夜半に目覚めて、すこし仕事。小学生は本日も休み。小学校の創立記念日です。朝起きたらすぐにすこし宿題をすると言っています。ひとりで4時15分、室温20.9度。
昨日ずっと行っていた事典執筆項目の修正作業ですが、今朝、一応の完成をみたので、編集者の方への送り出し作業を行いました。
これで2014年度の仕事は大方片づいたので、このサイトを2015年バージョンに更新しました。こちらも100%ではありませんが、ともかく2015年バージョンにはしました。いつもよりすこしのんびりめに家をでて、9時6分武蔵境発の西武線。思うところがあって、多磨駅の前をすこしだけ遠回りして大学に行きました。
まず事務棟3階に行き、物品を受け取りました。それから研究室でデスクワーク。
正午頃、この春の卒業生が挨拶に見えました。どうせもうしばらくすると忙しくなるので、先に有給休暇をとって挨拶にまわるそうです。ちなみに、ロボット部門に配属されたそうです。意外でした。
1時過ぎ図書館から届いたという報せのあった次の4点を受け取りに行きました。
内田星美「技術史の原典(24)「機械的技術大観」(続)鉱山・釘・針・製紙・管・鉛工・印刷 」『東京経大学会誌』206(1997): 209-243
内田星美「技術史の原典(25)英国における技術の発達--土木学会総会のレニー会長の講演(1846) 」『東京経大学会誌』208(1998): 125-156
内田星美「技術史の原典(26)18世紀の鉱山書--カンクリン「鉱山誌」とカー「炭鉱監督と機関組立師の友」 」『東京経大学会誌』210(1998): 135-165
内田星美「技術史の原典(27)初期の工作機械--プリュミエ「旋盤加工法」,ナミナス「送り台について」,「工作機械図解」 」『東京経大学会誌』212(1999): 153-201
いつもの通り、その次には研究所。その後、4限5限のゼミ。5限のゼミは、予想通り、30分ぐらい延びて6時に終了。急いで都甲先生の慰労会の会場に向かいました。はじめてのお店です。入り口がまだまだ新しい。いろいろ興味深いお話を伺いました。おもしろくて紹介できない種類の話です。都甲先生、ほんと、いつも、ありがとうございます。
9時15分頃切り上げ、私の知らなかった駅前の通路を通り、多磨駅で12分待ったあと、アメリカンスクールの高校生達といっしょに電車に乗り込みました。10時過ぎに帰宅しました。小学生だけが就寝していました。
ひとりで5時40分、室温22.1度。昨日の暑さが残っています。おおきいちびは午前練(8時〜11時)ということで、7時に起き、7時45分頃出かけていきました。ちいさいちびは午後練(2時〜)ということで、今朝はゆっくり寝るそうです。9時半現在まだ布団のなか。
本日は昭和の日で祝日ですが、本務校の授業はあります。(私は水曜日に授業はないので、私の仕事はありません。)ただし、事務はお休みなので、会議もありません。大学は授業に関してだけあいていることになります。
おおきいちびの学校からの通達には、高尾山の山歩きには、トレッキングシューズの他に、雨具も必要だとあります。上下別れた、フードのあるものがよいと書いています。トレッキングシューズを買いに行ったアルペンに山コーナーがありました。再度アルペンまで行くことにしました。
2度目なので、そう遠く感じません。
トレッキングシューズを買ったすぐ近くにレインコートのおおきなコーナーがありました。おおきいちびは自分で簡易レインコートを選びました。ママからの指示としてバスケ用の靴下も買ってこいと言われているそうです。バスケのコーナーにあるものは高すぎるそうです。一般のスポーツソックスにはちょうどよいものがあるのをおおきいちびが発見して、自分用とちいさいちびようの2点を選びました。以上3点を購入し、自転車置き場に戻りました。私はすぐに歩道に出て待っていました。おおきいちびが店内の通路で何か言っています。自転車がパンクしたようだということです。外に出てくるのを待って確かめました。確かにパンクしています。仕方ありません。自転車屋さんが見つかるまで自転車を押して行くしかありません。日頃の行いが悪いからパンクしたんだと私が言うと、20メートルも行かないうちに自転車屋さんがありました。行いがよいからすぐ見つかったとおおきいちびの反論。まあ、微妙なところです。
修理には時間がかかります。お店のお兄さんの言うことには、20分。おおきいちびは自動販売機でカルピス系の飲み物を買い、飲んでいました。20分という時間では何もできません。お店のなかにあるスポーツ系の自転車を見ていました。10万から20万円ほどする高級自転車が置いていました。おおきいちびには何のためにこういう高い自転車があるのか疑問なようです。スポーツ系の自転車ライダーの1つの拠点になっているようです。どういう用事か知りませんが、待っている間にも何人かお店に寄って、すぐに出ていきました。20分というのはタイヤ交換(正確にはチューブ交換)になった場合の時間だと思われます。チューブに空いた穴は小さく、修理は10分程度で終わりました。
おおきいちびにはパンクがはじめての体験です。私が子どもの頃は修理の様子をじっと見ていました。おおきいちびは修理の様子をまったく見なかったので、パンクがどういうことか、修理が何をするのか理解していません。またパンクするのではないかと不安なようですが、タイヤはパンクするときにはパンクする、ただし、滅多にはしない、としか言いようがありません。パンクする確率は不明です。
前回と同じく、やはりゲオでコナンのDVDを2点借りて、近くのコンビニでアイスクリームを買ってから帰りました。
自転車で動くには、アルペンはちょうどよい距離にあります。せっかくの休みなので、たまった仕事をいくらかでも片づけたいと思っています。
朝方、『科学史研究』の最新号が届きました。第3期第54巻 No. 273 2015年4月号です。本誌の編集後記にも同封されている「科学史通信」No.421 (2015) にも2014年の号の巻号数の表記が不揃いであったこと、さらに、No. 271 だけ通しページになっていないことがお詫びされています。
これはものすごく単純に、もっとわかりやすい表記に変えればすむことだと思います。第○巻のあとに、通号数を掲げる表記は普通ではないと思います。第○巻のあとは、ごく一般的にその巻の中での号数(年4回発行ならば、第○巻第1号というふうになります)を掲げればすむ話です。
ともあれ、『科学史研究』の巻号数の表記はあまりに変則的です。誰がおかしな抵抗勢力か知りませんが、普通の表記に戻す必要があると思います。
ひとりで4時45分、室温20.6度。昨日は夏日。日中25度を超えたようです。かなり暑く感じました。本日は、予報で28度。これは相当暑い。昨日よりいくらかゆっくりめで、武蔵境発8時42分の電車。9時に図書館に寄るのがちょうどよいので、多磨駅を降りてすこし遠回りをしました。通勤路は決まった道になります。たまに違う道を辿ると町の変化に気づきます。
時計を見ずに図書館に着いたら、まだあいていませんでした。2分ほど待って中に入り、ILL で届いていた次の3点を受け取りました。
Filippo Camerota, "Looking for an Artificial Eye: On the Borderline between Painting and Topography," Early science and medicine, 10(2005): 263-286
Sven Dupré, "Optics, Pictures and Evidence: Leonardo's Drawings of Mirrors and Machinery," Early science and medicine, 10(2005): 211-236
A. Mark Smith, "Reflections on the Hockney-Falco Thesis: Optical Theory and Artistic Practice in the Fifteenth and Sixteenth Centuries, "Early science and medicine, 10(2005): 163-186
いつものように次には研究所に寄ってから研究室へ。デスクワーク。
12時過ぎに学生が判子をもらいに来ました。本日の会議は2時半から4時半までの予定でしたが、4時前に終わりました。研究室に戻ると、図書館から次の本が入荷していると連絡があったので、早速受け取りに行きました。
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編(土屋紳一・大久保遼・遠藤みゆき)『幻燈スライドの博物誌:プロジェクション・メディアの考古学』青弓社、2015
あまり期待せずに発注したのですが、電車を待ちながら読んでいると、これはちょうどよい書物でした。教科書的記述がしっかりとしています。また青弓社は視覚文化叢書というのを出しているのを知りました。
→ 15.4.29 視覚文化叢書は次です。
視覚文化叢書 1 :ジェフリー・バッチェン『写真のアルケオロジー BURNING WITH DESIRE』前川修 , 佐藤守弘 , 岩城覚久訳、青弓社、2010
視覚文化叢書 2 :長谷正人『映画というテクノロジー経験』青弓社、2010
視覚文化叢書 3 :佐藤守弘『トポグラフィの日本近代 江戸泥絵・横浜写真・芸術写真』青弓社、2011
視覚文化叢書 4:大久保遼 『映像のアルケオロジー 視覚理論・光学メディア・映像文化』青弓社、2015
これは、今の私には価値あるシリーズです。たぶん、入手することになると思います。本日で委員会はほぼ1周したと思います。副院長の仕事は、6〜7割ぐらいまでは理解できたと思われます。
ネットで話題になっている世界をキャンパスとして展開する広島大学改革構想:徹底した大学のモニタリングを読んでみました。わおー。むごい。
なお、大学の後輩の林さんが、授業だけで、必要なポイントに達しているとコメントされていました。私も瞬間、この方式で自分のポイントが何点になるのかカウントして見よと思ったのですが、瞬間で忘れています。→ 簡単なのでもう一度アクセスして、カウントしてみました。私も比較的人数の多い授業をもっているので、授業だけで軽く1000ポイントを超えます。
ひとりで4時55分、室温19.9度。本日も快晴の模様。月曜日は4回目。お昼休みに科長室で打ち合わせ、5限に院生との面談があります。11時半から5時ぐらいになるでしょうか。
いつもより早めにでました。8時半武蔵境発の西武線。研究室でデスクワーク。9時を過ぎてから事務棟3階へ物品を受け取りに行きました。11時40分から打ち合わせ。普通に会議になりました。12時40分まで。その後3限4限の授業。そして、5限に面談。博士から入って見えた方でした。見覚えがないわけです。
会議が入るとますます怒濤でした。このサイトに福島第一原発の事故に関する報告書がまとめられています。運営主体は、JAEA. Intellectual Resources Management and R&D Collaboration Department とあります。
ひとりで4時50分、室温18.2度。とりあえず晴れ。朝一番で東京都議会選挙の投票に行ってきました。快晴です。ただし、時間が経つと雲が広がってきそうな雰囲気があります。6時55分に小学校につきました。5番目の到着でした。5分間体育館の前で日向ぼっこをしてから、投票。時間前に並んでいたのは、おじさんばかりでした。
月曜日4限の授業に関係する次の本をすこしずつ読み進めています。
ヒューマンライツナウ編『国連グローバー勧告 福島第一原発事故後の住民がもつ「健康に対する権利」の保障と課題』合同出版、2014夕刻、次の本が届きました。
パラケルスス『ヘルバリウス:植物薬剤のマテリア・メディカ』由井寅子監修、澤元亙訳、ホメオパシー出版、2015
訳出されているのは、『ヘルバリウス』と『自然物について』抜粋、『マケル薬草詩注解』の3点です。図版は、ボックの『本草書』からとられています。訳者あとがきに「本書の目的は、パラケルススの植物療法を概観できるテキストを提示すること」とあります。
ひとりで4時、室温20.0度。小学生は土曜学校、ちいさいちびは練習、おおきいちびは土曜補習と子どもたちは全員出動です。
小学生は6時前に起きてきました。土曜日に宿題をもっていくのかどうか心配だと言います。ちょうど時間があるので、心配だったらやればというとやることにしました。ほぼ1時間で終えました。
おねえちゃんたちは、昨夜ベイマックスを見たそうです。おおきいちびは8時半出動、ちいさいちびは午後出動なので、ゆっくり寝ています。川口の断層のことをニュースで言っていました。東京の断層も調べようと思い、調べてみました。立川断層帯というのが埼玉県の飯能史から武蔵村山市、立川市、府中市へと続いています。現在、玉川上水大曲付近、立川女子高等学校付近で断層のなごりを実際に見ることができるそうです。
正午前、第2号のゲラといっしょに次の2冊が届きました。
永田英治『たのしい講座を開いた科学者たち―科学と科学教育の源流 』(叢書 科学と教育) 星の環会、2003
ヒューマンライツナウ編『国連グローバー勧告 福島第一原発事故後の住民がもつ「健康に対する権利」の保障と課題』合同出版、2014
目次は次です。
第1部 国連グローバー勧告(全文)
第2部 国連グローバー勧告を理解するために
伊藤和子(弁護士/ヒューマンライツ・ナウ事務局長)「年間1ミリシーベルトを基準とした住民の権利保障への転換を」
崎山比早子(元放射線医学総合研究所主任研究官)「科学的証拠に支えられた年間限度線量1ミリシーベルト以下」
木田光一(福島県医師会副会長)「福島原発事故・住民の「健康に対する権利」がどのくらい保障されているのか」
吉岡 斉(九州大学教授)「原子力規制委員会の限界と放射能追加放出のリスク」
岩田 渉(市民科学者国際会議理事長)「東京電力原発事故・影響地域住民の「健康に対する権利」がどのように侵害されているか」
影浦 峡(東京大学大学院教育学研究科教授)「国連グローバー勧告と日本政府の反応の背景」
【巻末資料】
国連グローバー勧告に対する日本政府の回答・及びこれに対する日本のNGO・専門家からのコメント
国連グローバー勧告に対する日本政府の訂正案・及びこれに対する日本のNGO・専門家からのコメント
ゲラは週末で対応します。
→ 昼食後に見始め、3時前にゲラの作業を終わりました。おおきいちびが登山でトレッキングシューズが必要だと言います。妻がアルペンでセールをしているという情報をキャッチしています。3時過ぎに部活から帰ってきたおおきいちびが飯を食って一休みしてから、自転車で買い出しに行くことにしました。おおきいちびが中学に入ったばかりの頃に行っています。
自転車でも30分近くかかる距離です。登山の体験は0です。ほとんどわからないのですが、レディースのトレッキングシューズは種類がほとんどありません。出ているものをおおきいちびは自分で取り出して履いてみていました。あまりしっくりこないようですが、足の大きさは合っているといいます。両足に履いてみて、しばらく店内を歩いてからまあこんなものかと思ったようです。
次に、バスケのTシャツが必要だと言います。長袖と半袖を1枚ずつ自分で選びました。小学生のために硬式野球のボールに似せた柔らかいボールを買ってやりました。
水筒も必要だと言います。途中にオリンピックには必ず置いています。たぶん道程を半分ほど戻って、オリンピックの店内に。3箇所に水筒は置いていました。割と気にいったものがあったようです。他に文房具を買って店をでました。
コナンのDVDも借りたいというので、ゲオに寄って2点を借り出しました。
ちょっと遠かったかなというのが正直なところです。→ 15.4.26 グーグルマップでルートと距離が表示されるのを思い出しました。3.5キロ、車だと9分と出ています。→大学への通勤もグーグルマップで出してみました。電車では38分と表示されます。車だと、一番近いルートで10.6キロ、30分、吉祥寺まで線路沿いの道路を辿って行くルートで11.2キロ、29分とでます。自転車では行ったことのない東八道路を通るルートが指示されます。自転車を使えば、平均時速10キロで1時間といったところでしょうか。
そう言えばほんとうに昔、人見街道で行ったことがあります。人見街道はあまりに道が狭く、自転車通行に不適です。
ひとりで5時、室温19.8度。薄曇りの晴れ。
隣の空き地でカラスが鳴いて息子が起きてきました。5時半。あらあら早すぎます。ソファの上で寝ているように言いました。『コペルニクスからニュートンにいたる科学革命の百科事典』の「フォントネル」は、Rhoda Rappaport が書いています。挙げられている文献は4点。1点はフォントネルの全集(Paris: Salmon, 1825), 1点はCamusatによるジャーナルの批判的歴史(1734)、英語文献はマルサックによる1959年の論文(L.M. Marsak, "Bernard de Fontenelle: The Idea of Science in the French Enlightenment," Transaction of the American Philosophical Society, n.s. 49(1959), no.7. 1-64)、それにNiderst が編纂する1987年ルーアンで開催されたコロックの記録(Paris, 1989)です。
日本語でフォントネルの訳書はいくつかありますが、フォントネルを主題とする成書はありません。フォントネルはおもしろいので、『フォントネル:人と思想(あるいは作品)』が1冊日本語であってしかるべきだと思われます。
英語でも基本的な状況は似たようなものです。もちろん、日本語よりずっと多く翻訳されていますが、フォントネルに関してはこれを読めというような研究書は出版されていないようです。(もしご存じの方がいれば、是非、お教え下さい。)
ひとりで5時10分、室温17.6度。ゴミを出すために6時過ぎに外にでました。雲一つない快晴です。木曜日3回目の授業。初回はイントロなので、実質的には2回目です。
昨日よりまたすこしゆっくりめ。9時30分武蔵境発の西武線。科研費関係のデスクワーク。11時に生協の方が見えて、発注した物品を渡してくれました。
途中、ILL で届いたという報せのあった次の論文を図書館で受け取りました。
内田星美「技術史の原典-12-中国近世の技術書--「農政全書」他 」 『東京経大学会誌』186(1994): 205-232
内田星美「技術史の原典-13-バロックの技術--フォンタナ「オベリスクの移動」ゾンカ「新機械の劇場」 」 『東京経大学会誌』189(1994): 251-292
内田星美「技術史の原典(18)初期の蒸気機関 」 『東京経大学会誌』195(1996): 99-148
内田星美「技術史の原典(19)--紡績の産業革命 」 『東京経大学会誌』196(1996): 203-253
内田星美「技術史の原典(20)ベリドール「水力工学」と(1)〜(20)総目次 」 『東京経大学会誌』198(1996): 143-183
内田星美「技術史の原典(21)ディドロ『百科全書』の技術--石けん・絹・ガラス 」 『東京経大学会誌』200(1996): 129-154
内田星美「技術史の原典(22)フランス科学アカデミー「技術叢書」 」 『東京経大学会誌』202(1997): 149-186
あと2回の発注で全部をカバーできます。なお、ネットで調べものをしていると、「技術史の原典(22)フランス科学アカデミー「技術叢書」 」は2回目の入手であることに気づきました。フランス科学アカデミー「技術叢書」はとても重要なシリーズだと思いますが、日本ではほとんど研究している方がいないようです。→ 2008年4月28日に、内田星美さんの「技術史の原典(22)--フランス科学アカデミー「工芸叢書」--ドマシー「硝酸の蒸留ほか」(化学工業)」について言及しています。そして、Descriptions des arts et meétiersのマイクロが京大にあること、リプリントは、22館が所蔵していること、http://cnum.cnam.fr/redir?4KY58 を辿れば、ネット上ですべてのページを閲覧・プリントできることを記しています。自分で書いておきながらすっかり忘れていました。
内田星美さんの解説は、次です。「Descriptions des arts et meétiersは、フランス科学アカデミーが1761年から1788年にかけて刊行した、当時の各産業技術の実態を記した膨大な報告書である。これは一項目ずつがアカデミー会員を中心とする筆者によって書かれて分冊として逐次刊行されており、それぞれが独立の著作としてもよい報告の集合であるので、ここでは「工芸叢書」と訳した。従って全体の章編の順序は決まっていないが、抄訳の底本として Slatkine Reprints, Geneve 1985の25巻本で整理した産業別編成に従って、著者・書名・刊行年を列挙すれば次のようである。」
「産業技術全体の現状を詳細に紹介した出版物としては、この「叢書」が世界で最初であって、19世紀になって英仏独各国で続々と出版される工業技術辞典・全書類の先駆をなすものである。」
「この叢書の中の何冊かは、外国語に訳されて各国の産業技術に影響を与えている。」4限と5限、はじまってしまえばほんとうに怒濤です。6時4分多磨駅発の電車で帰宅。多磨駅で3人の学生といっしょになりました。
ひとりで3時55分、室温18.1度。昨日は雲が晴れませんでした。今朝は久しぶりの朝の日射しが窓に射し込んでいます。本日は、本格的会議の日。協議会、大学院教授会が連続します。正午に学生との面談が入っているので、午後すべて会議で埋まります。6時に終わればいいかな。
→昨日よりさらにいくらかゆっくりめに出かけました。9時6分武蔵境発の西武線。研究室でデスクワーク&調べもの。
昼食後、図書館に本を返して、すこし前の『ユリイカ』に掲載された小谷真理さんの傑作論文「ルイス・キャロルの写真論」を読んでいました。なるほど傑作です。
→小谷真理「キャロル狩り」『ユリイカ 臨時増刊号 総特集:150年目の『不思議の国のアリス』』(青土社,2015)
編者高山宏氏によれば、「現在望み得る最強の執筆陣を誇る同誌上で、しかし一番ぼくを驚かせたのは降臨女神、小谷真理のキャロル写真論であった。」
まさに!12時から学生との面談。話を30分ほど聞きました。
12時40分から会議。この会議は1時間ほどで終わり、すこし休む余裕ができました。次の教授会は、2時20分スタート、別の会議に切り替わり、終了して7時をかなり過ぎていました。7時28分多磨駅発の電車。小雨が降っていました。
たった10分足らずですが、教授会の司会デビューでした。もうおひとりの副院長土佐先生はあらかじめ(発生するであろう)頭痛の準備をされてきていました。これも、まさに、頭痛です。
ひとりで5時、室温20.1度。夜、暑く感じました。室温が20度を下回っていません。外は曇り空。もう雨は降っていませんが、雲が残っています。午後にはこの雲も晴れるようです。空に雲が残っているように、私にも疲れが残っています。これまで2日続けて会議日だったことはなく、2日目の会議が終わると1週間が終わったような気持ちになります。慣れた頃には、夏休みいえ夏学期に入っています。昨日と同じく、すこしゆっくりめに家をでました。8時54分武蔵境発の西武線。研究室に直行してすこしデスクワーク。それから昨日読みかけて放置したものを最後まで読みました。
→読みかけていたというのは、次。
シラノ・ド ベルジュラック ( Cyrano de Bergerac)『ユートピア旅行記叢書〈第1巻〉別世界または日月両世界の諸国諸帝国』赤木 昭三訳・解説、岩波書店、1996
図書館で借りて、巻末の赤木昭三さんの解説を読んでいました。日本語で簡単に読めるものとしては、この赤木昭三さんの解説が一番ではないでしょうか。シラノ・ド ベルジュラックは、人間も思想もとても面白い。
赤木昭三「解説1 17世紀フランスのユートピア旅行記ー知性と想像力の綾なす万華鏡」pp.325-352
p.326「モアを起点とし、カンパネラ、ベーコンを経たヨーロッパの十七・十八世紀、なかでも十七世紀以降の百数十年は、モアから始まるユートピア物語の黄金時代であって」
赤木昭三「解説2 シラノ・ド ・ベルジュラックと『別世界』について」pp.353-388
p.365「『月』はおそらく一六四八年から書きはじめられ、一六五〇年には完成していたといわれている。。。。第二作の『太陽』の方は、一六五〇年以降に書かれたと推定される。・・・『月』は、シラノの死から二年経った一六五七年に、友人ル・ブレの手によって『月の諸国諸帝国の滑稽物語』のタイトルの下に刊行され、『太陽』はおそらくジャック・ロオーであろうといわれる人物によって、その五年後の一六六二年に、同じく『太陽の諸国諸帝国の滑稽物語』の表題とともに出版された。そのうち『月』のほうは、刊行に当たって、当時すでに僧職にあったル・ブレが、当局を刺激すると思われたリベルタン的思想をことごとく削除したため、単なるSFものの滑稽物語として二百年以上も読まれてきた。エドモン・ロスタンが彼のシラノ像を形成するために利用したのも、このような毒を抜き取られた無害な作品だったのである。だが今世紀に入ってから、ル・ブレのテキストととは似ても似つかぬ未削除写本がパリで二部、ミュンヘンで一部、合計三部発見された。」図書館に出かけて、次の論文のコピーを取り、研究室に帰ってから読みました。
橋本毅彦「絵・数・言葉・身ぶり―技術はいかに表現され、伝達されるか」『思想』No.926(2001), 175-189
橋本さんは技術の問題(技術における表現の問題)として扱われています。なお、この論文を収録している『思想』は2001年7月号です。「技術の哲学」を特集しています。最初の論文は、村田純一さんが書かれています。12時40分から最初の会議。2つ会議が連続して、1時間あまり休憩し、4時から本日3つ目の会議。6時過ぎに終了しました。6時28分多磨駅発の電車で帰ってくることができました。
会議が連続するときの疲れは特有の気がします。
ひとりで4時5分、室温17.3度。ちいさいちびは朝練。6時20分に起こします。
今日はすこしだけゆっくりめに動いて、8時54分武蔵境発西武線。まず図書館によって、ILL で届いている次の7点を受け取りました。
内田星美「技術史の原典-4-王禎「農書」とヴィゲヴァーノ及びタッコラ「戦争術」の抄訳 」 『東京経大学会誌』178(1992): 77-98
内田星美「技術史の原典-7-ルネサンス期の技術文献 」 『東京経大学会誌』181(1993): 221-257
内田星美「技術史の原典-8-15世紀ドイツの軍事技術書 」 『東京経大学会誌』182(1992): 123-149
内田星美「技術史の原典-9-ルネサンスの技術書-続-アルベルティ「建築術」フィラレーテ「建築の書」ラメリ「さまざまの巧みな機械」 」
内田星美『東京経大学会誌』183(1993): 93-124 「技術史の原典-15-ホイヘンス「時計」モクソン「機械実技」 」 『東京経大学会誌』192(1995): 209-236
内田星美「技術史の原典(16)ロイポルト「機械図説総論」 」 『東京経大学会誌』193(1995): 145-193
内田星美「技術史の原典(17)産業革命期の鉄鋼技術--木炭製鉄・石炭高炉・パドル法・滲炭鋼・坩堝鋳鋼 」 『東京経大学会誌』194(1996): 77-113いつものようにそれから研究所。そして、研究室。デスクワーク。科研費の研究のための準備作業を行いました。
11時過ぎ、図書館に本を返し、生協でノートを買って帰ってきてからお弁当。すばらく休んでから、デスクワークの続き。正午に学生が現れて、書類に署名・押印。3限の院生が風邪を引いて休むというので、デスクワーク&読書。4限はふつうに授業。一人遅刻、一人休み、一人早退。
かなり強い雨が降る中、帰ってきました。4時16分多磨駅。三鷹駅で特急の待ち合わせになったので、こどもたちのためにミニクロワッサンを24個買いました。
帰宅すると全員揃っていました。ちびどもは餌を待つ鳥の雛のように買ってきたクロワッサンを食べていました。
妻は、6時半からPTA. 6時15分、出かけていきました。帰りは9時を過ぎるそうです。
ひとりで4時40分、室温16.1度。ちびどもを6時に起こしました。二人でディズニーランドに行きます。昨夜ちいさいちびはディズニーランドかディズニーシーか身もだえしつつ悩んでいましたが、ディズニーランドに決めたようです。
→天気予報の通り、舞浜でも西荻窪でも、午後、微妙な雨が降りました。雨量としては1ミリでしょうか。降っていないと言えば、降っているといわざるをえない、しかし傘なしという選択肢も考えたくなるような小雨が降りました。
→10時半過ぎに二人で帰ってきたようです。朝のうちに予約していた次の本が届きました。
金森修『科学の危機』集英社新書、2015
奥付の発行日は、4月22日です。→思うところがあって、金森さんのこの新著を午後一気に読み通しました。私自身はできていませんが、19世紀の社会学の出現から20世紀の科学の変貌/変質について、重要ないくつかの線を描き出してくれています。
→章立ては次。
第1章 科学の自覚
第2章 科学の変質
第3章 ある科学者の肖像
第4章 科学批判の諸相
第5章 科学の文化的批判に向けて
第1章は、19世紀における科学の制度化を職業としての科学者の成立ならびにサン・シモン、コント、ルナンの思想によって解説しています。
第2章は、20世紀における科学の変貌・変質を扱っています。ビッグサイエンスの成立によって失われた科学の古典的規範と新しい科学のありよう(モード2科学)を記述しています。
第3章は、フリッツ・ハーバーの事例を紹介しています。
第4章は、唐木順三、廣重徹、中山茂、宇井純、高木仁三郎、梅林宏道、柴谷篤弘の科学批判を紹介しています。
第5章 は、科学批判のおかれている困難と必要性が訴えられています。
息子と一緒に6時40分、室温15.7度。ちょっと気温が下がりましたが、好天です。ちびどもは朝一番のコナンの映画を見に行きます。妻が先にでてチケットを購入。ちびどもは朝食を食べてから急いで飛び出しました。私と息子が留守番。ちびどもは、吉祥寺で昼食を食べ、買い物をしてから帰ってきます。3時は過ぎるでしょう。
私は休憩日とします。
→ちびどもは4時過ぎ、妻はその15分後ぐらいに帰ってきました。ちびどもは二人とも二人分の昼食を食ったそうです。ラグビー部員を抱えているようだと妻の感想。
夜半に目覚めてすこし仕事。ひとりで5時40分、室温17.9度。本日も好天。
2時半すぎに天気雨。どうも大気が不安点な模様。今日はとても暖かい日でしたが、上空に大寒気がやってきているのだそうです。
[赤木昭三氏の仕事]
赤木昭三「真空の問題にあらわれたパスカルの自然観」『Gallia』4(1958), 26-49
赤木昭三「パスカルの物理学の原理とその独自性」『理想』352(1962)
赤木昭三「Les pensees fondamentales de la physique pascalienne et leur originalite」『フランス語フランス文学研究』4(1964), 20-36
赤木昭三「De l'origine des fablesの独創性」『Gallia』10/11(1971), 3-26
赤木昭三「De l'origine des fablesとSur l'histoire」『大阪大学教養部研究集録 外国語・外国文学』19(7)(1971), 45-67
赤木昭三「Cyranoカルテジヤン(1)」『Gallia』13(1973), 19-40
赤木昭三「Cyranoカルテジヤン(2)」『Gallia』14(1974), 1-18
赤木昭三「Un texte méconnu sur l'attribution de l'Histoire comique de Francion」『Gallia』18(1978), 1-6
赤木昭三「ヴォルテールとニュートン 試論」『思想』649(1978), 48-74
赤木昭三「ルソー,ヴォルテールと自然」『社会思想史研究』3 (1979), 52-61
赤木昭三「十七世紀のリベルタンとデカルト思想-上-」『思想』671(1980), 1-24
赤木昭三「十七世紀のリベルタンとデカルト思想-中-」『思想』672(1980), 86-113
赤木昭三「十七世紀のリベルタンとデカルト思想-下-」『思想』673 (1980), 100-120
赤木昭三「「三十部」あるいは「三十五部」限定の「悪書」について」『一橋論叢』85(3)(1981), 365-377
赤木昭三「記念号刊行にあたって (原亨吉教授退官記念号)」『Gallia』21/22(1982), i-ii
赤木昭三「Rohault, Descartes et Fragment de physique de Cyrano de Bergerac」『Gallia』21/22(1982), 3-17
赤木昭三「Rohault, Descartes et le Fragment de Physique de Cyrano de Bergerac (2)」『Gallia』23(1983), 1-9
赤木昭三「La première version imprimée de Du Bonheur de Fontenelle」『Gallia』26(1986), 13-25
赤木昭三「Suite des OEuvres diverses de MR de F*** de 1714 : la première édition de l'0rigine des Fables et de deux autres discours de Fontenelle」『フランス語フランス文学研究 』50(1987), 18-31
赤木昭三「Note sur un recueil de manuscrits clandestins du XVIIIe siècle : Le Préjugé démasqué」『フランス語フランス文学研究』54 (1989), 99-107
赤木昭三「『ガリア』の思い出」『Gallia』30(1990), 2-3
赤木昭三「パスカルの「パンセ」とリベルタン」『思想』806(1991), 124-143
赤木昭三「合理と非合理のあいだ--谷川多佳子著『デカルト研究--理性の境界と周縁』 (デカルト再考--生誕400年)」『思想』869 (1996), 261-270『三人の山師論』は、私には実は親しい論考です。私の昔の論文「ボイルとスピノザ」『スピノザーナ』第3号(2001/2002),pp.23-45 では、直接『三人の山師論』を挙げていませんが、「ボイルとスピノザ」の基礎を与えてくれたポプキンが繰り返し、『三人の山師論』を取りあげています。そしてもちろん、ポプキンが17世紀の懐疑論の権威です。
せっかくなので、昔の論文「ボイルとスピノザ」を読み直してみました。赤木昭三さんの研究と直接重なってはいませんが、『三人の山師論』と懐疑論の周辺で重なる部分はあります。そこは相当面白い思想史の鉱脈だと思われます。3人の山師というのは、モーゼ、キリスト、マホメットです。『三人の山師論』ではアジアの3人の詐欺師という位置付けになっています。ヨーロッパから見れば、モーゼ、キリスト、マホメットもアジア人です。昔の用語では、オリエント。 (p. 245 これら多くの「狡猾な立法者」のうち最大のものが、アジアから出た三人、 モーセ、イエス・キリスト、マホメットなのである。)
赤木昭三さんは、著作では文献表にポプキンの研究を2点挙げていますが、注でも本文でも取りあげている部分はないようです(全部をきちんと調べたわけではないので、言及している箇所はもしかしたらあるかもしれません)。私が『スピノザーナ』の原稿を準備していたときは、赤木昭三さんの仕事はまったく念頭から消えていました。
大阪大学の仏文には、赤木昭三さんのほかに原亨吉さんがいました。原亨吉さんはデカルトの幾何学もパスカルの数学もライプニッツの数学も研究対象とされています。つまり、科学史の方面の研究者でもありました。この流れは貴重です。
ひとりで4時50分、室温15.0度。木曜日の2回目の授業。夜のうちに卒論ゼミの学生の一人がレジメを送ってきてくれていました。大学のアドレスにレジメを送ってもらって、人数分私が印刷する方式にしています。学生たちには当日の正午までに送るように通知しています。
子どもたちがでかけたあと、昨夜録画したドラマを見てから、大学へ。9時30分武蔵境発の西武線。まず図書館へ。ILL で届いていた次のものを受け取りました。
島薗進「加害側の安全論と情報統制―ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ」『神奈川大学評論』第70号(2011年11月)
発注する時点では使える公費がはっきりしなかったので、私費。私費の場合は、図書館でまず請求書を受け取り、事務棟3階会計課へ行ってお金を支払い、それから領収書をもて図書館に戻り、会計課の判子のある書類を渡して、コピーを引き取るという手順になります。一時ずいぶん利用したのでよく覚えています。
研究室に帰って、すぐに読みました。
すこしデスクワーク。11時になって生協へ。昼食をとって、飲み物を購買部で買ってから戻りました。推薦書類を1点完成し、やってきた学生の書類に署名・押印しました。 余裕ができてから、『フランス近代の反宗教思想:リベルタンと地下写本』を手に取り、読みました。2部の地下写本のところがほぼわかりました。
→ pp.113-4 に次のようにあります。「この論考においては、十六世紀から十八世紀にかけて書かれた、現存するすべての写本のもっとも新しいリストというべきベニッテスの一九八八年のリストを典拠とし、ここの挙げられた一四八の写本に、ベニッテスが見逃して、そのリストに加えなかった一篇を付け加える。ついで、これに、デスネが、これまで十分目の届かなかった旧東ドイツの図書館を狩猟して発見し、一九八九年に発表したばかりのリストによって新写本九篇を加える。つぎに、コトニによって一九八四年にその存在が確認されながら、なぜかベニッテスの最新のリストにも挙げられていない、グルノ−ブル市立図書館所蔵の三篇とランス市立図書館の一篇を付け加え、そして最後に、ジョン・ローがイングランドのさる貴族の館で発見し、一九九〇年に紹介した写本集から、ディドロの『哲学断想』一篇を付け加え、以上の合計一六三篇から、一七五〇年以後に書かれたことが明らかな作品二三篇、一六八〇年以前に書かれた写本三六篇、計七五篇を除外し、一六八〇年から一七五〇年までのあいだに、フランス人によって書かれた作品の写本八七篇のみを対象として取りあげる。」
もとの一六三篇のリストは、pp.117-127 に元題名と邦語訳の対照表の形で掲載されています。
八七篇のうち、赤木昭三さんが節を設け取りあげて分析しているのは、『軍人哲学者』『宗教の検討』、『古代人の見解』、『何事モ信ジナイ術』と『トラシュボロスからレウキッペーへの手紙』、メリエ神父の『覚え書』、『三人の山師論』と『ジョルダーノ・ブルーノの復活』です。4限5限のゼミ。卒論演習は、すこし延長となり、6時4分多磨駅発の電車で、卒論生3人といっしょに電車に乗って帰ってきました。うち2人は日野。その日はじめてお互いが同じ日野に住んでいることに気づいたということでした。もう一人は吉祥寺。最近はこういうふうに地元民が割と多い。2年前の卒業生にも吉祥寺住民がいました。
帰宅すると、年会特集のゲラと次の本が届いていました。
赤木昭三『フランス近代の反宗教思想:リベルタンと地下写本』岩波書店、1993疲れたので、やはり眠いという息子といっしょにすぐに就寝しました。
[本日の不思議]
本日大学で作業して不思議だったこと。
前に、大学でメインに使っているマックのメール受信機能が止まったことを記しました。サブの方は受信できているので、メール受信はサブ、その他はメインという使い分けをしていました。学生からもらったレジメファイルをプリントするためには、サブでファイルを受けて USB メモリーにコピーし、その USB メモリーをメインに挿して、ファイルを引っ越ししプリントするという面倒な手順を踏んでいました。
おお、その最中に、いきなりメインのマシーンのメール受信機能が復活し、70件以上のメールを一気に受信しました。その後は、問題なく受信し続けています。昨日、もしかしてこれが問題かと思われる機能は切っています。そのときはどういう変化もなかったのですが、今日、復活しました。詳しいことは不明のままですが、復活したので、以前と同じ環境で仕事ができます。ちいさいことですが、たすかります。
ひとりで5時30分、室温15.3度。
6時過ぎ、息子が起きてきたので、プラスチックゴミを出すため外にでました。地面は濡れていますが、快晴。雨上がりの青空が気持ちよい。やっとしっかりとした晴れ。水曜日も会議の日。午後一(3限の時間帯)の会議は私が司会をする必要があります。
子どもたちがでかけたあと、家をでました。8時54分武蔵境発西武線。そのまま研究室に直行し、デスクワーク。学期のはじめはいろいろ連絡事項や、書類の処理があります。推薦書を1通仕上げ、判子を3つの書類に押しました。
12時から研究所で総合文化コース会議。続いて、所員会議。12時40分からの会議の司会をする必要があります。35分に研究所をお暇し、一度研究室に戻り、中会議室へ。とりあえず、12時40分に会議室につきました。(41分にはなっていなかったという趣旨です。)昨日準備していることだったので、淡々と進み、1時間強で終了。一度研究室に戻って休憩。やはり休憩は必要です。次の会議は2時20分から。2時18分ぐらいに大会議室につきました。こちらの会議も順調に進行して、3時40分多磨駅発の電車で帰宅することができました。
中央線は先頭に乗車しました。先頭は、前が見えるようにしてくれています。三鷹駅でけっこう長い時間特急待ちをしているとき、全面のワイパーが動いています。雨です。天気予報に傘マークはありました。けっこう強く降っています。晴れ間も見えますから、俄雨(お天気雨)でしょう。西荻についたときには雨は上がっていました。帰宅して玄関に靴が干しています。西荻では雨が降らなかったようです。
家には小学生ひとり帰っていました。
着替えてからメールのチェック。ただちに返信の必要なメールに返信をすませました。[赤木さんによるフォントネル]
『ユートピア旅行叢書4:ヨーロッパ精神記紀の時代』岩波書店、1998, pp.373-389 にある 赤木昭三さんによる解説「「哲学者の国またはアジャオ人物語」と『ボルネオ島の近況報告について』」を読みました。冒頭はフォントネルに関するもっとも信頼できる事典的記述になっていると思われます。
主著『フランス近代の反宗教思想:リベルタンと地下写本』も会議の合間を見つけて読み進めています。実は、この書物も行方不明になっています。買ったときに読もうと思って経緯は記憶していませんが積読のままでした。次に読もうと思ったときは見つからず、結局読まないままになっていました。(第1部の「デカルト思想とリベルタン」の『思想』連載は、雑誌で読んでいます。)
ノートを取るのが間に合っていませんが、作業は進めています。時間を見つけて情報を整理していきます。
なお、このホームページを立ち上げた比較的早い時期に次の文章を記しています。赤木昭三
赤木昭三「 De l'origine des fables の独創性」『ガリア』10-11(1971), 3-26
赤木昭三さんの仕事は、もし、英語で出ていたら、必ずや17世紀の科学史家の必読文献に入れられていたであろう、そういう種類の仕事だと思います。この論文は、この時代のフランスのリベルタンに2つの系統を見、それを的確に記述したものです。赤木さんが1980年の『思想』(5号、6号、7号)に連載した「17世紀のリベルタンとデカルト思想」も私は、17世紀に関心を持つものには必読文献だと思われます。18世紀のフィロゾーフに関心を持つ人にも必読だと思います。(個人的に面識はありません。)今回はこの仕事の継続となります。
ひとりで3時40分、室温13.6度。おや、また、すこし寒く感じます。昨日降り始めた雨が冷気を連れてきたようです。火曜日は会議の日。
郵便局に寄る用事があったので、今日はすこし遅めに出発。9時半武蔵境発の西武線。水野先生、吉田先生、岩崎稔先生と大学・学部執行部の先生方と電車でいっしょになりました。理事が傘をもっていなかったので、なんと理事の方と相合い傘。
図書館に行って、まず、フォントネルの架空旅行記(フォントネル「哲学者の国またはアジャオ人物語.他」『ユートピア旅行叢書4:ヨーロッパ精神記紀の時代』岩波書店、1998)と赤木昭三さんの本(『フランス近代の反宗教思想:リベルタンと地下写本』岩波書店、1993)を借り出しました。
赤木さんの本を読みながら、赤木さんの仕事とフォントネルについて調査。
一定の進展がありました。[赤木昭三さん]
まず、赤木さんの名前は、昭和3年生まれという意味だそうです。おお、昔の人は! であるとすれば、亡くなった父より6歳年上です。
大学は大阪外語(大阪外事専門学校フランス語科昭和21年入学)に行っています。昭和24年に卒業後、京大法学部に入り、昭和27年卒業後、今度は1年聴講生で大阪大学に通い、翌年大阪大学文学部(仏文学専攻)に学士入学し、その後は大学院に進み、昭和34年3月(31歳のとき)修士課程を修了し、すぐに助手に採用されています。助手に採用されて半年(10月)フランス留学に出発します。(略歴では、「フランス国に出張を命ぜられ」とあります。)昭和37年2月末、助手を退職、3月冒頭帰国し、4月から大阪大学で非常勤講師をつとめます。6月パリ大学より哲学博士号を授与されます。昭和41年大阪大学教養学部に助教授として採用されます。
30歳までに3つの大学を卒業し、大阪大学に採用されたあと、パリ大学人文学部に留学し学位を取得されています。38歳のときに大阪大学に再度採用されています。
研究ですが、パスカルの真空論からはじめられています。パスカルについての論文を6本発表されたあと/発表しつつ、Théophile de Viauの『魂の不死論』の分析をされ、科学者リベルタンのプチの研究に向かわれています。それからフォントネル研究に浸出され、とくに『神話の起源』と『歴史について』を分析されています。その後、シラノ・ド・ベルジュラックをデカルト主義者として分析され、古代近代論争、進歩の思想、リベルタンとデカルト思想、ヴォルテールとニュートン、リベルタンと地下文書等等の分析に向かわれています。もちろん、哲学史でもありますが、私の観点からは科学思想史そのものと言えます。
成書『フランス近代の反宗教思想:リベルタンと地下写本』は、デカルト思想とリベルタン、リベルタンと地下文書の研究をまとめられたものです。今でもその分野の基本書であり続けています。[本日の会議]
会議は、3時半から。3時半に301会議室に行っても主役が来ていません。前の会議が長引いたということです。たぶん、1時間ほど遅れました。その会議は予定通り進行しましたが、その次、同じ部屋での会議が長引き8時前まで。8時16分多磨駅発の電車でやっと帰ることができました。
会議は長引くと疲れます。
妻によれば、おおきいちびの iPhone は修理ができたそうです。しかも、修理代が覚悟した金額の半分で済んだそうです。ひとまずほっとしました。
夕食を食べ、おおきいちびが風呂から出るのを待って入浴し、すぐに就寝しました。帰宅すると、次の本が届いていました。
ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネル『世界の複数性についての対話』工作舎、1992
ひとりで4時50分、室温15.3度。日に日に暖かくなっています。子どもたちが出かけたのを確認して家をでました。8時42分武蔵境発の西武線。アゴラグローバルを一周してから、図書館に赴き、内田星美氏の「技術史の原典シリーズ」(34)、(35)、(36)を受け取りました。36はシリーズの最後です。
ちなみに現時点で入手できているのは、次のナンバーのものです。1、2、3、5、6、10、11、14、28、34、35、36。3分の1です。
それから事務棟に行って4階まで階段をのぼり、書類を1点提出しました。
次は研究所。10分程度でスキャンの仕事。
そして研究室。わずかにデスクワーク。10時から科長室で打ち合わせ。11時半まで。研究室に帰ってお弁当。すぐに学生が一人見え、書類に判子を押しました。本日の授業は12時40分から。はじまってしまうといつも通りの怒濤でした。
雨のなか、4時16分多磨発の電車で帰ってきました。ちいさいちびと小学生が帰っていました。おおきいちびの帰宅はいつになるのでしょうか。
おおきいちびは帰宅して、パパ、パパ、学校で iPhone を落として動かなくなったと騒いでいます。バドミントンの体験のとき上着のポケットに iPhone を入れていき、本人の弁では落ちたということです。音はするので、完全に故障したわけではないようですが、画面がまったくつきません。最近のこの種の精密機器は、故障したとき素人の手に負える範囲を超えています。妻と二人で(というか本当は妻が)色々調べて試していましたが、結局、修理か交換かが必要だという結論に達しました。アップルとソフトバンクにも電話をかけ、近所のソフトバンクには二人ででかけていって話を聞いてきました。
帰ってきて、機種変更で行くしかないだろうということになりました。iPhone の場合、写真等のデータはなくなるそうです。
→<翌朝>夜の間に、妻とおおきいちびで話し合って、やはりデータ(写真)に愛着がある、故障の修理でいく、お金はおおきいちびが自分で出す、ということで話がついたということです。
ひとりで5時15分、室温14.7度。
ちいさいちびはバスケの試合。学校に集合して歩いていくそうです。公式戦です。久しぶりの好天。8時過ぎ、青空のもと、ちいさいちびはジャージー姿にリュックを背負って学校に向かいました。何をしていたのかは知りませんが、おおきいちびはぐーぐーよく寝ています。
公式戦の会場(井草中学)が歩いてもいける距離にあるので、妻とおおきいちびが応援にでかけました。私と息子が留守番。息子が10時半、お腹空いたと叫んだので、駅前のマックに買い出しに走りました。いつもはフィッシュバーガーなのですが、便利なので息子と同じチーズバーガーハッピィセットにしました。
息子の弁では、息子は1分で完食。私はもうすこしゆっくりめに食べました。妻は12時40分頃、おおきいちびは1時過ぎ、ちいさいちびは3時頃と順々に帰ってきました。
ひとりで3時45分、室温13.7度。雨。昨日の夕刻からの雨が降り続いています。このぐらいの室温だともうあまり寒くありません。ちいさいちびひとり土曜日学校。新入生を体育館に集めて、学校紹介の催しをするようです。午後は、部活。土曜日は、土曜学校があっても、給食はないので、お弁当を持っていきます。
[月曜日3限4限、すなわち大学院の授業]
学期のはじめ、軌道に乗るまでは、授業の準備を続けます。講義の2つは代替してもらっているのでそれは非常勤のお二人にお任せですが、ゼミは、最終回までの目処を数回の間につけたいと思います。月曜日3限は、現時点で出席者が一人なので(大学院の授業では珍しいことではありません。外語の場合、大学院は1年に148名です。人数が集まる分野は決まっており、教員一人当たりで言えば、平均で一人を下回ります。ちゃんと調べたことはありませんが、授業は開いているが0の方も少なくないと思われます。いわゆる開店休業状態です)、当初の予定に沿ってスタートさせつつ、本人の関心との中間地点あたりに着地させようと思っています。当初は着地点が見つからないかと思ったのですが、1人の出席者にもらった卒論を昨日の間に読み通して、ちょうどよい着地点が見つかり、ほっとしています。
月曜日4限の方は、まだ確定した出席者数は出せませんが、一人2回発表してもらえばよいぐらいの数にはなっているので、きちんとしたゼミ形式で進めることができます。
スタートとしては、原子力技術史研究会編『福島事故に至る原子力開発史』(中央大学出版会、2015)によってチェルノブイリの原子炉事故と福島の原子炉事故について基本を押さえてもらいます。その次としては、島薗進さんの本を読みます。
島薗進『つくられた放射線「安全」論』河出書房新社、2013
島薗進さんは、一度外語にいらしたこともある宗教学者です。良識の立場に立って、専門家集団の政治的行動の問題点を鋭く追及されています。簡単には、学者(研究者)のなかでは、もっとも普通の市民に近い立場に立って、科学者/専門家の言説を批判されています。
中川保雄さんの『放射線被曝の歴史』のときもそうだったのですが、関連論考も入手して全部目を通そうと思います。
次の2点はすでに入手しています。
島薗進「多様な立場の専門家の討議、そして市民との対話―権威により結論の提示か、情報公開と対話か」『学術の動向』2012年5月号
島薗進「科学者はどのようにして市民の信頼を失うのか?放射能の健康への影響をめぐる科学・情報・倫理」市ノ瀬正樹ほか『低線量被爆のモラル』(河出書房新社、2012)
次のものは ILL で発注しています。
島薗進「加害側の安全論と情報統制―ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ」『神奈川大学評論』第70号(2011年11月)
次のものは探しています。すなわち、入手したのかしなかったのか記憶が定かではありません。確認の上、何らかの仕方で手元に置きます。
島薗進「研究者が学術の社会的責任を問い直すとき―FGFとTGFの交流を振り返る」『アカデミズムは原発災害にどう向き合うのか』(合同出版、2013)→ 15.4.12 翌朝、 島薗進『つくられた放射線「安全」論』を読み通しました。途中から、これは、笹本さんが正しかったという感想が生じました。と思ったら、島薗さんも終章できちんと指摘されています。「笹本征夫『米軍占領下の原爆調査』(新幹社、1995年)は「原爆加害国になった日本」という副題をもつ。これは「調査すれども治療せず」の姿勢、また、放射線被ばくの被害を過小評価する米国の調査姿勢が、いつしか日本の科学者・専門家のものになっていくことを示唆したものだ。」(p.247)
もう1点、放射線ホルミシス論について、私は「と」研究と思い、まともに取りあげてこなかったのですが、原子力推進側の低線量被爆安全(安心)論にとって、重要な位置を持つことがわかりました。単純な「と」研究ではありません。ということで、放射線ホルミシス論をもうすこし調べてみます。
Wiki の「放射線ホルミシス」は、論争史に着目し、数多くの文献に当たっていて、かなりよく書けているように思われます。原理が違うと言われそうですが、こういう記述を見ると、匿名ではなく、Wiki は署名入りの記事を選択できるようにした方がよいと考えたくなります。
次は、CiNii で調べてみました。「放射線ホルミシス」で59ヒット。この数は、存在はするが、すごく盛んというわけではないことを示しています。
最初のものは、近藤宗平「放射線ホルミシス」『放射線生物研究』23(1988): 198-207
生物学史家のものとして、堂前さんの2点の論考があります。
堂前雅史「放射線ホルミシス効果--低線量放射線の健康への影響についての論争 (小特集 2001年夏の学校「生物学/医学論文を解読する」報告集)」『生物学史研究 』68(2001), 57-59
堂前雅史「ラドン温泉が体によい理由?--「放射線ホルミシス効果」を巡る論争 (特集 科学技術とリスク論)」『情況』 第三期 3(1)(2002), 176-191
堂前さんは「と」学会のえらいさんですし、 科学史家の議論は、ここからはじまる、ここから始めるのがよいようです。グーグルスカラーでは、93件のヒット。サイニーとの関係ではこのぐらいでしょう。
「放射線ホルミシス」(radiation hormesis)の考え方(理論)は、1982年、アメリカン人科学者トーマス・D・ラッキー博士が唱えた説です。発表媒体は、Health Pyisics, 1982 Dec です。
日本でそれを取りあげ、推進したのが、電力中央研究所・研究開発部の初代原子力部長であった服部禎男氏(1933-)であった。1989年から放射線ホルミシス研究委員会を立ち上げ、積極的に研究を推進していった。
つまり、日本の研究が本格化するのが平成に入ってからということになります。→ ネットでどういう意見があるのかざっと見ていたところ、島薗進さんのつぶやきで、電力中央研究所 原子力技術研究所 放射線安全研究センターが去年の6月13日付で次の告知をしているという情報に接しました。重要なので、全文引用します。
「・現在、当センターでは、放射線ホルミシスの研究は行っておりません。
・これまでに得られた知見からは、ホルミシス効果を低線量放射線の影響として一般化し、放射線リスクの評価に取り入れることは難しいと考えています。
当センターでは、1990年代から2000年代前半にかけて、放射線ホルミシス効果の検証を目的とした研究 を実施し、ある条件下での動物実験では、低線量の放射線によって様々なホルミシス様の効果が誘起されることを明らかにしました。しかし、現在は、主に以下 の2つの理由からホルミシス効果を低線量放射線の影響として一般化し、放射線リスクの評価に取り入れることは難しいと考えています。
第一に、ホルミシス効果の検証実験の多くは、健康状態にない動物(生まれ つき病気になりやすい動物や、がんを移植した動物など)を対象としていることです。もともと低線量の放射線の影響は非常に検出が難しいため、応答を観察し やすくするためにこのような特殊な実験系が使われます。このような実験で得られた結果から、健康な人間に対する影響を推定することは適切ではないと考えて おります。
第二に、ホルミシス効果の検証実験では、観察している指標が限定されてい ます。例えば、活性酸素病に関する研究では活性酸素に関する指標は調べられていますが、その他生涯のがん発生率や寿命の変化など、一般の放射線影響として 問題とされる指標については調べられていない場合がほとんどです。放射線の影響は多面的ですので、一面的なデータだけで判断してはならないと考えます。
現在、当センターのWebページに掲載している放射線ホルミシス効果に関する過去の研究成果については、上記をご理解頂きました上で閲覧して下さい。
なお、当センターは、低線量放射線のホルミシス効果を一般公衆の放射線リ スク評価に応用することは難しいと考えておりますが、医療分野等への応用について一切を否定するものではありません。ただし、当所の成果を引用して放射線 ホルミシス効果を謳った商品の販売を行っている例等につきましては、当所とは一切関係ありませんのでご注意下さい(当所が特定商品の営業活動に協力するこ とはありません)。」
これは、妥当な判断を示していると思います。
そうであれば、しかし、1990年代から2000年代前半にかけて、LNT 仮説を否定するために巨額の研究費をかけてやった研究は、一体何? という疑問が生じます。島薗さんのツイートのまとめが次のところにあります。http://togetter.com/li/683619
個人的にはこれで結論が出たと考えますが、それで商売をする人が大勢おり、情報の慣性を考えると、しばらく「放射線ホルミシス」を唱える人が一定数残ると思います。→ ずっと気になっていた(自分のなかでは一定の結論は出ていたのですが、専門家のきちんとした意見があるはずだと思って、それがなかなか探せず、記述しないままになっていたことです)ことに、ラドン温泉・ラジウム温泉のことがあります。
ウェブに高橋希之氏による「ラドン温泉・ラジウム温泉の話」(pdf)があります。個人的にはじめて専門家による十分説得的な議論に出会ったと言えます。結論だけ引用します。
「放射線は線量や被曝の仕方によっては、確かに生体作用をもたらす場合があります。問題 はどれくらいの線量・線量率でどのようなタイミングや時間で被曝すればいいのかが判らな いということです。そしてその場合の安全性が判らないのです。この理由で、一般に言われ ている弱い少しの放射線は体に良いと主張するホルミシス作用というのは、科学的には正し くないでしょう。 」
高橋さんの議論は、科学者としてお手本になるものだと思います。これも、個人的には、「放射線ホルミシス」がホメオパシーの仲間だと感じられて、真剣に取りあう気にならなかったのも事実です。
ひとりで4時10分、室温12.3度。寒さはすこしずつ緩んできています。しかし、寒く感じます。昨日持ち帰った宿題をこなして、5時10分。ちょうど1時間かかったことになります。大学に届いていた編集委員会の仕事です。こういうのはできるだけその場で(当日に)処理するようにしていますが、昨夜は疲れていたので翌朝にまわしたものです。
[内田星美「技術史の原典シリーズ」]
夕刻、図書館から ILL で発注した次の3点の論文が届いたという報せがありました。
内田星美「技術史の原典(34)19世紀の化学技術--ソーダ・ゴム・合成染料・人絹・合成樹脂・アンモニア合成 」 『東京経大学会誌』226(2001): 123-168
内田星美「技術史の原典(35)19世紀の電気の諸発明--ヘンリー「モースの電信に関する証言」 ワトソン「電話の発明」 シーメンス「自叙伝」 ジェール「メンローパークの思い出」 」 『東京経大学会誌』228(2002): 75-124
内田星美「技術史の原典(36・完)欧米における工学高等教育の起源--エニール・ポリテクニク及ベルリン高等工業学校の沿革誌と米国の諸学校〔含 『技術史の原典』総目次〕 」 『東京経大学会誌』230(2002): 163-197
これまでは、実物を受け取った時点でこのサイトに掲載していましたが、ときには新しい試みもよいかと考え、今回は図書館から連絡があった時点で掲載してみます。これは、全36回のシリーズ(内田星美「技術史の原典シリーズ」)の後ろから3回です。最終的には全部入手するつもりですが、発注はすこしずつにしています。
ひとりで4時50分、室温10.6度。室温が気温にすこし遅れて動きます。寒いと感じます。
晴れました。気温は13度までは上がるようです。木曜日の授業がはじまります。おおきいちびははじめて自転車で高校にでかけます。歩くこともできる距離なので歩いたらと親は提案しましたが、自転車通学するという返答でした。
子どもたちがでかけたあと、少し休んでから家をでました。武蔵境9時6分発の西武線。ほぼリズムが定着したようです。今日は先に印刷センターで5限の授業の配付資料の印刷。人数は不明なので220枚用意しました。
そのあと、研究室。デスクワークをしばらく行いました。それから図書館に調べもの。なかったので、帰ってきて ILL で発注。昼食をとって一休み。
正午を過ぎてから、3限の講義を代替していただく安西さんを月曜日の菊池さんと同じように案内しました。非常勤講師控え室、教育情報化支援室、印刷センターと案内し、それから教室へ。113教室は私がいつも使っている教室ですが、パソコンからパワポ映写はやったことがありません。教育情報化支援室で借りたマシーンはすこし動きが遅いようですが、無事に動くことを確認してあとはお任せしました。
一度研究室に戻ってから、研究所に赴き、スキャン。2点。授業関係の資料です。4限は3年ゼミ(本学では本ゼミと呼びます)、5限は4年生の卒論ゼミ。5限は、10分前に101教室に入り、20分程度でイントロダクションの話をしました。もどって卒論ゼミ。就活がはじまっています。2名は欠席の連絡をくれていました。1名は連絡がないまま欠席です。(連絡がないので、就活がどうかはわかりません。)
3限を代替してもらっているとはいえ、はじまってしまうとやはり怒濤でした。学期はじめでプラスアルファの仕事もあるせいですが、けっこう疲れました。すぐに帰宅しました。
→ 101教室5限の初回の出席者は158名でした。大学に出版社より次の本が献本されていました。編集委員会宛です。
トム・ジャクソン『歴史を変えた100の大発見 元素』大森充香訳、丸善出版、2015
ご高配いただいた丸善の増田さん、ありがとうございます。編集委員会に諮り、書評者(紹介者)を決めたいと思います。9月の集中講義「くらしと健康」の日程を事務より送ってもらいました。次の通りです。
9月24日(木)2限3限4限
9月25日(金)4限
9月28日(月)1限2限、4限(3限自習)
9月29日(火)2限3限4限
9月30日(水)2限3限(5限期末レポート)
最終日9月30日(水曜日)の4限を期末レポート執筆の時間に当てればちょうどよい感じです。
ひとりで3時55分、室温14.1度。雨。雨の音がずっと聞こえています。今日は真冬の寒さに戻るそうです。予報では、最高気温が7度です。→杉並区の天気予報を見てみました。最低気温も最高気温も6度です。3時過ぎまで雨が続き、その後気温が3度まで下がります。高校には給食がないため、妻のお弁当作りが今日からはじまります。
長女が高校に、次女が中学に、息子が小学校にこの順にでかけたあと、しばらく休憩。それから弁当をもってでかけました。傘をさして歩いていると、雨が雪に変わり、雪がまた雨に変わります。みぞれと表現するよりも、雨だったり雪だったりと表現した方が実態にあっていると思われます。寒さを感じながら駅まで歩きました。9時6分武蔵境発の西武線。まずは研究所にいってスキャン。それから研究室に行ってデスクワーク。テキストをすこしずつ読み進めています。
本日の会議は、12時40分から研究科の企画運営室会議。4限の時間帯に学生委員会、5限の時間帯に留学生委員会があります。と思っていたら、実はそちらはもうお一人の副の方が出ることになっていて、私は役目ではないことが企画運営室会議の最後でわかりました。もうお一人のかたは大変ですが、私は助かります。企画運営室会議が伸びて3時まで。明日の準備もあるので、今日はこれでお暇です。
副院長の仕事ですが、1ヶ月程度しないと正確には把握できない、という踏ん切りがつきました。出席すべしと連絡があった会議に出席すればよいようです。
(本日の会議出席以外の副院長の仕事は、委員の就任のお願いメールです。6人に出しました。院長指名もありですが、一応、誰かが内諾を得てから、院長指名という手続きをとっています。日本的にはこういう手順が適当です。)武蔵境からの中央線が三鷹で特急の待ち合わせ。ちょうどよいので、三鷹駅構内のお店でちびクロワッサンとお餅とコーヒーを買って帰ることにしました。当初は吉祥寺で降りることも考えたのですが、三鷹で総武線に乗り換えるのが駅の外にでる必要がなく一番スムーズだと思い直したものです。
冷たい雨のなか帰宅すると次の本が届いていました。
長尾 伸一『複数世界の思想史』名古屋大学出版会、2015
大学院のゼミで使うことになると思います。
ひとりで5時20分、室温17.9度。予報では、今日の気温は10度〜12度ですが、そこまで気温が下がっている感じがしません。予報がずれたのでしょうか。→テレビの天気予報では最高気温は12度のままです。室温が下がっていないだけのようです。
入学式のおおきいちびを6時に起こすことになっています。→起こしましたが、ぴくともしません。ほぼ一日中会議です。
小学生はいつもと同じ時刻にでかけていきました。妻とおおきいちびは8時20分のバスに乗ると言うことで8時10分頃でかけました。ちいさいちびは入学式なのですこし遅くてよいといって8時55分。ちいさいちびを見送ったあと、戸締まりをして、出かけました。9時18分武蔵境発の西武線。朝の会議は10時10分から。学長室。学長室の会議には5分前に集合するのかと考え、10時5分につきました。席がわからないので偉い方々が見えるまで立って待っていました。ちょうど90分。
研究室にもどって朝買ってあったおにぎりで昼食をとりました。昼休みは読書。
12時40分から科長室会議。次の会議は2時半からですが、前の会議が終わらず、10分から15分程度待っていました。4時半終了予定でしたが、6時前までかかりました。6時4分多磨駅発の電車に乗ることができました。
これでまた明日も会議が続くとは、どうも信じがたい。しかし、明日も会議です。間に休憩を挟んでいますが、諸会議がスタートして終わるまでの時間が8時間にのぼっています。
参考までに今日の会議予定は次の通りでした。
研究院の大学執行部との懇談会 10時10分〜11時40分
科長室会議 12時40分〜14時10分
研究院の人事委員会&大学院・学部連絡会議 14時30分〜16時30分
ひとりで4時20分、室温15.4度。昨日とほぼ同じ気温。いよいよ新学期です。私は授業の始動日。小学生とちいさいちびは始業式ですが、すぐに帰ってきます。私はフルにあります。
小学生とちいさいちびがでかけてしばらくしてから出かけました。8時半に武蔵境につきました。駅前のパン屋さんで昼食のパンを買って、8時42分武蔵境発の西武線で大学へ。春ということもありますが、初々しい新入生が大勢います。大学も全体的に新鮮な雰囲気になっていました。
図書館に届いている文献4点を受け取ってから、研究所へ。スキャンの仕事。本日受け取ったのは、次の4点です。
内田星美「技術史の原典-1-「周礼考工記」プリニウス「自然誌」ヴィトルヴィウス「建築術」抄訳」 『東京経大学会誌』174(1992): 161-191
内田星美「技術史の原典-2-イスラムの機械技術書(バヌ・ムーサ,アル・ジャザリ)の抄訳と,風車に関する最古の記録 」 『東京経大学会誌』176(1992): 167-195
内田星美「技術史の原典-3-テオフィルス「さまざまな工芸」 」 『東京経大学会誌』177(1992): 106-136
内田星美「技術史の原典-14-バルバ「冶金術」 」 『東京経大学会誌』191(1995): 251-281
9時半で一度打ち切って研究室へ。デスクワーク。
私の代わりに2限の担当をしてくれる菊池先生と101教室の前で待ち合わせして、案内。非常勤講師室、教育情報化支援室、印刷センターとまわり、一番近い非常階段から101教室に。教室の機器の使い方を簡単に伝え、マイクとプロジェクターが無事に動作することを確認して、案内は終了しました。
私はまた研究所に戻り、スキャン。今日の午後の分はすませることができました。ちょうど11時になったので、生協に行って軽食。
お昼休みは、院生との面談。他大学から入ってきた新入生です。ほんとうに様子がわからない感じでした。12時40分から授業。授業が始まってしまうとやはり怒濤でした。3限は、今日のところは1名、4限は6名。
ひとりで6時10分、室温15.6度。雨。昨日と比べると、5度近く下がっています。水曜日にかけて下がり続けるようです。朝練のあるちいさいちびを6時50分に起こすよう書き置きがありました。
明日からはじまる授業の準備を続行中です。これがなかなかいろいろあり、けっこう手間も時間もかかります。
ひとりで5時10分、室温20.2度。これから気温は下がっていくようですが、息子が昨夜暑い暑いと言っていたのがよくわかる室温です。
どんよりとした曇り空。雨はいつ降ってもおかしくない空気ですが、地面は濡れていません。昨夜ほとんど雨は降っていないようです。
→8時47分、雨音が聞こえ始めました。数分で大きな音に。長く続くかどうかはわかりませんが、室内にいても雨音が大きく聞こえます。我が家の女性陣はまだ誰も下に降りてきません。→思った通り、強い雨はすぐに収まり、午後には雨も上がりました。ただし晴れることはなく、雲が空を覆ったままです。この空模様だと東京での皆既月食を見るのは無理だと思われます。昨日から新学期の授業の準備を始めました。まずは、想起し、ついで、整理しています。
月曜日3限の授業は、視覚文化史の内容を整理し授業として立てるものです。月曜日4限の授業は、3.11 の前の年から取り組んでいる原子力と検閲2011-14 を今年も継続して取りあげるものです。
ともあれ、この2つのページを見直し更新しました。夕刻、次の雑誌が届きました。
『東京人』 2015年 05 月号 、特集「東京35区」の境界線を歩く
理科教育 ヒトに関わる学習中心に
本日の朝日新聞「私の視点」欄に動物学者松田良一さんによる「高校までの理科教育を ヒトに関わる学習中心に」という意見が紹介されています。大学の文化系においてもこの松田さんの意見は正しいと思います。医学に関する知識、我々の生存と健康に関する知識を大胆に理科教育(自然科学教育)に取り入れるべきだと思います。
医科歯科の先生方に「教養としての医学」のリレー講義を担当してもらって、これは本当に大切なことだと痛感しています。「ラジウム・シティ:文字盤と放射線・知らされなかった少女たち」
朝日新聞夕刊には、「知らぬ間に被曝、少女らの訴え ラジウム含む塗料塗る 米ドキュメンタリー日本上映へ」という記事がありました。20世紀初頭、時計の文字盤に夜光塗料に混ぜてラジウムが塗られていました。放射線被曝の歴史では比較的よく知られた話です。アメリカの文字盤工場で働いていた女性労働者の被曝のドキュメンタリーをキャロル・ランガー監督が1987年に発表したが、このたび、日本語版が作成されていくつかの映画館で放映されるという記事です。YouTube ではもとのドキュメンタリーが見られるそうです。
具体的には4月13日から6月中旬まで全国10箇所で上映されるとあります。オフィシャルサイト:"Radium City"をみよとあります。
夜半に目覚めてすこし仕事。ひとりで6時20分、室温15.6度。昨日とまったく同じでした。
処理すべき案件があったので、息子を連れて大学へ。電車で水野先生と会いました。とりあえず挨拶はして会話をしていました。メールボックスで書類を受け取り、研究室へ。息子には部屋の掃除を手伝ってもらいます。私の処理すべき案件は、第1に成績の問い合わせに対する回答です。レポートやコメントシートは保存しています。部屋の隅から該当するレポートを探し出しました。私の転記ミスでした。ただちに、回答書と同時に成績訂正の書類も作成しました。もう1点は、3年次編入に関する単位の認定です。これは5件。とくに難しい点はなくすぐに済みました。
息子には留守番を頼んで、書類を2点、教務課記録係にもって行きました。
帰ってきて息子といっしょに掃除。ついでにいつも気になっていた共同研究室の掃除も行いました。息子に掃除機をかけさせ、テーブルの上を拭いただけですが、ましにはなったと思います。
あとは、私がものを片づける必要があります。これは息子に手伝ってもらうことができないので、またにして帰途に。二人の先生とお会いして、挨拶しました。つまり、本日息子は私の同僚の先生3人に挨拶したことになります。(水野先生、李先生、鈴木義先生。)
武蔵境で降りてヨーカードーで Wii U の値段を見ました。アマゾンの値段は紙に書いて持参しています。アマゾンの方が安い。そのまま電車に乗り込みました。吉祥寺で降りてヨドバシへ。ヨドバシは、ポイントなしでアマゾンと同じ価格にしています。アマゾンに対抗してのことでしょう。
お腹が空いていたので、まず昼食。12時15分前でした。息子の好きな寿司屋。マグロづくしで息子は5皿頼みました。大人の量ですが、マグロならほんとうによく食べます。私はちらし寿司。食べ終わってから、1階のATM でお金を降ろし、5階に戻って Wii U の購入。かなり重い。私が持ちました。ちいさいちびのためのパンを駅ビル1階の神戸屋で買ってから帰宅。半ば予想していたことですが、ちびどもと妻は出かけていました。立川のパンの食べ放題に行こうかという話をちいさいちびが起きてくる前にしていました。
わずかに休んでから、Wii U の設置。Wii との交換作業なので、ほんとうに楽です。設定は息子が自分で行いました。データの引越もできますが、それはいずれまたにします。Wii U ですっかり忘れていました。今日は息子のピアノがある日です。先生から電話がかかってきて、大声で叫んで走って出ました。あと、明日は大学の入学式です。私は出なくてよいのですっかり忘れていました。生協は臨時に営業するそうです。
おおきいちびは今日もまた夕刻友達といっしょにバスケットをするためすこし遠くの体育館にでかけました。意外ですが、今日ずっと吹いていた強風は春一番です。空模様は今にも雨ですが、自転車で出かけていきました。
本日中に会議の開催通知がかなりの数届きました。まだ2日しか副院長の仕事はしていませんが、折りに触れて質問を重ねることで出席すべき委員会がどれかはだいたい見えてきました。スケジュール表に書き込んでみると、火曜日・水曜日はほぼ会議で埋まることが判明しました。まだ100%把握しているわけではありません。もうすこし会議が入ってきそうな気がします。
夜半に目覚めてすこし仕事。ひとりで6時20分、室温15.6度。ゴミを出すため外に出ると地面が濡れています。夜すこし雨が降ったようです。しかし、朝は快晴。
やはり昼食のパンを買ってから昨日より一本遅い電車(8時54分武蔵境発)で大学へ。デスクワークのあと、10時から大学院のガイダンス。5分前に部屋に入ると、新院生はかなり、先生方は2名見えていました。定刻にはじまり、定刻(11時半)に終わりました。
その後研究室に戻って書類の片づけ。
昼食用に買ったパンですが、大学についてすぐ朝ご飯として食べてしまいました。お腹が空いていたので、生協食堂がしまるぎりぎりで駆け込んで昼食。その後、学内を横切り、警察学校と空き地(消防署ができるそうです)の桜並木を歩いてきました。天気もよかったせいでしょう、お年寄りの方々が花見に見えていました。空き地のまわりをまわって帰ってきました。
今日の会議は3時から。昨日よりはいくらか公的になります。しかし、学部のガイダンスが続いており、途中から退席される先生も大勢いました。かかった時間は昨日とほぼ同じでした。学長室からお一人、事務からお二人参加してくれていました。まとまったとまではいきませんが、目処はついたかもしれません。
なお、会議の始まる前、昨日の辞令に間違いがあるので、昨日の辞令は返却してほしい、正しいものはあとでお渡しするという話が事務の方からありました。組織の外にでないので「兼務する」というのはおかしいなとは思っていたのですが、でも、だから問題だと思うほどのこともありませんでした。
昨日と同じ5時40分多磨駅発の電車で帰宅することができました。6時過ぎに家に辿りつくと、杉並区から「乳幼児等医療費助成受給資格消滅通知書」が届いていました。そしてすぐにおおきいちびが歯医者さんから帰ってきました。約3千円かかったと言っていました。とくに意味もありませんが、グッドタイミングではあります。帰り道、メールボックスによると、次の本が入っていました。
アントニオ・タブッキ『イザベルにある曼茶羅』和田忠彦訳、河出書房新社、2015
和田先生、いつもご高配、ありがとうございます。
ひとりで4時20分、室温18.8度。ちいさいちびは久しぶりのオフなのでバスケ部の友達と遊びに行きます。6時50分に起こします。ちょっと天気がいまいちですが、こればかりは仕方がない。
就職してはじめて4月1日から始動します。午前中に辞令交付、午後打ち合わせ。明日もほぼ似たような感じで動きます。
おおきいちびは今日から身分的には高校生。医療費がかかるようになります。(杉並区は中学生までは医療費がただです。)
大学の教務サイトは早朝から2015年バージョンに切り替わっていました。スタートが早いので、こういう配慮は重要です。
→8時半に武蔵境に着きました。次の電車まで12分。駅の外にあるパン屋さんで昼食のパンを買ってから、8時42分武蔵境発の電車で大学へ。桜が満開です。学生たちの雰囲気も新しい。
メールボックスで郵便物を受け取り、時間割等の冊子を必要な部数ピックアップして研究室へ。メールボックスには予想よりずっと多くのものがありました。
研究室でデスクワーク。
辞令交付は11時からです。5分前に学長室前に集まるよう指示がありました。ちょうど5分前に学長室につくと数十名が集まられていました。学長室のドアから秘書室までの廊下までその数十名で列を作りました。学長直々に「○○を兼務する」という辞令を受け取りました。短く訓辞。
外に出て生協へ。おおきいちびの英和辞書とノートを買いました。一度研究室へ戻り、朝買ったパンで昼食。
正午、桜が見事なので、大学のまわりを歩いて見ることにしました。はじめて、キャンパスのまわりの道を一周してみることにしました。沼野先生、芝野先生がブログやツィッターで書かれていますが、外語と警察学校との間の道路、それから東京スタジアムから外語までの道路は、桜のトンネルになっていました。なるほど、桜の隠れた名所と言っていいでしょう。
私の足で1周20分でした。
駅前のコンビニでちょっとした買い物をしてから研究室に戻りました。学会の仕事を持ってきています。午後は、その仕事に取り組みました。わおー、たいへん。どうなっているのかの分析だけは最後まで行うことができました。なおしはすぐには無理です。
3時から科長室で打ち合わせ。科長室に向かうと、科長室の前で、科長は前の会議が長引いているということでしばらく自室で待機して下さいという指示があり、研究室に戻りました。10数分で電話があり、科長がお戻りになられました、ということです。再度科長室へ。2時間強の打ち合わせがありました。
ちいさいちびのよみうりランドの天気を心配していましたが、なんとか日が暮れるまではもちました。帰宅すると、おおきいちびもいません。友達とバスケをするために、スポーツセンターに行っているそうです。9時まで体育館を借りたそうです。
ちびどもの帰りを待たずに、小学生と就寝しました。
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