようとしたが、着付けがうまくできず、近所の美容院にヘルプを求めたそうです。あとから妻がおおきいちびの残した服と自転車をとりに行っていました。
ひとりで4時55分、室温28.0度。昨日降っていた雨は上がっています。東の空は朝焼け。本日はまた暑くなります。最高気温35度の予報。事典項目の執筆に着手しました。→とりあえず、2項目書きました。
3時からの駒場科学史講演会に出席します。→1時半ぐらいに家をでました。ちょうど雨が降り始めました。井の頭線に乗った頃には、空には一面の雷光と雷鳴。怖くなるぐらいです。小さい子どもが泣いているのが聞こえました。そして、集中豪雨。駒場に着いたころには傘をさしても濡れるぐらいに強い雨が降っていました。
ともかく、図書館へ。次の論文のコピーを取りました。
レオ・スタインバーグ「他の批評基準(3)」(林卓行訳)『美術手帖』1997年3月号、pp.174-191それから雑誌コーナーで雑誌を見てから、入り口の新聞コーナーで普段見ない新聞を読んでいました。雨が止まないかなと外を見つつ、読んでいました。2時55分、外にでて、講演会場に向かいました。雨はほぼ止んでいました。
駒場科学史講演会
隠岐さや香「コンドルセと地方(provinces)、そしてアカデミー:近年の研究動向を踏まえて」駒場16号館129室会場前の自動ドアがうまく作動しないようです。橋本さんがドアの向こう側から開けてくれました。
講演1時間強、質疑応答半時間強。講演者の隠岐さんを含めて8人が慰労会(食事会)に残りました。一本釣りの話、Objectivityの読書会の話、等々、いろいろ興味深い話を伺いました。隠岐さんの集中講義にはやはりフランス語の人が集まったようです。そうではないかと予想していました。
9時前に帰り着きました。10時には就寝することができました。
ひとりで5時25分、室温28.8度。雨が降っています。外の気温はいくらか下がっているでしょうか。→窓を開け放しにして、8時半現在、室温27.8度。外の気温はなるほどすこし下がっています。→天気予報では、最低気温25度、最高気温30度。ちいさいちびとおおきいちびが珍しく揃ってオフ。妻と3人で買い物にでかけると言っています。小学生はどうしましょうか。小学生も一日に一度は外に連れ出したいところです。
林間学校であまり寝ていないというおおきいちびは、ほんとうに睡眠不足だったようです。2時前まで寝ていました。4時前、妹とママといっしょに買い物にでかけました。夕ご飯を食べて帰ってくるそうです。
息子と私は、息子の希望で、焼き肉。6時15分に家をでました。駅前のいつもの焼き肉屋さん。2人だと簡単です。7時前に食べ終わり、そのビルの地下の漫画屋さんで漫画を1冊買って帰ってきました。
おおきいちびたちは、9時半を過ぎるかと思ったら、8時半頃帰ってきました。欲しいものがあったということです。残る仕事。
会議は8月5日まであります。来週は、いくらか少な目ですが、火曜日水曜日といつも通りに会議です。
ずっとやっていた事典項目の執筆ですが、最後の最後に、4点新たに引き受けました。7月末でサドンデス。できればOK、できなければ見切り発車。7月末まではまだいくらか時間があるので、なんとかなると思います。
そして、なによりも、9月にはじめて行う医科歯科の医療思想史の準備。8コマ分あります。
ひとりで5時15分、室温28.3度。あーあ、あついな。ちいさいちびは午後部活。おおきいちびは夕刻林間学校から帰ってきます。たぶん私が帰ることができるのはその1時間から2時間後と予想。
昨日よりいくらかゆっくりめで動きました。アンデルセンで昼食のパンをかって、8時54分武蔵境発西武線に乗り込みました。研究室に直行し、ウェブでの成績入力。160件前後あります。単純作業ですが、間違わないよう確認しつつ行うとそれなりの時間をとります。入力したものを打ち出して、すぐに再確認。タイプミスは見つかりませんでした。やれやれ。春学期の成績入力はとりあえず完了。
ただし、紙の山はそのまま机の上に放置しています。どうやって片づけようかと考えているうちに面倒になったものです。こちらの整理は来週になるでしょうか。11時に生協の方が見えて、物品の受け取り。
11時45分から科研費の説明会。12時半まで。12時半から学部のコース会議。12時55分に研究所をでて、1時からの会議の会場、中会議室へ。事務の方が2名だけ見えていました。2時20分終了。
次の大学院教授会は、2時30分開始。いくらか伸びることは予想していました。2番目の研究院教授会は前にすわって一部司会をします。私の担当する部分にもめる案件はありませんが、あまりの暑さにたぶん熱中症の2段階前ぐらいの症状です。すなわち身体が重い。6時10分過ぎに全部終わりました。6時28分多磨駅発の電車に乗ることができました。7時前に帰宅。おおきいちびが帰ってきていました。林間学校は楽しかったと言っています。お友達がいっぱいできたそうです。
私は疲れたので、一番先に寝室に上がりました。
ひとりで6時30分、室温28.6度。朝から真夏の日射しを感じます。今日も暑くなりそうです。駅前のアンデルセンで昼食のパンを買って、8時30分発の電車に乗り込みました。さすがに大学は空いています。共同研究室に行き、作業を再開。おや、本日はきちんと冷房が効きます。これでわかりました。昨日の休日は、もとの電源を切っていたようです。冷房がきちんと効くと作業効率が違います。ほとんど汗をかくことなく、さっさと進めて、11時前には整理そのものは完了しました。
編集員会宛てに次の本が献本されていました。
ヘリガ・カーオ『20世紀物理学史 上下』岡本拓司監訳、有賀暢迪・稲葉肇他訳、名古屋大学出版会、2015パンを食べたあと、1つの授業を除き、春学期の成績をネット上で記入しました。
12時40分から会議。長引く種類の会議ではありません。ほぼ予定通り、2時半には終了しました。研究室に戻り、成績をまず紙に書き写す作業を行いました。すぐに転記に誤りがないか確認作業も行いました。ウェブでの記入は明日にして、本日の作業はそこまでとしました。4時40分多磨駅発の電車で帰宅。同僚の先生お二人と駅でいっしょになりました。
明日の会議は長い。
ひとりで5時25分、室温29.2度。ちいさいちびは友達と豊島園に行きます。普段の朝と同じく、7時20分に起こして欲しいということでした。→自分で起きていました。まだすこしお腹が痛いようです。待ち合わせにはすこし遅刻になる時刻に走って行きました。
昨夜、ちいさいちびが録画していた「ど根性ガエル」(土曜日夜9時)の初回を見ました。いろいろ感じさせてくれるドラマでした。ピョン吉の命はいつまでもつのか? ひろしの10年後はどうなるのか? 同じ思いで見ていた人は、少なからずいるのではないでしょうか。
おおきいおねえちゃんは林間学校、ちいさいおねえちゃんは豊島園。ちょうどよいので妻と息子と3人で吉祥寺にでかけることにしました。妻が前から夏休みに入ったら好きなソフトを1本買うのを助けてあげると約束していました。ヨドバシでソフトを買って、息子の好きなマグロを食べます。お腹が空いてからがよいというので、12時にでかけました。お寿司屋さんは混んでいました。20分ぐらい待ったでしょうか。息子はいつもマグロづくしです。我々はセットもの。
食べ終わったあと、ソフトを買うのを手伝ってやりました。息子が今月分のお小遣いを出し、残りを親が出してやります。白バージョンと赤バージョンの2種類がでています。しばらくソフトを手にとって悩んでから、赤を選びました。ひかきんさんがやっているからというのが選んだ理由です。買ってしばらくすると別の階で買い物をしていた妻が合流しました。
駅までいっしょに行って、私はその足で大学に向かうことにしました。期末レポート、アクティブラーニングの課題2つ、それにレスポンスシートの整理をすこしだけでも進めておこうと思ったせいです。1時54分武蔵境発の西武線。大学ではなにか行事があるのでしょうか。すこし人がいました。共同研究室の鍵をあけ、私の研究室から段ボール2箱につめた紙を移して、整理作業に入りました。共同研究室は冷房の効きが悪く、汗だくになりながら作業を進めました。説明は省略しますが、これがなかなか面倒な作業です。この汗で頑張りすぎるとばてます。あいにくというのかちょうどというのか、明日も明後日も会議があり、大学には来ます。一定の時間はとれるだろうということで、今日の作業は3時間以内としました。半分までは達していません。4割ぐらいでしょうか。5時4分多磨駅発の電車で帰ってきました。この夏一番の汗の量でした。帰宅すると息子は、ずっと買ってきたソフトをやっていたということです。
ちいさいちびは、私の予想では8時帰宅でしたが、7時半前に帰ってきました。顔も手も焼けていました。お腹は全快とはいかないようでしたが、なんとかもったようです。友達がアイスを食べても冷たいものはちゃんと我慢したということです。ちいさいちびはおおきいちびとはちがいこういう我慢ができます。
残った仕事は、明日の午前中と明後日の午前中で終わらせたいと思います。春学期の成績締切は、金曜日です。木曜日にはできるように思います。
ひとりで4時40分、室温27.6度。すぐにご飯を1合しかけ、氷をセットしなおしました。林間学校に行く長女を5時半に起こします。
外には青空が広がり、きれいな朝焼け。この朝焼けは朝の早い者にしか見えない種類のものです。すぐに空は雲に覆われました。もやもやした天気が続くようです。5時20分、おおきいちびの荷物が多いので、荷物の運搬を手伝ってやりました。すなわち、自転車2台で学校へ。学校の近くの交差点で、コロコロの方を渡してやりました。コロコロは転がしながら、自転車は手で押して、門の方へ行きました。一人で自転車で来る女の子、車で近くまで送ってもらう女の子、等々、お仲間がいました。再び晴れました。猛暑日になるかどうかは微妙なところですが、蒸し暑い日になるのは間違い有りません。林間学校の場所も不安定な天気の模様。
ちいさいちびは9時過ぎに起きたようです。午前中、妻といっしょに買い物にでるようです。→かなりゆっくりめで動き、11時過ぎにでかけました。妻は4時半から PTA の仕事があります。3時過ぎには帰ってくるでしょう。→つかれたーといいながら、2時40分に帰ってきました。買い物は無事すんだそうです。
気象庁は、関東地方は梅雨明けしたそうだと告知しました。35度に達するかどうかという気温になりそうです。
[改正臓器移植法から5年]
2015年7月17日は、改正臓器移植法が施行されてから5年になります。各紙が特集記事を組んでいます。家族承諾によって臓器移植そのものは約7倍に増加したが、15歳未満の子どもの脳死臓器移植は5年間で7件と大きくは増えなかった、各紙ともこの点を指摘しています。
その要因に関していろいろ書いていますが、とくの子どもの脳死臓器移植については、端的に日本社会の拒否感を考えるべきだと思います。
(私の調べ方が不十分かもしれませんが)小松美彦氏に話を聞いた新聞は見当たりませんでした。新聞各社は、こまつにいけんをきいてみるべきだと思います。
ひとりで5時35分、室温28.1度。小学生は土曜日学校&終業式。そして夕刻は夏祭り。→2時前に帰ってきました。5時40分頃、夏祭りの踊りのために甚平に着替えて飛び出しましたが、ほんとうにすぐに帰ってきました。夏祭りはやっているが踊りは中止になったそうです。
ちいさいちびは寝込んでいます。10時半になっても起きてきません。→まだお腹が痛いということで、今日は夕刻の友達との待ち合わせもキャンセルして、おうちのなかでごろごろしていました。明日は買い物にでたいと言っています。
おおきいちびは朝一番でふれあい。帰ってきて早い昼食を食べてから、部活に行きます。腰が痛いというので無理をしないよう言い聞かせました。→4時前に帰ってきて、疲れたとは言っていますが、明日からの臨海学校のために買い足したいものがあると言います。妻といっしょに買い物にでかけました。ヨーカードーに行くようです。明日は6時半学校集合ですから、5時半起きになります。家の遠い場合、5時前に起きる必要がある子もいるでしょう。
私は、ちいさいちびほどではありませんが、軽くお腹の不調。調子が戻るまで3連休はごろごろしていようと思います。
ひとりで5時55分、室温27.5度。台風一過の青空という空ではありませんが、雨は今のところ降っていません。東京都の雨雲を見ると、西側にはかかっています。杉並区でもまた雨が降ってくるようです。ちいさいちびは1学期の終了式。小学生は明日が終了式。高校はすぐに林間学校があります。妻は10時から小学校の PTA の仕事。再び降り始めた雨のなか、明日から予定されている小学校の夏祭りの準備をするそうです。傘なしでやるという連絡があったそうです。台風の雨なので、午後には止むと思いますが、ちょうど降っている最中の作業となります。
妻がでかける直前、郵便局の方が、降り始めた雨のなか新しいカードを届けてくれました。先週の金曜日、府中駅の近くの銀行に手続きにでかけた、その結果です。昨日届いていたそうですが、ちょうど妻が留守で、不在通知が入っていたということでした。
天気予報図の通り、午後は、雨が上がり、晴れました。けっこう気持ちのよい風が吹きます。台風は日本海にあるので、台風一過とは言えないようですが、ともかく日射しが復活しています。
ちいさいちびは1時ぐらいに帰ってきて、お腹が痛いと言いつつ、お昼ご飯を食べました。その後、ソファーで寝込みました。起きてから体温を測ると、27.4度。平熱が低いので微熱ですが風邪でしょう。2〜3日前からお腹が痛い、お腹が痛いと言っていました。お腹の風邪かなと思っていたところでした。4時からの部活を休ませました。
3時頃、小学生が帰ってきました。小学生は明日もあります。4時25分、ピアノの先生のところに出かけていきました。息子がでると同時に家をでて、昔 Fuji Gardenのあった場所に新しくオープンしたお店に行って来ました。見学を兼ねてすこしの買い物。できたのは、Y's Mart。前よりずっときれいになっています。そして、普通のスーパーの品揃え。高いのか安いのかはわかりませんでした。
5時過ぎ、部活を終えたおおきいちびが腰が痛い、腰が痛いと言って帰ってきました。シャワーを浴びてしばらく休んでからふれあいに行きました。
ひとりで6時10分、室温27.9度。[台風接近中]
正確な時刻はわかりませんが、夜トイレに立ったとき、雨音がとても強くなっていました。寝床にもぐっても聞こえてくる大きさでした。台風が接近しているようです。朝のうちは、強くなったり、弱くなったりしています。9時過ぎに大学に着きました。研究室でひたすら期末レポートを読みました。終わったあとは、手元にある課題の整理。一度生協に行って昼食をとった以外は、その作業を続けました。正午ぐらいまでにできることは完了しました。
午後は、研究活動。もうひとつの机の上を片づけて、眠っていたモニターとDynabook を接続し、ミラーリング。もうひとつもと思いましたが、接続端子が特殊なので諦めました。3時前に共同研究室。TA の院生と 手伝いの院生に来てもらい、TA の院生があずかってくれていたレスポンスシートの整理を行いました。3人で作業するとはやい。1コマ分で終わりました。名寄せはまたにして、4時28分多磨駅発の電車で帰ってくることができました。
研究室のなかにいると外の様子はそれほどわかりません。しかし、空がまっくらになり雨が強くなったとか、ふと空が明るくなったとかの変化はわかります。ちなみに、メールを読むと、今日は全学休講になりました。英語だと、The University cancelled all classes. とありました。気象庁のサイトで雨雲の様子を見ると、奥多摩や八王子といった東京の西の端で強い雨が降り続いているようです。府中はまあこの程度なら、という降り方でした。
帰り際メールボックスに入っている検診の結果を受け取りました。保健センターに顔を出してから、病院に行かないといけないようです。ありえることだと覚悟はしていました。ひととおり落ち着いたら、病院に行って来ます。
駅から帰る途中、材木屋の近くで息子に会いました。これから児童館にダンスに行くそうです。帰宅して、妻に聞くと、ダンスの発表会だそうです。しばらくしてから妻がビデオをもって見学に行きました。我が家の小学4年生は、歌とダンスに頑張っています。
ひとりで5時40分、室温28.2度。本日も会議の日。9時からはじまります。7時には終わるでしょうか。
8時半武蔵境発の西武線で大学へ。9時から10時まで中会議室で会議。
会議の合間の時間で、期末レポートを読んでいました。残っていた山の3割程度は読めたでしょうか。もうすこし進めたかったのですが、時間があまりなかったのでこれは仕方ありません。
12時に学生の書類に判子。1時から2時まで会議。この会議は私が司会をしました。そして、2時から教授会。比較的順調に進み、4時10分から次の会議。こちらも1時間で終了しました。
5時28分多磨駅発の電車で帰宅することができました。上出来です。
ひとりで5時20分、室温28.9度。わおー、すごい室温です。LDK の窓を開けると風が入ってきて、すこし涼しくなった気がしましたが、気温は下がりませんでした。朝のスタートがこの気温では、日中の暑さが思いやられます。ネットの天気予報を見ました。本日の最高気温は36度の予想です。私の部屋の窓からは雲が見えません。真夏の太陽ががんがんです。明日の水曜日が34度、木、金、土が30度。台風が日本列島にやってくるかもしれないということです。
あまりの暑さに10時になる前にエアコンをつけました。私はこの机の上の片づけを開始しました。本を縦に立てたぐらいの高さに堆積しています。役職上、その場で処理しないといけない事柄は、すぐに対応していますが、どうしようかなと思ったものは堆積していきます。ですから、ずっと時間が経って化石で発見されるものもあります。
会議の日。スタートは4時半からです。
部活のあるちいさいちびを送り出してから、家をでました。中央線が武蔵境に到着したのが3時54分。中央線のホームに降りると、向こう側で西武線が動きはじめました。ちょうどよいので駅の外にでて、明日の朝食のパンを買うことにしました。4時6分武蔵境発西武線。ぎりぎりですが、大学に着いてすぐに図書館に向かい、届いている本を受け取りました。今回は数が多くちいさな段ボール箱に入れて渡してくれました。結構な重さです。受け取ったのは次。
Anthony Turner, Early Scientific Instruments: Europe, 1400-1800, London, 1987
Albert Van Helden and Thomas L. Hankins (eds.), OSIRIS, Volume 9 (1994), Instruments,
バーバラ・スタフォード『実体への旅 : 1760年-1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』高山宏訳、 産業図書、2008
バーバラ・スタフォード『ボディ・クリティシズム : 啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』高山宏訳、 国書刊行会、2006
ホッブズ『物体論』本田裕志訳、京都大学学術出版会、2015
日本産業技術史学会編『日本産業技術史事典』思文閣出版、2007
本を研究室に降ろし、そのまま301会議室に向かおうとしたところ電話があり、会議のスタートがすこし遅れますという連絡がありました。会議は結局10分遅れでスタート。最初の会議は予定通り30分で終わりましたが、次の会議が長引き終わったときには8時半頃となっていました。そのまま多磨駅に向かい、8時40分の電車。中央線がびっくりするほど長く三鷹駅で特急の待ち合わせをし、西荻の駅についたときは9時を回っていました。ガード下のローソンで氷を買って帰宅。
ひとりで5時40分、室温27.6度。昨夜はそうとうに寝苦しい夜でした。朝の室温がここまで高いとそれも当然です。
ちびどもは朝練です。6時20分に起こします。大学は本日から夏学期です。しかし、春学期の成績の処理に、この1週間は必要です。
9時オープンの郵便局によってから大学へ。電車が武蔵境に停まったのが、9時17分。西武線の発車まで1分です。間に合うかどうか一度試してみようと思い、急ぎ足で中央線の階段を下り、乗換改札を通って、西武線のエスカレーターを駆け上がりました。間に合いました。急げば、武蔵境駅での中央線から西武線への乗換は、1分でなんとかなります。
研究室では、けっこうな高さになっている期末レポートを読みました。4割ぐらいまでは読むことができました。
11時過ぎに卒論を受け取りに行きました。9月卒業の学生です。これは、よいテーマにであったよい卒論です。
「映画『スロヴェニア 私の故郷』とスロヴェニアにおける「消去」について」
「消去」というのは、ユーゴスラヴィアからスロヴェニアが分離独立するときに、政府によって秘密裏に勝手に国籍を抹消されたことを指します。日本ではほとんど知られていない出来事です。『スロヴェニア 私の故郷』というドクメンタリー映画は、その「消去」にあったスロヴェニアの2人に取材しています。話されている言葉は、ほぼスロヴェニア語でほんの一部英語です。11時半に生協で昼食をとりました。12時40分から都合によりできなかった大学院の授業を行いました。だいたいかたになったでしょうか。
2時52分多磨駅発の電車で帰ってきました。昨日から(たぶん軽い熱中症で)寝込んでいた妻はすこし快復してきたようです。
おおきいちびは帰宅後、いつもお世話になっている整骨院に行きました。混んでいたということでけっこう遅く帰ってきました。肉離れを3段階で表せば、0.7段階という診断だったそうです。痛いけれども歩ける。もちろん痛みがあるので運動能力は相当に落ちる。おおきいちびの心配は林間学校です。
息子に起こされて6時25分、室温26.3度。昨日、気温は一気に上がりました。夜汗をかいて一度目覚めました。真夏が到来しました。ただし、日本列島をうかがう台風の進路によって7月の第3週の天気は左右されます。小学校の夏祭りが開催できるかどうか微妙なところです。おおきいちびは部活の仕事で朝一番で吉祥寺へ。小学生は、音楽会のリハーサルで区民会館、10時から1時間、私が連れていきます。ちいさいちびだけたぶん一日中家のなかでのんびりします。
おおきいちびは吉祥寺から帰ってきて部活に向かいました。結局、せっかく行ったのに、用件が終了しなかったそうです。もう一度でかける必要があるそうです。やれやれ。妻によれば、おおきいちびの準備不足でした。
→5時半頃、部活から帰ってきて、もう一度吉祥寺のお店に行くと言います。準備は完了し、あとは手続きをとるだけだということです。夕食を食べてから、6時半ぐらいに自転車で向かいました。裏道を多く通りますが、吉祥寺までは一駅です。自転車だと15分程度で着きます。ユニフォーム10人分の発注をする仕事でした。書類を作るのにすこし時間がかかりました。お金を前払いしたので、あとは商品が届くのを待つだけです。手続きが完了してから、今週末にある合宿用の服が欲しいと言います。同じお店で見て回りました。Tシャツを1枚だけ購入して、あとは、自分でまた探すことになりました。西荻のコンビニで炭酸水を買ってから帰宅。本人によれば、軽い肉離れを起こしているそうです。自転車でゆっくり動くのは負担ではないようです。湿度が下がらないまま、気温が上がっています。これは暑い。外にでるとほんとうにむしむしします。熱中症のおそれがあるので、この夏はじめてエアコンをかけました。LDK だけです。ですが、テレビの前でごろごろしていたちいさいちびのお腹が痛いという声で、29度風微弱設定にしました。それでも、外よりは涼しい感じがあります。
夜半に目覚めてすこし仕事、すなわち、届いた期末レポートの整理。読むのは、月曜日からにします。午前1時現在、室温25.5度。仕事をするとうっすらと汗をかく室温です。息子が起きて、6時40分、室温24.9度。かろうじて25度を下回っています。快晴。昨日に続き、暑くなりそうです。
ちいさいちびは土曜日学校。いつもとおり、7時20分に起こしました。給食もあり、午後もあるそうです。妻は見学に行くそうです。
おおきいちびは11時から部活。たぶんゆっくり寝ると思います。
3時過ぎに部活から帰ってきて、4時50分からの映画に友達と二人で出かけていきました。新宿で待ち合わせするということです。帰ってきたのは10時だそうです。午後4時に室温が29.9度になりました。そのあと、夕方の風が吹いてきました。外は真夏日だったようですが、室温は30度に達することがありませんでした。
ひとりで4時35分、室温22.8度。雨は上がっている模様。頭痛が残っています。昨日慣れない掃除を行い、手元にあるレポートを全部読んだせいかと思われます。昨日の夜書いた通り、レポートは20点近く届いています。本日中にそのぐらいの数がさらに届くと思われます。
昨日、財布の中を見ると、メーンバンクのカードが割れています。正確にはひびが入っていて、形は保っているが、いつ壊れてもおかしくない状態です。もしかしたらしばらくは使えるかもしれませんが、ATM のなかで壊れるかもしれません。銀行は大学から近い。登校中に気づいたので、朝行くこともできましたが、身体の疲れを考えて、次の日にしたものです。
ネットには、こういう状況のときのことは書かれていません。(紛失したり、盗難にあったときの対応は書かれています。)しかし、窓口に行く必要はあると判断し、印鑑と通帳をもって銀行に向かいました。武蔵境発8時54分発の電車。白糸台で降りて、京王線の武蔵野台まで歩きます。一時よく通った道ですが、記憶はとても薄い。頼りない記憶をつてに歩き始めると、記憶がある程度まで甦りました。全面的に甦った訳ではないのですが、それほど多くの選択肢がある道でもないので、まったく問題なく京王線の駅に辿り着きました。途中、大豆畑、コーン畑、ブルーベリー畑がありました。ブルーベリーは収穫期でした。
武蔵野台から府中までは、3駅。銀行の場所も、駅を出ると半分思いだし、近づくと100%思い出しました。銀行印と保険証だけで大丈夫でした。しばらく待って、書類を書いて、終了。1週間程度で送ってくれるそうです。しばらくはカードがありませんが、仕方ありません。この銀行の場合、私の家から最寄りは中野です。カードが届くのを待つことになります。来たルートを逆に辿って、大学へ。メールボックスで TA に整理してもらったレスポンスシート3日分を受け取り、図書館に行って次の本をもらいました。
Fokko Jan Diiksterhuis, Lenses and Waves: Christiaan Huygens and the Mathematical Science of Opticks in the Seventeenth Century, (ARCHIMEDES: New Studies in the History and Philosophy of Science and Technology), Dordrecht: Kluwer, 2004一度研究室に行って、簡単に書類の整理。
しばらくしてから吉祥寺に。妻とランチをとり、エキナカでスイカを買ってから帰りました。
おおきいちびは火曜日からあった定期考査の最終日でした。午後は部活をして帰ってきました。
明日は部活終わりに、友達といっしょに映画に行くと言っています。午後7時半現在、本日届いた期末レポートは59点です。7月10日が締切ですから、このあとも相当数のレポートが届くと思われます。→結局、本日7月10日中には、79点のレポートが届きました。7月11日にも締切すぎのものが何点か届くのではないでしょうか。
本日は一日の間にかなり気温が上がりました。梅雨寒から夏の暑さへと短時間で変化しました。朝外出するときには上着を着ていましたが、京王線に乗る頃にはとても来ていることができず、カバンのなかにしまいました。夜になっても高止まりしたままです。
ひとりで4時40分、室温23.7度。雨。昨日記した通り、私の春学期の授業は今日が最終日です。
8時54分武蔵境発の西武線。机まわりの掃除をすませました。届いている期末レポートを全部読みました。締切は明日なので、今日明日で新しく届くものも相当数あると思いますが、ともかく届いたものはすべて読み通しました。
4限5限に授業。
4限の授業では、大学準備のアンケートに回答してもらいました。同時に、秋からの留学について調べ、4人がでかけることを確認しました。帰ってくるのもそのぐらいの数います。
5限の授業は、都合により通常の2人ではなく3人の発表となりました。約30分程度伸びて6時頃終了。9月卒業の学生は、卒論を無事提出したと報告してくれました。また、10月から留学に行く学生の書類に判子を押しました。というわけで10月からは2名減ります。
6時40分多磨駅発の電車で帰途につきました。傘が必要になっていました。
ひとりで6時、室温23.8度。曇り。雨は上がっています。晴れ間はありませんが、太陽の所在はわかります。
昨日の会議の疲れが残っています。すこし頭痛があります。昨日の夕刻届いたゲラの整理と点検を朝のうちにすませました。本日も会議の日ですが、昨日よりはずっと短くてすみます。
9時54分武蔵境発の西武線。電車が武蔵境に着いたのが9時42分だったので、昨日の続き、駅の外のアンデルセンで昼食のパンを買ってから電車に乗り込みました。
ちょうど2限に出る学生たちが大勢電車に乗っていました。雨も降っていませんし、買い出しのため、久しぶりに恐怖の人見街道を通ってセブンイレブンに行きました。多磨駅と人見街道の交わるあたりに関しては、なんとかしないといけないと思います。学期末ですし、研究室の机の上の片づけを行いました。私の基準では片づきました。整理整頓好きの方からすれば、どこがという評価を受けると思いますが、私としては机の上が見えるようになったので上出来です。
本日の会議は12時40分から。2時20分頃終了しました。2時40分多磨駅発の電車で帰途につきました。朝方は降っていなかった雨が本格的に降っています。右目の奥に昨日の疲れがまだ残っています。
私の春学期の授業は、明日が最後です。
ひとりで4時40分、室温23.3度。会議の日。午前中から会議があります。正午過ぎに学生が来て、書類に判子。
10時10分〜11時40分:学長室懇談会
12時40分〜14時20分:科長室会議
14時30分〜16時:人事委員会、学部大学院連絡会議9時28分武蔵境発の西武線。
最後の会議が長引いて、6時過ぎまで。6時28分多磨駅発の電車で帰ってきました。家に近づくと、部活帰りのちいさいちびが前を歩いていました。20メートルぐらいの差だったでしょうか。
上記の通り、大学にいる間は、ほぼ会議でした。会議の間はわずかでした。期末レポートを10点以内読むことが、やっとできました。
ひとりで5時30分、室温23.1度。
土日があったので休みたいところですが、もちろん、今日も仕事があります。しかも、春学期の最終週となります。
週末に受け取ったレポートは13点。予想より少ない。学生諸君はかなりの数の授業でレポートが重なります。一番しんどい時期かと思われます。なでしこがアメリカの戦術にうまくやられたのを見てから、大学へ。10時18分武蔵境発。まず、メールボックスで荷物を受け取りました。次の本が献本されていました。
塚原東吾編著『科学機器の歴史 : 望遠鏡と顕微鏡』日本評論社、2015
塚原さん、中島さん、隠岐さん、ありがとうございます。次に図書館へ。次の本を受け取りました。
Maurice Daumas, Scientific Instruments of the Seventeeth and Eighteenth Centuries and their Makers, London, 1972
こういう基本書が手元にあるのは心強い。12時に生協の方がみえて、発注していた物品を受け取りました。その後しばらくして2限を世話していただいてる菊池先生が見えたので、雑談。無事春学期の授業を終えられたということです。ご苦労様でした。
3限はわけあって来週に行います。4限は今日が最終日。3人の方に発表してもらいました。4時28分多磨駅発の電車で帰ってきました。
ひとりで5時20分、室温23.5度。化学史学会2日目。昨日の反省により、上着を着ていくことにします。
朝は昨日と同じ時刻にでかけました。まったく同じかと思ったら、湘南新宿ラインは、横浜で逗子行きに乗り換えろと車内アナウンス。到着はほぼ同じ。駅前のNewDays でおむすびを3個買ってバス停へ。15分待ちます。大野さんが後から見えたので、会場まで世間話をしていました。会場には10時到着、朝の部は10時10分スタート。
今日は午前中のシンポジウムだけ聞きました。12時前に会場をでて、バス乗り場へ。バスは12時15分。私と同じ行動をとった方が、ほかに4名いました。九大の三輪さんと世間話をしながら逗子駅へ。逗子駅で分かれて、私は湘南新宿ライン。1時3分発というのに乗り込みました。山の手線内に入るまでほぼ寝ていました。
新宿駅構内でパンやおやつを買ってから総武線へ。2時40分過ぎに西荻窪に着きました。雲に覆われていますが、雨は上がっています。
ひとりで4時半、室温24.7度。本日は化学史学会。7時半に家をでて、おそらく11時ぐらいに帰宅します。私は午後のシンポジウムの司会をします。
乗換案内の指定より5分早く家をでました。正解でした。電車がすこし遅れていました。7時54分新宿発の湘南新宿ライン快速小田原行きに乗り込み、戸塚で横須賀線に乗り換えました。逗子駅に着いて9時9分。先に湘南国際村センター行きのバス停を確認し、駅前のコンビニでおむすびひとつと飲み物を買いました。バスは9時半。20分待つことになります。ベンチに座ってただ待っていました。バスは山の中を30分ほど走ります。ほぼ10時に湘南国際村センターに着きました。バスのなかから会場の建物が見えたという方についていって、総研大へ。きれいな建物でした。
お昼休みに評議員会・理事会が入っています。すなわち、はじまると休みなしでした。一般講演、評議員会・理事会、シンポジウム、特別講演、総会、懇親会と続きました。懇親会で遅くなると帰りが大変なので、半分で切り上げました。8時には会場をでました。
シンポジウムですが、隠岐さんがいらっしゃるともっとも適切なコメントができたのでは、という内容でした。パネリストは一般の歴史家の方が4分の3でした。とても興味深い発表でしたが、科学史と技術史の分類や切り分けの難しい部分に関しては、ナイーブだったと思われます。(問題があることを把握されていませんでした。)
会場は寒く感じました。みなさん同じ感想だったようです。8時15分のバスで帰途。6人ぐらいがいっしょになりました。逗子駅につくと、8時59分の湘南新宿ラインがありました。新宿にはほぼ10時に着きました。10時7分新宿発の総武線に乗り換えることができて、10時半過ぎに帰宅することができました。11時を過ぎると思っていたので、上出来です。
さて、湘南新宿ラインに乗ったのは今回がはじめてです。とくに帰途は、逗子から乗換なしで新宿まで来てくれるのでとても便利です。
以前横浜に仕事で通っていたころ、東横線を使っていました。東横線より今の私には湘南新宿ラインの方が便利です。
また、春には宿泊することも考えていました。逗子にはホテルがなく、大船か横浜で検索をかけてリサーチはしました。しかし、これで満足というのを見つけることができず、逗子あたりから外語に通っている人もいるし、たった2日だから通っても大丈夫だろうという判断に変わりました。今回はそれで正解だったようです。
ひとりで5時半、室温24.6度。雨。梅雨らしい雨が降り続きます。隣家からウグイスの鳴き声が聞こえます。ここ何日か続けて聞こえます。しばらくいついたのでしょうか。お昼過ぎに次の本が届きました。
山崎俊雄『化学技術史 : 大工業と化学技術』(科学史大系6)中教出版、1953
第1章「近代無機化学技術の起源」
第2章「近代有機化学技術の成立」
第3章「現代無機化学技術の発展」
第4章「有機合成化学技術の確立」
この通り章立てはなかなかきれいです。
夜半に目覚めてすこし仕事。2時現在雨音は聞こえていません。
天気予報を見ると、木曜日から来週の月曜日まで5日連続で雨マークがついています。ひとりで5時55分、室温23.8度。朝方は晴れています。
なでしこの試合を見てから大学へ。なでしこには天が味方しました。決勝戦進出です。10時半武蔵境発の電車。多磨駅のパン屋さんで昼食のパンを買ってから研究室。
12時から会議。12時半まで。
昨日からあいた時間で2回目のアクティブラーニングの課題を読んでいます。4限の授業が始まる前になんとか読み通しました。
4限と5限の授業。5限終了後101教室に行くと、6限のイベントの準備をしています。TA の笹山君を見つけると、もう、和田先生の部屋に行かれたということでした。久しぶりに7階へ。小谷先生はたいへん忙しいとのことでした。途中久野先生がお見えになりました。6時過ぎに移動。和と洋、どちらがよろしいですかと小谷先生に尋ねて、洋のお答えだったので、大学前のピザ屋さんになりました。できたのは知っていましたが、入るのは私は初めてでした。小谷先生と和田先生は車、久野先生は明日1限から授業。ということでソフトドリンク。私一人がワインをもらいました。
小谷先生からはいつもとても面白いお話を伺っています。うそみたいなほんとうの話をいくつか聞きました。小谷先生、ほんとうにいつもありがとうございます。
10時15分、お店の方に10時で閉店ですと言われて、散会。たぶん10時半多磨駅発の電車で帰ってきました。登校時と同じくわずかに雨が降りましたが、私は一度も傘を取り出さないままでした。セブンイレブンで買い物をして11時頃帰宅。おおきいちびだけ起きていました。期末レポートが4点届いていました。締切が学期末なので、今週末に多く届くと思われます。
ひとりで5時10分、室温24.1度。雨。昨夜降り始めた雨が降り続いています。この雨は長引きそうです。9時30分武蔵境発の西武線。
12時40分から会議。2時前には終わりました。昨日の会議、今日の会議の処理をすこしこなしてから帰途。
3時前後の電車。たまに記憶がないこともあります。駅前の文房具屋さんで小学生用のノート(5ミリ方眼リーダ入り B5)を2冊購入し、パン屋さんで本日のおやつ+明日の朝食のパンを買って帰宅しました。小学生にはお友達のお客さん。ちいさいちびは再登校ということでソファーの上で休憩中。
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