ひとりで5時45分、室温12.4度。2月の最終日。私は、お昼に歯医者さん、4時に出張校正、6時に医科歯科の運営会議です。ちいさいちびは定期試験の最終日、おおきいちびも英語の試験があると言っていました。
子どもたちがでかけてから、昼食までのあいだ、かなりばたばたといろんな連絡事項を処理しました。忙しいときは忙しくなります。
歯医者さんは、11時45分から。10分前に着きました。12時前から椅子に呼ばれました。たぶん今回は30分ほど。ゴムを付け替え、前回外したところに新しい金属を詰めてくれました。帰宅して12時35分。歩く時間を含めると1時間かかっています。次の出張校正まですこし休めるのが助かります。
[要町から御茶ノ水へ]
3時に家をでて、要町に3時45分に着きました。出張校正には、学会の事務局長もお見えになりました。約1時間。
事務局長は歩きで池袋に、私は次があるので電車に乗りました。池袋で丸の内線に乗り換えて御茶ノ水。思ったより早く着きました。丸の内線は東京医科歯科大学の真下に出口があります。時間があったので、医科歯科内のスターバックスで持ち歩いている本を少しですが読み進めました。
5時50分に会議室に入りました。いつもお世話になっている事務の方とエレベーターでいっしょになりました。今日は代理として見えています。はじめてで迷ったそうです。
医科歯科の会議はいつもてきぱきとしています。30分すこしで終了しました。事務の方は飲み会だそうです。私は電車に乗ってしばらくしてから、傘を忘れてきたことに気づきました。出かける時には降っており、現地到着時には上がっていて、会議の途中雨の意識がなくなるという、一番忘れてしまうパターンでした。
ひとりで6時15分、室温10.8度。
昨日はかなり寒さを感じました。今朝は雨戸を開けると、春らしい日射しが入ってきます。すぐに気温は上がらないかもしれませんが、でも、もうすぐ暖かくなる兆しがあります。予報を見ると、今日の最高気温が13度、明日の最高気温が18度です。(3月に入って最初の日が8度です。)ちいさいちびは明日が定期考査の最終日。木、金、月という日程でした。間に土日を挟むのは微妙なところです。勉強時間があるのがよいような、2日間はともかく試験勉強しなければいけないという追加のストレスを受けるような。
おおきいちびは1週間後から期末考査。[下北沢]
お昼ご飯のあと、おおきいちびを下北沢に連れていってやりました。下北沢に行くのは、10数年ぶりかもしれません。院生時代下北沢の駅から20分の場所に住んでいました。昔よく食べていた味噌パンのパン屋さんでパンを買いました。おおきいちびは服を見たかったようです。古着屋さんにも入ってみました。南口からおおきくぐるーっと回って、10軒以上のお店を見ました。2番目ぐらいのお店で、パーカーを買っていました。部活には多くの服が必要です。
下北沢の大規模工事のことは、ニュースで読んで知っていましたが、具体的にどうなっているのかは知りませんでした。1周まわっただけで正確にはつかめませんでしたが、昔あった小田急線の線路がなくなったことだけはわかりました。高架か地下かどちらかしかないと思いますが、確認することはしませんでした。ともかく、昔よく渡っていた踏切がなくなっていて、駅すぐのバラック商店街がなくなっていました。そのあたりはまだ工事中でした。
4時半には家に帰りたいということなので、3時半過ぎに帰途につきました。
ひとりで4時45分、室温10.4度。再び10度を上回りました。息子は土曜日学校。なんで土曜日に学校があるんだよー、と文句を言っています。
午後、子どもたちのパンを買い出しに吉祥寺に。パン屋さん2軒とコーヒー屋さんによって帰ってきました。気温は低いままでした。
[バスケのテレビ放映]
ちびどもが女バス(バスケット部女子)なので、たまにテレビでバスケットを見ます。木・金の怒濤で疲れたので、ふとテレビをつけました。NBA イーストカンファレンスの1位と2位の試合、キャバリアーズ対ラプターズの試合の開始直後でした。ほんとうに面白い試合展開になりました。キャバリアーズが先行し、ラプターズが追い上げるという繰り返しでしたが、第4クォーターの最後の最後にラプターズが逆転し、99-97 とし、勝ちました。ラプターズの7番(ガード)、ラウリーが素晴らしく、日本人でこのレベルの選手は私が生きている間には現れないだろうと確信してしまうほどでした。バスケ選手としては、小柄ですが、それでも183センチ。人がNBA にはまるのもよくわかります。
(ラウリーはこの試合で自己最多得点の43点をあげました。)
その後しばらくしてから、JXエネオスとダイソーの(日本女子)準決勝もすこし見ました。得点が入らない! 中学生や高校生の試合によくあるように、打っても打ってもなかなかゴールが決まらないそういう展開になりました。いろんなバスケがあるというまとめでよいのでしょうか。
ひとりで4時55分、室温9.9度。室温レベルでも10度を下回っています。昨日の入試はさむーいと感じました。今日はいくぶんましになるのでしょうか。
→駅前のパン屋さんでおやつを仕入れてから、9時4分武蔵境発の西武線。朝から、ばたばたいろんな事務連絡をしてます。研究室でも何件かメールをしました。9時半の時点で一度打ち切り、一服してから、1階の事務へ。書類を1点提出してから、2階に上がり、本日の業務。10時開始。
お昼休みには、ヒアリングが入っています。会場に届いたお弁当をもって、さらに研究室から書類を1点もって、ヒアリングの行われる会議室に。書類を出してすぐにひありんぐ。ヒアリングが終わって2件打ち合わせ。研究室に戻り、急いでお弁当を食べて、再び業務へ。
たぶん、量に対して割り当てられた人数が少ないのでしょう、すぐに5時には終了しないということがみえました。
本日夕刻に用件がある方は、明日来ることにして、5時すぎに店じまいをされています。我々のチーム(4人)は、明日は来られないという方がおり、その方の都合にあわせることになりました。つまり、他チームの動向には関係なく、終わるまでやる。
結局8時15分までかかりました。急いで研究室を片づけて、8時28分多磨駅発の電車に乗ることができました。
合間の時間に十数件のメールをだし、10時間近く業務を行う、忙しい一日となりました。連絡すべき案件は終了していませんが、疲れたので、明日に回して、息子といっしょに休むことにします。
ひとりで5時25分、室温9.7度。→新聞をとるために玄関を開けると、お隣さんの車の上にうっすらと雪が積もっていました。予報通りだったわけです。
おおきいちびによると、昨夜、駅の向こう側の郵便局の近くで大火事があったそうです。なるほど、夜、消防車の音がうるさかったわけです。小学生もおおきいちびも5時半に起きてきました。小学生は社会科見学。おおきいちびは友達とディズニー。大学は、前期日程の入学試験です。
8時6分武蔵境発の西武線。同僚のY先生といっしょになりました。同じ世代の方です。親の介護やお墓の話をしていました。Y先生はお母さんの介護で大変苦労されたということでした。
9時過ぎに集合。157分の試験。
午後もすぐに仕事。試験終了は3時。4時前に解放されました。
すぐに仕事の打ち合わせ。マンゴーをお土産に頂きました。
ついで、これも別件の仕事の打ち合わせ。7時4分多磨駅発の電車。明日も続きの業務。
ひとりで5時45分、室温12.4度。→室温レベルではそれほど下がっていませんが、今日は日が射さず、冷たい風が吹いて、寒い。冬が舞い戻ってきています。おおきいちびは試験休み。学校が入試の準備に入るので学生は休みになります。大学も同じです。明日前期日程の入学試験。
妻が、眼鏡を踏んでしまったというので、お昼に吉祥寺へ。1時間でできました。やっと駅の掲示の文字が読めるようになったと言っています。つまり、これまでは見えなかったわけです。
春休みになったら、息子も眼鏡屋に連れていきます。天気予報を見ると、夜に雪マーク。夜遅くなってから東京でも雪が舞うようです。冷えるわけです。
ひとりで5時25分、室温11.1度。会議の日。
→三鷹駅構内のミニワンでパンを買ってから、武蔵境発11時半の西武線。Terre vivante でカレーパンを買って研究室へ。Hさんはお土産をもってすぐに来てくれました。駅前の蕎麦屋さんで昼食。2時過ぎに帰られました。
会議は2時半から。予想通り、1時間もかからず終了しました。その足で図書館へ。『季刊 iichiko』を捜しだし、田中さんの文書をコピーしました。
田中一郎「近代光学の中の「光」」『季刊 iichiko』No. 24(1992), pp.92-99.
谷川多佳子さんは、「視覚・自然の幾何学化・精神:ケプラー、デカルト、ライプニッツと近代の表象」で、ケプラーの光学から次の言葉を引用しただけということがわかりました。
「視覚そのものは可視物の図像が網膜の白い窪んだ面上に形成されることによって生じる。そして外界において右にあるものは網膜の左に、左にあるものは右に、上にあるものは下に、下にあるものは上に描かれる。」Kepler, Ad Vitellionem Paralipmena, 1604, V.2 (Gesammelte Welke, vo.2, p..153).
研究室に戻り、一休み。次の会議は4時半から。お二人は海外出張中。ともかく、難しい案件を扱います。終了して7時前。そのまま駅に直行し、7時4分多磨駅発の電車に乗ることができました。
帰宅すると、次の本が届いていました。
Frédérique Aït-Touati, Fictions of the Cosmos: Science and Literature in the Seventeenth Century, Translated by Susan Emanuel, Chicago: University of Chicago Press, 2011
ケプラー(第1章)からはじめ、ゴドウィン、ウィルキンズ、シラノ(第2章)、フォントネル(第3章)、ホイヘンス(第4章)、フック(第5章)、そしてマーガレット・キャベンディッシュ(第6章)で終わりを迎えます。
シェーファーがこの本の一番の貢献者として謝辞に挙げられています。ちょっと意外でした。ちいさいちびのコートも見つかったそうです。よかった、よかった。
ひとりで5時35分、室温10.3度。燃えるゴミを出すために外にでました。風が冷たい。真冬の寒さではありませんが、まだまだ寒い。おおきいちびは朝練。私は夕刻に歯医者。
小学生がでかけたあとすぐ、私もでかけました。8時30分武蔵境発の西武線。
研究室で『エピステーメー』を捜しました。きちんと数えたわけではありませんが、6〜7冊は持っていました。しかし、当該の号は見当たりません。ここで捜すより、図書館に行った方が早い。途中、研究所に寄ってスキャンしてから、図書館へ。9時開館で、9時1分ぐらいに着きました。すぐに地下2層に行って、『エピステーメー』の置いてある場所を探しました。
『エピステーメー』は一世を風靡した雑誌です。棚に並んでいるのを見て感じたのは、少ないということです。印象は強かったのですが、長く継続はしていません。ああ、こんなにすぐに終わりを迎えたんだというのが今回創刊号から最終号まで並んでいるのを見た正直な感想です。
必要なのは、『エピステーメー』1978年9+10月号。
アルハーゼンの「目の構造」とケプラーの「視覚論」のセットでした。
アルハーゼン「目の構造」(矢島祐利訳)『エピステーメー』1978年9+10月号, pp.54-70
ケプラー「視覚論」(田中一郎訳)『エピステーメー』1978年9+10月号, pp.71-87
図書館で、他に、サビーヌ・メルシオール=ボネ『鏡の文化史』(竹中のぞみ訳、法政大学出版局、2003)を借り出しました。最初に鏡の技術史があります。私にその部分が入り用です。
本日の用件は以上です。すぐに帰途。9時52分多磨駅発の電車に乗り、コピーをとったケプラーを電車のなかと乗換の待ち時間で読みました。田中一郎さんの「光と視覚および望遠鏡−ケプラー光学の展開」『ケプラーと世界の調和』(渡辺正雄編、共立出版、1991)はこれとセットだとわかりました。
p.79 「実際、第二章で暗箱(clausa camera)について証明したのと同じことが起こっているのである。」
私にはこの箇所が重要です。田中さんは、カメラ・オブスクラを「暗箱」と訳されています。なお、訳出されているのは、ケプラー『ウィテリオへの補足―光学の天文学的部分』第五章「視覚論」の一部です。
目の構造(解剖図)としてケプラーは、フェリックス・プラターの『人体の構造と眼について』(1583年、1603年)の図を明示的に利用しています。また、species は「像」、pictura は「図像」と訳されています。
田中さんは、「光と視覚および望遠鏡−ケプラー光学の展開」の結論部分で次のように述べます。
「ケプラーの光学研究は同時代の人びとのほとんどに理解されなかったし、すぐに忘れられてしまった。『ウィテリオへの補足』での視覚理論は当時の人びとには難解すぎたからである。理解できた人びとにとっても解決しなければならない多くの問題が残されていた。『屈折光学』で発表されたケプラー式望遠鏡のほうも、それが見せる倒立像のためになかなか普及しなかった。」(p.197)
「半世紀ほどのちになって彼の考えが次第に広まり、科学の世界を支配することになった。しかし、そのときにあすでにいわば常識とも言える知識になっていたため、その考えを誰が思いついたかに触れられることは稀であった。そのため今日でも近代光学の基礎を築いたのがケプラーであると言われることは少ない。」(pp.197-8)
私は個人的に、その半世紀の間に何が起きたのか、ケプラー理論の受容史を知りたいと思います。→自分でその50年間を埋める作業をしてみます。
谷川多佳子さんは、「視覚・自然の幾何学化・精神:ケプラー、デカルト、ライプニッツと近代の表象」の注(5)で次のように記します。
「『屈折光学』(1637)刊行の翌年デカルトはケプラーについて手紙でこう述べている。「 (かれは)光学において私の第一の師でしたし. . それまでにこの分野で最も多くのことを知る者すべての師であったと思います」(A. T. II,86)」(p.54)
谷川多佳子「視覚・自然の幾何学化・精神:ケプラー、デカルト、ライプニッツと近代の表象」『筑波哲学』9(1999): 48-54
ちなみに谷川さんは、iichiko 24(1992) に掲載された田中一郎さんの「近代光学のなかの「光」」を使われています。いいちこは、一部持っていますが、きちんと棚には並べていないので、私の部屋で捜すのは至難の業です。→季刊iichiko は比較的多くの図書館に入っています。ケプラーの『ウィテリオへの補足―光学の天文学的部分』は1604年、ケプラーの『屈折光学』は1610年です。デカルトの『屈折光学』は1637年ですから、二人の屈折光学の間の期間は、27年です。デカルトの『屈折光学』がケプラーの『屈折光学』を下敷きにしているのはあきらかですから、田中さんの記述はケプラーの理論の忘却を大げさに書きすぎていると言えます。→私が2014年10月14日前後で紹介した新しい論文、デュプレ、シャピロ、パンタンの論文は、相当程度、上記の空白を埋めてくれています。
お昼過ぎに次の本が届きました。
遠藤真二『光の歴史―物理学の闇と天才たち』東京図書、1977
古い本です。光学史の通史を期待しましたが、光に関する物理学理論の歴史でした。近代は、ガリレオとデカルトから叙述しています。つまり、ケプラーは、ほぼ触れられていません。ペルスペクティファ(perspectiva)の系譜には全く触れていません。いわゆる古い物理学史です。そういう記述の一例として意味を持ちます。夕刻次の本が届きました。
『ホッブズ:リヴァイアサンの哲学者』 岩波新書、2016
この本をポケットにつめて歯医者さんに。少し早めにつきました。本を読もうとすると、吉本さん、どうぞの声。椅子に座り、1時間20分の工事。左下のゴムを入れ替え、右上の奥から2番目の工事をしてくれました。麻酔をうってから。痛みはなかったのですが、1時間20分歯医者の椅子に座って施療を受けると、よれよれです。粘着性のものは食べないで下さいと言われたので、帰宅して夕食の餃子をいつもの数倍の時間をかけて食べました。麻酔が切れたあと、ずきずき痛むようだったら、連絡を下さいと言われています。ずきずきとした痛みはありませんが、軽い痛みはあります。治療に伴うもののようです。お風呂に入り、そのままノックダウン。
ひとりで5時50分、室温12.8度。疲れがまだ残っています。→新聞をとるため、玄関を開けました。空は雲に覆われていますが、昨日の朝降り始め、ずっと降っていた雨は上がったようです。金曜日に着手した光学/視覚論史の見直しですが、日本語の文献はきちんとまとめておく必要があると思うようになりました。
ネットを散策していると、田中一郎さんに次の論文があることに気づきました。
田中一郎「光と視覚および望遠鏡−ケプラー光学の展開」『ケプラーと世界の調和』(渡辺正雄編、共立出版、1991), pp.181-198.
数分時間をかけて部屋のなかから探し出し、すぐに読みました。一般読者向けに書かれていますが、ケプラーの光学の位置付けがよくわかるように記述されています。
他の3点は、次です。
田中一郎「ケプラー光学の展開と近代視覚理論の成立」『講座 科学史1』(伊東俊太郎・村上陽一郎編、培風館、1989), pp.212-233
田中一郎「ガリレオの望遠鏡と近代光学をめぐって」『自立する科学史学』(高橋憲一他編著、北樹出版、1990), pp.46-63
田中一郎「ニュートン光学の成立」『科学の名著6 ニュートン』(朝日出版、1981), xiii-xxxix
ということで、合計4点。まとまった形で存在すると、違った意味を持つことができると思います。[ホッブズ新訳]
ここんところ、ホッブズの新訳が続いて出版されています。気づいたものをまとめておきます。
京都大学学術出版会からは、近代社会思想コレクションとして、『市民論』、『人間論』、『物体論』の3点が刊行されています。
ホッブズ『市民論』本田裕志訳、京都大学学術出版会、2008
ホッブズ『人間論』本田裕志訳、京都大学学術出版会、2012
ホッブズ『物体論』本田裕志訳、京都大学学術出版会、2015そして、畏るべき大冊、『哲学原論』も出版されています。1700頁で2万円!
ホッブズ『哲学原論 ; 自然法および国家法の原理』伊藤宏之, 渡部秀和訳、柏書房 、2012ホッブズ『ビヒモス』山田園子訳、岩波文庫、2014
リヴァイアサンにも新訳が出ています。
ホッブズ『リヴァイアサン』角田安正訳、光文社古典新訳文庫、2014
水田洋訳の岩波文庫は、4分冊で1982年に出版されています。1992年に改訳版。ホッブズ『リヴァイアサン 1』水田洋訳、岩波文庫、1992;ホッブズ『リヴァイアサン 2』水田洋訳、岩波文庫、1992
私は学生時代『世界の名著23 ホッブズ』(中央公論新社、1971)で読んでいます。
トマス・ホッブズ『ホッブズの弁明 異端』水田洋編訳・解説、未來社、2011
研究書もかなりの数出版されています。岸文和「制度としての遠近法―『浄瑠璃姫物語』の画像を手がかりにして―」『日本文学』第44巻第10号(1995): 1-12
をダウンロードして読みました。非常にわかりやすいよいまとめだと思います。日本における遠近法の導入に関心のある方は、是非一度読んでみて下さい。出発点として安心できる記述が得られます。
夜半に目覚めて、すこし仕事。昨日のお昼が暖かかったので、部屋のなかはまだその余韻を残しています。息子が起きて6時25分、室温13.5度。やっと休みです。
息子はダンス教室、おおきいちびは午前中から部活。
息子のダンス教室は、10時半から1時間。送っていってやりました。到着する頃、雨が降り始めました。私はジャンパーのポケットに傘を入れていました。息子は手に持っていました。行きはささず、帰りにはさして帰ってきました。→11時20分再び迎えに行きました。雨はしっかりと降っています。追加で練習していたようで、11時40分過ぎに出てきました。何かで読んだのでしょう、息子は帰り道、八丈島で新鮮な海の幸をふんだんに食べたいと言っています。我が息子は、まぐろ大好き男なので、いつか三崎につれていってやろうと思っています。調べるとだいたい2時間ぐらいで着きます。おやつの時間のあと、吉祥寺にパンを買いに行きました。ミニクロワサンともちもちしたパンをけっこう大量に買ってきました。
ひとりで5時55分、室温10.3度。この起床時間はまだまだ疲れが残っている印です。朝のルーティンが終わってから、昨日届いた新しい手帖に、4月4日のオリエンテーションをまず書き入れました。以前と違い、4月は春休みなく、すぐに始まります。入学式が4月3日の日曜日。授業は、4月6日の水曜日開始です。
午後に会議と、大学主催のシンポジウム。
→8時54分武蔵境発の西武線。久しぶりに駅の外にでて、昼食のパンを買ってから乗車。さすがに同僚の顔はほとんど見かけませんでした。
捜し物が増えて2点になりました。朝方私の部屋で捜しても見つからず。研究室に忘れた可能性があります。大学に着いて、(図書館に寄る予定を変更し)まず研究室。机の上に置いていました。
準備をしてから図書館へ。3点、コピーを取りました。2点は仕事関係ですぐに公開するわけにはいきません。公開できるのは、次です。[ヴァスコ・ロンキ「光学と視覚」]
ヴァスコ・ロンキ「光学と視覚」(高橋憲一訳)『西洋思想大事典』(平凡社、1990)、pp.109-121
研究室に帰って早速読みました。さすが、ロンキ、とても素晴らしい項目執筆です。これまで光学史/視覚理論史をいろいろ勉強してきて、はっきりと焦点を結ばなかったポイントを非常に明確に描ききっています。リンドバーグの仕事ももちろん重要ですが、ロンキもとても素晴らしい。蒙をひらかれたと感じます。
私の調べ得た範囲では、これがロンキの唯一の邦訳かもしれません。
「紀元前5,4世紀において、視覚の問題が哲学的思索の中心に位置していた。」「この種の思考が当時の「光学」を構成していた。「光学」(optics)という語は明らかにギリシャ語起源であり、本来は「視覚の学」を意味していた。」(p.109)
(→ということであれば、哲学=認識の学にとっても、「光学」(optics)=「視覚の学」は基本の位置を占めると評価してよいように思われます。哲学史のどまんなかに「光学=視覚学史」を位置づける試みがあってもよい。)
そこでは、2つの概念が軸となった。「視線」と「写し」。「視線の理論は数学者によって支持され、1000以上も哲学的討論を支配した。」(p.109)→ユークリッドの『光学』『反射光学』ならびにプトレマイオスの『光学』も視線の理論を使った。
「写し」(simulacra)
「プラトン哲学の影響は計り知れないほど遠大であった。プラトンの権威が認められると、彼の考えは科学の世界において実験的活動を実際上麻痺させてしまった。特に視覚は危険な感覚として非難された。恐るべき判決がその上に宣されたのである。――「学問(科学)は視覚のみによっては達成されえない」(Non potest fieri scientia per visum solum)」(p.110)
「西欧において、ギリシャ語起源の「オプティクス」はラテン語起源の「パースペクティヴ」に取って代わられたが、内容上の変化は何もない。」13世紀にペルスペクティファ(perspectiva)の学を主に養い育てたのは、グロステスト、ジョン・ペッカム、ロジャー・ベイコン、ボナヴェントゥラ、トマス・アクイナスであった。(p.112)
「遠大な帰結をもたらすことになる一つの新しい発展が、1280年と1285年の間のある時期に起こった。」(p.112)老眼鏡が発明され、その形状(平豆)からレンズと名づけられた。
「ガラスのレンズは科学の分野では認められず、真面目に取り上げる学者はひとりもいなかった。」(p.113)
「眼鏡製作者たちはほとんど無学であり、それについて何ひとつ書き残さなかった。」(p.113)「今日なら数々の国際的な賞で報われていたはずの近視矯正のような発見は、栄誉を受けることも称えられることもないままなのである。」(p.113)
「科学からのレンズの追放はまる3世紀続いた。レンズの歴史、そして特にその状況の逆転の歴史は、科学史における最も重要で最も興味深い1章をなしている。」転換点に立つのはデラ・ポルタ、ケプラー、ガリレオであった。(p.113)
「事実、中世光学は、今日でも妥当する新しい光学にただちに取って代わられた。この新光学の誕生は1604年に起こったと言ってよい。ヨハネス・ケプラーの著作『ウィテリオへの補遺』の出版をみた年である。」(p.113)
(→事典の記述にすべてを期待することはできないので、書かれていなくても仕方がないのですが、いつからペルスペクティファ(perspectiva)にかえてもとの「オプティクス」が復活したのかは、調べてみる必要があります。私のフィールドである17世紀ではすでに「オプティクス」が普通で、ペルスペクティファ(perspectiva)は遠近法という意味に代わっているように思われます。)
p.115 ガリレオの望遠鏡の倍率は30倍程度。それ以前のものは、3倍程度であった。
ロンキ自身のイタリア語の著作の英訳としては、V. Ronchi, Nature of Light , London and Cambridge, Mass, 1970; V. Ronchi, Optics, the Science of Vision, New York, 1957; V. Ronchi, New Optics, Florence, 1971. 『光学:視覚の学』の訳者ローゼンの論文、E. Rosen, "The Invention of Eyeglasses," Journal of History of Medicine and Allied Sciences, 11(1956): 13-46, 183-218
訳者の高橋憲一さんが関連する邦訳も拾ってくれています。ケプラーの『パラリポメナ』には『視覚論』と題された邦訳(抄訳)があります。『エピステーメー』1978年9+10月号。(pp.71-87) これは持っていたように思います。今度研究室に行ったとき、確かめます。訳者は田中一郎さん。また成書として、遠藤真二『光の歴史』東京図書、1977も挙げておられます。別の話ですが、『西洋思想大事典』には私も翻訳をしています。「光学と視覚」のすぐ前の項目、ファン・メルセン「原子論:古代から17世紀まで」pp.70-75、ロバート・カーゴン「原子論:17世紀」pp.76-85。それに、ハロルド・ジョンソン「物質概念の変遷」 『西洋思想大事典』(平凡社、1990)第4巻、pp.88-98.
2段組の大きな事典で、この量ですから、けっこう翻訳したという記憶が残っています。
こうなると、丸善出版社の『スクリブナー思想史大事典』のいろんな項目も見てみる必要があります。『西洋思想大事典』には「遠近法」はないので、そうした項目を捜してみる必要があります。
→『スクリブナー思想史大事典』の実物は手近(私は所有せず、外大の図書館にも)にないのですが、いまどきですから、丸善のサイトに項目一覧はありました。今回、「光学と視覚」の項目はありません。代わりにというわけではないのでしょうが、「遠近法」はありました。「視覚文化」もありました。つまり、少なくとも「視覚論/光学」の分野では両方を使う必要があるということになります。
「原子論」もありません。
午後の会議は1時から。1時55分まで。そこから、アゴラ・グローバルで開かれるシンポジウム「世界展開力」(正確には、成果展開力強化事業(中南米)キックオフ・シンポジウム〜東外大・農工大・電通大が連携する文理協同型人材養成プログラム〜)に出席しました。十分な人数が集まっていました。ラテンアメリカの大学の学長や副学長、担当部門長の挨拶は、スペイン語とポルトガル語でなされました。通訳がつきました。ひとまとまり話して、通訳という形式です。大部分は同時にパワポの資料が投影されていました。明らかに通訳の方は、内容を理解していないな、ということがすぐにわかる箇所がありました。私の隣の方はスペイン語の専門家でした。さすがに小さな声でコメントされていました。
4時前に中間休憩。前半2時間、後半2時間といった構成です。残している仕事もあるので、前半だけでお暇することにしました。あれだけ海外からお客さんを呼んで、いったい全部でいくらかかったのか、知りたくなりました。
4時40分多磨駅発の電車で帰ってきました。
ひとりで5時30分、室温9.6度。また室温が10度を下回りました。本日はちびどもに朝練がなく、誰も起こす必要がありません。私が寝ている間に、大学のアドレスに10件のメールがありました。私が寝ている間に、大学のみなさんは仕事をされていたわけです。返信が必要なものはすぐに出しました。
→実際は、息子を6時55分に起こしました。ちびどもは7時すぎに自分たちで起きてきました。ちいさいちびにも本格的な花粉症がきました。目がはれて真っ赤です。昨日、授業中に目があまりにしばしばするので、叫んだのだそうです。今回の怒濤によって、東大駒場のシラバス入力がまだできていません。再掲になりますが、2月21日(日曜日)が締切。授業科目名ですが、学部は「科学技術史特論V」、合併で行う大学院の授業は、「相関基礎科学特殊講義 II 」です。これはいつも何だっけ、となります。→やっつけ仕事の感は否めませんが、2015年度のものに基づき、2016年度のシラバスも入力しました。同じことは繰り返しません。ただし、同じテーマでの継続とします。→余裕があれば、2月21日までもうすこし編集(加筆修正)します。
昨日のような会議があると、なかなか研究に復するのが難しい。年度末までに(できれば今月末ぐらいまでに)仕上げたい原稿もあります。こちらは何とか頑張ります。
<ラスト・バレンタイン>
おおきいちびが部活用のバレンタインを作ると言います。ついでに、アメフト部にもおすそ分けすることになったそうです。我が家の小学生にもわけてあげるという条件で手伝ってあげることにしました。おおきいちびが小学校のときからつくっているものをつくります。私は、チョコの湯煎の部分を手伝いました。チョコは温度管理が重要です。中心から5度以上は離れないようにしました。(そこまでしなくても、我々のレベルでは大丈夫なのですが。)
およそ1時間でほぼできました。分封はまかせて、私の手伝いは終了。今年最後のバレンタインでした。
ひとりで5時15分、室温10.0度。昨日に続き、会議の日。午前中からあり、午後には、3回司会をする必要があります。
8時42分武蔵境発の西武線。机の上にある書類を読み始めました。すぐ必要というわけではないのですが、月が変わると必要になります。ともかく目を通しておくことにしました。午前の会議は、10時半から。11時半ぐらいに終わったあと、廊下で数名の方と立ち話。ここには書けない話を聞きました。
午後の会議は12時40分から。こちらは私が司会します。もめる案件はなく、スムーズに進行しました。30分休憩することができました。
その次の会議は、2時20分から。30分ほど大学当局からの説明があり、その後、ふたつに院にわかれて教授会。
いきなりもめる案件。その会議では、人事案件に関して私が司会を行います。前回は荒れました。発言者が十分な準備をして臨んでくれたおかげで、スムーズとは言えませんでしたが、ゴールには達しました。司会はたいしてしゃべっていませんが、わおー、すごい疲労感。6時を過ぎてから短くもう一度司会(報告)をしてから、6時半頃に終了しました。司会席の3人のところに数名の方が来て、雑談兼感想会兼打ち合わせ。6時52分玉駅発の電車に乗ることができました
私が帰宅して、2分後にちいさいちびが帰ってきました。おしゃべりをしていたそうです。
疲れにより、すぐに寝てしまいました。
ひとりで5時15分、室温10.8度。昨日、外の温度は、朝の9時前後で少しあがったほかは、昼の間も順調に下降していました。今日は晴れるので、冬の気温だが、日が昇るにつれて気温が上昇する普通の冬の日になるそうです。出かけるまでに、9通のメールを出し、ある仕事を完了しました。うち半分は英語。雑誌の表紙に使う写真の使用許可を版権をもっている組織の担当者にお願いしました。すぐに快諾の返事を頂き、必要な手続きを進めていました。帰宅してから高解像度の写真を印刷所に送付し、この件は、最後まで終えることができました。
午前中から会議。午後にも会議。
18時15分に歯医者。昨日工事した箇所の消毒です。忘れないようにしないと!
9時6分武蔵境発の西武線。研究室で片づけもの。捜しているものは出てきませんでした。片づけは少しですが、進みました。11時から会議。12時20分まで。
お昼休みを挟み、午後1時からまた会議。こちらは、2時半に終わる必要があります。(長の方々には、次の会議があります。)歯医者さんもあるので、3時4分多磨駅発の電車で帰ってきました。三鷹駅でパンを仕入れ、総武線。6時15分からの歯医者さんですが、処置(消毒だけ)は1分ですみました。
ひとりで4時50分、室温18.5度。土日の暖かさがまだ部屋には残っています。天気予報では今日からまた冬だそうです。外の気温はどうなっているのでしょうか。→ゴミをだすため外にでました。寒くはなっていますが、真冬が戻ったとまでは言えません。徐々に寒気団がもどってくるのでしょう、おそらく。→最新の予報をみました。本日は、最低気温も最高気温も12度。このまま朝の気温のまま推移し、日が暮れてから、気温が下がっていくようです。予報では1度まで。ちびどもはいつもとおり、朝練。昨日の<バレンタインの嵐>のあとが、玄関に置いています。チョコとクッキーがそれぞれ袋に入っています。
[歯の工事]
正午過ぎに歯医者。本格的は工事がはじまります。あらかじめかかる金額を教えてもらっています。→お金を降ろしてから歯医者さんに行きます。12時前に家をでて、駅前に行き、再びもどって歯医者さん。12時10分に着きました。12時15分からの予約。ほどなく名前を呼ばれました。
かなり大がかりな処置。今回の治療ではあまり麻酔を使っていませんが、今回はきちんと麻酔をするところから始まりました。どういう処置をするのかは教えてもらっています。ですが、もちろん、途中経過を見ることはできないので、ただひたすら手術台の上に寝そべっています。1時間15分ぐらいかかりました。
最後にレントゲン写真を撮って見せてくれたので、どういう状況になっているのかはわかりました。1ヶ月ほど、歯列矯正と同様の装置を左下の奥歯に装着しています。抜いたところに食べ物がはいって気持ち悪くなっても触るなと言われました。歯磨きもそこは避けなさいということでした。覚悟はしていましたが、しばらく、不便な日々が続きます。薬を買うように指示を受けた(処方箋を渡された)ので、すぐに駅前の薬屋さんへ。痛み止めを化膿止めの2種類。化膿止めは3日分必ず飲んで下さい、痛み止めは痛くなったら飲んで下さい、ということでした。帰宅して、時間が経つと、麻酔が切れてきます。いわゆる虫歯の痛さ、歯の痛みではありませんが、手術に伴う痛みが歯の上下(痛みがあるのはほんとうは歯茎の奥かもしれません)にあります。ほんとうに痛ければ、痛み止めを飲むつもりでしたが、このぐらいの痛みは、何とか我慢できます。化膿止めだけを飲みました。痛み止めは飲まなくてすみそうです。
夕食はとても苦労しました。いつもの倍ぐらいの時間をかけて、いつもの8割ぐらいの量を食べました。
ひとりで5時10分、室温18.1度。夜寝る前の室温を保っています。いきなり、暖気が日本列島を覆ったようです。夜半から雨。今は弱くなっています。しかし、風はときおり強く吹きます。列島の南を通過している発達した低気圧がもたらした春の嵐でしょう。ちいさいちびは、いきなり日曜日練がはいって、昨夜、ずいぶん悩んでいました。ともあれ、7時に起こします。
おおきいちびは練習試合。3試合ぐらいすることになるのでしょうか。
暖かくなったら手を付けようとおもっていた、この部屋の片づけにちびどもがでかけたあと着手しました。掃除機と懐中電灯が必須です。
見つかっていない本もあり、行方不明の本の捜索も兼ねます。そもそも本は重いので、重労働ということもありますが、かなり疲れます。一度部屋の外に出します。廊下や台所の片隅に私の荷物が積み上がっていきます。
捜し物は見つからず、片づけも完了しないうちに、<バレンタインの嵐>に巻き込まれて中断。<バレンタインの嵐>
ちいさいちびはおねえちゃんと相談して、ともかく、練習に行くことにしたようです。お弁当をもって7時半過ぎにでかけました。おおきいちびは試合スタートが朝遅めということで、ゆっくりめででかけました。妻はその1時間以上あと、応援にでかけました。
ちいさいちびは、3時までの練習ですが、1時前に帰ってきました。気温は24度まで上がったようです。汗まみれ。シャワーを浴びて、しばらく休んでから、宿題に取りかかるということです。同時に、バレンタインのチョコ作り。けっこう手間のかかるトリュフを作るということです。我が家で一番器用なのでちいさいちびなので、作ることはできるでしょうが、手伝ってやる必要があります
まず、材料の確認。チョコは10個入りの箱を買ってきていましたが、足りません。それになにより、生クリーム。そして、出来上がったものを入れる袋。袋は、おおきいちびが適当に見つくろって買ってきていますが、足りるかどうかわかりません。30人分作るといっています。
ともあれ、メモをポケットにつめて、100円ショップとY’sマートに出発。100円ショップで袋を探しましたが、ちょうどよいものはなし。もしかしたら使えるかもしれないという袋3つとマシュマロだけ買いました。
それから、向かいにあるY’sマートに。Y’sマートは食料品は全般に悪くないのですが、バレンタイングッズには力を入れていません。そもそも生クリームはきらしていました。代替品と息子のおやつのきびだんごだけ買って帰りました。
一度帰って荷物をおき、我が家からは逆方向にあるセイユウにも行ってみることにしました。チョコ一箱、生クリーム、もしかしたら使えるかもしれないお菓子をカゴに詰めました。こちらもよい袋は見つからず。ないものはない、家にあるものを使ってもらうしかありません。そのぐらいで帰宅しました。
トリュフのレシピは簡単です。ただし、生クリームを混ぜ、丸くしたガナッシュを普通のチョコでコーティングするという手間が必要です。一個一個手で丸くし、コーティングします。ガナッシュはすぐに溶けるので、手はできるだけ冷たくしておけ、とあります。途中で、できたものを冷蔵庫で冷やす工程が入るので、ずっとではありませんが、トリュフつくりのお手伝い。丸めるのは楽しいようです。何だか楽しいと言って完成品を作っていました。そのあとは、クロシロの二球を紙袋でつつんで、それからラッピングの袋に入れていました。コーティング用のチョコは余ったので、例年のマシュマロチョコを作ってやりました。ちいさいちびの作業がほぼ終わった頃、おおきいちびが再びクッキー作り。こちらは六〇人分ということで、何度もオーブンを動かす必要があります。
間にお風呂と夕食をはさみました。
小学生は、おおきいちびが着手した頃、宿題に着手。食卓の上がなかなかすごいことになっていました。
私の手伝いは、マシュマロチョコでおわり。以上が今年の<バレンタインの嵐>でした。昔はこれに配布の手伝いがありました。一軒一軒配り歩いたことがあります。買い物の途中、配っていた女の子何人かにすれ違いました。
ひとりで4時55分、室温13.3度。昨日の天気予報では、週末だけ、春がやってくるそうです。最低気温8度、最高気温19度の予報です。ちいさいちびは土曜日学校。それに学校開放だそうです。つまり、自由に参観してよい。土曜日にしては珍しく、給食があり、その後普通に部活があります。→6時15分過ぎに部活から帰ってきました。この時間だと夕食を食べて、塾に行くことができます。
おおきいちびは、11時から練習。夕方帰ってきて、ふれあいにいきました。明日は練習試合。→時間に余裕がないということで、夜になって、バレンタインのクッキーつくりを始めました。高校生ですから、もう手伝いません。自分でしっかりやるように伝えて、私は2階へ。→喉がかわいて、一度下に降りると、まずまずの出来映えでした。片づけはママに手伝ってもらうことになりそうですが、自分でなんとかできるようになったのは進歩です。
ちなみに、クラスには15日、バスケ部には18日に渡すと言っています。それぞれ数十人分を用意し、数十人分をもらうことになります。<バレンタインの嵐>とでも呼べる現象です。
ひとりで5時45分、室温10.0度。おおきいちびは朝練。おおきいちびは、夜の間に、パウンドケーキをつくっていました。バレンタインデーの予行練習だそうです。でも、ほんとうは自分で食べたいと言っていました。ちいさいちびもバレンタインデーは必修だそうです。つまり、女子の友チョコの輪から抜けるわけにはいかない。嗚呼!
子どもたちがでかけてから、昨日の夜の様子をうかがいました。おおきいちびは、パウンドケーキを60人分作ると言ったそうです。3回オーブンを動かせば、60人分になるそうです。昨夜は切り分ける練習もしたそうです。私は朝のうちに歯医者。10時15分からの予約でした。開始は少し遅れました。今日は、歯科技師さん。きちんと歯磨きできていない箇所がはっきりとわかりました。終わって12時20分。買い物は後回しにして、先に帰宅し、昼食。
午後の授業がない小学生は、2時前ぐらいに帰ってきました。その前に妻が中学校におでかけ。妻が帰ってきてから、セイユウに買い出し。バレンタインの材料です。湿度を含んで暖かくなりそうな雰囲気でした。
ひとりで5時5分、室温9.9度。→今週は不規則でした。8時15分、妻が燃えるゴミを出し忘れていることに気付きました。だいたい8時ぐらいに収集してくれます。確認すると、もう行った後でした。木曜日という感覚が欠けていました。おおきいちびは練習試合。朝練と同じ時刻に起こします。→6時20分頃自分で起きてきました。国分寺高校に行きます。
ちいさいちびは、お昼から自校で練習試合。→おおきいちびは、お昼過ぎに一度帰ってきて、体育館があいたから、シュート練習に行くと言って、自宅滞在2分でまた出かけていきました。これは、家が近いからできることです。遠くの方は、もちろん、試合会場から自校の体育館に直行しています。
→ちいさいちびは、6時前に帰ってきて、夕食を食べてから、塾にでかけました。練習試合で相手校の選手とぶつかり、コンタクトが片方はずれたので、あとは、試合からはずしてもらったそうです。帰り着いて、コンタクトを入れ直しても、目に違和感が残ると言っていました。強く衝突したのでしょう。今年(2015年度)は確定申告をしなければ、と思っていて、でもやはり面倒だなという気持ちが強かったのですが、ウェブにちょうど私の場合に当てはまるわかりやすい説明がありました。YouTube で見事にしめしてくれています。仕組みを理解する必要はなく、ただ言われるままに入力すれば、できあがります。
以前、税金関係の用語がわからず、苦労したときに、仕組みはだいたい理解できたと思っています。そうした理解も要らず、源泉徴収票の数字を、指定された蘭に入力していけばよい。
国税の確定申告のコーナーを使い、1時間程度でできあがりました。来週に郵送します。
ひとりで4時35分、室温11.1度。おおきいちびは朝練。私は、お昼過ぎに歯医者。→歯の治療はいつも怖いのですが、今日は、大きな作業は行わず、穏やかにすみました。1時間近くはかかりましたが、終了後、前にサンクスがあった店舗に新しく入ったお店(ほぼコンビニですが、食品を中心としています)でちょっとした買い物をしてから家に帰りました。
東大駒場のシラバス入力がまだです。メールを調べなおして、2月21日(日曜日)が締切だと確認しました。やることは決まっています。2015年度の継続です。もちろん、文章は一部変更し、進行は刷新します。
ひとりで5時、室温10.3度。室温で昨日より1度上がりました。おおきいちびのみ朝練。6時半に起こします。今日は朝から夜まで一日中会議。へたすると休憩時間をいれて、10時間に及びます。
8時半、武蔵境発の成分戦。最初の会議は、9時半から。私が司会を担当します。この会議はもめる会議ではなく、10分もかからず終了しました。次の会議は、10時から。こちらも時間に余裕をもって終了しました。
お昼休みは、1時間半以上ありました。短い時間ですが、昨日届いた原稿のチェック作業を継続しました。午後の会議は、かなり変則的な動きになります。5つ連続します。ひとつだけは、短くすみました。研究室には戻らず、図書館で調べもの。調べものは、ほぼ解決しました。
15時半からは、長期戦となりました。最後の言語文化学部の教授会が終了したのは、9時40分。間に休憩は挟みましたが、本日の会議は、12時間越えとなりました。同僚の先生といっしょに、10時4分多磨駅発の電車で帰ってきました。
帰り着くと、1階には妻だけがいました。
ひとりで4時50分、室温9.3度。昨日やってきた寒気団のせいで、また室温が10度を下回りました。
おおきいちびの16歳の誕生日。ケーキは昨日の夕刻に仕入れています。
ちびどもは朝練。ちいさいちびは6時20分、おおきいちびは六時半に起こします。私は午後に会議。今週は、いつもの火・水ではなく、月・火の会議日程。お昼過ぎにはじまり、夜までかかります。
8時54分武蔵境発の西武線。大学について、捜し物。すぐに見つかりました。→見つけたのは、洋書の購入読書カード。シェイピンとシェーファーの本は、発売の1年後、1986年7月28日にヘファーズより購入したことがわかりました。読んだのがいつかを知るためには、本そのものを探し出す必要があります。
正午過ぎに学生。書類に署名押印しました。
3限の時間帯は、補講。終わってすぐに会議。3つ連続です。その会議の終了後、科長とふたりで打ち合わせ。6時40分多磨駅発の電車で帰途に。
帰り着くと、子どもたちだけがいました。夕食をとり、お風呂に入って、休んでいると、妻が帰ってきました。
ちいさいちびがお風呂から出てくるのを待って、おおきいちびのバースデーケーキ。なかなかかわいく作ってくれていました。しばらく撮影会。私も4切れぐらい食べました。
おおきいちびによれば、学校の机の上には、お菓子が山盛りになっていたそうです。自分の足元にまるで頭陀袋に入れるかのように置いていました。すこし遅くなりましたが、ブックマークに次のものを追加しました。
IsisCB Explore
どのぐらい使えるのか、使いやすいかの評価は、おって行います。→ちょっとだけ使ってみました。カバーしている範囲は不明ですが、使えるのはまちがいなく使えます。
ひとりで3時40分、室温11.0度。軽くお腹が痛くなって目覚めました。早すぎるので、また寝ることになると思いますが、しばらく仕事をします。おおきいちびは杉並区大会。ちいさいちびはその見学。別の会場になります。会場が違いので、妻も見に行きます。
妻はお昼にいちど帰ってきて、昼食後一休みしたあとまた見に行きました。息子と二人午後に散髪に行く予定でしたが、今日は寒いという妻の言葉で延期することにしました。夕刻、セイユウに買い出しに行き、帰り、明日の誕生日ケーキを受け取りました。午後6時という約束でしたが、まさに午後6時に完成するようにつくってくれていました。
ひとりで4時40分、室温12.8度。昨日3月の気温になっていたので、室温も昨日の暖かさを残しています。日曜日からまた寒くなるそうです。→寒気団が東京にやってくるのは、すこし遅くなったようです。月曜日が、ー1度〜5度、の予報になっています。私は、朝から大学で業務。3時間、座り続けます。おおきいちびは実力試験。ちいさいちびは午後に塾。妻は夕方、バスケ部のママたちの懇親会。
8時半、武蔵境発の西武線。駅前のコンビニで研究科長といっしょになりました。私の仕事は10時から。それまでは、研究室で、今の作業をしていました。
10時から1時まで連続して、面接者。7件。審査評を書き終えて、1時過ぎ。研究室を片づけてから、図書館へ。今図書館は天井の耐震工事中。まったく行けない場所もありますが、地下は使えます。3点コピーを取りました。
1時52分多磨駅発の電車に乗ることができました。土曜日なので、いずれにせよ、三鷹駅で乗り換える必要があります。昨日と同じく、ちびどものためにパンを買いました。ちびどもはもちもちしたパンが好きです。妻がでかけたあと、おおきいちびは部活から帰ってきました。7時に予約をとって、美容院に髪を切りに行きました。8時頃、ちいさいちびが塾から帰ってきました。驚く量の夕食を食べました。
妻の帰宅は見ずに、息子といっしょに就寝。たいした仕事はしていませんが、神経が疲れたようです。
ひとりで4時5分、室温10.4度。おおきいちびは朝練。ちいさいちびは夕方スキー合宿から帰ってきます。
必要があって大学に行くことにしました。ちょうどその直前にプリンターが動かなくなりました。プリンターもパソコンも再起動してみましたが、パソコン側からプリンターを認識しない。以前一度ケーブルエラーだったことがあるので、研究室にケーブルがあればそれももってくることとしました。
9時半武蔵境発の西武線。献本をお願いした本がメールボックスに届いていました。お世話になった勁草書房の担当者の方、ありがとうございます。
研究室に入ると、まず、ケーブル。とてもわかりやすい場所に置いていました。ついで本。わずかに時間がかかりましたが、こちらも見つかりました。
今日はこれだけで帰途。4階の研究所前のスペースの工事の様子を確認しました。私は学長室懇談会ですこしだけ聞いて、工事があることは知っていました。正確な用途は聞いたのですが、記憶はできませんでした。
10時4分多磨駅発の電車に乗ることができました。夕方にはちいさいちびが帰ってくることですし、三鷹駅でパンを買って帰りました。
いつもは電車で本を読むことはしないのですが、今日は、今の仕事の本をずっと読んでいました。帰宅して、昼食をとり、他の片づけをし、郵便局に行って来た後、ケーブルの交換をしました。やはりうんともすんともいいません。プリンターはテーブルの下に置いていて、何のボタンなのかは見えないのですが、ともかく、ボタンをいろいろ押してから、新しくダウンロードしたファイルをプリントしようとすると、パソコン上でプリントボタンをおした途端、プリンターが起動する音がします。何が問題だったのかは不明ですが、なおっていました。プリンターが故障するとなかなか面倒なので、なおってほっとしました。ただし、もしかしたら、そろそろ寿命が近づいているのかもしれません。今の仕事が完了するまでは待って欲しい。
5時15分頃、おおきな荷物をかかえてちいさいちびが帰ってきました。顔は疲れています。でも、すごく楽しかったそうです。帰りたくないぐらいだったそうです。
夕ご飯を食べて、撮り溜めたテレビを見ている途中、寝そうになっていました。妻が無理矢理お風呂場に連れていき、お風呂のなかで寝そうになったいたのを起こし、ふとんにもぐらせたようです。おおきいちびは学校から直接塾に行く予定でしたが、6時過ぎに一度帰ってきて、簡単に夕食を食べてから、新宿に行ったようです。
ひとりで4時30分、室温10.0度。立春。土曜日には、また一日業務があります。本日と明日は、大学の業務以外でたまっているものをこなすために家にこもります。
ひとりで5時50分、室温10.3度。節分。午後会議があります。採点が残っているので、午前中からでかけます。おおきいちびは朝練。6時半に起こしました。
8時半武蔵境発の西武線。大学について、すぐに、採点に着手しました。午前中にすべてを終わらせることができました。やれやれ。ウェブ上での記入、記入したものが間違いないかの確認(現物との照合)も完了できました。
お弁当を食べて、12時40分から会議。もろもろ、一応の目処はたてることができたと思います。
他の仕事もあるので、今日は、3時4分多磨駅発の電車で帰宅しました。途中、三鷹駅で乗り換えて、駅構内の紀伊国屋でちょっとしたおやつを買いました。相当おなかが空いていたので、帰ってすぐにカレーパンを食べました。
帰宅して、すぐに、残っていた英文シラバスの入力もすませました。2015年度の成績の入力、2016年度のシラバスの入力の作業は、これで完了です。
節分です。妻は夕食に恵方巻きを用意していました。
ひとりで4時40分、室温10.6度。ちいさいちびがスキー合宿に出発します。6時10分に起こします。朝練よりすこし早いだけなので、とくに辛くはないでしょう。金曜日に帰ってきます。
私は会議の日。午前中から、夜まであります。
8時半武蔵境発の西武線。採点業務から。まずは、4枚のコメントシートと最終レポートをひとりひとりまとめる作業。約半時間。
10時10分から学長室。11時過ぎには終了。
昼食後、今度は採点。上級生からつけます。外国語学部の学生に関しては、なんとか終わらせることができました。全体の約5分の1。
12時40分から会議。2時半頃終了。締切前後のどたばたを聞きました。研究室に戻り、新学部の学生の採点に着手。すこしだけ進めてから、総合文化研究所へ。雑誌の最後の追い込みに、全員が集まっていました。所長と雑談。4時から再び会議。5時45分ぐらいに終了。ついで、プロメテウスホールの食堂で学長主催に新年会。5時半開始なので、もうはじまっていました。会費を払い、さっそく食べ物に向かいました。立食パーティ形式です。しばらく食べることに集中しました。それから、同僚の先生方とバカ話。残っているシラバスの入力のために、7時半前でお暇し、研究室で1科目の入力をすませました。英語は明日に持ち越し。
7時40分多磨駅発の電車で帰ってきました。宴はまだ続いていたのでしょうか、乗り合わせた同僚の先生はいませんでした。
家に帰り着くと、次の本が届いていました。
小川眞里子『病原菌と国家:ヴィクトリア時代の衛生・科学・政治』名古屋大学出版会、2016.
小川眞里子さんの博士論文(『19世紀イギリスの衛生学の展開と病原菌』東京大学総合文化研究科、2012)の単行本化です。小川眞里子さん、ご高配、ありがとうございました。
目次は次です。
序 章
第I部 テムズ河------ロンドンの衛生改善
第1章 変容するロンドンの暮らし------病原菌説前夜の混沌
第2章 屎尿の利用と衛生施策
第II部 漂う微生物の本性を追う
第3章 コンタギオンからジャームへ
第4章 病原菌理論の時代
第5章 ロンドン国際医学大会
第III部 スエズ運河------帝国時代の医学
第6章 コレラとスエズ運河
第7章 病原菌と帝国
終 章
ひとりで5時50分、室温10.8度。天気予報では、一日中曇っていて、最低気温3度、最高気温5度。はい、もう、2月です。
ちびどもは朝練。ちいさいちびが家をでたのを確かめたあと、睡魔が襲ってきたので、もう一度寝ました。目覚めて9時半。睡眠不足の自覚はあったのですが、ここまで寝るとは思っていませんでした。日は射していませんが、思ったよりは外が明るい。
ちびどもといっしょぐらいで大学にでて、集中講義の成績評価に着手しようかと思っていたのですが、明日からに延期することにしました。やるべき仕事は堆積しています。順番に手をつけていくしかありません。午後に歯医者。
歯医者の前後で、次の本を読了しました。
ウィリアム・バイナム『医学の歴史』鈴木晃仁・鈴木実佳訳、丸善(サイエンス・パレット)、2015
これは、素晴らしい。今日本語で読める最良の医学史入門書です。医学史のプロの方が読んでも必ず得られるものがある、そういう本に仕上がっています。
原題が、The History of Medicine: A Very Short Introductionなので、取りあげていないポイントは数多くありますが、医学/医療の実践される場所を、臨床、書物、病院、共同体、実験室の5つにわけ、それぞれに1章を当てて、見通しが得られるように構成されています。著者はこれを医学の類型学と呼びますが、この類型学は入門書の記述として成功しています。
長くその分野に関わっていて、問題をずっと考え続けている学者のみが書くことができる、センテンスが数多く見受けられます。
「公衆衛生の公的制度を整える」の最初のパラグラフ。
「ヨハネによる福音書にある通り、「はじめに言葉ありき」である。言葉といっても現代では数字であることが多い。私たちは時計に追われて暮らし、株式市場の動きや利率に翻弄され、統計をとり始めて以来、最も気温の高い月や最も雨の多い月を体験する。現代社会には数字が染み渡り、私たちは数字に支配されている。」(p.112)
3パラグラフのあと、「先進国では、19世紀の半ばに、数字の力が認められるようになった。」(p.113)
そして、第6章「現代世界の医学」」では、第2パラグラフの冒頭が「現代医学の原動力はコストである。」
核心をつく、見事なまとめだと思います。医科歯科の先生方も、医療制度を扱うときには、統計数字とコストを問題にされていました。国家が関与(支配・統治・規制)する社会制度としての医療を取りあげるとき、基本的観点は、統計数字とコストにならざるを得ません。そのことを短文で剔りだしています。
私が授業で医学史を話しているということもありますが、繰り返し読むことになる、基本書となっています。学生諸君にも一般読者にも安心して勧められる医学史入門書です。
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