ひとりで5時5分、室温24.4度。8時42分武蔵境発の西武線。今日は、気持ちを切り替えて、部屋の片づけに着手しました。机の下に置いていたものは、全部片づけました。
10時10分前ぐらいに教室に行って様子を見ました。ちょうど川島先生の話が終わるところでした。コメントシートの提出を待って研究室に戻りました。
気温が低いうちにこなすべき仕事があります。ドアの外。こちらも最低限の片づけを行うことができました。
事務的案件も、1件を除き、完了させました。1件は、家に帰り着くまで忘れていました。4限5限の授業。
6時4分多磨駅発の電車。
帰宅すると、次の本が届いていました。
榊原 悟 『日本絵画の見方』 角川選書、2004
粉本に関してまとまった記述があるので、購入しました。模倣と偽物、贋作、等々、今とは違ったように位置づけられていた模写・臨写・複写の問題を正面から扱っています。ものすごく簡単にまとめると、ある時代までの絵画に「写生」(現実の風景や事物を見てそのまま描く)という概念はなく、絵師は描かれた絵によって、絵を学んでいました。コピーライトの発想もなく、オリジナリティの規範もありませんでした。
ひとりで5時30分、室温23.5度。雨は一応上がっています。晴れ間はまったく見えません。
本日も会議は夕刻です。朝から昼にかけて、家でのんびりと仕事をしています。ちいさいちびは今日から定期考査。水、木、金の3日間。お昼には帰ってきます。
2時42分武蔵境発の西武線。今日も昨日に続き、まず生協。ボールペンを補充。それから、3階に寄って、書留を受け取りました。
研究室で作業。
5時から会議。予想通り、1時間で終わりました。すこし小走りで6時4分多磨駅発の電車に間に合いました。まず、読みかけになっていた、次の論文を読み通しました。プリントアウトし、ペンを2本もって、ずいぶん線を引き、ときに書き込みをしながら読みました。博士論文がもとになっているせいでしょうが、とてもよくできた論文です。主張は筋が通っていて、きちんと裏付けられていると思います。
橋本寛子「司馬江漢の眼鏡絵と油彩風景画に見られる湾曲した海岸線について」『(神戸大学美術史研究室)美術史論集』第10号(2010): 67-102
次には下のものも読みました。
橋本(深見)寛子「司馬江漢の西洋画法における日本風景図について:《相州鎌倉七里浜図》を中心に」『海港都市研究』4(2009): 123-142
ひとりで6時10分、室温24.6度。雨。本格的な雨降り。小学生は寒い、おおきいちびは涼しいと言っています。本日の最高気温予想は、25度。→気になるので、外の気温を計ってみました。20度を下回っています。19.0度。午後に会議。会議は3時からです。3時から4時のものと、4時からのものの2つ。
午前中は、家で作業しています。昼食後、ゆっくりとでかけることにします。1時18分武蔵境発の西武線。傘をささずにすみました。珍しく先に生協によってちょっとした文房具を買いました。それから研究室。たいしたことはなにもできないうちに会議の時間。30分で終わりました。これは予想通りです。
次の会議は、3時40分からとなりました。7時前まで。7時16分多磨駅発の電車に乗ることができました。
ひとりで4時50分、室温25.7度。晴れ。午前中に歯医者。午後に授業。
歯医者さんはやはり1時間、治療台に座っていました。根の治療をはじめました、ということです。これが痛い。
一度家に帰り、戸締まりをして、大学へ。駅の外のパン屋さんで昼食のパンを買って、11時18分武蔵境発の西武線。昼食を食べ、メールに返信しているうちに3限の時間。4限5限。5限の途中で打ち切って、5時前に大学を出ました。10分前に医科歯科の会議室につきました。午後6時から医科歯科(1号館西2階役員室)でMMAの運営委員会。→なんと30分で終わりました。7時過ぎ西荻窪駅につきました。コンビニで夕食を買って帰宅。
昨夜、次の論文をダウンロードし、途中まで目を通して、時間切れになりました。
橋本寛子「司馬江漢の眼鏡絵と油彩風景画に見られる湾曲した海岸線について」『(神戸大学美術史研究室)美術史論集』第10号(2010): 67-102
著者の博士論文の一部だということです。
橋本寛子さんには他に次の論文がありました。
橋本(深見)寛子「司馬江漢の西洋画法における日本風景図について:《相州鎌倉七里浜図》を中心に」『海港都市研究』4(2009): 123-142
ひとりで4時50分、室温25.8度。晴れ。ちいさいちびの公式戦。たぶん引退試合になるでしょう。午前の第2試合目だそうです。もし勝った場合、午後にその次の試合があるそうです。妻は応援に行きます。おおきいちびは今日は自分の練習があり、自宅で宿題に取り組んでいます。たぶん。→少し前からおおきいちびは不調です。ゆっくり起きてきて、宿題もせず、吐き気がするけどもどせないと言って、部活に行きました。そういうときは休みなさいと親は言いますが、本人は休まず行きます。
妻が先に帰ってきました。ちいさいちびはこれまでで一番落ち着いてプレーしていたということですが、相手が強く、敗戦。そして、引退です。
ちいさいちび自身は5時半頃、疲れたといって帰ってきました。本人の弁でも今日は落ち着いてプレーできたそうです。試験勉強を犠牲にしてバスケの練習と試合に臨んだので、どうせなら勝ちたかったそうです。試合をやる以上、勝ちたいのは誰でも勝ちたいでしょう。のぞきからくりについては、坂井美香さんという研究者の方が取り組まれています。
坂井美香「近世覗きからくりは何を見せたか、その1 ―カラクリを覗く―」『年報非文字資料研究』8 (2012): 107-136
この論文をダウンロードし、読みました。以前も同じものをダウンロードしてストックしていました。
覗きからくりは、装置としては、覗き眼鏡と共通する部分がありますが、別方向に発展したものです。英語の peepshow や perspective box の、日本における展開系です。差違をきちんと押さえておきたいと思います。
他に次のものもダウンロードし、プリントアウトし、目を通しました。
坂井美香「明治初期,「西洋眼鏡(せいようめがね)」の盛衰 : 人はなぜ覗き,なぜ観るのか」『年報非文字資料研究』9 (2013): 93-118
坂井美香「 覗きからくり、「からくり」考」 『年報非文字資料研究』10 (2014): 409-438
坂井美香「覗きからくりとpeepshowの接点―西欧覗きからくり― (2008年度 奨励研究成果論文)」『年報非文字資料研究』6(2010): 221-248
バルザーの『ピープショー:一つの視覚の歴史』(1998, p.18)から、覗きからくりがルネサンス期の自然魔術の伝統にあること、カメラ・オブスクラがその応用品であること、カメラ・オブスクラと覗きからくりの原理が表裏一体であることを引き出しています。バルザーは「画家にとっての道具であるカメラ・オブスクラは、覗きからくりの本質的な部分、箱、レンズを利用した」と言っているようですが、俄には信じることができません。普通は、逆だと思います。
私がカメラ・オブスクラを調べたとき、そうしたことを伺わせる資料にはまったく出会っていません。まあ、しかし、そうした事例がまったくありえないとも言えません。バルザーの提示する証拠・資料を確認してみる必要があります。
夜半に目覚めてすこし仕事。小学生、妻に続いて、7時6分、室温24.8度。どんよりとした曇り。すぐに雨が降ってきても不思議ではない空気です。
小学生はふつうに土曜日学校。ちいさいちびは、午前中に練習。明日の公式戦に備えてのものです。本来であれば、試験期間1週間まえにもう入っていますから、すべての部活はないのですが、公式戦が残っている場合だけ例外として練習が認められています。
お昼過ぎに次の本が届きました。
今橋理子『江戸の花鳥画 博物学をめぐる文化とその表象』スカイドア、1995
これはすばらしい書物です。帯にある「今、ここに絵画と博物学の幸福な出会いが甦る―江戸時代美術史を組み替える画期的論考―」ということばがけっしておおげさとは言えない内実を備えています。
p. 96 「このように写生図が他者によって使用されたり、模写されるということは、現代では一種に剽窃であると一般的には受け取られてしまうことが多い。けれどもここで、改めて江戸時代初期からの写生図の歴史を眺めた時、このような模写や借用は決して特異なことではなく、きわめて伝統的な状況であったことが理解されるのである。」
p. 98 探幽の写生と縮図制作は、一様に「作画にとって基礎となるべき自然と古典への敬虔な志向を語る」(8)ものなのであり、彼の場合、縮図と写生とは分かちがたく、密接に結びついているのである。
p. 106 私たちは画家の残した写生図において、探幽から応挙へとつながる「写生画の系譜」という一つの大きな史的流れを眺めることができた。・・・。秋田蘭画派はまた純粋な絵画作品の写生図ではない写生画、すなわち「博物図譜」からの模写を行うなど、それまでの写生画にはなかった一面を有している。
p. 107 博物図譜が江戸中期に至って初めて成立した絵画分野であることを改めて認識するならば、「江戸時代写生画」という問題について総体的に論ずるとき、私たちはこの分野なしに語ることはできない。・・・写生図の「模写と継承」と状況が明らかに見いだされ、・・。
p. 124 写生とは、1)実物写生、2)模写(臨模)、3)トレーシング(透写)、4)同様の移動、の4種類があり、どれも写生と江戸の絵師は考えていた。
p.125 「「美術写生」にせよ「博物図譜」にせよ、個物を描く画家の意識の中では他人の写生図からの臨模や透写、そしてそれをそのまま自己の作品として使用してしまうことまでも、すべて実物写生と同等に捉えられていた。「写生」の意義は、写生図の継承において、江戸時代ではこのように多義的に使われていた。」
「現代において、写生図の模写や継承は一種の剽窃だと受け取られてしまう。」
p. 127 注(18) 「写生」が本来動植物を描く際に用いられる言葉であったことは言うまでもない。それに対し「写真」は人物を描く際のみに使用される言葉であった。日本ではいつの頃からか、これらの違いがなくなり、同一の言葉として用いられるようになっていった。・・・細川重賢の写生帖では「写生」と「生うつし」の言葉はまったく同様に使用されている。覗き眼鏡と写真鏡という装置そのものについて。
中川さんの本(『カメラ・オブスキュラの時代』)に戻って確認します。
p. 74 「これらと同じ形式の写真鏡<反射式覗き眼鏡。レンズと鏡を内蔵した箱を四本の足で支える。四本の足のまわりを黒い布で覆い、使う。>司馬江漢が「銅版画覗き眼鏡引札」(1784年発行)に反射式覗き眼鏡の一つとして図示したものである。江漢は、覗き眼鏡と写真鏡を取り違えて紹介したか、あるいは元来この形式のものは、覗き眼鏡と写真鏡の両方に兼用できたのかもしれない。当時の日本では、写真鏡を用いて絵を描く絵師の数は眼鏡絵を楽しむ人々に比べるとはるかに少なく、NPG所蔵の写真鏡と同様いつの間にか眼鏡絵が付属した反射式覗き眼鏡に流用されたと考える。」
p. 75 で示されている写真は、三番目の写真鏡(故渡辺伸一郎コレクション)、四番目の写真鏡(到道博物館所蔵)、です。いくらか開いた四本足があり、足の下に絵を置くものです。→16.6.26 ここで、中川さんが「写真鏡」と呼んでいるのは、やはりすこし問題かもしれません。ただしく、覗き眼鏡というキャプションをつけるべきかと思われます。
一本足の典型的な反射式覗き眼鏡
p. 76 で示されている図版は、上がp.75 と同じ形態のカメラ・オブスキュラ(フランス百科全書絵引きより)、下が覗き眼鏡引札(司馬江漢1784年発行)です。
司馬江漢の引き札の方から言えば、右のものは、鏡とレンズだけで箱のない、足が一本の反射式覗き眼鏡"Optical Diagonal Machine"です。左のものは、p.75 の写真と同じく、足が四本の箱付きの反射式覗き眼鏡です。
上の図版は、百科全書絵引きからですが、カメラ・オブスクラではなく、形態から言って覗き眼鏡ではないかと思われます。百科全書が混同した可能性と中川さんが混同して示した可能性と両方を考えておく必要があります。
直視式覗き眼鏡の写真は、岡さんの本のp.102 にあります。とくに、3 京都製直視式のぞき眼鏡、伝応挙筆の眼鏡絵が付属する(神戸市立博物館蔵)、として示されているものは、外から箱だけみれば、写真鏡(カメラ・オブスクラ)とほとんど違いません。転用、流用、はたぶんあったでしょうし、混同されても仕方がない、と言えます。
疲れのせいでいつもよりかなり遅れて、7時7分、室温25.4度。曇り。雨は一応降っていません。8時5分過ぎには全員でかけました。私がひとりでお留守番。休んだり、追いついていないノート取りをしています。
妻が昨日、もう限界ということで、風呂のシャワーヘッドの水漏れを修理してもらうよう電話をしました。2時40分ぐらいに来てくれました。
一目見て、交換ですね、ということです。個人的には、交換するしかないだろうと思っていました。メーカーは、TOTO から INAX へ。終わったあと、水回り、他も見てみましょうということで、トイレと台所の蛇口を見てもらいました。トイレの便座ももう寿命だそうです。でも、今のところ、正常に動いています。不調が見つかるまではそのまま使うことにしました。
台所の蛇口は、明らかにお陀仏直前といった感じでした。一緒に交換するといくらかおやすくできますが、という提案。こちらもそろそろ交換しないといけないかなと思っていたので、えいやといっしょにやってもらうことにしました。
あわせて、9万720円。高いか安いかはわかりませんが、仕方ありません。完了して3時50分。大学に本を取りに行くことにしました。4時18分武蔵境発の西武線に駆け込みました。図書館に直行し、まず、『日本近代思想大系17 美術』(岩波書店、1989)を借りだしました。
次いで、事務の所に伺い、次のものを受け取りました。さすがにかなりの重さです。研究室にもっていって、How to Identify Printsだけカバンに入れました。
『人工授精の近代 : 戦後の「家族」と医療・技術』
Arthur M. Hind, A Short History of Engraving and Etching, 3rd edn, 1923
Prints and Printmaking: An Introduction to the History and Techniques
Barbar Gascoigne, How to Identify Prints, second edition, London: Thames and Hudson, 1986
The Printed Image in Early Modern London
Mapping Spaces: Networks of Knowledge in 17th Century Landscape Painting
そのまま駅に向かい、4時52分多磨駅発の電車で帰ってきました。温度はあまり高くなっていませんが、湿度が高く、汗まみれ。カバンに入れた本は、印刷技術の基本です。こういう本も手元にあった方がよいだろうと考え、入手しました。昨日から今日にかけてのダウンロード。
昨日研究室で次のものをダウンロードし、プリントアウトしました。
山崎正史「近世風景画に表れた都市景観の見方に関する考察」『日本建築学会大会学術講演梗概集』(昭和61年)7079
樋口忠彦「近代の都市設計と「景観の発見」」『日本建築学会大会学術講演梗概集』(1995): 13-16
中村良夫「ランドスケープ:その軌跡と展望」(総説)(1995): 1-5
福田珠己「ディオラマと地理的想像力」『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』53(2005): 37-52
金田晋「透視画法について(一)」11-24
金田晋「透視画法について(二)」
最初の三点は本日読みました。
ひとりで5時25分、室温24.6度。雨。梅雨らしい雨がしとしと降っています。午後に授業。9時までの会議は、さすがに疲れました。一応、昨日の会議で課題はクリアーできたと思いますが、まだ頭と体に疲れが残っています。
10時54分武蔵境発の西武線。やはりすぐに図書館に向かい、次の2点を受け取りました。
Takesi Ozawa, "The history of early photography in Japan," History of Photography,5(1981): 285-303
Michael Aaron Dennis, "Graphic Understanding: Instruments and Interpretation in Robert Hooke's Micrographia," Science in Context, 3(1989): 309-364
最初の小澤健志さんの英文論考ですが、前にサマリーと思われる部分を引用しています。今回、実物が届いて、確認したところ、前に掲げたのはサマリーではなく、論文の最初の部分だと判明しました。個人的には、サマリーだとして、その詳細が知りたいと思ったのですが、その部分はそれ以上は論じられていませんでした。まさに初期写真史の英文論文でした。もちろん、英語でのまとめとして役に立つのは間違いありません。それから研究室。しばらくメールに返信。お弁当を食べてから一休みし、書類の片づけ。けっこうな量でたまっていました。
4限5限。今日はいろいろあって、学内を走り回りました。
6時4分多磨駅発の電車。雨は上がっていますが、とてもむしむしします。
ひとりで5時10分、室温24.8度。曇り。どんよりとしてはいませんが、晴れ間は見つかりません。お昼休みの時間からずっと会議。たぶん、7時過ぎぐらいまで。
9時42分武蔵境発の西武線。2限の授業に出る学生が大勢電車に乗っていました。まず図書館に寄って、本を2冊かりました。
磯崎康彦『江戸時代の蘭画と蘭書 : 近世日蘭比較美術史』上巻・下巻、ゆまに書房、2004-2005
『江戸科学古典叢書38 遠鏡図説 . 三才窺管 . 写真鏡図説』恒和出版、1983
『江戸科学古典叢書38』は、まず、解説だけ読みました。ここの写真鏡は、カメラ・オブスクラではなく、フォトグラフィーの技法書です。
柳川春三訳述 『写真鏡図説』慶応3(1867)年。ランダ人ホルマンの原書(1864年刊)やフランス人ダグロンの原書(1864年 刊)などを基にして著述した我が国初の写真技術入門書。
これまで、磯崎康彦さんという研究者を私は知りませんでしたが、江戸時代の蘭画と蘭書に関して、包括的に体系的に調査・研究されている方でした。11時過ぎにお弁当を食べ、11時50分から会議。12時20分ぐらに終わりました。次の会議まで20分弱。同じ会議室です。その場で休んでいました。
12時40分開始の会議は短くすみ、1時間の休憩時間ができました。こちらは研究室に戻り、一休み。
次は2時10分から。研究院協議会、研究科教授会、研究院教授会と続き、6時半ぐらい。その後、その場で打ち合わせ。7時前にはあがりました。
大学院執行部で5階にあがりました。まだ会議が終わらない人たちを待っていました。雑談。40分ぐらい待ちました。向こうの人が見えてから、会議。9時前まで。
9時6分多磨駅発の電車。会議だけでここまで遅くなるのはほんとうに久しぶりです。会議の合間に次の論文をダウンロードし、読みました。
堀切実「近世における「風景」の発見 : 柄谷行人説を糺す」『日本文学』51(10)(2002): 1-10
柄谷行人が『日本近代文学の起源』(1980)で、日本における風景の発見は、明治20年代以降のことであったと主張したことに対する、文学作品からの反論です。これは、そうでしょう。合間の時間に、研究室に置いている同僚の書物が今回のテーマに関係することを思い出し、棚の間から探し出しました。
李孝徳『表象空間の近代:明治「日本」のメディア編成』新曜社、1996
書き込みがあり、読んだことは記憶がありますが、日付はありません。出版されて比較的にすぐに読んだように思われます。
第1部「風景」の変容―「空間の近代化」の第3章風景への視線―「風景画」の誕生で関係する問題を扱っています。第3章の1.近代的風景画の萌芽―「浮絵」の出現、2.風景の革新―「眼鏡絵」の出現、3.遠近法と洋風画、4.風景の世俗化。[遠近法の書物]
私の今の探究は、遠近法に関係します。(直接遠近法を扱っているわけではありません。)
私の手元ですぐに見つかる遠近法の書物を、出版年代順にまとめてみました。(まだまだありますが、とりあえず、手元で確認できるものです。)
黒田正巳『透視画―歴史と科学と芸術』美術出版社、1965 佐藤忠良・中村雄二郎・小山清男・若桑みどり・中原佑介・神吉敬三『遠近法の精神史―人間の眼は空間をどうとらえてきたか―』平凡社、1992
エルヴィン・パノフスキー『<象徴形式>としての遠近法』木田元監訳、哲学書房、1993
岸文和『江戸の遠近法:浮絵の視覚』勁草書房、1994
横地清『遠近法で見る浮世絵:政信・応挙から江漢・広重まで』三省堂、1995
辻茂『遠近法の誕生:ルネサンスの芸術家と科学』朝日新聞社、1995
辻茂『遠近法の発見』現代企画室、1996
佐藤康邦『絵画空間の哲学:思想史の中の遠近法』三元社、1997
小山清男『遠近法:絵画の奥行きを読む』朝日新聞社選書、1998
ひとりで5時10分、室温27.0度。4時台に烏が騒いでいました。最近烏がうるさい。近くに巣でも作ったのでしょうか。おおきいちびが自転車ででかけたあと、雨が降り始めました。この時期ですから、こういうこともあります。
全員がでかけたあと、すこしのんびりし、郵便局が開くのを待ちました。郵便局で税金を支払ってから、大学へ。9時42分武蔵境発の電車に乗ることができるかと思ったら、三鷹駅で電車がかなりの時間止まって、10時6分武蔵境発まで遅れました。
大学に到着後は、図書館によって、次の本を借りました。
西村智弘『日本芸術写真史』美学出版、2008
I 写実と写真のあいだ、で、日本の写真前史を扱っています。1 写真前史と遠近法、2 写真鏡(カメラ・オブスキュラ)、 3 西洋画論における写真、 4 営業写真家と西洋画
pp. 49- 50 で写真家の中川邦昭さんの『カメラ・オブスキュラの時代』をほぼ全否定されています。そこまで?(イッコウさんになって言ってもらうと気持ちが伝わると思います。)
→ 16.6.25 写真鏡(カメラ・オブスキュラ)と遠近法は一度切り離して考えた方がよいというのは、その通りだと思います。
→pp.43-36 「カメラ・オブスキュラの鑑賞」
「19世紀に入ると、カメラ・オブスキュラの原理で映した映像を見て楽しむことが大衆レベルで行われるようになっている。・・・
たとえば滝沢馬琴は、旅日記の『*旅漫録』(1803)のなかで、カメラ・オブスキュラの映像を見た体験を記している。馬琴は、縁側の戸に節穴のある納屋に案内され、紙製のスクリーンに映った逆さまの/p.44/映像を見たときの興奮を次のように書いている。
「予が見しときには、池に杜若あり。竹あり柳あり。・・雲の追追にあつまり、又ちりゆき。竹やなぎの風に戦ぎ池に漣たつなど。」
馬琴は、この経験がよっぽど印象深かったらしく、黄表紙『**珍紋図彙』(1803)にも歌川豊広の挿画で体験談を載せている。
葛飾北斎が『豊獄百景』のなかで、カメラ・オブスキュラの原理によって逆さまになった富士が障子に映る様子を描いたことも知られている。」
→ <mY>これは、装置としてのカメラ・オブスクラではありません。室内におけるピンホール現象です。装置としてのカメラ・オブスクラの利用に関して、直接何かを語る資料ではありません。
p.45 「少し時代がくだって、横浜絵を代表する浮世絵師の玉蘭斎(五雲亭)貞秀が『横浜開港見聞誌』第三編(1862)のなかで、カメラ・オブスキュラを覗いた体験を報告している。これは、外国人が絵を描くために使った装置で、鑑賞するためのものではないが、貞秀は好奇心から無目的に覗いているために、その映像のあり方を素直に伝えている。」
「異人、横浜の波止場より神奈川辺を写真鏡をもって是に景色を取り、其品は画図にあるを見て知るべし。此箱は大小ありて、小成は景色微細なり。大の方は大に広くうつる。此箱のびいどろにうつる景を、分明にせんと大ぶろしきのごとき布を頭上より冠りて、其内に箱もまとい入れて見るに、箱の口より日光さし入り景色のびいどろあかるくなりて、山水、草木、人物みな其色を変ぜず。人物又は帆かけ船なんどは見るが内に走りさり、鳥も飛去りて木の枝にとまれども又飛行きて、実に生る絵といふべし。」((6) 五雲亭貞秀『横浜開港見聞誌』、『日本近代思想大系17 美術』岩波書店、1989、p.341<元の誤植を直しています。すなわち、参照されている書物は、体系ではなく、大系です>。)
異人は、カメラ・オブスクラによって、景色を図に写し取るとあります。五雲亭貞秀には、カメラ・オブスクラによる景観図の作成は、異人(ヨーロッパ人)の習慣だと位置づけられています。
→<mY>早稲田の古典籍のデジタルライブラリーに実物がありました。写真鏡として絵が挙げられており、解説文がおよそ1頁分ついています。すぐに現物が確認できるのは、ほんとうにたすかります。
こちらは、図があるので、装置としてのカメラ・オブスクラに関する言及です。ヨーロッパにおける装置としてのカメラ・オブスクラの中心的利用法を繰り返しています。
→16.6.24 『横浜開港見聞誌』図版の写真鏡へのキャプション:「写真鏡 景色にても其利ハ是に同じ。初め筒口ビイドロより箱の中に向ふ上りにある板ビイドロへ逆しまに写して、箱の上ハ蓋の下に又ビイドロを張りて、是に又写し取りたるは如此なり。」
ここで、「景色にても」とあるのは、挿絵にはドレス姿の女性がうつっています。人物ではなくて、景色でも、という意味だと思われます。→ 16.6.25 なお、東京ディズニーシーのフォートレス・エクスプロレーションに、部屋型カメラ・オブスクラがあるということです。そこには、アルケミーラボラトリーもあるそうです。一度行ってみる必要があるようです。
研究所によってスキャン。研究室でお弁当を食べてから、会議。
3つの会議が連続しました。4時に終わりました。そのまま帰途。4時28分多磨駅発の電車。気温はたいしてあがっていませんが、蒸し暑い一日でした。
明日は、7つ会議が連続します。途中ねおちしている時間帯があるかもしれません。
ひとりで4時55分、室温25.9度。雨は止んでいます。午前中に歯医者さん。午前中に NBA のファイナル。ウォリアーズとキャバリアーズの第7戦。すなわち、ほんとうのほんとうに最終戦。3勝1敗になった時点でそのままウォリアーズが優勝するかと思いましたが、キャバリアーズが50年ぶりの1勝3敗からの五分(3勝3敗)までもってきました。5戦6戦をキャバリアーズがとっていますから当然ですが、流れ的にはキャバリアーズ。しかし、勝負事はやってみないとわかりません。
歯医者さんは9時半から。実際には9時40分に治療台に座り、10時40分に待合い室に出てきました。大がかりな治療が続いています。帰ってつけっぱなしにしていた、BSのNBAファイナル。第3クォーターの終盤でした。いい勝負をしています。どちらに転んでもおかしくない流れです。第4クォーターも流れははっきりとどちらかに傾くことはありませんでしたが、レブロン・ジェームズの勝負への執念がほんのひとこま勝敗の機微を分けたようです。1勝3敗からの奇蹟の3連勝で、キャバリアーズが勝ちました。
勝敗が決したのを確認して、すぐに家を飛び出しました。12時6分武蔵境発の西武線。かばんには昨日妻が昼食用に買ってたべなかったおむすびを2個入れていました。おむすび2個を食べてから、3限。3限が終わってすぐに図書館へ。次の4冊を受け取りました。
Patrick Mayard, Drawing Distinctions: The Varieties of Graphic Expression, Ithaca and London: Cornell University Press, 2005
ピーター・バーク『時代の目撃者 : 資料としての視覚イメージを利用した歴史研究』諸川春樹訳、中央公論美術出版、2007
ピーター・バーク『近世ヨーロッパの言語と社会 : 印刷の発明からフランス革命まで』原聖訳、岩波書店、2009
白石和也『視覚デザインの歴史: グラフィックスと複製の歩み』大学教育出版、2000
4限終了後、木曜日1限の教室と機器を説明するため、227教室へ。すぐに理解してくれたと思います。4時28分多磨駅発の電車で帰ってきました。
ひとりで5時5分、室温27.1度。晴。ちいさいちびは負けたらそこで引退の公式戦。妻とおおきいちびも応援に行くそうです。
→応援組は、2時過ぎに帰ってきました。なんと強豪に勝ったそうです。途中まで負けていたが競った勝負をしていて、最後に逆転して10点差ほどで勝ったということでした。6番の子が好調だったようです。早速撮ったビデオをDVDに焼き、見ました。相手が調子が悪かったのもあります。でも、勝ちは勝ち。来週の日曜日に次の試合があります。ちいさいちび自身は5時半を過ぎてから帰ってきました。勝った瞬間はコートで飛び上がっていましたが、定期試験があるのに、練習がなくならないことの方が気になるようでした。なぐさめ、激励しました。
後ろの本棚から写真史関係の本を発掘しています。写真史ではありませんが、Topographia Germania21巻で知られる17世紀の版画家・出版業者マテウス・メリアン(Matthäus Merian, 1593-1650)の仕事は私の今の関心にとってこころひかれるものがあります。日本だとどの分野の人が彼の仕事を中心的に研究しているのでしょうか?
なお、マテウス・メリアンの娘が、マリア・ジビーラ・メリアン(1647-1717)です。南米スリナムで活躍した、自然誌画家です。彼女の描く、植物や昆虫には独特のものがあります。
ひとりで5時50分、室温25.7度。快晴。ちいさいちびは土曜日学校。おおきいちびはB練。
3時45分現在、室温29.9度。今日の室温が30度を突破するかどうか微妙なところです。
ひとりで4時45分、室温23.9度。曇り。→晴れてきました。久しぶりの晴れ間です。
8時10分までには全員でかけました。私がひとりで留守番。お昼に編集者の方と会います。帰り着くと、次の本が届いていました。
岡 泰正『めがね絵新考―浮世絵師たちがのぞいた西洋』筑摩書房、1992
この著作を、OKa Yasumasa, A New Evaluation of Perspective Pictures for Camera Obscura: The West as Seen by Ukiyoe Atrists, Tokyo: Keiso Shobo, 1992 と英訳しているものがありました。出版社名も間違いですが、めがね絵を Perspective Pictures for Camera Obscura とするのも間違いです。
ただしくは、Perspective Views for Optical Diagonal Machine でしょう。
巻末に訳されている、C. J. カルデンバッハ「ヨーロッパにおける眼鏡絵(パースペクティブ・ヴューズ)についてpp.226-268 をまず読みました。これは裏付けのしっかりとした明快な論考です。安心して使える研究文献です。Print Quarterly, Vol. 2. No. 2 (1985) からとあります。
→C.J. Kaldenbach, "Perspective Views," Print Quarterly, Vol. 2. No. 2 (1985) : 87-105
これにはウェブ版がありました。原文があるのはちがいます。
→ 16.6.25 カルデンバッハの論文の注2は次です。
2. This term is that most commonly used in English; the machine was also often known as 'zograscope'. The term used in Dutch is optica, which is derived from the French optique. In Germany the machine is a Guckkasten and in ltaly it is the Camera Ottica. See also p. 90.
眼鏡絵を見る装置は、英語では一般的に"Optical Diagonal Machine"であったが、'zograscope'という名称が使われることもあった。オランダ語では、optica、フランス語では、optiqueと呼ばれた。ドイツ語では、Guckkasten(覗き箱)、イタリア語では、Camera Ottica(光学箱)と呼ばれた。
つまり、実物を知らないとわからないかなり紛らわしい名前と言えます。
注3は次です。
3. De Keyser (op. cit., pp. 143-44) claimed that no perspective Views were published before 1725, dismissing as copies (after existing prints) those views which A. Dubois had argued ('Les Vues d'Optique', Bulletin de la Societ?H 'Le vieux papier' XXII 1958/60) could be dated to the same year as the events they depicted (variously 1677, 1678 and 1687). Keyser also claimed (idem, p. 146) that Perspective views only began to decline in popularity as late as 1820.
簡単には、眼鏡絵は、西洋では1725年以降に出現し、1820年以降に衰退していったということです。約1世紀の命だったと言えます。
カルデンバッハの論文, p.238 おそらく、のぞき眼鏡的な装置のことを記述した最も早い例は、17世紀後半、一六七七年のJ.C.コールハンス(J.C. Kohlhans)によるものと思われる。彼は、のぞき眼鏡として使われたカメラ・オブスクラについて記述し、加えて、奥行きの錯視効果を得るためには、両眼で見ることの必要性を強調している。
コールハンスの説明のなかに、「カメラ・オブスクラにも利用できる発明である」という表現があります。
コールハンスの原文は、J.C. Kohlhans, Neu-erfundene Mathematische und Optische Curiositäten, Leipzig, 1677, cited by Elsner von Gronow, "Guckkasten und Guckkastenbilder," Orpho, 23(1932): 1-58
一七五三年に英国人S. パラット(S. Parrat)は、レンズはついているが鏡のない箱形のぞき眼鏡のことを述べている。(注10。図7,二六五頁)、眼鏡絵は、この器具の中にますぐ立つように、まず、固いガードで糊付けされなければならなかった。アムステルダム国立美術館にはこのための版画(眼鏡絵)が数多く所蔵されている。
p. 262 注10。S. Parrat, "Optic machine improved," The Gentleman's Magazine and Historical Chronicle, 23(1753): 171; S. Parrat, "How to view perspectives," The Gentleman's Magazine and Historical Chronicle, 1749, pp. 534-35→『解体新書』の絵師、小野田直武(1749-80)
平賀源内(1728-79)
司馬江漢(1747-1818)
円山応挙(1733-95)、遠近法の受容
歌川豊春(1735-1814)、遠近法を組み込んだ浮世絵版画。
ドンクル・カーメルは、pp.83-5
ひとりで6時30分、室温23.6度。曇り。
午前中は、自宅でのんびりすることにしました。午後4限と5限に授業。
昼食をとってからでかけました。12時18分武蔵境発の西武線。
1時過ぎに1限のTA の院生が来て、コメントシートを渡してくれました。院生諸君もここにきてすこしだれてきているようです。遅れるもの、来ないもの。
しばらくしてから、事務棟に物品をとりに行きました。総合文化研究所の前のなんとも形容のし難い不思議なガラス張りの空間に人が集まっています。ちょっと見学してから、研究所に入り、お茶代を払いました。
4限5限とゼミ。4限のゼミの学生がひとり足にケガをして、病院に行くという連絡がありました。頻繁にはありませんが、たまにはそういうこともあります。
5限は久しぶりに人数が集まりました。春学期の間は顔を出さないのかと思っていた子も挨拶に見えてくれました。まだ全員というわけにはいきませんが、ほぼ落ち着いて来たようです。
5時52分多磨駅発の電車に乗ることができました。5限のゼミの子と電車でいっしょになりました。決まったかどうか他の子にはなかなか聞けないと言っていました。まあ、そうでしょう。4限終了後、ちょうどいらした和田先生に次の発表の時間を伺いました。
2016年7月26日(火曜日)山口科研発表「カメラ・オブスクラ:東と西 ; Camera Obscura in Japan」
発表30分、質疑応答15分を目処に、ということでした。30分なら多くを詰め込むことはできません。
→発表のために、英語のものも見てます。Timon Screech の研究は、素晴らしいものです。
次の論文もあることに気づきました。
Takesi Ozawa, "The history of early photography in Japan," History of Photography, Volume 5, Issue 4, 1981,pp. 285-303
アブストラクトには次のようにあります。
The history of photography in Japan really began in 1848, with the introduction of the daguerreotype by European traders. The camera obscura, also known as the donkere camera, had been imported at a much earlier date. Its application, by the limited number of scholars studying Western science at that time, was limited to the hand-tracing of reflected images. The use of light-sensitive materials to record images had not yet been considered.
これ自体は、その通りです。
ひとりで4時50分、室温24.1度。曇り。6時半に妻を起こして、また布団にもぐりました。目覚めると8時半。誰もいませんでした。簡単に食事をとってからまた休憩。10時過ぎに目覚めました。
突然の体調不良の原因ですが、妻は睡眠不足ではないかと言っていました。どうもそのようです。睡眠不足というのか、疲労の蓄積というのか、そういう感じです。歯医者は11時から。左下奥3本分の歯が入る予定でしたが、出来上がったものがいまいち合わないということで、作り直すことになりました。結局仮歯のままです。
歯医者さんには11時45分までには歯医者さんを出ないといけないと最初に伝えていました。11時40分に終了しました。そのまま駅に向かい、武蔵境に到着して11時54分。電車はでたばかりです。駅前のパン屋さんでいつもと同じ昼食のパンを買ってから大学へ。
お昼ご飯を食べる余裕があります。
午後の会議は12時40分から。私が司会を担当します。2時過ぎに終わりました。一度研究室にもどり、すこしだけ片づけをしてから、2時20分からの会議に臨みました。こちらも8割程度司会を担当します。
ひとりで5時30分、室温22.9度。雨は上がっています。貴重な晴れ間が出現するそうです。午後遅くに会議。
[原因不明の体調不良]
原因不明の体調不良に襲われました。吐き気とめまい。子どもたちと妻がでかけてすぐに寝込みました。起きて11時半。メールにすみませんの挨拶をして、また休憩。妻が帰ってきて、昼食をとり、再び寝入りました。起きて2時過ぎ。会議は4時半からです。まあ、なんとかなるかなと感じたので、でかけました。3時18分武蔵境発の西武線。
研究室にいると、電話。4時半からの会議をすこし早めますということです。
4時20分から5時近くまで。
次の会議は長引いて、8時過ぎまで。8時16分多磨駅発の電車に間に合いました。 全快ではありませんが、半日であれば、なんとか対応できる気がします。明日のことは明日起きてから考えます。
ひとりで4時5分、室温25.9度。日が変わる前から降り始めた雨が降り続いています。強い雨足です。本格的な雨降りです。→天気予報をみました。本日は、お昼ぐらい前は雨で、その後曇り。最低気温も最高気温も21度です。室温は昨日の暑さを残していますが、外は、21度ぐらいということです。9時半武蔵境発の西武線。まず、図書館によって次の本を受け取りました。
Stuart Clarke, Vanities of the Eye: Vision in Early Modern European Culture, Oxford, 2007研究室で片づけを開始しました。机の下においていた本のつまった段ボール箱を動かしました。ついで、部屋の奥のスペース(窓際)においてある書類を処理。もう保管しておく必要はありません。外のゴミ捨て場に捨てました。
おかげで、捜していた本を何冊か発掘しました。
『百科事典と博物図譜の饗宴:百学連環』印刷博物館、2007
阿部良雄(監修)『オリエンタリズムの絵画と写真』編集:ツァイト・フォト、 発行:中日新聞社、富士カントリー株式会社、c1989
井上勤監修『顕微鏡のすべて』地人書館、1977『オリエンタリズムの絵画と写真』は、展覧会の図録(271×226mm、248ページ、カラー作品図版194点)です。解説記事には次の4点が収められています。
阿部良雄「オリエンタリズムとアカデミー絵画」
酒井忠康「遅れてきたロマン主義者−ギュスターヴ・ドレ」
伊藤俊治「中心の神秘−写真のオリエンタリズム」
石原悦郎「日本の写真家によるオリエンタリズム検証」
今回読み直しました。3限は、当たっていた院生が風邪のため延期。4限の授業。終わってすぐに帰途。4時16分多磨駅発の電車。
帰宅して疲れているなと思ったら、久しぶりに肉体労働をしたせいでした。紙や本は重い。段ボール箱換算で10箱ぐらい動かしました。研究室にいる間に次の論文をダウンロードし、プリントアウトし、読みました。
槙野佳奈子「パノラマ・ディオラマ・ダゲレオタイプ : 誕生の背景と写真史における位置づけ」『(東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻)年報 地域文化研究』第19号( 2015年): 118-136
ダゲールの手がけた、パノラマとディオラマについて、正確な説明があります。また、パノラマとディオラマで描かれた風景、とくにオリエンタリズム(ここでは、エジプトを指します)の風景についてもまとまった記述があります。若い研究者が重要なテーマに出会っているのがわかります。ただし、ダゲレオタイプ開発との繋がりの考察は弱い。そこはもうすこし粘り強く取り組んでもらいたいと思います。
ひとりで5時半、室温24.7度。まだ晴れ。おおきいちびは練習、ちいさいちびは負けたらすぐ引退の公式戦。9時半駅に集合。妻も11時前にちいさいちびの最後のバスケになるかもしれない試合の応援に11時前でかけました。ということで、いつものように、私と息子でお留守番。→妻が5時頃に帰ってきました。勝ったそうです。初戦で敗戦はかわいそうです。ともかく、もうしばらくバスケ選手です。
昨日届いた、サドール『世界映画全史 1 映画の発明 諸器械の発明1832-1895』を読みつつ、関連する論文をダウンロードして読んでいます。
西垣泰子「(研究ノート)映像メディア表現 (No.1)」『明星大学研究紀要-教育学部』第1号(2011):161-177
ピンホール現象が途中から「ピンフォール現象」と表記されたり、ケプラーの言葉として「脳は必然的に普通の光学器械のように動く」(Johannes Kepler on the eye and vision)というフレイズを引用してみたり、不思議なところがある論考ですが、情報を網羅的に整理しようとしているところは有用です。橋本英治「Phenakistoscope とそのテクノロジー」『(神戸芸術工科大学紀要)芸術光学2015』
ページ数はまだ見つけることができていません。これは、いったいどういう論文なのかと思いましたが、ステッピング・モータについて、私のまったく知らなかった歴史を教えてくれる有用な技術論文でした。映画が動画として知覚される理由は、厳密には、残像ではなく、「目についての時間軸上での間歇運動の識別能力」の問題だということがわかりました。専門用語としては、Φ現象と呼ぶそうです。そしてΦ現象の出現条件は「コルテの法則」としてまとめられているそうです。
正確に考えたことはなかったのですが、これは、そうでしょう。
LSI を使って(普通の言葉ではコンピュータチップとアプリ)スリットなしに、Phenakistoscope を再現する技術を提示しています。1980年代、岩井俊雄さんというアーティストがこの原理をもちいた非常に興味深い作品(『時間層 1』(1985)、『時間層 II』(1985)、『時間層 III』(1989): テレビモニタを使い円盤上に配置した紙の人形がΦ現象として立ち現れる)を発表したそうです。なるほど。
もう1点、これまで視野に入っていなかった装置を説明してくれています。Stroboscope (ストロボスコープ、ギリシャ語のストロボスは、回転するという意味だそうです)です。1832年、オーストリアのジーモン・リッター・フォン・シュタンプファー(Simon Ritter von Stampfer)が発明したものです。プラトー(Joseph Antoine Ferdinand Plateau)の Phenakistoscope (1831)とはまったく独立に発明されたということです。現在、ストロボは、もとの意味からかけ離れた意味で使われている。フラッシュ発光を回転するディスクに連続で照射することができれば、スリットなしに間欠運動を再現することができる。
夜半に目覚めてすこし仕事。むすこといっしょに7時25分、室温24.1度。今日も快晴。
妻とちいさいちびは8時。ちいさいちびは午前中に練習。9時集合ということで出かけていきました。妻は9時半にでかけるそうです。おおきいちびはジョバスで試合の見学に行くそうです。9時50分ぐらいにでかけると言っていました。
そして、いつものように、私と息子のふたりでお留守番。ふとBSをつけると、NBA ファイナル第4戦がスタートするところでした。最後まで見てしまいました。終わってすぐに息子と私の昼食の買い出し。息子がマックが好きなので、ほぼマック。
昼食のあたりで、古書で発注していた次の本が届きました。
ジョルジュ・サドール『世界映画全史 1 映画の発明 諸器械の発明1832-1895:プラトーからリュミエールへ』村山匡一郎, 出口丈人訳、国書刊行会、1992
19世紀の視覚装置(サドールのいう「諸器械」)についてはこの書物が一番詳しい。片づけがまったくまにあっていません。しかし、疲れがこういうふうに残っているとき、片づけに着手する気になりません。
短い論考であれば、読むことができるので、そうすることにしました。生井英考「ポピュラーカルチャー研究小史」『立教アメリカン・スタディーズ(Rikyo American Studies)』34(2012): 1-22
アメリカのポピュラーカルチャー研究史です。勉強になります。でも、もうすこし長いものを読みたいと思いました。鈴木廣之「変貌する明治の図録」(神奈川大学21世紀COE プログラム第1回国際シンポジウム プレシンポジウム)『版画と写真 −19世紀後半 出来事とイメージの創出−』(2006): 33-45
この1〜2ヶ月の間に読んだ論考ですが、記録をとっていませんでした。図録が手書きなのか、印刷(どういう種類の印刷)なのか、写真なのかを個別に調べています。
夜半に目覚めてすこし仕事。4番目、7時5分、室温23.6度。快晴です。
午後3時から農工大で仕事があります。会議です。
午前中は疲れを癒すため、のんびりしました。午後、郵便を出す必要もあり、いくらか早めに家をでました。書評をしてくれると言ってくれた方に本を送りだしてから、駅へ。国分寺で降りるのは実ははじめてです。駅から農工大まではバス。バス停もすぐにわかりました。国分寺がああいう街並みだとは知りませんでした。明星学園前で下車して、近くにあったコンビニで飲み物を買い、農工大管理棟を目指しました。入り口で事務の方4名がタクシーで下車されるのに出会いました。いっしょに会場まで。すでに田島先生がお見えでした。社会人ルールで20分前には見えたのだそうです。我々は15分前ぐらいでした。定刻の3時にスタート。
5時過ぎまで会議。詳しいことはなにも聞いてなかったのですが、その後、近くの会館で懇親会。農工大は広くて緑の豊かなキャンパスです。アジサイもきれいに咲いていました。
自転車でお見えになった先生が帰られたので、理事・学部長と3人でタクシーに乗りました。国分寺駅ビル内の喫茶店で、事後(?)の打ち合わせ。いろいろ状況がわかりました。8時過ぎにお店をたちました。全員中央線で新宿方面。私が最初にお暇しました。
ひとりで5時、室温23.9度。雨。しとしと、雨が降っています。4限5限に授業。朝、久しぶりにのんびりできます。
→6月の間、1限は行かなくても大丈夫です。昨日ダウンロードしプリントアウトしておいた次の論文を読みました。
前川修「カルト・ド・ヴィジット論:ヴァナキュラー写真の可能性1」『(神戸大学)美学芸術学論集』9(2013):4-21
カルト・ド・ヴィジットは、一番わかりやすくは、19世紀のプリクラと言えばよいでしょうか。名刺判(よりすこしおおきい)の厚紙に、定型的な肖像写真を貼り付けたものです。アドルフ・ウジェーヌ・ディスデリ(1819-89)が1854年特許を取得しており、彼のものが一番有名ですが、類似の考案は同時代に数多くあり、1850年代に大いに流行っています。1860年代末には流行は衰退します。
前川さんは、これを、ヴァナキュラー写真として論じています。流行写真の社会学と言った方がわかりやすいかもしれません。社会学者ならばそういう論じ方をすると思われますが、前川さんは、掲載雑誌からもわかるように、芸術論・芸術史・視覚論・視覚文化研究の流れのなかで、写真論・写真史として取りあげられています。
当時の市民・ブルジョワジーにとって、写真とは何であったのかを知る上で、これはとても面白いテーマです。数多くの興味深い論点を提示することに成功しています。ちょうどよいのでずっと気になっていた髪の毛を切ることにしました。雨のなか、散髪屋さんへ。雨だから空いていると予想して行ったのですが、先人がいました。でも、それほど時間がかからずにやってもらえました。
帰ってきて、カバンをもってすぐに大学へ。武蔵境駅前のパン屋さんで昼食のパンを買ってから、11時6分武蔵境発の西武線。大学についてすぐに昼食。
メールの返信。しばらくしてから1限の TA の院生がコメントシートを持ってきてくれました。雑談。院生が帰ってから、スキャン。コメントシートは手元に置き、スキャンしたものを本日講義してくれた先生には送ることにしたものです。ハーバードで学位を取られた方です。面白い授業をしてくれたようです。スキャンしたファイルは28Mとなったので、送るのには宅ファイル便を使いました。1時過ぎに保険会社の方が見えて、1年に1度の書類の確認作業。
4限と5限の授業。5限の授業では、先週から東と西の文化の差が話題になっています。西から見えた学生が、どうもうまく東京の学生諸君と友達になれなかったという話しになりました。東の学生が2、西からの学生が2、で、私が西出身で東に長いので、なんとか理解してもらえるよう説明することはできたようです。軽いストーカー事案は、生じやすいようです。
4限の直前に、届いたと連絡のあった次の2冊を受け取ってきました。
レイモンド・ウィリアムズ『共通文化に向けて:文化研究1』川端康雄編訳、みすず書房、2013
レイモンド・ウィリアムズ『想像力の時制:文化研究2』川端康雄編訳、みすず書房、2016
レイモンド・ウィリアムズ(1921-1988)の2著は、英語の著作があってそれを訳したものではありません。日本人研究者が、彼の原稿から、選び出して訳出したものです。 『共通文化に向けて:文化研究1』は、I 共通文化とコミュニティ;II 自然・社会・文化唯物論;III ウェールズの文化と社会;IV メディアとリテラシーの4部に分類されています。『想像力の時制:文化研究2』は、I 歴史・想像力・コミットメント;II アヴァンギャルドとモダニズム;III 文学研究と教育;IV 文学と社会 の4部から構成されています。6時16分多磨駅発の電車に乗ることができました。
ひとりで4時40分、室温22.8度。このあと24時間の天気予報をみました。晴れマークも雨マークもなし。ずっと真っ白。午後に会議。
8時54分武蔵境発の西武線。大学についてすぐに事務棟4階へ。学会出張の手続き。以前はそこで書類をもらって記入していましたが、研究協力課のサイトから申請書(エクセル)をダウンロードして、メールで送ってくださいということでした。雑誌のコピーだけ渡しました。
研究室について早速記入にかかりました。すこし不明な点があり、すこし時間がかかりましたが、10時前には完了。その場で紙に記入した方がずっとはやいのですが、仕方ありません。これで、大学での学会出張の手続きは完了。
そのあとも、何点か事務処理。11時過ぎにお弁当。すこし休憩して、12時40分から会議。2時20分まで。
本日はこれでよし。家に帰ることにしました。2時40分多磨駅発の電車に乗り込みました。ちいさいちびも小学生も帰ってきていました。ちいさいちびは4時半すぎに部活に向かいました。総合文化研究の教務補佐の方から、次の原稿のpdf ファイルをもらったので、My academia.edu にアップロードしました。
吉本秀之「初期のカメラ・オブスクラの批判的歴史:暗室、玩具、人口眼、写生装置?」『総合文化研究』第19号(2016.2):189-209晴れて、気温が上がってきました。会議の最中、みんな上着を脱いでいました。(状態ではなく、動作をあらわします。)
ひとりで4時40分、室温23.3度。息子が5時半に起きてきました。早すぎるのでソファーに寝かせました。妻は6時、おおきいちびは6時半に起こす予定です。午前中から会議。
9時6分武蔵境発の西武線。
10時10分から学長室。まさにお座りしているだけの会議でした。ほぼ1時間。1階の教務課に書類を提出してから研究室に戻り、昼食。しばらくしてから届きましたと連絡のあった次の本を受け取りに行きました。
Mirjam Brusius, Katrina Dean, and Chitra Ramalingam, (eds.), William Henry Fox Talbot: Beyond Photography, New Haven and London: Yale University Press, 2013
ざっと見ましたがよい本です。2号が届いたので、今年の津の学会、どうしようかなと考えていたのですが、普通に2泊することにしました。登録してあるサイトで駅近くのホテルを予約しました。津は、東京や京都のようなことにはなっていませんでした。以前と同じ値段です。
自宅から三重大学までのルートも確認しました。自宅からキャンパスまで、4時間10分程度です。もちろん接続にもよります。
12時40分から再び会議。2時20分まで。疲れが引かないので、そのまま帰途へ。2時52分多磨駅発の電車に乗りました。
西荻で編集委員会の郵便物を2点郵便局に出しました。日曜日の編集委員会の宿題はまだこなせていません。今日と明日でなんとか処理するつもりです。
4番目で7時、室温22.9度。9時過ぎに、『化学史研究』2016年第2号が届きました。目次は次です。
第43巻第2号(2016)目次[特集] 菊池好行「「分子科学への道―物理学と化学の界面―」序文」第43巻(2016): 59-61
[特集] 稲葉肇「1870年代から1920年代における化学と気体運動論・統計力学」第43巻(2016): 62-71
[特集]中根美知代 「杉浦義勝と新量子力学の応用:物理学史と化学史のはざま」第43巻(2016): 72-81
[特集] 山口真「1930年代ドイツにおける振動分光学と分子構造研究―コールラオシュによるラマン効果の研究― 」第43巻(2016): 82-95
[年会特集] 「詳細プログラム」第43巻(2016): 96
[年会特集] 小川眞里子「19世紀イギリスの生理学や衛生学の発展に貢献した化学者」第43巻(2016): 97-98
[年会特集] 武田時昌「長生の煉丹術」第43巻(2016): 99-100
[年会特集] 大野 誠「近代イギリスにおける科学の制度化:専門分科と公共圏」第43巻(2016): 101
[年会特集] 伊東剛史「19世紀のロンドン動物学協会からみた動物学の専門分科」第43巻(2016): 102-103
[年会特集]川村範子「19世紀イギリスにおける科学・工芸局の設立」 第43巻(2016): 104-105
[年会特集]松波京子「19世紀イギリスにおける公益性概念―1868年イギリ ス電信国有化法の議会議論からー」 第43巻(2016): 106-107
[年会特集]菊池好行「イギリス化学の制度化の重層性と国際的文脈」 第43巻(2016): 108-109
[年会特集] 伊藤一男「ドイツ化学史の旅(7)―リービッヒ学派と英国」 第43巻(2016): 110
[年会特集] 寺山のり子「パウル・ヴァルデンの化学史―化学史家ヴァルデンの再評価」第43巻(2016): 111
[年会特集] 中辻慎一「ヘルマン・コルベの足跡とラーデボイルの化学史跡について」第43巻(2016): 112
[年会特集] 廣田襄「G.N. Lewisとアメリカ化学の発展()」第43巻(2016): 113-114
[年会特集]堤憲太郎「フグ毒の有機化学研究史」 第43巻(2016): 115
[年会特集]黒田光太郎「黒田チカにとってのケルチンCの開発」 第43巻(2016): 116
[年会特集] 松本邦男「東洋レーヨン(株)における国産ペニシリン開発史」第43巻(2016): 117-118
[年会特集] 松本邦男「村尾澤夫と加藤嵩一の業績――ペニシリンアミダーゼの発見とペニシリン母核存在の提唱」第43巻(2016): 119
[年会特集] Yona Sidere「Udagawa Youan’s Book Kouso Seimika光素舎密加 (1830) : A Study on His Sources」第43巻(2016): 120
[年会特集]山口達明、金賢雄、滝口泰之「日本初の有機電子論研究:戦時中(1940〜45)の李泰圭(京都帝大)」 第43巻(2016): 121
[年会特集] 石田純郎「歴史的病院の諸相(2)――『大塚薬報』2015年4月〜16年7月連載」第43巻(2016): 122
[年会特集] 井上尚之「高分子産業のオールジャパン体制を作った男――荒井溪吉」第43巻(2016): 123
[年会特集] 原宏「『社會問題 煙害論』を読む」第43巻(2016): 124-125
[年会特集] 大野誠・加藤貴広「『化学史事典』の編纂を終えて:成果と今後の課題」第43巻(2016): 126
朝に歯医者、3限4限に授業。
歯医者は10時半から、ほぼ1時間。やはり麻酔を打たれました。家に一度もどり急いで大学へ。武蔵境駅の外で昼食のパンを買って、12時6分武蔵境発の西武線。
研究室でメールに返信していたら、3限。
3限と4限の間は、まず、図書館に行って次の本を受け取りました。
Larry J. Schaaf , Tracings of Light: Sir John Herschel and the Camera Lucida, University of New Mexico Press, 1991
次に事務棟3階で物品を受け取り、教室に戻りました。
4限が終わり、来ているメールに返信をしてから、帰途へ。4時16分多磨駅発の電車に乗ることができました。今日の歯の治療は、あとをひいています。私にしては珍しく(時間もなかったせいもありますが)昼食をとることができませんでした。昼食用に買ったサンドイッチは、おおきちびが夕食のときに食べてくれました。1時間も歯医者の椅子に座っているとすくなくとも元気はなくします。
ひとりで4時40分、室温23.5度。雨。いつ降り出したのかわかりませんが、雨が降っています。おおきいちびは昨日練習から帰ってきて頭が痛いと言っていました。私もすこし痛い。軽い風邪か、季節の変わり目(温度と湿度の急変、あるいは低気圧の接近)にともなうものでしょうか。梅雨入りが目の前に来ています。予報を見ても、次の1週間、明日の月曜日にわずかに晴れマークがあるだけです。残りは、曇りマークと雨マーク。来週のどこかで梅雨入りを伺わせます。→10時前に一度雨はあがりました。空の明るさからすると、再び雨が降ってくることはないように思われます。→なんと、気象庁は本日梅雨入りしたようだと発表しました。この状態で梅雨入りを宣言するとはちょっと意外でした。今朝、偶然、見失っていた本を一冊、部屋の片隅で見つけました。エンゲルハルト・ヴァイグル『近代の小道具たち』(三島憲一訳、青土社、1990)です。スティーヴン・シェイピン&サイモン・シャッファー『リヴァイアサンと空気ポンプ:ホッブズ、ボイル、実験生活』(吉本秀之監訳、柴田和宏・坂本邦暢共訳、名古屋大学出版会、2016)の訳者あとがきでも言及しましたが、原本がドイツ語だったということが災いし、英語圏の科学史の世界にはあまりインパクトをもたなかったように思われます。日本ではどうでしょうか。私は機会がある毎に賞賛してきましたが、科学史の基本文献としてはあまりきちんと読まれているようには見えません。
午後に編集委員会と理事会。東工大。梶さんのところでお世話になっています。
電車で和田さんといっしょになり、降りたところで内田さんといっしょになりました。さらに、歩いていると菊池さんもいっしょになりました。
前の会議がすこし長引き、2時10分から編集委員会。3時に終わりました。3時10分ぐらいから理事会。6時前まで。
梶さん、古川さん、田中さん、河野さんと5人で食事。古川さんは、iPhone にはまっているそうです。
9時45分ぐらいに帰宅しました。
ひとりで4時5分、室温22.8度。おおきいちびは朝に練習。ちいさいちびは午後に練習。おおきいちびは足が痛いようで、曇った表情のまま9時過ぎに練習にでかけました。そのすぐあと、次の本が届きました。
島田 裕巳 『もう親を捨てるしかない: 介護・葬式・遺産は、要らない』 幻冬舎新書、2016
島田さんらしい思い切った表現です。
ひとりで4時55分、室温20.6度。昨日は湿度が低く、とても爽やかな一日でした。この金・土は、ゆっくりします。日曜日に編集委員会と理事会があります。
お昼前、MBA ファイナル初戦を見ていました。カーリーはあまり得点できませんでしがが、チームは勝利。
昨日あいだの時間で、次のものをプリントアウトし、読んでいました。
菊池哲彦「ドキュメンタリー写真が写す社会とはいなかる「社会」か?」田74回日本社会学会大会 一般研究報告(文化・社会意識5)2001年11月25日、一橋大学
この発表論考が大島洋編『写真家の時代2 記録される都市と時代』(洋泉社、1994)を引用しています。
大学図書館には入っていません。ども、何か、記憶がある。今日になって、後ろの本棚を見てみました。『写真家の時代』は、1も2も購入していました。
大島洋編『写真家の時代1 写真家の誕生と19世紀写真』洋泉社、1993
大島洋編『写真家の時代2 記録される都市と時代』洋泉社、1994
1の序論は、多木浩二さんが書いています。「写真家の誕生:発明家から写真家へ」
2の序論は、生井英考さんが書いています。「写真家の変貌」。まずは、この二つの論文を読みました。とても参考になります。
写真家の時代は、もともとはもうすこし長いシリーズを予定していたようですが、2で終わったようです。
なお、記憶はまったくないのですが、諸所に線が引いてあります。昔、一部、読んだようです。もちろん、今の方がずっとよくわかります。→ 16.6.5 生井英考「写真家の変貌」『写真家の時代2 記録される都市と時代』(大島洋編、洋泉社、1994), pp.5-32
p.12 上段 1860年代までの写真の需要市場の急速な拡大は、もっぱらダゲレオタイプの普及によるものだった。カロタイプは、ポジ・ネガ法という意味ではなるほど現代的写真技術の基盤であったが、ある時期まで普及の中心とはならかなった。 (ある時期=ガラスを使う湿式コロジオンが発明され、普及するまでは)
p.14 上段 1850年代から1860年代にかけて写真市場が急拡大し、アマチュア写真家が急増した。この時期、イギリスのアマチュア写真家がダゲレオタイプを手がけることは滅多になく、イギリスで「ダゲレオタイピスト」という言葉は、商業的な肖像写真師のことを指していた。
p.14 下段 ダゲレオタイプとカロタイプの質的差:イギリスでは特許の関係で、ダゲレオタイプはアマチュアには手を出しづらいものだった。それだけではなく、紙ネガを使うカロタイプは、再現精細度がダゲレオタイプに比べてはるかに低く、焼き付けられた画面がきわめて軟調の仕上がりを示した。この甘く霞んだような画面には、タッチ(触感)があると見なされた。
p.15 上段 最初期の「写真家(フォトグラファー)」はもっぱら写真術の科学技術的な側面に関心を抱く人々の総称であった。「写真(フォトグラフィー)」という名称の命名者であったジョン・ハーシェルと同じように、科学的実験装置としての写真の使用に興味を覚える上層中産階級の人々だった。
p.15 下段 1850年代から急増してくる職業的=厳密には商業的=な写真師たちは、科学実験的側面ではなく、写真の商業的な可能性に興味をもつ人々であった。具体的には、彼らは多く、出版業者やグラフィックアートの絵図師としての前歴をもつ「中層中産階級」だったとサイバーリングは指摘している。1850年代の10年間に、アマチュア写真と商業写真の分化が明瞭に見られると彼女はまた指摘している。
p.15 下段→p.16 上段 1852年から53年にかけてイギリスの芸術協会(the Society of Arts)が開いた写真展では、版画類の制作販売業者からの出展は、数えるほどしかなかった。・・・フランスからの出品は、版画業者や写真機器のディーラーが持ち込んだものだった。
p.17 下段 ローレンス・レヴィンの『ハイブロー/ローブロー』からの紹介。
p.19 下段 ここでレヴィンが描写しているのは、色版リトグラフから写真にまで共通する「複製技術時代の芸術」に対する19世紀後半の知識人の典型的な反応であり、かつ「写真は芸術か否か」という写真史全体を貫く論争の背景をなしたものだ。
p.19 上段 1840年代から1900年まで色刷石版画―原画から色刷りのリトグラフィを起こし、あらゆる国民層に数百万単位で頒布するプロセス―は合衆国でもっとも親しまれた芸術形式のひとつであった。それは、社会の全階級の手の届くところに芸術を送り届ける手段として評価され、アメリカの共和化され自然化されたアートとして称えられた。しかし、この同じポイントが、上流階級の価値観からすると、文化を低劣化、下級化とみなされた。 →ハイブロー/ローブローの分裂・分化。
p.28 下段 スナップショットは、19世紀末にあらわれた。 速写の視覚は、同時に窃視の視線につながり、また他方では見えていながら意識化されない(つまり心理的には見えていない)事物の不意の混入というべき事態を招き寄せる。
p.29 下段 こうした人々にとっての写真の美学―そうしたものがあるとして―は、予め訓育された美的な教養によって裏打ちされたものではなく、撮影された画面それ自体のなかに殆ど不意打ちのように現われる新しい知覚と認識の様態としてのみ、その姿を見せるものにほかならない。生井さんの論考は、その時点における写真評論の水準を示す優れた論考です。ただし、注も参考文献もありません。なかで取りあげられている、ローレンス・レヴィンの『ハイブロー/ローブロー』ですが、そのぐらいのものであれば、翻訳があるに違いないと思い調べました。次でした。
ローレンス・W・レヴィーン『ハイブラウ/ロウブラウ:アメリカにおける文化ヒエラルキーの出現』常山菜穂子訳、慶應義塾大学出版会、2005、4-7664-1159-5 C3036、3,360円 四六判上製/384頁
原著は次。Lawrence Levine, Highbrow/Lowbrow: The Emergence of Cultural Hierarchy in America , The William E. Massey Sr. Lectures in the History of American Civilization, Harvard University Press, 1990
夜半に目覚めてすこし仕事。強い風が吹いています。温暖化は、強風ももたらしたようです。ひとりで4時55分、室温20.9度。予報を見ました。今日は終日晴れ。しかも25度を超えないようです。梅雨入り前の好天です。
1限4限5限。1限は久しぶりの講義。
7時42分武蔵境発の西武線。8時25分に教室に入りました。院生諸子の出足はすこし悪かったのですが、8時37分には講義をはじめました。そして、1限の終わる数分前に話止めました。もうすこし早めに切り上げるつもりだったのですが、話しているうちに熱が入ってしまいました。
2限3限は、休んだり、書類を作ったりしていました。
4限5限の授業。5時52分多磨駅発の電車に乗って帰ってきました。
ひとりで4時35分、室温23.5度。朝一番で健康診断。お昼休みに大学院進学説明会。水曜日ですが、珍しく会議がありません。(お昼休みに別の会議が重なっていますが、重なっているので出席できず、私の出席する会議はやはり0。)
全員を送り出してから、家をでました。8時54分武蔵境発の西武線。
研究室に行き、あかりもつけず、保健センターに向かいました。約1時間かなと予想しました。9時50分に終了。今回はバリウムを飲まなかったので、ずいぶん楽でした。その場でわかる数値に関しては、去年とほぼ変化なし。
その足で、Terre Vivante に行って、朝食兼昼食のパンを買いました。フィッシュバーガーとカレーパン。研究室に戻ってすぐに食べました。
すぐに、研究院事務室(3階)と図書館へ。『リヴァイアサンと空気ポンプ』を寄贈してきました。
書類の処理をしているうちに、お昼休み。進学説明会は11時50分からですが、45分に教室に入りました。事務の方の話しでは、70名ぐらいが来ていたということです。疲れが残っているので、本日は、そのまま帰宅することにしました。
12時52分多磨駅発の電車で帰りました。妻、おおきいちびの次の帰宅となりました。しばらくすると、小学生も帰ってきました。
元気になってから、事務的用件を処理しています。昨日受け取った、マイケル・ハンター編の『初期近代英国における印刷されたイメージ;解釈の試論』ですが、目次を取りました。
Michael Hunter (ed.), Printed Images in Early Modern Britain: Essays in Iterpretation., Farnham: Ashgate, 2010
Introduction by Michael Hunter
Symbols of conversion: proprieties of the page in Reformation England by Margaret Aston
Censorship and self-censorship in late 16th-century English book illustration by Richard L. Williams
Guides to Godliness from print to plaster by Tara Hamling
'Like fragments of a shipwreck': printed images and religious antiquarianism in early modern England by Alexandra Walsham.
Page techne: interpreting diagrams in early modern English 'how-to' books by Lori Anne Ferrell
Gesner, Topsell and the purposes of pictures in early modern natural histories by Katherine Acheson
Hollar's prospects and maps of London by Simon Turner
The theory of the impression according to Robert Hookeby Matthew Hunter.
The Common Weales Canker Wormes or the Locusts of Both Church and State: emblematic identities in a late Jacobean print by Malcolm Jones
Buckingham engraved: politics, print images and the royal favourite in the 1620s by Alastair Bellany
The Devil's Bloodhound: Roger L'Estrange caricatured by Helen Pierce
Decoding the Leviathan: doing the history of ideas through images 1651-1714 by Justin Champion.
Noble or commercial? The early history of mezzotint in Britain by Ben Thomas
Faithorne, Loggan, Vandrebank and White: the engraved portrait in late 17th-century Britain by David Alexander
'Paper tapestry' and 'wooden pictures': printed decoration in the domestic interior before 1700 by Gill Saunders
Top knots and lower sorts: print and promiscuous consumption in the 1690s by Angela McShane and Clare Backhouse
私がまずページを繰ったのは、マイケルではなく、マシュー・ハンターの論文です。フックの図像もしっかり押さえておく必要があります。
→ とはいえ、まず、マイケル・ハンターの序文を読みました。さすが、マイケル。非常にうまく研究史をまとめてくれています。私の知りたいことは、第2部「科学と地図学における印刷されたイメージ」にあります。フェレルが「テクネーのページ:初期英国のハウツー本におけるダイアグラムの意味」、キャサリンが「ゲスネル、トプセル、初期近代の自然誌における絵図の目的」、サイモン・ターナーが「ホラーの景観図とロンドン大地図」、マシュー・ハンターが「フックによる印象の理論」を書いています。
マイケル自身自覚はありますが、ヨーロッパの状況への言及が弱い。マイケルは最高レベルの歴史家ですが、外国語はあまり得意ではありません。使っている資料を見ると、それは明らかです。(マイケルは、読めるふりはしていません。)マイケルの挙げる重要な先行研究。
William M. Ivins,Jr., Prints and Visual Communication, 1953
Adam Bartsch,Le Peintre Graveur, 21 vols., 1803-1821
Arthur M. Hind, Short History of Engraving and Ething, 3rd edn, 1923
Robert W. Scribner,For the Sake of Simple Folk: Popular Propaganda for the German Reformation, 1981
Sheila O'Connell,The Popular Print in England, 1999
John N. King, Foxe's Book of Martyrs and Early Modern Print Culture, 2006
Elizabeth Ingram and Ruth Luborsky,English Illustrated Books, 1536-1603, 1993
Edward Hodnett, English Woodcuts, 1480-1535, 1935
Margary Corbett and Ronald Lightbown, The Comedy Frontispiece, 1979
Alexander Globe, Peter Sent, London Printseller, c. 1642-1665: Being A Catalogue Raisonné of His Engraved Prints and Books with an Historical and Biographical Introduction, 1985
Antony Griffith, The Print in Stuart Britain, 1998
Joseph Monteyne,The Printed Image in Early Modern London: Urban Space, Visual Representation and Social Exchange, 2007
Helen Pierce, Unseenly Pictures: Graphic Satire and Politics in Early Modern England, 2010
Stuart Clark, Vanities of the Eye: Vision in Early Modern European Culture, Oxford, 2007
→最初のものには、邦訳があります。
ウィリアム・アイヴィンス『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』白石和也訳、 晶文社、1984
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