• 2011.1.31(月)  
     調べたいことがあり、大学に着いてまず図書館に向かいました。次の本を借りました。
     堀場清子『原爆 表現と検閲 : 日本人はどう対応したか』朝日新聞社(朝日選書), 1995
     調べたいことは、原爆投下に関するGHQの検閲です。関連する記述を整理してみます。
     まず日本側。当初は報道管制があり、ごく短くしか伝えられなかった。
     終戦後は、逆に、日本側の立場を有利にする材料として、頻繁に原爆報道がなされた。
     このことに占領軍は苛立っていたと思われる。 
     9月14日、同盟通信社に業務一切の即時停止の命令が下った。
     フーバー大佐は9月15日関係者を集めて「これまでの新聞、通信、放送の報道ぶりは司令部にとって絶対に不満足である。日本は敗戦国だ。それが対等国であるかのような考えを与えることは間違っている。」

     9月18日、東京の朝日新聞に2日間の発行停止が通告された。
     朝日の社史には、発行停止の理由を5件あげているということです。つまり、原因ははっきりしないが、可能性としては、原爆報道があったということです。
     また9月15日掲載の一問一答「新党結成の構想」(上)で「原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう」と語った記事もその5件のひとつ。

     新聞に対する事前検閲は、まず東京の5紙に対して、10月8日から実施された。
     (55頁)「新聞の事前検閲はさらに、10月23日から大阪の7紙と「二つの通信社」へ、ついで東京・大阪の各紙へ、1946年5月には札幌へと拡がった。それ以外の年には、新聞・通信社への事前検閲は及ばず、地方紙は創刊号のみ事前検閲され、次号から事後検閲に移行するのが一般的だった。」

     同盟通信社は、10月31日、自主的に解散し、11月1日、共同通信社と時事通信社に分かれて再出発した。

  • 2011.2.1(火)  
     夕刻、次の本が届きました。
    繁沢 敦子
    『原爆と検閲:アメリカ人記者たちが見た広島・長崎』
    中公新書、2010
     はじめに、「本書は、連合国側ジャーナリストたちが被爆地に立ち、何を見て、何を記述しようとしたのかを検証する。さらに、被爆の惨状がなぜ伝わらなかったのか、報道と米国メディアの役割を検証することを目的としている。また、原爆報道をめぐる関係者の対応を検証し、それがどのように現在までの米国における原爆観の形成に影響を与えてきたかの解明を試みる。」とあります。
  • 2011.2.2(水)  
    モニカ・ブラウ
    『検閲 1945‐1949:禁じられた原爆報道』
    立花誠逸訳、時事通信社、1988
     原著は、Monica Braw, The Atomic Bomb Suppressed: American Censorship in Japan 1945-1949 Malmö, Sweden: Liber International, 1986 です。著者のモリカさんは、スウェーデンのジャーナリストです。この著作で、スウェーデンのルント大学より歴史学の博士号を授与されています。
     「原子爆弾の検閲の問題は、40年前の日本にのみかかわる問題ではない。それは、私たち一人びとりの将来にもかかわっている。」と「日本の読者のために」の最後のセンテンスで書かれています。そうです。その通りです。原子爆弾の検閲の問題は、日本だけの問題ではまったくありません。
     →私にはとても面白い本です。会議の時にも持っていって、子どもたちが寝静まってから読み終えました。これは収穫でした。

     午後、次の本が届きました。

     清水榮
     『放射能研究の初期の歴史』
     丸善出版、2004
     著者の清水榮(しみず・さかえ)氏について、奥付の経歴を引用します。
     大正4年東京に生まれる
     昭和15年 京都帝国大学理学部卒業
     昭和18年 同大学院終了
     昭和21年 同大学理学部助教授
     昭和27年 同大学化学研究所教授
     昭和46年 同大学放射性同位元素総合センター長
     昭和54年 同大学退官
     平成15年12月13日 死去
     後書きには遺族の方の言葉が記されています。「本書は、亡き父清水榮が人生の最後の約10年間にわたり熱心に執筆に励んだ原稿をまとめたものです。元々は堀場製作所の社内誌に掲載するための書いたものでしたが、その後、一冊の本として出版したと思い立ち、内容をさらに追加したと聞いております。
     ・・・
     2003年12月に父が亡くなった後、私どもは、出版まであと一息というところまで進んでいたこの原稿を自費出版することで、生前に賜った皆様からのご厚情に対する感謝の印にさせていただきたいと考えました。」

     清水氏は、本文の最後で、「1934年:我が国における最初の加速器による原子核の人工変換 (Cockcroft-Waltonの実験)」と題し、荒勝文策氏の仕事に触れています。
     「台北帝国大学(当時)において荒勝文策教授は、Cockcroft-Walton の加速器を建設し、1934年7月25日に水素イオンビームによる Li 原子核の人工変換を観測した。
     ・・・
     1936年荒勝教授が京都帝国大学に転任した時、この装置は京都帝国大学理学部の物理学教室に移転され、1940年に新しいCockcroft-Walton(800kV)が建設されるまで使われていた。

     荒勝文策は1890年3月25日、現在の姫路市的形町に生れ、御影師範学校を経て東京高等師範学校卒業、1915年京都帝国大学理科大学に入学し、1918年卒業と同時に講師になり、1921年に助教授になり、1926年、台北総督府高等農林学校教授、1928年、台北帝国大学教授(物理学講座担当)になった。  
     その時期に2年余欧州に留学することが出来、Berlin 大学に暫くいた後、Zürich のETH で Paul Scherrer 教授(1890-1969)の許で Li 原子内の自由電子の分布に関する実験を行った。その後Cambridge のCavendish Laboratory にも数ヶ月滞在し、当時のヨーロッパの物理学の中心に身をおいて多くの経験を積み、1931年に帰国した。  
     1936年に京都帝国大学教授(物理学)に転任し、1945年8月のいわゆる“新型爆弾”投下の報に接するや、いち早く調査隊を組織して広島の現地に赴き、原子爆弾の真相を認知した。」(216頁)

  • 2011.2.3(木)  
    笹本征男
     『米軍占領下の原爆調査:原爆加害国になった日本』
     新幹社、1995

     笹本征男(ささもと・ゆくお)さんは、民間の占領史研究家です。リビングサイエンスアーカイブズに、市民科学研究室代表上田昌文さんによるインタビュー「笹本征男さん 占領下の原爆調査が意味するもの(上)(下)」がアップされています。論旨のわかりやすい提示となっています。

     『米軍占領下の原爆調査』の奥付には、関連する論文が載っています。

     笹本征男「原爆初動調査における日本軍の役割」『歴史と社会』9号(1989)

     笹本征男「国策と科学者の責任―占領下の原爆調査から」『科学・社会・人間』40号(1992.4.1)

     笹本征男「コンプトン調査」『通史 日本の科学技術』第1巻、1995

     笹本征男「原爆調査」『通史 日本の科学技術』第1巻

     笹本征男「軍の解体とマンパワーの平和転換」『通史 日本の科学技術』第1巻

     笹本征男「原爆報道とプレスコード」『通史 日本の科学技術』第1巻

     笹本征男「ビキニ事件と放射能調査」『通史 日本の科学技術』第2巻

     個人的には、こうした論考やインタビューを集めたもう一冊の書物が必要だと感じます。

     中心的論点を整理しておきます。

     1.主語の明示  
      原爆投下の主語は、米国軍であり、投下に責任を負うのはアメリカ政府です。日本ではあまりにこの主語があいまいにされてきている。
      →(私のコメント)この点に関しては、100%同意します。

     2.原爆被害報道の不均衡  
     占領下、日本ではほとんど原爆被害報道がなされなかった。それなのに、アメリカでは日本の情報に基づいて、報道がなされている。「そうか、これは原爆被害を利用したんだ」とひらめき、「原爆被害者を日本政府・日本軍はアメリカに売った」という言葉が頭に浮かんだとあります。
     →「売った」という言葉が適切かどうかはわかりませんが、「利用した」のは間違いないと思います。しかも、笹本氏のことばを借りれば、日本政府とアメリカ政府の共同共謀正犯として利用した」と言えるでしょう。

     3.原爆投下は戦争中のことだ
     日本側の初動調査も、戦争中の営みとして理解されなければならない。仁科のかかわった調査も荒勝の調査も、日本軍の調査、「米占領軍が来るまでの戦時調査、純粋な戦時における軍事調査、兵器効果調査」と理解されなければならない。
     →これもその通りです。そして、占領軍が日本に上陸しても、日本政府は続いており、戦時中日本の検閲を担っていた情報局が報道機関に対する干渉を停止させられたのはやっと10月1日ですし、解散は12月31日である。(モリカ、p.35. 事実、アメリカの特派員が天皇の会見に成功したとき、内務省は発行停止命令を出している。9月24日には、報道に対するすべての統制を解くように命令されており、9月27日にも再度命令を受けていたにもかかわらず、9月29日、内務省は命令を発した。)

  • 2011.2.5(土)  
     繁沢敦子『原爆と検閲:アメリカ人記者たちが見た広島・長崎』 (中公新書、2010)
     アメリカ人の記者達もかなりの数、終戦の年の秋に、広島と長崎を取材しています。いくらか記事にはなっていますが、アメリカの新聞の紙面を埋めた量はあまりにすくない。米国側にも検閲があった(とくに原子力開発に関しては当初から検閲があり、この点でアメリカのプレスは軍に協力している。)のは事実ですが、事態はそれ以上です。
     繁沢さんの結論は、「被爆地を最初に訪れたとき、自分たちが目にした光景が、そうした価値観[日米戦争は民主主義のための戦いである]をまったく裏切るものであったことは、米国の報道陣が一番よく理解したはずだ。だが、それは大っぴらに語れる話ではなかったのである。」
     事実の提示は、とても貴重です。ただし、解釈(意見)は表面的な気がします。

     まず、重要な事実として、日本政府が原爆投下直後の8月10日スイス政府を通してアメリカ政府に「米機の新型爆彈による攻撃に対する抗議文」というのを出しているということです。

    「米國政府は今次世界の戰乱勃発以來再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戰争方法の使用は文明社會の與論により不法とせられをれりとし、相手國側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨聲明したるが、米國が今回使用したる本件爆彈は、その性能の無差別かつ惨虐性において從來かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり
    米國は國際法および人道の根本原則を無視して、すでに廣範圍にわたり帝國の諸都市に対して無差別爆撃を実施し來り多數の老幼婦女子を殺傷し神社佛閣學校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、而していまや新奇にして、かつ從來のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆彈を使用せるは人類文化に対する新たなる罪惡なり
    帝國政府はこゝに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米國政府を糾彈すると共に即時かゝる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」(繁澤、2010,156頁)
     この抗議の内容はそれ自体まったく正しい。
     ただし、日本政府はこれを取引の材料とした。結果としてアメリカ政府はその取引に応じた。

  • 2011.2.7(月)  
      [清水榮氏経歴]
        京都大学化学研究所のニュースレター『黄檗 OBKU ICR Newsletter』第20号(2004)に「清水榮名誉教授 ご逝去」という記事があります。重要な情報を含むのでそのまま引用します。
     「先生の研究活動は戦時中に始まり、主にサイクロトロンの建設に没頭された。このサイクロトロンは終戦後米軍により廃棄されたが、戦後、再建に尽力され昭和30年重水素イオン・ビームの取出しに成功した。終戦間際の爆撃による広島の惨状を調査するため、第一次京都帝国大学調査隊の一員として現地に赴き、これが原子爆弾によるものであることを明らかにした。さらに第二次調査隊を編成し再度現地に赴き、採取した数百点に及ぶ試料を通して原子爆弾の威力を科学的に立証した。昭和29年米国によるビキニ環礁の核爆発実験に関しては、水素爆弾が使用されていることを第五福竜丸から採取した“死の灰”の分析により実証した。分析結果を化学研究所英文報告特集号としていち早く公表し、驚愕すべき爆発の本性を全世界に知らせた。」(p.18)

     ILL(図書館相互貸借)により届いていた次の本を図書館で受け取りました。

    Sakae Shimizu (ed),
    Hiroshima Atomic Bomb, August 1945 and Super-Hydrogen Bomb Test at Bkini Atoll in the mid-Pacific, March 1954 : Investigation by Scientists of Kyoto University
    Kyoto: Kyoto Forum, 1995

      Table of Contents

    Foreward by Sakae Shimizu (Editor).................4
    Bunsaku Arakatsu: Nuclear Investigation on Field Survey in Hiroshima (in Japanese)...............6
    English Translation of Report by B. Arakatsu...............15
    Shigeteru Sugiyama: Medical Investigation in Hiroshima City (in Japanese). .............26
    English Translation of Report by S. Sugiyama...............28
    Sakae Shimizu: Historical Sketch of the Scietific Field Survey in Hiroshima Several Days after the Atomic Bombing..............33
    Sakae Shimizu(Ed.): The Radioactive Dust from the Nuclear Detonation....... .......51
    Sakae Shimizu: Gamma-Ray Spectrum of the Radioactive Dust Produced by the Super-Hydrogen Bomb Test Explosion on March 1, 1954 ..............199
    Personal Record of Sakae Shimizu (Editor).................................207

     pp.51-197 を占めるのは、Bulletin of the Institute for Chemical Research Kyoto University, Supplementary Issue
    THE RADIOACTIVE DUST FROM THE NUCLEAR DETONATION

    The Institute for Chemical Research in Collabotation with The Radioisotope Research Committee Kyoto University Kyoto, Japan. Nov. 1954
    (Bull. Inst. Chem. Res., Kyoto Univ.)
     すなわち、これが上の「化学研究所英文報告特集号」です。14本の報告が掲載されています。日本語とあるのは、朝日新聞の記事です。
     荒勝文策「原子爆弾報告記(1)廣島市における原子核學的調査」『朝日新聞(大阪)』1945年9月14日
     荒勝文策「原子爆弾報告記(2)廣島市における原子核學的調査」『朝日新聞(大阪)』1945年9月15日
     荒勝文策「原子爆弾報告記(3)廣島市における原子核學的調査」『朝日新聞(大阪)』1945年9月16日
     荒勝文策「原子爆弾報告記(4)廣島市における原子核學的調査」『朝日新聞(大阪)』1945年9月17日
     杉山繁輝「原子爆弾報告記(5)廣島市における医學的調査」『朝日新聞(大阪)』1945年9月18日

     他のものに関しても、初出情報を拾っておきます。
      Sakae Shimizu, "Historical Sketch of the Scietific Field Survey in Hiroshima Several Days after the Atomic Bombing," Bull. Inst. Chem. Res., Kyoto Univ. Vol.60, No. 2, 1982.

    Sakae Shimizu, "Gamma-Ray Spectrum of the Radioactive Dust Produced by the Super-Hydrogen Bomb Test Explosion on March 1, 1954," Nuclear Instruments and Method in Physics Research A255(1987) 177-182

     ウェブで調べていると、『理研ニュース』(2006年度)に「歴史秘話 サイクロトロント原爆研究 中根良平 元理研副理事長に聞く」という2回の連載がありました。(2006年3月号並びに4月号)。
     序には次のようにあります。
     「第二次世界大戦中、政府の命令により理研では仁科博士を中心に原爆研究が行われ、その実態についてはこれまでも多くの調査報告があるが、直接携わった研究者自身の証言はあまり紹介されてこなかった。今回、仁科研究室の出身で、原爆研究に直接携わった中根良平元理研副理事長(現・仁科記念財団常務理事)が語る、これまで触れられることのなかった秘話を、本号と4月号の2回に分けて紹介する。」
     こうした事柄に関する当事者の証言は慎重に評価する必要がありますが、貴重な当事者証言であることに違いはありません。

  • 2011.2.8(火)  
     お昼前に次の本が届きました。
     ボーエン・C・ディーンズ
     『占領軍の科学技術基礎づくり:占領下日本 1945-1952』
     笹本征男訳、河出書房新社、2003

     まず図書館に寄って次の本を借りました。
     広島大学総合科学部編、市川浩・山崎正勝責任編集『“戦争と科学”の諸相:原爆と科学者をめぐる2つのシンポジウムの記録』丸善株式会社、2006
     会議のあいまに、山崎正勝さんの部分{第4章「日本の戦時核開発と広島の衝撃」)は目を通しました。

  • 2011.2.9(水)  
      [山崎正勝氏原爆研究]
     原爆の開発史に関して、日本でもっともよく調べられているのは、山崎正勝氏です。科研費での研究が目立ちます。便利なのでリストアップしておきます。

    山崎 正勝
    研究期間 : 1984年度〜1986年度
    「第二次世界大戦下における各国の原爆開発過程の実証的な比較研究」

    山崎 正勝
    研究期間 : 1988年度〜1989年度
    「第二次世界大戦期における原爆開発製造過程の実証的研究」

    山崎 正勝
    研究期間 : 1994年度〜1994年度
    「第2次世界大戦期における科学技術動員に関する実証的研究」

    山崎 正勝
    研究期間 : 1996年度〜1996年度
    「第2次世界大戦期における科学技術動員に関する実証的研究」

    山崎 正勝
    研究期間 : 1998年度〜1999年度
    「第二次世界大戦期の旧日本海軍における科学研究開発」

    山崎 正勝
    研究期間 : 2000年度〜2002年度
    「戦後核関連科学技術政策に関する日米関係の実証的研究」

    山崎 正勝
    研究期間 : 2003年度〜2005年度
    「初期原子力開発の歴史に関する日独露の実証的な比較研究」 +市川浩(広島大学)+梶雅範(東工大)

    市川 浩
    研究期間 : 2005年度〜2005年度
    特定領域研究「20世紀における戦争・冷戦と科学・技術」の展望に関わる企画調査」

    山崎 正勝
    研究期間 : 2008年度〜2010年度
    「戦後初期原子力開発の歴史に関する日韓の実証的な比較研究」

     科研費の成果は、いくつかの論文となっています。網羅はできませんが、めぼしいものを拾います。

    山崎正勝「第二次世界大戦期における原爆の物理学的研究と核兵器工学の成立」『科学史研究』第II期、Vol.25、1987年

    山崎正勝+日野川静枝+兵藤友博+奥山修平「原爆開発の科学技術史」『科学史研究』 28. 1-4 (1989)

    山崎正勝「ロスアラモス研究所における原爆の開発と製造」『東京工業大学人文論叢』 16. 211-221 (1990)

    山崎正勝「GHQ史料から見たサイクロトロン破壊 」『科学史研究』第II期、Vol.33、1995年

    山崎正勝&河村豊「物理懇談会と旧日本海軍における核および強力マグネトロン開発」『科学史研究』Vol.37、pp.161-171、1998年

    山崎正勝&深井佑造「陸軍東京第二造兵廠に対する仁科芳雄の報告記録」『技術文化論叢』 No.2. 45-54 (1999)

    山崎正勝&深井佑造&里見志朗「東京第二陸軍造兵廠に対する仁科芳雄の報告:1943年7月から1944年11月」『技術文化論叢』Vol. 3、2000年

    山崎正勝「理研の「原子爆弾」」『技術文化論叢』 No.3. (2000)

    山崎正勝「つくられた原爆による「人命救助」論」『サジアトーレ』No. 30、44-53頁、2001年

    山崎正勝「理研の「ウラニウム爆弾」構想−第二次世界大戦期の日本の核兵器研究−」『科学史研究』第40巻218号、87-96頁、2001年

    山崎正勝「第二次世界大戦時の日本の原爆開発」『日本物理学会誌』第56巻8月号、584-590、2001年

    山崎正勝「エノラ・ゲイ展示が示す米国のおごり」『被爆者問題研究』第10 巻、32-42頁、2004年

    山崎正勝「ビキニ事件後の原子炉導入論の台頭」『科学史研究』第43巻、230号、83-93頁、2004年

    山崎正勝「日本における『平和のための原子(アトムズ・フォー・ピース)』政策の展開」『科学史研究』第47巻、249号、11−21頁、2009年

     日本の原爆開発史については、こうした成果をもとに、書物にまとめられるべきだと思います。志のある編集者の方、本の形にして下さい。よろしくお願いします。

     原爆開発と科学者(の倫理)の問題については、2010年度後期に田中浩明氏が授業をされています。ウェブにその記録があります。
    田中浩朗の授業サイト
    東京電機大学 工学部 人間科学系列 科学技術史研究室
    科学技術と倫理(2010年度後期)
     文献がきちんとあげられています。そして、何よりも、関連するテレビ番組がきちんとあげられています。テレビ番組をきちんと録画し、授業で使えるように編集してストックしておく、これはほんとうに大変な労力です。田中浩朗氏ならではのことでしょう。

  • 2011.2.10(木)  
     帰宅すると次の3点が届いていました。

     山崎正勝・日野川静枝編著『(増補)原爆はこうして開発された』青木書店、1997
     この書物は、基本的にはマンハッタン計画についての書物です。目次は次の通り。
    第1章 原爆構想のはじまり
    第2章 研究と開発の組織化
    第3章 原料製造法の検討と軍の管理
    第4章 原爆の開発と生産へ
    第5章 原爆の効果と放射能
    第6章 ドイツの原爆開発と投下目標
    第7章 核と科学者たち

      [DVD] 『広島・長崎における原子爆弾の影響』

    [DVD] 『ヒロシマナガサキ』

  • 2011.2.28(月)  
     →ウェブで読めるものをダウンロードして読んでいます。中生勝美氏の論考そのものはないようですが、次の加藤哲郎氏のものは非常に参考になりました。
     加藤哲郎「戦後米国の情報戦と六〇年安保―ウィロビーから岸信介まで」(『年報 日本現代史』第一五号(現代史料出版、二〇一〇年六月刊のウェブ版)
     「日本史という領域が、インターネットによるグローバル・コミュニケーションとデジタル資料公開の時代に入ったにもかかわらず、日本語文書資料による日本国籍取得者の世界に閉じられている」状況に対する批判には、100%賛同します。
     ポイントになるのは、新資料です。2007年1月、アメリカ国立公文書館(NARA)は、アメリカ中央情報局(CIA)、陸軍情報部(MIS)などのもつ「ナチス・日本帝国戦争犯罪記録」の機密解除を行った。量としては、ナチス関係120万頁のなかに日本関係の約10万頁が点在しているということです。加藤哲郎さんの文章を読むと、非常に興味深い資料が公開されています。10万頁ですから、そう簡単には解読・分析はできない。チームをつくって1年かけた分を公表しているということです。

     →早稲田大学20世紀メディア研究所が仕事をしています。ウェブにも重要なファイルを載せてくれています。

     →中生勝美氏による「戦前の情報戦略とアジア研究=大陸政策の情報戦」という講演(平成15年3月19日)記録(概要)があります。その結論が「戦後、GHQは、日本の満蒙資料を根こそぎ接収した。アメリカの内陸アジア工作の動向は秘匿されている。」つまり、アメリカの戦後の内陸アジア政策は、日本の満蒙政策の上にある、という見通しが立てられるということです。アメリカの宇宙政策がドイツのフォン・ブラウンの引き抜きの上に立っているのと同じ事態が東アジア・太平洋においても広範囲に見られるだろうということです。

  • 2011.3.1(火)  
     雨降る夜に次の本が届きました。
    有馬 哲夫『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』 平凡社新書、2009
       →ざっと主要部分を読みました。それでピースが埋まったという感覚の持てる本です。
  • 2011.3.2(水)  
     3時、アマゾンより次の本が届きました。
    有馬 哲夫 
    『原発・正力・CIA:機密文書で読む昭和裏面史』
    新潮新書、2008

     3時5分、ちびどもはふたりともでていきました。

     有馬哲夫『原発・正力・CIA:機密文書で読む昭和裏面史』(新潮新書、2008)があまりに面白いので、一気に読んでしまいました。NHKがドラマにするのではないでしょうか。正力松太郎がCIAの後ろ盾を得たり、駆け引きをしたりしながら、自分の野心を実現したり、あるいは失敗したりする姿が圧倒的に面白い。

     帯には「原潜ノーチラス号、第5福竜丸事件、日本テレビ、保守大合同、讀賣新聞、吉田茂、アイゼンハワー、原子力発電所、ディズニー、CIA・・・・連鎖の中心には正力松太郎がいた。」とあります。

     個人的には、原子力の歴史を見直しておく必要を感じました。
     →授業で話をしてわかることですが、学生諸君は、ロケット開発の歴史が、冷戦下の軍事競争であること、ある時期までは打ち上げられた人工衛星の大方が軍事衛星であることを知りません。そして、人工衛星とミサイル(ICBM)の開発においては、ソ連がアメリカをリードした。(スプートニックショック)。

     同様に、核に関しても、広島と長崎は知っていても、またビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験(1954年)によって第5福竜丸が被爆したことは知っていても、そのことによって日本国民に拡がった反原子力感情(原水爆禁止署名運動では3千万人が署名した)はほとんど知りません。昭和に生まれた人間は、同時代のこととしてそのことを知っていても、同じ年、讀賣新聞が社をあげて(つまり正力松太郎の強い意向で)原子力の平和利用のキャンペーンを始めたという認識は共有されていないと思います。

     科学技術史においても、きちんとした冷戦研究が求められるでしょう。

     →原爆そのものは、よく知られているように、アメリカが戦後のビッグサイエンスのあり方を導いたマンハッタン計画で1945年(昭和20年)に開発し、すぐに広島と長崎に投下しています。
     まず、日本のことだけを見れば、占領下はGHQにより戦争技術に繋がるビッグサイエンス系、すなわち飛行機、宇宙、原子力の研究は禁止されます。禁止が解除されたあと、商業実用炉が運転を開始するのは、1970年です。最近の論調では、相当昔から日本は原子力発電をしていたような感覚を受けるかもしれませんが、まだ40年強の歴史しかありません。
     実用炉そのものを見れば、世界で最初は、旧ソビエト連邦です。1954年。アメリカは、実験炉での発電は1951年ですが、実用炉に関しては1960年と旧ソビエト連邦にかなり遅れます。世界で考えても、実用炉の歴史は、50年強ということになります。ちなみに、スプートニックショックは、1957年。アメリカに、あせりや焦燥感があったのは間違いないでしょう。

     原子爆弾に戻れば、ソ連が原爆実験に成功するのは、1949年。アメリカは翌年、水爆の開発に着手します。また原子力潜水艦の建造に乗り出します。1952年、アメリカはエニウェトク環礁で水爆実験に成功します。1953年にはソ連がやはり水爆実験に成功します。この1953年、アメリカの大統領アイゼンハワーは国連で「アトムズ・フォー・ピース」演説を行います。いわゆる原子力の平和利用です。

     翌1954年、アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験により、マグロ漁船第5福竜丸が被爆し、無線長の久保山氏が半年後に亡くなります。

     翌1955年は、いわゆる55年体制の開始の年です。すなわち、11月15日、保守合同によって「自由民主党」が誕生しています。敗戦後10年、政治的な方向が固まったと言えるでしょう。
     さて、この年12月9日付の CIA 文書は、正力松太郎について次の分析を示しています。1.接触を始めたときの、正力の目的は、第一にマイクロ波通信網の完成、第二に原子力利権の所得であった、2.正力の今の野望は総理の椅子である、3.「彼のメディア帝国は日本で最も中央集権的で、従って最もコントロールしやすく、大衆の心を掻き立てるという点では影響力が強い。」(133頁より重引)。
     CIAは正力を大いに利用した。しかし、中心的目的に関しては手を貸すつもりはなかった。マイクロ波通信網については、もしこうしたものができれば、「すべての自由アジア諸国に影響を与えることのできる途方もないプロパガンダ機関を日本人の手に渡す」ことになり到底認めがたい、原子力エネルギーについては、もし正力の「申し出を受け入れれば、必然的に日本に原子爆弾を所有させる」ことになりこれも到底認めがたい。(137頁。)この時点のアメリカからすれば当然の対応です。

  • 2011.3.3(木)  
     夕刻に次の本が届きました。
    有馬 哲夫
    『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』
    新潮社、2006
  • 2011.3.7(月)  
     ちょうど同じ頃、日本化学会編纂の通史『日本の化学百年史―化学と化学工業の歩み―』(東京化学同人、1978)が出版されています。
     ここに、「原子力開発の20年」という節があります。
     「わが国の原子力開発の出発点をいつとすべきかは議論の多い点であるが、事実上は、1954年(昭和29)4月、国会において突然に提出された2億3500万円の最初の原子力予算が成立したときと考えてよいであろう。」
     「・・・1956年(昭和31)1月に“原子力基本法”が施行された。わが国最初の実質的な原子力研究機関として、日本原子力研究所が1955年(昭和30)年11月に設立され、1956年6月には特殊法人として改組され、本格的な研究開発はこのころよりスタートした。
     わが国最初の研究用原子炉、JRR-1(日本原子力研究所)が臨海に達したのは、翌1957年8月27日である。」(p.1207)
     「バラ色に見えた原子力の将来に、早くもかげりが見え始めたのは1960年(昭和35)ころからであろう。実際、第2回ジュネーブ原子力平和利用国際会議(1958)の前後から、原子力開発は世界的にスローダウンの地代にはいったのである。その原因としては、原子力発電の技術開発に当初の予想よりも困難が多く、早急な実用化が望めないことが明らかになってきたことと、もう一つとして、米ソ間の緊張緩和を背景に、石油など化石エネルギー資源の経済性が著しく優位に立つに至ったことがあげられる。」(p.1208)
     文章中には、「1975年現在」という言葉があります。4頁の短い節ですが、原爆のことには一切触れていません。第5福竜丸の被爆のこともまったくあげられていません。アメリカの占領政策とその変化もまったく言及されていません。歴史記述としては明かに問題があると言えるでしょう。
     学生にその問題を考えさせるのは、よい教育的課題になるとまで言えるでしょう。

     月に2回、新聞に「定年時代」という別冊子がはいってきます。今日のもの(3月上旬号)のトップが「フォトジャーナリスト豊崎博光さん “ビキニの悲劇”撮る」という記事です。4月3日(日曜日)まで、都立第五福竜丸展示館(JR新木場駅徒歩10分、午前9時半〜午後4時)で緊急企画展「イケナイ世界遺産 ビキニ環礁」という展示をやっているということです。春休みに一度行ってこようと思います。

  • 2011.3.9(水)  
      [山崎正勝氏の原子力・原爆研究 『科学史研究』における]
     山崎正勝氏の『科学史研究』に掲載された原子力・原爆関係の論文は読むつもりでした。『科学史研究』は研究室にあるはずなのですが、探し出すのが億劫で、場合によっては駒場の図書館まででかけてコピーを取ろうかと思っていました。
     しかし、『科学史研究』の論文はネット(サイニーのpdf)で得られるという話題を思い出しました。
     早速検索をかけて次のものをダウンロードし、読みました。
    山崎正勝「日本における『平和のための原子(アトムズ・フォー・ピース)』政策の展開」『科学史研究』第47巻、249号、11−21頁、2009年
    山崎正勝「ビキニ事件後の原子炉導入論の台頭」『科学史研究』第43巻、230号、83-93頁、2004年
    山崎正勝「第二次世界大戦時の日本の原爆開発」『日本物理学会誌』第56巻8月号、584-590、2001年
    山崎正勝「理研の「ウラニウム爆弾」構想−第二次世界大戦期の日本の核兵器研究−」『科学史研究』第40巻218号、87-96頁、2001年
     これまでは読むときには全部プリントアウトしていたのですが、そろそろプリントアウトを減らし、画面上で済むものは済むようにしようかと考え、画面上で読みました。ノートパソコンの小さな画面ではいくらか不便ですが、大きな問題とはなりません。
     2009年のものもありますから、山崎さん達の日本の原爆開発&原子力開発研究の到達点がほぼわかりました。有馬哲夫さんの本と比較すると、研究の動向がよく見えると思います。

     夕刻、次の本がアマゾンのマーケットプレイスより届きました。
    豊崎 博光
    『核の影を追って:ビキニからチェルノブイリへ』
    (気球の本) NTT出版、1996

  • 2011.3.11(金)    
     !!後からの追加!! 14時46分、三陸沖で M9.0 の大地震が発生。しばらくしてから東北から東日本の太平洋沿岸が大津波に襲われ、甚大な被害が発生した。
     福島第一原子力発電所は、地震と津波の影響で、稼働していた1号機から3号機までが全電源喪失の事態に陥り、19時3分官房長官が原子力緊急事態誓言を発令。
     翌3月12日、一号機で水素爆発が発生する。3月14日、同じく3号機が爆発をし、大気中に放射性物質が大量に飛散した。!!

     朝一番で次の本が届きました。
     読売新聞社『昭和史の天皇 ゴールド版4 関東軍壊滅す』読売新聞社、1980

     3月1日に届いた末廣昭責任編集『岩波講座 「帝国」日本の学知〈第6巻〉地域研究としてのアジア』(岩波書店、2006)の最後には、編者末廣昭氏の手になる「付録 アジア調査研究関連人物データ」が掲載されています。286名をショートノーティスの形でリストアップする労作です。とくに、市場にはでなかった私家本としての自伝をきちんと収録してくれているのは非常に有用です。
     さて、このリストですが、全部読み通すと気がつくことが多くあります。
     286名のうち、まず、京城帝国大学と台北帝国大学に職を得た方を全部拾ってみます。

     秋葉隆(あきば・たかし 1888-1954)京城帝国大学教授 東北アジアのシャーマニズムの研究者

     岩生誠一(いわお・せいいち 1900-88) 台北帝国大学 東京大学文学部南方研究所教授

     移川子之蔵(うつしかわ・ねのぞう 1884-1947) ハーバード大学で最初の人類学博士号取得者、1928年台北帝国大学教授

     小川尚義(おがわ・なおよし 1869-1947) 30年台北帝国大学創立とともに文政学部言語学教室講師、のちに教授

     小倉進平(おぐら・しんぺい 1882-1944)26年京城帝国大学創立とともに教授 

     金関丈夫(かなぜき・たけお 1897-1983)京大医学部卒、台北帝国大学医学部教授

     小葉田淳(こばた・あつし 1905-2001) 30年台北帝国大学講師、同助教授、35年琉球王国の『歴代宝案』交易記録を発掘。敗戦後、国立台湾大学副教授として留用。帰国後京大教授。

     鈴木栄太郎(すずき・えいたろう 1894-1968)京城帝国大学法文学部教授。農村社会学。46-47年、GHQ/CIE の社会・農村調査に協力。

     鈴木武雄(すずき・たけお 1901-75) 28年京城帝国大学助教授、35年同教授、同大満蒙文化研究会、

     鳥山喜一(とりやま・きいち 1887-1959) 28-45年京城帝国大学教授。東大史学科卒、歴史家・啓蒙家。

     根岸勉治(ねぎし・べんじ 1900-82) 台北帝国大学教授。農学者。

     藤島亥治郎(ふじしま・がいじろう 1899-2002) 京城高等工業教授。東洋建築し研究の第一人者。

     前嶋信次(まえしま・しんじ 1903-83) 台北帝国大学助手、満鉄東亜経済調査局、回教圏研究所、東亜研究所、東京外国大学講師を経て、51-71慶應義塾大学文学部教授。

     松田壽男(まつだ・ひさお 1903-82) 京城帝国大学教授

     馬淵東一(まぶち・とういち 1909-88) 台北帝国大学嘱託・助教授、満鉄東亜経済調査局、50年GHQ/CIE の家族調査に協力。

     丸沢常哉(まるさわ・つねや 1883-1962) 東大応用化学科卒、09年東京工業試験所技師を経て、九州帝大助教授、ドイツ留学帰国後、同大教授。25年旅順工科大学教授、その後大阪大学工学部長、36-40年満鉄中央試験所長、敗戦後は中国に残留し55年帰国。

     森谷克巳(もりたに・かつみ 1904-64) 京城帝国大学教授。経済学者。

     山田三郎(やまだ・さぶろう 1869-1965) 36年京城帝国大学総長。法学者。『回顧録―山田三郎先生米寿祝賀会』(1957,非売品)

     基本をまとめておきます。1924年、京城帝国大学は朝鮮総督府所管の帝国大学として設立されています。(帝国大学としては6番目。)このときにはまず大学予科(修業年限2年)ができています。1926年(大正15年)5月に法文学部と医学部が設置されています。理工学部の設置はずいぶん遅れて1941年。

     台北帝国大学の方は、すこし遅れて、1928年3月16日に設立されています。(帝国大学としては7番目。)学部は、文政学部と理農学部の2学部でスタートしています。日本敗戦時には、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部の5学部となっています。その時点の理学部は、化学科、 動物学科、 植物学科、地質学科、附属植物園からなっていた。化学、生物学、地質学という構成です。物理学や数学がないことが大きな特徴でしょう。

     つまり、理工系ということで言えば、明らかに、台北の方が重視されています。

  • 2011.3.13(日)  
     おちてきたもののなかには、存在を忘れていたものもあります。たとえば、『マルコポーロ』1995年2月号。この雑誌が廃刊に追い込まれた記事が掲載されています。偶然開いたページは、佐野眞一の『巨怪伝』(文芸春秋)。正力松太郎の評伝・ルポルタージュです。「九四年は、讀賣新聞史上、最も輝ける一年だった。創刊百二十周年を迎え、発行部数一千万部達成。巨人軍創立六十週年を長嶋監督のもと、日本一で飾った。」とあります。日本の戦後史における正力の意味に迫る渾身のノンフィクションでしょう。
  • 2011.3.19(土)  
      [大地震発生から1週間が過ぎて]
     1.名称。
     地震の名称ですが、メディアは「東北・関東大地震」としたようです。個人的には、「3.11日本大地震」「M9.0日本大地震」のようは名称の方がよいように思います。

     2.原子炉の事故。
     福島原子力発電所が地震によってどういう被害を受けたのか、きちんとまとめた報道はなされていないように思います。
     ・その場所の震度はいくつだったのか? その震度の揺れによって、原子力発電所の施設は、どういう被害を受け、どういう対応ができたのか?
     ・地震直後の津波は、原子力発電所のどこまで侵入したのか? またその侵入によって原子力発電所の施設・設備がどういう被害を受けたのか?
     ・まとめて、地震と津波によって、原子力発電所の1号機、2号機、3号機、4号機、5号機、6号機その他の施設・設備はどういう状況に置かれたのか? そして全体としての被害の評価は?
     以上がきちんと報道されていないように思います。

     3.現状
     現状を把握するためのデータにはどういうものがあるのか? モニタリング機能は、電源がないなかで、どこまで生きているのか?

     4.終息
     どういう出口戦略をもっていま行動しているのか?
     たとえば、東北電力からの電力線の引き込みがうまくいったとして、その後は、どういう対応になるのか? 期間はどのくらい?
     最悪の事態があった場合、どういう処置が行われるのか? 住民のEvacuation はどの範囲になるのか、どのくらいの期間になるのか?
     以上、最善と最悪のふたつの場合だけあげましたが、その中間に多くの段階があるでしょう。あまり複雑にする必要はないでしょうが、3,4,5通りに分けて、きちんとした出口戦略の見通しが説明されるべきでしょう。

     原子力の初期の歴史(年表形式)。
     1955 2.27 正力松太郎、衆議院議員に初当選  11.15 保守大合同  12.16 原子力基本法成立  

     1956 1.1 正力松太郎、初代原子力委員長に就任。原子力三法実施、原子力委員会、総理府原子局発足  4.6 原子力委員会、茨城県東海村を日本原子力研究所の敷地に選定  5.19 正力松太郎、初代科学技術庁長官就任、科学技術庁発足  12.20 正力松太郎、原子力委員長と科学技術庁長官の椅子を降りる

      1957 7.10 正力、第1次岸信介改造内閣成立に伴い、原子力委員長と科学技術庁長官に返り咲く  IRR-1 が臨海に達する
          (10.4 ソ連、スプートニク1号打ち上げ、アメリカにスプートニクショック

     1958 6.12 第2次岸信介改造内閣成立に伴い、正力は原子力委員長と科学技術庁長官の地位を降りる  7.10 正力、日本テレビ会長に復帰

     1960 東海発電所(イギリス製コルダーホール型原子炉)着工

     1966 5.14 日本原子力発電、GE社と原子炉設備(BWR)購入契約締結  7.25 東海発電所運転開始

     1968 12.17 GNP世界2位に

     1969 6.12 原子力船「むつ」進水

     1970 3.14 日本原子力発電敦賀発電所、営業運転開始  11.28 完成電力美浜1号原発操業開始

     1971 3.26 東京電力福島1号原発操業開始

     以上、商業発電としては福島原発は、日本3番目です。最初期のモデルということになります。具体的に、原子力情報資料室提供の資料によれば、福島第一原子力発電所の1号機はGE、2号機は GE/東芝、3号機は東芝、4号機は日立、5号機は東芝、6号機は GE/東芝です。運転開始は、1号機が1971年3月26日、2号機が1974年12月22日、3号機が1976年3月27日、4号機が1978年10月12日、5号機が1978年4月18日、6号機が1979年10月24日です。炉型はすべて BWR です。

  • 2011.3.22(火)  
     午後、次の本が届きました。

     佐野眞一
     『巨怪伝:正力松太郎と影武者たちの一世紀』上下、文春文庫、2000(初版、1994)
     日本の原子力政策も科学技術政策も、その出発点から見直す時期に来ていると思います。そして、日本の原子力の出発点、科学技術政策の出発点にいるのが正力です。正力の後継者(その後の変化)も含めて、科学技術史と政治史が重なる領域での仕事が求められます。

  • 2011.3.23(水)  
     JMMが環境エネルギー政策研究所(ISEP)の飯田哲也氏の見解を紹介しています。
      「3.11後のエネルギー戦略ペーパー」No.1
     今回の震災を前向きに活かすのであれば、この方向でなければならないと思います。未来はこちらです。

     JMM 編集長村上龍氏推薦の  今回の福島原発事故の評価

  • 2011.3.25(金)  
      [こういうときには雑誌メディアを]
     被害の実態も事故の実態も簡単にはつかめない。報道が局所的になるのは仕方がないとはいえ、全体として物事を捉える視点が背後になければなりません。
     その全体に迫るためには、活字メディアの方がふさわしい。家事のあいまに、2冊の週刊誌を買ってきて読みました。『週刊東洋経済』(2011年3月26日号)と『週刊文春』(2011年3月31日号)です。

     『週刊文春』は、特集が「御用メディアが絶対に報じない東京電力の「大罪」」。
     東電の基本的な問題点は、多くの人に見えていると思います。原子力は、巨大利権です。電力会社、原子炉製造会社、政府と関係官庁(とくに経済産業省)、御用学者にマスメデア。利権を分けあっているところは、仲良くします(癒着)。
     福島の原子力発電所が、今回の地震・津波以前にも、トラブル続きだったことが明らかにされています。140頁。
     1998年12月、第1原発高温焼却炉の建家にある低レベル放射性廃棄物ドラム缶炎上。 
     1999年1月、第2原発の廃棄物処理建家から出火。
     2002年8月以降、原子炉に関するデータの改竄。
     2010年6月17日、第1原発の2号機、電源喪失、水位低下発生。(15分間停電)。(24頁)
     24頁では、共産党議員(京都大学原子工学科出身の吉井英勝代議士)の質問が紹介されています。非常用ディーゼル発電器が3系統準備されているから安全だという政府・東電に対して、4系列の非常用ディーゼル発電機が備えられていたスウェーデンの原発が事故で2系統が止まるとその影響で残りの2系統も止まった事例をあげ、そうした場合どうするのか?質問したそうです。 
     個人的には、今回の事故で非常用ディーゼル発電機が3系列失われ、非常用電源が失われたということにびっくりしました。何と言っても原子力です。人間が手をつけるべきだったかどうかが問題になるぐらいやっかいなものです。3重、4重に対策がとられているものだとばかり思っていました。想定していなかった津波でディーゼル発電機3系列が同時に失われて、それで終わり、という事態はほんとうにびっくりです。すくなくともディーゼル発電機3系列が動かなくなったときに備えて、別種の非常用電源があるのだとばかり思っていました。

     → 2011.3.26
     ウェブで検索をかけていて、ウォールストリートジャーナルに「過去にもトラブル続きだった福島第1原発」(2011年 3月 22日)があることを見出しました。
     原子力の専門家による記事ではなく、ジャーナリストによるものですが、ソースの明示と分析があります。ソースは、「原子力安全基盤機構に提出された事故報告書」です。分析結果は、「データが入手可能な2005年〜2009年の5年間」で福島第一原発の事故率が大規模原発のなかでは一番高かったとしています。
     「福島の3号機はプルサーマル」(2011/3/22)には、プルサーマルが日本語(和製英語)であること、3号機ではそのプルサーマル燃料すなわちMOX が使われていること(全体の548個のうち32個)も記されています。
     この記事を読んではじめて、テレビで見る福島原発の模型や模式図で不思議に感じていた点が解明されました。
     燃料プールの様子が腑に落ちませんでした。実は妻にもこの点を質問され、水の中から水のなかへ空気中に出すことなく移せるからいいんじゃないと答えましたが、自分自身で納得はできていませんでした。ウォールストリートジャーナルの記者に敬意を表してそのまま引用します。
     「4号機で起きたことは、定期検査時の停止中に原子炉内のすべての燃料をプールに移送する「全炉心取り出し」という、日本で広く行われている慣行の危険性を露呈した。」

      [災害緊急事態]
     福島の原発に関しては、緊急事態が宣言されています。しかし、今回の地震・津波に関しては、「災害緊急事態」宣言(布告)がなされていません。「計画停電」という名の「無計画停電」が終了するまで、東電は国の直接の支配下に置くのがよいと思いますが、そうした措置はなされていません。今回の震災で「災害緊急事態」を宣言しないで、いつするのでしょうか?
     22日午前の参議院予算委員会で、このことを質問した議員がいますが、「内閣府の小滝晃参事官はこうした措置の実施要件を同法が「国会閉会中」と定めていると指摘し」たとあります。
     災害対策基本法105条は次のようにあります。
     「第105条 非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるときは、内閣総理大臣は、閣議にかけて、関係地域の全部又は一部について災害緊急事態の布告を発することができる。」
     そして、第106条に次のようにあります。
     「(国会の承認及び布告の廃止)
    第106条 内閣総理大臣は、前条の規定により災害緊急事態の布告を発したときは、これを発した日から20日以内に国会に付議して、その布告を発したことについて承認を求めなければならない。ただし、国会が閉会中の場合又は衆議院が解散されている場合は、その後最初に召集される国会において、すみやかに、その承認を求めなければならない。」
     閣議で決し、国会の承認を求めなければならない、とありますが、「国会閉会中」なんてことは定めていません。とても不思議です。
     このあたりのことがわかる方がいらしたら是非お教えください。

  • 2011.3.26(土)  
     お昼過ぎに次の本が届きました。アマゾンのマーケットプレイスからです。
    渡邉 恒雄
    『渡邉恒雄回顧録』
    御厨貴監修・聞き手、伊藤隆+飯尾潤聞き手、中公文庫、2007(初版、2000)
     もとは、『中央公論』1998年11月号から1999年6月号に連載された「渡邉恒雄 政治記者一代記」および1999年8月号掲載の「我が実践的ジャーナリズム論」です。
     →まずは御厨貴氏による「解説」だけ読みました。渡邉恒雄は、ほんとうに面白い。
     →次に、終章「我が実践的ジャーナリズム論」を読みました。原子力は、ナベツネ氏の関心からすれば周辺的であったようです。
  • 2011.3.28(月)  
     日本の原子力政策史の第1人者は、九大の吉岡斉氏だと思われます。今回の事故に関する吉岡氏の見解を知ろうと思い、ネットで検索をかけてみました。地元(福岡)のテレビでは話をされているようです。(直接関係はしませんが、副学長となられているようです。)しかし、放送媒体でも活字媒体でも直接的なものを見つけることはできませんでした。
     MLでヘルプを求めると、田中氏が、東京新聞2011年3月18日夕刊の記事「「福島原発震災」をどう見るか」を送ってくれました。「東京電力や経済産業省原子力安全・保安院でさえ、真相を把握していないだろう。原発事故の真相をつかむには、わずかのモニター装置からの情報では不十分なのである。」とあります。そうだと思われます。データの隠蔽と言うよりも、彼ら自身把握できていないと見るべきでしょう。(隠蔽体質がないとも、今回隠蔽がないというわけではありません。下に見るように事故データの改竄さえも行っています。)
     →河野氏が朝日新聞3月25日付「オピニオン」を送ってくれました。「原発賠償 国は負担するな」と題します。結論部分だけ引用します。「原発は、事故や災害が起きれば多数基が一度にダウンし、運転再開までに時間がかかるので、電力供給不安定を招きやすい。その可能性は前々から指摘されてきたのに、原発を作り続けてきた責任は重大だ。・・・天災によるやむをえない面はあるが、本質的にエネルギー政策の誤りであり、電力会社の誤りでもある。」

     ウェブの資料としては、「東京電力原子炉損傷隠し事件」2002.9.20 があります。今回の事故の前提条件として意味のある情報を含んでいます。
     ほかにもいくつかあります。

  • 2011.3.29(火)  
     朝のうちに次の本が届きました。
     魚住 昭『渡邊恒雄 メディアと権力』 講談社文庫、2003(初版、2000)
     文庫化にあたり、加筆し、巻末の対談が付されたとあります。
     →対談者はスポーツライターの玉木正之氏。解説は、佐野眞一。ナベツネ問題、すなわち、ナベツネタイプの人物が組織のトップにすわってしまうことに関する危機感が全員に共有されています。
  • 2011.3.31(木)  
      [計画停電をやめさせよう]
     ウェブではもう有名人だと思われますが、現役の国会議員でただひとり、原子力工学の専門家(京大の工学部原子核工学科出身)がいます。共産党の吉井英勝議員です。「日本共産党 吉井英勝オフィシャルホームページ」というサイトがあるので読んでみました。
     「福島原発事故や「計画停電」、ガソリン・灯油の需給状況などに関して」「基礎的な資料を公表させるべきだ」と求めたとあります。政府はすぐに基礎データを提供する、あるいは提供させるべきです。具体的には、「1)原発の破損状況や情報収集衛星の撮像データ、2)原子力安全委員会による放射性物質拡散状況の試算データ、3)東京電力の発電設備出力など計画停電の是非を検証する根拠データ」などです。
     大学が昨日開いた説明会では、夏場には(計画されていない)広域停電がありうるという前提で話を進めていましたが、大きな違和感を感じました。(危機が続く間は)そういうことにならないように、民間の協力を得つつ、政府がきちんと管理すべきだと思います。
     今東電が行っている「計画停電」は、総理の了承があるので、違法行為ではないでしょうが、不法行為に近いと私には感じられます。基礎データを公開して、どういう工夫がありえるかを討議すべきです。そして、仮に、どうしても「計画停電」が必要だとなった場合でも、特定の地域に負担を押しつけるのではなく、(政府機関や医療機関等はずすべきところははずして、あるいは十分なバックアップを準備して)きちんと計画的に遂行すべきです。直前まで実施するのかしないのかわからないというのは最悪の選択です。
     東電の担当者(たぶんチームでしょう)が何を考えているのかまったく不思議です。官邸がこういうでたらめを放置しているのも不思議でなりません。
     ウェブで検索をかけてみると、河野太郎氏の公式サイトに「自民党有志と環境エネルギー政策研究所(ISEP)の勉強会」の結論として、「無計画停電は必要ない」と断言されています。
     非常事態です。党議拘束をはずし、協力すべきだと思います。  

     マスメディアが「環境エネルギー政策研究所」の出したレポートを取り上げないのがほんとうに不思議です。

     河野氏の見解を引用しておきましょう。「経産省と東京電力は、需給調整契約の内容や発動状況などの情報を意図的に隠蔽しているが、もはや電力需給に関しては、東電に任せておける状況ではなく、政府が対処すべき問題である。」

     契約内容が公表されていない以上、推測しかできませんが、契約内容に不都合な点があると考えざるを得ません。

     現役の国会議員がはっきりと指摘しているのに、大手のメディアが取り上げないのは責任問題だとさえ言えるでしょう。

  • 2011.4.3(日)  
     昨日、「計画停電は必要ない」という見解がどのくらい出ているかと思い、検索をかけていると、「地震発生から1週間 福島原発事故の現状と今後」(大前研一ライブ579)が見つかりました。事故対応も含めて、ほぼ同様に考えています。暖かくなってしばらく東電の「計画停電」は実施されないようですが、夏場に向けて方針を練り直し、現状の「計画停電」は避けなければなりません。
  • 2011.4.5(火)  
     昨日届いた『科学史研究』(2011年春号)ですが、タイムリーな記事が載っています。吉岡斉「原子力政策の事例分析」pp.47-49です。 
     シンポジウム「科学技術政策は変わるか―政権交代記の科学技術史―」のひとつとして掲載されているので、短いのですが、日本の原子力政策史の第一人者の手になるまとめです。非常に的確な指摘がなされていると思います。
     「今までの日本の原子力政策は「国家安全保障のための原子力」の公理のもとで進められてきた。・・・日本は核武装を控えるが、核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持するために、あらゆる種類の機微核技術 SNT (Sensitive Nuclear Technology) ―核兵器開発への転用効果の高い一連の技術、ウラン濃縮、核燃料再処理、高速増殖炉などを代表格とする―を開発・保有し、それを日本の安全保障政策の不可欠の部分とすることである。」p.47
     これが日本の原子力政策の根本的前提です。この前提のもと、「利権を有するステークホルダー―所轄省庁、電力業界、政治家、地方自治体有力者の四者を主な構成員とする。これにメーカー、原子力関係研究者を加えた六者としてもよい―の間でのインサイダー利害調整のもとづく合意にしたがって、原子力政策が決定されてきた。」p.47
    「核の四面体構造」と呼ぶそうです。

     ウェブに次の資料があります。
     原子力安全基盤調査研究「日本人の安全観」(平成14年度〜16年度)報告書
     Research Survey Report of Nuclear Energy Safety "Japanese Safety Views" (2001-2003), Funded by the Japan Nuclear Energy Safety Organization,
     東洋大学、2005年3月
     第3章が「「原子力の安全観」に関する社会心理学的分析―原子力安全神話の形成と崩壊―」です。科学技術史的には甘いところが散見されますが、それ自体非常に興味深い論点を提示してくれています。執筆者は、関谷直也氏(東京大学情報学環)です。
     個人的には、「日本人の核アレルギー」というのは神話ではないかと思っていましたが、その点がほぼ裏付けられました。

  • 2011.4.6(水)  
      [日本の原子力のはじめ]
     編集者の方から、平成17年11月7日に開催された第42回「原子力の日」記念シンポジウムにおける中曽根康弘氏の講演録を教えてもらいました。
     政治家は他人の成果も自分の成果のように言いたがるので注意が必要ですが、交流関係や世話になった方の記憶にわざわざウソをつくことはないでしょう。 
     中曽根康弘氏は、原子力草創の指導者として3人の名前を挙げています。
     1)理研の嵯峨根遼吉(さがね りょうきち)博士
     2)正力松太郎
     3)(書き方がはっきりしないが)インドのバーバー博士
     前にも記した通り、政治的には、正力松太郎の力が大きい。科学者からは、嵯峨根遼吉の名前があがっています。嵯峨根遼吉の伝記をフォローする必要があります。

     こういうとき、ウィキは便利です。1905年11月27日 -1969年4月16日。長岡半太郎の五男とあります。1938年英国と米国の留学から帰ってから、理化学研究所研究員となり、仁科芳雄の下で原子核物理学の研究に従事したとあります。サイクロトロンをつくったとありますから、仁科研の原爆研究、二号研究に中心人物としてかかわったと言えるでしょう。

     つまり、原爆研究の中心人物のひとりが原子力の父のひとりでもあった、この点はまず押さえておかなければなりません。

     ということで、嵯峨根遼吉は、日本の戦後科学史で非常に重要な役目を果たします。

     1)GHQが面接した第1号であった。
     笹本氏の著作から引用しましょう。「マンハッタン管区調査団の調査目的の中に日本の原爆製造計画を含めた原子力研究状況、鉱物資源(朝鮮を含む)の調査があることは第1節で述べた。この第3班(東京グループ)は9月7日あたりから調査を開始した。東京グループは日本に上陸する前に日本の原子力研究の科学者に関する調査リストを作成していた。高い優先順位が付けられた科学者は、嵯峨根遼吉(東京帝国大学教授)、仁科芳雄(理化学研究所)、菊池正士(大阪帝国大学教授)、八木秀次(大阪帝国大学教授)、長岡半太郎(大阪帝国大学教授)、湯川秀樹(京都帝国大学教授)であった。」(75頁)

     日本学術会議(1949年)の発足にも、嵯峨根遼吉は大きくかかわっています。1948年有名なGHQ科学顧問ケリー博士が日本に赴任し、ケリー博士に対応する日本人グループとして、3人組(SL= Science Liason Group)がつくられます。田宮博、茅誠司、嵯峨根遼吉の3人です。
     学術会議のもとに、朝永振一郎を委員長とする原子核特別委員会がつくられる。
     1951年ローレンスが来日して、阪大と京大でサイクロトロンの再建がなった。東大の原子核研究所の設置(1955年に設立される)も、学術会議の勧告・要望・申し入れに基づく。

     東大核研の設立(1955年)の翌1956年に科技庁が発足している。そのもとで、日本原子力研究所が設置された。ここの研究と、基礎研究グループとの間に溝ができた。 原子力基本法に盛り込まれた「公開・民主・自主」の3原則は、学術会議の声明に基づく。

     →ディーズ『科学技術基礎づくり』p.60 には、次の資料が引用されています。
     「バークレーでの嵯峨根の同僚3人が、テニアン島で長崎原爆の準備に従事していた。ルイス・アルバレツ、フィリップ・モリソン、ロバート・サーバーの3人である。彼らは嵯峨根宛に署名なしの手書きの覚書を書き、長崎上空にパラシュートで落とされた機器にテープで張り付けた。覚書には次のように書かれていた。

                              司令部原子爆弾指揮官
                              1945年8月9日
     宛:嵯峨根遼吉博士 
     発信:博士がアメリカ合衆国滞在中科学研究の同僚であった3人の友
     

     ・・・・  

     この3週間の間に、アメリカの砂漠で1個の爆弾を試験的に爆発させ、1個(2個目)を広島で爆発させ、3個目を今朝爆発させた。  
     これらの事実を指導者に認めさせ、破壊と生命の浪費を止めさせるために貴方が最善を尽くすことを、私たちは懇願する。・・・・・」

     アメリカで核開発にかかわった科学者から見た場合、日本の核科学者で一番親しかったのが、嵯峨根遼吉だったと言えます。

  • 2011.4.7(木)  
     ガイダンスを終え、帰宅すると、次の本が届いていました。
     嵯峨根遼吉
     『原子爆弾の話』
     講談社、昭和24年(1949)

     これはなかなか興味深い本です。「一人でも多くの人が、少しでも原子爆弾と原子力を理解してもらいたい。」という意図でこの書物を記したとあります。

     奥付の著者略歴を紹介しておきましょう。
     明治38年11月東京に生る(旧姓長岡)
     昭和4年 東京帝国大学理学部物理学科卒
     同 6年 理化学研究所所員になる
     同17年 東京大学教授となり現在に至る
     外遊、1935年8月米国カリフォルニヤ大学放射線研究所に留学
        翌36年11月英国ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所に留学し、さらに独逸、デンマーク、スエーデン、フランスを経て帰米、カリフォルニヤ大学に戻り、1938年2月日本に帰る。1949年12月再び渡米す。
     →『原子爆弾の話』は11月30日印刷、12月10日発行です。本の発行後すぐにアメリカに経ったことになります。(発行は見ずに経ったかもしれません。)ともあれ、嵯峨根遼吉の研究基盤はカリフォルニア大学放射線研究所ということになります。

     目次は次の通りです。
     序―長崎の手紙
     原子力時代へ
     怒る原爆
     世界の原爆競争 
     原子力兵器の威力
     原子爆弾は防げるか
     科学の謎を解く
     利用されている原子力 
     夢ではない原子力時代
     平和の防壁

     これでわかるようにいろんなことが書かれています。しかも昭和24年出版ですから、まだGHQ統治下です。
     嵯峨根自身は後書きで、次のように記しています。
     「内容は大部分は自分の専門、自分の体験等ではあるが、歴史的のこととか、挿話中の会話等については、エーブ・キューリー著「キュリー夫人傳」、ブレークスリー著「原子力の将来」、ブラドレー著「隠るべき所なし」、ラップ著「隠るべきや」、ハーシー著「広島」、及び永井博士編「原子雲の下に生きて」等より引用させていただいたことを記し、終りに厚く感謝の意を表する」(291頁)

     →せっかくですから、ここに挙げられている本を確定しましょう。
     H・W・ブレークスリー『原子力の将来』山屋三郎訳、朝日新聞社、昭和22年
     ブラッドリー『隠るべき所なし―ビキニ環礁原爆実験記録』佐藤 亮一訳、大日本雄弁会講談社、1949
      R.E.ラップ『我等は隠るべきか』奥田毅、南条書店、1950
     ジョン・ハーシー『ヒロシマ』1946 (増補版は、法政大学出版会、2003)
     永井隆編集『原子雲の下に生きて』1949
     →.ラップ『我等は隠るべきか』の邦訳出版は、1950年です。『原子爆弾の話』出版の翌年です。タイトルも微妙に違います。嵯峨根は英語版を利用したのでしょうか? それとも邦訳出版前のゲラをもらったのでしょうか?

     私の興味は、嵯峨根遼吉自身の思い出や関与が書かれている箇所です。たとえば、「長崎―原子爆弾調査団」という節には、次のように書かれています。
     「終戦直後九月、まだ硝煙の匂いの消えていない頃である。世界に前にも後にも二度とないはずの原子爆弾の爆発現場の科学的調査はぜひやらなければならない、学術的研究会議で調査団をつくるべきだという声がにわかに起った。だがこれもどうやらアメリカ軍の上陸につづいて来着した米国科学調査団に刺激されてのことであった。
     事実このような団体のまとまった背景なしに軍または軍部の半ば命令的な調査は統一なく、個々には行われていたのであった。広島では主として京都大学、大阪大学、理化学研究所が、長崎については九州大学が出かけたが、調査はほとんど原子核物理学者と医学者たちの分野だけであって、そのほかには軍部の上官に対する現地報告上の被害調査のみである。 」(35-36頁)
     という書きだしで、自分が長崎の調査に行ったことが書かれています。(47頁まで)
     「そこで解体しつつある陸海軍ながら、その援助を求めて、佐官級の技術出身者が連絡者として調査団に加わった。」
     嵯峨根遼吉自身は、原子核関係の班長という資格です。

  • 2011.4.8(金)  
     お昼前に次の本(研究報告書)が届きました。
     『原爆調査の歴史を問い直す』
     日本学術振興会 科学研究費補助金 基盤研究(C)「原爆被爆者の放射線影響調査に関する科学史的研究」(研究代表者、柿原泰)
     NPO 法人市民科学研究室・低線量被爆研究会、2011年3月
     「終わりに」によれば、「本研究は、吉田由布子、笹本征男(2010年3月他界)、瀬川嘉之、上田昌文、柿原泰の、市民科学研究室低線量被爆研究会の6名のメンバーにより行い、その討論を経て進めてきたが、文責は吉田にある。」(99頁)
     ということで、文章は、基本的に吉田由布子さんが書かれたようです。

      [嵯峨根遼吉の研究]
     昨日からの続きです。
     嵯峨根遼吉氏の本に、終戦直後の9月、長崎に原爆被害(効果)調査に行ったとき、現地の軍人に世話になったとあります。長崎県大村の第21航空廠の長官室に嵯峨根遼吉氏を迎えたのは、「リエイゾン・オフィサーの腕章をつけた中村中将」です。
     「いや、あの手紙は当日午後拾得の報告があり、一両日後に自分の手元に届いたのでした。自分の興味も手伝ってか、実は自身で翻訳をし、書類をつけて佐世保の鎮守府に届け出たのは今でも忘れやしません。8月15日の午前のことでした。つまり終戦の日の朝でした。もちろんその前に手紙が落ちたということは海軍省に報告したのです。」
     ここで言及されている手紙は、もちろん、長崎の原爆と同時に落とされた嵯峨根遼吉氏宛の手紙です。はっとしたのは、9月になっても軍が調査隊の世話をしていることです。よく考えてみれば当たり前のことですが、8月15日で日本陸軍・海軍が消滅したわけではありません。8月15日付で召集解除となった人もいるかもしれませんが、旧日本陸軍・海軍が解散するまでには一定の時間がかかったはずです。
     ウェブで調べてみました。探し方の問題かもしれませんが、これぞという記述には出会いませんでした。
     『舞鶴市史』によれば、舞鶴重砲兵連隊(上安久)に関して、「将兵の大半は二十年九月十四日、十五日にかけて除隊、復員したが、将校、下士官兵の一部は兵舎や火薬庫等の警備のため十一月十四日まで残留した」とあります。位が上の軍人は、復員が冬になっています。
     9月2日付けで武装解除の命令が下ったところもあるようです。
     これは私の知識不足ですが、中国では敗戦後も日本軍は戦争を続行した、とあります。降伏部隊である日本軍の武装解除にあたる国民党中央軍が自分たちが到着するまで匪賊から中国を守れと指示を出したとあります。その結果満洲を除く中国全体で、敗戦後も5万人が戦死したとあります。

     どなたか、敗戦後、日本の軍人がどういう順序でどういうふうに、召集解除、除隊、復員したのか、お教えいただけないでしょうか? サイトまたは書物の指示でもけっこうです。よろしくお願い致します。
     →上の『原爆調査の歴史を問い直す』に回答の一部がありました。「大本営は9月13日、陸軍参謀本部、海軍軍令部は10月15日、そして陸・海軍省は11月30日という廃止日まで存続していた。・・・陸海軍の指揮命令系統は実質的に11月30日まで機能していたといえる。」(17頁)

  • 2011.4.9(土)  
      [吉岡斉『原発と日本の未来』2011]
     朝次の本が届きました。アマゾンのマーケットプレイスからです。
     吉岡斉『原発と日本の未来:原子力は温暖化対策の切り札か』岩波ブックレット802、2011.2.8
     大震災の1ヶ月前に発行されています。とてもタイムリーな書物です。アマゾンでは今品切れ中です。岩波は、すぐに大増刷をかける必要があるでしょう。
     →63頁のブックレットです。さっと読みました。原子力問題について何か発言しようとすれば、まずきちんと読むべき書物となっています。国会議員、官僚、すべての教育関係者、メディアにかかわるものはいますぐ本屋に行って読むべき書物となっています。
     (温暖化対策については、多くは触れられていません。最小限必要な論点だけ説明されています。)

     ちなみに、吉岡斉『原子力の社会史』(朝日選書、1999)は、部屋のなかで探し出すことができていません。研究室においてあるのでしょうか? 月曜日に時間がある限りで探してみようと思います。

  • 2011.4.11(月)  
      [需給調整契約]
       4月10日河野太郎氏のブログに需給調整契約の約款が出ています。是非、自分の目で読んでみてください。(データが全部提示されたわけではありません。重要なのは、具体的な契約内容です。金額がポイントになります。)

    緊急会議 飯田哲也×小林武史 (2) 「なぜ原子力を選んだのか?」も非常に興味深い。是非、こちらも。
     →対談を全体として読みました。とてもわかりやすい。是非!

      [ILL: 『嵯峨根遼吉記念文集』]
       図書館から、ILLで頼んだ次の本が届いているという報せがありました。帰途、受け取りました。

     『嵯峨根遼吉記念文集』嵯峨根遼吉記念文集出版会、1981
     電車のなかで一部読みました。謎だったことがこの書物でかなり解明されました。

  • 2011.4.12(火)  
      [福島原発事故についての緊急建言]
     昨日購入した『週刊現代』を読んでいたら、魚住昭氏のページで「福島原発事故についての緊急建言」(元原子力安全委員長2人を含む専門家16日の連署)が紹介されていました。ネットで検索をかけるとすぐに全文が見つかります。原子力を推進してきたおえらいさんたちですが、専門家としての判断は保持されていると思います。

     「特に懸念されることは、溶融炉心が時間とともに、圧力容器を溶かし、格納容器に移り、さらに格納容器の放射能の閉じ込め機能を破壊することや、圧力容器内で生成された大量の水素ガスの火災・爆発による格納容器の破壊などによる広範で深刻な放射能汚染の可能性を排除できないことである。」
     このことが明示されています。最悪の事態に備えて最善の努力をするとありますが、それ以外ありえません。
    (私が見たのは、次のサイトです。 平和哲学センター)

      [『核の目撃者たち』]
     お昼頃、次の本が届きました。
     レスターJ・フリーマン『核の目撃者たち:内部からの原子力批判』
     中川保雄・中川慶子訳、筑摩書房、1983
     帯には「『核の目撃者たち』は、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』でDDTの危険を公衆に警告して以来の、最も重要な科学啓蒙書だろう。」(ロサンザルス・タイムス・ブックレヴュー)とあります。

      [『嵯峨根遼吉記念文集』]
     昨日 ILL で届いた『嵯峨根遼吉記念文集』が非常に面白い。仕事があるのですが、つい読んでしまいます。
     謎が解けた部分だけ紹介していきましょう。

     1.1949年での留学。
     嵯峨根遼吉は、『原子爆弾の話』を昭和24年(1949年)12月10日に発行したあと、すぐにアメリカに留学しています。占領下ですから、GHQの特別な計らいがなければ、こんなことはありません。「日本の戦後の科学研究の歩みを指導するためGHQの一員として来日していた Fox博士」(p.14)の「招聘でアイオワ大学へ留学が許されました」(p.15. 執筆者は娘さんの仙石節子氏「回顧談」)
     これだけではなく、嵯峨根に関しては、占領軍から特別な計らいがいろいろあったと考えてよいでしょう。

     2.木村一治氏の原爆被害調査。
     「嵯峨根遼吉先生の思い出」に「私は広島には2度、長崎には1度原爆被害調査で行ったが、終戦後、即ち2度目の時は日本映画社の記録映画を作るというので協力した。これは途中でGHQからストップを食い、やがてGHQのもとで製作をつづけることになった。この間、嵯峨根さんが仁科先生と共にいろいろ交渉に当られた。大へんな心労だったと想像する。」(p.299)

     3.放射能の危険性について。
     放射能の危険性について、嵯峨根遼吉は今では信じられないぐらい楽観的だったようです。時代的制約かもしれません。
     長崎の手紙への返信を『主婦の友』第30巻第9号に執筆しています。「1.長崎の手紙 戦争を超えて 原子爆弾と共に投下されたわが友の手紙」。  
     「友よ。君たちの努力の結晶は、この戦争を終結に導いた。今度こそ、僕たちが精進の本来の目的とした世界人類の福祉を増進するために、この原子力利用の共同戦線を張ってゆきたいと切望する。農作物のために嵐を吹き飛ばし、梅雨の日数を限り、または雨を降らせ、漁業のために風雨を払うなどは易々たることであるし、医学上その他あらやる面に、人類の幸福を増進するために何ができるかを真剣に考えてゆかねばならないのだ。」(p.10) 
     今では理解しがたいことですが、原子爆弾の力によって(まるで大型ダイナマイトのような感じで)台風の進路をそらしたり、気象を左右することを考えています。『原子爆弾の話』にも同じ話が載っていて私はびっくりしたのですが、当時の嵯峨根遼吉の認識として貴重な証言です。
     田島英三氏が亡くなる前のこととして次の証言をされています。「亡くなられるときまで原子力のことを考えておられたのですね。逓信病院に入院されておられるとき、僕を病院に呼ばれまして、「放射能が体に悪いというので住民から反対されて困っているんだ。安全基準をきびしくしてもよいからいくらにすれば安全であるのか言ってほしい。そうすれば技術開発をしてそのとおりにする。」と言っておられました。このことで病床に2回呼ばれました。ずいぶん熱心に安全性について心配しておられました。」(p.181)

  • 2011.4.13(水)  
     飛び出すとき、郵便受けに次の本がありました。

     木村一治・太宰恒吉・佐々木寛『放射線とその測定』技報堂、昭和31年(1956)

     物理学史通信刊行会編『物理学史ノート』第4号(1996年10月)
     この4号は、「日本における<核>と物理学者の五十年:日本物理学会第四十七回年会物理学史シンポジウム」特集となっています。シンポジウムの開催は1992年です。ですから、『物理学史ノート』に出るまでに4年もかかっています。ちょっと時間がかかりすぎだと思われます。特集の記事は、次の3点です。
     熊澤正雄「私見:日本の動力炉開発」
     木村一治「太平洋戦争開戦前後に於ける中性子研究」
     吉岡斉「日本の原子力研究の形成と展開」 
     どれもなかなか興味深いものでした。木村一治氏の論考は、彦坂忠義氏の追悼記のような感じになっています。「菊池正士と同年生まれの彦坂忠義は1926年に東北大学を卒業、高橋胖教授の助手を長年勤めたが、中性子発見と共に核構造の問題に没頭した。」(p.12) Phys.Rev. に投稿し狂人扱いされた彦坂理論の再評価を試みています。1937年ボーアが来日するが、山内恭彦の群論によるシェルモデルにも彦坂理論にも湯川理論にも冷淡であった。
     「1944年に学術研究会議の主催で、原子炉の問題でシンポジウムが行なわれた。彦坂は“原子核エネルギー利用の一方法について”という話をした。これはあとで学位請求論文として提出されるものとなる。」(p.13)
     「私は今年1月末、彦坂未亡人にお目にかかりその後の波瀾万丈の運命を少し伺ったが、1945年5月にお子さん7人を連れ、一家9人の150個にのぼる家財道具を持って旅順に渡航された。幸いにも一家は命だけは助かったが、総ての家財道具は失われ、8月12日召集された直後に日本の敗戦に会い、立ち所に難民となって4年間の拘留生活をさせられた由。その間の話は涙なしには聞けない。彦坂氏は原子力の関係でソ連側から目をつけられ、甘言を以って氏の論文を詐取しようとしたが、難をのがれ、中国の新設の大連大学教授として教える機会を与えられた。ついに1949年開放されたが帰還に際しては、論文を没収されぬよう一枚一枚各紙、柳行李に貼りつけた由。同年10月仙台に帰ってみると空襲での焼失を知り、幸い手書き控え論文を再提出した由。それも相変わらず高橋胖教授の下に提出された。だが私は昔乍の学閥の空気を感じざるを得ない。」(p.14)
     吉岡斉氏の論考からは、1992年現在の吉岡斉氏の日本の原子力政策史研究の状況がわかります。アプローチと問題関心がストレートに出ていて、とてもわかりやすい。

     会議は、時間的には順調に進行し、6時頃帰宅することができました。

     今回の大震災で、メディアにはこういうことがなければでてこない専門的な知識が出てくるようになっています。丁寧に拾えば、重要な知見に繋がると思われます。
     昨日の朝日の夕刊の一面は、1.福島第一最悪レベル7、2.前田元検事に実刑判決、3.10代前半が脳死、の3本立てでした。2面に地震予知連会長の島崎邦彦さんの談話がまとめられています。「これからは今回の地震に誘発された地震が起こるだろう。5年は続くのではないか。1940年代には43年の鳥取、44年の東南海、45年の三河、46年の南海、48年の福井と続いた。江戸時代にも地震が相次いだ記録がある。」ということで、宝永地震について見直す必要があると結論されています。
     44年は日本敗戦の1年前、45年は日本敗戦の年、46年はその翌年です。敗戦に大地震の連続。台風も連続しています。海難事故も列車事故も連続しています。

      [『嵯峨根遼吉記念文集』ii]
     これはほんとうにとてもおもしろい。第2部は座談会になっています。それが6つに分けられている。1.原子核研究;2.真空技術の振興;3.終戦直後の新学術研究体創設への努力;4.原子力研究開発―原研時代を中心として―;5.核融合研究の推進;6.動力炉の導入―原電時代を中心として―
     座談4の冒頭に、関わりがまとめられています。
     「嵯峨根先生は原研創立早々の昭和31年6月から34年9月に退任されるまで、3年3ヶ月のご在職でしたが、前半は企画担当理事として、後半は副理事長・東海研究所長としてご活躍下さいました。」(村上昌俊氏の発言、p.220)
     長山泰介氏の話には「当時茅先生が、日本の原子力開発のキーメンバーに是非嵯峨根先生を加えるべきだと考えられてアメリカから呼ばれたのだという話を聞かされていたからです。おそらく31年の2月頃日本に帰って来られたのだと思います。」(p.221)
     ということで、留学との関わりあいを確認する必要があります。
     前述の通り、嵯峨根遼吉は、フォックスの伝があって昭和24年12月4日アメリカに発ちます。昭和18年3月10日に東京帝国大学教授となっています。その身分のままアメリカに長期滞在します。それがあまりに長期になったせいかと思われますが、昭和30年2月28日に東京大学は辞職しています。
     p.224 の神原豊三氏の発言に「先生はずっとバークレーにおられましたので、30年に原子力海外調査団がアメリカに参りましたときに、帰路バークレーに立ち寄って先生にお目にかかったことがあります。」とありますから、昭和31年の2月に帰国したという長山氏の発言はほぼ信じてよいでしょう。7年強のアメリカ留学ということになります。これは長い。
     この時期7年強にわたってアメリカの核物理学のセンターにいたことは、日本側からすれば、非常に大きな窓口と感じられたと思います。

     冒頭の履歴によれば、帰国の昭和31年3月27日原子力委員会参与となり、同年6月26日日本原子力研究所理事になっています。5月28日新設なった科学技術庁長官にその年の2月27日はじめて国会議員に選出されたばかりの正力松太郎が初代長官として就任します。その科学技術庁の原子力調査員に9月7日選ばれています。

     原研(日本原子力研究所)の副理事長を昭和34年9月22日に辞任したあとは、同年12月1日に日本原子力発電株式会社の顧問(常務)となっています。取締役、常務取締役、副社長を経て、昭和44年4月16日前立腺癌で亡くなっています。

  • 2011.4.14(木)  
     大学についてすぐに図書館に行き、ILL で到着したという報せのあった次の本を受け取りました。名古屋大学から来ていました。
     『木村一治日記 : ヒロシマ・長崎の原爆調査の記 : 1945年4月16日〜10月10日』木村正子編、仙台 : 木村正子, 1998
     最初の45頁に、写真製版の日記があります。あとは、次。
     木村一治「焼夷弾の下で」
     木村正子「疎開中の日々」
     木村正子「あとがき」
     野上耀三「核と共に50年を読んで」
     服部学「木村先生の思い出」 
     →木村正子「疎開中の日々」に、「広島、長崎に原爆調査に行ったまま一度も便りのなかったパパがやっと10月の15日に帰ってきた。風水災害で寸断された山陰線を歩いた り汽車に乗ったりしながら、やっと松本の私達のところに帰ってきた。足を痛めてビッコをひき帰ってきた」(n.p.)とあります。2ヶ月以上、調査に行っていたことになります。
     →「8月15日朝
     ・12日夜、夜行汽車にて・・二夜車中にて14日朝広島につく。広島まで行かなくても風評にてすでに本質的に新型爆弾なること一目瞭然である。・・・しかし未だ放射能関係を測定したものはいないらしい。
     午後似の島の研究室にて測定をする。似の島で死んだ人の頭蓋骨に Natural の10倍程度の activity のあることを知る。Uranium bomb なること確定せり。」
     「10月4日 7時30分長崎着。・・・」
     以上のように木村は、おそらく初めて広島で放射能を測定しています。それからずっと広島、長崎の調査にあたっています。諫早をたったのが10月7日夜です。そこから線路を歩いたり汽車に乗ったりしながら、約1週間かけて疎開先の松本に着いたわけです。

      [彦坂理論]
     昨日読んだ、木村一治「太平洋戦争開戦前後に於ける中性子研究」『物理学史ノート』第4号(1996年10月): 11-14 ですが、私の知らなかったことを指摘してくれています。すなわち、原子爆弾開発研究が戦時中の日本でも行われていたことは(理研の 仁科と京大の荒勝)このサイトでもいくらかまとめておきました。しかし、原子炉の理論まで提出されていたとは思いも寄りませんでした。
     ウェブで調べてみると、同じく木村一治氏と古田島久哉氏の共著論文がダウンロードできました。
     古田島久哉・木村一治「彦坂忠義の学位論文「原子核エネルギー利用の一方法に就て」の紹介―原子核エネルギー解放の先駆者達の足跡―」『日本物理学会誌』vo.47, No.12, 1992: 993-998
     「原子核エネルギー利用の一方法に就て」は、1944年学術会議主催の「原子炉問題シンポジウム」で発表され、後に学位請求論文として東北大学に提出されています。(学位が授与されるのは、1950年です。原論文の発表から6年後です。)彦坂氏は、木村さんが紹介しているように、1949年まで大陸で拘留されています。遅れは、戦時中・終戦後の混乱によります。
     東北大学の(たぶん)広報誌『東北大学ゆかりの研究者たち8 彦坂忠義』によれば、彦坂は1934年彦坂理論(原子核の殻模型)を米国物理学会誌に投稿したところ、クレイジーとして掲載拒否されています。原子炉の彦坂模型は、上記の通り、終戦前の1944年に講演発表しています。
     そもそも、1944年に学術会議主催で「原子炉問題シンポジウム」が開催されたということが重要です。この点もきちんと調べる必要があります。
     (→「原子炉問題シンポジウム」という表現は、木村さんの筆が滑ったのではと思うようになりました。昭和19年11月学術研究会議原子核分科会の会合ということでよいようです。今から言えば「原子炉」に当たる問題が議論された、という趣旨のようです。)

     →「原子核エネルギー利用の一方法に就て」のpdf ファイルもウェブで簡単にダウンロードできます。その最後には次のようにあります。
     「実際、同位元素分離と言う言語に絶する困難を一方に見るが故に、此の全然注目されたこともなかった「高速中性子法」が「有望らしい」と判っただけでも著者にとって大なる喜びである。
     此の法ならば自然産ウラニウムを単に化学的に純にすれば足るのであり、直に試験に移すことが出来るのである。仮に試験に必要なウラニウムさえ十分得られぬとしても、σ* σ* 等の値を正確にする小規模基礎実験を資料として、大切な結論を導く方法を本論文は提供し得たと信ずる。」(*: 私の能力では表記法が不明) 
    「此論文は昭和19年11月学術研究会議原子核分科会に於て発表したものであるが、昭和20年7月仙台の戦禍に原稿を焼かれた。当時著者は旅順にあったので、此の厄を知らず、今秋該地から引揚げ来てようやく此処に発表の機を得た次第である。(昭和24年12月記)」

  • 2011.4.15(金)  
      [アルスの会]
    私の今回の調査に関しては、アルスの会 〜文化としての学術を護る 学術文化同友会〜に関連資料が多く収録されていることがわかりました。名誉会長が伏見康治氏です。もっとも近い関心で調査・執筆されている福井崇時(ふくい・しゅうじ)氏も会員です。
     昨日取り上げた、彦坂忠義氏については、伏見康治氏も福井崇時氏も取り上げています。

     →大阪大学で伏見氏のもと勉強した福井崇時氏(スパークチェンバーを開発し、仁科記念賞を受賞している)の研究が今回私の行っている調査におおきく重なっています。  「伏見先生の追憶」には、「彦坂先生の業績を調べる作業から私は科学史に関わることとなった」(p.5)とあります。彦坂氏の実家を実際に尋ねています。「1986年6月米国フェルミ研究所で日米合同科学史の会があり彦坂先生の研究を紹介した。会議の報告は京大基研より刊行されている。」
     「伏見先生は翌年[1987]木村一治先生と共に彦坂邸を訪ねておられた。日本原子力学会誌第34巻第11号(1992)に「原子炉が誕生して50年」と題して記述されている文に、彦坂先生について再び書かれ彦坂先生京夫人との写真を掲載された。写真の説明では1980年とあるが1986年です。学会誌のこの号には、「特集」として彦坂論文を取り上げ住田健二さんの序文、彦坂論文の復刻、桂木學さんの解説と意義が掲載された。」(p.5)
     1996年「ソ連邦における原子力開発の歴史に関する国際会議、HISAP'96」に出席し、「日本からの出席者、梶雅則[ただしくは範]、徳永盛一、藤井晴雄、神山弘章の諸子と合流した。」(p.5)  
     こんなところで、梶さんの名前にでくわすとは思いませんでした。
     その後、東工大の『技術文化論叢』に割と数多く論考を寄せられているのは、このときの機縁によるのかもしれません。 

     福井崇時「彦坂忠義先生と殻模型と原子炉」『日本物理学会誌』第41巻第10号(1986): 765-768 のp.767 に次の言葉があります。「旅順工科大学で8月15日を迎えるとソ連軍から甘い誘いをかけられた。日本政府は朝鮮と満洲に埋蔵されているウランを使って原子炉と原子爆弾を製造するために彦坂先生を派遣したという認識がソ連側にあったと言う。」

     1998年(平成10年)『原子力文化』第29巻第7号に掲載された「伏見康治氏と中曽根康弘氏の対談:黎明期、そして今後の原子力開発は」もウェブで簡単にダウンロードできます。司会は、科学技術ジャーナリストの尾崎正直氏。
     まさに批判的に読まなければならない種類の資料ですが、それが故に有用であることに間違いはありません。
     司会者の冒頭の言葉「アイゼンハワーが1953年(昭和28)の12月8日、国連で「アトムズ・フォア・ピース」(平和のための原子力)を提唱しましたね。これをきっかけに、アメリカが独占し、今まで秘密のベールに閉ざされていた原子力が、初めて平和利用できそうな方向に向かって踏み出したわけです。」  
     この記述は、私には、??? ですが、気にせず、次をみましょう。
     「それから三ヶ月経たないうちに、わが国でいきなり原子力予算2億3500万円というものが出てきた。これは中曽根さんがお作りになったわけですが・・・。」
     中曽根さんの応答は次のようです。まず、学術会議で2度ほど出された原子力の研究を開始しようという提案が「共産党の民科(民主主義科学者協会)につぶされたんです。それで、このまま学者に任せておいたら、永久にできないと思った。」
     その前、中曽根は、たまたまアメリカのキッシンジャー・ゼミに行って(昭和28年)、帰途、アメリカの原子力施設を見て回った。日本でもやらないと遅れると強く思った。サンフランシスコでは、ローレンス研究所にいた嵯峨根遼吉教授に会い(「総領事館に呼んで)、日本はどうしたらよいか質問すると、長期的な国策としてきちんとやりなさいという返事をもらった。
     もともと、中曽根は、妻の父が小林儀一郎という地質学者で、軍が行っていたウラン採掘の話を知っていた。高松にいたとき、広島の原爆を目撃した。そのことがずっと頭のなかにあった。サンフランシスコ講和条約のときに「原子力の平和利用と民間航空機の製造・保有を講和条約で制限するな」という注文を出した。
     学者の世界(学会)では、やはり反対論が強かった。(反対の首謀者としては、福島要一、早川幸男等の名前がでています。)
     原子力予算そのものは、中曽根が画策して、予算案審議の最終段階で修正案として提出されています。翌日の新聞は、「原子力予算、知らぬ間に出現。驚く学界、・・・」ということで猛反対。
     中曽根氏の発言「茅さんなどが政調会に予算反対だと抗議に来たとき、稲葉修がそばにいて「学者が眠っているから、札束でひっぱたいて目を覚まさせるんだ」と。」
     茅さんは、「抗議に来て帰るときに」「できちまったら、仕方がない」とつぶやいた。中曽根はこれを通してくれる合図と見ています。
     「予算が通って、そのおかげで企画庁を中心に準備会ができたんです。石川一郎さんが会長になって準備会ができて、役所としての準備をいろいろ始めたんです。」
     司会の尾崎氏は、「日本の原子力というものは完全に政治、特に中曽根さんの主導で始まった」とまとめています。
     さて、中曽根たちは、この予算で第1回国際原子力会議(国連主催、開催地ジュネーブ)にでかけます。駒形作次博士が団長、松前重義、志村茂治、前田政男、それに中曽根ででかけています。議長がインドのバーバ博士。インドの湯川秀樹というべき理論物理学者とあります。
     帰国して、代議士4人で共同声明を出して、立法作業に入った。「あのとき、夜昼寝ずに8本法律を作りましたよ。」

     →この時点で、基本を整理しておきましょう。
     1953年(昭和28年)、春にスターリンが死去します。夏に中曽根康弘はハーバードのキッシンジャーゼミに誘われ、全米の原子力施設を見て回ります。帰りには、バークレーに寄って嵯峨根遼吉に会い、原子力について助言をもらっています。年の暮れ(12月8日)アイゼンハワーが「平和のための原子」演説をします。
     翌1954年(昭和29年)国会の会期末(3月3日)に保守3党が抜き打ちで原子力予算を国会に提出します。そのすぐあと(3月16日)、ビキニの水爆実験で第5福竜丸が被爆したことがわかります。このタイミングはほんとうにすごい。歴史のアイロニーでしょうか。
     1955年(昭和30年)総理大臣になりたいがために CIA と丁々発止の交渉をしながら原子力の導入に努力してきた讀賣新聞社主正力松太郎が2月27日、富山2区から保守系無所属で立候補し初当選します。5月9日、米国の原子力平和利用使節団が来日し、晩秋(11月1日)には原子力平和利用博覧会が開催されます。11月15日、保守合同がなり、いわゆる55年体制が築かれます。11月25日、正力は第3次鳩山内閣の原子力担当国務大臣に就任します。そして、師走(12月16日)日米原子力協定の調印に至ります。
     1956年(昭和31年)お正月、正力は原子力委員会の初代委員長に就任し、5年以内の原子炉の導入を表明します。3月1日、日本原子力産業会議が発足し、5月18日正力は初代科学技術庁長官に就任します。秋(9月17日)原子力産業使節団が欧米の原子力事情の視察に出かけます。
     明けて1957年(昭和32年)7月10日、正力は第1次岸内閣の国家公安委員長、科学技術庁長官、原子力委員会委員長に就任します。

     → 11.4.16 さて、ここで吉岡斉氏の論考に戻りましょう。吉岡氏は、「原子力というのは、官産の両セクターの進める事業です。」(16頁)としています。つまり、官僚組織と産業界が進めていて、物理学者は事業としての原子力にほとんど関与していないということです。3原則も現実に進められた原子力事業ではほとんど無視されていたということです。
     この点は、上の中曽根+伏見対談からも裏付けられます。現実の原子力事業は、物理学者をはずして、物理学者の主張とはほとんど関係ない言論・実践空間で進められた、とまとめることができるでしょう。
     日本の原子力史を見るとき、これは非常に重要なポイントです。

     1954年に提出された原子力予算について、吉岡氏は、「中曽根が一人で思いついたとはとうてい思えない。」「原子力予算は、非常にみごとなタイミングで出されたと僕は思っています。よほど物事を良く知っている人でなければ、あれは出せなかったと思います」(15頁)と評価しています。ここまで調べてきて、私の見解は、歴史には偶然がある、中曽根が証言していることでよいのではないか、というものです。原子力予算そのものは、中曽根が彼の観点から同志と呼べる政治家何人かと共謀して1954年3月3日に提出したということでよいと思います。原子力予算に関しては中曽根が首謀者だったということで問題はないでしょう。 
     つまり、原子力予算のときに、物理学者は事業としての原子力の推進からははずされた、と見てよいでしょう。
     →同じことを別の観点から言えば、日本の原子力史は、物理学者の観点によって焦点をはずされていると言えるでしょう。

     →吉岡斉氏の著作は、原子力政策史の基本ですが、ブックレットにおいても一般読者に親切には書かれていません。
     前に紹介した吉岡氏の基本的論点「日本の原子力政策は「国家安全保障のための原子力」の公理のもとで進められてきた。日本は核武装を控えるが、核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持するために、あらゆる種類の機微核技術を開発・保有し、それを日本の安全保障政策の不可欠の部分とする」(p.47) に関して、この公理がいつどういう経緯で形成されたのか、疑問になりました。当事者の間で共有されているのは、吉岡氏の言うとおり間違いないでしょう。しかし、マスメディアだけではなくちいさなメディアでもほとんど言及されることのない公理です。今回の原子炉事故に際しても、私は、吉岡氏以外の誰かがこの点に触れているのを見たことがありません。(もしあったら是非お教え下さい。)
     ともあれ、まずは自分で調べてみますが、ご存じの方がいらしたら、是非お教え下さい。

  • 2011.4.16(土)  
    アマゾンのマーケットプレイスから次の本が届きました。
     玉木英彦・江沢洋編『仁科芳雄:日本の原子科学の曙』みすず書房、1991;新装版、2005
     仁科について、27つの評伝・エッセイ・回想録を収める書物。1990年仁科芳雄生誕100年を記念して『日本物理学会誌』(10月号);『日本原子力学会誌』(12月号);『アイソトープ・ニュース』(12月号);『無限大』(秋号)で特集が組まれた。これらの特集記事を中心とする編纂。
     →仁科の科学史における位置付けですが、ひとことではたぶん「日本におけるビッグサイエンス」の出発点を築いた物理学者ということになるでしょうか。
  • 2011.4.17(日)  
     戦中、戦後の日記や記録を読んでいます。今の気分にぴったりあいます。敗戦に近い状況なのでしょうか。

     昨日届いた仁科の本も読んでいます。予想以上に面白い。いろいろ考えるところがあります。

     朝一番で次の本が届きました。  
     日本原子力産業会議『日本の原子力 15年のあゆみ』全3冊(上、下、年表)、日本原子力産業会議、昭和46年(1971)
     年表を丁寧に読むと、いろんなヒントを与えてくれそうです。たとえば東大核研の初代委員長、菊池正士氏。


     菊池正士(きくちせいし、1902年8月25日 -1974年11月12日)
     1926年東京大学物理学科卒、その後しばらくは大学院生として原子核物理の研究を行い、1928年理研に移り、西川正治研究室で陰極線の研究を行う。1932年は奇跡の年、中性子の発見、人工的な原子核の壊変、重水の発見が引き続く。
     このころ、新設の大阪大学に移り、原子核研究の拠点をつくる。コッククロフト・ワルトン型の加速器をつくる。1941年からは、海軍の技師としてレーダーの研究に携わる。
     1951年から1年アメリカ留学。
     1955年原子核研究所の設立と同時に、初代所長に就任している。
     1959年原子力研究所の理事長に移る。1964年理事長を辞し、1966年から4年間東京理科大学の学長を務める。

     1965年の『日本物理学会誌』20(7), 472-475, 1965-07-05に原研の肩書きで「原子力の将来について」と題する菊池正士の文章があります。科学者らしい冷静な議論を展開しています。
     「まず原子力発電をやるならやるでその意味がなければならない。それは一体何であろうか。」という疑問を立てています。「なかなかそう簡単にはゆかない。」と回答しています。
     原子力発電を従来の火力発電と比較したとき、蒸気タービン・発電機・配電システムは従来のままなので、ボイラーを見れば原子力の方がコスト高になる。「原子力の特長が出るのは燃料の面だけである。」
     「今の型式の原子力発電で行く限りどの type をとるにしても画期的に安価な電力が得られることは無いと断言していい。」

  • 2011.4.18(月)  
     図書館から次の本が ILL で届いているという報せが先週末ありました。
     木村一治『核と共に50年』築地書館、1990
     大学につくとまず図書館でこの本を借り出しました。

     帰宅すると次の2冊が届いていました。
     矢部史郎『原子力都市』以文社、2010
     五島勉『究極の終戦秘史:日本・原爆開発の真実』NON ブック、2001

     気になるので、あいている時間をみつけて、木村一治『核と共に50年』(築地書館、1990)を読んでいました。木村一治氏がどういう経緯で広島の放射能を測定したのかよくわかりました。
     「仁科芳雄は責任上からも直ちに軍の飛行機で広島に飛ぶ。彼は焼け跡からいろいろな試料を集めて陸軍の飛行機で理研に送ってきた。しかし、仁科研究室には秘書の横山すみ女史と、玉木英彦しかいなくて、私が自分のローリッチェン電気計で試料の放射能を測ることになった。8月10日午後だった。もっと感度のよいガイガー計数管もあったが、故障でダメだった。土だの木材だの調べるうちに、銅線にかなりの放射能があることが分かり「やっぱり原子爆弾だ」と言って回ったのだった。それはもう夕方頃であった。たぶん東京で科学的に原爆だと証明した最初だと思う。」(p.46)
     「阪大グループ、京大荒勝教授のグループは私より早く入広したが放射能の測定は私より後だった。」
     「私は当然広島に調査に行きたかった。陸軍軍医学校の調査班も物理学者の同行を希望していたので話が合い、玉木氏のほか放射能生物学者の村地孝一、そして私は軍医少佐の御園生圭輔氏に引率されて広島に急行することとなった。御園生氏は一応上司の了解を得たのだと思うが、私は勝手に「行こう」と言って出かけただけだった。主任研究員など、どこにいるのやら全然連絡もつかない。旅費などはどうしたのか全然記憶がない。」
     「陸軍の飛行機で、という玉木氏の話もあったが12日夜牛込の陸軍第一病院に勢ぞろいし、その夜の夜行列車に乗り込んだ。この夜の暗かったこと。月のない夜は東京の真ん中でも一寸先も見えない闇となる。赤紙を持つ身とはいえ悲愴感あまりなし。
     14日の明け方広島に近づく。」(p.49)
     以上で私の疑問は解消しました。つまり、木村一治氏が調査に行ったのは、彼自身の意志であること、ただしひとりで行ったのではなく、陸軍軍医学校の調査班に同行したことです。本人としてはそのまま広島で召集に応じるつもりだったのでしょう。しかし、調査している間に、8月15日を迎えます。しかし、調査はそのまま継続しています。
     従って、この木村一治氏の調査は、(笹本さんの見立てと異なって)軍事行動の継続とは言い切れません。

  • 2011.4.19(火)  
     YouTube でNHKの番組「原発導入のシナリオ〜冷戦下の対日原子力戦略〜」(1994年放映)を見ました。おどろおどろしい音楽は趣味が悪いと思いますが、基本的なストーリーはこれでよいと思います。柴田よりも正力の方が重要な役目を果たしたと考えますが、その辺りはウェイトの置き方なのでテレビ番組としてはこれでよいのではないかと思います。

     ソ連に対抗する、アメリカの核戦略の一環として原子力発電が導入されたことが押さえられればそれで OK でしょう。

     お昼に次の本が届きました。
     三宅泰雄『死の灰と闘う科学者』岩波新書、1972

  • 2011.4.20(水)  
      [機微核技術]
     4月15日(金曜日)にも触れましたが、吉岡斉氏の主張「日本の原子力政策は「国家安全保障のための原子力」の公理のもとで進められてきた。・・・日本は核武装を控えるが、核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持するために、あらゆる種類の機微核技術 を開発・保有し、それを日本の安全保障政策の不可欠の部分とする」(p.47)(吉岡斉「原子力政策の事例分析」『科学史研究』(2011年春号)pp.47-49) について、裏がとれません。裏付けとなる資料が見つかりません。

     ただの見通し、推測ですが、1975年に原子力供給国グループ(NSG) というのが結成されます。日本原子力開発機構「核不拡散科学技術センター」の発行する「核不拡散ニュース」によれば、1974年のインドによる核実験を契機とした国際的な核不拡散強化策の一つであり、非核兵器国に対する原子力資機材、技術の輸出管理を強化、調整する枠組みとして結成された。1978年にガイドラインを公表したということです。
     このあたりかなと推測されますが、確証がありません。基本公理ですから非常に重要なポイントです。どなたか、根拠となる資料の所在をご存じの方、お教えいただけないでしょうか? 吉岡さんの『原子力の社会史』を研究室で探し出せば出てくるのかもしれませんが・・・。

     ともあれ、吉岡斉氏の論文を入手し、読むことからはじめたいと思います。

     吉岡斉「日本の原子力発電政策の合理化へ向けて―4つの路線の合理化の総合評価の試み―」『比較社会文化(九州大学)』第3巻(1997): 1-10
     上記の疑問に直接回答するものではありませんが、日本の原子力政策を理解するためにはこれも必読文献でしょう。ウェブで簡単に入手出来るので、是非!!

     吉岡斉「28a-J-4 日本の原子力研究の形成と展開」 『(日本物理学会)年会講演予稿集』 47(4), 281-282, 1992-03-12
     基本的論点のまとめです。

     九大の紀要には他に次のものを挙げています。

     吉岡斉「岐路に立つ日本の核政策」『平和研究』20巻(1996): 67-81

     吉岡斉「日本の原子力体制の形成と展開:1954-1991―構造史的アプローチの試み」『年報 科学・技術・社会』第1巻(1992): 1-31

     吉岡斉「戦後日本のプルトニウム政策史を考える」『年報 科学・技術・社会』第2巻(1993): 1-36

     『年報 科学・技術・社会』は持っていたような持っていなかったような、記憶が定かではありません。

     →すこしはやめに大学に出て、研究室で吉岡さんの『原子力の社会史』を探しました。地震の後かたづけを完了していないので苦労しましたが、見つけだしました。わかってしまえば、ここにおいたか、というところにありました。
     全部をきちんと読んだわけではありませんが、この本の出版の時点では「日本の原子力政策の基本公理」という形の整理はないように見えます。だとすれば、21世紀のどこかで吉岡さんは基本公理を見出したころになります。ともかく資料を集めて調べます。

     さて、今日は会議の日です。私が司会をしなければならない会議が午後2つ続きます。もめる案件は扱わないので、長引くことはないという予想を立てています。
     3限の時刻に行われたコース会議も、4限の時刻に行われた総合科目推進室会議も予定通り短く終了しました。

     帰宅すると、次の本が届いていました。

     仁科記念財団編纂『原子爆弾:広島・長崎の写真と記録』光風社、1973
     出版の昭和48年の時点で定価1万円の大冊です。タイトルにあるとおり、写真と記録からなります。

     夕刻次の本が届きました。

     大庭里美『核拡散と原発:希望の種子を広めるために』南方新社、2005

  • 2011.4.22(金)  
      [21世紀の原子力の理論リーダー 藤家洋一氏]
     編者の方より、次の資料を教えてもらいました。

     芝一角「連載 電力人脈銘々伝11 原子力人脈の払底」『月刊政経人』(Dec. 1998): 95-107
     原子力のあり方に関しては無批判的ですが、私にはとても参考になる資料です。
     →初期原子力発電人脈。1.正力松太郎、2.石川一郎、3.太田垣士郎(関西電力社長)
     4.嵯峨根遼吉(石川一郎訪米調査団、安川第五郎訪英団の中心人物)、5.茅誠司(東大学長、原子炉鉄材の専門家)、6.藤家洋一(原子力学界の理論武装のリーダー)

     次のサイトニュークリアサロン藤家 からダウンロードできます。「前原子力委員会委員長で東京工業大学名誉教授の藤家洋一先生のこれまでの原子力界における幅広い活動内容を紹介するもの」とあります。
     藤家洋一氏について上の芝氏は「現在の原子力学界において、独自の理論展開を行う、理論武装のリーダーとしては、藤家洋一・原子力委員会委員長代理を挙げることができるだろう」と記しています。原子力委員長代理に就任したのは、(東工大定年退職後)1998年です。21世紀の原子力のリーダーの一人ということで間違いないようです。

      [『環境と公害』]
     お昼過ぎに、岩波ブックオーダーから次の雑誌が届きました。
     『環境と公害』Vol.39, No.3 (Winter, 2010) 
     2つの特集が組まれています。一つが、[緊急特集]「政権交代―環境政策はどう変わるか」。ふたつめが、[特集]低酸素社会への選択―原子力か再生可能エネルギーか。
    [緊急特集]「政権交代―環境政策はどう変わるか」
     永井進「サステイナブル交通と高速道路無料化政策」
     保母武彦「公共事業の見直しと環境保護」
    [特集]「低酸素社会への選択―原子力か再生可能エネルギーか」
     大島堅一「持続可能な低炭素社会をつくる――特集にあたって」
     長谷川公一「低炭素社会に向けて――コペンハーゲン会議の現場から」
     鈴木達治郎「「原子力ルネッサンス」の期待と現実――課題は克服できるか」
     福本榮雄「ドイツ脱原発見直しの矛盾――再生可能エネルギーとの競合激化へ」
     渡辺満久「原子力施設安全審査システムへの疑問――変動地形学の視点から」
     吉岡斉「日本の原子力政策決定システム改革の可能性」
     飯田哲也「世界の自然エネルギー革命に追いつけるか――新政権のもとでの環境エネルギー政策の行方」
     《座談会》飯田哲也・鈴木達治郎・大島堅一・高村ゆかり「低炭素社会をめざして――政権交代と構造転換」
     今勉強するためにはちょうどよい特集になっています。  

      [吉岡斉『原子力の社会史』(1999)]
     せっかく研究室で吉岡斉『原子力の社会史』(1999)が見つかったので読み通しました。最後の方は、日本の政策決定過程の(吉岡氏自身が委員として参加した体験も影響しているでしょう)不合理性に対する怒りを感じます。
     今回の福島第一原発の事故を背景に考えると、多くの人は怒りを禁じ得ないと思います。
     (→本文と索引をあわせて335頁です。たぶん、朝日選書としては長いのだと思われます。どうせ長くなるんであれば、文献表はつけてほしかった。本文中の諸所に ( ) に入れて文献は挙げられていますが、歴史という以上、典拠を示すことは大切です。編集部の方針でしょうが、文献表とできれば重要な箇所だけでもよいので注を入れてほしかった。)
     (→どこかで誰かも指摘していたと思いますが、広島と長崎の原爆投下のこともビキニの核実験のこともほとんど触れられていません。日本の原子力政策の形成と展開に影響を与えなかったということで触れなかったのかもしれませんが、核エネルギーの使用に対する根本的な NO は、被爆体験の理不尽さによります。触れないなら触れないで、そのことに関する断りを1パラグラフでも入れてほしかった。)

  • 2011.4.23(土)  
      [吉岡斉氏の「国家安全保障のための原子力」公理]
     昨日届いた『環境と公害』(2010年冬号)から吉岡斉氏の論文を読みました。

     吉岡斉「日本の原子力政策決定システム改革の可能性」『環境と公害』Vol.39, No.3 (Winter, 2010): 42-48

     最初の部分に「「国家安全保障のための原子力」の公理というのは、この論文で初めて用いる表現である」(p.42)とあります。
     これで謎の半分は解けました。この雑誌の発行は2010年1月です。原稿は内容から見て2009年に執筆されています。「国家安全保障のための原子力」の公理、という吉岡斉氏の表現は2009年の冬に見出され、使用されたものと見て間違いないでしょう。ただし、ここでも吉岡氏は、裏付けとなる資料を提示してくれていません。もうすこし探したいと思います。
     (→この公理は、吉岡氏の見立てである可能性を考える必要が出てきました。インサイダーの一部、とくに政治家の一部と官僚の一部は、こうした見方をしているのかもしれませんが、全体に共有されている「公理」ではないのかもしれません。)

     お昼過ぎに、2号のゲラが届きました。すなわち、仕事です。まずは単純にカウントします。ページ数をあわせるためです。私自身はそのほかに、年会特集にあわせて詳細プログラムを作成する必要があります。
     手持ちのものをほとんど入稿したので、第3号についても目処がつきました。やれやれ。

  • 2011.4.24(日)  
      [日米原子力研究協定の政治的背景]
     編集者の方に教えてもらった次の論文を読みました。

     田中慎吾「日米原子力研究協定の成立:日本側交渉過程の分析」『国際公共政策研究(大阪大学)』第13巻第2号(2009): 141-156
     好論文です。ただし、本人が最後に述べているように、米国側の資料を使っていないので、アメリカ側の考え方(対日核戦略)をきちんと捉えることができていません。一貫した見通しを得るためには、主従の関係では、主の側から見ることがどうしても必要です。

     大きなポイントは、United States, "Atoms for Peace", Proposal: Address by President Eisenhower to the General Assenbly, December 8, 1953 の政治的背景です。
     →さすがに、英語の先行研究を調べると、科学史のものを含めて数多く存在します。こうしたものをきちんと読むと、見通しをつけることはできるかと思います。

  • 2011.4.25(月)  
     はやく目覚めたので、子どもたちが学校にでかける前に、次の論文を読み通すことができました。

     John Krige, "Atoms for Peace, Scientific Internationalism and Scientific Intelligence," ::, pp.1-44
     「アメリカの外交政策の道具として優しいアトムを打ち出すことは、冷戦の初期、心理戦に勝利することを目指した科学者にも政策立案者にとっても重要なことであった。1940年代遅く研究目的&治療目的でラジオアイソトープを友好国に配ることに続いたのが、1953年12月アイゼンハワーが国連で行った「平和のための原子力」演説であった。これはめざましいものであった。この論文は、最初はラジオアイソトープの提供、ついで原子炉技術の提供(とくに1955年のジュネーブ会議における)がもつ多義的な意味を解明することである。」(サマリーの抄訳)
     これですべての疑問が解消したとは言いませんが、見通しはつきました。「スターリンは死んだ。朝鮮戦争は終わった。」というフレイズが印象的です。スターリンの死は1953年(昭和28年)春、朝鮮戦争の終結(停戦)は同じ年の夏です。この辺りの基本的な年表に関しては、4月15日の項をご覧下さい。一気に時代が動いています。
     この論文の注を見る限り、基本文献の一つは次のようです。

     Richard G. Hewlett and Jack M. Holl, Atoms for Peace and War. 1953-1961. Eisenhower and the Atomic Energy Commission, Berkeley, 1989.
     この辺りは時間ができたときにまた調べます。
     (John Krige, “Atoms for Peace, Scientific Internationalism, and Scientific Intelligence,” OSIRIS 2006, 21, 161-181.)

     ちびどもが学校に出て、幼稚園児が登園する中間に家をでました。
     図書館から ILL での文献コピーが届いたという報せが来ていたので、まず図書館で次のものを受け取りました。

     吉岡斉「岐路に立つ日本の核政策」『平和研究』20巻(1996): 67-81

     印刷室で印刷をしたあと、研究室で読みました。これは意味のある論文です。やはり資料的裏付けのない主張も混じるように思われますが、非常にクリアーカットな議論を組み立てています。議論を先に進めるためにとてもよい論文です。

     →78頁から79頁にかけて次のように記述されています。
     「日米双方の神話[吉本注:アメリカの原爆投下神話とは、「50万人から100万人の米国人の命を救うため原爆は投下された」というもの。日本の神話は「唯一の被爆国神話」]は互いに相補的役割を果たし、戦後の日米同盟の安定化に寄与することとなった。しかもこの神話の裏側には、原爆投下を通しての日米同盟構築という歴史的事実があった。原爆投下は戦後におけるソ連の極東地域での発言権を最小限に止めるために、米国が日本の協力を要請した行為であり、いわば米国から日本に対する日米同盟への「招待状」であった。米国としては関東平野上陸作戦(コロネット作戦)の開始(46年3月予定)までに、ソ連軍が極東地域の大部分を平定し、戦後も解放者としてそこを支配しつづけることを、容認できなかったのである。この「招待状」により日本政府は、連合国に対する降伏の大義名分を得て、国内の降伏反対勢力を押さえ込み、迫り来るソ連の驚異を免れることができたのである。早期終戦を望む日本の指導層にとって、それはまさに渡りに船であった。日米両国政府は、原爆被爆者の犠牲の上に、日米核同盟を構築したのである。「核加害国」と「核被害国」が戦後すぐに核同盟を結ぶことができたのは、原爆投下がまさにその方向への外向的取引であったことによる。」
     →うーむ、どうでしょうか? 見立てとしては成り立つと思いますが、史実としては裏付けがないように思います。

     2限の教室のキャパシティは206名。教室はいっぱいにはなっていません。しかし、235部刷った配付資料がなくなり、授業の終了時にくれませんかと来る学生が10名近く現れました。いったいどこに消えるのでしょうか? 謎です。

     3限は、今日は3人お休みして、出席学生2名のみ。4限には、16年ぶりぐらいのお客さん。博士号を取得されたばかりということです。

     帰宅すると、次の本がアマゾンのマーケットプレイスより届いていました。

     柴田秀利『炎のごとく、水のごとく:次代に賭けた柴田秀利遺稿集』中央公論事業出版、平成2年。
     発注したのは、柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』(中公文庫)です。違ったものが送られてきましたが(アマゾンのマーケットプレイスでははじめて)、資料として手元にあってもよいものです。そのままとします。

  • 2011.4.26(火)  
     ウェブで調べてみました。John Krige (発音不明)は「平和のための原子力」研究の中心人物の一人のようです。アイソトープに注目したのは、慧眼だと思われます。彼の研究をすこし追いかけようと思います。
     →発音は普通にクリーゲでよいようです。南アフリカ生まれ、フランスで研究をしたのち、アメリカに渡ったことを古川安日大教授に教えてもらいました。

     夕刻、昼間アマゾンに注文した次の本が届きました。
     John Krige, American Hegemony and the Postwar Reconstruction of Science in Europe
    (Transformations: Studies in the History of Science and Technology)
    Cambridge, Mass.: The MIT Press, 2006

     目次は次の通りです。
    1. Basic Science and the Coproduction of American Hegemony 1
    2. Science and the Marshall Plan 15
    3. The Place of CERN in U.S. Science and Foreign Policy 57
    5. The Rockefeller Foundation Confronts Communism in Europe and Anti-Communism at Home: The Case of Boris Ephrussi 115
    6. The Ford Foundation, Physicsm and the Intellectual Cold War in Europe 153
    7. Providing "Trained Manpower for Freedom": NATO, the Ford Foundation, and MIT 191
    8. "Carrying American Ideas to the Unconverted": Philip Morse's Promotion of Operations Research in NATO 227
    9. Concluding Reflections: Hegemony and "Americanization" 253
     (上記のサイトで1章と索引のpdf がダウンロードできます。)
     (20世紀の科学技術史を考えるとき、必要となるポイントが探究されています。)

     →英語の研究文献をざっと読んでいきます。私はこの分野の専門家ではないので、一定数読んで、基本となるものをつかみ、できるだけよい文献を探りたいと思います。

     →その前にもう少し基本をまとめておきます。
     NPT の失敗。核兵器不拡散条約 (NPT: Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons) は1968年7月署名、1970年3月発効した。1967年1月1日以前に核兵器の製造と核爆発実験を行ったアメリカ・イギリス・フランス・中国・ソビエト連邦を核兵器国、その他を非核兵器国と位置づけた上で、非核兵器国に対しては核兵器の開発・保有を禁止するが、原子力の平和利用は認める。
     第1に、1967年年頭の現状追認の差別的条約であることです。明かな差別性、不平等性があります。
     第2に、NPT に加盟しなかった国のなかに、現実に核兵器保有に走った国が出現します。イスラエル(詳細は不明)、インド(1974;1998に核実験)、パキスタン(1998に核実験)の3国です。NPT 体制の根本的な危機です。
     第3に、NPT 加盟国のなかにも核兵器開発疑惑が出ています。北朝鮮とイランです。(北朝鮮の地位は微妙です。2003年にNPT 脱退表明をしています。)
     第4に、アメリカが市場の大きさに負けて(でしょうか)、インドとの間に、米印原子力協力協定を2008年10月10日に結びます(正式署名)。
     これでは、なし崩しです。日本もアメリカに追随する(した?)様子です。

  • 2011.4.27(水)  
     次のサイトに国会議員でただひとり原子力工学の専門家だった吉井英勝衆院議員のインタービューが掲載されています。
    福島第1原発事故は二重の人災だった:日本共産党・吉井英勝衆院議員に聞く(上)
     まとめとしてとてもわかりやすい。そして、起きたことに関してはこれでよいでしょう。今後に向けて大切なことは、実行可能な複数のプランを提示して、国会でも国民の間でも議論していくことでしょう。最終的にはあるレベルの合理性が保持されていれば、現地の人が選ぶ形も視野にいれるべきでしょう。(被災地一律の復興プランは無理かもしれないという見通しに基づきます。)

      [研究用と医療用のアイソトープ]
     日本側の状況。『仁科芳雄』(みすず書房)にあります。(radioisotope: 放射性同位体)
     p.186とp.187 の間の挿入図版。no pag. 「国際学界への復帰とアイソトープの輸入。1948年ボーア教授がアメリカに来ていると聞いた仁科博士は、ちょうどプリンストンに赴く湯川秀樹博士に託してボーアに手紙を送った。ボーアは、1949年9月にコペンハーゲンで開かれる国際学術会議の総会に、仁科が日本代表として出席できるよう在日占領軍当局に働きかけてくれた。仁科博士は会議に出席できただけではなく、ボーア教授のところに泊って懇談することができた。1950年には、アメリカの科学アカデミーのよる招待で訪米する日本学術会議の代表団に、仁科博士は副会長として加わった。仁科博士はかねてから、アメリカの原子炉でつくられる放射性アイソトープ[強調は吉本]を、日本の科学者の研究用に輸入することを計画していたが、その訪米を機に輸入ができるようになった。」  
     本文中の斎藤信房氏の記事「仁科芳雄とアイソトープ」『仁科芳雄』pp.128-134 に詳しい経緯が記述されています。
     「しかし、仁科の熱意はついに聞き入れられ、1950年4月10日アメリカ哲学会の好意により、オークリッジ国立研究所でつくられたアイソトープが仁科研究所に到着した。」(p.132)「戦後、米国がアイソトープを送る許可を与えた被占領国としては日本がはじめてであった・・。」(p.133)
     「到着したアイソトープの利用は仁科の要望もあり、東大理学部木村健二郎研究室(地当時木村は(株)科学研究所の主任研究員も兼担していた)で行われることとなり、アンチモン125入りの容器は木村研究室に運ばれた。容器は、東大理学部化学教室の中庭において、研究室員監視の下に、斎藤信房、垣花秀武、原礼之助らが容器の開封作業を行ったが、内容物は銀白色のスズの粒子であり、アンチモン125そのものではなかった。」すなわち、「オークリッジ国立研究所の原子炉で照射したスズの粒子」であった。そこから化学分離により、「アンチモン125のみならず、インジウム113m 」も得られ、「いずれもトレーサーとして有効に利用された」のであった。(p.133)

     実は、これは、アイゼンハワーの演説のずっと前(3年半前)ですが、「平和のための原子力」プログラムにぴったりの事例です。アメリカの核戦略、外交戦略のなかにこうした事例が組み込まれたということを意味します。

      [平和のための原子力]
     英語の論文を読んでいる最中ですが、さすがにこのテーマで日本語文献がないのはおかしいと考えて、検索してみました。前に紹介した1994年のNHKの番組「原発導入のシナリオ:冷戦下の対日原子力戦略」のスクリプトが2種類みつかりました。公式のものではないのかもしれませんが、番組そのものが YouTube で見られるのでチェックは容易です。一般的な出発点としてはこれがよいと思います。(しかし、一度ちゃんとした英語の先行研究に目を通してしまうと、アイゼンハワーの「平和のための原子力」プログラムひとつとってみても、背景となったことがらの複雑性、プログラムそのものの重層性は見事にスキップされ単純化されています。単純にスターリンの死という重要な契機に対する対応ということが書かれていません。)

     また、外務省軍縮不拡散・科学部 国際原子力室長 小溝泰義氏による「原子力ルネサンスの潮流と日本の原子力外交」というポワーポイント類似書類がゲットできます。これは政府の公式文書で、どういう言葉がどういうふうに使われたのかを知るのに有用です。たとえば、12頁で、1945年11月15日、米英加三カ国共同宣言で「保障措置」という用語が核不拡散のコンテキストで初めて使われたと指摘されています。
     11頁。核不拡散/保障措置:Non-proliferation / Safeguards.
    核セキュリテイ: Nuclear Security
    原子力安全: Nuclear Safety
     17頁に、IAEA 保障措置とは何かが書かれています。「原子力が平和的利用から軍事的利用に転用されないことを確保するための措置」とあります。単純にまとめれば、軍事転用させない保障ということでしょうか。
     20頁に、IAEA 核セキュリティの定義が記されています。「次の4つの脅威、1)核兵器の盗取、2)盗取された核物質を用いた核爆発装置の製造、3)放射性物質の発散装置(いわゆる「汚い爆弾」)の製造、4)原子力施設や放射性物質の輸送等に対する妨害破壊行為、が現実のものにならないように講じられる措置」を指す。
     参考として挙げられている「核不拡散と不可分の原子力平和利用―若干の歴史的背景―」でさえも、NHKの番組ではスキップされた背景事項、前提となる歴史的経緯が列挙されています。

     他にも、金子熊夫(初代外務省原子力課長、外交評論家、エネルギー戦略研究会会長、WWW会議代表)という方の「技術と国際社会を考える」(科学技術と社会安全の関係を考える市民講座第2回、2005年11月12日 東京大学武田ホール)というやはりポワーポイント類似書類が見つかります。
     この辺りの方の立場は、吉岡斉氏の記述する公理の立場に非常に近い。まとめに次のようにあります。
    「もしチェルノブイリ事故のような大事故がアジアで発生すれば、日本の原子力も壊滅的な被害を受ける。日本は「安全で平和な原子力」を普及させよ。  
     原子力推進により石油需要を緩和すればエネルギー安全保障と地球温暖化防止に貢献する。他のエネルギー協力ももちろん必要である。」  
     結論として、アジアトム構想 APPA "Atoms for Peace and Prosperity in Asia" を !!とあります。
     さて、現在の金子熊夫氏の意見を聞きたい。

     歴史的背景も必要だと考え、次の論文も読みました。
     岩田修一郎「米国外交史再考―アイゼンハワー政権―」『東京家政学院筑波女子大学紀要』第4集(2000): 1-13
     書き始めが「1950年の朝鮮戦争によって、東西冷戦の継続と激化が決定的なものになった」です。そのあと(1952年)アメリカ大統領に就任するのがアイゼンハワーです。ポイントとなる点を短くまとめます。1.ニュールック戦略。膨らんだ国防費(トルーマン時代に130億ドルから500億ドルまで膨張していた。340億ドルまで愛山はワー政権は削減することに成功した)を押さえつつ、ソ連に対する軍事的優位を保つため、核兵器に依拠した。1953年に千発程度だった核弾頭数が1961年には8千発にまで増えた。2.朝鮮戦争で核が使用される可能性があった。(ダレスはネールを通じ現実に中国に核兵器使用もありえることを警告している。)3.第2次ベルリン危機のときにも、軍事衝突の可能性が高まっていた。アイゼンハワーは、ソ連の挑戦を受け大量報復戦略で立ち向かった。5.「冷戦期のアメリカの拡大抑止戦略は、矛盾と摩擦をはらむ困難な戦略課題であった。」(8頁)

     12時過ぎに研究室に着きました。まず、判子です。今年はお昼休みに判子を押して名前を書いていることが多い。(コース変更届にコース長として署名押印しています。)

     次に、下の論文をダウンロードしました。

     Martin J. Medhurst, "Atoms for Peace and Nuclear Hegemony: The Rhetorical Structure of a Cold War Campaign," Armed Forces and Society, 23(1997): 571-593.
     まだ部分的にしか読んでいませんが、よくできた論文です。

     昼食の前に、次の雑誌を買いました。
     『現代思想』2011年5月号、特集:東日本大震災、危機を生きる思想
     待ち時間に、吉岡斉氏、飯田哲也氏、塚原東吾氏の論考は読みました。他の方のものはあとで。

     会議は1時半から。終了が6時35分過ぎ。疲れました。たぶん、みんな疲れたと思います。

  • 2011.4.28(木)  
      [メドハースト「平和のための原子力と核の覇権」]
     昨日ダウンロードしたメドハーストの論文は非常に明晰な分析を提示しています。しかも、レトリックを問題にするだけあって、非常にうまく組み立てられています。
    Martin J. Medhurst, "Atoms for Peace and Nuclear Hegemony: The Rhetorical Structure of a Cold War Campaign," Armed Forces and Society, 23(1997): 571-593.
     結論部分だけ引用してみます。「この論文で私は、「平和のための原子力」キャンペーンがニュールック政策の履行のために直接利用された3つの方途をスケッチしようとした。このキャンペーンの軍事的/安全保障的側面に分析の焦点をあわせることで、「平和のための原子力」は、第1に聴衆の注意を原子力兵器の増強からそらせること、第2に1954年の原子力法の通過を容易にすることそしてその結果NATO の核兵器配備と調和させること、第3に外国の政府に対して放射能鉱石の交換であるいはお金になるマーケットへのアクセスと交換で研究用/発電用の原子炉の建造に繋がる2国間協定の締結へと誘うこと、この3つのうまく組み合わされた計画の一部であったことを示した。」
     私はこれで納得しました。キャンペーンに関わった全員が3つの側面全部を理解していたとは思えませんが、メドハーストのように見ることで立体的な把握が可能になります。

     なお演説そのものは、アメリカ大使館のサイトに、平和のための原子力(1953 年)演説 by ドワイト・D・アイゼンハワーとして邦訳が掲載されています。「上記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です」という注記があります。それはそうでしょう。
     →全文を読んでみました。やはり実物を読まないとわからないことがあります。予想していたものと印象がまったく違いました。当時の情勢に対する言葉が数多くあります。
     「軍人として人生の大半を送ってきた私が、でき得ることなら決して使いたくなかった言葉で、あえて話す必要があると感じている。」
     アメリカが行った核実験の話と、核兵器の拡散、戦力のバランスの話は出てきますが、広島、長崎の語はありません。(アメリカの原爆投下を含意する表現としては、 Against the dark background of the atomic bomb, the United Stats.... とだけあります。)
     「核軍備競争の対する「受け入れ可能な解決策」を模索するために、「主要関係国」とされる諸国と早急に個別会合を行う用意がある。」そして、その会議に新たな構想を持ち込む。その構想は「軍事目的の核物質の単なる削減や廃絶以上のもの」となる。
     それが「核エネルギーの平和利用」である。
     具体的提案としては次である。「主要関係国政府は、慎重な考慮に基づき、許容される範囲内で、標準ウランならびに核分裂物質の各国の備蓄から国際的な原子力機関に対して、それぞれ供出を行い、今後も供出を継続する。」
     なんと、具体的に提案されているのは、国連講演ではこれだけです。現在の平和利用という言葉からイメージされるものとは大いに異なります。もちろん「平和のための原子力」キャンペーンは、国連演説だけで終わるわけではなく、これは出発点に過ぎません。「平和のための原子力」を掲げ「心理戦」を中心として(言葉のイメージがもたらすものとは逆行するような、すなわち核兵器の増強とヨーロッパへの配備)関連する計画が実行されていきます。そうした関連する数多くの計画の看板として「平和のための原子力」は利用され、そうしたものとして成功したと言えると思います。その流れのなか日本では、讀賣新聞(正力)や中曽根が中心となって原子力予算を成立させ、原子力関連法案を成立させます。ある意味ではしたたかに2国間交渉を行っています。

  • 2011.4.30(土)  
      [『現代思想』(2011年5月号)]
     「東日本大震災、危機を生きる思想」を特集した『現代思想』(2011年5月号)は全部読むべきだろうと思い、どんどん読んでいます。論点は、ほぼ出されているように思います。典拠・参考文献をきちんとあげた、もっとわかりやすいまとめが必要だと思います。『現代思想』を読む人はあまりに限られている。『現代思想』の編集部、またはそのまわりにいる方の責任ではないでしょうか。
  • 2011.5.1(土)  
      [『現代思想』(2011年5月号)ii]

    柄谷行人「地震と日本」
    酒井直樹「「無責任の体系」 三たび 」
    西谷修「「未来」 はどこにあるのか」
    森達也「傷は残り、時おり疼く」
    関曠野「ヒロシマからフクシマへ」
    ハリー・ハルトゥーニアン (訳=後藤悠一)「破綻した国家」
    ブライアン・マッスミ (訳=長原豊)「災害の半減期」
    長原豊「滂沱の涙、緩慢な Artemisia vulgaris」

    早尾貴紀「原発大震災、「孤立都市」 仙台脱出記」
    吉岡斉「福島原発震災の政策的意味」
    飯田哲也「ゲンパツを可能にし、不能にしたもの」
    梅林宏道「軍事支配の下流に置かれた 「平和利用」 福島事態と市民社会」
    小松美彦「封印された 「死の灰」 はそれでも降る」
    ガヴァン・マコーマック (訳=佐野智規)「罰せられた過信 核国家としての日本」
    高橋博子「「安全神話」 はだれが作ったのか ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ」
    山本昭宏「原爆投下以後、反原発以前 戦後日本と 「平和」 で 「安全」 な核エネルギー」
    マニュエル・ヤン「ミッドナイト・ノーツ・コレクティヴの一九七九年原発批判と新しい階級闘争」
    『来るべき蜂起』 翻訳委員会「流言の氾濫はすでに革命の到来を告げている」

    矢部史郎「東京を離れて」
    土佐弘之「ハイブリッド・モンスターの政治学 不確実性という活断層」
    美馬達哉「災害を考えるためのメモ リスク論を手がかりに」
    篠原雅武「エコロジー論へ 崩壊状況からの思考」
    平川秀幸「三・一一以降の科学技術ガバナンスに向けて 過去を通じての未来へ」

    東琢磨「ヒロシマ4と命てんでんこのあいだで」
    塚原東吾「災害資本主義の発動 二度破壊された神戸から何を学ぶのか?」
    岡田知弘「東日本大震災からの復興の視座」
    阿部安成「復興のリリック(fukkou no lyric)」

    中島孝「災害の難病化とその中に見えた希望――逆トリアージ」
    川島孝一郎「大規模複合災害における在宅医療・介護提供」
    山田昭義+水谷真「障害者は避難所に避難できない 災害支援のあり方を根本から見直す」
    鈴木江理子「大震災で見えてきた在日外国人たちの姿」
    山口素明「誰も殺すな 原発労働者とは誰か」

     高橋博子氏は121頁で「現在、政府や「専門家」やメディアで基準としている被爆線量推定システムは、もともと広島・長崎への原爆投下や核実験によって得られたデータによる外部被爆のシミュレーションにすぎず、食料や水を通して体内に入って被爆する内部被爆の影響については推し量ることは困難である。それにもかかわらず、原爆症集団認定訴訟の国側の証人として発言した科学者は「科学的データ」として、内部被爆によって被爆したであろう原告側の訴えを否定する道具として利用した。」
     「このように放射線の「安全神話」は、被害を生み出した側がその犯罪性を隠蔽するために築かれたものであると言える。」
     重要な指摘です。
     内部被爆に関しては、被爆による被害を推定するための信頼できるデータがそもそも存在しない。そして、外部被爆に関してそのデータは存在するが、それは、アメリカによる広島・長崎への原爆投下とアメリカ国内外の核実験によって得られたものである。

     私が残念だと思うのは、数点でもよいので典拠・参考とできる文献の提示、ならびに著者に関する簡単が情報が付加されていないことです。注は人によっては付けています。編集部で統一的な扱いをしてほしかった。厳密に同一でなくてもよい、ある幅に収まるようしてほしかった。
     具体的には、高橋博子氏は、2003年に同志社大学に提出した博士論文に基づき、広島平和研究所に赴任後の研究を付加して、2008年に『封印されたヒロシマ・ナガサキ―米核実験と民間防衛計画』(凱風社、2008)を出版されています。
     すくなくともこの情報だけでも、付加すべきでした。私はそのように考えます。

     高橋博子氏のひとつ前の、ガヴァン・マコーマック(佐野智規訳)「罰せられた過信 核国家としての日本」も関係するテーマに関して、重要な事実を指摘してくれています。
     1.日本のプルトニウムの備蓄は、世界の民生プルトニウムの備蓄の5分の1に達している。
     2.「IAEA 前事務局長のムハメド・エルバラダイは再処理の危険性を認識した上で、それは最も厳しい国際的監視下でのみ行われるべきだとし、濃縮・再処理作業を5年間凍結するよう日本に勧告した。日本はこの勧告と取り合わなかった。」(p.112)
     3.「高レベル廃棄物はガラス固化されキャニスターに入れられているが、六ヶ所村にもどされたのち、表面温度が500度前後からゆっくりと冷めるまで、30年から50年のあいだ保管される。」(p.113)
     4.「高速増殖炉が、プルトニウムが蓄積されていくことに対する、もうひとつの解決策だ。高速増殖炉は非常に純粋な「超級」プルトニウムを増殖させる。だがそのリスクとコストを解決する技術は未だ確立されておらず、あまりに課題が多いのでいまや日本だけがそれを追及している。」(p.113)

     高橋博子氏の次の山本昭宏氏の論考も私がここで追究してきた問題に重なります。
     「占領下の無邪気な期待感」として二人の科学者(嵯峨根遼吉と渡辺慧)の核エネルギーに対する「無邪気な期待」を引用しています。広島と長崎への原爆投下による晩発性障害については、核物理学者においても知られていなかったと理解する必要があると思います。GHQ の検閲と情報秘匿が大いに効いたと言えるでしょう。
     武谷三男「われわれは原爆の被害国であるから、その点を外国に訴えて、原爆の被害国は最もフェアーに原子力の研究をやる権利があり、必要量のウラニウムを平和利用のためにのみ無条件に入手する便宜をはかる義務を諸外国はもっているはずである、と主張すべきだというのである。」
     これは現在からすれば、非常に不思議な発言です。日本国内でしか通用しない、100%内向きの発言だと思います。あるいは、アメリカの「平和のための原子力」キャンペーンに完全にはめられたと言えばよいのでしょうか。まずは、甘えと国際的視野の欠如を指摘しなければなりません。

     夕刻降り出した雨のなか、次の本が届きました。午前中に注文したものです。アマゾンは連休も関係なく動いてくれています。
     高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ―米核実験と民間防衛計画』凱風社、2008
     この書物は、非常に重要な書物だと思われます。第2回日本平和学会平和研究奨励賞を受けていますが、大学等で基本的なテキストとして読まれるべきではないでしょうか。すくなくとも私のテキストとして使います。
     (もっと正直に正確に語れば、私がこのテーマを追いかけるもととなったポイントに帰ってきています。核被害の検閲と情報隠蔽の問題です。
     自分のサイトを検索してみました。この問題に取り組んだのは、今年に入ってからです。)

     「はじめに」で高橋さんは「第二次世界大戦後、核戦争の現実を伝える責任があるはずの日本は、米国の「核の傘」の下で原爆を投下した当事国(米国)にその責任を問わずに今日に至っている。同時に、植民地支配と戦争に苦しんだアジア・太平洋の人々に対する戦争責任に向き合っていないがために、事実を伝える力すらない状態にある。それどころか戦争をあたかも「天災」のように扱っている。」(p.11)
     まったくそのとおりです。

  • 2011.5.2(月)  
      [原子力と検閲]
        今回の私の調査をまとめてみました。
      核エネルギー(原爆と原発)と検閲
     プリントアウトしたものを3種類のペンをもって読み通しました。49枚になっています。相当の量です。こうやって読むことで得られるアイディアとその繋がりがあります。
     確認できたこと。このサイトでの私の調査は、1月31日にスタートしています。
     3月2日に、「原子力の歴史を見直しておく必要」を感じています。
     同じく、3月2日に、「科学技術史における冷戦研究の必要」を感じています。クリーゲの仕事はまさにそうした種類のものです。
     つまり、個人的には、3月2日に自分の行っている調査がどういう分野・領域にわたるものか、見通しがついたことになります。それから、3月11日を迎えています。
  • 2011.5.3(火)  
      [高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ』]
       ぱっとみて、高橋博子『封印されたヒロシマ・ナガサキ』は短い本です。こちらを先に読み通すことにしました。お昼過ぎに読了しました。
     まず、224頁で紹介されている USA Today 2002.2.28 の記事を孫引きしましょう。
     「米国政府の未公開資料によると、冷戦期に地球の全域で行われた核実験による放射線降下物で、米国で51年以降に生まれた居住者のうち少なくとも1万5千人がガンで死亡した。
     同資料は、上記政府調査結果と合わせて、致命的でない二万人の――おそらくはさらに多くの――ガンもまた、地上核実験による放射性落下物に起因すると見積もっている。」
       次は、中川保雄氏の『放射線被爆の歴史』(技術と人間、1991)を入手して読む必要があるようです。一番のポイントがそこで指摘されているようです。

     →1点、不満があります。日本人の多くが原爆被害の不条理を知ったのは、中沢啓治氏のマンガ『はだしのゲン』によると思います。私も子どもの時に誰かの家(私の家にはマンガはなかったので、私以外の家ですが、どこで読んだのか記憶はありません)で読んだときの衝撃が今でも心の奥に鮮明に残っています。
     『はだしのゲン』にきちんと触れてほしかった。(もしかしたら高橋博子さんは『はだしのゲン』を読んだことがないのでしょうか? その可能性もあるように思えてきました。)

  • 2011.5.6(金)  
     朝の間に、読みかけになっていた次の本を読了しました。
     山崎正勝・日野川静枝編著『増補 原爆はこうして開発された』青木書店、1997
     10名による共著です。ひとりで書き上げた方が読みやすいものとなったと思います。
     →この本のメリットを挙げます。各章の冒頭に、1頁で「第○章への案内」がまとめられています。これはとてもわかりやすい工夫です。
     たとえば、「第6章への案内」への第二段落は次の通りです。
     「一九四三年の五月、軍事政策委員会は最初の原爆の投下目標にトラック島の日本艦隊を選んだ。一九四四年のはじめ、イギリスの諜報活動によってドイツでは原爆が作られていないことが判明した。これによって原爆開発はドイツ原爆の脅威に対抗するという防衛的な意味を失った。攻撃的な戦略へと転じた原爆計画は政策決定者たちによって日本投下へ向かって引き続き進められた。軍は、科学者たちの熱意が冷めるのを恐れ、ドイツに原爆がないという情報を科学者たちには秘密にしておいた。」
     私にとって重要なのは第七章の次の部分です。
     (二二三頁)「一九四五年四月一二日、原爆開発を指令した大統領ローズベルトが、心臓発作で急死した。かわって大統領になった H.S. トルーマンは、そのとき副大統領であったが、それまでまったく原爆開発計画の存在を知らされていなかった。」
     (二二四頁)「五月八日、ドイツは無条件降伏した。ヨーロッパでの戦争は終結し、残るはアジアでの対日戦のみとなった。そのころ、ソ連の進出に対抗するために、アメリカの政策決定者たちの間でアジア政策が根本的に見直されることになった。そうした過程で、ソ連の対日参戦の前提となっているヤルタ秘密協定の内容を、アメリカに有利に改訂する課題が生まれた。当然、その改訂はソ連の対日参戦前に実現しなければならないものであった。また、アメリカのアジア政策の柱に中国ではなく日本を据えるという考え方も改めて主張された。それは、ソ連やアジアの革命勢力に対抗するために、日本をアメリカのパートナーとして残そうというものであり、そのためには、徹底的な破壊がなされる前に日本を終戦に追い込む必要があったのである。」
     アメリカはこのときすでに日本がいずれ降伏すると見ていた。日本側の無条件降伏に対する抵抗のポイントは天皇制にあり、天皇制を保持する約束さえすれば無条件降伏に導きうるという確信があった。
     たとえば、国務長官代理のJ.C. グルーは五月二八日朝、大統領トルーマンに東京大空襲で日本が大損害を被っている今こそ、日本が自分で将来政治形態を決定することができるというメッセージを伝えれば、警告によって日本を降伏に導くことができると進言した。しかし、原爆の完成を待っていたトルーマンは、原爆のことは秘密にしたまま、引き延ばし戦術をとった。
     ポツダム会談は七月一七日に始まった。七月一六日原爆実験が大成功であったという第一報が伝えられた。トルーマンには翌朝その「予想を超える」成功が伝えられた。
     彼はこの日の会談で、ソ連の対日参戦が八月一五日になることを知らされ、日記に「それが起こったときに、日本は終わる」と記した。
     翌日(七月一八日)、第二報がもたらされた。会談でトルーマンはスターリンから日本の和平依頼の事実を知らされた。トルーマンは、日本が明白に終戦決意を示している以上、対日戦の終結は、ソ連の参戦によってではなく、アメリカの原爆投下によってもたらされるべきだと考えた。
     原爆の力を過信したトルーマンは、二二日、「この報告(グローブズの覚書)を読んだ後で会議に出たとき、トルーマンは別人となった。トルーマンはロシアにああしろこうしろと言い、会議全体を牛耳った」(二二八頁。荒井信一『原爆投下への道』東京大学出版会、二二二頁より、チャーチルの発言の孫引き)。
     七月二三日の夜、トルーマンに待望の報せが届いた。それは、八月一日ならばいつでも原爆が投下可能となったというものであった。
     トルーマンが牛耳った現実のポツダム宣言では、わざと、天皇制保証条文をあいまいにして七月二六日に出された。(原爆投下まで日本の降伏を遅らせるため。)
     スターリンは、トルーマンから前例のない破壊力をもつ新兵器をもっていると会議の終了間際に告げられたとき、それが原爆であることを理解し、一九四二年以来停止していた原爆開発を再開することをモロトフ外相と話した。
     以上、トルーマンの行動のもとにあったのは、ソ連の対日参戦の前に原爆投下によって 日本降伏を導こうという意図であった。

     しかし、トルーマンの意図は実現しなかった。八月六日、リトルボーイが広島に投下された。日本は降伏しなかった。そして、ソ連が八月九日未明(八月一五日の予定を繰り上げて)対日参戦してきた。(トルーマン側からすれば二重の予想外)。
     (以上、兵藤友博氏と日野川静枝氏の記述をいくらか書き換えました。)
     アメリカがとくにソ連(共産主義に対する防波堤)に対する軍事戦略として、原爆を投下したことは明らかです。

     今回の調査を行っていて、ビッグサイエンスについての基本的知識、冷戦期の科学技術史に関する基本的知識を確認する必要を感じました。
     ウェブで調べてみても、あまりあてになる情報はありません。そこで、アメリカで20世紀の科学技術史を勉強され、その分野で博士号を取得された橋本毅彦さんに質問してみました。すぐに教えてくれました。橋本さん、ありがとうございます。

     1)ビッグサイエンス
      日本語では、小泉賢吉郎『科学技術講義』
      英語ではすこし古くなったことは否めないが、Peter Galison and Bruce Hevly eds., Big Science: The Growth of Large-Scale Research, Stanford: Stanford University Press, 1992.

     2)冷戦期の科学技術史
     橋本さん自身によるレビュー、Takehiko HASHIMOTO, “Science after 1940: Recent Historical Researches and Issues on Postwar American Science and Technology,”Historia Scientiarum, vol. 8, no. 1 (1998), pp. 87-96.
     http://www.cmu.edu/coldwar/
    あとは自分で調べます。

  • 2011.5.8(日)  
     お昼過ぎに次の本が届きました。
     武田徹
     『私たちはこうして「原発大国」を選んだ:増補版「核」論』
     中公新書ラクレ、2011
     版ですが、もとは、『「核」論』勁草書房、2002;次は『「核」論』中公文庫、2002;そして今回のものは中公文庫版に若干の加筆・修正をしたうえで改題し、まえがきにかえてを付したものとあります。普通に言えば、第3版と言えます。

      [原子力工学出身代議士]
     このサイトで以前、国会議員としては共産党の吉井英勝議員がただ一人の原子力工学の専門家だと記述しました。雑誌かウェブの記述の引き写しです。昨日買った『週刊現代』を読んでいると、民主党の空本誠喜議員も原子力工学出身です。東大大学院原子力工学科出身で、原子力工学の博士号をもち、東芝で勤めていたという経歴のようです。辞任会見で脚光を浴びた小佐古敏荘氏(もと内閣参与)の教え子ということです。
     →ウェブで調べてみました。広島出身、早稲田の理工学部から東大大学院に進学し、博士号を取得してから東芝に勤めたということです。東芝でどういう仕事をしていたかのかはまだわかりません。(調査を続けます。)→YouTube に国会での質疑応答のシーンがあります。質問は重要なポイントを突いています。(すぐには難しいかもしれませんが、話し方をもう少し練習した方がよいと思いました。同じ趣旨でも言葉の選択によってインパクトはまったく違います。斑目春樹・原子力安全委員会委員長からもっとましな答弁を引き出すことができたのではないかと思います。政治家ですから、それは基本的能力です。)

     雑誌とウェブの情報を見ると、お二人ともに、もと原子力村の住人のようです。今回一番必要なのは、もと原子力村の住人からこれじゃまずい、これはまずいという批判が出てくることです。利権から離れて、個人でたてばよい。

     『週刊現代』では、もともと個人でたっていたノーベル化学賞受賞者根岸英一氏のインタビューが出ています。

     電源喪失の直接的原因
     上記のサイトに、共産党の吉井英勝議員が27日開催の衆院経済産業委員会で、電源喪失の直接的原因は、津波ではなく「夜の森線の受電鉄塔1基の倒壊」であることを東電公表の資料から分析して原子力安全・保安院の寺坂院長に質問したところ、受電鉄塔が津波の及ばない場所にあったことは認めた、という情報がありました。
     福島原発で実際何があったのか、まだ明らかになっていないと思います。この点でも東電は責任をまったく果たしていません。

     福島第一原発の事故は、地球規模の放射能汚染(そのなかであまり注目されていないが重要なのは空本誠喜議員も指摘するとおり海洋汚染だと思われます)を引き起こしています。東電には国際社会に対してまず何よりも何が起きたのかをできるだけ詳細にできるだけ正確に説明する義務があります。

  • 2011.5.9(月)  
     大学のメールボックスで編集者の方からお送りいただいた『科学 社会 人間』の第116号(2011.3)から、吉岡斉「科学技術政策に関する備忘録・2010年」と藤田祐幸「黎明期の原子力―科学者たちの戦後」の2点の論考を受け取りました。ありがとうございます。
     この雑誌は存在は知っていましたが、きちんと読んだことはありません。ウェブキャットでは次のタイトルになっています。
     『科学・社会・人間 : 「物理学者の社会的責任」サーキュラー』
     何と所蔵しているのは、中部大だけです。
     ともあれ、受け取った2点を読み通しました。吉岡さんのものはさすがにしっかり書かれています。正確な状況分析だと思います。
     藤田祐幸氏の論考は昔すこしだけ触れた記憶があります。むしろこっちが備忘録的文章です。資料の整理として有用ではあるが、分析がないように思います。

     授業の合間とお昼休みに、研究室を探しました。必要な文献が見つかりました。
     1) John Krige and Kai-Henrik Barth (eds.), Global Power Knowledge: Science and Technology in International Affairs, OSIRIS21 (2006).
     2)小泉賢吉郎『科学技術論講義:社会の中の科学・技術を考える』培風館、1997
     3)調麻佐志・川崎勝編著『科学技術時代への処方箋』北樹出版、1997
     4)橋本毅彦『<科学の発想>をたずねて:自然哲学から現代科学まで』左右社、2010
     探していたのは、最初の2冊です。あとの2冊は探していたら見つかった文献です。

     調べている事柄は、「ビッグサイエンス」です。「ビッグサイエンス」は科学の社会的あり方として根本的な問題を抱えています。19世紀的な科学者個人の純粋科学の営み(とそうしたあり方を前提とする政治的・倫理的問題)とはまったく異なる社会的・政治的位相に存在することを、科学者自身が理解しておく必要があります。しかし、そのことが単純に「大きさ」(中でも組織の大きさが一番でしょうか)ゆえに難しい。原子力(核エネルギーの軍事的&民事的利用)の場合、第一にアメリカのマンハッタン計画から冷戦期の原子力政策までを組織的に理解すること(科学社会学・科学政策学の仕事でしょう)、第二にアメリカの原子力政策史を背景として日本の中曽根予算前後からの原子力政策史を組織的に理解することが求められます。後半に関しては、吉岡氏の先駆的な仕事があります。

  • 2011.5.10(火)  
      [文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果]
       きっこさんの日記で、5月6日の国と東京電力の事故対策統合本部の合同記者会見で公表された「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」が紹介されています。信じたくないぐらいひどい数字です。専門家による数字の評価がすぐに必要だと思います。
     この数字であれば、まさにチェルノブイリ以上です。
     →グーグルニュースで検索すると0です。え、これは、何? (ブログに引用されている方はかなりいます。)専門家の解説が求められます。
     →11.5.11 翌日もグーグルニュースで検索してみましたが、ヒットするサイトはありません。グーグルがキャッチしているニュースサイトはどこも取り上げていないようです。え、なんで?

      [「理論物理計算が示す福島原発事故の真相」]
       編集者の方より、次の論文を送ってもらいました。
     西村肇・神足史人「理論物理計算が示す福島原発事故の真相」『現代化学』2011年5月号: 22-27
     必要な計算をきちんと行っています。
     西村肇氏のホームページを見ました。貴重なサイトだと思います。
     そこから、理論物理計算が示す福島原発事故の真相を見ました。上記の論文の説明を西村肇氏本人がされています。私にはよくわかりました。

     →西村肇氏は、私には『水俣病の科学』(岡本達明氏との共著、日本評論社、2001)の著者です。今回西村氏のサイトを見てはじめて西村さんがどういう研究者であるのかわかりました。科学者らしい科学者です。こういう方は、現体制維持を第一義とする抵抗勢力の方々とは悶着を起こしやすいが、信頼できる方です。
     水俣病の原因に関しては、このサイトのなかに 『水俣病の科学』第三章の要約があります。西村さんが言うとおり、「たしかに裁判ではチッソの加害責任は確定していますが、科学的には、それは立証されていません。」『水俣病の科学』はその科学的立証を行ったものです。2001年の出版であることに注目してほしいと思います。

      [ビッグサイエンス]
       綾部広則「第7章 巨大科学の問題」『科学技術時代への処方箋』(調麻佐志・川崎勝編著、北樹出版、1997): 126-144
     最後の部分に「巨大科学に関する研究書は実際のところあまりない」とあります。挙げているのは、吉岡さんや中山さんの仕事です。

     橋本毅彦「巨大加速器と巨大科学」『<科学の発想>をたずねて:自然哲学から現代科学まで』(左右社、2010): 211-220  

  • 2011.5.11(水)  
     朝のうちに、次の本が届きました。
     中山茂・後藤邦夫・吉岡斉編著
     『通史 日本の科学技術』全5巻
     学陽書房、1995
     現実に着いてみると、でかい。購入にはけっこう迷ったのですが、手元におくことにしました。現状で私に一番必要なのは第1巻 [占領期] 1945-1952 です。原子力の問題は第2巻[自立期]1952-1959 で扱われています。
     (発売の時点で全巻揃い10万8千円します。私はもちろん古書で購入しました。英米では普通、最近日本でもよく見かけるようになった元図書館所蔵本です。廃棄はもったいないと思いますが、我々にはたすかる。)

      [ビッグサイエンス ii ]
       橋本さんに推薦された小泉賢吉郎『科学技術論講義:社会の中の科学・技術を考える』(培風館、1997)の序章「問題の所在」と第1章「第2次世界大戦後の科学技術」を読みました。本はずっと前に買っていたのですが、目を落としたのは今回がはじめてです。教科書的な著作という性格上、深い分析はありませんが、これはなかなかよくできた書物です。すくなくとも自分が第2次世界大戦後の科学技術ということで授業を行うとき参考にできる種類の書物となっています。小泉氏は1942年生まれ(団塊の世代の直前)、ペンシルベニア大学で博士号(科学史・科学社会学)を取得されています。

      [ニュースサイト]
       不思議なので、「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」と西村肇・神足史人「理論物理計算が示す福島原発事故の真相」をグーグルニュースで検索し続けています。まだニュースサイトでは取り上げた事例が0です。不思議です。ブログではかなり数多くかかります。グーグルリアルタイムでもかなりの数がヒットします。日本のジャーナリストは一体何をしているのでしょうか?
     →今朝の朝日新聞は、いちばん真ん中の部分(19から21)でまさに「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」の別紙1の地図を採用しています。「文科省およびアメリカエネルギー省の資料から作成。地表面から1メートルの高さの空間線量率。4月29日」と朝日のキャプションにありますから、これは、「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」を使ったことで間違いありません。日本のメディアには出典を正確に表記する習慣がないので、「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」で検索をかけてもでないということは言えます。しかし、問題は、別紙2から別紙4までの蓄積量の方です。セシウム134と137の蓄積量は平米当たり、福島の地図上赤いところで300万から3千万ベクレル、 黄色いところで100万から300万ベクレルです。これは相当に高い値です。こちらの方を取り上げ、紹介・分析しないことがわからないことです。

  • 2011.5.12(木)  
     帰宅すると次の本が届いていました。
     Richard S. Hewlett and Jack H. Holl,
    Atoms for Peace and War, 1953-1961: Eisenhower and the Atomic Energy Commission
    Berkeley, Los Angeles and London: Univsersity of California Press, 1989
     すこし古くなっていますが、これが基本書のようです。なお、本の上部にACLS HUMANITIES E-BOOK とあります。ACLS というのは、American Council of Learned Societies の略です。裏表紙には、“ACLS HUMANITIES E-BOOK presents this volume as part of its Print-on-Demand (POD) program. This program offers a wide range of titles, across the humanities, that remain essential to research, writing and teaching.”とあります。POD だからこうなるというわけではないでしょうが、本の作り方は明らかにへたくそです。本を開いたとき、真ん中の部分のマージンが狭すぎます。実際に読むときにはかなり読みづらくなります。むしろいきなり自炊してしまった方が読みやすいかもしれません。これは、PODそのものの欠点ではなく、そもそも紙をバインドした本として出版する以上、出版業で蓄積されたノーハウにきちんと従っていないせいです。

      [ニュースサイト]
       駒場のS氏が次のサイトにニュースがあることを教えてくれました。

    アカハタの記事

    asahi.comの記事

    TBSニュース

     アカハタはこの分野の専門家野口邦和・日本大学専任講師(放射線防護学)のコメントを取っており、しっかりとした紹介になっています。
     アサヒは、佐藤久恵記者が京都大原子炉実験所の今中哲二氏(グーグルスカラーで検索してみて下さい。今中哲二氏の論考をゲットすることができます。チェルノブイリの事故の影響の概要(研究の現時点での概要)をつかむことができます)にコメントを取っています。記者のまとめは「汚染地域が広域で驚く。避難計画や、道路や公共施設などの除染対策の参考になる」ですが、今中さんが「避難計画や、道路や公共施設などの除染対策」の担当者というわけではありません。政府はこの地図に基づいて「避難計画や、道路や公共施設などの除染対策」を立てなければならない、立て直さなければならない、私は発言の趣旨はこうであったと推測します。

     前日の最後にも書きましたが、ポイントをまとめておきましょう。
     1)グーグルニュースで「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」で検索しても〇ヒットの理由は、日本のマスメディアには出典を正確に表記する習慣がないことです。
     読者が自分の目で直接確認できるようにする、そういう配慮は不要であると考えています。いつの時代のどの国の話なのでしょうか? 疑問です。
     学生たちにレポートの基本は、典拠を正確に記載することであると口をすっぱくして言っています。何度言ってもわからない学生はわかってくれません。その大きな原因はマスメディアにあると思います。
     今からでも遅くない、読者が自分の目で直接確認できるよう、典拠を正確に記載してほしいと思います。
     (→ウィキペディアでは、典拠をきちんと示すようにというコメントが最初についていることがあります。)

     2)「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」によれば、明らかに30キロ圏の外にもホットスポットが存在します。地図上で赤い場所は、原発からの距離に関係なく避難指定をしなければなりません。チェルノブイリの場合、子どもの甲状腺ガンが事故の5年後から急増しています。政府も東電も記事を書いている記者の一部もそのことを知っているはずです。私の一番の疑問はここにあります。

     →今中哲二、小出裕章、小林圭二、川野眞治、海老澤徹、渡辺美紀子、平野進一郎「ベラルーシ、ウクライナ、ロシアにおけるチェルノブイリ原発事故研究の現状調査報告」(2002) にチェルノブイリ事故の場合どの範囲が移住の対象となったかの記載があります。それによれば、セシウム137の土壌汚染密度平米当たり555キロベクレルが移住対象となり、被災3国あわせて1万キロ平米あまりに達している。チェルノブイリの周辺無人ゾーンは3700キロ平米で、大阪府の約2倍の面積である、とあります。
     「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」では別紙4の表がセシウム137の地表面への蓄積量です。黄色の外、緑のゾーンで、平米当たり600キロベクレルから1000キロベクレルです。すなわち、緑のゾーンはチェルノブイリの場合移住対象地域となっています。地図をよく見ると、30キロ圏に接してちょうど外の飯舘村のほぼ全域をカバーしています。この状況を放置してよいのでしょうか?

     → 11.5.13 もう一度ニュース情報を見直しました。4月22日、政府は「福島県飯館村の全域、葛尾村のほぼ全域、浪江町の20キロ圏外の全域、川俣町の一部、南相馬市の一部」を「計画的避難区域」に指定しています。5月下旬を目処に避難を完了させるとあります。「文部科学省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果」の地図(またはそれと同等の地図に基づいて区域が指定されたことがわかります。黄色の部分を指定したということのようです。地図をよく見ると、田村市や川内村の一部も黄色い。方針を一貫させて、そこも避難指定をすべきだと思います。
     チェルノブイリのときよりも甘い基準を日本政府と日本国民は許すべきでしょうか? 地元の人の苦痛はよくわかりますが、方針を一貫させるべきだと思います。

  • 2011.5.13(金)  
     『現代化学』のサイトに次の論文があります。pdf でゲットできます。
     杉浦紳之「放射能の人体に対する影響」『現代化学』2011年4月号特別付録。
    (『現代化学』1999年12月号に掲載の記事の再掲です。)
     私には文字が小さい。しかし、基本がしっかりとまとめられています。

     4時前にアマゾンのマーケットプレイスから次の本が届きました。
     原子力ジャーナリストの会著『ジャーナリストの証言:原子力25年の軌跡』電力新報社、1981
     編者の方に教えてもらったものです。実際に執筆したのは、佐々木孝二日本経済新聞社編集委員、中村政雄読売新聞社解説委員、石川欽也毎日新聞社編集委員の三名です。
     →途中までざっと読みました。歴史として読むとあらっぽいというのが正直な感想です。新聞記者としての直接証言に近い部分だけ価値のある種類の読み物です。

      [ニュースサイト続報]
        自分の書いたことに疑問が生じたので、もう一度よく考え直してみました。

     飯舘村に関してはかなり早い時期からホットスポットであるという趣旨の報道はありました。3月28日の時点のニュースでチェルノブイリの場合の移住対象レベルを超えたという分析がありました。そして、下にも追加記述したように、政府は4月22日に「計画的避難区域」に指定しています。
    (「計画停電」もそうですが、「計画的避難区域」のようなわかりづらいお役所用語は止めてもらいたいと思います。報道機関としては政府が使っている以上、使わざるを得ないのでしょう。)

     もう一つの疑問は、西村さんの結論の2)「仮に3月22日の状態で大気への放出が100日続いたとすると、総放出量はチェルノブイリ事故の千分の1を超えない程度である」と、政府の発表(約10分の1)との落差です。
     「仮に3月22日の状態で大気への放出が100日続いたとすると」の部分が問題なのではないかと思われます。西村さんの使った数字は、3月24日〜25日の40キロあたりの数字です。一番大きいのは飯舘村役場で約10μSv/h です(図1)。図4には、福島第一原発周辺の3月12日から3月18日までの放射線強度変化があります。5μSv/h 程度のときもありますが、水素爆発(1号機が3月12日15時36分;3号機が14日11時01分;2号機が15日6時14分)のあとでは10000μSv/h に達している瞬間があります。水素爆発のときの放出量が計算に入っていないと思われます。一番大きいのはこの差なのではないかと思われます。

     もう1点、3月12日夜から3月13日の朝の報道で、1号機に関しては「水位の把握すらできていなかった」(毎日)ことが指摘されています。(東電自身の発表。)西村さんの理論計算は、1号機に関して水位データは正しかったとして何が起きたのかを推測したものです。1号機に関しては、水素爆発までは正しい水位を示していたと仮定することもできるでしょう。しかし、地震の影響によって水位計が正しく動かなくなったと見ることもできます。(新聞報道ではそのどちらが正しいかを判断する材料は提供されていない。東電もそもそもいつから水位計が正しく働いていなかったのか把握していない可能性が高い。)そうであるとすれば、推論の前提が崩れることになります。
     西村さんの提示した理論計算のモデルそのものは貴重です。そして解明に向けての重要な貢献です。
     ただし、福島原発の事故のときに実際に何が起きたかまだ解明されていないと見ておくべきだと考えます。

  • 2011.5.14(土)  
     朝の間に次の本が届きました。アマゾンのマーケットプレイスですが、なんと沖縄の本屋さんでした。
     西村肇・岡本達明『水俣病の科学』日本評論社、2001
     今は第2版が出ています。私は初版の第5刷を入手しました。
     西村さんの出身は東大の化学工学科です。奥付には、『冒険する頭』(筑摩書房、1983)と『古い日本人よさようなら―個人として生きるには』(本の森、1999)の2冊を挙げています。
     岡本達明氏は、東大法学部卒、チッソ入社、チッソ水俣工場第一組合委員長を8年間つとめています。『近代民衆の記録7 漁民』(新人物往来社、1978)『聞書 水俣民衆史』全5巻(草風館、1989-90)。

     →序章「解かれなかった謎」と結語、あとがき、「補論」だけまず読みました。やはり今回も同じことが起きているという感を強くしました。

      [原発事故、わかっていることとわかっていないこと]
       今回の福島第一原発の事故では、1号機、2号機、3号機ともに水素爆発を起こしています。水素爆発の時刻は、1号機が3月12日15時36分、3号機が14日11時01分、2号機が15日6時14分です。
     西村さんは「爆発の約8時間後には、放射線量の顕著な増加がみられる」(25頁。図4。東電プレスリリース、ISEP資料を参考に作成)と記述されています。図4をよく見てみると、約8時間後というのはどうも3つの爆発の平均値をとっているように思われます。正確な計測ではありませんが、図4をもとに、爆発から顕著な増加までの時間を計算してみました。
     1号機では16時間後、3号機では10時間後、2号機では5.8時間後です。
     私には、爆発から顕著な増加までどうして16時間もかかるのかわかりませんが、吹き上げられたものが舞い降りてくるまでの時間と理解すればよいのでしょうか?それとももっと別の経路があったのでしょうか?
     ともあれ、これは平均を取らない方がよいのではと思うようになりました。爆発の推移の種類が異なる可能性を考えた方がよいと思うからです。
     さて、JMM No.633 (2011.4.30) でアメリカ在住の冷泉彰彦氏は、「1号機と3号機の水素爆発の原因の謎」について考察されています。ポイントは、燃料被覆管のジルコニウムが高温で水(水蒸気)と反応して生成した水素がどうして原子炉建家の内部(上部)に充満したのか、ということです。
     アメリカ側は、GEマーク I 型炉は仕様として建物上部内にベントするようになっている、ベントといっしょに水素が建物上部内にたまって水素爆発したと見ています。
     問題は、日本側がベントを排気筒を使って建物外に、即ち外気に直接行ったと説明していることです。
     もしそうだとすれば、格納容器の上部が一部破損し、そこから水素が建物内に漏れたということになります。え、ほんとうに?

     ともあれ、冷泉彰彦氏の指摘通り、責任ある方々からまだ納得できる説明はないことは確認できます。

     ちなみに、2号機の爆発では「格納容器につながる圧力抑制室が損傷した」ということです。これは1号機3号機とは別種です。約6時間後に放射線量の最大のピークが観測されています。
     (もし平均を取るのであれば、1号機と3号機のみでとるのがよいでしょう。そうすると、13時間となりますが、大きな意味のある数字であるかどうかは不明です。)

     さて、炉心のデータですが、西村さんは次のようにまとめています。「地震直後の炉心での温度、圧力のデータが欲しいが、地震当日の11日のデータはまったくなく、爆発当日の12日についても使えるのは水位データだけである。炉圧データはあるが、・・・計器不良と思われる。」
     毎日新聞がはっきりと指摘した通り、その水位データでさえも信頼できないのであれば、使えるデータはまったくないことになります。嗚呼!

     やはり冷泉氏が本日の JMM (No.635)で福島原発の現状について書かれています。
     ウェブで、原産協会が公開情報を元にまとめたものがあります。「福島第一原子力発電所の状況/5月5日 12:00現在」です。
     情報源は3つです。
    政府緊急対策本部発表
    原子力安全・保安院発表
    東京電力発表
     これによれば、定期点検中で炉のなかには燃料のなかった4号機も水素爆発によって大きく損傷とあります。え? と思って、調べてみました。3月16日撮影の衛星写真で大破していることが判明したとあります。東京電力では、「柱を残しほとんど壁が吹き飛んでいることから」水素爆発だと判断したとあります。ただし、テレビカメラでは撮影されておらず、いわば知らない間に爆発していたということです。しかし、水素の由来が不明です。原子力安全委員会の一人はこれまで提示された「どの仮説も検討するとあり得ないという結論になる。いつ壊れたかすら特定できていない」と言っているそうです。(東京新聞5月10日夕刊)
     いったいどうなっているのでしょうか? 謎は深まるばかりです。

  • 2011.5.15(日)  
      [欧州放射線リスク委員会2010年報告(ECRR2010)邦訳]
     科学史ML[kagakusi:1466] で、次の報告書が公開されていることが流れました。
     ECRR2010
     ECRR2010の日本語訳(有志による試訳)
     邦訳に参加された藤岡毅氏ほかの方々に感謝します。ともあれ、私はまず最後のサマリー(「ECRR 欧州放射線リスク委員会2010年勧告 放射線防護のための低線量における電離放射線被ばくの健康影響 規制当局社のための版」)を読み通しました。まだこなれた訳にはなっていませんが、趣旨は通じます。
     結論のごく一部を紹介します。
     国際放射線防護委員会 (ICRP)のリスクモデルは、体内被曝に関しては根本的欠陥を有する。「最低でも10倍の間違いが導かれる。」
     セラフィールドの小児白血病の場合、ICRPモデルによる予測値と観察結果の間には300倍もの開きがあった。
     チェルノブイリ後の小児白血病と、チェルノブイリ後のミニサテライト DNA 突然変異の場合、ICRPのリスク評価モデルは「100倍から1000倍の規模で誤っている」。
     「国連が発表した1989年までの人口に対する被爆線量を元にICRPモデルで計算すると、原子力のためにガンで死亡した人間は117万6300人となる。」一方、本委員会 ECRR の「モデルで計算すると、6160万人の人々がガンで死亡しており、また子ども160万人、胎児190万人が死亡していると予測される。」
     私はもちろんこの分野の専門家ではありませんが、ECRRの説明に納得しました。日本人の方もひとりこのリスク委員会に参加されています。Prof. Shoji Sawada です。メディアはこの方に話を聞くべきではないでしょうか?

     →ともあれ、まず私自身がProf. Shoji Sawada の日本語表記をつきとめたいと思いました。今は検索をうまく使えば、100%とは言えないまでもほぼ突き止めることができます。
     1931年広島市に生まれ、1945年爆心地から1400mの自宅で被爆した元名古屋大学素粒子物理学教授の沢田昭二さんに間違いないと思われます。
     前にも紹介した平和哲学センターのサイトに沢田昭二「放射線による内部被曝――福島原発事故に関連して――」がアップされています。日本の科学者』2011年6月号緊急特集に掲載予定の論文ということです。

  • 2011.5.17(火)  
      [1号機、2号機、3号機]
       やっと昨日、今日の新聞報道で、1号機、2号機、3号機がメルトダウンしていることを東電が認めました。
     重要なのは、データの公開です。事故直後の東電の持つ情報のうち「公表されたのは、記録紙に打ち出されたグラフや、当直長がつける運転日誌、原子炉を冷やす装置の操作記録などで、全部で大型ファイル4冊分にあたる」とあります。
     経済産業省原子力安全・保安院や原子力安全委員会、そして原子力に関する専門的知識を有する組織の仕事は、「大型ファイル4冊分」の分析です。チームを作って大至急行うべきでしょう。同時に、重要な部分は英訳して世界に報せる必要もあると言えます。
     新聞報道では4号機のことは触れられていません。炉のなかに燃料がなかったので、同列にはいきませんが、もうすこし何かないものかと思います。

     私が見た範囲では、毎日の記事が12日午後までですが、起きたことを時系列にまとめています。しかし、せめて1週間を載せて欲しい。

  • 2011.5.18(水)  
     朝の仕事(公的なメールを5通だしました)が一息ついてから、16日発表のデータを自分の目で確かめることとしました。場所は次です。

    原子炉等規制法に基づく東京電力株式会社からの報告内容(5月16日に報告のあった福島第一原子力発電所の事故に係る事故記録等)
     プラントの詳細がわかっていないと直ちにイメージできるというものではありませんが、これが今回の事故のオリジナルデータです。関心がある方はやはり自分の目で確認した方がよいでしょう。
     すぐに読み通すことはできませんが、少しずつ目を通していきたいと思います。

     →すべてのデータをダウンロードしました。もちろん環境にもよりますが、30分はかからないと思います。

      [『放射線被曝の歴史』]
     時間がかかりましたが、図書館から次の本が届いたという報せがありました。ILL です。
     中川保雄『放射線被曝の歴史』技術と人間、1991
     古書に入手しようと思ったのですが、ばかだかい。ILL で借りることにしたものです。科学史としてはこれが放射線被曝に関する基本書だと思われます。
     表紙に次のようにあります。
     「今日の放射線被曝防護の基準とは、核・原子力開発のためにヒバクを強制する側が、それを強制される側に、ヒバクはやむをえないもので、我慢して受忍すべきものと思わせるために、科学的装いを凝らして作った社会的基準であり、原子力開発の推進策を政治的・経済的に支える行政的手段なのである。」

     中川保雄さんは科学史家です。残念ながら生前に面識はありません。大阪大学で工学博士号を取得したあと、大阪府科学教育センターに勤務し、ついで神戸大学の教養部自然科学教室に着任されています。この著をほぼ仕上げられたから1991年に病没されています。低線量被爆研究会は中川氏の遺志を引き継がれたのでしょうか。

  • 2011.5.19(木)  
      [吉岡斉氏のブックレット]
       しばらく版元品切れだった吉岡斉『原発と日本の未来』(岩波ブックレット、2011)が再刷されたという告知がすこしまえにありました。アマゾンではまだ品切れですが、他のネットショップでは在庫が確認できます。原発問題に関心がある方で、未読の方は是非購入して自分で読んでみて下さい。メディア関係者は必読だと思います。

      [現代化学6月号]
       『現代化学』2011年6月号が届きました。西村肇・神足史人「[続報]理論物理計算が示す原発事故の真相―地震直後にどうすべきであったか―」『現代化学』2011年6月号: 16-19 をまず読みました。5月16日に公表されたデータは(もちろん間に合わず)使っていません。[続報]は[続報]です。最初の論文のインパクトはありませんが、これは致し方ないのでしょう。「地震直後にどうすべきであったか」については多くの人が思っていることを書かれています。私も会って話すことが出きる人には、ノーハウもあり、経験もあるアメリカの助けを借りよ、東電にほんとうに危機対応できる力はないと言っていました。平穏無事なときはよいのですが、危機のときのためにやはりトップはしっかりとした人でなければなりません。自分の組織のトップを見て、ああ、このひとは、東電の社長と同じだ、あるいはかんさんと同じだと感じた人は多いのではないでしょうか。無能で何もしないのであればまだしも、現場の足を引っ張る。

     次に、林幸秀「論文数と特許数からみえてくる姿 今の日本の科学技術力は?」『現代化学』2011年6月号: 52-54 と読みました。日本の科学力は論文数からすると落ち目です。技術力は特許数からするとまだ頑張っています。そういう数字が紹介されています。

  • 2011.5.20(金)  
      [核エネルギー開発 基本のみ]
     核エネルギー開発に関して、ほんとうに基本のみの年表を作成してみます。

     1933年 ヒトラー政権奪取

     1938年 ウランの核分裂の発見

     1939年 イギリスで二人のドイツ生まれの科学者、フリッシュとパイエルスによりウラン爆弾が構想される。イギリス政府は原爆の基礎研究のためモード委員会を組織し、プルトリウム爆弾も構想される。
     (科学者たちの間では原子爆弾の可能性が信じられるようになる。)
          9月1日 ドイツ、ポーランド侵攻。第2次世界大戦の勃発。

     1941年 モード委員会の結論がアメリカに伝えられ、ルーズベルト大統領は10月原爆の本格的開発を決定。

     1941年12月7日 日本が真珠湾を奇襲攻撃

     1942年夏 アメリカ陸軍工兵司令部、マンハッタン工兵管区(MED)創設。
     12月2日 シカゴ・パイル、歴史上はじめての臨界

     1943年 ルーズベルトとチャーチルがケベック協定に署名。イギリスの科学者チームがマンハッタン計画に合流。

     1944年 

     1945年 5月7日 ナチスドイツ降伏
           7月16日 トリニティ実験がアラモゴードで行われる。
           8月6日 アメリカ、広島にリトルボーイ(ウラン型爆弾)投下
           8月9日 アメリカ、長崎にファットマン(プルトニウム型爆弾)投下

     1946年 民生用・軍事用を問わず、原子力に関する情報の海外提供を禁じる原子力法成立。(この時点では、同盟国イギリス・カナダを除いて、軍事用・民生用核エネルギー利用法の独占ができると考えていた。)

     →とりあえず、以上までで確認できること。核兵器の可能性は第2次世界大戦勃発前後に科学者たちの確信になっていたこと。日本の真珠湾攻撃は、アメリカで核兵器開発が動き始めたあとのこと。日米戦争はあしかけ4年(実質3年半)で終結している。占領はあしかけ7年(実質6年半)続くから、占領期の方が日米戦争の期間よりずっと長い。
     (高校レベルの)世界史の教科書や参考書にも明確に書かれているように、アメリカは日本に原爆を投下したのは、反ソ戦略であった。共産主義国家ソ連に対して、アメリカの圧倒的軍事的優位を保持(誇示)するためであった。トリニティ実験、リトルボーイ、ファットマンでアメリカは手持ちの原爆を使い果たしていた。
     マスメディアが陥りがちなドラマ仕立ての理解によれば、第2次世界大戦終結からただちに冷戦構造に移ったと描かれがちだが、戦後はしばらく混乱のなかにあった。
     アジアに限定して確認しておこう。日本が占領を脱し独立するのは1952年。中国が共産主義国家となるのは、1949年10月1日。すなわち、国民党と共産党の内戦を経て、正式に毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立するのは、第2次世界大戦終結の4年後。朝鮮半島では、アメリカ軍政(南)を経て、1948年夏大韓民国と朝鮮人民民主主義共和国が成立。ソ連軍撤退がその冬、アメリカ軍撤退が翌年(1949年)。ただし安定は束の間。1950年6月25日朝鮮戦争勃発。ほぼ3年後(1953年)7月27日休戦協定が成立。今ではよく知られているように、アメリカは朝鮮戦争のときに核兵器を実践使用する計画をもっていた。(実際は使用せず。)
     アジアの冷戦構造を決定的なものにしたのは、この朝鮮戦争であった。アメリカにとって日本は反共産主義の砦として極めて重要な位置を占めることになる。  

     →(年表に戻る)
     1949年 アメリカ(イギリス、カナダ)の核技術の独占が崩壊する、すなわち、ソ連が8月29日セミパラチンスク核実験場で初めての原爆実験に成功する。

     1952年 11月1日、アメリカ、エニウェトク環礁で水爆(熱核爆弾)実験を行う。水爆の設置されたエルゲラブ島は消滅。

     1953年 8月12日 ソ連も水爆(熱核爆弾)実験に成功。

     1954年 3月1日 アメリカ、ビキニ環礁で航空機に搭載可能な小型の熱核兵器の実験に成功。広範囲に死の灰が降る。マグロ漁船第五福竜丸の乗員が死の灰によって被爆。(もちろん、マーシャル諸島の住人も被爆。)

     1957年10月4日 スプートニックショック。アメリカははじめて巨大科学・巨大技術・先端軍事技術においてソ連に先を越される。ミサイルによって核兵器がアメリカに投下されるかもしれないというビジョン。アメリカの原罪を思い起こさせる。(アメリカが日本に行ったことが、ソ連によってアメリカに起こるかもしれない。)

     1960年 フランス核兵器開発

  • 2011.5.21(土)  
     私が日常的に見て回っているブログに面白い/重要な情報がありました。自分の目で確認してからコメントするならするでします。
     そのひとつが、1週間ほどまえに放映されたETV特集「ネットワークで作る放射能汚染地図 福島原発事故から2か月」です。森岡正博氏のサイトで知りました。
     ネットで検索してすぐに YouTube で見ることができました。放射性物質が風の流れでどのように飛散したかの映像がありました。一度東京方面にも来ています。

     最近は、スクリプト(文字起こし)も重要な番組に関しては誰かが作っていることが少なくありません。検索をかけると次のサイトにありました。 全文文字起こし。個人的には、文字起こしの方が便利です。

     「ただちに健康被害がでる」レベルではないというのはウソではないでしょうが、東京に関してもメッシュ状の具体的な数値を知りたいと思います。ガイガーカウンターを購入しようかな。
     →きっこさんのサイトに、5月20日(木)25時30分と5月28日(土)15時に再放送があるというという情報がありました。学生たちにはこちらを報せましょう。

     朝のうちに次の本が届きました。
    Martin J. Medhurst, Robert L. Ivie, Philip Wander and Robert L. Scott,
    Cold War Rhetoric
    East Lansing: Michigan State University Press, 1990

  • 2011.5.22(日)  
     風邪ではありますが、休んでばかりもいられないので、昨日買ってきた雑誌を読んでいます。
     『アエラ』2011.5.23, p.29 に次の文章があります。「現在、核兵器の保有国以外でプルトニウムを取り出せる再処理施設を持っているのは日本だけだ。」
     そして次の段落におそらく吉岡氏の公理に関係する文書が挙げられています。「わが国の外交政策大綱」(1969年9月25日付)。極秘文書ですが、1994年8月に明らかになった、ということです。そこに「核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持する」とあります。

     →秘密解除されているのであれば、ネットでも見ることができるに違いないと考えて、検索をかけてみました。次のサイトに「わが国の外交政策大綱」(1969年9月25日付)そのものが上がっていました。
    核情報ホーム > 核データ >日米安保関連略年表・リンク集
     このpp.67-68 にアエラが引用した文があります。
     「核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器の製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘をうけないよう配慮する。又核兵器一般についての政策は国際政治・経済的な利害得失の計算に基づくものであるとの趣旨を国民に啓発することとし、将来万一の場合における戦術核持ち込みに際し無用の国内的混乱を避けるように配慮する。」
     琉球新聞が記事にしています。さすがです。

     春名幹男「原爆から原発へ:マンハッタン計画という淵源」『世界』 2011.6, pp.69-76.
     春名幹男氏の論考は、きちんと世界の動き(とくにアメリカの核戦略史)に日本の原子力開発史を位置づけています。的確な整理だと思われます。
     『核の男爵たち』によれば、日本の原子力開発の立て役者として、正力、中曽根、そして芦原義重氏(1901-2003 関西電力社長、関西経済連合会会長)、木川田一隆氏81899-1977 東京電力社長、経済同友会代表幹事)の名前が挙げられているそうです。

  • 2011.5.25(水)  
     元気がなかったので、ここに記述する余裕がありませんでしたが、昨日、  自由報道協会での吉井英勝議員の講演を通しで聞きました。既に知っている部分は、ただ音声だけを聞き流していました。吉井議員の主張は読んでいて知っています。しかし実際に聞いてみてはじめてわかることもあります。地震・津波直後の福島第1原発の全電源喪失の詳細です。最後の砦、外部電源の鉄塔が倒壊したことが全電源喪失に繋がりました。女川原発との比較では、女川原発ではそれがたったひとつだが生き残り、冷温停止できたということです。

     まだ全部ではないのかもしれませんが、東電はやっと今になってデータを公開し、メルトダウン、メルトスルーを認め始めています。事故そのものに関する落ち着いた分析がやっと可能になりつつあります。

     会議は疲れました。帰宅すると次の本が届いていました。アマゾンのマーケットプレイスからです。

     読売新聞社編『昭和史の天皇 原爆投下』角川文庫、1988
     しっかりとした取材に基づく、よいまとめだと思われます。

  • 2011.5.26(木)  
    帰宅すると次の本が届いていました。
     春名 幹男
     『秘密のファイル CIAの対日工作』(上) (下)共同通信社、2000

     昨日から、『通史 日本の科学技術』に収録された笹本征男氏の文章を読み始めました。さすがだと思います。
     第1巻68頁ff. 原子力委員会の公式の歴史に「通常の環境のもとでは、人間は放射能に関する実験室の実験対象ではありえなかった。しかし、1945年8月の広島、長崎の爆撃は、人間集団における放射能効果の測定のために、例外的な(特有の、見込みある)機会を提供した。」(Hewlett and Duncan, Atomic Shield, 1947-1952 (A History of the United States of Atomic Energy Commission, Vol. 2, University Park: Pennsylvania University Press, 1969, p.244.)
     →この辺りがアメリカ人らしいストレートな(配慮のない)表現です。広島、長崎に対する原爆投下は、いわば放射能が人体に与える効果を知る実験室だったと言っているに等しい。アメリカが国内でガン患者に行った人体実験とは別種のものですが、「人体実験的まなざし」で被爆者を見ていることは間違いない。残酷な事実です。

     笹本征男「コンプトン調査」『通史 日本の科学技術』第1巻、1995, pp.46-58
     笹本征男「原爆被害調査」『通史 日本の科学技術』第1巻, pp.59-76
     笹本征男「軍の解体とマンパワーの平和転換」『通史 日本の科学技術』第1巻,pp. 85-93
     笹本征男「原爆報道とプレスコード」『通史 日本の科学技術』第1巻, pp.286-307
     笹本征男「ビキニ事件と放射能調査」『通史 日本の科学技術』第2巻, pp.94-107

     
     笹本、p.304 現実に検閲によって削除された部分。都築正男「所謂原子爆弾症、特に医学の立場からの対策」『総合医学』2巻14号(45年10月) の校閲校正ゲラ。「幾多の点から考えてみて、爆発に伴う毒瓦斯様物の発生が認められることであり、これ等の毒物によって死亡された犠牲者のあったであろうことは想像に難くない。次にこの爆発が故意に毒瓦斯様物を発散する様作られて居たかどうかと云うことは目下のところ何等の手懸を得て居ない。適当な機会があればアメリカ側に聞いてみたいと思って居る。」

     笹本、p.297. 「原子爆弾 完成に9年 議会報告 従業員実に10万」(毎日新聞9月6日)「一方わが国ではこの研究に深い関心をもちながらもウラニウムの資源に乏しく科学者も当面的研究に動員されたため、この惨禍を防ぐ対策を得なかった」。
     「荒野に忽然大工場 製作費用20億ドル 従業員12万 覆面のマンハッタン地区」(毎日新聞9月10日)。

     笹本、p.296. 9月13日重光葵外務大臣が在スイス、スウェーデン、ポルトガル日本公使館宛公電をアメリカが解読・分析した結果。日本が原爆を強調するのは、日本の降伏を日本国民に説明するため、「日本における連合国の捕虜の待遇にかんする評判を相殺すること」。

      笹本、p.291. 「広島に投下された原子爆弾は大地に放射能すなわち残留紫外線を与え、被爆後2週間に3万人の犠牲者がこの死の光線により死亡したことを日本のラジオ東京は去る金曜日[1945.8.24]に伝えた。広島および同様に原爆をこうむった長崎に於ける死者数は今なお増大していると同放送は伝えている。・・・現在、広島に住む人々は“生きた幽霊”であり放射能の影響により死すべく運命づけられた人たちである。・・・同盟通信によれば、原爆のウラニウム核分裂により生じた放射能は死者数を増大しつつあり、復興作業に従事した人たちに様々な症状を惹起しつつある。」(ニューヨークタイムズ、1945.8.25) 
     →原爆が投下された8月の間は、アメリカ側の報道でも「現在、広島に住む人々は“生きた幽霊”であり放射能の影響により死すべく運命づけられた人たちである。」とするのものもあったということです。アメリカは直ちにこの種の報道を公式に否定し、押さえようとします。ただし、放射能の影響がどのようなものか正確に把握されていたわけではありません。もちろん、日本側の報道もそうです。日本における医学的影響研究の中心人物都築正男においてすら、上記の認識です。ある程度の認識があったのは、アメリカで核開発を行った一部の科学者だけと言えるでしょう。

  • 2011.6.3(金)  
     帰宅すると次の本がアマゾンのマーケットプレイスより届きました。
     Peter Pringle & James Spigelman,
    The Nuclear Barons: The inside story of how they created our nuclear nightmare
    London, 1982
     イギリスより送られてきました。送料込みで値段は\2253。ペーパーバックです。妥当な値段でしょう。
  • 2011.6.7(火)  
      [今回の事故に関する雑誌の特集]
     3.11大災害からもうすぐ3ヶ月が経ちます。事態の究明そのものもまだまだですが、さすがに新しい情報そのものは少なくなりました。
     雑誌の特集そのものは続いています。さすがに全部に目を通すわけにはいきません。特に関心を引いた記事、特集があるときにだけ、購入しています。昨日は『週刊 東洋経済』2011年6月11日号「特集:暴走する国策エネルギー 原子力」を買いました。よい整理になっていると思います。個人的には、野口悠紀雄氏の連載「日本の選択」「震災復興とグローバル経済」がもっとも気になりました。「東日本大震災によって日本経済の条件は大きく変わった。・・・企業はすでに対応を始めている。」しかし、経済政策が今必要とされることからすれば逆向きに舵をきってしまっている場面が多々見受けられる。そのことが長期的には日本の足を引っ張る懼れを指摘しています。そうだと思います。

     今日は『週刊朝日』2011年6月17日号を買いました。読みたかったのは「東京東部は年会1ミリシーベルト超!」「自治体や専門家の独自調査でわかったあなたの身の回りの本当の放射線量」です。東京の放射線量地図が出ています。どういうふうに放射性物質が降ったのかよくわかる地図です。

  • 2011.6.8(水)  
     夕刻、アマゾンより次の本が届きました。
    槌田 敦
    『原子力に未来はなかった』
    亜紀書房、2011
     『石油と原子力に未来はあるか』のリニューアル版とあります。1970年代の『石油と原子力に未来はあるか』(亜紀書房、1978)にスリーマイルとチェルノブイリの事故を分析した記事、ならびに今回の福島の原発事故について記した文章を付加したものとあります。
  • 2011.6.10(金)  
     火曜日に『週刊朝日』(2011年6月17日号)から「東京東部は年会1ミリシーベルト超!」「自治体や専門家の独自調査でわかったあなたの身の回りの本当の放射線量」という記事を紹介しています。やっと元のサイトを見てみました。
    東京都内各地の空中放射線量測定結果について 2011年5月25日       日本共産党東京都議会議員団
     結果をまとめたものをダウンロードして目を通しました。『週刊朝日』の記事よりもわかりやすくて見やすい。私の住んでいる杉並区は、0.068〜0.062μSv/h と大田区、町田市とならんで低い地域でした。高い東部の方にはすまない気もしますが、低いと安心します。
     東部とは、足立区、葛飾区、江戸川区です。0.18〜0.39μSv/h の値を示しています。3倍から5倍程度の値です。水元公園での地上0mの値は、0.618μSv/h で約10倍です。
  • 2011.6.12(日)  
     おやつの時間に次の本が届きました。
     菅谷昭
     『子どもたちを放射能から守るために』
     亜紀書房、2011
  • 2011.6.19(日)  
     お昼下がり、次の本が届きました。
     宮台真司×飯田哲也
     『原発社会からの離脱:自然エネルギーと共同体自治に向けて』
     講談社現代新書、2011
  • 2011.6.20(月)  
     昨日中に読み終わるつもりだったのですが、疲れのせいで今日になりました。宮台真司×飯田哲也『原発社会からの離脱:自然エネルギーと共同体自治に向けて』(2011)を読み通しました。
     この種の本としては十分でしょう。よくわかる説明となっています。
     ただし、1点不満があります。1ページでも2ページでもよいので、文献紹介、英語のFurther Readings を入れるべきだと思います。それが二人の主張に沿うことになると思います。日本の出版文化もこの小さな変化を受け入れないと、相変わらず、出典・論拠の明示されない言いっぱなしのままです。
  • 2011.6.21(火)  

     ついでに、次の本を読み通しました。
     神保哲生・宮台真司、飯田哲也・片田俊孝・小出裕章・河野太郎・立石雅昭
     『地震と原発:今からの危機』
     扶桑社、2011年6月20日
     現場のことをよく知っている専門家の知見がすばらしい。

  • 2011.6.22(水)  
      [放射線管理区域]
     昨日読んだ、神保哲生・宮台真司、飯田哲也・片田俊孝・小出裕章・河野太郎・立石雅昭『地震と原発:今からの危機』(扶桑社、2011)に放射線管理区域の話がありました。小出裕章氏がすでにかなり広い範囲で放射線管理区域に指定しなければならない場所が出現していると指摘しています。(97頁)
     気になったので調べてみました。
     根拠となる法律は、次です。
     「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律」 及び「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律施行令」
     施行規則は次です。
     「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律施行規則」 (昭和三十五年九月三十日総理府令第五十六号)(最終改正:平成二一年一〇月九日文部科学省令第三三号)
     最終改正が2年前です。

     これによれば、「外部放射線に係る線量については、実効線量が3月あたり1.3mSv」を超える場所に関しては、放射線管理区域とするように定めています。3月あたり1.3mSvは、0.6μSv/h です。
     (参考までに。前に引用した共産党の調査によれば、東京でも水元公園での地上0mの値は、0.6μSv/h を超えています。)
     現状、学校でもこの値を超えているところがあるということです。
     いろんな雑誌情報によれば、東京都でもホットスポットではこの数値を超えています。特に問題なのは、小さい子どもがよく遊ぶ、公園の砂場や水たまり、草むらでしょう。セシウムが降ったことがはっきりしている地域に関しては網目を小さくした体系的測定を急ぐべきではないでしょうか。

      [黄色信号と赤信号]
    放射能漏れに対する個人対策(第3版)by 山内正敏氏
     きわめてわかりやすいはっきりとした基準を示してくれています。
     転載自由とありますから、冒頭部分だけ引用します。
     「外からの放射能に関して、 放射線医学総合研究所(事故対策本部に加わった組織)を始めとして、多くのメディアや研究者が『現在の放射能の値は安全なレベルである』 という談話を発表していますが、残念ながら、どの組織も『どこまで放射線レベルが上がったら行動を起こすべきか(赤信号と黄信号)』を発表していません。
     公開されている資料とデータに基づき、「黄色信号と赤信号」を明示したものです。こういう指針こそ必要です。

      [ベック『危険社会』]
     ベック『危険社会』をきちんと読み直す必要を感じました。

     あわせて、原子力と検閲を更新しました。単純に大学の仕事が忙しくなるのにあわせて、記述が頻度としても量としても減っています。

     今年の調査で一番気になっていることのひとつが吉岡斉氏の公理です。繰り返しになりますが、まず引用しましょう。

    「日本の原子力政策は「国家安全保障のための原子力」の公理のもとで進められてきた。日本は核武装を控えるが、核武装のための技術的・産業的な潜在力を保持するために、あらゆる種類の機微核技術を開発・保有し、それを日本の安全保障政策の不可欠の部分とする」(吉岡斉「原子力政策の事例分析」『科学史研究』(2011年春号)pp.47-49, on p.47)

     調査の結果、「「国家安全保障のための原子力」の公理というのは、この論文で初めて用いる表現である」という表現を、吉岡斉「日本の原子力政策決定システム改革の可能性」『環境と公害』Vol.39, No.3 (Winter, 2010): 42-48, on.p.42 に見つけました。
     執筆時期を考えれば、吉岡氏がこの表現を使うことにしたのは2009年の秋から冬であったと見ておいてよいでしょう。

     私の見立ては、こうです。吉岡氏はこれを「公理」と表現しているが、インサイダーの一部だけがもっている思いに過ぎず、「公理」とするのはふさわしくない。

     神保哲生・宮台真司、飯田哲也・片田俊孝・小出裕章・河野太郎・立石雅昭『地震と原発:今からの危機』(2011)でも、河野太郎氏と武田徹氏が加わったTALK 4 「数十兆円の税金をドブに捨てる与野党“原子力利権”の鉄壁」で論じています(pp.202-3)。ただし、吉岡氏の名前も公理も挙げられていません。
     4人とも一部の「愚かな政治家」の頭の中には、あったかもしれない、あるだろうが、全体としてそういうことはないと言い切っています。私はこちらの判断に賛同します。
     ということで、吉岡さんは、根拠となる資料を提示するか、公理を撤回するかどちらかだと私は考えます。
     (きちんと典拠・挙げる習慣がないことが、吉岡斉氏においてさえ、こういう事態をもたらしたと私は理解しています。仮に出版社に削られたとしても、ホームページ等に補足として、典拠・資料を挙げることはできます。ともあれ、執筆の際に、つねに裏付け、典拠・資料を意識していることが重要だと考えます。)

  • 2011.6.23(木)  
     11時過ぎに帰宅すると次の本が届いていました。
     飯田哲也
     『北欧のエネルギーデモクラシー』
     新評論、2000
  • 2011.6.28(火)  
     関東平野の放射能汚染の実態に関して、ダイヤモンド.jpのサイトによい記事があります。群馬大学の早川由紀夫教授作成になる地図が転載されています。これが非常によくわかります。
  • 2011.7.3(日)  
     吉原さんの特別講演のあと、上仲さんがコメントをされました。ちょうど被爆後の広島に列車で数時間滞在したところ、神戸の自宅に帰り着いて1ヶ月後、被爆症状が現れたということです。そのときは被爆ということはわからなかったが、同じ列車に乗った同窓生とあったとき、多くが同様の症状に陥ったことから被爆だと判明したと話されていました。吉原さんは、木村健二郎について放射能化学の勉強もされています。300mシーベルトぐらいの被爆をされたのではとすぐにコメントされていました。
     吉原さん自身もビキニの灰の調査にあたり、ごく軽い被爆をしたということです。白血球の値が一時期非常に低くなったということです。しばらくすると自然に回復し、今はその影響はたぶん残っていないということでした。

     しばらく間があきましたが、このページの更新を再開します。

     

  • 2011.10.19(水)  
     大学院後期(博士後期課程)授業。
     月曜日4限「思想文化論」1学期&2学期 研究室 (両専攻共通、旧カリも共通)

     大学院前期(博士前期課程)授業。 
     月曜日4限「人類文化研究」(言語文化専攻) 「社会文化研究」(地域・国際専攻)
     月曜日3限「ヨーロッパ歴史文化論」1学期&2学期 研究室 (地域・国際専攻)
     月曜日5限「(修論指導)専門特殊研究」(両専攻共通、旧カリも共通)

     3限は欧米における核の歴史、4限は日本における核の歴史を扱うつもりにしています。
     この件は、3.11の前、冬から取り組んでいた課題です。このサイトで取り上げるのは途中で投げた格好になっていますが、サイトへの書き込みが中断しただけです。

     本日の朝日新聞朝刊に大江健三郎氏の「定義集」が掲載されています。太字で【原発が「潜在的抑止力」とは】前例なき民主主義無視の論 とまとめられています。大江さんの文章そのものには、新しい材料の提示も新しい思考の提示もありませんが、この長さに整理されていること(そしてやはりマスメディアに掲載されていること)には意義があります。

     よく知られているように、讀賣新聞は9月7日「展望なき「脱原発」と決別を:再稼働で電力不足の解消急げ」という社説を掲げ、そのなかで「日本は・・・核兵器の材料となり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。」と主張しています。
     また、前防衛大臣である石破さんが雑誌『サピオ』で「私は核兵器を持つべきだとは思っていませんが、原発を維持するということは、核兵器を作ろうと思えば一定期間のうちに作れるという「核の潜在的抑止力」になっていると思っています。逆に言えば、原発をなくすということはその潜在的抑止力をも放棄することになる、という点を問いたい。」と発言されています。
     この回答を引き出す際、質問者は次のように質問しています。「日本以外の多くの国では、原子力政策と核政策はセットとなっており、本来、切り離すことができない問題です。しかし、日本においては、核アレルギーもあり、これまで論争自体が避けられてきました。」
     「原子力政策と核政策はセット」という前提が明示されたことは進歩だと思います。

     歴史的現実として、「原子力政策と核政策はセット」でした。この点を曖昧にするのは、虚偽です。そして、そうであれば、日本の原子力政策がその虚偽に基づいていたことは拭いようのない事実です。さらに、日本でその虚偽意識(イデオロギー)を形成する上でもっとも大きな積極的役目をになったのが讀賣新聞(正力松太郎)であることも、すこし調べてみればわかる明白な事実です。

     しかし、「原子力政策と核政策はセット」ということと、「原発が潜在的核抑止力」ということは別の事柄です。核兵器保有国以外で原発を運用している国で、「原発が潜在的核抑止力」と見ている国が日本(議論の流れの上でここは讀賣新聞と石破さんの主張に従っておきます)以外に存在するのでしょうか? ただちに思いつくのは、存在するとしたら北朝鮮です。「原発=潜在的核抑止力」論とは、北朝鮮的発想だということは確認しておいてよいでしょう。

     また、プルトニウムを大量に保有することと「潜在的核抑止力」とも別の事柄です。プルトニウムを大量に保有することが海外から脅威と思われること、あるいは疑いの目で見られることは、むしろ当然のことです。しかしそのことを指して「核抑止力」とは言えません。冷戦時代の常識では、「核抑止力」は、MAD (Mutual Assured Destruction) とまとめられていました。これはアメリカやソ連の核ミサイルのように実用性が実証された実戦配備された核兵器に対してだけ言えることです。

     個人的には、ここにも「敗戦を抱きしめて」国際社会に通用しない勝手な妄想を抱いている事例を見るべきだと考えます。
     虚偽にかえるに虚偽をもってする、こうまとめてよいのではないでしょうか。

     (不要かもしれませんが、もうすこし丁寧に表現すれば、核政策と無縁の原子力政策が存在しうるという虚偽にかえて、原発を運用することが潜在的核抑止力として機能するという虚偽をもちだしている、と言えるでしょう。)

  • 2011.11.7(月)  

     夕刻次の本が届きました。

     吉岡斉『新版 原子力の社会史 その日本的展開』朝日新聞社、2011

     中川保雄『増補 放射線被曝の歴史―アメリカ原爆開発から福島原発事故まで』 明石書店、2011
     吉岡さんの本は、旧版(1999)年に現代史(たぶん、第6章「事故・事件の続発と開発利用低迷の時代(一)1995-2000」;第7章「事故・事件の続発と開発利用低迷の時代(二)2001-10」;第8章「福島原発事故の衝撃」)を付加されています。それゆえ、新版です。中川保雄さんの本は、ずっと欲しかったものです。今回の原発事故にあわせて、1991年技術と人間から出版された版を増補(増補は、稲岡宏蔵氏による「増補 福島と放射線被爆」です。pp.267-310)して再刊したものです。(著者の中川さんは残念ながら、1991年に亡くなられています。帯には、東大宗教学の島薗進氏の推薦文が付されています。)

  • 2011.11.24(木)  
      [日本の核化学者 木村健二郎]
     来年度の大学院の授業に向けて、日本の核化学者についてほぼ網羅的に調査しようと思い立ちました。今年の冬からやっていた作業の再開です。
     まずは、木村健二郎氏。1896年5月12日〜1988年10月12日弘前にて没。
     東京帝国大学理学部化学科卒。
     1922年、同助教授就任。
     1925年〜27年、ニールス・ボーアのところに留学。
     1933年、同教授。
     1956年、退官後、日本原子力研究所理事。東京女子大学学長等。

     『化学史研究』に基本的な文献があります。
     1.[特集日本の化学者第3回]斎藤信房「放射化学領域における木村健二郎の業績」『化学史研究』第23巻(1996): 302-310
     2.木村健二郎「ハフニウムの発見とX線分光分析の創始」『化学史研究』第6号(1977年): 1-5
     3.[年会特集:特別講演] 吉原賢二(東北大学名誉教授)「 原子核分裂の夜明けから−木村健二郎の足跡− 」第38巻(2011): 92-93
     斎藤信房さんも吉原賢二さんも木村健二郎の弟子または弟子筋の化学者です。流れとしては、柴田雄次の子弟筋と位置づけることができます。

    世間的には、広島・長崎の原子力爆弾による放射能の測定、ビキニ環礁の「死の灰」の測定、そして、日本の原子力の初期に関わったことが記憶されるでしょう。

     サイニーにはたくさんの論文があがっています。私も過去次のリストを作成しています。 化学史研究サイトにおける「事項索引:木村健二郎」
     33点あります。

     →これは、伝記に関して基本的書物『遠き峯々 : 木村健二郎その時代』を入手するのが早いだろうと考え、午前中に駒場図書館に行って来ることにしました。『化学史研究』第6号と第23巻(1996)第4号の2冊はカバンのなかにいれて、電車で読むこととしました。
     駒場の図書館は、明日から駒場祭で休館です。
     駒場の図書館では、先週借りた本を返し、最上階に向かいました。ありません。館内にあるコンピューターで調べると集密にあるとでました。こういうところは、別の場所に保存されると不便です。まあ、でも仕方ありません。地下1階まで降りて、借り出しました。
     午後は、会議なのでそのまま取って返しました。
     正確な書誌は次の通りです。

     木村健二郎先生記念誌編集委員会編集
     『遠き峯々 : 木村健二郎その時代』
     横浜 : 木村健二郎先生記念誌編集委員会, 1990.10
     本屋さんにはでなかったようですが、制作は、岩波ブックサービスセンター。32の大学図書館には所蔵されています。ちゃんとした本のつくりです。

     五百頁を超える大冊です。すぐに読み通すことはできませんが、帰りの電車のなかで一部読んでいました。貴重な証言の数々が収められています。ただし、いくらか残念なことに、化学者木村健二郎の仕事のまとめはありません。年譜はありますが、著作リストはなし。

     頑張って目次をとりましょう。

     序       編集委員長 伊藤春三
     序に代えて           木村芳子
      随筆・対談・講演
     放射線と私
     ハフニウムの発見とX線分光分析の創始
     仁科さんとの出会い
     “ビキニの灰”の分析をめぐって
     放射化学昔話
     ももとせももきのふのごとし
     回想の山上会議所
      学士院・学界
       木村健二郎先生を憶う           和達清夫
     日本学士院での木村先生            森野米三
     新潟県瀬波温泉からセシウムを抽出した話    野口喜三雄
     木村先生と地球化学会             山崎一雄
     思い出に残る木村先生             畑一夫
     木村先生の思い出               多田格三
     師からの教訓                 立花太郎
     木村健二郎先生のこと             田丸謙二
     木村先生の教え賜いしこと           横山すみ
      東大及び理研(一九二〇〜五六年)
     木村研究室の卒論リスト
     若き日の木村先生               三宅泰雄
     温泉の総合研究の思い出            野口喜三雄
     私の野外実験のこと始め            岩崎岩次
     木村先生と私―無機定量分析の出版       宮本益夫
     木村先生と鉱物                櫻井欽一
     春の闇                    伊藤春三
     わが国の放射能泉               中井俊夫
     海と空                    濱口博
     本郷と駒込                  斎藤信房
     オールバックとオールダウンを真似してみたが  松浦二郎
     先生と私                   河合貞吉
     ニッケル、コバルト、X線           田中信行
     研究室の初期から終戦まで
     木村先生の思いで               木越邦彦
     木村先生と私                 関原彊
     五十年を通じての先生             半谷高久
     先生と津軽                  浦川則男
     木村先生と井上敏先生             中西正城
     木村健二郎先生の思い出            中埜邦夫
     出会い―弟子としていただいて         村上悠紀雄
     忘れ得ない事の中から             長谷田泰一郎
     昭和十八年代の木村先生の思い出        上野精一
     教室の疎開
     弘前の疎開分室                中西正城
     有馬とセシウム                山寺秀雄
     広島、長崎の原子爆弾災害調査の思い出     野口喜三雄
     広島原子爆弾の解明              村上悠紀雄
     追想                     大橋茂
     木村研での九年間               斎藤一夫
     戦後の頃
     戦後の木村研究室における研究活動       一國雅巳
     運命の糸                   原禮之助
     磯邊鉱泉と南極                鳥居鉄也
     好きなことといわれて             守永健一
     木村先生―遺影点描              佐野博俊
     ボストンにおける木村健二郎先生        不破敬一郎
      旅の思い出                 山田彬
     ヨコヤマ・マイステルの徒弟時代        横山祐之
     核分裂生成物と木村ファミリー         池田長生
     木村先生と「死の灰」などについての思い出   猿橋勝子
     木村先生との出会い              古川路明
     猫になり損ねた家鴨の想い出          西連寺永康
     「木村石」こぼれ話              冨田功
     木村先生をしのんで              浅利健一
     原研(一九五六〜六四年)    
     はじめに  
     木村先生と原研                中井敏夫  
     大いなる「人」木村先生            内藤*爾  
     木村先生とラジオアイソトープの製造      柴田長夫  
     北欧再訪にお供して              夏目晴夫  
     放射化学と木村健二郎先生の出会い       秋葉文正  
     私の接した木村健二郎先生           吉原賢二  
     地方巡業と木村先生              阪上正信  
     東京女子大(一九六四〜六八年)   
     私の女子教育―東京女子大学長に就任して   木村健二郎
     木村健二郎先生をおくる            京極純一
     木村健二郎先生の想い出            鳥山英雄
     私の見た木村健二郎先生            岩原さかえ
     木村先生と白塔会               瀬戸口春江
     
     俳句・連句   
     悼 形型子、葉山、木村健二郎先生       有馬朗人  
     紅梅集(同人俳句)              木村形型子
     選び終えて                  有馬壽子
     献句三句                    和田水
     芭蕉七部集歌仙の獣              木村健二郎
     連句に現われた動物たち―牛・馬・犬・猫―   木村健二郎
     歌仙「落葉宿」                宇田雫雨捌
     歌仙「祝婚歌」                木村葉山捌
     歌仙「祝婚歌」その一              木村葉山捌
     歌仙「祝婚歌」その二              木村葉山捌
     蛇 三題                   木村健二郎
     三度目の高知                 木村健二郎
     わが家の猫の先祖               木村健二郎  
     教会   
     昔のクリスマス                木村健二郎
     木村健二郎さんについて             依田俊作
     木村健二郎先生への弔辞             相原嘉一
     弔詞(故木村先生)               小山弘一
     一九六六年のこと                平賀寿雄
     木村先生を偲んで                南種康暢  
     木村先生のこと                 寺内幸男
     木村先生                    間山うた
     木村先生を偲んで                湯川貞子
     隠居生活を楽しむ平和科学者
     人物紹介       
     思い出   
     思い出すまま            木村芳子
     感謝                木村幹
     葬儀の次第
     納骨の次第
     菩提樹「梅林寺」―埋骨式に参列して  秋葉文正
     年譜 
     御礼
     編集後記

     以上の方々のなかで、化学史学会を通して知った方(郵便物を通してのみでお会いしたことのない方もまじります)としては、(敬称は略します)佐々木行美、斎藤信房、立花太郎、林良重、吉原賢二、阪上正信、山寺秀雄、田丸謙二、山崎一雄、等々のお名前をあげることができます。

     短いものでは、斎藤信房「放射化学領域における木村健二郎の業績」(1996)が一番よく木村健二郎の化学的業績を整理していると思われます。ポイントを引き出しておきましょう。

     「木村の研究業績は、無機化学、分析化学、地球化学、放射化学など広汎な分野に及んでいる。」(302頁)

     「筆者(木村健二郎のこと)は中学時代から父の影響もあって将来化学の勉強をしたいと思っていたが、高等学校時代に飯盛先生のよって無機化学への眼が開かれ、柴田先生の解説によって無機化学への興味が深められたので、心ひそかに東大に進学し、柴田先生について無機化学を専攻したいと考えるようになった。」(302頁。「分析化学の思いで話」1975より)

     核物理学者仁科の最良の化学パートナーが「コペンハーゲン以来の親友である木村健二郎」であった。(305頁)
     サイクロトロンの生成物の化学分析を木村健二郎と井川正雄という化学分析の達人がになった。

     サイクロトロンを使った初期の成果は、次。
     Y. Nishina, T. Yasaki, K. Kimura, M. Ikawa, "Artificial Production of Uranium Y from Thorium," Nature 142, 874(1938)
     Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura, M. Ikawa, "Induced β-Activity of Uranium by Fast Neutrons," Phys. Rev. 57, 1182(1940)
      Y. Nishina, T. Yasaki, H. Ezoe, K. Kimura, M. Ikawa, "Fission products of Uranium pruduced by Fast Neutrons," Nature 146, 24(1940)
     Y. Nishina, T. Yasaki, K. Kimura, M. Ikawa, "Fission products of Uranium by Fast Neutrons," Phys. Rev. 58, 660(1940)
     Y. Nishina, T. Yasaki, K. Kimura, M. Ikawa, "Fission products of Uranium by Fast Neutrons," Phys. Rev. 59, 323(1941)
     Y. Nishina, T. Yasaki, K. Kimura, M. Ikawa, "Einige Spaltproducte aus der Bestrahlung des Urans mit schnellen Neutronen," Phys. Rev. 119, 195(1942)
     (仁科芳雄、矢崎為一、江副博、木村健二郎、井川正雄+斎藤信房、松浦二郎)

     「木村研究室の分析能力の高さを世界に示した例としては、1954年の、いわゆる“ビキニの灰”の分析である。同年3月に木村研究室と南英一研究室の総力をあげて行った分析では、多種類の核分裂生成物やCa-45のような軽元素の誘導放射能のほかに、U-237, Pu-239 などが検出された。このうち U-237 の検出はビキニの実験で使用した爆弾が 3F 爆弾であったことを示す証拠となり、国際的に反響を呼んだ。」(308頁)
     この報告は、『分析化学』 =JAPAN ANALYSTの昭和29年号に掲載されています。
     木村 健二郎 , 南 英一 , 本田 雅健 , 横山 祐之 , 池田 長生 , 不破 敬一郎 , 夏目 晴夫 , 石森 達二郎 , 佐々木 行美 , 酒井 均 , 水町 邦彦 , 浅田 正子 , 阿部 修治 , 馬淵 久夫 , 鈴木 康雄 , 小松 一弘 , 中田 賢次,
     「第五福龍丸に降った放射性物質について」 『分析化学』 3(4)(1954): 335-348
     Kenjiro KIMURA, Eiiti MINAMI, Masatake HONDA, Yuji YOKOYAMA, Nagao IKEDA, Keiichiro FUWA, Haruo NATSUME, Tatsujiro ISHIMORI, Yukiyoshi SASAKI, Hitoshi SAKAI, Kunihiko MIZUMACHI, Masako ASADA, Shuji ABE, HIsao MABUCHI, Yasuo SUZUKI, Kazuhiro KOMATSU and Kenji NAKATA, "Radiochemical Analysis of "Bikini Ashes" fallen on Board the No. 5 Fukuryu Maru on March 1, 1954," JAPAN ANALYST 3(4)(1954): 335-348

     これはネットで入手できます。木村が『分析化学』 =JAPAN ANALYSTに発表した論文は他に次があります。多くはネットで入手できます。
     木村 健二郎 , 島 誠「シアン化法製錬液中の金及び銀の定量について : 鉱山にて用いるための迅速分析法の研究(第1報)」『分析化学』 1(1)(1952): 27-29
     木村 健二郎 , 斎藤 信房 , 立花 太郎 , 大沢 潤子 , 柴田 長夫「放射能測定用試料の調製に関する基礎的研究(第1報) : 試料皿における試料のクリーピングの防止について」『分析化学』 2(2)(1953): 92-96
     木村 健二郎「 "ビキニの灰"の分析をめぐって」『分析化学』 3(4)(1954): 333-334
     木村 健二郎 [他]「ゲルマニウムの分析法」『分析化学』 5(10)(1956): 578-595
     木村 健二郎「原子力と分析化学」『分析化学』 9(10)(1960): 894-900

     木村健二郎の論考としては、次のものもネットで入手できます。
    木村 健二郎 , 齋藤 一夫 , 長島 弘三 , 中田 賢次「1-15.ゲルマニウムの國内資源(東京大学理工学研究所第6回定期講演會プログラム)」『東京大學理工學研究所報告』4(5/6), 160, 1951-03-10
     木村 健二郎 , 淺利 民彌「1-16.國産鑛石よりゲルマニウムの抽出(東京大学理工学研究所第6回定期講演會プログラム)」『東京大學理工學研究所報告』4(5/6), 160, 1951-03-10
     木村 健二郎 , 淺利 民彌 , 長島 弘三「1-42.鐵鋼中の燐の新比色定量法(豫報)(物理化學)(第8囘定期講演會講演要旨)」『東京大學理工學研究所報告』5(3/4), iii, 1951-10-20
     木村 健二郎 , 浅利 民彌「2-29.植物体内におけるストロンチウムの分布(生物化学)(第九囘定期講演會講演要旨)」『東京大學理工學研究所報告』6(4), 269, 1952-08-20
      浅利 民彌 , 伊東 好靖 , 木村 健二郎「2-13.精製セレン中の不純物の定量法(高分子化学,分析化学,燃燒)(第10回定期講演会講演要旨)」『東京大學理工學研究所報告』7(5), 202-203, 1953-12-21
     木村 健二郎「放射能と学校教育」『化学教育』23(3), 175-176, 1975-06-20
     木村 健二郎 , 林 良重「木村健二郎先生をお訪ねして」『化学教育』24(3), 243-246, 1976-06-20
     木村 健二郎「元素の周期律(<特集>化学における発明発見 : その芽と発展)」『化学教育』28(5), 395-400, 1980-10-20

     木村 健二郎「大正初期の中学の物理学と化学の教科書」『東京大学理学部廣報』8(4), 3-4, 1976-09
     木村 健二郎「柴田雄次先生の分光器」『東京大学理学部廣報』 12(2), 2-3, 1980-07

      化学史研究サイトにおける「事項索引:木村健二郎」 に収録できなかったものとしては次があります。
     木村 健二郎「145. 長崎氏外西山にて採集せる試料の放射能 (第1回(昭和21年度)年會) 」『東大理學部物理學教室』 1946
     木村 健二郎「人工放射性アイソトープ(同位体)の初荷入に際して」 『科学』 20(6), 22-23, 1950-06
     木村 健二郎 , 野口 喜三郎 , 半谷 高久 [他]「 満洲に於ける井水及び河水の化学成分〔第1報〕」『日本化学雑誌』 71(4), 27-30, 1950-06
      木村 健二郎 , 半谷 高久「東京都及び横浜市水道水並に多摩川及び道志川の水質」『水道協会雑誌』 (190), 18-22, 1950-08
     木村 健二郎 , 野口 喜三雄 , 半谷 高久 [他]「満洲に於ける井水及び河水の化学成分〔第2報〕」『日本化学雑誌』 71(8・9), 28-31, 1950-09
     木村 健二郎 , 藤原 鎭男 , 守永 健一「日立鉱山地帶自然水の化学的研究-特に自然電位との関聯について-」『日本化学雑誌』 71(8・9), 44-47, 1950-09
     木村 健二郎 , 藤原 鎭男 , 安田 嘉男「佐渡鉱山南部地帶地表岩石中の微量の銀及び銅の分布」『日本化学雑誌』 71(8・9), 47-51, 1950-09
     木村 健二郎「化学用語の制定について」 『化学の領域』 4(12), 22, 1950-12
     木村 健二郎「 比色分析-色の濃さで物の量を計る」『科学の実験』 1(3), 19-23, 1950-12
     木村 健二郎「仁科芳雄博士の思ひ出」『科学の実験』 2(3), 177, 1951-03
     木村 健二郎「輸入後の一年をかえりみて-日本における放射性アイソトープ研究の現況-」『科学』 21(5), 233-234, 1951-05
     木村 健二郎 , 藤原 鎭男「金屬鑛床の化學探鑛について」『地學雜誌』 60(1), 9-19, 1951
     木村 健二郎 , 藤原 鎭男 , 安永 健一「細倉鉱山の化学探鉱-4-」『日本化学雑誌』 72(4), 398-402, 1951-04
     木村 健二郎 , 藤原 鎭男 , 長島 弘三「 宝鉱山の化学探鉱」『日本化学雑誌』 72(5), 434-438, 1951-05
     木村 健二郎 [他]「ゲルマニウムの地球化学的研究-1-」『日本化学雑誌』 73(8), 589-591, 1952-08
     木村 健二郎 [他]「温泉水中のチタンの定量法について」『日本化学雑誌』 73(8), 584-587, 1952-08
     木村 健二郎 [他]「ゲルマニウムの地球化学的研究(2)-金属製煉工程に於けるゲルマニウムの行動について-」『日本化学雑誌』 73(9), 677-679, 1952-09
     木村健二郎「化学工業における人工放射性同位元素の応用 」『化学工業』 3(11), 747-750, 1952-11
     木村 健二郎「イオン交換樹脂によるスズとアンチモンの分離」『日本化学雑誌』 74(4), 305-308, 1953-04
     木村 健二郎 [他]「 東洋産含稀元素鉱物の化学的研究-45-」『日本化学雑誌』 74(8), 692-694, 1953-08
     木村 健二郎 , 梅本 春次「温泉地の井戸水中並びに土壤に附着しているCl-,SO42-について-8-」『岡山大学温泉研究所報告』 (12), 1-5, 1953-09
     木村 健二郎 , 島 誠「温泉と鉱脈との関係に就いて-1・2- 」『科学研究所報告』 29(5・6), 517-525, 1953-11
     木村 健二郎 , 島 誠「温泉と鉱脈との関係に就いて-3- 」『科学研究所報告』 30(2), 144-148, 1954-03
     木村 健二郎 , 池田 長生「放射性同位元素の精製,分離及び無担体放射性同位元素の調製」『化学の領域』 8(9), 551-559, 1954-09
     木村 健二郎 [他]「死の灰の本体をこうしてつきとめた」『科学朝日』 14(5), 21-27, 1954-05
     木村 健二郎「第五福龍丸に降つた放射性の灰」『科学』 24(6), 300-302, 1954-06
     木村 健二郎「ビキニ事件の調査をめぐつて」『学術月報』 7(10), 595, 1955-01
     木村 健二郎 [他]「アルミニウム地金中の鉄の迅速化学分析法の研究-1- 」 『科学研究所報告』 31(1), ????, 1955-01
     木村 健二郎 [他]「リン酸マンガン(3)の生成によるマンガン鉱石のマンガン迅速分析方法」『科学研究所報告』 31(3), ????, 1955-05
      木村 健二郎「ウランの資源・製錬・分析」『金属』 25(8), ????, 1955-08
    木村健二郎ほか「原子炉の灰の利用と処置」 『化学工業』 6(9), ????, 1955-09
     木村 健二郎 [他]「東洋産含希元素鉱物の化学的研究-46-」『日本化学雑誌』 77(2), ????, 1956-02
     木村 健二郎 [他]「 東洋産含希元素鉱物の化学的研究-47- 」『日本化学雑誌』 77(4), ????, 1956-04
     木村 健二郎 , 横山 祐之 , 佐野 博敏 , 馬淵 久夫「トリウムよりプロトアクチニウムの陽イオン交換樹脂による分離」『分析化学』 6(10), 637-641, 1957
     木村 健二郎 , 夏目 晴夫 , 鈴木 康雄「ヨウ素酸カリウムによるセリウムの定量的分離法の検討 : 均一溶液からの沈殿」『分析化学』 6(11), 719-723, 1957
     木村健二郎「ラジオ・アイソトープの工業への利用」『通商産業研究』 6(9), ????, 1958-07
     木村 健二郎 , 池田 長生 , 稲荷田 万里子 , 川西 はる子「イオン交換樹脂による硫酸イオンとテルル酸イオンの分離」『分析化学』 7(2), 73-76, 1958
     木村 健二郎 , 池田 長生 , 稲荷田 万里子「イオン交換樹脂による4価のテルルと6価のテルルの分離」『分析化学』 7(3), 174-176, 1958
     木村 健二郎 [他]「JRR-1によるラジオアイソトープの製造」『原子力工業』 7(12), ????, 1961-12
     木村健二郎「故オットー・ハーンの余白に」『化学と工業』 21(10), 1329-1330, 1968-10
     木村健二郎「本邦温泉の化学的研究に関する回顧 」『温泉科学』 20(3・4), 135-139, 1969-12
     木村 健二郎「長島乙吉翁をしのぶ (鉱物趣味の父・長島乙吉先生追悼(特集))」『地学研究』 21(11・12), 318-320, 1970-12
      木村 健二郎 [他]「ボーア先生の8ミリ映画 昭和12年の日本拝見(対談)」『自然』 29(1), 44-51, 1974-01
     木村健二郎「情報を活用し器械を駆使して(先輩からのおくりもの) (加速器と化学--中間子からイオンビ-ムまで)」『化学と工業』 36(7), p474-475, 1983-07

  • 2011.11.25(金)  
      [日本の核化学者 木村健二郎 ii]
     ネットに次のものがあります。以前読んだような気もしますが、読み直しました。
     林良重; 木村健二郎「木村健二郎先生をお訪ねして」『化学教育』24(3)(1976): 243-246
     「化学を志した動機、受けた化学教育」について、林良重氏が木村健二郎先生に尋ねるという趣旨の原稿です。伝記的事項に関して、たぶんほかでは見ることのできない貴重な証言があります。たとえば、大学卒業後、副手に採用されたが、それは有給の副手ではなく、無給の副手であった。しかし、柴田先生が有給の副手と同じ月55円を出してくれたとあります。そして、講師になってもらった月給が75円だったそうです。
     今ではありえない佳き昔の話です。
     ウラン237 は、仁科といっしょにたぶん世界で最初に見つけたと言っています。論文は先を越されますが、見た、見つけたということであれば、その可能性が高いと言えるでしょう。

     出張校正から帰ると次の本が届いていました。
     木村健二郎・齋藤信房
     『岩波講座現代化学 分冊分売 7J 超ウラン元素』
     岩波書店、1956年
     48頁のブックレットです。歴史的資料として購入しました。

  • 2011.11.26(土)  
     朝一番で次の本が届きました。
     菊池正士・木村健二郎・杉本朝雄・武田栄一・八木栄・山崎文男編著
     『ウランおよび原子炉材料ならびに放射化学(原子力工学講座)』 
     共立出版、1956
    除籍本、シール・印、経年ヤケ、カバーキズ、A5判、
     編者代表は木村健二郎です。執筆者は、岩瀬英一(科学研究所)、黒田正(電気試験所)、千谷利三(東京都立大学理学部)、市瀬元吉(大阪工業技術試験所)、島誠(科学研究所)、木村健二郎(原子力研究所)、斉藤信房(東京大学理学部)(執筆順)です。
     第6章「放射化学概論」を斎藤信房と木村健二郎が執筆しています。

     原子力と検閲では、清水榮(しみず・さかえ)氏、嵯峨根遼吉氏、木村一治氏、菊池正士(きくちせいし、1902年8月25日 -1974年11月12日)氏について、基本的なことを押さえようとしています。

  • 2011.11.27(日)  
      [核化学者 斎藤信房氏]
     斎藤信房氏は、昭和15年東京大学理学部化学科を卒業後、昭和16年京城帝国大学理工学部助教授に採用された。終戦後、昭和21年に九州大学理学部に転任になり、昭和24年東大理学部助教授となる。昭和31年同教授に昇任とあります。無機化学と放射化学講座を担当。昭和52年定年退官。2007年12月19日逝去。(享年91歳とあります。1916年に神奈川に生まれたようです。)

     もちろん、科学史家として京城帝国大学理工学部助教授時代のことは気になります。

     本人は、仁科と木村健二郎に教えを受けたと書いています。「昭和14年に化学科三年生になった私が、木村健二郎先生からいただいた卒業論文のテーマは、「93番元素について」と「随伴鉱物間におけるラジウムの分配」の二つであった。前者は人口放射能に関するもの、後者は天然放射能に関するものであるが、それ以来今日まで私はずっとこの二種の放射能と取組んできたことになる。」(斎藤信房「 “Chemical”chemistry」『東京大学理学部廣報』8巻, 7号, 1977年3月, p. 3)
     「ご指導をいただいたのは、木村先生と仁科芳雄先生であり、実験は理研の旧いサイクロトロンを用いて行なった。」(斎藤信房「旧理研時代の経験」『化学教育』第19巻第4号,p.279)
     「ウランの中性子照射に関する上記二つの実験は、仁科芳雄、矢崎為一、江副博、木村健二郎、井川正雄らの研究者によって行われたが、そのころ東大の理学部化学科三年生であった斎藤信房、松浦二郎の両者も化学分離の実験に協力した」(斎藤信房「仁科芳雄とアイソトープ」『日本物理学会誌』Vol.45, No. 10, 1990, p.738)

  • 2011.11.29(火)  
      [日本の放射能化学の歴史]
     ウェブに『仁科記念財団50年の歩み』(2005年12月仁科記念財団)という長いパンフレットがあります。その中に次の記事が採録されています。

     鎌田甲一(仁科記念財団常任理事)「(特別講演)仁科博士とその時代」『仁科記念財団50年の歩み』(2005): 107-140
     どうもこれは、Isotope News 2004年1月号、pp.1-32 をここに採録したもののようです。
     「(特別講演)仁科博士とその時代 1.理化学研究所のあゆみ」1-10
     「(特別講演)仁科博士とその時代 2.仁科研究室の足跡」11-23
     「(特別講演)仁科博士とその時代 3.仁科記念財団」24-32
     最初のページの脚注に「本記事は2003年2月25日〜27日、日本アイソトープ協会本館(元理化学研究所の23号館)の第2会議室で行われた講演を編集したものです。」とあります。

     ウェブに次の原稿があります。
     井上信「初期のサイクロトロン覚え書き」(2008.10.24)  書誌はまだ不明ですが、とてもよく整理されていると思います。サイクロトロンの写真を多数掲載していることは大きな利点だと言えます。
     「太平洋戦争の終わりまでの日本にはサイクロトロンが理研に大小2台、阪大に1台、京大に1台(建設中)あったが、いずれも戦後占領軍によって原爆製造に関係あるものとして破壊撤去されたことはよく知られている。」
     こういう書きだしです。

     井上信さんには、次の論文があります。
     井上信「日本加速器外史 その1」『加速器』(日本加速器学会誌)Vol.1, No.2 (2004): 149-157
     井上信「日本加速器外史 その2」『加速器』(日本加速器学会誌)Vol.1, No.3 (2004): 255-263
     井上信「日本加速器外史 その3」『加速器』(日本加速器学会誌)Vol.2, No.1 (2005): 84-92
     井上信「日本加速器外史 その4」『加速器』(日本加速器学会誌)Vol.2, No.2 (2005): 224-232

     やはりウェブに井上信(京都大学原子炉実験所)「小型線形加速器開発備忘録」があります。これによれば、井上信さんは、平成11年から熊取にある原子炉実験所の所長となられています。(初代所長は木村毅一氏。)

     さらに井上信さんは、F. T. Cole, "Oh Camelot! A Memoir of the MURA Years" という加速器の歴史(正確には、MURA=米国中西部大学連合の加速器グループの歴史)を訳してウェブに掲載されています。コール氏はその開発の当事者です。こういうのも貴重な証言です。

     ウェブキャットで調べたところでは、『加速器』(日本加速器学会誌)の所蔵は2館のみです。ほんとうでしょうか? 信じがたい状況です。

  • 2011.11.30(水)  
      [核物理学者 木村毅一]
       井上信さんの記事にでてくる木村 毅一(きむら きいち、Kiichi Kimura、1904年4月7日 - 1992年7月8日)氏ですが、台北帝国大学時代、荒勝文策のもと、アジアで最初の加速器(コッククロフト・ウォルトン型)を作った人物です。

     木村毅一氏も調べなければなりません。
     京大の物理出身です。(1929卒業)
     1930年に台北帝国大学の助手として採用され、1936年に京都帝国大学の理学部講師として戻ってきています。ですから、戦争末期は京大にいたことになります。京大時代にも加速器の建設に関わっています。

      [核物理学者 山崎文男]
       山崎文男 (やまさき ふみお、Humio Yamasaki, 1907年8月23日〜 1981年11月17 日)についても調べましょう。

     東京生まれ。1931年東京帝大理学部物理学科を卒業。1935年理化学研究所仁科研究室に入る。のちに、理化学研究所主任研究員に。
     1945年8月30日、理研仁科研の一員として、爆心地の広島に入り、放射線を測定している。

  • 2011.12.1(木)  

     K氏より、次のテレビ番組を教えてもらいました。
     BS歴史館「キュリー夫人と放射能の時代〜人は原子の力とどう出会ったのか?〜」
     チャンネル:BSプレミアム
     放送日: 2011年12月1日(木)
     放送時間:午後4:00〜午後5:00(60分)
     我が家の録画機能は、たぶん番組の後、回復しているはずです。つまり、その時刻には録画機能はない。大学でそういうサービスをしていたのを思いだし、図書館の次に教育情報化支援室に寄って、お願いしました。やってくれるということです。からのDVDを1枚持ってきて下さいということでした。受け取るときに必要なようです。

     ILL (図書館相互貸借)で次の本が届いているという連絡がありました。大学に着いてすぐに図書館により受け取りました。
     斎藤信房先生記念誌編集委員会編
     『うららなる湖 : 斎藤信房先生の想い出』
    斎藤信房先生記念誌の会, 2010.10
     これも制作は、岩波出版サービスセンターです。本としては市場に出まわっているまったく普通の本の体裁です。目次だけで8頁に及びます。すなわち、非常に多くの方の原稿を集めています。

  • 2011.12.6(火)  
     木村健二郎年譜より。
     明治29年5月、宇都宮に生まれる
     明治30年、横浜に引っ越す
     大正6年7月 東京帝国大学理科大学化学科入学
     大正9年7月 同大学理学部(改称)化学科卒業
     大正9年9月 同大学副手を嘱託す
     大正10年2月 同大学講師を嘱託す。分析化学講座に属する職務を分担すること
     大正11年7月 同大学大学院終了
     大正11年11月 任東京帝国大学助教授。分析化学講座分担を命ず(分析化学講座新設さる)
     大正13年1月 柴田雄次の薦めで結婚
     大正13年12月 分析化学研究ノタメ、フランス国・デンマーク国・アメリカ合衆国ヘ在留ヲ命ス。
     大正14年1月 神戸港より出発
     大正14年1月〜昭和2年4月までデンマークに在留
     昭和2年7月 ドイツ、フランス、イギリス、米国を経て帰国
     昭和2年8月 分析化学講座担任ヲ任ス
     昭和6年7月 理学博士
     昭和7年4月 日本化学会桜井賞
     昭和8年3月 理学部教授
     昭和15年2月 理化学研究所研究員。昭和33年6月30日まで。
     昭和21年4月 日本化学会(旧)会長
     昭和25年4月 アメリカより贈られたラジオアイソトープSb-125 化学教室に到着
     昭和28年10月 理学部長
     昭和29年3月 原爆症調査研究評議会委員〜昭和29年10月まで。
     昭和29年11月 放射性物質の影響に関する日米合同会議における日本主席代表。
     昭和31年3月 原子力委員会参与(31年9月まで)
     昭和医31年7月 東京大学教授辞職を承認。日本原子力研究所理事。
     昭和33年1月 日本原子力研究所ラジオアイソトープ研修所開設、担当理事所長兼務。
     昭和33年6月 放射線審議会委員。(36年7月まで)
     昭和33年7月 理化学研究所顧問
     昭和36年7月 放射線審議会会長。(44年2月まで)
     昭和36月12月 日本学士院会員。
     昭和39年9月 日本原子力研究所理事満了退任。
     昭和40年3月 日本化学会会長。(41年2月まで)
     昭和40年9月 厚生省公害審議会委員。(41年10月まで)
     昭和42年3月 日本分析化学会会長。(43年3月まで)
     昭和44年5月 財団法人 放射線照射新興協会理事長。(49年4月まで)
     昭和46年4月 日本分析化学会会長。(47年4月まで)
     昭和46年5月 日本原子力文化振興財団理事。(49年6月まで)
     昭和46年8月 社団法人 日本原子力産業会議「核分裂生成物等総合対策懇談会」院長。利用開発、処理処分、消滅処理につき答申。(48年5月まで)
     昭和47年3月 社団法人 日本原子力産業会議常任理事。(48年10月まで)49年2月まで政策委員
     昭和47年4月 原子力委員会環境安全専門部会長。(49年2月まで)

      東京女子大学学長のことは記載からはずしています。日本の原子力の最初の時点で、重要な役目を担っています。

     図書館より、ILL で2冊本が届いているという連絡がありました。3時過ぎに家をでて、まず、次の2冊を借り出しました。(ともに大阪大学附属図書館より来ていました。)
     木村毅一『アトムのひとりごと』丸善, 1982
    菊池正士〔著〕 ; 菊池記念事業会編集委員会〔編〕『菊池正士業績と追想』 菊池記念事業会編集委員会, 1978
     ともに日本の核科学者の追悼集・回想録です。

     木村毅一『アトムのひとりごと』(1982)では、まず、奥付より、著者略歴を拾います。
     明治37(1904)年 京都に生まれる
     大正15(1926)年 第3高等学校卒
     昭和4(1929)年 京都大学理学部卒
     京大教授、京大原子炉実験所長、大阪府立放射線中央研究所長、福井工業高等専門学校長を歴任。
     著書『近代物理学』(昭和29年、共著)。

     はしがきに次のようにあります。「今年3月22日、私のために七十数名の若い人たちが集まって、喜寿のお祝いをして下さった。
     その席で大阪府立放射線中央研究所の方がたから「先生が大放研の所長であった十年程の間、毎月書かれた随筆を出版されてはどうか」と勧められた。「もし皆様が興味をもって下さるのなら」と承諾した。
     しかし、自費出版というので多額の負担を多くの方がたにおかけし、その上、原稿の整理や校正にも関係者のご苦労を煩わすこととなった。
     八十年近い人生の坂道を登りつめて来た私は、ここに不思議なご縁に結ばれた多くの方がたのご好意に対し衷心よりお礼を申し上げる次第であります。
     一九八二年八月六日」
     最初に掲載されている写真がなかなか興味深い。

     『菊池正士業績と追想』(1978) はとてもよくできています。
     第1部は業績で10数点の英文論文が掲載されています。次が随筆で、9点。そして、略歴、論文リスト、著書リストが続きます。
     第2部はあゆみです。まず、伏見康治が「菊池正士先生略歴」を書かれています。そして、時代の錚々たるメンバーがそれぞれの時代の菊池正士氏のあゆみを執筆されています。
      《理研時代》
       電子回折研究における菊池先生の業績            三宅静雄
       目的に向かってまっすぐに                 藤岡由夫
      《ドイツ留学時代》
        ある面影                        仁田勇
      《阪大時代》    
       菊池研究室における中性子研究               若槻哲雄
       阪大の昔のサイクロトロン                 伊藤順吉
       先生と宇宙線研究を中心に                 渡瀬譲 
       阪大の二代目サイクロトロン                若槻哲雄
      《核研時代》 
       原子核研究所の設立と菊池先生               朝永振一郎
       核研時代                         野中到 
      《原研時代》 
       原子力と菊池正士先生                   宗像英二
       原子力研究所時代                     西堀栄三郎
       《理研・ウラン濃縮》   
       菊池先生とウラン濃縮                   中根良平
      《理科大時代》
        東京理科大学三代目学長としての菊池先生         宇喜多義昌 
     第3部は追想です。ここには非常に多くのかたの思い出が集められています。

  • 2011.12.16(金)  
     まず駒場図書館に行き、借りていた本を返却しました。ついで、次の本を借り出しました。
     中根良平、仁科雄一郎、仁科浩二郎、矢崎祐二、江沢洋編
     『仁科芳雄往復書簡集 現代物理学の開拓 III 1940-1951』
     みすず書房、2007
     買おうかなと思ったのですが、あまりに高かったので、ともあれ借り出しました。III は、大サイクロトロン・二号研究・戦後の再出発です。
     巻末に、別ノンブルで、解説、仁科芳雄関連年譜、人物紹介、索引等が付されています。解説は85頁あります。江沢洋氏の執筆。
  • 2012.1.31(火)  
      [プルトニウム]
     『新潮45』2012年2月号に、次の記事があります。

     有馬哲夫「原発秘史発掘 正力の狙いはプルトニウムだった」pp.64ff.
     特集「原発を考える補助線」のひとつです。特集を全部挙げると次です。
     駒村吉重「六ヶ所村エレジー」
     添田孝史「一律「40年制限」は非現実的! 全原発54基総点検」
     大河内直彦「石炭が輝いていた昭和」
     小出裕章vs佐伯一麦「対談 「反原発」という人生」
     有馬哲夫「原発秘史発掘 正力の狙いはプルトニウムだった」

     最後の文を引用しましょう。「「日本原子力の父」は米英を天秤にかけ、商業用原発の導入と、プルトニウム獲得という二正面作戦を戦い抜いたのである。」
     ちなみにプルトニウム獲得作戦の結果は、有馬さんによれば、「ささやかながら勝利」とされています。

     つまり、正力は、岸信介の「核武装自衛合憲論」(1957年5月国会演説)に呼応する形で、「自前のプルトニウム」を獲得しようと戦い、部分的な勝利を得た、という評価です。
     有馬さんはきちんと資料を追いかけているので(十分な裏付けかとなるかどうかはおいておいて)正力がプルトニウムも欲したということは事実だと認定してよいと思います。不明なのは、その先です。コルダーホール型原子炉から生まれるプルトニウムを仮に英国から買い戻したとして、その先いったいどうするつもりだったのかということです。ともかく、ただもっていたかったのでしょうか? あるいはその先を本当に考えていたのでしょうか? 有馬さんの論考からはそこがわかりません。

     さて、ここで、金曜日に駒場の日本物理学史の専門家に聞いた話です。吉岡斉氏の『原子力の社会史』に欠けるのは、電力産業の観点である、ということです。確かに、戦後日本社会にとってクルーシャルであった電力事業・産業の観点は、ほとんど追究されていません。
     この観点を加味すると、産業規模としては電力の方が圧倒的に大きく、正力はなるほどプルトニウムも欲したかもしれませんが、ねらいはやはり電力=原子力だったように思われます。

     プルトニウム問題に関しては、河野太郎氏が1月24日のブログで貴重な指摘をされています。韓国の再処理問題です。韓国は今、米韓原子力協定のしばりがあり、自前で使用済み核燃料の再処理を行うことはできないが、2014年の協定満了に向けて、韓国国内でも日本と同じように使用済み核燃料の再処理を行いたいという気運が原子力関係者の間で盛り上がってきているということです。それはやはりまずいでしょう。
     まず日本が再処理から撤退すべきだ、というのが河野氏の主張です。その通りだと思われます。

  • 2012.2.16(木)   
      [岡本拓司「原子核・素粒子物理学と競争的科学観の帰趨」]
     昨日会議の合間に次の論文を読みました。
     岡本拓司「原子核・素粒子物理学と競争的科学観の帰趨」『日本の科学思想史』(金森修編著、勁草書房、2011)第1章、pp.105-183
     第5節が「中間子論、サイクロトロン、新型兵器」、第6節が「敗戦下の原子核・素粒子研究」です。戦時中の仁科や荒勝の原子力爆弾の開発に関する記載が一部ですがあります。新型兵器、すなわち原子力爆弾そのものとその威力についての情報が戦時中の日本でもかなりの範囲で共有されていたことがわかります。仁科の態度(の豹変)がポイントでしょう。
     →矢崎為一(1902-1970)や嵯峨根遼吉を重視しています。
  • 2012.2.17(金)  
      [インドの原子力]
     インドの物理学者バーバ博士のことが気になったので、グーグルスカラーで検索をかけました。次の論文があったので、ダウンロードして読みました。
     三上喜貴「技術大国インドの研究(中編)」『長崎技術科学大学研究報告』第23号(2001): 63-81
     最初の部分にインドの原子力開発戦略の特徴がまとめられています。
     1.インドの場合、原子力発電の主力が天然ウラン炉である。濃縮ウラン燃料を使う軽水炉はアメリカから提供されて2基動いているが例外であり、この2基を除き、燃料自給を達成している。
     2.2001年の時点で高速増殖炉の開発を進めている。
     3.ほぼ自給的な核燃料サイクルを保有している。
     インドのこともきちんと押さえておく必要があります。
  • 2012.2.28(火)  
     矢ヶ崎 克馬『隠された被曝』新日本出版社、2010
  • 2012.3.8(木)  
      [3.11からもうすぐ1年]
      3.11からもうすぐ1年ということでいろんなメディアで特集が組まれています。NHKのものは時間のあるときに見ています。
     さて、今日の朝日新聞の一面に次の記事がありました。
     4号機、工事ミスに救われた 震災時の福島第一原発
     詳しく情報を追いかけている方には、今最も危険なのは、福島第一原発の4号機の使用済み核燃料プールであることよく知られていると思います。それが震災のときに深刻な事態にならなかったのは、工事ミスという偶然に助けられたという分析です。
     グーグルの検索による限り、この情報を伝えているのは、朝日新聞だけのようです。このあたりが、マスメディアの不思議な点です。(朝日新聞も、なぜ、この時点でこの分析を報道するのかは何も記していません。ソースも示していませんし、そのソースの入手時期も示していません。さらに、この使用済み核燃料プールが非常に危険な状態にあることも伝えていません。何か思惑があってそうしているのでしょうが、逆に不信を生むだけだと思われます。)
  • 2012.3.11(日)  
     午後、次の本が届きました。
    アーニー・ガンダーセン
    『福島第一原発 ―真相と展望 』

    岡崎玲子訳、集英社新書、2012

     夕刻、次の本が届きました。
    大鹿 靖明
    『メルトダウン ドキュメント福島第一原発事故』

    講談社、2012

  • 2012.3.12(月)  
      [山崎正勝『日本の核開発:1939‐1955』]
     帰宅すると次の本が届いていました。
    山崎 正勝
    『日本の核開発:1939‐1955 原爆から原子力へ』

    績文堂、2011
     目次は次の通りです。

     第1部 戦前・戦中編
    はじめに
      1.発端―陸軍と仁科芳雄
      2.基礎科学を追求する仁科芳雄―真珠湾攻撃後、「基礎研究に邁進」
      3.「物理懇談会」海軍技術研究所からの依頼
      4.仁科芳雄、「お国のために役立つ研究」へ
      5.核の研究開発開始と陸軍への報告書
      6.二号研究の開始
      7.海軍の京都帝大荒勝文策への研究依頼とF研究
      8.ウラン資源のドイツへの依頼と国内探査
      9.拡散塔の焼失と理研における二号研究の中止
      10.原爆投下とその調査
      11.戦後研究の開始とサイクロトロン破壊
    まとめ
      第2部 戦後編
      1.米国による原爆投下の正当化論
      2.科学者たちの戦後―原爆から学んだこと
      3.学術研究会議の原爆被害調査と原爆傷害調査委員会(ABCC)の発足
      4.占領軍による原爆報道検閲と原子爆弾に関する一般国民の意識
      5.学術会議における原子力に関する議論―国内法による規制
      6.アイゼンハワー国連演説と東西原子力外交
      7.原子力予算計上と伏見の原子力憲章案
      8.ビキニ事件の衝撃と原子力三原則
      9.ビキニ事件に対する米国の反応
      10.学術会議の原子力基本法定の動き
      11.原水爆禁止運動の発展
      12.読売新聞社の「原子力平和使節団」招待と「原子力平和博覧会」
      13.日米原子力協定
      14.原水爆禁止運動の高揚―ラッセル・アインシュタイン宣言と原水爆禁止世界大会
      15.ジュネーヴ原子力平和利用国際会議と原子力基本法
      16.原子力基本法の国会審議
      17.原子力基本法と原子力の1995年
      18.周辺諸国から見た日本の核問題
      19.まとめ:原爆被災から原子力計画の開始へ
     あとがき

     あとがきを読む限り、この本は、山崎さんの日本の核開発研究の集大成のようです。初出一覧には、18点の論文・論考が挙げられています。

     →12.4.16 初出一覧をとっておきます。

    山崎正勝&深井佑造&里見志朗「東京第二陸軍造兵廠に対する仁科芳雄の報告:1943年7月から1944年11月」『技術文化論叢』Vol. 3(2000): 53-69

    山崎正勝「資料紹介 旧日本海軍『F研究』資料」『技術文化論叢』第5号(2002): 28-73

    山崎正勝&河村豊「物理懇談会と旧日本海軍における核および強力マグネトロン開発」『科学史研究』Vol.37(1998): 161-171

    山崎正勝「理研の「原子爆弾」ひとつの幻想―『完全燃焼』構想」『技術文化論叢』 No.3. (2000): 25-32

    山崎正勝「理研の「ウラニウム爆弾」構想−第二次世界大戦期の日本の核兵器研究−」『科学史研究』第40巻218号(2001): 87-96

    山崎正勝「第二次世界大戦時の日本の原爆開発」『日本物理学会誌』第56巻8月号(2001): 584-590

    山崎正勝「GHQ史料から見たサイクロトロン破壊 」『科学史研究』第II期、Vol.33(1995): 24-26

    山崎正勝「“原爆投下”をどうみるか」『科学』第65巻第8号(1995): 499-500.

    山崎正勝「つくられた原爆による「人命救助」論」『サジアトーレ』No. 30(2001): 44-53

    山崎正勝・奥田謙造「ビキニ事件後の原子炉導入論の台頭」『科学史研究』第43巻230号(2004): 83-93.

    山崎正勝「日本における『平和のための原子(アトムズ・フォー・ピース)』政策の展開」『科学史研究』第47巻249号(2009): 11−21

    河村豊・永瀬ライマー桂子・山崎正勝「アゴラ:マックス・プランク協会における戦時研究見直しプログラム」『科学史研究』第41巻(2002): 102-103.

    山崎正勝「現代科学の社会史」『科学史研究』第40巻(2001): 179-181

  • 2012.6.12(火)  
     夕刻、次の本が届きました。
     エステル・ゴンスターラ
     『インフォグラフィクス 原発:放射性廃棄物と隠れた原子爆弾』
     今泉みね子訳、岩波書店、2011
     絵本のような本でした。活字の量がすくない。15分程度で全部読んでしまいました。本当に重要な事柄のヘッドラインだけを集めたようなつくりです。そういうものとして有用ではあります。地図は趣味の問題でしょうが、もうすこし正確なものの方がうれしかったと思います。デザインが勝ちすぎていると思います。(たぶんコンセプトがそういうものなので、いたしかたはないのですが。)
     →内容的には、重要事項、基本事項を紹介してくれており、便利です。
     1.たとえばアメリカの発電量。正確には発電エネルギー源の割合が72頁にあります。それによれば、石炭51%、原子力19%、天然ガス17%、再生可能エネルギー9%、石油2%です。
     石炭が中心という知識はあったのですが、石油の割合がここまで低くなっているとは思いませんでした。ネットで確認してみました。
     『エネルギー白書2011』をネットで読むことができます。それによれば、2008年において、アメリカの総発電電力量43,348憶kWhのうち、石炭49%、原子力19%、天然ガス21%、水力6%です。表223-1-5にはもう石油の割合は書き込まれていません。とりあえず、わずかだということは間違いありません。
     ちなみに、同じ年、日本では、石炭27%、原子力24%、天然ガス26%、水力7%、石油13%です。石炭、天然ガス、原子力がそれぞれ4分の1強、4分の1強、4分の1弱という構成になっています。石油はその約半分。
     世界全体では、発電設備では石油が9.3%、発電電力においては5.5%です。日本が石油に依存する割合は、世界の平均よりも高い、しかしそれでも13%まで減少してきていると言えるでしょう。
     私たちの世代が子どもだったころには、発電といえば石油というイメージがありました。ずいぶん様変わりしています。『エネルギー白書2011』によれば火力発電においては、石油に代えて天然ガスを利用するようになったということでよいようです。

     2.76頁に次のようにあります。「1962年7月6日 ネヴァダ核実験場で、広島型原爆の7倍の威力をもつ爆弾「セダン」の地上実験を実施。放射性物質を含む雨がユタ州の南部を汚染し、700ラドの吸収線量が測定される。600ラドの被爆は致命的だといわれる。「セダン」を皮切りに、将来の原子力平和利用のため、すなわち原爆を山の掘削、流路の変更、運河の建設などに利用するプロウシェアー計画が始まる。」
     おお! アメリカでは、「原爆を山の掘削、流路の変更、運河の建設などに利用する」プロジェクトが本気で検討されたようです。このページでは、こうしたネヴァダ核実験場での核実験で兵士が見学に参加した事実が記されています。見学した兵士たちはどの程度被爆したのでしょうか?

     →「プロウシェアー計画」というのは私の知らないものでした。英語では、plowshare すなわち、鍬の刃、すきの先を指すことばです。

     →「プロウシェアー計画」で検索をかけても、ウィキの「セダン核実験」しかヒットしません。発音表記がたぶん違うのだろうと推測し、「プラウシェアー計画」で検索をかけると数多くのサイトがヒットしました。日本では「プラウシェアー計画」と表記されていたようです。

     興味深い内容です。これに関して次の論文がウェブで入手できます。
     Peter Kuzunick, "Japan's Nuclear history in perspective: Eisenhower and atoms for war and peace," Bulletin of the Atomic Scientists 13 April 2011
     邦訳も入手できます。ピーター・カズニック「日本原子力史とアイゼンハワー」

     ウェブから引用します。
     短くは、プラウシェア計画で「1961年から1973年まで衝撃波の測定や天然ガス採掘など、平和利用の実験のために小規模な核実験が行われました。」
     ウィキのセダン核実験の結論は次のように述べます。
     「プロウシェアー作戦では、セダン核実験によって核爆発による迅速・経済的で大規模な土砂掘削の可能性を証明した。核爆発の利用対象としては、港湾・ 運河の建設、露天掘り鉱山での採鉱、山岳地帯での鉄道・道路用地の開口、及びダム建設が提案された。しかし核爆発により発生する放射性降下物は、広い範囲 に拡散することも判明した。結局、一般人の健康への影響、及び議会の反対によりこの提案は破棄された [10]。 米国ではこの様な核爆発による掘削は行われていないが[11]、 ソ連は核爆発の商用利用を続けていた。」

     具体的に、ソ連がいつまでどういうふうに「核爆発の商用利用」を続けていたのかを調べる必要があります。(簡単に調べがつくかどうかは現時点では不明です。)

  • 2012.6.16(土)  
      [中川保雄氏の仕事]
     6月6日に大学図書館でコピーをとった次の2論文をやっと読みました。

     中川保雄「国際放射線被曝防護基準の変遷と原子力開発」『神戸大学教養部紀要』33(1984): 1-27

     中川保雄「マンハッタン計画の放射線被曝管理と放射線影響研究」『神戸大学教養部紀要』36(1985): 49-67

     本当に重要な指摘があります。

       「マンハッタン計画の放射線被曝管理と放射線影響研究」の結論を引用します。「今日の放射線被曝管理の基本的内容と方法は、その基礎において、マンハッタン計画とその後のの放射線被曝管理と放射線研究に示された、労働者・公衆への放射線被曝の犠牲の共生と放射線影響の過小評価、そしてまたアメリカをはじめとする帝国主義的核兵器開発・原発・核燃料サイクル推進策と密接に結びついている。」(p.64)

     「国際放射線被曝防護基準の変遷と原子力開発」の方も結論を引用します。「1928年のIXRPC勧告から1977年のICRP 勧告までの放射線防護の線量体系に関する国際勧告を、放射線利用技術と産業の発達、放射線作業者の歴史的変化とその間での放射線障害の顕在化、放射線被曝の危険性の認識、および平和運動・反原発運動との関連において分析し、評価した。それらの勧告の基本的特徴は、次のように時代区分することができる。
     (1)第1次世界大戦中に急激に広がった、医療用放射線の商業的利用、ラジウムの工業的材料としての利用により、放射線医師、放射線技術等医療の専門的従事者、時計の文字盤塗付女子労働者等にあらわれた放射線障害が社会的問題となり、それらを職業病とみなし、その防護が世界的に問題となって、「耐容線量」を線量基準として設定した時期(1928年勧告、1934年勧告)
     (2)第2次世界大戦中にアメリカにより広島・長崎に原爆が投下され、その後の核兵器開発・核実験が続行され、原子力の軍事的利用から派生した原子力の商業的利用のための研究開発が開始され、放射線被曝人口が広範な人民に拡大され、核兵器禁止・核実験禁止を求める平和運動が世界的に高揚し、致命的放射線障害の発生と遺伝的影響を認める「許容線量」体系を制定しその線量引き下げがなされた時期(1950年勧告、1958年勧告)
     (3)資本主義世界のエネルギー危機が深化する中で、原子力発電と核燃料サイクルが、アメリカをはじめ日本、フランス、西ドイツ、イギリス等で推進され、それらによる放射能の汚染が原子力労働者、周辺住民、少数民族・被抑圧民族等に転嫁されている実態や被爆の脅威が世界的に発展した反原発運動により明らかにされ、その運動におされて「許容線量」概念が放棄され、原発等の経済性を追求する線量基準緩和が打ち出された時期(1965年勧告、1977年勧告)。」(pp.21-2)

     「ICRP 1977年勧告は、以上みてきたように、放射線作業従事者とりわけ原発下請労働者のみならず、次には原発周辺地住民をはじめ一般公衆に放射線被曝を今よりも一層強要し、放射線汚染の犠牲を労働者・人民に一層転嫁するものである。」(p.23)

     さて、やはり  中川保雄『増補 放射線被曝の歴史―アメリカ原爆開発から福島原発事故まで』(技術と人間、1991;増補版、明石書店、2011)を読んでおかなければなりません。
     →ということで、読み始めました。まだ読了していませんが、感動しました。とてもよく書けています。長年にわたる中川保雄氏の仕事の結晶と言える著作に仕上がっています。
     ウェブに東大の宗教学の島薗進氏による論点整理があります。私は島薗さんの態度を支持します。

     「序にかえて」から。「原子力の問題に関心を抱く多くの人びとにとって現在最も必要なことの一つは、原子力が人類の未来を約束するものかどうかを、ありとあらゆる原子力開発に共通し、その基礎に横たわる放射線被爆の問題から考えることであると私は思う。 (p.10)
     「われわれは放射線被曝の影響についてどれほど知っているのであろうか。いや、その危険性や被害について、核兵器や原発の開発を進めてきた人びととどれほど違った観点から考えてきたであろうか。」(p.11)  「被害をどうみるかが問題とされる事柄を、加害した側が一方的に評価するようなことが、しかもそれが科学的とされるようなことが、まかり通ってよいものであろうか。」(p.11)
     「加害した側のアメリカ軍によって調査された事柄を、被害者の側に立つべき日本の研究者たちも大筋において受け入れているという事情はなんとしても説明しがたいことではないか。」(p.13)
     「なぜそのようなことがまかり通ってきたのか。それを明らかにするのもこの書の目的の一つである。広島・長崎の原爆被害を調査した日本人の主だった研究者たちが、日本の侵略戦争に協力したということが、そのことを説明してくれる。あるいは、戦争中に日本の原爆開発に従事していたり、戦後に日本の原子力開発に関係していたことが絡んでいる。」(p.14)

     「今日の放射線被曝防護の基準とは、核・原子力開発のためにヒバクを強制する側が、それを強制される側に、ヒバクがやむをえないもので、我慢して受認すべきものと思わせるために、科学的装いを凝らして作った社会的基準であり、原子力開発の推進策を政治的・経済的に支える行政手段なのである。」(p.225)
     「これを「科学の進歩」と呼ぶ人びとがいる。そのような人びとは、何よりも被爆の犠牲に目をつむる人たちである。また、ICRP 勧告が核軍拡および原子力推進策と結びついてきた事実を、そして放射線被曝の危険性を過小評価してきたことを、隠そうとする人たちである。歴史が示しているように、核と原子力の時代に築かれた放射線被曝の社会的体制は、ヒバクを押しつけ、ヒバクの犠牲を隠し、ヒバクの危険性を過小に評価しておきながら、それらのいわば犯罪的行為を「科学」の名の下に正当化するヒバクの支配体制である。それは、原発推進の支配体制の重要な構成部分を成しているのだる。」(p.226)

  • 2012.6.17(日)     [中川保雄『放射線被曝の歴史』1991. 2011]
     妻とちいさいちびがでかける前に、中川保雄『増補 放射線被曝の歴史―アメリカ原爆開発から福島原発事故まで』(技術と人間、1991;増補版、明石書店、2011)を読み通しました。全員に読んでもらいたい種類の本です。日本からの発信ということであれば、これを英訳して出版すべきでしょう。

     第11章「被爆の被害の歴史から学ぶべき教訓はなにか」をまとめます。

     1.被爆の第一の範疇。(最初期の被爆)
     1895年レントゲンはX線を発見した。X線によって手の指を写された「レントゲンの助手の手は、そのようなX線撮影に長年従事したために原型をとどめぬほど変形した。」すなわち、レントゲンの助手が放射線障害の最初の犠牲者のひとりであった。
     1898年キュリー夫妻がラジウムを発見した。キュリー夫妻は、長年による放射線被爆により白血病を発し、亡くなった。
     「第1次世界大戦後から第2次世界大戦までは、X線装置や放射線同位元素の利用が急速に拡大したが、その過程で放射線作業従事者の間で放射線により犠牲者が多く生み出された。同時に、X線装置や放射線装置を使った診断や治療を受けた人たちの間からも、多くの放射線被害者が生まれた。」(p.218)これらが放射線被害の初期の犠牲者の例である。

     2.放射線被曝の第2の範疇。(第2の種類の放射線被爆)
     第2次世界大戦の開始とともに始まった「核兵器開発に従事した労働者たちの被爆被害」。
     アメリカの原子力委員会は、「重大な事故は一度も起こらなかったし、犠牲者も出なかったと主張し続けた」が、1970年代に発表されたマンキュウーソの調査が核開発従事労働者の被害を明らかにした。

     3.原爆の被害者。広島と長崎に投下された原爆による被害。
     広島で14万人、長崎で7万人、朝鮮人4万人、合計25万人以上の死者。
     さらに、マーシャル諸島の核実験の被害者、アメリカのネバダ核実験被害者。

     4.ウラン採鉱、ウラン精錬過程にともなう放射線被曝の被害。
     アメリカのニューメキシコなどウラン採掘地域に住むアメリカインディアン、カナダのウラン採掘地帯に住むカナダインディアン、オーストラリアのアボリジニー、南アフリカの黒人たち。

     5.原子力発電所の労働者。
     1989年当時の日本の原発労働者の数、5万5千人。彼らの放射線被曝総量は、1万人・レム(1000人・シーベルト)のレベル。その結果、およそ毎年10人が癌・白血病で亡くなると計算できる。ただし、原発労働者の総被爆線量の95%以上は、下請け労働者に集中している。
     アメリカだけでカウントしてみても、原発労働者の被爆者数は100万人を越える規模に達している。

  • 2012.6.19(火)  
      [Yasuo NAKAGAWA, "Underestimations of Radiation Effects by the Atomic Bombs Casualty Commission, " Journal of History of Science, JAPAN, Series II, Vol.26 (Winter, 1987): 207-213]
     昨日研究室でみつけた『科学史研究』1987年冬号(通巻164)に掲載されている次の論文を読みました。
     中川保雄「放射線による晩発的影響の過小評価(II)」『科学史研究』1987年冬号(通巻164): 207-213
     英語圏に人々にも読んでもらいたいので、英文サマリーをまるまる引用します。

     Yasuo NAKAGAWA, "Underestimations of Radiation Effects by the Atomic Bombs Casualty Commission, " KAGAKUSHI kENKYU: Journal of History of Science, JAPAN, Series II, Vol.26 (Winter, 1987): 207-213
    Summary
     It has been asserted that the Investigations on late radiation effects by the   Atomic Bombs Casualty Commission (ABCC) and the Radiation Effects Research Foundation (RERF) is the one and the only exaustive study for more than thirty years among the one hundred thoudand atomic bomb survivors.
    However, their studies had some principal problems which lead enevitably serious underestimations of radiation effects on human body. On the starting point of the research, ABCC made an exception of the pieiod from December 1945 till September 1950, concealing tha fact that the death rate especially among the high level survivors was extremely high at the period. ABCC also excluded such survivors from the research as those who resided out of the cities of Hiroshima and Nagasaki in October, 1950 because of the time lag of the reconstructions of their houses aroud groud zero. Morever, ABCC cut out the most of young survivors who migrated out of the cities before 1950. Their late cancer deaths should surely have raised its rate among the survivors, if ABCC invetigated them.
    The cancer risk of radiation exposure was estimated among these biased atomic bomb survivors by ABCC, and was substantially underestimated.
    Its risk factor should be thoroughly reevaluated from the reestimation not only of the atomic bomb radiation doses, but of the fundamental dake obtained by ABCC and RERF.

     中川保雄さんの仕事をまとめておく必要があります。まず出版リストから。
     『科学史研究』では次。
     中川保雄「広島・長崎の原爆放射線影響研究--急性死・急性障害の過小評価 」『科学史研究』1986年(通巻157): 20-33
     中川保雄「放射線による晩発的影響の過小評価(I)」『科学史研究』1987年秋号(通巻163): 129-139
     中川保雄「放射線による晩発的影響の過小評価(II)」『科学史研究』1987年冬号(通巻164): 207-213
     『技術と人間』では次。
    バーテル・ロザリー(中川保雄訳)「低線量被曝の危険性--骨に蓄積する放射性核種と単球(単核白血球)の減少」『技術と人間』18(12), p56-69, 1989-12
     中川保雄「ICRP(国際放射線防護委員会)新勧告のねらい--新手のごまかし-上-」『技術と人間』19(12), p61-69, 1990-12
     中川保雄「ICRP(国際放射線防護委員会)新勧告のねらい--新手のごまかし-下-」『技術と人間』20(1), p98-108, 1991-01
     中川保雄「美浜事故・汚染そして被曝問題 (石油・原子力文明を問い直す<特集>)」『技術と人間』20(6), p8-16, 1991-06

     前に挙げた『神戸大学教養部紀要』の2点。  
     中川保雄「国際放射線被曝防護基準の変遷と原子力開発」『神戸大学教養部紀要』33(1984): 1-27
     中川保雄「マンハッタン計画の放射線被曝管理と放射線影響研究」『神戸大学教養部紀要』36(1985): 49-67
     その他。
     中川保雄「過小評価されていた放射線障害--広島・長崎41年目の真実」『科学朝日』 46(8), p117-122, 1986-08

  • 2012.6.21(木)  
     部屋のなかで次のものを探し出しました。
     中川保雄「広島・長崎の原爆放射線影響研究――急性死・急性障害の過小評価 ――」『科学史研究』1986年春(通巻157号): 20-33
     結論(5.おわりに)を引用します。
     「アメリカ軍合同調査委員会・ABCC およびアメリカ国防省・原子力委員会は、広島・長崎の調査に基づき、原爆放射線による死亡ゼロの“しきい線量100レム”、急性放射線障害がゼロになる“しきい線量25レム”、急性放射線障害が脱毛・紫斑であることを見い出したと主張した。しかしそれらはいずれも、放射線による急性死亡・急性障害を切り捨てたり、過小に評価することにより、人為的に導き出されたものであった。それらは、原爆による人的被害、とりわけ放射線による影響を極力小さく見せようとするアメリカ国防省・原子力委員会の考えから生み出されたものであり、広島・長崎への原爆投下の責任追及をのがれ、新たな原爆使用に備えた当時のアメリカの核戦争準備策に源を置くものであった。」
     「都築正男をはじめとする“日米合同調査”に協力した科学者は、広島・長崎の調査データがアメリカの関係者により独占されたことに対して、また GHQ/USAFPAC によるプレスコードの指令により原爆災害研究の公表が実質上禁止されたことに対して批判はしたが、しかしアメリカによる放射性急性死・急性症の隠蔽と過小評価に対して本質的批判を行いはしなかった。それは、原爆投下を招いた日本帝国主義の侵略戦争への責任追及や、それに加担した科学者への責任追及が、被爆者やその実相を知った者から拡がることを妨げようとする勢力の利害に沿ったものであった。
     原爆放射線による急性死・急性症の隠蔽と過小評価はまた、アメリカによる新たな原爆戦争準備策のために必要とされた。アメリカの原爆独占体制がソ連の原爆開発により崩れ、朝鮮戦争期にアメリカの原爆使用が政治的日程に上げられた時期に、放射線影響に関する諸評価がまとめ上げられた。それらのデータは、原爆攻撃を想定した各種の戦術的検討や、ソ連・社会主義体制に対する核先制第1撃への報復にも生き残れるとする民間防衛計画にも利用された。100レム以下の放射線被爆なら、核戦争に生き残れるとか、25レム以下の被爆なら人体に何の影響もないと言った神話は、この時期に形成された。」 (pp.29-30)

     過小評価については本文中に次のまとめがあります。「第1に、アメリカ軍合同調査委員会による急性死の調査は、マンハッタン計画指導者たちによる放射線過小評価の主張を前提として行われた。それはもっぱら、爆心地に近く、被爆線量が高く、短期間のうちに死亡した人々に重点を置いた調査であった。1945年9月初めに“原爆症で死ぬべきものは死んだ”と考えて調査した死亡率は、12月まで約4ヶ月間続いた急性死の残りの3ヶ月分が入れられていない。
     第2に、放射線による急性死と急性障害を爆心地近くの被爆者に限定するために、遠距離、具体的には2km以遠の被爆者が示した放射線障害の諸症状をことごとく放射線障害から除外した。・・・
     第3に、放射線急性症を、爆心地から2kmで発生率の急減する脱毛・紫斑に限定することにより、全障害率(爆風・熱線・放射線の複合的および単独の障害率)に占める放射線障害率の割合が距離の増加と共に急減する結果を引き出し、それを利用して、放射線急性障害による死亡率をきわめて低く推定した。・・・
     第4に、原爆からの放射線被曝線量を、爆心地から1km余り離れた地点で100レム、2km近くで25レムと推定することにより、きわめて高線量に設定された“死亡率ゼロのしきい線量100レム”を確定した。また25レム以下、2km以遠では原爆放射線被爆による影響はないという結論を導き出した。」(pp.27-29)

  • 2012.6.20(水)  
     まず図書館によって ILL で届いているという報せのあった次の本を受け取りました。
      ラルフ・サンダーズ『核爆発の平和利用 : プラウシェア計画』 (関野英夫訳、 時事通信社, 1964)
     あとがきによれば、プラウシェア計画の名前の由来は、旧約聖書のイザヤ書にある「人びとはもはや戦わざることを悟るならば、剣をすきべらとし槍を留め鈎となし」ということばだそうです。兵器の平和利用を指すために考案された名称だということです。(p.238)
  • 2012.6.27(水)  
    会議で疲れて帰宅すると次の本が届いていました。
     Greg Mitchell,
    Atomic Cover-up: Two U.S. Soldiers, Hiroshima & Nagasaki and The Greatest Movie Never Made
    New York, 2012
  • 2012.7.3(火)  

     雨が降り始めるころまでに、来週の月曜日の授業の準備をほぼとおすことができました。90分の授業を1つ用意するのにはそれなりの手間と時間がかかります。学生に原発事故のことを取り上げますか、と質問されて取り上げます、と回答しているのですが、今回は、放射線被曝の歴史に特化して話そうと思います。
     ちなみに、外大の放射線量ですが、大学が業者に依頼して測定した数字があります。測定は、2012年1月13日。公表は4月。それによれば、留学生日本語教育センター前庭で0.08μSv/h、グラウンドで0.05μSv/hです。グラウンドの方が低いのは、雨で流れたと見てよいでしょう。報告書には、府中市の小学校の数字も引用されています。0.05μSv/hから0.07μSv/hあたりです。平均では0.063μSv/hとあります。
     すこし問題なのは次の記述でしょうか。「前記の年間追加被ばく量の上限値である 1mSv から推定される1時間あたりの上限値である0.23μSv/hを下回っています。」
     年間1mSvを時間あたりに直すと、0.114μSv/hです。この報告書では自然放射線量を0.116μSv/h と見積もっているのでしょうか? 
     「前記の」とありますが、報告書のなかに「前記の」にあたる部分はありません。この「1mSv」は、ICRPの勧告、そして、日本政府が採用している「平時年1mSv」を指すと理解するのが自然でしょう。すると、「0.23μSv/h」という数字が謎です。
     →言葉使いがいかにもお役所文書です。ネットで検索してみました。「平成23年10月10日災害廃棄物安全評価検討会・環境回復検討会 第1回合同検討会 資料(別添2)」に「追加被ばく線量1ミリシーベルトの考え方」というのがあります。そこに「毎時0.23マイクロシーベルト」があります。
     そこでは、大地からの放射線量を0.04μSv/h、宇宙からの放射線を0.03μSv/hとしている。
     0.23=0.19+0.04 
     0.04は大地からの放射線量です。0.19はすこし姑息な計算をしています。8時間は室外にいて、16時間は室内(遮蔽効果0.4倍)にいたとして計算しています。そうすると0.114μSv/hの被爆の一日は、8+0.4*16=14.4 時間の計算になります。1mSvを14.4*365 で割って、0.19 という数字が出てきます。
     うーん、このモデルは疑問です。せめて10人程度の人の1日の積算被爆量を実測したものといくつかの場所の空間線量を比較して決めた方がずっとよいでしょう。

  • 2012.7.11(水)  

    ILL で届いた次の3点を図書館で受け取りました
     中川保雄「ICRP(国際放射線防護委員会)新勧告のねらい--新手のごまかし-上-」『技術と人間』19(12), p61-69, 1990-12
     中川保雄「ICRP(国際放射線防護委員会)新勧告のねらい--新手のごまかし-下-」『技術と人間』20(1), p98-108, 1991-01
     中川保雄「美浜事故・汚染そして被曝問題 (石油・原子力文明を問い直す<特集>)」『技術と人間』20(6), p8-16, 1991-06
     大学にいる間に3点とも読みました。
     「美浜事故・汚染そして被曝問題」の最終頁に編集部からとして次の文章が掲載されています。「この論文は、七月末に当社から刊行予定の中川保雄氏の『放射線被曝の歴史』(一月号と二月号に「ICRPの新勧告のねらい」の項を掲載して予告した)の一部である。氏は、去る五月十日、著書の完成をみることなく病没された。この部分は、癌の告知をうけて病と闘いながら美浜原発二号炉の事故の報をうけた二月、朦朧となる意識をふり切りながらその自己評価を口述したものである。著者では「日本における被爆問題の特徴」と題した章におさめられている。中川氏の不屈の精神を読みとっていただければ幸いである。」
     つまり、「美浜事故・汚染そして被曝問題」は中川保雄氏の末筆(末述?)ということです。

  • 2012.8.25(土)  

     朝一番で次の本が届きました。
     小林 よしのり
     『ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱原発論』
     小学館、2012

  • 2012.9.7(金)  

     原子力の導入の話をするとすれば、1954年から話し始めるつもりです。すなわち、3月1日アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行い、近くで(しかし入るなといわれた外で)漁をしていたマグロ漁船第五福竜丸が死の灰によって被爆し、日本に帰ってきてから乗員のひとりがその被曝により死亡します。それをうけて、原水爆禁止署名運動が盛り上がり3千万人が署名します。その同じ年、すなわち1954年3月3日、中曽根康弘を中心とする保守3党が原子力予算提出し、4月に成立します。正力松太郎を中心とする讀賣新聞は、原子力キャンペーンを大々的に実施し、成功します。
     今からすれば、とても不思議に感じます。私の少年・青年時代、日本人には反核感情、原子力アレルギーがあると説明されていました。一体それは何だったのでしょうか? 正確に腑分けしきちんと考え直す必要があると感じられます。

     さて、第5福竜丸の被曝によって盛り上がった運動は、「原水爆禁止運動」です。この運動は、翌年8月広島の「原水爆禁止世界大会」に繋がります。
     この運動の母体として、「原水爆禁止日本協議会」が組織されます。
     しかし、この運動から、1959年の安保改訂をめぐる闘争をきっかけに、まず自民党等の保守層が脱落します。そして、1961年のソ連の核実験再開をきっかけに、大論争が生じ、1963年大分裂に繋がります。
     保守系は、核禁会議=核兵器禁止平和建設国民会議、共産党系は、原水協=原水爆禁止日本評議会、社会党=総評系は、原水禁=原水爆禁止国民会議と3つに別れます。原水協と原水禁は、1977年の大会開催にあたり再統一し、1984年まで続くが、翌年再び決定的に分裂します。
     私自身は、少年・青年時代、この分裂に嫌気がさした記憶があります。普通の多くの日本人もそうだったのではないかと思われます。この問題を扱っている藤原修氏によれば、「原水禁運動の分裂は、単に党派別に組織が分かれるというだけではなく、各組織間に非常に激しい対立関係が存在しており、とくに原水協と原水禁は、もはやとうてい「平和運動」の名に値しないような、敵意にみちた関係が久しく継続し、そのことが平和運動そのものを大きく傷つけてきた。」まったくその通りだと思われます。

     ということで、日本の反核運動というのはいったい何に反対していたのか正確に分析する必要があると思われます。

     まず、言葉の整理から。Nuclear は、1)a(原子)核の、1)b 原子力の、1)c 核兵器の、という意味の形容詞です。(もちろん、細胞核のという意味もありますが、ここでは扱いません。名詞もあります。)
     Atomic は、基本が原子ですから、もともとは核の意味はありませんが、今の英和辞典では、原子力の、原子爆弾の、という意味が最初に掲げられています。つまり、原子核の、という意味が最初に来ているわけです。
     この点に関し日本語の世界では次のようにいわれることがあります。「そもそも原子力という言葉が不正確であって、原子核エネルギー (Nuclear Energy) というのが正しい表現である。原子核エネルギー (Nuclear Energy) の利用に、軍事利用と民事利用 (military use and civil use ) の両面がある。」
     しかし、英語の世界でも事態はそれほど変わらないように思われます。有名なアイゼンハワーの「平和のための原子力」は、"Atoms for Peace" です。Atom が原子核エネルギーの意味で使われています。
     ただし、使用例の差はあります。"Atomic Energy"と"Nuclear Energy"をグーグルで検索してみると、15,200,00と14,300,000 とほぼ同じです。しかし、"Atomic Weapons"と"Nuclear Weapons"では、1,500,000と24,900,000ですから、後ろに兵器が来る場合には圧倒的にNuclear の用例が多い。「核兵器」は熟語としてほぼ熟していると言えます。(原子兵器と比較して差が大きい。単純にグーグルの用例数では16倍の差。これは本質的な差と言えます。)

     つまり、“核”は“核兵器”を連想させる。“原子”は“原子爆弾”とはいいますが、兵器を連想させることは比較的弱い。こう言えると思います。

     ただし、「原子力発電」に関しては、英語と日本語で差があるように思われます。英語では "Nuclear Power Generation" と"Nuclear"という単語を使っています。日本語では、核エネルギー発電というふうな表現が使われることはほとんどなく(私は見たことがないように思います)、ほぼ100%原子力です。核エネルギーの利用で、日本語ではより軍事利用(核という言葉を使うことが多い)と民生利用(原子力という言葉をほとんどの場合使う)の対比・対照が強い、ということは言えるでしょう。

     さらに、日本語では、「原爆」「原発」と略して使われることが多い。ここは分析の仕方がわからないのでとりあえず直感的に書いておきますが、「原爆」や「原発」とだけ使うと、表象の次元だけ、つまり背後の科学的・技術的なものが剥ぎ取られるような気がします。純粋に表象のポリティクスの問題になるような気がします。分析には好ましくないように感じられます。

     ということで、"原子核エネルギー (Nuclear Energy) "の軍事利用と民生利用の歴史を研究するのに、言説や表象に注目することは必要なことですが、言説分析だけでは人類社会にとっての原子核エネルギーと放射線被曝の問題の重要な部分を見逃すことになるのではと思われます。

  • 2012.9.9(日)  
      [『<反核>異論』]
     金曜日の話の続きで、昔、吉本隆明に『<反核>異論』(深夜叢書社、19820という本があったことを思い出しました。所持本リストにはありませんが、読んだ記憶があります。(捜せば研究室から発掘できるかもしれません。)私にとってのポイントは、「反核」という言葉がはっきりと使われていることです。
     ことの経緯は次です。  
     1982年1月中野孝次を代表に作家36人の連名で「文学者の反核声明」が新聞に広告された。大江健三郎、井上ひさし、小田実、小田切秀雄らが名を連ねている。
     その内容が『反核:私たちは読み訴える、核戦争の危機を訴える文学者の声明』(岩波ブックレット、No.1) として出版される。  

     吉本隆明は、この「反核声明」に異論を唱えたわけです。
    (おおきくまとめれば、吉本隆明の批判は2点です。ひとつは、アメリカの核を悪とし、ソ連の核を反核の対象としないことは間違っている。もうひとつは、放射線は宇宙空間の自然であって善も悪もないとする思想です。いまどき前者の考え方を主張する人はいないと思います。私も当時からばかみたいと思っていました。しかし、後者に関しては吉本隆明の思想に人間と自然(宇宙)に関する過誤があると思っています。地球はその磁気の働きで宇宙から来る放射線をバリアすることができている。そのおかげで現世人類(多くの現世生物)は地球上で繁殖することができた。ある水準以上の放射線を防護することは、人類の生存の条件であって、20世紀にはいって人類が新しく手にした原子核技術は、人類の生存条件に照らし合わせたとき、それまでの技術とは違ったレベルの管理・防護が必要とされる、こういってよいと思います。したがった私の評価は、半々です。)

     「反核声明」のきっかけは、レーガン政権の西ヨーロッパへの核兵器配備に対する西ドイツの作家同盟の反核アピールだったそうです。日本側での呼応といったところでしょうか。つまり、ここでの「反核」は核兵器に対する反対です。原子力発電のことはこの「反核」にははいっていません。

     この論争に関してネットにいろんな見解があります。そのなかで、さすがのセイゴオさん(松岡正剛氏の千夜千冊)が面白い記事を書いています。1982年前後に集中して出版された核・原発問題の書籍を取り上げています。私も愛読していた高木仁三郎氏、槌田敦氏、室田武氏、広瀬隆氏等です。私の知らなかった本も数多く取り上げられています。
     松岡正剛氏がとくに取り上げて論評しているのは、次です。
    槌田敦『資源物理学入門』( NHKブックス、1982)
     ポール・ヴィリリオ『アクシデント 事故と文明』(小林正巳訳、 青土社、2006)
     内田樹・中沢新一・平川克美『大津波と原発』(朝日新聞出版、2011 )
     宮台真司・飯田哲也『原発社会からの離脱:自然エネルギーと共同体自治に向けて』(講談社現代新書、2011 )
     中沢新一『日本の大転換』(集英社新書、2011 )
     松岡正剛『連塾‥方法日本。:フラジャイルな闘い』(春秋社、2011 )

  • 2012.9.10(月)  
      [反核運動]
       前と同じように言葉の用例だけまず調べてみました。数字はグーグルで検索をかけた場合のヒット数を示します。

     “反核運動”  169,000
     “原水禁運動” 290,000
     “反原発運動” 2,170,000
     “核兵器廃絶運動” 49,000

     いくらか予想していたことですが、日本の“反核運動”の歴史には、魑魅魍魎が徘徊していました。言及したくなくなるのもよくわかります。

  • 2012.9.14(金)  
     家をでる前に次の2点が届きました。1点は、本。
     山本昭宏
     『核エネルギー言説の戦後史1945- 1960:「被爆の記憶」と「原子力の夢」 』
     人文書院、2012
  • 2012.9.19(水)  
     午後の会議は2時から。会議の時間になるまで、経済団体連合会編『石川一郎追想録 』 (経済団体連合会, 1971)をパラパラと読んでいました。追想録なので、故人賛美の基調となるのは仕方ありません。しかし、巻末の記者たちの懇談会は割とフランクに会話しています。経済系、政治系の記者は文化系で、化学者石川一郎の化学談義に当惑したことを語っていました。石川一郎は、技術系の人間が企業のトップを占める先例をつけたとあります。そして、石川一郎を「統制経済」の人であったと位置づけています。
     最後に、日本の原子力の父としての石川一郎。晩年経団連会長を辞めて日本の原子力の立ち上げに尽力したことはわかりますが、石川がそこまで原子力に力を入れた理由まではわかりませんでした。
  • 2012.9.21(金)  
     100%つんどくになっていた、山本昭宏『核エネルギー言説の戦後史1945- 1960:「被爆の記憶」と「原子力の夢」 』(人文書院、2012)を手に取り、中身を見てみました。前と後ろを読み、ざっとながめただけです。著者の名前に見覚えがあるなと感じていたのは、雑誌『原爆文学研究』に掲載された論文を読んでいたからです。(「核エネルギー言説の戦後史 原子核物理学者を中心に」『原爆文学研究』第8号(2009))

     ということで、吉見俊哉『夢の原子力』(ちくま新書、2012)も手にとってみました。こちらは、序章が「放射能の雨 アメリカの傘」、第1章が「電力という夢」です。(第2章「原爆から原子力博へ」;第3章「ゴジラの戦後 アトムの未来」。)電力産業からはじめているのは吉見俊哉氏の社会学者としての力量を示しています。

  • 2012.9.22(土)  
     子どもたちが全員遊びにいってひとり留守番となってから、吉見俊哉『夢の原子力』(ちくま新書、2012)を読み始めました。すばらしい。読んだのは現時点では、序章「放射能の雨 アメリカの傘」と第1章「電力という夢」だけです。序章は、日本の原子核エネルギーの歴史に関して、もっとも適切なまとめとなっていると思います。この長さでは最良のまとめではないでしょうか。第1章は、常々授業で話そうとおもっていて実現できていない内容を(科学技術史の成果を十分咀嚼して)うまくまとめてくれています。第1章の終わりが120頁です。電気・電力がもっていた意味に十分配慮してくれているわけです。

     私個人の関心からすれば、フクシマのGE村なんて格好の材料です。(p.18 開沼博『「フクシマ」論』(青土社、2011)より)

     吉見氏は、電力を「資本」、電気を「貨幣」としています。(p.48) おもしろい視点だと思います。しかし、吉見氏本人も自覚されているでしょうが、この視点は深化と展開の両方が必要だと思われます。むしろ、電力システムが「資本」、電力が「貨幣」でしょうか? 私ももう少し考えてみます。

  • 2012.9.23(日)  
     午前9時、吉見俊哉『夢の原子力』を読み終わりました。私には非常によくわかる名著です。私が生まれて育った戦後日本の自己理解のために必須の書物と言ってよいと思われます。

     山本昭宏氏の著作の副題では、「被爆の記憶」と「原子力の夢」が対比されています。吉見さんの本のタイトルは、『夢の原子力』。どちらも実際にタイトルをつける側からすれば致し方ない事情があるのかもしれませんが、しかし、この「夢」の用法は、すっきりしません。すくなくとも「夢」として名指されてるもののもっと詳細な分析が必要だと思われます。

     11時前次の2冊が届きました。
     田中利幸、ピーター・カズニック『原発とヒロシマ:「原子力平和利用」の真相』岩波ブックレット、2011
     下斗米伸夫『アジア冷戦史』中公新書、2004
     ともに、吉見俊哉さんが『夢の原子力』で使っている本を発注したものです。実は、ヒューズ『電力の歴史』(平凡社、1996)も買ってあるのを忘れて、アマゾンで値段を見てみました。日本の古本屋さんにもなく、アマゾンでは2万円以上の値段がついていました。ヒューズの『電力の歴史』は基本中の基本です。再刷してほしいと思います。3.11をうけて、電力の歴史から勉強しなおそうと考えている方は、少なくないと思います。
     ちなみに、原著、Thomas S. Hughes, Networks of Power: Electrification in Western Society, 1880-1930 (Johns Hopkins University Press, 1983) は使った記憶があります。わー、これはすごいと感動したことも記憶しています。原著があるから、翻訳はいいかなと思って、翻訳はすぐには買っていません。(そのあと思い直して、すこし遅れてから買ったのだと思います。)すぐには買わなかったことの方が記憶に強く残っていて、アマゾンを覗いてみるという行動に繋がりました。
     授業で使ってみたいという気持ちは、入手のときからあります。学生たちがついてこれるかどうか心配で、現実には採用には至っていません。ついてくる学生はいるとは思いますが、割合が不明です。

     下斗米伸夫『アジア冷戦史』(中公新書、2004)第1章「アジア冷戦の始まり」だけまず読みました。こういうふうに整理されると、とてもよくわかります。

     と思っていたら、次の雑誌が届きました。
     早稲田大学20世紀メディア研究所刊『インテリジェンス』第16巻(2012)
     プランゲ文庫研究の10年を特集しています。
     「プランゲ文庫とデータベースの完成」
     「占領期(1945-1949)GHQ の出版物検閲」
     「占領下日本の情報宇宙と「原爆」「原子力」」
     「GHQ 検閲と「古典」評価の変容」
     「GHQ 占領期における在日朝鮮人団体機関誌の書誌的研究」
     「戦後占領期の朝鮮人学校教科書に見る「民族意識」」
     この雑誌『インテリジェンス』では、まず、加藤哲郎「占領下日本の情報宇宙と「原爆」「原子力」―プランゲ文庫のもうひとつの読み方」を読みました。これは重要な研究です。とくに、最後の方、22-27頁は私の観点からして非常に重要です。
     加藤さんは、故高木仁三郎の「日本を滅ぼす9つの呪縛」にならって、歴史的・政治的「原爆・原発神話」を10にわけて列挙しています。
     1.原爆はナチス・ドイツへの必要悪
     2.原爆で早期終戦・犠牲最小化
     3.日本は唯一の被爆国
     4.原子力時代=第3の火
     5.国連・国際管理で平和利用できる
     6.科学者の良心で統御可能
     7.社会主義の核は平和のためで防衛的
     8.核兵器は抑止力、原発は潜在的抑止力
     9.日本人の核アレルギー
     10.占領期原爆報道の消滅
     これはまったくその通りだと思います。加藤さん自身は、この論考で、9.と10.に関しては、十分な神話破壊を行っています。
     結論を引用しておきます。
     「「唯一の被爆国」や「核アレルギー」は、その後[占領終了後]に創られる神話である。」(p.27)

     加藤さんは、占領期の「原子力の平和利用」言説の理論的支柱を武谷三男と嵯峨根遼吉に見ています。武谷三男は科学技術史ではある意味悪名高いのでなんとなく敬遠していたのですが、歴史的資料としてしっかりと読んでみる必要があるようです。
     嵯峨根遼吉は、このサイトでもすでに追求しています。
     (加藤さんの位置付けは次です。「嵯峨根遼吉は、当時の保守的支配層の中で、原子力の科学研究と技術=実用化・産業化を媒介し、茅誠司・伏見康治・藤岡由夫の背後で、ちょうど左派=革新勢力の中での武谷三男と似た役割を果たした。」(p.21左))

     →ちなみに、占領期メディアデータベース化ロジェクト委員会による占領期新聞・雑誌情報データベースは公開されています。
    http://m20thdb.jp/login
     登録さえすれば誰でも使える仕組みとなっています。すばらしいことです。

  • 2012.9.24(月)  
      [加藤哲郎氏のサイト]
     加藤哲郎さんの論考は、このサイトでは、2011年2月28日に引用しています。3.11の直前です。昨日の加藤さんの論考「占領下日本の情報宇宙と「原爆」「原子力」」をうけて、加藤哲郎さんのサイトを再訪しました。
     トップページで加藤哲郎さんは次のように書きます。
     「原爆のおかげで平和がもたらされた、原子力は科学技術発展の産物で「中立」だから資本主義にも社会主義にも使える、といった左派の言説も盛んで、どうも これが、「唯一の被爆国だからこそ」日本人は「平和利用」の先頭に立つといった「原子力時代」礼賛の声をつくりだしたようです。」
     雑誌論文では短くまとめた論点をしっかりと展開してくれています。

     フクシマ原発事故後のものとして、原発シリーズ第1弾「占領下の原子力イメージ」、第2弾「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」がアップロードされています。重要な情報源となってくれます。
     →「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」(私のプリンターで印刷して38頁になります)だけまず読み通しました。これはすばらしい! 私の知りたかったことのかなりの割合に関して、資料を提示してくれています。

     たとえば武谷三男。ウェブに武谷の1970年代の原子力に関する仕事がまとめられています。これは占領期の脳天気な発言とは異なり、悪くないものです。つまり、武谷はどこかで意見を変えています。  
     13頁で、加藤さんは、「(参考)武谷三男の立場の変遷」として整理してくれています。加藤さんの結論は次です。「武谷三男は、自らが重要な役割を果たした日本共産党の原子力政策が 2011.3.11 まで70年をかけて屈折・修正していく「原子力の平和利用」の論拠喪失過程を、戦後10年余りで体験し、駆け抜け、「卒業」していった。」
     いったいどう変わったのか?
     山本さんが序章(11頁)で引用する1957年の武谷三男の発言はこうです。  
     「われわれは原爆の被害国であるから、その点を海外に訴えて、原爆の被害者は最もフェアーに原子力の研究をやる権利があり、必要量のウラニウムを平和利用のためにのみ無条件に入手する便宜をはかる義務を諸外国はもっているはずである、と主張すべきだというのである。」

     加藤さんの整理に戻ります。
     1.自分が二号研究で原爆開発に関わった点に関する弁明
     「原子力時代」『日本評論』1947.10 趣旨:原爆研究に関わったのは、原爆を作るためではなく(当時の日本の経済力・工業力からいって原発を作るのは無理であった)、原爆研究を看板に掲げることで原子核物理学研究の存続を守るためだった。

     2.反ファシズムとしての原爆
     「革命期における思惟の基準―自然科学者の立場から」民科自然科学部会『自然』創刊号 1946.6 趣旨:原子爆弾をとくに非人道的なりとするのであれば、それは自分の非人道をごまかすためである。原爆の完成には、反ファシズム(原語は「反ファッショ」)の科学者が協力した。原爆は、日本の野蛮に対する青天の霹靂(天罰ぐらいの意味か?)であり、日本人科学者も、この日本の野蛮に対し「追撃戦」(具体的にはどういう行動を意味していたのか?)を行うべきだ。
     3.原爆は、平和のきっかけをつくってくれた
     (「原子力のはなし」『子供の広場』1948.11)

     加藤さんの見立てでは、(1)ソ連の水爆実験、(2)ビキニ被爆における死の灰、この2点が「武谷の「転向」出発点」となった。(p.9)

     (1)放射能そのものの危険性の認知と(2)ソ連国家=軍事的戒厳令的社会主義と認識するところから、原子力の平和利用との原理的決別には至らないまでも、反原発住民運動に転向する。(そして、1975年に「原子力情報資料室代表」となることに繋がる。)

     私の観点からは、原水禁国民会議の森滝市朗史の証言が重要です。
     (p.18) 原水禁国民会議が「核兵器絶対否定」から「核絶対否定」にたどりつくには7〜8年の時間がかかった。その変化の要因は、「放射線害」(放射線被曝による健康被害)の深刻さを痛切に認識するようになったことにあった。
     逆に言えば、 原水禁国民会議でさえも、軍事利用であれ民生利用であれ核エネルギーの利用が不可逆的に人類社会に及ぼす放射線被曝については、当初は包括的には認識できていなかったということになる。
     そして、「放射線害」そのことのもつ重大性に気づいた原水禁国民会議は、被爆24周年(1969年)原水禁大会ではじめて「原子力の平和利用」問題を取り上げた。
     被爆26周年(1971年)大会では、「安全の保障されない原子力発電、核燃料再処理工場設置には反対」するスローガンを初めて掲げる。
     被爆27周年(1972年)大会で、「最大の環境破壊・放射能公害を起こす原発、再処理工場に反対する」スローガンを掲げる。
     時代背景としては、公害問題、環境破壊問題が深刻化してきたこと、ストックホルムで国連人間環境会議が開かれたことがあった。
     会議に参加したコルビー女史は「原子力はもはや人類の輝かしい夢ではなく、むしろ悪夢であった」ことに気づかざるを得ませんと演説した。  

     夕刻次の本が届きました。
     武谷三男編『原子力発電』岩波新書、1976,2011
     武谷三男編となっているのは、もともと原子力安全問題研究会(幹事が小野周、武谷三男、中島篤之助、藤本陽一)の毎月の討論会(1972年から)とそれに基づく『科学』(岩波書店、1972〜74)への連載、さらにその連載に基づく単行本『原子力発電の安全性』(岩波書店、1975)をもとに、一般向けにわかりやすい本をということで河合武が加わって討論し、幹事各員ならびに河合武で分担執筆したという経緯に由来します。

  • 2012.9.25(火)  
      [高度成長とアメリカ]
     9月4日(火曜日)朝日新聞のオピニオン(14版、13頁)に吉見俊也さんの「高度成長とアメリカ」というインタビューが掲載されています。著者紹介に「57年生まれ。専門は社会学・文化研究。著書に「万博と戦後日本」「親米と反米」「夢の原子力」など。」とあります。新刊『夢の原子力』は言及はされていますが、このインタビューそのものが『夢の原子力』の発行を受けてという表現はありません。何度も主張していますが、新聞報道でもきちんと典拠=レフェレンスを挙げる習慣を日本のメディアは身に付けるべきです。記事に関心をもってその先(further readings)あるいはもと(典拠資料)を読みたいと思う読者が必ずいます。見習うべきところは見習えばよい。英語圏のジャーナリズムのよい点をもう習得してよい頃だと思います。
     インタビューのなかでもっとも大きなポイントは、「占領の内面化」です。本人の言葉を引用します。「広い意味での占領は52年に終わったわけではない。もっと日本の社会や歴史、構造に内在するような形でアメリカは戦後日本を支配し続け、日本は現在もアメリカから自由ではない。そのことをはっきりわからせてくれるのが原発です。」

     さて、このサイトで吉見さんの仕事を紹介し続けているのには、具体的な目的があります。2012年後期(冬学期)月曜日4限の授業は、吉見さんの『夢の原子力』と『親米と反米』を読み込むことからはじめようと考えています。
     ちなみに、いつものことですが私の最初の仕事は、『親米と反米』という本そのものをこの部屋から探し出すことです。さて、どこにあるのでしょう。

     捜すのは後回しにして、『夢の原子力』のポイントを拾う作業をもうすこし続けます。
     吉見さんは、第1章第3節「総力戦と発電国家」でレーニンの言葉「共産主義とはソビエト権力に全国的電化を加えたものである」(p.95)を非常にうまく使っています。「共産主義=ソビエト権力+全国電化」
     そして、これをルーズベルトの「民主主義とは、合衆国プラステネシー側流域の電化である」(p.103)と対比しています。つまり、「○○=国家+電化」となります。○○は逆方向を向いているように見えても、実は同一になることがみそです。
     日本ではこれは次のようになります。「資本主義とは、財閥権力プラス全国の電化である」(p.108)。吉見さんはこうまとめています。1910年代以降の日本や米国では「電力が現代資本主義の根幹」であることがはっきりした。

     すこし脱線します。
     ネットで検索をかけていると2012年春の京都大学の世界史入試問題にヒットしました。入試問題は著作権がない(著作権の適用の例外とされる)はずなので、その部分を全部引用します。最後の問題のCです。(問題番号を示す数字は削除しています。)

    C 現代社会は膨大な電力消費の上に成立している。電気の発見は、人類史において火の発見に匹敵する出来事である。「電気」の英語 electricity が琥珀(こはく)を意味する古典ギリシア語 elektron に由来するように摩擦帯電現象は古代ギリシアでも知られていた。しかし石炭を燃料とする蒸気機関に代わって電動機が実用化されたのは19世紀後半である。「発明王」エジソンは1882年に電力供給を目的とした火力発電をニューヨークで始めているが、先進工業諸国で一般家庭に電灯が広く普及したのは第一次世界大戦以降である。
     この大戦中に勃発したロシア革命の指導者レーニンは「蒸気の世紀はブルジョアジーの世紀、電気の世紀は社会主義の世紀」のスローガンを好んだ。自立的な 機関とちがって集中的に管理された送配電システムは個人主義的な階級文化に終止符を打つと期待したのである。1920年の国家電化計画に際してレーニンが 発した「共産主義とは、ソヴィエト権力プラス全国の電化であるという言葉にもそうした思いを読み取ることができる。このような電力供給事業を社会経済システムの基盤とみなす発想は国家体制の違いを超えて広まった。日本でも電源開発としてのダム建設は盛んに行われたが、1950年代後半には安価な石油を燃料とした火力発電所が急増した。しかし、第四次中東戦争以降は状況が一変し、供給の安定性経済性の観点からエネルギー源の多様化が図られた。
     アメリカで核分裂連鎖反応の実験が成功したのは第二次世界大戦中だが、やがて原子炉で発生する熱を利用した原子力発電の計画も始まった。冷戦下の核兵器開発競争の中で、1954年に実用レベルの原子力発電所を世界にさきがけて稼働させたのはソヴィエト連邦である。一方、第二次世界大戦の敗戦国ドイツでは原子力発電のスタートは遅れていた。しかし、1958年にヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が発足すると西ドイツは積極的に技術開発を進め、原子力発電の比重を高めてきた。しかし、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故を受けて、西ドイツ、そして後の統一ドイツでは環境問題への懸念から脱原発への関心がしだいに高まった。

     さすがに入試問題です。教科書的な記述にきれいにおとしこんでくれています。まさに「電力供給事業を社会経済システムの基盤とみなす発想は国家体制の違いを超えて広まった」わけです。
     まるで吉見さんの著作の第1章を受験生向けにまとめたかのような出題文になっています。(たぶん、出題者の意図は、吉見さんの第1章での主張と近いところにあったのではないかと推測されます。)
  • 2012.9.27(木)  
     朝、新聞といっしょに次の本が郵便受けに入っていました。アマゾンのマーケットプレイスからです。
     武谷三男・星野芳郎『現代技術と政治:核ミサイル・先端技術・エコロジー』技術と人間、1984
     研究所によってから、図書館へ。ILL で借りていた2冊を返却し、図書館所蔵の『武谷三男著作集第2巻 原子力と科学者』(勁草書房、1968)を借り出しました。開架ではなく、地下の集架にありました。勁草書房の『武谷三男著作集』は全6巻です。原子力の問題は、どの巻でも扱われています。

     2時から1時間半で説明会。それから担当者3人で打ち合わせ。

     合間に、吉見俊哉氏の『親米と反米』を探し出しました。棚の上に眠っていました。

  • 2012.10.12(金)  
     テレビを見ていたら、登場人物が「ウラン(酸化ウラン)は、1950年に有害だとわかるまで塗料や顔料に使われていた」と発言していました。
     具体的にいつどのようにわかったのか、どこでどのような決定があって使用が中止されたのかを知りたいと思います。とりあえず、まずは調べてみます。

     →もっと簡単にわかるかと思ったのですが、苦労しています。
     日本に関しては、小出さんが「ラジウム温泉、ラドン温泉等を取り締まる法律がなかった」と発言されています。え?です。小出さんは意図的に嘘をつかれるような方ではないので、そうなのでしょう。(ともかくもうすこし調べてみますが、日本の状況は、フクシマ第1原発の事故以前から基本的に問題だったことになります。)
     →夕刊にちょうど「規制値超えたセシウム販売」という記事がありました。放射線障害防止法違反で「放射線セシウム137の金属片18個」を販売した容疑で2名を逮捕したとあります。この記事を信じれば、外国では「セシウムの金属片」が販売されていることになります。え、そんな!
     →朝日の記事では、「セシウム137の金属片」がよく分からなかったのですが、NHKの速報では、「放射性物質「セシウム137」を含む500円玉の大きさの金属を、1つ3万3000円でインターネットを通じて全国の17人の客に販売した」とあり、写真も掲載されています。金属の材料が何かは書かれていませんが、写真があれば実物がどういうものかよくわかります。放射線測定器の精度を調べるためだということです。業者は、荒川区の「放射線測定器販売会社」です。

     →ともあれ、規制する法律があるとすれば「放射線障害防止法」ということになります。これを調べてみます。
     →正確には法律名は「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律」で昭和32年6月10日法律第167号です。
     基本は、「国際放射線防護委員会(ICRP)90年勧告」を取り入れている。
     放射線同位元素の定義が問題になりますが、「放射性同位元素を含む物質で、平成十二年科学技術庁告示第五号(放射線を放出する同位元素の数量等を定める件)の別表1(以下、単に別表1とする)に定める量及び濃度を超えるもの。但し、ウラン等の核燃料及び原料、医薬品、医療機器に装備されたものは、それぞれ核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律、薬事法、医療法で規制されるので除外する。」としています。
     別表1、薬事法、医療法も見なければならないことを意味します。
     本としては、(社)日本アイソトープ協会『アイソトープ法令集(1)放射線障害防止法関係法令2001年版』丸善、2001;(社)日本アイソトープ協会『アイソトープ法令集(2)医療放射線防護関係法令集2001年版』丸善、2001;(社)日本アイソトープ協会『放射線障害の防止に関する法令 概説と要点』改訂第5版、丸善、1996 があるようです。
     法律そのものは、放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律にあります。
     定義の2で「この法律において「放射性同位元素」とは、りん三十二、コバルト六十等放射線を放出する同位元素及びその化合物並びにこれらの含有物(機器に装備されているこれらのものを含む。)で政令で定めるものをいう。」と非常に簡単に書かれています。りん三十二、コバルト六十が法律の意図する放射性物質の代表のようです。

     アメリカはどうなんでしょうか。
     →英語で調べると、 http://www.goshen.edu/art/DeptPgs/Hazards.html に「酸化ウランは、第2次世界大戦前には、釉薬として普通に使われていました。ある時期には政府がその販売を規制したので、陶芸家が酸化ウランを購入することができませんでした。しかしながら、ある種のウランをある場所から入手することができるようになっています。」という言葉がありました。Fiest のディナーウェアが釉薬に酸化ウランを使っているもっとも身近な商品である。
     今となっては、その危険性ゆえに陶芸家は酸化ウランを使うべきではありません、とそのサイトの著者は結論づけています。そして、Monona Rossol の論文を参照するよう注記しています。
     Monona Rossol, "Uranium: Still Ticking in Some Potteries", 1996 May/Jun:19
     掲載紙は、Clay Timesのようです。
     Monona Rossolさんの関係するサイトでは、Ralph W. Sheets 氏が陶器やガラス容器に含まれるウランの引き起こすかもしれない危険性について記述しているとあります。
     →調査は完了していませんが、現時点での見通しを書いておきます。
     原爆投下は大きすぎる事件であって、そのことは身近にある放射線への関心を呼び起こさなかった。低線量被爆、晩発性障害、内部被爆に対する関心は、徐々に専門家を中心に発生し高まったが、大きくマスメディアの注意を呼ぶには至らなかった。
     「核アレルギー」と呼ばれるものが存在したとして、それは大きすぎる兵器(巨大破壊兵器)としての原爆に向かい、原子力には向いていなかった。(原子力爆弾も原子力発電も技術的基盤は共通であり、軍事利用と平和=民事利用できれいに2分することはできないという意見は存在したが、日本社会においても軍事利用と平和利用は分けて考えるべきだという政治的主張の方が強かった。)
     まして、そのことは、身近にある放射線被曝までは及ばなかった。したがって、医療専門家の間では、不要な医療被曝を軽減する・管理することは行われるようになったが、放射線の発見以前からあった酸化ウランの釉薬をしての利用や、キュリーのときから人気となったラジウムやラドンの商品利用の公的規制は遅れた。あるいは、国によって十分にはなされていない。日本では現在でも必要な規制が実施されていないようである。

     表現を変えましょう。「核アレルギー」はある時期に形成された。しかし、そのことは放射線被曝そのものへの関心とはならなかった。身近な放射線被曝は、反核運動、反原発運動、反原子力運動においてさえ、ほとんど注目の的にはならず、大部分、放置された。こういうふうに言ってよい気がします。

      [『生物学史研究』放射線特集]
     夕刻、新聞といっしょに次の雑誌が入っていました。
     『生物学史研究』87号(2012年9月)
     「放射線の生物学史」という特集を組んでいます。タイムリーだと思います。特集部分の目次は次です。

    放射線の生物学史(2011年度夏の学校報告)
    瀬戸口明久「放射線の生物学史」
    柿原 泰「福島「県民健康管理調査」の現在史へ向けて」
    中尾麻伊香「放射線をめぐる医学調査:原爆調査からビキニ被災調査まで 」
    樋口 敏広「「原子マグロ」の誕生−第五福竜丸事件後の環境放射能測定上の判定基準の変遷」
    横田 陽子「日本における環境放射能モニタリング成立史」
    標葉 隆馬「科学技術社会論からみた地震・津波・原発」
    福井由理子「放射線と生物学」
    奥村 大介「生体放射の歴史−グールヴィチとライヒ−」
    篠田真理子「測定という行為をめぐって」
    藤岡 毅「放射線リスク論の転換は起こるのか−ICRPの歴史とECRR勧告−」

  • 2012.10.15(月)  

     夕刻次の本が届きました。  
     土井淑平・小出裕章
     『人形峠ウラン鉱害裁判―核のゴミのあと始末を求めて』
     批評社、2001
     予想通り、この本に私の必要な情報がありました。自然に存在する放射性物質では常温で気体となるラドンがもっとも危険であることがよくわかりました。呼吸によって肺に取り込まれると、肺ガンの原因をつくるとあります。

  • 2012.10.16(火)  
     お昼前に次の本が届きました。
     小出裕章『隠される原子力の真実』創史社、2011

     帰宅すると次の2冊が届いていました。
     安斎育郎『原発と環境』かもがも出版、2012
     帯に37年前の完全復刻版とあります。

     ジョン W・ゴフマン
     『新装版 人間と放射線―医療用X線から原発まで―』
     伊藤昭好・海老沢徹・小出裕章・小林圭二・瀬尾健・今中哲二・川野眞治・小出三千恵・佐伯和則・塚谷恒雄訳、明石書店、2011(もと、社会思想社、1991)
     これは基本書です。777頁の大冊です。  
     予想通り、私のほしい情報がこの2冊のなかにありました。

     安斎育郎氏の『原発と環境』をざっと通読しました。とばし読みした箇所もあります。冒頭の「復興版出版にあたって」に次のようにあります。
     「ここに完全復刻する『原爆と環境』(1975年、ダイヤモンド社刊)は、40年近く前、私が三三〜四歳のころに書いたものです。東京大学工学部原子力工学科の第一期生として放射線防護学の専門家への道を踏み出した私は、1960年代初頭には原子力開発にある種の夢と希望を抱いていました。」
     「私の原発政策批判や放射線の影響に関する認識は、ほとんどこの本で尽くされています。約四〇年前に書かれた原著を改めて読み返してみて、私は率直に「今読んでも読み応えがある」と感じています。」

  • 2012.10.17(水)  

     朝一番で次の本が届きました。
     安斎育郎
     『「がん当たりくじ」の話―国境なき放射能汚染』
     有斐閣、1988
     表紙に、「チェルノブイリ原発事故の結果、将来「万」を単位として数えなければならないような深刻ながん死亡予測が出されている。放射能による汚染食品も私たちの食卓に押しよせてきている。この事故によって、私たちは「がん当たりくじ」を強制的に買わされているのである。放射線障害では「これ以下では絶対に安全」という線が引けない。たとえわずかの被曝であっても、それなりの確率でがんに陥る危険や遺伝的影響の危険を負うことになる。」とあります。これは、まったくその通りです。

  • 2012.10.18(木)  

     12時前後に大学につき、まず図書館に向かいました。ILL の到着物が2点あります。最初のものは論文のコピー、2番目は本です。

     1.Ralph W. Sheets, Clifton C. Thompson, "Accidental contamination from uranium compounds through contact with ceramic dinnerware," Science of the total environment 175(1995): 81-84
     酸化ウランをはじめ釉薬として使われたウラン化合物が手や食品にうつる可能性を実験的に確認しています。ウラン化合物には腎毒性があり、日常使いの食器としては、釉薬にウラン化合物が使われているものは避けるべきだと結論されています。(日本には欧米からのアンティークを除き、そもそもそうした食器はほとんど存在しませんが、欧米には、黄色やオレンジにきれいな色を出すために、ガラスや陶器にウラン化合物を使ったものがあります。ウランですからわずかであれ放射線も出しています。)

     2.プリングル&スピーゲルマン『核の栄光と挫折:巨大科学の支配者たち』浦田誠親監訳、時事通信社, 1982
     もとのNuclear Barons は3.11のあと買って持っています。邦訳があるのを知らなかったのですが、最近買った本の参考文献リストで知って取り寄せたものです。英語圏のジャーナリズムのよさがでた本だと思います。広範囲の徹底的な調査の上で、一般読者が通読できるよう工夫して書かれた種類の書物です。

  • 2012.12.10(月)  
     月曜日は、大学院の授業(学部の授業もありますが、主としては大学院)。ゴフマン『人間と放射線』から医療被曝の章を読んでもらいました。ほんとうにためになることが書かれています。
  • 2013.4.23(火)  
     朝のうちに次のものが届きました。
     「福島第一原発事故の放射能汚染地図」著者:早川由起夫、八訂版二〇一三年二月一日
     地図です。ネットで検索すれば、ハヤカワさんによるほぼ同様のものが見つかります。でもやはり大きな紙にきちんと印刷されたものが見やすい。
     一部二〇〇円。
     一番最初にハヤカワさんは、「放射能対策に正解はありません。放射能とどう折り合いをつけるかは、個人の事情によって異なります。」と記しています。
  • 2013.4.25(木)  
     朝早く次の本が届きました。
     加藤哲郎・井川充雄編著
     『原子力と冷戦―日本とアジアの原発導入』
     花伝社、2013年3月15日
     できたて、ほやほやの本です。私の授業、私の関心には、ちょうどよいタイミングで刊行されました。
     目次は次です。
    第1章 「日本における「原子力の平和利用」の出発」加藤哲郎 
    第2章 「アイゼンハワー政権期におけるアメリカ民間企業の原子力発電事業への参入」土屋由香 
    第3章 「戦後日本の原子力に関する世論調査」井川充雄
    第4章 「広島における「平和」理念の形成と「平和利用」の是認 」布川弘
    第5章 「封印されたビキニ水爆被災 」高橋博子
    第6章 「ソ連版「平和のための原子」の展開と「東側」諸国、そして中国 」市川浩
      第7章 「南北朝鮮の原子力開発――分断と冷戦のあいだで」小林聡明
    第8章 「フィリピンの原子力発電所構想と米比関係――ホワイト・エレファントの創造」伊藤裕子
      第9章 「冷戦下インドの核政策――「第三の道」の理想と現実」ブリッジ・タンカ
     ほんとうにちょうどよいので、授業で使おうと思います。
  • 2013.4.26(金)    畑村洋太郎『未曾有と想定外:東日本大震災に学ぶ』講談社現代新書、2011
     午前中に読み終わりました。畑村さんの本は、国民全員にどれか一冊読んでもらいたい種類のものです。

      [加藤哲郎さんの仕事]
     加藤さんの本が届いたのを機縁に、加藤哲郎さんのサイトを再々訪しました。(1回目2011年2月28日、2回目2012.9.24(月))。2回目の時点ではアップされていなかった新しいファイルを読みました。
     同時に届いた本のうち、加藤哲郎の執筆した第1章「日本における「原子力の平和利用」の出発」だけまず読みました。こういう見方は、探究・研究の結果としてしか導き出されません。核と原子力、軍事利用と平和利用に関して、日本の言論がおかしいなと感じている方は、論文を読むしかありません。
     アメリカの情報戦略、日本の逃避体質や健忘症が幾重にも積み重なって日本の戦後の言語空間が出来上がっています。そうした神話の森を抜け出て、真実(敢えて真実という言葉を使います)に目を向けるためには、研究成果を読むしかありません。

     お昼に次の2冊が届きました。
     ピーター・プリングル&ジェームズ・スピーゲルマン『核の栄光と挫折:巨大科学の支配者たち』浦田誠親監訳、時事通信社, 1982
     デーヴィド・ホロウェイ『スターリンと原爆〈上〉』(川上*・松本幸重訳)大月書店、1997
     最初のものは、以前、ILL で取り寄せ、借りたことがありますが、手元にあるべきだと考え、古書店より購入しました。基本書のひとつです。 

  • 2013.4.27(土)  
     帰宅すると次の本が届いていました。
     トマス・パワーズ
     『なぜナチスは原爆製造に失敗したか:連合国が最も恐れた男・天才ハイゼンベルクの闘い〈下〉』鈴木主税訳、福武文庫、1995
     上は明日にでも届くと思います。

     昼食後次の本が届きました。
     ジョン・W・ダワー『昭和:戦争と平和の日本』明田川融訳、みすず書房、2010

  • 2013.5.1(水)    お昼過ぎの次の本が届きました。
     原爆体験を伝える会・編『原爆から原発まで:核セミナーの記録』上、アグネ、 1975年9月
     原爆報道に関する初期の2つの論考が掲載されています。
     袖井林二郎「原爆はいかに報道されたか」pp.266-276
     岩垂弘「報道に見る原爆と原発」pp.277-291
     この2点は、[5]「教育と報道に見る核」に収められています。もう1点が、田川時彦「教育の現場からみた原爆」、そして討論が収められています。
     討論には、1954年3月1日のアメリカの水爆実験で被曝したマーシャル群島、ビキニ環礁、ロンゲラップ島の村長ネルソン・アンジャインさんが参加しています。ネルソンさんは、日本語を話しています。もう30年使っていないからあやしいけどと言って日本語を話しています。この事実にはっとしました。

  • 2013.5.3(金)  
     午前中に次のマンガが届きました。
     こうの史代『夕凪の街 桜の国』 アクションコミックス、2004
     映画化もされたようです。

  • 2013.5.15(水)  
     帰宅すると次の本が届いていました。
      高橋昇・天笠啓祐・西尾漠編著
     『『技術と人間』論文選: 問いつづけた原子力 1972-2005』
     大月書店、2012
     目次は次です。
    はじめに(高橋 昇)
    日本、そして世界の原子力開発小史(西尾 漠)

    1
    ナショナル・プロジェクトとは何か?(高橋 昇)
    「むつ」乗船日記(雨宮正彦)
    いま、原発内労働はどうなっているか(森江 信)

    2
    原子力長期計画はまちがっている(星野芳郎)
    原子力のエネルギーコスト(室田 武)
    原子力技術を考える(高木仁三郎)
    原子力におけるエネルギーの諸問題(水戸 巌)
    巨大技術とフェイルセイフ(武谷三男)

    3
    葬られるスリーマイル島事故の真相(荻野晃也)
    ECCSは有効に作動したか?(海老沢 徹)
    「もんじゅ」のナトリウム火災(小林圭二)
    チェルノブイリ原発事故によるその後の事故影響(今中哲二)
    JCO臨界事故とは住民にとって何であったか(相沢一正)
    原子力発電所事故の被害額を試算する(朴 勝俊)
    原発重大事故の総括(正脇謙次)

    4
    微量放射線の生物学的・医学的危険性(市川定夫)
    低線量被曝の危険性(ロザリー・バーテル)
    ICRP新勧告のねらい(中川保雄)
    低線量放射線被曝の異常に高い危険性(山本定明)

    5
    原子力平和利用は故意の犯罪(槌田 敦)
    核廃棄物の海洋投棄は人間の危機(水口憲哉)
    高レベル放射性廃棄物の地下投棄(生越 忠)
    地球を一周する日本の使用済核燃料(藤田祐幸)
    放射性廃物の問題点(小出裕章)
    放射性廃棄物のスソ切り処分の悪法案(末田一秀)

    6
    原子力発電所による海洋生物汚染の実態(京都大学漁業災害研究グループ)
    柏崎原発の地盤は劣悪である(武本和幸)
    伊方原発行政訴訟の意義と判決批判(久米三四郎)
    「原子力帝国」の治安管理システム(西尾 漠)
    魚の大量斃死と学者たち(斉間 満)
    放射能汚染食品をめぐるフィリピン、タイそして日本での動き(小椋純一)
    電力資本の需要拡大戦略(宮嶋信夫)
    巻原発問題の経緯とゆくえ(桑原正史)

    7
    チェルノブイリの雲の下で(田代ヤネス和温)
    チェルノブイリの一九年と私たちの救援活動をふり返って(河田昌東)
    脱原発社会への構想力(松岡信夫)

    解題 福島第一原発事故と『技術と人間』(天笠啓祐)

  • 2013.5.24(金)  
     →1時に家をでて、3時半過ぎに帰ってきました。帰ると、文生だより (文生書院メールマガジン)で次の情報がありました。
    20世紀メディア情報データベース 『占領期の雑誌・新聞情報 1945-1949』
    NPO法人インテリジェンス研究所
     プランゲ文庫、2013年6月1日 公開・運用開始、とあります。おお、タイムリーです。

      [Records of the U.S. Strategic Bombing Survey]
     有名な"Records of the U.S. Strategic Bombing Survey"(米軍戦略爆撃調査団文書)が国立国会図書館でデジタル化されているのに出会いました。
     Records of the U.S. Strategic Bombing Survey
       USB-1〜USB-12、USB-14〜USB-16を2013年3月にデジタル化しインターネットで提供したとあります。こういうのはよい仕事です。どんどん続けて欲しい。
     日本占領関係資料

  • 2013.5.25(土)  
     帰宅すると次の本が届いていました。
     吉岡斉
     『脱原子力国家への道』(叢書 震災と社会)
     岩波書店、2012

  • 2013.5.26(日)  
     朝一番で、『lntelligence インテリジェンス』のバックナンバー10冊が届きました。仕事のはやい古本屋さんです。
     2002年より年刊で出ています。第10号は2008年。(2003年、2005年、2007年に2冊出ています。)創刊号の特集は、1がプランゲ文庫、2がアメリカ国立公文書館です。

     本棚で、『別冊日経サイエンス 核と戦争の20世紀』(1997)を見つけ、カバンに入れました。

  • 2013.5.27(月)  
     帰宅すると次の本が届いていました。
     沢田昭二ほか著『共同研究 広島・長崎原爆被害の実相』新日本出版社、1999
     目次は次です。
    1 核開発から原爆投下まで、 水田忍、沢田昭二、安斎育郎
    2 原爆被害の物理的側面、安野愈、沢田昭二、永田忍
    3 原爆放射線の線量評価、沢田昭二、永田忍、安野愈、安斎育郎
    4 原爆後の“黒い雨”と降下物、増田善信、角田道生
    5 原爆被爆者の障害、斎藤紀
    6 放射線の人間に対する影響、野口邦和、安斎育郎
    7 原爆被爆者の実態調査、田中*巳、高橋健
    8 被爆者行政と原爆症認定制度、伊藤直子、田中*巳、沢田昭二

     日曜日の朝届いた『lntelligence インテリジェンス』のバックナンバーからまずは、核・原子力関係の部分を読んでいます。順番に読んで全部読みます。

  • 2013.5.28(火)  
     日曜日の朝届いた『lntelligence インテリジェンス』の核・原子力関係の記事は全部目を通しました。個人的に特に面白かったのは、第8号に掲載された李香蘭のインタビューです。
     インタビュアー:谷川建司・川崎賢子「〔特別企画〕語る李香蘭山ロ淑子インタビュー」 『lntelligence インテリジェンス』第8号(2007): 74-93

     お昼過ぎに次の本が届きました。
     鈴木基之・柏木孝夫
     『エネルギーと社会』
     放送大学教材、2011
     基本がよくまとめられていると思い、購入しました。テレビで放映されています。

  • 2013.5.29(水)  
     帰宅すると次の本が届いていました。
     林博史『米軍基地の歴史:世界ネットワークの形成と展開』吉川弘文館、2012

  • 2013.9.23(月)  
     昨日のことです。   隠岐さや香さんのtwitterで、冷戦研究会が10月11日(金曜日)に『 原子力と冷戦 ― 日本とアジアの原発導入 』(花伝社、2013年)の公開合評会を行うことを知りました。
     『 原子力と冷戦 』は1学期のゼミ(月曜日4限)で取り上げ、一部を学生に発表してもらっています。ちゃんとした書評を書いた方がよいな、書かないとな、と思いつつ、他の仕事にかまけて放置していました。10月11日(金曜日)は駒場の授業の初回です。ちょうどよいので、出席することにしました。
     世話役の方にメールをして、外部の者でも参加してよいかと質問すると、どうぞ、という歓迎のメールを頂きました。ということで、大手を振って出席します。
     1学期にゼミに出ていた学生諸君にも案内メールを送りました。1人でも2人でも出てくれるとよいなと考えています。

     夕刻、次の本が届きました。
     若杉 冽『原発ホワイトアウト』講談社、2013
     小説です。帯には「現役キャリア官僚のリアル告発ノベル!! 原発はまた、必ず爆発する」とあります。諸所で話題の小説です。

  • 2013.10.10(木)  
     夜、次の本が届きました。
     本間龍『原発広告』亜紀書房、2013

  • 2013.10.11(金)  
     冷戦研究会
     『 原子力と冷戦 ― 日本とアジアの原発導入 』(花伝社、2013年)の公開合評会
     加藤哲郎さんがトップバッター。わー、現役を引退されてもう時間が経つと思われますが、とても元気です。私は今回はじめてお顔を拝見しますが、思わず、加藤先生、と呼びたくなるような、元気で気さくな方です。
     執筆者としての講演者3番目の小林さんも加藤さんに負けず元気です。一橋大学に入学したときから、大学の授業はさぼって韓国に通っていたそうです。在韓被爆者の聞き取り調査をされていたそうです。
     加藤さんのコメンテーターの中尾さん、2番目の講演者の井川さんとそのコメンテーター開沼さんは、普通にお話をされました。3番目の小林さんのコメンテーター、ナンタ・アルノさんは、CNRSの研究者の方です。実は、化学史研究に一度エッセイレビューを書いてもらっています。そのときは坂野君を通してだったので、私自身お顔を拝見するのは初めてでした。ナンタさんは、非常に冷静に話をされていました。

     花伝社の編集担当者柴田さんもしっかりとコメントされていました。
     5時40分からスタートして、終了は9時半。加藤さんをはじめ、冷戦研究会の歴史研究にかける熱意が伝わってきたよい合評会でした。

  • 2013.12.15(日)  
      [震災・核災害の時代と歴史学]
     おやつの時刻に次の本が届きました。
      歴史学研究会『震災・核災害の時代と歴史学』青木書店、2012
     目次は次の通りです。第2部を授業で使おうかなと考えています。
     第1部 東日本大震災と歴史学−災害と環境
    平川新「東日本大震災と歴史の見方」
    保立道久「地震・原発と歴史環境学―九世紀史研究の立場から」 
    矢田俊文「東日本大震災と前近代史研究」
    北原糸子「災害にみる救援の歴史―災害社会史の可能性」
    小松裕「足尾銅山鉱毒事件の歴史的意義―足尾・水俣・福島をつないで考える」
     第2部 原発と歴史学−「原子力」開発の近現代史
    平田光司「マンハッタン計画の現在」
    有馬哲夫「日本最初の原子力発電所の導入過程―イギリスエネルギー省文書「日本への原子力発電所の輸出」を中心に」
    加藤哲郎「占領下日本の「原子力」イメージ―原爆と原発にあこがれた両義的心性」
    中嶋久人「原発と地域社会―福島第一原発事故の歴史的前提」
    石山徳子「原子力発電と差別の再生産―ミネソタ州プレイリー・アイランド原子力発電所と先住民」
     第3部 地域社会とメディア−震災「復興」における歴史学の役割
    奥村弘「東日本大震災と歴史学―歴史研究者として何ができるのか」
    岡田知弘「東日本大震災からの復興をめぐる二つの道―「惨事便乗型復興」か、「人間の復興か」」
    三宅明正「記録を創り、残すということ」
    安村直己「言論の自由がメルトダウンするとき―原発事故をめぐる言説の政治経済学」
    藤野裕子「関東大震災の朝鮮人虐殺と向きあう―災害時の公権力と共同性をめぐって」
     第4部 史資料ネットワークによる取り組み
    佐藤大介「被災地の歴史資料を守る―東日本大震災・宮城資料ネットの活動」
    阿部浩一「福島県における歴史資料保存活動の現況と課題」
    白井哲哉「茨城文化財・歴史資料救済・保全ネットワーク準備会(茨城史料ネット)の資料救出活動」
    白水智「長野県栄村における文化財保全活動と保全の理念」
     第5部 資料編
    石井正敏「貞観十一年の震災と外寇」
    棚井仁「自治体史のなかの原発」
     第6部 災害と歴史学 ブックガイド

  • 2013.12.18(水)  
     図書館。ILLで届いている次の3冊を受け取りました。
     後藤五郎編『日本放射線医学史考(明治大正編)』日本医学放射線学会, 1969
     後藤五郎編『日本放射線医学史考』第12回国際放射線医学会議, 1970
     舘野之男『放射線医学史』岩波書店, 1973

  • 2014.1.6(月)  
     開いている時間に、次の論文を読みました。好論文です。
     中尾麻伊香「近代化を抱擁する温泉ー大正期のラジウム温泉ブームにおける放射線医学の役割」『科学史研究』Vo. 52(No. 268)(2013): 187-199
     私がちょうど作業をしていた本が引用されています。

  • 2014.4.3(木)  
     帰宅すると、次の本が届いていました。  
     ロバート・J.リフトン
     『ヒロシマを生き抜く(上)〈下〉―精神史的考察』  
    岩波現代文庫)、2009
     医学史家、鈴木晃仁氏のブログで知って、注文したものです。

     

  • 2014.5.8(木)  
     夕刻次の雑誌が届きました。
     『学術の動向』 2014年 03月号
     特集1が「科学・公益・社会―情報発信のあり方を考える―」
     特集2が「原子力発電の社会的普及プロセスの歴史的検討」
     両方ともにほぼ(全部ではありません)読みました。間違っているとは思いませんが、言い方が偉そうなのが気になります。届くべき人に届かないことになります。

     「原子力発電の社会的普及プロセスの歴史的検討」特集の目次は次。
     兵藤友博「特集の趣旨 」
    佐野正博「原子力に関する社会的イメージの歴史的形成」
     横田陽子「戦後日本における環境放射能調査の経緯とその実像 ─原子力の導入・利用政策との関連で」
     田中三彦「日本の商用原子力発電システムの導入当初の設計技術レベルについて」
     木本忠昭「原子力をめぐる科学者の二重性 ―科学・技術の社会的存在形態 」

     「科学・公益・社会―情報発信のあり方を考える―」特集の目次は次。
     矢川元基 ・ 大塚孝治 ・ 高橋桂子 ・ 今田正俊「特集の趣旨」
     今田正俊「科学者から社会への情報発信のあり方について: 日本学術会議小委員会の議論を踏まえた問題提起」
     田中知「エネルギー・原子力分野からの情報発信」
     岩崎俊樹「不確実性に配慮した放射性物質の拡散予測情報の活用」
     高橋桂子「大気海洋拡散シミュレーションと情報発信問題 ―現場科学者からの問題提起」
     松本三和夫「構造災と制度設計の責任 ─科学社会学からみる制度化された不作為」
     大西隆「日本学術会議と情報発信 ─歴史的な展開と緊急時におけるあり方」
     小出重幸「コミュニケーションの喪失と社会的混乱 ─日本と英国の福島事故へのアプローチ」
     今田正俊 ・ 萩原一郎「まとめと今後」

  • 2014.5.26(月)  
      [ロシアの核・原子力史]
     旧ソビエト連邦、現ロシアの核・原子力史を科学史家として取り組まれているのは、今度学会でお世話になる広島大学の市川浩さんです。この分野の市川さんの仕事をまとめておこうと思います。

     市川浩『科学技術大国ソ連の興亡―環境破壊・経済停滞と技術展開』 勁草書房、1996
     市川浩『冷戦と科学技術―旧ソ連邦1945~1955年』ミネルヴァ書房、2007
     市川浩・山崎正勝編著『“戦争と科学”の諸相―原爆と科学者をめぐる2つのシンポジウムの記録』 丸善、2006

     В.П.ヴィズギン(市川浩訳)「ソ連原爆開発計画史における核物理学者の道徳的選択と責任」『技術史 』1(2000 ): 53-68
     市川浩「旧ソ連邦における原子力発電技術の形成と展開 On the Making and the Development of Nuclear Power Reactors in the Former Soviet Union」『国際協力研究誌』1(1)(1995): 117-133
     市川浩「旧ソ連初の原子爆弾計画の全体像:ロシア連邦原子力省他編『ソ連初の原子爆弾の製造』(エベルゴアトムイズダ-ト1995,露文)を中心に 」『社会文化研究』23(1997): 121-183
     市川浩「旧ソ連邦における舶用原子力機関開発の最初期とその問題」『広島大学総合科学部紀要. II, 社会文化研究』28(2002): 1-33
     市川浩「戦後の旧ソ連邦における燃料問題と電力技術の展開--火力発電を中心に」『社会文化研究』20 (1994): 15-45
     市川浩「旧ソ連邦初の原子爆弾開発計画の全体像(補遺)--最近の出版物から」『社会文化研究』30(2004): 119-148
     市川浩「「ソ連版「平和のための原子」の展開と「東側」諸国、そして中国 」」『原子力と冷戦―日本とアジアの原発導入』加藤哲郎・井川充雄編著(花伝社、2013)第6章

     ちなみに、『“科学の参謀本部”―ロシア/ソ連邦/ロシア科学アカデミーの総合的研究』(科研費中間報告書)論集 Vol. 1 〜Vol. 3 (2011)はウェブで入手できます。原子力、核に関する論考も含まれます。

     また、「15年戦争と日本の医学医療研究会」という研究会が2000年6月17日に設立されていました。研究誌は、最新号以外は、ウェブで入手できるようです。(全部に関してはまだ確認していません。)貴重な仕事だと思われます。
     15年戦争と日本の医学医療研究会サイト
     『15年戦争と日本の医学医療』全巻目次
     → 14.5.29 ダウンロードできるものは、どうも半分ぐらいです。どうしてそうなっているのかはわかりません。たとえば、731部隊や日本陸軍の毒ガス兵器に関しては、とても重要な研究成果が発表されていると言えそうです。

     

  • 2014.5.29(木)  
     市川浩『科学技術大国ソ連の興亡―環境破壊・経済停滞と技術展開』勁草書房、1996

  • 2014.6.20(金)  
     お昼過ぎ、次のDVDが届きました。
     『東京原発』 GPミュージアムソフト、2002
     役所広司,段田安則,平田満,吉田日出子,徳井優,山川元出演

     本編110分、特典映像66分です。1回の授業でははみだします。授業で使うには、2回分が必要となります。

  • 2014.10.7(火)  
      [核・原子力の展覧会2点]
     内田さんより東工大百年記念館で開かれる展示会を教えてもらいました。そのまま引用します。

    ◎特別企画展示2014『核時代を生きた科学者 西脇安』
    会期:2014年10月11日(土)〜2014年10月31日(金)
    10:30〜16:30 土日祝休館(ただし10月11日・12日は開館)
    会場:東京工業大学博物館・百年記念館1階展示スペース
    料金:無料

    日本の放射線生物物理学の草分けの一人である西脇安(にしわき・やすし 1917年〜2011年、東工大名誉教授)。 その生涯を通じて彼は、放射線被ばくと原子力の問題に向き合ってきました。 核時代の黎明期に日本陸軍の原爆開発に参加し、ビキニ核実験時には「汚い水 爆」の解明につながった「死の灰」の調査とその海外への発信、さらに国内外の 原子力政策に関与し、福島原発事故の報道の中で他界しました。 本企画展では西脇の足跡を辿り、核時代を生きた一科学者が、どのように信念を 貫き、社会と関わったかを考えていきます。

     次は、本日、大学に行ったときエレベーターのわきで見かけた掲示です。
     東京大学駒場博物館 2014年10月18日(土)〜12月7日(日)
     「ロベルト・ユンクと原爆の記憶:越境するヒロシマ」  関連して、10月25日、11月1日、11月8日、11月15日とギャラリートークが開かれます。

  • 2014.11.12(水)  
     次いで図書館に届いている3冊を受け取りました。
     島薗進『つくられた放射線「安全」論』河出書房新社、2013

  • 2014.11.20(木)  
     丹羽美之・吉見俊哉編『戦後復興から高度成長へ: 民主教育・東京オリンピック・原子力発電』東京大学出版会、2014
     記録映画アーカイブの2で、DVD 付きです。
     →まず、藤本陽一「核物理学者として生きた原子力時代――記録映画と共に振り返る」と吉見俊哉「被爆の悪夢からの転換――原子力広報言説の戦後史」の2点を読みました。
     全体の目次は次です。
     藤瀬季彦「『はえのいない町』をつくった頃」  
     村山英世「二人の教育者と「常総コレクション」」  
     中村秀之「見えるものから見えないものへ――『社会科教材映画大系』と『はえのいない町』(1950年)の映像論」  
     吉原順平「テレビ番組『日本発見』シリーズの誕生と挫折」  
     筒井武文「『日本発見』シリーズの『東京都』と『群馬県』――公開版と未公開版の比較」  
     若林幹夫「岩波写真文庫から地理テレビへ――そして、それを超えるものへ」  
     西村健治「高度経済成長と記録映画――撮影の現場から」  
     伊藤 滋「オリンピック前夜の東京改造」  
     鳥羽耕史「東京タワーとは何か――「戦後日本」、および都市の象徴として」  
     羽田澄子「『いま原子力発電は…』ができるまで」  
     藤本陽一「核物理学者として生きた原子力時代――記録映画と共に振り返る」
     吉見俊哉「被爆の悪夢からの転換――原子力広報言説の戦後史」   
     以上のように原子力発電の広報史の資料として入手しましたが、 DVD に収録されている、『はえのいない町』(1950年,12分)や『町と下水』(1953年,21分)が日本の衛生史として使える(授業等で使える)のではないかと思うようになりました。衛生の歴史をきちんとサーベイしたものがほしいなと思っていたところです。もちろんこの2点の作品はサーベイではありませんが、ある時点での状況を知るにはちょうどよいかもしれません。

     紅野謙介ほか編著『検閲の帝国:文化の統制と再生産』新曜社、2014
     日韓両国の研究者による共同研究の成果です。

     

  • 2015.1.20(火)     [フィリピンの原子力発電]
     昨日4限の授業で、フィリピンの原子力発電の現状について質問がありました。手元にネットに繋がったものがあれば簡単に検索できたのですが、持参していなかったので、その場では、ホワイトエレファントのことを考えると、そう簡単にできたとは思われないという推測を述べました。
     気になったので、調べてみました。知らなかったのですが、フィリピンは、地熱、水力、石炭、天然ガス等の資源が豊富であり、2011年時点でエネルギー自給率が59.1% だとあります。日本には望み得ない数字です。
     原子力に関しては予想通りでした。ホワイトエレファントのあと、計画はあったが、原子力発電所は設置されず、現状、稼働している原子力発電所は0です。また、2011年の福島第一原子力発電所の事故を受け、原子力電源開発を断念したそうです。
     2012年では、石炭38.3%、天然ガス26.9%、石油5.8%、水力14.1%、地熱14.1%、再生可能エネルギー0.4%、です。
     地熱の大きさが目立ちます。

     東南アジアについても調べてみました。ウェブに、松尾雄司・河野誠司・村上朋子「東南アジアにおける原子力発電導入の見通し」 IEEJ, 2008年5月、があります。これによれば、マレーシアは必要がなく当分導入はない、インドネシアは計画はあるが環境が整わず大幅に遅れるであろう、ベトナムとタイは推進体制が整備されているので若干の遅延はあっても比較的順調に原子力計画は進捗するであろう、とあります。

  • 2015.4.11(土)  
     月曜日4限の方は、まだ確定した出席者数は出せませんが、一人2回発表してもらえばよいぐらいの数にはなっているので、きちんとしたゼミ形式で進めることができます。
     スタートとしては、原子力技術史研究会編『福島事故に至る原子力開発史』(中央大学出版会、2015)によってチェルノブイリの原子炉事故と福島の原子炉事故について基本を押さえてもらいます。その次としては、島薗進さんの本を読みます。
     島薗進『つくられた放射線「安全」論』河出書房新社、2013
     島薗進さんは、一度外語にいらしたこともある宗教学者です。良識の立場に立って、専門家集団の政治的行動の問題点を鋭く追及されています。簡単には、学者(研究者)のなかでは、もっとも普通の市民に近い立場に立って、科学者/専門家の言説を批判されています。
     中川保雄さんの『放射線被曝の歴史』のときもそうだったのですが、関連論考も入手して全部目を通そうと思います。
     次の2点はすでに入手しています。
     島薗進「多様な立場の専門家の討議、そして市民との対話―権威により結論の提示か、情報公開と対話か」『学術の動向』2012年5月号
     島薗進「科学者はどのようにして市民の信頼を失うのか?放射能の健康への影響をめぐる科学・情報・倫理」市ノ瀬正樹ほか『低線量被爆のモラル』(河出書房新社、2012)
     次のものは ILL で発注しています。
     島薗進「加害側の安全論と情報統制―ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ」『神奈川大学評論』第70号(2011年11月)
     次のものは探しています。すなわち、入手したのかしなかったのか記憶が定かではありません。確認の上、何らかの仕方で手元に置きます。
     島薗進「研究者が学術の社会的責任を問い直すとき―FGFとTGFの交流を振り返る」『アカデミズムは原発災害にどう向き合うのか』(合同出版、2013)

     → 15.4.12 翌朝、 島薗進『つくられた放射線「安全」論』を読み通しました。途中から、これは、笹本さんが正しかったという感想が生じました。と思ったら、島薗さんも終章できちんと指摘されています。「笹本征夫『米軍占領下の原爆調査』(新幹社、1995年)は「原爆加害国になった日本」という副題をもつ。これは「調査すれども治療せず」の姿勢、また、放射線被ばくの被害を過小評価する米国の調査姿勢が、いつしか日本の科学者・専門家のものになっていくことを示唆したものだ。」(p.247)
     もう1点、放射線ホルミシス論について、私は「と」研究と思い、まともに取りあげてこなかったのですが、原子力推進側の低線量被爆安全(安心)論にとって、重要な位置を持つことがわかりました。単純な「と」研究ではありません。

     ということで、放射線ホルミシス論をもうすこし調べてみます。

     Wiki の「放射線ホルミシス」は、論争史に着目し、数多くの文献に当たっていて、かなりよく書けているように思われます。原理が違うと言われそうですが、こういう記述を見ると、匿名ではなく、Wiki は署名入りの記事を選択できるようにした方がよいと考えたくなります。

     次は、CiNii で調べてみました。「放射線ホルミシス」で59ヒット。この数は、存在はするが、すごく盛んというわけではないことを示しています。
     最初のものは、近藤宗平「放射線ホルミシス」『放射線生物研究』23(1988): 198-207
     生物学史家のものとして、堂前さんの2点の論考があります。
     堂前雅史「放射線ホルミシス効果--低線量放射線の健康への影響についての論争 (小特集 2001年夏の学校「生物学/医学論文を解読する」報告集)」『生物学史研究 』68(2001), 57-59
     堂前雅史「ラドン温泉が体によい理由?--「放射線ホルミシス効果」を巡る論争 (特集 科学技術とリスク論)」『情況』 第三期 3(1)(2002), 176-191
     堂前さんは「と」学会のえらいさんですし、 科学史家の議論は、ここからはじまる、ここから始めるのがよいようです。

     グーグルスカラーでは、93件のヒット。サイニーとの関係ではこのぐらいでしょう。

     「放射線ホルミシス」(radiation hormesis)の考え方(理論)は、1982年、アメリカン人科学者トーマス・D・ラッキー博士が唱えた説です。発表媒体は、Health Pyisics, 1982 Dec です。
     日本でそれを取りあげ、推進したのが、電力中央研究所・研究開発部の初代原子力部長であった服部禎男氏(1933-)であった。1989年から放射線ホルミシス研究委員会を立ち上げ、積極的に研究を推進していった。
     つまり、日本の研究が本格化するのが平成に入ってからということになります。

     → ネットでどういう意見があるのかざっと見ていたところ、島薗進さんのつぶやきで、電力中央研究所 原子力技術研究所 放射線安全研究センターが去年の6月13日付で次の告知をしているという情報に接しました。重要なので、全文引用します。
     「・現在、当センターでは、放射線ホルミシスの研究は行っておりません。
    ・これまでに得られた知見からは、ホルミシス効果を低線量放射線の影響として一般化し、放射線リスクの評価に取り入れることは難しいと考えています。
      当センターでは、1990年代から2000年代前半にかけて、放射線ホルミシス効果の検証を目的とした研究 を実施し、ある条件下での動物実験では、低線量の放射線によって様々なホルミシス様の効果が誘起されることを明らかにしました。しかし、現在は、主に以下 の2つの理由からホルミシス効果を低線量放射線の影響として一般化し、放射線リスクの評価に取り入れることは難しいと考えています。
     第一に、ホルミシス効果の検証実験の多くは、健康状態にない動物(生まれ つき病気になりやすい動物や、がんを移植した動物など)を対象としていることです。もともと低線量の放射線の影響は非常に検出が難しいため、応答を観察し やすくするためにこのような特殊な実験系が使われます。このような実験で得られた結果から、健康な人間に対する影響を推定することは適切ではないと考えて おります。
     第二に、ホルミシス効果の検証実験では、観察している指標が限定されてい ます。例えば、活性酸素病に関する研究では活性酸素に関する指標は調べられていますが、その他生涯のがん発生率や寿命の変化など、一般の放射線影響として 問題とされる指標については調べられていない場合がほとんどです。放射線の影響は多面的ですので、一面的なデータだけで判断してはならないと考えます。
     現在、当センターのWebページに掲載している放射線ホルミシス効果に関する過去の研究成果については、上記をご理解頂きました上で閲覧して下さい。
     なお、当センターは、低線量放射線のホルミシス効果を一般公衆の放射線リ スク評価に応用することは難しいと考えておりますが、医療分野等への応用について一切を否定するものではありません。ただし、当所の成果を引用して放射線 ホルミシス効果を謳った商品の販売を行っている例等につきましては、当所とは一切関係ありませんのでご注意下さい(当所が特定商品の営業活動に協力するこ とはありません)。」
     これは、妥当な判断を示していると思います。
     そうであれば、しかし、1990年代から2000年代前半にかけて、LNT 仮説を否定するために巨額の研究費をかけてやった研究は、一体何? という疑問が生じます。島薗さんのツイートのまとめが次のところにあります。http://togetter.com/li/683619
     個人的にはこれで結論が出たと考えますが、それで商売をする人が大勢おり、情報の慣性を考えると、しばらく「放射線ホルミシス」を唱える人が一定数残ると思います。

     → ずっと気になっていた(自分のなかでは一定の結論は出ていたのですが、専門家のきちんとした意見があるはずだと思って、それがなかなか探せず、記述しないままになっていたことです)ことに、ラドン温泉・ラジウム温泉のことがあります。
     ウェブに高橋希之氏による「ラドン温泉・ラジウム温泉の話」(pdf)があります。個人的にはじめて専門家による十分説得的な議論に出会ったと言えます。結論だけ引用します。
     「放射線は線量や被曝の仕方によっては、確かに生体作用をもたらす場合があります。問題 はどれくらいの線量・線量率でどのようなタイミングや時間で被曝すればいいのかが判らな いということです。そしてその場合の安全性が判らないのです。この理由で、一般に言われ ている弱い少しの放射線は体に良いと主張するホルミシス作用というのは、科学的には正し くないでしょう。 」
     高橋さんの議論は、科学者としてお手本になるものだと思います。

     これも、個人的には、「放射線ホルミシス」がホメオパシーの仲間だと感じられて、真剣に取りあう気にならなかったのも事実です。

  • 2015.4.25(土)  
     ヒューマンライツナウ編『国連グローバー勧告 福島第一原発事故後の住民がもつ「健康に対する権利」の保障と課題』合同出版、2014
     目次は次です。
     第1部 国連グローバー勧告(全文)
     第2部 国連グローバー勧告を理解するために
     伊藤和子(弁護士/ヒューマンライツ・ナウ事務局長)「年間1ミリシーベルトを基準とした住民の権利保障への転換を」
     崎山比早子(元放射線医学総合研究所主任研究官)「科学的証拠に支えられた年間限度線量1ミリシーベルト以下」
     木田光一(福島県医師会副会長)「福島原発事故・住民の「健康に対する権利」がどのくらい保障されているのか」
     吉岡 斉(九州大学教授)「原子力規制委員会の限界と放射能追加放出のリスク」
     岩田 渉(市民科学者国際会議理事長)「東京電力原発事故・影響地域住民の「健康に対する権利」がどのように侵害されているか」
     影浦 峡(東京大学大学院教育学研究科教授)「国連グローバー勧告と日本政府の反応の背景」
    【巻末資料】
    国連グローバー勧告に対する日本政府の回答・及びこれに対する日本のNGO・専門家からのコメント
    国連グローバー勧告に対する日本政府の訂正案・及びこれに対する日本のNGO・専門家からのコメント
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