新しいボイル像
                      吉本秀之(東京外国語大学助教授)

 ロバート・ボイルの名前を聞いて人が思い出すのは、おそらく今でも「ボイルの法則」のボイルと『懐疑的化学者』(1661)を著して近代化学の礎を築いた化学者という2点にとどまるだろう。しかし、最近の科学史研究は、17世紀のイギリスに生きた歴史的人物としてのボイルに関して、そういう普及しているイメージからはかけ離れた新しいボイル像を明らかにしている。ここでは、その新しい「ボイル像」について、紙幅の許す範囲で紹介してみよう。

 資料の話からはじめよう。ボイルの著作は、トーマス・バーチ(Thomas Birch, 1705-1766)という18世紀の聖職者にして古物研究家により、かなり早い時期に全集版(1744年5巻組、1772年6巻組)が出されている。これまで、普通研究者は、この1772年版の全集を使ってきた。この全集版の他に、この全集版に収められていない草稿が王立協会に保管されていることは、早くから知られていたが、20世紀後半まで混乱のなかに沈んでいた。その混乱を史上はじめて解決したのは、ロンドン大学教授のマイケル・ハンターであった。ハンターは、膨大で極めて混乱していたボイル草稿の全体を整理し、カタログ化し、マイクロフィルムとして出版した。

 ハンターは、この草稿の丁寧な研究から、ボイル全集の編集に当たってバーチとその協力者ヘンリー・マイルズ(Henry Miles, 1698-1763)がある種の草稿を検閲し、廃棄した明らかな証拠を見出した。ハンターの研究1)によれば、バーチとマイルズが検閲し・廃棄した草稿には4種類があった。第一の種類は、無心の手紙や本の出版に関わる出版社とのやりとり、はたまた家族の内部事情や所有地の運営に関するやりとり等日常茶飯事と見た事柄である。第二の種類は、王政復古時の清算事業やカソリック陰謀事件に関するもの、即ち当時の政治状況に関わるやりとりである。第三の種類は、錬金術と魔術に関するものであり、第四の種類は特定の宗教的側面に関するものであった。

 ただし、検閲はボイル自身によるものもあった。ボイルは錬金術に真摯な関心を抱き、多くの錬金術師たちと通信していた(その通信の多くをバーチとマイルズが廃棄した)だけではなく、『金属の変成』について本格的な論考を用意していたが結局出版しなかった。また、魔術にも深い関心を寄せていて、魔女と魔術の存在の証拠を集めようとしたグランビルのプロジェクトをサポートしているし、晩年の『自然学的な実験と観察』(1691年)では超自然現象をも出版しようと収集していたが、これも結局出版に踏み切ることができなかった。さらに、ボイルは、ガレノス主義を信奉する当時の体制医学に 一生涯にわたって批判的で、医学改革派の意見を支持していたが、直接的な医学批判の論文の出版も結局見合わせた。

 新しいボイル研究は、このすべての側面に非常に興味深い光を当てつつあるが、今回はバーチたちが検閲した第四の種類に関する事柄、即ち宗教的実践の側面だけに焦点を合わせよう。

 まず確認すべきことは、ボイルは、その著述家のキャリアを決して科学者としてはじめたわけではないという点である。17歳の夏(1644年)、グランドツアーから清教徒革命で混乱していたイギリスに帰国したボイルは、姉夫婦(後のラニラ子爵夫妻)を頼って知的人脈を広げていったが、若きボイルの知的関心の中心は、倫理学やモラルに関する事柄だった。1647年からボイルが付け始めた日記は、「日々の集成」あるいは「日々の観察・思考・集成」と名付けられていた。この日記は、1649年に不可逆の変化を示す。すなわち、化学のレシピと実験ノートが中心となり、科学者ボイルの誕生を告げている。しかし、ボイルは、最初期の関心を忘れたわけではなく、1665年に出版された『さまざまな主題に関する折々の省察』にまとめられているし、また死の直前に主教たちと交わした決疑論的会見にもつながっている。

 この「日々の省察」がボイルの非常に興味深い宗教的実践を明らかにしてくれる。では「日々の省察」とは何か? 結論を先取りして言えば、キリスト教の伝統的瞑想(Meditation)を世俗化したものである。具体的には、一日の終わりに、その日の自分の行いを自己の宗教的良心に従って審査することである。その目的は、自己の道徳的向上と自己知識の獲得であるが、もちろん、ここでいう自己知識は、自己の宗教的正しさを問い立てるという宗教的観点からのものである。

 毎日毎日、就寝前にその日の自己の行いを強い宗教的意識に従って反省するという慣習は、我々現在の人間が忘れてしまった習慣であり、もっと言えばそういう習慣が近代のはじめにはまだあったということさえ我々は忘れている。しかし、そうした慣習を常態化している文化は、そうした習慣を持たない文化とは根本において異なる点があると言ってよく、我々はそうした文化のありようを歴史的に再発見しなければならない。

 ボイルによれば、省察は被造物たる自然を対象にすることもできる。「世界は、自然のというよりも自然の神の大冊であって、我々がそこから引き出し取り上げる技術を持っており、そうする労を惜しまなければ、教示的な教訓に富んでいる。被造物は、エジプト的象形文字であって、鳥や獣という粗野な形態の下に、知識と敬虔の神秘的な秘密を隠している。」(『折々の省察』)つまり、自然は神の道徳的教訓が書き込まれた書物であって、それゆえ省察の主題は、どんなに卑近で世俗的なことでもかまわないということになる。ボイル自身の言葉では「敬虔なる日々の省察は、どんなに低いものをテーマに取り上げようと、いわばそれはヤコブの階段であって、足下は地面にめり込んでいても、その上部は天に届くのである。」(同上)

 こうした自身の省察法をボイルは方法的だと主張して、特別な名前 "Meleteticks"を与えたが、これはデカルト的方法というよりも、それまでの「日々の省察」には欠ける明確な規則と規律を与えたというボイルの自負によりものであり、日常生活で出会うどんなに些細でつまらないように見えることがらに関しても、同一の注意深さ・細心さで観察・省察すべきだということを意味した。

 ボイルにより定式化されたこの種の「日々の省察」は17世紀後半、特に分離派の人々に大きな影響を与え、ジョン・フラベルの『水夫の新しい羅針盤』(1644)やエドワード・ベリーの『農夫の友』(1677)といった著作が数多く出され、人気のあるものは繰り返し再刷された。また、17世紀後半に隆盛を見る英国の日記文学にも強い影を落としている。

 注1)マイケル・ハンター「新しいボイル像」『化学史研究』第26巻(1999): 125-141.

                        

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