ひとりで6時35分、室温23.6度。弱い雨が降っています。傘をさすのかささないのか悩ましい、そのぐらいの小雨です。ここ数日ずっとこういう感じです。小学生は今日が始業式。おおきいちびは明日。
私も今週から再起動です。9時6分武蔵境発の電車で大学へ。まず図書館により、ILL で借りていた本を一冊返却し、ILL で届いていた次の2点の論文を受け取りました。
E.F.J.Ring, "The historical development of temperature measurement in medicine," Infrared Physics & Technology, 49(2007): 297-301
E.F.J.Ring, "The historical development of thermometry and thermal imaging in medicine," Journal of Medical Engineering & Technology, 30(2006): 192-198
それから研究室へ行き、たまっているメールの処理。前に受け取っていた机の上に置く台を組み立て、やはりたまっていた書類をバインダーに綴じました。
本を返却するため再び図書館へ。途中3階事務室により1点書類を提出し、図書館で TLL で借りていた本1冊と、外語図書館の本1冊、合計2冊を返却しました。
帰り道、研究所によって、スキャン。再度自分の研究室で片づけ。気になっていた用語 「ハーフトーン」を調べました。日本語では網点に当たります。 Halftone が 網点だとはちょっと意外でした。ちなみにハーフトーンという言葉そのものは、1881年、F. E. アイブスがはじめて使ったものということです。実際、印刷で「ハーフトーン」を使って写真を入れるようになったのもやっとこの頃からです。
私の授業資料によれば、この技術を用いて、写真を初めて印刷に使ったのがニューヨークの『デイリー・グラフィック』誌(1880年3月4日)。新聞に掲載された最初は、1897年の『ザ・ニューヨーク・トリビューン』。フォト・ジャーナリズムが花開くのは、1930年代のドイツ。電車のなかで半分、研究室で半分、次の論文をプリントアウトして読み通しました。
坂本信太郎「技術と市場: George Eastmanとアマチュア写真市場 Reese V. Jenkinsの論文から」『(早稲田大学産業経営研究所)産業経営』1(1975): 57-81
副題にある論文は次です。早速、ILL で発注しました。
Reese V. Jenkins,"Technology and the Market: George Eastman and the Origins Mass Amateur Photography," Technology and culture, 16(1975): 1-19
George Eastman, 1854-1932
Thomas Alva Edison, 1847-1931
イーストマンは、エジソンより7歳年下です。エジソンと同類のヤンキー・インベンターと分類してよいでしょう。東京医科歯科大学の事務(学務企画課大学院教務第一掛)の方から来週の月曜日にはじまる授業(MMA講義「医療思想史」)について、連絡がありました。
★講義日:
9月 7日(月) 吉本 秀之 先生
9月 8日(火) 吉本 秀之 先生
9月 9日(水) 吉本 秀之 先生
9月10日(木) 吉本 秀之 先生
★講義時間: 18:00から21:10まで
★講義場所: 大学院講義室2(M&Dタワー13階)
登録者数ですが、15名でした。MMA 以外の方も受講する可能性がありますが、16〜17名までと予想しています。その翌週の金曜日から駒場の授業が始まります。
時間帯:金曜日5限、4時50分〜6時35分。
教室:いつもの14号館308教室です。
スタート:9月18日
終了日:12月11日
妻の45分につづいて5時55分、室温23.8度。曇り。ちいさいちびの大会。近所の学校で4校が集まって総当たり戦をするそうです。6時20分に起こします。妻はお弁当つくりではやくおきました。
→ちいさいちびは7時頃、妻は8時頃でかけました。おおきいちびは(たぶん宿題のために図書館に行ったのだと思いますが)8時20分頃でかけました。いつも通り、私と息子でお留守番。[「湿板」写真]
朝郵便受けから新聞を取り出すと、昨日の夕刊もありました。つまり昨日夕刊を取り出すのを忘れていたわけです。こういうことはたまにあります。
今の私の関心にぴったりの記事が1面にあります。「写真、あえてフィルム」という記事で、インスタントカメラ「チェキ」が大きく取りあげられていますが、最後に今の今「湿板」写真に取り組んでいる和田高弘さん(東京・谷中「湿板写真館」店主)の記事が2段あります。
ウェブで今の今、湿式コロジオン法(湿板写真)に取り組んでいる人がいないかどうか調べてみました。vimeo.com の映像に、John Coffer- "The tintype Recaptured" というのがありました。ここまでやるか、という昔の生活をしながら、昔の方式の写真を撮っています。最後、化学溶液を板にかけると像が浮かび上がるところは、今見ても感動します。日本でも、湿式コロジオン法(湿板写真)やその前のダゲレオタイプに取り組んでいるアーティストがいるようです。気持ちはよくわかります。あまりに手軽なデジカメ、スマホ映像の氾濫のなかで、もっと手応えのある、物質に刻印された質感をもとめる気持ちはよくわかります。(簡単にできるのであれば、私もやりたいと思います。)
和光大学の新井卓さんは「写真表現研究」という授業で湿式コロジオン法を学生に教えています。さすが、和光です。新井さんのシラバスによれば、「近年、欧米を中心に再び取り組む写真家が少しずつ」出現しているそうです。なるほど。
「湿板写真館」についての情報もありました。やはり写真家の澤村徹さんという方が、和田高弘さんの「湿板写真館」を取材した記事がありました。谷中の「湿板写真館」は今年の2月にオープンしたばかりでした。6秒の露光時間で湿式コロジオンのガラス写真を撮ってくれるということです。キャビネサイズ1枚1万5千円、八つ切りサイズ1枚2万5千円ということです。個人的には人気がでるのではないかと予想します。
ガラス版に映るのはネガなので、黒い布の上においてポジ像を見るということです。アンブロタイプというポジ反転写真ということになります。
この形だと、ダゲレオタイプと同じ質感をもつ写真、1点限りの写真ができあがります。
ひとりで5時20分、室温23.6度。雨の音が聞こえます。再び夏の格好をしていましたが、寒い。長袖に着替えることになりそうです。ちいさいちびもおおきいちびもお弁当をもってでかけます。おおきいちびはOB戦。ちいさいちびは男子の試合の応援に行くそうです。
こまかい雨の降る中、7時45分頃、二人そろって出ていきました。目的地は違いますが、我が家からは似たような方向です。[バスケの背後にある数学的規則性]
珍しく、ヤフーニュースの次の動画がとても面白かったので、リンクを張ります。
Rajiv Maheswaran ラジブ・マヒシュワラン: バスケットボールの激しい動きの背後にある数学
内容的にもプレゼントしてもお手本となります。[コッホの時代の顕微鏡写真]
コッホの時代の写真術は、湿式コロジオンと呼ばれる方式を使っています。コッホが雑誌に掲載できる水準の顕微鏡写真を撮ろうととくに奮闘したのは、1876年から77年にかけてです。ゼラチン乾板は出現していましたが、コッホが使ったのは、その時代の写真術のスタンダード、湿式コロジオン法です。
(1827年、ダゲール、ダゲレオタイプ、
1839年、タルボット、カロタイプ、
1851年、スコット・アーチャー、湿式コロジオン法、
1871年、リチャード・マドックス、ゼラチン乾版(ガラス板に乳剤)
1888年、イーストマンコダック、紙製ロールフィルム
1889年、イーストマンコダック、セルロイドベースのロールフィルム)
湿式コロジオン法では、ガラス板にその場で感光剤を塗り、湿っている間に撮影し、乾く前に現像する必要があった。湿式コロジオン法とは、感光版を自分で用意する方式である。
ブロック『コッホ』pp.50-1 ゲルラッハの著作より、当時の顕微鏡写真の取り方。
「始める前に天候を調べる。高い気圧計の読みと快晴の日光の日だけが写真を撮るのに適している。日中早々にスタートし、新鮮な平板を作り万端の用意を整える。四ないし六枚のよい写真を撮るのに三時間以上かかることが多い。
戸外ではずっと多くの撮影時間がとれるから、窓を通した光で撮影するよいも顕微鏡の装置全体を戸外へ持ち出すのが一番よい。
暗版を出し入れするときに機械が動かないようにするために、しっかり固定してあるかどうか確かめる。高さ五五センチの四脚のテーブルを特別にあつらえた。全部のレンズをきれいにして完全に装着し、照明のミラーを顕微鏡の太陽光側に置いた。頭に黒い布を被り、焦点ガラスを覗いて光を調整し、標本にピントを合わせる。像にピントがあったら室内へ入って写真版を用意する。暗室内でピンセットを使って清浄なガラス版をとり、その表面に沃化コロジオン液を流し、フィルムを均一に全面に広げる。コロジオンフィルムの用意ができたら暗室のドアを閉じ、プレートを用心深く銀溶液の中へ漬ける。それがすんだらプレートの液をきり、カセットの中へ収める。カセットを閉じて戸外の顕微鏡写真機のところへ戻る。黒布を取り除き適切な像によくピントが合っていることを確認する。次にカセットを注意深く器械の上に載せ、徐々にダークスライドをカセットから動かすが、他のものは動かないように気を付ける。露出のあとスライドをカセット内に戻し入れてから、カセットを顕微鏡よりはずし、もう一度顕微鏡を黒布で覆う。この全操作は速やかに行わなければならない。閉じたカセットを持って暗室へ急いで行き、暗室のドアをきっちり閉め、ガラス版をカセットから取り出して現像し、ネガを定着する。もしも写真像が十二分にシャープでないとき、あるいはエマルジョンが不完全であったときは、全過程をやり直すことが必要になる。というわけは、不満足なネガからプリントを作ることほど、写真技術においてつまらないことはないからである。」
照明法、感光版の準備がポイントであることがわかります。顕微鏡写真機については、Normand Overney and Gregor Overney, The History of Photomicrography, 3rd edition, March 2011 というウェブですぐに得られるpdf がよくできています。グスタフ・フリッチュの製造した水平式顕微鏡写真機(photomicrographic horizontal camera)と同じ形式のものをコッホは使っていた。1920年代まではこうした水平式のセットが高倍率の撮影には好まれていた。
つまり、顕微鏡写真を撮るための装置は販売されていたが、撮影にあたっては、感光板を自分で用意しなければならなかったということです。感光剤の用意、露光、定着というポイントの作業を自分で行わないといけない時代でした。もちろん、標本の準備はもっとも重要なポイントでした。(ブロック『コッホ』,p.46) ローベルト・コッホの主な業績のひとつは、特に病的組織の中にある細菌の検査に光学顕微鏡を上手に適用したことである。油浸レンズとアッベの集光器とを活用した最初の人がコッホであり、細菌の顕微鏡写真を出版したのも彼が最初である。鏡検のための細菌染色に関する彼の研究は、この重要な課題の基礎となっている。こうした素晴らしい成果は、コッホが自腹を切って購入した機器装置によって達成されたのである。
(ブロック『コッホ』,p.53) 1877年の論文にコッホは、細菌の標本を作り、染色し、観察して写真に撮る詳細な方法を細かく記述した。他のものが容易に再現できるように考えてのことである。
「驚いたことに、細菌は、滴虫類、単毛類、藻などと異なり、乾燥しても崩壊したり変形したりすることがなく、その形態を保持し、その長さや幅にも変化をきたらさずに菌体の外周粘膜層によってガラス面にしっかりと固定することができるのである。」(コッホ「細菌の検査、保存、写真撮影の操作」植物生物学補遺、2(1877):399-434)
(ブロック『コッホ』,p.52) コッホは顕微鏡写真術を仕上げるために1876年の後半と1877年の初頭を費やした。
(ブロック『コッホ』,p.55) 満足できる細菌写真が撮れたとしても、まだ印刷が追いついていなかったので、「一枚一枚焼付をして雑誌へ手で貼りつけなければならなかった。」現在の水準からいってもまったく遜色がない出来映えであった。細菌に種があるかどうか?(ブロック『コッホ』,p.62)
コーンとコッホは、細菌にははっきりと種があると考えた。
スイスの植物学者のカール・フォン・ネゲリ(1817-1891)はその考えに強く反対した。「最近、コーンは多数の種と属とに分けた細菌の命名系統を作りあげた。コーンの系統のなかで下等のかび類の各機能は、個別の種を区別するのに引用される。医学研究者の間においてすら広く支持される構想を彼は主張している。しかし、形態学的な、あるいはその他の特徴が種を区別するのに利用されるとする実際の基盤は、私には謎である。10年以上にわたり私は数千の分裂菌を調べたけれども、サルチナを除いてただ二つの種すらも区別することができなかったのである。」炭疽菌 Bacillus anthracis
結核 tuberculosis
Robert Koch, "Verfahren zur Untersuchung, zum Conservieren und Photographieren der Bacterien," Cohns Beiträge zur Biologie der Pflanzen, Bd. II, Heft 3. (1877) pp. 399ff. < I>Gesammelte Werke von Robert Koch (Band 1), pp.27-50
コッホの全集は、 Robert Koch, Gesammelte Werkeからダウンロードすることができます。
ひとりで6時、室温24.9度。空が厚い雲に覆われています。ゴミを出すために外にでると目に見えない雨が降っていました。雨量としては記録されない小雨です。すぐに止むかも知れません。ちいさいちびは普通に学校、おおきいちびは午前練+OB戦と祝勝会、私は午前中に出張校正があります。→おおきいちびのOB戦は明日だそうです。
9時前に家をでて、12時過ぎに帰ってきました。今回はずっと担当してくれていた印刷所の方が11月で引退されるということで引継がありました。こちらからも事務局のお二人が出席してくれました。2校まで終わっている校正です。校正作業は短くすみました。
帰宅すると、東大駒場の教務から、秋からの授業の教室が決まったという連絡がありました。いつもとおり、金曜日5限に、14号館の308を割り当ててくれています。橋本さんの授業は、金曜日3限でした。3限に橋本先生の授業にでて、5限に私の授業にでてくれるというのが黄金パターンだと思います。
昨日から医療思想史の講義スクリプトの手直し作業に入っています。はじめて話す内容です。いろいろ手直ししたくなるところがあります。
ひとりで5時20分、室温23.8度。雨は上がっています。→予報では、本日の最低気温が21度、最高気温が31度。一日の間に、10度上がります。
ちいさいちびの始業式。気温が下がっていて、よかったな、というところです。→7時25分に起きて、7時55分に我が家の1号として出かけていきました。晴れとまでは言えませんが、薄曇りのなか、すこし晴れ間がでてきています。広島大学科学史准教授公募
広島大学総合科学研究科社会文明講座で科学史分野の准教授の公募が出ています。
書類締切が10月30日(金)で着任が来年の4月1日です。審査スケジュールがちょっときついなという日程です。
広く知らせて欲しいということで、ここでもお知らせします。[Visual Culture Reader 視覚文化読本]
入手はまだですが、ヘントシェルがわざわざ章番号をあげて入門によいと推薦しているものは、どういうものか確認しようと思い、調べてみました。つまり、次の書物の目次を調べました。
Venessa Schwartz and Jeannene Przyblyski, eds., The Nineteenth Century Visual Culture Reader, London, 2004
これの目次は次です。
Visual culture's history: twenty-first-century interdisciplinarity and its nineteenth-century objects by Vanessa R. Schwartz and Jeannene M. Przyblyski.
Complex culture by Margaret Cohen and Anne Higonnet.
Visual culture: a useful category of historical analysis? by Michael L. Wilson
Genealogies Vanessa R. Schwartz and Jeannene M. Przyblyski.
The painter of modern life (1863) by Charles Baudelaire.
Commodities and money (1867) by Karl Marx.
The dream-work (1900) by Sigmund Freud.
The metropolis and mental life (1903) by Georg Simmel.
The modern cult of monuments: its character and its origin (1928) by Alois Riegl.
Photography (1927) by Siegfried Kracauer.
The work of art in the age of mechanical reproduction (1936) by Walter Benjamin.
Technology and vision by Vanessa R. Schwartz and Jeannene M. Przyblyski.
Panopticism by Michel Foucault.
Precursors of the photographic portrait by Gisèle Freund.
Techniques of the observer by Jonathan Crary.
Panoramic travel by Wolfgang Schivelbusch.
'Animated pictures': tales of the cinema's forgotten future, after 100 years of film by Tom Gunning.
Practices of display and the circulation of images by Vanessa R. Schwartz and Jeannene M. Przyblyski.
The exhibitionary complex by Tony Bennett.
The Bourgeoisie, cultural appropriation, and the art museum in nineteenth -century France by Daniel J. Sherman.
On visual instruction by James R. Ryan.
A new era of shopping by Erika Rappaport.
Cities and the built environment by Vanessa R. Schwartz and Jeannene M. Przyblyski.
The Ringstrasse, its critics, and the birth of urban modernism by Carl E. Schorske.
The view from Notre-Dame by T.J. Clark.
Word on the streets: ephemeral signage in antebellum New York by David Henkin.
Urban spectatorship by Judith Walkowitz.
Electricity and signs by David Nye.
Picture taking in paradise: Los Angeles and the creation of regional identity, 1880-1920 by Jennifer Watts.
Visualizing the past by Vanessa R. Schwartz and Jeannene M. Przyblyski.
Between memory and history: Les lieux de mémoire by Pierre Nora.
The illustrated history book: history between word and image by Maurice Samuels.
Revolutionary sons, white fathers and Creole difference: Guillaume Guillon-Lethière's Oath of the ancestors (1822) by Darcy Grimaldo Grigsby.
Molding emancipation: John Quincy Adams Ward's The freedman and the meaning of the Civil War by Kirk Savage.
Staking a claim to history by Joy S. Kasson.
Imaging differences by Vanessa R. Schwartz and Jeannene M. Przyblyski.
The imaginary Orient by Linda Nochlin.
Painting the traffic in women by S. Hollis Clayson.
From the exotic to the everyday: the ethnographic exhibition in Germany by Eric Ames.
Bohemia in doubt by Marcus Verhagen.
Inside and out: seeing the personal and the political by Vanessa R. Schwartz and Jeannene M. Przyblyski.
Banners and banner-making by Lisa Tickner.
The portière and the personification of urban observation by Sharon Marcus.
"Baby's picture is always treasured": eugenics and the reproduction of whiteness in the family photograph by Shawn Michelle Smith.
Psychologie nouvelle by Debora L. Silverman.確かにこれはとても便利な読本です。このなかでヘントシェルが推薦しているのは次です。
Visual culture's history: twenty-first-century interdisciplinarity and its nineteenth-century objects by Vanessa R. Schwartz and Jeannene M. Przyblyski.
Visual culture: a useful category of historical analysis? by Michael L. Wilson
Techniques of the observer by Jonathan Crary.
'Animated pictures': tales of the cinema's forgotten future, after 100 years of film by Tom Gunning.
On visual instruction by James R. Ryan.ちなみに、「19世紀の」がつかない視覚文化読本は、ウェブにあります。
Nicholas Mirzoeff (ed.), The Visual Culture Reader, London and New York: Routledge, 1998
第1部、視覚文化の系譜は、デカルトの『光学』(抜粋)からはじまります。第6部はポルノグラフィーです。その2番目が「縛られたペンギン:日本漫画の絵物語」です。一度でよいからこういうタイトルの文章を書いてみたい。この調査をしている最中、ヴァネッサ・シュヴァルツさんの視覚研究入門という2010年秋の授業シラバスに出会いました。私がやろうとしているのは科学技術における視覚研究入門ということになるでしょうか。日本で同じことをやるのはお互いにかなり根性が要りますが、根性があれば不可能ということはないでしょう。
1点、今回、私がやってみてもよいなと思ったアイディアをシュヴァルツさんはすでに実行されていました。こういう分野に取り組むと、まあ、そのうちに思いつくことではあります。具体的には、参加者各自1枚の図像・イメージを教室に持参し、どうしてこのイメージなのかを説明することです。一人5分から10分ぐらいがちょうどよいでしょう。(どのぐらいの持ち時間が適当かは、もちろん参加する人数によります。10人×10分でとかはちょうどよいでしょう。)これは、やろうかと思います。
そして、最終回は、各自10分の画像のプレゼン(ショートフィルムを作成する、パワポをつくる、他の種類のスライドショーをつくる、等々)とシュヴァルツさん宅での夕食会です。自宅での夕食会は無理ですが、これはこれでとてもわくわくする最終回でしょう。
成績評価の仕方も参考になります。評価基準を次のように書いています。
クラスへの参加の度合い(出席)と毎週のレスポンス:30%
7ページから10ページのペーパー(レポート):30%
最後の画像(動画)のプレゼン:40%
ひとりで4時50分、室温23.4度。雨が降っています。昨夜は寒かったので、Tシャツとサッカーパンツという真夏の格好から、普通の夏物のパジャマに替えました。この数日で一気に秋がやってきたような天候です。→6時45分、息子がばたばたと下に降りてきました。室温を見ると、23.1度。
おおきいちびは午前練。自分で7時前に起きて、8時前に雨のなかバスケットボー津3個はいったカバンを抱えて出かけていきました。朝一番で会議の通知が来ました。9月1日と9月2日開催のものです。そう言えば、ちいさいちびの中学校は明日が始業式です。一度帰ってきて午後部活があるそうです。木曜日はオフの日ですが、大会が近いので練習するということでした。
お昼過ぎ、次の3冊が届きました。
Lorraine J.Daston (ed.),
Things that Talk: Object Lessons from Art and Science
New York: Zone Books, 2004
目次は次です。
Speechless by Lorraine Daston
Bosch's equipment by Joseph Leo Koerner
Freestanding column in eighteenth-century religious architecture by Antoine Picon
Staging an empire by M. Norton Wise and Elaine M. Wise
Science whose business is bursting by Simon Schaffer
Res Ipsa Loquitur by Joel Snyder
Glass flowers by Lorraine Daston
Image of self by Peter Galison
News, papers, scissors by Anke te Heesen
Talking pictures by Caroline A. Jones.Luc Pauwel (ed.),
Visual Cultures of Science: Rethinking Representational Practices in Knowledge Building And Science Communication (Interfaces: Studies in Visual Culture)
Hanover and London, 2006
目次は次。
Introduction: The Role of Visual Representation in the Production of Scientific Reality by Luc Pauwels
A Theoretical Framework for Assessing Visual Representational Practices in Knowledge Building and Science Communications by Luc Pauwels
The Production of Scientific Images: Vision and Re-Vision in the History, Philosophy, and Sociology of Science by Michael Lynch
Representing or Mediating: a History and Philosophy of X-ray Images in Medicine by ernike Pasveer
The Accursed Part of Scientific Iconography by Francesco Panese
Images of Science in the Classroom: Natural History Wall Charts between the Two Centuries by Massimiano Bucci
Representing Moving Cultures: Aesthetics, Multivocality and Reflexivity in Anthropological and Sociological Filmmaking by Luc Pauwels
Arguing with Images: Pauling's Theory of Antibody Formation by Albert Cambrosio, Daniel Jacobi, and Peter Keating
Discipline and Material Form of Images: An Analysis of Scientific Visibility by Michael Lynch
Edward Tufte and the Promise of a Visual Social Science by John Grady
Making Science Visible: Visual Literacy in Science Communication by Jean TrumboHorst Bredekamp, Birgit Schneider and Vera Dünkel (eds.),
Das Technische Bild. Kompendium zu einer Stilgeschichte wissenschaftlicher Bilder,
Akademie Verlag, 2008
目次。
Editorial: Das Technische Bild by Horst Bredekamp, Birgit Schneider and Vera Dünkel
Bildbefragungen. Technische Bilder und kunsthistorische Begriffe by Angela Fischel
Bilddiskurse. Kritische Überlegungen zur Frage, ob es eine allgemeine Bildtheorie des naturwissenschaftlichen Bildes geben kannby Gabriele Werner
Bildbeschreibungen. Eine Stilgeschichte technischer Bilder? Ein Interview mit Horst Bredekamp
Zellbilder. Eine Kunstgeschichte der Wissenschaft by Matthias Bruhn
Interaktion mit Bildern. Digitale Bildgeschichte am Beispiel grafischer Benutzeroberflächen by Margarete Pratschke
Bildtradition und Differenz. Visuelle Erkenntnisgewinnung in der Wissenschaft am Beispiel der Rastertunnelmikroskopie by Jochen Hennig
Bilderreihen der Technik. Das Projekt Technik im Bild um 1930 am Deutschen Museum by Heike Weber
Interpretation und Illusion. Probleme mit teleskopischen Bildern am Beispiel der Marskanäle by Reinhard Wendler
Röntgenblick und Schattenbild. Zur Spezifik der frühen Röntgenbilder und ihren Deutungen um 1900 by Vera Dünkel
Mikrofotografische Beweisführungen. Max Lautners Neubau der holländischen Kunstgeschichte auf dem Fundament der Fotografie by Franziska Brons
Zeichnen mit der Camera Lucida. Von instrumenteller Wahrhaftigkeit und riesenhaften Bleistiften by Stefan Ditzen
Programmierte Bilder. Notationssysteme der Weberei aus dem 17. und 18. Jahrhundert by Birgit Schneider
Frühneuzeitliche Bilder von Musikautomaten. Zu Athanasius Kirchers Trompe-l'oreille-Kontemplationen in den Quirinalsgärten von Rom by Angela Mayer-Deutsch
Zeichnung und Naturbeobachtung. Naturgeschichte um 1600 am Beispiel von Aldrovandis Bildern by Angela Fischel個人的にタイトルとしては、ドイツ語のものが一番ピンときます。「テクニカルターム」に対して「テクニカル図像」。我々科学史家の仕事として、 Technische Bildの読解があると思われます。
「事物が語る」は、一般に歴史家として、必要な仕事です。同時代のコンテキストでは、学問の多くの分野で「ものが語る」というアプローチはありえます。ヘントシェルの論文
ヘントシェルぐらい数多くの出版物があれば、ネットでゲットできるものもあるだろうと思い、検索してみました。次の4点をまずダウンロードしました。
Klaus Hentschel, "Bildpraxis in historischer Perspective: Neue Bücher zur wissenschaftlichen Bilderzeugung, -bearbeitug und -verwending," NTM: International Journal of History & Ethics of Natural Science, Technology and Medicine,19, (2011): 413-24
冒頭に2007から2011までに出版された7点の著作がリストアップされています。
Klaus Hentschel, "Photographic Mapping of the Solar Spectrum 1864-1900, Part 1," Journal for the History Astronomy , 30(1999): 93-119
Klaus Hentschel, "Photographic Mapping of the Solar Spectrum 1864-1900, Part 2," Journal for the History Astronomy , 30(1999): 201-224
Klaus Hentschel, "The Culture of Visual Representaions in Spectroscopic Education and Laboratory Instruction," Physics in Perspective, 1(1999): 282-327
夜半に目覚めてすこし仕事。午前3時、居間の室温、25度。→午前10時、室温24度。ひとりで6時25分、室温24.9度。急いでおおきいちびと妻を起こしました。小学生もすぐに起きました。ちょっと遅くなりましたが、このぐらいであれば十分間に合うと思います。
おおきいちびのバスケットボールですが、最終日の今日は会場が変わって、千歳烏山にある佼成学園女子高等学校です。乗換案内で調べてみると、中央線で新宿に出て、京王線に乗り換えるのが早いようですが、朝のラッシュアワーにバスケボール3つ入ったカバンをもって乗り込むのは大変です。井の頭線で明大前乗換のルートを勧めました。
→妻はお弁当を買って、11時半頃帰ってきました。勝ったそうです。数多くあるブロックということはあっても、優勝は優勝です。おおきいちびには初めての優勝。出場時間もすこしあったそうです。[Picturing Science, Producing Art]
夕食後、次の本が届きました。
Caroline A. Jones and Peter Galison (eds.), Picturing Science, Producing Art, New York, 1998
目次は次です。カルロ・ギンズブルクによる「包摂としてのスタイル、排除としてのスタイル」からはじまり、シービンガー、ハラウェイ、ダストン、パーク、ギャリソン、アルパース、ラトゥール、シェーファーと続き、ジョナサン・クレーリーによる「19世紀における注意と近代性」におわる、スター学者を集めた論集となっています。
Style as inclusion, style as exculsion by Carlo Ginzburg
The affective properties of styles : an inquiry into analytical process and the inscription of meaning in art history by Irene J. Winter
Styleby typeby standard : the production of technological resemblance by Amy Slaton
Miracles of bodily transformation, or, how St. Francis received the stigmata by Arnold Davidson
Lost knowledge, bodies of ignorance, and the poverty of taxonomy as illustrated by the curious fate of Flos pavonis, an abortifacient by Londa Schiebinger
The sex of the machine : mechanomorphic art, new women, and Francis Picabia's neurasthenic cure by Caroline A. Jones
Deanimations : maps and portraits of life itself by Donna Haraway
Vision and cognition by Krzysztof Pomian
Nature by design by Lorraine Daston
Impressed images : reproducing wonders by Katharine Park
Iconography between the history of art and the history of science : art, science, and the case of the urban bee by David Freedberg
Hieronymus Bosch's world picture by Joseph Leo Koerner
Judgement against objectivity by Peter Galison
Eclectic subjectivity and the impossibility of female beauty by Jan Goldstein Visualization and visibility by Joel Snyder
The studio, the laboratory, and the vexations of art by Svetlana Alpers
How to be iconophilic in art, science, and religion? by Bruno Latour
On astronomical drawing by Simon Schaffer
Attention and modernity in the nineteenth century by Jonathan Crary.
ピロリ菌
本の山から『医学を変えた70の発見』を救出しました。70番目の発見がピロリ菌。正確には「ヘリコバクター・ピロリ:想定外のバクテリア」というのが章のタイトルです。4頁の記事なのですぐに読みました。一人称で書かれています。2005年ロビン・ウォレンといっしょにノーベル医学賞を受賞したバリー・マーシャルが執筆していました。発見の当事者に書かせるとはちょっと予想できませんでした。バリー・マーシャルは、世界人口の半分はピロリ菌に感染しており、約10%が潰瘍を起こし、10%が胃炎の症状を起こし、1〜2%が胃ガンとなると記しています。私はその10%に入ってしまったわけですが、かなりの確率で治療できるとあります。2015年秋駒場の授業
8月15日付の住田朋久氏のTwilog.org/sumidatomohisa/3 で私の授業と橋本さんの授業が引用されていました。橋本さんは授業で、ヘントシェルの『科学と技術における視覚文化』(2014)を順番に読むようです。テーマが私と重なりましたが、このテーマは、日本の科学史の世界が遅れている分野です。ちょうどよいので、両方をとってもらうように学生諸君には推薦します。私の方がすこし、古い時代、光学寄り、視覚文化論寄り、になるかと予想しています。さて、ヘントシェルですが、名前から言って明らかにドイツ人です。視覚文化論に関しては、スタフォード、ブレデカンプや、マックス・プランク研究所の研究者等、ドイツ語圏の人々が強いようです。
ヘントシェルは高エネルギー物理学の研究からはじめて、アインシュタインの編纂に関わったり、物理学史の仕事をし、その後、こういう方面の研究に着手したようです。最近は英語で出版していますが、トータルではドイツ語の出版が多い。
ヘントシェル『科学と技術における視覚文化』(2014)のpp.481-2 には、本のテーマに関係するウェブページの紹介も2頁にわたりリストアップされています。このテーマの本としては必要な配慮だと思います。
ひとりで5時5分、室温26.4度。やっと室温が下がりました。昨日の時点で編集委員会の懸案事項も一応の方をつけました。今日からは新しいことに着手できます。→午前8時現在、素地温は25.1度まで下がっています。夏の格好のままだと肌寒く感じる気温です。おおきいちびは3日目。昨日と同じ時刻、同じ会場ということです。→昨日と同じ時刻にでかけました。妻は、昨日よりいくぶん早く応援にでかけました。
妻がお弁当を買って帰ってきました。勝ったそうです。明日ブロックの決勝戦。東京都女子夏期大会は、それで終わりだそうです。その先はなし。ちいさいちびがデスノートの録画を見ていたので、原作読者として当然の不満は持ちつつも、いっしょに見てから、大学へ。
1時18分武蔵境発の西武線。大学についてからは、図書館により本を受け取り、研究講義棟3階事務室により書類を1点手渡し、研究室に入りました。ILL の注文を2点などちょっとだけデスクワークを行ってから、帰途に。3時16分多磨駅発の電車。帰宅するとおおきいちびが帰ってきていました。バスケシューズを干している(日にさらしている)のですぐにわかりました。私の直前に帰ってきたということです。[科学と技術における視覚文化]
図書館で受け取ったのは次の本。
Klaus Hentschel. Visual Cultures in Science and Technology: A Comparative History, Oxford: Oxford University Press, 2014
この分野の百科事典的著作として今後必読文献になるだろうという書評をバックカバーに載せています。百科事典的著作であることは間違いなく、文献もよく押さえているようです。電車のなかで少しだけ読みました。意味のある情報がありました。
→15.8.25 巻末に3頁の短い文献推薦があります。2014年にWorldCat で"visual culture"を検索すると、12万5千点以上の文献がヒットする。私の著作『科学と技術における視覚文化』の巻末文献表では、実際に私が使った約2千点の文献をリストアップしている。それは86頁(pp.395-480)をカバーしている。特に初学者のためには、案内があった方がよいと考え、この推薦書リスト( Recommended pathway into the secondary Literature)を用意した、とあります。
これは、確かに有用です。
ヘントシェルが挙げる文献は、できるだけ揃えておきたいと思います。(半年から1年以内にできるといいなと思っています。)
Venessa Schwartz and Jeannene Przyblyski, eds., The Nineteenth Century Visual Culture Reader, London, 2004. 特に、1, 3, 13, 15, 18章。
Luc Pauwels, Visual Cultures of Science: Rethinking the Representational Practices in Knowledge Building and Science Communication, 2005
Horst Bredekamp, Birgit Schneider and Vera Dünkel, Das Technische Bild. Kompendium zu einer Stilgeschichte wissenschaftlicher Bilder, 2008
Eric Margolis and Luc Pauwels, eds, The Sage Handbook of Visual Research Method, 2011
Brian Ford, Images of Science, 1992
Harry Robins, The Scientific Image, 1992
The Album of Science
Martin Kemp, Visualizations. The Nature Book of Art and Science, Oxford: Oxford University Press, 2000
Ann Shelby Blum, Picturing Nature: American Nineteenth-Century Zoological Illustration, 1993特定の分野のとても有用なエッセイ・レビューとしては、次。
Sybilla Nikolow and Lars Bluma, "Science images between scientific fields and the public sphere. A historigraphic survey," in Bernd Hüppaut and Peter Weingart eds.,Science Images and Popular Images of Science, London: Routledge, 33-51
Cornelius Bork, "Bild der Wissenschaft. Neuere Sammelbände zum Thema Visualisierung und Öffentlichkeit," NTM, 17, no.3(2009): 317-27
Klaus Hentschel, "Bildpraxis in historischer Perspective," NTM,19, no.4(2010): 413-24自然誌の分野では、上の Blum, Picturing Nature(1993)、Lapage(1961)、Knight(1977)、Kusukawa(2012)、Blunt(1950)、Lack(2001)、Claus Nissen(1950, 1951/66, 1969/78)、Magee(2009)、Kärin Nickelsen(2000-2006)
医学。Kelves(1997)
分光学。Hentschel (2002a)
光学的顕微鏡検査法。Wilson(1997)、Schickore(2007)。
20世紀の顕微鏡。Rasmussen(1997)、Baird & Shew(2004)、Hennig(2005)、Graneck & Hon (2008)、Mody(2006)、Mody and Lynch(2010)。
ホログラフィー。Johnston(2005-2006)。
写真(とくに科学分野)。Darius(1984)、Gaede(ed. 1999)、Thomas (1997)、Keller, Faber and Gröning (2009)。写真史全般の基本としてSchaaf (1992)。基本書としては、次のような書物たち。
Martin J. S. Rudwick, "The emergence of a visual language for geology, 1760-1840," History of Science, 14(1976): 149-195
Svetlana Alpers, The Art of Describing: Dutch Art in the Seventeenth Century, Chicago: University of Chicago Press, 1983
Michael Lynch and Steve Woolgar,eds., Representation in Scientific Practice. Cambridge, MA.: MIT Press, 1990
Sachiko Kusukawa , Ian MacLean (eds.), Transmitting Knowledge: Words, Images, And Instruments in Early Modern Europe, (Oxford-Warburg Studies) , 2006
Sachiko Kusukawa, Picturing the Book of Nature: Image, Text, and Argument in Sixteenth-Century Human Anatomy and Medical Botany. Chicago: University of Chicago Press, 2012. xvii+331 pp. $45.00. ISBN 978-0-226-46529-6
Catelijne Coopmas, James Vertesi, Michael Lynch, and Steve Woolgar eds., Representation in Scientific Practice Revisited, Cambridge, Mass.; MIT Press, 2014.
ひとりで6時、室温28.6度。おおきいちびは大会2日目。今日の会場は保谷高校だそうです。
ちいさいちびは豊島園。みんな(女子バスケ部)で行くそうです。夕刻、涼しい風が吹き、気温が下がりました。窓を開けると室温もすぐに27度になりました。やっと猛暑から解放される日が来たようです。おおきいちびは勝ったので、明日も勝ちたいと言っています。ちいさいちびはみんなで地元に帰ってから、東京女子大のお祭りに行くと連絡がありました。おおきいちびもよく行っていたものです。おおきいちびに確認したところ、東京女子大のお祭りというのは、東京女子大のなかでやっているのではなく、東京女子大通り(東京女子大前)の地元の商店街のお祭りなんだそうです。私も妻もずっと東京女子大でやっていると思っていました。そういう思い違いはたまにあります。
ひとりで5時25分、室温28.2度。室温がなかなか28度を下回ってくれません。空模様は真夏ではありません。秋っぽい感じです。今日はある程度晴れて、最高気温が34度まで上がるそうです。かろうじて猛暑日にはならないようですが、もうそろそろいいのではないの、と言いたくなります。おおきいちびは遠くで試合。お弁当を作る妻といっしょに6時に起こします。→予想していたことですが、小学生も起きてきました。
ちいさいちびも練習試合ですが、正午前からです。早めの昼食を食べてからでかけます。近所の学校なので、一度自分たちの学校に集まってからでかけるということです。
ひとりで6時、室温27.5度。予報では本日も昨日とほぼ同じく、24度〜27度です。室温は思ったほど下がってくれていません。→昨日よりも空が明るい。雨は降っていません。朝の予報では、最高気温29度ということでした。
肩の痛みは昨日よりはましになっていますが、まだ残っています。おおきいちびは7時に起きて、午前練に行きました。帰る時間は不明だそうです。
夜半に目覚めてすこし仕事。昨日根をつめる必要のある作業を久しぶりにして、右首=右肩に痛みが生じたせいです。肩凝りのひどい状態と表現すればわかってもらえるでしょうか。寝ていても痛く、目が覚めてしまったものです。ひとりで6時55分、室温28.2度。外はひんやりとした雨が降っています。28.2度は窓を閉め切ったときの居間の温度です。窓を開けたとき入ってくる空気の感じからすると、外は気温が下がっています。昨日の予報では、最低気温25度、最高気温27度でした。
寝る姿勢にも苦労するぐらい、肩は痛かった。この痛みはちょっとつらい。10時前に、編集委員会の仕事を1点、郵便局に出すために傘をさして外出しました。道路上に蝉の死骸が数多く転がっていました。鳥の死骸もありました。日の射さないどんよりとした空に妙にマッチしています。
11時現在、室温27.1度。この曇天では、もうこれ以上気温が上がることはないと思われます。天気予報の通りの気温ということになるでしょう。
ひとりで6時5分、室温28.3度。和歌山に帰る前に作業していた医療思想史のスクリプトを完成させることにしました。それぞれの日の配付資料をつくり、文章に手を入れます。文章は気を許すとどうしても文章語になってしまうところ、できるだけ話し言葉になるように心がけます。100%とするには、実際に発話する必要がありますが、そこまでやることはあまりありません。
ひとりで5時45分、室温27.9度。昨日日本各地に被害をもたらした雨は上がっています。杉並でも浸水した場所があったようです。午前練のあるおおきいちびは7時過ぎに起きてきて、自分で朝食を食べ、7時50分ぐらいにバスケボールを3個かついででかけていきました。
午前中は、編集委員会の仕事をしています。9月に発行する第3号の最終段階です。本文の足りない部分を準備し、表関係を作成しています。
→校正ゲラがないと作業を進めることができません。あとの作業は、ゲラが届いてからにします。
息子が起きて6時45分、室温28.3度。雨。昨日の雨がまだ降っています。昨日足と手の2箇所を虫に刺されました。右手の肱の内側のがとても痒い。
本日から再始動です。早めに大学に行って来る予定でしたが、中央線の三鷹駅で人身事故があり、中央線が止まっているという情報がテレビ画面に出現しました。ネットで調べると、動き出すのは9時半だとあります。9時半が過ぎてから、家をでました。
10時6分武蔵境発の西武線。さすがに知っている顔はいません。まず、図書館によって、ILL で届いている次の2点を受け取りました。
William Bulloch『細菌学の歴史』天児和暢訳、医学書院、2005
(原著は、William Bulloch, The History of Bacteriology, Oxford, 1938、です。もとは、ロンドン大学ヒース・クラーク講演会での講義:1937年1月2月、ロンドン熱帯医学校、です。著者名ですが、訳者の方は、ウイリアム・ブッロクと表記されています。全体で292頁の訳書ですが、本文は144頁までで、あとは、文献表、初期細菌学者人名録、と索引です。)
Thomas Schlich, "Linking Cause and Disease in the Laboratory: Robert Koch's Method of Superimposing Visual and 'Functional' Representations of Bacteria, " History and philosophy of the life sciences, 22(1979), 43-58次に3階に行って、ロッカーに届いている荷物(簡易書留)を受け取りました。それから研究室へ。大学のお盆休みの間に停電がありました。パソコンをネットに再接続をし、メールをチェックし、わずかに連絡をとってから、帰途へ。田舎にいたときはご飯が早かった。とてもお腹が空いていたので、多磨駅前の中華屋さんで焼きそばを食べてから、西武線へ。11時40分多磨駅発の電車。
中央線のダイヤはまだ乱れていましたが、12時頃に西荻駅に着きました。それから医院へ。駅から5分の距離です。お盆前の検査結果を教えてもらいます。
ピロリ菌が発見された、慢性胃炎はピロリ菌のせいです、ということでした。ヨーグルトで3週間準備してから、1週間2種類の抗生物質を飲んで下さいという指示。それで1週間おいて、10月に入ってから、もう一度状態を見ましょう、と言われました。
ですから、しばらくは、朝夕ヨーグルトを飲むことが仕事になります。気温はあまり高くなっていませんが、湿度100%かと思わせる蒸し暑さです。家に帰って一休み。
3時前、無事、東京の自宅に帰り着きました。窓を開け放ち、扇風機も使って空気の入れ換えをして2時間、上の寝室の室温は30.3度でした。もうすこし下がってくれると楽になります。
夜の11時20分頃から、雨足の強い雨が降り始めました。季節が真夏から晩夏に移り変わる音のように聞こえます。
2015年夏和歌山にて
8月9日(日曜日)
駅前のコンビニでおにぎりと梅を買いました。東京駅の駅弁がおいしくないと子どもたちが言うので、代わりにおにぎりにしたものです。
東京駅について10時半過ぎ。発車まで20分程度あります。新幹線乗り換え口の前のお土産屋さんでドーナッツ系のお土産を3点買いました。お土産をちいさいちびにもたせてホームに向かうとすでに乗車できるようになっていました。折り返し運転の車両ではないせいかと思われます。
わたくしはほぼ寝ていましたが、米原前で息子が鼻血と言います。鼻を手で押さえていますが、拭こうとした瞬間結構おちて、おなかのあたりが血まみれ。ティッシューで拭いてからしばらく休ませました。
新大阪の乗り換えには30分とっています。新幹線改札口を外にでると、駅の中の様子が変わっています。模様替えをしたようです。お土産物売り場を探して、人気のランクが高い2点を購入しました。そのままくろしお号のホームへ。乗車率はざっと見て、半分よりやや下といったところでした。
途中、高速が見えました。車がほとんど動いていません。片道1車線の高速です。止まると止まるでしょう。
南部に着くと、にわか雨が降っています。お天気雨です。
おばあちゃん家について、まずは荷物の片づけ。先に送ったスーツケースがついています。中身を分配して、必要なものを取り出しました。
5時半に夕ご飯。10時半に就寝。
8月10日(月曜日)
息子が起きて7時。
午前10時、出発。鮎川のアユ釣りに。
村の入り口のドラッグストアで帰りの電車でなくなったこども用酔い止め薬を買ってから高速に乗りました。今年の秋、和歌山県で国体があり、国体に間に合わせるよう、高速が延伸されているそうです。有料期間は田辺で終了し、白浜まで無料で開放されているということです。ずっとこの方針なのかどうかはわかりません。
11時過ぎに現地に着きました。つく10分ぐらい前からちいさいちびが酔ったと言います。もどすというので川まで連れて行こうと思いましたが、小道に入ったところで出してしまいました。朝食べたモモがでてきました。
釣竿が1本しかあまっていなくて、小学生とちいさいちびが交代でアユのかけ釣り。釣りあげたあと、はずすのは私の役目ですが、意外にアユが元気で2度ほど針が指に刺さってしまいました。しばらくすると竿があまって、小学生とちいさいちびがそれぞれに釣り。
ちいさいちびはティンカーベル(モノづくりの妖精)系です。器用です。途中からコツをつかんだようで、どんどん釣りあげます。結局、ちいさいちびが10匹、小学生が5匹すりあげました。釣りあげたアユは買い取ってその場で焼いてもらいます。
焼きあがったらおばあちゃんが隣の流しソーメンのお店に持ってきてくれます。おばあちゃんはあらかじめ6人分を頼んでいました。食いきれるのかと思いましたが、アユ15匹を含めて、完食しました。
食後は、近くのコメリに。小学生は花火を、おばあちゃんは併設されている食品売り場で何か食材を買いました。それからたこおじさんが田辺市の図書館に連れて行ってくれましたが、休館日。月曜日でした。海に面した国道42号線を通って帰途。町のエーコープで本日最後(?)の買い物。小学生は、サンダルで足ズレを起こしています。新しいのを買ってやろうと思いますが、エーコープにはおいていませんでした。別の機会になります。
4時20分頃、雷鳴が轟いたと思ったら、にわか雨が降ってきました。30分程度でほぼ止みました。8月11日(火曜日)
息子が起きて6時半。息子は鼻をかんで、畳の上をすこし歩きまわってからまた布団に戻りました。ちいさいちびはこちらに来る前後からよく寝ています。
朝一番でおじいちゃんのお墓参り。直前に息子をいっしょに裏山に登り、落ちている竹を一本拾ってきました。息子は何をしたいのかわかりませんが、竹を使った工作をしたいと言っています。墓参りには4人そろって行きました。簡単な清掃とみずやりと線香。両墓制なので2か所。すぐに帰ることができましたが、朝から暑い。
しばらくするとたこおじさんがやってきました。昨日の話では、上洞(かぼらと読みます)のお墓参り(おばあちゃんの両親がまつられています)の予定だったのですが、おばあちゃんが孫どもを白浜のワールドアドベンチャーに連れて行ってやろうと思いついて、アドベンチャーに行くことになりました。たこおじさんの説明の通り、新しい道がいっぱいできています。二階さんのおかげだということです。途中混んでいる個所もありましたが、アドベンチャーに近づくと空いています。
送迎コーナーに降ろしてもらい、入り口に向かいました。数分で入場することができました。ちょうど10時45分のイルカショーに間に合いました。テレビでよくやっていますが、近くで見ると、迫力が違います。その後海獣館に向かいました。ペンギンだらけ。息子がおなかがすいたというので、昼食。センターの2階のレストランにしました。
ゆっくりめで昼食を食べてから、ケニア号でサファリのほうへ。食べてすぐは、しばらく休もう(歩かなくてよいよう)と考えたせいです。
どの動物たちも暑そうでした。
息子は、最初からジェットコースターに乗りたがっていました。二〇〇〇円で乗り放題のチケットを販売していました。最初乗ろうとして一番大きなジェットコースターが700円。500円のジェットコースター4回分です。その程度は利用するだろうということで、乗り放題2人分を購入し、手に乗り放題のシールを回してもらいました。あとはちいさいちびと小学生にまかせました。私とおばあちゃんは木陰で休憩することとしました。喉が渇くので、待っている間、私はトイレに行ってからアイスコーヒーを買ってきました。ちいさいちびと小学生は6〜7回、乗り物に乗ったようです。かき氷で一休みしたあと、小学生は室内の巨大ジム。中学生は部活のお土産探し。ジムのあと、息子はもうよいと言います。おばあちゃんが携帯でたこおじさんに電話して迎えに来てもらうことになりました。ゆっくりと出口に向かい、出口すぐの自動販売機で水を買ってから歩いていると、おばあちゃんの携帯にたこおじさんから電話が。道が空いていたのでもうついた、という連絡でした。確かに車が止まっています。すぐに乗り込みました。
おばあちゃんがすしろうに行こうと言っています。息子は大トロが食えると喜んでいます。私の知らない裏道を通って田辺のすしろうへ。
入ったのが4時半ごろだったので、ちゃんと食べるのか心配だったのですが、みんなよく食べて、たぶん一人平均で11皿ぐらいを平らげました。息子は主にマグロ、とくに大トロ。ちいさいちびはお肉のメニュー。デザートも食べて、5時。アユ13匹分ぐらいの値段です。
明日は上洞の墓参りに行くようです。8月12日(水曜日)
息子といっしょに6時50分。
朝のうちに昨日拾ってきた竹の処理を行いました。枝を払い、のこぎりで節を4つ分切り落としました。何に使うのかよくわかりませんが、息子は持って帰るそうです。
たこおじさんが9時前に見えて、9時に墓まいりに出発。約25分。息子が怖い、怖いと叫ぶ崖の上の墓場で墓まいり。首筋と足元を蚊に刺された息子が大騒ぎをして、すぐに撤去。前にいなだのあった場所に残っているお店で、ちいさいちびがトイレを借りました。カボスのジュースというおもしろいものがあったので、2本買ってみました。
そのまま南部まで。妹への荷物をおばあちゃんが発送し、薬屋さんで酔い止めを買ってから、オオクワへ。マグロ祭ということで、マグロとハマチの刺身ほかおひるごはんの材料をおばあちゃんが買いました。息子のサンダルを探しましたが、やはり、見つかりませんでした。
夕食は、マンマドミナベ。神島に面した隠れ家的カフェとあります。夜の営業はなく、3時以降になると食べ物は、ピザとサンドイッチだけになります。4種類のピザを5枚たのみました。あばあちゃんは箸でピザを食べていました。
おばあちゃんが千里屋で買い物をして帰宅。この時点ではおばあちゃん以外はみんな車の中で待機します。8月13日(木曜日)
ひとりで6時10分。夜半から雨。強く降ったり、弱く降ったりを繰り返しました。起きた瞬間は降っていませんが、止んだ気配はありません。今日は一日こういう感じの天気でしょう。
たこおじさんは今日は午前中に病院だそうです。
お昼前にまた突如強い雨が降り出し、30分ほどで止みました。
1時15分、ちいさいちびと小学生を連れて、梅資料館へ歩いて行きました。曇り空ですが、蒸し暑い。東京に持って帰るお土産を買いました。買い物がすんでから、地下の展示も見て、ゆっくり帰ってきました。
4時ごろ、また雨が降り始めました。
5時前に、お盆の迎え火。息子と拾ってきた竹を活用しました。
8月14日(金曜日)
息子といっしょに6時50分。雨は上がっています。東の空には秋のような雲。
9日の私たちと同じ電車で残りの部隊が合流します。4時30分過ぎに、たこおじさんの車でおばあちゃん家にきました。息子が久しぶりにママに会えて喜んでいます。
たこおじさんが早速バーベキューの火起こしにかかりました。まきをつくっています。紙、まき、炭の順で火がつきます。
小学生、ちいさいちび、妻、おおきいちびの順にやってきました。最初は、カシワ(関西では鳥肉をこう呼びます)、カシワがおおよそ焼けたあと、牛肉。
ちびどもは落ちた肉のかけらをありんこたちがいっしょうけんめい運んでいるのを見て喜んでいました。1時間ほどで終了。汗まみれになりました。すぐに風呂に。
8時を過ぎてテレビを見ながら四方山話。8月15日(土曜日)
ひとりで5時50分。すぐに外に出ましたが、朝方は涼しい。
おばあちゃんもお隣さんも、ゴミの片づけをしていました。
おおきいちびの要望で、午後、海に行ってから温泉に入ることになりました。夜は送り火もあり、流しもあります。早くいってこいというおばあちゃんの言葉で、1時過ぎに出発することになりました。小目津の海岸。快晴かつ引き潮。岩の先のほうまで行くことができました。こどもたちはこういう海岸はたぶんはじめてです。ちいさいなカニや貝やヤドカリをつかまえていました。とくに息子がカニを気にいっています。おおきいちびは海がきれいだ、海がきれいだとよろこんでいます。iPhoneで写真撮影を繰り返していました。数回は私がシャッターを押しました。息子は長くいたがりましたが、満ち潮になると岩場はすべて海の下になります。潮が満ち始めたあたりで、退却することにしました。小目津には海岸公園があります。縄下り(とは言わないと思いますが、名称がわかりません)でしばらく遊んでから、たこおじさんの待っている車へ。小目津の海岸の上にロイヤルがあります。受付で5人分のチケットにハンコをおしてもらってから、温泉場へ。家庭のお湯より温度が高く、長く入っているのは難しい。息子はいちど水風呂にはいりました。
ロイヤルに来た時、私は普段しない剃刀でのひげそりをします。ついでに耳の掃除。十分時間を使ったつもりですが、ちびどもはそれから20分近くたってから出てきました。息子はエアホッケーをしたがりましたが、おねえちゃんたちが出てきてから考えると言い続け、出てきたときには待ちくたびれたたこおじさんが車で待っていたので、ちびどもがアイスクリームを食べている間だけ、別のゲームを2回やらせてやりました。4時過ぎに帰途。こどもたちは平気ですが、快晴の海の暑さは、ちょっとこたえます。
夕食まで私は休み、夕食後、ゴミの焼却と同時に、送り火をし、暗くなってから川にでむき、ローソク3本とお線香をたてて南無阿弥陀仏。息子は南無阿弥陀仏が上手になっています。唱えるのはおもに息子に任せ、来た時とおなじように歩いて帰りました。片道おおよそ15分。
帰ってきて、こどもたちは花火。たこおじさんの車で先に帰っていたあばあちゃんがあらかじめ準備をしていてくれていました。私は海で軽い暑さあたり。やはりずっと休んでいました。8時半ごろ終了。8月16日(日曜日)
帰京日。
妻といっしょに6時半、子どもたちは7時に起こしました。
曇り、いくらか涼しく感じます。
宅急便で荷物を2つ出します。8時から営業ということです。8時10分前にお店の前について、開くのを待っていました。3060円。そこから駅に送ってもらい、まずはひとりで待機。残りは8時23分ぐらいに到着しました。
息子の要望でホームで待っていました。ちいさいちびが蚊に刺されました。
3時前に無事に我が家に帰りつきました。ちなみに今回の田舎滞在に用いた電車は次です。
8月9日(日曜日) 父・次女・小学生
のぞみ327号 10:53東京発
くろしお15号 14:00新大阪発 南部着16:11
8月14日(金曜日) 母・長女
のぞみ327号 10:53東京発
くろしお15号 14:00新大阪発 南部着16:11
8月16日(日曜日) 全員
くろしお10号 南部8:44発
のぞみ330号 新大阪11:10
紀勢本線南部駅に止まる特急の数は限られています。南部に停まるくろしお号に合わせると、選択肢は多くありません。新大阪駅での買い物と乗換の便を考えて、新幹線を若干早めにしたり遅めにしたりという調整だけになります。
ひとりで5時55分、室温27.8度。やっと室温が下がりました。曇り。空がどんよりしています。しばらく留守にします。ネット環境の整っていない場所に行きます。rimnet のアドレスに連絡いただければ、24時間以内には返信できるのではないかと思います。
ひとりで5時50分、室温29.4度。天気予報では、やっと猛暑日を免れるそうです。雲が多いので、直射日光が遮られるせいかと思います。ちいさいちびは午前練。おおきいちびは午後練。私は、ともかくできる限りスクリプトの作成にあたりました。疲れました。
ひとりで4時50分、室温29.0度。妻とちいさいちびは朝から都心に高校見学にでかけます。
おおきいちびもオープンキャンパスに行きたいと言います。本日は、順天堂大学でオープンキャンパスがあることを自分で調べました。一時半からの回に参加すると言って、一二時半ごろ出かけていきました。ついでにほかのことも考えているようです。
おおきいちびがでかけてすぐにちいさいちびと妻が帰ってきました。妻はお昼にお寿司を食べたいという息子を連れて駅前の回転寿司屋へ。ちいさいちびは1時間ほど休憩してから、部活にでかけました。昼下がり、次の本が届きました。
トーマス・D・ブロック『ローベルト・コッホ―医学の原野を切り拓いた忍耐と信念の人 』長木大三・添川正夫訳、シュプリンガー・フェアラーク東京、1991
原著は次です。Thomas D. Brock, Robert Koch, a life in medicine and bacteriology, New York and London, 1988
ブロックさんは、フィッシャー賞を受けた微生物学者です。生物学者-歴史家と言えます。大学にILLで頼んでいた『細菌学の歴史』が届いたという連絡がありましたが、これを受け取ることができるのは、お盆明けになります。
[マラリアとキニーネ]
1880年、アルフォンス・ラヴェラン(1845-1922)が人間のマラリア原虫をはじめて描写。
1890年代、マラリアが蚊によって伝染するという仮説が広まる
1897年、パトリック・マンソンとロナルド・ロス(1857-1932)により、アノフェレス蚊がマラリア原虫を人間にうつす(アノフェレス蚊が人間におけるマラリア原虫の媒介者である)ことを確認する
また別に、ジョヴァンニ・バチスタ・グラッシ(1854-1925)がアミーゴ・ビニャミ(1862-1929)、ジュゼッペ・バスティアリ(1862-1959)とともに、そのことを証明した。
この中では、ロスが1902年にノーベル賞を受賞した。現在でも、マラリアは生きている病気。サハラ以南のアフリカを中心におもに熱帯地方で年間3億人から5億人が罹患し、1年におよそ200万人程度のヒトの命を奪っている。古い時代には温帯地方にも割と広く存在し、古い日本語で「瘧(おこり)」として記述されている病気は、ほぼマラリアではないかと推測されている。
マラリアの特効薬、キニーネは、マラリア原虫の発見の300年以上まえにヨーロッパに伝えられ、重宝されていた。(20世紀半ばまで、キニーネが400年以上にわたり、マラリアの治療薬として使われていた。)
ペルーとボリビアの原住民の間では、古くから、キナ皮を粉末にして煎じて飲むと、マラリアだけではなく、熱病の薬になることは知られていた。現地語で、クィンクィナ(皮のなかの皮の意味)に、キナノキ cinchona と名づけたのは、有名なリンネ。リンネは、1742年、おそらくペルー総督の妻、チン・チョン伯爵夫人を記念してこの名を付けたと言われている。
ヨーロッパにキナ皮を伝えたのは、イエズス会師。医学の黄金時代の到来まで、キナ皮は、特定の病気にほんとうにきちんと効く数少ない特効薬であった。
19世紀初頭、ポルトガルの外科医ベルナルディーノ・ゴメスがキナ皮から「シンコリン」を単離したが、この結晶は、薬効をもたなかった。
1820年、フランスの化学者ピエール・ペレティエ(1788-1842)とジョセフ・ビアナメ・ガヴァントゥ(1795-1887)の二人は、ゴメスの研究を繰り返し、薬効のあるアルカロイド「キニーネ」の単離に成功した。この後、キナ皮を直接使うのではなく、純粋抽出物を使うという方向性が生じた。ペレティエは、キニーネ抽出の工場をつくり、15万キログラムのキナ皮を輸入した。
19世紀はヨーロッパの植民地主義の時代であり、キニーネの人気は急上昇した。ペルーに自生していたキナノキは、利権の対象となり、政治的コンフリクトが生じた。ペルー政府は、キナノキの利権を守るため、キナノキの森へ外国人の立ち入りを禁止したが、1860年イギリス政府が一連の探検の結果、インドに移植できる木を発見した。キナノキ委員会が、カルカッタ、マドラス、ボンベイにつくられ、どの木がよいのか研究した。同じく、オランダは、東インド諸島植民地、とくにインドネシアのジャワでキナノキの実験を行った。最終的には、イギリス人から入手した種がすばらしい成功を収めた。
オランダのインドネシアにおけるキナノキの植林により、ペルーは独占を失い、それにかわってオランダは、第2次世界大戦まで世界のキニーネ生産の85%から95%を占めていた。
ヨーロッパ人が熱帯地方に進出するにつれて、キニーネの需要も増加し、1880年の時点では、キニーネが熱病治療にもっともよく使われる薬となった。
1942年、日本がオランダの東インド諸島を侵略、連合国に対するキニーネの供給ラインが絶たれた。この事態を受けて、キニーネ合成の動きが本格化し、1944年、クロロキン(最初の合成は、1934年)が軍隊のマラリア予防薬として使われるようになり、戦後、民間にも広まった。ノーベル賞受賞者ロスの言葉:「マラリアは人類にたいして悲惨な状況をもたらすが、それがゆゆしき問題であるのはそれだけの理由にとどまらない。マラリアは熱帯における文明の進歩にたいしてつねに深刻な障害となっている。・・・・・・マラリアはまことに不都合なことに、肥沃で、水の便もよく、申し分のない土地にとりつく。つまり、人間にとってもっとも価値ある土地にとりつく病気なのだ。」
この話が医療思想史の最終日の1コマ目です。90分の授業にはこの数倍が必要となります。(もちろん話す速度や図版やパワポ等他に用意するものとの兼ね合いもありますが、少なくとも倍はないと時間がもたないと思います。4倍にするとちょっと詰め込みすぎという感じになるでしょうか。)
夜までかかって何とか1コマ分は用意できたと思います。
ひとりで5時45分、室温29.0度。また早朝の室温が30度に近づきそうです。そろそろ反転してもよい時期だと思いますが、いつまで続く猛暑!おおきいちびは社会奉仕の日。7時半に起こして欲しいと言われています。
一歩も外出せず、講義ノート(医療思想史のスクリプト)を作成していました。ある程度準備がある箇所でしたが、1日分がやっとでした。一歩一歩進めるしかありません。
ひとりで4時50分、室温28.9度。体調は回復したようです。昨日の不調は胃カメラショック(ストレス)だったのでしょうか。
小学生はいつも通り、6時半過ぎに起きてきました。妻は7時半だそうです。
おおきいちびは朝からでかけるようです。お弁当をもっていくそうです。部活でしょうか。
午後1番で会議があります。朝でかけて、何点か書類の処理をしてきます。
9時42分武蔵境発の西武線。5分あれば、外のパン屋さんでパンを買ってから西武線に乗車できることがわかりました。
まず保健センターに行って、胃部レントゲン写真を返却し、研究室へ。学生の置いていった書類2点に署名押印。さらに別の場所においていた書類にも署名押印。それから3階の研究院事務室に行き、書類を提出。一度研究室に帰り、昨日からやっている調査を継続。物品が届いたという連絡があったので、ネットでの宿題を1件こなしてから事務棟3階に行って物品をもらってきました。
調査を継続。1時から会議。2時55分まで。研究室に戻り、会議であたった宿題をこなしました。それから帰途。3時40分多磨駅発の電車。あまりも暑い。武蔵境でジュースを飲んでから電車に乗りました。大学は今年から4学期制なので、夏休みではなく、夏学期と説明していますが、さすがにもうほぼ夏休み。今のところ、次の会議は、9月1日、2日、3日です。ですが、8月末に入ってくる可能性は高いと踏んでいます。
調査のなかでダウンロードしたのは、つぎ。
小川眞里子「ロンドン国際医学大会の意義について」『三重大学人文学部文化学科研究紀要』27(2010):97-108
小川眞里子「イギリス19世紀の衛生政策」平成19〜20年度科研費研究成果報告書
Olaf Breidbach, "Representation of the Microcosm - The Claim for Objectivity in the 19th Century Scientific Photography," Journal of the History of Biology, 35(2002): 221-250
Linda F. Fogle, "Prgmatic Objectivity and the Standardization of Engineered Tissues," Social Studies of Science, 39(2009): 717-742
Nina Samuel, "Images as tools. On visual epistemic practices in the biological sciences," Studies in History and Philosophy of Biological and Biomedical Sciences , 44(2013): 225-236
Horst Bredekamp, "A Neglected History? Art History as Bildwissenschaft," Critical Inquiry, 29(2003): 418-428
Tanaka Yuriko, "Koch's Technologies and Postulates: How They Work Together in Connecting the Material and the Human in the Foudation of Bacteriology," ZINBUN(Kyoto University), 42(2011): 147-159
Monika Dommann, "Vom Bild zum Wissen: eine Bestandsaufnahme wissenschaftshistorischer Bildforschung," Gesnerus, 61(2004): 77-89以下は、ILL で頼みました。
Thomas Schlich, "Linking Cause and Disease in the Lavoratory: Robert Koch's Method of Superimposing Visual and 'Functional' Representation of Bacteria," History and Philosophy of Life Sciences, 22(2000): 43-58
第22巻第1号は、「パスツール、ジャーム、細菌学実験室」という1996年にDibner で開かれたシンポジウムの特集です。Klaus Hentschel, Visual Cultures in Science and Technology: A Comparative History, Oxford: Oxford University Press, 2014
ひとりで6時10分、室温28.6度。昨日の続きがあるのでしょうか、おおきいちびはお昼下がりにでかけていきました。
全国的な強豪校実践高校が来てくれるのだそうです。ちいさいちびは、2時から合同練習ということで、1時35分に出かけていきました。
妻は、ちいさいちびのバスケはあまりしっかり見ていないので、見てくると言って3時頃出かけていきました。
結局、本日も、私と息子でお留守番。明日は会議があるので、私は大学です。
昨日から軽く風邪の症状があります。頭がすこし痛く、喉がいがらっぽい。胃カメラの麻酔から快復して、何時間か経ってから、妻に頭痛薬を2錠もらいました。1時間ほどで頭痛は消えて、仕事を続けることができました。
[はじめての胃カメラ]
朝一番(9時半)で胃カメラがあります。終わるまでは極力おとなしくしてようと思います。
→9時5分に家をでました。9時20分に医院に着きました。しばらくすると4階に来てくださいとの言葉。いつもの2階ですが、4階に装置がありました。喉と鼻に麻酔をしますと言われて、両方の鼻の穴から何度も噴霧。歯医者のときの麻酔剤と同じなんだそうです。時計は見ていませんが、10時ぐらいだったでしょうか、お医者さんが見えて、撮影(という表現でよいのでしょうか)。痛みはありませんが、表現しがたい感覚です。横になって画像をリアルタイムで見ながら、胃の中をぐるっと一周見回した感じです。大学の検診で言われた胃炎は、私の目でもはっきりとわかりました。一部あかくなっている箇所があります。ピロリ菌の検査もしましょうということで、数カ所で生検(胃の組織をすこしとりました)。結果はお盆明けにわかるそうです。予約は必要ないので、都合のよいときに来て下さいということでした。
空気を送り込んでも胃があまり膨らまないのが不思議です。胃炎の状態とあわせて、半年後、再調査してみましょう。それでどういうことかはっきりするでしょう。
麻酔のせいで、声がちゃんとでません。1時間から2時間たったらもとに戻りますというナースさんの言葉。これはこれで辛いというほどではありませんが、嫌なものがあります。ご飯も麻酔が切れてからにしてくださいということでした。昨日の夕食以来、何も食べていませんが、ありがたいことに食欲は回復していません。
夜半に目覚めてすこし仕事。妻は7時、ちいさいちびは7時50分に起こすことになっています。
ひとりで5時50分、室温28.6度。この室温でさえ、昨日と比べるといくらか涼しく感じます。嗚呼。
ちいさいちびと妻は、8時半過ぎにでかけていきました。おおきいちびはその後下に降りてきて、9時前に高校にでかけていきました。文化祭の準備があるのだそうです。
ということで、いつものように、我が家には、私と息子の二人が残りました。二人の場合、昼食は、いつもとおり、息子の希望によりマックとなります。息子はチーズバーガーハッピーセット。私はフィッシュバーガー(フィレオフィッシュ)。→予定とは違って、息子はビッグマックに変わりました。私は変わりなし。妻とちいさいちびは、2時40分、暑さあたりした顔で帰ってきました。この暑さで歩き回るとだれでもいくらかそうなります。
おおきいちびは5時過ぎに帰ってきました。ちびどもでカラオケに行くと言っています。
[観察者の系譜、出現]
今行っている作業には、川喜田さんの『近代医学の史的基盤』が手元に欲しい。上はすぐにみつかりました。実は欲しいのは下です。積み重なっているのを掘り起こすのが面倒で、現時点では諦めました(研究室においている可能性もありますし)。しかし、私の背中で2列においてある本棚の後列からクレーリーの『観察者の系譜』を見つけだしました。春先には探し出すのを諦めて、新しいものを購入しています。こちらはもちろん初版で、出版社は金沢の十月社です。
→と書いたあと、ふと気になって、もともと置いてあった場所に手を入れてみました。ありました。前のものを動かさないと見えないようになっていましたが、最初置いてあった場所にそのままありました。手元にほしい日本語の医学史レフェレンスとしてはこれが一番です。
ひとりで4時40分、室温29.4度。わおー。ちいさいちびを6時50分に起こすことになっています。午前中に小学生バスケチームマジックとの合同練習があります。
2時過ぎ、小学生は杉並公会堂でワークショップがあるということで、ママに連れられてでかけました。帰りは5時半ぐらいということです。電車で行くそうです。
3時前、バスケ部の友達と公園で水鉄砲遊びをするということで、わからないように水着を着込んでちいさいちびが自転車ででかけました。
5時55分、ほぼ予定通り、合宿からバスで高校についたおおきいちびから連絡がありました。送ったときと同じように迎えに行くことになりました。私はスーツケースを運びます。自転車を漕いでいると風を受けるので、乗っている最中は猛烈な暑さというわけではないのですが、一度降りると猛烈な暑さが身体にまとわりつきます。おおきいちびは合宿は(予想に反して)楽しかったと言います。また避暑地の長野から帰ってきたので当然ではあるのですが、東京はあつい、あついと言います。当然!
私の方、医療思想史の柱となる部分を決めることができました。日本語の自然な語感だと、むしろ決まりました、と言った方がよいかと思います。
夜半に目覚めてすこし仕事。講義の準備作業をしていて、脳の興奮が冷めなかったせいです。ちいさいちびはオフなので、誰も起こす必要がありません。いつになく遅くまで起きているので、いつもとは逆に朝は起こされることになるかもしれません。
ひとりで5時10分、室温28.6度。結局、昨日と同じ時刻に目覚めました。睡眠不足なので、どこかで昼寝することになります。
息子はいつも通り、7時過ぎに起きてきました。妻とちいさいちびは8時45分現在まだ起きてきません。ちいさいちびはオフなのでのんびりするでしょう。
午後1番で、ずっと世話になっていた駅向こうのK医師のところへ、大学からもらった検診結果をもって行くこととしました。午後の診療は3時から。2時25分に家をでました。途中銀行でお金を降ろして歩きました。おお、この暑さはすごい。みんな日陰を歩こうとしています。午後の診療の1番でした。火曜日の午前中に胃カメラが決まりました。
川喜田 愛郎氏の仕事を読む。
川喜田愛郎「病原微生物学の100年(創立25周年記念号)」『土と微生物』22 (1980), 3-5,
川喜田愛郎「感染の基礎的諸問題」『日本細菌学雑誌』20(7)(1965), 315-325,
川喜田愛郎「細胞研究の歴史からみた現代医学」『千葉医学雑誌』56(1)(1980), 1-10
とても勉強になります。あまりきちんと考えていなかったことがはっきりと見えてくるようになりました。「病原微生物学の100年」p.3
コッホが1880年頃微生物の純粋培養法を確立。
それまでパスツールは、細菌(ジャーム)の液体培養法を確立していた。
しかし、コッホ(Robert Koch, 1843-1910)の目からするとそれは、雑多な細菌が混じり合った状態での培養であり、これこれしかじかの特定の細菌=病原体が、これこれしかじかの病気を引き起こすことを立証するためにはまったく不十分なものだった。
コッホは、切ったジャガイモの断面でのカビの生え方をヒントにして、ガラス板の上にゼラチン培地を流し、その上で純粋培養を行った。これが固体培地の最初の工夫であった。ちなみに、寒天培地の工夫は、コッホの弟子のヘッセが行ったものである。ヘッセの夫人が現在のインドネシアに滞在中料理に使ったことのある寒天にヒントを得て、たまたま使ってみたのが出発点である。(その理由:空気中の細菌数の測定をゼラチン培地で試みたヘッセが、ゼラチンではそれを液化する菌がいて仕事にならなかったので、菌によって液化しない、ゼラチンに変わるものを探していた。偶然見つけたのが寒天であった。) 当時はペトリ皿ではなく、平板培地と呼ばれるものであった。
概念的背景。19世紀後半当時、有力な細菌研究者の間で、多形態学説=微生物の間にはほとんど種 species がないという考えが大勢を占めていた。バクテリアの間にも、種の区別があるということを唱えたのは、フェルディナンド・コーン(Ferdinand Cohn)などほんの数えるしかいなかった。
その技術的背景。固定とか染色という技術がまだなかった。固定や染色の技術なく、顕微鏡でバクテリアを見ても、区別をつけることができない。そうした技術的理由もあって、バクテリアに種を分ける考え方が有力なものとなっていなかった。コッホの研究。まずは、炭疽菌。
炭疽病は、牛や羊などの家畜に広く見られる病気で、炭疽菌という名前は、この病気にかかって死んだ家畜が、くろずむので、炭疽、の名で呼ばれた。生命の実体としては、この炭疽菌は、桿菌(かんきん、棒状の菌の意味)と呼ばれる種類に属し、身近なところでは納豆菌もこの桿菌の仲間。大きさは、0.003ミリ〜0.01ミリほど。普段は地中(土のなか)で生きている。この炭疽菌は、環境が悪くなると、(つまり、栄養が悪かったり、あるいは空気に触れると)姿を変える。それを、芽胞(がほう)と呼ぶ。殻に包まれた状態。身を守ってくれるカプセルに入ったような状態と思ってくれればいいのではないでしょうか。
この芽胞状態が、細菌兵器として役立つ。つまり、乾燥や熱や、消毒液に対して、強くなる。少々の乾燥や熱や消毒液では、殻が守ってくれるので、死ななくなる。(同じく、生物兵器に使われるボツリヌス菌も同じ性質をもつ。)
当時、コッホは、ドイツのヴォルンシュタインという田舎町の一般開業医であった。その地方では羊に炭疽病が流行り、一つの村の羊が全滅するというようなことが起きていた。コッホ以前にすでに死んだ羊の血液から糸状の細菌が発見されていたが、それが炭疽病の原因だとはわかっていなかった。コッホは、まず、死んだ羊の血液をネズミに接種してみた。予想とおり、ネズミは死んだ。その次がコッホの面目躍如の点。試行錯誤の末、コッホは、死んだ羊の血液中に存在する微生物の純粋培養に成功する。純粋培養されたそれをネズミに接種すると、ネズミが炭疽病にかかって死んでしまうことを確認した。これがいわゆるコッホによる炭疽菌の発見です。第1論文は1876年、第2論文は1878年に発表されている。これは非常に見事な研究で、炭疽菌の生活史=炭疽菌がどのように動物の体内に入り、どのようにして血液中で増殖し、血管を閉塞させ、毒素を分泌して病気を引き起こすのか)を記述した。(『70の発見』pp.71-3)
炭疽菌というは、コッホには幸運な選択だった。その理由は、炭疽菌が比較的大きく、扱いやすいものだったから。バクテリアを採取し、純粋培養し、染色し顕微鏡で観察するコッホの一連の新しい実験技法は、病原微生物学にとっては画期的なもので、そのおかげで、病原菌発見ブームが生じた。とくに影響力の大きかったのは、コッホ自身による結核菌の発見(1882)とコレラ菌の発見(1883)である。結核菌の発見(1882)。まず、結核という病気そのものから。(『70の発見』pp.160)結核は、人間にかかる病気のなかではもっとも大勢の命を奪った病気。19世紀初期では、死因の17%から20%を占めると推定され、死因の第1位。結核菌の保菌者は現在の世界の人口の約3分の1で、保菌者の約1割が発症する。
また結核はもっとも古い病気のひとつでもある。DNAの研究により、9千年前の人骨にも発見されている。古代のインド、中国、中東、古代ギリシャの文献に結核の症状が記載され、ミイラに結核の跡を見ることができる。
結核の流行は、都市化と産業化に伴って繰り返し生じていて、18歳から30歳の働き盛りの人間を命を奪った。
特定の家族に集中的に出現することも多く、一番有名な例は、19世紀のブロンテ姉妹である。ブロンテ家の6人の子どものうち5人が結核にかかった。父は、瘰癧(るいれき、首のリンパ腺がはれる)だったが、子どもたちより長生きした。
動物の炭疽病のあと、コッホは、人の結核にとりかかり、結核菌の単離・純粋培養に成功し、1882年「結核症の病因論」という長短2本の論文を出版した。病原微生物学のスタートは、コッホの1882年論文にあると言える。
これは、いわゆるコッホの原則( Koch's postulates)―コッホ自身が定式化したものではなく、コッホの学生時代の恩師の一人ヤコブ・ヘンレが最初に提唱した考え方だが、コッホの論理が後の人がコッホの3原則としてまとめたもの―に基づいて、結核菌という特定の種の菌が様々な結核症の病原体であることをまったく異論の余地のない形で実証して見せたものであった。
川喜田さんのまとめ(「病原微生物学の100年」p.3)によれば、それは次の3つである。
1.その菌がその病気のあるところに必ず存在しなければならない。
2.その病気でない場合(健康な場合とか、別の病気の場所)にはその菌は決して見つかってはならない。
3.その菌を純粋培養の形にして継代培養したのち、再度それを動物に接種した場合、もとと同じ病気が再現されなければならない。
(これは、4原則の形にまとめられることも多い。その場合、4.は、3.の病巣部から同じ菌が分離されなければならない、となる。)
コッホのこの仕事は、病原微生物学の出発点を与えただけではなく、微生物学にとっても医学にとっても非常に大きな仕事と言える。病理学上「病因」という概念が確実に成立したと言えるのは、コッホのこの仕事からと見ることができる。
そして、コッホのこの仕事をきっかけとして、1880年代から20世紀がはじまる前までに(すなわち19世紀の最後の20年間に)バクテリアによって生じることが知られている主な病原体がほとんどすべて発見されてしまった。科学的発見という点では、19世紀末の20年間はこれだけでもほんとうに「医学の黄金時代」と呼べる。病原菌発見簡易年表。
1876年、炭疽菌、コッホ
1882年、結核菌、コッホ
1883年、コレラ菌、コッホ
1883年、ジフテリア菌、エミール・フォン・ベーリングと北里柴三郎
1889年、破傷風菌、エミール・フォン・ベーリングと北里柴三郎
1894年、ペスト菌(腺ペスト)、北里柴三郎
1897年、赤痢菌、志賀潔病原体は、発見された。では、対策は? 医療という点では、原因の知識だけでは不足で、治療または予防が求められる。
エドワード・ジェンナー(Edward Jenner, 1749-1823)は、人間ではなく牛の天然痘=牛痘を用い、ワクチンを開発した。ワクチンという言葉は、ラテン語の牛vacca に由来する。牛痘接種法は、種痘と略される。ジェンナーがはじめて牛痘からとった濃疱を8歳の少年に植えたのは、1796年、すなわち18世紀末のことであった。ジェンナーが数日後、同じ少年に天然痘を植えようとしたところ、今の言葉を使ってしまえば、免疫を示した。これは、パスツールに先立つこと約80年前であった。
(川喜多「免疫学100年史」p.546)パスツールは、1880年夏、家禽コレラの菌を鶏に接種し、バカンスを過ごして帰ってきた。生き残っていたニワトリに、また新しくて生きのよい、すなわち強毒性の家禽コレラ菌を接種したところ、ニワトリは一羽も死ぬことがなかった。この事実に驚愕したパストゥールに浮かんだアイディアが、あのジェンナーの種痘との類似であった。
そして、パスツールは、おおよそ次のように考えた。人が伝染病にかかって幸いにも快復すると、同じ伝染病にかかることは原則ない。伝染病には2度目はない、という一般法則を考えることができる。だとすれば、ジェンナーの種痘も家禽コレラの事実も、「伝染病に2度目はない」現象が弱毒化された病原体の接種によって実際上ほとんど無害の形で再現されたものと理解できるのではないか。このパスツールの推論は、今から見れば穴もありますが、ほぼ核心をついていたと言えます。
この考えに基づいて、パスツールは、いろんな仕方で弱毒化された病原微生物の接種によって、「同じ伝染病に2度はかからない」現象を起こさせる、いまのことばで言えば予防接種を試みます。1880年の偶然の家禽コレラに続いて、1881年には1876年コッホが病原菌を見出した炭疽病に関して(コッホからたったの5年後!)ワクチンを作った。パスツールによれば、炭疽菌を空気にさらすことで弱毒化し、それを羊に注射し、羊に免疫ができるのを待った。
パスツールは、さらに、1880年代半ば、狂犬病にも同じ方法を用い、大きな成功を収めた。さらに、1890年代には、ジフテリアで同じ方法を用い、多くの子どもの命を救った。ちなみに、ジェンナーの種痘法に話をもどしておけば、牛痘法ではなく、人痘法(すなわち、天然痘にかかった人間の濃疱を健康な人間にうつす方法。うまくいけば、濃疱をうつされた健康な人間は、軽い症状を経て、生涯免疫をもつようになる)は、古くからアジアとアフリカで行われていた。まったくの経験的対応法。1717年、トルコのイギリス大使夫人メアリーは、これを見て、イギリスに人痘を伝えている。18世紀には人痘法は確立し、東インド会社は軍隊に人痘を施している。19世紀になると、イギリス支配下のインドでそれとはまたちょっと違った人痘法が用いられていた。
つまり、ワクチンという考え方もない、免疫という概念もまだない、たったひとつの病原体細菌も発見されていないときに、純粋に経験的方法として、天然痘対策という枠組みのなかでだけ人痘法は行われていたということになります。それを一般化、法則化したのは、パスツールの貢献と言えます。もともと牛痘病毒接種という意味の vaccination という語を予防接種一般の意味へと拡張したのは、ジェンナーを顕彰しようというパスツールの提案によります。
従って、免疫学という学問分野は、パスツールの一連の弱毒生菌免疫の研究開発に出発点をもつと言うことができる。(川喜多さんの見解。)次はコッホの方。コッホは、結核菌の発見後、パスツールとの対抗意識もあり、結核菌の培養濾液を濃縮した液をツベルクリン(結核に対するワクチン)として、1890年に発表した。しかし、これは大失敗。ツベルクリンは、結核に対するワクチンとしては働かず、多くの犠牲者を生んだ。これがコッホの人生における最大の失敗であった。
(もちろん、よく知られているように、ツベルクリンは、20世紀になって、結核感染の有無を調べる検査法として広く使われるようになった。)
パスツールの炭疽菌ワクチンでの失敗(世界中からの要請に、品質管理のできていないワクチンを送付してしまい、世界各地に多くの被害をもたらした)とともに、失敗はあったが、方向性は間違っていなかった。
ただし、川喜田さんが指摘するとおり(「病原微生物学の100年」p.4)、病原体の発見の連続とワクチンの発見の連続があまりに目覚ましかったため、細菌感染の病理学がまったく手薄になった。その状況が数十年続いた。病原体が身体に侵入したあと、どういうプロセスで病気を引き起こすのか、また治る場合、どういうプロセスを経て治るのか、その医学にとってもっとも重要な中間段階がほぼ手つかずに残された。
感染の病理学は、1940年代に入って、新しく発展してきたが、その背後には、医学以外の微生物学者の新しい展開があった。手術時における消毒。1860-1890、ジョゼフ・リスター(Joseph Lister, 1827-1912)。まず、これも、病原菌がなにも発見されていないときになされた革新であることを確認しておこう。
19世紀前半、外科手術は大きく進歩した。しかし、手術は成功したのに、創傷熱で死亡する患者が少なくなかった。大腿を切る手術では、死亡率は45%〜65%だった。
手術を行った医師、すなわち外科医は、この問題を「腐敗」の問題だと理解していた。患者の体内または損傷した組織に自然に生じる「腐敗」のせいだと見なしていた。したがって、手術する側が清潔に保つことは重視されなかった。ある外科医の回想によれば、1860年代、外科医達は古い血や膿がこびりついた上着を着て手術を行い、手術終了後も、手も外科道具もただ水で洗うだけであった。
1860年から1890年にかけてこれが大きく変わった。その変化にもっとも大きく貢献したのは、イギリスの外科医ジョゼフ・リスターであった。リスターは、創傷あるいは環境に存在するかもしれない腐敗をもたらす原因を石炭酸(フェノール)で取り除く方法を追及した。これは、antisepsis 防腐法、制腐法、消毒法と呼ばれた。石炭酸は当時腐敗の臭気を取り除くことができると考えられていた。
リスターが最初に石炭酸の実験を行ったのは、1865年8月12日であった。馬車に左足を轢かれて複雑骨折をした11歳の少年だった。リスターは、少年の患部を亜麻仁油と石炭酸に浸した包帯で覆い、4日間放置した。傷は完全に直り、少年は6週間後に病因から歩いて帰っていった。
その2年後、1867年、リスターはこの新しい工夫を公表した。そして、うまくいった理由として、パスツールの細菌説(細菌はどういう環境にも普遍的に存在し、餌になる栄養分があると腐敗を引き起こすという説)をあげた。リスターは、自分の工夫が正しいことを立証するため、石炭酸導入前に手足を切断した患者35名のうち16名が死亡したが(死亡率46%)、石炭酸導入後に手足を切断した患者40名のうち6名だけが死亡した(死亡率15%)になったと報告した。しかし、同僚の外科医達は、パスツールの細菌説を信じなかった。
しかし、1870年代に入って、コッホの研究がリスターの消毒法を強力に後押しした。創傷感染の研究でコッホは、さまざまな細菌を培養して同定し、化膿の原因をはっきりと示した。それぞれ異なる細菌が異なる病気を引き起こしている。
1880年代、リスターが手がけた消毒法は、ドイツで「無菌」と呼ばれるところまで行き着いた。中心人物は、ドイツ人のエルンスト・フォン・ベルクマン(1836-1907)。外科医の手を含め、傷に触るものはすべて丹念に洗い消毒した。また外科器具や手術着は熱で消毒した。ヨハン・フォン・ミクリッツ=ラデツキ(1850-1905)は、手術中にしゃべると「飛沫による感染」が高まると考え、マスクで口を覆うことを主張した。1890年アメリカのジョンズ・ホプキンズ病因の外科医ウィリアム・スチュワート・ホルステッド(1852-1922)が手術中特製のゴム製の手袋をするようになった。
こうした努力の結果、1875年を境に、外科手術による死亡率はめっきりと減少した。産褥熱にも触れておきましょう。20世紀前半まで一般的だった産褥熱は、もっとも有名な医原病です。分娩時に立ち会っている人物の手から、知らない間に、病原体が女性の子宮に侵入して生じる病気。もっとも多い病原菌は、悪性のA群β溶血性連鎖球菌。他の細菌が関与することある。(『70の発見』pp.156-7)
通常は出産の3日後に症状が出現し、腹膜炎と敗血症を起こして、死に至る。この病気で亡くなった有名人には、ヘンリー8世の3番目の妻、ジェーン・シーモア、『フランケンシュタイン』を書いたメアリー・シェリーの母、メアリ・ウルストンクラフトなどがいる。
最初の流行は、おそらく17世紀半ばのパリ。急激に増加したのは、18世紀半ばで、大規模な公共病院が建てられた時代であった。そうした病院での致死率は30%を超えることもあった。
こうした大病院における産褥熱流行の原因は、医師や医学生が死体解剖室から直接分娩室にやってくる習慣だった。彼らは、死体解剖室で解剖したあと、手を洗うことも服を着替えることもなく、分娩室にやってきて、死体から出産中の母親に病原体を運んだ。
その可能性を最初に真剣に考えたのは、アバディーンの医師アレクサンダー・ゴードン(1752-99)であった。ゴードン『アバディーンの産褥熱の流行についての議論』(1795)。
アメリカの医師、オリバー・ウェンデル・ホームズ(1809-94)「産褥熱の感染性について」(1843)。
ハンガリー人男性産婆イグナッツ・ゼンメルヴァイス(1818-65)『産褥熱の原因、概念、予防』(1860).
1920年代にもっとも一般的な原因菌が特定され、1935年には有効な治療法が見出されて、ほぼ完全に産褥熱は克服された。魔法の弾丸ペニシリンの発見。
セレンディピティーの典型。偶然の発見。
最初の発見は、スコットランド生まれでロンドンセントメリー病院医学校で医師になったアレクサンダー・フレミング(1881-1955)による。彼は第1次世界大戦に軍医として従軍したあと、セントメリー病院に復帰し、感染症の治療薬の研究に着手した。
1928年の夏の終わり、夏休みにでるフレミングは、細菌培養のシャーレを作業台にそのまま放置して、でかけた。ちょうどそのとき、階下の研究室ではアオカビの実験を行っており、カビの胞子は、フレミングの研究室にもやってきていた。
休暇から帰ったフレミングがシャーレを見ると、細菌の培養に失敗していることに気づいた。アオカビが生えていたのである。よく見ると、カビの周辺では、黄色ブドウ球菌のコロニーがすべて溶けていた。
アオカビに抗菌作用があるのではと推測したフレミングは、詳しい研究に乗り出した。そして、アオカビの濾液には、いろいろな細菌を殺す働きがあることを見出した。その物質(濾液)をアオカビの属名(筆、penicillus )からペニシリンと名づけた。
フレミングは、アオカビのどの種類が多くのペニシリンを生産するのか調べつつ、患者の感染創にカビの濾過液を塗ってみた。すると、上々の効果を示した。
ペニシリンに関する論文をフレミングは、1929年と1932年に発表した。しかし、その論文は注目を浴びなかった。フレミングが石炭酸と比較できる外用薬としてだけ提示したせいもあった。つまり、一度忘却される。
それが第2次世界大戦中に再発見される。注目したひとりが、オクスフォード大学病理学教授ハワード・フローリー(1898-1968)。フローリーはオーストラリア人。フローリーのチームには、ナチスを逃れてきたユダヤ系生化学者エルンスト・チェーン(1906-1979)がいた。チェーンは自分の専門を生かし、ペニシリンの分離・精製に挑む。そして成功する。ペニシリンは結局酵素ではなく、単一の分子であった。フローリーの助手、ハートリーは、動物実験を重ね、ペニシリンは静脈注射で速やかに全身移行し、これまで使われていたどの抗菌剤よりも強力で、副作用もほぼなかった。1940年に彼らは、権威ある医学雑誌ランセットに発表した。(ペニシリンは、細菌の細胞壁の形成を阻害する。そうした細胞壁はヒトをはじめ真核生物には存在しない。)
イギリス政府は、大量生産のための十分な支援を与えなかった。フローリーとヒートリーは、1941年7月アメリカに飛び、チームが結成された。インディアナの農務省の科学者が気泡とトウモロコシ廃棄物を使い、バットで効率的にアオカビを作る方法を見出した。当時まだ小企業だったブルックリンのファイザーやニュージャージーのメルクのような製薬会社が技術と専門知識をそそぎ込み、科学上の新発見を2年間で産業に転換した。 こうして、梅毒、肺炎、壊疽を数日間で治癒するワンダードラッグ、魔法の弾丸が誕生した。
ペニシリンの開発が、医学に与えた影響は多大である。いわば人々は、史上初めて、医学の生みだした魔法の薬を目にしたのである。医学のイメージは、かつてないほどよいものとなった。医学の黄金時代を代表するものとしてのペニシリン。魔法の弾薬としては、化学療法にもふれておく必要がある。
梅毒の特効薬サルバルサンから。パウル・エーリッヒ(Paul Ehrlich, 1854-1915)は、ベルリン大学で、白血球の染色性の差から3種類に分かれることや、アニリン色素による結核菌の染色など、色素と染色に関する研究をしていた。ついで、コッホが所長をつとめる伝染病研究所にはいり、エミール・ベーリング(1854-1917)の血清療法の研究を手伝った。
1906年、エーリッヒは、化学療法研究所を主宰し、いろんな色素と細胞の構造物への特異的反応から、病原体にだけ特異的に(化学的に)働く物質があるはずだと考え、砒素化合物をひとつずつ動物実験して、細菌感染に関する効果を確かめていた。
エーリヒのもとには、岡山大学医学部(当時は岡山第3高等学校)の卒業生である秦佐八郎(1873-1938)が北里柴三郎の伝染研究所からの留学生として働いていた。そして、秦が606番目の砒素化合物が梅毒に効くことを見いだした。これがサルバルサン(ラテン語の救うsalvare と健康 sanitas から作られた)であった。史上初の合成化学療法剤であった。
北里柴三郎の言葉を紹介しておこう。「コッホ先生がツベルクリンを発見されて以来、血清療法、次いでエーリッヒの化学療法の発展を見たわけであり、学術の進歩は極めて遅いとされていたにもかかわらず、このわずか20年余りの間にこのように進歩したことは極めて喜ばしいことである。・・・特に今回のエーリッヒ、秦両氏の発見した回帰熱及び梅毒に対する砒素剤606号はまさに近来の大成功というべきである。」(秦佐八郎『化学療法の研究』1911への北里の序文、北里一郎「化学療法の黎明期」p.616より重引)
1935年、Domagk(1895-1964)、プロントジル発見
1944年、Waksman(1888-1973)、結核の特効薬ストレプトマイシン発見
1957年、梅澤濱夫(1914-1986)、カナマイシン発見再び、コッホに戻って。コッホの顕微鏡。有名なエピソード。
田舎医師としてドイツ各地を転々としていたコッホは、1872年、郡医官の試験を受け合格し、ヴォルシュタインに新設された郡医官職に就いた。開業医として名医の評判を得たコッホは、やっとすこし余裕のある生活ができるようになった。伝説では、その暇そうなコッホに、妻が、新しいツァイス製の顕微鏡をおくる。これがコッホの細菌研究に繋がったと言われる。
伝説の真偽のほどはともかく、コッホも(少年時代から絵画の才能を示していたパスツールと同じく)動植物の観察が好きで、見事な観察スケッチを残している。また、叔父エドゥアルトから写真術の手ほどきも受けていた。
コッホの顕微鏡写真、1877年の論文で公表される。(山中浩司『医療技術と器具の社会史』p.225) そのとき使った顕微鏡は、ザイベルト社のものであった。コッホは繰り返し繰り返しザイベルト社に手紙を書いて、最適なものを入手しようとしている。また、ツァイス社の物理学者アッベ(Ernst Abbe, 1840-1905)を尋ねて、まだ販売されていなかった油浸レンズを入手している。
そもそも19世紀初頭に顕微鏡技術のイノベーションがあった。最初の中心人物は、手術に消毒法を導入したリスターの父、J.J.リスター(Joseph Jackson Lister, 1786-1869)の研究にあった。18世紀末に色収差は取り除かれた。球面収差を取り除く研究は数多くあったが、リスターが、その理論的見通しを1830年出版の論文(On Some Properties in Achromatic Object-Glasses Applicable to the Improvement of the Microscope)で示した。これは光学顕微鏡の新しい時代が到来したことを告げていた。進歩は徐々にしかし着実に生じた。(ターナーの作成した進歩のグラフ。山中、p.230)
前に言ったようにコッホが炭疽菌の研究に着手した頃には、アッベの油浸レンズがちょうど使われはじめるところだった。
19世紀末、プロよりも顕微鏡と顕微鏡による研究の発展に貢献した自然誌愛好家たち=素人たちの時代は、終わり、プロフェッショナルな道具を用いるラボラトリーの専門研究家たちの時代へと変化した。(ターナーの評価、山中,p.232)山中さんの著作の第7章「顕微鏡のように見なさい―実験室の医学」は、表象文化史にとっても重要なポイントを指摘しています。
p.224 ダストンとガリソンの指摘:19世紀末から科学の世界で頻繁に使用されはじめた写真術は、「機械的な客観性」(写真は嘘をつかない)を産出し、在来の知識や技能への深刻な脅威となった。とくにX線写真は、臨床医がベッドサイドで慎重な診察で得る知識に対して、イデオロギー的な影響を及ぼした。
p.220 1881年コッホの報告書から
「一つの同じ対象についての理解が異なるのは、こうした対象が最初の観察者と二人目の観察者が見るのとでは異なって見えるということに由来するということについては誰も疑わないだろう。顕微鏡による観察では、二人の観察者が同時に同じ対象を見て理解し合うことはできず、問題の対象を順番に見るしかないということ、マイクロメーターをほんの少し動かすだけでも、バクテリアのような小さな対象は視界から完全に消えてしまったり、まったくことなった形や影をもったりするということを想起すべきである。それでも、見られた対象について理解し合うことは、その観察が同じ器具で、つまり同じ照明、同じレンズシステム、同じ倍率で行われた場合にはまだ可能ではある。しかし、顕微鏡のイメージが作り出される無数の条件が異なれば、たとえば、一方は狭い絞りで他方は広い絞りで、あるいは一方は弱い接眼レンズで他方は強い接眼レンズで、あるいは対象の異なった標本作製の仕方や染色の仕方で、また対象がさまざまに異なった屈折率の液体中に固定されて観察などすれば、ある顕微鏡観察者には、その対象が全く異なっているように見えるとか、もっと太いとか細いとか光っているといかそうでないとか、あるいはまた、まったく見いだせないとか、その存在に疑問を呈するというようなことが起きるのも全く不思議ではない。」
「こうした観察エラーに際して、示唆した多くの可能性のどれを示すべきだろうか。観察者が同じ対象から異なった結論に導かれたのは、プレパラート作成かあるいは顕微鏡の扱いによるものだろうか。こうしたことを決するためには何らかの別の補助手段がなければ決してうまくいかないだろう。互いに論争する研究者は自分の考えにとどまり、医学はどちらを信じてよいかわからない。科学にとって有害で、際限もなく生じているこうした顕微鏡研究の弊害に対しては、ただ一つの救済手段があるだけである。それは写真術である。顕微鏡による観察対象の写真映像は、場合によっては、対象そのものより重要なものである。」
「描画の場合は、決して、見られたものに忠実であることはない、見られたものよりも常にそれはきれいで、明確な輪郭をもっており、強い陰影を与えられる。顕微鏡研究の描画を公表したものは、自分が見たものの証明力についての批判などほとんど考慮することはない。というのは、描画は、意図せずして、著者の主観的観察の中で描かれているからである。」(p.223)
さすが、コッホ。核心を射抜いています。15.8.5 さて、顕微鏡写真そのものの歴史が気になります。調査を開始します。
山中さんは、Thomas Schlich のドイツ語の論文に依拠しています。
ネットで検索をかけると、このドイツ語論文はなかったのですが、別の著者の次の論文が見つかりました。
Olaf Breidbach, "Representation of the Microcosm - The Claim for Objectivity in the 19th Century Scientific Photography," Journal of the History of Biology, 35(2002): 221-250
これによれば、最初に出版された生物組織の顕微鏡写真は1845年ということです。しかし、それが直ちに広がったわけではなかった。1880年以前は、顕微鏡写真の利用は例外に止まる。状況を変えたのは、コッホであり、彼の顕微鏡写真の利用法が新しい道を開いた。ちなみに、小川眞里子さんによれば、ロンドン国際医学大会(1881)に、コッホは、自分が普段使っている器具一式と弟子を連れて参加し、ごく限定されたメンバー相手に、キングスカレッジで供覧実験を行っています。
その供覧実験でコッホは、微生物の顕微鏡写真をマジックランタンを使って公開すると同時に、固体培地をつかった細菌培養の方法を示した。
見学したのは、パスツール、リスター、バードン=サンダーソン、フランス人獣医シャボーなど。
顕微鏡写真とマジックランタンの組合せ! やられたな。
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