『現代科学史大百科事典』 [書評]吉本秀之 「『現代科学史大百科事典』朝倉書店,2014」『化学史研究』第42巻(2015): 41-42

 『現代科学史大百科事典』太田次郎 総監訳/桜井邦朋 ・山崎昶 ・木村龍治 ・森政稔 監訳/久村典子 訳、朝倉書店、2014、B5, 936Pp, 定価29,160円  原著:The Oxford Companion to the History of Modern Science, Oxford: Oxford University Press, 2003

 科学史事典を読む楽しみは何だろう。自分のよく知らない事項に関しては基本的な見通しを与えてくれること、自分のよく知っている事項に関しては必ずいくらか異なる観点・見通しによって専門家のなかで固まった見方を見直す機会を与えてくれること、こういうふうにまとめることができるであろう。
 2014年春の終わりに朝倉書店から翻訳出版された『現代科学史大百科事典』は、総ページ数で千頁に近い浩瀚な近代科学史の百科事典である。原著は、オクスフォード大学出版会が50を超える分野にわたって刊行しているオクスフォード必携シリーズ(Oxford Companions Series)の1巻として、2003年に出版された。編集主幹は、有名な物理学史家ハイルブロン(J.L. Heilbron)が務め、ジェイムズ・バーソロミュー、ジム・ベネット、フレデリック・ホームズ、レイチェル・ローダン、パンカルディ(Guiliano Pancaldi)が編集チームを組んだ。シリーズの趣旨は、百科事典のスコープをもつ分野別辞典であり、楽しく読める事典を目指している。
 大きな枠組みとして、科学史研究、科学の組織化と伝播、科学知識の主要部、装置と器具、科学の利用、100人以上の科学者に関する伝記(著名科学者列伝)の6部を設けている。「科学史研究」のもとには、概念とアプローチ、時代、主要(学問)分野の3区分が設けられ、「主要(学問)分野」では、アリストテレス主義、機械論哲学、自然哲学、新プラトン主義、ダーウィニズム、ニュートン主義、フンボルト的科学、ベーコン主義、ヘルメス主義の9項目が取り上げられている。「科学の組織化と伝播」のもとには、科学専門職、制度・組織、個別研究機関・組織、科学の普及、科学内のコミュニケーション、庇護・後援の6区分が設けられ、「科学専門職」では、エンジニア、科学者、国際主義とナショナリズムの3項目が取り上げられている。「制度・組織」では、アカデミー・学会、化学の実験室、学派、研究所、産業界の研究所、植物園、動物園、天文台、ゼミナール、大学、図書館、病院、等の23項目が取り上げられている。「科学の普及」では、教科書、博物館、博覧会、百科事典、等の9項目が取り上げられている。「科学内のコミュニケーション」では、学術雑誌、ピアレヴュー、論文、等9項目が取り上げられている。つまり、「科学の組織化と伝播」のもとに科学の社会史(あるいは科学社会学)の基本的観点が非常にバランス良くしっかりとおさえられている。
 1点だけ「技師」の項目を見てみよう。「技師は18世紀後半に、熟練した職人(大工、鍛冶屋、石工、機械工)、建築技師、工兵(主として武器と築城を担当する)とは違う社会的類型および職種として出現した。」(p.73)この文章を冒頭におき、ほぼ1頁にわたり、18世紀後半に出現した技師(エンジニア)の社会的背景・職業的地位を的確に記述している。
 「科学知識の主要部」のもとには、認識論と方法論、分野横断的概念、基本分野、専門の各分野、理論的構築の5分野が設けられている。「認識論と方法論」では、いわゆる科学哲学で扱われる、因果性、科学的方法、科学法則、観察と実験、事実と理論、実験哲学、証明、世界観、発見、分析と総合、モデル、目的論、等33項目が記述されている。「分野横断的概念」では、エーテル、化学元素、不可量物、物質、保存則、凝集、進化、細胞、等25項目が記述されている。
 化学という用語が出現したところで、化学という言葉を冒頭にもつ項目を見てみよう。「化学」そのものは、次のようにはじまる。「今日の「化学」に相当する言葉が出現したのは、西暦紀元前後に現在のエジプトのアレキサンドリアで確立した実験手法を意味するものとして使われたのが最初のようである。・・・錬金術のほうは中世のアラビアやヨーロッパで誕生したもので、・・・この伝に従うと、化学は16世紀末から17世紀にかけて再出現したことになる。」(pp.100-107)この7頁にわたる化学史の記述は編者でもあるホームズが担っている。「化学結合と原子価」の項目は2頁にわたり、ロック(A.J. Rocke)が担当している。「化学元素」の項目も2頁にわたり、メアリー・ジョー・ナイ(Mary Jo Nye) が担当している。「化学当量」の項目は1頁にわたりロック、「化学の「根(基)」」の項目も1頁でロック、「化学の実験室」の項目は2頁にわたりホームズ、「化学の用語と命名法」は1.5頁でメアリー・ジョー・ナイ、「化学兵器と生物兵器」は1頁でフェルドマン、「核物理学と核化学」は2頁にわたりウェストウィックが記述している。
 「基本分野」では、数学、天文学、物理学、力学、電磁気学、化学、錬金術、地質学、生物学、生理学、等29の分野が選ばれている。「専門の各分野」では、分析化学、無機化学、有機化学、物理化学、立体化学、生化学、量子化学、エネルギー論、気体学、結晶学、分光学、放射能、等65の専門分野が選ばれている。「理論的構築」では、化学結合と原子価、化学当量、化学の「根(基)」、化学の用語と命名法、核磁気共鳴、化合物、金属、原子構造、原子と分子、原子量、原質、酵素、酸素、酸と塩基、質量作用の法則、周期表、電子、土類、発酵、pH、フロギストン、等、119項目が選ばれ記述されている。  「装置と器具」のもとには、「普通に見られる装置類」として12項目、「特別な機器・計測器」として質量分析器、天秤、ブンゼンバーナー等26項目、「実際の活用面」として蒸留や電気分解等9項目、「知識」として核外交やサイエンス・ウォーズ等8項目、「政治、社会、環境など」として原子力の平和利用、反核運動等29項目、「地域的区分」としてアジア、アフリカ、英語圏、ミッション、ヨーロッパとロシア、ラテンアメリカの5項目が選択・記述されている。
 「科学の利用」のもとには、「科学の応用とその成果」として、医学、冶金、薬理学、臨床化学、ナイロン、プラスチック、電池、ガラス、写真術、X線、染料、等53項目が取り上げられている。
 最後の「著名科学者列伝」は全体で約100人が取り上げられている。評者の専門分野に近いところでは、ボイル、フック、ニュートン、ハーヴィ、デカルト、ホイヘンスはあるが、ライプニッツ、ステノ、パラケルスス、ファン・ヘルモント、ウィリス、シルヴィウス、ハラーは取り上げられていない。化学者として選出されている者を列挙しよう(カッコのなかはその項目の執筆者名である)。ヴァールブルク(ヴェルナー)、ウッドワード(ロック)キュリー夫妻(ハイルブロン)、ケクレ(ロック)、ドルトン(ロック)、パストゥール(ストリック)、ハーバー(ヴェルナー)、ファラデー(フランク・ジェームズ)、フィッシャー(ロック)福井謙一(バーソロミュー)、ロザリンド・フランクリン(オルビ)、ブールハーヴェ(パワーズ)、ベルセリウス(ホームズ)、ベルナール(ホームズ)、ボイル(ニューマン)、ホジキン(メアリー・ジョー・ナイ)、ポーリング(メアリー・ジョー・ナイ)、メンデレーエフ(ゴードン)、ラヴォアジェ(ホームズ)、リービッヒ(ホームズ)である。
 邦訳の値段は、3万円に近く非常に高いと言えるが、原著のハードカバーがその約半額、原著キンドル版が6千円強と比較的手頃である。邦訳は個人で所有するには聊か躊躇する高さに感じられる点は否めないが、200人以上の著名な科学史家が609項目を分担執筆しており、化学史の分野でもホームズ、ロック、メアリー・ジョー・ナイが多くを引き受けている。各自の勤務する機関の図書館には必ず所蔵してほしい事典だと評してよいように思われる。評者は手元におき折に触れ利用しているが、最新の研究成果をきれいにまとめてくれており、とても重宝している。
                                 (吉本秀之)

                              


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