[一般講演]
 

ロバート・ボイルとその化学教師
                    吉本秀之(東京外国語大学)


 ボイルはどのように化学を学んだのであろうか?

 今回の発表ではまずボイルの伝記事項に照合して、ボイルの初期の化学の学習と研究の進展を概観し、ついでボイルの化学教師について一つの作業仮説を提示しよう。

 1627 1月25日アイルランドにて誕生。

 1635 兄フランシスとともにイングランドのイートン校で3年間学ぶ。

 1639 兄フランシスとともにグランドツアーにでかける。家庭教師のイサーク・マルコンベの付添・監督下、ジュネーヴに渡り、その地のアカデミーで約5年間学ぶ。

 1644 (17歳)英国に帰還。

 1645 (18歳)ドーセット州のストールブリッジに落ち着く。次の10年間はこの地が生活の拠点。

 1648 ファン・ヘルモントの主著『医学の曙』が死後出版される。

 1649 (22歳)この年の夏、ボイルは科学者となる。実験器具を備え付け、実験日誌をつけるようになる。

 1650 冬、アメリカからジョージ・スターキー(1628-1665)が英国にやってくる。

 1651 アメリカ出身のキミスト、ロバート・チャイルドがスターキをボイルに紹介。スターキはボイルがアイルランドに発つ(1652.6-1654.7)までボイルの化学の師匠としてヘルモント化学を教える。

 1655 (28歳)「医学におけるレシピの自由な伝達のすすめ」を出版。

 1656 1655末あるいはこの年のはじめ、オックスフォードに移住。

 1659 『神的愛』出版。

 1660 『空気のバネとその効果に関する自然学-機械学的な新実験』 出版。

 1661 『いくつかの自然学のエッセイ』『懐疑的化学者』『聖書のスタイルに関する考察』出版。

 さて、ウィリアム・ニューマンとローレンス・プリンシーペは、ボイルより一歳年下のアメリカ人キミストジョージ・スターキーが化学の研究に着手したばかりの若きボイルの最初の化学教師であることを発見した。さらに二人は、スターキーの実験ノートとボイルの著作を照合して、まるで大学の教師が学生を教えるようにスターキーがボイルに、3年前に出版されたばかりのファン・ヘルモントの『医学の曙』を教科書として当時の最先端の医化学を教授している様子を描き出した。
 ニュートンの錬金術に大きな影響を与えたエイレナエウス・フィラレーテスがスターキーに他ならないことを決定的証拠に基づき発見したこととあわせ、この発見の意義はどれほど高く評価しても評価しすぎとはならない。

 しかし話はそれでは終了しない。

 まずボイルの語学能力を確認しよう。ボイルはジュネーブではフランス語で教育を受けた。またイタリアに留学しイタリア語も身につけた。しかし、いわゆる大学には通っていない。つまりラテン語は子どもの頃から訓練を受けていたけれど、大学で学位をとった博士達と比べるとラテン語では劣っていたと言わざるを得ない。また、自分で告白している通り、ドイツ語は読めなかった。
 しかし、ボイルは『懐疑的化学者』6部において、当時にあっても非常にレアなドイツ語圏の著作(ラテン語とドイツ語)をボイルの真のポイントにとって決定的な箇所で使っている。
 この事実は、そうした著作の存在をボイルに教えた、ドイツ人またはドイツ語圏の医化学の事情に通じた人物の存在を示唆する。私は、この人物を作業仮説として「ボイルの第2の化学教師」と呼ぼうと思う。
 現時点ではこの「ボイルの第2の化学教師」が誰であるのか特定することはできていないが、この観点を導入することでボイルがスターキーに医化学の基本を学んだあと、どういうふうに化学の情報を入手し、どういうふうに化学の研究を進めていったのか興味深い視界が切り開かれる。

 今回の発表はその新しい視界を主題とする。

    文献
H. Hirai and H. Yoshimoto, "Anatomizing the Sceptical Chymist: Robert Boyle's Early Sources on the Growth of Metals", A Paper read at "La philosophie naturelle de Robert Boyle: Colloque International, Universite Michel de Montaigne, Bordeaux, 10-12 mars 2005.

2005年化学史研究発表会
2005年6月19日、神戸大学国際文化学部
『化学史研究』第32巻(2005)第2号、p.116.


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