ひとりで5時10分、室温23.9度。勝った、よかった。昨夜のワールドカップ予選。オーストラリア戦のことです。
8月の終わり。ひとりで5時30分、室温27.2度。昨日の予報によれば、外の気温はずっと下がっているはずです。→燃えるゴミを出すために外にでました。小雨が降っています。6時50分に息子を起こしてから、台所の温度計を見ると、25.3度まで下がっています。8月20日の日曜日なみの涼しさです。→息子が小学校にでかける頃には、24.6度まで下がっています。→24.4度まで下がりました。このあたりまでだと思います。→と思ったら、23.4度まで下がっていました。天気予報では、最高気温が24度だそうです。つまり、今日は、このあと気温がほぼ変動しないということです。
小学生はもうふつうに学校があります。高校生は、夏休み最後の日。
明日の金曜日の午前中に予定されていた会議は、審議すべき案件がなくなったため、中止と連絡を受けました。1時間程度のことですが、この時期にはたすかります。
また、事情ははっきりしませんが、土曜日に予定されていた仕事もたぶんやらずにすみます。こちらもたすかります。朝、次の本が届きました。
ポール・ド・クライフ『微生物の狩人』上・ 下 (岩波文庫 青 928-1&928-2)
秋元 寿恵夫訳、岩波文庫、1980
医学史家鈴木晃仁 氏の薦めによります。まず、エーリッヒのところを読みました。たしかに抜群に面白い。志賀潔や秦佐八郎がエーリッヒのところに留学して、大きな仕事に関与しています。普通、 秦佐八郎がエーリッヒのところでサルバルサンの合成に尽力したと記述されるので、秦は化学の仕事をしたのかと思っていたのですが、医学の仕事(動物実験)を勤勉に極めて正確に行っています。志賀もそうです。
月曜日からの授業に際して、この点を確認しておきたかった。
ちなみに、『微生物の狩人』の原著は、1926年に出版されています。古い本です。Microbe Hunter というタイトルで、レーフェンフックから話を始めています。せっかくですから、第1章のレーフェンフックも読んでおきました。一種の講談調とでもいうのでしょうか、どこまでほんとうかは不安になりますが、耳から聞いて、すぐに姿が目に浮かぶ、そういうスタイルで書いています。当たれば大当たりする、そういう種類の著作です。抜群に面白い。
どの程度信じてよいかは、日本で唯一のレーフェンフック専門家の田中さんに聞いておこうと思います。[2017年秋駒場の授業]
駒場の授業の日程です。
スタートは、9月29日。最後は、1月5日です。
初回:9月29日、2回目:10月6日、3回目:10月13日、4回目:10月20日、5回目:10月27日、6回目:11月10日、7回目:11月14日(火曜日)、8回目:12月1日、9回目:12月8日、10回目:12月15日、11回目:12月22日、12回目:12月26日(火曜日)、13回目:1月5日
金曜日5限の授業ですが、火曜日に2回入っています。11月14日の火曜日は、本務校で重要な会議があるので、駒場に出講することはできません。こういう不規則な日程をとると、当然、そういう事態は生じます。
従って、11月は、1回のみとなります。12月は、さすがに26日に会議は予定されていませんから、出講できます。13回の授業で、1回休むと12回ですから、それ以上休むわけにはいきません。
ちなみに、補講日は、11月15日(水曜日)全日、1月12日(金曜日)午前、1月16日(火曜日)全日、と3日設けられています。対応をどうするかは、学生たちと相談することになると思います。
ひとりで5時40分、室温28.3度。朝の室温がまた28度を超えています。
気温は高いままですが、小学校は今日から2学期。高校はさすがに9月に入ってからです。ちいさいちびは朝練。いつものように7時半に起こしました。作業の継続。 [ジョン・ハーシェル]
今回の私の主役、ジョン・ハーシェル (John Herschel, 1792-1871) は、科学の職業化という観点からとても興味深い人物だとわかりました。
有名な天文学者の父ウィリアム・ハーシェルの子として、ジョン・ハーシェルは、父から働かなくてもすむ遺産を相続しています。お金をもらう職業に就いたことがないと言いたいところですが、実は、晩年58歳になって、ニュートンと同じ官職、造幣局長官の職に就いています。ですから、例外的時期はあるが、職業としてはジェントルマンのインディペンデントスカラーです。
『ジョン・ハーシェル、1792-1992:200周年記念シンポジウム』(南アフリカ王立協会、1994)に寄せた論考で、ハーシェル研究者クローは、「ジョン・ハーシェル・最初のイギリスの近代的物理科学者」という論考を寄せています。職業としては科学者ではありませんが、研究内容を見ると、そう言いたくもなります。
そもそも、「科学者」Scientist という言葉を作ったのは、ウィリアム・ヒューエルです。1833年。その言葉を造語するとき、ヒューエルの念頭にあったモデルのひとりがBSSA であっていたジョン・ハーシェルだったということです。(DSB の記述による。)
ハーシェルの著作『自然哲学研究序論』Preliminary Discourse on the Study of Natural Philosophy (1830)という科学方法論の著作は、ダーウィン、ミル、ヒューエルに影響を与えています。父ウィリアムは、ニュートンの有名な言葉「私は仮説を作らない」に反して、「私は仮説をつくる」と口癖のように言っていたようです。仮説を作ったり壊したりすることが、理論的思弁の要点だとジョンは友人のヒューエルに告げています。
分野としては、数学、天文学、物理学、光学、化学に関わっています。もうすこし細かくは、父の天文学の仕事を引き継いだ仕事(喜望峰に赴いての体系的観測が何より大きい)、地磁気の研究、結晶学や写真術に関わる光化学の研究、蛍光研究等、非常に幅広く関心を示し、自分で実験研究を行っている。ただし、19世紀前半は、科学のいろんな分野における専門分化が後戻りできない仕方で進行した時期であり、ジョン・ハーシェルはその流れについていくことはできなかった。(ダーウィンの進化論の拒否、エネルギー保存則の拒否、ボスコビッチの点原子論への固執。)しかし、科学者共同体 Scientific Communication Network の重要な結節点であり続けた。
私のサイトから、ハーシェルの1次文献、2次文献を集めてみました。
John Herschel, "On the hyposulphurous acid and its compound," Edinburgh Philosophical Jounal, 1(1819), 8-29
John Herschel, "Additional facts relative to the hyposulphurous acid, " Edinburgh Philosophical Jounal, 1(1819), 396-400
Herschel, "XVI. On the Action of Light in determining the Precipitation of Muriate of Platinum by Lime-water, being an Extract from a Letter of Sir John F. W. Herschel, K. H., F.R.S. & c. to Dr Daubeny," Phil. Mag., Vol. 1, No. 1, July, 58(1832)
John F. W. Herschel, "Note on the Art of Photography, or the application of the Chemical Rays of Light to the purposes of Pictorial Representation, Communicated March 14, 1839, Read 14 March 1839" Proceedings of the Royal Society Vol. 4: No. 37 (1839), 131-3 ; The Athenaeum No.595 (23 March 1839), 223 ; Philosophical Magazine 3rd series, 14: 90 (May 1839), 365−7 ; Neue Notizen aus dem Gebiete der Natur- und Heilkunde 2nd series, 10: 17 (Nr. 215) (Juni 1839), 260−1
John F. W. Herschel, "On the cehmical action of the ray of the solar spectrum of preparation of silver and other substances, both metallic and nonmetallic, and some photographic processes," Phil. Trans. Roy. Soc., 130(1840), 1-60
John F. W. Herschel, "On the action of the rays of the solar spectrum on vegetable colours, and on some new photographic processes," Phil. Trans. Roy. Soc., 181-214(1842)
中崎昌雄「だれが初めてハイポ (チオ硫酸ナトリウム) による写真「定着」を発見したのか? : J. B. Reade 対 John Herschel」『中京大学教養論叢』30(3)(1990): 663-725
中崎昌雄「1839-1842年における John Herschel 写真研究 : 青写真と「Herschel 効果」の発見」『中京大学教養論叢』31(1)(1990): 13-84
中崎昌雄「1839年3月14日 Herschel「写真研究」発表 : Talbot との交渉をめぐって」『中京大学教養論叢』30(4)(1990): 1179-1263
中崎昌雄「ハーシェル「左右水晶の旋光能」研究とパストゥール「有機物における分子左右鏡像性」」『中京大学教養論叢』37(3)(1997): 453-517
中崎昌雄「「近代化学の父」John Dalton 覚書 (上) : Dalton と John Herschel の色盲研究 John Herschel は色盲だったのか?」『中京大学教養論叢』37(4)(1997): 717-794
R. Derek Wood, "The Daguerreotype and Development of the Latent Image: “Une Analogie Remarquable": Latent Developments from Gallic Acid, 1839, " Journal of Photographic Science, 28: 1 ( 1980), pp. 36−41
P. Derek Wood, "Fourteenth March 1839, Herschel's key to photography, the way the moment is preserved for the future," Published in Jubilee- 30 Years ESHPh Congress of Photography in Vienna, Anna Auer and Uwe Schögl (eds.), Salzburg, 2008, pp. 18-31.
M. Nierenstein , "The Early History of the First Chemical Reagent," Isis 16(1931): 439-446.
Larry Schaaf, "Sir John Herschel's 1839 Royal Society Paper on Photography," History of Photography, 3(1979), 47-60
Larry Schaaf, "Herschel, Talbot and Photography: Spring 1831 and Spring 1839," History of Photography, 4(1980), 181-204
Larry Schaaf,"Henry fox talbot's The pencil of nature," History of Photography, 17(1993), 388-396
H. Mark Gosser & Larry Schaaf, "Further notes on Herschel and Talbot: the term ‘Photography’,"History of Photography, 5(1981), 269-270
Larry J. Schaaf , Tracings of Light: Sir John Herschel and the Camera Lucida, University of New Mexico Press, 1991
Larry J. Schaaf, Out of the Shadows: Herschel, Talbot, & the Invention of Photography, 1992作業を継続しつつ、9月4日から7日までの東京医科歯科大学での MMA の授業の準備にも着手しました。まず、コメントシートや期末レポートの用紙を2017年バージョンにアップデートしました。講師紹介もアップデートしました。授業内容はぼちぼち着手します。
ひとりで4時30分、室温27.5度。[『化学と教育』ヘッドライン 人物化学史:燃焼編]
朝9時に、『化学と教育』Vol.65 ,No.8, 2017 が2冊届きました。発行日は、2017年8月20日、定価は750円です。送料100円とあります。書店には出ていません。アマゾンにも出品されていません。会員のみに送るとありますが、『化学と教育』編集部に頼めば、送ってくれるという仕組みになっているのだと思います。
今回私は[ヘッドライン 人物化学史:燃焼編]に原稿を書きました。ヘッドラインの構成は次です。
吉本秀之「ベッヒャーとシュタール:原質説とフロギストン」
河野俊哉「プリーストリ:「酸素の発見」と燃焼の本質」
内田正夫「カール・ウィルヘルム・シェーレ:もう一人の酸素ガス発見者」
吉田晃「ラヴォワジェ:燃焼現象の解明と酸素の本質」
→私の原稿ですが、読み直してみて、1)ボイルの『懐疑的化学者』が「火による分解」というそれまでの錬金術/化学の操作の基本に対する根本的批判であった点を指摘するのを忘れていたことに気付きました。事典項目のように、詰め込んだ執筆をしたので、代わりに何かを削るということも難しいのですが、ともあれ、観点として指摘するのを忘れていました。2)それまでの錬金術/化学の操作の基本が、火による分解と蒸留(分留)であったとすれば、分析・分解ではなく、明示的な化学的合成という概念がいつどこで出現したのかが気になります。なお、分析(chemical analysis)という概念も、ヘルモント等から(パラケルスス派の物体の解剖・分析という観念)始まり、ボイルにおいて眼に見える概念の結晶化があったものです。分析と合成が、二項対立的に、明確に理解されるようになるのは、もうすこし後のことです。3)燃焼は、今の考えではそもそも酸化過程(酸素との結合)ですから、基本、分解ではなく結合です。フロギストンの概念だけではなく、そもそも化学分解という操作の基本概念に関する逆転であった点も指摘することができませんでした。もちろん、そちらを指摘すると、与えられた論題をはみだすことになるので、今回の枠組みでは、ないものねだりの指摘になりますが、押さえておく必要があります。それまでの燃焼は、木の枝を燃やす場合のように、物理的生体組織のなかに統合されている異なる化学成分を、燃焼の力=酸化によって、分けることになります。成分毎に酸化して、分かれることになります。中心的には、今の観点では、物理的分離となります。4)インプライはしましたが、一行、フロギストンは極めて18世紀的な概念であったことも明示的に書いた方がよかったように思います。(そのことはわかるようには書いていますが。)17世紀には萌芽形態でしか存在していかなった。1700年までの化学者に「フロギストン」という語を示しても、私は見たことがない、聞いたことがないという反応がほとんどになります。用ができたので、大学に行くこととしました。『化学と教育』をカバンにつめてでかけました。10時半武蔵境発の西武線。
比較的短い論考4本なので、研究室で残り1頁を読んで、全部読みきりました。問題の広がりは、4本を通して読んでもらえると、よくわかると思います。
正午過ぎに一人の院生、2時に一人の学生が来ました。学生には判子を押しました。
3時4分多磨駅発の電車で帰ってきました。まだまだ、暑い。
作業の継続。
ひとりで4時10分、室温27.3度。室温は27度台ですが、すこし涼しくなったように感じます。→窓を開けると、かなり涼しい空気が入ってきます。7時前には25度を下回っていました。25度を下回ると、身体がとても楽になります。お昼前に出張校正。池袋の要町ですが、事務所が引越をしたので、新しい場所になります。ちょっとだけ遠くなっています。
10時に家をでました。要町についてから、指示された3番出口で外へ出ました。いつもと違う風景。地図と見比べて、首都高をみつけました。交差点から首都高に沿って、5分程度でしょうか。外語の本郷サテライトと同様の建物でした。本郷サテライトより一回り大きい程度です。
インターフォンで部屋を呼び出して、鍵を開けてもらい、5階へ。田中事務局長も見えました。作業は30分程度で終わったでしょうか。
田中さんとは池袋で分かれました。私は、新宿駅内の蕎麦屋さんで昼飯をとってから、総武線。12時35分に家に帰り着きました。晴れたので朝のような涼しさはなくなっていました。
ちいさいちび、おおきいちびの順に出かけていきました。電車のなかで、『ニュクス』第4号(2017)を繙きました。まずは、この雑誌を送ってくれた坂本邦暢氏の論文から。
坂本邦暢「聖と俗のあいだのアリストテレス―スコラ学、文芸復興、宗教改革」『ニュクス』第4号(2017): 82-97
坂本氏らしい、非常によくまとまった論考です。
次に、冒頭に置かれた稲垣良典氏と山本芳久氏の対談「スコラ哲学からの挑戦」を読みました。あとは、9月3日(日曜日)の発表の準備の継続です。
ひとりで4時45分、室温28.1度。室温はあまり下がっていませんが、窓をあけたとき入ってくる空気はすこし涼しい。昨日の発表がおわってすぐですが、来週日曜日の発表の準備に入ります。
来週日曜日の発表とは次です。1週間前になったので、ここにも掲載します。
化学史学会公式サイトの図像科学史研究会シンポジウム(2017)案内
近年科学史における図像の製作と利用に関して多くの研究がなされ、論文・論文集・著作が出版されている。本ワークショップでは、17世紀から19世紀に至 る科学史・技術史における図像や画像の製作と利用に関して4人の研究者が話題を提供し、ディスカッションを行う。その上で、本テーマの研究の現状と展望に ついて検討していく。日 時 2017年9月3日(日) 13時〜17時30分
場 所 東京外国語大学本郷サテライト
参加 自由 参加費 無料
申込方法 どなたでも関心がある方は自由に参加してもらって大丈夫です。参加費もありません、ただし、上記サイトにある参加申込フォームからお申し込みください。折り返し,参加の際の注意事項を書いたメールを返信します。東京外国語大学本郷サテ ライトは、日曜日は、施錠されていて、申込をされず直接お見えになっても、なかには入ることができません。参加申込フォームからお申し込みいただくと、入 館方法をお知らせします。
時間割は、次の通りです。
13:00-13:10 橋本毅彦 オープニング挨拶
13:10-14:00 田中祐理子「レーウェンフックの顕微鏡観察における〈物質〉の位置づけについて」
14:00-14:50 橋本毅彦「18、19世紀における顕微鏡の性能向上と観察対象」
14:50-15:10 コーヒーブレーク
15:10-16:00 河野俊哉「図像化学史試論2:プリーストリの『透視画法の理論と実践入門』からファラデーの『化学操作法』まで」
16:00-16:50 吉本秀之「写真の起源:化学史の視点から」
16:50-17:30 総合討論
ひとりで5時、室温28.4度。午前中から駒場で研究会。スタートは10時半。終了予定は6時半。
ちびどもと妻は全員でかけました。ちいさいちびは午前は練習、午後はOB戦、おおきいちびはバスケのOB戦(?)、妻は、どちらかの仕事。
9時半に家をでました。田中さん、橋本さん、河野さん、私の順で発表。若干おしましたが、終了は予定通り6時半。帰宅して7時半。
ひとりで4時、室温28.5度。午前4時の室温が28.5度なんて、まるで熱帯の気温です。予報では、本日も最高気温35度。明日はすこし雨が降って、すこし気温が下がるようです。すこしですが。明日の準備を続けます。
午前中に一度、セイユーにお買い物。
用事ができたので、3時過ぎに家をでました。3時半武蔵境発の西武線。メールボックスで届いた本を受け取り、3階の事務で郵便物を受け取りました。一度研究室に行きましたが、メールのチェックのみ。そのまま折り返しました。4時4分多磨駅発の電車で帰ってきました。帰途、吉祥寺で下車して、ヨドバシで切れそうになっていたプリンターのトナーを買いました。カラー3本とブラック1本の4本セットです。
道中、なかなかの暑さでした。届いていた本は、学会への献本です。
金森修編著『明治・大正期の科学思想史』勁草書房、2017
故金森修氏による、科学思想史シリーズの掉尾です。電車のなかで、あとがきと序章だけ読みました。
ひとりで6時15分、室温28.0度。気温は高止まりしています。土曜日の準備を継続中。鈍行になりました。
ひとりで5時30分。室温28.1度。最高気温予想が35度。また真夏の暑さが舞い戻っています。一度大学に行って来ることにしました。10時6分武蔵境発の西武線。乗換のとき、同僚の先生といっしょになりました。大きなシンポジウムに借り出されているのだそうです。多摩駅を降りるところで、そのシンポジウムに仙台から見えた研究者の方ともいっしょになりました。
2人は、アゴラ・グローバル、私は図書館。ILL でおくってもらっている本の返却手続きを行いました。大学のメールボックスには、献本が3冊届いていました。
私個人には、坂本さんから『ニュクス』第4号(2017)。第一特集は「開かれたスコラ哲学」。坂本さんも原稿を寄せています。
北原文雄先生から『コロイド化学史』サイエンティスト社、2017
そして、学会に対して、荒尾美代『江戸時代の白砂糖生産法』八坂書房、2017
坂本さん、北原先生、ありがとうございます。荒尾美代さんの著作は学会に対してのものなので、編集委員会で書評者を決めることになります。研究室では、メールの対応だけして、すぐに帰途。10時52分多磨駅発の電車。ガード下のコンビニで牛乳を買って帰りました。西荻につくと小雨が降っていましたが、気にせず歩きました。晴れ間も残っているので、すぐに止む天気雨でしょう。
3時前に次の本が届きました。
小室千鶴子『小田野直武:解体新書を描いた男』郁朋社、2011息子がサマーウォーズを見たいというので、ゲオに借りに行きました。なんとゲオは、9月に入ってから閉店するそうです。ヴィデオレンタル(いまはDVD やブルーレイですが)店としては、ゲオが一番便利でした。何より、1枚100円と安い。駅前にツタヤがありますが、ゲオの方がやすくて便利でした。通知文には、近所の別のお店の紹介がありましたが、自転車で30分程度かかる場所です。よほどのことがなければ、行く気にはなりません。
休んでいると、午後11時前、妻に起こされました。ちいさいちびが駅からの帰途、怖い人がいたので、友達といっしょにコンビニに退避している、迎えにいってほしいということです。ちいさいちびの自転車で迎えに行きました。
中学校のときのお友達といっしょにいました。ころしてやる、と叫んでいる怖いおじさんに出くわしたのだそうです。酔っぱらいかどうかはわからなかったそうです。たまにそういう人はいます。
西荻銀座通りを橋のところまでお友達をおくり、それから、我が家に向かいました。最近夜まちを出歩くことがありません。知らない店がかなりの数、営業していました。お友達によれば、そのひとつの餃子屋さんは、知る人は知るおいしいお店なんだそうです。まったく知りませんでした。腰に負担のない、落ち着ける椅子が来たこともあり、また、塾に行っても目新しいことがなくなってきたこともあり、おおきいちびは珍しく、一日、家で勉強をしていました。
私は本日から、土曜日の研究会に準備を始めました。実際文章を書いてみてはじめて気づくことはおおくあります。
ひとりで5時55分。室温27.4度。昨日私が風呂に入っているときに、お風呂の電灯のひとつが切れました。LED に替えていますが、切れるときには切れる。10時過ぎにヨドバシに買い出しに行きました。2個セットのものを選びました。ちょうどよいので、駅ビル内のパン屋さんでパンを買い、帰り道、ガード下のコンビニでアイスを買って帰りました。
ちいさいちびが昼食後、お友達とプールに行くと言い出しました。急いで準備をし、2時前にでかけました。羽村の市民プールに行くようです。→9時前に帰ってきました。
おおきいちびが今の椅子だと腰が痛くなるので、新しい椅子が欲しいと言っていました。アマゾンでパソコンの作業を長く行う人向けのものを発注してやりました。ちいさいちびがでかけてから届きました。アマゾンのレビューでは組立に20〜30分かかるとあります。ネジを止めるだけですが、たしかに20〜30分かかりました。冷房のなかで作業をしましたが、はじめての作業の緊張もあり、汗まみれになりました。
夕刻帰ってきたおおきいちびは気に入ったようです。[Nintendo Switch]
息子が前から、Nintendo Switchがほしいと言っています。誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントとお小遣いをあわせてよいから、欲しいと言っています。春の時点で、では、9月までのお小遣いも含めて、買ってやるという約束ができました。
しかし、Nintendo Switchは圧倒的な品不足。まったく入手できません。定価の2倍を出せば、Amazon 等で購入できます。1割ましぐらいなら仕方がないかと思いますが、定価32,378円で、5万円もするのは高すぎます。
Nintendo は、夏に入ってから、8月22日(火曜日)より My Nintendo Store で予約を受付け、10月1日(日)より発送すると通知しました。
任天堂は、時刻を示していません。「8月22日(火曜日)より」という言葉は、8月22日(火曜日)午前0時と解釈することができます。
仕方がないので、0時10分ぐらいまえに起きて、予め接続していた My Nintendo Store のサイトで状況を確認しました。0時に近づくと、アクセスが殺到していて、接続ができないという表示がでます。しかし、諦めずに、アクセスを続けると、たまにアクセスできることがあります。0時5分ぐらいにアクセスできました。しかし、その時点で Sold Out の表示。0時15分ぐらいまでトライを続けましたが、同じことでした。仕方がないので、そこで諦めました。
ひとりで5時45分。室温27.1度。ちいさいちびの今日は7時半だそうです。
[WiiU マリオカート8]
息子がWiiU のソフトが欲しいと言っています。おばあちゃんにお小遣いをもらって資金ができたせいです。昨日はアマゾンで5千円強であったと言います。今日、私のパソコンから見ると、7千円を超えています。ダウンロード版だと5千2百円ほど。アマゾンからダウンロード版を購入しようとすると、もういちど、クレジットカードの情報を入力しろと言ってきます。ありえる対応だとは思いますが、ひっかかるものがあります。
それなら、Nintendo のサイトから直接買った方がよいのではと思い、Nintendo のサイトを見てみました。製品版もダウンロード版も6千200円の値段がついていました。
だったら、ヨドバシに行った方がいいのではないかと思い、朝10時前にヨドバシにでかけました。WiiU はもう製造中止の製品です。ヨドバシの棚に、WiiU 関連のものを見つけることができません。息子はすぐに店員さんに聞きに行きました。ありました。ひとつだけ、なかなか探すのが難しい場所においていました。
ちなみに息子が欲しがったのは、WiiU 版マリオカート8です。ヨドバシの店頭では、5千2百円で売っています。ヨドバシは、そこから1割ポイントバックですから、実質4千8百円ぐらいです。
入手できると途端に喜んでいます。まだまだ子どもです。
すぐに西荻に戻り、駅前のマクドナルドで昼食を買って帰りました。私も息子もお腹が空いていたので、帰り着いて、すぐに昼食にしました。ちいさいちびは12時と1時の間に帰ってきました。やはりすぐに昼食。
[Arena Internet Mailer 2.2.1 for OS 9 ]
実は、昨日から、このマックのメールソフトの調子が悪い。送り出すことは出来るのですが、Inbox に収めるところでエラーが続きます。つまり、メールを受け取れないという状況が続いていました。
なんといっても、MacOS 9.1 で運用しています。メールソフトは、Arena 。今では、1万分の1以下の使用率だと思います。Mac の場合、OSX になる前は、素人でもわりとシステムが見えます。そのときまでは、わりといっしょうけんめい、システムにも手を入れていたので、昔の知識でできることを試みました。
メールを収納する Inbox そのものを新しくする(古いものは、別の場所にバックアップをとって、まったく中身のない Inboxという名前のフォルダーを作る)ことを試みました。それから、全体を再起動。これでやっと動くようになりました。
この古いマックの場合、メールの収録数に比較的はやい制限があります。きちんと読んでいないのですが、2の6乗程度かなと思っています。この制限を越えた場合も、メールを受け取ってくれません。そのため、最近は、不要なメールは直ちに削除していました。古いメールがなくなったかわりに、削除の作業は当分しなくてすみます。(といって習慣化したので、続けると思います。)
ひとりで4時50分。室温25.5度。昨日の短時間豪雨がすこし涼しい空気を連れてきました。ちいさいちびは、昨日勝ったので、今日も同じ場所で試合。ただし、1時間半、遅めでよいそうです。
→7時に起こしました。昨日と同じく妻も応援にでかけました。
妻は6時前、ちいさいちびは6時過ぎに帰ってきました。本日最初の試合は勝って、次の試合で負けて、ベストエイトだったそうです。最初の試合では一本シュートを決めたそうです。疲れた、と言っていました。昨日もはやく寝たそうですが、今日もはやく寝そうです。
ひとりで4時45分。室温27.0度。ちいさいちびの試合。5時50分に起こすことになっています。お弁当をつくる妻は、6時。
[第14回化学史研修講演会]
私は、午後、第14回化学史研修講演会に出ます。化学会館にて、行われます。会 期 2017年8月19日(土)13時〜16時15分
会 場 化学会館 http://www.chemistry.or.jp/access/
〒101-8307 東京都千代田区神田駿河台1−5
JR中央線・総武線 御茶ノ水駅(御茶ノ水橋口 徒歩3分)
地下鉄丸の内線・御茶ノ水駅(出口2 徒歩4分)
地下鉄千代田線・新御茶ノ水駅(出口B1 徒歩5分)
主 催 化学史学会
共 催 (公社)日本化学会
後 援 (公社)新化学技術推進協会,日本基礎化学教育学会,日本理化学協会,東京都理化教育研究会
プログラム 12:30 受付開始
13:00〜14:30
蟻川芳子(元日本女子大学学長・理事長)「道なき道を ― 女性化学者のパイオニア丹下ウメ ―」
1873年鹿児島で生まれた丹下ウメは,1901年東京目白で創設された日本女子大 学校の第一回生と して入学。自然科学を重視した家政学部で学び,卒業後は文部省中等化学教員検定試験に合格。東北帝国大 学理科大学に女性として初めて入学し,修士課程修了後に「栄養学」の研究を目指して米国に。ジョンズ・ ホプキンス大学の博士課程でPh.D.を取得,帰国後は母校で教授として勤める傍ら理化学研究所の鈴木梅太 郎博士の研究室でビタミン類の研究に勤しむ。67歳で,東京帝国大学より農学博士の学位が授与された。
14:45〜16:15
松本邦男(元神奈川工科大学教授)「日本の医薬品開発史 ― ペニシリンの温故知新 ― 」
国産ペニシリン開発は,昭和18年末に,ドイツから潜水艦により運ばれたペニシ リン情報を記載したキー ゼの論文を入手した時から始まった。稲垣克彦を中心とするペニシリン委員会が翌年2月にスタートし,10 月末には国産ペニシリンが完成,12月には工場生産されるに至った。戦後はGHQの指導などによりタンク培 養によるペニシリンの大量生産が始まり,戦後の経済復興や国民の保健衛生に大きく貢献した。今回,国産 ペニシリン開発の温故知新について考えてみたい。
参加費 無料(資料代1,000円)
参加申込方法 葉書・ファックス・e-mailのいずれかにて,氏名・所属・連絡先を明記の上,お申し込み下さい。 ただし,当日参加も可。
なお、以下に、本日この講演会で配られる資料のために書いた巻頭言を引用しておきます。
巻頭言:化学史学会と化学史事典
化学史学会は、1973年12月1日、上野の国立科学博物館2号館階段講義室で創立集会を開き、化学史研究会として出発しました。本年(2017年7月)、同じ上野の国立科学博物館の本館講堂で年会(研究発表会)を開催しました。特別講演とシンポジウムを国立科学博物館の一般入場者の方にも公開したこともあり、例年にない盛会となりました。
つまり、創立44周年を無事同じ場所で迎えることができたことになります。
2017年年会会場の入り口には、春に出版された『化学史事典』(化学同人、2017)を飾ることができました。これは、創立40周年事業として、2013年の出版を目指し、2011年から着手した企画です。世界ではじめての『化学史事典』です。英語でも世界のどの言語でも化学史を専門とする事典が出版されていないなか、理事会メンバーを中心に、化学史事典編纂委員会を立ち上げ、足掛け7年を経て、当初の予定より4年遅れて出版されたものです。冒頭にカラーの口絵8頁、巻末に44頁の年表、32頁の文献表、126頁の索引を収め、総ページ数1000頁の浩瀚な事典となりました。
創立40周年事業としては、去年7月惜しくも膵臓癌で亡くなられた故梶雅範東工大教授を中心に、日本ではじめて開かれる国際化学史ワークショップを企画しました。こちらのほうは、2015年3月、東工大で開くことができました。会議はすべて英語、国外からも大勢の一流の化学史研究者をお呼びして、もしかしたら日本では空前絶後の国際化学史ワークショップとなったと言えるかもしれません。
大野誠会長を中心に50周年事業にむけての模索が始まっています。今年第14回を迎えた化学史研修講演会も20周年にむけて、充実した会合となることを祈願しています。
東京外国語大学総合国際学研究院 教授 吉本秀之
12時55分に会場に入りました。ほぼ人はそろっていました。最初の講演者、蟻川芳子さんは、元日本大学学長の方で、何分の1かは日本女子大学の話しでした。1901年に創立だそうです。家政学部、英文学部、国文学部の3学部でスタートしたそうです。家政学部のなかに、科学教育があり、日本薬学の祖、長井長義がながく化学を教えたそうです。1907年には、香雪化学館という化学棟を民間の寄付によって建てたそうです。蟻川芳子さんの講演の主人公、丹下ウメさんは、56歳でPh.D、67歳で農学博士号を取得したそうです。なかなか興味深い話しでした。
ちなみに、割烹着というのは、日本女子大が料理と実験のときに、エプロンでもなかろうということで、考案した衣装だそうです。ずっと昔からあるものだと思っていました。→ネットで wiki を見ると、赤堀割烹教場の赤堀峯吉が考案したという説もありました。ただし、赤堀峯吉は、日本女子大の料理の先生をしています。昭和期、割烹着はひろく日本区内に浸透したそうです。10分ほどの休憩を挟んで、次は、松本さんの日本におけるペニシリン生産史です。松本さんの話は、聞いたことがあります。今回は、日本の薬の歴史に位置づけるという作業をされていました。今年の春から夏にかけて、朝日新聞に出た記事を数多く使われていました。私は切り抜いていませんが、たしかに、記事があったことは覚えています。
息子をひとりで留守番させています。終わりの挨拶をしてすぐに会場を飛び出しました。外にでると、ひんやりとした空気が流れています。雨も降り始めています。
電車のなかにいるとき、雷鳴雷光とともに、豪雨が始まりました。全天に雷光。ちょっと怖くなるくらいです。西荻についたころがもっとも激しく雨が降っているときにあたりました。ホームにかかるV字形の屋根の真ん中から雨がすごい勢いで落ちてきています。風も強く、屋根の下を歩いていても、雨がかかります。傘をさしているかたも大勢いました。改札を抜けると、大勢の方が雨が弱くなるのを待機していました。私は、気にせず、豪雨のなかに突入。傘はさしても、すぐにずぶぬれです。ガード下を抜けるころには、雨足は弱まっていました。
5時15分頃帰宅すると、すでにおおきいちびが帰っていました。おおきいちびは、シャワーを浴びています。出てきてから話をきくと、ちょうど雨が強くなる前に、帰り着いたそうです。妻、ちいさいちびの順に帰ってきました。ちいさいちびのチームは、見事な逆転勝利を収めたそうです。
ひとりで4時50分。室温26.3度。3時間毎の天気予報では、12時のところにだけ晴れマークがあります。ほかは、すべて、曇り。ちびどもは普通にでかけるようです。小学生は昨日の夕食後から宿題を始めました。今日はピアノ、運動、宿題。
3時前後に傘をさして、買い物に。久しぶりに、100円ショップによりました。たわしを購入。後は、スーパーで、牛乳3本、アイスコーヒー1本、等。本日の外出は、これのみ。
ひとりで6時。室温24.6度。→窓を開けていると、23.5度まで下がりました。ほんと、とても、夏とは思えない気温です。身体的にたすかるのは、たすかります。暑さのせいで、仕事ができなくなることはありません。ちいさいちびは部活。グランドが使うことができれば、という条件です。週末は、公的な試合があるそうです。→おおきいちびもちいさいちびもいつも通り出かけていきました。2人とも、濡れたサドルを拭いて、自転車です。
まだこなしていなかった宿題に着手します。→おおきいちびが起きてくる頃までに、宿題はこなすことができました。やれやれ。9月冒頭から、研究会、入試、集中講義の怒濤です。気持ちが整い次第、そちらの準備にかかります。
正確には、9月1日午前中に委員会、9月2日大学院特別入試、9月3日画像史ワークショップ(本郷サテライト)、9月4日〜7日東京医科歯科大学医学思想史集中講義(6時から9時10分まで)。9月4日〜6日は、同時に、午前中から会議があります。したがって集中講義の準備は、8月中にすんでいなければなりません。9時前に、郵便物を2点もって、外出。郵便局で2点を投函してから、我が家の財政的用務をすませました。帰京する前から、左肩がとても痛い。肩凝りです。
[帰京]
ひとりで5時50分。息子は6時半ぐらいに起きてきました。息子が起きて、ミルクを飲ませたあと、荷造り。荷造りといっても大した荷物ではありません。10分ぐらいで完了しました。
母はいつものように電車のなかで食べるお弁当を作ってくれています。おむすびと卵焼き。
たこおじさんは、7時半過ぎに来てくれました。母はお盆の施餓鬼。8時にお寺に集合だそうです。8時に揃って家をでました。
たこおじさんが南部駅までおくってくれます。母は、お寺に。駅で30分以上、くろしおを待ちます。息子はまた酔い止めを1錠飲みました。
理由は不明ですが、くろしお号は、田辺で3分遅れたそうです。どこかで遅れを取り戻すのかと思ったのですが、最後まで3分遅れのまま運行しました。息子がお腹が空いたというので、くろしお号に乗ってすぐにあばあちゃんのつくってくれたお弁当を食べ始めました。9割方食べました。
新大阪の乗換には、20分とっています。3分の遅れは、おおきな問題ではない。でも、混んでいる時期ですから、さっさと動きました。新幹線ホームに入ってから、最後のお土産3点を購入。息子は、鯖寿司を食べたいと言います。ただし、お弁当屋さんにちょうどよい鯖寿司がありません。代わりに秋刀魚寿司にしました。
ホームに上がると、すでに我々の乗るのぞみ号がホームで待っていました。お客さんも乗っています。14号車まで急いで歩き、席に着きました。私もお腹が空いていたので、おばあちゃんのおにぎりを食べることにしました。おお、息子も秋刀魚寿司を食べると言います。味付けが鯖寿司とすこし違ったようです。ですが、7割方は食べました。
食事のあと、私はほぼ休んでいました。息子は、iPadでゲームです。今回は、DS はカバンにつめていましたが、まったく手にしませんでした。
新幹線は定刻通り運行しました。名古屋あたりから、晴れ間がなくなり、横浜近くから雨がちらついています。東京は雨でした。そして、気温25度。もちろん室温も25度。湿度は、90%を越えているのではないかと思われます。
2時20分過ぎ、西荻窪の駅に着きました。私のカバンにつめていた折り畳み傘ですこし苦労しました。息子は傘をもっていなかったので、ガード下のコンビニで大きめの傘を購入して、帰宅。妻とちいさいちびがいました。
片づけがすんだあと、息子は、SING に吹き替え版を見たいといってみています。
今回の帰省列車は次。
2017年夏新幹線
8月12日(土曜日)
のぞみ357号13:23-15:56 くろしお19号 16:15-18:26
8月16日(月曜日)
くろしお10号8:39-10:50 のぞみ330号11:10-13:43
2017年夏Wifi のデータ使用量
8月11日 39.74MB
8月12日 768.29MB
8月13日 2.0GB
8月14日 533.35GB
8月15日 2.1GB
息子がYouTube を見ると、使用量が跳ね上がります。その他の用途では、問題となる使用量とはなりません。きちんと条件を読んでいないのですが、7GBという表示があり、それを分母に使用量が示されます。1日1GBということのようです。
息子といっしょに6時。夜中雨が降ったようです。地面が濡れています。[釣りには好天]
早速雨雲の様子を気象庁のサイトで見てみました。釣り堀のある場所は、大雨にはならないようです。小雨ですみそうです。たこおじさんは、約束とおり、7時半に来てくれました。雨カッパ2着、傘2本、タオル多数と、雨対策をして,出発。現地に着く頃には、小雨が降ってきていました。今日はいずれにせよ、こういう天気です。
すこし沖合の巨大魚釣り堀にはすでにお客さんが数名来ています。ファミリー釣り堀にはまだ誰も来ていません。丸長水産の方は、沖の釣り堀で、魚の移送作業をしていました。8時前に我々の存在に気づいて、受付の方に来てくれました。もう一人、おじさんが客として来ていました。息子は,今日は、オキアミを餌に選びました。足下に気をつけながら、昨日,よく釣れていた場所に陣取りました。もうひとりのおじさんは、向こうの面に陣取ったので、今日は右側の面を貸し切り状態でスタートです。
小雨が降った天候がよいのか、餌がヒットしたのか、場所がよいのか、ともかく、釣りを開始した途端、アジの入れ食い状態です。息子は大興奮。10匹ぐらいまでは、連続して釣れました。たこおじさんが鯛用の餌を持ってきてくれたので、9時を過ぎてから鯛に狙いを変えました。雨は釣りを開始してすぐにあがりました。半時間ほどでカッパも脱ぎました。
鯛はそれほど簡単には釣れません。あきらめかけたころ、1匹目が釣れました。鯛は、弱ったと見せて、底につよい泳ぎで戻ります。鯛釣りの醍醐味は、このひきにあるようです。弱って海面にあがってきたところを網で掬います。
またアジをしばらく釣ってから、2匹目の鯛にチャレンジ。食いつくときは、食いつきます。2匹目も同じようにゲット。
たくさんつれたので、もうアジでよいと餌をオキアミに変えて釣っていたところ、同じ生け簀でほぼ同時に3匹の鯛がヒット。息子のヒットは、3匹の最後。餌はオキアミだったので、鯛の食事時間にぶつかったのでしょうか。
釣り堀とはいえ、これだけ釣れることはそうそうはありません。息子は満足したようです。2時間、10時でおいとますることにしました。
釣果:鯛3匹、アジ27匹。
十分すぎます。
WiFi 装置と、iPad をカバンに入れていたので、車のなかで、息子がママに報告。今回は、SKYPE を連絡手段として使っています。絵文字、顔文字等は、息子の方がずっと慣れています。おばあちゃんちに帰宅して、成果の報告。おばあちゃんは、アジを10匹、お隣さんにお裾分け。残りは冷凍すると言っていました。鯛は、昨日と同じく、いつもの魚屋さんに行って、さばいてもらいます。11時過ぎに刺身3皿となって帰ってきました。そのまま昼食。息子はまぐろ大王ですが、鯛の刺身も大好きです。自分が釣ったものは、格別おいしく感じられるようです。よく食べました。
昼食後、東京におくる荷物を2箱つくりました。梅とお土産物と衣服。おばあちゃんの郵便局、農協の用事といっしょに、たこおじさんにみなべまで行ってもらい、クロネコさんで発送しました。明日には、東京宅に着くでしょう。我々と荷物のどちらが先に着くか、そういう速度だと思われます。
雨雲は予報より、南を動いたようです。わずかににわか雨となった時間帯もありましたが、雨量としては、1ミリや2ミリといったところです。
地元紙より。
紀伊民報、本日、みなべ・龍神。下北沢にアンテナショップを出したというニュースがありました。「わかやま紀州館〜みなべ下北沢ベース ミューム・梅ラボ」というそうです。住所は、北沢2丁目34の12。8月末までだそうです。
1面は、「県内人口 自然増加増 全国42番目」。2016年度の県内出生数が6658人。団塊の世代では、3万人生まれたそうです。第2次ベビーブーマのときには,2万人生まれとあります。死亡数は、12619人。5961人の自然減。
都道府県数は、47なので、42番目ということは、びりから6番目ということです。「県内人口 自然増加増 全国42番目」という表記は、気持ちはわからないでもないのですが、やはりミスリーディングです。数でいっているのか、率でいっているのかはわかりませんが、人口の自然減、都道府県で6番目、と素直に表記すべきだと思います。
かなり深刻な事態です。
[釣り堀]
息子といっしょに6時10分前。母は夜中に何度か起きてトイレに行っていました。7時半にたこおじさんが来てくれます。今日は、なお待望の海の釣り堀。
7時45分頃、現地に着きました。けっこう有名になってきたようです。人が大勢来ていました。8時からとありますが、お店を早めに開けたようです。6〜7番目ぐらいで、竿を借りました。今回は団子の餌。おにいさんに教えてもらって、息子に任せました。釣り上げたときに魚を外すのだけ手伝ってやりました。
ほぼ満席に近い。ファミリー釣り堀は2面ありますが、ほぼ埋まっています。ファミリー釣り堀なので、子どもと女性(お母さん)の姿が目につきます。
2時間で、鯛1匹とアジ2匹。去年より釣果が減りました。家族数名、竿2本で、鯛3匹、アジ10匹近くを釣り上げた家族もいましたが、アジをすこしだけという方も多く、ま、あ、釣りはこんなものでしょう。
待っている人がいるということで、今日は、延長もなしだそうです。
たこおじさんの用意したクーラーボックスに魚を3匹おさめて、帰路。高速出口のコンビニでちょっとした用事をすませて、おばあちゃんちに戻りました。あばあちゃんは、その魚を行きつけの魚屋さんにもっていってさばいてもらいます。他に、タコとイカの刺身を買ってきました。そのまま昼食。鯛1匹、アジ2匹、タコとイカの刺身となりました。日差しがあるときは、相当暑く感じました。息子は明日も来たいと言っています。天気次第です。
3時にお土産物を買うために、小学校側の梅振興館に息子と歩いて行きました。歩くと、さすがにかなり暑い。お土産物売り場に直行し、数人分のお土産を適当に買いました。行きは堤防の上を歩いたので、帰りは中学校横の道を歩いて帰りました。息子が遠回りだ,遠回りだといって愚痴を言っていますが、かまわず、中学生の頃通った道を歩いて戻りました。その道の左右には昔よりも家が増えています。息子はおばあちゃんちに帰り着く頃には、顔がまっかになっていました。冷房のなかでしばらくクールダウン。
4時半になって、お墓参りに。お寺はずっと近いので、10分ちょいで帰ってきました。
息子といっしょに6時。お盆。デジカメを持ってくるのをわすれました。息子が田舎の風景を撮るというので、iPad をもたせて、川まで散歩。子どもの頃、よく泳いでいた場所です。川は昔と違って草だらけ。富栄養化のせいでしょう。昔のように川で泳ぐ子どもはごく少ないのではないかと思われます。
[鮎釣り]
たこおじさんが9時〜10時に来てくれるそうです。→10時前に来てくれました。今日はアユ釣り。富田川の奥、鮎川。養殖の鮎をひっかけます。さすがにお盆休みの日曜日です。鮎釣り場もその奥の流しソーメンの店舗もほぼ満席。ですが、ちょうど鮎釣りを終わった方がいて、竿をもらい受けることができました。なおは、また、おじさんの指導を受けています。10匹釣るということで、10匹釣るのを待ちました。鮎が元気だと,針を外すのが大変です。バケツのなかの水にいれてやると、割とおとなしくなります。手に針が一度も刺さることなく、今回は,終了。いつも通り、おばあちゃんが先に奥の流しソーメンの店舗で場所を取ってくれています。鮎は、おじさんにお願いしますと渡して、ソーメン。天ぷらもすでに人数分テーブルの上に置いています。ソーメンがやってくるのをしばらく待ってから昼食。そろそろソーメンも天ぷらも終わりかなという頃、おじさんが焼いた鮎を持ってきてくれました。10匹ではなく、9匹だったそうです。適当に数えたので、途中で一匹数え間違えていたわけです。
なおは、3匹、あとは2匹ずつ、釣りたて、焼きたての鮎を食しました。
帰りは、車を出すのが大変なぐらい、混んできていました。たこおじさんのきんじょのしまむらで、おばあちゃんがなおのシャツと靴下を買ってくれました。
それから、南部に帰って,おばあちゃんの行きつけのスーパー2軒で買い物。
1時過ぎに帰り着きました。なおは、さっそくママにスカイプで報告。iPad で撮った写真と1行ほどのテキストをおくっていました。
ひとりで6時55分、室温25.1度。夜半から雨。まるで秋になったかのような気候です。[帰省]
息子といっしょに和歌山に行きます。関西は普通の夏のようです。暑さだけがすこしいやかなと思っています。11時40分に家を出ました。土日休日なので,赤い電車は西荻に止まりません。黄色い電車に乗って、どこかで赤い電車に乗り換えます。一番便利な御茶の水にしました。
東京駅に着いて、ほぼ12時40分。乗車まで40分以上あります。息子が酔い止め薬を忘れたというので、まずドラッグストアを探して、子供用の酔い止め薬を購入。それから、お土産物を探しました。息子に選ばせました。自分用にはウープリン(?)という不思議なプリンを選びました。残り2点は,私が適当に選びました。
時間が余っているので、本屋さんへ。宿題の本を選ぶかというと、東京に帰ってきてからでよいと言います。でも、火花、を読んでみたいというので,文庫で探しました。またよし、またよしと言っているうちに見つかりました。お金を渡して,自分で買わせました。
まだ時間はありますが、もうすることがないので、新幹線ホームに入ることにしました。トイレに行ったあと、待ちあい場所に座ってしばらく待機。ちょうどよいので、息子に酔い止め薬を飲ませました。長女に似て、こういうところはとても慎重な性格です。説明書を読んで、カフェインが気になったようですが、すこしのカフェインは心配ないと説得しました。まだすこし心配していましたが、一錠ともかく飲みました。
1時10分頃に上に上がり、既に止まっているのぞみ号の列に並びました。ほぼ満席。新横浜で100%になったでしょうか。
息子は、新幹線のなかの匂いが嫌いだと言います。酔う、酔う、と言っているのは、半分以上はその匂いが気持ち悪いのだそうです。途中からタオルをマスクのように口に巻きました。すこし気持ちが落ち着いたようです。私は途中一度、ワイファイをon にしてやった以外は、ほぼ休んでいました。
定刻に新大阪。もっと暑いかと思ったのですが、それほどでもありませんでした。名古屋で外を見たときには,最近東京では見ない真夏の日差しでしたが、新大阪のホームにはすこし風が吹いて、あのむっとする暑さではありませんでした。
新幹線ホームから外にでて、もう2点お土産を買いました。それからくろしおのホームへ。並び位置が難しかったのですが、上の電光掲示板に号車番号があることを見つけて、8号車のところへ。京都行きの特急のあと、くろしお号が入ってきました。乗車率で20〜30%でしょうか。私はやはりワイファイをon にしてやった以外は、ほぼ休んでいました。息子はゲームをしたり、iPad の写真ソフトで遊んだり。
列車の外は、我々には久しぶりの夏の日差しと雰囲気です。この光と影のコントラストの強さが夏です。くろしお号には、西日が後ろ側からあるいは右側(進行方法に対して、海側、すなわち紀伊水道側)から差し込んできます。5時になっても6時になっても強い日差し。
6時26分、南部駅に到着。たこおじさんにおくってもらっている間に、山に日が沈みました。日が暮れる頃、暑さはすこしましになったそうです。
あばあちゃんは、肉じゃがをつくって待っていてくれました。すぐに夕食、すぐに風呂。自宅との連絡は、スカイプのテキストを利用しています。あとは、息子に写真をおくらせたり、会話させたり。
ひとりで6時、室温26.6度。ずっと28度台だったので、涼しく感じます。山の日で休日。おおきいちびは塾と講習。ちいさいちびはオフ。午後、お友達が2人来ました。
明日の帰省の準備をすこしばかり。
息子が起きて6時50分、室温28.4度。曇り。→週間天気を見ました。時々雨が3箇所、ほかはすべて曇りマークです。また梅雨みたいな天気です。最高気温も今日は31度ですが、明日からは30度に達しません。夏休み前の仕事がやってきたので、おおきいちびがでたあと、私も出校することにしました。9時6分武蔵境発の西武線。
大学前のコンビニでお昼ご飯を買ってから、まず、1階事務へ。しばらく会議室にこもり、与えられた仕事をこなしました。
それから図書館へ。ILL で届いていた、中國科學技術典籍通彙 / 任繼癒主編、数学編、河南教育出版社, 1993を借りました。5分冊。館内閲覧のみということで、5冊を抱えて、もっともカウンターから近い机の上に陣取りました。
私の知らない世界です。先ず、一通り、見てみました。中心はユークリッド『幾何学原論』の中国語訳です。私に関係するものは、第4分冊にありました。
全冊に目を通し、関係する箇所が当初から目処をつけていた1箇所(『視学』)に止まることを確認しました。一定割合をコピーして、一度カウンターの戻しました。
最初の2頁は解説です。pp.709-710. そこに2点先行研究が挙げられています。
沈康身《界畫視學和透視學》,載《科技史文集》第八輯,1982年,上海科學技術出版社,第161頁
沈康身<従《視學》看十八世紀束西方透視學知識的交融和影響> 《自然科学史研究》1985年、第4巻第3期
著者の沈康身氏は、有名は中国数学史家のようです。入手し、目を通す必要があります。
《視學》序文は次です。
視学之造詣无尽也,予何敢遽言得其精蘊哉 雖然予究心于此者三十年矣,掌謂中土工繪事者,或千岩万壑,或深林密*,意匠経営得心應手,固可縦横自如,淋漓尽致,而相賞于尺度風裁之外。至于楼閣器物之類,欲其出入規矩毫髪无差,非取則于泰西之法,万不能窮其理而造其極。先是予粗理其端緒,刊図問世,特豹之一斑而鼎之一*,雖已公諸同好,終不免于膚浅。近得数与郎先生諱石寧者,往復再四,研究其源流。凡仰陽、合覆、歪斜、倒置、下観、高視等線法,莫不由一点而生。逮細究一点之理,又非泰西所有而中土所无者:凡目之視物,近者大,遠者小,理有固然。即如五岳最大,自遠視之,愈遠愈小,然必小至一星之点而止;又如芥子最小,置之遠処,驀直視去,雖*然无*見,而于目力極処則一点之理仍存也。由此推之,万物能小如一点,一点亦能生万物,因其从一点而生,故名曰“頭点”。从点而出者成線,従線而出者成物,雖物類有殊異,与点線有差別,名或不同,其理則一。再如,物置面前,遠五尺者若干大,遠一丈者若干大,則用点割之,謂之曰“離点”,而遠近又有一定不易之理矣。試按此法,或繪成一室,位置各物儼若*有使観之者如歴階級,如入門戸,如升堂奥而不知其為画;或繪成一物,若懸中央,高凹平斜,面面可見,借光臨物,随形成影,拱凹顕然,観者靡不指為真物。豈非物假陰陽而拱凹,室从掩映而幽深,泰西画法之精妙也哉 然亦難以枚挙縷述而使之該備也,惟首知出乎点線而分遠近,次知審乎陰而明体用,更知取諸天光以臻其妙,則此法之若離若合、或同或異、神明変化亦略備于斯三者也。予復若思力索,補縷五十余図,并図説以附益之,亦可云克物類之変化,而广点線之推移,直探斯法之源流,為視学之梯航矣。*于退食之暇,更得窮无尽之造詣,精思以闡其蘊而質,諸高明君子藉*裨益焉,則又予之愿也 夫雍正乙酉二月之朔,偶齋年希尭書。
(読みとれない漢字、私のPC環境では出ない漢字がありますが、一応、私の目ではこう見えます。どなたか、中国語のできる方、校訂してもらえるとうれしい。)研究室に戻り、すこし作業。途中、お昼ご飯にし、メールの処理もしました。
今日は曇りで、比較的過ごしやすいのですが、夏場に無理をするとあとでたたります。1時52分多磨駅発の電車で帰ってきました。
帰宅すると、レンタルしたWiFi とゲラが届いていました。ゲラは、夕食までに目を通し、夕食後、赤を入れたものを投函しました。印刷所は、お盆休みがあるので、お盆休み明けの作業になると思いますが、ともあれ、終わったので手放したものです。外は涼しい。換気を兼ねて、夕食後、エアコンを切り、網戸にしました。時折、入ってくる風はほんのすこしひんやりして気持ちがよい。室温は、ほぼ同じまま。
ひとりで3時、室温28.6度。台風一過の快晴。昨日の途中から台風一過の快晴となっています。おおきいちびは塾と学校の夏期講習。ちいさいちびはしばらくオフ。
この夏最高の暑さだそうです。3時頃、空がまっくろになり、しばらく俄雨が降りました。1時間ぐらいで上がりました。妻は、東京も台北とそっくりになってきたと言います。亜熱帯性の気候に近づきつつあると言ってよいでしょう。
ひとりで3時50分、室温28.9度。台風の影響らしきものは、昨日の夕方にはありました。しかし、夜の間には、雨もほとんどなく、東京には大きな影響はなかったようです。
台風は予報のかなり北側に動いたようです。4時のニュースでは、岐阜県飛騨市の近くを北上中ということでした。
6時のニュースでは、石川県の海上を北上中ということでした。ときおり、不規則に風が強く吹きます。もうしばらくこういう天気が続くと思われます。
ちいさいちびは午前練、おおきいちびは塾、その後学校の夏期講習。
4時過ぎ、セイユーに買い出し。保冷用の袋をもって、アイスクリームを買ってきました。
ひとりで4時45分、室温28.3度。曇り。すこし晴れ間があります。朝から暑い。台風が連れてきた熱と湿度。朝食が足りなかったので、6時前に近所のコンビニに。お金も尽きていたので、降ろそうとすると、朝6時になるまでは使えませんの表示。仕方がないので、商品を見て回っていました。6時になると待って、お金を降ろし、パン、卵、等を買って帰宅しました。
息子がすぐに起きてきました。そして、7時前にちいさいちびが起きていました。合宿で朝がはやかったのがまだ継続しているようです。7時に起こしたおおきいちびはやっと7時半に起きてきました。ちいさいちびは午前練。おおきいちびは夏期講習。ともに、8時半頃でかけます。
お昼前に、みどりの窓口まで行って、帰省のチケットを購入しました。土曜日から水曜日まで。息子と2人なので、息子と相談して決めました。
昼食後、帰省の必需品、Wifi レンタルをネットから発注しました。去年と同じものにしました。
台風5号は、おばあちゃんちを直撃するかと思ったら、すこし北側にずれて、和歌山市近辺に上陸したようです。東京にいても、湿度と吹く風の様子に台風を感じます。今日の夜から明日にかけて、雨が降るようです。
ひとりで4時45分、室温28.0度。曇り。朝の気温が28度まで上がってきました。週間天気を見ると、普通の夏に変わってきました。晴れマークが3つ、猛暑マークが1つ、雨マークが1つ、そして何より、最高気温が33度の日が半分以上となりました。すっかり忘れていました。本日午後、Eテレシアターで「これはあなたのもの」の放映があります。ふとテレビをつけるとやっていました。本を読んでいるので、内容は頭に入っています。たぶん後半は見ることができたと思います。
学校で、勉強しながら、学生たちが演じるととても勉強になると思います。飯野正仁「東西の遠近表現」『『中国の洋風画』展 : 明末から清時代の絵画・版画・挿絵本』(1995)pp.258-262
17世紀の画家高*の《秋山万木図》の分析:「近景の部分は、・・・台地よりもやや高い位置から眺められていることがわかる。中景に眼を移せば、・・・近景での視点よりさらにやや高いところに設定されていることがわかる。遠景の巨峰では、・・遠景を描く画家の視点は、近景と中景の視点からさらに高く、ほぼこの峰と同じ位の高さに設定されていることがわかる。」(p.259)
冷枚の《避暑山庄図》:「ここでもわれわれの眼差しは、近景から中景へ、さらに遠景へと上昇・移動することによって画面空間に奥行きを生みだしている。」(p.260)
大和絵に関する若桑みどり市の指摘:「大和絵には、全体状況を説明する俯瞰的視点と個々の状況に接近する視点が同時に存在することになる。そして、この大和絵において「遠望視と近接視を、享受者が往復しながら鑑賞するように出来ている。つまり享受者の中に時間が経過する」のである。」(p.260)
「オギュスタン・ベルクが日本の空間について述べた次の言葉は、中国山水画の絵画空間への最も的確な評言としてよむことも出来る。
「辿る道の錯綜から空間の深さ=奥行きが生まれるのだ。」(オギュスタン・ベルク『空間の日本文化』ちくま学芸文庫、1994、94頁)池上英洋「ポッツォの『画家と建築家のための遠近法』について」『『中国の洋風画』展 : 明末から清時代の絵画・版画・挿絵本』(1995)pp.447-471
「今回展示されているファクシミリは、1729年に出版された中国語初版を増補改訂したとされている第2版であり、1735年に出版されている。中国語版も英語版と同様、<距離点法>を扱ったポッツォの上巻の翻訳である。しかし、英語版が原本に忠実なコピーであるのに対し、これまで同様の性質のものとされていた中国語版が、たしかにポッツォの著書の図版を元にしたもの三十数点を含むものの、はるかに多い約百点の図版はあきらかにその他の書物からの転載であり、中には中国独自のモチーフを作図したもの、つまり技術が伝来した後に中国本土で作成されたであろう図版を含んでいることが判明した。」(p.448)
→MY:この百点の典拠を探す原典探査の仕事がある。
視学弁言 「目力極処即一点」Andrea Pozzo, Rules and examples of perspective proper for painters and architects, etc. in English and Latin: containing a most easie and expeditious method to delineate in perspective all designs relating to architecture, after a new manner, wholly free from the confusion of occult lines /by that great master thereof, Andrea Pozzo, Soc. Jef. engraven in 105 ample folio plates, and adorn'd with 200 initial letters to the explanatory discourses ; printed from copper-plates ony best paper by John Sturt ; done into English from the original printed at Rome 1693 in Lat. and Ital. by Mr John James of Greenwich, London, 1724
アンドレア・ポッツォ(Andrea Pozzo, 1642-1709)はイタリア人イエズス会士の画家・建築家・舞台背景家。
唯一の著作は、『画家と建築家のための透視画法』2巻(Rome, 1693, 1698) 118枚のエングレーブ(版画)を含む。建築と舞台背景を透視図法で描くためのマニュアル。イエズス会繋がりで、多くの言語(フランス語、ドイツ語、英語、中国語)に訳される。→ 第2巻の出版は、合冊版では、1700と表記されています。アンデルセンもこっちをとっています。1698の版があったのかどうか不明です。
もとの版は、ラテン語とイタリア語の対訳版(平行版)。英訳は、ラテン語と英語の対訳版で出版される。Pozzo, Ad Lectorem
"Ars perspectiva, oculum, licet sagacissimum inter sensus nostros exteriores, mirabili cum voluptate decipit; eademque necessaria est iis, quibus in pingendo, tum singulis figuris positionem ac deformationem suam congrue tribuere, tum colores et umbras, magis vel minus intendere aut remittere, prout oportet, curae est. Ad id autem sensim sine sensu illi perveniunt, qui solo studio graphidis non contenti, singulis architecturae ordinibus exacte deformandis assueverint. Nibilominus , inter multos qui opus hujusmodi magno impetu aggressi bucusque fuerunt , paucos numeramus , qui animum ipso statim initio non desponderint , ob magistrorum librorumque penuriam , ordinate ac perspicue docentium opticas projectiones , a principiis hujus artis , usque ad omnimodam perfectionis consummationem . Quum autem sentiam , longa multorum annorum exercitatione , me non minimam sacilitatem in hac disciplina mihi parasse : censeo Studiosorum voluntati me satisfacturum , eorumque prolfectui consulturum , si methodos expeditissimas in lucem proseram, ad singulorum Architecturae Ordinum opticas delineationes perficiendas , adhibita communi Regula , ex qui omnia linearum occultarum offendicula sustulimus . Deinde , si tempus et vires ad aliud Opus conseribendum Bonitas Divina dederit , projectiones quascunque absolvemus Regula qua in presentia uti soleo , ac multo facilior et universalior est Regula communi et vulgata , quamvis haec sit fundamentum alterius . Itaque Lector studose , constanti animo negotium tuum suscipe ; ac lineas omnes tuarum operationum , ad verum oculi punctum ducere , ad gloriam scilicet DEI 0. M. tecum omnino decerne. Sic votis benestissinis , ut augurar tibi ac spondeo, filiciter potieris. "Al Lettore, Studioso de Prospettiva. .......... (in Italian)
Pozzo, English Translation, 1707 Rules and Examples of Perspective Proper for Painters and architects.
" WHAT the Author once intended should make a Part of that Second Volume, he aferwards inserted in the Ninety-third and following Figures of this Book : In the last of which, particular Notice should be taken of his Conclusion ; That if Painters would not run into inextricable Errors, they ought as strictly to observe the Rule of Perspective, in designing the Figures of Men and Animals, as they do in paintig Columns, Cornices, or other Part of Archichture.THAT none therefore be discourag'd in their first Attempts, thro' the Brevity or Silence of our Author ; (who, writing in a Country where the Principles of this Art are more generally known than with Us, had no need to insist so long on some things, as might be thought necessary to Beginners) we shall endeavour to speak as plainly as we can to a point or two, moft liable to be misunderftood, or to prove a Stumbling-Block at the Entrances ; and then add a Word of Advice to such as shall attempt the putting these Rules in Execution.
THE Author, in both his Explanations of the first Plate, has given some Account of what he would have his Reader understood, by Designing in Perspective : and a right Conception fo this Point being of great Use to facilitate the Work, we thought it not impoper, to describe something more particularly, what is meant by the Art Perspective ; but shall at present speak only of That, which, whether Vertical or Horizontal, is receiv'd on a Flat and Even Superficies : This being of much the more general Use ; and, when rightly understood, renders the Difficulties of the Circular or Irregular Surfaces, easy and familiar.
PERSPECTIVE is the Art of Delineating , on a flat Superfices, as a Wall, Ceiling, Canvas, Paper, or the like, the Appearances of Objects, as seen from One determinate Point : For tho in Works of great Length, Two, Three, or more Points of Sight are sometimes made use of ; yet such may more properly be said to be Several Views conjoin'd, tha One Piece of Perspective : Of which see the Author's Opinion, at the End of this Treatise.
In Perspective, the Eye of the Beholder is esteem'd a Point, from whence Rays are suppos'd to proceed to every Angle of the Object. The Wall or Canvas to be painted (which we shall here call the Section) is imagin'd to intervene at right Angles to the Axis of the said Rays; and by dissectiong them, ro receive the Appearance of the Object, in greater of lesser Proportion, as the Section is more or less remote from the Point of Sight. Our Author's Rule is, That the Distance of the Eye ought to be equal to the greatest Extent of the Object, whether in Length or Height : As, to view a Building that is a hundred Foot long, and fifty high ; we would have the Distance a hundred Foot : To view a Tower sixty Foot wide, and a hundred and fifty Foot high ; the Distance should be a hundred and fifty Foot. This Distance is not strictly to be understood of the Space between the Eye and the Object, but of the Space that and the Section, the Plan of which our Author calls the Line of the Plan, or Ground-line ; for it's often requisite, that the Section be plac'd at some Distance before the Object, on account of Projecture of Cornice, and other Parts of the Work that advence, as in the English FIgure.
THE Place of the Eye, with respect to its Height above the Ground, ought to be fuch, as is most natural and agreeable to the Object. Thus in Architecture, the Basements and inferior Parts of a Building are improper to be set above the Eye, and their Cornices and Entablatures have but an ill Effect when below it. General Perspectives indeed require the Sight to be taken at a Birds View ; and on other Occasions the Place of the Eye may be vary'd : but the best and most general Rule is, not to exceed five or six Foot Height above the Ground. The Height of the Eye above the Ground, thro' which a Line is drawn, call'd the horizontal Line, is set on by the same Scale of Proportion,as the Design bears to the real Work ; and the Point of Sight so plac'd therein, as may render the Object mof agreeable. From the Point of Sight,either on one or both sides in the horizontal Line, you are to set, by the same Scale, the Distance you stand fom the Section. And by means of these Points of Sight and Distance,and the Measures of the Parts brought on the Lines of the Plan and Elevation of the Section, by the same Scale ; all the Examples of this Volume are reduc'd into Perspective ; as is manifest on Inspection of the Figures.
WHAT we would add, by way of Advice, is,
I. That you very carefully oberve, what the Auhor undersands by Breadth, Length, and Height, in his Explanation of the Fifth Plate, before you proceed to practise on any Figure ; otherwise you'll certainly mifunderstand him ; epecialy in the Third Figure.
II. THAT the Rules of the Tenth and Eleventh Figures be particularly regarded,for avoiding Confusion in the Plans and Uprights.
III. THAT fom the Dispostion of the Perfective-Plans and Uprights, with respect to the finish'd Pieces in the Twelfth and many following Figures, you would observe, with what Dispatch the said Pieces may, without the Help of Compasses, be delineated by your Drawing-Square; viz. the Perpendiculars fom the Perspective-Plan, and the level Lines fom the Perspective-Upright, or Section.
IV. THAT you would accustom yourself in Works tha thave many Lines, to make the Perspective-Plans and Uprights for each Part distinct, fo as to prevent all Danger of Confusion. Thus you may have one Plan and Upright for the Basement of a Building ; and when that is drawn on your finish'd Piece, remove them, and place those of the Body of the House ; and when that's complete,do so by the Attick, &c always observing so to place the Plane below, and the Upright on one side of your neat Draught, that your Drawing-Square may command each of them ; which will mightly shorten your Work.
V. THAT the Author's Advice of taking Figures in course, be strictly follow'd in the Practice ; which will be a great means to render the Whole easy and pleasant.
This is the Sum of what we thought most proper to advertise you ; and have only this farther to request, That if any Mistakes may have escap'd the Press undiscover'd, as we well hope there are few or none, you will favourbly correct and pardon them."
以上、英語の序文は、英訳者により補いです。Pozzo のもとの本が丁寧には説明していない(「我々の著者の説明の短さや沈黙のせいで」と英訳者は記しています)ので、読者の便を考えて、英訳者が要点をまとめたものです。
→17.8.8 確認のため、ラテン語-イタリア語版とラテン語-英訳版を照合してみました。
Andrea Pozzo, Perspectiva pictorum et architectorum, Rome, 1693 and 1700
Andrea Pozzo, Rules and examples of perspective proper for painters and architects, etc. in English and Latin, London, 1707
ラテン語-イタリア語版では第一部に図版を100収めています。英訳は、第一部のみの訳です。図100だけ両方を比べてみると、英訳版はもとのものの左右逆転版となっていました。ラテン語版の第1部の最後には、"Respondetur obiectioni factae circa punctum oculi opticum" という1節が設けられています。
第2部には118枚の図版が収められています。つまり1部と2部をあわせて、218枚の図版(版画)が収められていることになります。→17.8.9 再掲。
池上英洋「ポッツォの『画家と建築家のための遠近法』について」『『中国の洋風画』展 : 明末から清時代の絵画・版画・挿絵本』(1995)pp.447-471
「中国語版が、たしかにポッツォの著書の図版を元にしたもの三十数点を含むものの、はるかに多い約百点の図版はあきらかにその他の書物からの転載であり、中には中国独自のモチーフを作図したもの、つまり技術が伝来した後に中国本土で作成されたであろう図版を含んでいることが判明した。」(p.448) → ポッツォ第1部図53までは写すのを省いたものはあるが、ポッツォの図をコピー(模写)している。(池上p.457。視学ー十五まで。)しかし、視学十六から明らかに別の系譜の図が入ってきている。透視画法の基本に立ち返り、平面図、立体図の透視画法(作図法)の説明図となっている。
→ 17.8.10 池上英洋「中には中国独自のモチーフを作図したもの」もあるという指摘は確かにそうです。最後の方に虎の絵があります。この時代のヨーロッパの遠近法絵画に虎がでてくることはありえず(そもそも西洋の絵画に虎はまず出現しません)、中国人向けに描き起こしたことがわかります。中国における新規作図です。
最後の方に数多く描かれる壺の絵もそうかもしれません。
ひとりで6時15分、室温27.4度。曇り。
今日は全員がよく寝ています。合宿帰りのちいさいちびは爆睡するかもしれません。おおきいちびは受験生なので、ふつうに7時台には起きてくるでしょう。→意外や意外、昨日早く寝たといってちいさいちびが一番に起きてきました。続いて、小学生、そして、おおおきいちび。午前中に2017年第3号の表関係を仕上げました。お昼前に送り出しました。夏休み前にすませておく仕事はこれで全部終わったと思います。さて、帰省をどうしましょう。おおきいちびは受験、ちいさいちびは部活があるので、今年はおばあちゃんちには行かないと言っています。息子と2人で帰省することになります。息子は釣りがしたい。お墓参りと釣りが中心的イベントとなります。昨日のニュースによれば、11日が帰省ラッシュのピークだそうです。11日は避けるとして、どうするのか思案中です。
ノーベル化学賞のリストを見直してみました。最初は1901年でファントホッフ。ヨーロッパ以外で最初の受賞者は、アメリカ人リチャーズ。1916年、1917年は続けて受賞者なし。1918年はハーバーがアンモニア合成でノーベル化学賞を与えられています。1919年も受賞者なし。1924年も受賞者なし。1933年も受賞者なし。1940年、1941年、1942年も受賞者なしです。その後は、毎年、受賞者がいます。これは明らかに第1次世界大戦と第2次世界大戦が関わっています。
1917年の化学。日本にとっては、理化学研究所の創立がなんといっても大きいでしょう。他に日本関係では、ビオフェルミン製薬が神戸衛生実験所として設立されたこと、鈴木商店が鈴木製薬所と合併したこと、ニコンが日本光学工業株式会社として設立されたこと、そして、本多光太郎がKS磁石鋼を発明したことが大きいでしょう。
社会的事件としては、(自然現象ですが)「大正6年の大津波」と呼ばれる高潮水害の発生があげられます。東京の佃、月島、築地、品川、深川が浸水し、市川、船橋にも被害が及び、横浜港では船が転覆し、塩田も壊滅状態に陥ったとあります。9月30日です。今こういうことが起こるかどうかは知りませんが、地震によらなくても、いわゆる海抜0メートル地帯の浸水はありえることがわかります。
ひとりで4時45分、室温25.4度。曇りかと思ったら、小雨が降っています。おおきいちびが塾に出かける頃には、上がっていました。梅雨が舞い戻ってきたかのような天候が続きます。小学生は昨日の SING が気にいったようです。朝からまた見ています。
私は昼食後大学に行って、図書の整理をしてくるつもりです。
→息子がラーメンを食べたいというので、駅前のいつものラーメン屋さんで昼食のラーメン。小学生におおきいちびようのお土産をもたせて、私は大学へ。12時42分武蔵境発の西武線。研究室で借りた本の整理。すこしコピーをとり、すこしスキャンし、研究所へ。すこしだけコピー。印刷センターで裁断してから、図書館へ。
ILL の1冊を含み、3冊の本を返却しました。そのまま帰途。1時40分多磨駅発の電車。気温はそれほど上がっていませんが、湿度がすごい。むしむしするなか、帰宅。5時前にちいさいちびが5日間の合宿から帰ってきました。きつかったけど、たのしかったそうです。すぐに小学生がピアノから帰宅し、我が家はまた全員揃いました。
ローマの大橋さんが池上俊一編『原典 ルネサンスの自然学』(上下巻、名古屋大学出版会、2017)から下巻の最初を飾るディーの「数学への序説」(坂口勝彦訳)を取りあげています。「アルケマストリー」という数学の分野と「アルニランギアト」という語彙に注目されています。大橋さんの関心にどんぴしゃの部分です。
興味をひかれて、私もディーの「数学への序説」を読んでみました。16世紀後半における数学をめぐる学問状況がディーの観点からまとめられています。
私の関心は、Perspective がどう扱われているかです。Perspective そのものは、数学的科目としてはあげられていませんが、代わりに絵画術(Zographie)があげられている。「絵画術(Zographie)とは、(決められた中心、距離、光に応じて)与えられた平面で視覚のピラミッドを切断した面を、線と適切な色で表現する技術を論証し教える数学的学術である。」(p.681)
透視画法の定義としても使える規定をディーは与えています。もっとも重要なのは「視覚ピラミッドの断面」です。この意識は、Perspective によってはじめて明確になったと言っていいと思います。
ひとりで5時55分、室温24.5度。曇り。曇りのままのようです。気温は真夏の暑さまでは上がらないようです。→週間天気によれば、1週間曇りマークだけです。晴れも雨もなし。朝方、ゴミの処理をしようと腰をかがめると、腰に激痛が走りました。痛みを感じた瞬間作業を停止したので、ぎっくり腰にはならなかったと思います。ぎっくり腰の2〜3歩前の前兆でしょうか。しばらくじっとしていると、何とか動けるようにはなりました。
養生しながら日常生活を送るしかないようです。午後3時、プリンターのトナーを買うために吉祥寺のヨドバシへ。最近我が家のカラープリンターは、トナーを認識してくれないことがよくあります。新しいものを買ってくるとこれまでは認識してくれているので、ヨドバシへ直行しました。腰の状態が心配だったのですが、歩くのにはおおきな支障はありません。
[2nd VOD: Sing ]
息子が SING を見たいというので、VOD で見ました。とても喜んで見ていました。明日もまた見ると言っています。
ひとりで5時15分、室温26.0度。昨日の雨が涼しさを連れてきたようです。窓を開けると、気持ちのよい風が入ってきます。
朝方地震がありました。情報を見るためにテレビをつけると、朝の品川の気温が22.5度と出ていました。涼しいわけです。いつもの格好だとすこし肌寒いぐらいです。
いつになく、おおきいちびが私のすぐ後に起きてきました。目が覚めたと言っていますが、早すぎます。案の定もういちど寝たそうです。8時半過ぎに高校の夏期講習に出かけていきました。昨日の会議で、一応夏休み。次の会議は9月1日です。そこからは、入試があるので、怒濤です。
ILL で受け取った本の対応が終わっていないので、もう1度か2度、大学に行きます。ほっておくと、息子は一日ゲームです。すこしは身体を動かしなさいというと、トレーニングもどきはすこししていますが、全身運動が足りません。昨日で一息つけたこともあり、また外が涼しいので、10時から自転車でサイクリングに出ることにしました。
私はいま合宿中のちいさいちびの自転車を借りました。ほぼまっすぐ南に行って、それから井の頭公園に向かうことにしました。
我が家のこどもたちは全員、井の頭公園のお団子が大好きです。たれはいっさいつけません。自転車をおいて、お団子を3本買いに行きました。5分から10分でもらって帰途へ。今度はそこからできるだけ北に向かい、五日市街道にぶつかってから、ガード下を進みます。NAVI にはでてこないルートです。1時間弱。汗をかくことなく、戻りました。午後も気温は上がらず、5時過ぎの室温は25.5度。一足はやく秋が来たような気温です。どこかでまた夏が戻ってくるかと思いますが、たまにこういう涼しい日があるとたすかります。
夜10時前に次の本が届きました。
伊藤美登里『ウルリッヒ・ベックの社会理論: リスク社会を生きるということ 』 勁草書房、2017
→翌朝、危険とリスクの概念に関わる章だけ先に読みました。(第2章と第3章)。ベックは、ルーマンとは違って、明確に「危険」と「リスク」の両語を使い分けしなかったようです。
ひとりで5時、室温28.2度。大学のアドレスに数多くの用件メールとスパムメールが届いていました。そういう日もあります。
午後1番に会議。
8時54分武蔵境発の西武線。そのまま図書館に行って、次の本を受け取りました。
Kirsti Andersen, The Geometry of an Art. The history of the mathematical theory of perspective from Alberti to Monge, Springer, 2007
次いで2004年の『思想』から何点かコピー。カバンは重くなりましたが、図書館から駅前のコンビニに行って、昼食を買い、研究室へ。途中で一度研究所により、やはりいくらかコピー。
11時に学生に書類を手渡しました。
作業をしているうちに会議の時間。1時から2時過ぎまで。夏休み前最後の会議となります。研究室に戻り、何件か事務的用件のメールをだして、図書館に返す本を3冊手にとりました。一度印刷センターでカッターを使わせてもらってから、図書館で返却。雨がすぐにでも降ってきそうな空模様。
3時4分多磨駅発の電車で帰途へ。すこし降ってきましたが、気にせず、帰宅しました。
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