早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編(土屋紳一・大久保遼・遠藤みゆき)『幻燈スライドの博物誌:プロジェクション・メディアの考古学』青弓社、2015
あまり期待せずに発注したのですが、電車を待ちながら読んでいると、これはちょうどよい書物でした。教科書的記述がしっかりとしています。また青弓社は視覚文化叢書というのを出しているのを知りました。
→ 15.4.29 視覚文化叢書は次です。
視覚文化叢書 1 :ジェフリー・バッチェン『写真のアルケオロジー BURNING WITH DESIRE』前川修 , 佐藤守弘 , 岩城覚久訳、青弓社、2010
視覚文化叢書 2 :長谷正人『映画というテクノロジー経験』青弓社、2010
視覚文化叢書 3 :佐藤守弘『トポグラフィの日本近代 江戸泥絵・横浜写真・芸術写真』青弓社、2011
視覚文化叢書 4:大久保遼 『映像のアルケオロジー 視覚理論・光学メディア・映像文化』青弓社、2015
これは、今の私には価値あるシリーズです。たぶん、入手することになると思います。
→ 15.5.2 ふと気づいたことがあります。スライドプロジェクターが消えつつあるということです。ネットで調べてみると、スライドプロジェクターを製造販売していた「キャビン工業は2007年1月より、スライド映写機などの営業活動、マーケティング業務を浅沼商会に移管し、営業活動を停止しました」 とありました。アマゾンでは、キャビン工業の入門機のみまだ販売しています。古いスライドプロジェクター を調整の上、販売している業者はまだ存在していますが、いつまで営業を続けるかはわかりません。学校の倉庫等には数多くの スライドプロジェクターが眠っているのでないかと想像されます。
4月28日に入手した、 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編(土屋紳一・大久保遼・遠藤みゆき)『幻燈スライドの博物誌:プロジェクション・メディアの考古学』青弓社、2015、をきっかけに、新しい分野が開けました。
鷲谷花さんのつぶやき
enpaku 早稲田大学演劇博物館
神戸映画資料館鷲谷花「コマの中の人間 1924〜1951」『文学研究論集』15(1998), 109-128 鷲谷花「初期児童漫画の成立」『文学研究論集』16(1999 ), 31-44
鷲谷花「怪人、帝都を席巻す : 『怪人二十面相』と『少年倶楽部』の地政学」『文学研究論集』17(2000), 71-81
鷲谷花「切断と連続:児童文化における<戦前>,<戦中>,<戦後>をめぐる覚書 」『文学研究論集』19(2001), 25-32
鷲谷花「戦後労働運動のメディアとしての幻灯 : 日鋼室蘭争議における運用を中心に 」『演劇研究 』 36( 2012), 81-91
以上、すぐにダウンロードできる鷲谷花さんの論文をリストアップしています。鷲谷花さんは、とても興味深い研究をなされています。
デスクワークをしていると、図書館に本が届いたという報せがありました。またすぐに図書館へ。次の4冊を受け取りました。
視覚文化叢書 1 :ジェフリー・バッチェン『写真のアルケオロジー BURNING WITH DESIRE』前川修 , 佐藤守弘 , 岩城覚久訳、青弓社、2010
視覚文化叢書 2 :長谷正人『映画というテクノロジー経験』青弓社、2010
視覚文化叢書 3 :佐藤守弘『トポグラフィの日本近代 江戸泥絵・横浜写真・芸術写真』青弓社、2011
視覚文化叢書 4:大久保遼 『映像のアルケオロジー 視覚理論・光学メディア・映像文化』青弓社、2015
どれもあとがきだけ読みました。3と4は博士論文です。バッチェンの書物は、写真論についての基本書です。そういう位置付けで翻訳されています。
帰ると次の本が届いていました。
清水勲『漫画の歴史』岩波新書、1991
表紙裏に「漫画は、大量印刷が可能になって初めて民衆のものとなった。一八三〇年代にパリで創刊された風刺新聞『カリカチュール』と、同時期に江戸で大評判になった『北斎漫画』から説き起こし、今日の隆盛に至る漫画文化の軌跡をたどう本書は、風刺画・戯画から劇画・コミックまで、豊富な図版で傑作を紹介し、巻末に詳しい人物略歴・年表を付す」とあります。
清水勲(しみず・いさお)さんは、1939年生まれ(現在76歳)の漫画研究家です。編集者として働いたあと、1984年より研究・著作に専念しているそうです。2万点の漫画を収集しているとのこと。いま漫画という言葉でイメージされるストーリー漫画ではなく、それ以前の漫画(一枚絵漫画、風刺画)が専門です。ジョルジュ・ビゴーやワーグマン等幕末から明治の日本で活躍した風刺画家について第一人者のようです。
研究室に戻りお弁当。お弁当を食べ終わると、やはり図書館からILL で次の3点が届いたという連絡があったので、すぐにとりに行きました。
鷲谷花「廃墟からの建設--戦時期日本映画における《アメリカニズム》の屈折 」『映像学』79(2007): 5-22
鷲谷花「昭和期日本における幻灯の復興 : 戦後社会運動のメディアとしての発展を中心に 」『映像学』87(2011): 5-23
鷲谷花「「生活芸術」としての幻灯 : 東大川崎セツルメントによる幻灯創作活動を中心に」『映像学』90(2013): 5-26
すぐに3限の会議。こちらは研究科執行部の打ち合わせです。終わってから、本日唯一会議のない時間帯。鷲谷 花さんの3点の論文を読みました。どれも好論文です。個人的にはとくに「廃墟からの建設--戦時期日本映画における《アメリカニズム》の屈折 」は傑作論文だと思います。映像学の分野にどういう賞があるのかまったく知りませんが、評論賞のような賞に値する論文と思います。
会議に関わらない時間で機関リポジトリ等ウェブで入手できる次の論文をダウンロードして読んでいました。どれも好論文です。しかもとてもおもしろい。
大久保遼「キノドラマとキネオラマ:旅順海戦と近代的知覚」『映像学』 80(2008): 5-24
大久保遼「明治期の幻燈会における知覚統御の技法:教育幻燈会と日清戦争幻燈会の空間と観客」『映像学』 83(2009): 5-22
大久保遼「眼の規律と感覚の統御:19世紀末の教授理論における「感覚」の位置」『社会学評論』 62(2011): 85-102
そのまま図書館にでかけ、届いている本6冊を受け取りました。
2点は、京都大学出版会が出したテオフラストスの『植物誌』1&2.4点は、青弓社が出版した『写真空間』(1)〜(4)です。
『写真空間〈3〉特集 レクチャー写真論』だけをカバンに入れ、帰途。全員帰っていました。
『写真空間』の書誌は次。
『写真空間〈1〉特集 「写真家」とは誰か』青弓社、2008
『写真空間〈2〉特集 写真の最前線』青弓社、2008
『写真空間〈3〉特集 レクチャー写真論』青弓社、2009
『写真空間〈4〉特集:世界八大写真家論』青弓社、2010
研究室で読んだのは、甲斐義明「ジェフリー・バッチェンと「写真への欲望」――写真史はいかにして可能か」『写真空間〈3〉特集 レクチャー写真論』所収、ならびにテオプラストス『植物誌1』の訳者小川洋子氏の解説です。テオプラストスの人と仕事の解説は勉強になりました。とくに『植物誌2』の解説には、現地を尋ねて、ギリシャ(地中海世界)の植生を目の当たりにする体験が書かれています。感動が伝わる文章になっています。昨日持ち帰った『写真空間〈3〉特集 レクチャー写真論』ですが、写真論のよい教科書に仕上がっていると思います。目次は次です。
第1章:城丸美香「ヴァルター・ベンヤミン――写真のアクチュアリティを追求した知覚の学としての写真論」
第2章:三浦なつみ「ロラン・バルト――個と普遍の接合可能性」
第3章:内野博子「アンドレ・バザンからケンドール・ウォルトンへ――写真的リアリズムの系譜」
第4章:末廣 円「ヴィレム・フルッサー――「テクノコード」としての写真」
第5章:中川裕美「ジョン・シャーカフスキー――制作者としての写真理論とキュレーション」
第6章:生井英考「スーザン・ソンタグの修辞学――『写真論』の前と後」
第7章:平芳幸浩「ロザリンド・クラウス――指標としての写真」
第8章:前川 修「アラン・セクーラの写真論――写真を逆撫ですること」
第9章:甲斐義明「ジェフリー・バッチェンと「写真への欲望」――写真史はいかにして可能か」
他に連載として次の記事。
堀 潤之「映画にとって写真とは何か3」
長谷正人「ジオラマ化する世界3」
金子隆一「写真展評3」
伊勢功治「一九二〇―三〇年代の日本の写真雑誌3」
清水 穣「逸脱写真論3」
犬伏雅一「視覚文化論の可能性を問う3」
→日本におけるジェフリー・バッチェンの第1人者は、8章を書いている前川修さんのようです。前川修さんの論文を7点ダウンロードしました。ベンヤミン、タルボット、ヴァナキュラー写真論を扱っています。→せっかくですので、その他の号の目次もとっておきます。
『写真空間〈1〉特集 「写真家」とは誰か』青弓社、2008の目次。
はじめに 青弓社編集部
序章 写真家はどこへ
多木浩二「写真家とは誰か」
第1章 歴史のなかの写真家
前川 修「アマチュア写真論のためのガイド」
佐藤守弘「観光する写真家」
第2章 越境する写真家
林 道郎「現代美術のなかの写真(家)」
菊地 暁「ニッポンの民俗写真、あるいは〈民俗学者〉としての写真家 」
第3章 写真家の現在
土屋誠一「デジタルイメージは写真か――写真の消滅とイメージへの責任」
楠本亜紀「ドキュメンタリー写真の地平、の一歩手前 」
第4章 消失する写真家
杉田 敦×竹内万里子「対談 「写真/写真家」から遠く離れて」
連載
金子隆一「写真展評1」
伊勢功治「一九二〇―三〇年代の日本の写真雑誌1」
清水 穣「逸脱写真論1」
犬伏雅一「視覚文化論の可能性を問う1」
堀 潤之「映画にとって写真とは何か1」
長谷正人「ジオラマ化する世界1」
『写真空間〈2〉特集 写真の最前線』青弓社、2008の目次。
はじめに 青弓社編集部
第1章 写真とその背景の現在
光田由里「写真と展示の現在――二つのメディアの時間と場所」
増田 玲「美術館と写真の現在」
中村史子「アーカイブと写真の現在――二つのアーカイブから浮かび上がること」
第2章 写真とその表現の現在
小林美香「ニューヨークで見る、日本の写真の現在――Heavy Light:Recent Photography and Video from Japan」
戸田昌子「写真集の現在――写真集の物語を読む」
杉田 敦「このすばらしい視えない世界」
倉石信乃「彼女のワンピース――被爆資料と写真の現在」
第3章 写真とその技術の現在
普喜多千草「及するデジタル写真技術がもたらすものについて」
小池隆太「ケータイ写真の現在――遍在する「私的フレーム」」
前川 修「デジタルが指し示すもの――デジタル写真試論」
連載
長谷正人「ジオラマ化する世界2」
金子隆一「写真展評2」
伊勢功治「一九二〇―三〇年代の日本の写真雑誌2」
清水 穣「逸脱写真論2」
犬伏雅一「視覚文化論の可能性を問う2」
堀 潤之「映画にとって写真とは何か2」
『写真空間〈4〉特集:世界八大写真家論』青弓社、2010の目次
はじめに 青弓社編集部
第1章:日高 優「写真の森に踏み迷う――ウィリアム・エグルストンの世界」
第2章:調 文明「ジェフ・ウォール――閾を駆るピクトグラファー」
第3章:清水 穣「コラージュとプレゼントネス――スティーヴン・ショアとマイケル・フリード」
第4章:鈴木恒平「グローバル化した「ドイツ写真」のデュアリズム――アンドレアス・グルスキー」
第5章:荻野厚志「森山大道にまつわるいくつかのクリシェ、あるいは回帰するポエジー」
第6章:林田 新「写真を見ることの涯に――中平卓馬論」
第7章:前川 修「写真という囮、写真史という囮――杉本博司の「写真」 」
第8章:鈴木理策 松田貴子 「「見ること」の問題――」
連載
堀 潤之「映画にとって写真とは何か4」
伊勢功治「一九二〇―三〇年代の日本の写真雑誌4」
写真史・写真論に関しては、前川修さんのサイトがとてもよくできています。
『写真空間』の論考を読む作業を続けています。犬伏雅一さんのものは全部読みました。視覚文化論というジャンルの形成史がおおよそ見えてきました。外語図書館に雑誌があることが判明したので、昼食後、図書館に行って、次の論文のコピーを取りました。
犬伏雅一「視覚文化研究の可能性:ロザリンド・クラウスと「アンフォルム」」『藝術:大阪芸術大学紀要』34(2011): 12-26
この雑誌を手にとるのははじめてです。カラー印刷のずいぶん立派な=お金のかけた紀要雑誌です。他に犬伏雅一の論考を2点 ILL で発注しました。来週中に届くでしょう。
3時過ぎに図書館より昨日頼んだコピーが届いたという連絡がありました。月曜日の朝受け取ります。
犬伏雅一「写真装置のアルケオロジー」『映像学』53(1994): 37-53
犬伏雅一「写真による報道--事実性神話の成立と崩壊」『映像学』51(1993): 5-20
朝のうちに、木曜日にコピーをとった次の論文を読みました。
犬伏雅一「視覚文化研究の可能性:ロザリンド・クラウスと「アンフォルム」」『藝術:大阪芸術大学紀要』34(2011): 12-26
予想していたものとはかなり違っていました。ふと、犬伏雅一さんはおいくつなんだろうと思い、ネットで検索をかけてみました。1950年生まれとありますから、今年65歳です。文章から私よりもひとつ上の世代の方かな、と思ったら、その通りでした。私の8歳年上。私の大学だと、現学長と社会学者の中野先生が同じ学年です。
さて内容ですが、視覚文化研究の定義を提示されています。「視覚文化論とは、文化と関わる視覚的なすべてのものを、既存の学問領域設定を横断するかたちで、およそポスト構造主義的な理論装置を使って、批判的に解明する活動」(p.13)。1980年代末に本格的に登場してきた。クラウスはその主役の一人。雑誌『オクトーバー』の創刊(1976)がひとつの転機となっている。
視覚文化論(Visual Cultural Studies)の形成を見るには、「ニュー・アート・ヒストリー」の形成展開と「カルチュラル・スタディー」の形成展開を踏まえておく必要がある。
図書館へ行って次の論文を受け取りました。
犬伏雅一「写真装置のアルケオロジー」『映像学』53(1994): 37-53
犬伏雅一「写真による報道--事実性神話の成立と崩壊」『映像学』51(1993): 5-20
研究室に戻り、早速読みました。私にはちょっと不思議な論文でした。
また、昨日から石岡良治『視覚文化「超」講義』(2014)を読み始めています。キッチュとか、ああ、そういうのも読んでいたなと思い出しました。→全部を精読したわけではありませんが、ある程度まで読みました。理論的整理を期待したのですが、そういう種類の書物ではありませんでした。関心が違うのは、致し方有りません。
「視覚文化論」
「視覚文化論」に関してきちんとした見通しをもっておく必要があると気づいて、関連する論考を探し、読んでいます。夕食後読んだのは次の2点。
生井英考「視覚文化論の可能性」Rikkyo American Studies 28(March 2006): 7-24
門林岳史「ブックナビゲーション:視覚文化論の向こう側」(2006)
門林さんのものは、文献がきちんと挙げられていて、私には助かります。その半分ぐらいはすでに読んでいて、半分ぐらいは、そういうのもあるんだ、そういう繋がりもあるんだというものでした。
ですから、私も関心としては、片足をすでに「視覚文化論」においていたという表現が許されると思います。もう片足の置き方は、もちろん、ここで取りあげられている方々とは別の地点になります。
門林さんは、文化論的転回には、「それを根元的に支える説明原理を欠いている」と書かれています。その通りだと思います。
たぶん同じことを生井さんは、「視覚文化論はあくまで相乗りバスであり、それもこの10年は一種のバンドワゴンだった」と評されています。→Rikkyo American Studies 28(March 2006)は、視覚文化論を特集しています。(序が生井英考氏の「視覚文化論の射程と可能性―「文化」概念変容との関わり―、2回目が小林憲二氏の「アメリカの文化表現― Stowe 夫人とThomas Dixon―」、第3回目が榑沼範久氏の「<フラットベッド画面>論の再検討―文化生態学的な絵画システム論、そして画面および<人間>の歴史的・批判的存在論に向けて―」、第4回目が日高優氏の「Stephen Shore 『The Nature of Photographs』を手掛かりに、視覚文化論の可能性を考える」)ネットで他のものを探しました。まず、次の論文が見つかりました。
榑沼範久「美術史と「他の批評基準」」Rikkyo American Studies 28(March 2006)
榑沼範久さんは、見たことがあるなと思ったら、ハル・フォスターの翻訳者(『視覚論』平凡社、2000)でした。むしろそれよりも、私の大学の後輩でした。科学史・科学哲学の後輩でした。私とはたぶん入れ違いです。「美術史と「他の批評基準」」は、半分は東大本郷の美術史と美学のゆがんだ制度史(の思い出)です。半分は、スタインバーグの"Other Criteria" に関するものでした。これはとてもよくわかる問題関心でした。なるほど。私もスタインバーグを読んでみようと思います。
ということで、棚のなかからハル・フォスター編『視覚論』(榑沼範久訳、平凡社、2000)を救出しました。目次は次です。
ハル・フォスター「序文」
マー ティン・ジェイ「近代性における複数の「視の制度」」
ジョナサン・クレーリー「近代化する視覚」
ロザリンド・クラウス「見る衝動/見させるパルス」
ノーマン ・ブライソン「拡張された場における〈眼差し〉」
ジャクリン・ローズ「セクシュアリテ ィと視覚―いくつかの疑問」
クラウスとブライソンの間に全体討議1、最後に全体討議2 が付されています。
これは、ディア芸術財団が1987年にハル・フォスターをオルガナイザーにはじめたシンポジウムを書籍化したものです。具体的には、1988年「現代文化をめぐる議論」の第2巻として出版されています。Hal Foster (ed.), Vision and Visuality, Dia Art Foundation, 1988
→続きは明日にします。
日が暮れてから、次の本が届きました。
石岡良治『「超」批評 視覚文化×マンガ』青土社、2015「視覚文化論」 昨日からの続き。
Rikkyo American Studies 28(March 2006)の4回目の講演者日高優氏の論文を探しました。
日高優「歴史を多様性に拓く : スティーヴン・ショア『写真の性質』を手掛かりに」『立教アメリカン・スタディーズ』 28(2006): 43-61
日高優「ストリートというトポス : ゲイリー・ウィノグランドの写真について」『アメリカ太平洋研究』 2(2002): 147-162
日高優「ロードの感覚, イメージの出来事:スティーヴン・ショアの写真について」『アメリカ研究』No. 37 (2003) : 117-136
夕刻、次の本が届きました。
日向あき子『視覚文化―メディア論のために』紀伊国屋書店、カプセル叢書 、1978年
この時代にはまだ今の「視覚文化論」はありません。しかし、このタイトルなので、一体どういう内容だろうという関心から購入したものです。日向あき子さんは、美術評論家です。『ポップ文化論』という書物も出されていますから、今の「視覚文化論」に繋がる関心はあったと言えます。惑星ソラリス、竹村恵子、横尾忠則、三宅一生等を取りあげています。
帰宅すると、次の本が届いていました。
高山 宏『表象の芸術工学 (神戸芸術工科大学レクチャーシリーズ)』工作舎、2002
日本における視覚文化史の奇才は、高山宏氏です。翻訳の量ひとつとっても、常人にはおよびもつかないレベルに達しています。第1部が視覚表現の奇妙・絶妙です。まさに高山節です。
図書館に行って、次のコピーをとりました。
平塚弘明「視覚文化論の展望」『(北海道大学)国際広報メディアジャーナル』2(2004): 147-164
朝一番で次の本が届きました。代金を郵便屋さんに手渡す方式(代引き)です。つまり、版元から直接送ってもらいました。
『SITE ZERO/ZERO SITE』No.3=ヴァナキュラー・イメージの人類学、メディア・デザイン研究所、2010
その本をカバンにつめて出かけました。それから図書館へ。ILL で届いたいた次の論文を受け取りました。
レオ・スタインバーグ「 他の価値基準(1)」『美術手帖』735(1997): 184-201
レオ・スタインバーグ「 他の価値基準(2)」『美術手帖』737(1997): 182-193
これは1月号から3月号の3号に分けて掲載されたレオの傑作批評です。(3)がないのは、(3)だけどうしても掲載ページを見つけることができなかったせいです。いずれ入手します。研究室に行って、すこし片づけものをしてから、レオ・スタインバーグの文章を読みました。すばらしい批評文です。批評論文を書くのであれば、こういうのを書いて欲しいという、そういう文章です。ひさしぶりにわくわくしながら読んでいました。
カバンにつめていった『ヴァナキュラー・イメージの人類学』から冒頭の対談(岡田温司×前川+聞き手:門林岳史「ヴァナキュラーという複数性の回路」だけ読みました。なるほど。「イメージ人類学」と「ヴァナキュラー文化論」の交錯のあり方を取りあげています。
[「湿板」写真]
朝郵便受けから新聞を取り出すと、昨日の夕刊もありました。つまり昨日夕刊を取り出すのを忘れていたわけです。こういうことはたまにあります。
今の私の関心にぴったりの記事が1面にあります。「写真、あえてフィルム」という記事で、インスタントカメラ「チェキ」が大きく取りあげられていますが、最後に今の今「湿板」写真に取り組んでいる和田高弘さん(東京・谷中「湿板写真館」店主)の記事が2段あります。
ウェブで今の今、湿式コロジオン法(湿板写真)に取り組んでいる人がいないかどうか調べてみました。vimeo.com の映像に、John Coffer- "The tintype Recaptured" というのがありました。ここまでやるか、という昔の生活をしながら、昔の方式の写真を撮っています。最後、化学溶液を板にかけると像が浮かび上がるところは、今見ても感動します。日本でも、湿式コロジオン法(湿板写真)やその前のダゲレオタイプに取り組んでいるアーティストがいるようです。気持ちはよくわかります。あまりに手軽なデジカメ、スマホ映像の氾濫のなかで、もっと手応えのある、物質に刻印された質感をもとめる気持ちはよくわかります。(簡単にできるのであれば、私もやりたいと思います。)
和光大学の新井卓さんは「写真表現研究」という授業で湿式コロジオン法を学生に教えています。さすが、和光です。新井さんのシラバスによれば、「近年、欧米を中心に再び取り組む写真家が少しずつ」出現しているそうです。なるほど。
「湿板写真館」についての情報もありました。やはり写真家の澤村徹さんという方が、和田高弘さんの「湿板写真館」を取材した記事がありました。谷中の「湿板写真館」は今年の2月にオープンしたばかりでした。6秒の露光時間で湿式コロジオンのガラス写真を撮ってくれるということです。キャビネサイズ1枚1万5千円、八つ切りサイズ1枚2万5千円ということです。個人的には人気がでるのではないかと予想します。
ガラス版に映るのはネガなので、黒い布の上においてポジ像を見るということです。アンブロタイプというポジ反転写真ということになります。
この形だと、ダゲレオタイプと同じ質感をもつ写真、1点限りの写真ができあがります。
電車のなかで半分、研究室で半分、次の論文をプリントアウトして読み通しました。
坂本信太郎「技術と市場: George Eastmanとアマチュア写真市場 Reese V. Jenkinsの論文から」『(早稲田大学産業経営研究所)産業経営』1(1975): 57-81
副題にある論文は次です。早速、ILL で発注しました。
Reese V. Jenkins,"Technology and the Market: George Eastman and the Origins Mass Amateur Photography," Technology and culture, 16(1975): 1-19
George Eastman, 1854-1932
Thomas Alva Edison, 1847-1931
イーストマンは、エジソンより7歳年下です。エジソンと同類のヤンキー・インベンターと分類してよいでしょう。
図書館から次の論文が届いたという連絡があったので、すぐに受け取りに行きました。
Reese V. Jenkins,"Technology and the Market: George Eastman and the Origins Mass Amateur Photography," Technology and culture, 16(1975): 1-19
古典的な論文となっているようです。
8月27日に紹介した、ヴァネッサ・シュヴァルツさんの授業ですが、表象文化論の授業でも応用できることに気づきました。(参加者各自1枚の図像・イメージを教室に持参し、どうしてこのイメージなのかを説明すること)。アクティブラーニングにも利用できます。10月から早速利用しようと思います。
9時過ぎに次の2冊が届きました。
中川邦昭『映像の起源:目の思索、「写真鏡」―カメラ・オブスキュラ―が果たした役割』美術出版社、1997
中川邦昭『カメラ・オブスキュラの時代:映像の起源』ちくま学芸文庫、2001
なかば予想していたことですが、ちくま学芸文庫は、美術出版から出された本にいくらか加筆修正して改題したものでした。
中川邦昭さんは、1943年生まれの写真家です。この本の売りは、日本における「写真鏡」の導入とそれによる日本の絵画の変容を扱った箇所かと思われます。本日は、夕刻に駒場で授業。私が「カメラ・オブスクラ」について講義をします。18世紀初頭までに限定し、一体何であったのかという話をします。お暇な方は聞きに来てもらってかまいません。
この次ですが、ひとつはめんたまそのものを考えています。もう一つは、写真術公表後のカメラ・オブスクラそのものの変化です。
1.目玉の解剖学の歴史。&眼球類似光学装置:1700年前後につかわれた"Scioptic Ball";19世紀後半の"demonstration eye"
2.Charles Louis Chevaller(1804-1859) カメラ・オブスクラや光学装置製造業者の活動。ニエプスに提供したカメラ・オブスクラ。フォトグラフという名の一般向けダゲレオタイプ写真機。
[日本におけるカメラ・オブスクラ]
電車のなかで、中川邦昭『カメラ・オブスキュラの時代:映像の起源』(ちくま学芸文庫、2001)を読んでいました。意外な発見がありました。
p.272(美術出版社、1997では、p.246)「遠近法絵画の補助手段として考案されたカメラ・オブスキュラは、人間の眼で見える風物や事物の外観を正確、精密に捕らえることは出来たが、写真が科学の発達と結び付き、写真の特質が十分に活用される頃には、その使命を果たし終え完全に忘れ去られてしまった。」
これが、この著作本文の最後の文章です。典型的な写真史からの見方です。こういう典型的な見方を表現しておいてくれることも大切です。すこし先になりますが、次のような文章からはじまるエッセイを書こうかなと思っています。
「写真と写真機。今ではすっかりおなじみのものです。さて、写真と写真機では、どちらが先でしょうか? 光学装置としての写真機がなければ、写真は撮れませんから、ものとしては、写真機が先にあって、写真はその後、と言ってよいでしょう。
しかし、印画紙が存在すれば、写真機がなくても、ピンホールカメラで写真を撮ることはできます。ピンホールカメラは箱に穴を開けただけのものですから、写真機という範疇に入れることはできないでしょう。
つまり、論理的には、写真が先で、写真機があと、というのも可能ですが、歴史を辿れば、写真機=カメラ・オブスクラが先にあり、写真(印画面に焼き付けられた像)があとです。つぎは、言葉を見てみましょう。日本語で、「写真」と「写真機」、はどちらが先でしょうか? これは、どうしても「写真」が先で「写真機」があとと考えたくなります。しかし、江戸時代、蘭学を通して日本に入ったカメラ・オブスクラ(オランダ語のdonkerkamerをドンクルカームルと称した)は「写真鏡」として訳され、写真術が到来するまで使われています。つまり、「写真鏡」の「写真」は、名詞としてすでにあったものではなく、真を写す鏡という繋がりで鏡にかかっています。形容詞的に使われていると言えると思います。
「写真」というフレイズそのものは、中国の古典にある時期から用例があったようですが、それが、今の「写真」(picture)を指すことはありえません。カメラで撮影されたpicture がそもそもまだありませんから、当然です。
オランダ語がわかった人は、ドンクルカームルを暗室写真鏡と訳することもあったよです。それを『蘭学事始』の現代語訳者は、暗室写真機としています。ひとつの苦肉の策です。Camera Obscura の原義は暗室、用途は写真機、ということで、ひとつの言葉としたものです。
日本では、Camera Obscuraは、真を写すもの(装置)という範疇で受け入れられたと言ってよいでしょう。写真史の偏見を完全に助長し、強化するものです。」ここの「写真」は現在の「写実」とほぼ同じ言葉だと見ておいてよいようです。英語に訳すと、realism です。
日本にCamera Obscuraが到来した日付。(美術出版社、1997)p.58では、1645年9月には到来していたとあります。装置として Camera Obscura と呼ばれるものは、箱形の portable Camera Obscura です。ヨーロッパでの確認されている初出は、1620年のドレベル(証人は、ホイヘンス父)です。市中にでまわって比較的すぐに日本にも届いたことになります。ただし、すぐに日本で使われたとは言えないようです。ちなみにそのときの名称は、暗室鏡。
次には地下の2層で、『日本洋学史の研究』を探しました。全部で3つの巻が入っていました。必要な第7巻はそのなかにありました。
上の階に行って、次の論文のコピーを取りました。
菅野陽「『厚生新編』の画法・顔料その他をめぐって―画法・顔料ならびに引用書『ケレルキ』と『ショメール』のフランス語原本について」『日本洋学史の研究7』(創元社、1985): 147-178
次に、辞典類で、写真と写真鏡を調べました。
驚いたことに、『日本語源大辞典』には「写真」の項がありません。『日本語源広辞典 増補版』には次のようにあります。「中国語の「真を写したもの」が語源です。英語Photograph の訳語として使用することが多い語です。」写真機は次。「語源はオランダ語 donkere-kamer(暗箱)」です。江戸期の訳語は写真鏡です。これを明治期に写真機と改訳しました。写真機の語の一般化は二十世紀です。カメラは、「ラテン語の camera(部屋)obscura(暗い)」で、江戸後期の訳語ですが、カメラの語が一般化したのは、二十世紀後半です。」
もっとも大きい辞典は、小学館『日本国語大辞典』です。もちろん、『日本語源広辞典 増補版』よりずっとましです。しかし、出典に年号が付されていません。と思って、棚の前後を見ると、『日本国語大辞典 第二版』というのがあります。おお、こちらは、年号が付されています。私のような声が多く、第二版で年号を取り入れたのだと思われます。OED と比べると見劣りはしますが、たぶん、これが日本語学の水準だと思います。ともかく、これからはじめるしかありません。
『日本国語大辞典 第二版』の「写真」は、私がまとめなおすと次のようになります。1)写生、写実。2)写真術またはその画像。3)動詞として2)の意味での写真を撮ること、うつすこと、4)活動写真の略語。
語誌として、(1)「伊京集」に「写真肖像已上二ツハ御影」と記されているように本来は神仏や貴人などを描いた絵を指していた。江戸時代後期に、西洋の画法が蘭学者によって紹介されてからは、ありのままに描くという技法すなわち「写生」の意味でも、またその技法で描かれた絵を指すこともあった。(2)江戸時代末期にありのままの姿が機械によって写された画像が舶来し、英語の photographの訳語として「写真」がこれに転用された。当初は「写真の絵」とか「写真絵」ということもあったが、次第に写真に統一され、意味もカメラによって撮影された画像を表わすことに固定された。
これは、こういうことでしょう。『日本国語大辞典 第二版』の「写真鏡」は、次のようです。「1)レンズを通して結ばせた像を磨りガラスなどに映させるようにした暗箱。古くは天体観測や絵を描くために用いられた。2)写真機に同じ。この意味での初出として1860年出版の渡米日誌を挙げている。
蘭説弁惑(1799)下「箱のうちに硝子の鏡を仕かけ、山水人物をうつし画ける器。此方にて写真鏡と呼べるものあり」
和蘭通舶(1805)一「画を作るの器あり、名て写真鏡と云、和蘭これを『ドンクルカーモル』と呼ぶ」
オランダからカメラが渡来した直後の1850年頃には、「真写影鏡」、「撮影鏡器」などの呼称も使われた。明治直前に「写真鏡」が一般的になり、その後19世紀末には「撮影機」「写真機」「カメラ」などの用例も見られるようになる。『遠西奇器述(えんせいききじゅつ)』嘉永7年(1854)刊、川本幸民口述、田中綱紀筆記。オランダ人ファン=デル=ベルグ(P. van der Burg)のEerste Grondtbeginselen der Natuurkunde(1844-47)に基づき、川本幸民が行った講義の余話を弟子の田中綱紀が筆記したもの。写真鏡は、「直写影鏡」として言及されている。
『遠鏡製造(えんきょうせいぞう)』全4丁。望遠鏡のわが国への初渡来は、、慶長18年(1613)のことだそうです。イギリスの東インド会社のジョン・セーリスが徳川家康に献じたそうです。1613年であれば、ガリレオの『星界の報告』(1610) の3年後です。
『厚生新編』「暗室中に其外面の景象を写し入れて真影を現せしむる器」
羅*「カメラ・オブスキユラ」
和蘭「ドンクルーカーメル」と名く
按に暗《室》の義、此方往々擬製するものあり。
此法は昼日一箇の室中に於て尽く其戸口を密閉し、其一戸中に一
円小孔を*開し、其孔より太陽の光景を摂入せしむ。 これよりして
其外面にある所の、物象の正しく相対する物影を室中に程よく
隔て置る白壁、或いは白紙に写り、しかもその物象の真形に天然の色
を加へて現す。 此法によりて能く其象をして全く現出するなり。
これを為す乙と晴天の日ほど、愈々物類益々鮮明に写るものな
り。 但其写影倒置し左右相反する也。其倒影を正しく本《形》に写
らしむるには、其孔口に眼鏡を張るときは正形となるなり。
何れの処へも随意に携へ行べき様に器に作る 「ドンクル・カーム
ル」 あり。大小適意に製造すべし。 此器は星学家用ひて以て太陽
の 暗 黒 斑 を精細に*察推考して測量するが為に用るなり。
又此携ひ行くに便にしたるの此器は、画家及其余画術の好事家等
各地の勝景を写真し、殊に各土の国地等を精密に画き、己が画術
の芸能を全熟し成し得んとするが為に、 緊要とする事なり。
(杉本つとむ『江戸時代西洋百科事典:『厚生新編』の研究』雄山閣出版、1998、384頁)→この箇所は、ノエル・ショメール原著、馬場貞由ほか訳『厚生新編』(厚生新編刊行会、1937)326頁にあります。もとの『厚生新編』だと第25巻の最後に掲載されています。)杉本つとむ『語源海』(東京書籍、2005)328-9頁。
「写真機 江戸期は〈写真鏡〉。明治期にはいって〈写真機〉。写真をとるための機器。暗箱、レンズ、 シャッターなどよりなる。[中]照像機。 camera.
真を写すの意の〈写真〉と オ ラ ンダ語で暗室の意の ドンケルカムール(donkere kamer) からの訳語。 すなわち、写真→写真鏡→写真機と成立。〈写真鏡〉 の鏡は当時舶載の〈遠眼鏡(望遠鏡)・顕微鏡〉など、レンズと鏡などを用いる共通点から理解しての意訳。」
→と杉本さんは記されますが、「写真→写真鏡→写真機」はとてもミスリーディングだと思います。意味をとれば、「写真(写生・写実)→写真鏡(カメラ・オブスクラ)→写真機(カメラ)」です。つまり、繋がりがありません。あるいは、正確に言えば、「写真(フォト)→写真鏡(現在日本語に対応するものなし)→写真機(カメラ)」という現在日本語での表記が示しているものとは、まったく違う繋がりを示しています。
むしろ、ここは、「写真鏡(カメラ・オブスクラ)→写真機(カメラ)→写真(フォト)」とすべきだと考えます。
→もとにもどって。
「〈 写 真〉 は古典中国語 (顔氏家訓)。 日本で借用し、 絵師が公卿や武将の肖像を えがく場合に限定的に用いた。16世紀成立の『節用集』 に、〈写真肖像ニハ御影也〉 とみえる。肖像= 写真は一般的理解。これを〈写真鏡〉では風景など広い範囲をもさして用いた。 さらに原理的に類似する 〈写真鏡〉 を採択して新しく紹介された〈写真機〉に用いた。写真機も初期は主として人物を写したのであ る。写 真術については江戸末期、柳河春三の翻訳書 『写真鏡図説』などにより詳しく説明さ れている。すなわち同書は、 L.J.M.ダゲール Daguerre の発明した銀の感光性を利用したコロジオン湿板法を紹介、現像法、感光材の調合などを解説。翻訳にあたり内容、用法な どで写真鏡と写真機とは異な るところ 一一写真鏡は写すのみであるが 、写真機はそ の像を印刷のように焼きつける点で異なるが、原理的には同一構造の機械ーーを認識、 理解していた。一般に翻訳は既成の語や類似の点を活用するのが一つの方法。しかし、 明治期にはいって〈写真機〉と改訳。明治 44年ごろでも、(camera) を 〈暗箱〉などと対訳していて、 オランダ語による中心的理解は20世紀までつづく。なお、カメラの語は同じ く江戸期にオランダ語に対訳の ラ テン語、 〈カメ ラ オプスキュ ラ (camera obscura) 〉(厚生新編) と してみえる これも暗室の意)。 日本でのカメラの初出はこれであ る。 カメラの語自体は、〈円天井の地下室、納骨所〉などの意。暗い部屋のイ メ ージにもどこか通じ るであろう。」
ここ2〜3日の間にダウンロードして読んでいた論文の書誌です。
板垣俊一「江戸時代の覗き眼鏡 : 江戸時代における西洋製光学器具の受容」『新潟の生活文化』17(2011), 9-24
板垣俊一「遠近法絵画と覗き見の装置 : 現実の風景はどのようにして絵になったのか」『国際地域研究論集』 2(2011), 157-175
板垣俊一「中国の<のぞきからくり> : 拉洋片(ラーヤンビェン)」『県立新潟女子短期大学研究紀要』45(2008), 389-407
ヴォルフガング・ミヒェル「会長講演 :江戸初期の光学製品輸入について」『洋学 : 洋学史学会研究年報』12 (2003), 119-164
高橋則英「上野彦馬と初期写真家の撮影術」『古写真研究』3(2009): 17-20
高橋則英「日本の近代化を記録した写真」『日本写真学会誌』65(2002): 111-117
駒場では、1号館のあと、図書館に入り、次の本を借りました。
板垣俊一『江戸期視覚文化の創造と歴史的展開:覗き眼鏡とのぞきからくり』三弥井書店、2012
(これは、板垣俊一さんの多くの論文をもとにまとめられた著作でした。探しましたが、どこにも初出が書かれていません。初出は、しっかりと記載されるべきだと思います。)
→序に必要な事柄が記されています。
「レンズを使ったさまざまな器具を江戸時代には「眼鏡細工」といった。凹レンズを使った近眼眼鏡、また凸レンズを使った遠眼鏡に限らず、望遠鏡、虫眼鏡(顕微鏡)、写真鏡などはみな眼鏡細工であった。・・・それらとは逆に、現実を写し取った絵画をわざわざ覗くための眼鏡細工があった。これを「覗き眼鏡」といい、その用途のための特別な絵を「眼鏡絵」といった。
別に、絵を箱の中に入れてレンズ越しにしか見えないようにした覗き眼鏡があった。」
著者はこれを「のぞきからくり」と名づけ、「覗き眼鏡」とははっきりと区別すべきだと主張されています。
ひとつには、見せるネタが違う。「のぞきからくり」の代表的ネタは「地獄極楽」でったのに対し、「覗き眼鏡」のネタは、人間の住むこの世の都市であり建物であり風景であった。
「覗き眼鏡」は計測され設計される風景を覗き見る装置であり、「のぞきからくり」は箱の中の劇場を覗き見る装置であった。
それから、『厚生新編』を確認しました。
1階まで下り、図書館へ。ILL で届いている次のコピーを受け取りました。
中川邦昭「写真鏡(カメラ・オブスキュラ)の変遷」『民族藝術』13(1997): 112-119
中川さんの大きな功績は、これまで博物館等において「反射式覗き眼鏡」として分類されていた機器の一部がもともと「写真鏡」であったことを発見したことです。現実にもと「写真鏡」が「反射式覗き眼鏡」として転用されていた事例も見いだされています。
つまり装置として日本では見失われていた「写真鏡」を「写真鏡」として再発見した功績は、誰よりも、中川さんに帰されるべきものです。この仕事はとても大きい。
帰宅すると、次の本が届いていました。
中川邦昭『カメラ・ギャラリー―写真鏡の伝来からオートフォーカスまでの350年 』美術出版社、1991
中川さんの個人コレクションを本にしたものです。このコレクションは素晴らしい。よくぞここまで集めたものです。
写真術発明前後のカメラを数多く収集されています。収集するつもりはありませんが、私が欲しいと思うものを中川さんは集められています。
→全部ではありませんが、文章が中心の部分は読み通しました。中川さんは重要な仕事をされています。もうすこし顕彰されてもよいのではと思います。
p. 146 司馬江漢『和蘭通舶』(1805)「画法は支那日本の方と異にして、容易に作ることあたわず、故知ごとくその真を模し、筆法筆勢にかかわらず、濃淡をもって凸凹遠近をなしものなり。絵を作るの器あり、名を写真鏡という.和蘭これをドンケルカーモルと呼ぶ」
司馬江漢『春波楼筆記』(1811頃)「画の妙とする処は、見ざるものを直に見る事にて、画はそのものを真に写さざれば,画の妙用とする処なし。富士山は他国になき山なり。これを見んとするに画にあらざれば、見る事能わず。然りといへども、ただ筆意筆法のみにて冨士に似ざれば、画の妙とする事なし。之を写真するの法は蘭画なり。蘭画というは、吾日本唐画の如く、筆法、筆意、筆勢という事なし。ただそのものを真に写し、山水はその地を踏むが如くする法にて、写真眼鏡という器有り、之をもって万物を写す、故にかって不見物を描く法なし。」・・また、江漢は、写真鏡を制作している。(註.4)
6 複写する写真鏡
「『ヨンストンス動物図譜』は平賀源内が西洋画の手本にし、また小野田直武もライオンズを手本に左右逆の虚像の「ライオン図」を残している。司馬江漢も同じ様に、張交画中『ヨンストンス動物図譜』からとった象の図を描いている。これも写真鏡の複写機能をうまく利用している。」
p. 147 むすび
「写真鏡が日本の近世洋風絵画に与えた影響は非常に大きい。」ヨーロッパにおいては「写真鏡が生み出す視覚、すなわち「写真視覚」は」「日常的な視覚の一部としてとらえられてきた。絵画にもその影響は見られるが、ヨーロッパ人にとっては、突然絵画に取り入れられたものでは」なかった。
「一方、日本においては桃山時代に発達した初期洋風画は」消滅し、発達しなかった。「18世紀に入ると享保5年(1720)の洋書輸入の解禁以降蘭書を通じて一部の知識人が徐々に外国への関心を深め、18世紀中頃に流行したと考えられる写真鏡の器械的な技法の導入によって、日本の絵画の中に、突然に線遠近法だけが現れ、左右逆の虚像や、空の占める割合が多い独特の画風を形成していった。また、平賀源内が初めて使用したように、写真鏡は西洋の絵を複写する道具としても発展していったのである」
「最後に、写真鏡が現在日本に2つしか発見されていないのは残念である。」
p.148 「使命を終えた写真鏡は、当時の人々には流行している写真のカメラと比べても、レンズと鏡だけの見劣りする粗末なものとして映ったであろうし、大変壊れ易い性質のものであった。」
「日本近世洋風絵画の起源であり、日本のリアリズムの原点をなした写真鏡は、渡来後約200年の間にその役割を果たして、いつの日か日本の歴史から消滅していった。」
これがこの著作の結びの文章です。2014年10月15日に読んだ、次の論文を電車のなかで読み直しました。
Koen Vermier, "The magic of the magic lantern (1660-1700): on analogical demonstration and the visualization of the invisible," BJHS, 38(2005): 127-159
間に合っていませんが、マジック・ランタンについてもきちんと情報を整理しておく必要があります。
→基本事典を引いてみます。『科学大博物館』p.228
「幻灯機」(Magic Lantern)
なんか、アメリカのことばかり書いています。ありといえば、ありですが、なんだかな。
先に進む前に、英語での写真関係の言葉を OED で確認しておきます"photography": 初出は、フランス語の "photographie"(1834) (ドイツ語では"Fotographie"(1843) )から、1839年の用法を1番にあげています。エジンバラの雑誌では「ダゲールの写真術についてのノート」というタイトルがあらわれています。
ついでハーシェルが『哲学紀要』(1302, 1840)に「写真術を絵や版画の複写に用いること、また光学像の定着に使うこと」という記事を書いています。
これをみると、1839年以降、"photography" はすぐに英語として定着したと言えるでしょう。写真(写された像の意味)という意味での "photo" は、ドイツ語の"Foto" (or "Photo")が早く、1859年。英語としては、1860年、1861年の用法をあげています。こちらも比較的早く使われるようになったようです。
そして、問題は、カメラ。
1.a. 教皇庁会計院:この用法では、1566年、1599年から用法を拾っています。
1.b. 判事の部屋:1658年、1689年、1712年、1778年の用法をあげています。
2. 丸天井の部屋。一般的に部屋。1633, 1708, 1775, 1832, //の用法をあげています。
3. 装置の小部屋 a chamber of cavity in a mechanism, 1664, 1683, 1721, 1796//の用法をあげています。
4. a. camera obscura の省略形。1734, 1760, 1816, 1878 の用例をあげています。
4. b. 写真機の意味での camera. 1840, 1859, 1889, ・・・。広がりはわかりませんが、写真術、写真機があらわれると、すぐに、写真を撮る装置をカメラと呼ぶ習慣が生じたと言えるようです。
4. a. と 4.b. は写真術の発明のあとは、見分けるのが難しいケースがあると思われます。しかし、社会的広がりという点では、日本語でいう「カメラ」の方が圧倒的だったので、すぐに、4. b. がドミナントになったであろうことは、容易に推測されます。
帰宅すると、息子が熱を出して早退していました。そして、次の本が届いていました。
横地清 『遠近法で見る浮世絵:政信・応挙から江漢・広重まで』三省堂、1995
横地清さんは、数学教育家、数学文化史家です。日本の初期の遠近法絵画は、中国の年画に学んでいます。中国の遠近法絵画に触れたことが、横地さんにこの分野の研究に進ませたようです。
研究室で作業しているとき、ふと机の上を見ると、『日本産業技術史事典』がありました。日本のことは、これで調べてみる価値があります。目次を見ると、1点だけ関係する部分がありました。「カメラ」の項目です。 pp. 381-2
最初の段落には、次のようにありました。
日本で最初のカメラ、1903年、小西本店(現コニカミノルタ)から発売された「チェリー式手提暗函」であった。フィルムではなく、乾板を利用。レンズやシャッターは輸入であった。
日本製のカメラの第1号は「手提暗函」でした。portable camara obscura の由緒正しき子孫です。今であれば、子ども用のおもちゃという位置付けになると思います。手の平サイズのちいちゃなカメラでした。
チェリー1号は、幅7.2センチ、奥行き12.1センチ、高さ12.5センチです。
ちなみに、チェリー1号、チェリー2号は名刺判、チェリー3号は手札判です。
英語では、"The Midget" (ユスリカ、こびと;転じて超小型のもの)と呼ばれるようです。説明には、"miniature box camera" とあります。日本では、これをそのままカタカナにして、「ミゼット」と言ったようです。1937年に「ミゼット」の名前で豆カメラが発売されています。
(日本語では、ミゼットという言葉は、あの車に結びついて記憶されていると思います。「ミゼット」でカメラを思い出す方は、相当のカメラファンだと言えるのではないでしょうか。)
文献としては、次があがっています。
日本写真機工業会 『日本カメラ工業史:日本写真工業会30年の歩み』1987
日本写真機工業会 『戦後日本カメラ発展史』東興社、1971
小倉磐夫 『国産カメラ開発物語』朝日新聞社、2001
帰宅すると次の本が届いていました。
小倉磐夫 『国産カメラ開発物語:カメラ大国を築いた技術者たち』 朝日選書、2001
NHK の「プロジェクトX 」のような内容の本でした。私の欲しかったものとは違いますが、それはそれで、仕方ありません。 「プロジェクトX 」タイプのカメラ開発史が必要になったときに、きちんと読めばよいことです。
駒場に着いて30分の時間の余裕があります。図書館の地下に降りて、次の論文のコピーをとりました。
額賀淑郎「科学論における視覚表象論の役割:視覚知・視覚化の学説研究」『年報科学・技術・社会 』11(2002), 91-115
橋本さんによれば、橋本さん以前、日本語の先行研究はこれだけだそうです。コピーをとり、雑誌をもとの場所に戻して、すぐに教室に向かいました。私には暑いぐらいに暖房
ちびどもが起きてくる前に、昨日コピーをとった次の論文を読みました。
額賀淑郎「科学論における視覚表象論の役割:視覚知・視覚化の学説研究」『年報科学・技術・社会 』11(2002), 91-115
これは、力作論文です。1970年代以降の科学論の新しい動向における視覚知並びに視覚化に関する多くの研究成果を力業で整理してくれています。貴重なレビューだと言えます。
夕刻次の本が届きました。
限界研(飯田一史,海老原豊,佐々木友輔,竹本竜都,蔓葉信博,冨塚亮平,藤井義允,藤田直哉,宮本道人,渡邉大輔)
『ビジュアル・コミュニケーション:動画時代の文化批評』南雲堂、2015
まず、次の論考を読みました。
渡邉大輔「スタジオジブリから「満洲」へ――日本アニメーションの歴史的想像力」
日本アニメの満洲人脈は描かれていますが、「満洲」の思想にはほとんど触れられていません。着眼点はとてもよいと思いますが、思想の分析がないと、コネクションの存在の指摘にとどまると思われます。そうではあっても、正しい方向を向いていると思います。
朝一番で次のカタログが届きました。
サントリー美術館『のぞいてびっくり江戸絵画 −科学の眼、視覚のふしぎ−』サントリー美術館、2014
去年の春にこの名前で開かれたサントリー美術館の展覧会の図録です。文章を書いているのは、田中優子とタイモン・スクリーチ。
田中優子「江戸人たちの驚きの世界」
タイモン・スクリーチ「江戸の視覚革命再考:井上政重と海禁以降の視覚文化交流」
→三鷹駅構内で昼食を買ってから、10時半、武蔵境発の西武線。研究室ですこしデスクワーク。ああ、そうだと思い出して、スクリーチの『大江戸視覚革命』(田中優子・高山宏訳、作品社、1998)を本棚から探し出しました。今私の調べていることにフィットする本です。
ちょうどよいので、要町→永田町→半蔵門とたどって、半蔵門駅のすぐ近くにある「日本カメラ博物館」に行ってみることにしました。
入場料は300円。ちょうどイギリスカメラの特別展を開催中でした。私が見たかったのは、カメラ・オブスクラからカメラに変わっているときのもの。カメラから言えば、最初期のものを自分の目で確認しておきたかった。展示は、十分満足できるものでした。
奥の方に、覗き系もありました。自分の目で見ると、意外にも、本当に立体的にリアルに見えます。現在はすっかり忘れ去られた装置ですが、そして授業で示すのは難しい装置類ですが、これは、これで十分魅力的でした。
せっかくなので、ジルー・ダゲレオタイプ・カメラのミニチャーがあったので、『日本の歴史的カメラ[増補改訂版]』日本カメラ博物館、2004、といっしょに購入しました。あわせると結構重い。
→私の研究には、チェゼルデンが重要だとわかりました。
坂井さんの『図説 人体イメージの変遷――西洋と日本 古代ギリシャから現代まで』の92頁に次のようにあります。「18世紀の解剖図の代表はと問われれば、前述のチェセルデンによる『骨格図譜』と、アルビヌスの『人体骨格筋肉図』と答えるだろう。」
「チェセルデンは、骨格の図を描くにあたっては、1763年版の扉の絵に描かれているが、暗箱(カメラ・オブスクラ)を用いて実物を縮小投影し、実物を正確に模写して描いた。」
94頁には「アルビヌスも、チェセルデンと同様に骨格標本を縮小投影して、実物を正確に模写して解剖図を描いた。」
チェゼルデンの『骨学』(1733)の表紙に描かれたカメラ・オブスクラによる解剖図描写法。
アルビヌスの解剖学書のための絵師、Jan Wandelaar による、グリッドシステムをもちいた解剖図描写法。→16.5.26 風邪気味でしたが、研究室で次の2点を読みました。
Tim Huisman, "Squares and Diopters: The Drawing System of A Famous Anatomical Atlas," Tractrix, 4(1992): 1-11
アルビヌス『人体骨格筋肉図』(1747)の図版は、絵師、Jan Wandelaar によるが、解剖学図のハイライトであるだけでなく、18世紀オランダのグラフィックアートのもっとも印象深い作品だと評価されている。絵師、Jan Wandelaarが具体的にどう描いたかに関しては、ヘンドリク・プントの博士論文『バーナード・ジークフリート・アルビヌス(1697-1770)による人間本性について:18世紀ライデンにおける解剖学的生理学的思想 』(英語、1983)が基本的な仕事をしたが、描写法の再構成に不十分な点がある。その点を補い、修正した。
まとめるとこのような感じになります。とても良い論文です。
このやり方は、今のことばでは、手と目によるスキャンと言ってよいと思われます。
Monique Kornell, "Accuracy and Elegance in Cheselden's Osteographia (1733),"
非常にわかりやすい記述です。
4限終了後、ちょうどいらした和田先生に次の発表の時間を伺いました。
2016年7月26日(火曜日)山口科研発表「カメラ・オブスクラ:東と西 ; Camera Obscura in Japan」
発表30分、質疑応答15分を目処に、ということでした。30分なら多くを詰め込むことはできません。
→発表のために、英語のものも見てます。Timon Screech の研究は、素晴らしいものです。
次の論文もあることに気づきました。
Takesi Ozawa, "The history of early photography in Japan," History of Photography, Volume 5, Issue 4, 1981,pp. 285-303
アブストラクトには次のようにあります。
The history of photography in Japan really began in 1848, with the introduction of the daguerreotype by European traders. The camera obscura, also known as the donkere camera, had been imported at a much earlier date. Its application, by the limited number of scholars studying Western science at that time, was limited to the hand-tracing of reflected images. The use of light-sensitive materials to record images had not yet been considered.
これ自体は、その通りです。
帰り着くと、次の本が届いていました。
岡泰正『めがね絵新考―浮世絵師たちがのぞいた西洋』筑摩書房、1992
この著作を、OKa Yasumasa, A New Evaluation of Perspective Pictures for Camera Obscura: The West as Seen by Ukiyoe Atrists, Tokyo: Keiso Shobo, 1992 と英訳しているものがありました。出版社名も間違いですが、めがね絵を Perspective Pictures for Camera Obscura とするのも間違いです。
ただしくは、Perspective Views for Optical Diagonal Machine でしょう。
巻末に訳されている、C. J. カルデンバッハ「ヨーロッパにおける眼鏡絵(パースペクティブ・ヴューズ)についてpp.226-268 をまず読みました。これは裏付けのしっかりとした明快な論考です。安心して使える研究文献です。Print Quarterly, Vol. 2. No. 2 (1985) からとあります。
→C.J. Kaldenbach, "Perspective Views," Print Quarterly, Vol. 2. No. 2 (1985) : 87-105
これにはウェブ版がありました。原文があるのはちがいます。
→ 16.6.25 カルデンバッハの論文の注2は次です。
2. This term is that most commonly used in English; the machine was also often known as 'zograscope'. The term used in Dutch is optica, which is derived from the French optique. In Germany the machine is a Guckkasten and in ltaly it is the Camera Ottica. See also p. 90.
眼鏡絵を見る装置は、英語では一般的に"Optical Diagonal Machine"であったが、'zograscope'という名称が使われることもあった。オランダ語では、optica、フランス語では、optiqueと呼ばれた。ドイツ語では、Guckkasten(覗き箱)、イタリア語では、Camera Ottica(光学箱)と呼ばれた。
つまり、実物を知らないとわからないかなり紛らわしい名前と言えます。
注3は次です。
3. De Keyser (op. cit., pp. 143-44) claimed that no perspective Views were published before 1725, dismissing as copies (after existing prints) those views which A. Dubois had argued ('Les Vues d'Optique', Bulletin de la Societ?H 'Le vieux papier' XXII 1958/60) could be dated to the same year as the events they depicted (variously 1677, 1678 and 1687). Keyser also claimed (idem, p. 146) that Perspective views only began to decline in popularity as late as 1820.
簡単には、眼鏡絵は、西洋では1725年以降に出現し、1820年以降に衰退していったということです。約1世紀の命だったと言えます。
カルデンバッハの論文, p.238 おそらく、のぞき眼鏡的な装置のことを記述した最も早い例は、17世紀後半、一六七七年のJ.C.コールハンス(J.C. Kohlhans)によるものと思われる。彼は、のぞき眼鏡として使われたカメラ・オブスクラについて記述し、加えて、奥行きの錯視効果を得るためには、両眼で見ることの必要性を強調している。
コールハンスの説明のなかに、「カメラ・オブスクラにも利用できる発明である」という表現があります。
コールハンスの原文は、J.C. Kohlhans, Neu-erfundene Mathematische und Optische Curiositäten, Leipzig, 1677, cited by Elsner von Gronow, "Guckkasten und Guckkastenbilder," Orpho, 23(1932): 1-58
一七五三年に英国人S. パラット(S. Parrat)は、レンズはついているが鏡のない箱形のぞき眼鏡のことを述べている。(注10。図7,二六五頁)、眼鏡絵は、この器具の中にますぐ立つように、まず、固いガードで糊付けされなければならなかった。アムステルダム国立美術館にはこのための版画(眼鏡絵)が数多く所蔵されている。
p. 262 注10。S. Parrat, "Optic machine improved," The Gentleman's Magazine and Historical Chronicle, 23(1753): 171; S. Parrat, "How to view perspectives," The Gentleman's Magazine and Historical Chronicle, 1749, pp. 534-35→『解体新書』の絵師、小野田直武(1749-80)
平賀源内(1728-79)
司馬江漢(1747-1818)
円山応挙(1733-95)、遠近法の受容
歌川豊春(1735-1814)、遠近法を組み込んだ浮世絵版画。
ドンクル・カーメルは、pp.83-5
大学に到着後は、図書館によって、次の本を借りました。
西村智弘『日本芸術写真史』美学出版、2008
I 写実と写真のあいだ、で、日本の写真前史を扱っています。1 写真前史と遠近法、2 写真鏡(カメラ・オブスキュラ)、 3 西洋画論における写真、 4 営業写真家と西洋画
pp. 49- 50 で写真家の中川邦昭さんの『カメラ・オブスキュラの時代』をほぼ全否定されています。そこまで?(イッコウさんになって言ってもらうと気持ちが伝わると思います。)
→ 16.6.25 写真鏡(カメラ・オブスキュラ)と遠近法は一度切り離して考えた方がよいというのは、その通りだと思います。
→pp.43-36 「カメラ・オブスキュラの鑑賞」
「19世紀に入ると、カメラ・オブスキュラの原理で映した映像を見て楽しむことが大衆レベルで行われるようになっている。・・・
たとえば滝沢馬琴は、旅日記の『*旅漫録』(1803)のなかで、カメラ・オブスキュラの映像を見た体験を記している。馬琴は、縁側の戸に節穴のある納屋に案内され、紙製のスクリーンに映った逆さまの/p.44/映像を見たときの興奮を次のように書いている。
「予が見しときには、池に杜若あり。竹あり柳あり。・・雲の追追にあつまり、又ちりゆき。竹やなぎの風に戦ぎ池に漣たつなど。」
馬琴は、この経験がよっぽど印象深かったらしく、黄表紙『**珍紋図彙』(1803)にも歌川豊広の挿画で体験談を載せている。
葛飾北斎が『豊獄百景』のなかで、カメラ・オブスキュラの原理によって逆さまになった富士が障子に映る様子を描いたことも知られている。」
→ <mY>これは、装置としてのカメラ・オブスクラではありません。室内におけるピンホール現象です。装置としてのカメラ・オブスクラの利用に関して、直接何かを語る資料ではありません。
p.45 「少し時代がくだって、横浜絵を代表する浮世絵師の玉蘭斎(五雲亭)貞秀が『横浜開港見聞誌』第三編(1862)のなかで、カメラ・オブスキュラを覗いた体験を報告している。これは、外国人が絵を描くために使った装置で、鑑賞するためのものではないが、貞秀は好奇心から無目的に覗いているために、その映像のあり方を素直に伝えている。」
「異人、横浜の波止場より神奈川辺を写真鏡をもって是に景色を取り、其品は画図にあるを見て知るべし。此箱は大小ありて、小成は景色微細なり。大の方は大に広くうつる。此箱のびいどろにうつる景を、分明にせんと大ぶろしきのごとき布を頭上より冠りて、其内に箱もまとい入れて見るに、箱の口より日光さし入り景色のびいどろあかるくなりて、山水、草木、人物みな其色を変ぜず。人物又は帆かけ船なんどは見るが内に走りさり、鳥も飛去りて木の枝にとまれども又飛行きて、実に生る絵といふべし。」((6) 五雲亭貞秀『横浜開港見聞誌』、『日本近代思想大系17 美術』岩波書店、1989、p.341<元の誤植を直しています。すなわち、参照されている書物は、体系ではなく、大系です>。)
異人は、カメラ・オブスクラによって、景色を図に写し取るとあります。五雲亭貞秀には、カメラ・オブスクラによる景観図の作成は、異人(ヨーロッパ人)の習慣だと位置づけられています。
→<mY>早稲田の古典籍のデジタルライブラリーに実物がありました。写真鏡として絵が挙げられており、解説文がおよそ1頁分ついています。すぐに現物が確認できるのは、ほんとうにたすかります。
こちらは、図があるので、装置としてのカメラ・オブスクラに関する言及です。ヨーロッパにおける装置としてのカメラ・オブスクラの中心的利用法を繰り返しています。
→16.6.24 『横浜開港見聞誌』図版の写真鏡へのキャプション:「写真鏡 景色にても其利ハ是に同じ。初め筒口ビイドロより箱の中に向ふ上りにある板ビイドロへ逆しまに写して、箱の上ハ蓋の下に又ビイドロを張りて、是に又写し取りたるは如此なり。」
ここで、「景色にても」とあるのは、挿絵にはドレス姿の女性がうつっています。人物ではなくて、景色でも、という意味だと思われます。→ 16.6.25 なお、東京ディズニーシーのフォートレス・エクスプロレーションに、部屋型カメラ・オブスクラがあるということです。そこには、アルケミーラボラトリーもあるそうです。一度行ってみる必要があるようです。
磯崎康彦『江戸時代の蘭画と蘭書 : 近世日蘭比較美術史』上巻・下巻、ゆまに書房、2004-2005
『江戸科学古典叢書38 遠鏡図説 . 三才窺管 . 写真鏡図説』恒和出版、1983
『江戸科学古典叢書38』は、まず、解説だけ読みました。ここの写真鏡は、カメラ・オブスクラではなく、フォトグラフィーの技法書です。
柳川春三訳述 『写真鏡図説』慶応3(1867)年。ランダ人ホルマンの原書(1864年刊)やフランス人ダグロンの原書(1864年 刊)などを基にして著述した我が国初の写真技術入門書。
これまで、磯崎康彦さんという研究者を私は知りませんでしたが、江戸時代の蘭画と蘭書に関して、包括的に体系的に調査・研究されている方でした。会議の合間に次の論文をダウンロードし、読みました。
堀切実「近世における「風景」の発見 : 柄谷行人説を糺す」『日本文学』51(10)(2002): 1-10
柄谷行人が『日本近代文学の起源』(1980)で、日本における風景の発見は、明治20年代以降のことであったと主張したことに対する、文学作品からの反論です。これは、そうでしょう。合間の時間に、研究室に置いている同僚の書物が今回のテーマに関係することを思い出し、棚の間から探し出しました。
李孝徳『表象空間の近代:明治「日本」のメディア編成』新曜社、1996
書き込みがあり、読んだことは記憶がありますが、日付はありません。出版されて比較的にすぐに読んだように思われます。
第1部「風景」の変容―「空間の近代化」の第3章風景への視線―「風景画」の誕生で関係する問題を扱っています。第3章の1.近代的風景画の萌芽―「浮絵」の出現、2.風景の革新―「眼鏡絵」の出現、3.遠近法と洋風画、4.風景の世俗化。[遠近法の書物]
私の今の探究は、遠近法に関係します。(直接遠近法を扱っているわけではありません。)
私の手元ですぐに見つかる遠近法の書物を、出版年代順にまとめてみました。(まだまだありますが、とりあえず、手元で確認できるものです。)
黒田正巳『透視画―歴史と科学と芸術』美術出版社、1965 佐藤忠良・中村雄二郎・小山清男・若桑みどり・中原佑介・神吉敬三『遠近法の精神史―人間の眼は空間をどうとらえてきたか―』平凡社、1992
エルヴィン・パノフスキー『<象徴形式>としての遠近法』木田元監訳、哲学書房、1993
岸文和『江戸の遠近法:浮絵の視覚』勁草書房、1994
横地清『遠近法で見る浮世絵:政信・応挙から江漢・広重まで』三省堂、1995
辻茂『遠近法の誕生:ルネサンスの芸術家と科学』朝日新聞社、1995
辻茂『遠近法の発見』現代企画室、1996
佐藤康邦『絵画空間の哲学:思想史の中の遠近法』三元社、1997
小山清男『遠近法:絵画の奥行きを読む』朝日新聞社選書、1998
すぐに図書館に向かい、次の2点を受け取りました。
Takesi Ozawa, "The history of early photography in Japan," History of Photography,5(1981): 285-303
Michael Aaron Dennis, "Graphic Understanding: Instruments and Interpretation in Robert Hooke's Micrographia," Science in Context, 3(1989): 309-364
最初の小澤健志さんの英文論考ですが、前にサマリーと思われる部分を引用しています。今回、実物が届いて、確認したところ、前に掲げたのはサマリーではなく、論文の最初の部分だと判明しました。個人的には、サマリーだとして、その詳細が知りたいと思ったのですが、その部分はそれ以上は論じられていませんでした。まさに初期写真史の英文論文でした。もちろん、英語でのまとめとして役に立つのは間違いありません。
お昼過ぎに次の本が届きました。
今橋理子『江戸の花鳥画 博物学をめぐる文化とその表象』スカイドア、1995
これはすばらしい書物です。帯にある「今、ここに絵画と博物学の幸福な出会いが甦る―江戸時代美術史を組み替える画期的論考―」ということばがけっしておおげさとは言えない内実を備えています。
p. 96 「このように写生図が他者によって使用されたり、模写されるということは、現代では一種に剽窃であると一般的には受け取られてしまうことが多い。けれどもここで、改めて江戸時代初期からの写生図の歴史を眺めた時、このような模写や借用は決して特異なことではなく、きわめて伝統的な状況であったことが理解されるのである。」
p. 98 探幽の写生と縮図制作は、一様に「作画にとって基礎となるべき自然と古典への敬虔な志向を語る」(8)ものなのであり、彼の場合、縮図と写生とは分かちがたく、密接に結びついているのである。
p. 106 私たちは画家の残した写生図において、探幽から応挙へとつながる「写生画の系譜」という一つの大きな史的流れを眺めることができた。・・・。秋田蘭画派はまた純粋な絵画作品の写生図ではない写生画、すなわち「博物図譜」からの模写を行うなど、それまでの写生画にはなかった一面を有している。
p. 107 博物図譜が江戸中期に至って初めて成立した絵画分野であることを改めて認識するならば、「江戸時代写生画」という問題について総体的に論ずるとき、私たちはこの分野なしに語ることはできない。・・・写生図の「模写と継承」と状況が明らかに見いだされ、・・。
p. 124 写生とは、1)実物写生、2)模写(臨模)、3)トレーシング(透写)、4)同様の移動、の4種類があり、どれも写生と江戸の絵師は考えていた。
p.125 「「美術写生」にせよ「博物図譜」にせよ、個物を描く画家の意識の中では他人の写生図からの臨模や透写、そしてそれをそのまま自己の作品として使用してしまうことまでも、すべて実物写生と同等に捉えられていた。「写生」の意義は、写生図の継承において、江戸時代ではこのように多義的に使われていた。」
「現代において、写生図の模写や継承は一種の剽窃だと受け取られてしまう。」
p. 127 注(18) 「写生」が本来動植物を描く際に用いられる言葉であったことは言うまでもない。それに対し「写真」は人物を描く際のみに使用される言葉であった。日本ではいつの頃からか、これらの違いがなくなり、同一の言葉として用いられるようになっていった。・・・細川重賢の写生帖では「写生」と「生うつし」の言葉はまったく同様に使用されている。覗き眼鏡と写真鏡という装置そのものについて。
中川さんの本(『カメラ・オブスキュラの時代』)に戻って確認します。
p. 74 「これらと同じ形式の写真鏡<反射式覗き眼鏡。レンズと鏡を内蔵した箱を四本の足で支える。四本の足のまわりを黒い布で覆い、使う。>司馬江漢が「銅版画覗き眼鏡引札」(1784年発行)に反射式覗き眼鏡の一つとして図示したものである。江漢は、覗き眼鏡と写真鏡を取り違えて紹介したか、あるいは元来この形式のものは、覗き眼鏡と写真鏡の両方に兼用できたのかもしれない。当時の日本では、写真鏡を用いて絵を描く絵師の数は眼鏡絵を楽しむ人々に比べるとはるかに少なく、NPG所蔵の写真鏡と同様いつの間にか眼鏡絵が付属した反射式覗き眼鏡に流用されたと考える。」
p. 75 で示されている写真は、三番目の写真鏡(故渡辺伸一郎コレクション)、四番目の写真鏡(到道博物館所蔵)、です。いくらか開いた四本足があり、足の下に絵を置くものです。 →16.6.26 ここで、中川さんが「写真鏡」と呼んでいるのは、やはりすこし問題かもしれません。ただしく、覗き眼鏡というキャプションをつけるべきかと思われます。
一本足の典型的な反射式覗き眼鏡
p. 76 で示されている図版は、上がp.75 と同じ形態のカメラ・オブスキュラ(フランス百科全書絵引きより)、下が覗き眼鏡引札(司馬江漢1784年発行)です。
司馬江漢の引き札の方から言えば、右のものは、鏡とレンズだけで箱のない、足が一本の反射式覗き眼鏡"Optical Diagonal Machine"です。左のものは、p.75 の写真と同じく、足が四本の箱付きの反射式覗き眼鏡です。
上の図版は、百科全書絵引きからですが、カメラ・オブスクラではなく、形態から言って覗き眼鏡ではないかと思われます。百科全書が混同した可能性と中川さんが混同して示した可能性と両方を考えておく必要があります。
直視式覗き眼鏡の写真は、岡さんの本のp.102 にあります。とくに、3 京都製直視式のぞき眼鏡、伝応挙筆の眼鏡絵が付属する(神戸市立博物館蔵)、として示されているものは、外から箱だけみれば、写真鏡(カメラ・オブスクラ)とほとんど違いません。転用、流用、はたぶんあったでしょうし、混同されても仕方がない、と言えます。
のぞきからくりについては、坂井美香さんという研究者の方が取り組まれています。
坂井美香「近世覗きからくりは何を見せたか、その1 ―カラクリを覗く―」『年報非文字資料研究』8 (2012): 107-136
この論文をダウンロードし、読みました。以前も同じものをダウンロードしてストックしていました。
覗きからくりは、装置としては、覗き眼鏡と共通する部分がありますが、別方向に発展したものです。英語の peepshow や perspective box の、日本における展開系です。差違をきちんと押さえておきたいと思います。
他に次のものもダウンロードし、プリントアウトし、目を通しました。
坂井美香「明治初期,「西洋眼鏡(せいようめがね)」の盛衰 : 人はなぜ覗き,なぜ観るのか」『年報非文字資料研究』9 (2013): 93-118
坂井美香「 覗きからくり、「からくり」考」 『年報非文字資料研究』10 (2014): 409-438
坂井美香「覗きからくりとpeepshowの接点―西欧覗きからくり― (2008年度 奨励研究成果論文)」『年報非文字資料研究』6(2010): 221-248
バルザーの『ピープショー:一つの視覚の歴史』(1998, p.18)から、覗きからくりがルネサンス期の自然魔術の伝統にあること、カメラ・オブスクラがその応用品であること、カメラ・オブスクラと覗きからくりの原理が表裏一体であることを引き出しています。バルザーは「画家にとっての道具であるカメラ・オブスクラは、覗きからくりの本質的な部分、箱、レンズを利用した」と言っているようですが、俄には信じることができません。普通は、逆だと思います。
私がカメラ・オブスクラを調べたとき、そうしたことを伺わせる資料にはまったく出会っていません。まあ、しかし、そうした事例がまったくありえないとも言えません。バルザーの提示する証拠・資料を確認してみる必要があります。
昨夜、次の論文をダウンロードし、途中まで目を通して、時間切れになりました。
橋本寛子「司馬江漢の眼鏡絵と油彩風景画に見られる湾曲した海岸線について」『(神戸大学美術史研究室)美術史論集』第10号(2010): 67-102
著者の博士論文の一部だということです。
橋本寛子さんには他に次の論文がありました。
橋本(深見)寛子「司馬江漢の西洋画法における日本風景図について:《相州鎌倉七里浜図》を中心に」『海港都市研究』4(2009): 123-142
まず、読みかけになっていた、次の論文を読み通しました。プリントアウトし、ペンを2本もって、ずいぶん線を引き、ときに書き込みをしながら読みました。博士論文がもとになっているせいでしょうが、とてもよくできた論文です。主張は筋が通っていて、きちんと裏付けられていると思います。
橋本寛子「司馬江漢の眼鏡絵と油彩風景画に見られる湾曲した海岸線について」『(神戸大学美術史研究室)美術史論集』第10号(2010): 67-102
次には下のものも読みました。
橋本(深見)寛子「司馬江漢の西洋画法における日本風景図について:《相州鎌倉七里浜図》を中心に」『海港都市研究』4(2009): 123-142
帰宅すると、次の本が届いていました。
榊原 悟 『日本絵画の見方』 角川選書、2004
粉本に関してまとまった記述があるので、購入しました。模倣と偽物、贋作、等々、今とは違ったように位置づけられていた模写・臨写・複写の問題を正面から扱っています。ものすごく簡単にまとめると、ある時代までの絵画に「写生」(現実の風景や事物を見てそのまま描く)という概念はなく、絵師は描かれた絵によって、絵を学んでいました。コピーライトの発想もなく、オリジナリティの規範もありませんでした。
今回(7月26日)の発表ですが、もう一度基本文献を見直すことにしました。
司馬江漢の銅版画覗眼鏡引札
中川邦昭『カメラ・ギャラリー―写真鏡の伝来からオートフォーカスまでの350年 』美術出版社、1991
この本を丁寧に読み直しました。とくに、XV 「写真鏡と近世洋風絵画」の部分を子細に検討しました。中川さん本人が所蔵されている写真鏡の図版がpp.134-135 の見開きで印刷され、pp.135-136 には、解説文(中川邦昭「写真鏡(カメラ・オブスキュラ)の変遷」『民族藝術』13(1997): 112-119 に加筆修正したもの)を収めています。さらに pp.151-159 に年譜、p.159 に参考文献リストを掲載しています。
この巻末の解説文を吟味しました。
中川さんは、日本では、2台のカメラ・オブスクラの存在しか確認されていないと言います。2台とは、具体的にどれでしょう。
1台は、中川さん本人が所蔵されているものです。中川邦昭『カメラ・ギャラリー 』(美術出版社、1991)pp.134-135にその画像が掲載されています。
もう1台ですが、解説文の最後に次のようにあります。「最後に、写真鏡が現在日本に2つしか発見されていないのは残念である。第1章で紹介した写真鏡には、筆者が入手下折りには長崎系の古びた泥絵が5枚ついており、「活動眼鏡」と題されていた。次に携帯野外用写真鏡と紹介したものには、円山応挙筆「泰西都市眼鏡絵」と題して3枚に肉筆の眼鏡絵が付いていた。両者の写真鏡は、美術工芸的な価値を持っていたので、当時の覗き眼鏡と混同されて保存されてきたと思われる。(中川邦昭『カメラ・ギャラリー 』p.147)
これは、中川さんがp.140 で紹介されているものです。「これまで、前述した現存する写真鏡以外は日本で発見されていないが、神戸市立博物館の「眼鏡絵を東海道五十三次展」(1984)の出典の中で、神戸市立博物館所蔵の反射式覗き眼鏡と紹介されているものが、当時ヨーロッパで流行したカメラ・オブスキュラを日本でまねて作った携帯野外用写真鏡<XV-20>と思われる。」
中川さんは、「神戸市立博物館所蔵の反射式覗き眼鏡」を日本製の「携帯野外用写真鏡」と推測されています。そして、これを日本に残存する2つめのカメラ・オブスクラと言っています。この推測/断定には、無理があります。「神戸市立博物館所蔵の反射式覗き眼鏡」は、眼鏡絵が付いていることもそのひとつの印ですが、まさに、「反射式覗き眼鏡」です。中川さんの推測とは逆に、これをカメラ・オブスクラとして用いることはできるかもしれませんが、像は、眼鏡を置く場所、すなわち、台の下に写ります。台の下に写った画像を見ることはできますが、トレースすることはできません。
「複写する写真鏡」を発見されたのは、中川さんの貢献ですが、しかし、「反射式覗き眼鏡」を写真鏡と同定することで、写真鏡の使用をあまりに広く取りすぎています。
遠近法的な絵画(とくに風景画)があったとして、それは、必ずしも写真鏡の使用を意味しません。写真鏡を使用すると、簡単に、遠近法的に正確な風景画を描く(トレースする)ことはできますが、写真鏡なしに遠近法絵画を描くことはできます。
ここは、中川さんの勇み足を指摘しなければなりません。
ただし、司馬江漢は、明らかに写真鏡を使用しているので、どこでどのように使用したのかを探ることに意味はあります。p. 136 はじめの部分で次のように中川さんは述べます。「写真鏡が日本においてこれまで発見されなかったため、これに関しての研究は殆どなく、その存在すら認められてこなかった。
・・・
写真鏡は、それまで日本人にはなじみがなく、日本の絵画に現れなかった西洋画の線遠近法の導入を用意にした。近世洋風絵画はもちろん、それ以前の線遠近法を強調した浮絵や眼鏡絵にも写真鏡の影響が示唆される。・・・また、最も早く眼鏡絵を描いたといわれる円山応挙も、写真鏡を十分活用したことを示唆するように、映画手法をしてレンズや鏡を利用している。」ほぼ確実に写真鏡/カメラ・オブスクラの図と言えるもの。
p. 147 に大すみや源助(江戸浅草の唐物屋)の引札<XV-53>
これは大隅源助の引札、江戸末期のものにも、明治初期のものにも掲載されています。形態から言って、写真鏡/カメラ・オブスクラの図といって間違いないでしょう。万延元年(1860)の一川芳員作「外国写真鏡の図」<XV-54>
<XV-57>のキャプションには、「異人図絵には写真機が写真鏡と混同して紹介されている」とありますが、現実に19世紀後半写真機/photographic camera が日本に入ってくると、写真鏡という言葉は、写真機に用いられることがあった。
柳川春三訳述 『写真鏡図説』慶応3(1867)年は、カメラ・オブスクラではなく、今の写真術・写真機/photographic cameraの解説です。言葉がこういうふうに用いられることがあるのは、よくあることです。
ですから、ここは、混同ではなく、言葉の用法の変化です。
次の見直しは、 岡泰正『めがね絵新考―浮世絵師たちがのぞいた西洋』(筑摩書房、1992)から、巻末の C. J. カルデンバッハ「ヨーロッパにおける眼鏡絵(パースペクティブ・ヴューズ)について」です。 原著は、C.J. Kaldenbach, "Perspective Views," Print Quarterly, Vol. 2. No. 2 (1985) : 87-105.
疑問点は、直視型覗き眼鏡は、英語でどう表現するのか、具体的にはどういうものが挙げられているのかでした。
ほぼ予想したことですが、直視型覗き眼鏡は、ほとんど取りあげられていませんでした。箱形にカルデンバッハが直接触れるのは、以前にも引用した一六七七年のJ.C.コールハンスによる「のぞき眼鏡として使われたカメラ・オブスクラ」の部分だけです。
ただし、ドイツの語名称Guckkasten(覗き箱)が以前から気になったので、此を調べてみました。ものすごく簡単に言えば、覗き箱は覗き箱でした。 "Optical Diagonal Machine " はなくはありませんでしたが、ほとんど箱でした。つまり、直視型覗き眼鏡でした。カルデンバッハは、英語では"Optical Diagonal Machine "、ドイツ語では"Guckkasten" と表現していますが、実は分けた方がよいかもしれません。すくなくとも分けることはできます。
C. J. カルデンバッハ「ヨーロッパにおける眼鏡絵(パースペクティブ・ヴューズ)について」 詳細検討の続き。イタリア語では、camera otticheと言うとあります。直訳すれば、光学チェンバー(光学箱)。覗き眼鏡を指すこともあるかもしれませんが、やはり、もうすこし広く使われた用語だと見ておく必要があると思います。カメラ・オブスクラと類似の構造をもつ、光学原理による箱には広く、この語を使うことができるようです。フランス語。絵は、vue d'optique, vue perspective、装置は、optique, boite d'optique。こちらは、テクニカルタームとしてきちんと成立しているようです。眼鏡絵のサンプル、実際の装置を使った見え方に関する資料が数多く見つかります。
展覧会の図譜です。神戸市立博物館『眼鏡絵と東海道五拾三次展』神戸市立博物館、1984
pp.84-89 に岡泰正「眼鏡絵から広重の風景版画まで」
pp.90-94 にEd.ド・ケーゼル(坂本満訳)「眼鏡絵―民衆版画の知られざる領域(抄)」
が収められています。
ゲラは雑誌の第3号。コクヨのカメラ・オブスクラ組立セット2箱も来ていました。
成瀬不二男『司馬江漢 生涯と画業―本文篇』八坂書房、1995
成瀬不二男『司馬江漢 生涯と画業―作品篇』八坂書房、1995
やっと次のものを読むことができました。
岡泰正「眼鏡絵から広重の風景版画まで」神戸市立博物館『眼鏡絵と東海道五拾三次展』(神戸市立博物館、1984), pp.84-89
Ed.ド・ケーゼル(坂本満訳)「眼鏡絵―民衆版画の知られざる領域(抄)」神戸市立博物館『眼鏡絵と東海道五拾三次展』(神戸市立博物館、1984), pp.90-94
記述の通りかどうかはわかりませんが、この分野の基本文献であることには違いありません。
Ed.ド・ケーゼルの論文には、原語での表示がありません。訳者の方は次のように記しています。「ここに翻訳したEd.ド・ケーゼル氏の論文("La Vieux Papier" 1962 所収) は、彼自身冒頭で述べる通り、眼鏡絵という比較的知られた版画の領域が、意外なほど研究されていない、その欠を補うもので、他に求め難い貴重な研究の一つといえる。これまで数回、私はパリの国立国会図書館で眼鏡絵の研究書を探したが、片々たる素人愛好家のメモ程度のものしか見いだせなかったところに、この文献の存在を教えられた。」
古い時代、原語表示を見いだすのは相当大変でしたが、今はネットで少し工夫を凝らした検索をかければ、何とかなります。著者は、Édouard De Keyser でした。本はワールドキャットの表記によれば次となります。
Edouard de Keyser, Les vues d'optique; un domaine méconnu de l'imagerie: Paris, Augsbourg, Bassano, Londres, Paris, "Le Vieux Papier", 1962.
日本の図書館にはこの資料を所蔵するところはないようです。『眼鏡絵と東海道五拾三次展』巻末に文献表があります。それにより、次の論文があることがわかりました。
J.A. Chaldecott, "The zograscope or optical diagonal machine," Annals of Science, 9(1953): 315-322別途ネットで検索をかけていて次の論文がヒットしました。
Jan Koenderink, Maaten Wijntjes, Andrea van Doorn, "Zograscopic viewing ," i-Perception, 4(2013): 192-206
視覚理論の論文です。巻末の文献には、次のものもありました。
R. F. Johnson, "A Machine for Viewing Prints," Country Life, CXXV(1959): 252ネットに次の論文が見つかりました。
Erin C. Blake. “Zograscopes, Virtual Reality, and the Mapping of Polite Society in Eighteenth-Century England.” New Media, 1740−1915. Edited by Lisa Gitelman and Geoffrey Pingree. Cambridge: MIT Press, 2003, pp. 1−29.
学会にでかけるとき、1冊だけカバンに詰めていました。次です。6月末に入手したものです。
榊原悟『日本絵画の見方』 角川選書、2004
早めに出かけたので、東京駅で時間がありました。コーヒーショップに入り、第12章「粉本のこと」を読み切ることができました。残りはパラパラと繰っただけです。はっきりと歴史的には絵を描くことの違う習慣があった、と言い切った方がよかったと思います。半分までは現代の美術的価値観に拘束されています。ただし、この記述から、「粉本」とはどういうものであったかを十分に読み解くことはできます。
古い時代、書かれたお手本を模倣するのが絵を描く基本であった、こういうふうに見ておくべきでしょう。昨日、ふと文献の検索調査の流れが止まったとき、足元にある次の本を手にとり、全体を眺めることはできました。図版を全部確認しました。活字を読んだのは、わずかです。
Larry Schaaf, Out of the Shadows: Herschel, Talbot, and the Invention of Photography, New Haven and London: Yale University Press, 1992
成瀬不二男『司馬江漢 生涯と画業―本文篇』八坂書房、1995
成瀬不二男『司馬江漢 生涯と画業―作品篇』八坂書房、1995
本日は次の4点をダウンロードし、プリントアウトし、ペンをもって読みました。逆順(下のものが先)です。稲賀繁美「西洋舶来の書籍情報と徳川日本の視覚文化の変貌」『日本研究:国際日本文化センター紀要』31(2015): 13-46
講演の原稿化です。研究史のレビューとなっていて、便利です。欧米の研究もよくフォローしてくれています。
Julian Jinn Lee, The Origin and Development of Japanese Landscape Prints: A Study in the Synthesis of Eastern and Western Art, Ph.D. dissertation, University of Washington, 1977
W. F. Vande Valle(ed.), Dodoneus in Japan, Leuven University Press, 2001
勝盛典子さんの研究『神戸市立博物館 研究紀要』→勝盛典子さんは基礎的な仕事をされ、それをまとめて京都大学から博士号を取得されています。そして、かなり大きな本を出版されています。勝盛典子『近世異国趣味美術の史的研究』臨川書店、2011。北山研二「写真または他者の映像」『(成城大学文芸学部)ヨーロッパ文化研究』28(2009): 31-76
p. 35 トルボット「写真技術の発見のひとつの利点とは、膨大な量の詳細な細部を写真で見せてくれることだ。それは再現=代理 representation の真実とリアリティーを付け加えるが、いかなる芸術家もありのままのコピーはやってこなかった。」
pp.66-7 注7 "One advantage of the discovery of the Photographic Art will be, that it will be enable us to introduce to our picture a multitude of minute details which add the truth and reality of the representation, but which no artist would take trouble to copy faithfully from nature.
Contenting himself with a general effect, he would probably deem it beneath his genius to copy every accident of light and shade; nor could he do so indeed, without a disproportionate expenditure of time and trouble, which might be otherwise much better employed.
Nevertheless, it is well to have the means at our disposal of introducing these minutiae without any additional trouble, for they will sometimes be found to give an air of variety beyond expectation to the scene represented."
Talbot, The Pencil of Nature,London, 1844, Plate X
ここの picture は、写真ではなく、絵画(絵)です。従って、訳は次のようになるでしょう。「写真術の発見の利点のひとつは、我々の絵に、非常に多くの詳細な細部を付け加えてくれることだ。それは、表象の真実性と現実性をもたらすが、これまでどの芸術家も自然から複写しようとはしなかったものなのだ。」
邦訳『自然の鉛筆』(青山勝訳),p.38「写真術の発見が今後もたらすであろう利点のひとつに、それによって画像に多くの微小なディテールを盛り込むことが可能になる、ということがある。そうしたディテールは、描写の真実性と現実性を強めてくれるが、どんな芸術家もそこまでの忠実さで自然を複写しようと骨を折ることはないであろう。 芸術家は、全体の効果を見て満足するもので、光と影が偶発的に生み出すものすべてを複写するなどといったことは、自らの天稟にふさわしからぬものと見下しているのかもしれないし、また実際そんなことをするのはよほど時間と労苦を費やさなければ不可能である。それはまったく割に合わない仕事で、そんなことにかまけるくらいなら同じ時間と労苦を他のことに注いだほうがよいのであろう。 しかしながら、これらの細部を、なんら労苦を増やすことなく盛り込む手だてが手に入るのは喜ばしいことである。というのも、それらの細部はときに、描写された光景に、予想を超えた豊かな多様性の感覚をもたらすことがあるからである。」
図版Xは「積み藁」です。
ウジェーヌ・ドラクロワ(1793-1863)「写生画ではほとんど場合無視されてしまういくつかの細部も、ダゲレオタイプでは非常に重視されることが特徴で、それを見た芸術家は、構成に関する完全な知識を得る」 バジャック『写真の歴史』(遠藤ゆかり訳、2003、創元社)p.156 より。
p. 43 「カメラ・オブスクラの視覚と写真の機械的な視覚とは同じだろうか。原理的には同じように見えるが、カメラ・オブスクラの視覚は精度が劣り目の延長だが、写真の(機械的な)視覚は印画紙に機械的な精度の高い映像を残しうる機械なのだ。前者では多くの場合暗箱の壁または半透明なガラスに映された外界の映像を目が選択的に見るからであり、後者では機械的な現像の現前から目を背けられないからである。・・・人間の視覚は映画のなかに形象化される意識的なものである。・・・写真は無意識的なものなのである。」
p. 50 「写真映像は断片的であるだけではなく、すでにタルボットが言及していたように予想外の細部も映しだす。それゆえ、写真が人間の目によって確認された映像と、人間の目では確認されずそれ以上に詳しく偶発的な映像とからなっていることになる。」小椋純一「応挙図の考察からみた江戸中期における京都近郊山地の植生景観」『造園雑誌』54(5)(1991):42-47
応挙が必ずしも写生したかどうかは確実ではありませんが、写生したものもあります。写生したとして、当時の京都近郊山地の植生景観を復元・考察したものです。今と比べると、当時はかなり禿げ山で、生えていたとして、低木だったことが導かれています。山の木の利用形態の問題でしょう。昔は、ずっと山の木を使った。結果、禿げ山が生まれたということのようです。岡泰正「覗き眼鏡と眼鏡絵について」『美學』35(3)(1984): 58
覗き眼鏡と眼鏡絵について、もっともまとまった安心して使える記述です。事典項目にぴったりと言えます。
図書館に寄り、次のものを受け取りました。
J.A. Chaldecott, "The zograscope or optical diagonal machine," Annals of Science, 9(1953): 315-322
Carl Goldstein, Print Culture in Early Modern France: Abraham Bosse and the Purpose of Print, Cambridge, 2012
次の本は借りました。
WillyVande Walle and Kazuhiko Kasaya (eds.), Dodonaeus in Japan: Translation and the Scientific Mind in the Tokugawa Period, Kyoto, 2001
昨日受け取った次の論文を読みました。
J.A. Chaldecott, "The zograscope or optical diagonal machine," Annals of Science, 9(1953): 315-322
"zograscope" という単語はあまり使われなかったようです。
次いで、昨日借りた次の本から、稲賀繁美さんの論文を読みました。
WillyVande Walle and Kazuhiko Kasaya (eds.), Dodonaeus in Japan: Translation and the Scientific Mind in the Tokugawa Period, Kyoto, 2001
Shigemi INAGA, "Reinterpretation of the Western Linear Perspective in Eighteenth- and Nithteenth-Century Japan: a Case of Cultural Translation," Dodonaeus in Japan (Kyoto, 2001), pp.123-148
装置の話はまったくでてきません。
朝新聞を取るために郵便受けを開けると、次の本が届いていました。夜の間に届いたのでしょう。
James King,
Beyond the Great Wave: The Japanese Landscape Print, 1727-1960 (Natur, Wissenschaft Und Die Kunste/ Nature, Science Et Les Arts/ Nature, Science and the arts),Bern: Peter Lang, 2010朝一番で私の発表。午前10時から東京外国語大学研究講義棟101教室です。日本におけるカメラ・オブスクラの使用の実態を解明したいと思います。30分なので、中心的論点だけを提示することになります。参加は自由ですから、お時間のある方は、ひやかしに来て下さい。
徳川ジャパンにおける、写真鏡、覗き眼鏡、眼鏡絵、そして日本の遠近法的景観図に関して、概要がつかめると思います。
図書館に行って次の本を受け取りました。今年の5月にでていた本です。
太田浩司 勝盛典子 酒井シヅ 鈴木一義 監修『江戸の科学 大図鑑』河出書房新社、2016
帰り着くと次の本が届いていました。
Maki Fukuoka, The Premise of Fidelity: Science, Visuality, and Representing the Real in Nineteenth-Century Japan. Stanford Univ Pr, 2012
次いで研究室に行き、次の本をカバンに入れ、取って返しました。
勝盛典子『近世異国趣味美術の史的研究』 臨川書店、2011
1時過ぎに図書館に向かい、次の2冊を受け取りました。
Wendy Bellion, Citizen Spectator: Art, Illusion, and Visual Perception in Early National America,The University of North Carolina Press, 2011
Maki Fukuoka, The Premise of Fidelity: Science, Visuality, and Representing the Real in Nineteenth-Century Japan, Stanford U Pr, 2012
(この福岡まきさんの著作は2冊目の購入となりました。→福岡真紀(リーズ大学美術・美術史・カルチュラル・スタディーズ学部准教授)とありました。)
アメリカやイギリスを拠点に、日本の表象史を研究されている福岡真紀さんの仕事が今回の私の研究に深くかかわりがあることがわかってきました。
8月18日に記載した書物(Maki Fukuoka, The Premise of Fidelity)がもっとも手頃なものだと思いますが、ネットで検索をかけて、次の研究ノートをダウンロードし読むことができました。
福岡真紀「遺影としての肖像―福澤諭吉と中江兆民の場合―」『死生学研究』 第3号, (2004): 305-232(86-159)
私にとって、日本における写真原史を扱っている Maki Fukuoka, The Premise of Fidelity は必読文献だと思われます。
私の今のテーマにとって、福岡真紀さんの次の仕事は基本的な重要性があることがわかりました。
Maki Fukuoka, The Premise of Fidelity: Science, Visuality, and Representing the Real in Nineteenth-Century Japan, Stanford U Pr, 2012
仕事が立て込んでいるので、全部をきちんと読むのは後回しになりますが、私のテーマに関係するところだけでも、しっかりと読んでおこうと思い、読んだり、調べものをしたりしています。
この本の主たる研究対象は、嘗百社の仕事です。序文を次のようにはじめています。
「1826年水谷豊文(1779-1833)が編んだ『本草写真』という未出版の草稿にふれ、19世紀の日本の視覚文化の歴史の重要な部分はこれから書かれるべきだと私は確信した。」
ここの「写真」は、写真術発明以前ですから、photography のことではありえません。もじ通り、真(the real)を写す(transposition)です。具体的には、ink rubbing prints, inked impression of a plant, と福岡さんは英語化されています。日本語では、印葉図と称することが多いようです。
ウェブの説明を引用すれば、印葉図とは「植物の葉や花に墨を塗って作る一種の拓本」、あるいは「植物の葉や花にインクを塗って紙に転写する一種の拓本」とあります。これで、どういうものかは比較的簡単に理解できると思います。
福岡さんの本を続けましょう。
「1828年前後、水谷豊文は、名古屋を拠点として、薬の材料(日本語で本草、ラテン語で materia medica )の研究を中心とする学者グループ、嘗百社を結成した。」
p.111 「伊藤圭介と宇田川榕庵が1827年日光への植物採取旅行で作成したink rubbing は、」
伊藤圭介(1803-1901)
宇田川榕庵(1798-1846)
柳河春三(1832-1870)
伊藤圭介(1803-1901)は、19歳のとき京都に行き、蘭学を学ぶ。1826年、シーボルト)Philipp Franz von Siebold, 1798-1866)に会う。この出会いが圭介の後半生を決定したと言える。
福岡さん自身が本の後ろのグロッサリーであげているコンセプトは、次の4つです。
印葉図法
写生
写真
真行草
本文中では、印影鏡(lens that delineates shadows)、留影鏡 (lens that holds shadows)という用語も使っています。
昨日からの作業の続きで、起きてすぐに次の本をダウンロードしました。
Benjamin MARTIN (Optician), Typographia naturalis: or, The art of printing, or taking impressions from natural subjects, as leaves, shells, fossils, &c. as also from medals, intaglios, &c. by means of isinglass, etc, London, 1772
実物に墨やインクを塗って、紙に直接写し取る方式をTypographia naturalis と呼んでいます。英語では、一般的には Nature Print と呼ぶようです。この方法の一番の対象は、葉っぱです。子どものときにやったことがある方も少なくないのではないでしょうか?
日本語では、印葉図という言葉があります。印葉図という言葉は、葉っぱだけを想像させますが、平面化することができて、墨やインクを表面に乗せられれば、どういう自然物でも原則としてはこの印刷法の対象とすることができます。
有名な器具製造業者、マーティンについては、次の研究書がすぐに見つかりました。
J.R. Millburn, Benjamin Martin: Author, Instrument-Maker, and ‘Country Showman’Springer Science & Business Media, 2012
夕刻、図書館から次の文献が届いたという報せがありました。
福岡真紀「嘗百社と写真 : 統合された写真史に向けて」『近代画説 : 明治美術学会誌』 21(2012): 31-47
Naomi Hume, "The Nature Print and Photography in the 1850s," History of photography : an international quarterly, 35(2011): 44-58
もう30分はやく連絡があれば、明日の発表に間に合ったのですが、まあ、仕方ありません。月曜日にでも図書館に受け取りに行きます。
先週末 ILL で届いていた次の文献をゲットしました。
福岡真紀「嘗百社と写真 : 統合された写真史に向けて」『近代画説 : 明治美術学会誌』 21(2012): 31-47
(タイトルからそうではないかと予想していたことですが、この日本語論文は、次の翻訳でした。
Maki Fukuoka, "Toward a Synthesized History of Photography: A Conceptual Genealogy ofShashin," Positions : East Asia cultures critique, 18(2010): 571-597
ご本人の後書きでは、「筆者が加筆し、和訳したものである」とあります。さらに詳しい資料分析は、Premis of Fidelityの方を見て欲しいとあります。)
Naomi Hume, "The Nature Print and Photography in the 1850s," History of photography : an international quarterly, 35(2011): 44-58
福岡真紀さんの論文は、研究室にもどりすぐに読み通しました。すこしメールへの対応をしてから、帰途。2時4分多磨駅発の電車。→福岡真紀さんの論文から。
今橋理子『江戸の花鳥画 博物学をめぐる文化とその表象』スカイドア、1995
事項索引より。
「写真」 106
真景図 259
真写 75, 106
真写図 28
写実(リアリズム) 18,74, 103-105, 414, 415
写生 18-20, 23, 48, 51, 67, 71-75, 81, 88, 96, 104-196, 124, 125, 127, 130, 157
写生画 19, 49, 124, 140
写生真写法 18, 71, 73, 75, 80, 81
写生図 20, 28, 32, 69, 70, 88-90, 94, 96, 97, 99-103, 138, 150, 177
写生図の継承 69(→模写と継承)「写真」 106 (江戸時代中期まで「写生」という語の他に)「生きうつし」や「生写」「正写」、また時には「真写」「写真」という言葉までもが、「実物写生」を表わす言葉として同様に使用された。・・・対象に宿る「気」「生気」を何よりも的確に把握することこそが、「写生」という行為の最終目的であり、真髄だとされていた。
→つまり、「写真」という術語にスポットライトが当てられているわけではない。
まず、図書館に寄って、次の本を借り出しました。
佐藤道信『明治国家と近代美術―美の政治学』吉川弘文館、1999
すぐに、その中から第3章「『写実』『写真』『写生』」pp.209-232 をコピーし、研究室に持って帰り、読み通しました。
個人的にはもうすこし用例があった方がうれしいのですが、ほぼこういうことなんだろうと思います。
→第2節 「写生」「写真」の歴史
この節が私の問題関心にもっとも関係します。
先行研究:写生に関しては、河野元昭さんの研究を挙げています。
河野元昭「江戸時代「写生」考」『日本絵画史の研究 山根有三先生古希記念会編』(吉川弘文館、1989年)所収
河野元昭「「写生」の源泉―中国」『秋山光和博士古稀記念 美術史論文集』(便利堂、1991)所収
先行研究:写真に関しては、辻惟雄さん、佐藤康宏さん、酒井哲朗さん、ドリス・クロワサン女史の研究を挙げています。
辻惟雄「「真景」の系譜―中国と日本(上)(下)」『美術史論叢』(東京大学文学部美術史研究室)1(1984)、3(1987)
佐藤康宏「真景図と見立て」『国際交流美術史研究会第12回国際シンポジウム 東洋美術における写実』(国際交流美術史研究会、平成6年)
酒井哲朗「日本南画における「真景」の問題について」『宮城県美術館研究紀要』2(1987)
ドリス・クロワサン「明治初期洋画の肖像画リアリスムスについて―高橋由一を中心に」『人文學報(京都大学人文科学研究所)』53(1982)
結論としては次のようにまとめています。「さて以上の諸研究を見ると、「写生」「写真」また「写意」の語においてさえ、いずれも視覚的現実性と内的真実への表象という二重の意味を持っていることがわかる。ところが制作においては、外的真実と内的真実、客観性と主観性という主客の合一を究極の目的としただけに、かえって実際の用語の際には、どちらの意味に比重を置くかで、同じ語を使っても全く逆の意味であるかのような一見矛盾的な状況が生じている。」(p. 216)図書館に向かい、次の論文をコピーしました。紀要のおいてある場所を探すのにすこし手間取りました。
D. Croissant 「明治初期洋画の肖像画リアリスムスについて―高橋由一を中心に」『人文學報(京都大学人文科学研究所)』53(1982): 157-187 帰宅し、お風呂に入り、食事をすませ、一休みしてから、ドリス・クロワサンの論文を読み通しました。よく出来ています。1982年にこの論文がでているのですから、もうすこし研究状況がランクアップしていてもよいのに、と思います。
p. 159 「では、明治以降の日本の美術を、ヨーロッパ中心的ではない視点から理解するために、どのような手法が手がかりとなるであろうか。ひとつの答えは、たんに西欧的な表現手段の受容だけではなく、洋画史における、たとえば、歴史画・戦争画・風景画・静物画などといった、画題の適用をも研究してみることではないだろうか。もともと日本の初期の洋画製作は、美術の作品として展覧会や美術館に飾るために創作されたのではなく、国家や社会の中でさまざまな課題をになうかたちで行われたという要素が強かったのである。
ところで初期の洋画製作をみると、肖像画という画題が、他とは比較できないほど大きな地位を占めていたことが明らかである。たとえば、高橋由一の場合、それは注文によって描かれたほとんど唯一の画題であったのである」
この画題に注目するというのは、まったくよい論点だと思います。
写真については、pp.160-166
II 「写真」の三つの意味―理論的前提
「日本の洋画の写実主義の考えは、18世紀以来の西欧の絵画にふれて、理論的なかたちをあたえられたこと、その際、用語的には、また思考の形式のおいても肖像画写実主義の中国的伝統をうけついでいたこと、そしてまた、この写実主義的概念は、洋画のはじまりを特色づけている実証主義の基礎をなしたこと」
肖像画としての写真
張彦遠『歴代名画記』(847)では、「写真」という術語が唐以前の肖像画を指すものとして3回使われている。「本物と見間違えるほど真に迫ったできばえ」。形式的画法としてのレアリズムと、画像に生命がこめられているという画像魔術との間の、相互関係が含まれていた。
写実主義としての「写真」
11世紀以来発展した文人画は、元代以後、中国絵画の主流となるが、画家の心の中の理念の再現、すなわち「写意」に重きが置かれた。「意」は、水墨画という技術と相まって、個人の芸術衝動としての「筆法・筆意」の中に現われると考えられた。
写意と写実の対立
佐竹曙山(1784-1785)や司馬江漢は、『歴代名画記』をおおいに利用した。「文人画の「筆意」と区別するため、レアリズムという観念をあらわす言葉として、「写真」をという語をとりいれた最初は人は佐竹曙山である。」 佐竹曙山『画法綱領』の20年後、司馬江漢は『西洋画談』(1799)のなかで、西洋の画法は写真にして、和漢の画像は真を写すのに法にあらざれば、・・・と述べた。
椿椿山(1801-1854)『椿山書簡』「南宋は写意なり、北宋は写生なり」
清代の絵画理論で「写生」という言葉で、自然の通りに描くことを意味するようになっていた。特に花鳥画において。黒田源次は『司馬江漢』において、江漢は清代の中国画論で「写生」と呼ばれていたものにそのまま「写真」という言葉を当てはめたと主張した。しかし、佐竹曙山や司馬江漢は、「写真」という言葉を「写生」とは意識的に区別して使っている。(p. 163)「それは、たとえば中国の花鳥の写生とは似つかぬ西洋風のレアリズム―その中には、ルネサンス以来の光や遠近法の立体図法といった Illusionism の手法も含まれていたわけであるが―を意味していた。したって、彼らの「写真」ということばは、「写生」、すなわちたんなるスケッチということ以上に迫真性の特徴を言っていたのであり、その特徴とは、技術的な点において清代の「写生」よりも、むしろ唐代の肖像画論でつかわれた「写真」に通じるものであったのである。
実は、蘭画家たちが「写真」という言葉でこのような現実の鏡像的再現ということを思い浮かべていた点をふまえて、はじめて、なぜこの言葉が19世紀中期になって、当時輸入されたダゲロタイプの翻訳語として、横取りされてしまったかが理解されるのである。 」
1840年代に日本に輸入された写真術は、「おそらく1852年頃、「写真」として、また写真機は「写真鏡」、写真屋は「写真師」という名称で日本語のなかに根付いた。これらの言葉は、当初は「写術」とか、「印景鏡」、「直写影鏡」、「留景鏡」といった、ほかの名称と共に用いられたが、興味深いことに、「写真」という呼び方が他をしだいに駆逐したのである。写真機の意味で「写真鏡」という言葉が初めて使われたのは、大橋訥庵(1816-1862)の『闢邪小言』(1852)の中であって、・・・」(p.163)
「写真鏡」という言葉は、大槻玄沢(1757-1827)の『蘭説弁惑』(1788序、1799刊)で camare obscura の訳語としてはじめて用いた。(p.164)
司馬江漢『春波楼筆記』(1811) にも写真鏡への言及。「幕末の「写真術」の説明にも、昔の蘭学者たちの画論がそのまま使われていた。」
柳川春三『写真鏡図説』(1867) 「写真映画の術は、人の真像を留め、地の真景を描くの良方にして、、」
高橋由一、開成所画局の壁面掲示文(1865) 写真をレアリズムの意味で使っているが、1870年以後からは、もっぱら photography の意味で使うようになった。
p. 165 幕末の時点では、「写真」という語は、肖像画、写実主義、写真術という3つの意味を伝えていた。
1)元来、肖像画は、祖先崇拝、死者崇拝の祭祀的画像としての役割を担っていた。
2)鏡像のような正確さ、現物の忠実な描写、肖像画は西洋の画法を実際に使うための最高の場を提供した。
3)肖像画の領域は、文人画の絵画理論の枠外にある。佐竹や司馬江漢の蘭画論以来、肖像画に関して、レアリズム一般の表現方法を意味した「写真」の語が多く使われたが、それは文人画の「写意」の反対物としてであった。
今でも参考にできる資料の提示があり、留意すべき観点の洞察があります。
メールボックスで書類を受け取ったあと、まっすぐに図書館に向かい、次の本を借り出しました。
矢部一郎[ほか]『植学啓原=宇田川榕菴 : 復刻と訳・注』 講談社, 1980.5
宇田川榕菴の著作(影印と現代語訳)としては、『植学啓原』『植学独語』『菩多尼訶経』の3点、それに解説論文として、木村陽二郎「 宇田川榕菴 日本最初の植物学者 」;矢部一郎「 本草から近代植物学へー『菩多尼訶経』と『植学独語』」「宇田川榕菴と近代植物学―『植学啓原』を中心として」「宇田川榕菴と生理学」の4点からなります。
まずは、『植学独語』を見ます。研究所により、別件のスキャンをしてから、研究室へ。早速借りた本を読み始めました。宇田川榕菴の植物学関係の著作はきちんと読んだことがありません。なかなかのものです。
p. 170 「*葉の外草木の真形を遠久に伝ふべき術ある事」 「*葉以外にも草や木の自然のままの姿を長い間保ち続けることができる方法があること
*葉は、植物全体を押せば、その自然のままの姿を十分保てるとはいえ、いつまでも保ち続けるわけいにはいかない。ものの自然の姿を完全に保って、しかもいつまでも朽ちずに保ち続けるのには、実物そのものに写して描いた彩色図に勝るものはない。一般に絵というものは、どんなに下手でも、巧みな文章で数多くのことばを積み重ねて説明するよりも勝るものである。百聞は一見にしかずということばは真実である。しかし、絵かきの絵は、たいてい実物よりも美しすぎたり、描く態度が絵の趣を添えることにばかりこだわっていて、ただいたずらに女子どもが見るものにすぎず、植学家がとりあげて用いるには十分なものではない。ひたすら自分自身が生きている草に向かいあって眺めることにより、最良の写生法を体得すべきである。いまから少し前に、わが国で世にもまれに優れた方法を考案した人がいる。この方法は、自然の姿をそのまま保つことにおいて、*葉に勝っており、さらにいつまでも保ち続けることができる。その方法は、まず生の葉または植物全体を*葉帖にはさみ、一日か半日ほど押してから取り出して、植物の片面に刷毛で黒い印肉を塗り、これを木の板の上にのせ、その上にきれいな紙をかぶせ、手のひらで紙の上を擦れば、葉の形状がはっきりと紙に写り、しかも、人の手では写すことのできない微細な筋やひだのところも細かに現れて、銅版画と異なるところがない。この技術は西洋にもあり、大阪の<けんかおう>」の所蔵するオランダの*葉の本というのはこれである、と聞いている。」(漢字が何点か出せません。ご勘弁を。*葉は押し葉の意味です。漢字は違います。月ヘンに昔です。)
福岡真紀さんは、これを次のように英訳します。(Fidelity, pp.109-110.)
"On the technique that can preserve the shin form of plants other than a herbarium
Although a herbarium sufficiently maitains the real form [shin kei] of plants by pressing the entire plant, it cannot be preserved for long. To maitain the real form and also to preserve and transmit it forever, there is nothing better than colored sketches [shasei]... The saying "a glance is worthier than listening to hundreds of accounts" hold true. However, a picture produced by a craftman is , by and large, overtly colored and focused too much on embellishing persons and animals added in landscape paintings [tenkei]. As a result, picture become nothing but pleasing trifles for women and children... Recently, someone from our country has concocted an excellent method. In its ability to maintain shin, it surpasses a herbarium, and it can also be preserved for a long time. This method begins by placing a leaf or an entire plant in a herbarium book, and allowing the specimen to be pressed for a day or half a day. After pressing, the specimen is taken out of the book and black ink is applied to one side of the specimen using a brush. An inked specimen is placed on a wooden board, and a clean sheet or paper is placed over the specimen. Rubbing the paper with palm of the hand, the shape of a leaf is clearly transferred to the paper. In addition, by using this method, the faint vein and the folded areas of the leaves,which are impossible for a man to depict, can be depicted. In this sense, it is no different from copper-etching prints. I hear that this method also exists in the West and that what is known as Kimura Kenkado's herbarium from Holland is made using this method. "
的確な英訳だと思います。なお、矢部さんも木村さんも、「写真」という用語にはまったく注目されていません。この点に注目したのが、福岡さんの炯眼ということになると思います。
口絵、p. xxiv 図5クスノキ ―『本草写真』
口絵、p. xxiv 図6キチジョウソウ ―『本草写真』
p. 217 訳注 (60)*葉=月ヘンに昔=*葉という語は、『厚生新編』や『植学独語』あたりで最初に使用されたようである。『植学啓原』には、*花はあるが、*葉の語はない。それ以前の本草家は、押葉、葉*の語を用いていたようである。平賀源内も、押葉ということばを使っていた。
p. 217 訳注 (60)*葉帖=『厚生新編』第58巻には、榕菴と玄真訳校の「*葉帖」という項目がある。ここでは、第一、採取の時宜、第二、植物を乾*する法、第三、*葉を紙に膠する方法、第四、*葉を*葉帖に編する順序、などについて記述されている。
p.233下 解説 シーボルトの旧蔵書のなかに現在、榕菴の『本草写真』『本草推写』『生檀(せいちょく)全書』などがあり、これは榕菴自身からの贈りものである。
p.253 「本草から近代植物学へ」(一)『ショーメル百科』と榕菴の植物学書との関連
*葉法の記述
『厚生新編』第49巻(大槻茂<木ヘンに貞>玄沢・宇田川<僕:人偏に代えて王へん>真訳校)には、「乾*花良法」(宇田川玄真訳)という章がある。 是即ち、「リットル、ローベルト、ソフトーウエル」の発明し示す法なり
さらに、第58巻(宇田川榕榕庵・宇田川<僕:人偏に代えて王へん>真訳校)には「*葉帖」という章がある。
「左に*葉帖の造法を略説す。*葉帖を造るに四個の要件あり。・・・」
p. 312 木村陽二郎「口絵「付録」について
『本草推写』
榕菴のつくった『本草推写』は、後に述べる『生檀全書』と『本草写真』の二つの植物画集の間にできたものと思われる。
推写とは、*葉(押し葉)をつくるときのように、植物を押して平たくし、これに墨または絵の具をつけて紙を圧しつけ、手でこすったものである。いわば植物の拓本と言える。『本草推写』には、これが七葉集められている。
『本草写真』
洋紙と洋絵具を用いて描かれている点で、『生檀全書』とまったく異なるが、絵はきわめて入念に描かれ、真を写すの名に恥じない。とくに部分図をそえて、植物図鑑として優れている。
シーボルトの江戸訪問は文政九(1826)年であるが、この図はその前後に成ったものと思われる。この図には、シーボルトとの対話の影響とも思える西欧流の描き方がみられる。それでシーボルトの江戸滞在中、またはその後から翌年にかけて描かれたものではなかろうか。翌年であっても、伊藤圭介に託せば、長崎にいるシーボルトのもとに届けることができるからである。
この写本は、縦34.5センチ、横27.5センチ、三四枚の植物図を含む。なかの五枚は『本草推写』にみられるような推写、すなわち植物の拓本であるが、それとは異なる時期につくられたものである。
机に向かっていると、ゲラと次の本が届きました。
Jennifer B. Lee and Miriam Mandelbaum, Seeing is Believing: 700 Years of Scientific and Medical Ilustrations, New York: The New York Public Library, 1999
The New York Public Libraryで開かれた同名の展覧会の小冊(パンフレット)です。80頁。
正午前、次の本を図書館で受け取りました。
Andrea DiNoto & David Winter, ; photography by John Berens
The Pressed Plant: The Art of Botanical Specimens, Nature Prints, and Sun Pictures, Stewart, Tabori & Chang, 1999
Donald E. Wendel , Gavin D. R. Bridson
Printmaking in the Service of Botany: Catalogue of an Exhibition, 21 April to 31 July, 1986 0th Edition, Hunt Inst for Botanical, 1986
[長谷正人編『映像文化の社会学』]
夕刻、次の本が届きました。
長谷正人編『映像文化の社会学』有斐閣、2016
奥付を見ると、2016年10月10日出版となっています。アマゾンに予約していたものが届きました。できたてほやほやということになります。
教科書を目指したとあります。教科書も必要です。目次は次です。
序 論 映像文化というパースペクティブ(長谷正人)
第1部 テクノロジーとしての映像文化
第1章 写真というテクノロジー (菊池哲彦)
第2章 映画というテクノロジー (長谷正人)
第3章 テレビというテクノロジー(加藤裕治)
第4章 パソコンというテクノロジー(鈴木洋仁)
第2部 コミュニケーションとしての映像文化
第5章 個人をつくる映像文化(菊池哲彦)
第6章 コミュニケーションをつくる映像文化(角田隆一)
第7章 社会をつくる映像文化1(長谷正人)
第8章 社会をつくる映像文化2(大久保遼)
第3部 科学としての映像文化
第9章 医療における映像文化(増田展大)
第10章 警察と軍事における映像文化(松谷容作)
第11章 人類学における映像文化(大久保遼)
第4部 呪術としての映像文化
第12章 スターという映像文化(加藤裕治)
第13章 心霊現象という映像文化(前川修)
第14章 アニメーションという映像文化(増田展大)