『化学史研究』第28巻(2001): 194-196
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名和小太郎『起業家エジソン:知的財産・システム・市場開発』
 吉本秀之

 名和小太郎『起業家エジソン:知的財産・システム・市場開発』朝日新聞社(朝日選書671)、2001年、285Pp+ix, 本体1400円, ISBN 4-02-259771-2

 「およそ『エジソン伝』というものは面白く書けている。そもそもエジソンという人物が面白いためであろう。」と著者は終章で記している。ここで紹介する新しいエジソン伝も、その例にもれず、非常に面白い伝記に仕上がっている。

   エジソン(Thomas Alva Edison, 1847-1931)はいわゆる「発明王」として、生涯にアメリカ国内で1093件、また海外で1239件の特許をとっている。もちろん、エジソンは、多くの発明を行ったというだけの人物ではなく、19世紀後半に輩出した「ヤンキー・インベンター」の一人として、発明をもとに会社を起こし、数多くの事業を運営している。発明家=起業家としてのエジソンの重要な活動領域としては、1)電信・電話技術、2)蓄音機の開発、3)照明・電力システムの開発と事業化、4)映画産業、5)選鉱事業、6)蓄電池事業、といった分野があげられるであろう。『起業家エジソン』は、この6つの事業領域を、発明と標準、あるいは研究開発と会社経営という観点から、記述している。
 エジソンの発明として日本では子どもたちにも有名な白熱電球の発明をこの観点から見直してみよう。そうするとエジソンについては、フィラメントの材料に京都の竹を使ったアイディアではなく、むしろ、それまでこの地球上のどこにも存在しなかった発電・照明システムの、技術要素(発電機、配線・配電システム、白熱電灯)の各々を開発しつつ、発電・照明システムの全体を構想し、設計し、事業化し、商業的に運営したシステム構築者という側面を重視しなければならなくなるであろう。
 そもそもエジソンの最大の発明は、ウイナーの観点を借りれば、発明プロセスのシステム化と量産化、すなわち民間企業における研究開発部門としての組織的な研究所の創出であった。エジソンの研究所は、はじめメンロパークに、ついでウェストオレンジに設置されたが、当初100人以上のスタッフが働けるように設計され、20世紀になると150人が働くことのできる、当時世界で最大規模の研究所であった。ただ規模の点で最大というだけではなく、電気と化学の分野では、ヨーロッパ出身の科学者・技術者を多く雇い入れた当時世界最高水準のラボであった。
 では事業の運営という点では、どうであろうか。「世界最大の科学者であり、世界最悪の企業家である」というフォードの言葉は、有名であるが、エジソンは多くの事業運営で様々な失敗をしている。失敗の種類としては、次のようなものがあげられるであろう。第一に、金融資本家とのつきあいで失敗している。エジソンの作った会社として最も有名はジェネラル・エレクトリック社は、1892年エジソン・ジェネラル・エレクトリック社とトムソン=ヒューストン・エレクトリック社が合併して出来た会社だが、合併した時点で会社名からエジソンという言葉が消されており、会社の経営も金融資本家たちの手に渡った。つまり、エジソンがこの世にはじめて出現させた電力システムの事業において、投機的な金融資本家達に出し抜かれたのである。エジソンは、まわりに多くいたこうした投機的な金融資本家につねに悩まされており、自分の才覚と努力で立ち上げた事業を金融資本家達の思惑から守り通すことができたものは例外といってよいだろう。失敗の第2の種類は、技術者としてのこだわりにより市場の声に対応できなかったことをあげることができよう。顕著なのは、蓄音機の事例である。競合他社がベルリナーの円盤(ディスク型レコード)を採用し、オペラ歌手の歌声というコンテンツで売り上げを伸ばしていったのに対して、エジソンは自分の作り出したシリンダー型にこだわり、しかもクラッシク音楽も当時流行していたダンス音楽もコンテンツとして採用しなかった。開発の初期でも、フォノグラフをおしゃべり人形(小型フォノグラフを内蔵した人形)やオフィス用品(口述機)として商品開発して、失敗していた。
 こういうふうにエジソンは、多くの事業で失敗を経験したが、『起業家エジソン』で評者が特に関心を引かれたのは、「愚行」といわれてきた選鉱事業である。
 磁気選鉱は、エジソンが中年になってからのめり込んだ事業で、1890年にニューヨークの北方250マイルのオグデンスバーグに工場を建てた。この工場(オグデン工場と称された)は、1894年操業を開始する。エジソンの計算では、鉱石の市場価格がトン当たり6.5ドルであれば、オグデン工場は引き合うはずだった。しかし運悪く、操業を開始してそれほど時間が経たない間に、ミネソタ州のメサビ鉱山で良質な鉱石(95%の磁鉄鉱)が発見され、それが市場にどっと出てきたため、市場価格が2ドル台にまで下がった。これが決定打となり、エジソンは工場の閉鎖を決意する。1899年この工場は解体されたが、エジソンは、工場の設備を選鉱機を除いてすべてセメント工場に作り替えることにした。1902年セメント工場は稼働を開始し、石灰石が枯渇して閉鎖される1937年まで活躍した。
 このオグデン選鉱工場は、経営的には失敗だったが、技術的には71.4%の純度の精鋼を生産することが可能となっており、成功だったと評価できるであろう。またこの工場で特筆すべきは、後に自動車製造でフォードが参考にした流れ作業のシステムを作り上げていたことである。オグデンの工場は当時、処理・運送工程のもっとも自動化された工場であった。フォードシステムと呼ばれる工場のシステム化は、こうして、愚行と評価された選鉱工場でエジソンの手によりなされていたのである。
 著者は、最終章でエジソンの閃きの起源を問うている。彼は、エジソンの領域横断的な仕事のなかにその回答を見出している。彼のあげている例を3つだけ紹介しよう。
 ・電信の実験をしているときに蓄音機の原型を思いついた。
 ・電信の紙テープから映画のロールフィルムを導いた。
 ・蓄音機から映画の原型を導いた。
 エジソンの1093件のアメリカ特許のうち、およそ150件は、蓄電池を中心とする化学関係のものである。英語では『化学者エジソン』という本も出版されている ( Byron M.Vanderbilt, Thomas Edison, Chemist, Washingon,D.C.: American Chemical Society,1971)。エジソンの化学における、理論、研究開発、事業という観点から研究してみるのも非常に面白いものとなろう。ともあれ、21世紀となった今でも、エジソンの成功と失敗は、科学技術に関心がある者のみならず、経営に関心がある者にとっても非常に示唆的なのである。       

                        

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