ロバート・ボイルと人文主義の方法

                       東京外国語大学 吉本 秀之
                       Robert Boyle and His Method
                       Tokyo University of Foreign Studies   Hideyuki YOSHIMOTO

はじめに
貴族の子弟であるロバート・ボイルは、17歳のときに大陸留学(ジュネーヴ)から帰国した。1644年であった。アイルランド内乱やイギリス革命の混乱のさなか、青年貴族ボイルに知識人の仲間を紹介したのは、ボイルの姉ラニラ卿夫人(キャサリン)であった。キャサリンは、啓蒙時代のサロンに近いものを17世紀半ばのロンドンにおいて形成しており、若きボイルにインヴィジブル・カレッジのメンバーやハートリッブ・サークルを紹介した。ミルトンやオルデンバーグも姉が紹介した。
 つまり、ボイルの知識の社会的基盤は、大学の外、貴族のサロンとそのネットワークにあった。もちろん、大陸の知識人とのネットワークを媒介したのは、ともにドイツ人のハートリッブとオルデンバーグであった。

ボイルの Book Collection or Library
 この時代にも本屋はあり、大陸からの本も店頭に並んでいた。しかし、出版情報と物理的な本そのものは、手紙の交換網に乗って動くことが多かった。とくに、ドイツ語圏で出版されたポスト・パラケルススの医・化学の稀書に関しては、こうしたネットワークの存在が決定的であった。ボイルが『懐疑的化学者』(1661)の出版によってキミアの知の最前線に立つことができたのは、ドイツ語の読めないボイルにドイツ語の医化学の著作(の存在と内容)を教えた者の存在が大きかった。

ボイルの知の方法
 一般的にボイルは17世紀の英国経験論の一人の代表者と見なされている。とくに、その経験論はベイコン主義的と位置づけられることが多い。確かにボイルは著作の表題頁でベイコンを多く引用している。しかし、1649年に医化学の実験科学者となったボイルの知的発展を仔細に追うと、ベイコンの著作からの影響は途中からのものであることがわかる。100項目(センチュリー)に分けて、自然誌・実験誌を記載するというのは、ベイコンによると見てよいだろう。しかし、ボイルの方法は、必ずしもベイコンが『新機関』で記した方法とは一致しない。
 ボイルが文献資料を入手し、そこから必要な事実情報を抽出・収集し(ノートに取り)、論考や本として出版する仕方には、ベイコン的経験主義という術語では尽くせない特異性が存在する。その特異性として、コモンプレイスブック、詞華集、学説史的性格の書物の利用やインタビュー証言の多さを指摘することができる。
 そうした特異性の一部は、ボイルが弱視であって、著作家としてキャリアの最初期から写字生を使っていたこと、著作を口述筆記するというだけではなく、著作から抄録をする場合にも実験ノートを付ける際にも写字生を利用したという事実に由来する。また貴族であって、そうした写字生を雇うことができる財力、またその財政支援を期待する者からの秘密の情報提供が多かった事実も考慮されなければならない。


ホームに戻る