ひとりで4時45分、室温23.6度。曇り。朝早い時間帯にはまだ光がありましたが、時間が経つにつれ、空が暗い雲に覆われはじめ、こどもたちがでかけるころには、いつ降ってきてもおかしくないどんよりとした空模様になりました。12時に判子、1時から定例の会議。ちなみに明日は12時40分から会議。
9時42分武蔵境発の西武線。
正午過ぎ、生協からウェブで発注した『フォントネル研究』第4号( Fontenelle entre Science et Rhetorique )が届いたという連絡があったので、とりに行きました。\3018。生協もなかなか安い。
1時からの会議は予想外に長引いて、3時50分前まで。本日大学にもう用事はありません。帰り際、メールボックスに寄ると、次の本が入っていました。
リュドラ・ウリツカヤ(絵ウラジミール・ニュバロフ)『子供時代』沼野恭子訳、新潮クレストブックス、2015
おお、これはすばらしい絵本です。沼野先生、ご高配、いつもありがとうございます。4時4分多磨駅発の電車で帰途につきました。
ひとりで5時40分、室温23.9度。曇り。ちいさいちびもおおきいちびも朝練があります。6時25分に起こします。
3限の発表の学生(院生)がダウン。39度の熱が出たそうです。従って本日授業は4限のみ。授業終了後、そのまま御茶ノ水に出て、医科歯科の MMA 運営委員会。午後6時からです。医科歯科の会議はほぼ時間通りにはじまり、おわります。予定が立てやすい。
11時半武蔵境発の西武線。
図書館に次の本が入っているのを見つけ、借りた本を返すと同時に借りてきました。
エフ・フェルフル、ア・ズュッセングート『化学技術史』原野太郎訳、慶応書房、1942
扉を開けてみると、私が平成3年度に科研費で購入した書物でした。科研費で購入して寄贈したことになっています。記憶はありません。ドイツ語原著は1936年、英訳は1939年の著作です。すなわち、戦前のものです。
第1章が古代の化学、第2章が中世の化学、第3章が十六世紀と十七世紀前半、第4章が科学的化学の建設者たち、とここまではまったく普通の化学史の通史です。次に附章で工業化学があって、第5章が十九世紀初期の化学、そしてもう一度附章で化学産業技術です。ドイツ語の原題は、Kurzgeschichte der Chemie、英訳のタイトルがA Pictorial History of Chemistry なので、『化学技術史』という邦訳のタイトルは、誤解を招くものとなっています。内容的に言えば、化学史の通史または概説書に分類すべき本でした。こういうのは、中味を見ないとわからないことです。4時16分多磨駅発の電車で御茶ノ水へ。ほぼ5時に御茶ノ水駅に着きました。まず駅前の中華料理屋で夕食(湯麺)。それからすぐ前の丸善で本を見ました。雑誌1冊とルーズリーフ2袋を買って、孔子廟の方から医科歯科の(たぶん)事務棟へ。2階の奥の部屋。5時55分に着きました。時計は見ていませんでしたが、6時5分ぐらいにスタートし、6時25分ぐらいに終わりました。医科歯科の会議は短くてありがたい。6時55分西荻窪駅に着きました。駅前のセブンイレブンでアイスとパンを買ってから帰宅。
帰宅すると次の本が届いていました。
Barbara Maria Stafford and Frances Terpak,
Devices of Wonder: From the World in a Box to Images on a Screen,
Getty Publications, 2001
本を見ると、どうも見覚えがあります。2003年9月25日に購入していました。本棚の場所もすぐに見つけました。まあ、こういうこともあります。
ひとりで5時25分、室温24.6度。晴れ。きれいな青空が広がっています。気持ちのよい朝。しかし、暑くなりそうな雰囲気です。午後、妻とおおきいちびが買い物にでかけました。妻の携帯の2年間契約がそろそろ2年となります。妻がいろいろ調べて、今回は、au へ乗り換えるのが一番安上がりだということになり、吉祥寺のお店で具体的に聞いてみることにしたものです。期末決算セールでしょうか、本日限りの特典というのがあり、それにするということです。j-com とのセット割というのが使えるそうです。
おおきいちびが途中で保険証をとりにきました。いつも妻、おおきいちび、ちいさいちび3つセットで乗り換えます。おおきいちび、ちいさいちびの分の保険証が要るということでした。
おおきいちびは服が欲しいと言って買い物に行っています。携帯の手続きが終わってから、買い物をするそうです。小学生と私の夕食はまかせるという伝言がありました。ちいさいちびは、午前中友達4人で豊島園。吉祥寺に帰ってきて、バスケ部女子で4時からスイパラ。6時と7時のあいだに帰ってきました。夕食は要らないそうです。
妻とおおきいちびは、9時前に帰ってきました。妻はiPhone6 3台の入った袋をもって、おおきいちびは新しい服とサンダルで帰ってきました。おおきいちびはこれで高校生らしくなったと言っていました。満足したようです。
妻は帰ってから、3台のデータの引越作業でてんてこまい。午前2時までになんとか基本の引越はできたようです。
ひとりで4時40分、室温24.8度。雨。昨日降り始めた雨が降り続いています。小学生は土曜学校。おおきいちびは午前練。ちいさいちびは午後練。妻は午前中から高校の保護者会。ということで、午前中は、私とちいさいちびだけが家にいます。お昼に小学生、おおきいちびの順に帰ってきます。妻は学校でお弁当がでるので、昼下がりに帰ってくることになります。そして夜はバスケ部(ちいさいちび)の保護者会。
おおきいちびは7時半雨のなか出かけていきました。バスに乗るということです。
小学生は7時57分、いつもとおりやはり傘をさしてでかけました。
妻は9時40分のバスに乗るということで、9時半頃でかけました。
ちいさいちびの練習は午後1時からです。12時半にでかけるということです。11時半に昼食。私とちいさいちびの分をマクドナルドで買ってきました。自転車で出かけました。つまりそのときには雨が止んでいました。
妻は、3時過ぎ、おおきいちびはその10分後ぐらいに帰ってきました。
ひとりで4時50分、室温25.7度。金曜日にはいつも来週の会議予定が事務より送られてきます。カレンダー(手帖)と照らし合わせながら確認し、抜けているところは書き込みます。あと2週で学期が終了します。期末の処理もありますし、きちんとしたスケジュール管理が必要となります。
7月10日に春学期が終了したあとには、成績評価と普通の会議が待っています。7月いっぱいは春学期中とほぼ同じ形で会議があります。今のところ8月の会議は来ていません。
私の場合、ことし一番大変なのは、9月の第2週です。月曜日から木曜日まで6時〜9時10分に医科歯科の集中講義が待っています。それだけならば、ずっと以前に引き受けたことなので心の準備はあるのですが、同時に、会議があります。とくに火曜日と水曜日は午前中に大学に行って会議、夕刻から御茶ノ水にでて、授業。準備のこともあり、そこがすこし辛いところです。そしてその翌週の金曜日から駒場の非常勤がはじまります。
本務校(外大)の秋学期(以前の2学期、外語でカウントすると3学期)は、10月1日スタートですが、10月1日に授業はありません。授業は翌2日(金曜日)からはじまります。他の曜日と日数を揃えるための措置だと思われます。秋学期の終了は1月の第3週、1月22日となります。気がつくと雨が降っていました。ぼんやりしていたので、いつ降り始めのかわかりません。定期考査の終わったちいさいちびが2時過ぎ、今日は、再登校だったいって帰ってきました。部活は3時からだそうです。
[加藤邦興氏の化学技術史研究]
雑誌『化学史研究』に二つの文献リストを掲載しました。
大野誠編「日本における化学史文献:世界篇」会誌第33巻(2006)
吉本秀之編「日本における化学史文献:日本篇」会誌第34巻(2007)
田中さんがウェブ上からこの2つをあわせて検索できるようにしてくました。それによると、"加藤邦興"の検索結果は次の2点です。
加藤邦興『化学の技術史』オーム社(1980)
河野通博・加藤邦興編著『阪神工業地帯―過去・現在・未来―』法律文化社(1988)
最近のぎへんのかがくし学会にはきちんとは参加していませんが、院生の頃からしばらくはよく仕事をしていました。東工大にもよく通いました。当然、加藤邦興さんの名前は知っていました。しかし、(私自身が化学史家でなかったということもあり)化学技術史家という認識はありませんでした。
事情はともあれ、『化学史研究』に掲載した二つの文献リストには、加藤邦興氏の仕事の重要な部分が欠けたことになります。
なお、ウェブに故加藤邦興教授遺稿『加藤邦興『公害と技術の近代史』第3章「公害地帯の形成」(部分)』2010年2月(編集・解題:市川浩)という文献があります。
加藤邦興氏(1943-2004)が2004年急逝されたとき、門下生が加藤宅の整理にあたっていて、『公害と技術の近代史』と題する200字詰め原稿用紙800枚(400字詰め原稿用紙換算400枚)を越える手書き原稿を発見されています。その第1章、第2章は、単発の論文として多く発表されているが、第3章はごく一部を除き未発表に止まる。
「この遺稿第3章は、水俣病裁判にも積極的にコミットし、数々の公害反対運動に実践的な貢献を重ねてきた加藤氏の、歴史上の公害諸事件を“運動”の視点から捉えようとする視点に貫かれており、種々の公害事件に巻き込まれた住民、技術者、ジャーナリスト、裁判官、そして企業経営者の生々しい声に満ちた、一種独特の迫力をもつ記述が繰り広げられている。」
ご遺族の許可を得て、活字化し、本(非売品)として世に送り出した。
こういうふうに市川さんは記されています。加藤邦興さんの東工大における師匠は、山崎俊雄さんです。加藤邦興さんは『化学の技術史』のはしがきで次のように書かれています。「化学技術史については、恩師山崎俊雄先生による名著『化学技術史』が刊行されているが、すでに25年も前の著作であり、今日では手に入りがたい。また、他にも著作がないわけではないが、その多くは、むしろ経済史ないしは産業史であり、あるいは科学史としての工業化学史、応用化学史に属するものである。」(p.iii)
推薦序文で藤田重文さんは「ここ数年来、大学の工学部にある工業化学・応用化学・化学工業など化学に関係のある学科の志望者が少なくなっている」が、そうした学科のカリキュラムは技術者向けではなくむしろ科学者向けとなっていて、大学院を上に進めば進むほどそうなっているように思われる、と書かれています。山崎俊雄さんに直接会った記憶はありませんが、知っています。大野誠編「日本における化学史文献:世界篇」と吉本秀之編「日本における化学史文献:日本篇」では、4点をピックアップしています。
アグリコラ(三枝博音訳, 山崎俊雄編)『デ・レ・メタリカ 全訳とその研究』岩崎学術出版社(1968)
山崎俊雄「近代化学技術の一成立過程――漂白業の革命と酸・アルカリ生産技術」『科学史研究』第12号(1949):10-17
山崎俊雄「近代日本窯業の祖ワグネル畧伝」『窯業協會誌』71(815)(1963): C561-C562
山崎俊雄『化学技術史 : 大工業と化学技術』(科学史大系6))
私は他に山崎俊雄『技術史』(東洋経済新報社、1961)を持っています。加藤邦興さんが25年前というのは、山崎俊雄『化学技術史 : 大工業と化学技術』(中教出版、1953)です。私の誕生の5年前です。山崎さんは技術史家であり、『物理技術史』(中教出版、1952)、『技術の歴史』(毎日新聞社、1956)もあります。たぶん、今は、物理技術史という用語は使わないと思います。「日本における化学史文献:世界篇」(2006)と「日本における化学史文献:日本篇」(2007)がピックアップできている、タイトルに“化学技術史”を含む著作は出版年順にならべると次のようになります。
山崎俊雄『化学技術史 : 大工業と化学技術』(科学史大系6)中教出版(1953)
柴村羊五『日本化学技術史』日刊工業新聞社(1959)
道野鶴松『化学技術史』朝倉書店(1965)
山田圭一『現代化学技術史』コロナ社(1966)
本田一二『ものがたり化学技術史』科学情報社(1970)
加藤邦興『化学の技術史』オーム社(1980)
鈴木明『人物・化学技術史』日刊工業新聞社(1987)
岡崎達也『近代化学技術史ノート』(改訂第2版), 徳島化学工学懇話会(1990)
サイニーを使って2点それ以前を補うことができます。
F.Ferchl, A.Sussenguth共著 『化學技術史』原野太郎訳、慶應書房、1942
『東京工業試験所五十年史 : 創立五十周年記念出版』東京工業試験所、 1951
こうしてみると、用語と概念規定の問題がかなり大きいことがわかります。加藤邦興さんは、“化学技術史”として提示されている内容が多く「むしろ経済史ないしは産業史であり、・・・工業化学史、応用化学史に属するもの」だと批判されていますが、加藤邦興さんの著作そのものが、やはり、産業化学に関するもの、工業化学、応用化学、化学工業、化学関連工業を扱われています。時代的変化の問題もありますし、大学の工学系の化学と理学系の化学の関連の問題もあります。ひとまず、対象毎に丁寧に対応する必要があることは間違いありません。
ひとりで5時45分、室温25.1度。おお、室温が25度を上回っています。晴れ。湿度の高い晴れです。小学生は6時過ぎに起きてきました。定期考査2日目のちいさいちびは昨日と同じく7時に起こしました。妻は7時過ぎに起きてきました。高校入学の興奮からやっと冷めたおおきいちびはやたら眠いようです。昨夜も私と小学生が2階に上がるときソファーで寝ていました。朝練も今週は一度も行っていないようです。ちいさいちびによれば、おおきいちびは根性がないそうです。ちいさいちびは起こせばすぐに起きます。おおきいちびは10分後も20分後もそのまま寝ていることがあります。
10時半武蔵境発の西武線。
4限5限の授業。6時52分多磨駅発の電車。3人の学生といっしょになりました。
帰宅すると次の本が届いていました。
加藤邦興『化学の技術史』 オーム社、1980
第1部が近代化学技術の成立、第2部が独占形成期の化学技術、第3部が化学技術の現代史、となっています。
もっと詳細には、次です。
第1部 近代化学技術の成立―産業革命から19世紀前半まで―
第1章 無機化学工業の形成(産業革命、織物仕上げと酸工業、アルカリ工場)
第2章 石炭乾留工業の登場(コークス製銑、都市ガス工業)
第3章 窯業の発展(陶磁産業の近代化、セメント工業)
第4章 農業と化学技術
第2部 独占形成期の化学技術―19世紀後半から20世紀初頭まで―
第5章 タールの化学工業(有機合成、合成染料工業、医薬品)
第6章 天然有機物の化学工業(油脂、林産物、火薬)
第7章 工業用高温炉の確立と発展(ガスとコークス、鉄鋼技術、窯業)
第8章 基幹製品部門での技術変革(ルブラン法、鉛室法と接触法、アンモニア・ソーダ法)
第9章 電気化学工業の成立(電気分解工業、電気炉)
第3部 化学技術の現代史―20世紀―
第10章 現代化学技術の成立条件(戦争、巨大独占体、化学工学の成立)
第11章 アンモニア合成と現代化学技術
第12章 石油精製工業の隆盛
第13章 有機合成工業の展開
第14章 高分子の化学工業
第15章 今日の化学技術
ひとりで4時35分、室温23.6度。昨夜、かなり強い雨が降りました。今は止んでいます。→玄関を開け、外を見ました。快晴に近い晴れ。暑くなりそうです。昨夜から今朝までに期末レポートが2点届きました。2回目のアクティブ・ラーニングの締切が今月末です。今週末から来週の月・火に集中するでしょう。同時に期末を提出する学生も一定数いると予想されます。
ちいさいちびは本日から定期考査。朝7時に起こして欲しいとのことでした。
本日も会議。12時40分から3つの会議が連続します。予定終了時刻は5時半。6時に終わればよしとしましょう。案件が多いですし、もめる内容のものもありますから、正直いつ終わるかの見通しはつきません。
子どもたちを送り出してしばらく休んでから、セイユーへ自転車で行きました。ちいさいちびはお昼に帰ってきます。ちいさいちびと妻のお昼ご飯を買ってきました。私は10時半に早い昼食を食べ、ご飯をセットしてからでかけました。
10時54分武蔵境発の西武線。
12時40分の会議は、15分遅れですみました。次の研究科教授会が終わった時点で5時40分。その次の会議の予定終了時刻を過ぎています。その次の研究院教授会は5時50分スタート、私が前に座り一部司会説明を担当しました。思わぬ所で紛糾し、全体で2時間以上予定を過ぎて終了しました。7時52分多磨駅発の電車で帰宅。同僚の先生3人といっしょになりました。ほぼ会議だけの一日でした。
[大学の水]
研究科教授会のとき、大学院執行部にペットボトルの水が配られました。ピンク色の帯にTUFS のロゴが入っています。文字を読むと、東京外国語大学は2023年建学150周年を迎えます、とあります。前に座っている学長室特別補佐の方が、ICU に同様のものがあり、学長が外語にも欲しいということで作ったということでした。
どこの水かと思い、情報を探すと、採水地は群馬県吾妻郡嬬恋村とあり、ph:7.4 硬度:19mg/l の超軟水でした。生協等で販売しているかどうかまでは聞きませんでした。
ひとりで5時、室温24.3度。1限、3限4限の時間帯に会議があります。子どもたちと同じ頃でかけます。
8時半、武蔵境発の西武線。
9時〜10時に会議。しばらく休みがあって、12時に院生が見え、署名と押印。12時40分〜15時30分まで休みなしで3つの会議が連続しました。3時52分多磨駅発の電車。帰宅すると妻がちいさいちびと同じ風邪にかかっていました。夕食をつくり、片づけものをしてから、ダウン。
こういう状況ですから、本日は会議以外にできたことはわずかです。できたことは、昨日届いた文献の残りの部分を読んだことです。加藤邦興さんの50回の連載の50回目は大学における化学工学の話し。大学における化学工学の導入は私の詳しくない分野です。基本はドイツとアメリカの比較でした。保坂秀明さんのものは、日本語の世界でよく見られるエッセイでした。対象は日本です。読み物としてならよいかもしれません。
ひとりで5時20分、室温23.4度。曇り。朝ゴミを出すため外にでると、朝日が射してきました。とりあえずしばらくは晴れの模様。9時16分武蔵境発の西武線。
まず図書館に行って ILL で届いている次の文献を受け取りました。
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-9-蒸留装置-1-古代およびアラビア」『ケミカルエンジニヤリング』16(3)(1971), 276-282
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-10-蒸留装置-2-中世」『ケミカルエンジニヤリング』16(4)(1971), 385-390
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-11-蒸留装置-3-冶金化学の時代」『ケミカルエンジニヤリング』16(5)(1971), 478-484
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-12-蒸留装置-4-16,17世紀」『ケミカルエンジニヤリング』16(7)(1971), 728-734
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-13-蒸留装置-5-17世紀後半〜18世紀」『ケミカルエンジニヤリング』16(8)(1971), 835-842
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-14-蒸留装置-6-連続蒸留装置の成立」『ケミカルエンジニヤリング』16(9)(1971), 931-937
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-15-蒸留装置-7-連続蒸留装置の完成」『ケミカルエンジニヤリング』16(10)(1971), 1067-1073
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-50完-化学工業-下-」『ケミカルエンジニヤリング』26(2)(1981), 152-156保坂 秀明「食品製造の道具と装置の歴史-8-蒸留-1-」『ケミカルエンジニヤリング』32(3)(1987): 242-247
保坂 秀明「食品製造の道具と装置の歴史-9-蒸留-2-」『ケミカルエンジニヤリング』32(4)(1987): 318-322
保坂 秀明「食品製造の道具と装置の歴史-10-蒸留-3--」『ケミカルエンジニヤリング』32(5)(1987): 401-405
保坂 秀明「食品製造の道具と装置の歴史-11-蒸留-4-」『ケミカルエンジニヤリング』32(6)(1987): 493-496
加藤さんの蒸留装置史をまず読みました。1970年代の仕事としてはこれで OK ではないでしょうか。もちろん、個人的に意見が異なる点はありますが、それはどういうものにでもあるものです。
→とりあえず、以上私が読んだ蒸留技術史の部分を、加藤邦興『化学機械と装置の歴史』 (産業技術センター、1978)と比較しました。『ケミカルエンジニヤリング』に連載した論考をもとに組み直しています。
「蒸留装置(1)」は2章の3、「蒸留装置(2)」は2章の3の「アルコールの発見」(pp.66ff.)から2章の最後まで(p.76)、「蒸留装置(3)」は3章の1、「蒸留装置(4)」は第3章の3、です。「蒸留装置(4)」の最後の文は「この製造法は装置が鏡(ベル)状をしていたため、ふつうベル法とよばれている」とありましたが、本では正しく「この製造法は装置が鐘(ベル)状をしていたため、ふつうベル法とよばれている」と直されています。本人が気づいたか、誰かに指摘されて訂正したのでしょう。鐘(ベル)状の装置(すなわちイオウから硫酸を製造する装置)の図版は、ル・フェブルの1660年のものを採用しています。一瞬、研究所に行って、スキャン。
3限4限の授業。
4時18分多磨駅発の電車。
ひとりで5時30分、室温23.1度。曇り。どうも私もちいさいちびと同じような体調です。歳なので熱はでていませんが、夏風邪の未病といったところです。
晴れてきました。梅雨の間の貴重な晴れ間です。おおきいちびは、7時と8時の間に、午前練にでかけました。私は10時過ぎに、作業の終わった校正刷りを投函するため郵便局に行き、ついでにセイユウに寄って、若干の買い物。バターは、ほんとうに少なくなっています。普通の大きさのバターはそもそも棚に置いていませんし、値段も高くなっています。ケーキ屋さんはたいへんだろうな。
そういえば、昨夜ぼんやりテレビを見ていたら、東京のホテルがとれないと言っていました。円安で外国人観光客が増え、直近で予約しようとすると、ビジネスホテルはどこも満室なんだそうです。私は東京に住んでいるので、もちろん、それで不便ということはありませんが、学会で苦労している人は少なくないのでしょう。ちいさいちびは夕刻になってやっとすこし復活したようです。
ひとりで5時10分、室温22.1度。やはり雨は上がっています。→玄関を開けてみました。東の空から朝日が射してきます。とりあえず、朝のうちは晴れ。[保護者説明会]
本日は、午後に仕事。「保護者への説明会」というのがあり、2時40分から4時まで114教室に座っています。私は大学院担当のコーナーにいます。10時6分武蔵境発の西武線。研究室で事務処理。回答すべきアンケートに回答しました。その後、研究所でスキャン。金曜日の6限に講演会を行った同僚の先生が片づけに見えました。
11時半、建物をぐるっと一周して、学生課を探し、お昼のお弁当をもらってきました。小林義雄『世界の顕微鏡の歴史』( [小林義雄], 1980)をパラパラ読んでいると、何点か新しくわかりました。
1.V. 顕微鏡雑記、p.189 . Edward Scarlett (1677-1743) 1720年頃の引札(trade card)に暗箱が掲載されています。つまり商品として売られていたということです。→今ならネットで見つかると思い、検索をかけるとすぐでした。 The Edward Scarlett Trade Card としてアンティークの眼鏡のサイトに出ています。なんと、これがおそらく、つる(テンプル、腕)のついた最初の眼鏡ということのようです。そうだとすれば、つる付きの眼鏡は18世紀初頭にできたということになります。
そこから出発して、The Magic Mirror of Life のサイトに辿り着きました。これもよくできたサイトです。
2.この書物は、1980 の出版年をもちます。ということは、1970年代に準備されています。p. 223 の文献リストを見ると、デカルト(1637)やフック(1665)の他に、ショットの光と陰の普遍魔術(1677)やマーティン(1742)が引用されています。1970年代の日本ではそうそう簡単に見ることのできる書物ではありません。もし入手されていたらえらいなと思っていたら、オクスフォードの王立顕微鏡協会を尋ねたときに、見せてもらっています。(p.207) 「要点や主な図版を撮影する。」すなわち、写真に撮っています。そして、「古顕微鏡の研究者で博物館の学芸官である G. L'E. Turner 」さんに会っています。
3.著者の小林義雄さんは、1907年生まれです。東大理学部植物学科を卒業後、1941年に満州国国立博物館薦任官に任官しています。1945年に満州国国立博物館が自然消滅すると、1947年に帰国し、東京科学博物館研究官に任官し、1971年に免官(たぶん定年退職)となっています。その後、小林菌類研究所を設立し、自身で所長を務めています。
→満州国国立博物館は、興味深い存在です。今どきであれば、研究があるだろうと調べてみると、21世紀に入ってから活発化しています。時間があるときに研究動向をまとめてみようと思います。114教室には5分前に入りました。学生課の方々が窓口で捌いてくれています。どうせ私はヒマだろうと思っていたのですが、3時55分まで相談が続きました。お母さんが5名。学生課長から先生の今日の仕事はこれで終わりですと言ってもらったので、研究室に戻り、荷物を片づけてから、帰途へ。4時16分多磨駅発の電車。駅前のローソンでアイスコーヒーを買いました。
土曜日なので、赤い電車は西荻に停車しません。行きは吉祥寺で乗り換えましたが、帰りは三鷹で乗り換え。ミニクロワッサンとおやつになる鳥手羽先の唐揚げを買って、東西線へ。
4時半過ぎに帰り着きました。朝方泣いていたちいさいちびは軽い夏風邪のようです。微熱がでたということです。
帰宅すると、翻訳のゲラ(2校)が届いていました。夕食の前後でチェックしました。ほぼ赤の必要はありませんでした。
ひとりで5時40分、室温23.1度。とりあえず、雨は上がっています。
子どもたちが学校にでかけたあとぐらいから強い雨が降り始めました。しばらくすると強い雨は収まりましたが、梅雨らしい天候が続きます。9時を過ぎて室温が22.1度。息子はしきりに春と夏が逆転したと言っています。
ひとりで4時20分、室温24.0度。雨は上がっています。晴れてはいません。午後に授業。
9時54分武蔵境発西武線。2限の授業に出る学生が電車にいっぱいです。研究室でデスクワーク。
昼食後、ILL でお願いした本が届いたという連絡がありました。早速図書館に取りに行きました。
小林義雄『世界の顕微鏡の歴史』 [小林義雄], 1980
図書館に着くと、もう1冊も届いています。手続きを進めているので5分お待ち下さいということでした。雑誌コーナーをブラウジングして5分過ごしました。それからカウンターに向かい、次の本を受け取りました。
林春雄『写真で見る顕微鏡発達の史的展望』[林春雄], 1988
小林義雄さんの本は、前半が日本への顕微鏡の導入史、後半が西洋における顕微鏡発達史でした。林春雄さんの本は、顕微鏡の歴史的写真集でした。4限5限の授業。
6限の授業。アクティブ・ラーニングのために、Dancing in the Street から vol.3 R&B の勃興とその終焉を見ました。何人かコメントを書くのを粘った学生がいて、終了が7時半。7時54分多磨駅発の電車。昨日に続き、帰宅が遅くなりました。
ひとりで4時30分、室温24.6度。夜半降っていた雨は上がっています。朝一番で次の本が届きました。
加藤邦興『化学機械と装置の歴史』 産業技術センター、1978
私の関心から言えば、ずっと以前に入手しておくべき書物でした。理由は不明ですが、見落としていました。→まえがきに、つぎのようにあります。「本書の基礎となった諸論文は、もともと化学工業社発行の『ケミカルエンジニヤリング』誌上に一九七〇年五月より「化学機械装置の歴史」シリーズとして連載されたものであり、若干の論文は、当時、東京工業大学技術史研究室の研究生であった諸子との共著である。」具体的には、木本忠昭氏(広島大学)、武田邦男氏(シー・エムー・シー)、雀部晶氏(国立科学博物館)の三名の名前を挙げています。
連載とは具体的には次です。
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-1-乾式集塵装置-1-サイクロンを中心として」『ケミカルエンジニヤリング』15(5)(1970), 529-534
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-2-乾式集塵装置-2-電気集塵装置」『ケミカルエンジニヤリング』15(6)(1970), 605-611
青山 邦男 [他]「化学機械装置の歴史-3-蒸発装置」『ケミカルエンジニヤリング』15(7)(1970), 818-824
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-4-粉砕機-上-19世紀以前」『ケミカルエンジニヤリング』15(8)(1970), 903-908
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-5-粉砕機-中-19世紀以降」『ケミカルエンジニヤリング』15(10)(1970), 1117-1122
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-6-粉砕機-下-」『ケミカルエンジニヤリング』15(12)(1970), 1307-1312
馬場 政孝 [他]「化学機械装置の歴史-7-高圧反応装置-1-オートクレーブ」『ケミカルエンジニヤリング』16(1)(1971), 80-85
馬場 政孝「化学機械装置の歴史-8-高圧反応装置-2-アンモニア合成をめぐって」『ケミカルエンジニヤリング』16(2)(1971), 80-85
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-9-蒸留装置-1-古代およびアラビア」『ケミカルエンジニヤリング』16(3)(1971), 276-282
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-10-蒸留装置-2-中世」『ケミカルエンジニヤリング』16(4)(1971), 385-390
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-11-蒸留装置-3-冶金化学の時代」『ケミカルエンジニヤリング』16(5)(1971), 478-484
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-12-蒸留装置-4-16,17世紀」『ケミカルエンジニヤリング』16(7)(1971), 728-734
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-13-蒸留装置-5-17世紀後半〜18世紀」『ケミカルエンジニヤリング』16(8)(1971), 835-842
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-14-蒸留装置-6-連続蒸留装置の成立」『ケミカルエンジニヤリング』16(9)(1971), 931-937
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-15-蒸留装置-7-連続蒸留装置の完成」『ケミカルエンジニヤリング』16(10)(1971), 1067-1073
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-16-蒸留装置-8-タール工業と装置」『ケミカルエンジニヤリング』16(12)(1971), 1297-1302
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-17-蒸溜装置-9-石油精製装置」『ケミカルエンジニヤリング』17(1)(1972), 119-124
木本 忠昭「化学機械装置の歴史-18-電気炉-1-冶金を中心として」『ケミカルエンジニヤリング』17(4)(1972), 424-432
大本 忠昭 [他]「化学機械装置の歴史-19-電気炉-2-カーバイド炉」『ケミカルエンジニヤリング』17(5)(1972), 561-568
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-20-」『ケミカルエンジニヤリング』17(10)(1972), 1094-1099
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-21-窯炉-1-近代以前の陶磁器窯」『ケミカルエンジニヤリング』18(3)(1973), 323-327
馬場 政孝「化学機械装置の歴史-22-窯炉-2-近代以前のガラス炉」『ケミカルエンジニヤリング』18(4)(1973), 440-444
馬場 政孝「窯炉-3-17世紀以降のガラス炉(化学機械装置の歴史-23-)」『ケミカルエンジニヤリング』18(6)(1973), 689-693
馬場 政孝「高圧反応装置-3-ベルギウスの石炭液化法(化学機械装置の歴史-24-)」『ケミカルエンジニヤリング』18(8)(1973), 912-918
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-25-窯炉-4-17,18世紀のヨーロッパ窯業」『ケミカルエンジニヤリング』18(10)(1973), 1135-1140
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-26-窯炉-5-19世紀以後の発達」『ケミカルエンジニヤリング』18(11)(1973), 1240-1245
加藤 邦興「窯炉-6-19世紀のセメント窯(化学機械装置の歴史-27-)」『ケミカルエンジニヤリング』18(12)(1973), 1385-1390
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-28-窯炉-7-回転窯.」『ケミカルエンジニヤリング』19(1)(1974), 113-118
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-29-濾過機-上-古代から19世紀まで」『ケミカルエンジニヤリング』19(5)(1974), 465-472
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-30-濾過機-中-連続式濾過機の成立」『ケミカルエンジニヤリング』19(9)(1974), 465-472
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-31-冶金炉 青銅の時代」『ケミカルエンジニヤリング』20(1)(1975), 66-71
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-32-冶金炉-2-鉄冶金の発見と古代の製鉄炉」『ケミカルエンジニヤリング』20(3)(1975), 241-248,
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-33-冶金炉-3-中世」『ケミカルエンジニヤリング』20(6)(1975), 537-543
雀部 晶 , 加藤 邦興「化学機械装置の歴史-34-冶金炉-4-コ-ク高炉の成立」『ケミカルエンジニヤリング』20(8)(1975), 729-735
雀部 晶 , 加藤 邦興「化学機械装置の歴史-35-冶金炉-5-18世紀における錬鉄と鋼の製造」『ケミカルエンジニヤリング』20(9)(1975), 817-823
雀部 晶 「化学機械装置の歴史-36-冶金炉-6-19世紀,熱風炉と転炉の発明」『ケミカルエンジニヤリング』20(11)(1975), 984-989
雀部 晶「化学機械装置の歴史-37-冶金炉-7-19世紀,平炉と塩基性耐火材の発明」『ケミカルエンジニヤリング』21(6)(1975), 146-152
雀部 晶「化学機械装置の歴史-38-冶金炉-8-クルップ製鋼所」『ケミカルエンジニヤリング』21(6)(1976), 539-544
雀部 晶「化学機械装置の歴史-39-冶金炉-8-たたら製鉄」『ケミカルエンジニヤリング』21(10)(1976), 927-928,945〜948
雀部 晶「化学機械装置の歴史-40-冶金炉-10-わが国における洋式高炉の導入について」『ケミカルエンジニヤリング』22(1)(1977), 67-72
雀部 晶「化学機械装置の歴史-41-冶金炉-11-銑鉄・錬鉄一貫製鉄技術の導入」『ケミカルエンジニヤリング』22(4)(1977), 375-380
雀部 晶「化学機械装置の歴史-42-冶金炉-12-官行釜石製鉄所の失敗をめぐって」『ケミカルエンジニヤリング』23(1)(1978), 93-97
雀部 晶「化学機械装置の歴史-43-冶金炉-13-釜石田中製鉄所における木炭高炉技術の確立について」『ケミカルエンジニヤリング』23(4)(1978), 344-349
雀部 晶「化学機械装置の歴史-44-冶金炉-14-わが国におけるコ-クス高炉の成立」『ケミカルエンジニヤリング』23(7)(1978), 657-663
雀部 晶「化学機械装置の歴史-45-冶金炉-15-近代製鉄技術の確立に向けて-1-」『ケミカルエンジニヤリング』24(1)(1979), 111-115
雀部 晶「化学機械装置の歴史-46-冶金炉-16-近代製鉄技術の確立に向けて-2-」『ケミカルエンジニヤリング』24(4)(1979), 362-367
雀部 晶「化学機械装置の歴史-47-冶金炉-17-近代製鉄技術の確立に向けて-3-」『ケミカルエンジニヤリング』24(7)(1979), 625-630
雀部 晶「化学機械装置の歴史-48-冶金炉-18-近代製鉄技術の確立」『ケミカルエンジニヤリング』24(10)(1979), 1054-1058
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-49-化学工業-上-」『ケミカルエンジニヤリング』25(8)(1980), 652-656
加藤 邦興「化学機械装置の歴史-50完-化学工業-下-」『ケミカルエンジニヤリング』26(2)(1981), 152-156
以上、1970年5月号からはじまり、1981年2月号まで12年にわたる連載です。しかも、かなりの割合は、馬場 政孝さん、雀部 晶さん、木本 忠昭によります。午後すぐに会議が始まります。予定では比較的はやめに終了します。夕刻、総合文化研究所のコンパ。
10時6分武蔵境発の電車。ちょうど2限がはじまる時刻です。デスクワークを少し行い、昼食を食べ、しばらく休んでいると、会議の時刻。12時40分から13時30分まで。私が司会をしました。次の会議が13時30分から予定されています。1分前にうまく終了。次の会議というのは、まず両学部合同会議。それから各学部会議。終了は20分程度の遅れですみました。
お昼前一天俄にかき曇りという感じで空が真っ黒になり降ってきた雨はまだ降り止んでいません。外に出ようと思っていたのですが、諦めました。15分前に総合文化研究所へ。5時半からコンパです。
正確には、5時半から、4人の新任の先生方の自分の研究のお話し。どれも非常に興味深いものでした。ああ、そういうことを、そういう流れで、されているんだということがよくわかりました。
コンパは7時ぐらいから。持ち寄り方式なので、ワインが数多く集まりました。
盛り上がりました。所長が9時にそろそろと声をかけて、みんなで片づけを行い、9時40分多磨駅発の電車で帰ってきました。10人以上が同じ電車で帰途に着きました。
帰宅すると、ちいさいちびだけが起きていました。お風呂に入り、酔い覚ましにしばらくニュース番組を見てから、就寝。
ひとりで4時10分、室温25.8度。曇り。梅雨らしい曇り空。
昨日の朝、首を痛めています。軽い寝違えの症状です。ひどいわけではないのですが、それなりに辛い。午後に会議。
9時42分武蔵境発西武線。大学に着いてから、ILL の発注作業を行いました。装置の歴史、器具の歴史関係です。図書の発注も行いました。
会議は2時40分から。こちらは順調に進んで、30分休憩時間ができました。次の会議は4時から。こちらは長引いて、やはり6時を大きく回りました。すぐに帰途に着きましたが、6時40分多磨駅発の電車でした。帰宅は7時過ぎ。[全般的な装置の歴史]
個別の装置・器具の歴史ではなく、全般的な装置・器具の歴史書を見る必要を感じています。雑誌の特集としては、このサイトで2014.12.2に、 ISIS (Focus: The History of Scientific Instruments) 102(2011)、OSIRIS, 2nd series, vol. 9(1993)を挙げています。そして、Instruments of Science: An Historical Encyclopedia(London, 1998)には恐らくそうした文献表があがっているに違いないと考え、その邦訳『科学大博物館-装置・器具の歴史事典』(2005)を部屋の中で探しました。はじめの部分でリストアップされています。
Bennett, The Divided Circle: A History of Instruments for Astronomy, Navigation and Surveying, Oxford, 1987
Maurice Daumas, Scientific Instruments of the Seventeenth and Eighteenth Centuries, trans. by Mary Holbrook, New York, 1972
Anthony Turner, Early Scientific Instruments, Europe 1400-1800, London, 1987
Gerald L'E. Turner, Nineteenth-Century Scientific Instruments, Berkeley, 1983
Albert Van Helden and Thomas L. Hankins eds., "Instruments." OSIRIS, 2nd series, vol. 9(1994): 1-250ネットで調べものをして、次の文献に出会いました。
Julian Holland, "Historic Scientific Instruments and the Teaching of Science: A guide to resources," in Michael R. Matthew (ed.), History, Philosophy & New South Wales Science Teaching Second Annual Conference (Sydney: 1999): 121-29
8割方は文献案内です。こういう長さのものがちょうどよい。また、デュプレの博士論文もありました。
Sven Düpre, Galileo, The Telescope, and the Science of Optics in the Sixteenth Century, Universiteit Gent, 2002
最初の一文が「望遠鏡は発明されなかった。」わおー。すばらしい書きだしです。
ひとりで5時、室温24.1度。ちいさいちびもおおきいちびも朝練に行くと言っています。ちいさいちびは6時半、おおきいちびは6時40分、そしてお弁当つくりの妻は6時に起こすことになっています。
2限に挨拶、正午に院生から書類の受け取り、3限4限に授業。ただし、4限の時間帯には会議も入っています。研究科長には授業を優先して下さいと言われています。
8時54分武蔵境発の西武線。大学に着いてすぐに図書館へ。ILL で届いている次の本を受け取りました。
上野彦馬抄訳『舎密局必携』復刻版. 産業能率短期大学出版部, 1976
解説部だけ送ってもらいました。この書物の典拠を確認するためです。その後、手元にあるアクティブラーニングの提出物を整理しました。数が多いのでそれなりの時間がかかります。
3限4限と授業。終わってすぐに帰途。4時16分多磨駅発。
ひとりで5時、室温25.3度。曇り。起きてすぐに雨が降り始めました。小雨です。ちいさいちびは公式戦。6時半に起こしてほしいとのこと。おおきいちびは普通の部活。いつもと同じ時間でよいそうです。ちいさいちびのためにお弁当をつくる妻は6時。
ちいさいちびたちは、3年生の引退戦となったそうです。チームが敗退して、3年生はこれで引退。別会場で行われた男子も負けて、男女ともに3年生が引退。勝っていたら、試験期間中にも練習を行う予定でした。
午後、宿題が終わってから、小学生を近所の本屋さんに連れていきました。漫画を3冊買ってやりました。外にでるといくらか涼しくなっていました。
木曜日に届いた、塚原東吾編著『科学機器の歴史 : 望遠鏡と顕微鏡』(日本評論社、2015)から、装置の歴史全般に関わる部分と、顕微鏡の歴史に関する部分を読みました。
ひとりで5時、室温24.6度。曇り。→妻が中学校にでかけた9時半には晴れてきていました。昨日の夜から、今朝にかけて、スパムを含め、メールがゼロ。珍しいことです。違いました。gmail のアカウントにプロモーションのメールが2通来ていました。プロモーションのメールを開けて読むことはまずありません。実質はゼロ。でも、スパムや宣伝を含めると2通ということになります。
ちいさいちびは土曜学校、そして午後に部活。お弁当を持っていきます。おおきいちびは9時から数学の授業。部活はないそうです。小学生はお休み。
おやつのあと、次の雑誌が届きました。
『現代思想』2005年7月号 特集=イメージ発生の科学 脳と創造性 、青土社
今回のテーマに直接的関係はありませんが、間接的には繋がりました。どういう議論が展開されているのか一応手元におこうと思って発注したものです。
ひとりで5時10分、室温24.4度。雨。しとしと雨が降っています。[スタフォード on シェイピン&シェーファー]
昨日研究室の机の上に放置されていた『アートフル・サイエンス』をふと手に取り、著者解題に目を通しました。
スタフォードは次のように書きます。「視覚を抑圧しようとする手段が実験科学だったり、さまざまな図表化行為だったりしたのは皮肉である。ちょうど・・・、光学がかえって視とその対象にとっての邪魔者となった。ロバート・フックの『ミクログラフィア(微視図譜)』(や、その後塵を拝した十八世紀の一群の顕微鏡家たち)を見るとすぐわかることだが、人工のレンズを見ることに不可避的にそなわる主観性、病とも言うべき自閉性、誤りをおかしやすいことなどをはっきりさせてしまう一方、簡単にだまされてしまう裸眼を通して美しいと見えるにすぎない人工的制作物の本質的欠陥を暴いてしまったのである。
従って私としては、「その目で見た」ことをもって真理の証しと考えるたぐいの話を書く科学史家たちには首をかしげたくなる。もっと曖昧で、私見によればもっと微妙なニュアンスに富んだ知覚のエピステモロジーが必要だという証拠を出してくる(美術史研究、美学の研究を含む)イメージ化の諸様態の全体像に目を向けていれば、かのサイモン・シェイファー、ステーヴン・シェイピン共著の力作『リヴァイアサンと空気ポンプ』(1985)も一層説得力豊かな本になったはずなのだ。」(pp.368-9)
これは、スタフォードだからなしえる的を射た指摘です。たしかに科学史家はこういうふうに見ることが少ない。我々科学史家の多くが共有する盲点と言ってもよいかも知れません。[事典における顕微鏡史]
1.弘文堂の『科学史技術史事典』(1983)
顕微鏡の項目は、上野正さんが執筆されています。使われているレフェレンスは、田中新一『顕微鏡の歴史』九州文庫出版社、1979;黒柳準『光学発達史』誠文堂、1949;R. S. Clay and T. H. Court, History of Microscope, London, 1932;Royal Microscopical Society, Origin and Development of the Microscope, 1928;S. Bradbury, Evolution of the Microscope, 1967;G. L' E. Turner, Essays on the History of Microscope, 1980
ちょっとふるいですかね。2.『科学大博物館:装置・器具の歴史事典』(原著1998,邦訳 2005)
執筆者は、Gerald L' E. Turner(訳者は庄司高太氏)。レフェレンスは、ターナー本人のもの3点、Collecting Microscopes, London, 1981; Essays on the History of Microscope, Oxford, 1980 ; The Great Age of the Microscope: The Collection of the Royal Microscopical Society through 150 Years, Bristol, 1989
ちょうど弘文堂の事典のあとという感じです。3.『現代科学史大百科事典』(原著2003, 邦訳2014)
Jutta Schickore が執筆しています。レフェレンスは次(電子顕微鏡は除く)。Savile Bradbury, The Evolution of the Microscope, 1967 ; Gerald L' E. Turner, The Great Age of the Microscope, 1989 ; Marian Fournier, The Fabric of Life: Microscopy in the Seventeeth Century, 1996以上では挙げられていない顕微鏡の歴史。
ブライアン J.フォード『シングル・レンズ』伊藤智夫訳、法政大学出版局、1986
小林義雄『世界の顕微鏡の歴史』[小林義雄],1980
林春雄『写真で見る顕微鏡発達の史的展望』[林春雄], 1988
秋山実『マイクロスコープ : 浜野コレクションに見る顕微鏡の歩み』オーム社, 2012
田中祐理子『科学と表象:「病原菌」の歴史』名古屋大学出版会、2013
エンゲルハルト・ヴァイグル『近代の小道具たち』三島憲一訳、青土社、1990
サリー・モーガン『再生医療への道―顕微鏡づくりから幹細胞の発見へ (人がつなげる科学の歴史) 』 徳永優子訳、文渓堂、2010
井上勤監修『顕微鏡のすべて』地人書館、1977次の書物は、部屋のなかにあります。
Catherine Wilson, The Invisible World: Early Modern Philosophy and The Invention of The Microscope, Princeton: Princeton University Press, 1995
Edward G. Ruestow, The Microscope in the Dutch republic: The Shaping of Discovery, Cambridge: Cambridge University Press, 1996
Marian Fournier, The Fabric of Life: Microscopy in the Seventeenth Century, Baltimore and London: Johns Hopkins University Press, 1996
この3冊は出版時期が重なっています。どれも、1995-96 です。私が目を通し得た範囲では、エンゲルハルト・ヴァイグル『近代の小道具たち』(三島憲一訳、青土社、1990)の第4章「顕微鏡による自然の秘密の発見」が初期の顕微鏡史に関して日本語で読める最もよい記述だと思っています。ヴァイグルがこの章を書くために使った2次文献ですが、注を見るだけでは、はっきりしません。Hans Blumenberg とドーマを挙げています。基本がブルメンベルクとドーマなのかどうかは調べてみる必要があるでしょう。Hans Blumenberg, Der Prozess der theoritischen Neugier, Frankfurt am Main, 1980. Maurice Daumas, Scientific Instruments of the Seventeeth and Eighteenth Centuries and their Makers, London, 1972
夕刻、次の本が届きました。
山中浩司
『医療技術と器具の社会史‐聴診器と顕微鏡をめぐる文化』
(阪大リーブル016)大阪大学出版会、2009
「 顕微鏡をめぐる文化 」は、 昨日記した、山中浩司「視覚技術の受容と拒絶:一七世紀〜一九世紀における顕微鏡と科学―」『視覚と近代:観察空間の形成と変容』(名古屋大学出版会、1999)pp. 101-145 の拡張版でした。すなわち、第6章「怪物のスープ―顕微鏡の社会的イメージ」と第7章「顕微鏡のように見なさい―実験室の医学」にふくらませています。コッホの前後はかなり加筆しています。
3章4章5章は聴診器に関する部分です。第3章「聴診器が使えない?―現代医療の落とし穴」、第4章「マホガニーの神託―聴診器と19世紀医学」、第5章「伝記松葉杖なんかいらない―聴診器と医療のシンボル」。
ちなみに、1章2章とエピローグは、器具の社会史に関する理論的見通しです。第1章「プロローグ―器具から見る社会」、第2章「「不可解な過去」―技術と社会の奇妙な関係」、第8章「エピローグ―器具のパラダイス・器具のパラダイム」。
ひとりで5時、室温23.9度。曇り。夜には雨が降り始めるそうです。ちいさいちびの職場体験は、昨日で終わりました。ちいさいちびの職場体験の間は、妻は3人分のお弁当を作っていましたが、今日は休憩します。ということで、朝練のおおきいちびを6時40分、7時前には起きたい小学生を6時50分に起こすことになりました。→おおきいちびは800メートル走の練習で疲れたのでしょう、まったく起きません。小学生は6時5分に自分で起きてきました。
午後に授業。
8時42分、武蔵境発の西武線。月曜日と同じく、多磨駅で降りてから、郵便局の方へ。セブンイレブンで昼食を買ってから、郵便局へ。今日は3分ほど開店を待ちました。1番。すぐに本を発送し、研究室に。
我が家の椅子の後ろの棚から、大林信治(おおばやしんじ)・山中浩司編『視覚と近代:観察空間の形成と変容』(名古屋大学出版会、1999)を救出し、カバンに入れていました。まず、山中浩司「視覚技術の受容と拒絶:一七世紀〜一九世紀における顕微鏡と科学―」を読みました。よく書けた論文です。とくに医学との関わりに関しては、意味のある論点を提示し得ていると思います。(先行研究もしっかりとフォローしています。私の見るところ、もっともしっかりと関連文献を当たっています。)
ちょうどよいので、6月2日に行った講義のコメントシートを整理し、成績を転記することにしました。これはけっこう時間のかかる作業です。二時間弱かかりました。
昨日の延長で、スタフォードと高山さんの文章を読んでいました。4限と5限の授業。
帰宅すると次の本が届いていました。
塚原東吾編著『科学機器の歴史 : 望遠鏡と顕微鏡』日本評論社、2015
目次は次です。
塚原東吾「序 章 科学機器の歴史――検討の方法について」(科学機器を取り上げる理由:概念を支えたモノ;人間の感覚の拡張と可視化、ガリレオの科学革命;科学史的な観点:二つの「I(アイ)」;科学の物質的な基盤;科学哲学者の分析;科学の移動・越境による新展開:各論文のポイント)
三浦伸夫「第1章 数学器具としての比例尺の成立と伝搬」
中島秀人「第2章 フックの科学的業績と実験機器の技術的起源」
塚原東吾「第3章 17~18世紀オランダ科学における望遠鏡・顕微鏡・科学機器 ――エージェントとしてのオランダ科学」
隠岐さや香「第4章 望遠鏡つき四分儀と子午線測量の歴史――地図作成からメートル法まで」
平岡隆二「第5章 望遠鏡伝来と長崎」
表題頁の裏に「三浦伸夫先生の神戸大学ご退職を記念して」とあります。
塚原氏の序章に、本書は神戸大学の旧科学史教室を中心に続けてきた科学史・科学技術社会論の研究会に由来し、科研費(「望遠鏡と顕微鏡:イタリア、オランダ、イギリスとアカデミー」)によるとあります。なるほど。
→実は私はこの著作に顕微鏡研究を期待していましたが、顕微鏡は、第2章の一部、第3章の一部だけで扱われているにすぎません。タイトルと内容にいくらかの齟齬があるわけです。まあ、この程度の齟齬は仕方がありません。
→科研費(「望遠鏡と顕微鏡:イタリア、オランダ、イギリスとアカデミー」)は、ネットで調べてみると、2012年から2015年の4年間のプロジェクトでした。つまり、まだ継続中で、今年終了ということです。本が出たので、てっきり、終了したのかと思っていました。
ひとりで4時25分、室温22.6度。晴れ。今日と明日は晴れが続くという予報。おおきいちびはこの2日間は、自転車で通学できます。午後から会議が連続します。3つ。短い会議(臨時に開かれる会議)では、私がメインの部分を担当します。
朝、妻と息子のことを話してから大学へ。10時6分武蔵境発。この時刻だと多磨駅についた瞬間ダッシュする学生がいました。先生方は見かけず。
図書館から、次の本が届いたという連絡があったので、すぐに受け取りに行きました。ついでに1冊返却。
Victor Burgin (ed.), Thinking Photography, Palgrave Macmillan, 1982
最初がベンヤミン、次がウンベルト・エーコ、そして、ヴィクター・バーギン自身が3本、その他という書物です。(ヴィクター・バーギンの序文並びに第3章「写真実践と芸術理論」に関しては、ウェブに前川修さんによる翻訳があります。)研究室に入って、昨日の会議の資料の整理。午後の会議は、12時20分から。事務棟2階中会議室。終わってすぐに研究棟3階301会議室。ぎりぎりまで。終わってすぐに事務棟2階大会議室。いつもの人の不規則発言があり、10分予定より遅れました。
いろいろあって疲れたので、すぐに帰途。3時28分多磨駅発。三鷹駅構内でパン(ミニクロワッサン24個)を買い、ガード下のローソンでアイスを買って帰りました。
大学では、ヒロシ・タカヤマの神訳バーバラ・スタフォードを少しずつ読み進めています。「この10年公私ともによいことがなにもなかった」けれども、スタフォードの訳を完成できたことだけはよかった、というようなことを高山さんは書いています。スタフォードは授業で使ってみようと思っています。
ひとりで3時5分、室温23.0度。夜半から雨。気象庁が梅雨入り宣言したのも頷けます。朝練に行くという長女がでかけたときには雨が降っていました。バスも早朝には運行していません。傘をさして歩いていきました。一休みして私がでかけたときには雨はすっかり上がっていました。
正午に面談。午後会議が3つ。2つめと3つめはすこし重なっています。2つ目が終わってから3つ目の会議に駆けつけることになるかと思います。
朝一番で次の本が届きました。代金を郵便屋さんに手渡す方式(代引き)です。つまり、版元から直接送ってもらいました。
『SITE ZERO/ZERO SITE』No.3=ヴァナキュラー・イメージの人類学、メディア・デザイン研究所、2010
その本をカバンにつめて出かけました。9時42分武蔵境発の西武線。2限に出席する学生たちが電車には大勢乗っていました。メールボックスには学会宛の次の献本が届いていました。
Masanori Kaji, Helge Kragh and Gábor Palló eds.,
Early Responses to the Periodic System
Oxford: Oxford University Press, 2015
梶さんが筆頭編者の出版物です。それから図書館へ。ILL で届いたいた次の論文を受け取りました。
レオ・スタインバーグ「 他の価値基準(1)」『美術手帖』735(1997): 184-201
レオ・スタインバーグ「 他の価値基準(2)」『美術手帖』737(1997): 182-193
これは1月号から3月号の3号に分けて掲載されたレオの傑作批評です。(3)がないのは、(3)だけどうしても掲載ページを見つけることができなかったせいです。いずれ入手します。研究室に行って、すこし片づけものをしてから、レオ・スタインバーグの文章を読みました。すばらしい批評文です。批評論文を書くのであれば、こういうのを書いて欲しいという、そういう文章です。ひさしぶりにわくわくしながら読んでいました。
カバンにつめていった『ヴァナキュラー・イメージの人類学』から冒頭の対談(岡田温司×前川+聞き手:門林岳史「ヴァナキュラーという複数性の回路」だけ読みました。なるほど。「イメージ人類学」と「ヴァナキュラー文化論」の交錯のあり方を取りあげています。
12時10分、学生が来ました。海外で修得した単位を本学の単位に振替るため、教員の判子をもらいに来たものです。いろんな先生の研究室を順番に回っていました。
12時45分頃、電話がありました。研究科長室会議があるそうです。たぶん連絡をもらっていません。急いで科長室に向かいました。研究科のとくに入試関係の案件。2時半前に終わりました。
研究室にもどり、しばしの休憩。次の会議は4時半から。副が3人揃いましたが、長がきません。前の会議が延びているそうです。なんと1時間15分遅れて5時45分からはじまりました。2つの会議が連続しています。終了してそのまま駅に向かいました。8時4分多磨駅発の電車に乗ることができました。長の方々は明日も朝の9時から会議だそうです。それはちょっとつらい。私たち副は、正午過ぎからです。
家に帰り、夕食を食べ、息子といっしょに入浴し、息子といっしょに就寝しました。
ひとりで5時25分、室温23.1度。薄曇りの晴れ。
出かける前に、昨日の宿題をこなしました。ほぼできたと思います。本日は、2限に挨拶、3限4限が授業です。
すこしだけゆっくりめで動きました。8時42分武蔵境発の電車。今日は、多磨駅で降りて郵便局に行きます。やっかいな道を通って郵便局の前へ。8時50分でした。10分間道向かいのセブンイレブンで時間を使うことにしました。駅のこちらに来ることはほとんどありません。大学が府中に引っ越してから数度です。ここのセブンイレブンは比較的広く、アルコールが置いていました。おやつを2点買ってから、郵便局へ。ドアの前で20秒ほど待っているとドアが開きました。私は3番目で全員が郵便でした。郵便物を3点出してから、大学へ。人見街道はなんとかした方がよいと痛感しました。車が2台すれ違うと、歩行者の歩くスペースがなくなります。
大学に着いてからは、研究室で調べもの。10時過ぎに226教室に入り、JAXA の大関さんと菊池先生に挨拶。それから図書館に行って、次のコピーをとりました。
平塚弘明「視覚文化論の展望」『(北海道大学)国際広報メディアジャーナル』2(2004): 147-164
雑誌を探すのにすこし苦労しました。
次にバーバラ・スタフォードの本を3冊借りました。研究室に戻り、とったばかりの論文を読みました。いかにも若い方の文章でした。
11時に生協の方が見えました。USB関係の納品。
昼食を食べ、一休みしてから授業。
3限の授業では、カメラ・オブスクーラをまず、院生といっしょに組み立てました。意外に明るい像が得られます。それから、マジックランタンを院生に組み立ててもらいました。
4限はふつうに発表。
4限終了後、再度図書館に行って、次の本を受け取りました。
ジョン・A.ウォーカー&サラ・チャップリン『ヴィジュアル・カルチャー入門』岸文和・井面信行・前川修・青山勝・佐藤守弘訳、晃洋書房、2001
ざっと見ただけですが、「視覚文化論」のよい教科書となっていると思われます。
ひとりで4時40分、室温22.3度。晴れ。[日曜日の朝のクイズ]
私の後輩の林まことさんが昨日付のブログで、筑波常治先生の著作『生命科学史』(放送大学教育振興会、1985年)の103ページにでてくる人間機械論の出典について知りたいとノーティスされていました。
日曜日の朝のクイズだと思い、調べてみることにしました。比較的早く見つかるという直感がありました。
グーグルの画像検索で、最初は、人間機械論(とその英語)で検索をかけてみましたが、図をよく見ると、人間機械論の図版ではないという確信を持つに至りました。錬金術とか医学史の方面の感じがします。そして何より文字がヘブライ文字。
"human body hebrew" で検索をかけると次のサイトにヒットしました。
https://www.pinterest.com/annabellina7/medico-history/
The human body as a house, from Tobias Cohen, Ma'aseh Tuviyah (1708), folio 106a. (Berman National Medical Library, Hebrew University of Jerusalem.)
もちろん、筑波先生がこの著作に直接当たった可能性はまずないと思います。医学史や生物学史の著作にでているものをちょうどよいと考え、本当は人間機械論の図版ではないが、人間機械論について言及するときに使ったのだと推測します。
ここまでわかれば、あとは、簡単です。
この先は普通の検索ですみます。一番まとまったものとして、Medical History2008 に出た論文があります。
Etienne Lepicard, "An Alternative to the Cosmic and Mechanic Metaphors for the Human Body? The House Illustration in Ma'aseh Tuviyah(1708),"Medical History 52(2008): 93-105
Tobias Cohen はポーランドのクラカウに移住したユダヤ人の子弟です。父は医師でラビ。トビアスは、パドヴァで医学博士号を取得後、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に赴き、最後は、エルサレムに行って1715年その地で亡くなっています。なるほど、非常に興味深い人物です。
→「家としての人体」
この図は、デカルト的な人間機械論に対抗するものとして提示されている。すなわち、医化学的人体図である。ミクロクスモスとしての人体、都市としての人体、そして(都市のなかの)家屋としての人体。こういう流れだとEtienne Lepicard は、位置づけています。午後3時から編集委員会、午後4時から理事会。東工大にて。
いつもよりわずかにはやく出かけました。上の論文をコピーして持参し、電車のなかで読みました。イタリアで出版されたヘブライ語の医学書(医学的百科事典的著作)。エティエンヌはこの書を記憶術の系譜に位置づけます。ますます興味深い。
東工大では工藤さんが応対してくれました。編集委員会は予定通り、1時間以内で終了しましたが、次の理事会が長引き8時過ぎまで。急いで帰宅しましたが、9時を回っていました。急いで風呂に入り、晩ご飯を食べ、息子といっしょに就寝しました。帰宅すると、次の本が届いていました。
高山 宏『表象の芸術工学 (神戸芸術工科大学レクチャーシリーズ)』工作舎、2002
日本における視覚文化史の奇才は、高山宏氏です。翻訳の量ひとつとっても、常人にはおよびもつかないレベルに達しています。第1部が視覚表現の奇妙・絶妙です。まさに高山節です。
ひとりで4時10分、室温20.9度。ここまで下がると寒く感じます。
昨日から降っていた雨は、朝のうちに止み、しばらくすると晴れ間が出てきました。おおきいちびは昨日学校に自転車を残してきています。朝はバスで行って、帰りは自転車になります。午前中に明日の準備(編集委員会)をほぼ終わらせました。ほぼというのは、届く予定の原稿が残っているからです。私の手元にあるものに関しては完了です。
息子が6時に起きてきました。おおきいちびは朝の普通の時間帯に練習があります。7時半でよいでしょう。ちいさいちびは午後に練習。ゆっくりできます。
ひとりで5時20分、室温22.9度。
私以外は、昨日とまったく同じスケジュールとなります。朝方は晴れていました。お昼頃にかけて曇ってきました。そして夕刻から雨。職場体験から帰ってきたちいさいちびが部活に出かける頃に降り始めました。5時を過ぎると家のなかにいても雨音が聞こえるようになりました。
夕刻、次の本が届きました。
日向あき子『視覚文化―メディア論のために』紀伊国屋書店、カプセル叢書 、1978年
この時代にはまだ今の「視覚文化論」はありません。しかし、このタイトルなので、一体どういう内容だろうという関心から購入したものです。日向あき子さんは、美術評論家です。『ポップ文化論』という書物も出されていますから、今の「視覚文化論」に繋がる関心はあったと言えます。惑星ソラリス、竹村恵子、横尾忠則、三宅一生等を取りあげています。[『化学史研究』2015 No.2]
午前中に『化学史研究』2015年第2号が届きました。年会特集号です。年会準備委員の要求でいつもより10日早く出版してもらっています。目次は次。『化学史研究』第42巻第2号(2015)目次 [研究ノート]吉原柚紀「Liebig の根についての研究:1832年の苦扁桃油論文を精査する」第42巻(2015): 53-68
[研究ノート]平野恭平「国産合成繊維ビニロンの熱処理をめぐって―鐘淵紡績のカネビヤンを中心に―」第42巻(2015): 69-76
[紹介]島津俊之「リヴィングストン『科学の地理学』」第42巻(2015): 77-80
[紹介]平井正人・柴田和宏・藤本大士・橋本雄太「ISIS(2013) 特集「学問領域を整理する」 」第42巻(2015): 80-82
[年会特集]「詳細プログラム」第42巻(2015): 83
[年会特集]原雄次郎「郷土葉山発世界企業Ajinomoto」第42巻(2015): 84-86
[年会特集]大野誠「近代イギリスにおける科学の制度化:イギリス史研究者の視点から」第42巻(2015): 87
[年会特集]坂下史「地方都市における農業協会の活動と草の根啓蒙」第42巻(2015): 88-89
[年会特集]石橋悠人「国営天文台と科学の制度化―19世紀のグリニッジ天文台を事例に―」第42巻(2015): 90-91
[年会特集]高林陽展「医学研究委員会から医学研究評議会へ―大戦期の経験と医学研究の制度化―」第42巻(2015): 92-93
[年会特集]奥田伸子「ノーベル賞を受賞した「主婦」―20世紀中葉イギリスにおける女性科学者と社会―」第42巻(2015): 94-95
[年会特集]稲葉肇「19世紀末から1920年代における化学と気体運動論・統計力学」第42巻(2015): 96-97
[年会特集]中根美知代「杉浦義勝と新量子力学の応用:物理学史と化学史のはざまで」第42巻(2015): 98-99
[年会特集]山口真「1930年代ドイツにおける振動分光学と分子構造研究」第42巻(2015): 100-101
[年会特集]西村三千男「ドイツ化学史の旅(6)−総集と補遺−」第42巻(2015): 102
[年会特集]堤憲太郎「フッ素の化学技術史」第42巻(2015): 103
[年会特集]河野俊哉「「非国教徒アカデミーにおける化学教育」再考」第42巻(2015): 104
[年会特集]廣田襄「G.N.Lewisとアメリカ化学の発展(1)」第42巻(2015): 105
[年会特集]中辻慎一「アウグスト・ケクレの足跡とボン大学の化学史跡について」第42巻(2015): 106
[年会特集]北原文雄「疎水コロイドの化学史概論」第42巻(2015): 107
[年会特集]原宏「乾性沈着研究とウインズケール原子炉火災」第42巻(2015): 108
[年会特集]山口達明「Svante Arrhenius (1895-): 大気中の炭酸ガスが地上の温度に及ぼす影響」第42巻(2015): 109
[年会特集]東徹「宇田川榕庵の『舎密開宗』の未刊原稿」第42巻(2015): 110
[年会特集]石田純郎「歴史的病院の諸相−『病院』、『大塚薬報』の連載(2013-16, 計41回)から」第42巻(2015): 111
[年会特集]黒田光太郎「黒田チカにとっての佐賀、九州」第42巻(2015): 112
[年会特集]山口達明、滝口泰之「『日本化學總覧』による日本化学史の発掘」第42巻(2015): 113
[年会特集]松本邦男「和製ペニシリン誕生70年から何が学べるか」第42巻(2015): 114
[会告]「今期(2015年1月1日〜2016年12月31日)の役員体制について」第42巻(2015): 115
「第12回化学史研修講演会のご案内」第42巻(2015): 116
編集後記は、事務局の田中さんの依頼です。
学会サイト
田中浩朗理事の尽力で、学会サイトが充実してきています。
今年に入ってから、2種類の検索が可能になりました。ひとつは会誌記事の検索です。
もうひとつは化学史文献の検索です。それぞれのアドレスは、次の通りです。
会誌記事検索 http://kagakushi.org/jsearch
化学史文献検索 http://kagakushi.org/bsearch
会誌バックナンバーの入手方法
バックナンバーの入手をご希望の方は、入手したい記事、送付先、必要部数、会員・非会員の別を明記の上、学会事務局までご注文ください(1冊送料込みで、会員1500円、非会員2500円、海外の場合は送料別途)。
ひとりで4時50分、室温22.9度。この室温だと涼しい。
妻を6時に起こしました。昨日から就寝時間を30分遅らせた小学生(つまり9時半に就寝させることになりました)はほぼいつもとおり6時半に起きてきました。朝練に行くと言ったおおきいちびは6時40分に起こします。ちいさいちびは学校の行事で職場体験に行きます。朝はゆっくりめでよく、7時半で大丈夫だということです。ちいさいちびがでかけたあと、家をでました。8時54分武蔵境発の西武線。研究室に入ってからメールをチェックしたあと、火曜日のコメントシートを読み、採点することにしました。125枚あります。そうすぐには終わりません。
今年この授業を受けている学生たちは、現役で入っていれば1995年生まれです。早生まれの子は1996年。自分の音楽体験を書いてもらっていますが、ほぼ同学年の学生たちなので、共通することがかなり多い。小学生の頃、ミニモニが好きだったり、中学生のとき、吹奏楽部や軽音楽部に所属していたり、合唱をやっていたり、ピアノを習っていたけど練習が嫌で途中で止めたり、High School Musical に影響を受けたり、Glee にはまったり、・・・・。休憩を挟んで、全部終わらせました。
4限5限の授業。
5限の終わるころ、卒業生のNくんが来てくれました。NEDO の紹介です。広報担当で自分で作ったというパンフを持参してくれました。Nくんはご近所さんです。大学からすぐのところに実家があり、高校は国立、大学は外語。遠くに行ったのはフランス留学だけ、というご近所派です。なんと、現役の卒論生にも国立出身が2名いました。そのときの512室には国立出身者が3割いたことになります。最近存在が目立ってきたご近所派です。
授業終了後、研究室でNくんとすこし話をして、6時28分多磨駅発の電車で帰ってきました。ちいさいちびがちょうど帰り着いて食事をはじめたところでした。日が暮れてから、次の本が届きました。
石岡良治『「超」批評 視覚文化×マンガ』青土社、2015「視覚文化論」 昨日からの続き。
Rikkyo American Studies 28(March 2006)の4回目の講演者日高優氏の論文を探しました。
日高優「歴史を多様性に拓く : スティーヴン・ショア『写真の性質』を手掛かりに」『立教アメリカン・スタディーズ』 28(2006): 43-61
日高優「ストリートというトポス : ゲイリー・ウィノグランドの写真について」『アメリカ太平洋研究』 2(2002): 147-162
日高優「ロードの感覚, イメージの出来事:スティーヴン・ショアの写真について」『アメリカ研究』No. 37 (2003) : 117-136
ひとりで5時30分、室温25.4度。
天気予報では、梅雨入りはまだですが、本日から晴れ間の少ない梅雨入り前の天候にかわるそうです。湿度が上がり、気温がいくらか下がります。
→新聞を読んでいると、6時20分頃から雨の音が聞こえはじめました。そういう季節になりますよ、という挨拶のような雨です。雨量があるかどうかはわかりません。ともあれ、今日は、傘で出動です。
→これはもう梅雨だろうと思っていると、気象庁は、中国、四国、近畿に梅雨入り宣言をしたそうです。関東はもうすこしあとでしょうか。
→午後には、空が明るくなり、2時頃には雨は上がっていました。健康診断が今日と明日の2日間で行われます。私は今日の朝一番で受診します。10人から20人程度、同じような行動をする教職員がいます。
→武蔵境駅の外にでて、朝食のパンを買ってから、7時42分武蔵境発の西武線。大学につくと、もう検診に向かっている同僚の先生お二人とすれ違いました。私は、研究室にカバンを置き、メールをチェックし、昨日の書類を確認してから、検診会場へ。傘をもたなかったのでいくらか濡れました。何とすれ違ったお二人の先生の次の番号、3、をもらいました。しばらく2番の整理番号をもつ同僚の先生と雑談をしていました。準備がはやくすんだときには開始時刻を早めてくれることもありますが、今朝は、8時半ちょうどに受付をはじめました。私は、書類に記入漏れがあり、列を抜けて、記入をしていると7番目に下がりました。
1番目は胸部レントゲン、2番目はバリウムを飲んでの胃検診。話を伺うと、みんな、このバリウム胃検診が嫌なようです。
バリウム胃検診が終わると、あととくに難しいものはありません。心臓と肺にまったく問題はありませんというお墨付きを頂きました。私は母の体質を継いで、胃腸系に弱点があります。胃腸系は、検査結果を待つしかありません。
開始から55分で終了。研究室にもどり、朝食のサンドウィッチを食べました。今日は珍しく午後に会議が入っていません。すぐに帰宅して、今後の準備に時間を当てることにしました。バリウムのあともらった下剤は、帰宅してすぐに飲みました。「視覚文化論」
「視覚文化論」に関してきちんとした見通しをもっておく必要があると気づいて、関連する論考を探し、読んでいます。夕食後読んだのは次の2点。
生井英考「視覚文化論の可能性」Rikkyo American Studies 28(March 2006): 7-24
門林岳史「ブックナビゲーション:視覚文化論の向こう側」(2006)
門林さんのものは、文献がきちんと挙げられていて、私には助かります。その半分ぐらいはすでに読んでいて、半分ぐらいは、そういうのもあるんだ、そういう繋がりもあるんだというものでした。
ですから、私も関心としては、片足をすでに「視覚文化論」においていたという表現が許されると思います。もう片足の置き方は、もちろん、ここで取りあげられている方々とは別の地点になります。
門林さんは、文化論的転回には、「それを根元的に支える説明原理を欠いている」と書かれています。その通りだと思います。
たぶん同じことを生井さんは、「視覚文化論はあくまで相乗りバスであり、それもこの10年は一種のバンドワゴンだった」と評されています。→Rikkyo American Studies 28(March 2006)は、視覚文化論を特集しています。(序が生井英考氏の「視覚文化論の射程と可能性―「文化」概念変容との関わり―、2回目が小林憲二氏の「アメリカの文化表現― Stowe 夫人とThomas Dixon―」、第3回目が榑沼範久氏の「<フラットベッド画面>論の再検討―文化生態学的な絵画システム論、そして画面および<人間>の歴史的・批判的存在論に向けて―」、第4回目が日高優氏の「Stephen Shore 『The Nature of Photographs』を手掛かりに、視覚文化論の可能性を考える」)ネットで他のものを探しました。まず、次の論文が見つかりました。
榑沼範久「美術史と「他の批評基準」」Rikkyo American Studies 28(March 2006)
榑沼範久さんは、見たことがあるなと思ったら、ハル・フォスターの翻訳者(『視覚論』平凡社、2000)でした。むしろそれよりも、私の大学の後輩でした。科学史・科学哲学の後輩でした。私とはたぶん入れ違いです。「美術史と「他の批評基準」」は、半分は東大本郷の美術史と美学のゆがんだ制度史(の思い出)です。半分は、スタインバーグの"Other Criteria" に関するものでした。これはとてもよくわかる問題関心でした。なるほど。私もスタインバーグを読んでみようと思います。
ということで、棚のなかからハル・フォスター編『視覚論』(榑沼範久訳、平凡社、2000)を救出しました。目次は次です。
ハル・フォスター「序文」
マー ティン・ジェイ「近代性における複数の「視の制度」」
ジョナサン・クレーリー「近代化する視覚」
ロザリンド・クラウス「見る衝動/見させるパルス」
ノーマン ・ブライソン「拡張された場における〈眼差し〉」
ジャクリン・ローズ「セクシュアリテ ィと視覚―いくつかの疑問」
クラウスとブライソンの間に全体討議1、最後に全体討議2 が付されています。
これは、ディア芸術財団が1987年にハル・フォスターをオルガナイザーにはじめたシンポジウムを書籍化したものです。具体的には、1988年「現代文化をめぐる議論」の第2巻として出版されています。Hal Foster (ed.), Vision and Visuality, Dia Art Foundation, 1988
→続きは明日にします。
ひとりで4時50分、室温24.6度。1限に授業。朝練のおおきいちびと同じ時刻にでかけることになります。
→おおきいちびが自転車に乗ってでかけたあとすぐに家をでました。7時54分武蔵境発の電車。この時刻だと事務の方が乗り合わせています。大学到着は8時。先に研究室に行き、荷物をおいて、メールのチェックだけすませ、印刷センターに向かいました。昨日置いてもらっていたプリント2部を受け取り、教育情報化支援室へ。1限の教室の AV の状況を伺いました。何も持っていく必要がないとのことです。
いくらか早かったのですが、そのまま教室に向かいました。227教室。途中、ドアを開けっ放しにしている教室の前をいくつか通りましたが、学生が0のところが散見されました。1限は授業が入っていないのでしょうか。227教室に入ったのが8時20分。20名近くの学生がすでに教室で座っていました。
本日は、終わりが切られています。8時半のチャイムが鳴り終わると同時に授業を開始しました。CDの音声は、DVDプレーヤーから流しました。CD5枚一挙収納タイプよりは不便ですが、おおきな問題ではありません。
考えてみれば、この授業はまさにアクティブ・ラーニングです。アクティブ・ラーニングの概念も用語も知らないときから、アクティブ・ラーニングに当たる授業を実施していたことになります。
コメントシートの記入が10時までに間に合わない学生は、研究室のドアにはった封筒に入れるよう指示して、そのまま学長室へ。
受付でしばらく待ってから、科長のあとについて、学長室へ。大学の計画を練っているところです。今置かれている状況からすれば、ほぼこういうことになるでしょう、というものになっていました。
いくらか早めに終わりました。研究室に戻り、昼食。休憩が欲しいので、そのまま帰途。多磨駅でいつもお世話になっている医科歯科の河原先生にお会いしました。1限は医科歯科で会議、2限は外語で非常勤、これからまた医科歯科にもどってお仕事だそうです。いろいろ興味深いお話を伺いました。とくに秘密といった種類のものではないのですが、ここに記すのは控えておきます。
ひとりで4時15分、室温25.6度。メールを開くと、24名の課題が提出されていました。24名だと単純な処理だけでけっこうな時間がかかります。
おおきいちびは今日から朝練。3年生が昨日の試合で引退して、2年生と1年生は、朝練、昼練、夕練になるそうです。本人は6時40分、お弁当をつくる妻は6時半に起こします。小学生は妻が起きると起きてくるでしょう、たぶん。ちいさいちびはお休みなのでひとりのんびりできます。
私は早めにでかけました。8時半武蔵境発の西武線。まず、印刷センターに行って、明日の1限の資料を用意。印刷センターに置いたままにしました。
研究室でデスクワーク。アクティブ・ラーニングの課題1をまだ半分以上残していました。頑張って、全部、読みました。その間に1件、事務的用件をすませました。
3限4限と大学院のゼミ。
終了して、すぐに、帰途。4時16分多磨駅発の電車。
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