Last updated 15 May 2002

    隠れた紀要論文
 今は亡き哲学者廣松渉氏が言っていたことでもありますが、日本人には、日本人の良い仕事をあまり評価しないのに、洋ものならば2流のものでも高く評価するという風潮が割と広く見受けられます。特に埋もれやすいのは、大学等が発行している紀要の論文です。それがどんなに画期的ですぐれたものであっても、紀要に出たと言うだけで低く見られがちです。ここでは、私が気付いた範囲で、そうした埋もれた論文を紹介していきたいと思います。(紀要は、そもそも、捜すのが結構大変なので、私のものも見落としているものが相当あり得ると思います。気付いた方が情報をお伝えくださればと思います。)

渡辺博
 渡辺博「伝統、記憶、書:新しい科学像の一視点を求める一試論」『中央大学論集』4(1983.3), pp.23-37
 渡辺博「言語ゲームとゼノンの逆説」『中央大学論集』3(1982.3), pp.1-15
 渡辺博「力学的世界観の形成とその意味」『知の革命史2 運動力学と数学の出会い』(朝倉書店、1982),pp.169-222
 渡辺博「アニミズム化と着服の論理」『理想』No.617(1984.10),pp.307-317
 渡辺博「相対主義の問題」『科学哲学』15(1982),pp.63-76
 渡辺博「「原子」の概念をめぐって」『理想』No.602(1983.7),pp.76-88
 渡辺博「Tacit Knowledge ―その使い方」『現代思想』1986年3月号、pp.159-167.
 渡辺博「自然と数」『哲学への招待』(有斐閣、1988)、pp.95-112
 渡辺博「物質・生命の概念―その論理的諸問題と歴史的展開―」『新岩波講座哲学6 物質 生命 人間』(岩波書店、1986)、pp.58-81
   特に最初にあげた「伝統、記憶、書」は、非常に早い時期、オングの批判的吸収の上に、とても独創的な議論を展開しています。記憶について語る哲学者には必読の論文だと私は考えます。ともあれ、非常に面白い論文です。
 2番目の「力学的世界観の形成とその意味」は、この方面の基本論文だと私は考えています。私の大学の授業(科学思想史)でもそういう位置づけで、この論文を活用しています。『知の革命史』のシリーズでは、実は、未完の物質理論の巻に期待していたのですが、いつまで待っても出る様子がありません。事情は知りませんが、残念です。
 なお、私は、渡辺氏の論文は、ほぼすべて読んでいると思います。ただし、個人的に面識はありません。

前田達郎
 前田達郎「フランシス・ベーコン哲学研究序説」『新潟大学教養部研究紀要』1(1968), 1-14
 前田達郎「F.ベーコンの「汚職」―その事実と評価―」『新潟大学教養部研究紀要』7(1977), 13-33
 前田達郎「近代科学・魔術・宗教―科学革命の思想史的要因」『新潟大学教養部研究紀要』8(1978), 7-20
 前田達郎「F.ベーコンの帰納論理と近代科学の論理」『新潟大学教養部研究紀要』9(1979), 1-13
 前田達郎「F.ベーコンの倫理思想―科学時代の倫理の形成」『新潟大学教養部研究紀要』10(1980), 1-17
 前田達郎「ルネサンスの科学と非科学―科学思想形成の一局面」『新潟大学教養部研究紀要』13(1982), 179-188
 前田達郎「レトリック・哲学・科学―その思想史的連関」『新潟大学教養部研究紀要』16(1985.12), 1-8
 前田さんは、ロッシの『魔術から科学へ』(サイマル出版、1970)の訳者の方です。前田さんが新潟大学の紀要に載せているベーコン論は、かなりよいものです。本の形にまとめられていなので、注目されていませんが、科学史の観点からすればきちんと読むべきベーコン研究です。(私は、またもや面識はありません。)

 少し考えを改めて、紀要でなくても、あまり入手しやすくないものに発表された論文は、この枠のなかで取り上げることとしました。

伊藤和行
 伊藤和行「ガリレオの斜面運動の原理」『イタリアーナ』(日本イタリア京都会館誌), No.16, 35-45.
 非常によい論文です。私の大学院時代の先輩で、今は京大の科学史の先生です。御本人には叱られるかも知れませんが、この論文が私には彼の書いた最良の論文に思われます。
京大科学史科学哲学教室伊藤和行氏ホームページ
 また少々、この欄の適用範囲を拡張します。著者が外国人の論考の邦訳も入れます。
 フランソワ・ドゥ・ガン(伊藤和行訳)「一七世紀における数学と物理的実在論(ガリレオの速さからニュートンの流率まで)」ディユドネ、トム、ロワ他『数学・言語・現実』(日本評論社、1984),pp.32-69.
 なかなか有用な論考です。特に、時間の部分が私には役に立ちました。

赤木昭三
 赤木昭三「 De l'origine des fables の独創性」『ガリア』10-11(1971), 3-26
 赤木昭三さんの仕事は、もし、英語で出ていたら、必ずや17世紀の科学史家の必読文献に入れられていたであろう、そういう種類の仕事だと思います。この論文は、この時代のフランスのリベルタンに2つの系統を見、それを的確に記述したものです。赤木さんが1980年の『思想』(5号、6号、7号)に連載した「17世紀のリベルタンとデカルト思想」も私は、17世紀に関心を持つものには必読文献だと思われます。18世紀のフィロゾーフに関心を持つ人にも必読だと思います。(個人的に面識はありません。)

矢島祐利(やじま・すけとし)
 矢島祐利「展望:後期スコラ学と自然科学―アンネリーゼ・マイヤー女史の業績に寄せて」『科学史研究』II,15(1976), (No.119), 113-121
 これは、マイヤー女史がいかにすぐれた仕事をしていたか、よくわからせてくれる論考です。ごく短いものですが、マイヤー女史の『後期スコラ学の自然哲学考究』(ドイツ語)から何点か紹介されています。(紹介されている中心は、慣性法則の先駆とされるインペートス理論についてです。)

原享吉(はら・こうきち)
 原享吉「クリスチャン・ホイゲンス―生誕350年に寄せて」『科学の実験』第28巻(1978)第8,9,10号。
 『科学の実験』はいわば啓蒙雑誌に属するものですが、この数学者原氏のホイヘンスは、非常に明晰に数学的ポイントをしっかり押さえて書かれており、ホイヘンスについて関心のある方には読む価値があります。

近藤洋逸
 近藤洋逸「デカルトの物質―その定義をめぐる諸問題」『岡山大学法文学部学術紀要』9(1958), 42-53
 デカルトの有名な定式化「物質=延長」は、『宇宙論』(1633)には見いだせない。また『規則論』(1627)にもその定義はない。おそらく、この定義は、『宇宙論』の完成後、『方法序説』以前と推定できる。
 デカルトの出来上がった思想だけを見る人は、デカルトにとって物質=延長は、揺るぎない基礎だというふうに思うであろうが、現実にデカルトが自然を扱っているときには、物質=延長という定義は守られていない。「動揺し、混乱し、矛盾に陥らざるをえなかった。」
 近藤さんには、『デカルトの自然像』岩波書店、1959という成書があります。現在でも読むに値する本と言えるでしょう。

藤澤令夫
 藤澤令夫「ΕΙΚΩΣ ΛΟΓΟΣ ― Platon における自然学のあり方について―」 『西洋古典学研究』2(1954), 51-66
 藤澤令夫「個をどうとらえるか」『世界思想』14号(1987), 1-5
 藤澤令夫「人間にとって古典とは」"http://www.kotengaku.bun.kyoto-u.ac.jp/letter/005/symposium/keynote1.html" in 科研費特定領域研究「古典学の再構築」
 西洋古典学の世界では有名な方ですが、科学史の世界ではあまり知られていません。読んでみればわかります。プラトンがやはりすごい人だということが!

コイレ
 A.コワレ[sic](伊東俊太郎訳)「ガリレオとプラトン」『科学革命の新研究』(日新出版、1961),pp.83-118.
Originally published in ISIS<4(1943), 400-428.
 2001年度から日本科学史学会の会長を務めることが決まった伊東俊太郎先生の翻訳になるコイレです。コイレのプラトン主義はもう古いと思われる方も多いでしょう。実際プラトニズムの議論は古いかも知れません。しかし、科学史記述の無意識の前提を多く明示的なシェーマとして提示することに成功しており、私には今でも重要な論考だと思われます。

古川安
 古川安「巨大分子からナイロン発見へ―科学者カローザスの軌跡」『科学と実験』1983年8月号、pp.14-18;9月号,pp.46-49;10月号,pp.34-38;11月号,pp.55-58;12月号,pp.28-32
 我々の化学史学会現編集長の年来のテーマを一般向けにわかりやすく書いたもの。(博士論文の書籍化はいろんなところでレビューが出ています。)ポリマー・サイエンスには素人の私には、ここでの古川編集長の記述が非常にわかりやすく、有用でした。具体的な細部がしっかり書かれているので、授業で使うときにも便利です。(本当は、こうした文章をもとに新書を発行してもらうのが一番だと思います。)

ナイト
 デイヴィッド・ナイト(柏木肇訳編)「イングランドの自然誌と化学―18世紀末から19世紀初期にかけて」『科学と実験』1981年6月号, pp.83-89;7月号, pp.81-87.
 今は亡き化学史学会元会長の求めに応じて書かれたオリジナル・ペーパーの訳出。ヨーロッパの諸学の基礎としての自然誌の重要性は、私も指摘したことがありますが、ベテラン化学史家によるこの記述は、非常に面白いものです。少しだけ実例を紹介しましょう。エリスのサンゴ研究は、はじめサンゴで装飾品を作って遊んでいたのが、化学分析に向かいサンゴと動物とする結論に達する。有名な化学者デイヴイは、魚釣り名人で『さけ類』という著作まで出している、・・・。

金森修
 金森修「バシュラールと化学(1) - (6)」『筑波大学 言語文化論集』第26号(1988), pp.85-100 ;第27号81988), pp.79-98 ;第28号(1989), pp.55-68 ;第29号(1989), pp.111-122 ;第30号(1989), pp.145-156 ;第31号(1990), 95-105
 著書『サイエンス・ウォーズ』(東大出版会)で第22回サントリー学芸賞並びに第26回山崎賞を受賞された金森さんのバシュラール・シリーズ。BHで平井浩さんがしきりに強調されているように科学史の分野では、フランスの現代思想の源流にあたる人々(エピステモロジー)が本当に良い仕事をしていますが、英語圏を主流とする科学史の世界では正当に評価されているように見えません。私は、バシュラールは非常に面白いと思います。小著ですが、バシュラールの『原子と直観』は、原子論のもっともスリリングな部分をいつも隠してしまう素朴な原子論(小さな物質粒子としてイメージしてしまう)の発想の強さを見事に描いています。思い起こしてみれば、下の誤謬誌のアイディアは、バシュラールの認識の障碍論に由来するかも知れません。ここにあげる筑波大学の紀要では金森さんは自由に書いていらしており、その部分が面白い=刺激にとんでいます。
 (科学史を勉強している若い方にもこのページを読まれている方がいるかと思い、老婆心ながら、少しだけコメントしておきます。金森さんの仕事ならびに金森さんが取り上げているフランスのエピステモロジーの系譜に属する方々の著作は、非常に勉強になります。想像力を刺激する、と言えばよいかと思います。研究を進めていく上でのアイディアがつかめることがあります。食わず嫌いの方も少なくないように見受けられますが、はっとするような切り口や概念化があるので、よい頭のマッサージとなってくれます。)
その金森修氏のサイト
約50点の論文要旨、書評、小文が収められています。書評、小文は全文があげられており、読み応えがあります。

大谷隆昶
 大谷隆昶「アルキメデスの点と道徳的確実性」『科学の世界』(渡辺正雄編、共立出版、1982),66-92.
 科学史の世界で非常にすぐれた翻訳を多くものにされている大谷さんの論考。科学における「数学」と「経験」の位置に関して、重要な指摘がなされています。
 1)数学。17世紀の自然哲学では数学(幾何学)の重要性が大いに強調されたが、その内容は建前としての理性・論理の重視という域を出ていなかった。さかんに賞揚された幾何学的精神とは、自然研究に数学を駆使することよりもむしろスピノザの『エチカ』にその活躍の場を見出したのである。
 2)経験。この時代の経験は、個別の具体的経験であるよりもむしろ長年にわたり理論体系のなかで様式化された経験を指すことが多かった。

また少し、このページを拡張します。日本語で出た論文は、媒体を問わず忘れられることが多いようなので、邦語論文、という枠にします。

本浄高治(ほんじょう・たかはる)
 本浄高治「化学分析において用いられた天然有機試薬の起源―天然分析試薬、酸・塩基指示薬、酸化・還元指示薬について―」『化学史研究』No.43(1988), 63-66.
 「分析試薬として有機化合物を用いた起源を探ってみると、18世紀頃までは植物とか動物から得た天然産の有機物質が経験的に無機定性分析試薬、酸・塩基指示薬、酸化・還元指示薬として利用されている。」そのレビュー。
 没食子、蓚酸、酒石酸、琥珀酸、スミレ汁、矢車菊花精、コチニール、リトマスゴケ、ハッカダイコン、クルクミン、ブラジリン、インジゴ等について、有用な情報を与えてくれる。

F.C.ヘイバー
 F.C.ヘイバー「時計の宇宙論的メタフォアー」『エピステーメー』1979年2月号<特集 時計>、pp.22-43
Translated from F.C.Haber, "The Cathedral Clock and the Cosmological Clock Metaphor", in The Study of Time II, (Spirnger,1975)
 17世紀に機械論のパラダイム的事例として非常によく使われたストラスブールの大天文時計について、(邦語文献のなかでは)もっとも詳細な説明があり、有用です。17世紀に成立した機械論の位相を正確に捉えるためには、その機械論がモデルとした機械そのものをしっかり抑えておく必要があり、この論考はその意味で大変重要です。
 ちなみに、時計の歴史を知るには、この『エピステーメー』の特集が非常に役に立ちます。時計に関しては通史もいくつか出ていますが、批判的とは言い難く、まずは、この雑誌を繙いてもらうのが正解だと思います。
 古代ギリシャに出現した天文装置(機械時計の起源)については、プライスの仕事が根本的です。次のページで、プライスによる論文を画像も含めて全文見ることができます。
アンティキュテラの歯車装置(紀元前1世紀の天文観測装置=機械時計の起源)
 また、渡辺博「力学的世界観の形成とその意味」『知の革命史2 運動力学と数学の出会い』(朝倉書店、1982),pp.169-222もご覧下さい。重要な情報が得られます。
 

パーク&ダストン
 K.パーク&L.J.ダストン「反-自然の概念」『思想』1982年11月号、pp.90-118
 Translated from Katherine Park and Lorraine J.Daston, "Unnatural Conceptions: The Study of Monsters in sixteenth and Seventeenth Century France and England", Past and Present, No.92(1981), pp.90-118
 科学史の論文とは、こう書くべきだというお手本となるような論文。何であれ、「自然観」に関心のある方には、必読文献と言えるでしょう。
 02.5.14 なお、パークとダストンには、Past and Presentの論文のテーマを大きく発展させた次の大著があります。
Lorraine Daston & Katharine Park
Wonders and the Order of Nature, 1150-1750
Cambridge,Mass.: The MIT Press,2001
 これは、1頁がほとんどA4の大きさで、全体で500頁を超える本当の大著です。図版も非常に多く含まれています。こういう方面に少しでも関心のある方の必携文献と言えるでしょう。

大森荘蔵
 大森荘蔵「知識と意見」『(放送大学教材)科学と宗教』日本放送出版協会、1988、pp.373-6.
 1980年の最後の年代に、文部省の大学設置基準の大綱化ということがあり、日本全国の大学が改革を迫られました。もちろん、うまく対応したのは東大をはじめとする旧帝国大学です。(文部省や総務庁の内部文書に、いまだに戦前体制=東大をトップとする国立大学のヒエラルキーが厳然と存在する事実を知り、びっくりしたことを良く覚えています。)大綱化の意図は、教養教育の解体ではなかったのですが、各地の大学で教養部の解体という現象が生じています。私も着任した大学で、その流れに巻き込まれ、30代前半のある期間、その仕事に関わっています。ずいぶん、勉強しました。情勢判断のために最も役に立ったのは、ジャーナリスト日垣隆さんの大学改革についての書物でした。私の大学の改革案の教養教育の部分の草案は、私が用意しましたが、そのときの基本的観点としてもっとも参考になったのが、今は亡き私の師匠大森先生の文章です。その核心部分は、まだまだ重要性を失っていない、あるいは、むしろ重要性を増していると言ってよいと思います。少し長めに引用してみたいと思います。
 「戦後半世紀、日本の社会は「教養」という概念の意味を創造することができなかった。この文化的空隙に乗じて、教養とは専門のための準備であり、予備であるという間に合わせのその場しのぎの解釈が流通して、大学のカリキュラムの予算の基本となり、時には人事にまで影響を及ぼした。しかし、このいかにも官僚的事務的な解釈はもう廃棄すべきであろう。それに代わって、教養と専門との関係を知識と意見という観点から眺めてみてはどうだろうか。つまり、専門的知識の探究が専門的研究の仕事であるのに対して、意 見の形成や鍛錬が教養の意味だと考えるのである。もちろん、意見の形成や鍛錬にはその主題について十分な知識が必要であり、その知識は専門知識のストックから供給され修得される他はない。・・・そうだとすると専門と教養の関係は従来の解釈の場合と逆転する。教養が専門への準備なのではなく、専門知識が教養のための準備なのである。(略)。
 ・・・
 その[教養]の訓練とは第一に、できるだけ多くの意見に接してそれを理解し、批判し、比較する力を養うことであり、第2には、できるだけ多くの主題について自分自身の意見を形成し、それを明確な言葉で述べることである。教養とは物知りになることではなく、優れた意見を持つことなのである。そのような訓練はかつてレトリク(修辞学)と呼ばれて中世西欧の学校では全人的教科とされていたと聞いている。実際現代でも、自然について、歴史について、人間について、科学について、宗教について、税法について、脳死 についてと人生全般についてバランスのとれた意見を持つことこそ全人的な教養の意味ではなかろうか。その意見を単に漠然としたフィーリングであるのではなく、自分の胸の底から言葉で述べることができ、討論することができ、あわよくば説得することができる意見でなければならない。つまり、意見とは実は「思想」であり、言語こそその思想の中核なのである。」

加藤尚武
 加藤尚武「情報媒体の変化と教育方法論」越智貢・土屋俊・水谷雅彦編『情報倫理学』(ナカニシヤ出版、2000),pp.218-239.
 この加藤氏の主張を短くまとめてみましょう。近代教育学(方法論)の端緒をつけたコメニウスの教育の考え方が、大量複製技術としての印刷術をモデルとしており、現代の教育方法論はこの考え方の桎梏のもとにある、というものです。少し引用してみましょう。
 「コメニウスは印刷された教科書を使うことによる教育の規格化が、印刷と同じ効率化をもたらすと信じている。彼の開発したカリキュラムというコンセプトは、印刷物の情報構造を教育に転写する結果になる。教師が多数の生徒に同一の教材を配布し、同時的に進行する形で教育が進められていく。」(こうした教育形態は、印刷物をモデルにしてコメニウスによって発明されたものである。)
 「同一教材の一斉進行という授業形態がイギリスで完成するのは19世紀末」だが、「コメニウスが理想とした授業形態が社会的に定着したということができる。」
 印刷形態の特徴は、情報がリニアに配置されると言うことで、教育もリニアに配置されるようになった。(学年進行というリニア。単純から複雑なものへというカリキュラムのリニア。)
 加藤氏は、こうしたリニアな配列を本質とする印刷術モデルの教育形態に対する、オルタナティブとして、EBM ( Evidence-based Medicine)の実践例をあげている。具体的には、カリキュラムに基づく講義をなくし、すべてケーススタディー方式の授業とする。(具体的な問題状況を与えて、学生は、その回答を医学のデータベースから探し出す。)リニアという言葉に対比させれば、双方向型、始点自由、スポット型、と言い表すことができる。
 私は意識せずに、この脱カリキュラムタイプの授業を比較的多く試みています。いろんな教育機関でこの脱カリキュラム、脱リニアな教育方法を本格的に導入する試みがなされるべきだと考えます。(もちろん、リニアでカリキュラム方式が向いている場所やケースは多くありますから、入れ替えを主張するものではありません。補完を考えればよいと思います。)

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