ひとりで4時35分、室温20.5度。昨日の雨はすっかり上がっています。たぶん、梅雨入りまでしばらく晴れ模様。午後に会議。2時からひとつだけ。ちょうどよいので机の上の片づけを開始しました。行方不明の書類、本がいくつかありません。机の上を片づけてもでてこないでしょうが、机の上を片づけないで次の作業に入ると、混乱がますます深まります。昨日から定期試験に入っているおおきいちびが帰ってくるまでは家にいて、片づけを行っています。
昼食を食べ、おおきいちびが帰宅し、妻が帰宅してから、大学にいくのでちょうどよいかとふんでいます。昼食後次の本が届きました。
荒俣宏『アラマタ図像館(1)怪物』小学館文庫、1999→妻もおおきいちびも比較的早く帰ってきました。バトンタッチをして、1時6分武蔵境発の西武線。先に図書館によって、次の本を受け取りました。
Michael Hunter (ed.), Printed Images in Early Modern Britain: Essays in Iterpretation., Farnham: Ashgate, 2010
会議は2時から4時まで。後ろに別の会議があり、4時5分には部屋をあけました。4時16分多磨駅発の電車で帰ってきました。電車の行き帰りで『アラマタ図像館(1)怪物』のテキストの部分を読み通しました。一から基礎の勉強です。明日は、大学の行う健康診断。いつも通り朝一番にでかけるつもりです。明日の仕事は昼休みの大学院進学説明会。学内向けです。木曜日も朝の1限なので、水木と1限が続きます。
今後の発表。
明後日の木曜1限の講義は、準備が済んだのでおいておいて、自分のためにまとめると次のようになります。
7月25日(月曜日)26日(火曜日)山口科研国際シンポジウム。
私は2日目(火曜日)の最後から2番目あたりで発表します。全体は英語ですが、英語のきちんとしたものを準備する余裕はないと思われます。前田先生と二人、英語のレジメを用意するという条件で、日本語での発表を認めてもらいました。
日本におけるカメラ・オブスクラの導入とカメラ・オブスクラの使用の東西比較をします。視覚の体制にも触れますが、装置を中心に据えて考察します。
こちらの発表は、今年度中に原稿化し、総合文化研究所の『総合文化研究』に出します。「初期のカメラ・オブスクラの批判的歴史:暗室、玩具、人口眼、写生装置?」『総合文化研究』第19号(2016)の続編です。9月9日〜10日、橋本科研による、京大人文研での発表。
こちらは、複製技術論の見直しのなかに、写真術の出現を位置づけたいと思っています。光化学史、技術史が中心となると思います。技術の社会史(技術はそもそも社会的存在ですが)といった感じになると思います。
どこまで扱えるかはまだわかりませんが、将来的には景観図・都市図・地図までを扱いたいと思っています。
坂野徹氏の Facebook で、かねて病気療養中の金森修さんが5月26日に亡くなったことを知りました。新聞各社も、27日(金曜日)午後7時前に記事にしています。『科学思想史』では世話になりました。心より、ご冥福をお祈りいたします。合掌。ひとりで5時45分、室温23.8度。雨。しっかりとした雨足の雨が降っています。
妻、小学生、おおきいちびの順にでかけました。おおきいちびが出かけるとき、ちいさいちびを起こしました。運動会の振替休日です。友達と遊びに行くと言っています。私は朝一番で歯医者さん。私の歯医者さんは9時半から。今日も麻酔を打ちました。終了して、10時50分。一度家に帰ってから大学へ。駅前のパン屋さんで昼食のパンを買ってから、11時30分武蔵境発の西武線。
メールボックスで書類を受け取ってから、図書館へ。次の本を受領しました。
Geoffrey Batchen, Burning with Desire: The Conception of Photography, MIT Press, 1999
邦訳は、『写真のアルケオロジー』。原題もそうですが、邦訳もこの書が写真史の基本だと伝わるものにはなっていません。現代思想にはまった若者の書いた、博士論文に基づきます。3限4限の授業。
4時28分多磨駅発の電車で帰宅。
本日は、ほぼ晴れ。最高気温27度。ちいさいちびは練習試合。妻を6時半、ちいさいちびを6時50分に起こします。私は、新宿の工学院大学。科学史学会の年会です。
8時ぐらいに家をでて、8時半に会場に着きました。新宿郵便局のすぐ近く。便利な場所にあります。
知っている顔に挨拶をしつつ、まずは、核・原子力の部屋で発表を聞きました。10時過ぎまで。10時になって部屋を変えました。10時半から私が司会をする必要があります。私が司会をするセッションは、3人の予定でしたが、お二人が休んだので、結局お一人。
終わってから、部屋に見えている、橋本さん、河野さんと打ち合わせ。外に出て、うどん屋さんに入りました。12時ぐらいに場所を変え、工学院大学の隣の建物の地下の喫茶店。この種の喫茶店に入るのは、10年ぶり20年ぶりです。12時半から午後のシンポジウムの打ち合わせがあるので、その部屋に。
ラウンドテーブル:ウィキペディアと科学史―知識をコミュニケーションを考える。
ウィキぺディアンの方々と科学史家の共同セッション。3つのシンポジウムが同じ時間帯に重なったので、客の入り(出席の数)がすこし心配だったのですが、十分な数の方が集まってくれました。ウィキぺディアンの方も10名近くは来てくれたようです。
話を聞いてみないとわからないことがあります。そういうふうにしていて、そういうところがハードルになっているのかとわかりました。
私一人、パワポも配布物も用意せず、その場で話しました。
会議からの質疑応答も活発で、成功だったと思います。さえぼーさんをはじめ、ウィキぺディアンの日下九八さん、さかおりさん、のりまきさん、そしてコメンテーターの藤本くん、ご苦労様でした。
終了後、外で挨拶をして、帰ってきました。5時には帰り着きました。
ひとりで3時55分、室温22.2度。曇り。予報によれば、今日は一日中曇り。グラウンドの状態がいくらか心配ですが、ちいさいちびの運動会のためには曇りが最適です。→いつもの時刻、体操着に青色の鉢巻きをして、出かけていきました。30分後、妻も応援に行きました。[シェイピン&シャッファー『リヴァイアサンと空気ポンプ』]
スティーヴン・シェイピン&サイモン・シャッファー
『リヴァイアサンと空気ポンプ:ホッブズ、ボイル、実験生活』
柴田和宏・坂本邦暢共訳、吉本秀之監訳、名古屋大学出版会、2016年
この本が動き始めたようです。アマゾンでは残り5冊となっていました。(そもそも何冊入ったのかは不明。)献本も届いた/届きはじめたようです。
なお、この訳書の最大の貢献者、柴田和宏さんは、頑張りすぎて疲れたせいなのか、この土日の学会には参加できなくなったということです。発表も取りやめにしたと会場責任者の方から連絡がありました。
この本のチラシは、会場責任者の林真理さんのご厚意で、受付の近くに置いてもらえることになりました。林さん、お世話になります。ありがとうございます。
ひとりで5時、室温24.6度。雨、夜半から雨が降っています。天気予報によれば、この雨は、正午ぐらいに上がります。さて、明日はちいさいちびの運動会。運動場は大丈夫でしょうか。→ともかく、天気予報の通り、正午前後には雨は上がっています。気温が下がって過ごしやすくなったのがありがたい。本日は、家にこもって、来週の木曜日1限の授業の準備をしています。→午前中、集中的に作業して、ある程度までは進めることができました。一度きって、別の仕事を行います。
水曜日のことですが、出版社の方から、次の書評用の献本( review copy)を頂きました。担当頂いた東洋書林の編集者の方、ありがとうございました。
マルヨ・T・ヌルミネン著 日暮雅通訳
『才女の歴史―古代から啓蒙時代までの諸学のミューズたち』
東洋書林 2016年4月 本体6,500円 A5判上製474頁 ISBN978-4-88721-823-9
小谷真理さんが解説を書かれています。昼食後、書評を引き受けてくれた方に発送しました。適役の方が引き受けてくれています。最適と評してよいかもしれません。
ひとりで4時45分、室温23.9度。1限4限5限。
7時42分武蔵境発の西武線。この時刻だとアメリカンスクールの高校生達がいます。研究室で荷物を片づけ、8時15分、印刷センターの開く時間にあわせて、印刷センターに行き、配布物をコピー。それから教室へ。事務の方ははやい。もう見えていました。パワポも設置されていました。
1限の授業が終わってすぐにその足で図書館に。次の本を受け取りました。
Landscape painting : a history
これはこれで有用ですが、私の目的には、Landscape prints : a history が必要だとわかりました。ぼちぼちさがします。研究室に帰るとどうも体調がすぐれません。咳がでます。鼻水もでます。風邪の症状です。2限3限と続きました。
休むほどのひどさではありません。4限の授業に行きました。集中して学生たちの発表を聞き、いくらかコメントをしているうちに快復しました。5限のときには、すっかり大丈夫でした。体調自体は低下しているのだと思います。また家に帰るとすこし症状が出てくる気がしますが、集中している間は大丈夫という境界線にいるように思います。
6時4分多磨駅発の電車で帰ってきました。帰宅すると次の本が届いていました。
吉原英雄『リトグラフ―描画・製版・刷り・併用版・転写と写真製版』 (新技法シリーズ 12) 美術出版、1972
こちらももちろん古書です。
ひとりで2時50分、室温24.9度。これはさすがに早すぎます。また寝ることになると思います。朝のうちは、曇り。予報では、日が暮れてから晴れるということです。最高気温は27度。一昨日や昨日と比べるといくらかましです。
本日は1日中会議。スタートは9時半。終了はたぶん6時過ぎと予想しています。
午前中のものが具体的な作業を伴うものです。事務の方を含め、3名で相当量をこなします。午後は、私が司会をする時間がほんのわずかに発生します。(途中寝ていそうです。)→9時6分武蔵境発の西武線。研究室に行き、必要な資料をもって会議室へ。9時半前。11時過ぎには作業は終了しました。研究室に戻り、昼食(お弁当)。
次の会議は、11時50分から。30分で終わりました。
その次の会議は、12時40分から。1時過ぎに終わりました。
最後の会議列は、2時20分から。はやく進行し、研究院教授会は4時過ぎに終了しました。みなさん、おもわず、歓声をあげ、拍手。私も上のように6時と予想していました。たすかります。4時16分多磨駅発の電車で帰ってきました。6時前に次の本が届きました。
ドメニコ・ポルツィオ責任編集
『リトグラフ―200年の歴史と技法』
勝国興ほか訳、小学館、1985
もちろん、古書です。もとの値段は2万4千円。私の知りたかったのは、技法と目的(販路)ですが、図版集としてもかなりの出来です。久しぶりに大型の美術書を購入し、きちんと鑑賞しました。
→ 16.5.28 p. 25 ゼーネフェルダーは、木製印刷機を簡便化し、石版印刷のスピードアップをはかるため、一連の工夫を凝らした。事実、商業的な最大の関心は印刷の速度にあった。 ゼーネフェルダーが宣伝活動の眼目にしたのは、「きわめて重要な公文書や書類の写しが、時を移さず、また秘書や使用人の忠誠心をあてにせずとも得られる」ことであった。
ゼーネフェルダーの『石版術』を英訳して出版したアッカーマンは、1819年の序文で次のように言う。「この技術のおかげで、画家、彫刻家、建築家は、自分たちの原画の正確な複製を思いの数だけ後世に伝えることができるようになった。当代の芸術家たちにとって、また未来の世代にとって、何と広大かつ有益な分野が開かれたことか! 肖像画家は、そっくり同じ複製を注文主の望みどおり何枚でも与えて彼を喜ばすことができる。責任ある地位にある人は、きわめて重要な公文書や書類の写しを一瞬のうちに必要な数だけ手にすることができる。要するに石版印刷は、芸術や商業のほとんどの分野において、このうえもなく有用なものとなるであろう。」
p.30 ゼーネフェルダーが1809年『石版印刷に関する極めて重要な伝言』を刊行、配布したとき、彼は24の用途をあげた。「われわれが取り扱っている技術は、銅版画や木版がにも、また活版印刷にも比肩しうるものであり、刷り上がりの美しさ、優雅さにおいて多くの場合それらを凌ぎ、しかも迅速かつ廉価という利点を有しているのである。」繰り返しのきく模写法、これが謳い文句であった。ゼーネフェルダー自身は、布地の印刷に大きな可能性を見ていた。・・石版印刷方式は、すぐに演奏会やプログラムの印刷、最新ニュースの記録、地図、植物学や考古学の図版に利用されるようになった。
p.31 石版印刷は、美術館が所蔵する貴重な美術品の複製、流布のために用いられた。・・・初期の印刷業者たちは、石版術を主に商業、教育、情報に役立つ印刷方式と考えていた。石版術がそれ自体で芸術表現の一形式になりえたのは、ようやく次の時代に入ってからである。
p.32 写真リトグラフ 画像の数限りない複製という共通の目的をもつこれら二つの発見は、接点を見いださないはずがなかった。そしてこの可能性は、映像を石版に転写しようと真っ先に試みたのが石版印刷者のジョゼフ=ニセフォール・ニエプスであったと考えるとき、一層大きくなる。写真リトグラフという言葉自体に、石版石の存在が含まれる。その目的は、光が感光版に描いた形態を石版石に定着させ、その複製を無数に作れるようにすることであった。 実用化は、1856年のパワトヴァンを待つ必要があった。コロタイプとして知られるが、彼自身は、油性インクを使って重クロム酸塩ゼラチンの上で印刷する方法を「写真リトグラフ」と呼んでいた。・・コロタイプは、写真製版法のなかで、もっとも魅力的な方法のひとつだった。網目の存在に気づかせない=ルーペで見ないとわからないほど粒子が細かい。中間調を美しく忠実に再現する。
写真と石版印刷との間には、多くの技術的関連があるが、根本的相違として、石版印刷では芸術家の熟練した手(筆致と個性)が不可欠なのに対して、写真リトグラフでは、そうした手が不要ということである。
p. 39 ヨーロッパの大勢の石版画家が名をあげることになった「都市景観図」というジャンルは、通俗挿絵を一般に広く普及させ、きわめて有利な市場を開拓した。原画を石版に転写するかわりに、直接石に描画する方法が現れたとき、石版画は芸術の大通りを歩き始めた。
p. 40 発明から20年余りのうちに、ヨーロッパの大都市に石版印刷工房や印刷所ができた。1818年にはアメリカにもできた。急速な普及は、ゼーネフェルダーの精力的な活動に負うところがおおきい。彼の野心は、芸術的というよりも商業的であった。まず、楽譜。
p. 43 ドイツで石版画の発展に貢献したのは、ショウトリクスナーが石版複製し、ゼーネフェルダーが1808年に印刷刊行した、デューラーの40点ほどの素描集であった。ゲーテは、この作品を喜び、自分でも石版印刷の研究所か工房をつくろうとしたほどであった。こうして絵画の傑作の複製に利用できるとわかった石版印刷術は、ある時期のドイツではその仕事に振り向けられた。
p. 246 ゼーネフェルダーによれば、彼の新しい印刷術は、そのまでの機械的印刷術とは異なり、化学的であった。「1799年以来私が他に先駆けて行ってきた現今の化学的印刷術は、純化学的と呼べるものである。」
p. 247 ゼーネフェルダーの著書に引用された石版印刷の例。石版印刷を売り込むために、新旧を問わず、あらゆる種類の文書、楽譜(当時とても需要があった)、あらゆる様式の図案、装飾写本の複製まで、印刷方式の商業的有用性を強調した。
p. 249 石版印刷の最初の、最も有効な利用法の一つは、地図の製作であった。
p. 262 逆試刷り:刷りたての試し刷りに一枚の紙を重ね押しして得られる刷り。まだ乾いていないインクが白い紙に画像を写し出す。
逆向き版画:石版画や銅版画は、版面の原画に対して左右逆になる。鏡や逆試刷りを使わないと、刷り上がった絵は、もとの原画に対して左右逆となる。過去にはこうした版画が二流の作家達によってしばしば作られた。彼らは大家の絵や版画を模写し、それをそのまま左右逆にせずに版面に刻んだ。朝のうちに、公開された次の原稿をダウンロードし、プリントアウトして読みました。
ディディエ・カーン(小澤実訳)「(公開講演会)中世・初期近代錬金術における変成と宗教」『史苑』第76巻第2号, pp.155-164
ディーバスの「錬金術」と並び、第一級の研究者による、もっともすぐれた錬金術入門/導入です。まさに、カーンの錬金術研究のエッセンスとなっています。橋本さんから、橋本さんの同僚のもっているレーウェンフックの顕微鏡のレプリカを写真で見せてもらいました。わおー。オランダの博物館でレプリカを売っていたことは知っていましたが、日本ではどこにあるのだろうと思っていたら、橋本さんの近所にありました。駒場のスタッフはそれだけ豊かということだと思います。図書館や博物館で是非展示されるとよいと思います。
レーウェンフックの顕微鏡のインパクトはとても大きい。
ひとりで4時25分、室温24.0度。本日も快晴。家である程度仕事を進めてから、10時18分武蔵境発の西武線。大学に着いても、仕事を続行。
会議の日。12時40分から3つ続きます。2つ目で終わったと思い、帰ろうとしたら、事務の方にもう一つありますと指摘されました。もう一つは5分で終わりました。
やはり研究室で作業の続行。その次の会議は、3時から。3時半で終わりました。3時40分多磨駅発の電車で帰ってきました。
作業は終了していません。明日の朝までに終わらせる必要があります。なんとか間に合うように思います。
ひとりで4時45分、室温23.4度。暑く感じます。30度を超えるそうです。9時半から歯医者さん。今日は40分ほどで終わりました。一度家に帰り、カバンをもって出勤。駅前のパン屋さんで昼食のパンを買ってから、11時6分武蔵境発の西武線。
メールの対応、書類の処理をしているうちに、3限。3限と4限の間に、図書館に行って、次の本を受け取りました。
Larry Schaaf, The Photographic Art of William Henry Fox Talbot, Princeton, 2000
トルボットの撮った写真の説明つきカタログです。こういう本を一度きちんと見ておくこと、読んでおくことは重要です。バッチェンの用語を借りれば、トルボットの写真的欲望のアウトラインをつかんでおくことができます。大判のけっこう重い本です。4限終了後、しばらくしてから帰途に。4時28分多磨駅発の電車。
帰宅すると、次の2冊が届いていました。
荒俣宏『アラマタ図像館2 解剖』小学館文庫、1999
これは予想通り、リブロポートのファンタスティック12の第11巻『解剖の美学』を下にした本でした。説明では、そのほんをもとに、「大幅に図像を差し替え、新たに「イメージ解読のための図像学入門」を書き下ろして構成した」とあります。William Crawford, The Keepers of Light: A History & Working Guide to Early Photographic Processes, New York, 1979
アメリカの図書館 Western Nebr. Comm. College Library の除籍本です。そこでは借りた学生はいなかったようです。貸し出し票がまっしろです。
ひとりで4時25分、室温22.6度。昨日よりずいぶん暖かく感じます。
おおきいちびは公式戦。5時50分に起こします。ちいさいちびは練習試合。6時20分に起こします。妻はおおきいちびの公式戦の方に、応援に行きました。公式戦なので、負けた時点で3年生は引退という試合です。長女のチームには、強いセンターがいて、今日の対戦校には湘北の4番のようなスピードがあってスリーも入るガードがいるんだそうです。ちょっと見てみたい気もしますが、私は小学生とお留守番です。
暑いと思ったら、室温で27度を超えていました。夕刻になり、涼しくなってきましたが、明日は30度越えだそうです。
ひとりで4時15分、室温20.0度。昨日はすこし空気がひんやりとしていました。ちびどもは朝練。お弁当はいらないそうです。小学生は土曜学校。[シェイピン&シャッファー『リヴァイアサンと空気ポンプ』]
昨日、出版社の方より、次の本が出来上がったという連絡がありました。
スティーヴン・シェイピン&サイモン・シャッファー
『リヴァイアサンと空気ポンプ:ホッブズ、ボイル、実験生活』
柴田和宏・坂本邦暢共訳、吉本秀之監訳、名古屋大学出版会、2016年6月10日
名古屋大学出版会の最新刊なので、サイトのトップに表示されています。![]()
週末、または週明けには受け取れると思います。
→ 昨日届いたばかりの、坂井建雄『図説 人体イメージの変遷:西洋と日本 古代ギリシャから現代まで』 (岩波現代全書、2014) を読んでいると、出来立てほやほやの『リヴァイアサンと空気ポンプ:ホッブズ、ボイル、実験生活』が届きました。共訳者の柴田和宏さん、坂本邦暢さんの所にも届いた(あるいはすぐに届く)のでは思われます。注や索引をあわせて、454頁の大冊となりました。仕上がりもきれいです。
奥付で初版の出版は、6月10日になっています。すこしはやく、5月20日に出来上がったことになります。
セコードが、クーンの『科学革命の構造』(1962)以後、科学史の世界ではもっとも大きな影響力をもった書物と評した科学史書ですが、SSKの科学論の著作としてもメルクマールとなる重要性をもった書物です。
まずは、科学史・科学論の世界で、しっかりと読まれてほしい本ですし、一般的に人文社会科学の世界でも読んでもらう価値があると思います。
ひとりで4時10分、室温20.6度。おおきいちびは運動会。5時半に起きて、6時半に集合と言っていました。私は出張校正。9時過ぎにでかけました。現地には、9時50分到着。要町のコンビニによってから印刷所へ。入り口で、久しぶりに日岐さんに会いました。今の印刷所では、最初に我々の担当をしてくれた方です。今は社長。校正にはちょうど1時間かかりました。
要町から池袋駅までは歩きました。駅に近いところで、中華料理屋に入りました。お昼にはまだすこし早い時間帯だったので、ひとり。かた焼きそばをばりばり食ってから、帰途。
12時40分ぐらいに帰り着きました。夕刻、次の本が届きました。
坂井 建雄
『図説 人体イメージの変遷――西洋と日本 古代ギリシャから現代まで』 (岩波現代全書)、岩波書店、2014坂井 建雄さんの指摘 「第3期の18世紀初頭〜19世紀初頭では、大多数の解剖学書は図を用いない。」に対して、協同研究者の方々からコメントがありました。ほんとうだろうか?というものです。(→ 16.5.21 個人的には、18世紀初頭〜19世紀初頭、図を用いない解剖学教科書が数多く出版された、という意味だと解釈すればよいかと思うようになっています。)簡単には結論が出せる事柄ではないと思いますが、ともあれ、いろいろ読んでみようと思い、図版に関しては、荒俣だと思い出し、ファンタスティック12(ダズン)の11を本棚から引っ張り出して、読みました。
荒俣宏編著『解剖の美学 Art of Anatomy』リブロポート、1991
買ったときは解剖図はよいかなと思い、読んでいませんでした。図版とキャプションをきちんと読んでみました。不思議な世界が展開されています。
取りあげられている解剖図書を出版年代順にならべてみます。
ロイス 『人骨の盆景』 1701 Frederic Ruysh,Thesaurus Anatomicus
カウパー 『新筋肉裁断術』 1724 William Cowper, Mrotomia Reformata
ル・ブロン 『腸の解剖図』 1742 J. C. Le Blon,
アルビヌス『人体筋骨構造図譜』 1749 Bernardi Siegfried Albini, Tabulae Scelti et Musculorum Corporis Humani
マイヤー 『陸海川動物細密骨格図譜』 1751 Johann Daniel Meyer, Vorstellung allehand Tiere mit ihren Gerippen Zweyter Theil alle auf das richtigste in Kupfer gebracht der Natur gemasse mit ihren Farben abgebildet und heraus gegen
フォン・ハラー 『解剖図集』 1756 A. de Haller, Iconis Anatomicae
ホガース 『解剖学教室』 1759 Willima Hogarth, An Anatomy Lesson
ゴーティエ・ダコティ 『人体構造解剖図集』 1759 Jacques-Fabien Gautier Dagoty, Expositum anatomique de la structure du corps humain
スカルパ 『ヘルニヤ治療法』 1823 A. Scarpa, Traité Pratique des Hernies
グランヴィル 『流産と婦人病』 1834 A. C. Granville, Graphic Illustrations of Abortion and the Deseases of Menstruation
クルヴェイラー 『病理解剖学』 1835−1842 J. Cruveilhier, Anatomie Pathologiq du Corps Haumain
ボードリモン 『胎児および鳥類・両生類の胚発育に関する生理解剖学』 1846 A. Baudrimont et G. J. Martin Saint-Ange, Recherches Anatomique et Physiologuque sur le Dévelopment du FOetus
以上の通り、18世紀のものが中心です。解剖学教科書系はあまり取りあげられていません。→ 坂井 建雄さんの『人体観の歴史』によって、代表的解剖書(解剖図付き)をリストアップします。
ヴェサリウス『ファブリカ』1543 解剖図:木版画 Andreas Vesalius, Fabrica
エウスタキウス(1500-1574)『解剖学図譜』1744 by Albinus 銅版画 Bartolomeus Eustachius,
カッセリウス『解剖学図譜』1627 (死後出版) 銅版画 Giulius Casserius, Tabulae Anatomicae
ベレッティーニ『解剖学図譜』1741 by ペトリオリ 銅版画 Pietro Berretini, Tabulae anatomicae
ビドロー『人体解剖学105図』1685 銅版画 G. Bidloo, Anatomia humani corporis, centrum & quinque tablis
アルビヌス『人体骨格筋肉図』1747 銅版画 Albinus, Tabulae sceleti et musculorum corporis humani
ゴーティエ=ダコティ『人体の内蔵および神経学、血管学、骨学の一般解剖学』1752 Jaques Fabian Gautier d'Agoty, Anatomie generale des viscères, et de la neurologie, angiologie et osteologie de du corpus humain
マスカーニ『普遍解剖学』1823-30 Paolo Mascagni, Anatomia universa
クロケー『人体解剖学』全5巻 1821-31 リトグラフ Jules Germain Cloque, Anatomie de l'homme
ブルジェリ『人体解剖学全提要』全16巻 1832-54 リトグラフ Marc Jean Bourgery, Traité complet de l'anatomie de l'homme
ボナミ『人体記述解剖学図譜』全4巻 1844-66 リトグラフ Eugène Charles Bonamy, Atlas d'anatomie descriptive du Corps Humain
ジョーンズ・クエイン『記述実用解剖学要論』1828 Jones Quain, Elements of descriptive and practical anatomy『解剖学図譜集』1842 A series of anatomical platesリトグラフ
→私の研究には、チェゼルデンが重要だとわかりました。
坂井さんの『図説 人体イメージの変遷――西洋と日本 古代ギリシャから現代まで』の92頁に次のようにあります。「18世紀の解剖図の代表はと問われれば、前述のチェセルデンによる『骨格図譜』と、アルビヌスの『人体骨格筋肉図』と答えるだろう。」
「チェセルデンは、骨格の図を描くにあたっては、1763年版の扉の絵に描かれているが、暗箱(カメラ・オブスクラ)を実物を縮小投影し、実物を正確に模写して描いた。」
94頁には「アルビヌスも、チェセルデンと同様に骨格標本を縮小投影して、実物を正確に模写して解剖図を描いた。」
チェゼルデンの『骨学』(1733)の表紙に描かれたカメラ・オブスクラによる解剖図描写法。
アルビヌスの解剖学書のための絵師、Jan Wandelaar による、グリッドシステムをもちいた解剖図描写法。→16.5.26 風邪気味でしたが、研究室で次の2点を読みました。
Tim Huisman, "Squares and Diopters: The Drawing System of A Famous Anatomical Atlas," Tractrix, 4(1992): 1-11
アルビヌス『人体骨格筋肉図』(1747)の図版は、絵師、Jan Wandelaar によるが、解剖学図のハイライトであるだけでなく、18世紀オランダのグラフィックアートのもっとも印象深い作品だと評価されている。絵師、Jan Wandelaarが具体的にどう描いたかに関しては、ヘンドリク・プントの博士論文『バーナード・ジークフリート・アルビヌス(1697-1770)による人間本性について:18世紀ライデンにおける解剖学的生理学的思想 』(英語、1983)が基本的な仕事をしたが、描写法の再構成に不十分な点がある。その点を補い、修正した。
まとめるとこのような感じになります。とても良い論文です。
このやり方は、今のことばでは、手と目によるスキャンと言ってよいと思われます。
Monique Kornell, "Accuracy and Elegance in Cheselden's Osteographia (1733),"
非常にわかりやすい記述です。
ひとりで4時40分、室温20.7度。晴れ。昨日ほどの快晴ではありませんが、まだ晴れ。おおきいちびと妻を6時半に起こしました。息子もいっしょに起きてきました。1限4限5限6限。
7時54分武蔵境発の西武線。先に研究室に行き、荷物を置いてから、教室へ。10分ぐらいまえから学生が来始めました。
2限3限の間に、いろいろ事務仕事をこなしました。
4限5限。5限終了後、101教室へ。小谷先生の3回目。慰労会。ほぼ動き方が決まってきました。大学前のピザ屋さん。
同僚の久野先生といっしょに9時30分多磨駅発の電車で帰ってきました。
ひとりで4時50分、室温20.0度。すこし気温が低く、快晴。家族がでかけたときには、雲一つない快晴です。午後会議。
9時54分武蔵境発の西武線。会議は12時40分から。すぐに終わりました。1時前。
次の会議は、学部教授会。2時20分から。外国語学部教授会は、すぐに終わり、続いて、言語文化学部教授会。5時前には終了。続いて、いつもの301室へ。全員が揃ってから会議のスタート。時間のかかる作業です。本日は7時半前に終わりにしました。半分も進んでいませんが、仕方ありません。7時40分多磨駅発の電車にいくらか走って乗ることができました。田中麻野「シャルル・ブラン著『全画派の画家たちの歴史』の複製版画をめぐって」『日本大学デジタルミュージアム』2015.3
「19世紀なかば、数千点にのぼる複製版画を伴う比類なき美術史叢書が出版された。シャルル・ブラン(1813-1882)が編纂した『全画派の画家たちの歴史』である。この著作に掲載されたすべての複製版画は、19世紀特有の技法である木口木版によって制作された。」(太字は、吉本)創刊は、1848年。
「本書が美術史とりわけ版画史に名を残すことになったのは、むしろ掲載された複製版画の比類のない豊かさによってである。」
「木口木版が発注されると、素描家がオリジナルの絵画(あるいはその複製)をもとに下絵を制作し、次に版画家がその下絵に基づいて版刻するという手続きがとられる。」
「木口木版による複製版画の時代は、ここで幕を閉じる。19世紀前半から挿絵入り出版物に多様された迅速なこの技法でさえも、世紀末が求めたイメージの大量生産には対応しきれなかったからである。手作業による版画に替わって、写真技術を応用した複製技法が主流になるのが、ちょうど1880年代である。画家や素描家による挿絵が、版画家の手をわずらわせることなく紙面に転写されるようになる。」
夜半に目覚めて、すこし仕事。妻を5時55分に起こしたあと、私自身は小学生といっしょに6時半、室温22.9度。雨。部屋のなかにいてもはっきりとわかる雨。おおきいちびもすぐに起こしました。おおきいちびはやばいと言っています。雨なので、自転車で通学できないことを指しています。沖縄と奄美は昨日梅雨入りしたそうです。関東の梅雨入りは、6時6日前後だそうです。
午後に会議2件。
10時18分武蔵境発の西武線。まず、図書館によって、昨日受け取るのを忘れた次の2冊を受け取りました。
Rima D. Apple, Gregory J. Downey and Stephen L. Vaughn (eds.), Science in print : essays on the history of science and the culture of print, Madison, 2012
Horst Bredlamp, Vera Dünkel and Birgit Schneider (eds.), The Technical Image: A History of Styles in Scientific Imagery, Chicago, 2015午後の会議は、2時40分から。これはすぐに終わりました。
次の会議は、3時半から。こちらは、予想通り長引いて、6時半すぎまで。6時52分多磨駅発の電車になんとか乗り込むことができました。坂井建雄さんの発表が面白いポイントを指摘しています。
坂井建雄「解剖学書における解剖図の類型と歴史的変遷」第110回日本医史学総会 一般講演 p.171『日本医史学雑誌』5第55巻第2号
第1期 16世紀初頭まで 無解剖図型がほとんど
第2期 16世紀中葉から18世紀初頭 別頁解剖図型が中心
第3期 18世紀初頭から19世紀初頭まで 多くが無解剖図型
第4期 19世紀中葉以降 挿入解剖図型
「第3期の18世紀初頭〜19世紀初頭では、大多数の解剖学書は図を用いない。」→これは意外な事実の指摘でした。医学書全般に言えることなのか、生物学の世界まで視野を拡げてみて、同様のことが生じたのか、とても興味深い。
「第4期の19世紀中葉に入って解剖図が復活したのは、本文と解剖図を同じ紙面に印刷する木口木版画が登場したことと関係する。」
ちなみに、木口木版(こぐち‐もくはん)は、18世紀末にイギリスのビウイックが発明し、平圧プレス機で活字と同時に印刷できることを活用して、書籍の挿絵として重宝されるようになります。18世紀末から19世紀初頭にかけて、版画技術にイノベーションが続いたことになります。中村優子「ヴィジュアル・コミュニケーションと社会ー19世紀末ヨーロッパの経験ー」 『異文化コミュニケーション論集』14 (2016), 45-54, 立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科
p. 47 「近代ポスターは1860年代後半のパリで生まれた。」
1830年代中盤、ドイツ人のゴエフロイ・エンゲルマンによってカラー・リトグラフが考案された。
カラー・リトグラフでは、油彩のような細かな表現が描きにくい。→ダゲレオタイプが実現してしまったこととは逆の方向性です。階調なしの、べたの表現。
線遠近法の解体につながった千葉順「ロートレックのポスター芸術」『早稲田商学』284号(1980): 55-69
p. 58 大型ポスターがフランスの街頭に現れるのは、1840年代になってから。 リトグラフは、ドイツで生まれ、フランスで芸術になったと言われる。
ジェリコ、ドラクロワ、ドーミエが石版画で芸術作品を制作した
ひとりで4時55分、室温20.6度。曇り。妻を6時、おおきいちびを6時半に起こします。おおきいちび、ちいさいちび、妻、小学生の順ででかけました。小学生が8時5分に家をでたあとは、私ひとりです。
8時半、チャイムがディンドン。誰かと思えば、ちいさいちび。忘れ物をしたので、取りに帰るように言われたのだそうです。机の上に置いてあるものをもって、すぐに走り出しました。この子は1年に1度ぐらい、こういうことがあります。午前中に歯医者、歯医者が終わってすぐに大学に向かい、午後授業、3限4限5限。
歯医者さんは10時半から。たいへんですが、頑張って下さいと言われて、終了11時40分。途中で麻酔を打たれました。家に帰り、カバンをもって大学へ。12時18分武蔵境発の西武線。駅で6分時間があったので、昼食のパンを買いました。
ILL で届いていると連絡があった次の文献を受け取るために、まず図書館。
Larry Schaaf, "Sir John Herschel's 1839 Royal Society Paper on Photography," History of Photography, 3(1979), 47-60
Larry Schaaf, "Herschel, Talbot and Photography: Spring 1831 and Spring 1839," History of Photography, 4(1980), 181-204
Larry Schaaf, "The Talbot collection," History of Photography, 24(2000), 7-15
Larry Schaaf,"Henry fox talbot's The pencil of nature," History of Photography, 17(1993), 388-396
H. Mark Gosser & Larry Schaaf, "Further notes on Herschel and Talbot: the term ‘Photography’,"History of Photography, 5(1981), 269-270
最後のものは、1839年2月2日付ホイートストーンからハーシェル宛の手紙のなかに、"photographic experiments"(写真術的実験)という言葉が使われているとマーク・ゴッサーが指摘するものです。ホイートストーンがもし最初だとすると、photography, stereoscopy, telegraphy という3語がホイートストーンによることになると結論しています。
それに対して、ラリーは、印刷された文献における「最初の写真術の使用」は、1839年2月25日Vössische Zeitung上のヨハン・メドラー(Johann Mädler) というドイツ人天文学者によると回答しています。メドラーは、この日付のずっと前からハーシェルと書簡を交換しています。またこの日付のあともその通信は続いています。
しかし、photography という用語を公に知らしめたという点では、はやり、何と言ってもハーシェルの 1839.3.14論文が果たした役目が大きいと結論づけています。本が届いたという連絡もあったのですが、受け取りに行くのを忘れました。明日、もらってきます。(Science in print : essays on the history of science and the culture of print, と The Technical Image: A History of Styles in Scientific Imageryの2冊)
3限にはぎりぎり間に合いました。5限は、院生が就活ということでなくなりました。
4時28分多磨駅発の電車で帰途に。朝の歯医者さんがきいています。帰り着いてぐったり。
ひとりで5時20分、室温20.6度。昨日と同じような晴れ。おおきいちびは公式戦。ちいさいちびは練習。次の準備。6月2日木曜日1限に1度だけの講義があります。まったく新しい授業(大学院研究基礎)でまったく新しい内容を話します。おおよそのテーマは考えていますが、スクリプトを作成する作業が待っています。
[写真史、もっとも大きな見通し]
写真術=カメラ・オブスクラ+画像の光化学的キャッチ
カメラ・オブスクラ、ここではレフレックスミラー付きポータブルカメラ・オブスクラは、17世紀から存在した。最初が誰かを確定するのは難しい。(ツァーンにはあった。)
シュルツが18世紀初頭(1719)に銀塩の黒化が光化学反応だと見抜いた。平面ではないが、瓶の中に(広義のネガ・ポジ法により)黒い文字を浮かび上がられることに成功している。
1802年、ウェッジウッドは若い化学者デーヴィの助けを借りて、2平面の密着撮影/照射により日光写真を撮ることに成功しているが、カメラ・オブスクラの像の撮影には成功せず。また撮影後感光紙の感光性を除去することができず、像の固定化=定着には成功せず。ただし、1802年の論文の結論で、その課題を明示した。
1819年、ハーシェル(息子)は、そうした流れとは関係なく、ハイポ(次亜硫酸ナトリウム、現在の正しい名称はチオ硫酸ナトリウム)が塩化銀を溶かし去ることを発見している。
その後、しばらく、ウェッジウッド&デーヴィ(1802)論文とハーシェル(1819)論文を結びつける者はいなかった。トルボット自身もそうであった。1831年6月26日トルボットはハーシェルにハイポが塩化銀を溶かすことを教えてもらっていたが、1833年イタリアのコモ旅行の際にカメラ・オブスクラの像を定着しようという欲望を抱いてから、写真術の開発に取り組んでいたときにも、ハーシェルから教えてもらった知識が思い起こされることはなかった。
トルボットが写真術への欲望を抱く前、フランスでニエプスがようやくフランスに普及しはじめていたリトグラフの手法の延長線上で、いろんな感光剤を使って、版画を複写する試みに着手した。1824年「絵画を複写することよりも、主に風景の眺めに専念しようと決めた」ニエプスは、その年の9月に一応カメラ・オブスクラの像を撮ることに成功したようである。1826年1月、ニエプスはダゲールから共同研究を提案する手紙を受け取ったが、はっきりとした返事はしなかった。(その1826年にアンボワーズ枢機卿の版画を感光剤を使って複製することに成功している。)1827年、10年前にロンドンに行った兄(クロード)を見舞うために、ニエプスは、8月パリにやってきた。そのときダゲールはニエプスと直接会見することができた。ロンドンに行ってみると、兄は発狂していた。1828年2月、植物学者バウアーにヘリオグラフ法で撮った風景写真を託して(贈って)帰国した。帰途、パリで再び、ニエプスはダゲールと会った。共同研究の契約は、1829年12月14日締結に至った。1829年暮れ、ニエプスはロンドンでウォラストンとヤングと会った。1833年7月5日ニエプスは死去した。契約は、息子のイシドールが引き継いだ。
1835年春、ダゲールは、独自に水銀現像法を発見した。定着法の発見には、もうすこし時間がかかった。1837年、不完全だが濃い塩水で洗浄すると、ある程度定着することができた。
そして、1839年1月のダゲレオタイプの公表からはじまる写真術怒濤の1年となる。8月18日の公開講演のときまでには、定着液としてハイポの使用も組み込まれていた。
ダゲレオタイプは、銅板に銀メッキをしたものに、ヨウ素蒸気をあて、感光性をもたせ、それをカメラ・オブスクラの中に収めて露光する。版を取り出し、水蒸気をあてて現像し、食塩水やハイポで定着する。水銀蒸気によって、光が当たった部分には銀の粒子が固着するので、一見ポジ像に見えるが、実際は、左右逆転したネガ像(鏡像)である。版はもろく、複製は不可能であった。原写真家たちの誰も想像しなかった質感のものができたと言ってよく、まったく独特の写真画像であった。写真術は写真術であったが、古写真術とでも呼ぶべき、独特の風合いと質感をもっていた。
金属板ではなく、感光紙をもちいた場合の写真術の原理については、1839年3月14日ハーシェルが王立協会のプロシーデングに明快な論文を発表した。
翌1840年9月23日、感光紙でネガ・ポジ法を開発していたトルボットは、「潜像」とその現像法を発見した。写真史家ニューホールによれば、このトルボットによる潜像とその現像法の発見によって近代写真術が誕生した。
つまり、写真術 photography という用語の確立、ネガ・ポジ法、潜像状態の現像法、ハイポによる定着法ができた。
ただし、ネガに紙をもちいるのには、弱点があった。紙を構成する繊維が画像と同時にポジに影響し、鮮明さと輝きの点で、ダゲレオタイプに勝てなかった。1844年、トルボットは、『自然の鉛筆』を出版しはじめた。1846年までの間に、全6分冊、全24枚の写真が貼りつけられていた。
1847年、ニセフォール・ニエプスの甥、クロード・アベル・ニエプスは、ガラスを支持体とする方式、卵白と沃化カリウムでガラス板を塗布し、乾いたあと、硝酸銀溶液に浸して、感光性をもたせることに成功した。
1851年、トルボットが同じ方法を見いだした。
1851年3月、卵白に変えて、コロジオンを用いる方法を、フレデリック・アーチャーが見いだした。湿式コロジオン法と名づけられた。
1854年までに、湿式コロジオン法は、ダゲレオタイプとカロタイプの両方に置き換わった。ニューホールは、『潜像:写真術の発明』をこの時点で締めています。以上でもまだスキップしたところがあります。また、時間のあるときに埋めます。
夜半に目覚めてすこし仕事。ひとりで5時10分、室温22.8度。おおきいちびは7時学校集合だそうです。ちいさいちびは土曜日学校。
午前中は、時間のある限り、午後の発表の準備。現時点で完成させることは到底不可能ですが、できるだけ論点を言語化しておきたいと思いました。→時間のないなかでの作業ですが、私の中心的論点はなんとか言語化できたかなと思います。
昼食後、12時半に家をでました。出かける直前、4月9日に発注した、Beaumont Newhall, Latent Image, New York ,1967 がやっと届きました。薄い新書版の形態です。日本語訳が使いづらいので原文が必要です。かばんにつめました。
1時20分に駒場につきました。駒場のバラ園を見てから、橋本さんの部屋へ。すでに田中さんは見えていました。初対面なので、はじめましての挨拶。
部屋を変えて、発表会。田中さん、橋本さん、私の順。6時まで。帰りはかなり涼しくなっていました。
ひとりで4時55分、室温22.5度。曇り。明日の科研費集会の準備をしています。焦点がはっきりしてきました。たぶん、私以外は全員が通常に出動。[作ることと知ること:経験的知識の物質文化]
昨夜、図書館の方から連絡があり、ILL で相互貸借を頼んだ次の本は、ネットに PDF があると教えてもらいました。
Pamera H. Smith, Amy R. W. Meyers and Harold J. Cook (eds.), Ways of making and knowing : the material culture of empirical knowledge, Ann Arber: University of Michigan Press, 2014
ミシガン大学が出版し、ミシガン大学がデジタル化してネットに挙げています。2014年の出版物だということが注目に値します。ご存じの方はすぐにわかることですが、最近歴史(とくに科学史技術史)の世界で注目を浴びつつある研究分野です。
HathiTrust www.hathitrust.org Creative Commons Attribution-NonCommercial-NonDerivatives
目次は次です。
Harold J. Cook, Pamela H. Smith, and Amy R.W. Meyers, "Introduction: Making and Knowing"
Pamela H. Smith, "Making as Knowing: Craft as Natural Philosophy"
Suzanne B. Butters, "From Skills to Wisdom: Making, Knowing and the Arts"
Alicia Weisberg-Roberts, " Between Trade and Science: Dyeing and Knowing in the Long Eighteenth-Century"
Alisha Rankin, "How to Cure the Golden Vein: Medical Remedies as Wissenschaft in Renaissance Germany"
Patrick Wallis and Catherine Wright, "Evidence, Artisan Experience and Authority in Early Modern England"
Mark Laird and Karen Bridgman, "American Roots: Technologies of Plant Transportation and Cultivation in the early Atlantic World"
Joel Fry, "Inside the Box: John Bartram and the Science and Commerce of the Transatlantic Plant Trade"
Lisa Ford, "From Plant to Page: Aesthetics and Objectivity in a nineteenth-century Book of Trees"
Glenn Adamson, "The Labor of Division: Cabinetmaking and the Production of Knowledge"
Elizabeth Yale, "Making Lists: Social and Material Technologies in the Making of Seventeenth-century British Natural History"
Harold J. Cook, "The Preservation of Specimens and the Take-Off in Anatomical Knowledge in the Early Modern Period"
Sachiko Kusukawa, "Conrad Gessner on an ‘ad vivum’ image"
Horst Bredekamp, "Corals versus Trees. Charles Darwin's Early Sketches of Evolution"
Mary M. Brooks, "Decaying objects and the making of meaning in Museums"[2016年度科学史年会]
朝届いたメールに、学会の司会をお願いしたいというものがありました。そもそも、どのくらい参加するのか決めていません。『科学史通信』No. 425 (2016.4.28)を探し出して、第63回年会プログラムをつらつら眺めました。
私は日曜日午後の「ラウンドテーブル―ウィキペディアと科学史―知識とコミュニケーションを考える」にコメンテーターとして参加します。
おや、同じ時間帯で、3つシンポが開かれます。残りの二つは、「歴史としての福島原発事故」と「機器から見た科学研究の歴史」。両方とも実は聞いてみたい。仕方がないので諦めますが、こういうことはあります。
今回、原子力関係、核関係は一般講演もシンポジウムもかなりあります。実は、司会を引き受けた時間帯にも一般講演で、放射線防護、原子核将来計画、軽水炉発達史、原子力開発、というキーワードを含む講演があります。こちらも諦めました。
土曜日をどうするかはまだ決めていませんが、日曜日は、たぶん6時間ぐらいは参加するので、年会準備委員会の要請に従い、先に参加費を郵便振替で払ってくることにしました。
ひとりで5時25分、室温22.1度。晴れ。爽やかな風が部屋に入ってきます。昨日の蒸し暑さとは打って変わって、からっとした日になるということです。1限、昼休み、4限、5限。
7時42分武蔵境発の西武線。天気がとてもよいので、先頭に立ちました。 ICU 高校の高校生達が大勢乗っていました。富士山は最初左前方に見え、それか右側に変わり、ものかげで見えなくなりました。
直接教室に行って、板書。一度研究室に行ってからしばらくして教室へ。
10時まで。11時50分から12時半までお昼休みの説明会。理事による説明を聞きました。4限5限の授業。
5時40分多磨駅発の電車にのりました。同僚の田島先生といっしょになりました。田島先生は暑いのが苦手だそうです。昨日も今日も暑かったそうです。私は、1限、昼休み、4限、5限というスケジュールで疲れました。
ひとりで4時45分、室温21.2度。雨。雨はどうなるでしょうか、予報では雨マークはなく、曇り。
お昼前から会議。その後、夕刻まで会議。9時54分武蔵境発の西武線。
お昼休みの時間にヒアリング。そのまま同じ部屋で、会議。いつもよりはやく終わりました。次は、4時半からヒアリング。6時ぐらいまで。
6時16分多磨駅発。同僚の水野先生といっしょになりました。水野先生は久しぶりに一日に3コマ授業を行って疲れたとのことでした。
ひとりで5時20分、室温21.9度。曇り。雨は上がっています。でも、また降ってくるかもしれません。そういう空模様です。→帰途、すこし雨が降りましたが、昼間は晴れていました。ただし、湿度が高く、かなり暑く感じました。午前中から会議。
[マシュー・ハンター「フックの画像箱」]
8時42分武蔵境発の西武線。まず、図書館へ。開くのは9時、10分ほどロビーで雑誌を見ていました。開いてすぐに、ILL で届いていた次の論文を受け取りました。
Matthew C. Hunter, “Mr. Hooke's Reflecting Box": Modeling the Projected Image in the Early Royal Society," Huntington Library quarterly, 78(2015): 301-328
会議の間のあいた時間で読みました。フックのカメラオブスクラの利用(焦点は、目のモデルとしてのカメラオブスクラ)について、よく調べています。(私が見た範囲では、フックの原典についてもっともよく調査した論文だと思われます)フックは、カメラオブスクラを暗い箱 dark box、あるいはその用途によって、picture box あるいは、reflecting box と呼んでいます。とくに面白いと思ったのは、印刷における左右逆転をなおす装置としてフックが見ている箇所でした。 p. 317 Hooke, Classified Papers, XX: 89, fol. 207. See David Landau and Peter Parshall, The Renaissance Print, 1470-1550 (New Haven, Conn., and London, 1996).10時10分から11時40分まで学長室。
11時50分に図書館の方がみえて、3箱を受け取りました。
12時40分から会議。2時20分まで。
5時から6時まで会議。6時16分多磨駅発の電車。
ひとりで5時10分、室温22.9度。曇り。おおきいちびは朝練。ちいさいちびはしばらく朝練がなく、その代わりに休日練習が入ったとごちていました。午前中(10時15分)に歯医者。午後(12時40分)授業。
今日は歯が一本入ります。駅前のコンビニですこしお金を降ろしてから歯医者さんへ。歯を入れただけではなく、前歯の治療も麻酔をして行いました。歯の値段はなかなかわかりません。11時過ぎに終了して、受付で、3万5千円の提示。その足で銀行に行って、足りない分を降ろしてきました。
支払いをすませて、一度帰宅。予定では昼食をとってからでかけるつもりだったのですが、麻酔を打たれています。そのまま大学に向かうこととしました。
12時6分武蔵境発の西武線。メールに対応しているうちに3時限目の授業。担当した院生が15分待ってほしいと言ったので、その時間で駅前のコンビニで買ったそばとおにぎりを食べました。
5限目を行って、5時4分多磨駅発の電車。武蔵境の中央線のぼりプラットホームで菊池夫人とすれ違いました。ごく短く挨拶。久しぶりの授業のせいでしょう、疲れました。帰宅すると次の本が届いていました。
Patrick Maynard, The Engine of Visualization: Thinking Through Photography, Cornell University Press, 1997
序に、写真術が人々に公表され、使用されるようになって150年、写真術/写真に関する思考と議論には、両義性、混乱、曖昧さ、謎、パラドクス、そして暑い論争がつきまとってきた、とあります。
ひとりで4時55分、室温22.5度。本日も晴れの模様。おおきいちびは朝から練習。ちいさいちびはオフ。午後遅くに編集委員会。4時から。3時前に家をでて、3時50分に現地に着きました。編集委員会そのものは1時間かかりませんでした。あとは、その他の打ち合わせやら相談やら。
Masanori Kaji, Yasu Furukawa, Hiroaki Tanaka, Yoshiyuki Kikuchi (eds.), Proceedings of The International Workshop on the History of Chemistry 2015 Tokyo, Transformation fo Chemistry from the 1920s to the 1960s, Tokyo: The Japanese Society for the History of Chemistry, 2016 を第1号で購入してきました。2千円。化学史学会事務局に言えば、購入することができます。(発表者の方には無料で配るそうです。また重要な機関には送付するということです。)事務局の田中理事の尽力によります。203頁の立派な冊子となりました。7時過ぎに帰宅することができました。すぐに風呂に入り、それから夕食。
ひとりで5時5分、室温20.8度。雨は止んでいます。新聞をとるため玄関を開けると、雲のすきまにわずかに晴れ間が見えました。曇りですが、晴れてくるかもしれません。→朝になると晴れました。すこし湿度のある、雲のかかった晴れとなりました。気温もまた高くなりそうです。そう言えば、写真の化学は光化学ですが、私の目を通してた範囲には、"photochemistry" という用語が出現していません。ネットで調べると、Merriam-Webster には、1867年に初出 (First Known Use of Photochemistry)とあります。直感的に19世紀後半かなと思っていました。別の辞書(Dictionary.com では、1865-1870 がOrigin of photochemistry とあります。
日本語で一番よく出会うのは、"光化学スモッグ”でしょうか。最近はあまり聞かなくなりました。
ふと思いついて、光化学の歴史が書かれていないかどうかグーグルスカラーやCiNiiで調べてみました。本格的なものはないようです。分光学の歴史であれば、あるに違いないと調べましたが、これも見当たりません。うーん。中崎昌雄さんの研究は、そうした領域の一部をカバーしていますが、本格的なものが書かれる必要があると思います。
英語で調べてみると、すこしだけあります。しかし、いまのところ、中崎昌雄さんの研究対象を含むような、包括的なものは見つけることができていません。Wiki の History of spectroscopy は悪くないです。
History of Photochemistry
ひとりで5時10分、室温21.6度。薄曇りの晴れ。このぐらいの天候の方がすごしやすい。昨日や一昨日は、あまりにも好天で、もう夏という暑さでした。私以外は通常営業にもどります。子どもたちはみんな学校。妻は午前中に仕事。
私も金曜日は通常大学に行きませんから、全員、通常に戻ったと言うこともできます。妻がお昼過ぎに帰ってくるまでは、ずっと家にいて、連休中にやっていた作業をできるだけ先に進めることができるよう、本を読んだり、ノートをとったり、考えを書きつけたりしています。5月8日の日曜日に編集委員会・理事会があったあとは、怒濤の日が続きます。昼寝から目覚めると雨が降っていました。予報ではもうすこし遅くなってからでしたが、早めに雨雲がやってきたようです。
次のサイトに、ダゲレオタイプの出現を報じた新聞や雑誌のアーカイブがありました。
THE DAGUERREOTYPE: AN ARCHIVE OF SOURCE TEXTS, GRAPHICS, AND EPHEMERA
The research archive of Gary W. Ewer regarding the history of the daguerreotype中崎昌雄「初期スペクトル分析法を開拓した人びと」『中京大学教養論叢』35(1)(1994): 117-186
1.ウォラストン(1802)、フラウンホーファー(1814)による太陽スペクトル暗線の発見
2.ブリュースター、ハーシェル、トルボットによる着色炎スペクトルの研究(1822-26)
3.トルボット「スペクトル観測による化学分析」(1834)とホイトストーン「電気火花スペクトル研究」(1835)
4.フーコー D暗線研究(1849)と光速度「決定的実験」(1850)
5.キルヒホッフ「フラウンホーファー線について」(1859)
6.キルヒホッフ&ブンゼン「スペクトル観測による化学分析」(1860)
7.キルヒホッフ&ブンゼン「スペクトル観測による化学分析」第2報(1861)
新アルカリ金属元素セシウム、ルビジウムの発見
付録 Kirchhoff und Bunsen, "Chemische Analyse durch Spectralbeobachtungen," ,Poggendorff's Ann., 110(1860): 166-189 の邦訳
長い論文ですが、必要だろうと思い、画面上で全部読み通しました。とても面白い。これは、テーマがおもしろい。中崎さんは今の基準ではありえないほど論旨に関係しない伝記的事項をもらさず記述する傾向があります。現在の論文に慣れている者には、正直、わずらわしく感じられます。しかし、とても面白いテーマです。科学技術史に関心がある方であれば、誰が読んでおもしろいと思われるのではないかと考えます。中崎昌雄「世界最初の「写真」画集 Talbot「The Pencil of Nature」」『中京大学教養論叢』28(3)(1988): 673-715
pp. 205-206 * Talbot「The Pencil of Nature」邦訳
p.215 (ウェッジウッドとデーヴィの1802年の研究にふれて)「彼らのこの方面の失敗があまりにも惨めであったので、この研究はすぐに彼等自身を含めて他の人びとに顧みられなくなってしまい、われわれの知る限りでは続行されることがなかった。
こうして30年もの間、この件は忘れられたままだったのである。
さてダゲレオタイプはダゲール氏やフランス学士院が思うほどに、そう全く新奇な考案でなく、また私自身の仕事にしてもさらに直接にウェッジウッドの跡を追うものであったが、この両方の改良はすべての点で非常に大きなものがある。これが1839年をもって写真の真の誕生の時期、それが世界にはじめて公表された時期とするのが妥当ではないかという私の考えの理由である。」
→ このトルボットの証言も、当事者の発言の歪みをもつものです。「失敗があまりにも惨め」とは、ウェッジウッドとデーヴィは感じなかったはずです。自分が成功したことを印象づけるために、失敗の大きさを強調するレトリックです。ということで、優先権や第1発見者が関わるとトルボットが感じた部分に関しては、トルボットの証言には極めて批判的に対応する必要があります。
→ 関心のあり方がちがったせいですが、ハーシェルにはこうした部分はまず見られません。今の観点からすると、ハーシェルは、ほぼ科学者といってよく、事業家・起業家の側面はありません。写真研究に関して言えば、カメラ・オブスクラにほとんど触れていません。
ひとりで5時、室温22.4度。子どもの日。風も止んで穏やかな空気。最高の休日日和かと思われます。子どもの日なので、おひるは息子の大好きなマグロ寿司。
日が暮れる前、家のまわりの草取りをしました。ゴミ袋に4つ。今やっておかないと、すぐに梅雨です。蚊はまだあまり飛んでいません。9割程度はできたでしょうか。汗まみれ。すぐにお風呂に入りました。
中崎昌雄「写真発達史における1839年という年W. H. F. Talbot の場合」『中京大学教養論叢』29(2)(1988): 275-324
1839年1月6日「ダゲレオタイプ」発表
1839年1月31日トルボット「Photogenic Drawing」(光写生)発表、王立協会
1839年2月21日トルボット「Photogenic Drawing」手法公開、王立協会宛て書簡
1839年4月20日ニューヨークObserver,モース「ダゲレオタイプ実見記事」
1839年3月21日トルボット「新しい感光紙について」
1839年8月19日ダゲレオタイプ公表
付録1.pp.22-24 パリ Gazette de France, 1839.1.6 :ダゲールの発見についての記事
付録2.pp.24-38 William Henry Fox Talbot, "Some Account of the Art of Photogenic Drawing, or, The Process by Which Natural Objects May be Made to Delineate Themselves without the Aid of the Artist's Pencil," 1839.1.31
2. 画像の効果とその外観 Effect and Appearance of these Images 3. この手法の最初の応用 First Application of this Process 4. 影を固定化する方法 On the Art of Fixing a Shadow 5. 定着法 Preserving process 6. 肖像 Portraits 7. ガラス絵 Paintings on Glass 8. 顕微鏡への応用 Application to the Microscope 9. 建物、風景、外界の自然 Architecture, Landscape, and External Nature 10. 彫像の描写 Delineation of Sculpture 11.版画の複写 Coping of Engravings
付録3.pp.38-40 A Letter from H. Talbot to Samuel H. Christie, 1839.2.1
付録4.pp.41-43 ニューヨークObserver1839.4.20号: モース「ダゲレオタイプ実見記事」
付録5.pp.43 William Henry Fox Talbot, "Note respecting a new kind of Sensitive Paper," 1839.3.21 Royal Society
付録6.pp.43-44 London, Literary Gazette 1839.7.13 : 7月7日ダゲールが下院で見せたダゲレオタイプについて
付録7.pp.44-47 ロンドン、London Globe 1839.8.23号:フランス科学アカデミーでのアラゴーによるダゲレオタイプの公開説明
以上すべて中崎さんは、邦訳した上で付録としてつけています。中崎昌雄「1839年3月14日 Herschel「写真研究」発表 : Talbot との交渉をめぐって」『中京大学教養論叢』30(4)(1990): 1179-1263
付録1. pp.90-99 John F. W. Herschel, "Note on the Art of Photography, or the application of the Chemical Rays of Light to the purposes of Pictorial Representation, Communicated March 14, 1839, Read 14 March 1839" Proceedings of the Royal Society Vol. 4: No. 37 (1839), 131-3
中崎さんの訳では「写真術―言い換えると、化学線を画像描写の目的に応用することに関する覚え書き」
ハーシェルは、3つの先行研究を挙げています。すなわち、ハーシェル自身の光の化学作用に関する研究(1832)、ランフォード伯の光の化学的性質に関する研究(1789)、そしてエリザベス・フラムの染色と画法に関する研究(1794)。
Herschel, "XVI. On the Action of Light in determining the Precipitation of Muriate of Platinum by Lime-water, being an Extract from a Letter of Sir John F. W. Herschel, K. H., F.R.S. & c. to Dr Daubeny," Phil. Mag., Vol. 1, No. 1, July, 58(1832)
Benjamin Count of Rumford, "XX. An Inquiry Concerning the Chemical Properties that have been attributed to Light, read 14th June 1798," Phil. Trans., Vol. 88, pt. II, 449(1789)
Elizabeth Fulhame , "An Essay in Combustion, with a view to a New Art of Dying and Painting, wherein the Phlogistic and Antiphlogistic Hypotheses are Proved Erroneous, " Printed for the Author by J. Cooper, London, 1794. Chapter VII, "Reduction of Metals by Light".中崎昌雄「Talbot「カロタイプ」写真術発明をめぐって:写真「潜像」とその「現像」の発見」『中京大学教養論叢』 29(3)(1988): 587-627
3.写真「潜像」とその「現像」の発見(1840年9月23日)
付録1.pp. 27- 32「カロタイプ」光写生についての2つの手紙(1841年2月5日、19日) Two Letters on Carotype Photogenic Drawing, From H. F. Talbot, Esq., F.R.S. to the Editor of the Literary Gazette 2つ目の手紙で潜像と現像の発見について述べている。
付録2.pp. 33-37 「カロタイプ」光写生の手法(1841年6月10日王立協会発表)An Account of Some Recent Improvements in Photography By H. F. Talbot, Esq., F.R.S.中崎昌雄「 Talbot「写真印刷」発明と晩年の研究 : 動力, アッシリア学, 植物学, 数学, 天文学」『中京大学教養論叢』31(4)(1991): 1527-1622
付録1.pp. 71-76 1829年11月、12月 ニエプス「ヘリオグラフ法」ノート Niépce, Notice sur L'Héliographie
付録2.pp. 76-79 トルボット「写真版画」(Photogenic Engraving)Athenaeum, 1853.4.9中崎昌雄「世界最初の「写真家」Thomas Wedgwoodの生涯と業績」『中京大学教養論叢』28(4)(1988): 829-875
付録 pp. 40- 翻訳「硝酸銀に対する光の作用によって、ガラス絵の複写およびプロフィールを作る一方法についての報告」 (Thomas Wedgwood and Humphry Davy), "An Account of a Method of Copying Paintings upon Glass, and of Making Profiles, by the Agency of Light upon Nitrate of Silver. Invented by T. Wedgwood, Esq. With Obsevations by H. Davy.”Journal of Royal Institution,1(1802)
Davy による注記「Scheele はスペクトル分散光の中で赤色光が及ぼす作用はとても弱く、ほとんど目に付かないほどだと発見した。Senebier は、黒くなるのに、赤色光で20分、橙色光で12分、黄色光で5分30秒、緑色光で37秒、青色光で29秒、紫光で15秒だと見いだした。"Sinebier sur la lumière," voi.iii, p.199
ハーシェル博士は太陽光線の中に目に見えない熱線が存在することを見いだした。その後、ドイツでは Ritter, Böckmann、イギリスではウォラストンにより新しい実験が行われた。 "Annalen der Physik, siebenter Band", 527」中崎昌雄「「Lichtschreibekunst (Photography) 」の発明 Johann Heinrich Schulze とその光化学的研究」『中京大学教養論叢』29(1)(1988): 1-48
付録 A. Schulze 「発光体のかわりに発見された暗黒体:または太陽光の奇妙な効果についての実験」1727(翻訳) Observatio CCXXXIII Dn, D. Toh. Henri Schulze, Scotophorus pro phosphoro inventus: seu experimentum curiosum de effectu radiorum solarium
付録 B. プリーストリ「視覚、光、色彩に関する発見の歴史と現状」(1772)の中のSchulze 報告抄録(翻訳)
p. 29 Schulze →Lewis→ Chisholm → Wedgwood という線が浮かび上がる。プリーストリもなかに入るp. 36 父ハーシェル(William Herschel)の赤外線の発見。太陽光スペクトルの各部分を小さい孔で外に出し、そこに黒く塗った温度計をおいて、温度上昇を比較したところ、赤よりも外の目に見えない領域で最も温度上昇が大きかった。infra-red ray が発見された。(1800)。翌年には、ドイツ人 J. W. Ritter(1776-1810)による紫外線の発見が報告された。検出にはシェーレと同じく、塩化銀が使われた。
camera lucida ならびに periscopic lense の発明者W. H. Wollaston (1766-1828)も1802年に同じことを発表した。これは、ウェッジウッド&デーヴィの発表と同年同月である。彼は紫外線を chemical ray と呼んだ。」中崎昌雄「1839-1842年における John Herschel 写真研究 : 青写真と「Herschel 効果」の発見」『中京大学教養論叢』31(1)(1990): 13-84
ハーシェル写真研究第2報(1840.2.20)
ハーシェル写真研究第3報(1842.6.16) 植物色素に対する太陽スペクトルの作用、ならびに青写真
ハーシェル写真研究第4報(1842.11.17)中崎昌雄「不当にもダゲレオタイプと名付けられた発明の歴史 : ダゲール剽窃弾劾パンフレット」『中京大学教養論叢』32(1)(1991): 1-80
付録1. Isidore Niépce 「ダゲール剽窃弾劾パンフレット」(翻訳)
付録2. Nicéphore Niépce 「ヘリオグラフ法についてのノート」(翻訳)中崎昌雄「銀塩とその感光性研究史 : 歴史的展望と写真術への応用」『中京大学教養論叢』33(4)(1993): 863-923 p. 69 Jeam Senebier(1742-1809) はじめ牧師、ついでジュネーブ市図書館主事。フロギストン信奉者。Mémoires physico-chimiques sur l'influence de la lumière solaire pour modifier les etre des trois régne de la nature 自然の3界に存在するものに変化を与える太陽光の作用に関する物理-化学的研究
ニエプスが使った、グアヤック樹脂や Dippel 油、も調べられている。塩化銀の色変化については、Schulze, Beccaria, Scheele の仕事を引用している。
pp.71-72 Elizabeth Fulhame , "An Essay in Combustion, with a view to a New Art of Dying and Painting, wherein the Phlogistic and Antiphlogistic Hypotheses are Proved Erroneous, " Printed for the Author by J. Cooper, London, 1794.
Fulhame 夫人の最初のもくろみは、絹布に金属で地図を描くことであった。川は銀に、市街は金に塗られる。第8章に硝酸銀溶液に浸して光を当てると黒くなり、金塩溶液に浸した場合にははじめ紫色になるが、1時間ほどで金粒子が析出した。光が金属塩を還元するのは、光がフロギストンを放出するからではないかと考えた。没食子酸による還元にも触れている。
pp. 72-3 Rumford卿 (Benjamin Thompson) (1753-1814) Fulhame 夫人の実験に刺激され、1798年王立協会に次の報告を提出した。
Benjamin Count of Rumford, "XX. An Inquiry Concerning the Chemical Properties that have been attributed to Light, read 14th June 1798," Phil. Trans., Vol. 88(1789) 「光に帰されていた化学的性質に関する研究」Rumfordの見解では、光ではなく、光によって生じる熱の働きであった。
p. 84 タルボット(1839.1.7) 「ハンフリー・デーヴィ卿ほどの実験家が『すべての実験は失敗に終わったと見放したので、これ以上追究するのを断念して当然だ。』
→ 16.5.6 写真史ではとても多い事態ですが、この言葉は真に受けてはいけません。中崎さんも指摘するとおり、このとき(1802年報告のとき)デーヴィは、「田舎の研究所から出て来たばかりの駆け出しの化学者で23歳になった」ばかりであった。つまり、1802年のデーヴィは有名でも何でもなく、それをタルボットがこう書くのは意図的か(自分が研究を続けなかったことの言い訳か)、あるいは、後付け(デーヴィがいろんな大きな仕事を成し遂げ、有名になったあとのことを若きデーヴィに読み込んでいる、つまり時代錯誤か)いずれかである。ダゲールの成功の報告に起因していること、後に特許を申請し、特許訴訟に巻き込まれていることを考え合わせれば、ここは、意図的な口実の臭いが強いと言っておいてよいだろう。
→ 16.5.6 事業家ダゲールの「ダゲレオタイプ教本」も類似の文書とみなす必要があります。自分に有利なように意図的に歪められた部分を含みます。のちに、ニエプス息子から弾劾文書を投げつけられる要因を自分で作り出しています。
→ 16.5.6 また、ブリュースター(Brewster)が1847年 North British Reviewに書いた写真史の総説は、便利なものではあったが、ハーシェルの業績(とくに定着材としてのハイポの使用)をReade に帰す間違いをおかしている。ブリュースターの知名度故に、その説がかなり影響力をもってしまった。(Readeが没食子酸の使用とハイポの使用を発見したという謬説を生みだしてしまった。)
→ 16.5.6 バッチェン p.81 アラゴーの表現(1839年のより遅い時期に)「この器具が生み出すイメージの輪郭の精密さ、色と形の正確さ、階調の正確さ(la dégradation exacte de teintes)を見たひとは誰でも、そうしたイメージが<おのずと>保存されないのを本当に残念に思い、焦点面上でそれを定着させるなんらかの手段を発見することを心から願わないひとはいませんでした。」(アラゴー、1839年7月6日、下院議会への報告。Daguerre, Account, p.14; Daguerre, Historique et description des procédés du daguerréotype et du diorama, p.11 ;『完訳ダゲレオタイプ教本』p.77 >ここで、アラゴーは、ダゲレオタイプに写った像を見て、こう発言している。カメラオブスクラのもたらす画像は、線を抽象し、輪郭を描くことは可能にしてくれるが、正確な階調とは無縁のものであった。むしろより正確には、アラゴーは、カメラオブスクラのもたらす画像の特徴と、ダゲレオタイプにみられる画像の特徴を混合して、その画像があらかじめカメラオブスクラのもたらす画像にあったかのように表現している。発明のあと、わかる事柄を、あらかじめ、発明前の器具(がもたらす画像)に備わっていたかのように語る、一種の時代錯誤を犯している。発明後の特徴を発明前の特徴におそらく無意識的に投射して語っている。写真がもたらす錯乱・転倒は、すくなくないが、これもそのひとつの事例である。中崎昌雄「だれが初めてハイポ (チオ硫酸ナトリウム) による写真「定着」を発見したのか? : J. B. Reade 対 John Herschel」『中京大学教養論叢』30(3)(1990): 663-725
David Brewster, "Photography, " North British Review, 1847 Review of Development of Photography from 1839 to 1847
p.25 ハーシェルのハイポ研究。
John Herschel, "On the hyposulphurous acid and its compound," Edinburgh Philosophical Jounal, 1(1819), 8-29
John Herschel, "Additional facts relative to the hyposulphurous acid, " Edinburgh Philosophical Jounal, 1(1819), 396-400
p. 27 「次亜硫酸塩 (hyposulphites) のもっとも変わった性質の一つは、この溶液が塩化銀 (muriate of silver)のかなりの量を完全に溶かすという性質である。」
p. 32 "Exp. 561. Jan. 1, 1819 (1) Cold Sulpho Sulphite of Soda (somewhat concentrated) dissolved newly precipitated Muriate of Silver as easily as water dissolves sugar,"
p. 36 「鉱物学と物理学のもっとも輝かしい合流点のひとつである。」(William Thomson, Lord Kelvin 1871 on Herschel, 1822)
1824年、ミュンヘンでフラウンホーファー(1787-1826)にあって、自作のフリントとクラウンガラスプリズムをもらった。
1829年暮れ、ニエプスはロンドンにやってきて、ウォラストンとヤングと会っている。(ハーシェルやトルボットとは接触がなかった。)
p. 40 John Herschel, "On the Action of Light determing the Precipitation of Muriate of Platinum by Lime-water," Phil. Mag., 1832 July,
p. 43 このようにトルボットは、1831年6月26日の段階で、すでにハーシェルから塩化銀がハイポに溶けることを教えてもらっている。・・・ところが、トルボットは1839年2月1日にハーシェル家を訪問したとき教えてもらうまでは、ハイポを写真定着に利用することに思いつかなかったらしい。
トルボットは、1833年新婚旅行でイタリアのコモ湖にいった。ウォラストンのプリズム(カメラ・ルシーダ)で写生を試みるがうまく描けず。替わりにカメラ・オブスクラを使ってみた。「これらの自然の映像を消えないように捺しつけて、紙の上に残せたら何と素晴らしいことだろう。」
p. 45 ハーシェルはダゲールの写真研究を友人の Beaufort 大佐から1839年1月23日に知らされた。前日夫人にだした手紙を見て欲しいとあった。その手紙には、フランスの科学アカデミー紀要Comp. rend.1月7日号に面白い記事があると報せていた。そこには、アラゴーが1月7日ダゲールの仕事を紹介していた。(詳しい内容はなし。)
p. 46 ハーシェルはすぐに仕事をはじめた。" a variety of processes at once presented themselves," ・・ハーシェルの写真実験研究ノートは、1月29日「実験1012」から始まっている。
p. 48 「実験1012―1839年1月29日。ダゲールの秘密を聞き、またトルボットも同じように何かを掴んでいると知らされてから、ここ数日間にした実験。」
「実験1013―ダゲールの手法。これを真似るための試み。必要なもの―1.感度のよい感光紙。2.完全なカメラ。3.余分な反応を阻止するための方法、塩化銀や他の銀塩を全部洗い去って、光の作用を阻止するのに次亜硫酸ナトリウムを使ってみた。完全に成功。」
「1839年1月30日。無収差レンズで望遠鏡の像を撮る。炭酸銀紙を焦点におく。画像はセピア色に地に白く写る。これを次亜硫酸ナトリウムで洗っても消えず、光に当てても変化しない。かくしてダゲールの謎は、ここまで解けた。」
「実験1014―1839年1月30日。 版画や銅版文書の transfer を試みる。」
p.50 1839年2月20ー21日付 Bio 宛ての手紙「数日前、私の親友のハーシェル卿が、私に写真画像の保存に関して発見した大変に素晴らしい方法を知らせてきました。しかしながら彼の許可を得ないうちには何もお教えすることができません。その実験を追試したところ、大成功だったとだけお伝えしておきましょう。」・・・ハーシェルははじめからトルボットの好きなようにせよと寛大であった。
3月4日フランス科学アカデミーで読まれた手紙「第4番目の方法はこれだけで他の全てに匹敵するほどのものです。次亜硫酸ナトリウムで画像を洗うのです。このアイディアはまったくハーシェル氏のアイディアから自然に出たものです。・・・画像の白いところにある銀塩は、定着されたり、不活性化されたりするのではなく、完全に除かれるからです。」見えないものを見る。
ケプラーは、網膜に写る pictura が上下左右逆転していることに悩んだが、もうすこし先までいえることがある。それは、われわれの日常知覚においては、空間を3次元として知覚しているが、 pictura は2次元(よくて球面)である。3次元知覚も 平面(あるいは球面)の pictura を越えている。
われわれが見ているもの、知覚しているものは、実は、 pictura としては見えない。 pictura には写らない。
逆に、とくにダゲレオタイプがキャッチした階調の精密さ・正確さは、ダゲレオタイプの銀塩表面がキャッチしたものであって、人間が日常的に知覚しているものではなかった。つまり、写真は、人間が知覚している以上のものをキャッチすることができる。その典型が、写真術の発見のプロセスとほぼ同じ頃に発見された、スペクトルの不可視の部分(可視光以外の部分)であり、赤外線や紫外線だけではなく、そもそも人間の眼が捉える・知覚することができない光線を写真(銀塩の塗布された表面)はキャッチすることができる。→16.5.15 見えないものに満ちた世界。
望遠鏡が、見える世界だけが世界ではない、私たちに見えている宇宙は、宇宙の偶然の一部に過ぎないことを明らかにしたあと、(ヴァイゲルの論点)
レーウェンフックは、この世界は、見えない微生物 animacula で満ちていることを発見した。
さらに、18世紀末から19世紀初頭、ハーシェル、リッター、ウォラストンは、人間の眼には見えない光が宇宙を飛び交っている・遍在していることを明らかにした。
その見えない光を感光剤はキャッチすることができる。そして、写真術はそれを画像に収めることができる。→写真術が見えないものと結びつく。亡霊写真!
人間に新しい世界が開けると同時に、リアリティに関する新しい概念・感覚をもたらす。
ひとりで4時20分、室温22.8度。雨と風。室内にいると風の強さが気になります。休日。ちいさいちびはオフ。おおきいちびは朝遅めにはじまる練習。午前中は雨。午後は晴れるようです。朝のうちに晴れました。そして、気温が上昇。室温でも25度を超えました。ただし、強い風が吹くので、部屋のなかにいるとそれほど暑く感じませんが、外に出ると、日射しも強く、光も空気もほぼ夏です。
おおきいちびは10時半頃、ちいさいちびは1時半前に出かけました。
起きたときからゲラと格闘し、一応、なんとか終わらせることができました。いくらか残る問題は、出版社の編集者の方と相談です。
おやつの時刻に、息子を連れて、終了したゲラを投函し、セイユーで買い物をして帰ってくると、次の本が届いていました。
Tanya Sheehan and Andrés Mario Zervigón (eds.), Photography and Its Origins, London, 2015
最後の論文を一番先に読みました。ハーシェルの光研究という文脈に写真の発明の言説を位置付け直そうとしています。( Kelley Wilder, " A Note on the Science of Photography: Reconsidering the Invention Story") 次に、バッチェンの論文( Geoffrey Batchen ,"Origins without End" 「終わりなき起源」)を読みました。Michael Frizote ed., A New History of Photography,( Cologne, 1998) の批判に当てられています。
目次は次。
Jessica S. McDonald , " A Sensational Story: Helmut Gernsheim and The World's First Photograph"
Hans Rooseboom, "What's Wrong with Daguerre? "
Stephen C. Pinson, "Omphaloskeptical? On Daguerre, Smoke Drawing, Finger Painting, and Photography "
Dan Estabrook, "The Past through the Looking Glass"
Geoffrey Batchen ,"Origins without End"
Douglas R. Nickel , "Notes towards New Accounts of Photography's Invention"
Stephen Bann , "Against Photographic Exceptionalism"
Heather Shannon , "Sacred Stories: Photography's Indigenous Origins"
Marcy J. Dinius, "Seeing Ourselves as Others See Us: Frederick Douglass's Reflections on Daguerreotypy and Racial Difference "
Francois Brunet, "An American Sun Shines Brighter, or, Photography Was (Not) Invented in the United States"
Beth Saunders , "The Bertoloni Album: Rethinking Photography's National Identity"
Yi Gu, "Photography and Its Chinese Origins"
Jurg Schneider , " Looking into the Past and Present: The Origins of Photography in Africa"
Jordan Bear , "Self-Reflections: The Nature of Sir Humphry Davy's Photographic Failures "
Laura Saltz , " Natural/Mechanical: Keywords in the Conception of Early Photography"
Kelley Wilder, "A Note on the Science of Photography: Reconsidering the Invention Story"
ひとりで6時25分、室温20.7度。憲法記念日で休日。原写真史
フラム『新しい染色法と画法から見た燃焼の研究―フロジストン説および反フロジストン説がともに誤りとする見解』
Elizabeth Fulhame (fl. 1794), An Essay in Combustion, with a view to a New Art of Dying and Painting, wherein the Phlogistic and Antiphlogistic Hypotheses are Proved Erroneous, 1798, 1810
バッチェン、p.85 注(12)、Larry Schaaf, "The First Fifty Years of British Photography: 1794-1844," in Michael Pritchard ed., Technology and Art: The Birth and Early Years of Photograpphy, Royal Photographic Society Historical Group, 1990, pp.11-12
Thomas Wedgwood and Humphry Davy, "An Account of a Method of Copying Paintings upon Glass, and of Making Profiles, by the Agency of Light upon Nitrate of Silver. Invented by T. Wedgwood, Esq.”Journal of Royal Institution,1(1802) (バッチェン, p.48 「硝酸銀への光の作用によって、ガラスに描かれた絵を複写し、プロフィールを作成する方法についての報告。発明者ウェッジウッド氏。報告者デーヴィー。」)
reprinted in full or summay , Nicolson's Journal of Nature Philosophy, Chemistry and the Art, London, November 1802, pp.167-170; Annale de chimica e storia naturale, 1802; Annalen der Physik, 1803; Magazin for naturvideskaberne, 1824; Annalen de chimie, ou recuil de mémoires concernant la chimie et les arts qui en dépendent., 1802; Journal für die Chemie, Physik und Mineralogie, 1807; Annals of Philosophy 3(1802); Bibliotheque Britanique, 22 January, 1803 ; William Henry, Epitome of Experimental Chemistry, 1810; Ackerman,Repository, 2, October, 1816; John Webster,Manual of Chemistry, 2nd ed., 1828; Bulletin des sciences c.1820;R. B. Litchfield, Tom Wedgwood The First Photographer: An Account of His Life, His Discovery and His Friendship with Samuel Taylor Coleridge Including the Letters of Coleridge to the Wedgwoods, and an Examination of Accounts fo Alleged Earlier Photographic Discoveries, London, 1903
Appendices
A. An Alleged Discovery of Photography in 1727--Schulze's Word-Patterns・・・217
B. The Story of Professor Charles's Silhouettes・・・228
C. A Mystical Account of T. Wedgwood's Photographic Work ・・・241
D. Some Notice of T. Wedgwood in Histories of Photography・・・246
E. As to Solid Bodies Having the Same Temperature at the Point of Incandescence・・・251
F. Priestley in America・・・253
G. The Coleridge Annuity--Its After-History・・・254
H. T. Wedgwood's Will・・・260
I. A Note on the Value of Photography to the World・・・262
"An Account of a Method of Copying Paintings upon Glass, and of Making Profiles, by the Agency of Light upon Nitrate of Silver. Invented by T. Wedgwood, Esq. With Observations by H. Davy". は pp. 188-194 に採録されています。バッチェン, p.56 ダゲールの『ダゲレオタイプとディオラマの手法の歴史と解説』によれば、ニエプス兄弟の最初期の実験は、版画を自動的に複写することに焦点があった。1802年フランスで石版画が導入され、1813年パリでの石版印刷店の初成功に刺激を受けたものだった。1824年の決定的変化を示す手紙(兄クロードから弟ニセフォール宛て)「君は絵画を複写することよりも、主に風景の眺めに専念しようと決めたんだね。」ニセフォールはそれ以降、ヘリオグラフの制作に力を注ぐ。現存する最初の実例は、1827年6月頃に制作されたスタジオの窓からの風景である。
Herschel (1839):
John F. W. Herschel, "Note on the Art of Photography, or the application of the Chemical Rays of Light to the purposes of Pictorial Representation, " Proceedings of the Royal Society Vol. 4: No. 37 (14 February 1839−21 March 1839), 131−3写真史家Pierre G. Harmant (1921-1995)の仕事
フランス人写真技術者で写真史家アルマンの仕事に関するサイトです。英語訳が用意されています。写真史では、こういうタイプの方が活躍しています。
ひとりで4時30分、室温20.6度。ちいさいちびだけ学校の創立記念日で休みです。が、部活はあります。残りのメンバーは普通にあります。私はちいさいちびを部活に送り出してからでかけます。
8時54分武蔵境発の西武線。なんとなくですが、いつもより人が少ない気がします。休んでいる人もいるのかもしれません。
研究室で書類の整理。科研費の研究のための情報の整理。資料を入手するには、図書館に発注する必要があります。すこしずつ進めています。
11時過ぎにお弁当休みをとりましたが、作業を継続しました。12時40分から授業。始まってしまうと、4限終了の4時まで一気です。3限の学生に頼み事があったのですが、快諾してくれたので、事務に連絡しました。
4時16分多磨駅発の電車に乗って帰宅。たいしたことをしたわけではないのですが、疲れました。明日からは、3連休。できるだけ仕事を片づけておきたいと思います。
ひとりで5時、室温18.1度。おお、もう5月。おおきいちびは朝から練習があると言っていました。月が変わったので、夏休みまでの発表等の予定をまとめておきます。
5月14日(土曜日) 午後駒場。橋本科研で、打ち合わせ&発表会。全員がやろうと思っている研究の概要を話します。
5月29日(日曜日) 日本科学史学会 工学院大学 午後1時〜3時半、ウィキシンポでコメンテーターをつとめます。
6月2日(木曜日)1限 大学院研究基礎で1回講義をします。専門とはなにかといった話をしようかと案を練っています。
7月9日(土曜日)10日(日曜日) 三重大学 化学史学会年総会 発表はしません。土曜日午後のシンポジウムの司会をします。
7月25日(月曜日)26日(火曜日) 外大キャンパスで山口科研の国際シンポジウムがあります。26日の午後、発表を行います。別の会議があって打ち合わせに出席することができなかったので、具体的にどういう感じのシンポジウムになるのかは把握できていませんが、私の発表は、去年の続き(続編)になります。ちいさいちびと妻は吉祥寺に買い物。友達の「たんプレ(誕生日プレゼント)」の買い出し。おおきいちびが部活から帰ってくるのを待って、私は小学生を外に連れ出しました。昨日と同じ場所。風は止んでいます。しかし、気温が高め。小学生は暑い、もう帰ると言って半時間程度で終わらせました。
昨日からの続きで次の論文をダウンロードし、読みました。
山野正彦「景観概念の生成と風景画および相貌学の発達―フンボルトの景観論前史―」『人文研究 大阪市立大学文学部紀要』47(1995): 39-61
冒頭、フンボルトの『コスモス』第2巻、A部第2章から引用しています。ほぼ、アルパースの第4章に近いことが述べられています。アルパースの第4章は、フンボルトの着想を大きく展開したものだ、と見ることができます。
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