[ベッヒャー『地下の自然学』]
版の整理。初版(1669)Actorum Laboratorii Chymici Monacensis, Seu Physicae Subterranae Libri Duo, Francofurti, 1669
補遺1(1671)Experimentum Chymicum Novum, Quo Artificialis & instantanea Metallorum Generatio & Transmutatio ad oculum demonstratur. Loco Supplementi in Physicam suam subterraneam et Responsi ad D. Rolfincii Schedas de non Entitate Mercurii corporum...., Francofurti, 1671
補遺2(1675)Supplementum Secudum In Physicam Subterraneam. Id est.. Demonstratio Philosophica, Seu These Chymicae, Veritatem, & Possibilitatem transmutationis metallorum in aurum evincentes. , Francofurti, 1675
補遺3(1680)Experimentum Novum Accuriosum De Minera Arenaria Perpetua., Francofurti, 1680
第2版(1681)Actorvm Laboratorii Chymici Monacensis, Seu Physicae Subterraneae Libro Duo, Francofurti, 1681
contains above 3 supplements.
pagination: [14], 1-560, [2], 561-678, [2], 679-810, [10]第3版(1703)Physica Subterranea Profundam Subterraneorum genesin e principiis hucusque ignotis, ostendens.... Specimen Beccherianum, fundamentorum, documentorum, experimentorum, subjunxit Georg. Ernestus Stahl.... , Lipsiae, 1703.
Newly added in this edition Stahl's Specimen Beccherianum第4版(1738)Physica Subterranea Profundam Subterraneorum Genesin, E Principiis Hucusque Ignotis, Ostendens, Lipsiae, 1738
ドイツ語版(1680)Chymisches Laboratorium, Oder Unter-erdische Naturkündigung, Franckfurt, 1680, 1690
第2版(1681)のベッヒャー自身によるドイツ語訳。最初の2つの補遺を含む。他にいくらか新しい資料が付加されている。こういう表を作っておかないとすっきりとは理解できない複雑さとなっています。
イギリス滞在中(コーンウォールの鉱山の検査中)に、Alphabetum Minerale(Francofurti, 1682)を出版しています。これは、鉱山業と鉱物学に関する用語集です。ボイルに献呈しています。(これのドイツ語訳は、Friederich Roth-Scholtzによりなされ、1723年に出版されています。)
[ベッヒャー Johann Joachim Becher 1635-1682]
グラウバーをまとめたのであれば、ベッヒャーもまとめておかないわけにはいかないでしょう。まず、基本から。グーグル・ブックには、次の14点があります。すばらしい。
Becher, Johann Joachim
Institutiones chimicae prodromae
1664Becher, Johann Joachim
Acta Laboratorii Chymici monacensis: libri 2
Frankfurt, 1669Becher, Johann Joachim
Moral-Discours von den eigentlichen Ursachen des Unglücks und Glücks
Frankfurt, 1669Becher, Johann Joachim
Experimentum Chymicum novum
Frankfurt, 1671Becher, Johann Joachim
Natur-Kundigung der Metallen, mit vielen curiosen Beweissthumben ...
Frankfurt, 1679Becher, Johann Joachim
Experimentum novum ac curiosum de minera arenaria perpetua
Frankfurt, 1680Becher, Johann Joachim
Politische Discurs, von den eigentlichen Ursachen, des Auft- und Abnehmens ...
1688Becher, Johann Joachim
Des Hoch-beruehmten Becheri Medicinische Schatz-Kammer
Leipzig, 1700Becher, Johann Joachim
Physica subterranea
1703Becher, Johann Joachim
Institutiones Chimicae prodromae
Frankfurt, 1705Becher, Johann Joachim
Oedipus chymicus
Frankfurt, 1716Becher, Johann Joachim
Tripus hermeticus fatidicus
durch Friedrich Roth-Scholtz
1719Becher, Johann Joachim
Närrische Weissheit und weise Narrheit
1725Becher, Johann Joachim
Physica subterranea
1740同じく、ハブにも、ダウンロードできるものだけで14点あります。(全部では120冊。)当然、すばらしい。
Becher, Johann Joachim
Glauberus Refutatus Sev Glauberianarum Sophisticationum Centuria Prima, Eiusdem inutilium Processuum Centuriセ Primセ Opposita.
[S.l.], 1661
HABBecher, Johann Joachim
Parnassus Medicinalis Illustratus.
Ulm : Görlin, 1663
HABBecher, Johann Joachim
Parnassi Illustrati Pars Prima, Zoologia Das ist: Dess erlärterten Medicinalischen Parnassi Erster Theil, Nemlich das Thier-Buch
1662 [erschienen 1663]
HABBecher, Johann Joachim
Parnassi Illustrati Pars Altera, Phytolologia Das ist: Dess erlärterten Medicinalischen Parnassi Ander Theil, Nemlich das Kräuter-Buch
1662 [erschienen 1663]
HABBecher, Johann Joachim
Parnassi Illustrati Pars Tertia, Mineralogia Das ist: Dess erlärterten Medicinalischen Parnassi Dritter Theil, Nemlich das Berg-Buch
1662 [erschienen 1663]
HABBecher, Johann Joachim
Parnassi Illustrati Pars Qvarta, Schola Salernitana. Das ist: Dess erlärterten Medicinalischen Parnassi Vierdter Theil, Nemlich die Salernitanische Schu
1662 [erschienen 1663]
HABBecher, Johann Joachim
Moral Discurs Von den eigentlichen Ursachen dess Glücks und Unglücks
Franckfurt am Mayn : Zunner, 1669
HABBecher, Johann Joachim
Novum, Breve, Perfacile, & Solidum Organum Pro Verborum Copia
Francofurti : Zunnerus, 1671
HABBecher, Johann Joachim
Machiavellvs Gallicus Seu Metempsychosis Machiavelli in Lvdovico XIV. Galliarum Rege.
[S.l.], 1674
HABBecher, Johann Joachim
Methodvs Didactica Seu Clavis Et Praxis Super Novum Suum Organon Philologicvm
2nd Edition, Franckfurt : Zunner, 1674
HABBecher, Johann Joachim
Cammer- und Commercien-Raths Närrische Weissheit Und Weise Narrheit
Franckfurt : Zubrod, 1682
HABBecher, Johann Joachim
Mineralisches A B C. Oder Vier und Zwantzig Chymische Theses Von der Geburt denen Principiis, Unterschied Vermischung und Auflösung deren Mineralien Metallen und übrigen Unterirdischen Dingen [et]c. : Aus dem Lateinischen ins Teutsche übersetzet
Nürnberg : Tauber, 1723
HABBecher, Johann Joachim
Physica Subterranea Profundam Subterraneorum Genesin
Lipsiae : Weidmann, 1738
HAB Lipsiae : Weidmann, 1738Becher, Johann Joachim
Specimen Beccherianum Sistens Fundamenta, Documenta, Experimenta, Quibus Principia Mixtionis Subterraneae, & Instrumenta Naturalia atque Artificialia demonstrantur
1738
HAB
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(ベッヒャーのポータブル・ラボラトリー、Tripus Hermeticus(1689)より)ベッヒャーに関しては手頃に読めるパミーラ・スミスの本があります。Encyclopedia of the Scientific Revolution from Copernicus to Newton にそれを思い切り圧縮した記事を書いています。pp.77-8。この長さの記事としてはとてもよく書けています。
1635年、ルター派の牧師の子どもとして生まれる。父が早く没し、生地シュパイヤーを離れ、大陸を転々とする。従って、公的教育はほとんど受けていない。つまり、ほどんどを自習・独学した。1660年永久運動機関の提案がマインツの選帝侯の関心を引き、すぐに侍医兼数学者として採用され、最小限の訓練の後に、その地の大学から医学博士号を取得した。1663年マインツ大学の医学教授に任命される。就任演説は賢者の石の実在に関するものであった。1664年、バイエルン選帝侯が彼をミュンヘンに呼び寄せた。1670年にはウィーンに移動し、商業コンサルタントとして1676年まで働いたが、宮廷の寵愛を失い、オランダから英国に移住していった。1682年、イギリスで死去。
以上の通り、医学博士号は取得し、医師にもなり、医学教授にもなりますが、正規の大学教育を受けたわけではなかった。グラウバーよりも社会的地位においては上位ですが、放浪する宮廷錬金術師のキャリアと位置づけてよいでしょう。
ディーバスは、伝記的記述のあと、次のようにまとめています。
「ベッヒャーの遠大な経済構想は失敗に終わったとはいえ、彼の全成果は徹底的に再検証されるべきである。」(p.407)
まったくです。ベッヒャーは、個人的な重要性もあります。上記の通り、ベッヒャーの晩年は、英国です。死の年(1682)英国で、2冊の本を出しています。
Chymischer Glücks-Hafen
Närrische Weiszheit und Weise Narrheit (愚かなる知恵と知恵ある愚かさ:あるいは、百の政治的、物理的、機械的、商業的なコンセプトと提案、成功したものあり、無に帰したものもあるが、その原因、付帯状況、記述を含む)。
唯一の英語の出版物は、『マグナリア・ナチュラリア:賢者の石の真実が最近公衆の面前に提示され、販売される』(London, 1680) は、実はボイルへの献辞を有します。
王立協会の会員(F.R.S)には選出されませんでしたが、王立協会ともボイルとも個人的な繋がりがあったわけです。
(ベッヒャーは、現地に足を運んで、スコットランドととくにコーンウォールの鉱山の調査をしています。)さて、Helen Liebel-Weckowicz (ヘレン・リーベル-ヴェコビッツ?)は、パミーラ・スミスの書評で次のように記述しています。(Canadian Journal of History, 1995)
「マイナーな発明家として、彼は鉱石を製錬するための「ポータブル・ラボラトリ」炉を考案した。ロバート・ボイルは、これにとても似たそうした炉(one made just like it)を所有していた。」
書評なので、この記述の典拠は示されていません。ボイルがベッヒャーのタイプの「ポータブル・ラボラトリ」を所有していた可能性はあると思いますが、この種のことは典拠を示す必要があります。ほんとうに典拠があるのでしょうか?私の関心は、職業=社会的地位と、著述家としての信頼性(社会的権威)の問題にあります。そう、ボイルも、大学教育を受けていません。ボイルは貴族なので、グラウバーやベッヒャーとは違いますが、大学教育を受けていない点は重視されなければなりません。
この点に関して、調べなおしてみると、マイケル・ハンターが指摘していました。(Robert Boyle: Scrupulosity and Science, pp.150-1)
「公的な教育を受けていないボイルは、それ故に伝統的な知識人社会のアウトサイダーであった。この点で、彼は、グラウバーやジョージ・スターキーやベッヒャーやフックのような人物と類似性を持っている。彼らは、両義的な人物である。自然の真の理解のためには自分たちの知識が重要であると主張するが、自然の理解の営みが伝統的に行われてきたアカデミックな環境の外部にあって、ただの職人として無視される恐れがあった。実際、スターキはこの地位の問題に敏感であり、ボイルとの関係では、主人-召使いという関係を拒否した。ウィリアム・ニューマンが示した通り、ボイルは、スターキーに依拠する程度に関して、とても正直とは言えなかった。このことは非常に徴候的である。ベッヒャーもまた、職人層に結びつけられやすいがために、常に自分の地位と独立性を強調し、専門家としての地位を主張しなければならなかった。フックの地位ががこうした灰色の領域にあることは、いまやほとんど常識と言って良いだろう。次の世代では、デザギュリエ。・・・・」
(この点に関係して、ボイルに企画士プロジェクターの側面があったことは指摘してよおいてよいであろう。1680年代に、彼は、海水から真水をつくるプロジェクトに深く関わった。甥っ子が全面に立ったが、黒幕はボイルであった。)
ハンターの指摘は、私が考える問題の核心をついています。ボイル自身、伝統的知識人=学者と職人層のマージナルな位置にあった。(ボイルに関しては、中間とは言えない。ハンターが挙げる残りの人物は、中間と位置づけることができる。)それゆえ、ボイルの職人の知識に対する対応・態度が課題として浮かび上がってくる。プリンシーペは、『アデプトを熱望して』で、次のように述べます。pp.112-3.
「ヨハン・ヨアキム・ベッヒャーは、ボイルと本格的に錬金術の交流をもった。ベッヒャーは、1679年にオランダを発ち英国に向かったが、英国のボイルと、これまで実質的には気付かれていないほど、交流をもったように思われる。」『マグナニア』の献呈。「1689年、ベッヒャーの死後出版『鉱物ABC』―Tripus hermeticus fatidicusの3部をなす―もボイルに献呈されている。その書において、ベッヒャーはボイルを「私の『地下の自然学』の賞賛者のひとり」として引用している。この書の草稿は、元々は、ボイル草稿のなかにあった。ヘンリー・マイルズのカタログ(1740年代初頭)にはあった。おそらく、ボイルの作品ではないという理由で廃棄されたのであろう。これは非常に残念なことであった、なぜなら、その草稿は、1680年代ボイルの名前を被献呈者として挙げるためにベッヒャーがボイルに送ったものだと思われるからである。
『鉱物ABC』の草稿は残っていないが、その他のベッヒャーの草稿がボイル草稿のなかに残っている。そのなかでもっとも興味深いのは、Concordantia purgationis、である。これは、賢者の石を調剤するために金属(とくに銀)の水銀を得る方法を要約し、比較する著作である。このテキストは、1689年フランクフルト版の『鉱物アルファベット』に付され、1719年に再刷された。『鉱物アルファベット』と同様この著作もとくにボイル自身のために書かれたものと言うこともできよう。それは、40年間ボイルの思考を支配した金属の水銀のテーマにぴったり当てはまる。・・・さらにもっと短い未出版の草稿があり、それは、前の草稿と同じ書字生により書かれ、「金属の生成と取り扱いに関するドクター・ベッヒャーの理論または彼自身の意見」というタイトルを有する。また、同じ書字生によって書かれたベッヒャーの1680年の著作De arenaria pertetuaからの長いノート・抜粋も存在する。」ハンターの『ボイル・ペーパーズ』で、ボイルの草稿におけるベッヒャーを確認しておきましょう。
p.72, note 134「ロバート・フックが1693年ムーアフィールで、おそらくボイルの蔵書から購入したベッヒャーのNovum Organum philologicum(Frankfurt, 1674)は、ウェルカム・ライブラリーがごく最近購入した。」
p.376. BP 19, fols, 57-77 'Dris J.J.Becheri Concordantia Purgationis' 1670's - 1680s Latin treatise by Becher on chemistry, especially experimentation with mercury in search of philosopher's stone Latin Possibly a version of J.J. Becher, Chymischer Glücks-Hafen(1682)
p.425 BP 29, fols. 1-10 'Dr Becheri Theoria, seu Opinio Singularis de Metallorum Generatione et Tractatione' 1670s- 1680s Copy of Latin tract by Becher, with further page of relevant text Hand: L.? Latin
p.427 BP 29, fols. 183-6 'Johannis Joachini Becheri Sr. Caesareae Majestatis Ferdinandi III quodam Mathematici Nova Inventio Argo-nautica' c. 1650s Latin text on an invention by Becher, date of original pre-1657 Hand: unknown Latin
p.433 BP 31, pp.295-397 Latin notes and extracts from Johann Joachim Becher's Minera Arenaria Perpetua (London, 1680), together with notes on various processes by other experimenters, evidently also from Becher P.398 blanck Hand: L Latin
p. 589 BL 1, fols. 57-8 Johann Joachim Becher to Henry Oldenburg 26 Oct. 1671 Original letter. 2 leaves, 4o Latin Summarised in Correspondence, vol.6, p.416. Published in Oldenburg, vol. 8, pp.303-4.
[18世紀化学史:Johann Joachim Becher]
18世紀の化学史のためには、ベッヒャー、シュタールを欠くわけにはいきません。書誌の確認から行います。
まず、ヨハン・ヨアキム・ベッヒャー。
『地下の自然学』 Physica subterranea 1669.
3冊の補遺(1671, 1675, 1680)
4冊がまとめられて、完全第2版(1681)。
ベッヒャー自身によるドイツ語訳。『化学実験室、あるいは地中の博物学』Chymisches laboratorium, oder Unter-erdische Naturkündigung (1680)
18世紀には、シュタールを通して知られる。シュタールは、『ベッヒャー例解』Specimen Beccherianum(1703、1738) を付したベッヒャーの版を出版する。これが18世紀の化学者には、フロギストン説の入門書の役割を果たした。
(以上、ディーバス『錬金術の歴史』pp.419ff.より。)私がすでにダウンロードしているのは、次の5点です。
Becher,J.J.,
Physica subterranea profundam subterraneorum genesin, e principiis hucusque ignotis ostendens,
Leipzig,1733
Becher, Johann Joachim,
Chymischer Glücks-Hafen
Francfurt,1682
Becher, Johann Joachim, 1635-1682. ,
Minera arenaria perpetua
London, 1680
EEBOBecher, Johann Joachim ,
Magnalia naturae: or, The truth of the philosophers-stone asserted having been lately expos'd to publick sight and sale.
London, 1680
EEBOBecher, Johann Joachim ,
De nova temporis dimetiendi ratione, et accurata horologiorum constructione, theoria experientia
London, 1680
EEBOベッヒャーは政治経済畑でも重要です。日本の図書館にも割と多く所蔵されています。原典としては、次のものです。
Chymischer Glücks-Hafen
Francfurt,1682
Reprinted by Olms, 1974
D. Joh. Joachim Bechers, Rom.Kais.Maj. Cammer-Raths, Narrische Weissheit und weise Narrheit, oder, Ein hundert so politische als physicalische, mechanische und mercantilische Concepten und Propositionen, deren etliche gut gethan, etliche zu nichts worden
[S.l.] : [s.n.], 1725
(一橋 古典 Menger)Chymisches laboratorium
1680,
Reprinted by Olms-Weidmann, 2002Politischer Discurs
3. ed. In Verlegung Johann David Zunners, 1668
Gsellius, 1754
In Verlag Georg Conrad Gsellius, 1759
Detlev Auvermann KG, 1972
Wirtschaft und Finanzen, 1990. -- (Klassiker der Nationalokonomie)
Experimentum Chymicum Novum : Oder Neue Chymische Prob,...
Olms-Weidmann, 2002ご覧の通り、リプリントが割と出版されています。
最近の研究書としては、パミーラ・スミスのものが一番流通しているでしょうか。
Pamela H. Smith, The business of alchemy : science and culture in the Holy Roman Empire, Princeton University Press, 1994, 1997
Pamela H. Smith, Alchemy, credit, and the commerce of words and things : Johann Joachim Becher at the courts of the Holy Roman Empire, 1635-82, U.M.I., 1990
[紹介]橋本毅彦「Pamela H.Smith, The Business of Alchemy」『化学史研究』第23巻(1996): 186-187[18世紀化学史:Georg Ernst Stahl]
シュタールに関しては、邦訳があります。
ゲオルク・エルンスト シュタール (著), Georg Ernst Stahl (原著), 田中 豊助 (翻訳), 石橋 裕 (翻訳), 原田 紀子 (翻訳)
『合理と実験の化学』(1720)
内田老鶴圃 (1992/10)
(翻訳の質については、コメントしません。)研究論文も川崎勝氏によるものがいくつかあります。
[一般講演]川崎勝「ピーター・ショウとシュタール化学のイギリスへの導入 」『化学史研究』第40号(1987年): 139
[特集ラヴワジェ研究入門第4回]川崎勝「シュタール化学の原像 ―18世紀化学の一つの出発点―」『化学史研究』第44号(1988年): 119-134
[シンポジウム:ラヴワジェ『化学原論』200年]川崎勝「フランス・シュタール主義とラヴワジェ」『化学史研究』第16巻(1989): 137シュタールに関しては、私はダウンロードのためのチェックを忘れていたようです。現時点で0点でした。サットンさんは次の5点をリストアップしていますが、3点は詩なので、我等の関心からははずれるかもしれません。
Stahl, Georg Ernst (1660 - 1734)
Disquisitio De Mechanismi Et Organismi Diversitate
Halle,1706
HABStahl, Georg Ernst (1660 - 1734)
Dissertatio Medica Qua Temperamenta Physiologico-Physiognomico-Pathologico-Mechanice, enucleantur
Halle,1698
HABStahl, Georg Ernst (1660 - 1734)
Mortis theoria medica
Halle,1702
HABStahl, Georg Ernst (1660 - 1734)
Propempticon Inaugurale De Synergeia Naturae In Medendo
1695
HABStahl, Georg Ernst (1660 - 1734)
Propempticon Inaugurale De Periculo Nonae Diei In Acutis.
1702
HAB日本の図書館にも多くはありませんが、いくらか所蔵されています。
Aliorumque ad ejus mentem disserentium, scripta
Apud Petr. Conr. Monath, 1726Observationes medico-practicae
Apud Petr. Conr. Monath, 1726Karl Wilhelm Ideler
Georg Ernst Stahl's Theorie der Heilkunde
Berlin : Enslin, 1831-2
1.Nosologie, Enslin, 1832
1.Pathologie, Enslin, 1831
1. Physiologie, Enslin, 1831
Theoria medica vera
Literis Orphanotrophei, 1708主著と目されるのは、次のあたりでしょうか。
Zymotechnia fundamentaiis sive fermentations theoria generalis,
1697Specimen Becherianum
1702Experimenta, observationes, animadversions . . . chymicae et physicae
1731Theoria medica vera
1707Ars sanandi cum expectatione
1730Kevin Chang (2007) は、出版史に関して重要な情報を含みます。出版史に焦点をあわせて、紹介しておきましょう。
Chymia rationalis et experimentalis(1720) は、1684年イエナ大学でシュタールが行った化学講義から学生がとった講義ノートに基づくドイツ語の教科書である。
この著作は、ピーター・ショーによる英訳『普遍化学の哲学原理』(1730)のせいで、英語圏ではもっともよく知られているシュータルの著作となっている。
Chymia rationalis et experimentalis(1720)もPhilosophical Principles of Universal Chemistry(1730) もともに、ラテン語版に基づくと言われているが、ラテン語版そのもの、すなわちFundamenta chymiaは、やっと1723年に出版されている。つまり、シュタール自身が著したのではないラテン語の草稿が1720年以前に流通していたということを示している。[私のコメント]まず、注意を要するのは、Chymia rationalis et experimentalis(1720)は、タイトルはラテン語ですが、本文はドイツ語だということです。しかも、シュタール自身が執筆したのではなく、出版時からすればずっと昔の学生のとっと講義ノートからドイツ語訳されて出版されているということです。
この時代のもう一人の有名な化学教師ブールハーヴェの場合にも、学生の講義ノートからInstitutiones et experimenta chemiae(1724)が出版されます。現在の基準で言えば、これをブールハーヴェの著作とすることには無理があります。(そして、ブールハーヴェ自身は認知することがなかったこの講義ノートから、ピーター・ショーの関与した英訳が作られています。)
ブールハーヴェ自身の化学教科書は、ずっと後になって、次の形で出版されています。
Elementa Chemiae(Leiden, 1731)もう1点注意を要するのは、そもそも大学人がドイツ語で書くという習慣です。出発点は、トマジウスが1687年大学の講義をドイツ語で行ったことにあります。そして、18世紀前半のドイツの最も重要な著作家クリスチャン・ヴォルフが直にドイツ語で著作を執筆して出版します。(有名なのは、『ドイツ論理学』(1713))。
そもそも、17世紀においては、ゼンネルト、ヴェルナー・ロルフィンク、ゲオルグ・ヴォルフガング・ヴェデルという3世代にわたる医学-化学の著作は、ドイツ語に訳されることもありませんでした。
ラテン語で執筆するのか、ドイツ語で執筆するのか、ラテン語で執筆してもドイツ語訳が出版されるのか否か、このあたりは大きな差となります。この点に関するきわめて重要な変化が17世紀末から18世紀初頭にかけて起きたということになります。
2008.3.14
* Pamela H. Smith,
"Alchemy as a Language of Mediation at the Habsburg Court,"
ISIS,85(1994): 1-25
# copy 23/5/94 $read 24/5/94産業と商業、商品経済、貨幣経済の推進者としての錬金術師ヨハン・ヨアキム・ベッヒャーのハプスブルグの宮廷での活動について。
* Pamela H. Smith,
"Consumption and Credit: the Place of Alchemy in Johann Joachim Becher's Political Economy,"
in Z.R.W.M. von Martels (ed.), Alchemy Revisted (Leiden: Brill, 1990), pp.215-221ベッヒャーはたしかにパラケルスス派の伝統によっているが、しかし彼の企画はもはや直接的には世界の宗教的救済ではなく、むしろ権力の象徴の維持と30年戦争後に必要となる権力の現実的な物質的資源を皇帝に理解してもらうよう、これらの象徴を操作することだった。つまり、ベッヒャーの錬金術の企画(project)をハプスブルク家の宮廷というコンテキストで理解しようとするのが私の目的である。
こうしてベッヒャーの企画は、近代初期ヨーロッパの貨幣経済のなかにすっぽりとおさまっている。古い錬金術の宗教的救済のイメージは、皇帝に、その目的、物質的生産物、とりわけ貨幣の世界を理解してもらうために使われている。* Teich, Mikulás,
"Interdisciplinarity in J.J. Becher's Thought,"
History of European Ideas, 9(1988): 145-60ベッヒャーの思想の全体に浸透しているのは、循環性 (cylce-mindedness)のアイデアである。自然界における循環と経済世界における物(商品)と貨幣の循環。これが事物の自然的&経済的秩序の根底を流れる原理である。
「貨幣は国家の神経にして魂である」という重商主義も以上の背景から読みとられるべきである。
ベッヒャーのもともとの意図:国家が運営する Manufacturen の導入のための学校/セミナーを開設することだった。→ The House of Arts and Work in Vienna として、1676年に、出来た(プランは実現した)が、意味ある生産活動は行えなかった。
ベッヒャーにとってフロギストン (terran pinguis)は後のシュタールのような中心的位置を占めず。物質界の**でもある土の一種に止まる。* Teich, Mikulás,
"J.J. Becher and Alchemy,"
in Z.R.W.M. von Martels (ed.), Alchemy Revisted (Leiden: Brill, 1990), pp.222-228.ベッヒャーの怪語源学 al=アラビア語の金; chymos=ギリシャ語の液
アルケミストの仕事→火薬製造、ガラス製造、インク製造、石鹸製造、染色、等々。アルケミーは、哲学的 ie. 科学的な冶金術に対する鍵。
金属の変成は彼の前提。しかし、長寿のために、生命のエリクシル等には懐疑。
「アルケミーに反対する者は必ずや冶金学と貨幣鋳造が国王の収入の大半を占めることを十分に理解していなかったと知らねばならないであろう。」
彼の経済=政治論 人民に2グループ (1)農民、工人、商人、(2)王、聖職者、学者、医師、薬剤師、外科医、・・・、兵士。経済活動のなかでだれが中心たるべきか? ―彼は、きっぱりと「商人」と答える。ここでベッヒャーの言う商人は、小売人というよりも、Verlaeger (商人-製造業者)。ここで、円、循環にイメージに訴えかけている。 17世紀では循環〜蒸留。- 2009.10.17
[ベッヒャー Johann Joachim Becher 1635-1682]
グラウバーをまとめたのであれば、ベッヒャーもまとめておかないわけにはいかないでしょう。まず、基本から。グーグル・ブックには、次の14点があります。すばらしい。
Becher, Johann Joachim
Institutiones chimicae prodromae
1664Becher, Johann Joachim
Acta Laboratorii Chymici monacensis: libri 2
Frankfurt, 1669Becher, Johann Joachim
Moral-Discours von den eigentlichen Ursachen des Unglücks und Glücks
Frankfurt, 1669Becher, Johann Joachim
Experimentum Chymicum novum
Frankfurt, 1671Becher, Johann Joachim
Natur-Kundigung der Metallen, mit vielen curiosen Beweissthumben ...
Frankfurt, 1679Becher, Johann Joachim
Experimentum novum ac curiosum de minera arenaria perpetua
Frankfurt, 1680Becher, Johann Joachim
Politische Discurs, von den eigentlichen Ursachen, des Auft- und Abnehmens ...
1688Becher, Johann Joachim
Des Hoch-beruehmten Becheri Medicinische Schatz-Kammer
Leipzig, 1700Becher, Johann Joachim
Physica subterranea
1703Becher, Johann Joachim
Institutiones Chimicae prodromae
Frankfurt, 1705Becher, Johann Joachim
Oedipus chymicus
Frankfurt, 1716Becher, Johann Joachim
Tripus hermeticus fatidicus
durch Friedrich Roth-Scholtz
1719Becher, Johann Joachim
Närrische Weissheit und weise Narrheit
1725Becher, Johann Joachim
Physica subterranea
1740同じく、ハブにも、ダウンロードできるものだけで14点あります。(全部では120冊。)当然、すばらしい。
Becher, Johann Joachim
Glauberus Refutatus Sev Glauberianarum Sophisticationum Centuria Prima, Eiusdem inutilium Processuum Centuriセ Primセ Opposita.
[S.l.], 1661
HABBecher, Johann Joachim
Parnassus Medicinalis Illustratus.
Ulm : Görlin, 1663
HABBecher, Johann Joachim
Parnassi Illustrati Pars Prima, Zoologia Das ist: Dess erlärterten Medicinalischen Parnassi Erster Theil, Nemlich das Thier-Buch
1662 [erschienen 1663]
HABBecher, Johann Joachim
Parnassi Illustrati Pars Altera, Phytolologia Das ist: Dess erlärterten Medicinalischen Parnassi Ander Theil, Nemlich das Kräuter-Buch
1662 [erschienen 1663]
HABBecher, Johann Joachim
Parnassi Illustrati Pars Tertia, Mineralogia Das ist: Dess erlärterten Medicinalischen Parnassi Dritter Theil, Nemlich das Berg-Buch
1662 [erschienen 1663]
HABBecher, Johann Joachim
Parnassi Illustrati Pars Qvarta, Schola Salernitana. Das ist: Dess erlärterten Medicinalischen Parnassi Vierdter Theil, Nemlich die Salernitanische Schu
1662 [erschienen 1663]
HABBecher, Johann Joachim
Moral Discurs Von den eigentlichen Ursachen dess Glücks und Unglücks
Franckfurt am Mayn : Zunner, 1669
HABBecher, Johann Joachim
Novum, Breve, Perfacile, & Solidum Organum Pro Verborum Copia
Francofurti : Zunnerus, 1671
HABBecher, Johann Joachim
Machiavellvs Gallicus Seu Metempsychosis Machiavelli in Lvdovico XIV. Galliarum Rege.
[S.l.], 1674
HABBecher, Johann Joachim
Methodvs Didactica Seu Clavis Et Praxis Super Novum Suum Organon Philologicvm
2nd Edition, Franckfurt : Zunner, 1674
HABBecher, Johann Joachim
Cammer- und Commercien-Raths Närrische Weissheit Und Weise Narrheit
Franckfurt : Zubrod, 1682
HABBecher, Johann Joachim
Mineralisches A B C. Oder Vier und Zwantzig Chymische Theses Von der Geburt denen Principiis, Unterschied Vermischung und Auflösung deren Mineralien Metallen und übrigen Unterirdischen Dingen [et]c. : Aus dem Lateinischen ins Teutsche übersetzet
Nürnberg : Tauber, 1723
HABBecher, Johann Joachim
Physica Subterranea Profundam Subterraneorum Genesin
Lipsiae : Weidmann, 1738
HAB Lipsiae : Weidmann, 1738Becher, Johann Joachim
Specimen Beccherianum Sistens Fundamenta, Documenta, Experimenta, Quibus Principia Mixtionis Subterraneae, & Instrumenta Naturalia atque Artificialia demonstrantur
1738
HAB
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(Schema Insturmentorum Laboratorio Portatili Inservientium
ベッヒャーのポータブル・ラボラトリー、Tripus Hermeticus(1689)より)ベッヒャーに関しては手頃に読めるパミーラ・スミスの本があります。Encyclopedia of the Scientific Revolution from Copernicus to Newton にそれを思い切り圧縮した記事を書いています。pp.77-8。この長さの記事としてはとてもよく書けています。
1635年、ルター派の牧師の子どもとして生まれる。父が早く没し、生地シュパイヤーを離れ、大陸を転々とする。従って、公的教育はほとんど受けていない。つまり、ほどんどを自習・独学した。1660年永久運動機関の提案がマインツの選帝侯の関心を引き、すぐに侍医兼数学者として採用され、最小限の訓練の後に、その地の大学から医学博士号を取得した。1663年マインツ大学の医学教授に任命される。就任演説は賢者の石の実在に関するものであった。1664年、バイエルン選帝侯が彼をミュンヘンに呼び寄せた。1670年にはウィーンに移動し、商業コンサルタントとして1676年まで働いたが、宮廷の寵愛を失い、オランダから英国に移住していった(1680)。1682年、イギリスで死去。
以上の通り、医学博士号は取得し、医師にもなり、医学教授にもなりますが、正規の大学教育を受けたわけではなかった。グラウバーよりも社会的地位においては上位ですが、放浪する宮廷錬金術師のキャリアと位置づけてよいでしょう。
ディーバスは、伝記的記述のあと、次のようにまとめています。
「ベッヒャーの遠大な経済構想は失敗に終わったとはいえ、彼の全成果は徹底的に再検証されるべきである。」(p.407)
まったくです。ベッヒャーは、個人的な重要性もあります。上記の通り、ベッヒャーの晩年は、英国です。死の年(1682)英国で、2冊の本を出しています。
Chymischer Gl6uuml;cks-Hafen
Närrische Weiszheit und Weise Narrheit (愚かなる知恵と知恵ある愚かさ:あるいは、百の政治的、物理的、機械的、商業的なコンセプトと提案、成功したものあり、無に帰したものもあるが、その原因、付帯状況、記述を含む)。
唯一の英語の出版物は、『マグナリア・ナチュラリア:賢者の石の真実が最近公衆の面前に提示され、販売される』(London, 1680) は、実はボイルへの献辞を有します。
王立協会の会員(F.R.S)には選出されませんでしたが、王立協会ともボイルとも個人的な繋がりがあったわけです。
(ベッヒャーは、現地に足を運んで、スコットランドととくにコーンウォールの鉱山の調査をしています。)さて、Helen Liebel-Weckowicz (ヘレン・リーベル-ヴェコビッツ?)は、パミーラ・スミスの書評で次のように記述しています。(Canadian Journal of History, 1995)
「マイナーな発明家として、彼は鉱石を製錬するための「ポータブル・ラボラトリ」炉を考案した。ロバート・ボイルは、これにとても似たそうした炉(one made just like it)を所有していた。」
書評なので、この記述の典拠は示されていません。ボイルがベッヒャーのタイプの「ポータブル・ラボラトリ」を所有していた可能性はあると思いますが、この種のことは典拠を示す必要があります。ほんとうに典拠があるのでしょうか?私の関心は、職業=社会的地位と、著述家としての信頼性(社会的権威)の問題にあります。そう、ボイルも、大学教育を受けていません。ボイルは貴族なので、グラウバーやベッヒャーとは違いますが、大学教育を受けていない点は重視されなければなりません。
この点に関して、調べなおしてみると、マイケル・ハンターが指摘していました。(Robert Boyle: Scrupulosity and Science, pp.150-1)
「公的な教育を受けていないボイルは、それ故に伝統的な知識人社会のアウトサイダーであった。この点で、彼は、グラウバーやジョージ・スターキーやベッヒャーやフックのような人物と類似性を持っている。彼らは、両義的な人物である。自然の真の理解のためには自分たちの知識が重要であると主張するが、自然の理解の営みが伝統的に行われてきたアカデミックな環境の外部にあって、ただの職人として無視される恐れがあった。実際、スターキはこの地位の問題に敏感であり、ボイルとの関係では、主人-召使いという関係を拒否した。ウィリアム・ニューマンが示した通り、ボイルは、スターキーに依拠する程度に関して、とても正直とは言えなかった。このことは非常に徴候的である。ベッヒャーもまた、職人層に結びつけられやすいがために、常に自分の地位と独立性を強調し、専門家としての地位を主張しなければならなかった。フックの地位ががこうした灰色の領域にあることは、いまやほとんど常識と言って良いだろう。次の世代では、デザギュリエ。・・・・」
(この点に関係して、ボイルに企画士プロジェクターの側面があったことは指摘してよおいてよいであろう。1680年代に、彼は、海水から真水をつくるプロジェクトに深く関わった。甥っ子が全面に立ったが、黒幕はボイルであった。)
ハンターの指摘は、私が考える問題の核心をついています。ボイル自身、伝統的知識人=学者と職人層のマージナルな位置にあった。(ボイルに関しては、中間とは言えない。ハンターが挙げる残りの人物は、中間と位置づけることができる。)それゆえ、ボイルの職人の知識に対する対応・態度が課題として浮かび上がってくる。プリンシーペは、『アデプトを熱望して』で、次のように述べます。pp.112-3.
「ヨハン・ヨアキム・ベッヒャーは、ボイルと本格的に錬金術の交流をもった。ベッヒャーは、1679年にオランダを発ち英国に向かったが、英国のボイルと、これまで実質的には気付かれていないほど、交流をもったように思われる。」『マグナニア』の献呈。「1689年、ベッヒャーの死後出版『鉱物ABC』―Tripus hermeticus fatidicusの3部をなす―もボイルに献呈されている。その書において、ベッヒャーはボイルを「私の『地下の自然学』の賞賛者のひとり」として引用している。この書の草稿は、元々は、ボイル草稿のなかにあった。ヘンリー・マイルズのカタログ(1740年代初頭)にはあった。おそらく、ボイルの作品ではないという理由で廃棄されたのであろう。これは非常に残念なことであった、なぜなら、その草稿は、1680年代ボイルの名前を被献呈者として挙げるためにベッヒャーがボイルに送ったものだと思われるからである。
『鉱物ABC』の草稿は残っていないが、その他のベッヒャーの草稿がボイル草稿のなかに残っている。そのなかでもっとも興味深いのは、Concordantia purgationis、である。これは、賢者の石を調剤するために金属(とくに銀)の水銀を得る方法を要約し、比較する著作である。このテキストは、1689年フランクフルト版の『鉱物アルファベット』に付され、1719年に再刷された。『鉱物アルファベット』と同様この著作もとくにボイル自身のために書かれたものと言うこともできよう。それは、40年間ボイルの思考を支配した金属の水銀のテーマにぴったり当てはまる。・・・さらにもっと短い未出版の草稿があり、それは、前の草稿と同じ書字生により書かれ、「金属の生成と取り扱いに関するドクター・ベッヒャーの理論または彼自身の意見」というタイトルを有する。また、同じ書字生によって書かれたベッヒャーの1680年の著作De arenaria pertetuaからの長いノート・抜粋も存在する。」ハンターの『ボイル・ペーパーズ』で、ボイルの草稿におけるベッヒャーを確認しておきましょう。
p.72, note 134「ロバート・フックが1693年ムーアフィールで、おそらくボイルの蔵書から購入したベッヒャーのNovum Organum philologicum(Frankfurt, 1674)は、ウェルカム・ライブラリーがごく最近購入した。」
p.376. BP 19, fols, 57-77 'Dris J.J.Becheri Concordantia Purgationis' 1670's - 1680s Latin treatise by Becher on chemistry, especially experimentation with mercury in search of philosopher's stone Latin Possibly a version of J.J. Becher, Chymischer Glücks-Hafen(1682)
p.425 BP 29, fols. 1-10 'Dr Becheri Theoria, seu Opinio Singularis de Metallorum Generatione et Tractatione' 1670s- 1680s Copy of Latin tract by Becher, with further page of relevant text Hand: L.? Latin
p.427 BP 29, fols. 183-6 'Johannis Joachini Becheri Sr. Caesareae Majestatis Ferdinandi III quodam Mathematici Nova Inventio Argo-nautica' c. 1650s Latin text on an invention by Becher, date of original pre-1657 Hand: unknown Latin
p.433 BP 31, pp.295-397 Latin notes and extracts from Johann Joachim Becher's Minera Arenaria Perpetua (London, 1680), together with notes on various processes by other experimenters, evidently also from Becher P.398 blanck Hand: L Latin
p. 589 BL 1, fols. 57-8 Johann Joachim Becher to Henry Oldenburg 26 Oct. 1671 Original letter. 2 leaves, 4o Latin Summarised in Correspondence, vol.6, p.416. Published in Oldenburg, vol. 8, pp.303-4.
- 2019.2.23(土)
Maurice Crosland, "Early Laboratories c.1600-c.1800 and the Location of Experimental Science," Annals of Science, 62(2005): 233-253
この論文のコピーをとってから、17世紀の書簡集や日誌を取り出して、まずは索引を確かめてみました。オルデンバーグにもフックにもイーブリンにもピープスにも私の今調べている項目は索引化されていませんでした。そうした書物が編まれた時代には「ラボ」は当たり前のものとされ、意識の光が当たっていなかったのだと思われます。
索引にないものを一から捜すほどの時間はありません。ないことを確認した時点で外にでました。
それから駒場下の蕎麦屋で鴨南蕎麦。朝がはやいので昼食です。蕎麦屋にはいったときから、クロスランドの論文を読み始めました。重要な問題を扱っています。基本的情報も取りあげられています。
帰り着いて、すこし休んでから、論文の続きを読みました。クロスランドは1931年生まれです。論文出版時で74歳。『化学の言語』は、化学史のためには必読文献です。フォーカスが微妙に甘く、おじんちゃんの文章という感覚を受けました。p.244 中頃の (ref?) というのは、文献中をつけるつもりで、そのままになったものだと思われます。編者の方もそのとき老眼だったのでしょうか。
詰めが甘い論文は、後進のためにはよい。同じ問題を取りあげて、もう少し精緻に材料を補い、広く深く考察することができます。
p. 238 "portable laboratory" ほんとうは、"chemical cabinet" と呼ぶべきもの。 "cabinets with reagents, glassware, blowpipes and other requisites" (Honburg, Ambix, 46(1999), 1-32 )
p. 239 Tycho Brahe, 1590s にlaboratorium という語を使う。 フランス語の laboratoire は、1620年代までに使われるようになっていた。(Trésor de la langue francaise , Paris, 1983. Beguin, Tyrocinium Chymicum: Les Elémens de chymie, Paris, 1620)
17世紀ドイツ語圏では、ラボが複数の場所に出現。Johannes Hartmann が1609年マールブルク大学の化学教授に任命されたとき、ラボがあった。1683年ヨハン・ホッフマンがアルトドルフ大学に同様のラボを開設。
ベッヒャー、1660年代、ミュンヘンにラボを持つ。ラボを付設する、Kunst und Werkhaus (house of invention and manufacture) の計画。製造業から得られる利益を強調。
p.243 17世紀なかばの英国。スターキーがロンドンにラボを継続的にもつ。1652年 Saint Jamesにラボ用の部屋。
1655 or 1656 ボイル、オクスフォードの中心的薬剤師apothecary 、John Cross の家に間借りし、彼のラボを実験に使う。オクスフォードには、他に、ピーター・シュタールのラボもあった。もっとも有名なのは、1683年アシュモールミュージアムの地階に作られたラボ。ロンドンの薬剤師協会は、1672年ロンドンにラボを建てる。コベントガーデンにはハンキヴィッツの薬局があり、リッチモンドにはウィリアムルイスの大きなラボがあった。
王立協会は自前のラボをもつことがなかったのに対し、パリの王立科学アカデミーは王の財政援助で1668年にはラボをもった。そのラボの中心的仕事は、植物の化学分析だった。パリの王立科学アカデミーは、6つの分野のひとつとして化学を位置づけた。
マッケの『化学辞書』(1771, 1778)は、ラボラトリーに大きな紙幅を割いている。
ラヴォワジェの大きなラボ。
18世紀、ラボといえば、それは必ず、化学のラボであった。
p. 251 物理のキャビネットは、元を辿れば、驚異の部屋(cabinet of curiosities, Wunderkammer )にたどりつく。
電磁気現象の研究が、化学のラボを物理のラボに変貌させる転換点となった。
物理学が一貫した古典物理学となるのは、エネルギーの概念によって、19世紀なかばのことである。
p. 252 研究のためだけではなく、教育のためのラボの重要性を教えたのは、化学であった。- 2019.2.27(水)
今回の私の調査に関しては、ベッヒャーが重要です。ベッヒャーの死後出版に次があります。
Johann Joachim Becher, Tripus hermeticus fatidicus, pandens oracula chymica, seu I. Laboratorium portatile cum methodo vere spagyrice ... Accessit ... II. Magnorum duorum productorum nitri & salis textura & anatomia ... adjunctum est III. Alphabetum minerale ... His accessit concordantia mercurii lunae ..., Francofurti ad Moenum, Sumptibus Johannis Georgii Schiele, 1689.
最初の論考が、"Laboratorium portatile"です。直訳すれば、「可動ラボ」でしょうか。ショーの「ポータブル・ラボラトリー」の直接の先祖と位置づけてよいでしょう。Cohen, Album of Science (1980), p.142 はこれを「ポータブル・ラボラトリー」と訳しています。
mortal and pestles 乳鉢とすりこぎ、tongs 火箸、bellows 鞴、天秤等がカタログ化されてしめされています。
ショーを先に見てみます。p.14
「この種の事柄は、最初、あの優れた化学者ヨハン・ヨアキム・ベッヒャーによってなされた。我々は、彼の労に多くを負うことを感謝とともに記す。
このラボラトリーは、3つからなる。炉、器具、マテリカ・キミカだ。」
炉の記述が続いたあと、p.19 から装置の記述。
The Apparatus of a Laboratory shou'd be so suited to the performance of all Chemical Operations, as that nothing, which is not readily procurable, may be wanting when it comes to be requir'd in business.
化学の器具は、ずべて、間接的なものと直接的なものにわけられる。あるいは操作の準備に必要なものと、実際操作に使われているものである。我々のポータブルな炉の間接的装置には、複数の部品がある。
まず第1に、あらゆる化学操作は、正確で幾何学的になされなければならない。よい天秤と錘が用いる物質の量を決定するために絶対的に必要だ。錘が物体に含まれる物質の量のための基礎だ。
p. 20 Measures 秤
Mortals 乳鉢
Shovels, Tongs, &c. ショベル(スプーン)、火箸(トング)、など
Funels and Glasses 漏斗(じょうご)とガラス瓶
最後に、ある種の用具をつくるための器具、間接加熱室の炉心、試験のための鋳型(モールド)、るつぼと溶融ポット、ガラスを切断するための鉄のリング、レトルトのネック。
p.21 The Materia Chemica, that is the Subjects to be work'd upon, or immediately and materially empoy'd in chemical Operations, is the next thing to be considered.
This is a large Field, and comprehends all the natural Bodies of our Globe;
This Collections, being distributed into proper Classes, will come into a small Copass ; and may be commodiously carried, either by Land or Sea, along with the Furnace and its Utensils.- 2019.2.28(木)
ショーの『ポータブルラボラトリーへの招待』ですが、読み通すのがはやいと考え、グーグルのスキャンからつくられた不完全なブックレットをペンをもって読むことにしました。本文75ページです。残念ながら、図版は、生き残っている割合の方が小さい。
冒頭は、8つの図版(Plate)の説明です。すべて炉です。v-viii. それから第1節で序文(Preliinaries) pp. 1-13。第2節は「炉、その装置、そして操作の対象(物質)の記述」pp.13-25. 第3節「ポータブルラボラトリーを化学の向上のために適用すること」pp. 25-26. ついで「一般化学の教程のためのスキームあるいは化学知識のさまざまな分野への導入」pp.27-39 です。「哲学的化学の教程のためのスキームあるいは化学実験を自然知識の向上のために適用すること」pp. 40-46。「技術的化学のさまざまな教程のためのスキームあるいは技術と産業 arts and trades の例証のための化学の適用」pp.47-49. 「調薬化学の教程あるいは化学薬品の調合法」pp.50-61.「冶金のための化学の教程あるいは」pp.62-75.
図版は、炉だけです。その他の器具や装置の図は掲載されていません。そして、"portable furnace" の用語。"portable laboratory"の中心を炉と考えていた証拠です。本棚から『化学史における器具と実験』を取り出し、アンダーソンの記述を見直しました。
Robert G. W. Anderson, "The Archaelogy of Chemistry," in Frederic L. Homes and Trevor H. Levere (eds.), Instruments and Experimmentaion in the History of Chemistry (London, 2000), pp.5-34 on p.17
ベッヒャーは、ポータブルで融通のきく炉をデザインした。それぞれの操作(溶融、灰吹き法、か燃、蒸留、昇華・・)には、それぞれの炉が必要であった。ベッヒャーの解決策は、8つの部品からなる炉を6つの仕方で組み合わせることであった。
ベッヒャーのアイディアは、ショーによって剽窃pirated された。1731年、器具製造業者Francis Hauksbee の名前を入れた英語の著作『ポータブル・ラボラトリーへの招待』g出版された。「英国において化学を実践しようとしたときの中心的障壁は、適切な炉、器具、用具、物質を揃えることにあるので、すぐに作業に使えるポータブル・ラボラトリーをここで公衆に推薦する。」
宣伝は、図版の前にある。"The Portable Laboratory, ready fitted for Business, may be had of Mr. Hauksbee, in Crane-Court, Fleet-street, London" これは、化学器具製造業者の名前を明示した初期の例である。- 2019.3.14(木)
手元の辞書にきちんとした説明がない、「浸炭法(cementation)」について、調査を続けることにしました。
まず、OED.
浸炭法の意味は、II. b. としてあります。'The conversion of iron into steel by absorption of carbon…from a mass of ground charcoal in which it lies embedded while exposed to strong ignition’ (Watts Dict. Chem.) 「浸炭法」と訳してしまえば、このことを指します。
1. The action or process of cementing or producing cohesion; the state of cohesion thus produced.
2. a. ‘The process by which one solid is made to penetrate and combine with another at a high temperature so as to change the properties of one of them, without liquefaction taking place’ (Watts Dict. Chem.).
液化することなく(熔解することなく)ふたつの物体が高温で相互に浸透あるいは結合し、それらの性質が変わること。
一般的にはこれでよいのかもしれませんが、実際には、もうすこし特殊な意味で使われていると思います。金銀の分離法を特殊に指す用語として、冶金術で使われていると思われます。
いろいろ調べていると、アブル・ファズル著『アーイーニ・アクバリー』訳注という原稿がヒットしました。そのp.101 注52 に次のようにあります。「金は天然では銀と混じって産出するので、銀を除去するためにもう一つの精製処理―セメンテーション―を受ける。」金の薄板の間に、礬類、塩、粉砕した煉瓦の混合物(セメンテーション用混合物)挟みこむ。日本でも「塩焼法」と呼ばれた方法が用いられた。鉄盤上において石で押しつぶした金塊と食塩を混合して土器に盛り、炉に入れて炭火で一昼夜焼く、さらに食塩と混ぜて焼く工程を繰り返した後、湯で洗って塩分を溶かし去る方法とされる。
前者の方で使われる礬類は、塩化銀を作るための触媒として働く。
基本文献としては、筑摩書房『技術の歴史』第2巻、フーバーの翻訳するアグリコラ、があることがわかりました。両方、自宅にあります。
アブル・ファズルの訳注者は、日本の「塩焼法」の参考資料として、次のものを挙げています。
山名寧雄「我が国古代中世および近世初期の金、銀、銅の精錬法」『拓殖大学論集』73(1970): 27-35
外語の図書館のメリットは、大学紀要を比較的よく集めていることです。4時頃、図書館書庫2層で当該雑誌を捜し出し、コピーをとりました。
家に帰るまでに読み通しました。「塩焼法」は p.33 に述べられています。アブル・ファズルの訳注者の引用する通りです。
金銀分離のためのセメンテーションのひとつがこれです。食塩と強熱することです。銀が塩化銀となって洗い流され、金だけが残る、という方法です。4時40分多磨駅発の電車で帰宅して、いっぷく、夕食、風呂がすんで、落ち着いてから足元にあるフーバーのアグリコラを引き出しました。p. 453 (Book X.)の注18でフーバーは次のように記します。
この金と銀を分離する方法は、非常に古いもので、ほぼ確実に中世以前にしられていた唯一のそして最初に使われたやり方である。要諦はこうだ。ブリオン(金塊)をそれが熔ける温度より低い温度で、ペースト状のものといっしょに長時間にわたって熱する=セメンティングを行うことだ。そのセメント(compositio)は2種類。
ひとつは、硝石と礬類と明礬または珪石の媒質からなる。銀は、この固まりによって硝酸銀と化し、固まりに吸収される。
もうひとつは、食塩と前と同じ媒質からなる。この場合、銀は塩化銀に変えられる。
アグリコラは、この2種類を区別していない。そして、両者をひどい仕方で混ぜている。
食塩を使うものは、食塩セメンテーションとでも名づけると混乱を防ぐことができるのではないでしょうか。『技術の歴史』第2巻は、重い山の下から取り出すのが大変でした。第2巻は、冶金の出発点を扱っています。p. 477 [灰吹法とは]べつの方法としては、転化によって銀を硫化銀にうつした。金=銀合金を、輝安鉱のような硫化物と木炭といっしょに加熱する。・・・硫化物に変化した銀は、灰吹法によってふたたび回収された。
非常に短い記述で、しかもセメンテーションという言葉は使われていませんが、これが輝安鉱(stibnite)を使うセメンテーションです。アグリコラは本文で、我々は、輝安鉱(stibnite)ではないセメントを使うというふうに表現しています。つまり、輝安鉱(stibnite)を使うやり方があったということです。
ここまでで、とりあえず、cementation は、内容に応じて訳し分けるしかないと考えます。炭素分を鉄の表面に導き入れて鋼にする浸炭法は、鉄だけに限定して使うのがよいでしょう。あとは、セメンテーションというカタカナを使い、輝安鉱セメンテーションとか食塩セメンテーションとか礬類(あるいは硝石)セメンテーションとか表現するのが一番間違いがないように思われます。
→ 19.3.15 あるものに、"Cementation", i.e. the displacement of a metal from solution by a metal higher oxidation potential という定義がありました。浸炭法のあと、意味が拡張しているようです。
Wiki を見ると、浸炭法は、Cementation process, an obsolete technique for making steel by carburization of iron とあります。an obsolete technique となっています。 Cementation (metallurgy) は、 a process in which ions are reduced to zero valence at a solid metallic interface です。かなりの変容です。
生物学、地学、医学のテクニカルタームの意味も生じています。
グーグルがトップにあげる定義が次。 1. the binding together of particles or other things by cement.
2. Metallurgy a process of altering a metal by heating it in contact with a powdered solid.
短い定義としては、これがよいように思います。「冶金: 粉末状にされた固体といっしょに熱することで金属を変化させるプロセス。」→ 19.3.16 OED は、"1684 R. Boyle Exper. Porosity of Bodies vii. 108 [Copper] put into a Crucible or Cementing Pot." のようにボイルの用法を拾っています。ボイルに用法があるのであれば、きちんと調べないわけにはいきません。
当該箇所は、NewRBW, vol.10, p. 141 です。
This we have divers times effected by a Cementation of Copper Plates, With common [sulphur] (much a kin to a way prescribed by some Alchymists to make Vitriolum Veneris) which we warily performed much after this manner. We took good Copper laminated to the thickness of a Shilling or thereabouts, and having cut it into small pieces, that they might the more easily be put into a Crucible or Cementing Pot, we strewed at the bottom of the Vessel some beaten [sulphur], and then covered it pretty well with some of these Plates, which were laid on flat-wise. Upon these we strewed another Bed of powdered Brimstone, and cover'd that also with Plates, upon which we put more Sulphur, & so continu'd making one lair of Brimstone, & another of Metal, till we had employed all our Plates, or filled the Crucible, being careful that the uppermost Bed, as well as the lowest, should be of Sulphur. This done, we luted on an earthen Cover to the Vessel, to keep the [sulphur] from taking Fire, and afterwards having placed the Pot amongst Coals kindled at a good distance from it, that it might be heated by degrees, we kept it for some few hours (perhaps Two or Three) in such a degree of Fire as was sufficient to keep the Sulphur melted (which is easily enough done) without bringing the Metal to fusion; the Pot being cold, we took off the cover, and found the Plates quite altered in Colour and Texture, some of them having a dark and dirty Colour, whilst others looked of a fine Violet or Blew; they were generally so brittle, that 'twas very easy to break them with ones finger, and reduce them to Powder.
以上の通り、ボイルは、硫黄を使って、セメンテーションを行っています。グーグルトップの定義をすこし書き換えて、「冶金: 粉末状にされた固体といっしょに熱することで金属を熔解させることなく変化させるプロセス。」ということでよいようです。→ 19.3.16
Wiki に冶金術におけるセメンテーションの例として、次があがっています。
Cementation is a type of precipitation, a heterogeneous process in which ions are reduced to zero valence at a solid metallic interface. ... Cementation of copper is a common example. Copper ions in solution, often from an ore leaching process, are precipitated out of solution in the presence of solid iron.
3月11日に記した "Cementation" の3つ目の意味です。金属の溶液中のイオン化傾向の差による析出です。現代でもその最適な条件を探る研究がなされています。この"Cementation" は意味をとれば析出でしょうが、今の化学者たちがどう訳しているのかも調べておく必要があります。
これで内容的にはほぼ解決といってよいように思われます。
なお、もっともよく使われるセメントの意味でのセメンテーションは、膠結作用と訳すようです。
表面に他の金属元素又は非金属元素を拡散浸透させる熱処理の総称として、拡散被覆処理又はセメンテーション、あるいは、拡散浸透処理という用語が使われることがあるようです。
さらに、メタリックセメンテーションmetallic cementationということで、鉄鋼を他の金属の粉末中あるいは気体中で加熱し、その金属を鉄鋼中に拡散、浸透させ、表面に耐熱性、耐食性、あるいは耐摩耗性に優れた合金層を形成する方法を指す場合もあるようです。→ 19.3.21 新しいボイル全集ですが、やはり弱点はあります。ひとつには、chemical process が弱い。索引にあまり取りあげていませんし、グロッサリーにもあまり取りあげられていません。ざっと調べてみた結果です。
cement あり
cementation なし
cupel あり cupel and calcination 7.315-16 gains weight when heated 7.309-12
furnace improvements to 3.396-7 use mercury to regulate temperature 13.298
becher experimentum chumicum novum11.384
glauber many
farner 2.xxii ehrenrettung 2.211
ercker なし
biringuccio de la pirotechnia 11.272
- 2019.3.17(日)
今やっている作業ですが、今月末の発表までに一応形になるようまとめます。そもそもアグリコラは『デ・レ・メタリカ』にいくつの木版画を掲載しているのだろうと気になりました。
多数というのは、すぐにわかります。ウィキを読むと、『デ・レ・メタリカ』の出版がアグリコラの死後1年もかかったのは、多数の木版画のせいだとあります。
具体的にいくつ?
フーバーは、図版の索引は付けてくれていますが、総数いくつとは書いてくれていません。ネットで捜すと、フリッカーの書籍史のサイト:アグリコラ という、おそらく、De Re Metallica | 1561 の図版をすべてピックアップしてくれているサイトがありました。そこに 262 photos とあるので、そのぐらいの数でしょうか。フーバーの英訳は、600頁を越える大冊です。2〜3ページに1つぐらいの感じでしょうか。
私の研究には、こういうふうに図版だけをピックアップしてくれているサイトはものすごくたすかります。
フーバーの英訳は、ファーランドにあります。
エルカーの図版との重なり具合も調べてみる必要があります。Album of ScienceのFrom Leonald to Lavoisier 1450-1800 がとりあげる化学の図版を確認しておきたいと思います。
Chap 16 The Chemical Revolution
Fig. 182 ラヴォワジェ夫妻の絵(ca. 1788)
Fig. 183 15世紀後半の蒸留炉
Fig. 184 化学天秤 トーマス・ノートンの錬金術式目より
Fig. 185 アンチモンのか焼 ルフェーブルの化学教科書の英訳から
Fig. 186 ベッヒャーのポータブル・ラボラトリー
Fig. 187 リンの発見 ダービーのジョセフ・ライトの絵(1771)
Fig. 188 17世紀の化学実験室の様子 David Teniers息の絵 David Teniers the Younger
Fig. 189 パリの科学アカデミーの化学実験室(1676) Memoire で出版されたルクラークの絵 Chemical Laboratory of Paris Academy of Sciences (1676) by Sebastian Le Clerc published in Memoirs on the History of Plants
Fig. 190 18世紀中葉の実践的化学 Universal Magazine, 1747
Fig. 191 18世紀フランスの化学実験室 French Laboratory in the eighteenth century Capuchin Monk in the Louvre
Fig. 192 大気の空気組成を研究するためのプリーストリーの装置
Fig. 193 プリーストリーの実験室
Fig. 194 ラヴォワジェの元素表
Fig. 195 ラヴォワジェの使った装置
Fig. 196 パリの科学アカデミーの巨大レンズ(1782)
以上、全体としてみると、実験室が6点ともっとも多くをしめます。この時代の化学を表象する図像として、代表的なものと位置づけられると言えるでしょう。Universal Magazineは記憶があります。3月9日にフェイスブックにあげた図版が「1747年12月『ユニヴァーサル・マガジン』に掲載された実践的化学の最初の様子」です。同じ図が『科学大博物館』の蒸留の項目にも掲載されています。「蒸留装置のある18世紀の化学実験室」というキャプションがついています。plate 23, facing page 331 と雑誌のページ数を明示してくれているのはたすかります。
グーグルブックでUniversal Magazine,vol.1(1747) をダウンロードし、パラパラと最後まで見てみました。グーグルブックなので、図版は潰れていますが、たしかに、facing page 331 にあります。しかし、今度は、 Fig. 190 としてコーエンが挙げている絵が見つかりませんでした。グーグルブックですから、その絵のページがただ死んでいる可能性もありますが、コーエンが引用を間違えた可能性もあります。時間のあるときに、調べてみようと思います。
→ 有名な画像であれば、グーグル画像検索でかかるであろうと思い、調べてみました。コーエンがFig. 190 として取りあげる図は割とすぐに見つかりました。上のキャプションには、"A Second View of Practical Chymistry bugun in the Universal Magazine in December 1747" とあります。
3月9日に私がフェイスブックに挙げた図は、"A First View of Practical Chymistry bugun in the Universal Magazine in December 1747" ですから、コーエンのものはその次ということになります。グーグルブックが画像を飛ばしたと見てよいでしょう。
→ Second View だから、次の号かもと思い、別のサイトで、第2号(1748)を見てみました。Universal Magazine,vol.2(1748), facing page 136 にあります。chemicus を名乗る人からの書簡という形で続いています。もしかしたら、Third View もあるかもしれません。(Third Viewはどうもなさそうです。)
コーエンのキャプションの不備は、正確には、Universal Magazine, 1748 とすべきところを、1747 にしたことです。1747年に始まった連載の1748年の号に掲載されています。→ 19.3.18 The Universal Magazine of Knowledge and Pleasure, London, 1747−1814
次のことがらを扱うと自己宣伝しています。
"Letters, Debates, Essays, Tales, Poetry, History, Biography, Antiquities, Voyages, Travels, Astronomy, Geography, Mathematics, Mechanics, Architecture, Philosophy, Medicine, Chemistry, Husbandry, Gardening and other Arts and Sciences; which may render it Instructive and Entertaining. To which will be added An Impartial Account of Books in several Languages, And of the state of Learning in Europe; also Of the New Theatrical Entertainments."
百科事典と重なる出版事業です。"and other Arts and Sciences" という言葉からうかがえるように、技術と科学の最新事情、先端的な基本事項を伝えようとしています。タイトルに "Pleasure" が含まれることからは、エンターテイメント性を重視していることもわかります。
hathitrust によるUniversal Magazine ここで閲覧できます。もとに戻って。図版は図版単独で掲載されたわけではなく、ある計画された連載記事の一部として印刷されています。
A Chemicus, "The art of chemistry now in practice", The Universal Magazine of Knowledge and Pleasure, vol. 1 (1747), pp. 331-333; vol.2 (1748), pp. 135-138, 170-172
第2巻のp.172 には「続く」とありますが、まだ続きを見つけることはできていません。
"The First View"は、vol. 1 (1747), facing page 331 にあります。 "The Second View"は、 vol.2 (1748), facing page 136 にあります。