• 2012.9.4(火)  
     『東洋文化研究』第12号(2010)(学習院大学東洋文化研究所)
     目次は次です。

    論  説
    北魏後期における皇室の婚姻政策─北魏国家像の解明にむけて 佐藤 賢
    『胡志明』から『アジヤの孤児』へ―その改編をめぐって─ 豊田 周子
    韓国における高位公務員団制度の導入の政治過程 村松 岐夫・権 寧周
    書評
    劉小萌『清代北京旗人社会』 上田裕之
    特別寄稿
    中央民族大学図書館所蔵の満漢合璧の字・辞書について 趙 令志 (訳:倉嶋真美)
    学校環境教育革新のための韓国の実験─15年の経験に対する評価と提言─ 李 在永
    特集:東アジアにおける成年後見制度
    はじめに 岡 孝
    台湾成年監護制度の新しい課題 王 仁越 (訳:銭 偉栄)
    委任契約締結後の委任者の意思能力喪失─委任契約の効力に影響を及ぼすか─ 李 昭彦 (訳:銭 偉栄)
    韓国における任意後見制度の現状と立法的課題 金 文中 (訳:李 妍淑)
    韓国における法定後見の現状と課題 金 亮完
    挑戦と対応―中国における成年後見制度について 王 麗萍 (訳:鄭 芙蓉)
    日本法における法定後見の若干の問題点─特に、成年後見人の権限を中心に─ 額田 洋一
    公証実務から見た任意後見制度の実情と問題点 坂井 靖

            未公開資料 朝鮮総督府関係者 録音記録(11) 
         東洋文化研究所所蔵 友邦文庫
            朝鮮の重工業
    監修:宮田節子 編集協力:岡本真希子、田中隆一、宮本正明、通堂あゆみ、李正勲
      【解説】朝鮮の工業化―朝鮮総督府殖産局と朝鮮窒素肥料・・・広瀬 貞三
      茂山製鉄事業創始当時の回顧録(1965.9.16)
      朝鮮総督府殖産局の仕事(1958.9.24)
      朝鮮産業発達史談(1958.9.24)
      朝鮮における重化学工業の建設(1965.8.4)
    東洋文化講座「交錯する権力:アジアの争点」講演録
    あぶりだされた階層対立―タイ政治混乱の舞台裏― 重冨 真一
    オバマ政権下の日韓・日朝関係の現況 李 泳采
    研究ノート
    香港の上級日本語学習者による日本語複合動詞の習得に関する調査 何 志明
    論説
    指示代名詞の中国語四川方言における三分法(現場指示)の存在とその類型 安部清哉・晋 萍

     私が見たいのは、もちろん、ボールド(太字)にした部分です。これはとても貴重な仕事だと思われます。
       まず、特集の冒頭記事、広瀬貞三氏による解説記事「朝鮮の工業化―朝鮮総督府殖産局と朝鮮窒素肥料」を読みました。初学者にはとても有用なまとめとなっています。

     1952年10月財団法人友邦協会を設立した穂積真六郎に関する略伝があります。

     日窒のNo.6 であった白石宗城についても略伝があります。
     白石宗城は、1889年生まれ。1907年仙台の第2高等学校に入学し、1910年東京帝国大学電気工学科入学、1913年同学科卒、早稲田大学講師となる。1914年、父が取締役を務めている日本窒素に入社。1918年米国視察。1920年一端退社し、岩崎久彌の資金援助でドイツに留学し、ベルリン大学ビンゼン研究所所員として、アンモニア合成などの化学実験を行う。1922年帰国し、日本窒素に復社する。1924〜25年野口とともに北朝鮮の赴戦江一体を視察、1926年朝鮮の興南に赴任、1927年朝鮮窒素が設立されると、常務就任。1937年日本窒素の6番目の幹部となる。(野口遵社長、市川誠次副社長、榎並直三専務、金田栄太常務、桐島宗一常務の次。)1945年9月日本に引き揚げる。公職追放が解除されたあと、1951年新日本窒素肥料の社長に就任し、1958年1月まで同職。水俣病は、1956年5月に第1号の患者が公式確認される。戦後の穂積真六郎の朝鮮関連事業にも協力し、中央日韓協会会長、友邦協会理事も務める。1979年死去。享年90歳。

     今回の作業をはじめる前私自身は知りませんでしたが、穂積真六郎は重要な人物です。朝鮮に32年間滞在しています。1932年から1941年まで約9年間総督府殖産局長を務めています。
     穂積真六郎は1889年穂積陳重の4男として生まれる。1913年東京帝国大学法科大学政治科卒、翌年文官高等試験に合格し、総督府に入る。1932年9月宇垣総督の下、殖産局長に就任する。9年間の総督府殖産局長在任は、植民地期の殖産局長10人のなかで最長。殖産局長退職後は、1942年11月朝鮮商工会議所会頭、1942年12月京城電気株式会社社長に就任。1945年の敗戦後、混乱のなかで京城日本人世話人会を組織、1946年3月、一時西大門刑務所に収監される。1946年4月日本に引き揚げ、朝鮮引揚同報世話人会第二代会長に就任。1947年参議院議員に当選、1950年5月までつとめる。1952年6月、社団法人中央日韓協会が設立されると、副会長に就任、1952年10月財団法人友邦協会を設立し、理事長に就任。1958年5月若い学生たちと朝鮮近代史研究会を設置し、元総督府の日本人官僚129名に関する聞き取りを行い、418本の録音テープを残す。1970年5月死去。享年81歳。総督府での在職期間は、28年間。

  • 2012.9.12(水)  
     穂積真六郎『穂積真六郎先生遺筆:我わが生涯を朝鮮に』財団法人日本友邦協会、1974
     会議の合間に読んでいました。穂積真六郎のことは調べはじめたばかりですが、これだけ慕われているのは、遺徳でしょう。
  • 2012.9.13(木)  
      [未公開資料 朝鮮総督府関係者 録音記録]
     貴重な記録だと思われるので、『東洋文化研究』に連載されている「未公開資料 朝鮮総督府関係者 録音記録」の情報を整理しておきます。( )のなかはインタビューの日付です。

     第2号(2000)十五年戦争下の朝鮮統治
    【解説】穂積眞六郎先生と「録音記録」 :宮田節子
     1.南総督時代の行政 ― 大野緑一郎政務総監に聞く (1959.11. 4) ]
     2.小磯総督時代の概観 ― 田中武雄政務総監に聞く (1959. 9. 9)
     3.参政権施行の経緯をかたる ― 田中武雄小磯内閣書記官長ほか (1958. 8.26)
     4.阿部総督時代の概観 ― 遠藤柳作政務総監に聞く (1959. 9.16)

     第3号(2001)朝鮮統治における「在満朝鮮人」問題
    【解説】朝鮮統治における「在満朝鮮人」問題:田中隆一
     5.日本統治下の在満朝鮮人問題 (1959.2. 18)[ 田中武雄 , 神 弌春 , 穂積真六郎 , 原田大六 ]
     6.安重根・間島問題 (1959. 4.22) [相場清]
     7.満洲における朝鮮人問題−特に鮮満拓殖株式会社について (1962.10.17)[渡辺 豊日子]

     第4号(2002)朝鮮総督府・組織と人
    【解説】朝鮮総督府・組織と人:岡本真希子
     8.朝鮮総督府の法制について (1962.11.21)[萩原 彦三]
     9.朝鮮の地方自治について (1959. 3.25)[富永 文一 , 萩原 彦三 ]
     10.歴代の朝鮮総督と政務総監―側近者の秘話第一講 (1970. 5.26)[松園 俊太郎 ]
     11.朴重陽について (1969.12.20)[君島 一郎 ]

     第5号(2003)民族運動と「治安」対策
    【解説】民族運動と「治安」対策:河かおる
     12.三一事件後の朝鮮に赴任して(秘話体験談) (1961.7.12〜8.2)[千葉 了]
     13.日本統治下の朝鮮民族運動 (1958.12.17)[田中 武雄 , 丹下 郁太郎 , 筒井 竹雄]
     14.朝鮮における警務行政の回顧 (1967.1.19)[三橋 孝一郎 , 森 浩, 古川 兼秀 , 八木 信雄 , 筒井 竹雄 ]

     第6号(2004)朝鮮軍・解放前後の朝鮮
    【解説】朝鮮軍・解放前後の朝鮮:宮本正明
     15.朝鮮軍参謀長時代を語る (1961.12.13)
     16.朝鮮軍について (1966.10.13)
     17.朝鮮歩兵隊教官として (1967.2.16)
     18.朝鮮独立運動の真相 (1960.3.30)

     第7号(2005)朝鮮総督府時代の農政
     【解説】朝鮮総督府時代の農政:辻 弘範
     19.朝鮮総督府時代の農政について (1963.4. 3)

     第8号(2006)朝鮮土地調査事業をめぐって
    【解説】現在をも規定する朝鮮土地調査事業:宮嶋博史
     20.土地調査事業の実態 (1960.2.24)
     21.朝鮮の土地調査事業について (1960.3.2)

     第9号(2007)駅屯土払下げと東洋拓殖会社
    【解説】駅屯土払下げの展開と東洋拓殖会社;黒瀬郁二
     22.朝鮮における駅屯土の払下げについて (1967.6.20)
     23.東拓土地問題−特に宮三面事件を中心として (1968.8.12)

     第10号(2008)植民地朝鮮農村に生きた日本人
    【解説】植民地朝鮮農村に生きた日本人:松本武祝
     24.朝鮮農村行政の実情について(1968.6.5)
     25.全羅北道における営農体験談(1968.7.5)

     第11号(2009)朝鮮の山林政策
    【解説】朝鮮総督府の林野所有権整理の林政:李宇衍
     26.朝鮮の林業について―朝鮮林業の話(1958.11.12)
     27.朝鮮の山林について(1960.7.6)
     28.歴代総督の山林政策とその実際について(1963.11.13)
     29.朝鮮総督林野調査委員会の事業(1968.11.5)

     第12号(2010)朝鮮の重工業
    【解説】朝鮮の工業化―朝鮮総督府殖産局と朝鮮窒素肥料:広瀬 貞三
     30 穂積真六郎 茂山製鉄事業創始当時の回顧録(1965.9.16)
     31 穂積真六郎 朝鮮総督府殖産局の仕事(1958.9.24)
     32 穂積真六郎 朝鮮産業発達史談(1958.9.24)
     33 白石宗城 朝鮮における重化学工業の建設(1965.8.4)

     第13号(2011)植民地朝鮮における専売制 度――塩業を中心に
    【解説】植民地朝鮮の専売 制度と塩業:田中正敬
     34.朝鮮総督府の専売制度―― 特に人参政策をについて(1963.5.23)
     35.朝鮮における天日塩田の築 造について(1967.4.20)
     36.朝鮮における塩田の築造と 日本における塩の需給方策(1970.11.24)

     第14号(2012)京城帝国大学時代の回顧
    【解説】京城帝国大学時代の回顧:通堂あゆみ 
    連続シンポジウムについて…宮田節子
     37.京城大学医学部時代の回顧(1967.10.14)
    連続シンポジウム=日本における朝鮮研究の蓄積をいかに継承するか第四回:「京城帝大」 における社会経済史研究

     インタビューされた方の名前は追って調べてから入力します。
     →12.9.15 たとえば、「5.日本統治下の在満朝鮮人問題 (1959.2. 18)」は、宮田節子司会で田中武雄 , 神尾弌春 , 穂積 真六郎 , 原田 大六 の4氏が話しています。つまり、座談会形式のインタビューです。(個人インタビューではありません。)サイニーは、「宮田 節子 [司会] , 田中 武雄 [講師] , 神尾 弌春 [講師] , 穂積 真六郎 [講師] , 原田 大六 [講師]」と表記していますが、これは煩わしい。ヒアリングを受けた講師名(聞き取りを受けた証言者名)だけを列挙します。

  • 2012.9.14(金)  

     石川一郎『化學肥料』日本評論社, 1934
     経済団体連合会編『石川一郎追想録 』 経済団体連合会, 1971

     それから地下1階で作業。『東洋文化研究』のバックナンバーを見ていました。疲れない程度に必要な箇所をコピー。
     印刷センターによってから研究室へ。11時まで作業をして、帰途へ。武蔵境駅前でラーメンを食べてから帰りました。

     石川一郎『化學肥料』日本評論社, 1934ですが、前篇が「化学肥料工業の概説」として、第1章「緒論」;第2章「化学肥料工業の起源と其発達」;第3章「燐酸質肥料工業」:第4章「加里肥料工業」;第5章「窒素肥料工業」;第6章「調合肥料」;第7章「新合成肥料」からなっています。後篇は「本邦に於ける化学肥料工業の概況」として、第1章「本邦に於ける化学肥料工業の歴史」;第2章「本邦肥料界における化学肥料の位置」;第3章「本邦に於ける過燐酸石灰工業」;第4章「本邦に於ける石灰窒素工業」;第5章「本邦に於ける硫安工業」;第6章「本邦に於ける加里肥料工業」;第7章「本邦に於ける調合肥料及化成肥料工業」;第8章「肥料に関する諸施設に就て」からなっています。
     化学肥料工業の概説・概観としてよくできた構成となっています。参考文献を見ると、農林省農務局・台湾総督府・朝鮮総督府『肥料要覧』を筆頭に21点の邦語文献、16点の欧語文献があげられています。そのうち9点が英語、7点がドイツ語です。これは、石川一郎が『化學肥料』を執筆した当時の肥料工業の世界的分布をあらわしていると見てよいでしょうか。

  • 2012.9.16(日)  
     藤竹暁「創刊の辞」『東洋文化研究』第1号より。
     学習院大学東洋文化研究所の設立は、1952年(昭和27年)。少人数の大学附置研究施設。朝鮮関係の資料の収集から着手。1953年に普及版『李朝実録』全56冊の影印刊行を開始し、1967年に完成。1975年に『朝鮮史関係所蔵図書目録』刊行。
     1980年から『調査研究報告』刊行。1969年から『東洋文化研究所所報』刊行。1999年から『東洋文化研究』刊行。

     小倉芳彦「二つの東洋文化研究所と私」『東洋文化研究』第1号より。
     東京帝国大学附置研究所東洋文化研究所は、1941年10月に設置。研究室は図書館の間借り、スタッフも少人数。1948年外務省管轄の東方文化学院を吸収し、大塚に移転。1949年から教授6名、助教授6名、助手9名の体制となった。
     『東洋文化研究所の50年』(1991)には、1946年から毎週一回開かれた所内研究会系757回の一覧が掲載されている。
     学習院図書館には、東洋史学の開基の東大教授白鳥庫吉が学習院時代に購入した大量の漢籍、洋書類があった。
     1977年4月から東洋文化研究所は学習院大学の附置研究所として正式に位置づけられた。法学部の加藤秀俊教授が初代所長、ほかに助手2名。

     宮田節子「【解説】穂積眞六郎先生と「録音記録」」『東洋文化研究』第2号(2000): 3-28 より。
     学習院大学東洋文化研究所の所蔵する418巻のテープは、社団法人中央日韓協会から寄託されたもので、そのうち299巻は朝鮮近代史料研究会が研究活動の一環として収録したものである。
     朝鮮近代史料研究会は、1958年5月7日に発足。発足時のメンバーは、穂積、渋谷礼治、近藤**一、岸謙、と4名の院生・学生(そのひとりが著者の宮田さん)であった。
     p.5 「穂積が「この友邦協会に朝鮮のことを勉強したいと訪れてきたのは貴方がはじめてだ。このままで終わらせてしまうには、余りにも惜しい御縁だから、どうです。ひとつ研究会でも作って、一緒に勉強しませんか。」とおっしゃり、さらに言葉をついで「私は日本の朝鮮統治が、いかように批判されても、聞く耳をもっているつもりですが、しかし、やりもしかなったことをやったといわれたり、事実にもとづかない批判を受けることは、絶対に承服できない。そこで残された余生を朝鮮統治に関する史料を集めることに捧げたいと思っています。どうです。一緒にやりませんか」という全く思いもよらない提案だった。」
     勉強仲間とはかって、朝鮮近代史料研究会を1958年5月7日に発足させた。そのときから「毎週水曜日午後6時から、友邦協会の会議室で研究会がひらかれた。」(p.6)
     「研究会は文字通り夏休みも冬休みもなく、一年中休むことなく、500回以上ひらかれた。」(p.6)
     「研究会で疑問がでたり、この分野の話が聞きたいというと、たちどころに穂積が「ああ、それだったら誰さんが一番いい」と関係者の名前をあげる。講師をお願いしたほとんどすべての先生方は「穂積さんのお声がかりなら・・」と出席してくださった。」(p.7)

     昭和27年11月1日「日韓和親を念じて 財団法人友邦協会発会す」。事務所は中央日韓協会に間借り。
     穂積が中央日韓協会とは別に友邦協会を作った理由。
     穂積の発言。「未来永劫、日韓の因縁は断ち切ることは出来ない。」「今や日本は新しい立場から、国の再建に向かって出発し、韓国もまた独立国として再び誕生した」のだから新しい友邦関係をどう築くかが重要である。しかるに、両国揃って「自国の再建に手一杯で、両国関係にまで思いを及ぼす余裕もなかった。」その一方、アメリカは「韓国の状況を直接科学的に調査するのみならず、日本においても終戦まで韓国の実地に当たっていた各方面の科学者を系統的に集めて、各般の調査書を作って本国に送っている」のに、両国ともにその種の調査をまったく忘れている。この思いで、友邦協会を作った。

     社団法人同和協会は、「朝鮮引揚同胞世話会」と「中央朝鮮協会」の後身である「旧友クラブ」の組織・事業・財産の一切を引き継いだもので、戦後出来た旧朝鮮関係者団体の一本化がはかられた。結成は、1947年7月1日付。
     中央日韓協会の前身である同和協会と学習院大学は縁が深かった。学習院長(1946.10-1966.6)安部能成は、戦前京城帝国大学教授であり、朝鮮総督府の財務局長(1937-1945)の水田直昌とも関係があった。
     1952年サンフランシスコ講和条約発効にあわせて、同和協会は名称を「社団法人中央日韓協会」と改めた(1952年11月1日認可)。そしてほぼ同時に財団法人友邦協会も創設された(1952年10月4日認可)。理事の一人末松保和は学習院大学教授で、奇しくも同じ1952年に創設された東洋文化研究所の主事であった。(pp.12-13)

     日韓親善の実をあげるためには、「日本は韓国を研究し、韓国人の民族的心理を理解して交友の基礎を合理的に立て直していく」必要がある。もちろんこれは日本人全員の課題だが、「我々朝鮮に居た者が、自己の過去における知識と経験とそして長い経験に対する自己批判とを基礎として、一般の理解と普及に努めて行く」のがよい。(p.14)
     かつての朝鮮関係者に対して「一般に厳しい批判のある事は承知の上で」「朝鮮にいた我々の国家に対する最後の義務として」日韓両国の問題に関わらなければならないと考えた。(p.15)  

  • 2012.9.19(水)  

     午後の会議は2時から。会議の時間になるまで、経済団体連合会編『石川一郎追想録 』 (経済団体連合会, 1971)をパラパラと読んでいました。追想録なので、故人賛美の基調となるのは仕方ありません。しかし、巻末の記者たちの懇談会は割とフランクに会話しています。経済系、政治系の記者は文化系で、化学者石川一郎の化学談義に当惑したことを語っていました。石川一郎は、技術系の人間が企業のトップを占める先例をつけたとあります。そして、石川一郎を「統制経済」の人であったと位置づけています。
     最後に、日本の原子力の父としての石川一郎。晩年経団連会長を辞めて日本の原子力の立ち上げに尽力したことはわかりますが、石川がそこまで原子力に力を入れた理由まではわかりませんでした。
  • 2012.9.26(水)  

     『東洋文化研究』第14号(2012)
     最新号です。「未公開資料 朝鮮総督府関係者 録音記録(13)」は、「京城帝国大学時代の回顧」。これは次からなります。
     【解説】京城帝国大学時代の回顧…通堂あゆみ 
     連続シンポジウムについて…宮田節子
     京城大学医学部時代の回顧(1967.10.14)
     連続シンポジウム=日本における朝鮮研究の蓄積をいかに継承するか第四回:「京城帝大」 における社会経済史研究

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