ひとりで4時20分、室温22.5度。おお、もう、5月。全員出動です。
8時前後、ちいさいちび、中学生、妻の順にでかけました。おおきいちびは、普段は1限からですが、今日は2限からということで、9時半過ぎでよいとのこと。授業の課題でウィンドーズのワードが必要だと言っています。前に、マックをウィンドーズにしてやりましたが、Office はインストールしていません。大学ではずっとウィンドーズのワードとパワポだそうです。とりあえず、1年契約のOffice をアマゾンからダウンロードしてやりました。アカウントのところで、新規作成が出来ず、困ったのですが、昔マイクロソフトアカウントを作ったことがあったようです。Gmail を使っていました。
パスワードなんかもちろんまったく記憶にありません。パスワードをセットし直して、やっとダウンロードが完成しました。
おおきいちびがやっていたのは、英語の宿題。毎週、英作文があるのだそうです。
ともかく、ワードが動くことを確認してやって私の仕事は完了。あとは電車のなかでもできると言って、送り出しました。とても珍しく会議のない火曜日ですが、処理すべき案件があるので、しばらくしてから出かけました。駅前のコンビニにお金を降ろし、銀行で財務的案件を処理し、電車に。10時30分武蔵境発の西武線。最高気温28度の予報だったので、半袖で家をでましたが、正解でした。
研究室でメールの応対をし、11時過ぎに書類を1点事務に渡し、TLL で借りていた本を1冊図書館に返却してから、生協で昼食。はじめて生協の蕎麦をたのんでみました。汁が黒い。つまり、関東風です。そのまま西武線に乗って、別の財務的案件の処理に向かいました。次の駅、すなわち、白糸台で降りて、10分弱歩き、京王線武蔵野台駅へ。そこから2駅か3駅で府中。下車して、駅前の銀行で通帳を更新してもらいました。磁気がおかしくなっていたようです。メインバンクなので、財務的情報を押さえるために、通帳がいちばんです。
京王線で帰ってくることも考えたのですが、どうみても、もと来た道を戻るのがはやい。西武線をつかって、帰宅しました。直前に妻が帰ってきていました。
ひとりで4時10分、室温21.8度。休日ですが、大学は営業日。
ちいさいちびは、昨日負けたので、午前練の時間にミーティングだと言ってでかけました。ともだちとお昼を食べてから、夜(?)に帰ってくるそうです。
中学生は、10時半頃、ママといっしょにバスケシューズを買いに吉祥寺に。シューズが中心ですが、ウェアの上下、ならびに運動用の眼鏡も買う予定。
おおきいちびは、昼食後、普段履きにスニーカーを買いに新宿に。新宿になければ、吉祥寺に帰ってくるそうです。
ひとりで3時25分、室温21.2度。ちいさいちびの試合。妻も応援に行きます。
→妻は2時前、ちいさいちびは2時過ぎに帰ってきました。相手が強豪高で、負けたそうです。19対15ぐらいにスコアだそうです。敗戦ですが、ちいさいちびは奮闘していたということでした。
疲れたのでしょう、夕刻、ちいさいちびはソファーの上で寝ていました。おおきいちびは、一日中外出しているようです。
新しい『科学史研究』が届きました。第3期第57巻 No. 285 2018年4月号です。いいかげん、この分かりづらい巻号数表記を変えればよいと思うのですが、『科学史研究』の編集委員会の方々いかがでしょうか?
これには、『科学史通信』2018年 No. 433 が同封されていました。今年の日本科学史学会年会のプログラムが発表されています。私が参加する橋本科研は、2018年5月27日(日曜日)B会場です。15時50分から18時20分まで。同じ時間帯に、シンポジウムが3つ走ります。ひとつは、吉岡斉追悼シンポジウム(綾部広則)、もうひとつは、日本における黎明期の科学史研究と戦後の復興(溝口元)です。どちらも興味深いシンポですが、もちろん、私が参加することはできません。
終了が6時20分というのが少し気になります。発表申込が多くて、2日間で対応する以上、自然、そうなったのでしょうが、個人的には初日の開始時刻を1時間早めて、6時前には終わるようにしてもらいたかった。
ひとりで5時25分、室温20.4度。本年度の東京国際ミネラルフェアは、6月1日(金曜日)から6月4日(月曜日)までだと判明しました。場所は、例年通り、ハイアットリージェンシー東京/小田急第1生命ビル1Fスペースセブンイベント会場です。午前10時から午後6時まで。久しぶりに行ってみようかなと思います。
ひとりで4時45分、室温20.0度。朝、ちいさいちび、中学生、妻の順ででかけました。
10時前、駅前の銀行で財務的な確認作業のあと、セイユーで昼食の材料の買い出し。おおきいちびは、午後の授業です。サラダの材料を買ってやりました。
私は11時、おおきいちびは11時過ぎに昼食。午後の授業のため、11時半にでかけていきました。金曜日は、午後の一コマだけあるそうです。私は夜の8時過ぎから飲み会。たぶん5年前の卒業生たちです。帰ってきてすぐに就寝できるよう、入浴もすませてからでかけます。
集合は8時15分、現地。7時25分頃家をでました。お店の場所は、新宿5丁目。あまり行ったことがない方面です。グーグルの地図をプリントアウトし、グーグルマップにはあまり記されないランドマークとなる建物を3箇所書き込んで、ポケットにしのばせました。
8時15分少し前にお店に着きました。卒業生が一人。2012年度卒業の学生たちです。働きはじめてから5年、6年目に突入した世代です。幹事の子は、遅れるそうです。20分ほどできました。結局4人。最初来ていた子は、歯医者があると言って、10時前に店をでました。たぶん、少し昔、テレビでやっていた夜に開いている新宿の歯医者さんだと思います。
残り3人は、10時50分頃、お店の方に、そろそろと言われてでました。幹事を務めてくれた方は、ゼミに参加して、最初の発表のときから、この子は終身幹事にふさわしいと心の声がつぶやいた方です。ロスに1年半いて、帰ってきたばかりだということでした。
ひとりで4時50分、室温20.6度。どういうわけだか、風が強い。家のなかにいても、風の音が聞こえます。5時過ぎに、朝食のパンを買うため、自転車で近所のコンビニに行きました。雲一つない快晴の空に強い風が吹いていて、なかなか不思議な空気でした。たぶん、学校が始まる頃には、風は止んで、この不思議な雰囲気は消えていると予想されます。
午後に授業。
息子がHの鉛筆が欲しいと言っています。中学校でそろえるように言われたのだそうです。Hは近所の文房具屋さんにはなかったそうです。武蔵境のロフトにはあるに違いないと思い、10時過ぎにロフトに向かいました。そもそも鉛筆をあまり置いていません。そしてHはなし。4階の無印良品に行ってみることにしました。鉛筆はすこし置いていますが、Hはなし。うーんと考えて、イトーヨーカードの隣の建物の子どもコーナーに行ってみることにしました。子ども用文具のコーナーにはあるかもしれないと気付いたのです。ありました。助かりました。Hを2本、2Hを1本買いました。子どもが小さい頃よく来た場所です。ゲームのコーナーを一通り見て回ってから、大学へ。10時半武蔵境発の西武線になんとか間に合いました。メールでいろんな事務的案件を処理しました。
12時に日生の方。1分。打ち合わせのみ。
4限5限と学部の授業。
博士請求論文を一部もらって、5時40分多磨駅発の電車で帰ってきました。
ひとりで4時40分、室温20.6度。雨。昨夜に降り始めた雨がまだ降っていますが、雨足は弱まっています。もしかしたら、朝のうちに降り止むかもしれません。正午過ぎから会議。今日は4つ続きます。終わりも遅くなると予想されます。
9時54分武蔵境発の西武線。
珍しく書類の片づけ。8割ぐらいまでは進めることができました。
11時過ぎにお弁当。
12時10分から会議が連続します。4つ。 3つ目の会議は、研究科教授会。一番人が多く集まる会議です。冒頭に、4月1日着任の先生方から挨拶がありました。フランス文化研究の方、ラテンアメリカ研究の方、メディア文化学の方、社会学の方、中央ヨーロッパの現代社会研究の方、アラブ言語文化研究の方、日本文化研究の方、国際関係論の方、日本語教育学の方の計9名です。男性4名、女性5名。最近はだいたいこのぐらいの男女比です。
3つ目の会議がうまく進んでいるのを確認して、一度研究室に戻り、カバンと傘を持ってきました。
最後の会議は予定より、20分遅れでスタート。私が、冒頭、司会する部分があります。人事案件です。終了は6時前後。6時16分多磨駅発の電車で帰宅。
ひとりで2時35分、室温20.3度。午後に会議。3つ続きます。
家族で最後。おおきいちびを見送ったあと、家をでて、10時18分武蔵境発の西武線。最後の会議ははやく終わって、3時28分多磨駅発の電車に乗ることができました。小雨が降り始めていました。西荻の駅についてから、傘を取り出しました。
ひとりで5時50分、室温22.3度。朝の室温が22.3度。もう夏、という気温です。午後に授業。
10時半、武蔵境発の西武線。
11時半頃お弁当。3限4限と大学院の授業。4時16分多磨駅発の西武線、4時26分武蔵境発の中央線。これが最強の組合せです。
本日、大学に次の本が届いていました。編集委員会宛の献本です。
鎌倉夏来 『研究開発機能の空間的分業:日系化学企業の組織・立地再編とグローバル化』 東京大学出版会.2018.
鎌倉夏来 さんは、東大駒場人文地理の助教の方です。博士論文の出版ということです。化学史学会ではこれまで接点のなかった分野の出版物ですが、非常に興味深い著作だと思います。
鎌倉夏来 さん、ありがとうございます。
ひとりで4時45分、室温20.5度。本日も快晴。ちいさいちびは男バスの試合の応援に東京の西に行きます。おおきいちびも後輩達の応援に行くと言って、午前中にでかけました。本日はゲラの全体にわたるチェック、ならびにいろんな片づけを続行しました。
午後遅く、ハンガー(アイリスオーヤマ ハンガーラック シングル 耐荷重8kg PE-E180 )というのが届きました。今使っているものは息子に譲り、今のより少し幅の広いものを注文しました。届いてすぐに組立て、私の部屋に設置しました。
外で片づけをしたついでに、懸案事項だった家の周辺の雑草抜きをしました。ざっとやっただけです。8割程度です。それでもゴミ袋ひとつ分になりました。
ひとりで3時5分、室温20.1度。まだ4月なのに、早朝の(本当は深夜の)気温が20度を上回っています。
テレビをつけると、BS のNHKで女子のアジアカップ決勝戦をやっていました。後半残り10分を切ってから、横山のナイス・シュートで勝利しました。体力的にはオーストリアの方が上でしたが、日本女子が勝つならこういう勝ち方になるという勝ち方で勝ちました。なでしこジャパン復帰の出発点にはなったと思います。ちいさいちびは午前練、妻は10時からちいさいちびの高校の卒対。
お昼ご飯を任されたので、妻が家をでてしばらくしてからセイユーに買い物。おおきいちびにはサラダ、我々にはステーキにしました。
11時半頃、私と中学生が先に昼食。おおきいちびも降りてきたので、用意していたサラダを出しました。ステーキもすこし食べたいというので、全体の6分の1程度をカットして焼いてあげました。結局ご飯(お米)は食べず。1時前に、大学のバスケ部の見学に行くといって外にでていきました。2時前に、ちいさいちびが帰ってきました。昼食を用意。ちいさいちびがゆっくり食べているあいだに、妻が帰ってきました。ちいさいちびが食べ終わった頃、妻の昼食。
夕刻、コーヒーが切れたので、近所のコンビニに買い出しに。ついでに、チョコを一袋買ってきました。
『ゲンロンβ24』が発行されたと知り、早速ダウンロードして読みました。完全に100%読んだわけではありませんが、ほぼ読み切りました。スリリングで面白い世界に突入しています。勉強になったのは、仮想通貨と人工知能に関する鼎談です。仮想通貨がどうなるか現時点では明確なことは言えないと思いますが、国家の為替制度に影響されない自由な決済手段という当初のもくろみは、実現しなかったと言って良いようです。そういうふうになると私にもとてもありがたいものですが、現状違ったものになっているようです。
東浩紀「ゲンロンの未来――創業八周年に寄せて」
大山顕「スマホの写真論 第13回」
井上智洋×楠正憲×塚越健司「【特別鼎談】仮想通貨と人工知能──技術は経済を変えるのか?」
黒瀬陽平「「ポスト」モダニズムのハード・コア――「貧しい平面」のゆくえ 第24回」
吉田雅史「アンビバレントヒップホップ 第13回 RAP, LIP and CLIP――ヒップホップMVの物語論(後)」
片づけを続行中。これはほんとうにすこしずつです。
ひとりで4時、室温18.3度。疲れがたまっています。仕事量というよりも体調のせいだと思います。
おおきいちびは午後の授業ということです。腰が痛いといって午前中に整骨院に行きました。帰途買ってくるようお昼ご飯の材料費を渡したら、ふりかけときゅうりとトマトだけを買ってきました。スーパーが混んでいたそうです。料理をするというので、自分でやってみなというと、キュウリを切って、トマトを洗い、いっしょのボールに入れ、ふりかけをまぜたおにぎりを作りました。これで、私も料理ができると宣言したので、あなたはお笑い芸人かと突っ込みを入れました。さすがに笑っていました。
11時半ごろ登校し、4時前後に帰ってきて、シャワー。大学の授業は、体力測定でシャトルランをしたそうです。現役の頃(つまり高校生で部活をやっていた頃)よりは落ちたが、同率のトップだったと自慢げ。この子はこういうことになるとびっくりするぐらい張り切ります。夜は友達とご飯と言って、5時半頃出かけていきました。息子は再登校ということで、3時20分頃帰ってきて、体育着に着替え、3時35分にまた学校に向かいました。バスケの部活体験が楽しいようです。2年生の部員が少なく、1年生が集まらなければ廃部の危機にあったようです。
私が5時20分頃近所のコンビニにでかけて買い物をして帰ってくると、家の前に3人部活着の子どもがいました。息子となかま2人です。息子ともう一人小学校時代からの友人で何とか廃部にならないだけの部員を集めたようです。息子は早速つきゆびをして、家の中にはいってから手を冷やしていました。妻は、午前中に仕事、午後に中学のPTA。
ひとりで4時20分、室温16.9度。今日は粗大ゴミを3点出します。デロンギ、掃除機、本棚です。本棚はまだ2階にあります。子どもたちがでかけたあと、下に降ろし、外に出します。片づけはこれで完了ではありません。もうしばらく続行です。
お昼過ぎに面談。4限5限と授業。
10時6分武蔵境発の西武線。机の上の片づけ。4月にあった会議の資料をやっと片づけました。
11時過ぎにお弁当。
12時40分過ぎに学生が来て、卒論の面談。2時10分まで。
2時20分から3年生の専門演習。4時から4年生の卒論演習。
5時52分多磨駅発の電車で帰ってきました。帰り着くと、ゲラが届いていました。
ひとりで4時15分、室温16.4度。雨。本格的な雨が降っています。久しぶりの雨量のある雨です。予報によれば、午後に上がるようです。なんと最高気温が14度とあります。久しぶりに寒く感じる日となりそうです。午後に会議。2つあります。
朝一番で雨のなか我が家の財務的ルーティンをこなしました。
10時半武蔵境発の西武線。
マックのセッティング。11時過ぎにお弁当。
1時10分から会議。短く終わりました。次の会議は2時20分から。荷物と傘をもって大会議室へ。3時52分多磨駅発の電車で帰ってきました。午前中降っていた雨はきれいに上がり、青空となっていました。
ひとりで3時45分、室温17.9度。一般的には朝早く目覚めるのは元気になっている印ですが、今日は疲れて早く目覚めました。昨日学校でばたばたしすぎたようです。7時過ぎ、ちいさいちびがたぬきと叫びました。我が家の裏の家に来ています。いつもの場所です。息子が iPad で写真を撮ったので証拠写真はあります。木の実が落ちているようです。すこし食事をしてから、向こうの方に行きました。5分ぐらいは観察できました。
午前中から会議。午前にひとつ、午後に2つあります。
家族全員が出かけた後、戸締まりを確認して大学へ。8時54分武蔵境発の西武線。
10時10分から会議。学長室。次の会議は2時20分から。Mac でWindows マシーンをつくることに成功しました。新しいマックさえあれば、とても簡単でした。ただし、すこし時間はかかります。
2時20分の会議は、15分強で終了。次の会議は3時から。5時前まで。5時16分多磨駅発の電車で帰ってきました。小雨が降り始めています。
明日も雨の模様。
ひとりで4時10分、室温17.2度。おおきいちび、ちいさいちび、中学生の順に登校しました。遠い順、あるいは大きい順にでていったことになります。
午後に授業。3限4限5限と大学院の授業が続きます。
朝片づけをもう少しだけ続けて、10時6分武蔵境発の西武線。2限に見えた博士後期課程の院生としばらく打ち合わせ&世間話。11時半頃お弁当。
スキャンを2件。
3限4限と大学院のゼミが続きます。院生に発表してもらう初回となりますが、無事にスタートできました。2名の学生の書類に署名・押印。4時16分多磨駅発の電車で帰ってきました。大学で仕事をしたのは、従って6時間。個人的にはちょうどよい時間です。けっこうばたばたしたので、疲れました。
夕刻、Windowsが届きました。長女が学校でWindows が必要だと言われたということで、私は数万のWindows machine を提案したのですが、物/筐体としてはマックの方がよいというので、MacBookAir にWindows10 をインストールしようと思ったものです。MacOS X にデフォルトで入っているBoot Camp を使えば簡単だとあります。しかし、おおきなちびのために用意したMacBookAirだと、そもそも image fileを作るのがかなり大変でした。なんとかimage file をつくるのに成功したと思ったら、その先で止まってしまいました。こういうのの原因追及は難しい。明日、もう一度、場所を変えてトライしてみます。
4月14日にここの場所にアップした次の原稿を単独ファイルに切り分けて、アップしておきました。
吉本秀之「教養教育の再構築に向けて―大森荘蔵氏の所説に寄せて―」『総合文化研究ブックレット』No.1(2003),pp.2-7.
大学の先生方は、基本、専門教育に関心があり、教養教育に心からの関心を持っている方は少数派です。このエッセイは、教養教育で何を為すべきかひとつの理念を提示しており、今でも価値があると思っています。
J-COM からXdomain のサイトに切り替えたとき、移行しきれていないファイルが一定数存在します。私の発表した論文等リストからリンクしているいろんな原稿もまだ作業ができていません。そして、一番大きいのは、画像ファイルです。Xdomainでも画像はできるのですが、操作に時間がかかりすぎます。別の方式で引き継ぐ(たとえば、Facebook など)を考えています。
→ 次の6点の引っ越し作業はできました。もうすこし引っ越すべきものが残っています。
「『化学史研究』総目次(1974年〜1999年)とその分析」『化学史研究』Vol26,No.4(1999),pp.185-245
「化学史研究、インターネット、データベース」『化学史研究』第27巻第2号(2000),pp.106-109
「Antonio Clericuzio, Elements, Principles, and Corpuscles : A Study of Atomism and Chemistry in the Seventeenth Century (Archives Internationales D'Histoire Des Idees, 171) Dordrecht: Kluwer, 2000」『化学史研究』第28巻第3号(2001),pp.194-196
「名和小太郎『起業家エジソン:知的財産・システム・市場開発』朝日新聞社(朝日選書671)、2001年」『化学史研究』第28巻第3号(2001),pp.192-193
「H.コリンズ&T.ピンチ『迷路のなかのテクノロジー』」『化学史研究』第28巻第4号(2001),pp.276-277
「 相馬伸一『教育思想とデカルト哲学』」『化学史研究』第29巻第3号(2002), pp.201-204.
「化学史のデジタル・ライブラリー」『化学史研究』第33巻(2006)第2号、p.114-5.
→ 18.4.18 次のものも引っ越し作業をしました。(アップロードしました。)
「ロバート・ボイルとその化学教師」『化学史研究』第32巻(2005)第2号、p.116.
「ロバート・ボイルの読書」『日本科学史学会52回年会 研究発表講演要旨集』p.53
「ロバート・ボイルと人文主義の方法」in「シンポジウム:近代における知とその方法:宮廷,サロン,コレクション」『日本科学史学会53回年会 研究発表講演要旨集』p.13
ひとりで4時10分、室温19.4度。雨。夜半からの雨が降っています。雨音からすれば夜明け前に上がるかもしれません。ちいさいちびと妻を7時20分に起こすよう、書き置きがありました。ちいさいちびの部活はハンドボールです。ハンドボールは原則外コートです。たまに室内。試合があるかどうかは天候に左右されます。今日も微妙なところです。
→ 午前6時、また雨足が強くなりました。今日の午前中に、外コート、すなわちグラウンドで試合をするのは無理だと思われます。予報を見ると、お昼には上がるようですが、6時で強く降っている場合、グラウンドは濡れたままだと思われます。結局、ちいさいちびのスマホにオフの連絡があったということです。おおきいちびは後輩の応援に行くと言って、朝早くでかけました。残りのメンバーは9時を過ぎてから起きてきました。
午後には雨はすっかり上がり、晴れ間もでてきました。おおきいちびが4時に歯医者さんに予約しています。矯正歯科です。私がアテンドすることになっています。3時40分に連絡があり、荻窪駅北口で待っているということでした。超速で動き、3時50分過ぎに待ち合わせ場所に着きました。西荻のホームから電車がちょうどでるところに飛び乗ったので、この速さで着きました。
青梅街道沿いということです。駅から数分。矯正歯科の歯医者さんは、女性で、説明が明快でした。4時40分ぐらいに終わったでしょうか。
杉並公会堂が見えます。歩いて帰ることにしました。20分強の距離です。帰っておおきいちびはママに報告。妹の方も矯正したいと言っています。1ヶ月から2ヶ月遅れで開始することになりそうです。
ひとりで4時15分、室温17.9度。予報によれば、夕方に雨。中学生は土曜日学校。ちいさいちびは午前練習。おおきいちびは不明。
[おお、野矢さん]
朝、新聞を郵便受けより取り出し、書評欄から読み始めました。野矢茂樹氏の肩書きが立正大学とあります。え、野矢さん、立正に移られたんだ!
実は、学会会長の大野誠氏がこの春から立正大学に移られています。私のまわりでは、立正大学に移る方が2人もいて、びっくりでした。
哲学者野矢茂樹は、大森荘蔵の無比の弟子という位置付けだと思います。私は学部のときに、大森先生の授業はよくとっていて、1学年先輩の野矢さんとはいっしょになったことがあります。早朝、寮の食堂で出くわして、驚いたこともあります。
東大駒場は、哲学者野矢茂樹にふさわしい場所を用意したのでしょうか、しなかったのでしょうか、私にはわかりませんが、所属は科哲でも哲学でもなかったように思われます。野矢さんは1954年生まれなので、今年64歳になられます。定年の2年前に転出されたことになると思います。
ネットで立正大学文学部哲学科を見てみると、野矢さんは総勢7名中3人目に顔を出します。最初の方がなかなか迫力のある風貌をしています。5番目の方は、村田純一さん。村田さんは科哲から立正大学に移られています。もう10年ぐらいでしょうか。ちなみに、立正大学文学部史学科の方を見ると、日本史の方が5名、東洋史が2名、西洋史が大野誠さんを筆頭に2名、それから考古学の方が2名、博物館・学芸員課程に1名、語学教育課程に2名、そして日本史の助教1名という構成です。日本史の強さが目立ちます。
[我が師大森荘蔵]
私に「我が師大森荘蔵」と名付けることができる文章があります。2003年に総合文化研究所のブックレットのために書いた文章です。野矢さんは大学行政を毛嫌いされていましたが、その点で私は野矢さんとは意見を異にします。大学教師である以上、毛嫌いばかりしていてはいけない、一定の責任を担うべきだと考えます。私の入学時に学部長をしていた師大森荘蔵は、責任を担ったと思います。
ネットにあげておけば、読んでくれる方もいると思います。まず、ここにあげておきます。吉本秀之「教養教育の再構築に向けて―大森荘蔵氏の所説に寄せて―」『総合文化研究ブックレット』No.1(2003),pp.2-7.
教養教育の再構築に向けて
―大森荘蔵氏の所説に寄せて― 吉本秀之はじめに
個人的な話から始めることをお許しいただきたい。戦後日本の哲学界において傑出した地位を占める分析哲学者のひとりとして、故大森荘蔵の名を出すことに異論を唱える方はおそらくほとんどいないであろう。私が東京大学教養学部に入学したときの学部長は、大森荘蔵氏であり、とても学部長とは思えない簡潔にして切れのよい入学式の挨拶に驚いたことは脳裏にしっかりと刻まれている。進学振り分けという東京大学独自のシステムにより、2年生の後半から進学した教養学科科学史科学哲学では、大森荘蔵氏が主任教授をつとめており、個人的にはいろいろな点で世話になった。私がとった授業のなかでもっとも鮮明に記憶に残っているのは、野矢茂樹氏と九鬼一人氏と私の3人のみが出席したヴィトゲンシュタインの『哲学探究』を読む授業である。3回に1度発表を担当してドイツ語を読むというのは当時の私にはかなりの負担であり、そのことが記憶によく残っている理由のひとつであるが、ともかく徹底的に議論するという哲学の方式が私には新鮮であった。 結局、大学院進学時には、哲学ではなく、科学史を選択したものの、その当時入手できる大森荘蔵氏の著作はほぼ読んだように記憶している。
現時点で正直に語れば、大森荘蔵氏の哲学が私の残してくれたものは、その哲学学説ではなく、問題をいちから考え抜くというスタイルであった。当時、自己責任や自己決定ということばは今のように流布していなかったが、自分で考え抜いた上で自分の唱えた思想・思考に個人で責任をもつという、個人主義を体現した姿勢がいまでも深く心に残っている。オールド・リベラリストの面目躍如といったところであろうか。
その我が師大森荘蔵氏が、私たちに残してくれたエッセイに、「知識と意見」と題するものがある。放送大学の教材のひとつとして編集・出版された『科学と宗教』(日本放送出版協会、1988)という、広く読まれたとは思われない出版物に収められているので埋没しているように見受けられるが、日本社会における教養概念の見直しのためには、核心的となりうるヴィジョンと意見を提示してくれている。意見を鍛えること、という大森荘蔵氏の教養概念の精神に従い、このエッセイでは、第1に大森荘蔵氏の意見を紹介した上で、第2に大森荘蔵氏の見方を現実の大学の教育体制に適用してみたい。この試みは、教養教育に明快で着実な立脚点をうちたてるための非常に有益な視点を与えてくれるであろう。
現状認識と逆転の発想
まず、「知識と意見」における大森荘蔵氏の基本的現状認識と観点を紹介しよう。大森荘蔵氏が端的で明確な議論を展開しているので、その部分を少し長くなるが、そのまま引用しよう。戦後半世紀、日本の社会は「教養」という概念の意味を創造することができなかった。この文化的空隙に乗じて、教養とは専門のための準備であり、予備であるという間に合わせのその場しのぎの解釈が流通して、大学のカリキュラムの予算の基本となり、時には人事にまで影響を及ぼした。しかし、このいかにも官僚的事務的な解釈はもう廃棄すべきであろう。それに代わって、教養と専門との関係を知識と意見という観点から眺めてみてはどうだろうか。つまり、専門的知識の探究が専門的研究の仕事であるのに対して、意見の形成や鍛錬が教養の意味だと考えるのである。もちろん、意見の形成や鍛錬にはその主題について十分な知識が必要であり、その知識は専門知識のストックから供給され修得される他はない。・・・そうだとすると専門と教養の関係は従来の解釈の場合と逆転する。教養が専門への準備なのではなく、専門知識が教養のための準備なのである。
歴史的経緯を補足しておこう。学生たちが大綱化以前の時代半ば侮蔑的につかっていた「ぱんきょう」は、正式には「一般教育」であり、第2次世界大戦後GHQが敗戦国日本の教育改革のために導入したものであった。アメリカの大学教育においては活用されていた General Education は、そのまま日本語訳されて「一般教育」として新制大学に導入された。戦後日本社会では、大学が大学と名乗る以上、基本的に設置すべき授業科目として設定された。つまり、大学設置基準のなかに、人文科学、社会科学、自然科学という区分毎に最低必修単位とともに指定されたのである。(もとのものでは、人文、社会、自然の各分野にわたり、それぞれ最低12単位。)
この「一般教育」の空洞化については、数多くの適切な指摘があり、妥当だと思われる原因分析が存在する。もっとも大きくつかまえれば、アメリカで実施されていた「一般教育」の理念を日本の大学人が理解することなく、人文、社会、自然という下位区分のなかで、法学、政治学、経済学、社会学、文学、歴史学、物理学、化学、生物学等々の既存のディシプリンの、下請的な、それぞればらばらな内容の講義が行われているだけであった。ひとことで言えば、日本全国で一律に実施されたこの「一般教育」の運営体制が、「一般教育」の理念を裏切っており、日本社会における教養概念の空洞化に大きく寄与したのである。
その意味では、1991年の「大学設置基準の大綱化」は、それぞれの大学がそれぞれの大学の教育・研究の目的や見地に従って、「教養教育」を再定義する絶好の機会であった。もちろん、大綱化を受け、多くの大学で新しい様々な工夫がなされ、はっきりとした進歩もあった。しかし、同時に、ただ教養部を解体し、「一般教育」科目を減少させるという後退も多くの大学で見られたことは、日本社会の悲しい事実である。
多くの大学では、以前の「一般教育科目」は、「総合科目」に改編されたが、新しい「総合科目」を中身のある教養概念に仕えるものとするには、科目名称の変更だけにとどめず、いくつか配慮すべきポイントが存在する。そのポイントを整理してみよう。
1)入門的、基礎的科目との概念分化
2)専門分野との分化と連携
3)授業方法
4)実施体制
1)すでにこの点は多くの大学でなされたことであるが、専門分野への導入科目、入門的科目との概念分化は必須である。そうしなければ、専門教育の下請けという位置づけから教養科目は逃れられないこととなる。(概念分化は、授業科目名、運営形態の分化に反映されなければならない。)
2)専門分野は、それぞれの学部、大学において別々である。アメリカのコミュニティ・カレッジのようにリベラル・アーツ教育そのものを専門とする大学を除き、専門分野とは異なりつつも、その専門分野の特徴に沿った教養教育が構想されるべきであろう。(専門分野を教養教育に開いていく形と、教養教育が専門分野を補完する形が考えられるであろう。)
3)早期ゼミの形式や、学生自身の発表と討議からなる授業等、教育目的に応じて、授業方法は多様化されるべきであろう。なお、このことは一概に大人数講義を否定するものではない。知の世界の先端に触れつつ、刺激的でわかりやすい講義というのも存在する。そうした講義においては、できるだけ多くの学生に聴講してもらうことが望ましい。
4)「総合科目」が1年2年の間に、単位をそろえればよい科目となってはならない。その形態をとると、専門教育の下請けという制度的慣性が働き、以前の「ぱんきょう」と同様の位置づけに埋没してしまうであろう。新しい教養概念
さて、教養教育の内容であるが、故大森荘蔵が的確に記述している。ここでも、少し長めに引用しよう。その[教養]の訓練とは第一に、できるだけ多くの意見に接してそれを理解し、批判し、比較する力を養うことであり、第2には、できるだけ多くの主題について自分自身の意見を形成し、それを明確な言葉で述べることである。教養とは物知りになることではなく、優れた意見を持つことなのである。そのような訓練はかつてレトリク(修辞学)と呼ばれて中世西欧の学校では全人的教科とされていたと聞いている。実際現代でも、自然について、歴史について、人間について、科学について、宗教について、税法について、脳死についてと人生全般についてバランスのとれた意見を持つことこそ全人的な教養の意味ではなかろうか。その意見を単に漠然としたフィーリングであるのではなく、自分の胸の底から言葉で述べることができ、討論することができ、あわよくば説得することができる意見でなければならない。つまり、意見とは実は「思想」であり、言語こそその思想の中核なのである。
古い時代には、「陶冶」という言葉で表現され、最近では全人教育という言葉で示される内容のひとつが、ここに明確に述べられている。もちろん、「陶冶 Bildung」は、19世紀のドイツ大学の改革(フンボルト理念に基づく大学改革)で体現化された考え方であり、とくにゼミナールによる専門教育を通しての、人格形成とまとめることができる。ゼミナールがしっかりと機能するのであれば、人文系の学部や大学においては、なおまだ、専門教育を通しての意見の鍛錬、思想の訓練は可能であると思われる。また、教養を専門とする大学では、この形式はオプションの一つとなることができよう。
また、一つのテーマに関して、出来るだけ多くの異なる見解を知り、それを批判的に比較照合した上で、自分の見解を作りあげていく作業は、専門論文作成の基礎であり、この点でも専門分野での訓練を通しての教養の鍛錬は、可能であると言える。もちろん、教養の訓練と、ただ一つの専門分野での訓練とに差はあり、それは、現代社会に生きるものとして必要だと思われる多様なテーマについて、意見を鍛える作業を行うべきだという主張である。
大学を卒業してしまった者であっても、この点は、必要ではないだろうか?
つまり、ここでの教養は、大学在学中だけ学べばよい知識というよりもむしろ、生涯教育、生涯学習というものの柱となるべき理念と言ってよいのではないかと思われる。
アリストテレスが喝破したように、社会的存在としての人間にとって、政治は本質的である。国民の教養として、この概念が一般化すれば、機能不全に陥った政治に新鮮な空気を提供することが出来るように思われる。
さて、「自然について、歴史について、人間について、科学について、宗教について、税法について、脳死についてと人生全般について」と記されるテーマだが、ここは、教養教育の実施者の力量が問われるところであろう。21世紀になった現時点で考えれば、1)環境問題の多様な側面、2)テロリズムと戦争の問題、3)脳死臓器移植と先端生殖補助医療の問題、4)社会の安全とプライバシーの問題、5)グローバリズムの正負、6)自分を守るための法律の知識、7)少子化・高齢化・人口減のもたらす現在と未来、8)死の準備教育、等々をあげることができるであろう。学生たちの自己形成や陶冶という観点に立てば、様々なインターン制度や、ヴォランテイア活動支援、留学支援をこのなかで考えることも可能であろう。教育体制への応用
戦後日本社会の教養教育の体制を図式化して掲げてみよう。
専門 上位課程
教養 下請け大森荘蔵氏のビジョンに従うと、これは、次のように見直すことができる。
専門知識
日常的なことがらに関する健全な判断力や意見大学における教育体制としては、戦後日本を支配していた上下関係を一部逆転させながら、完全に転倒というわけではなく、横転させてみたい。つまり
専門教育→教養教育
というふうに見てみたいのである。
その主旨は、一文でまとめれば、次のようになる。
専門知識や専門技能を身につけたその先に、いつでも、日常生活を営む上で、あるいは現代社会における市民生活を営む上で、その生活を豊かにするものとしての教養があると見たいのである。
大綱化以前の日本の大学においては一般的に、そして大綱化以降の日本の大学の相当割合においても、1〜2年生は、入門的、一般教養的な知識のための課程に当てられ、3〜4年生が専門課程となっていた、あるいはなっている。
しかし、一部の大学においては、(たとえば、当東京外国語大学におけるように)入学時から専門教育を本格的に実施している。そうした体制をとる大学にとっては、「専門の先の教養」というこの体制は、まさにうってつけの教育システムを用意してくると言えよう。
むろん、大学入学時までに学生が得てくる知識・技能と、大学が用意する多様な専門分野の間には、無視し得ない乖離・距離があり、入門的な科目群、あるいは基礎的な科目群をこのシステムは否定するものではない。しかし、前述のとおり、専門教育への橋渡しをする、専門教育の基礎や入門的科目と、ここに提示した意味における教養科目は、概念的には制度的にも峻別すべきであると考える。
大綱化以降、日本の多くの大学に設置された「総合科目」とは、基礎科目や入門的科目ではなく、この意味での教養科目にこそ、ふさわしいのである。
この構想によって、具体的な履修パターンを例示してみよう。
学ぶべき専門が入学時において決まっている大学においては、入学時の時点から集中的に身につけるべき専門知識と専門技能の修得にあたらせる。必要であれば、入門科目、基礎科目を設置して、導入的・基礎的知識・技能を修得させる。それと同時に、現代社会の様々な問題に対して視野を開くための「総合科目」を自由に選択させる。
後期の専門課程は、そのぞれの専門分野に応じて立てられるであろうが、後期にあっても取るべき教養科目を用意しておく。それは、3〜4年生向きの「総合科目」を開設するということでも、ある期間大学の外にでるということでもかまわないであろう。あるいはその分野の専門家を外から呼んで、しっかり議論できる場を設けるということも考えられるであろう。
ポイントをまとめておこう。第1に、教養科目を1〜2年生だけの単位をそろえればすむ科目とはしない。全学年にわたるように組み込みのが理想だが、後期にも何らかの教養教育を実施する体制を担保することが重要である。第2に、視野を学生においても教官においても大学の中に閉じてしまわないように、いつも大学の外との連携・交流を頭のなかにおいておくべきであろう。ある程度の専門知識・技能を身につけたあと、留学やインターンや、あるいは西欧中世の大学生のように放浪の期間を設けることも有用であろう。まとめにかえて
教養を、専門的諸学問分野のように、かたい枠で閉ざされた空間として概念規定することは、教養の趣旨に反するであろう。ここに示したのは、日本社会において教養概念を再構築するには、どういう拠点がありえるかをさぐるひとつの試論である。
その試論では、大森荘蔵氏の「意見と知識」という観点を採用することにより「専門の先の教養」という新しい視角を提示しえたと考えるが、それをどう活かしていくかは日本の大学人の取り組むべき重要な課題だと言ってよいだろう。参考文献
大学問題についての著作は、非常に数多く出版されている。ここでは、今回の試論を書くうえで念頭にあったごくわずかのものをあげるにとどめよう。
大森荘蔵「知識と意見」『(放送大学教材)科学と宗教』(日本放送出版協会、1988),pp.373-6.
加藤尚武「情報媒体の変化と教育方法論」越智貢・土屋俊・水谷雅彦編『情報倫理学』(ナカニシヤ出版、2000),pp.218-239.
日垣隆『<検証>大学の冒険』岩波書店、1994
竹内洋『教養主義の没落:変わりゆくエリート学生文化』中公新書、2003
アレゼール日本編『大学界改造要項』藤原書店、2003
ハスキンズ『大学の起源』青木靖三・三浦常司訳、社会思想社教養文庫、1977
古川安『科学の社会史』増補版、南窓社、2000
ひとりで4時、室温19.1度。朝一番で歯医者さん。
歯医者さんの朝一番は9時半。9時15分に家をでて、まず、郵便局で本を2冊送り出しました。レビューコピーを書評者のもとに送り届けます。それから銀行。おおきいちびが昨日教科書代を自分の立て替えで払っています。それに歯医者のお金を降ろしました。
9時25分頃歯医者について、しばらく待機。右下奥歯の奥側にちいさな虫歯の芽があるそうです。次回に処置してくれることになりました。いつものトータルケア。今回が一番痛みがすくなく、それゆえメンタルショックも小さくてすみました。それでも終わって11時。家では、残っている片づけに着手。来週中にほぼゴミとして出すものは出すことができます。木曜日に粗大ゴミを3つ出します。これが最大です。
日が暮れてから次の本が届きました。
三中 信宏『思考の体系学: 分類と系統から見たダイアグラム論』春秋社、2017
ひとりで4時15分、室温19.6度。全員出動。
午後に授業。第2週です。
おおきいちび、妻、中学生、ちいさいちびの順にでかけました。私はゆっくりめで10時18分武蔵境発の西武線。
研究室でスキャンの作業。数点を進めることができました。
11時半頃お弁当。12時45分頃、生協に行って、わずかに買い物。
4限は3年生のゼミ、3人に発表してもらいました。5限は4年生のゼミ、2人発表しました。
5限終了後2人の学生の書類に署名・押印。5時52分多磨駅発の電車で帰ってきました。ちいさいちびが直前に帰宅したということでした。
生協に行ったとき、『世界思想』45号(2018春)を見つけ、持って帰りました。特集は「メディア・リテラシー」。著名人が執筆者に名を連ねます。私の今のテーマに関係する、三中信宏「データ可視化の落とし穴―見えること vs. 読めること」『世界思想』45号(2018春): 76-80 をまず読みました。三中信宏さんの『思考の体系学:分類と系統から見るダイアグラム論』(春秋社)がグラフやダイヤグラムを主題にしていることが書かれています。入手するしかありません。
河野さんの手配による編集委員会に対する献本が昨日と今日届いていました。昨日は、丸善から、今日は岩波から。それぞれ、書評担当者に転送します。
ifs (海外事情研)にお願いして、『クァドランテ[四分儀]:地域・文化・位置のための総合雑誌』No. 20 (2018) を一部頂きました。帰宅するとき、メールボックスで受け取りました。 紙で配られる『クァドランテ[四分儀]:地域・文化・位置のための総合雑誌』の最終号です。李孝徳さんが中心となって企画した2件の書評コロキアムならびに李孝徳さん本人の論文が掲載されています。これを読みたくて、紙媒体で頂けるよう、ifs さんに依頼しました。
特集1「書評コロキアム」:高野麻子著『指紋と近代』
特集2「書評コロキアム」:金哲著、渡辺直紀訳『植民地の腹話術師』
李孝徳「人種主義を日本において再考すること―差異、他者性、排除の現在」
→18.4.14 李さんの論文を読みました。力作・労作です。最後の日本の部分、もうすこし丁寧に論じてもらうともっと素晴らしいものになったと思います。
ひとりで4時45分、室温17.3度。昨日と同じく午後に会議。
これも、昨日と同じく、朝方すこしだけ片づけをしてから、大学へ。9時42分武蔵境発の西武線。
研究室に着いて、スキャン。2章進めました。11時過ぎにお弁当。
12時40分から2時15分ぐらいまで会議。
2時40分多磨駅発の電車で帰ってきました。もしかしたらどこかで電車が止まっているのではないかと思われるほど、強風が吹き荒れていました。
日が暮れてから次の本が届きました。
渡邉 大輔『イメージの進行形: ソーシャル時代の映画と映像文化』 人文書院、2012研究室にいるあいだに、懸案の邦訳クラウス『オリジナリティと反復』から「写真の言説的空間」を読みました。さすがです。すばらしい批評です。
イントロは、ティモシー・オサリヴァンの写真<トゥファ岩のドーム、ピラミッド湖、ネバダ州>(1866年撮影)とこの写真の石版印刷による複製(クラレス・キング『地質学体系』1878 に収録された)の比較から始めています。そして、複製が地質学的言説空間に所属するものであること、もとの写真が美術館の陳列壁面用のもの(ベンヤミンの用語では展示的価値に当たると思います。)美術鑑賞用言説空間にあることが指摘されます。しかし、もっと重要なポイントは、「ティモシー・オサリヴァンの写真は19世紀には出版されておらず、一般に流通したのは唯一立体写真(ステレオグラフィー)という媒体によってだった。オサリヴァンの著名な写真はたいがい立体写真として存在したのである、ウィリアム・ヘンリー・ジャクソンの場合と同じく、より多くの人が見ることができたのは立体写真としてだったのである。」
このつかみと展開が抜群です。
p. 114 「最後に眺めは、この特異性、この焦点を、世界の一つの複合的表象、つまり一種の完璧な地勢図の中に、ある一つの瞬間として登録する。というのも「眺め」が保管された物理的空間は常に、一つのキャビネットの中だったのでり、その引き出しには地理的体系の全体が一定の順序に配列され保管されていたのである。ファイル・キャビネットというのは、壁やイーゼルとは別物である。」 地理学的空間
「眺めと土地測量は相互規定的であり相互連関したものだ。」
p.119 「アッジェが自らの画像に適用したコード化の体系は、自分が仕事をした図書館と地誌学コレクションのカード・ファイルに由来しているのである。」
p.116 「アウグスト・ザルツマンの場合がそれであり、彼の写真家としての経歴は 1853年に始まり、一年も経たないうちに終わった。」「この歴史に登場する他の主だった人物たちもまた、この職業に就いてから十年足らずでやめていった。ロジャー・フェントン、ギュスターヴ・ルグレイ、アンリ・ルセックがそうである。」
p. 113 「立体写真が実質的にマス・メディアとして普及できたのは、機械化された印刷技術のおかげであった。1850年代に始まって、1880年代までほとんど衰えることろを知らなかった立体写真の売上高は、目も眩むばかりである。1857年にはすでにロンドン・ステレオスコピック社は50万台のステレオスコープを売り、1859年には、十万種以上の立体眺望図 (stereo view)を載せた目録を誇っていたのである。
ところで立体鏡の実践がその対象を固定したこの言葉―眺め view ―にこそ、私たちはこの経験の特殊性の所在を突き止めることができるのである。まず何よりも眺めという言葉には、既述のような、遠近法的に組織化された奥行きを劇的に強調する響きがある。」→ 18.4.12 クラウスの写真論が他にないかと探していたら、次の文章がヒットしました。
平芳幸浩「ロザリンド・クラウス―指標としての写真」『写真空間3 特集 レクチャー写真論!』(青弓社、2009): 89-100
自宅にあるはずです。家族がではらってから捜索。階段下のスペースの一番下に積み上げていました。『写真空間』は4まででています。3冊がそこにまとまっていました。3冊を抜き出し、上記の解説論文を読みました。副題にあるとおり、指標(インデクス)の考え―もちろん、もとはパースの記号論です―の適用を中心に解説してくれていました。
ひとりで4時50分、室温15.9度。こどもたちがでかけてから、すこし我が家の片づけ。
お弁当をもって9時54分武蔵境発の西武線。研究室でスキャン。授業のテキストです。3分の1ぐらいはできたと思います。
11時過ぎにお弁当。
12時40分から会議。2時20分ぐらいまで。片づけを続行したいので、2時40分多磨駅発の電車で帰ってきました。
中学生は給食を食べてすぐに帰ってきたそうです。おおきいちびは5時前後に帰ってきました。ちいさいちびは、6時半ぐらい。部活の終わり頃、こけたそうです。ひざにケガをして帰ってきました。かなり痛がっています。ちいさいちびは自分で水洗いをし、姉に大きめの湿潤バンドの購入にとんでもらいました。こういうのは姉の将来の仕事です。
ちなみに、姉は、9時に新宿でバイトの面接だそうです。
ひとりで4時30分、室温14.9度。おおきいちびと中学生は入学式。おおきいちびには私、中学生には妻がアテンドします。おおきいちびの入学式は、入学式、父兄説明会(全体)、父兄説明会(学科別)と続きますが、全体説明会が終わったあたりで、外語に戻ります。午後は授業があります。月曜日の授業は今日から始まります。
ちいさいちびの学校も入学式ですが、ちいさいちびは部活の勧誘だけ行けばよいということです。8時半前、家の前に立って撮影。基本はスマホですが、私もデジカメを持ちました。妻たちが先にでました。
おおきいちびは10時の入学式に9時半集合と言われていると言います。ちいさいちびを起こして、戸締まりを頼み、8時40分西荻発の電車を目指して家をでました。靴が慣れないようです。痛い、痛い、と言っています。8時40分の電車はわずかですが、逃しました。そもそも電車が遅れているようです。遅れていても、動いていれば、だいたいの時刻には到着します。9時10分ぐらいに御茶の水に着きました。入り口の入学式の看板のところに入学生と親が長蛇の列をなしています。おおきいちびに聞くと、ママから写真撮影してくるように指示があったので、並ぶ、と言います。諦めて並びました。9時40分ぐらいに撮影できました。
急いで会場へ。なんと、会場近くにも撮影場所がちゃんと用意されています。うーん。MDタワーの2階に講堂があります。新入学生たちは、椅子が指定されています。親は、上の空いた席に座るようですが、たぶん、必要な数の半分にも足りない感じです。係の方からは、隣の部屋で座って中継を見るか、立ち見かと言われました。ほとんどの父兄は立ち見です。私も立ち見をすることにしました。医学部はパンクチュアル。10時50分にはちゃんと終わりました。入学式の様子から父兄説明会は聞く必要がないと判断して、大学に帰ることにしました。
11時過ぎに中央線に乗ることができました。武蔵境駅の外のパン屋さんで昼食のパンを買って、11時42分武蔵境発の西武線。
大学の前で、非常勤をお願いしている山口さんとすれ違いました。挨拶をすることができて、ちょうどよかった。それから図書館に行って、TLL で届いているクラウスを受け取りました。12時過ぎに研究室に着きました。これなら昼食をとっても十分午後の授業に間に合います。
3限は、6人、4限は5人。
5限の教室に10分前に入り、お手伝い。だいたい大丈夫という感触を得て、5時過ぎに教室をでました。
5時18分多磨駅発の電車で帰ってきました
ひとりで5時20分、室温16.3度。すこしですが、気温が下がりました。晴れ。ゴミの片づけに力を入れています。おおきいちび蕎麦屋でバイトをしたい、ついては見学してきたいと言います。ゴミの片づけを手伝うことを条件に、お昼に連れていってやることにしました。新宿伊勢丹の8階だそうです。12時頃家をでました。
新宿東口は、歩行者天国になっています。以前より、海外からの観光客が増えています。伊勢丹ではなく、伊勢丹会館でした。蕎麦屋ではなく、蕎麦とウドンのある和食屋さんでした。お店の前に着くと、20〜30分お待ちいただきますの弁。お年寄りと家族連れで賑わっています。1時頃なかに呼ばれました。
おおきいちびは蕎麦とデザートを食べて、おいしいと喜んでいました。私は黒酢あんかけウドン。こちらもおいしかった。もう一箇所候補としている店があるそうです。京王百貨店の8階(?)だそうです。東口から西口にまわるのはほんとうに久しぶりです。頭がつきそうな狭い通路を通ります。8階のレストラン街にありました。外から見て、どちらにするか悩んでいました。
そこからこれも迷路のような通路を通って、南口に。
妻に買い物を頼まれています。西荻のセイユーで夕食の材料を買って帰りました。
ひとりで4時30分、室温20.9度。おおきいちびは部活の体験、ちいさいちびは午前練、中学生は自宅でゲーム、妻は誕生日です。
ちしさいちびは起きてきて、ママに誕生日おめでとうを言ったあと、年齢を聞いて、「高齢化、やばい」と一言。うけました。ちいさいちびはもっている雰囲気を裏切って、こういう寸言を輩出しています。午前中に買い物。駅のセイユー。午後、バースデーケーキを買ってきます。→3時頃、近所のお店にフルーツタルトを買いにでましたが、ありません。フルーツケーキがよいと言っています。吉祥寺の駅ビルのなかのタカノに行くことにしました。風がつよく、シャツ1枚だとすこし寒く感じました。
我が家はグレートイーターを含め5人です。一番大きいのを選んで、包んでもらいました。中学生を除き、今日は全員昼寝をしました。ちいさいちびは午前練が長引いて疲れたようです。おおきいちびは部活の体験を午前から午後へ続けてこれも久しぶりで疲れたようです。
夜の8時頃、ハッピーバースデー。最近子どもたちはケーキを残すようになりました。妻はもともと洋菓子はあまり好きではありません。大好きなのがおおきいちび。ちいさいちびも中学生も嫌いではありませんが、あまり量は食べません。何割かは冷蔵庫に戻りました。
2015年10月29日にダウンロードした(そのとき読んだかどうかは覚えていません) 板垣俊一「江戸時代の覗き眼鏡 : 江戸時代における西洋製光学器具の受容」『新潟の生活文化』17(2011), 9-24 を再読しました。プリントアウトせずに、MacBookAir の画面上で読みました。
調べたかったのは、「泰山鏡」という言葉。『のぞいてびっくり江戸絵画』の190頁に「元々は西洋からの舶来品が主流であったが、人気が高まってくると、「泰山鏡(眼鏡絵器具)」(作品番号58)のような日本製の覗き眼鏡も作られるようになる。」という文章があります。「泰山鏡」という言葉の普及の具合を調べたかった。
板垣俊一(2011), p.16 に写真5として、町田市立国際版画美術館蔵、西洋眼鏡絵10枚二組付き寛政十二年(1800) 65×67×39.3センチメーター (図録『HANGA 東西交流の波』、東京新聞、2014より)の日本製ゾグラスコープが掲げられていて、その蓋の銘文に「泰山鏡」という言葉があるということです。
p.23, 注21) でその銘文(もと漢文)を次のように訳されています。「この絵を鏡とレンズ越しに覗くとあたかも泰山に登って天下を指先で描いた如くである。これによって、レンズを「泰山鏡」と名付ける。また蓋鏡を縮地と名付けるのは万里隔てた土地を縮めてあたかも眼下にあるが如く見せるからである。」一つの箱の表面には泰山鏡、もう一つの箱の表面には縮地鏡と墨で書かれているとあります。
→ ネットの検索からわかる限りでは、「泰山鏡」という用語が普及した気配はありません。→日本の覗き眼鏡や覗きからくりについて、もっともよく調べられているのは、板垣俊一さんと坂井美香さんです。
板垣さんの本と論文は次。
板垣俊一『江戸期視覚文化の創造と歴史的展開:覗き眼鏡とのぞきからくり』三弥井書店、2012
板垣俊一「中国の<のぞきからくり> : 拉洋片(ラーヤンビェン)」『県立新潟女子短期大学研究紀要』45(2008), 389-407
板垣俊一「江戸時代の覗き眼鏡 : 江戸時代における西洋製光学器具の受容」『新潟の生活文化』17(2011), 9-24
板垣俊一「遠近法絵画と覗き見の装置 : 現実の風景はどのようにして絵になったのか」『国際地域研究論集』 2(2011), 157-175坂井さんの論文は次。
坂井美香「覗きからくりとpeepshowの接点―西欧覗きからくり― (2008年度 奨励研究成果論文)」『年報非文字資料研究』6(2010): 221-248
坂井美香「近世覗きからくりは何を見せたか、その1 ―カラクリを覗く―」『年報非文字資料研究』8 (2012): 107-136
坂井美香「明治初期,「西洋眼鏡(せいようめがね)」の盛衰 : 人はなぜ覗き,なぜ観るのか」『年報非文字資料研究』9 (2013): 93-118
坂井美香「 覗きからくり、「からくり」考」 『年報非文字資料研究』10 (2014): 409-438
ひとりで4時55分、室温17.9度。おおきいちびは健康診断、ちいさいちびは新学期(始業式)、中学生はママと眼鏡の更新に行きます。私はお留守番。
妻と中学生がでかける前に、郵便をだし、銀行により、ちいさいちびのスイカにチャージし、私の昼食を買ってきました。妻と中学生は11時ぐらいにでかけました。お腹が空いたので、先に回転寿司に行くそうです。その後、吉祥寺の眼鏡屋さん。中学生生活に必要なもろもろも買ってくるそうです。
ちいさいちびは午後の部活から夕方に帰ってくる途中、自転車がパンクしたそうです。自転車屋さんによってパンクの修理をしてくるということですこし遅くなるという連絡が妻にありました。ちいさいちびひとりだとそもそも自転車屋さんに辿り着くかどうか心配だったのですが、しっかりとしたお友達といっしょだったそうです。パンクを直し、照明もなおしてもらったそうです。パパ、1000円ちょうだい、というのが帰ってきての第一声でした。そのぐらいの値段です。
図書館から ロザリンド・クラウス『オリジナリティと反復: ロザリンド・クラウス美術評論集』リブロポート, 1994 が TLL で届いたという連絡が午後3時過ぎにありました。月曜日に受け取ります。
ひとりで5時10分、室温20.8度。6時頃、燃えるゴミを10袋以上、出しました。曇り。昨日より気温が低い。テレビの天気予報によれば、このぐらいが4月上旬の平均気温だということです。
中学生は8時頃起きてきました。8時50分現在、女性陣はまだだれも下におりてきていません。
新学期の最初の授業が始まります。大学の新学期のスタートは昨日でした。はやい。昔の感覚からするとすごくはやいと感じられると思います。
おおきいちびも中学生もなにもないはず。ちいさいちびはオフなので、友達とお昼に焼き肉だと言っています。
妻が10時前に起きてきました。すぐにでかけました。駅前のパン屋さんで、昼食のパンを買ってから、10時18分武蔵境発の西武線。
事務的用件がいくつかあります。研究室ですこしこなし、11時10分すぎにサンドウィッチで昼食。12時をすこし過ぎてから、山田さんがお見えになりました。丁寧に挨拶に来てくれました。ほんとうは、私の方からお礼すべきところです。山田さんは12時40分から授業。12時半過ぎに教室に向かわれました。
2時過ぎにひとりの学生が飛び込んできました。ゼミの変更相談です。松浦先生と博多先生の転出に伴うものです。話を短く聞いて、OK を出しました。4限と5限のゼミにでてもらうことになります。
4限のゼミは14名、5限のゼミは8名出席でした。5限の方、あきらかに数名欠席です。
4限のあと、すこし時間に余裕ができたので、101教室に行ってみました。4限は空いています。これは、5限の授業の準備には好都合です。3時50分に再度教室に入るとすでに井上先生と久野先生がお見えでした。挨拶をし、TA の井伊さんを待ちました。井伊さんが見えてから、セッティングをお願いし、資料を配付。チャイムの鳴る前でしたが、私の方から学生諸君に授業評価の方式について短く説明。チャイムが鳴ったのを確認して、それでは井上先生よろしくお願いしますと教室をあとにしました。
5限も半分ぐらいで終了。4時52分多磨駅発の電車で帰ってきました。帰宅すると、中学の同窓会の案内(還暦なので集まろうとありました)、ならびに東京都写真美術館編『イマジネーションの表現』東京都文化振興会,1995 が届いていました。これは、東京都写真美術館が平成7年に行った企画展、映像工夫館展[テーマ1]「イマジネーションの表現」の図録です。「アニメーション」「立体視」「拡大と縮小」「記録としての映像」が残り4つのテーマです。
展覧会は、前期と後期の2回に分けられています。前期が「錯視と視覚トリック」と称し、平成7年の1月から5月まで。後期が「幻影装置」と称し、5月末から9月まで開催されていました。前期の部分の最後の方から後期のはじめにかけて、私が扱っている光学装置の図版と解説が豊かです。
ページ数が付されていないので不便ですが、chap1 立体視のところに、ステレオビュワー、ステレオスコープ、chap 2 イマジネーションの表現 の箇所に、ステレオスコープ、反射式覗き眼鏡、chap II part 1 にカメラオブスクラ、ポリオラマ劇場、メガレトスコープ、ピープショー Peep Box、、chap II part 2 に、マジック・ランタンが掲載されています。一休みして、8時過ぎに昼間、自分で作った宿題の回答を送りました。
ひとりで4時45分、室温20.6度。おおきいちびはプレスメントテスト、一日中です。6時半に起こします。ちいさいちびはやっとオフ。ひどい花粉症をかかえての遠征続きはたいへんでした。やっと休めます。外出しなければ、花粉症はかなりおさまります。単純に花粉にふれる量がちがいます。
お昼に面談、午後会議。
9時6分武蔵境発の西武線。片づけと文献調査。
11時過ぎにお弁当。正午に面談。
2時半から会議、4時まで。一度研究室に戻り、メールを1本だしてから、帰途。4時28分多磨駅発の電車に乗ることができました。
夏日。半袖でよかった。
ひとりで4時30分、室温19.7度。私の新学期は今日から始まります。午前中に大学院のオリエンテーションがあります。10時から12時半ぐらいまで。大学院執行部として私も出席します。
ちいさいちびは昨日と同じ時間割で朝練。8時に起きて、9時に間に合うようにでかけます。まだまだ花粉が大量に舞っています。我が家の場合、症状のひどさの順にならべると、ちいさいちび、おおきいちび、私、となります。妻と中学生にもすこし症状がでてきています。
8時42分武蔵境発の西武線。大学前のコンビニで昼食を買ってから、キャンパスへ。郵便がけっこう来ていました。
新学期にむけての準備をしているうちに時間となりました。10時からのオリエンテーションのために、10時5分前に教室に入りました。研究科長の青山先生はもうお見えでした。
司会を担当されている先生が開始時刻を10時半と誤解されていたようです。司会はただの進行です。私が引き受けることにしました。資料を受け取って新入生全員が教室に入るのに手間取り、5分〜10分程度遅れでスタート。予定は、11時半まで。11時35分に終了しました。上出来でしょう。
その後、専攻・コースに分かれて、学生証の配布と、指導教員の決まっていない新入生への相談とアドバイス。私の部屋が終わって、隣の部屋をのぞくと、院生が一人と、教員が2人。予定していた教員が今年で定年退職です。研究テーマを聞いて、もっともふさわしいと思われる教員名を見つけました。あとは、院生が先生と相談することになります。研究室に戻り、買ってあったお昼を食べました。今やっている研究のための文献調査をすこしと、授業開始のための準備。2時をすこしまわってから、学部の書類を教務課記録係にもっていって渡しました。そのまま帰途。2時28分多磨駅発の西武線で帰ってきました。半袖でもよいかと思うぐらい、暖かく、好天気。
帰宅すると家のなかの片づけがかなり進行していました。そのかわりに廊下はゴミ袋で迷路状態です。
体力の回復を待って、私もすこしですが、貢献しました。不要になったコード類を燃えないゴミとして捨てるため分別しました。[文献調査]
Rosalind Krauss, "Photography's Discursive Spaces: Landscape/ View," Art Journal, 42(Winter, 1982): 311-319 予想通り、これはウェブにpdf でありました。すぐにダウンロードし、プリントアウトしました。
ただし、邦訳は、外大図書館にはなく、他大学にILLで依頼しました。今週中には届くのではないでしょうか。
Edward W. Earle, (ed.), Points of View: The Stereograph in America: A Cultural History, Rochester, 1979 調べが行き届いていないだけかもしれませんが、これは、日本の大学図書館には入っていないようです。
上に書いた文献調査とは、こういう調査です。→18.4.4 zograscope を OED で引いてみました。
OED によれば、初出は、1753年 G.Adams Descr. & Use Universal Trigonometrical Octant 3(advt.) ”遠近法版画を見るためのzograscopes” という記述がある
残り3点は、20世紀の研究文献です。2点目と3点目は、1953年Annals of Science第9巻に掲載されたChaldecott の論文です。タイトルと「ジョージ・アダムズによって製作された装置・器具の商品カタログ以外には、18世紀・19世紀のどの文献にも "zograscope" への言及は見つけられていない」という文を引用しています。そうであれば、この光学装置(箱)を指すのに、 "zograscope" は使わない方がよいということになると思います。
最後のものは、1969 E.H. Pinto Treen 284 「通常、ジョージ王朝時代の shaving mirror として記述され販売されているが、それは違う。 "zograscope"はおそらく1750年前後に発明され、版画を拡大して見る装置として長い命を保った光学器械であった。」→ 18.4.4 このテーマだとバーバラ・スタフォードだと気付き、研究室で2冊、家に帰ってきて1冊、バーバラの本を確認しました。一応バーバラの視野には当然入っていますが、フォーカスがあっているかというとあっていないと思います。
『アートフル・サイエンス』(1997)の索引では、「光学キャビネ optical cabinets」5,267, 355;「光学箱 optical boxes」54, 71, 101, 339 として立項されています。「のぞき眼鏡 optical boxes」101, 339 もあります。
関連項目として、「カメラ・オブスクーラ camera obscura」39, 54, 55, 126, 178, 180, 267, 339、「幻灯 magic lantern」54, 56, 69, 72, 264, 267, 268, 338 があります。
339 「近代初頭の目人間たちはオプティカル・ボックスや[図50, 66]カメラ・オブスクーラを覗きこみ[図112]、スモークに幽霊を投射し[図48, 55]、振り子を操り[図99]、蒸気エンジンを動かした[図132]。手彩の折りこみ図版、切抜き絵、透かし絵、穴あき印刷などを見ると、こういう国籍を知らず、シリーズであることの多い出版物が本であると同時に玩具であることが知れるわけだ。」→ 18.4.5 足元に Barbara Maria Stafford and Frances Terpak, Devices of Wonder: From the World in the Box to Images on the Screen, Los Angeles, 2001 がありました。これは、今回の研究にぴったりの本です。関連箇所を読んでみました。
これはまさに共著です。前半をバルバラが書いています。「技術をみせる:魔術的領域」。後半は、テルパック(という発音でよいでしょうか)が書いています。「対象と文脈」。最後から4つめが "Vues d'optique" .pp.344-53
→→→ 18.4.5 スタフォード『ボディクリティシズム: 啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』高山宏訳、 国書刊行会、2006
p.481
英仏の光学箱(optical box)、ドイツの「書割絵 Kulissenbilder」、イタリアの「新世界 mondo nuovo」ーこれはピエトロ・ロンギ(1702-1785)、アレッサンドロ・マニャスコ(1667-1749)、有名なティえーポロの息子のジョヴァンニ・メーニコ・ティエーポロ(1727-1804)の絵に登場して有名ーは、カメラ・オブスクーラの延長線上にあった。これら全視(pantoscopic)の機械は架空の光景を3次元に、迫真なものに見せた。シミュレーション、「新世界」からの「新情報」が、縁日や市場のまばゆい喧騒の渦中ではなく、家庭という薄暗がりの私空間で広まっていった。覗機関(ピープショー)、ヴュ・ドプティーク (vues d’optiques)、切り抜き遠近法図などは操作者の俊敏さと経験に掛かっていた。・・・
チェンバースの『百科』の扉絵左前景に集められているようなオプティカル・ボックス類の黄金時代は[図105]、18世紀第2の4半期に始まり、世紀末にかけて続いた。水平に、直に見る方式か、柱の形になっていて、レンズを通し、柱頭部に取り付けられた角度調整ずみの鏡に反射させて見る方式のどちらかであった。[図84の31図] 外は紙製で彫りものを施してあるものが普通だが、多くはアウグスブルク製だった。本の挿絵を扱う中心地のひとつということもあって、アウグスブルクはヨーロッパ中に p.482 視覚娯楽を提供する発信基地となった。これら装置の組立法が主たるどの辞書、事典の光学関係記事中に触れられてもいた。
ヨーロッパ大都市の町並み、高明な宮殿や教会の見取り図、有名な戦場風景などをただ克明に伝えるというのに飽き足らず、こうしたイリュージョンにはあたかも次元が入り込む。理想化された眺望図、田舎のスポーツ、「雅びな宴」、狩、乗馬、楽興、ピクチャレスクな農家生活、紫煙くゆり立つ賭場風景、
大災害
「お化けの一種」
こうした遠近法奇器の行き着いたところが戦争覗き (polemoscope)であって、この覗機関は自らは見られずにある場所をずっと観察することができる仕掛けだった。
バーバラ・スタフォード『実体への旅 : 1760年-1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』高山宏訳、 産業図書、2008
索引 カメラ・オブスクーラ 22, 48, 369, 371-373
ひとりで4時、室温18.6度。新年度2日目。なにがあるのか知りませんが、おおきいちびを7時に起こすよう指示がありました。午前練のちいさいちびは、8時起床。
[模様替え]
ずっと前から、模様替えを計画していました。末っ子が中学生になったら、自分の部屋をあげるという約束になっています。そのためには、いろんな不要品を処理し、かなり大がかりな家屋内引っ越し作業が必要になります。
妻がその作業に着手しました。私もすこしずつですが、手伝うことにしました。中学生もすこし手伝いました。
ちいさいちびは、昼食後すこしのんびりしていたのですが、自分の部屋の整理(不要になった紙類や教科書等の処理)をやってくれました。ちいさいちびはこういう作業は熱心にやります。ちいさいちびの部屋の片づけはかなり進みました。
片づけに伴い、大量のゴミがでました。燃えるゴミは木曜日、燃えないゴミは金曜日です。しばらく家屋内にストックしておくしかありません。私は、自分の机のまわりの整理も同時進行。家屋内引っ越しの肉体作業に疲れたら、机に座って、整理にあたっています。橋本科研の整理を最優先しています。
[橋本科研:科学史学会シンポジウム]
橋本科研では、3月末になって、急遽、5月26日(土)、27日(日)に東京理科大学葛飾キャンパスで開かれる日本科学史学会年会に参加することになりました。3月末に準備していたのは、そのレジメです。橋本さんがまとめて提出してくれました。
東京理科大学には行ったことがあります。神楽坂にあるキャンパスでは、本当に若い頃、非常勤に行ったことがあります。しかし、葛飾キャンパスは、まったく知りません。グーグルマップで検索をかけてみました。我が家から1時半かかります。都内なのに、市川より遠い。朝一番のシンポジウムというのはないでしょうから、いつもよりはやく起きないといけないといった心配はいらないと思いますが、たとえば6時に終了して、帰り着くのが7時半ですから、そういう遠さ・不便さはあります。
東京理科大学葛飾キャンパスの最寄り駅は、JR常磐線(東京メトロ千代田線)「金町駅」または京成金町線「京成金町駅」です。私のところからは千代田線を使うことになりそうです。私の人生のなかで、金町駅はつかったことがありません。[シンポジウム 科学史における図像の製作と利用に関して]
吉本秀之(東京外国語大学)、田中祐理子(京都大学)、河野俊哉(暁星高校)、橋本毅彦(東京大学:オーガナイザー)
片づけの最中、クレーリの『観察者の系譜』が堆積した山のなかにあるのが見えました。今回の発表に関係します。ステレオスコープに関すると箇所を読み直しました。クレーリの『観察者の系譜』はかなり読み込んでいたのですが、ステレオスコープの部分はうまくつかめないでいました。今回読み直して、クレーリー自身もうまくつかめていないのではないかと思うようになりました。
p.174 でクレーリは次のように言います。「写真を除けば、一九世紀における視覚映像のもっとも重要な形式はステレオスコープだった。ステレオスコープ体験がどれほど広く社会に浸透したかということ、そしてまた、写真によって生み出された映像を経験する様態を、何十年ものあいだステレオスコープが定めていたことは安易に忘れ去られている。ステレオスコープの歴史も、他の現象のそれと混同されてきたのであり、この場合写真がその相手だった。」
「北アメリカとヨーロッパの全土にステレオスコープが広く商品として流通したのは、一八五〇年代以降のことにすぎない。」
最初の文に対する注(31)でクレーリーは次のように記しています。「ステレオスコープをまともにとり扱った文化的、歴史的研究はほとんどない。」(第四章、注31, p.263 ) ついで、その数少ない研究として三点を挙げています。
1.Edward W. Earle, (ed.), Points of View: The Stereograph in America: A Cultural History, Rochester, 1979
2.A. T. Gill, "Early Stereoscope," The Photographic Journal, 109(1969): 545-599, 606-614, 641-651
3.Rosalind Krauss, "Photography's Discursive Spaces: Landscape/ View," Art Journal, 42(Winter, 1982): 311-319 (邦訳クラウス『オリジナリティと反復』「写真の言説的空間」)次の注32) では「一八五四年に設立されたロンドン・ステレオコープ会社一社だけで、一八五六年までの二年間のあいだに五十万台のステレオスコープを販売した。Helmut and Alison Gernsheim, The History of Photography, London, 1969, p.191
クレーリの視野に、覗き眼鏡は入っていないようです。p.192 に「覗きからくり(ピープショー)、クロード・グラス、版画覗き箱(プリント・ヴューイング・ボックス)といった一七、一八世紀の光学機器類」という表現があり、訳注(p.280)がついています。これはすべて、覗きからくり、覗き箱を指しているようです。カメラ・オブスクラと混同されることのある覗き眼鏡は視野に入っていません。
そもそも光学装置として、認知が低いようです。科学装置の百科事典をうたう『科学大博物館―装置・器具の歴史事典』には、立項されていませんでした。ステレオスコープは、立体鏡はあります。pp.755-757. 2頁あまりがあてられています。
「ブルースターの器具の一つの改良版は1851年のロンドンの大博覧会で陳列され、特にヴィクトリア女王の賞賛を受けた。女王の関心は、立体写真術の大流行を刺激した。立体写真に対する大衆市場がすぐに確立され、そして立体鏡は凝った飾りが施され、19世紀の家庭に広く普及した。双眼立体鏡は当時の最も人気のある科学的玩具の1つとなった。」
「その人気は第1次世界大戦後には下火になった」。クレーリーに戻って。 p.266 note 50) 17、18世紀のあいだ、望遠鏡や顕微鏡の器具としての性能は驚くほど発達しなかったと、J.D. バナールは記している。19世紀になるまで、顕微鏡は「科学的、実際的な価値を有するものであるというよりも、哲学的な意味において、楽しみと有益さとを与えてくれるものだった。」J.D. Bernal, Science in History vol.2: The Scientific and Industrial Revolutions, Cambridge, Mass., 1971, pp.494-469 (邦訳、『歴史における科学(決定版)』鎮目恭夫・長野敬訳、みすず書房、1966年、p.277.
ひとりで4時40分、室温16.9度。とうとう4月。身分上、おおきいちびは大学生、すえっこは中学生です。おおきいちびは御茶の水である新歓コンパに出席するそうです。丸一日のスケジュールだそうです。ちいさいちびはやっとオフ。ブラック部活から今日は解放されます。
まとめると、おおきいちびは大学1年生、ちいさいちびは高校2年生、なおは中学1年生となりました。おおきいちびとなおは、新しい学校での学生生活となります。
昨日の八景島で味をしめたのでしょう、新中学生が UFO キャッチャーに行きたいと言います。昼食後、荻窪の駅前に連れていってやることにしました。
まず、スイカ。改札で、期限切れの表示がでました。発券機に入れれば、中学生用に更新されるというJR のおねえさんの言葉で、更新作業。
荻窪駅前に昔あったゲームセンターはなくなっていましたが、駅から50メートルほどの場所にある NAMCO は残っていました。100%本人に任せました。なにかこつがわかったのは、新中学生は3体をゲット。
私はただアテンドするつもりだったのですが、棒にぶら下がっているものの取り方がわかったと思ったので、確認してみることにしました。金属の菓子箱に入っているチョコを100円硬貨10枚を使ってゲットすることに成功しました。もちろん、買ったら、500円しないと思われます。習熟すれば、500円でとれるかもしれませんが、100円玉数枚は必要かなと判断しています。運動のために、帰りは徒歩。25分ぐらいで帰り着きました。天気がよく暖かい。歩いていると暑く感じました。
夕方、2号の残りの原稿、一般講演要旨の整理をしました。今年は15人。編集上の赤を入れ、順番に並べ、詳細プログラムを作成し、全ファイルを印刷所にメールし、全ファイルをプリントアウトし、郵便を明日投函します。なんとか最後まで通すことができました。
→ 18.4.6 高橋厚さんのはてなブログに次の記述がありました。4月2日付です。「四月から東洋大学文学部哲学科で助教として働きはじめました。ちなみに初仕事は新入生向けイヴェントのために購入されたダンボール3個分のお菓子と飲み物を台車で運び入れる作業でした。よろしくお願いいたします。」
もともとこのポストについていた坂本邦暢さんは、今年度から明治大学文学部心理社会学科哲学専攻の講師に移られています。今年からスタートする専攻ということです。5名の教員からなります。「心理社会学科」がよくわかりませんが、5名体制の哲学科と言ってよいでしょう。
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